第十帖 賢木


10 SAKAKI (Ohoshima-bon)


光る源氏の二十三歳秋九月から二十五歳夏まで近衛大将時代の物語


Tale of Hikaru-Genji's Konoe-Daisho era from September at the age of 23 to summer at the age of 25

2
第二章 光る源氏の物語 父桐壺帝の崩御


2  Tale of Hikaru-Genji  Mikado Kiritubo, Genji's father, died

2.1
第一段 十月、桐壺院、重体となる


2-1  Kiritubo falls into a critical condition in August

2.1.1   院の御悩み、神無月になりては、いと重くおはします。世の中に惜しみきこえぬ人なし。内裏にも、思し嘆きて行幸あり。弱き御心地にも、 春宮の御事 を、返す返す聞こえさせたまひて、次には大将の御こと、
 院の御病気、神無月になってからは、ひどく重くおなりあそばす。世を挙げてお惜しみ申し上げない人はいない。帝におかれても、御心配あそばして行幸がある。御衰弱の御容態ながら、春宮の御事を、繰り返しお頼み申し上げあそばして、次には大将の御事を、
 院の御病気は十月にはいってから御重体になった。この君をお惜しみしていないものはない。みかども御心配のあまりに行幸あそばされた。御衰弱あそばされた院は東宮のことを返す返す帝へお頼みになった。次いで源氏に及んだ。
  Win no ohom-nayami, kamnaduki ni nari te ha, ito omoku ohasimasu. Yononaka ni wosimi kikoye nu hito nasi. Uti ni mo, obosi nageki te gyaugau ari. Yowaki mikokoti ni mo, Touguu no ohom-koto wo, kahesugahesu kikoye sase tamahi te, tugi ni ha Daisyau no ohom-koto,
2.1.2  「 はべりつる世に変はらず、大小のことを隔てず、何ごとも御後見と思せ。齢のほどよりは、世をまつりごたむにも、をさをさ憚りあるまじうなむ、見たまふる。かならず 世の中たもつべき相ある人なり。さるによりて、わづらはしさに、親王にもなさず、ただ人にて、朝廷の御後見をせさせむと、思ひたまへしなり。その心違へさせたまふな」
 「在世中と変わらず、大小の事に関わらず、何事も御後見役とお思いあそばせ。年の割には政治を執っても、少しも遠慮するところはない人と、拝見している。必ず天下を治める相のある人である。それによって、煩わしく思って、親王にもなさず、臣下に下して、朝廷の補佐役とさせようと、思ったのである。その心づもりにお背きあそばすな」
 「私が生きていた時と同じように、大事も小事も彼を御相談相手になさい。年は若くても国家の政治をとるのに十分資格が備わっていると私は認める。一国を支配する骨相を持っている人です。だから私は彼がその点で逆に誤解を受けることがあってはならないとも思って、親王にしないで人臣の列に入れておいた。将来大臣として国務を任せようとしたのです。くなったあとでも私のこの言葉を尊重してください」
  "Haberi turu yo ni kahara zu, daiseu no koto wo hedate zu, nanigoto mo ohom-usiromi to obose. Yohahi no hodo yori ha, yo wo maturigota m ni mo, wosawosa habakari aru maziu nam, mi tamahuru. Kanarazu, yononaka tamotu beki sau aru hito nari. Saru ni yori te, wadurahasisa ni, miko ni mo nasa zu, tadaudo nite, ohoyake no ohom-usiromi wo se sase m to, omohi tamahe si nari. Sono kokoro tagahe sase tamahu na."
2.1.3  と、あはれなる御遺言ども多かりけれど、 女のまねぶべきことにしあらねば、この片端だにかたはらいたし
 と、しみじみとした御遺言が多かったが、女の書くべきことではないので、その一部分を語るだけでも気の引ける思いだ。
 さきみかど、今の君主の御父として御希望を述べられた御遺言も多かったが、女である筆者は気がひけて書き写すことができない。
  to, ahare naru ohom-yuigon-domo ohokari kere do, womna no manebu beki koto ni si ara ne ba, kono katahasi dani kataharaitasi.
2.1.4  帝も、いと悲しと思して、 さらに違へきこえさすまじきよしを、返す返す聞こえさせたまふ。御容貌も、いときよらにねびまさらせたまへるを、うれしく頼もしく見たてまつらせたまふ。 限りあれば、急ぎ帰らせたまふにも、なかなかなること多くなむ。
 帝も、大層悲しいとお思いになって、決してお背き申し上げまい旨を、繰り返し申し上げあそばす。御容貌もとても美しく御成長あそばされているのを、嬉しく頼もしくお見上げあそばす。きまりがあるので、急いでお帰りあそばすにつけても、かえって悲しいことが多い。
 帝もこれが最後の御会見に院のお言いになることを悲しいふうで聞いておいでになったが、御遺言をたがえぬということを繰り返してお誓いになった。風采ふうさいもごりっぱで、以前よりもいっそうお美しくお見えになる帝に院は御満足をお感じになり、頼もしさもお覚えになるのであった。高貴な御身でいらせられるのであるから、感情のままに父帝のもとにとどまっておいでになることはできない。その日のうちに還幸されたのであるから、お二方のお心は、お逢いになったあとに長く悲しみが残った。
  Mikado mo, ito kanasi to obosi te, sarani tagahe kikoye sasu maziki yosi wo, kahesugahesu kikoye sase tamahu. Ohom-katati mo, ito kiyora ni nebi masara se tamahe ru wo, uresiku tanomosiku mi tatematura se tamahu. Kagiri are ba, isogi kahera se tamahu ni mo, nakanaka naru koto ohoku nam.
2.1.5   春宮も、一度にと思し召しけれど 、ものさわがしきにより、日を変へて、渡らせたまへり。御年のほどよりは、大人びうつくしき御さまにて、恋しと思ひきこえさせたまひけるつもりに、 何心もなく うれしと思し、見たてまつりたまふ御けしき、いとあはれなり。
 春宮も御一緒にとお思いあそばしたが、大層な騷ぎになるので、日を改めて、行啓なさった。お年の割には、大人びてかわいらしい御様子で、恋しいとお思い申し上げあそばしていたあげくなので、ただもう無心に嬉しくお思いになって、お目にかかりになる御様子、まことにいじらしい。
 東宮も同時に行啓ぎょうけいになるはずであったがたいそうになることを思召おぼしめして別の日に院のお見舞いをあそばされた。御年齢以上に大人らしくなっておいでになる愛らしい御様子で、しばらくぶりでお逢いになる喜びが勝って、今の場合も深くおわかりにならず、無邪気にうれしそうにして院の前へおいでになったのも哀れであった。
  Touguu mo, hitotabi ni to obosimesi kere do, mono-sawagasiki ni yori, hi wo kahe te, watara se tamahe ri. Ohom-tosi no hodo yori ha, otonabi utukusiki ohom-sama nite, kohisi to omohi kikoye sase tamahi keru tumori ni, nanigokoro mo naku uresi to obosi, mi tatematuri tamahu mikesiki, ito ahare nari.
2.1.6  中宮は、涙に沈みたまへるを、見たてまつらせたまふも、さまざま御心乱れて思し召さる。 よろづのことを聞こえ知らせたまへどいとものはかなき御ほどなれば、うしろめたく悲しと見たてまつらせたまふ。
 中宮は、涙に沈んでいらっしゃるのを、お見上げ申しあそばされるにつけても、あれこれとお心の乱れる思いでいらっしゃる。いろいろの事をお教え申し上げなさるが、とても御幼少でいらっしゃるので、不安で悲しく御拝見あそばす。
 その横で中宮ちゅうぐうが泣いておいでになるのであるから、院のお心はさまざまにお悲しいのである。種々と御教訓をお残しになるのであるが、幼齢の東宮にこれがわかるかどうかと疑っておいでになる御心みこころからそこに寂しさと悲しさがかもされていった。
  Tyuuguu ha, namida ni sidumi tamahe ru wo, mi tatematura se tamahu mo, samazama mikokoro midare te obosimesa ru. Yorodu no koto wo kikoye sirase tamahe do, ito mono-hakanaki ohom-hodo nare ba, usirometaku kanasi to mi tatematura se tamahu.
2.1.7  大将にも、朝廷に仕うまつりたまふべき御心づかひ、 この宮の御後見したまふべきことを、返す返すのたまはす。
 大将にも、朝廷にお仕えなさるためのお心構えや、春宮の御後見なさるべき事を、繰り返し仰せになる。
 源氏にも朝家ちょうけの政治に携わる上に心得ていねばならぬことをお教えになり、東宮をおたすけせよということを繰り返し繰り返し仰せられた。
  Daisyau ni mo, Ohoyake ni tukaumaturi tamahu beki mikokorodukahi, kono Miya no ohom-usiromi si tamahu beki koto wo, kahesugahesu notamaha su.
2.1.8  夜更けてぞ帰らせたまふ。残る人なく仕うまつりてののしるさま、行幸に劣るけぢめなし。飽かぬほどにて帰らせたまふを、いみじう思し召す。
 夜が更けてからお帰りあそばす。残る人なく陪従して大騷ぎする様子、行幸に劣るところがない。満足し切れないところでお帰りおそばすのを、たいそう残念にお思いあそばす。
 夜がふけてから東宮はお帰りになった。還啓に供奉ぐぶする公卿こうけいの多さは行幸にも劣らぬものだった。御秘蔵子の東宮のお帰りになったのちの院の御心は最もお悲しかった。
  Yo huke te zo kahera se tamahu. Nokoru hito naku tukaumaturi te nonosiru sama, gyaugau ni otoru kedime nasi. Aka nu hodo nite kahera se tamahu wo, imiziu obosimesu.
注釈95院の御悩み、神無月になりては、いと重くおはします桐壺院、重態に陥る。2.1.1
注釈96春宮の御事大島本は「春宮御事」とある。諸本によって「の」を補う。2.1.1
注釈97はべりつる世に変はらず大小のことを隔てず何ごとも御後見と思せ以下「その心違へさせたまふな」まで、桐壺院の朱雀帝に対する御遺戒。2.1.2
注釈98世の中たもつべき相ある人なり帝となれる相のある人。「桐壺」巻の高麗人の観相を踏まえて言う。2.1.2
注釈99女のまねぶべきことにしあらねば、この片端だにかたはらいたし語り手の言辞。『林逸抄』は「例の紫式部か詞也」と指摘。『評釈』は「「女の--」とは、この物語をするのが女であるからである。女は、政治に関与しない。主上や院のおそば近くに仕えるから、どんな秘密でも知ることがあるが、政治上の事は知らぬ顔で通すはずなのである」と注す。2.1.3
注釈100さらに違へきこえさすまじきよしを返す返す聞こえさせたまふ『完訳』は「帝は院の遺言に全面的に従おうとする。この誓約は、個人的な約束とも異なり、朱雀帝治政のあり方を性格づける意味を持つ」と注す。2.1.4
注釈101限りあれば、急ぎ帰らせたまふにも帝の見舞いの行幸は公的行事なので、時間を延長して個人的に振る舞うことが許されない。2.1.4
注釈102春宮も一度にと思し召しけれど大島本は「ひとたひにも」の「も」を朱筆で抹消し傍らに「と」と訂正する。春宮は、帝の行幸と一緒に思ったが、仰々しくなるので日を改めて、見舞いの行啓をする。2.1.5
注釈103何心もなく大島本は「なに」を朱筆で補う。2.1.5
注釈104うれしと思し大島本は「うれしとおほし」とある。『新大系』は底本のままとするが、『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「うれしと思して」と接続助詞「て」を補う。2.1.5
注釈105よろづのことを聞こえ知らせたまへど院が春宮に。2.1.6
注釈106いとものはかなき御ほどなれば春宮はこの時五歳。七歳が学問始めである。2.1.6
注釈107この宮の御後見春宮の後見をさす。2.1.7
校訂12 春宮の 春宮の--*春宮(宮/+の) 2.1.1
校訂13 一度にと 一度にと--ひとたひにも(も/$と<朱>) 2.1.5
校訂14 何心 何心--(/+なに<朱>)心 2.1.5
2.2
第二段 十一月一日、桐壺院、崩御


