第四十一帖 幻


41 MABOROSI (Ohoshima-bon)


光る源氏の准太上天皇時代
五十二歳春から十二月までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from spring to December, at the age of 52

3
第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語


3  Tale of Genji  Mourning for Murasaki, from fall to the year-end

3.1
第一段 紫の上の一周忌法要


3-1  The first anniversary of Murasaki's death

3.1.1   七月七日も、例に変りたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれに眺め暮らしたまひて、 星逢ひ見る人もなし。まだ夜深う、一所起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、 前栽の露いとしげく、渡殿の戸より とほりて見わたさるれば、出でたまひて、
 七月七日も、いつもと変わったことが多く、管弦のお遊びなどもなさらず、何もせずに一日中物思いに耽ってお過ごしになって、星合の空を見る人もいない。まだ夜は深く、独りお起きになって、妻戸を押し開けなさると、前栽の露がとてもびっしょりと置いて、渡殿の戸から通して見渡されるので、お出になって、
 七月七日も例年に変わった七夕たなばたで、音楽の遊びも行なわれずに、寂しい退屈さをただお感じになる日になった。星合いの空をながめに出る女房もなかった。未明に一人しの床をお離れになって妻戸をお押しあけになると、前庭の草木の露の一面に光っているのが、渡殿わたどののほうの入り口越しに見えた。縁の外へお出になって、
  Sitigwatu nanuka mo, rei ni kahari taru koto ohoku, ohom-asobi nado mo si tamaha de, turedureni nagame kurasi tamahi te, hosiahi miru hito mo nasi. Mada yobukau, hitotokoro oki tamahi te, tumado osiake tamahe ru ni, sensai no tuyu ito sigeku, watadono no to yori tohori te miwatasa rure ba, ide tamahi te,
3.1.2  「 七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て
   別れの庭に露ぞおきそふ
 「七夕の逢瀬は雲の上の別世界のことと見て
  その後朝の別れの庭の露に悲しみの涙を添えることよ
  七夕のふ瀬は雲のよそに見て
  別れの庭の露ぞ置き添ふ
    "Tanabata no ahuse ha kumo no yoso ni mi te
    wakare no niha ni tuyu zo oki sohu
3.1.3   風の音さへただならずなりゆくころしも、御法事の営みにて、 ついたちころは紛らはしげなり。「 今まで経にける月日よ」と思す にも、あきれて明かし暮らしたまふ。
 風の音までがたまらないものになってゆくころ、御法事の準備で、上旬ころは気が紛れるようである。「今まで生きて来た月日よ」とお思いになるにつけても、あきれる思いで暮らしていらっしゃる。
 こう口ずさんでおいでになった。秋風らしい風の吹き始めるころからは法事の仕度したくのために、院のお悲しみも少し紛れていた。あれから一年たったかとお思いになると呆然ぼうぜんともおなりになるのである。
  Kaze no oto sahe tada nara zu nari yuku koro simo, ohom-hohuzi no itonami nite, tuitati koro ha magirahasige nari. "Ima made he ni keru tukihi yo!" to obosu ni mo, akire te akasi kurasi tamahu.
3.1.4  御正日には、上下の人びと皆斎して、かの曼陀羅など、今日ぞ 供養ぜさせたまふ。例の宵の御行ひに、 御手水など参らする中将の君の扇に、
 御命日には、上下の人びとがみな精進して、あの曼陀羅などを、今日ご供養あそばす。いつもの宵のご勤行に、御手水を差し上げる中将の君の扇に、
 命日である十四日には上から下まで六条院の中の人々は精進潔斎して、曼陀羅まんだらの供養に列するのであった。例のよいの仏前のお勤めのために手水ちょうずを差し上げる役にあたった中将の君の扇に、
  Ohom-syauniti ni ha, kami simo no hitobito mina imohi si te, kano mandara nado, kehu zo kuyauze sase tamahu. Rei no yohi no ohom-okonahi ni, mi-teudu nado mawira suru Tyuuzyau-no-Kimi no ahugi ni,
3.1.5  「 君恋ふる涙は際もなきものを
   今日をば何の果てといふらむ
 「ご主人様を慕う涙は際限もないものですが
  今日は何の果ての日と言うのでしょう
  君恋ふる涙ははてもなきものを
  今日をば何のはてといふらん
    "Kimi kohuru namida ha kiha mo naki mono wo
    kehu wo ba nani no hate to ihu ram
3.1.6  と書きつけたるを、取りて見たまひて、
 と書きつけてあるのを、手に取って御覧になって、
 と書かれてあったのを、手に取ってお読みになってから、院がまたその横へ、
  to kakituke taru wo, tori te mi tamahi te,
3.1.7  「 人恋ふるわが身も末になりゆけど
   残り多かる涙なりけり
 「人を恋い慕うわが余命も少なくなったが
  残り多い涙であることよ
  人恋ふるわが身も末になりゆけど
  残り多かる涙なりけり
    "Hito kohuru waga mi mo suwe ni nariyuke do
    nokori ohokaru namida nari keri
3.1.8  と、書き添へたまふ。
 と、書き加えなさる。
 とお書き添えになった。
  to, kaki sohe tamahu.
