第十帖 賢木


10 SAKAKI (Ohoshima-bon)


光る源氏の二十三歳秋九月から二十五歳夏まで近衛大将時代の物語


Tale of Hikaru-Genji's Konoe-Daisho era from September at the age of 23 to summer at the age of 25

5
第五章 藤壺の物語 法華八講主催と出家


5  Tale of Fujitsubo  She becommes a nun

5.1
第一段 十一月一日、故桐壺院の御国忌


5-1  The first anniversary of Kiritsbo's death on November 1

5.1.1   中宮は、院の御はてのことにうち続き御八講のいそぎをさまざまに心づかひせさせたまひけり。
 中宮は、故院の一周忌の御法事に引き続き、御八講の準備にいろいろとお心をお配りあそばすのであった。
 中宮は院の御一周忌をお営みになったのに続いてまたあとに法華経ほけきょうの八講を催されるはずでいろいろと準備をしておいでになった。
  Tyuuguu ha, Win no ohom-hate no koto ni uti-tuduki, miha'kou no isogi wo samazama ni kokorodukahi se sase tamahi keri.
5.1.2   霜月の朔日ごろ、御国忌なるに、雪いたう降りたり。大将殿より宮に聞こえたまふ。
 霜月の上旬、御国忌の日に、雪がたいそう降った。大将殿から宮にお便り差し上げなさる。
 十一月の初めの御命日に雪がひどく降った。源氏から中宮へ歌が送られた。
  Simotuki no tuitati goro, miko'ki naru ni, yuki itau huri tari. Daisyaudono yori Miya ni kikoye tamahu.
5.1.3  「 別れにし今日は来れども見し人に
   行き逢ふほどをいつと頼まむ
 「故院にお別れ申した日がめぐって来ましたが、雪はふっても
  その人にまた行きめぐり逢える時はいつと期待できようか
  別れにし今日けふは来れども見し人に
  行きふほどをいつと頼まん
    "Wakare ni si kehu ha kure domo mi si hito ni
    yuki ahu hodo wo itu to tanoma m
5.1.4  いづこにも、今日はもの悲しう思さるるほどにて、御返りあり。
 どちらも、今日は物悲しく思わずにいらっしゃれない日なので、お返事がある。
 中宮のためにもお悲しい日で、すぐにお返事があった。
  Iduko ni mo, kehu ha mono-ganasiu obosa ruru hodo nite, ohom-kaheri ari.
5.1.5  「 ながらふるほどは憂けれど行きめぐり
   今日はその世に逢ふ心地して
 「生きながらえておりますのは辛く嫌なことですが
  一周忌の今日は、故院の在世中のような思いがいたしまして
  ながらふるほどはけれど行きめぐり
  今日はその世に逢ふ心地ここちして
    "Nagarahuru hodo ha ukere do yuki meguri
    kehu ha sono yo ni ahu kokoti si te
5.1.6  ことにつくろひてもあらぬ御書きざまなれど、あてに気高きは 思ひなしなるべし筋変はり今めかしうはあらねど、人にはことに書かせたまへり。今日は、 この御ことも思ひ消ちて、あはれなる雪の雫に濡れ濡れ行ひたまふ。
 格別に念を入れたのでもないお書きぶりだが、上品で気高いのは思い入れであろう。書風が独特で当世風というのではないが、他の人には優れてお書きあそばしている。今日は、宮へのご執心も抑えて、しみじみと雪の雫に濡れながら御追善の法事をなさる。
 巧みに書こうともしてない字が雅趣に富んだ気高けだかいものに見えるのも源氏の思いなしであろう。特色のある派手はでな字というのではないが決して平凡ではないのである。今日だけは恋も忘れて終日御父の院のために雪の中で仏勤めをして源氏は暮らしたのである。
  Koto ni tukurohi te mo ara nu ohom-kakizama nare do, ate ni kedakaki ha omohinasi naru besi. Sudi kahari imamekasiu ha ara ne do, hito ni ha koto ni kaka se tamahe ri. Kehu ha, kono ohom-koto mo omohiketi te, ahare naru yuki no siduku ni nure nure okonahi tamahu.
