帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
09 | 葵 |
09 | 1 | 63 | 39 | 第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語 |
09 | 1.1 | 64 | 40 | 第一段 朱雀帝即位後の光る源氏 |
09 | 1.1.1 | 65 | 41 |
世の中かはりて後、よろづもの憂く思され、御身のやむごとなさも添ふにや、軽々しき御忍び歩きもつつましうて、ここもかしこも、おぼつかなさの嘆きを重ねたまふ、報いにや、なほ我につれなき人の御心を、尽きせずのみ思し嘆く。 |
よのなかかはりてのち、よろづものうくおぼされ、おほんみのやんごとなさもそふにや、かるがるしきおほんしのびありきもつつましうて、ここもかしこも、おぼつかなさのなげきをかさねたまふ、むくいにや、なほわれにつれなきひとのみこころを、つきせずのみおぼしなげく。 |
09 | 1.1.2 | 66 | 42 |
今は、ましてひまなう、ただ人のやうにて添ひおはしますを、今后は心やましう思すにや、内裏にのみさぶらひたまへば、立ち並ぶ人なう心やすげなり。折ふしに従ひては、御遊びなどを好ましう、世の響くばかりせさせたまひつつ、今の御ありさましもめでたし。ただ、春宮をぞいと恋しう思ひきこえたまふ。御後見のなきを、うしろめたう思ひきこえて、大将の君によろづ聞こえつけたまふも、かたはらいたきものから、うれしと思す。 |
いまは、ましてひまなう、ただうどのやうにてそひおはしますを、いまぎさきはこころやましうおぼすにや、うちにのみさぶらひたまへば、たちならぶひとなうこころやすげなり。をりふしにしたがひては、おほんあそびなどをこのましう、よのひびくばかりせさせたまひつつ、いまのおほんありさましもめでたし。ただ、とうぐうをぞいとこひしうおもひきこえたまふ。おほんうしろみのなきを、うしろめたうおもひきこえて、だいしゃうのきみによろづきこえつけたまふも、かたはらいたきものから、うれしとおぼす。 |
09 | 1.1.3 | 67 | 43 |
まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫君、斎宮にゐたまひにしかば、大将の御心ばへもいと頼もしげなきを、「幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし」と、かねてより思しけり。 |
まことや、かのろくでうのみやすんどころのおほんはらのぜんばうのひめぎみ、さいぐうにゐたまひにしかば、だいしゃうのみこころばへもいとたのもしげなきを、"をさなきおほんありさまのうしろめたさにことつけてくだりやしなまし。"と、かねてよりおぼしけり。 |
09 | 1.1.4 | 68 | 44 |
院にも、かかることなむと、聞こし召して、 |
ゐんにも、かかることなんと、きこしめして、 |
09 | 1.1.5 | 69 | 45 |
「故宮のいとやむごとなく思し、時めかしたまひしものを、軽々しうおしなべたるさまにもてなすなるが、いとほしきこと。斎宮をも、この御子たちの列になむ思へば、いづかたにつけても、おろかならざらむこそよからめ。心のすさびにまかせて、かく好色わざするは、いと世のもどき負ひぬべきことなり」 |
"こみやのいとやんごとなくおぼし、ときめかしたまひしものを、かるがるしうおしなべたるさまにもてなすなるが、いとほしきこと。さいぐうをも、このみこたちのつらになんおもへば、いづかたにつけても、おろかならざらんこそよからめ。こころのすさびにまかせて、かくすきわざするは、いとよのもどきおひぬべきことなり。" |
09 | 1.1.6 | 70 | 46 |
など、御けしき悪しければ、わが御心地にも、げにと思ひ知らるれば、かしこまりてさぶらひたまふ。 |
など、みけしきあしければ、わがみここちにも、げにとおもひしらるれば、かしこまりてさぶらひたまふ。 |
09 | 1.1.7 | 71 | 47 |
「人のため、恥ぢがましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女の怨みな負ひそ」 |
"ひとのため、はぢがましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、をんなのうらみなおひそ。" |
09 | 1.1.8 | 72 | 48 |
とのたまはするにも、「けしからぬ心のおほけなさを聞こし召しつけたらむ時」と、恐ろしければ、かしこまりてまかでたまひぬ。 |
とのたまはするにも、"けしからぬこころのおほけなさをきこしめしつけたらんとき。"と、おそろしければ、かしこまりてまかでたまひぬ。 |
09 | 1.1.9 | 73 | 49 |
また、かく院にも聞こし召し、のたまはするに、人の御名も、わがためも、好色がましういとほしきに、いとどやむごとなく、心苦しき筋には思ひきこえたまへど、まだ表はれては、わざともてなしきこえたまはず。 |
また、かくゐんにもきこしめし、のたまはするに、ひとのおほんなも、わがためも、すきがましういとほしきに、いとどやんごとなく、こころぐるしきすぢにはおもひきこえたまへど、まだあらはれては、わざともてなしきこえたまはず。 |
09 | 1.1.10 | 74 | 50 |
女も、似げなき御年のほどを恥づかしう思して、心とけたまはぬけしきなれば、それにつつみたるさまにもてなして、院に聞こし召し入れ、世の中の人も知らぬなくなりにたるを、深うしもあらぬ御心のほどを、いみじう思し嘆きけり。 |
をんなも、にげなきおほんとしのほどをはづかしうおぼして、こころとけたまはぬけしきなれば、それにつつみたるさまにもてなして、ゐんにきこしめしいれ、よのなかのひともしらぬなくなりにたるを、ふかうしもあらぬみこころのほどを、いみじうおぼしなげきけり。 |
09 | 1.1.11 | 75 | 51 |
かかることを聞きたまふにも、朝顔の姫君は、「いかで、人に似じ」と深う思せば、はかなきさまなりし御返りなども、をさをさなし。さりとて、人憎く、はしたなくはもてなしたまはぬ御けしきを、君も、「なほことなり」と思しわたる。 |
かかることをききたまふにも、あさがほのひめぎみは、"いかで、ひとににじ。"とふかうおぼせば、はかなきさまなりしおほんかへりなども、をさをさなし。さりとて、ひとにくく、はしたなくはもてなしたまはぬみけしきを、きみも、"なほことなり。"とおぼしわたる。 |
09 | 1.1.12 | 76 | 52 |
大殿には、かくのみ定めなき御心を、心づきなしと思せど、あまりつつまぬ御けしきの、いふかひなければにやあらむ、深うも怨じきこえたまはず。心苦しきさまの御心地に悩みたまひて、もの心細げに思いたり。めづらしくあはれと思ひきこえたまふ。誰れも誰れもうれしきものから、ゆゆしう思して、さまざまの御つつしみせさせたてまつりたまふ。かやうなるほどに、いとど御心のいとまなくて、思しおこたるとはなけれど、とだえ多かるべし。 |
おほとのには、かくのみさだめなきみこころを、こころづきなしとおぼせど、あまりつつまぬみけしきの、いふかひなければにやあらん、ふかうもゑじきこえたまはず。こころぐるしきさまのみここちになやみたまひて、ものこころぼそげにおぼいたり。めづらしくあはれとおもひきこえたまふ。たれもたれもうれしきものから、ゆゆしうおぼして、さまざまのおほんつつしみせさせたてまつりたまふ。かやうなるほどに、いとどみこころのいとまなくて、おぼしおこたるとはなけれど、とだえおほかるべし。 |
09 | 1.2 | 77 | 53 | 第二段 新斎院御禊の見物 |
09 | 1.2.1 | 78 | 54 |
そのころ、斎院も下りゐたまひて、后腹の女三宮ゐたまひぬ。帝、后と、ことに思ひきこえたまへる宮なれば、筋ことになりたまふを、いと苦しう思したれど、こと宮たちのさるべきおはせず。儀式など、常の神わざなれど、いかめしうののしる。祭のほど、限りある公事に添ふこと多く、見所こよなし。人からと見えたり。 |
そのころ、さいゐんもおりゐたまひて、きさきばらのをんなさんのみやゐたまひぬ。みかど、きさきと、ことにおもひきこえたまへるみやなれば、すぢことになりたまふを、いとくるしうおぼしたれど、ことみやたちのさるべきおはせず。ぎしきなど、つねのかんわざなれど、いかめしうののしる。まつりのほど、かぎりあるおほやけごとにそふことおほく、みどころこよなし。ひとからとみえたり。 |
09 | 1.2.2 | 79 | 55 |
御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり。とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより、物見車心づかひしけり。 |
ごけいのひ、かんだちめなど、かずさだまりてつかうまつりたまふわざなれど、おぼえことに、かたちあるかぎり、したがさねのいろ、うへのはかまのもん、むまくらまでみなととのへたり。とりわきたるせんじにて、だいしゃうのきみもつかうまつりたまふ。かねてより、ものみぐるまこころづかひしけり。 |
09 | 1.2.3 | 80 | 56 |
一条の大路、所なく、むくつけきまで騒ぎたり。所々の御桟敷、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへ、いみじき見物なり。 |
いちでうのおほぢ、ところなく、むくつけきまでさわぎたり。ところどころのおほんさじき、こころごころにしつくしたるしつらひ、ひとのそでぐちさへ、いみじきみものなり。 |
09 | 1.2.4 | 81 | 57 |
大殿には、かやうの御歩きもをさをさしたまはぬに、御心地さへ悩ましければ、思しかけざりけるを、若き人びと、 |
おほとのには、かやうのおほんありきもをさをさしたまはぬに、みここちさへなやましければ、おぼしかけざりけるを、わかきひとびと、 |
09 | 1.2.5 | 82 | 58 |
「いでや。おのがどちひき忍びて見はべらむこそ、栄なかるべけれ。おほよそ人だに、今日の物見には、大将殿をこそは、あやしき山賤さへ見たてまつらむとすなれ。遠き国々より、妻子を引き具しつつも参うで来なるを。御覧ぜぬは、いとあまりもはべるかな」 |
"いでや。おのがどちひきしのびてみはべらんこそ、はえなかるべけれ。おほよそびとだに、けふのものみには、だいしゃうどのをこそは、あやしきやまがつさへみたてまつらんとすなれ。とほきくにぐにより、めこをひきぐしつつもまうでくなるを。ごらんぜぬは、いとあまりもはべるかな。" |
09 | 1.2.6 | 83 | 59 |
と言ふを、大宮聞こしめして、 |
といふを、おほみやきこしめして、 |
09 | 1.2.7 | 84 | 60 |
「御心地もよろしき隙なり。さぶらふ人びともさうざうしげなめり」 |
"みここちもよろしきひまなり。さぶらふひとびともさうざうしげなめり。" |
09 | 1.2.8 | 85 | 61 |
とて、にはかにめぐらし仰せたまひて、見たまふ。 |
とて、にはかにめぐらしおほせたまひて、みたまふ。 |
09 | 1.2.9 | 86 | 62 |
日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり。隙もなう立ちわたりたるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。よき女房車多くて、雑々の人なき隙を思ひ定めて、皆さし退けさするなかに、網代のすこしなれたるが、下簾のさまなどよしばめるに、いたう引き入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり。 |
ひたけゆきて、ぎしきもわざとならぬさまにていでたまへり。ひまもなうたちわたりたるに、よそほしうひきつづきてたちわづらふ。よきにょうばうぐるまおほくて、ざふざふのひとなきひまをおもひさだめて、みなさしのけさするなかに、あんじろのすこしなれたるが、したすだれのさまなどよしばめるに、いたうひきいりて、ほのかなるそでぐち、ものすそ、かざみなど、もののいろ、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるくみゆるくるま、ふたつあり。 |
09 | 1.2.10 | 87 | 64 |
「これは、さらに、さやうにさし退けなどすべき御車にもあらず」 |
"これは、さらに、さやうにさしのけなどすべきみくるまにもあらず。" |
09 | 1.2.11 | 88 | 65 |
と、口ごはくて、手触れさせず。いづかたにも、若き者ども酔ひ過ぎ、立ち騒ぎたるほどのことは、えしたためあへず。おとなおとなしき御前の人びとは、「かくな」など言へど、えとどめあへず。 |
と、くちごはくて、てふれさせず。いづかたにも、わかきものどもゑひすぎ、たちさわぎたるほどのことは、えしたためあへず。おとなおとなしきごぜんのひとびとは、"かくな。"などいへど、えとどめあへず。 |
09 | 1.2.12 | 89 | 66 |
斎宮の御母御息所、もの思し乱るる慰めにもやと、忍びて出でたまへるなりけり。つれなしつくれど、おのづから見知りぬ。 |
さいぐうのおほんははみやすんどころ、ものおぼしみだるるなぐさめにもやと、しのびていでたまへるなりけり。つれなしつくれど、おのづからみしりぬ。 |
09 | 1.2.13 | 90 | 67 |
「さばかりにては、さな言はせそ」 |
"さばかりにては、さないはせそ。" |
09 | 1.2.14 | 91 | 68 |
「大将殿をぞ、豪家には思ひきこゆらむ」 |
"だいしゃうどのをぞ、がうけにはおもひきこゆらん。" |
09 | 1.2.15 | 92 | 69 |
など言ふを、その御方の人も混じれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。 |
などいふを、そのおほんかたのひともまじれば、いとほしとみながら、よういせんもわづらはしければ、しらずがほをつくる。 |
09 | 1.2.16 | 93 | 70 |
つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。榻などもみな押し折られて、すずろなる車の筒にうちかけたれば、またなう人悪ろく、くやしう、「何に、来つらむ」と思ふにかひなし。物も見で帰らむとしたまへど、通り出でむ隙もなきに、 |
つひに、みくるまどもたてつづけつれば、ひとだまひのおくにおしやられて、ものもみえず。こころやましきをばさるものにて、かかるやつれをそれとしられぬるが、いみじうねたきこと、かぎりなし。しぢなどもみなおしをられて、すずろなるくるまのどうにうちかけたれば、またなうひとわろく、くやしう、"なにに、きつらん"とおもふにかひなし。ものもみでかへらんとしたまへど、とほりいでんひまもなきに、 |
09 | 1.2.17 | 94 | 71 |
「事なりぬ」 |
"ことなりぬ。" |
09 | 1.2.18 | 95 | 72 |
と言へば、さすがに、つらき人の御前渡りの待たるるも、心弱しや。「笹の隈」にだにあらねばにや、つれなく過ぎたまふにつけても、なかなか御心づくしなり。 |
といへば、さすがに、つらきひとのおまへわたりのまたるるも、こころよわしや。〔ささのくま〕にだにあらねばにや、つれなくすぎたまふにつけても、なかなかみこころづくしなり。 |
09 | 1.2.19 | 96 | 73 |
げに、常よりも好みととのへたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾の隙間どもも、さらぬ顔なれど、ほほ笑みつつ後目にとどめたまふもあり。大殿のは、しるければ、まめだちて渡りたまふ。御供の人びとうちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おし消たれたるありさま、こよなう思さる。 |
げに、つねよりもこのみととのへたるくるまどもの、われもわれもとのりこぼれたるしたすだれのすきまどもも、さらぬかほなれど、ほほゑみつつしりめにとどめたまふもあり。おほとののは、しるければ、まめだちてわたりたまふ。おほんとものひとびとうちかしこまり、こころばへありつつわたるを、おしけたれたるありさま、こよなうおぼさる。 |
09 | 1.2.20 | 97 | 74 |
「影をのみ御手洗川のつれなきに<BR/>身の憂きほどぞいとど知らるる」 |
"〔かげをのみみたらしがはのつれなきに<BR/>みのうきほどぞいとどしらるる〕 |
09 | 1.2.21 | 98 | 75 |
と、涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御さま、容貌の、「いとどしう出でばえを見ざらましかば」と思さる。 |
と、なみだのこぼるるを、ひとのみるもはしたなけれど、めもあやなるおほんさま、かたちの、"いとどしういでばえをみざらましかば。"とおぼさる。 |
09 | 1.2.22 | 99 | 76 |
ほどほどにつけて、装束、人のありさま、いみじくととのへたりと見ゆるなかにも、上達部はいとことなるを、一所の御光にはおし消たれためり。大将の御仮の随身に、殿上の将監などのすることは常のことにもあらず、めづらしき行幸などの折のわざなるを、今日は右近の蔵人の将監仕うまつれり。さらぬ御随身どもも、容貌、姿、まばゆくととのへて、世にもてかしづかれたまへるさま、木草もなびかぬはあるまじげなり。 |
ほどほどにつけて、さうぞく、ひとのありさま、いみじくととのへたりとみゆるなかにも、かんだちめはいとことなるを、ひとところのおほんひかりにはおしけたれためり。だいしゃうのおほんかりのずいじんに、てんじゃうのぞうなどのすることはつねのことにもあらず、めづらしきぎゃうがうなどのをりのわざなるを、けふはうこんのくらうどのぞうつかうまつれり。さらぬみずいじんどもも、かたち、すがた、まばゆくととのへて、よにもてかしづかれたまへるさま、きくさもなびかぬはあるまじげなり。 |
09 | 1.2.23 | 100 | 77 |
壺装束などいふ姿にて、女房の卑しからぬや、また尼などの世を背きけるなども、倒れまどひつつ、物見に出でたるも、例は、「あながちなりや、あなにく」と見ゆるに、今日はことわりに、口うちすげみて、髪着こめたるあやしの者どもの、手をつくりて、額にあてつつ見たてまつりあげたるも。をこがましげなる賤の男まで、おのが顔のならむさまをば知らで笑みさかえたり。何とも見入れたまふまじき、えせ受領の娘などさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、さまことさらび心げさうしたるなむ、をかしきやうやうの見物なりける。 |