3.1.9   九月になりて、九日、綿おほひたる菊を御覧じて
 九月になって、九日、綿被いした菊を御覧になって、
 九月になり被綿きせわたをした菊を御覧になって、
  Kugwatu ni nari te, kokonuka, wata ohohi taru kiku wo goranzi te,
3.1.10  「 もろともにおきゐし菊の白露も
   一人袂にかかる秋かな
 「一緒に起きて置いた菊のきせ綿の朝露も
  今年の秋はわたし独りの袂にかかることだ
  もろともにおきゐし菊の朝露も
  ひとりたもとにかかる秋かな
    "Morotomoni oki wi si kiku no siratuyu mo
    hitori tamoto ni kakaru aki kana
3.1.11  と院はお歌いになった。
注釈201七月七日も季節は初秋に移る。七夕の節句。詩歌を作り管弦の遊びをするのが習わし。3.1.1
注釈202星逢ひ大島本「星逢」と表記。牽牛星と織姫星とが逢うこと。3.1.1
注釈203前栽の露いとしげく『河海抄』は「置くつゆを別れし君と思ひつつ朝な朝なぞ悲しかりける」(古今六帖一、露)を指摘。3.1.1
注釈204七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て--別れの庭に露ぞおきそふ源氏の独詠歌。『完訳』は「「わかれの庭」は、二星の別れる明け方の庭。紫の上との死別を思い、八日未明の庭に落涙する意」と注す。3.1.2
注釈205風の音さへただならず『河海抄』は「秋はなほ夕まぐれこそただならね荻の上風萩の下風」(藤原義孝集、和漢朗詠集上、二二九)を指摘。3.1.3
注釈206ついたちころは八月の上旬ころ。3.1.3
注釈207今まで経にける月日よと思す『源氏釈』は「人の身もならはし物をいままでにかくてもへぬる物にそ有りける」(出典未詳)。『源注拾遺』は「人の身もならはしものを逢はずしていざ試みむ恋ひや死ぬると」(古今集恋一、五一八、読人しらず)「身を憂しと思ふにに消えぬものなればかくても経ぬる世にこそありけれ」(古今集恋五、八〇六、読人しらず)を指摘。3.1.3
注釈208供養ぜさせたまふ「サ変動詞が直接付くときは、「くやうず」と濁って読まれる習慣があるが、根拠は確かでない」(例解古語辞典)。3.1.4
注釈209御手水など大島本は「御てうつなと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御手水」と「など」を削除する。『新大系』は底本のままとする。3.1.4
注釈210君恋ふる涙は際もなきものを--今日をば何の果てといふらむ中将の君の詠歌。「君」は故紫の上。「果て」は一周忌をさす。『異本紫明抄』は「我が身には悲しきことのつきせねば昨日を果てと思はざりけり」(後拾遺集哀傷、江侍従)を指摘。3.1.5
注釈211人恋ふるわが身も末になりゆけど--残り多かる涙なりけり源氏の中将の君への返歌。「恋ふる」「涙」をそのまま用い、「君」は「人」、「果て」は「残り」と言い換えて返す。3.1.7
注釈212九月になりて九日綿おほひたる菊を御覧じて季節は晩秋九月に推移。九日、重陽の節句を迎える。3.1.9
注釈213もろともにおきゐし菊の白露も--一人袂にかかる秋かな大島本は「しら露」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「朝露」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。源氏の独詠歌。「置き」「起き」の掛詞。「露」は「涙」を暗示する。『奥入』は「明くるまで起きゐる菊の白露は仮の世を思ふ涙なるべし」(古今六帖一)。『孟津抄』は「もろともに起きゐし秋の露ばかりかからむものと思ひかけきや」(後撰集哀傷、一四〇九、玄上朝臣女)を指摘。3.1.10
出典16 今まで経にける 人の身もならはしものを今までにかくても経ぬるものにぞありける 源氏釈所引-出典未詳 3.1.3
身を憂しと思ふに消えぬものなればかくても経ぬる世にこそありけれ 古今集恋五-八〇六 読人しらず
校訂8 とほりて とほりて--とおも(おも/$をり<朱>)て 3.1.1
3.2
第二段 源氏、出家を決意


3-2  Genji decides to go into religion

3.2.1   神無月には、おほかたも時雨がちなるころ、いとど眺めたまひて、 夕暮の空のけしきも、えもいはぬ心細さに、「 降りしかど」と 独りごちおはす。 雲居を渡る雁の翼も、うらやましくまぼられたまふ
 神無月には、一般に時雨がちなころとて、ますます物思いに沈みなさって、夕暮の空の様子にも、何ともいえない心細さゆえ、「いつも時雨は降ったが」と独り口ずさんでいらっしゃる。雲居を渡ってゆく雁の翼も、羨ましく見つめられなさる。
 十月は時雨しぐれがちな季節であったからいっそう院のお心はお寂しそうで、夕方の空の色なども言いようもなく心細く御覧になるのであって、「いつも時雨は降りしかど」(かくそでひづるをりはなかりき)などと口ずさんでおいでになった。空を渡るかりが翼を並べて行くのもうらやましくお見守られになるのである。
  Kamnaduki ni ha, ohokata mo siguregati naru koro, itodo nagame tamahi te, yuhugure no sora no kesiki mo, e mo iha nu kokorobososa ni, "Huri sika do" to hitorigoti ohasu. Kumowi wo wataru kari no tubasa mo, urayamasiku mabora re tamahu.