注釈385中宮は院の御はてのことにうち続き故桐壺院の一周忌の終わり。喪が明ける。5.1.1
注釈386御八講のいそぎ『法華経』全八巻を朝座・夕座の二度、四日間連続講説する法会。5.1.1
注釈387霜月の朔日ごろ、御国忌なるに、雪いたう降りたり故桐壺院の御命日、霜月の上旬、一日。5.1.2
注釈388別れにし今日は来れども見し人に--行き逢ふほどをいつと頼まむ源氏から藤壺への贈歌。「ゆき」は「雪」と「行き」の掛詞。「行き合ふ」は来世で再会する意。桐壺院に再会しえない悲しみの歌。5.1.3
注釈389ながらふるほどは憂けれど行きめぐり--今日はその世に逢ふ心地して藤壺の返歌。「永らふる」は「(雪が)降る」の掛詞、また「雪」の縁語。「ゆき」は「雪」と「行き」の掛詞。源氏が「いつと頼まむ」というのに対して、「今日はその世にあふ心ちして」と、いや、今日は命日で、故院に会えた気がすると答える。5.1.5
注釈390思ひなしなるべし「べし」(推量の助動詞)は、源氏の思い入れのせいであろう、という語り手の推量。5.1.6
注釈391筋変はり今めかしうはあらねど人にはことに書かせたまへり藤壺の筆跡を個性的で現代風ではないが、やはり人に優れて格別であるという。5.1.6
注釈392この御ことも思ひ消ちて藤壺に対する思慕。5.1.6
5.2
第二段 十二月十日過ぎ、藤壺、法華八講主催の後、出家す


5-2  Fujitsubo becommes a nun after her Hokehako ceremony

5.2.1   十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり。いみじう尊し。日々に供養ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の 表紙、帙簀の飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり。さらぬことのきよらだに、世の常ならずおはしませば、ましてことわりなり。仏の御飾り、花机のおほひなどまで、まことの極楽思ひやらる。
 十二月の十日過ぎころ、中宮の御八講である。たいそう荘厳である。毎日供養なさる御経をはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の装飾も、この世にまたとない様子に御準備させなさっていた。普通の催しでさえ、この世のものとは思えないほど立派にお作りになっていらっしゃるので、まして言うまでもない。仏像のお飾り、花机の覆いなどまで、本当の極楽浄土が思いやられる。
 十二月の十幾日に中宮の御八講があった。非常に崇厳すうごんな仏事であった。五日の間どの日にも仏前へ新たにささげられる経は、宝玉の軸にうすものの絹の表紙の物ばかりで、外包みの装飾などもきわめて精巧なものであった。日常の品にも美しい好みをお忘れにならない方であるから、まして御仏みほとけのためにあそばされたことが人目を驚かすほどの物であったことはもっともなことである。仏像の装飾、花机はなづくえおおいなどの華美さに極楽世界もたやすく想像することができた。
  Sihasu no towo yo ka bakari, Tyuuguu no miha'kau nari. Imiziu tahutosi. Hibi ni kuyauze sase tamahu mikyau yori hazime, tama no diku, ra no heusi, disu no kazari mo, yo ni naki sama ni totonohe sase tamahe ri. Saranu koto no kiyora dani, yo no tune nara zu ohasimase ba, masite kotowari nari. Hotoke no ohom-kazari, hanadukuye no ohohi nado made, makoto no Gokuraku omohiyara ru.
5.2.2   初めの日は、先帝の御料。次の日は、母后の御ため。またの日は、院の御料。五巻の日なれば、上達部なども、 世のつつましさをえしも憚りたまはで、いとあまた参りたまへり。今日の講師は、心ことに選らせたまへれば、「 薪こる」ほどよりうちはじめ、同じう言ふ言の葉も、いみじう尊し。親王たちも、さまざまの捧物ささげてめぐりたまふに、大将殿の御用意など、 なほ似るものなし 常におなじことのやうなれど、見たてまつるたびごとに、めづらしからむをば、いかがはせむ
 第一日は、先帝の御ため。第二日は、母后の御ため。次の日は、故院の御ため。第五巻目の日なので、上達部なども、世間の思惑に遠慮なさってもおれず、おおぜい参上なさった。今日の講師は、特に厳選あそばしていらっしゃるので、「薪こり」という讃歌をはじめとして、同じ唱える言葉でも、たいそう尊い。親王たちも、さまざまな供物を捧げて行道なさるが、大将殿のお心づかいなど、やはり他に似るものがない。いつも同じことのようだが、拝見する度毎に素晴らしいのは、どうしたらよいだろうか。
 初めの日は中宮の父帝の御菩提ぼだいのため、次の日は母后のため、三日目は院の御菩提のためであって、これは法華経の第五巻の講義のある日であったから、高官たちも現在の宮廷派の人々に斟酌しんしゃくをしていず数多く列席した。今日の講師にはことに尊い僧が選ばれていて「法華経はいかにして得したきぎこり菜摘み水み仕へてぞ得し」という歌の唱えられるころからは特に感動させられることが多かった。仏前に親王方もさまざまのささげ物を持っておいでになったが、源氏の姿が最も優美に見えた。筆者はいつも同じ言葉を繰り返しているようであるが、見るたびに美しさが新しく感ぜられる人なのであるからしかたがないのである。
  Hazime no hi ha, Sendai no goreu. Tugi no hi ha, Hahakisaki no ohom-tame. Mata no hi ha, Win no goreu. Gokwan no hi nare ba, Kamdatime nado mo, yo no tutumasisa wo e simo habakari tamaha de, ito amata mawiri tamahe ri. Kehu no Kauzi ha, kokoro koto ni era se tamahe re ba, "Takigi koru" hodo yori uti-hazime, onaziu ihu kotonoha mo, imiziu tahutosi. Miko-tati mo, samazama no houmoti sasage te meguri tamahu ni, Daisyaudono no ohom-youi nado, naho niru mono nasi. Tune ni onazi koto no yau nare do, mi tatematuru tabi goto ni, medurasikara m wo ba, ikaga ha se m.