2-2  Kiritubo died in November 1

2.2.1   大后も、参りたまはむとするを、中宮のかく添ひおはするに、御心置かれて、思しやすらふほどに、おどろおどろしきさまにもおはしまさで、隠れさせたまひぬ。足を空に、思ひ惑ふ人多かり。
 大后も、お見舞いに参ろうと思っているが、中宮がこのように付き添っていらっしゃるために、おこだわりになって、おためらいになっていらっしゃるうちに、たいしてお苦しみにもならないで、お隠れあそばした。浮き足立ったように、お嘆き申し上げる人々が多かった。
 皇太后もおいでになるはずであったが、中宮がずっと院に添っておいでになる点が御不満で、躊躇ちゅうちょあそばされたうちに院は崩御ほうぎょになった。御仁慈の深い君にお別れしてどんなに多数の人が悲しんだかしれない。
  Ohokisaki mo, mawiri tamaha m to suru wo, Tyuuguu no kaku sohi ohasuru ni, mikokoro oka re te, obosi yasurahu hodo ni, odoroodorosiki sama ni mo ohasimasa de, kakure sase tamahi nu. Asi wo sora ni, omohi madohu hito ohokari.
2.2.2   御位を去らせたまふといふばかりにこそあれ、世のまつりごとをしづめさせたまへることも、我が御世の同じことにておはしまいつるを、帝はいと若うおはします、 祖父大臣、いと急にさがなくおはして、その御ままになりなむ世を、いかならむと、上達部、殿上人、皆思ひ嘆く。
 お位をお退きあそばしたというだけで、世の政治をとりしきっていられたのは、御在位中と同様でいらっしゃったが、帝はまだお若ういらっしゃるし、祖父右大臣、まことに性急で意地の悪い方でいらっしゃって、その意のままになってゆく世を、どうなるのだろうと、上達部、殿上人は、皆不安に思って嘆く。
 院の御位みくらいにお変わりあそばしただけで、政治はすべて思召しどおりに行なわれていたのであるから、今の帝はまだお若くて外戚の大臣が人格者でもなかったから、その人に政権を握られる日になれば、どんな世の中が現出するであろうと官吏たちは悲観しているのである。
  Mikurawi wo sara se tamahu to ihu bakari ni koso are, yo no maturigoto wo sidume sase tamahe ru koto mo, waga miyo no onazi koto nite ohasimai turu wo, Mikado ha ito wakau ohasimasu, ohodi-Otodo, ito kihu ni saganaku ohasi te, sono ohom-mama ni nari na m yo wo, ika nara m to, Kamdatime, Tenzyaubito, mina omohi nageku.
2.2.3  中宮、大将殿などは、ましてすぐれて、ものも思しわかれず、後々の御わざなど、孝じ仕うまつりたまふさまも、そこらの親王たちの御中にすぐれたまへるを、ことわりながら、いとあはれに、世人も見たてまつる。 藤の御衣にやつれたまへるにつけても、限りなくきよらに心苦しげなり。 去年、今年とうち続き、かかることを見たまふに、世もいとあぢきなう思さるれど、かかるついでにも、まづ思し立たるることはあれど、また、さまざまの御ほだし多かり
 中宮、大将殿などは、まして人一倍、何もお考えられなく、後々の御法事などをご供養申し上げなさる様子も、大勢の親王たちの御中でも格別優れていらっしゃるのを、当然のことながら、まことにおいたわしく、世の人々も拝し上げる。喪服を着て悲しみに沈んでいらっしゃるのにつけても、この上なく美しくおいたわしげである。去年、今年と引き続いて、このような不幸にお遭いになると、世の中が本当につまらなくお思いになるが、このような機会にも、出家しようかと思わずにはいらっしゃれない事もあるが、また一方では、いろいろとお妨げとなるものが多いのであった。
 院が最もお愛しになった中宮や源氏の君はまして悲しみの中におぼれておいでになった。崩御後の御仏事なども多くの御遺子たちの中で源氏は目だって誠意のある弔い方をした。それが道理ではあるが源氏の孝心に同情する人が多かった。喪服姿の源氏がまた限りもなく清く見えた。去年今年と続いて不幸にあっていることについても源氏の心は厭世えんせい的に傾いて、この機会に僧になろうかとも思うのであったが、いろいろなほだしを持っている源氏にそれは実現のできる事ではなかった。
  Tyuuguu, Daisyau-dono nado ha, masite sugurete, mono mo obosi waka re zu, notinoti no ohom-waza nado, keuzi tukaumaturi tamahu sama mo, sokora no Mikotati no ohom-naka ni sugure tamahe ru wo, kotowari nagara, ito ahare ni, yohito mo mi tatematuru. Hudi no ohom-zo ni yature tamahe ru ni tuke te mo, kagirinaku kiyora ni kokorogurusige nari. Kozo, kotosi to uti-tuduki, kakaru koto wo mi tamahu ni, yo mo ito adikinau obosa rure do, kakaru tuide ni mo, madu obositata ruru koto ha are do, mata, samazama no ohom-hodasi ohokari.
2.2.4   御四十九日までは、女御、御息所たち、みな、院に集ひたまへりつるを、過ぎぬれば、散り散りにまかでたまふ。師走の二十日なれば、 おほかたの世の中とぢむる空のけしきにつけても、まして晴るる世なき、中宮の御心のうちなり。大后の御心も知りたまへれば、心にまかせたまへらむ世の、はしたなく住み憂からむを思すよりも、馴れきこえたまへる年ごろの御ありさまを、思ひ出できこえたまはぬ時の間なきに、かくてもおはしますまじう、みな他々へと出でたまふほどに、悲しきこと限りなし。
 御四十九日までは、女御、御息所たち、皆、院に集まっていらっしゃったが、過ぎたので、散り散りにご退出なさる。十二月の二十日なので、世の中一般も年の暮という空模様につけても、まして心晴れることのない、中宮のお心の中である。大后のお心も御存知でいらっしゃるので、思いのままになさるであろう世が、体裁の悪く住みにくいことになろうことをお考えになるよりも、お親しみ申し上げなさった長い年月の御面影を、お偲び申し上げない時の間もない上に、このままここにおいでになるわけにもゆかず、皆方々へとご退出なさるに当たっては、悲しいことこの上ない。
 四十九日までは女御にょご更衣こういたちが皆院の御所にこもっていたが、その日が過ぎると散り散りに別な実家へ帰って行かねばならなかった。これは十月二十日のことである。この時節の寂しい空の色を見てはだれも世がこれで終わっていくのではないかと心細くなるころである。中宮は最も悲しんでおいでになる。皇太后の性格をよく知っておいでになって、その方の意志で動く当代において、今後はどんなつらい取り扱いを受けねばならぬかというお心細さよりも、またない院の御愛情に包まれてお過ごしになった過去をお忍びになる悲しみのほうが大きかった。しかも永久に院の御所で人々とお暮らしになることはできずに、皆帰って行かねばならぬことも宮のお心を寂しくしていた。
  Ohom-nanananuka made ha, Nyougo, Miyasumdokoro-tati, mina, Win ni tudohi tamahe ri turu wo, sugi nure ba, tiridiri ni makade tamahu. Sihasu no hatuka nare ba, ohokata no yononaka todimuru sora no kesiki ni tukete mo, masite haruru yo naki, Tyuuguu no mi-kokoro no uti nari. Ohokisaki no mi-kokoro mo siri tamahe re ba, kokoro ni makase tamahe ra m yo no, hasitanaku sumi ukara m wo obosu yori mo, nare kikoye tamahe ru tosigoro no ohom-arisama wo, omohiide kikoye tamaha nu toki no ma naki ni, kakute mo ohasimasu maziu, mina hokahoka he to ide tamahu hodo ni, kanasiki koto kagiri nasi.