つぼさうぞくなどいふすがたにて、にょうばうのいやしからぬや、またあまなどのよをそむきけるなども、たふれまどひつつ、ものみにいでたるも、れいは、"あながちなりや、あなにく。"とみゆるに、けふはことわりに、くちうちすげみて、かみきこめたるあやしのものどもの、てをつくりて、ひたひにあてつつみたてまつりあげたるも。をこがましげなるしづのをまで、おのがかほのならんさまをばしらでゑみさかえたり。なにともみいれたまふまじき、えせずりゃうのむすめなどさへ、こころのかぎりつくしたるくるまどもにのり、さまことさらびこころげさうしたるなん、をかしきやうやうのみものなりける。 |
09 | 1.2.24 | 101 | 78 |
まして、ここかしこにうち忍びて通ひたまふ所々は、人知れずのみ数ならぬ嘆きまさるも、多かり。 |
まして、ここかしこにうちしのびてかよひたまふところどころは、ひとしれずのみかずならぬなげきまさるも、おほかり。 |
09 | 1.2.25 | 102 | 79 |
式部卿の宮、桟敷にてぞ見たまひける。 |
しきぶきゃうのみや、さじきにてぞみたまひける。 |
09 | 1.2.26 | 103 | 80 |
「いとまばゆきまでねびゆく人の容貌かな。神などは目もこそとめたまへ」 |
"いとまばゆきまでねびゆくひとのかたちかな。かみなどはめもこそとめたまへ。" |
09 | 1.2.27 | 104 | 81 |
と、ゆゆしく思したり。姫君は、年ごろ聞こえわたりたまふ御心ばへの世の人に似ぬを、 |
と、ゆゆしくおぼしたり。ひめぎみは、としごろきこえわたりたまふみこころばへのよのひとににぬを、 |
09 | 1.2.28 | 105 | 82 |
「なのめならむにてだにあり。まして、かうしも、いかで」 |
"なのめならんにてだにあり。まして、かうしも、いかで。" |
09 | 1.2.29 | 106 | 83 |
と御心とまりけり。いとど近くて見えむまでは思しよらず。若き人びとは、聞きにくきまでめできこえあへり。 |
とみこころとまりけり。いとどちかくてみえんまではおぼしよらず。わかきひとびとは、ききにくきまでめできこえあへり。 |
09 | 1.2.30 | 107 | 84 |
祭の日は、大殿にはもの見たまはず。大将の君、かの御車の所争ひを、まねび聞こゆる人ありければ、「いといとほしう憂し」と思して、 |
まつりのひは、おほとのにはものみたまはず。だいしゃうのきみ、かのみくるまのところあらそひを、まねびきこゆるひとありければ、"いといとほしううし"とおぼして、 |
09 | 1.2.31 | 108 | 85 |
「なほ、あたら重りかにおはする人の、ものに情けおくれ、すくすくしきところつきたまへるあまりに、みづからはさしも思さざりけめども、かかる仲らひは情け交はすべきものとも思いたらぬ御おきてに従ひて、次々よからぬ人のせさせたるならむかし。御息所は、心ばせのいと恥づかしく、よしありておはするものを、いかに思し憂じにけむ」 |
"なほ、あたらおもりかにおはするひとの、ものになさけおくれ、すくすくしきところつきたまへるあまりに、みづからはさしもおぼさざりけめども、かかるなからひはなさけかはすべきものともおぼいたらぬおほんおきてにしたがひて、つぎつぎよからぬひとのせさせたるならんかし。みやすんどころは、こころばせのいとはづかしく、よしありておはするものを、いかにおぼしうんじにけん。" |
09 | 1.2.32 | 109 | 86 |
と、いとほしくて、参うでたまへりけれど、斎宮のまだ本の宮におはしませば、榊の憚りにことつけて、心やすくも対面したまはず。ことわりとは思しながら、「なぞや、かくかたみにそばそばしからでおはせかし」と、うちつぶやかれたまふ。 |
と、いとほしくて、まうでたまへりけれど、さいぐうのまだもとのみやにおはしませば、さかきのはばかりにことつけて、こころやすくもたいめんしたまはず。ことわりとはおぼしながら、"なぞや、かくかたみにそばそばしからでおはせかし。"と、うちつぶやかれたまふ。 |
09 | 1.3 | 110 | 87 | 第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物 |
09 | 1.3.1 | 111 | 88 |
今日は、二条院に離れおはして、祭見に出でたまふ。西の対に渡りたまひて、惟光に車のこと仰せたり。 |
けふは、にでうのゐんにはなれおはして、まつりみにいでたまふ。にしのたいにわたりたまひて、これみつにくるまのことおほせたり。 |
09 | 1.3.2 | 112 | 89 |
「女房出で立つや」 |
"にょうばういでたつや。" |
09 | 1.3.3 | 113 | 90 |
とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見たてまつりたまふ。 |
とのたまひて、ひめぎみのいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うちゑみてみたてまつりたまふ。 |
09 | 1.3.4 | 114 | 91 |
「君は、いざたまへ。もろともに見むよ」 |
"きみは、いざたまへ。もろともにみんよ。" |
09 | 1.3.5 | 115 | 92 |
とて、御髪の常よりもきよらに見ゆるを、かきなでたまひて、 |
とて、みぐしのつねよりもきよらにみゆるを、かきなでたまひて、 |
09 | 1.3.6 | 116 | 93 |
「久しう削ぎたまはざめるを、今日は、吉き日ならむかし」 |
"ひさしうそぎたまはざめるを、けふは、よきひならんかし。" |
09 | 1.3.7 | 117 | 94 |
とて、暦の博士召して、時問はせなどしたまふほどに、 |
とて、こよみのはかせめして、ときとはせなどしたまふほどに、 |
09 | 1.3.8 | 118 | 95 |
「まづ、女房出でね」 |
"まづ、にょうばういでね。" |
09 | 1.3.9 | 119 | 96 |
とて、童の姿どものをかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どものすそ、はなやかに削ぎわたして、浮紋の表の袴にかかれるほど、けざやかに見ゆ。 |
とて、わらはのすがたどものをかしげなるをごらんず。いとらうたげなるかみどものすそ、はなやかにそぎわたして、うきもんのうへのはかまにかかれるほど、けざやかにみゆ。 |
09 | 1.3.10 | 120 | 98 |
「君の御髪は、我削がむ」とて、「うたて、所狭うもあるかな。いかに生ひやらむとすらむ」 |
"きみのみぐしは、われそがん。"とて、"うたて、ところせうもあるかな。いかにおひやらんとすらん。" |
09 | 1.3.11 | 121 | 99 |
と、削ぎわづらひたまふ。 |
と、そぎわづらひたまふ。 |
09 | 1.3.12 | 122 | 100 |
「いと長き人も、額髪はすこし短うぞあめるを、むげに後れたる筋のなきや、あまり情けなからむ」 |
"いとながきひとも、ひたひがみはすこしみじかうぞあめるを、むげにおくれたるすぢのなきや、あまりなさけなからん。" |
09 | 1.3.13 | 123 | 101 |
とて、削ぎ果てて、「千尋」と祝ひきこえたまふを、少納言、「あはれにかたじけなし」と見たてまつる。 |
とて、そぎはてて、"ちひろ"といはひきこえたまふを、せうなごん、"あはれにかたじけなし"とみたてまつる。 |
09 | 1.3.14 | 124 | 102 |
「はかりなき千尋の底の海松ぶさの<BR/>生ひゆくすゑは我のみぞ見む」 |
"〔はかりなきちひろのそこのみるぶさの<BR/>おひゆくすゑはわれのみぞみん〕 |
09 | 1.3.15 | 125 | 103 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
09 | 1.3.16 | 126 | 104 |
「千尋ともいかでか知らむ定めなく<BR/>満ち干る潮ののどけからぬに」 |
"〔ちひろともいかでかしらんさだめなく<BR/>みちひるしほののどけからぬに〕 |
09 | 1.3.17 | 127 | 105 |
と、ものに書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、めでたしと思す。 |
と、ものにかきつけておはするさま、らうらうじきものから、わかうをかしきを、めでたしとおぼす。 |
09 | 1.3.18 | 128 | 106 |
今日も、所もなく立ちにけり。馬場の御殿のほどに立てわづらひて、 |
けふも、ところもなくたちにけり。むまばのおとどのほどにたてわづらひて、 |
09 | 1.3.19 | 129 | 107 |
「上達部の車ども多くて、もの騒がしげなるわたりかな」 |
"かんだちめのくるまどもおほくて、ものさわがしげなるわたりかな。" |
09 | 1.3.20 | 130 | 108 |
と、やすらひたまふに、よろしき女車の、いたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて、人を招き寄せて、 |
と、やすらひたまふに、よろしきをんなぐるまの、いたうのりこぼれたるより、あふぎをさしいでて、ひとをまねきよせて、 |
09 | 1.3.21 | 131 | 109 |
「ここにやは立たせたまはぬ。所避りきこえむ」 |
"ここにやはたたせたまはぬ。ところさりきこえん。" |
09 | 1.3.22 | 132 | 110 |
と聞こえたり。「いかなる好色者ならむ」と思されて、所もげによきわたりなれば、引き寄せさせたまひて、 |
ときこえたり。"いかなるすきものならん。"とおぼされて、ところもげによきわたりなれば、ひきよせさせたまひて、 |
09 | 1.3.23 | 133 | 111 |
「いかで得たまへる所ぞと、ねたさになむ」 |
"いかでえたまへるところぞと、ねたさになん。" |
09 | 1.3.24 | 134 | 112 |
とのたまへば、よしある扇のつまを折りて、 |
とのたまへば、よしあるあふぎのつまををりて、 |
09 | 1.3.25 | 135 | 113 |
「はかなしや人のかざせる葵ゆゑ<BR/>神の許しの今日を待ちける |
"〔はかなしやひとのかざせるあふひゆゑ<BR/>かみのゆるしのけふをまちける |
09 | 1.3.26 | 136 | 114 |
注連の内には」 |
しめのうちには。" |
09 | 1.3.27 | 137 | 115 |
とある手を思し出づれば、かの典侍なりけり。「あさましう、旧りがたくも今めくかな」と、憎さに、はしたなう、 |
とあるてをおぼしいづれば、かのないしのすけなりけり。"あさましう、ふりがたくもいまめくかな。"と、にくさに、はしたなう、 |
09 | 1.3.28 | 138 | 116 |
「かざしける心ぞあだにおもほゆる<BR/>八十氏人になべて逢ふ日を」 |
"〔かざしけるこころぞあだにおもほゆる<BR/>やそうぢびとになべてあふひを〕 |
09 | 1.3.29 | 139 | 117 |
女は、「つらし」と思ひきこえけり。 |
をんなは、"つらし"とおもひきこえけり。 |
09 | 1.3.30 | 140 | 118 |
「悔しくもかざしけるかな名のみして<BR/>人だのめなる草葉ばかりを」 |
"〔くやしくもかざしけるかななのみして<BR/>ひとだのめなるくさばばかりを〕 |
09 | 1.3.31 | 141 | 119 |
と聞こゆ。人と相ひ乗りて、簾をだに上げたまはぬを、心やましう思ふ人多かり。 |
ときこゆ。ひととあひのりて、すだれをだにあげたまはぬを、こころやましうおもふひとおほかり。 |
09 | 1.3.32 | 142 | 120 |
「一日の御ありさまのうるはしかりしに、今日うち乱れて歩きたまふかし。誰ならむ。乗り並ぶ人、けしうはあらじはや」と、推し量りきこゆ。「挑ましからぬ、かざし争ひかな」と、さうざうしく思せど、かやうにいと面なからぬ人はた、人相ひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御いらへも、心やすく聞こえむも、まばゆしかし。 |
"ひとひのおほんありさまのうるはしかりしに、けふうちみだれてありきたまふかし。たれならん。のりならぶひと、けしうはあらじはや。"と、おしはかりきこゆ。"いどましからぬ、かざしあらそひかな。"と、さうざうしくおぼせど、かやうにいとおもなからぬひとはた、ひとあひのりたまへるにつつまれて、はかなきおほんいらへも、こころやすくきこえんも、まばゆしかし。 |
09 | 2 | 143 | 121 | 第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語 |
09 | 2.1 | 144 | 122 | 第一段 車争い後の六条御息所 |
09 | 2.1.1 | 145 | 123 |
御息所は、ものを思し乱るること、年ごろよりも多く添ひにけり。つらき方に思ひ果てたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむは、「いと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならむこと」と思す。さりとて立ち止まるべく思しなるには、「かくこよなきさまに皆思ひくたすべかめるも、やすからず、釣する海人の浮けなれや」と、起き臥し思しわづらふけにや、御心地も浮きたるやうに思されて、悩ましうしたまふ。 |
みやすんどころは、ものをおぼしみだるること、としごろよりもおほくそひにけり。つらきかたにおもひはてたまへど、いまはとてふりはなれくだりたまひなんは、"いとこころぼそかりぬべく、よのひとぎきもひとわらへにならんこと。"とおぼす。さりとてたちとまるべくおぼしなるには、"かくこよなきさまにみなおもひくたすべかめるも、やすからず、つりするあまのうけなれや。"と、おきふしおぼしわづらふけにや、みここちもうきたるやうにおぼされて、なやましうしたまふ。 |
09 | 2.1.2 | 146 | 124 |
大将殿には、下りたまはむことを、「もて離れてあるまじきこと」なども、妨げきこえたまはず、 |
だいしゃうどのには、くだりたまはんことを、"もてはなれてあるまじきこと。"なども、さまたげきこえたまはず、 |
09 | 2.1.3 | 147 | 125 |
「数ならぬ身を、見ま憂く思し捨てむもことわりなれど、今はなほ、いふかひなきにても、御覧じ果てむや、浅からぬにはあらむ」 |
"かずならぬみを、みまうくおぼしすてんもことわりなれど、いまはなほ、いふかひなきにても、ごらんじはてんや、あさからぬにはあらん。" |
09 | 2.1.4 | 148 | 126 |
と、聞こえかかづらひたまへば、定めかねたまへる御心もや慰むと、立ち出でたまへりし御禊河の荒かりし瀬に、いとど、よろづいと憂く思し入れたり。 |
と、きこえかかづらひたまへば、さだめかねたまへるみこころもやなぐさむと、たちいでたまへりしみそぎがはのあらかりしせに、いとど、よろづいとうくおぼしいれたり。 |
09 | 2.1.5 | 149 | 127 |
大殿には、御もののけめきて、いたうわづらひたまへば、誰も誰も思し嘆くに、御歩きなど便なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。さはいへど、やむごとなき方は、ことに思ひきこえたまへる人の、めづらしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修法や何やなど、わが御方にて、多く行はせたまふ。 |
おほとのには、おほんもののけめきて、いたうわづらひたまへば、たれもたれもおぼしなげくに、おほんありきなどびんなきころなれば、にでうのゐんにもときどきぞわたりたまふ。さはいへど、やんごとなきかたは、ことにおもひきこえたまへるひとの、めづらしきことさへそひたまへるおほんなやみなれば、こころぐるしうおぼしなげきて、みすほふやなにやなど、わがおほんかたにて、おほくおこなはせたまふ。 |
09 | 2.1.6 | 150 | 128 |
もののけ、生すだまなどいふもの多く出で来て、さまざまの名のりするなかに、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験者どもにも従はず、執念きけしき、おぼろけのものにあらずと見えたり。 |
もののけ、いきすだまなどいふものおほくいできて、さまざまのなのりするなかに、ひとにさらにうつらず、ただみづからのおほんみにつとそひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、かたときはなるるをりもなきものひとつあり。いみじきげんざどもにもしたがはず、しふねきけしき、おぼろけのものにあらずとみえたり。 |
09 | 2.1.7 | 151 | 129 |
大将の君の御通ひ所、ここかしこと思し当つるに、 |
だいしゃうのきみのおほんかよひどころ、ここかしことおぼしあつるに、 |
09 | 2.1.8 | 152 | 130 |
「この御息所、二条の君などばかりこそは、おしなべてのさまには思したらざめれば、怨みの心も深からめ」 |
"このみやすんどころ、にでうのきみなどばかりこそは、おしなべてのさまにはおぼしたらざめれば、うらみのこころもふかからめ。" |
09 | 2.1.9 | 153 | 131 |
とささめきて、ものなど問はせたまへど、さして聞こえ当つることもなし。もののけとても、わざと深き御かたきと聞こゆるもなし。過ぎにける御乳母だつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出で来たるなど、むねむねしからずぞ乱れ現はるる。ただつくづくと、音をのみ泣きたまひて、折々は胸をせき上げつつ、いみじう堪へがたげに惑ふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかと、ゆゆしう悲しく思しあわてたり。 |
とささめきて、ものなどとはせたまへど、さしてきこえあつることもなし。もののけとても、わざとふかきおほんかたきときこゆるもなし。すぎにけるおほんめのとだつひと、もしはおやのおほんかたにつけつつつたはりたるものの、よわめにいできたるなど、むねむねしからずぞみだれあらはるる。ただつくづくと、ねをのみなきたまひて、をりをりはむねをせきあげつつ、いみじうたへがたげにまどふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかと、ゆゆしうかなしくおぼしあわてたり。 |