3.2.2  「 大空をかよふ幻夢にだに
   見えこぬ魂の行方たづねよ
 「大空を飛びゆく幻術士よ、夢の中にさえ
  現れない亡き人の魂の行く方を探してくれ
  大空を通ふまぼろし夢にだに
  見えこぬたまの行く尋ねよ
    "Ohozora wo kayohu maborosi yume ni dani
    miye ko nu tama no yukuhe tadune yo
3.2.3  何ごとにつけても、紛れずのみ、月日に添へて思さる。
 どのような事につけても、気の紛れることのないばかりで、月日につれて悲しく思わずにはいらっしゃれない。
 何によっても慰められぬ月日がたっていくにしたがい、院のお悲しみは深くばかりになった。
  Nanigoto ni tuke te mo, magire zu nomi, tukihi ni sohe te obosa ru.
3.2.4   五節などいひて、世の中そこはかとなく今めかしげなるころ、大将殿の君たち、 童殿上したまへる率て参りたまへり。同じほどにて、二人いとうつくしきさまなり。 御叔父の頭中将、蔵人少将など小忌にて、青摺の姿ども 、きよげにめやすくて、皆うち続き、もてかしづきつつ、もろともに参りたまふ。思ふことなげなるさまどもを見たまふに、 いにしへ、あやしかりし日蔭の折、さすがに思し出でらるべし
 五節などといって、世の中がどことなくはなやかに浮き立っているころ、大将殿のご子息たち、童殿上なさって参上なさった。同じくらいの年齢で、二人とてもかわいらしい姿である。御叔父の頭中将や、蔵人少将などは、小忌衣で、青摺の姿がさっぱりして感じよくて、みな引き続いて、お世話しながら一緒に参上なさる。何の物思いもなさそうな様子を御覧になると、昔、心ときめくことのあった五節の折、何といってもお思い出されるであろう。
 五節ごせちなどといって、世の中がはなやかに明るくなるころ、大将の子息たちが殿上勤めにはじめて出たといって、六条院へ来た。二人とも非常に美しい。母方の叔父おじであるとうの中将や蔵人くろうど少将などが青摺あおずりの小忌衣おみごろものきれいな姿で少年たちに付き添って来たのである。朗らかなふうのこうした若い人たちを御覧になる院は、御自身の青春の日もお振り返られになって昔のこの日の舞い姫に心をおかれになったことなどもさすがになつかしいこととお思い出しになった。
  Goseti nado ihi te, yononaka sokohakatonaku imamekasige naru koro, Daisyau-dono no Kimi-tati, warahatenzyau si tamahe ru wi te mawiri tamahe ri. Onazi hodo nite, hutari ito utukusiki sama nari. Ohom-wodi no Tou-no-Tyuuzyau, Kuraudo-no-Seusyau nado, womi nite, awozuri no sugata-domo, kiyoge ni meyasuku te, mina uti-tuduki, mote kasiduki tutu, morotomoni mawiri tamahu. Omohu koto nage naru sama-domo wo mi tamahu ni, inisihe, ayasikari si hikage no wori, sasugani obosi ide raru besi.
3.2.5  「 宮人は豊明といそぐ今日
   日影も知らで暮らしつるかな
 「宮人が豊明の節会に夢中になっている今日
  わたしは日の光も知らないで暮らしてしまったな
  宮人はとよの明りにいそぐ今日けふ
  日かげも知らで暮らしつるかな
    "Miyabito ha Toyonoakari to isogu kehu
    hikage mo sira de kurasi turu kana
3.2.6  「 今年をばかくて忍び過ぐしつれば、今は」と、世を去りたまふべきほど近く思しまうくるに、あはれなること、尽きせず。やうやうさるべきことども、御心のうちに思し続けて、さぶらふ人びとにも、ほどほどにつけて、物賜ひなど、おどろおどろしく、今なむ限りとしなしたまはねど、近くさぶらふ人びとは、御本意遂げたまふべきけしきと見たてまつるままに、年の暮れゆくも心細く、悲しきこと限りなし。
 「今年をこうしてひっそりと過ごして来たので、これまで」と、ご出家なさるべき時を近々にご予定なさるにつけ、しみじみとした悲しみ、尽きない。だんだんとしかるべき事柄を、ご心中にお思い続けなさって、伺候する女房たちにも、身分身分に応じて、お形見分けなど、大げさに、これを最後とはなさらないが、近く伺候する女房たちは、ご出家の本願をお遂げになる様子だと拝見するにつれて、年が暮れてゆくのも心細く、悲しい気持ちは限りがない。
 今年をこんなふうに隠忍してお通しになった院は、もう次の春になれば出家を実現させてよいわけであるとその用意を少しずつ始めようとされるのであったが、物哀れなお気持ちばかりがされた。院内の人々にもそれぞれ等差をつけて物を与えておいでになるのであった。目だつほどに今日までの御生活に区切りをつけるようなことにはしてお見せにならないのであるが、近くお仕えする人たちには、院が出家の実行を期しておいでになることがうかがえて、今年の終わってしまうことを非常に心細くだれも思った。
  "Kotosi wo ba kaku te sinobi sugusi ture ba, ima ha." to, yo wo sari tamahu beki hodo tikaku obosi maukuru ni, ahare naru koto, tuki se zu. Yauyau sarubeki koto-domo, mi-kokoro no uti ni obosi tuduke te, saburahu hitobito ni mo, hodohodo ni tuke te, mono tamahi nado, odoroodorosiku, ima nam kagiri to si nasi tamaha ne do, tikaku saburahu hitobito ha, ohom-hoi toge tamahu beki kesiki to mi tatematuru mama ni, tosi no kure yuku mo kokorobosoku, kanasiki koto kagiri nasi.