2.2.5   宮は、三条の宮に渡りたまふ。御迎へに兵部卿宮参りたまへり。 雪うち散り、風はげしうて、院の内、やうやう人目かれゆきて、しめやかなるに、大将殿、こなたに参りたまひて、古き御物語聞こえたまふ。 御前の五葉の雪にしをれて、下葉枯れたるを見たまひて、親王、
 宮は、三条の宮にお渡りになる。お迎えに兵部卿宮が参上なさった。雪がひとしきり降り、風が激しく吹いて、院の中、だんだんと人数少なになっていって、しんみりとしていた時に、大将殿、こちらに参上なさって、昔の思い出話をお申し上げなさる。お庭先の五葉の松が、雪に萎れて、下葉が枯れているのを御覧になって、親王、
 中宮は三条の宮へお帰りになるのである。お迎えに兄君の兵部卿ひょうぶきょうの宮がおいでになった。はげしい風の中に雪も混じって散る日である。すでに古御所ふるごしょになろうとする人少なさが感ぜられて静かな時に、源氏の大将が中宮の御殿へ来て院の御在世中の話を宮としていた。前の庭の五葉が雪にしおれて下葉の枯れたのを見て、
  Miya ha, Samdeu-no-miya ni watari tamahu. Ohom-mukahe ni Hyaubukyau-no-Miya mawiri tamahe ri. Yuki uti-tiri, kaze hagesiu te, Win no uti, yauyau hitome kare yuki te, simeyaka naru ni, Daisyau-dono, konata ni mawiri tamahi te, huruki ohom-monogatari kikoye tamahu. Omahe no goehu no yuki ni siwore te, sitaba kare taru wo mi tamahi te, Miko,
2.2.6  「 蔭ひろみ頼みし松や枯れにけむ
   下葉散りゆく年の暮かな
 「木蔭が広いので頼りにしていた松の木は枯れてしまったのだろうか
  下葉が散り行く今年の暮ですね
  かげひろみ頼みし松や枯れにけん
  下葉散り行く年のくれかな
    "Kage hiromi tanomi si matu ya kare ni kem
    sitaba tiri yuku tosi no kure kana
2.2.7   何ばかりのことにもあらぬに、折から、ものあはれにて、大将の御袖、いたう濡れぬ。池の隙なう氷れるに、
 何という歌でもないが、折柄、何となく寂しい気持ちに駆られて、大将のお袖、ひどく濡れた。池が隙間なく凍っていたので、
 宮がこうお歌いになった時、それが傑作でもないが、迫った実感は源氏を泣かせてしまった。すっかり凍ってしまった池をながめながら源氏は、
  Nani bakari no koto ni mo ara nu ni, worikara, monoahare nite, Daisyau no ohom-sode, itau nure nu. Ike no hima nau kohore ru ni,
2.2.8  「 さえわたる池の鏡のさやけきに
   見なれし影を見ぬぞ悲しき
 「氷の張りつめた池が鏡のようになっているが
  長年見慣れた影を見られないのが悲しい
  さえわたる池の鏡のさやけさに
  見なれし影を見ぬぞ悲しき
    "Saye wataru ike no kagami no sayakeki ni
    minare si kage wo mi nu zo kanasiki
2.2.9  と、 思すままに、あまり若々しうぞあるや。王命婦、
 と、お気持ちのままに詠まれたのは、あまりに子供っぽい詠み方ではないか。王命婦、
 と言った。これも思ったままを三十一字にしたもので、源氏の作としては幼稚である。王命婦おうみょうぶ
  to, obosu mama ni, amari wakawakasiu zo aru ya! Wau-Myaubu,
2.2.10  「 年暮れて岩井の水もこほりとぢ
   見し人影のあせもゆくかな
 「年が暮れて岩井の水も凍りついて
  見慣れていた人影も見えなくなってゆきますこと
  年暮れて岩井の水も氷とぢ
  見し人影のあせも行くかな
    "Tosi kure te ihawi no midu mo kohori todi
    mi si hitokage no ase mo yuku kana
2.2.11   そのついでに、いと多かれど、さのみ書き続くべきことかは
 その折に、とても多くあったが、そうばかり書き連ねてよいことか。
 そのほかの女房の作は省略する。
  Sono tuide ni, ito ohokare do, sa nomi kaki tuduku beki koto kaha.
2.2.12  渡らせたまふ儀式、変はらねど、思ひなしにあはれにて、 旧き宮は、かへりて旅心地したまふにも、御里住み絶えたる年月のほど、思しめぐらさるべし。
 お移りあばす儀式は、従来と変わらないが、思いなしかしみじみとして、ふる里の宮は、かえって旅の宿のような心地がなさるにつけても、里下りなさらなかった歳月の長さ、あれこれと回想されて来るのだろう。
 中宮の供奉ぐぶを多数の高官がしたことなどは院の御在世時代と少しも変わっていなかったが、宮のお心持ちは寂しくて、お帰りになった御実家がかえって他家であるように思召されることによっても、近年はお許しがなくて御実家住まいがほとんどなかったことがおしのばれになった。
  Watara se tamahu gisiki, kahara ne do, omohinasi ni ahare nite, huruki Miya ha, kaheri te tabigokoti si tamahu ni mo, ohom-satozumi taye taru tosituki no hodo, obosi megurasa ru besi.
注釈108大后も参りたまはむとするを弘徽殿大后も帝や東宮、源氏に引き続いて、桐壺院を見舞おうと思うが。2.2.1
注釈109御位を去らせたまふといふばかりにこそあれ世のまつりごとをしづめさせたまへることも我が御世の同じことにておはしまいつるを桐壺帝は御譲位後も在位中と同様に政治的実権を握っていた。歴史上の院政と同じである。2.2.2
注釈110祖父大臣、いと急にさがなくおはして、その御ままになりなむ世を右大臣が外戚として政権を握る。2.2.2
注釈111藤の御衣にやつれたまへる大島本は「藤の御そにやつれ給へる」を補入する。2.2.3
注釈112去年、今年とうち続き、かかることを見たまふに、世もいとあぢきなう思さるれど、かかるついでにも、まづ思し立たるることはあれど、また、さまざまの御ほだし多かり昨年の妻葵の上の死去、今年の父桐壺院の崩御を体験し、出家の願望が起こるが、また一方でそれを妨げる事情が多い、とする語る。『花鳥余情』は「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今集雑下、九五五、物部吉名)を指摘。
【まづ思し立たるる】-大島本「た」と「る」の間に「た」を補入する。
2.2.3
注釈113御四十九日までは下に「師走の二十日なれば」とある。さらに「霜月の一日ごろ御国忌なるに」とあるので、桐壺院の崩御は十一月一日である。2.2.4
注釈114おほかたの世の中とぢむる空のけしきにつけてもまして晴るる世なき中宮の御心のうちなり景情一致の描写。『完訳』は「一年の終りと桐壺院時世の終り。歳末の冬空に藤壺の心を象徴」と注す。2.2.4
注釈115宮は三条の宮に渡りたまふ藤壺の里邸。「紅葉賀」巻に既出。2.2.5
注釈116雪うち散り風はげしうて院の内やうやう人目かれゆきてしめやかなるに桐壺院の御所の蕭条とした描写。2.2.5
注釈117御前の五葉の雪にしをれて下葉枯れたるを見たまひて院の御所の藤壺の庭先。2.2.5
注釈118蔭ひろみ頼みし松や枯れにけむ--下葉散りゆく年の暮かな兵部卿宮の歌。「松」に桐壺院を、「下葉」に後宮の女性たちを喩える。2.2.6
注釈119何ばかりのことにもあらぬに『完訳』は「語り手の評。上手な歌を詠出しがたいほど悲嘆が深いとする」と注す。2.2.7
注釈120さえわたる池の鏡のさやけきに--見なれし影を見ぬぞ悲しき源氏の唱和歌。『河海抄』は「池はなほ昔ながらの鏡にて影見し君がなきぞ悲しき」(大和物語)を指摘する。2.2.8
注釈121思すままにあまり若々しうぞあるや語り手の評言。源氏の歌を率直すぎて未熟な詠みぶりだという。2.2.9
注釈122年暮れて岩井の水もこほりとぢ--見し人影のあせもゆくかな王命婦の唱和歌。2.2.10
注釈123そのついでにいと多かれどさのみ書き続くべきことかは語り手の省略の弁。2.2.11
注釈124旧き宮はかへりて旅心地したまふにも『異本紫明抄』は「古里は見しごともあらず斧の柄の朽ちし所ぞ恋しかりける(古今集雑下、九九一、紀友則)を指摘。2.2.12
校訂15 藤の御衣にやつれたまへる 藤の御衣にやつれたまへる--(/+藤の御そにやつれ給へる) 2.2.3
校訂16 立たるる 立たるる--た(た/+た)るゝ 2.2.3
2.3
第三段 諒闇の新年となる