09 | 2.1.10 | 154 | 132 |
院よりも、御とぶらひ隙なく、御祈りのことまで思し寄らせたまふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。 |
ゐんよりも、おほんとぶらひひまなく、おほんいのりのことまでおぼしよらせたまふさまのかたじけなきにつけても、いとどをしげなるひとのおほんみなり。 |
09 | 2.1.11 | 155 | 133 |
世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも、御息所はただならず思さる。年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄らざりけり。 |
よのなかあまねくをしみきこゆるをききたまふにも、みやすんどころはただならずおぼさる。としごろはいとかくしもあらざりしおほんいどみごころを、はかなかりしところのくるまあらそひに、ひとのみこころのうごきにけるを、かのとのには、さまでもおぼしよらざりけり。 |
09 | 2.2 | 156 | 134 | 第二段 源氏、御息所を旅所に見舞う |
09 | 2.2.1 | 157 | 135 |
かかる御もの思ひの乱れに、御心地、なほ例ならずのみ思さるれば、ほかに渡りたまひて、御修法などせさせたまふ。大将殿聞きたまひて、いかなる御心地にかと、いとほしう、思し起して渡りたまへり。 |
かかるおほんものおもひのみだれに、みここち、なほれいならずのみおぼさるれば、ほかにわたりたまひて、みすほふなどせさせたまふ。だいしゃうどのききたまひて、いかなるみここちにかと、いとほしう、おぼしおこしてわたりたまへり。 |
09 | 2.2.2 | 158 | 136 |
例ならぬ旅所なれば、いたう忍びたまふ。心よりほかなるおこたりなど、罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて、悩みたまふ人の御ありさまも、憂へきこえたまふ。 |
れいならぬたびどころなれば、いたうしのびたまふ。こころよりほかなるおこたりなど、つみゆるされぬべくきこえつづけたまひて、なやみたまふひとのおほんありさまも、うれへきこえたまふ。 |
09 | 2.2.3 | 159 | 137 |
「みづからはさしも思ひ入れはべらねど、親たちのいとことことしう思ひまどはるるが心苦しさに、かかるほどを見過ぐさむとてなむ。よろづを思しのどめたる御心ならば、いとうれしうなむ」 |
"みづからはさしもおもひいれはべらねど、おやたちのいとことことしうおもひまどはるるがこころぐるしさに、かかるほどをみすぐさんとてなん。よろづをおぼしのどめたるみこころならば、いとうれしうなん。" |
09 | 2.2.4 | 160 | 138 |
など、語らひきこえたまふ。常よりも心苦しげなる御けしきを、ことわりに、あはれに見たてまつりたまふ。 |
など、かたらひきこえたまふ。つねよりもこころぐるしげなるみけしきを、ことわりに、あはれにみたてまつりたまふ。 |
09 | 2.2.5 | 161 | 139 |
うちとけぬ朝ぼらけに、出でたまふ御さまのをかしきにも、なほふり離れなむことは思し返さる。 |
うちとけぬあさぼらけに、いでたまふおほんさまのをかしきにも、なほふりはなれなんことはおぼしかへさる。 |
09 | 2.2.6 | 162 | 140 |
「やむごとなき方に、いとど心ざし添ひたまふべきことも出で来にたれば、一つ方に思ししづまりたまひなむを、かやうに待ちきこえつつあらむも、心のみ尽きぬべきこと」 |
"やんごとなきかたに、いとどこころざしそひたまふべきこともいできにたれば、ひとつかたにおぼししづまりたまひなんを、かやうにまちきこえつつあらんも、こころのみつきぬべきこと。" |
09 | 2.2.7 | 163 | 141 |
なかなかもの思ひのおどろかさるる心地したまふに、御文ばかりぞ、暮れつ方ある。 |
なかなかものおもひのおどろかさるるここちしたまふに、おほんふみばかりぞ、くれつかたある。 |
09 | 2.2.8 | 164 | 142 |
「日ごろ、すこしおこたるさまなりつる心地の、にはかにいといたう苦しげにはべるを、え引きよかでなむ」 |
"ひごろ、すこしおこたるさまなりつるここちの、にはかにいといたうくるしげにはべるを、えひきよかでなん。" |
09 | 2.2.9 | 165 | 143 |
とあるを、「例のことつけ」と、見たまふものから、 |
とあるを、"れいのことつけ"と、みたまふものから、 |
09 | 2.2.10 | 166 | 144 |
「袖濡るる恋路とかつは知りながら<BR/>おりたつ田子のみづからぞ憂き |
"〔そでぬるるこひぢとかつはしりながら<BR/>おりたつたごのみづからぞうき |
09 | 2.2.11 | 167 | 145 |
『山の井の水』もことわりに」 |
'やまのゐのみづ'もことわりに。" |
09 | 2.2.12 | 168 | 146 |
とぞある。「御手は、なほここらの人のなかにすぐれたりかし」と見たまひつつ、「いかにぞやもある世かな。心も容貌も、とりどりに捨つべくもなく、また思ひ定むべきもなきを」苦しう思さる。御返り、いと暗うなりにたれど、 |
とぞある。"おほんては、なほここらのひとのなかにすぐれたりかし。"とみたまひつつ、"いかにぞやもあるよかな。こころもかたちも、とりどりにすつべくもなく、またおもひさだむべきもなきを。"くるしうおぼさる。おほんかへり、いとくらうなりにたれど、 |
09 | 2.2.13 | 169 | 147 |
「袖のみ濡るるや、いかに。深からぬ御ことになむ。 |
"そでのみぬるるや、いかに。ふかからぬおほんことになん。 |
09 | 2.2.14 | 170 | 148 |
浅みにや人はおりたつわが方は<BR/>身もそぼつまで深き恋路を |
あさみにやひとはおりたつわがかたは<BR/>みもそぼつまでふかきこひぢを |
09 | 2.2.15 | 171 | 149 |
おぼろけにてや、この御返りを、みづから聞こえさせぬ」 |
おぼろけにてや、このおほんかへりを、みづからきこえさせぬ。" |
09 | 2.2.16 | 172 | 150 |
などあり。 |
などあり。 |
09 | 2.3 | 173 | 151 | 第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する |
09 | 2.3.1 | 174 | 152 |
大殿には、御もののけいたう起こりて、いみじうわづらひたまふ。「この御生きすだま、故父大臣の御霊など言ふものあり」と聞きたまふにつけて、思しつづくれば、 |
おほとのには、おほんもののけいたうおこりて、いみじうわづらひたまふ。"このおほんいきすだま、こちちおとどのごりゃうなどいふものあり。"とききたまふにつけて、おぼしつづくれば、 |
09 | 2.3.2 | 175 | 153 |
「身一つの憂き嘆きよりほかに、人を悪しかれなど思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむ」 |
"みひとつのうきなげきよりほかに、ひとをあしかれなどおもふこころもなけれど、ものおもひにあくがるなるたましひは、さもやあらん。" |
09 | 2.3.3 | 176 | 154 |
と思し知らるることもあり。 |
とおぼししらるることもあり。 |
09 | 2.3.4 | 177 | 155 |
年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなきことの折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の後、ひとふしに思し浮かれにし心、鎮まりがたう思さるるけにや、すこしうちまどろみたまふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いときよらにてある所に行きて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと、度かさなりにけり。 |
としごろ、よろづにおもひのこすことなくすぐしつれど、かうしもくだけぬを、はかなきことのをりに、ひとのおもひけち、なきものにもてなすさまなりしみそぎののち、ひとふしにおぼしうかれにしこころ、しづまりがたうおぼさるるけにや、すこしうちまどろみたまふゆめには、かのひめぎみとおぼしきひとの、いときよらにてあるところにいきて、とかくひきまさぐり、うつつにもにず、たけくいかきひたぶるこころいできて、うちかなぐるなどみえたまふこと、たびかさなりにけり。 |
09 | 2.3.5 | 178 | 157 |
「あな、心憂や。げに、身を捨ててや、往にけむ」と、うつし心ならずおぼえたまふ折々もあれば、「さならぬことだに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、ましてこれは、いとよう言ひなしつべきたよりなり」と思すに、いと名だたしう、 |
"あな、こころうや。げに、みをすててや、いにけん。"と、うつしごころならずおぼえたまふをりをりもあれば、"さならぬことだに、ひとのおほんためには、よさまのことをしもいひいでぬよなれば、ましてこれは、いとよういひなしつべきたよりなり。"とおぼすに、いとなだたしう、 |
09 | 2.3.6 | 179 | 158 |
「ひたすら世に亡くなりて、後に怨み残すは世の常のことなり。それだに、人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつのわが身ながら、さる疎ましきことを言ひつけらるる宿世の憂きこと。すべて、つれなき人にいかで心もかけきこえじ」 |
"ひたすらよになくなりて、のちにうらみのこすはよのつねのことなり。それだに、ひとのうへにては、つみふかうゆゆしきを、うつつのわがみながら、さるうとましきことをいひつけらるるすくせのうきこと。すべて、つれなきひとにいかでこころもかけきこえじ。" |
09 | 2.3.7 | 180 | 159 |
と思し返せど、思ふもものをなり。 |
とおぼしかへせど、おもふもものをなり。 |
09 | 2.4 | 181 | 160 | 第四段 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る |
09 | 2.4.1 | 182 | 161 |
斎宮は、去年内裏に入りたまふべかりしを、さまざま障はることありて、この秋入りたまふ。九月には、やがて野の宮に移ろひたまふべければ、ふたたびの御祓へのいそぎ、とりかさねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくと臥し悩みたまふを、宮人、いみじき大事にて、御祈りなど、さまざま仕うまつる。 |
さいぐうは、こぞうちにいりたまふべかりしを、さまざまさはることありて、このあきいりたまふ。ながつきには、やがてののみやにうつろひたまふべければ、ふたたびのおほんはらへのいそぎ、とりかさねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくとふしなやみたまふを、みやびと、いみじきだいじにて、おほんいのりなど、さまざまつかうまつる。 |
09 | 2.4.2 | 183 | 162 |
おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、月日を過ぐしたまふ。大将殿も、常にとぶらひきこえたまへど、まさる方のいたうわづらひたまへば、御心のいとまなげなり。 |
おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、つきひをすぐしたまふ。だいしゃうどのも、つねにとぶらひきこえたまへど、まさるかたのいたうわづらひたまへば、みこころのいとまなげなり。 |
09 | 2.4.3 | 184 | 163 |
まださるべきほどにもあらずと、皆人もたゆみたまへるに、にはかに御けしきありて、悩みたまへば、いとどしき御祈り、数を尽くしてせさせたまへれど、例の執念き御もののけ一つ、さらに動かず、やむごとなき験者ども、めづらかなりともてなやむ。さすがに、いみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、 |
まださるべきほどにもあらずと、みなひともたゆみたまへるに、にはかにみけしきありて、なやみたまへば、いとどしきおほんいのり、かずをつくしてせさせたまへれど、れいのしふねきおほんもののけひとつ、さらにうごかず、やんごとなきげんじゃども、めづらかなりともてなやむ。さすがに、いみじうてうぜられて、こころくるしげになきわびて、 |
09 | 2.4.4 | 185 | 164 |
「すこしゆるべたまへや。大将に聞こゆべきことあり」とのたまふ。 |
"すこしゆるべたまへや。だいしゃうにきこゆべきことあり。"とのたまふ。 |
09 | 2.4.5 | 186 | 165 |
「さればよ。あるやうあらむ」 |
"さればよ。あるやうあらん。" |
09 | 2.4.6 | 187 | 166 |
とて、近き御几帳のもとに入れたてまつりたり。むげに限りのさまにものしたまふを、聞こえ置かまほしきこともおはするにやとて、大臣も宮もすこし退きたまへり。加持の僧ども、声しづめて法華経を誦みたる、いみじう尊し。 |
とて、ちかきみきちゃうのもとにいれたてまつりたり。むげにかぎりのさまにものしたまふを、きこえおかまほしきこともおはするにやとて、おとどもみやもすこししりぞきたまへり。かぢのそうども、こゑしづめてほけきゃうをよみたる、いみじうたふとし。 |
09 | 2.4.7 | 188 | 167 |
御几帳の帷子引き上げて見たてまつりたまへば、いとをかしげにて、御腹はいみじう高うて臥したまへるさま、よそ人だに、見たてまつらむに心乱れぬべし。まして惜しう悲しう思す、ことわりなり。白き御衣に、色あひいとはなやかにて、御髪のいと長うこちたきを、引き結ひてうち添へたるも、「かうてこそ、らうたげになまめきたる方添ひてをかしかりけれ」と見ゆ。御手をとらへて、 |
みきちゃうのかたびらひきあげてみたてまつりたまへば、いとをかしげにて、おほんはらはいみじうたかうてふしたまへるさま、よそびとだに、みたてまつらんにこころみだれぬべし。ましてをしうかなしうおぼす、ことわりなり。しろきおほんぞに、いろあひいとはなやかにて、みぐしのいとながうこちたきを、ひきゆひてうちそへたるも、"かうてこそ、らうたげになまめきたるかたそひてをかしかりけれ。"とみゆ。みてをとらへて、 |
09 | 2.4.8 | 189 | 168 |
「あな、いみじ。心憂きめを見せたまふかな」 |
"あな、いみじ。こころうきめをみせたまふかな。" |
09 | 2.4.9 | 190 | 169 |
とて、ものも聞こえたまはず泣きたまへば、例はいとわづらはしう恥づかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもりきこえたまふに、涙のこぼるるさまを見たまふは、いかがあはれの浅からむ。 |
とて、ものもきこえたまはずなきたまへば、れいはいとわづらはしうはづかしげなるおほんまみを、いとたゆげにみあげて、うちまもりきこえたまふに、なみだのこぼるるさまをみたまふは、いかがあはれのあさからん。 |
09 | 2.4.10 | 191 | 170 |
あまりいたう泣きたまへば、「心苦しき親たちの御ことを思し、また、かく見たまふにつけて、口惜しうおぼえたまふにや」と思して、 |
あまりいたうなきたまへば、"こころぐるしきおやたちのおほんことをおぼし、また、かくみたまふにつけて、くちをしうおぼえたまふにや。"とおぼして、 |
09 | 2.4.11 | 192 | 171 |
「何ごとも、いとかうな思し入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」 |
"なにごとも、いとかうなおぼしいれそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならずあふせあなれば、たいめんはありなん。おとど、みやなども、ふかきちぎりあるなかは、めぐりてもたえざなれば、あひみるほどありなんとおぼせ。" |
09 | 2.4.12 | 193 | 172 |
と、慰めたまふに、 |
と、なぐさめたまふに、 |
09 | 2.4.13 | 194 | 173 |
「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」 |
"いで、あらずや。みのうへのいとくるしきを、しばしやすめたまへときこえんとてなん。かくまゐりこんともさらにおもはぬを、ものおもふひとのたましひは、げにあくがるるものになんありける。" |
09 | 2.4.14 | 195 | 174 |
と、なつかしげに言ひて、 |
と、なつかしげにいひて、 |
09 | 2.4.15 | 196 | 175 |
「嘆きわび空に乱るるわが魂を<BR/>結びとどめよしたがへのつま」 |
"〔なげきわびそらにみだるるわがたまを<BR/>むすびとどめよしたがへのつま〕 |
09 | 2.4.16 | 197 | 176 |
とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。「いとあやし」と思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり。あさましう、人のとかく言ふを、よからぬ者どもの言ひ出づることも、聞きにくく思して、のたまひ消つを、目に見す見す、「世には、かかることこそはありけれ」と、疎ましうなりぬ。「あな、心憂」と思されて、 |
とのたまふこゑ、けはひ、そのひとにもあらず、かはりたまへり。"いとあやし。"とおぼしめぐらすに、ただ、かのみやすんどころなりけり。あさましう、ひとのとかくいふを、よからぬものどものいひいづることも、ききにくくおぼして、のたまひけつを、めにみすみす、"よには、かかることこそはありけれ。"と、うとましうなりぬ。"あな、こころう。"とおぼされて、 |
09 | 2.4.17 | 198 | 177 |
「かくのたまへど、誰とこそ知らね。たしかにのたまへ」 |
"かくのたまへど、たれとこそしらね。たしかにのたまへ。" |