5.2.3  果ての日、わが御ことを結願にて、世を背きたまふよし、 仏に申させたまふに、皆人びと驚きたまひぬ。兵部卿宮、大将の御心も動きて、 あさましと思す
 最終日は、御自身のことを結願として、出家なさる旨、仏に僧からお申し上げさせなさるので、参集の人々はお驚きになった。兵部卿宮、大将がお気も動転して、驚きあきれなさる。
 最終の日は中宮御自身が御仏に結合を誓わせられるための供養になっていて、御自身の御出家のことがこの儀式の場で仏前へ報告されて、だれもだれも意外の感に打たれた。兵部卿ひょうぶきょうの宮のお心も、源氏の大将の心もあわてた。驚きの度をどの言葉が言い現わしえようとも思えない。
  Hate no hi, waga ohom-koto wo ketigwan nite, yo wo somuki tamahu yosi, Hotoke ni mausa se tamahu ni, mina hitobito odoroki tamahi nu. Hyaubukyau-no-Miya, Daisyau no mikokoro mo ugoki te, asamasi to obosu.
5.2.4  親王は、なかばのほどに立ちて、入りたまひぬ。心強う思し立つさまのたまひて、果つるほどに、 山の座主召して、忌むこと受けたまふべきよし、のたまはす。 御伯父の横川の僧都、近う参りたまひて、 御髪下ろしたまふほどに 、宮の内ゆすりて、ゆゆしう泣きみちたり。何となき老い衰へたる人だに、今はと世を背くほどは、あやしうあはれなるわざを、まして、かねての御けしきにも出だしたまはざりつることなれば、親王もいみじう泣きたまふ。
 親王は、儀式の最中に座を立って、お入りになった。御決心の固いことをおっしゃって、終わりころに、山の座主を召して、戒をお受けになる旨、仰せになる。御伯父の横川の僧都、お近くに参上なさって、お髪を下ろしなさる時、宮邸中どよめいて、不吉にも泣き声が満ちわたった。たいしたこともない老い衰えた人でさえ、今は最後と出家をする時は、不思議と感慨深いものなのだが、まして、前々からお顔色にもお出しにならなかったことなので、親王もひどくお泣きになる。
 宮は式の半ばで席をお立ちになって簾中れんちゅうへおはいりになった。中宮は堅い御決心を兄宮へお告げになって、叡山えいざん座主ざすをお招きになって、授戒のことを仰せられた。伯父おじ君にあたる横川よかわ僧都そうずが帳中に参っておぐしをお切りする時に人々の啼泣ていきゅうの声が宮をうずめた。平凡な老人でさえいよいよ出家するのを見ては悲しいものである。まして何の予告もあそばさずにたちまちに脱履の実行をなされたのであるから、兵部卿の宮も非常にお悲しみになった。
  Miko ha, nakaba no hodo ni tati te, iri tamahi nu. Kokoroduyou obositatu sama notamahi te, haturu hodo ni, Yama-no-Zasu mesi te, imu koto uke tamahu beki yosi, notamaha su. Ohom-wodi no Yokaha-no-Soudu, tikau mawiri tamahi te, migusi orosi tamahu hodo ni, Miya no uti yusuri te, yuyusiu naki miti tari. Nani to naki oyi otorohe taru hito dani, ima ha to yo wo somuku hodo ha, ayasiu ahare naru waza wo, masite, kanete no mikesiki ni mo idasi tamaha zari turu koto nare ba, Miko mo imiziu naki tamahu.
5.2.5  参りたまへる人びとも、おほかたのことのさまも、 あはれに尊ければ、みな、袖濡らしてぞ帰りたまひける。
 参集なさった方々も、大方の成り行きも、しみじみ尊いので、皆、袖を濡らしてお帰りになったのであった。
 参列していた人々も同情の禁ぜられない中宮のお立場と、この寂しい結末の場を拝して泣く者が多かった。
  Mawiri tamahe ru hitobito mo, ohokata no koto no sama mo, ahare ni tahutokere ba, mina, sode nurasi te zo kaheri tamahi keru.