注釈214神無月には、おほかたも時雨がちなるころ大島本は「神無月にハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「神無月は」と「に」を削除する。『新大系』は底本のままとする。季節は初冬、十月の時雨の多い頃に推移する。3.2.1
注釈215夕暮の空のけしきも大島本は「空のけしきも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「空のけしきにも」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。3.2.1
注釈216降りしかどと『源氏釈』は「神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひづる折はなかりき」(出典未詳)。『大系』は「神無月いつも時雨は悲しきを子恋ひの森はいかが見るらむ」(為頼集)を指摘。3.2.1
注釈217降りしかどと『源氏釈』は「神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひづる折はなかりき」(出典未詳)。『大系』は「神無月いつも時雨は悲しきを子恋ひの森はいかが見るらむ」(為頼集)を指摘。3.2.1
注釈218雲居を渡る雁の翼もうらやましくまぼられたまふ大島本は「まほられ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「まもられ」と整定する。『新大系』は底本のままとする。『異本紫明抄』は「天の原わきて鳴くなる雁がねは故郷訪ね帰るなるべし」(能宣集)を指摘。3.2.1
注釈219大空をかよふ幻夢にだに--見えこぬ魂の行方たづねよ源氏の独詠歌。3.2.2
注釈220五節などいひて世の中そこはかとなく今めかしげなるころ季節は十一月中旬へと推移。3.2.4
注釈221童殿上したまへる率て参りたまへり大島本は「し給へるいて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「したまひて」と「いて」を削除する。『新大系』は底本のままとする。3.2.4
注釈222御叔父の頭中将蔵人少将など雲居雁の兄弟たち。3.2.4
注釈223小忌にて青摺の姿ども小忌衣の青摺の衣裳姿。3.2.4
注釈224いにしへあやしかりし日蔭の折さすがに思し出でらるべし語り手の源氏の心中を推測した叙述。筑紫の五節舞姫に逢ったことは「花散里」「須磨」「明石」「少女」の諸巻に回想されている。3.2.4
注釈225宮人は豊明といそぐ今日--日影も知らで暮らしつるかな大島本は「とよのあかりと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「豊明に」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。源氏の独詠歌。「日光(ひかげ)」と「日蔭の蔓」の掛詞。『完訳』は「華麗な儀に入り込めぬ孤独を詠む」。3.2.5
注釈226今年をばかくて忍び過ぐしつれば今はと世を去りたまふべきほど近く思しまうくるに『集成』は「今年一年をこうして出家を我慢して過したので、もういよいよ俗世をお捨てになる時期が近づいたとお心積りなさるにつけ」。『完訳』「傷心に堪えて一歳を過した。出家を留保してきたことをさす」「今年一年間はこうして悲しみをこらえて過してきたのだから、いよいよ俗世をお捨てになる時期が近づいたことを覚悟なさるにつけても」と注す。いずれも地の文に解すが、「今年をば」から「今は」は源氏の心中文、源氏の思惟過程であろう。「世を去り給ふべきほど近く思しまうくるに」は地の文。「近く思しまうくる」は「近くに思しまうくる」の意であろう。3.2.6
出典17 降りしかど 神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひたす折はなかりき 源氏釈所引-出典未詳 3.2.1
校訂9 小忌にて 小忌にて--をみにい(い/$<朱>)て 3.2.4
3.3
第三段 源氏、手紙を焼く


3-3  Genji makes to burn letters up by maids

3.3.1  落ちとまりて かたはなるべき人の御文ども、破れば惜し、と 思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、もののついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに、かの須磨のころほひ、所々より たてまつれたまひけるもある中に、 かの御手なるは、ことに結ひ合はせてぞありける。
 後に残っては見苦しいような女の人からのお手紙は、破っては惜しい、とお思いになってか、少しずつ残していらっしゃったのを、何かの機会に御覧になって、破り捨てさせなさるなどすると、あの須磨にいたころ、あちらこちらから差し上げさせなさったものもある中で、あの方のご筆跡の手紙は、特別に一つに結んであったのであった。
 人の目については不都合であるとお思いになった古い恋愛関係の手紙類をなお破るのは惜しい気があそばされたのか、だれのも少しずつ残してお置きになったのを、何かの時にお見つけになり破らせなどして、また改めて始末をしにおかかりになったのであるが、須磨すまの幽居時代に方々から送られた手紙などもあるうちに、紫の女王にょおうのだけは別に一束になっていた。
  Oti tomari te kataha naru beki hito no ohom-humi-domo, yare ba wosi, to obosa re keru ni ya, sukosi dutu nokosi tamahe ri keru wo, mono no tuide ni goranzi tuke te, yara se tamahi nado suru ni, kano Suma no korohohi, tokorodokoro yori tatemature tamahi keru mo aru naka ni, kano ohom-te naru ha, kotoni yuhi ahase te zo ari keru.