09 | 2.4.18 | 199 | 178 |
とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。人々近う参るも、かたはらいたう思さる。 |
とのたまへば、ただそれなるおほんありさまに、あさましとはよのつねなり。ひとびとちかうまゐるも、かたはらいたうおぼさる。 |
09 | 2.5 | 200 | 179 | 第五段 葵の上、男子を出産 |
09 | 2.5.1 | 201 | 180 |
すこし御声もしづまりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。うれしと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへる御もののけども、ねたがりまどふけはひ、いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。 |
すこしおほんこゑもしづまりたまへれば、ひまおはするにやとて、みやのおほんゆもてよせたまへるに、かきおこされたまひて、ほどなくむまれたまひぬ。うれしとおぼすことかぎりなきに、ひとにかりうつしたまへるおほんもののけども、ねたがりまどふけはひ、いとものさはがしうて、のちのこと、またいとこころもとなし。 |
09 | 2.5.2 | 202 | 181 |
言ふ限りなき願ども立てさせたまふけにや、たひらかに事なり果てぬれば、山の座主、何くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おしのごひつつ、急ぎまかでぬ。 |
いふかぎりなきがんどもたてさせたまふけにや、たひらかにことなりはてぬれば、やまのざす、なにくれやんごとなきそうども、したりがほにあせおしのごひつつ、いそぎまかでぬ。 |
09 | 2.5.3 | 203 | 182 |
多くの人の心を尽くしつる日ごろの名残、すこしうちやすみて、「今はさりとも」と思す。御修法などは、またまた始め添へさせたまへど、まづは、興あり、めづらしき御かしづきに、皆人ゆるべり。 |
おほくのひとのこころをつくしつるひごろのなごり、すこしうちやすみて、"いまはさりとも。"とおぼす。みすほふなどは、またまたはじめそへさせたまへど、まづは、きょうあり、めづらしきおほんかしづきに、みなひとゆるべり。 |
09 | 2.5.4 | 204 | 183 |
院をはじめたてまつりて、親王たち、上達部、残るなき産養どもの、めづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。男にてさへおはすれば、そのほどの作法、にぎははしくめでたし。 |
ゐんをはじめたてまつりて、みこたち、かんだちめ、のこるなきうぶやしなひどもの、めづらかにいかめしきを、よごとにみののしる。をとこにてさへおはすれば、そのほどのさほふ、にぎははしくめでたし。 |
09 | 2.5.5 | 205 | 184 |
かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。「かねては、いと危ふく聞こえしを、たひらかにもはた」と、うち思しけり。 |
かのみやすんどころは、かかるおほんありさまをききたまひても、ただならず。"かねては、いとあやふくきこえしを、たひらかにもはた。"と、うちおぼしけり。 |
09 | 2.5.6 | 206 | 185 |
あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣なども、ただ芥子の香に染み返りたるあやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたまひて、試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだに疎ましう思さるるに、まして、人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変はりもまさりゆく。 |
あやしう、われにもあらぬみここちをおぼしつづくるに、おほんぞなども、ただけしのかにしみかへりたるあやしさに、おほんゆするまゐり、おほんぞきかへなどしたまひて、こころみたまへど、なほおなじやうにのみあれば、わがみながらだにうとましうおぼさるるに、まして、ひとのいひおもはんことなど、ひとにのたまふべきことならねば、こころひとつにおぼしなげくに、いとどみこころがはりもまさりゆく。 |
09 | 2.5.7 | 207 | 186 |
大将殿は、心地すこしのどめたまひて、あさましかりしほどの問はず語りも、心憂く思し出でられつつ、「いとほど経にけるも心苦しう、また気近う見たてまつらむには、いかにぞや。うたておぼゆべきを、人の御ためいとほしう」、よろづに思して、御文ばかりぞありける。 |
だいしゃうどのは、ここちすこしのどめたまひて、あさましかりしほどのとはずがたりも、こころうくおぼしいでられつつ、"いとほどへにけるもこころぐるしう、またけぢかうみたてまつらんには、いかにぞや。うたておぼゆべきを、ひとのおほんためいとほしう。"、よろづにおぼして、おほんふみばかりぞありける。 |
09 | 2.5.8 | 208 | 187 |
いたうわづらひたまひし人の御名残ゆゆしう、心ゆるびなげに、誰も思したれば、ことわりにて、御歩きもなし。なほいと悩ましげにのみしたまへば、例のさまにてもまだ対面したまはず。若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを、今から、いとさまことにもてかしづききこえたまふさま、おろかならず、ことあひたる心地して、大臣もうれしういみじと思ひきこえたまへるに、ただ、この御心地おこたり果てたまはぬを、心もとなく思せど、「さばかりいみじかりし名残にこそは」と思して、いかでかは、さのみは心をも惑はしたまはむ。 |
いたうわづらひたまひしひとのおほんなごりゆゆしう、こころゆるびなげに、たれもおぼしたれば、ことわりにて、おほんありきもなし。なほいとなやましげにのみしたまへば、れいのさまにてもまだたいめんしたまはず。わかぎみのいとゆゆしきまでみえたまふおほんありさまを、いまから、いとさまことにもてかしづききこえたまふさま、おろかならず、ことあひたるここちして、おとどもうれしういみじとおもひきこえたまへるに、ただ、このみここちおこたりはてたまはぬを、こころもとなくおぼせど、"さばかりいみじかりしなごりにこそは。"とおぼして、いかでかは、さのみはこころをもまどはしたまはん。 |
09 | 2.5.9 | 209 | 188 |
若君の御まみのうつくしさなどの、春宮にいみじう似たてまつりたまへるを、見たてまつりたまひても、まづ、恋しう思ひ出でられさせたまふに、忍びがたくて、参りたまはむとて、 |
わかぎみのおほんまみのうつくしさなどの、とうぐうにいみじうにたてまつりたまへるを、みたてまつりたまひても、まづ、こひしうおもひいでられさせたまふに、しのびがたくて、まゐりたまはんとて、 |
09 | 2.5.10 | 210 | 189 |
「内裏などにもあまり久しう参りはべらねば、いぶせさに、今日なむ初立ちしはべるを、すこし気近きほどにて聞こえさせばや。あまりおぼつかなき御心の隔てかな」 |
"うちなどにもあまりひさしうまゐりはべらねば、いぶせさに、けふなんうひだちしはべるを、すこしけぢかきほどにてきこえさせばや。あまりおぼつかなきみこころのへだてかな。" |
09 | 2.5.11 | 211 | 190 |
と、恨みきこえたまへれば、 |
と、うらみきこえたまへれば、 |
09 | 2.5.12 | 212 | 191 |
「げに、ただひとへに艶にのみあるべき御仲にもあらぬを、いたう衰へたまへりと言ひながら、物越にてなどあべきかは」 |
"げに、ただひとへにえんにのみあるべきおほんなかにもあらぬを、いたうおとろへたまへりといひながら、ものごしにてなどあべきかは。" |
09 | 2.5.13 | 213 | 192 |
とて、臥したまへる所に、御座近う参りたれば、入りてものなど聞こえたまふ。 |
とて、ふしたまへるところに、おましちかうまゐりたれば、いりてものなどきこえたまふ。 |
09 | 2.5.14 | 214 | 193 |
御いらへ、時々聞こえたまふも、なほいと弱げなり。されど、むげに亡き人と思ひきこえし御ありさまを思し出づれば、夢の心地して、ゆゆしかりしほどのことどもなど聞こえたまふついでにも、かのむげに息も絶えたるやうにおはせしが、引き返し、つぶつぶとのたまひしことども思し出づるに、心憂ければ、 |
おほんいらへ、ときどききこえたまふも、なほいとよわげなり。されど、むげになきひととおもひきこえしおほんありさまをおぼしいづれば、ゆめのここちして、ゆゆしかりしほどのことどもなどきこえたまふついでにも、かのむげにいきもたえたるやうにおはせしが、ひきかへし、つぶつぶとのたまひしことどもおぼしいづるに、こころうければ、 |
09 | 2.5.15 | 215 | 194 |
「いさや、聞こえまほしきこといと多かれど、まだいとたゆげに思しためればこそ」 |
"いさや、きこえまほしきこといとおほかれど、まだいとたゆげにおぼしためればこそ。" |
09 | 2.5.16 | 216 | 195 |
とて、「御湯参れ」などさへ、扱ひきこえたまふを、いつならひたまひけむと、人びとあはれがりきこゆ。 |
とて、"おほんゆまゐれ。"などさへ、あつかひきこえたまふを、いつならひたまひけんと、ひとびとあはれがりきこゆ。 |
09 | 2.5.17 | 217 | 196 |
いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるかなきかのけしきにて臥したまへるさま、いとらうたげに心苦しげなり。御髪の乱れたる筋もなく、はらはらとかかれる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、「年ごろ、何ごとを飽かぬことありて思ひつらむ」と、あやしきまでうちまもられたまふ。 |
いとをかしげなるひとの、いたうよわりそこなはれて、あるかなきかのけしきにてふしたまへるさま、いとらうたげにこころぐるしげなり。みぐしのみだれたるすぢもなく、はらはらとかかれるまくらのほど、ありがたきまでみゆれば、"としごろ、なにごとをあかぬことありておもひつらん。"と、あやしきまでうちまもられたまふ。 |
09 | 2.5.18 | 218 | 197 |
「院などに参りて、いととうまかでなむ。かやうにて、おぼつかなからず見たてまつらば、うれしかるべきを、宮のつとおはするに、心地なくやと、つつみて過ぐしつるも苦しきを、なほやうやう心強く思しなして、例の御座所にこそ。あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ」 |
"ゐんなどにまゐりて、いととうまかでなん。かやうにて、おぼつかなからずみたてまつらば、うれしかるべきを、みやのつとおはするに、ここちなくやと、つつみてすぐしつるもくるしきを、なほやうやうこころづよくおぼしなして、れいのおましどころにこそ。あまりわかくもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ。" |
09 | 2.5.19 | 219 | 198 |
など、聞こえおきたまひて、いときよげにうち装束きて出でたまふを、常よりは目とどめて、見出だして臥したまへり。 |
など、きこえおきたまひて、いときよげにうちさうぞきていでたまふを、つねよりはめとどめて、みいだしてふしたまへり。 |
09 | 2.6 | 220 | 199 | 第六段 秋の司召の夜、葵の上死去する |
09 | 2.6.1 | 221 | 200 |
秋の司召あるべき定めにて、大殿も参りたまへば、君達も労はり望みたまふことどもありて、殿の御あたり離れたまはねば、皆ひき続き出でたまひぬ。 |
あきのつかさめしあるべきさだめにて、おほとのもまゐりたまへば、きみたちもいたはりのぞみたまふことどもありて、とののおほんあたりはなれたまはねば、みなひきつづきいでたまひぬ。 |
09 | 2.6.2 | 222 | 201 |
殿の内、人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげて、いといたう惑ひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく、絶え入りたまひぬ。足を空にて、誰も誰も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御障りなれば、みな事破れたるやうなり。 |
とののうち、ひとずくなにしめやかなるほどに、にはかにれいのおほんむねをせきあげて、いといたうまどひたまふ。うちにおほんせうそこきこえたまふほどもなく、たえいりたまひぬ。あしをそらにて、たれもたれも、まかでたまひぬれば、ぢもくのよなりけれど、かくわりなきおほんさはりなれば、みなことやぶれたるやうなり。 |
09 | 2.6.3 | 223 | 202 |
ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちも、え請じあへたまはず。今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに、あさましければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々の御とぶらひの使など、立ちこみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、いと恐ろしきまで見えたまふ。 |
ののしりさわぐほど、よなかばかりなれば、やまのざす、なにくれのそうづたちも、えさうじあへたまはず。いまはさりとも、とおもひたゆみたりつるに、あさましければ、とののうちのひと、ものにぞあたる。ところどころのおほんとぶらひのつかひなど、たちこみたれど、えきこえつかず、ゆすりみちて、いみじきみこころまどひども、いとおそろしきまでみえたまふ。 |
09 | 2.6.4 | 224 | 203 |
御もののけのたびたび取り入れたてまつりしを思して、御枕などもさながら、二、三日見たてまつりたまへど、やうやう変はりたまふことどものあれば、限り、と思し果つるほど、誰も誰もいといみじ。 |
おほんもののけのたびたびとりいれたてまつりしをおぼして、おほんまくらなどもさながら、ふつか、みかみたてまつりたまへど、やうやうかはりたまふことどものあれば、かぎり、とおぼしはつるほど、たれもたれもいといみじ。 |
09 | 2.6.5 | 225 | 204 |
大将殿は、悲しきことに、ことを添へて、世の中をいと憂きものに思し染みぬれば、ただならぬ御あたりの弔ひどもも、心憂しとのみぞ、なべて思さるる。院に、思し嘆き、弔ひきこえさせたまふさま、かへりて面立たしげなるを、うれしき瀬もまじりて、大臣は御涙のいとまなし。 |
だいしゃうどのは、かなしきことに、ことをそへて、よのなかをいとうきものにおぼししみぬれば、ただならぬおほんあたりのとぶらひどもも、こころうしとのみぞ、なべておぼさるる。ゐんに、おぼしなげき、とぶらひきこえさせたまふさま、かへりておもだたしげなるを、うれしきせもまじりて、おとどはおほんなみだのいとまなし。 |
09 | 2.6.6 | 226 | 205 |
人の申すに従ひて、いかめしきことどもを、生きや返りたまふと、さまざまに残ることなく、かつ損なはれたまふことどものあるを見る見るも、尽きせず思し惑へど、かひなくて日ごろになれば、いかがはせむとて、鳥辺野に率てたてまつるほど、いみじげなること、多かり。 |
ひとのまうすにしたがひて、いかめしきことどもを、いきやかへりたまふと、さまざまにのこることなく、かつそこなはれたまふことどものあるをみるみるも、つきせずおぼしまどへど、かひなくてひごろになれば、いかがはせんとて、とりべのにゐてたてまつるほど、いみじげなること、おほかり。 |
09 | 2.7 | 227 | 206 | 第七段 葵の上の葬送とその後 |
09 | 2.7.1 | 228 | 207 |
こなたかなたの御送りの人ども、寺々の念仏僧など、そこら広き野に所もなし。院をばさらにも申さず、后の宮、春宮などの御使、さらぬ所々のも参りちがひて、飽かずいみじき御とぶらひを聞こえたまふ。大臣はえ立ち上がりたまはず、 |
こなたかなたのおほんおくりのひとども、てらでらのねんぶつそうなど、そこらひろきのにところもなし。ゐんをばさらにもまうさず、きさいのみや、とうぐうなどのおほんつかひ、さらぬところどころのもまゐりちがひて、あかずいみじきおほんとぶらひをきこえたまふ。おとどはえたちあがりたまはず、 |
09 | 2.7.2 | 229 | 208 |
「かかる齢の末に、若く盛りの子に後れたてまつりて、もごよふこと」 |
"かかるよはひのすゑに、わかくさかりのこにおくれたてまつりて、もごよふこと。" |
09 | 2.7.3 | 230 | 209 |
と恥ぢ泣きたまふを、ここらの人悲しう見たてまつる。 |
とはぢなきたまふを、ここらのひとかなしうみたてまつる。 |
09 | 2.7.4 | 231 | 210 |
夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いともはかなき御屍ばかりを御名残にて、暁深く帰りたまふ。 |
よもすがらいみじうののしりつるぎしきなれど、いともはかなきおほんかばねばかりをおほんなごりにて、あかつきふかくかへりたまふ。 |
09 | 2.7.5 | 232 | 211 |
常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわりにいみじければ、空のみ眺められたまひて、 |
つねのことなれど、ひとひとりか、あまたしもみたまはぬことなればにや、たぐひなくおぼしこがれたり。はちがちにじふよにちのありあけなれば、そらもけしきもあはれすくなからぬに、おとどのやみにくれまどひたまへるさまをみたまふも、ことわりにいみじければ、そらのみながめられたまひて、 |
09 | 2.7.6 | 233 | 212 |
「のぼりぬる煙はそれとわかねども<BR/>なべて雲居のあはれなるかな」 |
"〔のぼりぬるけぶりはそれとわかねども<BR/>なべてくもゐのあはれなるかな〕 |
09 | 2.7.7 | 234 | 214 |
殿におはし着きて、つゆまどろまれたまはず。年ごろの御ありさまを思し出でつつ、 |
とのにおはしつきて、つゆまどろまれたまはず。としごろのおほんありさまをおぼしいでつつ、 |