5.2.6   故院の御子たちは、昔の御ありさまを思し出づるに、いとど、あはれに悲しう思されて、みな、とぶらひきこえたまふ。 大将は、立ちとまりたまひて、聞こえ出でたまふべきかたもなく、暮れまどひて思さるれど、「 などか、さしも 」と、人見たてまつるべければ、 親王など出でたまひぬる後にぞ、御前に参りたまへる。
 故院の皇子たちは、在世中の御様子をお思い出しになると、ますます、しみじみと悲しく思わずにはいらっしゃれなくて、皆、お見舞いの詞をお掛け申し上げなさる。大将は、お残りになって、お言葉かけ申し上げるすべもなく、目の前がまっ暗闇に思われなさるが、「どうして、そんなにまで」と、人々がお見咎め申すにちがいないので、親王などがお出になった後に、御前に参上なさった。
 院の皇子方は、父帝がどれほど御愛寵あいちょうなされたおきさきであったかを、現状のお気の毒さに比べて考えては皆暗然としておいでになった。方々かたがたは慰問の御挨拶あいさつをなされたのであるが、源氏は最後に残って、驚きと悲しみに言葉も心も失った気もしたが、人目が考えられ、やっと気を引き立てるようにしてお居間へ行った。
  Ko-Win no Miko-tati ha, mukasi no ohom-arisama wo obosi iduru ni, itodo, ahare ni kanasiu obosa re te, mina, toburahi kikoye tamahu. Daisyau ha, tatitomari tamahi te, kikoye ide tamahu beki kata mo naku, kuremadohi te obosa rure do, "Nadoka, sasimo." to, hito mitatematuru bekere ba, Miko nado ide tamahi nuru noti ni zo, omahe ni mawiri tamahe ru.
5.2.7  やうやう人静まりて、女房ども、鼻うちかみつつ、所々に群れゐたり。 月は隈なきに、雪の光りあひたる庭のありさまも、昔のこと思ひやらるるにいと堪へがたう思さるれど 、いとよう思し静めて、
 だんだんと人の気配が静かになって、女房連中、鼻をかみながら、あちこちに群れかたまっていた。月は隈もなく照って、雪が光っている庭の様子も、昔のことが遠く思い出されて、とても堪えがたく思われなさるが、じっとお気持ちを鎮めて、
 落ち着かれずに人々がうろうろしたことや、すすり泣きの声もひとまずやんで、女房は涙をふきながらあなたこなたにかたまっていた。明るい月が空にあって、雪の光と照り合っている庭をながめても、院の御在世中のことが目に浮かんできて堪えがたい気のするのを源氏はおさえて、
  Yauyau hito sidumari te, nyoubau-domo, hana uti-kami tutu, tokorodokoro ni mure wi tari. Tuki ha kuma naki ni, yuki no hikari ahi taru niha no arisama mo, mukasi no koto omohi yara ruru ni, ito tahegatau obosa rure do, ito you obosi sidume te,
5.2.8  「 いかやうに思し立たせたまひて、かうにはかには
 「どのように御決意あそばして、このように急な」
 「何が御動機になりまして、こんなに突然な御出家をあそばしたのですか」
  "Ikayau ni obosi tata se tamahi te, kau nihaka ni ha?"
5.2.9  と聞こえたまふ。
 とお尋ね申し上げになる。
 と挨拶を取り次いでもらった。
  to kikoye tamahu.
5.2.10  「 今はじめて、思ひたまふることにもあらぬを、ものさわがしきやうなりつれば、心乱れぬべく
 「今初めて、決意致したのではございませんが、何となく騒々しいようになってしまったので、決意も揺らいでしまいそうで」
 「これはただ今考えついたことではなかったのですが、昨年の悲しみがありました時、すぐにそういたしましては人騒がせにもなりますし、それでまた私自身も取り乱しなどしてはと思いまして」
  "Ima hazime te, omohi tamahuru koto ni mo ara nu wo, mono-sawagasiki yau nari ture ba, kokoro midare nu beku."
5.2.11  など、例の、命婦して聞こえたまふ。
 などと、いつものように、命婦を通じて申し上げなさる。
 例の命婦みょうぶがお言葉を伝えたのである。
  nado, rei no, Myaubu site kikoye tamahu.