2-3  The time passed into next New Year

2.3.1   年かへりぬれど、世の中今めかしきことなく静かなり。まして大将殿は、もの憂くて籠もりゐたまへり。除目のころなど、院の御時をばさらにもいはず、年ごろ劣るけぢめなくて、御門のわたり、所なく立ち込みたりし馬、車うすらぎて、宿直物の袋をさをさ見えず、親しき家司どもばかり、ことに急ぐことなげにてあるを見たまふにも、「今よりは、かくこそは」と思ひやられて、ものすさまじくなむ。
 年も改まったが、世の中ははなやかなことはなく静かである。まして大将殿は、何となく悲しくて退き籠もっていらっしゃる。除目のころなどは、院の御在位中は言うまでもなく、ここ数年来、悪く変わることなくて、御門の周辺、隙間なく立て込んでいた馬、車が少なくなって、夜具袋などもほとんど見えず、親密な家司どもばかりが、特別に準備することもなさそうでいるのを御覧になるにつけても、「今後は、こうなるのだろう」と思いやられて、何となく味気なく思われる。
 年が変わっても諒闇りょうあんの春は寂しかった。源氏はことさら寂しくて家に引きこもって暮らした。一月の官吏の更任期などには、院の御代みよはいうまでもないがその後もなお同じように二条の院の門は訪客の馬と車でうずまったのだったのに、今年は目に見えてそうした来訪者の数が少なくなった。宿直とのいをしに来る人たちの夜具類を入れた袋もあまり見かけなくなった。親しい家司けいしたちだけが暢気のんきに事務を取っているのを見ても、主人である源氏は、自家の勢力の消長と人々の信頼が比例するものであることが思われておもしろくなかった。
  Tosi kaheri nure do, yononaka imamekasiki koto naku siduka nari. Masite Daisyau-dono ha, monouku te komori wi tamahe ri. Dimoku no koro nado, Win no ohom-toki wo ba sarani mo iha zu, tosigoro otoru kedime naku te, mikado no watari, tokoronaku tatikomi tari si muma, kuruma usuragi te, tonowimono no hukuro wosawosa miye zu, sitasiki keisi-domo bakari, koto ni isogu koto nage nite aru wo mi tamahu ni mo, "Ima yori ha, kaku koso ha." to omohiyara re te, mono-susamaziku nam.
2.3.2   御匣殿は、二月に、尚侍になりたまひぬ院の御思ひにやがて尼になりたまへる、替はりなりけり。 やむごとなくもてなし、人がらもいとよくおはすれば、あまた参り集りたまふなかにも、すぐれて時めきたまふ。后は、里がちにおはしまいて、参りたまふ時の御局には梅壺をしたれば、弘徽殿には尚侍の君住みたまふ。登花殿の埋れたりつるに、晴れ晴れしうなりて、女房なども数知らず集ひ参りて、 今めかしう花やぎたまへど、御心のうちは、思ひのほかなりしことどもを忘れがたく嘆きたまふいと忍びて通はしたまふことは、なほ同じさまなるべし。「 ものの聞こえもあらばいかならむ」と 思しながら、例の御癖なれば、今しも御心ざしまさるべかめり
 御匣殿は、二月に、尚侍におなりになった。院の御喪に服してそのまま尼におなりになった方の、替わりであった。高貴な家の出として振る舞って、人柄もとてもよくいらっしゃるので、大勢入内なさっている中でも、格別に御寵愛をお受けになる。后は、里邸にいらっしゃりがちで、参内なさる時のお局には、梅壷を当てていたので、弘徽殿には尚侍がお住みになる。登花殿が陰気であったのに対して、晴ればれしくなって、女房なども数えきれないほど参集して、当世風にはなやかにおなりになったが、お心の中では、思いがけなかった事を忘れられず嘆いていらっしゃる。ごく内密に文を通わしなさることは、以前と同様なのであろう。「噂が立ったらどうなることだろう」とお思いになりながら、例のご性癖なので、今になってかえってご愛情が募るようである。
 右大臣家の六の君は二月に尚侍ないしのかみになった。院の崩御によってさきの尚侍が尼になったからである。大臣家が全力をあげて後援していることであったし、自身に備わった美貌びぼうも美質もあって、後宮の中に抜け出た存在を示していた。皇太后は実家においでになることが多くて、まれに参内になる時は梅壺うめつぼの御殿を宿所に決めておいでになった。それで弘徽殿こきでんが尚侍の曹司ぞうしになっていた。隣の登花殿などは長く捨てられたままの形であったが、二つが続けて使用されて今ははなやかな場所になった。女房なども無数に侍していて、派手はで後宮こうきゅう生活をしながらも、尚侍の人知れぬ心は源氏をばかり思っていた。源氏が忍んで手紙を送って来ることも以前どおり絶えなかった。人目につくことがあったらと恐れながら、例の癖で、六の君が後宮へはいった時から源氏の情炎がさらに盛んになった。
  Mikusige-dono ha, kisaragi ni, Naisi-no-Kami ni nari tamahi nu. Win no ohom-omohi ni yagate ama ni nari tamahe ru, kahari nari keri. Yamgotonaku motenasi, hitogara mo ito yoku ohasure ba, amata mawiri atumari tamahu naka ni mo, sugure te tokimeki tamahu. Kisaki ha, sato-gati ni ohasimai te, mawiri tamahu toki no mitubone ni ha Mumetubo wo si tare ba, Koukiden ni ha Kam-no-Kimi sumi tamahu. Toukwaden no mumore tari turu ni, harebaresiu nari te, nyoubau nado mo kazusirazu tudohi mawiri te, imamekasiu hanayagi tamahe do, mikokoro no uti ha, omohi no hoka nari si koto-domo wo wasure gataku nageki tamahu. Ito sinobi te kayohasi tamahu koto ha, naho onazi sama naru besi. "Mono no kikoye mo ara ba ika nara m?" to obosi nagara, rei no ohom-kuse nare ba, ima simo mikokorozasi masaru beka' meri.
2.3.3  院のおはしましつる世こそ憚りたまひつれ、后の御心いちはやくて、 かたがた思しつめたることどもの報いせむ、と 思すべかめり。ことにふれて、はしたなきことのみ出で来れば、かかるべき こととは思ししかど、見知りたまはぬ世の憂さに、立ちまふべくも思されず。
 院の御在世中こそは、遠慮もなさっていたが、后の御気性は激しくて、あれこれと悔しい思いをしてきたことの仕返しをしよう、とお思いのようである。何かにつけて、体裁の悪いことばかり生じてくるので、きっとこうなることとはお思いになっていたが、ご経験のない世間の辛さなので、立ち交じっていこうともお考えになれない。
 院がおいでになったころは御遠慮があったであろうが、積年の怨みを源氏にむくいるのはこれからであるとはげしい気質の太后は思っておいでになった。源氏に対して何かの場合に意を得ないことを政府がする、それが次第に多くなっていくのを見て、源氏は予期していたことではあっても、過去に経験しなかった不快さを始終味わうのに堪えがたくなって、人との交際もあまりしないのであった。