09 | 2.7.8 | 235 | 215 |
「などて、つひにはおのづから見直したまひてむと、のどかに思ひて、なほざりのすさびにつけても、つらしとおぼえられたてまつりけむ。世を経て、疎く恥づかしきものに思ひて過ぎ果てたまひぬる」 |
"などて、つひにはおのづからみなほしたまひてんと、のどかにおもひて、なほざりのすさびにつけても、つらしとおぼえられたてまつりけん。よをへて、うとくはづかしきものにおもひてすぎはてたまひぬる。" |
09 | 2.7.9 | 236 | 216 |
など、悔しきこと多く、思しつづけらるれど、かひなし。にばめる御衣たてまつれるも、夢の心地して、「われ先立たましかば、深くぞ染めたまはまし」と、思すさへ、 |
など、くやしきことおほく、おぼしつづけらるれど、かひなし。にばめるおほんぞたてまつれるも、ゆめのここちして、"われさきだたましかば、ふかくぞそめたまはまし。"と、おぼすさへ、 |
09 | 2.7.10 | 237 | 217 |
「限りあれば薄墨衣浅けれど<BR/>涙ぞ袖を淵となしける」 |
"〔かぎりあればうすずみごろもあさけれど<BR/>なみだぞそでをふちとなしける〕 |
09 | 2.7.11 | 238 | 218 |
とて、念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍びやかに誦みたまひつつ、 |
とて、ねんずしたまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、きゃうしのびやかによみたまひつつ、 |
09 | 2.7.12 | 239 | 219 |
「法界三昧普賢大士」とうちのたまへる、行ひ馴れたる法師よりはけなり。若君を見たてまつりたまふにも、「何に忍ぶの」と、いとど露けけれど、「かかる形見さへなからましかば」と、思し慰む。 |
"ほふかいざんまいふげんだいし"とうちのたまへる、おこなひなれたるほふしよりはけなり。わかぎみをみたてまつりたまふにも、"なににしのぶの"と、いとどつゆけけれど、"かかるかたみさへなからましかば。"と、おぼしなぐさむ。 |
09 | 2.7.13 | 240 | 220 |
宮はしづみ入りて、そのままに起き上がりたまはず、危ふげに見えたまふを、また思し騒ぎて、御祈りなどせさせたまふ。 |
みやはしづみいりて、そのままにおきあがりたまはず、あやふげにみえたまふを、またおぼしさわぎて、おほんいのりなどせさせたまふ。 |
09 | 2.7.14 | 241 | 221 |
はかなう過ぎゆけば、御わざのいそぎなどせさせたまふも、思しかけざりしことなれば、尽きせずいみじうなむ。なのめにかたほなるをだに、人の親はいかが思ふめる、ましてことわりなり。また、類ひおはせぬをだに、さうざうしく思しつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりも、あさましげなり。 |
はかなうすぎゆけば、おほんわざのいそぎなどせさせたまふも、おぼしかけざりしことなれば、つきせずいみじうなん。なのめにかたほなるをだに、ひとのおやはいかがおもふめる、ましてことわりなり。また、たぐひおはせぬをだに、さうざうしくおぼしつるに、そでのうへのたまのくだけたりけんよりも、あさましげなり。 |
09 | 2.7.15 | 242 | 222 |
大将の君は、二条院にだに、あからさまにも渡りたまはず、あはれに心深う思ひ嘆きて、行ひをまめにしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。所々には、御文ばかりぞたてまつりたまふ。 |
だいしゃうのきみは、にでうのゐんにだに、あからさまにもわたりたまはず、あはれにこころふかうおもひなげきて、おこなひをまめにしたまひつつ、あかしくらしたまふ。ところどころには、おほんふみばかりぞたてまつりたまふ。 |
09 | 2.7.16 | 243 | 223 |
かの御息所は、斎宮は左衛門の司に入りたまひにければ、いとどいつくしき御きよまはりにことつけて、聞こえも通ひたまはず。憂しと思ひ染みにし世も、なべて厭はしうなりたまひて、「かかるほだしだに添はざらましかば、願はしきさまにもなりなまし」と思すには、まづ対の姫君の、さうざうしくてものしたまふらむありさまぞ、ふと思しやらるる。 |
かのみやすんどころは、さいぐうはさゑもんのつかさにいりたまひにければ、いとどいつくしきおほんきよまはりにことつけて、きこえもかよひたまはず。うしとおもひしみにしよも、なべていとはしうなりたまひて、"かかるほだしだにそはざらましかば、ねがはしきさまにもなりなまし。"とおぼすには、まづたいのひめぎみの、さうざうしくてものしたまふらんありさまぞ、ふとおぼしやらるる。 |
09 | 2.7.17 | 244 | 224 |
夜は、御帳の内に一人臥したまふに、宿直の人びとは近うめぐりてさぶらへど、かたはら寂しくて、「時しもあれ」と寝覚めがちなるに、声すぐれたる限り選りさぶらはせたまふ念仏の、暁方など、忍びがたし。 |
よるは、みちゃうのうちにひとりふしたまふに、とのゐのひとびとはちかうめぐりてさぶらへど、かたはらさびしくて、"ときしもあれ"とねざめがちなるに、こゑすぐれたるかぎりえりさぶらはせたまふねんぶつの、あかつきがたなど、しのびがたし。 |
09 | 2.7.18 | 245 | 225 |
「深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」と、ならはぬ御独寝に明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置きて往にけり。「今めかしうも」とて、見たまへば、御息所の御手なり。 |
"ふかきあきのあはれまさりゆくかぜのおと、みにしみけるかな。"と、ならはぬおほんひとりねにあかしかねたまへるあさぼらけのきりわたれるに、きくのけしきばめるえだに、こきあをにびのかみなるふみつけて、さしおきていにけり。"いまめかしうも"とて、みたまへば、みやすんどころのおほんてなり。 |
09 | 2.7.19 | 246 | 226 |
「聞こえぬほどは、思し知るらむや。 |
"きこえぬほどは、おぼししるらんや。 |
09 | 2.7.20 | 247 | 227 |
人の世をあはれと聞くも露けきに<BR/>後るる袖を思ひこそやれ |
ひとのよをあはれときくもつゆけきに<BR/>おくるるそでをおもひこそやれ |
09 | 2.7.21 | 248 | 228 |
ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」 |
ただいまのそらにおもひたまへあまりてなん。" |
09 | 2.7.22 | 249 | 229 |
とあり。「常よりも優にも書いたまへるかな」と、さすがに置きがたう見たまふものから、「つれなの御弔ひや」と心憂し。さりとて、かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る。 |
とあり。"つねよりもいうにもかいたまへるかな。"と、さすがにおきがたうみたまふものから、"つれなのおほんとぶらひや。"とこころうし。さりとて、かきたえおとなうきこえざらんもいとほしく、ひとのおほんなのくちぬべきことをおぼしみだる。 |
09 | 2.7.23 | 250 | 230 |
「過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、何にさることを、さださだとけざやかに見聞きけむ」と悔しきは、わが御心ながら、なほえ思し直すまじきなめりかし。 |
"すぎにしひとは、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、なににさることを、さださだとけざやかにみききけん。"とくやしきは、わがみこころながら、なほえおぼしなほすまじきなめりかし。 |
09 | 2.7.24 | 251 | 231 |
「斎宮の御きよまはりもわづらはしくや」など、久しう思ひわづらひたまへど、「わざとある御返りなくは、情けなくや」とて、紫のにばめる紙に、 |
"さいぐうのおほんきよまはりもわづらはしくや。"など、ひさしうおもひわづらひたまへど、"わざとあるおほんかへりなくは、なさけなくや。"とて、むらさきのにばめるかみに、 |
09 | 2.7.25 | 252 | 232 |
「こよなうほど経はべりにけるを、思ひたまへおこたらずながら、つつましきほどは、さらば、思し知るらむやとてなむ。 |
"こよなうほどへはべりにけるを、おもひたまへおこたらずながら、つつましきほどは、さらば、おぼししるらんやとてなん。 |
09 | 2.7.26 | 253 | 233 |
とまる身も消えしもおなじ露の世に<BR/>心置くらむほどぞはかなき |
とまるみもきえしもおなじつゆのよに<BR/>こころおくらんほどぞはかなき |
09 | 2.7.27 | 254 | 234 |
かつは思し消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、誰れにも」 |
かつはおぼしけちてよかし。ごらんぜずもやとて、たれにも。" |
09 | 2.7.28 | 255 | 235 |
と聞こえたまへり。 |
ときこえたまへり。 |
09 | 2.7.29 | 256 | 236 |
里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめかしたまへるけしきを、心の鬼にしるく見たまひて、「さればよ」と思すも、いといみじ。 |
さとにおはするほどなりければ、しのびてみたまひて、ほのめかしたまへるけしきを、こころのおににしるくみたまひて、"さればよ。"とおぼすも、いといみじ。 |
09 | 2.7.30 | 257 | 237 |
「なほ、いと限りなき身の憂さなりけり。かやうなる聞こえありて、院にもいかに思さむ。故前坊の、同じき御はらからと言ふなかにも、いみじう思ひ交はしきこえさせたまひて、この斎宮の御ことをも、ねむごろに聞こえつけさせたまひしかば、『その御代はりにも、やがて見たてまつり扱はむ』など、常にのたまはせて、『やがて内裏住みしたまへ』と、たびたび聞こえさせたまひしをだに、いとあるまじきこと、と思ひ離れにしを、かく心よりほかに若々しきもの思ひをして、つひに憂き名をさへ流し果てつべきこと」 |
"なほ、いとかぎりなきみのうさなりけり。かやうなるきこえありて、ゐんにもいかにおぼさん。こぜんばうの、おなじきおほんはらからといふなかにも、いみじうおもひかはしきこえさせたまひて、このさいぐうのおほんことをも、ねんごろにきこえつけさせたまひしかば、'そのおほんかはりにも、やがてみたてまつりあつかはん。'など、つねにのたまはせて、'やがてうちずみしたまへ。'と、たびたびきこえさせたまひしをだに、いとあるまじきこと、とおもひはなれにしを、かくこころよりほかにわかわかしきものおもひをして、つひにうきなをさへながしはてつべきこと。" |
09 | 2.7.31 | 258 | 238 |
と、思し乱るるに、なほ例のさまにもおはせず。 |
と、おぼしみだるるに、なほれいのさまにもおはせず。 |
09 | 2.7.32 | 259 | 239 |
さるは、おほかたの世につけて、心にくくよしある聞こえありて、昔より名高くものしたまへば、野の宮の御移ろひのほどにも、をかしう今めきたること多くしなして、「殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分けありくを、そのころの役になむする」など聞きたまひても、大将の君は、「ことわりぞかし。ゆゑは飽くまでつきたまへるものを。もし、世の中に飽き果てて下りたまひなば、さうざうしくもあるべきかな」と、さすがに思されけり。 |
さるは、おほかたのよにつけて、こころにくくよしあるきこえありて、むかしよりなだかくものしたまへば、ののみやのおほんうつろひのほどにも、をかしういまめきたることおほくしなして、"てんじゃうびとどものこのましきなどは、あさゆふのつゆわけありくを、そのころのやくになんする。"などききたまひても、だいしゃうのきみは、"ことわりぞかし。ゆゑはあくまでつきたまへるものを。もし、よのなかにあきはててくだりたまひなば、さうざうしくもあるべきかな。"と、さすがにおぼされけり。 |
09 | 2.8 | 260 | 240 | 第八段 三位中将と故人を追慕する |
09 | 2.8.1 | 261 | 241 |
御法事など過ぎぬれど、正日までは、なほ籠もりおはす。ならはぬ御つれづれを、心苦しがりたまひて、三位中将は常に参りたまひつつ、世の中の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りがはしきことをも聞こえ出でつつ、慰めきこえたまふに、かの内侍ぞ、うち笑ひたまふくさはひにはなるめる。大将の君は、 |
おほんほふじなどすぎぬれど、しゃうにちまでは、なほこもりおはす。ならはぬおほんつれづれを、こころぐるしがりたまひて、さんゐのちゅうじゃうはつねにまゐりたまひつつ、よのなかのおほんものがたりなど、まめやかなるも、またれいのみだりがはしきことをもきこえいでつつ、なぐさめきこえたまふに、かのないしぞ、うちわらひたまふくさはひにはなるめる。だいしゃうのきみは、 |
09 | 2.8.2 | 262 | 242 |
「あな、いとほしや。祖母殿の上、ないたう軽めたまひそ」 |
"あな、いとほしや。おばおとどのうへ、ないたうかろめたまひそ。" |
09 | 2.8.3 | 263 | 243 |
といさめたまふものから、常にをかしと思したり。 |
といさめたまふものから、つねにをかしとおぼしたり。 |
09 | 2.8.4 | 264 | 244 |
かの十六夜の、さやかならざりし秋のことなど、さらぬも、さまざまの好色事どもを、かたみに隈なく言ひあらはしたまふ、果て果ては、あはれなる世を言ひ言ひて、うち泣きなどもしたまひけり。 |
かのいざよひの、さやかならざりしあきのことなど、さらぬも、さまざまのすきごとどもを、かたみにくまなくいひあらはしたまふ、はてはては、あはれなるよをいひいひて、うちなきなどもしたまひけり。 |
09 | 2.8.5 | 265 | 245 |
時雨うちして、ものあはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直衣、指貫、うすらかに衣更へして、いと雄々しうあざやかに、心恥づかしきさまして参りたまへり。 |
しぐれうちして、ものあはれなるゆふつかた、ちゅうじゃうのきみ、にびいろのなほし、さしぬき、うすらかにころもがへして、いとををしうあざやかに、こころはづかしきさましてまゐりたまへり。 |
09 | 2.8.6 | 266 | 246 |
君は、西のつまの高欄におしかかりて、霜枯れの前栽見たまふほどなりけり。風荒らかに吹き、時雨さとしたるほど、涙もあらそふ心地して、 |
きみは、にしのつまのかうらんにおしかかりて、しもがれのせんさいみたまふほどなりけり。かぜあららかにふき、しぐれさとしたるほど、なみだもあらそふここちして、 |
09 | 2.8.7 | 267 | 247 |
「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」 |
"あめとなりくもとやなりにけん、いまはしらず。" |
09 | 2.8.8 | 268 | 248 |
と、うちひとりごちて、頬杖つきたまへる御さま、「女にては、見捨てて亡くならむ魂かならずとまりなむかし」と、色めかしき心地に、うちまもられつつ、近うついゐたまへれば、しどけなくうち乱れたまへるさまながら、紐ばかりをさし直したまふ。 |
と、うちひとりごちて、つらづゑつきたまへるおほんさま、"をんなにては、みすててなくならんたましひかならずとまりなんかし。"と、いろめかしきここちに、うちまもられつつ、ちかうついゐたまへれば、しどけなくうちみだれたまへるさまながら、ひもばかりをさしなほしたまふ。 |
09 | 2.8.9 | 269 | 249 |
これは、今すこしこまやかなる夏の御直衣に、紅のつややかなるひき重ねて、やつれたまへるしも、見ても飽かぬ心地ぞする。 |
これは、いますこしこまやかなるなつのおほんなほしに、くれなゐのつややかなるひきかさねて、やつれたまへるしも、みてもあかぬここちぞする。 |
09 | 2.8.10 | 270 | 250 |
中将も、いとあはれなるまみに眺めたまへり。 |
ちゅうじゃうも、いとあはれなるまみにながめたまへり。 |
09 | 2.8.11 | 271 | 251 |
「雨となりしぐるる空の浮雲を<BR/>いづれの方とわきて眺めむ |
"〔あめとなりしぐるるそらのうきぐもを<BR/>いづれのかたとわきてながめん |
09 | 2.8.12 | 272 | 252 |
行方なしや」 |
ゆくへなしや。" |
09 | 2.8.13 | 273 | 253 |
と、独り言のやうなるを、 |
と、ひとりごとのやうなるを、 |
09 | 2.8.14 | 274 | 254 |
「見し人の雨となりにし雲居さへ<BR/>いとど時雨にかき暮らすころ」 |
"〔みしひとのあめとなりにしくもゐさへ<BR/>いとどしぐれにかきくらすころ〕 |
09 | 2.8.15 | 275 | 255 |
とのたまふ御けしきも、浅からぬほどしるく見ゆれば、 |
とのたまふみけしきも、あさからぬほどしるくみゆれば、 |
09 | 2.8.16 | 276 | 256 |
「あやしう、年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを、院など、居立ちてのたまはせ、大臣の御もてなしも心苦しう、大宮の御方ざまに、もて離るまじきなど、かたがたにさしあひたれば、えしもふり捨てたまはで、もの憂げなる御けしきながら、あり経たまふなめりかしと、いとほしう見ゆる折々ありつるを、まことに、やむごとなく重きかたは、ことに思ひきこえたまひけるなめり」 |
"あやしう、としごろはいとしもあらぬみこころざしを、ゐんなど、ゐたちてのたまはせ、おとどのおほんもてなしもこころぐるしう、おほみやのおほんかたざまに、もてはなるまじきなど、かたがたにさしあひたれば、えしもふりすてたまはで、ものうげなるみけしきながら、ありへたまふなめりかしと、いとほしうみゆるをりをりありつるを、まことに、やんごとなくおもきかたは、ことにおもひきこえたまひけるなめり。" |
09 | 2.8.17 | 277 | 257 |