5.2.12  御簾のうちのけはひ、そこら集ひさぶらふ人の衣の音なひ、しめやかに 振る舞ひなして、うち身じろきつつ、悲しげさの慰めがたげに漏り聞こゆるけしき、ことわりに、いみじと聞きたまふ。
 御簾の中の様子、おおぜい伺候している女房の衣ずれの音、わざとひっそりと気をつけて、振る舞い身じろぎながら、悲しみが慰めがたそうに外へ漏れくる様子、もっともなことで、悲しいと、お聞きになる。
 源氏は御簾みすの中のあらゆる様子を想像して悲しんだ。おおぜいの女の衣摺きぬずれなどから、身もだえしながら悲しみをおさえているのがわかるのであった。
  Misu no uti no kehahi, sokora tudohi saburahu hito no kinu no otonahi, simeyaka ni hurumahi nasi te, uti-miziroki tutu, kanasigesa no nagusame gatage ni mori kikoyuru kesiki, kotowari ni, imizi to kiki tamahu.
5.2.13   風、はげしう吹きふぶきて、御簾のうちの匂ひ、いともの深き 黒方にしみて、 名香の煙もほのかなり。大将の御匂ひさへ薫りあひ、めでたく、極楽思ひやらるる夜のさまなり。
 風、激しく吹き吹雪いて、御簾の内の匂い、たいそう奥ゆかしい黒方に染み込んで、名香の煙もほのかである。大将の御匂いまで薫り合って、素晴らしく、極楽浄土が思いやられる今夜の様子である。
 風がはげしく吹いて、御簾の中の薫香くんこうの落ち着いた黒方香くろぼうこうの煙も仏前の名香のにおいもほのかにれてくるのである。源氏の衣服の香もそれに混じって極楽が思われる夜であった。
  Kaze, hagesiu huki hubuki te, misu no uti no nihohi, ito mono-hukaki kurobou ni simi te, myaugau no keburi mo honoka nari. Daisyau no ohom-nihohi sahe kawori ahi, medetaku, Gokuraku omohiyara ruru yo no sama nari.
5.2.14  春宮の御使も参れり。 のたまひしさま、思ひ出できこえさせたまふにぞ、御心強さも堪へがたくて、御返りも聞こえさせやらせたまはねば、大将ぞ、言加はへ聞こえたまひける。
 春宮からの御使者も参上した。仰せになった時のこと、お思い出しあそばされると、固い御決意も堪えがたくて、お返事も最後まで十分にお申し上げあそばされないので、大将が、言葉をお添えになったのであった。
 東宮のお使いも来た。お別れの前に東宮のお言いになった言葉などが宮のお心にまた新しくよみがえってくることによって、冷静であろうとあそばすお気持ちも乱れて、お返事の御挨拶を完全にお与えにならないので、源氏がお言葉を補った。
  Touguu no ohom-tukahi mo mawire ri. Notamahi si sama, omohi ide kikoye sase tamahu ni zo, mikokoroduyosa mo tahegataku te, ohom-kaheri mo kikoye sase yara se tamaha ne ba, Daisyau zo, koto kuhahe kikoye tamahi keru.
5.2.15  誰も誰も、ある限り心収まらぬほどなれば、思すことどもも、えうち出でたまはず。
 どなたもどなたも、皆が悲しみに堪えられない時なので、思っていらっしゃる事なども、おっしゃれない。
 だれもだれも常識を失っているといってもよいほど悲しみに心を乱しているおりからであるから、不用意に秘密のうかがわれる恐れのある言葉などは発せられないと源氏は思った。
  Tare mo tare mo, aru kagiri kokoro wosamara nu hodo nare ba, obosu koto-domo mo, e uti-ide tamaha zu.
5.2.16  「 月のすむ雲居をかけて慕ふとも
   この世の闇になほや惑はむ
 「月のように心澄んだ御出家の境地をお慕い申しても
  なおも子どもゆえのこの世の煩悩に迷い続けるのであろうか
  「月のすむ雲井をかけてしたふとも
  このよのやみになほや惑はん
    "Tuki no sumu kumowi wo kake te sitahu tomo
    konoyo no yami ni naho ya madoha m
5.2.17   と思ひたまへらるるこそ 、かひなく。思し立たせたまへる 恨めしさは、限りなう
 と存じられますのが、どうにもならないことで。出家を御決意なさった恨めしさは、この上もなく」
 私にはそう思えますが、御出家のおできになったお心持ちには敬服いたされます」
  to omohi tamahe ra ruru koso, kahinaku. Obositata se tamahe ru uramesisa ha, kagirinau."
5.2.18  とばかり聞こえたまひて、人びと近うさぶらへば、さまざま乱るる心のうちをだに、え聞こえあらはしたまはず、いぶせし。
 とだけお申し上げになって、女房たちがお側近くに伺候しているので、いろいろと乱れる心中の思いさえ、お表し申すことができないので、気が晴れない。
 とだけ言って、お居間に女房たちも多い様子であったから源氏は捨てられた男の悲痛な心持ちを簡単な言葉にして告げることもできなかった。
  to bakari kikoye tamahi te, hitobito tikau saburahe ba, samazama midaruru kokoro no uti wo dani, e kikoye arahasi tamaha zu, ibusesi.