  Win no ohasimasi turu yo koso habakari tamahi ture, Kisaki no mikokoro itihayaku te, katagata obosi tume taru koto-domo no mukui se m, to obosu beka' meri. Koto ni hure te, hasitanaki koto nomi ide kure ba, kakaru beki koto to ha obosi sika do, misiri tamaha nu yo no usa ni, tatimahu beku mo obosa re zu.
2.3.4   左の大殿も、すさまじき心地したまひて、ことに内裏にも参りたまはず。 故姫君を、引きよきて、この大将の君に聞こえつけたまひし御心を、后は思しおきて、よろしうも思ひきこえたまはず。大臣の御仲も、もとより そばそばしうおはするに故院の御世にはわがままにおはせしを時移りて、したり顔におはするを、あぢきなしと思したる、ことわりなり。
 左の大殿も、面白くない気がなさって、特に内裏にも参内なさらない。故姫君を、避けて、この大将の君に妻合わせなさったお気持ちを、后は根にお持ちになって、あまり良くはお思い申し上げていない。大臣の御仲も、もとから疎遠でいらっしゃったうえに、故院の在世中は思い通りでいられたが、御世が替わって、得意顔でいらっしゃるのが、面白くないとお思いになるのも、もっともなことである。
 左大臣も不愉快であまり御所へも出なかった。くなった令嬢へ東宮のお話があったにもかかわらず源氏の妻にさせたことで太后は含んでおいでになった。右大臣との仲は初めからよくなかった上に、左大臣は前代にいくぶん専横的にも政治を切り盛りしたのであったから、当帝の外戚として右大臣が得意になっているのに対しては喜ばないのは道理である。
  Hidari-no-Ohoidono mo, susamaziki kokoti si tamahi te, koto ni Uti ni mo mawiri tamaha zu. Ko-Himegimi wo, hiki-yoki te, kono Daisyau-no-Kimi ni kikoe tuke tamahi si mikokoro wo, Kisaki ha obosioki te, yorosiu mo omohi kikoye tamaha zu. Otodo no ohom-naka mo, motoyori sobasobasiu ohasuru ni, ko-Win no miyo ni ha waga mama ni ohase si wo, toki uturi te, sitarigaho ni ohasuru wo, adikinasi to obosi taru, kotowari nari.
2.3.5   大将は、ありしに変はらず渡り通ひたまひて、さぶらひし人びとをも、なかなかにこまかに思しおきて、 若君をかしづき思ひきこえたまへること、限りなければ、あはれにありがたき御心と、 いとどいたつききこえたまふことども、同じさまなり限りなき御おぼえの、あまりもの騒がしきまで、暇なげに見えたまひしを、通ひたまひし所々も、かたがたに絶えたまふことどもあり、軽々しき御忍びありきも、あいなう思しなりて、ことにしたまはねば、 いとのどやかに、今しもあらまほしき御ありさまなり
 大将は、在世中と変わらずお通いになって、お仕えしていた女房たちをも、かえって以前以上にこまごまとお気を配りになって、若君を大切におかわいがり申されること、この上ないので、しみじみとありがたいお心だと、ますます大切にお世話申し上げなさる事ども、同様である。この上ないご寵愛で、あまりにもうるさいまでに、お暇もなさそうにお見えになったが、お通いになっていた方々も、あちこちと途絶えなさることもあり、軽率なお忍び歩きも、つまらないようにお思いなさって、特になさらないので、とてものんびりと、今の方がかえって理想的なお暮らしぶりである。
 源氏は昔の日に変わらずよく左大臣家をたずねて行き故夫人の女房たちを愛護してやることを忘れなかった。非常に若君を源氏の愛することにも大臣家の人たちは感激していて、そのためにまたいっそう小公子は大切がられた。過去の源氏の君は社会的に見てあまりに幸福過ぎた、見ていて目まぐるしい気がするほどであったが、このごろは通っていた恋人たちとも双方の事情から関係が絶えてしまったのも多かったし、それ以下の軽い関係の恋人たちの家を訪ねて行くようなことにも、もうきまりの悪さを感じる源氏であったから、余裕ができてはじめてのどかな家庭の主人あるじになっていた。
  Daisyau ha, arisi ni kahara zu watari kayohi tamahi te, saburahi si hitobito wo mo, nakanaka ni komaka ni obosioki te, Wakagimi wo kasiduki omohi kikoye tamahe ru koto, kagirinakere ba, ahare ni arigataki mikokoro to, itodo itatuki kikoye tamahu koto-domo, onazi sama nari. Kagirinaki ohom-oboye no, amari mono-sawagasiki made, itoma nage ni miye tamahi si wo, kayohi tamahi si tokorodokoro mo, katagata ni taye tamahu koto-domo ari, karugarusiki ohom-sinobiariki mo, ainau obosi nari te, koto ni si tamaha ne ba, ito nodoyaka ni, ima simo aramahosiki ohom-arisama nari.
2.3.6   西の対の姫君の御幸ひを、世人もめできこゆ。少納言なども、人知れず、「故尼上の御祈りのしるし」と見たてまつる。 父親王も思ふさまに聞こえ交はしたまふ。嫡腹の、限りなくと思すは、はかばかしうもえあらぬに、ねたげなること多くて、 継母の北の方は、やすからず思すべし。物語にことさらに作り出でたるやうなる御ありさまなり
 西の対の姫君のお幸せを、世間の人もお喜び申し上げる。少納言なども、人知れず、「故尼上の御祈祷の効験」と拝している。父親王とも隔意なくお文をお通わし申し上げなさる。正妻腹の、この上なくと願っている方は、これといったこともないので、妬ましいことが多くて、継母の北の方は、きっと面白くなくお思いであろう。物語にわざと作り出したようなご様子である。
兵部卿ひょうぶきょうの宮の王女の幸福であることを言ってだれも祝った。少納言なども心のうちでは、この結果を得たのは祖母の尼君が姫君のことを祈った熱誠が仏に通じたのであろうと思っていた。父の親王も朗らかに二条の院に出入りしておいでになった。夫人から生まれて大事がっておいでになる王女方にたいした幸運もなくて、ただ一人がすぐれた運命を負った女と見える点で、継母にあたる夫人は嫉妬しっとを感じていた。紫夫人は小説にある継娘ままこの幸運のようなものを実際に得ていたのである。
  Nisinotai-no-Himegimi no ohom-saihahi wo, yohito mo mede kikoyu. Seunagon nado mo, hitosirezu, "Ko-Amauhe no ohom-inori no sirusi." to mi tatematuru. Titi-Miko mo omohu sama ni kikoye kahasi tamahu. Mukahibara no, kagirinaku to obosu ha, hakabakasiu mo e ara nu ni, netage naru koto ohoku te, mamahaha no Kitanokata ha, yasukara zu obosu besi. Monogatari ni kotosara ni tukuri ide taru yau naru ohom-arisama nari.
2.3.7   斎院は、御服にて下りゐたまひにしかば朝顔の姫君は、替はりにゐたまひにき賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例、多くもあらざりけれど、さるべき女御子やおはせざりけむ。大将の君、年月経れど、なほ御心離れたまはざりつるを、かう筋ことになりたまひぬれば、口惜しくと思す。 中将におとづれたまふことも、同じことにて、御文などは絶えざるべし。昔に変はる御ありさまなどをば、 ことに何とも思したらず、かやうのはかなしごとどもを、紛るることなきままに、 こなたかなたと思し悩めり