と見知るに、いよいよ口惜しうおぼゆ。よろづにつけて光失せぬる心地して、屈じいたかりけり。 |
とみしるに、いよいよくちをしうおぼゆ。よろづにつけてひかりうせぬるここちして、くんじいたかりけり。 |
09 | 2.8.18 | 278 | 258 |
枯れたる下草のなかに、龍胆、撫子などの、咲き出でたるを折らせたまひて、中将の立ちたまひぬる後に、若君の御乳母の宰相の君して、 |
かれたるしたくさのなかに、りんだう、なでしこなどの、さきいでたるををらせたまひて、ちゅうじゃうのたちたまひぬるのちに、わかぎみのおほんめのとのさいしゃうのきみして、 |
09 | 2.8.19 | 279 | 259 |
「草枯れのまがきに残る撫子を<BR/>別れし秋のかたみとぞ見る |
"〔くさがれのまがきにのこるなでしこを<BR/>わかれしあきのかたみとぞみる |
09 | 2.8.20 | 280 | 260 |
にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ」 |
にほひおとりてやごらんぜらるらん。" |
09 | 2.8.21 | 281 | 261 |
と聞こえたまへり。げに何心なき御笑み顔ぞ、いみじううつくしき。宮は、吹く風につけてだに、木の葉よりけにもろき御涙は、まして、とりあへたまはず。 |
ときこえたまへり。げになにごころなきおほんゑみがほぞ、いみじううつくしき。みやは、ふくかぜにつけてだに、このはよりけにもろきおほんなみだは、まして、とりあへたまはず。 |
09 | 2.8.22 | 282 | 262 |
「今も見てなかなか袖を朽たすかな<BR/>垣ほ荒れにし大和撫子」 |
"〔いまもみてなかなかそでをくたすかな<BR/>かきほあれにしやまとなでしこ〕" |
09 | 2.8.23 | 283 | 263 |
なほ、いみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、「今日のあはれは、さりとも見知りたまふらむ」と推し量らるる御心ばへなれば、暗きほどなれど、聞こえたまふ。絶え間遠けれど、さのものとなりにたる御文なれば、咎なくて御覧ぜさす。空の色したる唐の紙に、 |
なほ、いみじうつれづれなれば、あさがほのみやに、"けふのあはれは、さりともみしりたまふらん。"とおしはからるるみこころばへなれば、くらきほどなれど、きこえたまふ。たえまとほけれど、さのものとなりにたるおほんふみなれば、とがなくてごらんぜさす。そらのいろしたるからのかみに、 |
09 | 2.8.24 | 284 | 265 |
「わきてこの暮こそ袖は露けけれ<BR/>もの思ふ秋はあまた経ぬれど |
"〔わきてこのくれこそそではつゆけけれ<BR/>ものおもふあきはあまたへぬれど |
09 | 2.8.25 | 285 | 266 |
いつも時雨は」 |
いつもしぐれは。" |
09 | 2.8.26 | 286 | 267 |
とあり。御手などの心とどめて書きたまへる、常よりも見どころありて、「過ぐしがたきほどなり」と人も聞こえ、みづからも思されければ、 |
とあり。おほんてなどのこころとどめてかきたまへる、つねよりもみどころありて、"すぐしがたきほどなり。"とひともきこえ、みづからもおぼされければ、 |
09 | 2.8.27 | 287 | 268 |
「大内山を、思ひやりきこえながら、えやは」とて、 |
"おほうちやまを、おもひやりきこえながら、えやは。"とて、 |
09 | 2.8.28 | 288 | 269 |
「秋霧に立ちおくれぬと聞きしより<BR/>しぐるる空もいかがとぞ思ふ」 |
"〔あきぎりにたちおくれぬとききしより<BR/>しぐるるそらもいかがとぞおもふ〕 |
09 | 2.8.29 | 289 | 270 |
とのみ、ほのかなる墨つきにて、思ひなし心にくし。 |
とのみ、ほのかなるすみつきにて、おもひなしこころにくし。 |
09 | 2.8.30 | 290 | 271 |
何ごとにつけても、見まさりはかたき世なめるを、つらき人しもこそと、あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる。 |
なにごとにつけても、みまさりはかたきよなめるを、つらきひとしもこそと、あはれにおぼえたまふひとのみこころざまなる。 |
09 | 2.8.31 | 291 | 272 |
「つれなながら、さるべき折々のあはれを過ぐしたまはぬ、これこそ、かたみに情けも見果つべきわざなれ。なほ、ゆゑづきよしづきて、人目に見ゆばかりなるは、あまりの難も出で来けり。対の姫君を、さは生ほし立てじ」と思す。「つれづれにて恋しと思ふらむかし」と、忘るる折なけれど、ただ女親なき子を、置きたらむ心地して、見ぬほど、うしろめたく、「いかが思ふらむ」とおぼえぬぞ、心やすきわざなりける。 |
"つれなながら、さるべきをりをりのあはれをすぐしたまはぬ、これこそ、かたみになさけもみはつべきわざなれ。なほ、ゆゑづきよしづきて、ひとめにみゆばかりなるは、あまりのなんもいできけり。たいのひめぎみを、さはおほしたてじ。"とおぼす。"つれづれにてこひしとおもふらんかし。"と、わするるをりなけれど、ただめおやなきこを、おきたらんここちして、みぬほど、うしろめたく、"いかがおもふらん。"とおぼえぬぞ、こころやすきわざなりける。 |
09 | 2.8.32 | 292 | 273 |
暮れ果てぬれば、御殿油近く参らせたまひて、さるべき限りの人びと、御前にて物語などせさせたまふ。 |
くれはてぬれば、おほとなぶらちかくまゐらせたまひて、さるべきかぎりのひとびと、おまへにてものがたりなどせさせたまふ。 |
09 | 2.8.33 | 293 | 274 |
中納言の君といふは、年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、なかなかさやうなる筋にもかけたまはず。「あはれなる御心かな」と見たてまつる。おほかたにはなつかしううち語らひたまひて、 |
ちうなごんのきみといふは、としごろしのびおぼししかど、このおほんおもひのほどは、なかなかさやうなるすぢにもかけたまはず。"あはれなるみこころかな。"とみたてまつる。おほかたにはなつかしううちかたらひたまひて、 |
09 | 2.8.34 | 294 | 275 |
「かう、この日ごろ、ありしよりけに、誰も誰も紛るるかたなく、見なれ見なれて、えしも常にかからずは、恋しからじや。いみじきことをばさるものにて、ただうち思ひめぐらすこそ、耐へがたきこと多かりけれ」 |
"かう、このひごろ、ありしよりけに、たれもたれもまぎるるかたなく、みなれみなれて、えしもつねにかからずは、こひしからじや。いみじきことをばさるものにて、ただうちおもひめぐらすこそ、たへがたきことおほかりけれ。" |
09 | 2.8.35 | 295 | 276 |
とのたまへば、いとどみな泣きて、 |
とのたまへば、いとどみななきて、 |
09 | 2.8.36 | 296 | 277 |
「いふかひなき御ことは、ただかきくらす心地しはべるは、さるものにて、名残なきさまにあくがれ果てさせたまはむほど、思ひたまふるこそ」 |
"いふかひなきおほんことは、ただかきくらすここちしはべるは、さるものにて、なごりなきさまにあくがれはてさせたまはんほど、おもひたまふるこそ。" |
09 | 2.8.37 | 297 | 278 |
と、聞こえもやらず。あはれと見わたしたまひて、 |
と、きこえもやらず。あはれとみわたしたまひて、 |
09 | 2.8.38 | 298 | 279 |
「名残なくは、いかがは。心浅くも取りなしたまふかな。心長き人だにあらば、見果てたまひなむものを。命こそはかなけれ」 |
"なごりなくは、いかがは。こころあさくもとりなしたまふかな。こころながきひとだにあらば、みはてたまひなんものを。いのちこそはかなけれ。" |
09 | 2.8.39 | 299 | 280 |
とて、灯をうち眺めたまへるまみの、うち濡れたまへるほどぞ、めでたき。 |
とて、ひをうちながめたまへるまみの、うちぬれたまへるほどぞ、めでたき。 |
09 | 2.8.40 | 300 | 281 |
とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、いと心細げに思へる、ことわりに見たまひて、 |
とりわきてらうたくしたまひしちひさきわらはの、おやどももなく、いとこころぼそげにおもへる、ことわりにみたまひて、 |
09 | 2.8.41 | 301 | 282 |
「あてきは、今は我をこそは思ふべき人なめれ」 |
"あてきは、いまはわれをこそはおもふべきひとなめれ。" |
09 | 2.8.42 | 302 | 283 |
とのたまへば、いみじう泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫、萱草の袴など着たるも、をかしき姿なり。 |
とのたまへば、いみじうなく。ほどなきあこめ、ひとよりはくろうそめて、くろきかざみ、かんざうのはかまなどきたるも、をかしきすがたなり。 |
09 | 2.8.43 | 303 | 284 |
「昔を忘れざらむ人は、つれづれを忍びても、幼なき人を見捨てず、ものしたまへ。見し世の名残なく、人びとさへ離れなば、たづきなさもまさりぬべくなむ」 |
"むかしをわすれざらんひとは、つれづれをしのびても、をさなきひとをみすてず、ものしたまへ。みしよのなごりなく、ひとびとさへかれなば、たづきなさもまさりぬべくなん。" |
09 | 2.8.44 | 304 | 285 |
など、みな心長かるべきことどもをのたまへど、「いでや、いとど待遠にぞなりたまはむ」と思ふに、いとど心細し。 |
など、みなこころながかるべきことどもをのたまへど、"いでや、いとどまちどほにぞなりたまはん。"とおもふに、いとどこころぼそし。 |
09 | 2.8.45 | 305 | 286 |
大殿は、人びとに、際々ほど置きつつ、はかなきもてあそびものども、また、まことにかの御形見なるべきものなど、わざとならぬさまに取りなしつつ、皆配らせたまひけり。 |
おほとのは、ひとびとに、きはぎはほどおきつつ、はかなきもてあそびものども、また、まことにかのおほんかたみなるべきものなど、わざとならぬさまにとりなしつつ、みなくばらせたまひけり。 |
09 | 2.9 | 306 | 287 | 第九段 源氏、左大臣邸を辞去する |
09 | 2.9.1 | 307 | 288 |
君は、かくてのみも、いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、院へ参りたまふ。御車さし出でて、御前など参り集るほど、折知り顔なる時雨うちそそきて、木の葉さそふ風、あわたたしう吹き払ひたるに、御前にさぶらふ人びと、ものいと心細くて、すこし隙ありつる袖ども湿ひわたりぬ。 |
きみは、かくてのみも、いかでかはつくづくとすぐしたまはんとて、ゐんへまゐりたまふ。みくるまさしいでて、ごぜんなどまゐりあつまるほど、をりしりがほなるしぐれうちそそきて、このはさそふかぜ、あわたたしうふきはらひたるに、おまへにさぶらふひとびと、ものいとこころぼそくて、すこしひまありつるそでどもうるひわたりぬ。 |
09 | 2.9.2 | 308 | 289 |
夜さりは、やがて二条院に泊りたまふべしとて、侍ひの人びとも、かしこにて待ちきこえむとなるべし、おのおの立ち出づるに、今日にしもとぢむまじきことなれど、またなくもの悲し。 |
よさりは、やがてにでうのゐんにとまりたまふべしとて、さぶらひのひとびとも、かしこにてまちきこえんとなるべし、おのおのたちいづるに、けふにしもとぢむまじきことなれど、またなくものがなし。 |
09 | 2.9.3 | 309 | 290 |
大臣も宮も、今日のけしきに、また悲しさ改めて思さる。宮の御前に御消息聞こえたまへり。 |
おとどもみやも、けふのけしきに、またかなしさあらためておぼさる。みやのおまへにおほんせうそこきこえたまへり。 |
09 | 2.9.4 | 310 | 291 |
「院におぼつかながりのたまはするにより、今日なむ参りはべる。あからさまに立ち出ではべるにつけても、今日までながらへはべりにけるよと、乱り心地のみ動きてなむ、聞こえさせむもなかなかにはべるべければ、そなたにも参りはべらぬ」 |
"ゐんにおぼつかながりのたまはするにより、けふなんまゐりはべる。あからさまにたちいではべるにつけても、けふまでながらへはべりにけるよと、みだりごこちのみうごきてなん、きこえさせんもなかなかにはべるべければ、そなたにもまゐりはべらぬ。" |
09 | 2.9.5 | 311 | 292 |
とあれば、いとどしく宮は、目も見えたまはず、沈み入りて、御返りも聞こえたまはず。 |
とあれば、いとどしくみやは、めもみえたまはず、しづみいりて、おほんかへりもきこえたまはず。 |
09 | 2.9.6 | 312 | 293 |
大臣ぞ、やがて渡りたまへる。いと堪へがたげに思して、御袖も引き放ちたまはず。見たてまつる人びともいと悲し。 |
おとどぞ、やがてわたりたまへる。いとたへがたげにおぼして、おほんそでもひきはなちたまはず。みたてまつるひとびともいとかなし。 |
09 | 2.9.7 | 313 | 294 |
大将の君は、世を思しつづくること、いとさまざまにて、泣きたまふさま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめきたまへり。大臣、久しうためらひたまひて、 |
だいしゃうのきみは、よをおぼしつづくること、いとさまざまにて、なきたまふさま、あはれにこころふかきものから、いとさまよくなまめきたまへり。おとど、ひさしうためらひたまひて、 |
09 | 2.9.8 | 314 | 295 |
「齢のつもりには、さしもあるまじきことにつけてだに、涙もろなるわざにはべるを、まして、干る世なう思ひたまへ惑はれはべる心を、えのどめはべらねば、人目も、いと乱りがはしう、心弱きさまにはべるべければ、院などにも参りはべらぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせたまへ。いくばくもはべるまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つらうもはべるかな」 |
"よはひのつもりには、さしもあるまじきことにつけてだに、なみだもろなるわざにはべるを。まして、ひるよなうおもひたまへまどはれはべるこころを、えのどめはべらねば、ひとめも、いとみだりがはしう、こころよわきさまにはべるべければ、ゐんなどにもまゐりはべらぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけそうせさせたまへ。いくばくもはべるまじきおいのすゑに、うちすてられたるが、つらうもはべるかな。" |
09 | 2.9.9 | 315 | 296 |
と、せめて思ひ静めてのたまふけしき、いとわりなし。君も、たびたび鼻うちかみて、 |
と、せめておもひしづめてのたまふけしき、いとわりなし。きみも、たびたびはなうちかみて、 |
09 | 2.9.10 | 316 | 297 |
「後れ先立つほどの定めなさは、世のさがと見たまへ知りながら、さしあたりておぼえはべる心惑ひは、類ひあるまじきわざとなむ。院にも、ありさま奏しはべらむに、推し量らせたまひてむ」と聞こえたまふ。 |
"おくれさきだつほどのさだめなさは、よのさがとみたまへしりながら、さしあたりておぼえはべるこころまどひは、たぐひあるまじきわざとなん。ゐんにも、ありさまそうしはべらんに、おしはからせたまひてん。"ときこえたまふ。 |
09 | 2.9.11 | 317 | 298 |
「さらば、時雨も隙なくはべるめるを、暮れぬほどに」と、そそのかしきこえたまふ。 |
"さらば、しぐれもひまなくはべるめるを、くれぬほどに。"と、そそのかしきこえたまふ。 |
09 | 2.9.12 | 318 | 299 |
うち見まはしたまふに、御几帳の後、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き、薄き鈍色どもを着つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほたれつつゐ集りたるを、いとあはれ、と見たまふ。 |
うちみまはしたまふに、みきちゃうのうしろ、さうじのあなたなどのあきとほりたるなどに、にょうばうさんじふにんばかりおしこりて、こき、うすきにびいろどもをきつつ、みないみじうこころぼそげにて、うちしほたれつつゐあつまりたるを、いとあはれ、とみたまふ。 |
09 | 2.9.13 | 319 | 300 |
「思し捨つまじき人もとまりたまへれば、さりとも、もののついでには立ち寄らせたまはじやなど、慰めはべるを、ひとへに思ひやりなき女房などは、今日を限りに、思し捨てつる故里と思ひ屈じて、長く別れぬる悲しびよりも、ただ時々馴れ仕うまつる年月の名残なかるべきを、嘆きはべるめるなむ、ことわりなる。うちとけおはしますことははべらざりつれど、さりともつひにはと、あいな頼めしはべりつるを。げにこそ、心細き夕べにはべれ」 |
"おぼしすつまじきひともとまりたまへれば、さりとも、もののついでにはたちよらせたまはじやなど、なぐさめはべるを、ひとへにおもひやりなきにょうばうなどは、けふをかぎりに、おぼしすてつるふるさととおもひくんじて、ながくわかれぬるかなしびよりも、ただときどきなれつかうまつるとしつきのなごりなかるべきを、なげきはべるめるなん、ことわりなる。うちとけおはしますことははべらざりつれど、さりともつひにはと、あいなだのめしはべりつるを。げにこそ、こころぼそきゆふべにはべれ。" |
09 | 2.9.14 | 320 | 301 |
とても、泣きたまひぬ。 |
とても、なきたまひぬ。 |
09 | 2.9.15 | 321 | 302 |
「いと浅はかなる人びとの嘆きにもはべるなるかな。まことに、いかなりともと、のどかに思ひたまへつるほどは、おのづから御目離るる折もはべりつらむを、なかなか今は、何を頼みにてかはおこたりはべらむ。今御覧じてむ」 |
"いとあさはかなるひとびとのなげきにもはべるなるかな。まことに、いかなりともと、のどかにおもひたまへつるほどは、おのづからおほんめかるるをりもはべりつらんを、なかなかいまは、なにをたのみにてかはおこたりはべらん。いまごらんじてん。" |
09 | 2.9.16 | 322 | 303 |
とて出でたまふを、大臣見送りきこえたまひて、入りたまへるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変はることもなけれど、空蝉のむなしき心地ぞしたまふ。 |