5.2.19  「 おほふかたの憂きにつけては厭へども
   いつかこの世を背き果つべき
 「世間一般の嫌なことからは離れたが、子どもへの煩悩は
  いつになったらすっかり離れ切ることができるのであろうか
  「大方おほかたきにつけてはいとへども
  いつかこの世をそむきはつべき
    "Ohohukata no uki ni tuke te ha itohe domo
    ituka konoyo wo somuki hatu beki
5.2.20   かつ、濁りつつ
 一方では、煩悩を断ち切れずに」
 りっぱな信仰を持つようにはいつなれますやら」
  Katu, nigori tutu."
5.2.21  など、 かたへは御使の心しらひなるべし。あはれのみ尽きせねば、胸苦しうてまかでたまひぬ。
 などと、半分は取次ぎの女房のとりなしであろう。悲しみの気持ちばかりが尽きないので、胸の苦しい思いで退出なさった。
 宮の御挨拶は東宮へのお返事を兼ねたお心らしかった。悲しみに堪えないで源氏は退出した。
  nado, katahe ha ohom-tukahi no kokorosirahi naru besi. Ahare nomi tukise ne ba, mune kurusiu te makade tamahi nu.
注釈393十二月十余日ばかり中宮の御八講なり藤壺、十二月十日過ぎに御八講を催す。5.2.1
注釈394表紙(へうし) 大島本は朱筆で「こし(己之)」を抹消しその傍らに「うし(宇之)」と訂正する。似た字体の誤写訂正である。5.2.1
注釈395初めの日は第一日は藤壺の父帝、第二日は母后、第三日は夫桐壺院のため、その朝座は『法華経』第五巻を講じる日なので、上達部他大勢参加。最終日の第四日は自分のために行う。5.2.2
注釈396世のつつましさを右大臣方の権勢への遠慮。5.2.2
注釈397薪こるほどより薪の行道と称して、薪や水桶を持ち、捧物を持って、堂や池の回りを廻り歩きながら、次の和歌を唱える。『異本紫明抄』は「法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し」(拾遺集哀傷、一三四六、大僧正行基)を指摘する。5.2.2
注釈398なほ似るものなし大島本は朱筆で「もの」を補入する。5.2.2
注釈399常におなじことのやうなれど見たてまつるたびごとにめづらしからむをばいかがはせむ語り手の源氏賞賛の文章。『弄花抄』が「記者詞なり」と指摘。『評釈』は「語り手は、いつもの事なのだが、やはり立派なので、と弁解する。その日その目で源氏の大将を見た女房が、こう弁解するのである」という。5.2.2
注釈400仏に申させたまふに「させ」は使役の助動詞。僧をして仏に申し上げさせなさるの意。5.2.3
注釈401あさましと思す『集成』は「どうしたことかと」の意に解し、『完訳』は「あまりにも意外なこととお思いになる」の意に解す。5.2.3
注釈402山の座主天台座主。比叡山の最高位の僧侶。5.2.4
注釈403御伯父の横川の僧都藤壺は先帝の四宮であるから、母方の伯父(叔父)であろう。5.2.4
注釈404御髪下ろしたまふほどに大島本は朱筆で「おろし」を補入する。5.2.4
注釈405あはれに尊ければ大島本は「あはれたうとけれは」とある。『新大系』『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「あはれに」と「に」を補訂する。5.2.5
注釈406故院の御子たちは桐壺院の御子息たち。5.2.6
注釈407大将は立ちとまりたまひて『集成』は「お残りになって」の意に解し、『完訳』は「源氏だけは、茫然自失のあまり、その席を動くことも、言葉をかけることもできない」と注す。5.2.6
注釈408などかさしも大島本は朱筆で「なと」を補入する。どうしてそんなにまで深く悲しんでいるのだろうの意。5.2.6
注釈409親王など「親王」は藤壺の兄兵部卿親王を代表的に語ったもの。5.2.6
注釈410月は隈なきに雪の光りあひたる庭のありさまも昔のこと思ひやらるるに「十二月十余日ばかり」とあった。満月に近い月である。藤壺の心境と冬の夜の清澄な月の光に照らし出された雪の庭の描写は景情一致の表現。後の「朝顔」巻にも見られる。5.2.7
注釈411いと堪へがたう思さるれど大島本は朱筆で「ほ」を補入する。5.2.7
注釈412いかやうに思し立たせたまひてかうにはかには源氏の藤壺への詞。急に出家した理由を尋ねる。5.2.8
注釈413今はじめて思ひたまふることにもあらぬをものさわがしきやうなりつれば心乱れぬべく藤壺の返事。ずっと以前から考えていたことであるという。物さはかしきやうなりつれは-先程の藤壺出家の折とみる説と、桐壺院崩御の折と見る説とがある。『集成』『完訳』は前者の説に従って解す。5.2.10