3.3.2  みづからしおきたまひけることなれど、「 久しうなりける世のこと」と思すに、ただ今のやうなる墨つきなど、「げに 千年の形見にしつべかりけるを 見ずなりぬべきよ」と思せば、かひなくて、疎からぬ人びと、二、三人ばかり、御前にて破らせたまふ。
 ご自身でなさっておいたことだが、「遠い昔のことになった」とお思いになるが、たった今書いたような墨跡などが、「なるほど千年の形見にできそうだが、見ることもなくなってしまうものよ」とお思いになると、何にもならないので、気心の知れた女房、二、三人ほどに、御前で破らせなさる。
 御自身がしてお置きになったのであるが、古い昔のことであったと前の世のことのようにお思われになりながらも、中をあけてお読みになると、今書かれたもののように、夫人の墨の跡が生き生きとしていた。これは永久に形見として見るによいものであると思召おぼしめされたが、こんなものも見てならぬ身の上になろうとするのでないかと、気がおつきになって、親しい女房二、三人をお招きになって、居間の中でお破らせになった。
  Midukara si oki tamahi keru koto nare do, "Hisasiu nari keru yo no koto" to obosu ni, tada ima no yau naru sumituki nado, "Geni titose no katami ni si tu bekari keru wo, mi zu nari nu beki yo." to obose ba, kahinaku te, utokara nu hitobito, ni, sam-nin bakari, omahe nite yara se tamahu.
3.3.3  いと、かからぬほどのことにてだに、過ぎにし人の跡と見るはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分かれぬまで、降りおつる 御涙の水茎に流れ添ふを、人もあまり心弱しと見たてまつるべきが、かたはらいたうはしたなければ、押しやりたまひて、
 ほんとうに、このようなことでなくさえ、亡くなった人の筆跡と思うと胸が痛くなるのに、ましてますます涙にくれて、どれがどれとも見分けられないほど、流れ出るお涙の跡が文字の上を流れるのを、女房もあまりに意気地がないと拝見するにちがいないのが、見ていられなく体裁悪いので、手紙を押しやりなさって、
 こんな場合でなくても、くなった人の手紙を目に見ることは悲しいものであるのに、いっさいの感情を滅却させねばならぬ世界へ踏み入ろうとあそばす前の院のお心に女王の文字がどれほどはげしい悲しみをもたらしたかは御想像申し上げられることである。御気分はくらくなって涙は昔の墨の跡に添って流れるのが、女房たちの手前もきまり悪く恥ずかしくおなりになって、古手紙を少し前方へ押しやって、
  Ito, kakara nu hodo no koto nite dani, sugi ni si hito no ato to miru ha ahare naru wo, masite itodo kaki-kurasi, sore to mo mi wakare nu made, huri oturu ohom-namida no miduguki ni nagare sohu wo, hito mo amari kokoroyowasi to mi tatematuru beki ga, kataharaitau hasitanakere ba, osiyari tamahi te,
3.3.4  「 死出の山越えにし人を慕ふとて
   跡を見つつもなほ惑ふかな
 「死出の山を越えてしまった人を恋い慕って行こうとして
  その跡を見ながらもやはり悲しみにくれまどうことだ
  死出の山越えにし人を慕ふとて
  跡を見つつもなほまどふかな
    "Side-no-yama koye ni si hito wo sitahu tote
    ato wo mi tutu mo naho madohu kana
3.3.5  さぶらふ人びとも、まほにはえ引き広げねど、それとほのぼの見ゆるに、心惑ひどもおろかならず。この世ながら遠からぬ御別れのほどを、いみじと思しけるままに書いたまへる言の葉、げにその折よりもせきあへぬ悲しさ、やらむかたなし。いとうたて、今ひときはの御心惑ひも、女々しく人悪るくなりぬべければ、よくも見たまはで、こまやかに書きたまへるかたはらに、
 伺候する女房たちも、まともには広げられないが、その筆跡とわずかに分かるので、心動かされることも並々でない。この世にありながらそう遠くでなかったお別れの間中を、ひどく悲しいとお思いのままお書きになった和歌、なるほどその時よりも堪えがたい悲しみは、慰めようもない。まことに情けなく、もう一段とお心まどいも、女々しく体裁悪くなってしまいそうなので、よくも御覧にならず、心をこめてお書きになっている側に、
 と仰せられた。女房たちも御遠慮がされてくわしく読むことはできないのであったが、端々の文字の少しずつわかっていくだけさえも非常に悲しかった。同じ世にいて、近い所に別れ別れになっている悲しみを、実感のままに書かれてある故人の文章が、その当時以上に今のお心を打つのは道理なことである。こんなにめめしく悲しんで自分は見苦しいとお思いになって、よくもお読みにならないで長く書かれた女王の手紙の横に、
  Saburahu hitobito mo, maho ni ha e hiki hiroge ne do, sore to honobono miyuru ni, kokoromadohi-domo oroka nara zu. Konoyo nagara tohokara nu ohom-wakare no hodo wo, imizi to obosi keru mama ni kai tamahe ru kotonoha, geni sono wori yori mo seki ahe nu kanasisa, yara m kata nasi. Ito utate, ima hitokiha no mi-kokoromadohi mo, memesiku hitowaruku nari nu bekere ba, yoku mo mi tamaha de, komayakani kaki tamahe ru katahara ni,
3.3.6  「 かきつめて見るもかひなし藻塩草
   同じ雲居の煙とをなれ
 「かき集めて見るのも甲斐がない、この手紙も
  本人と同じく雲居の煙となりなさい
  かきつめて見るもかひなし藻塩草もしほぐさ
  同じ雲井の煙とをなれ
    "Kaki-tume te miru mo kahi nasi mosihogusa
    onazi kumowi no keburi to wo nare
3.3.7  と書きつけて、 皆焼かせたまふ
 と書きつけて、みなお焼かせになる。
 とお書きになって、それも皆焼かせておしまいになった。
  to kakituke te, mina yaka se tamahu.