 斎院は、御服喪のためにお下がりになったので、朝顔の姫君は、代わってお立ちになった。賀茂の斎院には、孫王のお就きになる例、多くもなかったが、適当な内親王がいらっしゃらなかったのであろう。大将の君は、幾歳月を経ても、依然としてお忘れになれなかったのを、このように方面がちがっておしまいになったので、残念にとお思いになる。中将にお便りをおやりになることも、以前と同じで、お手紙などは途絶えていないのだろう。以前と変わったご様子などを、特に何ともお考えにならず、このようなちょっとした事柄を、気の紛れることのないのにまかせて、あちらこちらと思い悩んでいらっしゃる。
 加茂の斎院は父帝の喪のために引退されたのであって、そのかわりに式部卿しきぶきょうの宮の朝顔の姫君が職をお継ぎになることになった。伊勢へ女王が斎宮になって行かれたことはあっても、加茂の斎院はたいてい内親王の方がお勤めになるものであったが、相当した女御腹にょごばらの宮様がおいでにならなかったか、この卜定ぼくじょうがあったのである。源氏は今もこの女王に恋を持っているのであるが、結婚も不可能な神聖な職にお決まりになった事を残念に思った。女房の中将は今もよく源氏の用を勤めたから、手紙などは始終やっているのである。当代における自身の不遇などは何とも思わずに、源氏は恋をなげいていた、斎院と尚侍ないしのかみのために。
  Saiwin ha, ohom-buku nite oriwi tamahi ni sika ba, Asagaho-no-Himegimi ha, kahari ni wi tamahi ni ki. Kamo-no-Ituki ni ha, Sonwau no wi tamahu rei, ohoku mo ara zari kere do, sarubeki womnamiko ya ohase zari kem. Daisyau-no-Kimi, tosituki hure do, naho mikokoro hanare tamaha zari turu wo, kau sudi koto ni nari tamahi nure ba, kutiwosiku to obosu. Tyuuzyau ni otodure tamahu koto mo, onazi koto nite, ohom-humi nado ha taye zaru besi. Mukasi ni kaharu ohom-arisama nado wo ba, koto ni nani to mo obosi tara zu, kayau no hakanasigoto-domo wo, magiruru koto naki mama ni, konata kanata to obosi nayame ri.
注釈125年かへりぬれど諒闇の新年。源氏二十四歳。2.3.1
注釈126御匣殿は、二月に、尚侍になりたまひぬ朧月夜の君、尚侍となる。2.3.2
注釈127院の御思ひにやがて尼になりたまへる替はりなり故桐壺院の御喪に服して尚侍が出家し、定員二名のうち、一名が空いたので、その後任としての意。2.3.2
注釈128やむごとなくもてなし大島本は「もてなし」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「もてなして」と接続助詞「て」を補う。『集成』は「家柄の姫君らしい暮しぶりで」の意に解す。2.3.2
注釈129今めかしう花やぎたまへど、御心のうちは、思ひのほかなりしことどもを忘れがたく嘆きたまふ朧月夜の華やかな周辺と裏腹に源氏を忘れ難く思う内心。2.3.2
注釈130いと忍びて通はしたまふことは、なほ同じさまなるべし「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)、語り手の推測。手紙を通わすこと。2.3.2
注釈131ものの聞こえもあらばいかならむ源氏の懸念。『完訳』「右大臣家専横の時代に、朧月夜との不義がさらに噂されては身の破滅は必定。そう思いながらも恋の気持を高ぶらせる理不尽さが、「例の御癖」」と注す。2.3.2
注釈132思しながら例の御癖なれば今しも御心ざしまさるべかめり「べか」(推量の助動詞)「めり」(推量の助動詞)、語り手の推測。「かやうに例に違へるわづらはしさにかならず心かかる御癖にて」とあった。2.3.2
注釈133かたがた思しつめたることどもの報いせむ弘徽殿大后の心。源氏への復讐心。2.3.3
注釈134思すべかめり「べか」(推量の助動詞)「めり」(推量の助動詞)、語り手の推測。2.3.3
注釈135左の大殿もすさまじき心地したまひて政権が右大臣家に移り、左大臣家にとっては何かとおもしろからぬ時代となる。2.3.4
注釈136故姫君を引きよきてこの大将の君に聞こえつけたまひし御心を后は思しおきて弘徽殿大后は葵の上を朱雀妃にという所望を左大臣が断って源氏に与えたのを根にもっている。2.3.4
注釈137そばそばしうおはするに大島本は「おはするに」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おはする」と、接続助詞「に」を削除する。2.3.4
注釈138故院の御世にはわがままにおはせしを主語は左大臣。2.3.4
注釈139時移りてしたり顔におはするを主語は右大臣。2.3.4
注釈140大将はありしに変はらず渡り通ひたまひて葵の上の生前同様に左大臣邸に。2.3.5
注釈141若君をかしづき思ひきこえたまへること主語は源氏。夕霧は昨年の秋に誕生。現在二歳。2.3.5
注釈142いとどいたつききこえたまふことども同じさまなり主語は左大臣。左大臣が婿の源氏の世話をすること。娘の葵の上が生きていた時と同じ。2.3.5
注釈143限りなき御おぼえのあまりもの騒がしきまで暇なげに見えたまひしを「限りなき御おぼえ」は桐壺院の源氏寵愛。「の」(格助詞、同格)、「あまりもの騒がしきまで暇なげに見えたまひし」は、女たちにちやほやされた源氏の姿をいう。2.3.5
注釈144いとのどやかに今しもあらまほしき御ありさまなり『集成』は「こんな(不遇の)時の方がかえって理想的とおもわれるご様子である」という。『完訳』は「世俗と没交渉の、心静かな篭居を理想とする。しばしば語られる出家の念願に連なってもいよう」という。前者の説は、源氏と紫の君とが常に親しくいる状態をさし、後者の説は、広く世俗との没交渉の生活と解す。語り手の評言。2.3.5
注釈145西の対の姫君の御幸ひを世人もめできこゆ二条院西の対に住む紫の君の幸福をいう。2.3.6
注釈146父親王も思ふさまに聞こえ交はしたまふ紫の君の父。兵部卿の宮。この時点では源氏と睦まじく交際している。しかし、源氏の須磨明石流謫時代には冷たくなる。2.3.6
注釈147継母の北の方はやすからず思すべし物語にことさらに作り出でたるやうなる御ありさまなり「べし」(推量の助動詞)、「なり」(断定の助動詞)は、語り手の推量や断定である。『評釈』は「継子が幸せになる話は、昔物語の『住吉物語』や『落窪物語』など現存するのにも見られるが、今の有様はちょうどそれと同じだという。このお話はそういう昔物語ではない。実際あった話なのだ、作者は、そうことわるのである」という。2.3.6
注釈148斎院は御服にて下りゐたまひにしかば斎院は、桐壺院の第三皇女(「葵」巻登場)であった。したがって、父の喪に服すために斎院を下りた。2.3.7
注釈149朝顔の姫君は替はりにゐたまひにき「朝顔の姫君」と呼称される。「帚木」「葵」に登場。2.3.7
注釈150賀茂のいつきには孫王のゐたまふ例多くもあらざりけれどさるべき女御子やおはせざりけむ語り手の推量を交えた挿入句。2.3.7
注釈151中将におとづれたまふことも朝顔の姫君づきの女房。初見の人。2.3.7
注釈152ことに何とも思したらず『完訳』は「ここでの源氏は、社会的不遇に低迷することなく、恋の人生に生きるべく好色人(すきびと)に徹している」と注す。2.3.7
注釈153こなたかなたと思し悩めり『集成』は「あちらこちら(朧月夜の君や朝顔の姫君)と思い悩んでいらっしゃる」という。2.3.7
校訂17 こととは こととは--こと(と/+と<朱>)は 2.3.3
2.4
第四段 源氏朧月夜と逢瀬を重ねる