注釈414振る舞ひなして「なす」があることによって、ことさら気をつけてのニュアンス。5.2.12
注釈415風はげしう吹きふぶきて風と雪が烈しく吹雪く夜のさま。5.2.13
注釈416黒方黒方の香。冬の香。「いと物ふかき」香とある。5.2.13
注釈417名香仏に供える香。「煙もほのかなり」とある。5.2.13
注釈418のたまひしさま藤壺が出家の意向を伝えたときに、東宮が「式部がやうにや。いかでか、さはなりたまはむ」「久しうおはせぬは、恋しきものを」と言ったことをさす。5.2.14
注釈419月のすむ雲居をかけて慕ふとも--この世の闇になほや惑はむ源氏の藤壺への贈歌。「すむ」は「澄む」と「住む」、「この」は「此の」と「子の」、「よ」は「夜」と「世」の掛詞。「人のおやの心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)。『完訳』は「出家の跡を慕いつつも、実子東宮ゆえの心の闇から現世の妄執に迷うとする歌」と注す。5.2.16
注釈420と思ひたまへらるるこそ大島本は「と思給ハらるゝ」とある。『新大系』は「と思給はるるこそ」のままとし、語法不審。青表紙諸本多くの「思ひ給うへらるるこそ」に訂正して解すべきか」と注す。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「と思ひたまへらるるこそ」と校訂する。以下「限りなう」まで、歌に添えた言葉。5.2.17
注釈421恨めしさは限りなう大島本は「うらめしさハ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「うらやましさは」と校訂する。5.2.17
注釈422おほふかたの憂きにつけては厭へども--いつかこの世を背き果つべき大島本は「おほふかたの」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おほかたの」と校訂する。藤壺の返歌。源氏の「この世」を受けて、「此の」に「子の」を掛け、自分もわが子のことが気掛かりでならないと返す。5.2.19
注釈423かつ濁りつつ歌に添えた言葉。引歌があるらしいが、未詳。『完訳』は「一方では悟りすましつつも、一方では煩悩に悩みつつ」の意に解す。5.2.20
注釈424かたへは御使の心しらひなるべし語り手の挿入句。『細流抄』は「草子地也」と指摘。『評釈』は「期待する読者に対し、作者がこう弁解するのである。宮の御自作ではない、と」と注す。『完訳』は「女らしからぬ論理的な歌いぶりに注目」という。5.2.21
出典17 この世の闇になほや惑はむ 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな 後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔 5.2.16
校訂39 表紙 表紙--へこし(こし/$うし<朱>) 5.2.1
校訂40 似るもの 似るもの--にる(る/+もの<朱>) 5.2.2
校訂41 下ろし 下ろし--(+おろし<朱>) 5.2.4
校訂42 などか などか--(/+なと<朱>)か 5.2.6
校訂43 思さるれど 思さるれど--お(お/+ほ<朱>)さるれと(と/$と) 5.2.7
校訂44 たまへらるる たまへらるる--*給はらるゝ 5.2.17
5.3
第三段 後に残された源氏


5-3  Genji is left behind Fujitsbo gotten into religion

5.3.1   殿にても、わが御方に一人うち臥したまひて、御目もあはず、世の中厭はしう思さるるにも、春宮の御ことのみぞ心苦しき。
 お邸でも、ご自分のお部屋でただ独りお臥せりになって、お眠りになることもできず、世の中が厭わしく思われなさるにつけても、春宮の御身の上のことばかりが気がかりである。
 二条の院へ帰っても西の対へは行かずに、自身の居間のほうに一人しをしたが眠りうるわけもない。ますます人生が悲しく思われて自身も僧になろうという心の起こってくるのを、そうしては東宮がおかわいそうであると思い返しもした。
  Tono nite mo, waga ohom-kata ni hitori uti-husi tamahi te, ohom-me mo aha zu, yononaka itohasiu obosa ruru ni mo, Touguu no ohom-koto nomi zo kokorogurusiki.