注釈227かたはなるべき人の御文ども、破れば惜し、と『異本紫明抄』は「破れば惜し破らねば人に見えぬべし泣くなくもなほ返すまされり」(後撰集雑二、一一四四、元良親王)を指摘。3.3.1
注釈228たてまつれたまひける大島本は「たてまつれ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「奉り」と校訂する『新大系』は底本のままとする。3.3.1
注釈229かの御手なるは紫の上の筆跡。手紙。3.3.1
注釈230久しうなりける世のこと大島本は「なりける」とある。『集成』『完本』は底本に従って「なりにける」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。3.3.2
注釈231千年の形見にしつべかりけるを『異本紫明抄』は「書きつくる跡は千歳もありぬべし忘れず偲ぶ人やなからむ」(出典未詳)「かひなしと思ひなけちそ水茎の跡ぞ千歳の形見ともなる」(古今六帖五、文)を指摘。後者の和歌が引歌として指摘されている。3.3.2
注釈232見ずなりぬべきよと思せばかひなくて『集成』は「(出家すれば)こういうものを見ることもなくなうであろうよ、とお思いになると、残しておくかいもなくて」と訳す。3.3.2
注釈233御涙の水茎に流れ添ふを『河海抄』は「黄壌なんぞ我を知らん白頭にして徒に君を憶ふ唯だ老年の涙を将つて一たび故人の文に灑ぐ」(白氏文集巻第五十一・和漢朗詠集、懐旧)を指摘。3.3.3
注釈234死出の山越えにし人を慕ふとて--跡を見つつもなほ惑ふかな源氏の独詠歌。『河海抄』は「死出の山ふもとを見てぞ帰りにしつらき人よりまづ越えじとも」(古今集恋五、七八九、兵衛)「死出の山越えて来つらむ時鳥恋しき人の上語らなむ」(拾遺集哀傷、一三〇七、伊勢)「いにしへの跡を見つつも惑ひしを今行く末をいかにせよとぞ」(宇津保物語、菊の宴)を指摘。3.3.4
注釈235かきつめて見るもかひなし藻塩草--同じ雲居の煙とをなれ源氏の独詠歌。「藻塩草」は手紙を譬喩する。「煙」と縁語。3.3.6
注釈236皆焼かせたまふ大島本は「やかせ給」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「焼かせたまひつ」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。3.3.7
出典18 破れば惜し 破れば惜し破らねば人に見えぬべし泣く泣くもなほ返すまされり 後撰集雑二-一一四三 元良親王 3.3.1
出典19 千年の形見 かひなしと思ひなけちそ水茎の跡ぞ千歳の形見ともなる 古今六帖五-三三七九 3.3.2
3.4
第四段 源氏、出家の準備


3-4  Genji prepares to go into religion

3.4.1  「 御仏名も、今年ばかりにこそは」と 思せばにや、常よりもことに、錫杖の声々などあはれに思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、仏の聞きたまはむこと、 かたはらいたし
 「御仏名も、今年限りだ」とお思いになればであろうか、例年よりも格別に、錫杖の声々などがしみじみと思われなさる。行く末長い将来を請い願うのも、仏が何とお聞きになろうかと、耳が痛い。
 仏名の僧を迎える行事も今年きりのことであるとお思いになると、僧の錫杖しゃくじょうの音も身にんでお聞かれになった。院のために行く末長く寿命の保たれることを僧たちの祈り唱えるのも、院のお心には仏へ恥ずかしくお思われになった。
  "Ohom-butumyau mo, kotosi bakari ni koso ha." to obose ba ni ya, tune yori mo koto ni, syakuzyau no kowe gowe nado ahareni obosa ru. Yukusuwe nagaki koto wo kohi negahu mo, Hotoke no kiki tamaha m koto, kataharaitasi.