2-4  Genji meets repeatedly to Oborozukiyo

2.4.1   帝は、院の御遺言違へず、あはれに思したれど、若うおはしますうちにも、御心なよびたるかたに過ぎて、強きところおはしまさぬなるべし母后、祖父大臣とりどりしたまふことは、え背かせたまはず、世のまつりごと、御心にかなはぬやうなり
 帝は、院の御遺言に背かず、親しくお思いであったが、お若くいらっしゃるうえにも、お心が優し過ぎて、毅然としたところがおありでないのであろう、母后、祖父大臣、それぞれになさる事に対しては、反対することがおできあそばされず、天下の政治も、お心通りに行かないようである。
 帝は院の御遺言のとおりに源氏を愛しておいでになったが、お若い上に、きわめてお気の弱い方でいらせられて、母后や祖父の大臣の意志によって行なわれることをどうあそばすこともおできにならなくて、朝政に御不満足が多かったのである。
  Mikado ha, Win no ohom-yuigon tagahe zu, ahare ni obosi tare do, wakau ohasimasu uti ni mo, mikokoro nayobi taru kata ni sugi te, tuyoki tokoro ohasimasa nu naru besi, Haha-Gisaki, Ohodi-Otodo toridori si tamahu koto ha, e somuka se tamaha zu, yo no maturigoto, mikokoro ni kanaha nu yau nari.
2.4.2  わづらはしさのみまされど、尚侍の君は、人知れぬ御心し通へば、 わりなくてと、おぼつかなくはあらず五壇の御修法の初めにて、慎しみおはします隙をうかがひて、例の、夢のやうに聞こえたまふ。 かの、昔おぼえたる細殿の局に中納言の君、紛らはして入れたてまつる。人目もしげきころなれば、常よりも端近なる、 そら恐ろしうおぼゆ
 厄介な事ばかりが多くなるが、尚侍の君は、密かにお心を通わしているので、無理をなさりつつも、長い途絶えがあるわけではない。五壇の御修法の初日で、お慎しみあそばす隙間を狙って、いつものように、夢のようにお逢い申し上げる。あの、昔を思い出させる細殿の局に、中納言の君が、人目を紛らしてお入れ申し上げる。人目の多いころなので、いつもより端近なのが、何となく恐ろしく思わずにはいられない。
 昔よりもいっそう恋の自由のない境遇にいても尚侍はふみによって絶えず恋をささやく源氏を持っていて幸福感がないでもなかった。
 宮中で行なわせられた五壇の御修法みずほうのために帝が御謹慎をしておいでになるころ、源氏は夢のように尚侍へ近づいた。昔の弘徽殿の細殿ほそどのの小室へ中納言の君が導いたのである。御修法のために御所へ出入りする人の多い時に、こうした会合が、自分の手で行なわれることを中納言の君は恐ろしく思った。
  Wadurahasisa nomi masare do, Kam-no-kimi ha, hitosirenu mikokoro si kayohe ba, warinaku te to, obotukanaku ha ara zu. Godan no misyuhohu no hazime nite, tutusimi ohasimasu hima wo ukagahi te, rei no, yume no yau ni kikoye tamahu. Kano, mukasi oboye taru hosodono no tubone ni, Tyuunagon-no-Kimi, magirahasi te ire tatematuru. Hitome mo sigeki koro nare ba, tune yori mo hasidika naru, sora-osorosiu oboyu.
2.4.3   朝夕に見たてまつる人だに、飽かぬ御さまなれば、まして、めづらしきほどにのみある御対面の、いかでかはおろかならむ。 女の御さまも、げにぞめでたき御盛りなる重りかなるかたは、いかがあらむ、をかしうなまめき若びたる心地して、見まほしき御けはひなり。
 朝夕に拝見している人でさえ、見飽きないご様子なので、まして、まれまれにある逢瀬であっては、どうして並々のことであろうか。女のご様子も、なるほど素晴しいお盛りである。重々しいという点では、どうであろうか、魅力的で優美で若々しい感じがして、好ましいご様子である。
 朝夕に見て見飽かぬ源氏とまれに見るのを得た尚侍の喜びが想像される。女も今が青春の盛りの姿と見えた。貴女きじょらしい端厳さなどは欠けていたかもしれぬが、美しくて、えんで、若々しくて男の心を十分にく力があった。
  Asayuhu ni mi tatematuru hito dani, aka nu ohom-sama nare ba, masite, medurasiki hodo ni nomi aru ohom-taimen no, ikadekaha oroka nara m? Womna no ohom-sama mo, geni zo medetaki ohom sakari naru. Omorika naru kata ha, ikaga ara m, wokasiu namameki wakabi taru kokoti si te, mi mahosiki ohom-kehahi nari.
2.4.4  ほどなく明け行くにや、とおぼゆるに、ただここにしも、
 間もなく夜も明けて行こうか、と思われるころに、ちょうどすぐ側で、
 もうつい夜が明けていくのではないかと思われる頃、すぐ下の庭で、
  Hodo naku akeyuku ni ya, to oboyuru ni, tada koko ni simo,
2.4.5  「 宿直申し、さぶらふ
 「宿直申しの者、ここにおります」
 「宿直とのいをいたしております」
  "Tonowimausi, saburahu."
2.4.6  と、 声づくるなり。「 また、このわたりに隠ろへたる近衛司ぞあるべき。腹ぎたなきかたへの教へおこするぞかし」と、大将は聞きたまふ。 をかしきものから、わづらはし
 と、声を上げて申告するようである。「自分以外にも、この近辺で密会している近衛府の官人がいるのだろう。こ憎らしい傍輩が教えてよこしたのだろう」と、大将はお聞きになる。面白いと思う一方、厄介である。
 と高い声で近衛このえの下士が言った。中少将のだれかがこの辺の女房のつぼねへ来て寝ているのを知って、意地悪な男が教えてわざわざ挨拶あいさつをさせによこしたに違いないと源氏は聞いていた。御所の庭の所々をこう言ってまわるのは感じのいいものであるがうるさくもあった。
  to, kowadukuru nari. "Mata, kono watari ni kakurohe taru Konowedukasa zo aru beki. Haragitanaki katahe no wosihe okosuru zo kasi." to, Daisyau ha kiki tamahu. Wokasiki monokara, wadurahasi.
2.4.7  ここかしこ尋ねありきて、
 あちこちと探し歩いて、
 また庭のあなたこなたで
  Kokokasiko taduneariki te,
2.4.8  「 寅一つ
 「寅一刻」
 「とら一つ」(午前四時)
  "Tora hitotu."
2.4.9  と 申すなり。女君、
 と申しているようだ。女君、
 と報じて歩いている。
  to mausu nari. Womnagimi,
2.4.10  「 心からかたがた袖を濡らすかな
   明くと教ふる声につけても
 「自分からあれこれと涙で袖を濡らすことですわ
  夜が明けると教えてくれる声につけましても
  心からかたがたそでらすかな
  明くと教ふる声につけても
    "Kokorokara katagata sode wo nurasu kana
    aku to wosihuru kowe ni tuke te mo
2.4.11  とのたまふさま、 はかなだちて、いとをかし
 とおっしゃる様子、いじらしくて、まことに魅力的である。
 尚侍のこう言う様子はいかにもはかなそうであった。
  to notamahu sama, hakanadati te, ito wokasi.
2.4.12  「 嘆きつつわが世はかくて過ぐせとや
   胸のあくべき時ぞともなく
 「嘆きながら一生をこのように過ごせというのでしょうか
  胸の思いの晴れる間もないのに
  なげきつつ我が世はかくて過ぐせとや
  胸のあくべき時ぞともなく
    "Nageki tutu waga yo ha kakute suguse to ya
    mune no aku beki toki zo to mo naku