5.3.2  「 母宮をだに 朝廷がたざまにと、思しおきしを、世の憂さに堪へず、かくなりたまひにたれば、もとの御位にてもえおはせじ。我さへ 見たてまつり捨てては」など、思し明かすこと限りなし。
 「せめて母宮だけでも表向きの御後見役にと、お考えおいておられたのに、世の中の嫌なことに堪え切れず、このようにおなりになってしまったので、もとの地位のままでいらっしゃることもおできになれまい。自分までがご後見申し上げなくなってしまったら」などと、お考え続けなさり、夜を明かすこと、一再でない。
 せめて母宮だけを最高の地位に置いておけばと院は思召したのであったが、その地位も好意を持たぬ者の苦しい圧迫のためにお捨てになることになった。尼におなりになってはきさきとしての御待遇をお受けになることもおできにならないであろうし、その上自分までが東宮のお力になれぬことになってはならないと源氏は思うのである。夜通しこのことを考え抜いて
  "Hahamiya wo dani ohoyakegata zama ni to, obosioki si wo, yo no usa ni tahe zu, kaku nari tamahi ni tare ba, moto no mikurawi nite mo e ohase zi. Ware sahe mi tatematuri sute te ha." nado, obosi akasu koto kagirinasi.
5.3.3  「今は、かかるかたざまの御調度どもをこそは」と思せば、年の内にと、急がせたまふ。命婦の君も御供になりにければ、それも心深うとぶらひたまふ。 詳しう言ひ続けむに、ことことしきさまなれば、漏らしてけるなめり。さるは、 かうやうの折こそ、をかしき歌など出で来るやうもあれ、さうざうしや
 「今となっては、こうした方面の御調度類などを、さっそくに」とお思いになると、年内にと考えて、お急がせなさる。命婦の君もお供して出家してしまったので、その人にも懇ろにお見舞いなさる。詳しく語ることも、仰々しいことになるので、省略したもののようである。実のところ、このような折にこそ、趣の深い歌なども出てくるものだが、物足りないことよ。
 最後に源氏は中宮のために尼僧用のお調度、お衣服を作ってさしあげる善行をしなければならぬと思って、年内にすべての物を調えたいと急いだ。王命婦おうみょうぶもお供をして尼になったのである。この人へも源氏は尼用の品々を贈った。こんな場合にりっぱな詩歌しいかができてよいわけであるから、宮の女房の歌などが当時の詳しい記事とともに見いだせないのを筆者は残念に思う。
  "Ima ha, kakaru kata zama no miteudo-domo wo koso ha." to obose ba, tosi no uti ni to, isoga se tamahu. Myaubu-no-Kimi mo ohom-tomo ni nari ni kere ba, sore mo kokorohukau toburahi tamahu. Kuhasiu ihi tuduke m ni, kotokotosiki sama nare ba, morasi te keru na' meri. Saruha, kauyau no wori koso, wokasiki uta nado ide kuru yau mo are, sauzausi ya!
5.3.4   参りたまふも、今はつつましさ薄らぎて、御みづから聞こえたまふ折もありけり。思ひしめてしことは、さらに御心に離れねど、まして、あるまじきことなりかし。
 参上なさっても、今は遠慮も薄らいで、御自身でお話を申し上げなさる時もあるのであった。ご執心であったことは、全然お心からなくなってはないが、言うまでもなく、あってはならないことである。
 源氏が三条の宮邸を御訪問することも気楽にできるようになり、宮のほうでも御自身でお話をあそばすこともあるようになった。少年の日から思い続けた源氏の恋は御出家によって解消されはしなかったが、これ以上に御接近することは源氏として、今日考えるべきことでなかったのである。
  Mawiri tamahu mo, ima ha tutumasisa usuragi te, ohom-midukara kikoye tamahu wori mo ari keri. Omohisime te si koto ha, sarani mikokoro ni hanare ne do, masite, aru maziki koto nari kasi.
注釈425殿にてもわが御方に一人うち臥したまひて藤壺出家後、源氏、情勢を思いめぐらす。5.3.1
注釈426母宮をだに以下「見たてまつり捨てては」まで、源氏の心中。5.3.2
注釈427朝廷がたざまにと思しおきしを大島本は「おほしをきし越」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「思しおきてしを」と校訂する。故桐壺院が藤壺を。5.3.2
注釈428見たてまつり捨てては春宮を。5.3.2
注釈429詳しう言ひ続けむにことことしきさまなれば漏らしてけるなめり語り手の弁。「漏らしてける」人は、この語り手の前の語り手。『弄花抄』は「記者筆也」と指摘。『集成』は「源氏がどんな贈り物をしたか、どんなやりとりがあったを書かないことに対する物語筆記者の女房の言い訳。草子地の文」と注す。『完訳』は「以下、語り手が語り漏したとする言辞。省筆により、かえって読者の想像力を喚起」と注す。5.3.3
注釈430かうやうの折こそをかしき歌など出で来るやうもあれさうざうしや語り手の弁。前語り手が歌を伝えてくれなかったことは不満である、という物語作者のポーズ。5.3.3
注釈431参りたまふも今はつつましさ薄らぎて藤壺のもとに参上するにも、出家した身なので、気兼ねも薄らいだという意。5.3.4
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渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
小林繁雄(青空文庫)

2003年7月13日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年10月30日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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