3.4.2  雪いたう降りて、まめやかに積もりにけり。導師のまかづるを、御前に召して、盃など、常の作法よりもさし分かせたまひて、ことに禄など賜はす。年ごろ久しく参り、朝廷にも仕うまつりて、御覧じ馴れたる御導師の、 頭はやうやう色変はりてさぶらふも、あはれに思さる。例の、宮たち、上達部など、あまた参りたまへり。
 雪がたいそう降って、たくさん積もった。導師が退出するのを、御前にお召しになって、盃など、平常の作法よりも格別になさって、特に禄などを下賜なさる。長年久しく参上し、朝廷にもお仕えして、よくご存知になられている御導師が、頭はだんだん白髪に変わって伺候しているのも、しみじみとお思われなさる。いつもの、親王たち、上達部などが、大勢参上なさった。
 雪が大降りになって厚く積もった。帰ろうとする導師を院は御前へお呼びになって、杯を賜わったりすることなども普通の仏名式の日以上の手厚いおねぎらいであった。纏頭てんとうなども賜わった。長くこの院へお出入りし、御所の御用も勤めているお馴染なじみ深い僧が、頭の色もようやく変わって老法師になった姿も院には哀れにお思われになるのであった。この日も例の宮がた、高官たちが多数に参入した。
  Yuki itau huri te, mameyakani tumori ni keri. Dausi no makaduru wo, o-mahe ni mesi te, sakaduki nado, tune no sahohu yori mo sasi-waka se tamahi te, kotoni roku nado tamahasu. Tosigoro hisasiku mawiri, Ohoyake ni mo tukaumaturi te, goranzi nare taru ohom-Dausi no, kasira ha yauyau iro kahari te saburahu mo, ahareni obosa ru. Rei no, Miya-tati, Kamdatime nado, amata mawiri tamahe ri.
3.4.3   梅の花の、わづかにけしきばみはじめて雪にもてはやされたるほど、をかしきを、御遊びなどもありぬべけれど、なほ今年までは、ものの音もむせびぬべき心地したまへば、時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさせたまふ。
 梅の花が、わずかにほころびはじめて雪に引き立てられているのが、美しいので、音楽のお遊びなどもあるはずなのだが、やはり今年までは、楽の音にもむせび泣きしてしまいそうな気がなさるので、折に合うものを、口ずさむ程度におさせなさる。
 梅の花の少し花らしく顔を上げ出したのが、雪の中にきわだって美しく見える日であったから、音楽の遊びもあってしかるべきなのであるが、本年中はなお管絃かんげんもむせび泣きの声をたてるもののように思召されるお心から、そのことはなくて、詩歌を歌わせてお聞きになるくらいのことでとどめられた。
  Mume no hana no, wadukani kesikibami hazime te yuki ni motehayasa re taru hodo, wokasiki wo, ohom-asobi nado mo ari nu bekere do, naho kotosi made ha, mono no ne mo musebi nu beki kokoti si tamahe ba, toki ni yori taru mono, uti-zunzi nado bakari zo se sase tamahu.
3.4.4   まことや、導師の盃のついでに、
 そう言えば、導師にお盃を賜る時に、
 導師へ院が杯をおさしになった時のお歌は、
  Makoto ya, Dausi no sakaduki no tuide ni,
3.4.5  「 春までの命も知らず雪のうちに
   色づく梅を今日かざしてむ
 「春までの命もあるかどうか分からないから
  雪の中に色づいた紅梅を今日は插頭にしよう
  春までの命も知らず雪のうちに
  色づく梅を今日かざしてん
    "Haru made no inoti mo sira zu yuki no uti ni
    iroduku mume wo kehu kazasi te m
3.4.6  御返し、
 お返事は、
 というのであって、お返し、
  Ohom-kahesi,
3.4.7  「 千世の春見るべき花と祈りおきて
   わが身ぞ雪とともにふりぬる
 「千代の春を見るべくあなたの長寿を祈りおきましたが
  わが身は降る雪とともに年ふりました
  千代の春見るべきものと祈りおきて
  わが身ぞ雪とともにふりぬる
    "Tiyo no haru miru beki hana to inori oki te
    waga mi zo yuki to tomoni huri nuru
3.4.8   人びと多く詠みおきたれど、もらしつ
 人々も数多く詠みおいたが、省略した。
 参会者の作も多かったが省いておく。
  Hitobito ohoku yomi oki tare do, morasi tu.
3.4.9   その日ぞ、出でたまへる。御容貌、昔の御光にもまた多く添ひて、ありがたくめでたく見えたまふを、この古りぬる齢の僧は、あいなう涙もとどめざりけり。
 この日、初めて人前にお出になった。ご器量、昔のご威光にもまた一段と増して、素晴らしく見事にお見えになるのを、この年とった老齢の僧は、無性に涙を抑えられないのであった。
 院の御美貌びぼうは昔の光源氏でおありになった時よりもさらに光彩が添ってお見えになるのを仰いで、この老いた僧はとめどなく涙を流した。
  Sono hi zo, ide tamahe ru. Ohom-katati, mukasi no ohom-hikari ni mo mata ohoku sohi te, arigataku medetaku miye tamahu wo, kono huri nuru yohahi no sou ha, ainau namida mo todome zari keri.
3.4.10  年暮れぬと思すも、心細きに、 若宮の
 年が暮れてしまったとお思いになるにつけ、心細いので、若宮が、
 今年が終わることを心細く思召す院であったから、若宮が、
  Tosi kure nu to obosu mo, kokorobosoki ni, WakaMiya no,
3.4.11  「 儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせさせむ」
 「追儺をするのに、高い音を立てるには、どうしたらよいでしょう」
 「儺追なやらいをするのに、何を投げさせたらいちばん高い音がするだろう」
  "Na yaraha m ni, oto takakaru beki koto, nani waza wo se sase m?"