2.4.13  静心なくて、出でたまひぬ。
 慌ただしい思いで、お出になった。
 落ち着いておられなくて源氏は別れて出た。
  Sidugokoro naku te, ide tamahi nu.
2.4.14   夜深き暁月夜の、えもいはず霧りわたれるに、いといたうやつれて、振る舞ひなしたまへるしも、似るものなき御ありさまにて 、承香殿の御兄の藤少将、 藤壺より出でて、月の少し隈ある立蔀のもとに立てりけるを、 知らで過ぎたまひけむこそいとほしけれもどききこゆるやうもありなむかし
 夜の深い暁の月夜に、何ともいいようのない霧が立ちこめていて、とてもたいそうお忍び姿で、振る舞っていらっしゃるのが、他に似るものがないほどのご様子で、承香殿の兄君の藤少将が、藤壷から出て来て、月の光が少し蔭になっている立蔀の側に立っていたのを知らないで、お通り過ぎになったことはお気の毒であったなあ。きっとご非難申し上げるようなこともあるだろうよ。
 まだ朝に遠い暁月夜で、霧が一面に降っている中を簡単な狩衣かりぎぬ姿で歩いて行く源氏は美しかった。この時に承香殿じょうきょうでん女御にょごの兄である頭中将とうのちゅうじょうが、藤壺ふじつぼの御殿から出て、月光のかげになっている立蔀たてじとみの前に立っていたのを、不幸にも源氏は知らずに来た。批難の声はその人たちの口から起こってくるであろうから。
  Yobukaki akatukidukuyo no, e mo iha zu kiri watare ru ni, ito itau yature te, hurumahi nasi tamahe ru simo, niru mono naki ohom-arisama nite, Syoukyauden no ohom-seuto no Tou-Seusyau, Huditubo yori ide te, tuki no sukosi kuma aru tatezitomi no moto ni tate ri keru wo, sira de sugi tamahi kem koso itohosikere. Modoki kikoyuru yau mo ari na m kasi.
2.4.15  かやうのことにつけても、 もて離れつれなき人の御心を、かつはめでたしと思ひきこえたまふものから、わが心の引くかたにては、なほつらう心憂し、とおぼえたまふ折多かり。
 このような事につけても、よそよそしくて冷たい方のお心を、一方では立派であるとお思い申し上げてはいるものの、自分勝手な気持ちからすれば、やはり辛く恨めしい、と思われなさる時が多い。
  源氏は尚侍とまた新しく作ることのできた関係によっても、すきをまったくお見せにならない中宮ちゅうぐうをごりっぱであると認めながらも、恋する心に恨めしくも悲しくも思うことが多かった。
  Kayau no koto ni tuke te mo, mote-hanare turenaki hito no mikokoro wo, katu ha medetasi to omohi kikoye tamahu monokara, waga kokoro no hikukata nite ha, naho turau kokorousi, to oboye tamahu wori ohokari.
注釈154帝は院の御遺言違へずあはれに思したれど若うおはしますうちにも御心なよびたるかたに過ぎて強きところおはしまさぬなるべし「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)、語り手の推量を交えた朱雀帝の人物評。前に「帝はいと若うおはします」とあった。「院の御遺言」とは源氏を「朝廷の御後見」とするようにとの内容をいう。2.4.1
注釈155母后祖父大臣とりどりしたまふことはえ背かせたまはず世のまつりごと御心にかなはぬやうなり大島本は「とり/\し給事は」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「とりどりにしたまふことは」と格助詞「に」を補訂する。朱雀帝の治世。母弘徽殿皇太后と祖父大臣に牛耳られているありさま。2.4.1
注釈156わりなくてとおぼつかなくはあらず大島本は「わりなくてと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『完訳』は諸本に従って「わりなくても」と訂正する。無理をなさりつつも長い途絶えがあるわけではない、の意。2.4.2
注釈157五壇の御修法五大尊(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利夜叉王・金剛夜叉王)を安置する壇を設けて行う修法。天皇や国家に重大事のある時に行う。ここでの重大事が何であるかは不明。2.4.2
注釈158かの昔おぼえたる細殿の局に源氏と朧月夜の君が初めて逢った弘徽殿の細殿(「花宴」)。2.4.2
注釈159中納言の君朧月夜の君づきの女房。2.4.2
注釈160そら恐ろしうおぼゆ『完訳』は「空から見られるような恐怖心」という。2.4.2
注釈161朝夕に見たてまつる人だに飽かぬ御さまなれば以下「いかでかはおろかならむ」まで、『細流抄』は「草子地也」と指摘。「だに」「まして」「いかでかは」「おろかならむ」の文脈は、語り手の感情移入による表現。2.4.3
注釈162女の御さまもげにぞめでたき御盛りなる「も」「げにぞ」、語り手の他の人の意見に同意して「なるほど」というニュアンス。2.4.3
注釈163重りかなるかたはいかがあらむ語り手の批評の挿入句。『完訳』は「女の理性的な弱さとともに、男女の交感を語りこめる」と注す。2.4.3
注釈164宿直申しさぶらふ宿直奏の上司に姓名を申告する言葉。宮中の夜間の警備は、戌、亥、子までを左近衛府、丑、寅、卯までを右近衛府が担当する。ここは夜明け間近であるから、右近衛府の官人。源氏は右大将。2.4.5
注釈165声づくるなり「なり」(伝聞推定の助動詞)。源氏は細殿の中で聞いている。2.4.6
注釈166またこのわたりに隠ろへたる近衛司ぞあるべき腹ぎたなきかたへの教へおこするぞかし源氏の心中。自分以外にもこの近くに忍んで来ている近衛の官人がいるのだろう、たちの悪い同僚が教えて寄こしたのだろう、の意。2.4.6
注釈167をかしきものからわづらはし源氏の心中と語り手の批評が一体化した表現。2.4.6
注釈168寅一つ宿直奏の声。寅の刻を午前四時から六時までとすれば、寅の一刻は四時から四時半まで。2.4.8
注釈169申すなり「なり」(伝聞推定の助動詞)。源氏は細殿の中で聞いている。2.4.9
注釈170心からかたがた袖を濡らすかな--明くと教ふる声につけても朧月夜の贈歌。「あく」に「明く」と「飽く」を掛け、「かたがた袖を濡らす」といって、別れの辛さと源氏の冷淡さを嘆き訴える。2.4.10
注釈171はかなだちていとをかし語り手の批評の弁。2.4.11
注釈172嘆きつつわが世はかくて過ぐせとや--胸のあくべき時ぞともなく源氏の返歌。「よ」に「世」と「夜」、「あく」に「明く」と「飽く」を掛ける。『完訳』は「恋ゆえの無明の鬱情であるとして切り返した」という。2.4.12
注釈173夜深き暁月夜のえもいはず霧りわたれるにいといたうやつれて振る舞ひなしたまへるしも似るものなき御ありさまにて源氏の朝帰りの様。一幅の絵になる場面。夜明けにはまだ間のある残月の細くかかった空、霧が趣深く立ちこめている中を、忍び姿の源氏が帰って行く様子。2.4.14
注釈174藤壺より出でて藤壺方の女房のもとにいたもの。この時の藤壺の住人は誰か不明。2.4.14
注釈175知らで過ぎたまひけむこそいとほしけれ語り手の源氏への同情。2.4.14
注釈176もどききこゆるやうもありなむかし語り手の推測。『岷江入楚』は「やうやう須磨の巻をかき出すへき序也草子地歟」と指摘。2.4.14
注釈177もて離れつれなき人の御心を藤壺をさす。2.4.15
校訂18 夜深き 夜深き--(/+夜)ふかき 2.4.14
Last updated 9/20/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 9/5/2009(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 5/19/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
小林繁雄(青空文庫)

2003年7月13日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年10月30日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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