とていでたまふを、おとどみおくりきこえたまひて、いりたまへるに、おほんしつらひよりはじめ、ありしにかはることもなけれど、うつせみのむなしきここちぞしたまふ。 |
09 | 2.9.17 | 323 | 304 |
御帳の前に、御硯などうち散らして、手習ひ捨てたまへるを取りて、目をおししぼりつつ見たまふを、若き人びとは、悲しきなかにも、ほほ笑むあるべし。あはれなる古言ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草にも真名にも、さまざまめづらしきさまに書き混ぜたまへり。 |
みちゃうのまへに、おほんすずりなどうちちらして、てならひすてたまへるをとりて、めをおししぼりつつみたまふを、わかきひとびとは、かなしきなかにも、ほほゑむあるべし。あはれなるふることども、からのもやまとのもかきけがしつつ、さうにもまなにも、さまざまめづらしきさまにかきまぜたまへり。 |
09 | 2.9.18 | 324 | 305 |
「かしこの御手や」 |
"かしこのおほんてや。" |
09 | 2.9.19 | 325 | 306 |
と、空を仰ぎて眺めたまふ。よそ人に見たてまつりなさむが、惜しきなるべし。「旧き枕故き衾、誰と共にか」とある所に、 |
と、そらをあふぎてながめたまふ。よそびとにみたてまつりなさんが、をしきなるべし。"ふるきまくらふるきふすま、たれとともにか。"とあるところに、 |
09 | 2.9.20 | 326 | 307 |
「なき魂ぞいとど悲しき寝し床の<BR/>あくがれがたき心ならひに」 |
"〔なきたまぞいとどかなしきねしとこの<BR/>あくがれがたきこころならひに〕 |
09 | 2.9.21 | 327 | 308 |
また、「霜の花白し」とある所に、 |
また、"しものはなしろし"とあるところに、 |
09 | 2.9.22 | 328 | 309 |
「君なくて塵つもりぬる常夏の<BR/>露うち払ひいく夜寝ぬらむ」 |
"〔きみなくてちりつもりぬるとこなつの<BR/>つゆうちはらひいくよねぬらん〕 |
09 | 2.9.23 | 329 | 310 |
一日の花なるべし、枯れて混じれり。 |
ひとひのはななるべし、かれてまじれり。 |
09 | 2.9.24 | 330 | 311 |
宮に御覧ぜさせたまひて、 |
みやにごらんぜさせたまひて、 |
09 | 2.9.25 | 331 | 312 |
「いふかひなきことをばさるものにて、かかる悲しき類ひ、世になくやはと、思ひなしつつ、契り長からで、かく心を惑はすべくてこそはありけめと、かへりてはつらく、前の世を思ひやりつつなむ、覚ましはべるを、ただ、日ごろに添へて、恋しさの堪へがたきと、この大将の君の、今はとよそになりたまはむなむ、飽かずいみじく思ひたまへらるる。一日、二日も見えたまはず、かれがれにおはせしをだに、飽かず胸いたく思ひはべりしを、朝夕の光失ひては、いかでかながらふべからむ」 |
"いふかひなきことをばさるものにて、かかるかなしきたぐひ、よになくやはと、おもひなしつつ、ちぎりながからで、かくこころをまどはすべくてこそはありけめと、かへりてはつらく、さきのよをおもひやりつつなん、さましはべるを、ただ、ひごろにそへて、こひしさのたへがたきと、このだいしゃうのきみの、いまはとよそになりたまはんなん、あかずいみじくおもひたまへらるる。ひとひ、ふつかもみえたまはず、かれがれにおはせしをだに、あかずむねいたくおもひはべりしを、あさゆふのひかりうしなひては、いかでかながらふべからん。" |
09 | 2.9.26 | 332 | 313 |
と、御声もえ忍びあへたまはず泣いたまふに、御前なるおとなおとなしき人など、いと悲しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしきなり。 |
と、おほんこゑもえしのびあへたまはずないたまふに、おまへなるおとなおとなしきひとなど、いとかなしくて、さとうちなきたる、そぞろさむきゆふべのけしきなり。 |
09 | 2.9.27 | 333 | 314 |
若き人びとは、所々に群れゐつつ、おのがどち、あはれなることどもうち語らひて、 |
わかきひとびとは、ところどころにむれゐつつ、おのがどち、あはれなることどもうちかたらひて、 |
09 | 2.9.28 | 334 | 315 |
「殿の思しのたまはするやうに、若君を見たてまつりてこそは、慰むべかめれと思ふも、いとはかなきほどの御形見にこそ」 |
"とののおぼしのたまはするやうに、わかぎみをみたてまつりてこそは、なぐさむべかめれとおもふも、いとはかなきほどのおほんかたみにこそ。" |
09 | 2.9.29 | 335 | 316 |
とて、おのおの、「あからさまにまかでて、参らむ」と言ふもあれば、かたみに別れ惜しむほど、おのがじしあはれなることども多かり。 |
とて、おのおの、"あからさまにまかでて、まゐらん。"といふもあれば、かたみにわかれをしむほど、おのがじしあはれなることどもおほかり。 |
09 | 2.9.30 | 336 | 317 |
院へ参りたまへれば、 |
ゐんへまゐりたまへれば、 |
09 | 2.9.31 | 337 | 318 |
「いといたう面痩せにけり。精進にて日を経るけにや」 |
"いといたうおもやせにけり。さうじんにてひをふるけにや。" |
09 | 2.9.32 | 338 | 319 |
と、心苦しげに思し召して、御前にて物など参らせたまひて、とやかくやと思し扱ひきこえさせたまへるさま、あはれにかたじけなし。 |
と、こころぐるしげにおぼしめして、おまへにてものなどまゐらせたまひて、とやかくやとおぼしあつかひきこえさせたまへるさま、あはれにかたじけなし。 |
09 | 2.9.33 | 339 | 320 |
中宮の御方に参りたまへれば、人びと、めづらしがり見たてまつる。命婦の君して、 |
ちゅうぐうのおほんかたにまゐりたまへれば、ひとびと、めづらしがりみたてまつる。みゃうぶのきみして、 |
09 | 2.9.34 | 340 | 321 |
「思ひ尽きせぬことどもを、ほど経るにつけてもいかに」 |
"おもひつきせぬことどもを、ほどふるにつけてもいかに。" |
09 | 2.9.35 | 341 | 322 |
と、御消息聞こえたまへり。 |
と、おほんせうそこきこえたまへり。 |
09 | 2.9.36 | 342 | 323 |
「常なき世は、おほかたにも思うたまへ知りにしを、目に近く見はべりつるに、厭はしきこと多く思うたまへ乱れしも、たびたびの御消息に慰めはべりてなむ、今日までも」 |
"つねなきよは、おほかたにもおもうたまへしりにしを、めにちかくみはべりつるに、いとはしきことおほくおもうたまへみだれしも、たびたびのおほんせうそこになぐさめはべりてなん、けふまでも。" |
09 | 2.9.37 | 343 | 324 |
とて、さらぬ折だにある御けしき取り添へて、いと心苦しげなり。無紋の表の御衣に、鈍色の御下襲、纓巻きたまへるやつれ姿、はなやかなる御装ひよりも、なまめかしさまさりたまへり。 |
とて、さらぬをりだにあるみけしきとりそへて、いとこころぐるしげなり。むもんのうへのおほんぞに、にびいろのおほんしたがさね、えいまきたまへるやつれすがた、はなやかなるおほんよそひよりも、なまめかしさまさりたまへり。 |
09 | 2.9.38 | 344 | 325 |
春宮にも久しう参らぬおぼつかなさなど、聞こえたまひて、夜更けてぞ、まかでたまふ。 |
とうぐうにもひさしうまゐらぬおぼつかなさなど、きこえたまひて、よふけてぞ、まかでたまふ。 |
09 | 3 | 345 | 326 | 第三章 紫の君の物語 新手枕の物語 |
09 | 3.1 | 346 | 327 | 第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす |
09 | 3.1.1 | 347 | 328 |
二条院には、方々払ひみがきて、男女、待ちきこえたり。上臈ども皆参う上りて、我も我もと装束き、化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み屈じたりつるけしきどもぞ、あはれに思ひ出でられたまふ。 |
にでうのゐんには、かたがたはらひみがきて、をとこをんな、まちきこえたり。じゃうらうどもみなまうのぼりて、われもわれもとさうぞき、けさうじたるをみるにつけても、かのゐなみくんじたりつるけしきどもぞ、あはれにおもひいでられたまふ。 |
09 | 3.1.2 | 348 | 329 |
御装束たてまつり替へて、西の対に渡りたまへり。衣更への御しつらひ、くもりなくあざやかに見えて、よき若人童女の、形、姿めやすくととのへて、「少納言がもてなし、心もとなきところなう、心にくし」と見たまふ。 |
おほんさうぞくたてまつりかへて、にしのたいにわたりたまへり。ころもがへのおほんしつらひ、くもりなくあざやかにみえて、よきわかうどわらはべの、なり、すがためやすくととのへて、"せうなごんがもてなし、こころもとなきところなう、こころにくし。"とみたまふ。 |
09 | 3.1.3 | 349 | 330 |
姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。 |
ひめぎみ、いとうつくしうひきつくろひておはす。 |
09 | 3.1.4 | 350 | 331 |
「久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」 |
"ひさしかりつるほどに、いとこよなうこそおとなびたまひにけれ。" |
09 | 3.1.5 | 351 | 332 |
とて、小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば、うちそばみて笑ひたまへる御さま、飽かぬところなし。 |
とて、ちひさきみきちゃうひきあげてみたてまつりたまへば、うちそばみてわらひたまへるおほんさま、あかぬところなし。 |
09 | 3.1.6 | 352 | 333 |
「火影の御かたはらめ、頭つきなど、ただ、かの心尽くしきこゆる人に、違ふところなくなりゆくかな」 |
"ほかげのおほんかたはらめ、かしらつきなど、ただ、かのこころつくしきこゆるひとに、たがふところなくなりゆくかな。" |
09 | 3.1.7 | 353 | 334 |
と見たまふに、いとうれし。 |
とみたまふに、いとうれし。 |
09 | 3.1.8 | 354 | 335 |
近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて、 |
ちかくよりたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなどきこえたまひて、 |
09 | 3.1.9 | 355 | 336 |
「日ごろの物語、のどかに聞こえまほしけれど、忌ま忌ましうおぼえはべれば、しばし他方にやすらひて、参り来む。今は、とだえなく見たてまつるべければ、厭はしうさへや思されむ」 |
"ひごろのものがたり、のどかにきこえまほしけれど、いまいましうおぼえはべれば、しばしことかたにやすらひて、まゐりこん。いまは、とだえなくみたてまつるべければ、いとはしうさへやおぼされん。" |
09 | 3.1.10 | 356 | 337 |
と、語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほ危ふく思ひきこゆ。「やむごとなき忍び所多うかかづらひたまへれば、またわづらはしきや立ち代はりたまはむ」と思ふぞ、憎き心なるや。 |
と、かたらひきこえたまふを、せうなごんはうれしときくものから、なほあやふくおもひきこゆ。"やんごとなきしのびどころおほうかかづらひたまへれば、またわづらはしきやたちかはりたまはん。"とおもふぞ、にくきこころなるや。 |
09 | 3.1.11 | 357 | 338 |
御方に渡りたまひて、中将の君といふ、御足など参りすさびて、大殿籠もりぬ。 |
おほんかたにわたりたまひて、ちゅうじゃうのきみといふ、みあしなどまゐりすさびて、おほとのごもりぬ。 |
09 | 3.1.12 | 358 | 339 |
朝には、若君の御もとに御文たてまつりたまふ。あはれなる御返りを見たまふにも、尽きせぬことどものみなむ。 |
あしたには、わかぎみのおほんもとにおほんふみたてまつりたまふ。あはれなるおほんかへりをみたまふにも、つきせぬことどものみなん。 |
09 | 3.1.13 | 359 | 340 |
いとつれづれに眺めがちなれど、何となき御歩きも、もの憂く思しなられて、思しも立たれず。 |
いとつれづれにながめがちなれど、なにとなきおほんありきも、ものうくおぼしなられて、おぼしもたたれず。 |
09 | 3.1.14 | 360 | 341 |
姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、けしきばみたることなど、折々聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり。 |
ひめぎみの、なにごともあらまほしうととのひはてて、いとめでたうのみみえたまふを、にげなからぬほどに、はた、みなしたまへれば、けしきばみたることなど、をりをりきこえこころみたまへど、みもしりたまはぬけしきなり。 |
09 | 3.1.15 | 361 | 342 |
つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ、日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとのなかにも、うつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ、人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり。 |
つれづれなるままに、ただこなたにてごうち、へんつぎなどしつつ、ひをくらしたまふに、こころばへのらうらうじくあいぎゃうづき、はかなきたはぶれごとのなかにも、うつくしきすぢをしいでたまへば、おぼしはなちたるとしつきこそ、たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、こころぐるしけれど、いかがありけん、ひとのけぢめみたてまつりわくべきおほんなかにもあらぬに、をとこぎみはとくおきたまひて、をんなぎみはさらにおきたまはぬあしたあり。 |
09 | 3.1.16 | 362 | 343 |
人びと、「いかなれば、かくおはしますならむ。御心地の例ならず思さるるにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、御硯の箱を、御帳のうちにさし入れておはしにけり。 |
ひとびと、"いかなれば、かくおはしますならん。みここちのれいならずおぼさるるにや。"とみたてまつりなげくに、きみはわたりたまふとて、おほんすずりのはこを、みちゃうのうちにさしいれておはしにけり。 |
09 | 3.1.17 | 363 | 344 |
人まにからうして頭もたげたまへるに、引き結びたる文、御枕のもとにあり。何心もなく、ひき開けて見たまへば、 |
ひとまにからうしてかしらもたげたまへるに、ひきむすびたるふみ、おほんまくらのもとにあり。なにごころもなく、ひきあけてみたまへば、 |
09 | 3.1.18 | 364 | 345 |
「あやなくも隔てけるかな夜をかさね<BR/>さすがに馴れし夜の衣を」 |
"〔あやなくもへだてけるかなよをかさね<BR/>さすがになれしよるのころもを〕 |
09 | 3.1.19 | 365 | 346 |
と、書きすさびたまへるやうなり。「かかる御心おはすらむ」とは、かけても思し寄らざりしかば、 |
と、かきすさびたまへるやうなり。"かかるみこころおはすらん。"とは、かけてもおぼしよらざりしかば、 |
09 | 3.1.20 | 366 | 347 |
「などてかう心憂かりける御心を、うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ」 |
"などてかうこころうかりけるみこころを、うらなくたのもしきものにおもひきこえけん。" |
09 | 3.1.21 | 367 | 348 |
と、あさましう思さる。 |
と、あさましうおぼさる。 |
09 | 3.1.22 | 368 | 349 |
昼つかた、渡りたまひて、 |
ひるつかた、わたりたまひて、 |
09 | 3.1.23 | 369 | 350 |
「悩ましげにしたまふらむは、いかなる御心地ぞ。今日は、碁も打たで、さうざうしや」 |
"なやましげにしたまふらんは、いかなるみここちぞ。けふは、ごもうたで、さうざうしや。" |
09 | 3.1.24 | 370 | 351 |
とて、覗きたまへば、いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり。人びとは退きつつさぶらへば、寄りたまひて、 |
とて、のぞきたまへば、いよいよおほんぞひきかづきてふしたまへり。ひとびとはしりぞきつつさぶらへば、よりたまひて、 |
09 | 3.1.25 | 371 | 352 |
「など、かくいぶせき御もてなしぞ。思ひのほかに心憂くこそおはしけれな。人もいかにあやしと思ふらむ」 |
"など、かくいぶせきおほんもてなしぞ。おもひのほかにこころうくこそおはしけれな。ひともいかにあやしとおもふらん。" |
09 | 3.1.26 | 372 | 353 |
とて、御衾をひきやりたまへれば、汗におしひたして、額髪もいたう濡れたまへり。 |
とて、おほんふすまをひきやりたまへれば、あせにおしひたして、ひたひがみもいたうぬれたまへり。 |
09 | 3.1.27 | 373 | 354 |
「あな、うたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」 |
"あな、うたて。これはいとゆゆしきわざぞよ。" |
09 | 3.1.28 | 374 | 355 |
とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことに、いとつらしと思ひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず。 |
とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことに、いとつらしとおもひたまひて、つゆのおほんいらへもしたまはず。 |