3.4.12  と、走りありきたまふも、「をかしき御ありさまを見ざらむこと」と、よろづに忍びがたし。
 と言って、走り回っていらっしゃるのも、「かわいいご様子を見なくなることだ」と、何につけ堪えがたい。
 などと言って、お走り歩きになるのを御覧になっても、このかわいい人も見られぬ生活にはいるのであるとお思いになるのがお寂しかった。
  to, hasiri ariki tamahu mo, "Wokasiki ohom-arisama wo mi zara m koto." to, yoroduni sinobi gatasi.
3.4.13  「 もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに
   年もわが世も今日や尽きぬる
 「物思いしながら過ごし月日のたつのも知らない間に
  今年も自分の寿命も今日が最後になったか
  物ふと過ぐる月日も知らぬまに
  年もわが世も今日や尽きぬる
    "Mono omohu to suguru tukihi mo sira nu ma ni
    tosi mo waga yo mo kehu ya tuki nuru
3.4.14   朔日のほどのこと、「常よりことなるべく」と、おきてさせたまふ。親王たち、大臣の御引出物、品々の禄どもなど、 何となう思しまうけて、とぞ
 元日の日のことを、「例年より格別に」と、お命じあそばす。親王方、大臣への御引出物や、人々への禄などを、またとなくご用意なさって、とあった。
 元日の参賀の客のためにことにはなやかな仕度したくを院はさせておいでになった。親王がた、大臣たちへのお贈り物、それ以下の人たちへの纏頭てんとうの品などもきわめてりっぱなものを用意させておいでになった。
  Tuitati no hodo no koto, "Tune yori kotonaru beku." to, oki te sase tamahu. Miko-tati, Otodo no hikiidemono, sina zina no roku-domo nado, nanitonau obosi mauke te, to zo.
注釈237御仏名も今年ばかりにこそは源氏の心中。十二月十九日から三日間行われる。年もいよいよ押し詰まった。3.4.1
注釈238思せばにや係助詞「や」疑問の意。語り手の源氏心中の推測を挿入。3.4.1
注釈239かたはらいたし『完訳』は「出家を志す身に対して、長寿を祈願することになるから」と注す。語り手の批評の語句。3.4.1
注釈240頭はやうやう色変はりてさぶらふも『岷江入楚』は「香火一炉燈一盞白頭にしては夜仏名経を礼す」(白氏文集巻六十八・和漢朗詠集、仏名)を指摘。3.4.2
注釈241梅の花のわづかにけしきばみはじめて雪にもてはやされたるほど大島本は「けしきはミハしめて雪にもてはやされたるほと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「気色ばみはじめて」と「雪にもてはやされたるほと」を削除する。『新大系』は底本のままとする。雪の降りかかった梅の蕾が綻び始める。3.4.3
注釈242まことや『一葉抄』は「双紙詞」と指摘。3.4.4
注釈243春までの命も知らず雪のうちに--色づく梅を今日かざしてむ源氏の詠歌。『源注拾遺』は「雪深き山路に何にかへるらむ春待つ花のかげにとまらで」(拾遺集冬、二五九、能宣)を指摘。3.4.5
注釈244千世の春見るべき花と祈りおきて--わが身ぞ雪とともにふりぬる導師の返歌。源氏を「花」と見立て、その長命を祈る。「降り」「古り」の掛詞。3.4.7
注釈245人びと多く詠みおきたれどもらしつ『紹巴抄』は「双也」と指摘。語り手の省筆の弁。3.4.8
注釈246その日ぞ出でたまへる大島本は「いてたまへる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「出でゐたまへる」と「ゐ」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。この仏名の日に、源氏は、紫の上薨去以来初めて人前に姿を現した。『一葉抄』は「双紙の詞也」と指摘。3.4.9
注釈247若宮の匂宮。3.4.10
注釈248儺やらはむに以下「何わざをせさせむ」まで、匂宮の詞。追儺は大晦日の行事。源氏の退場と引き替えに若々しく無邪気な匂宮を点描。3.4.11
注釈249もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに--年もわが世も今日や尽きぬる源氏、物語中の最後の詠歌。辞世の歌。『河海抄」は「もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに今年は今日に果てぬかと聞く」(後撰集冬、三〇七、藤原敦忠)を指摘。3.4.13
注釈250朔日のほどのこと、「常よりことなるべく」源氏の詞。間接話法であろう。3.4.14
注釈251何となう思しまうけてとぞ大島本は「なにとなう」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「二なく」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。『集成』は「作者が聞いた話を、読者に語り伝えるという形式の語」、『新大系』は「筆記する者が伝聞内容を読者に伝える、という趣向の物語の締めくくり」と注す。3.4.14
出典20 もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに 物思ふと過ぐる月日も知らぬ間に今年は今日に果てぬとか聞く 後撰集冬-五〇六 藤原敦忠 3.4.13
Last updated 9/22/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 8/16/2010(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 2/12/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2004年2月6日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年7月20日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
このページは再編集プログラムによって2015/1/12に出力されました。
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