09 | 3.1.29 | 375 | 356 |
「よしよし。さらに見えたてまつらじ。いと恥づかし」 |
"よしよし。さらにみえたてまつらじ。いとはづかし。" |
09 | 3.1.30 | 376 | 357 |
など怨じたまひて、御硯開けて見たまへど、物もなければ、「若の御ありさまや」と、らうたく見たてまつりたまひて、日一日、入りゐて、慰めきこえたまへど、解けがたき御けしき、いとどらうたげなり。 |
などゑんじたまひて、おほんすずりあけてみたまへど、ものもなければ、"わかのおほんありさまや。"と、らうたくみたてまつりたまひて、ひひとひ、いりゐて、なぐさめきこえたまへど、とけがたきみけしき、いとどらうたげなり。 |
09 | 3.2 | 377 | 358 | 第二段 結婚の儀式の夜 |
09 | 3.2.1 | 378 | 359 |
その夜さり、亥の子餅参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる桧破籠などばかりを、色々にて参れるを見たまひて、君、南のかたに出でたまひて、惟光を召して、 |
そのよさり、ゐのこもちひまゐらせたり。かかるおほんおもひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなるひわりごなどばかりを、いろいろにてまゐれるをみたまひて、きみ、みなみのかたにいでたまひて、これみつをめして、 |
09 | 3.2.2 | 379 | 360 |
「この餅、かう数々に所狭きさまにはあらで、明日の暮れに参らせよ。今日は忌ま忌ましき日なりけり」 |
"このもちひ、かうかずかずにところせきさまにはあらで、あすのくれにまゐらせよ。けふはいまいましきひなりけり。" |
09 | 3.2.3 | 380 | 361 |
と、うちほほ笑みてのたまふ御けしきを、心とき者にて、ふと思ひ寄りぬ。惟光、たしかにも承らで、 |
と、うちほほゑみてのたまふみけしきを、こころときものにて、ふとおもひよりぬ。これみつ、たしかにもうけたまはらで、 |
09 | 3.2.4 | 381 | 362 |
「げに、愛敬の初めは、日選りして聞こし召すべきことにこそ。さても、子の子はいくつか仕うまつらすべうはべらむ」 |
"げに、あいぎゃうのはじめは、ひえりしてきこしめすべきことにこそ。さても、ねのこはいくつかつかうまつらすべうはべらん。" |
09 | 3.2.5 | 382 | 363 |
と、まめだちて申せば、 |
と、まめだちてまうせば、 |
09 | 3.2.6 | 383 | 364 |
「三つが一つかにてもあらむかし」 |
"みつがひとつかにてもあらんかし。" |
09 | 3.2.7 | 384 | 365 |
とのたまふに、心得果てて、立ちぬ。「もの馴れのさまや」と君は思す。人にも言はで、手づからといふばかり、里にてぞ、作りゐたりける。 |
とのたまふに、こころえはてて、たちぬ。"ものなれのさまや。"ときみはおぼす。ひとにもいはで、てづからといふばかり、さとにてぞ、つくりゐたりける。 |
09 | 3.2.8 | 385 | 366 |
君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ人の心地するも、いとをかしくて、「年ごろあはれと思ひきこえつるは、片端にもあらざりけり。人の心こそうたてあるものはあれ。今は一夜も隔てむことのわりなかるべきこと」と思さる。 |
きみは、こしらへわびたまひて、いまはじめぬすみもてきたらんひとのここちするも、いとをかしくて、"としごろあはれとおもひきこえつるは、かたはしにもあらざりけり。ひとのこころこそうたてあるものはあれ。いまはひとよもへだてんことのわりなかるべきこと。"とおぼさる。 |
09 | 3.2.9 | 386 | 368 |
のたまひし餅、忍びて、いたう夜更かして持て参れり。「少納言はおとなしくて、恥づかしくや思さむ」と、思ひやり深く心しらひて、娘の弁といふを呼び出でて、 |
のたまひしもちひ、しのびて、いたうよふかしてもてまゐれり。"せうなごんはおとなしくて、はづかしくやおぼさん。"と、おもひやりふかくこころしらひて、むすめのべんといふをよびいでて、 |
09 | 3.2.10 | 387 | 369 |
「これ、忍びて参らせたまへ」 |
"これ、しのびてまゐらせたまへ。" |
09 | 3.2.11 | 388 | 370 |
とて、香壺の筥を一つ、さし入れたり。 |
とて、かうごのはこをひとつ、さしいれたり。 |
09 | 3.2.12 | 389 | 371 |
「たしかに、御枕上に参らすべき祝ひの物にはべる。あな、かしこ。あだにな」 |
"たしかに、おほんまくらがみにまゐらすべきいはひのものにはべる。あな、かしこ。あだにな。" |
09 | 3.2.13 | 390 | 372 |
と言へば、「あやし」と思へど、 |
といへば、"あやし"とおもへど、 |
09 | 3.2.14 | 391 | 373 |
「あだなることは、まだならはぬものを」 |
"あだなることは、まだならはぬものを。" |
09 | 3.2.15 | 392 | 374 |
とて、取れば、 |
とて、とれば、 |
09 | 3.2.16 | 393 | 375 |
「まことに、今はさる文字忌ませたまへよ。よも混じりはべらじ」 |
"まことに、いまはさるもじいませたまへよ。よもまじりはべらじ。" |
09 | 3.2.17 | 394 | 376 |
と言ふ。若き人にて、けしきもえ深く思ひ寄らねば、持て参りて、御枕上の御几帳よりさし入れたるを、君ぞ、例の聞こえ知らせたまふらむかし。 |
といふ。わかきひとにて、けしきもえふかくおもひよらねば、もてまゐりて、おほんまくらがみのみきちゃうよりさしいれたるを、きみぞ、れいのきこえしらせたまふらんかし。 |
09 | 3.2.18 | 395 | 377 |
人はえ知らぬに、翌朝、この筥をまかでさせたまへるにぞ、親しき限りの人びと、思ひ合はすることどもありける。御皿どもなど、いつのまにかし出でけむ。花足いときよらにして、餅のさまも、ことさらび、いとをかしう調へたり。 |
ひとはえしらぬに、つとめて、このはこをまかでさせたまへるにぞ、したしきかぎりのひとびと、おもひあはすることどもありける。おほんさらどもなど、いつのまにかしいでけん。けそくいときよらにして、もちひのさまも、ことさらび、いとをかしうととのへたり。 |
09 | 3.2.19 | 396 | 378 |
少納言は、「いと、かうしもや」とこそ思ひきこえさせつれ、あはれにかたじけなく、思しいたらぬことなき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。 |
せうなごんは、"いと、かうしもや。"とこそおもひきこえさせつれ、あはれにかたじけなく、おぼしいたらぬことなきみこころばへを、まづうちなかれぬ。 |
09 | 3.2.20 | 397 | 379 |
「さても、うちうちにのたまはせよな。かの人も、いかに思ひつらむ」 |
"さても、うちうちにのたまはせよな。かのひとも、いかにおもひつらん。" |
09 | 3.2.21 | 398 | 380 |
と、ささめきあへり。 |
と、ささめきあへり。 |
09 | 3.2.22 | 399 | 381 |
かくて後は、内裏にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心なく、面影に恋しければ、「あやしの心や」と、我ながら思さる。通ひたまひし所々よりは、うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、いとほしと思すもあれど、新手枕の心苦しくて、「夜をや隔てむ」と、思しわづらはるれば、いともの憂くて、悩ましげにのみもてなしたまひて、 |
かくてのちは、うちにもゐんにも、あからさまにまゐりたまへるほどだに、しづこころなく、おもかげにこひしければ、"あやしのこころや。"と、われながらおぼさる。かよひたまひしところどころよりは、うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、いとほしとおぼすもあれど、にひたまくらのこころぐるしくて、"よをやへだてん。"と、おぼしわづらはるれば、いとものうくて、なやましげにのみもてなしたまひて、 |
09 | 3.2.23 | 400 | 382 |
「世の中のいと憂くおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」 |
"よのなかのいとうくおぼゆるほどすぐしてなん、ひとにもみえたてまつるべき。" |
09 | 3.2.24 | 401 | 383 |
とのみいらへたまひつつ、過ぐしたまふ。 |
とのみいらへたまひつつ、すぐしたまふ。 |
09 | 3.2.25 | 402 | 384 |
今后は、御匣殿なほこの大将にのみ心つけたまへるを、 |
いまぎさきは、みくしげどのなほこのだいしゃうにのみこころつけたまへるを、 |
09 | 3.2.26 | 403 | 385 |
「げにはた、かくやむごとなかりつる方も失せたまひぬめるを、さてもあらむに、などか口惜しからむ」 |
"げにはた、かくやんごとなかりつるかたもうせたまひぬめるを、さてもあらんに、などかくちをしからん。" |
09 | 3.2.27 | 404 | 386 |
など、大臣のたまふに、「いと憎し」と、思ひきこえたまひて、 |
など、おとどのたまふに、"いとにくし"と、おもひきこえたまひて、 |
09 | 3.2.28 | 405 | 387 |
「宮仕へも、をさをさしくだにしなしたまへらば、などか悪しからむ」 |
"みやづかへも、をさをさしくだにしなしたまへらば、などかあしからん。" |
09 | 3.2.29 | 406 | 388 |
と、参らせたてまつらむことを思しはげむ。 |
と、まゐらせたてまつらんことをおぼしはげむ。 |
09 | 3.2.30 | 407 | 389 |
君も、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、口惜しとは思せど、ただ今はことざまに分くる御心もなくて、 |
きみも、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、くちをしとはおぼせど、ただいまはことざまにわくるみこころもなくて、 |
09 | 3.2.31 | 408 | 390 |
「何かは、かばかり短かめる世に。かくて思ひ定まりなむ。人の怨みも負ふまじかりけり」 |
"なにかは、かばかりみじかめるよに。かくておもひさだまりなん。ひとのうらみもおふまじかりけり。" |
09 | 3.2.32 | 409 | 391 |
と、いとど危ふく思し懲りにたり。 |
と、いとどあやふくおぼしこりにたり。 |
09 | 3.2.33 | 410 | 392 |
「かの御息所は、いといとほしけれど、まことのよるべと頼みきこえむには、かならず心おかれぬべし。年ごろのやうにて見過ぐしたまはば、さるべき折ふしにもの聞こえあはする人にてはあらむ」など、さすがに、ことのほかには思し放たず。 |
"かのみやすんどころは、いといとほしけれど、まことのよるべとたのみきこえんには、かならずこころおかれぬべし。としごろのやうにてみすぐしたまはば、さるべきをりふしにものきこえあはするひとにてはあらん。"など、さすがに、ことのほかにはおぼしはなたず。 |
09 | 3.2.34 | 411 | 393 |
「この姫君を、今まで世人もその人とも知りきこえぬも、物げなきやうなり。父宮に知らせきこえてむ」と、思ほしなりて、御裳着のこと、人にあまねくはのたまはねど、なべてならぬさまに思しまうくる御用意など、いとありがたけれど、女君は、こよなう疎みきこえたまひて、「年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこえけるこそ、あさましき心なりけれ」と、悔しうのみ思して、さやかにも見合はせたてまつりたまはず、聞こえ戯れたまふも、苦しうわりなきものに思しむすぼほれて、ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを、をかしうもいとほしうも思されて、 |
"このひめぎみを、いままでよひともそのひとともしりきこえぬも、ものげなきやうなり。ちちみやにしらせきこえてん。"と、おもほしなりて、おほんもぎのこと、ひとにあまねくはのたまはねど、なべてならぬさまにおぼしまうくるおほんよういなど、いとありがたけれど、をんなぎみは、こよなううとみきこえたまひて、"としごろよろづにたのみきこえて、まつはしきこえけるこそ、あさましきこころなりけれ。"と、くやしうのみおぼして、さやかにもみあはせたてまつりたまはず、きこえたはぶれたまふも、くるしうわりなきものにおぼしむすぼほれて、ありしにもあらずなりたまへるおほんありさまを、をかしうもいとほしうもおぼされて、 |
09 | 3.2.35 | 412 | 394 |
「年ごろ、思ひきこえし本意なく、馴れはまさらぬ御けしきの、心憂きこと」と、怨みきこえたまふほどに、年も返りぬ。 |
"としごろ、おもひきこえしほいなく、なれはまさらぬみけしきの、こころうきこと。"と、うらみきこえたまふほどに、としもかへりぬ。 |
09 | 3.3 | 413 | 395 | 第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り |
09 | 3.3.1 | 414 | 396 |
朔日の日は、例の、院に参りたまひてぞ、内裏、春宮などにも参りたまふ。それより大殿にまかでたまへり。大臣、新しき年ともいはず、昔の御ことども聞こえ出でたまひて、さうざうしく悲しと思すに、いとどかくさへ渡りたまへるにつけて、念じ返したまへど、堪へがたう思したり。 |
ついたちのひは、れいの、ゐんにまゐりたまひてぞ、うち、とうぐうなどにもまゐりたまふ。それよりおほとのにまかでたまへり。おとど、あたらしきとしともいはず、むかしのおほんことどもきこえいでたまひて、さうざうしくかなしとおぼすに、いとどかくさへわたりたまへるにつけて、ねんじかへしたまへど、たへがたうおぼしたり。 |
09 | 3.3.2 | 415 | 397 |
御年の加はるけにや、ものものしきけさへ添ひたまひて、ありしよりけに、きよらに見えたまふ。立ち出でて、御方に入りたまへれば、人びともめづらしう見たてまつりて、忍びあへず。 |
おほんとしのくははるけにや、ものものしきけさへそひたまひて、ありしよりけに、きよらにみえたまふ。たちいでて、おほんかたにいりたまへれば、ひとびともめづらしうみたてまつりて、しのびあへず。 |
09 | 3.3.3 | 416 | 398 |
若君見たてまつりたまへば、こよなうおよすけて、笑ひがちにおはするも、あはれなり。まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば、「人もこそ見たてまつりとがむれ」と見たまふ。 |
わかぎみみたてまつりたまへば、こよなうおよすけて、わらひがちにおはするも、あはれなり。まみ、くちつき、ただとうぐうのおほんおなじさまなれば、"ひともこそみたてまつりとがむれ。"とみたまふ。 |
09 | 3.3.4 | 417 | 399 |
御しつらひなども変はらず、御衣掛の御装束など、例のやうにし掛けられたるに、女のが並ばぬこそ、栄なくさうざうしく栄なけれ。 |
おほんしつらひなどもかはらず、みぞかけのおほんさうぞくなど、れいのやうにしかけられたるに、をんなのがならばぬこそ、はえなくさうざうしくはえなけれ。 |
09 | 3.3.5 | 418 | 400 |
宮の御消息にて、 |
みやのおほんせうそこにて、 |
09 | 3.3.6 | 419 | 401 |
「今日は、いみじく思ひたまへ忍ぶるを、かく渡らせたまへるになむ、なかなか」 |
"けふは、いみじくおもひたまへしのぶるを、かくわたらせたまへるになん、なかなか。" |
09 | 3.3.7 | 420 | 402 |
など聞こえたまひて、 |
などきこえたまひて、 |
09 | 3.3.8 | 421 | 403 |
「昔にならひはべりにける御よそひも、月ごろは、いとど涙に霧りふたがりて、色あひなく御覧ぜられはべらむと思ひたまふれど、今日ばかりは、なほやつれさせたまへ」 |
"むかしにならひはべりにけるおほんよそひも、つきごろは、いとどなみだにきりふたがりて、いろあひなくごらんぜられはべらんとおもひたまふれど、けふばかりは、なほやつれさせたまへ。" |
09 | 3.3.9 | 422 | 404 |
とて、いみじくし尽くしたまへるものども、また重ねてたてまつれたまへり。かならず今日たてまつるべき、と思しける御下襲は、色も織りざまも、世の常ならず、心ことなるを、かひなくやはとて、着替へたまふ。来ざらましかば、口惜しう思さましと、心苦し。御返りに、 |
とて、いみじくしつくしたまへるものども、またかさねてたてまつれたまへり。かならずけふたてまつるべき、とおぼしけるおほんしたがさねは、いろもおりざまも、よのつねならず、こころことなるを、かひなくやはとて、きがへたまふ。こざらましかば、くちをしうおぼさましと、こころぐるし。おほんかへりに、 |
09 | 3.3.10 | 423 | 405 |
「春や来ぬるとも、まづ御覧ぜられになむ、参りはべりつれど、思ひたまへ出でらるること多くて、え聞こえさせはべらず。 |
"はるやきぬるとも、まづごらんぜられになん、まゐりはべりつれど、おもひたまへいでらるることおほくて、えきこえさせはべらず。 |
09 | 3.3.11 | 424 | 406 |
あまた年今日改めし色衣<BR/>着ては涙ぞふる心地する |
あまたとしけふあらためしいろごろも<BR/>きてはなみだぞふるここちする |
09 | 3.3.12 | 425 | 407 |
えこそ思ひたまへしづめね」 |
えこそおもひたまへしづめね。" |
09 | 3.3.13 | 426 | 408 |
と聞こえたまへり。御返り、 |
ときこえたまへり。おほんかへり、 |
09 | 3.3.14 | 427 | 409 |
「新しき年ともいはずふるものは<BR/>ふりぬる人の涙なりけり」 |
"〔あたらしきとしともいはずふるものは<BR/>ふりぬるひとのなみだなりけり〕 |
09 | 3.3.15 | 428 | 410 |
おろかなるべきことにぞあらぬや。 |
おろかなるべきことにぞあらぬや。 |