第十帖 賢木


10 SAKAKI (Ohoshima-bon)


光る源氏の二十三歳秋九月から二十五歳夏まで近衛大将時代の物語


Tale of Hikaru-Genji's Konoe-Daisho era from September at the age of 23 to summer at the age of 25

6
第六章 光る源氏の物語 寂寥の日々


6  Tale of Hikaru-Genji

6.1
第一段 諒闇明けの新年を迎える


6-1  It becomes a happy New Year

6.1.1   年も変はりぬれば、内裏わたりはなやかに、 内宴、踏歌など聞きたまふも、もののみあはれにて、御行なひしめやかにしたまひつつ、後の世のことをのみ思すに、頼もしく、むつかしかりしこと、離れて思ほさる。常の御念誦堂をば、さるものにて、ことに建てられたる御堂の、西の対の 南にあたりて、すこし離れたるに渡らせたまひて、とりわきたる御行なひせさせたまふ。
 年も改まったので、宮中辺りは賑やかになり、内宴、踏歌などとお聞きになっても、何となくしみじみとした気持ちばかりせられて、御勤行をひっそりとなさりながら、来世のことばかりをお考えになると、末頼もしく、厄介に思われたこと、遠い昔の事に思われる。いつもの御念誦堂は、それはそれとして、特別に建立された御堂の、西の対の南に当たって、少し離れた所にお渡りあそばして、格別に心をこめた御勤行をあそばす。
 春になった。御所では内宴とか、踏歌とうかとか続いてはなやかなことばかりが行なわれていたが中宮は人生の悲哀ばかりを感じておいでになって、後世ごせのための仏勤めに励んでおいでになると、頼もしい力もおのずから授けられつつある気もあそばされたし、源氏の情火からのがれえられたことにもおよろこびがあった。お居間に隣った念誦ねんずの室のほかに、新しく建築された御堂みどうが西の対の前を少し離れた所にあってそこではまた尼僧らしい厳重な勤めをあそばされた。
  Tosi mo kahari nure ba, Uti watari hanayaka ni, naien, tahuka nado kiki tamahu mo, mono nomi ahare nite, ohom-okonahi simeyaka ni si tamahi tutu, notinoyo no koto wo nomi obosu ni, tanomosiku, mutukasikari si koto, hanare te omohosa ru. Tune no ohom-nenzudau wo ba, saru mono nite, koto ni tate rare taru midau no, nisinotai no minami ni atari te, sukosi hanare taru ni watara se tamahi te, toriwaki taru ohom-okonahi se sase tamahu.
6.1.2  大将、参りたまへり。改まるしるしもなく、宮の内のどかに、人目まれにて、宮司どもの親しきばかり、うちうなだれて、 見なしにやあらむ、屈しいたげに思へり。
 大将、参賀に上がった。新年らしく感じられるものもなく、宮邸の中はのんびりとして、人目も少なく、中宮職の者で親しい者だけ、ちょっとうなだれて、思いなしであろうか、思い沈んだふうに見える。
 源氏が伺候した。正月であっても来訪者はまれで、お付き役人の幾人だけが寂しい恰好かっこうをして、力のないふうに事務を取っていた。
  Daisyau, mawiri tamahe ri. Aratamaru sirusi mo naku, Miya no uti nodoka ni, hitome mare nite, Miyadukasa-domo no sitasiki bakari, uti-unadare te, minasi ni ya ara m, ku'si itage ni omohe ri.
6.1.3   白馬ばかりぞ、なほ牽き変へぬものにて、女房などの見ける。所狭う参り集ひたまひし 上達部など 、道を避きつつひき過ぎて、 向かひの大殿に集ひたまふを、かかるべきことなれど、あはれに思さるるに、千人にも変へつべき御さまにて、深うたづね参りたまへるを見るに、あいなく涙ぐまる。
 白馬の節会だけは、やはり昔に変わらないものとして、女房などが見物した。所狭しと参賀に参集なさった上達部など、道を避け避けして通り過ぎて、向かいの大殿に参集なさるのを、こういうものであるが、しみじみと感じられるところに、一人当千といってもよいご様子で、志深く年賀に参上なさったのを見ると、無性に涙がこぼれる。
 白馬あおうま節会せちえであったから、これだけはこの宮へも引かれて来て、女房たちが見物したのである。高官が幾人となく伺候していたようなことはもう過去の事実になって、それらの人々は宮邸を素通りして、向かい側の現太政大臣邸へ集まって行くのも、当然といえば当然であるが、寂しさに似た感じを宮もお覚えになった。そんな所へ千人の高官にあたるような姿で源氏がわざわざ参賀に来たのを御覧になった時は、わけもなく宮は落涙をあそばした。
  Awomuma bakari zo, naho hiki-kahe nu mono nite, nyoubau nado no mi keru. Tokoroseu mawiri tudohi tamahi si Kamdatime nado, miti wo yoki tutu hiki-sugi te, mukahi no Ohoidono ni tudohi tamahu wo, kakaru beki koto nare do, ahare ni obosa ruru ni, sennin ni mo kahe tu beki ohom-sama nite, hukau tadune mawiri tamahe ru wo miru ni, ainaku namidagumaru.
6.1.4  客人も、いとものあはれなるけしきに、うち見まはしたまひて、とみに物ものたまはず。さま変はれる御住まひに、御簾の端、御几帳も青鈍にて、隙々よりほの見えたる薄鈍、梔子の袖口など、なかなかなまめかしう、奥ゆかしう思ひやられたまふ。「解けわたる池の薄氷、岸の柳のけしきばかりは、時を忘れぬ」など、さまざま眺められたまひて、「 むべも心ある」と 、忍びやかにうち誦じたまへる、またなうなまめかし。
 客人も、たいそうしみじみとした様子に、見回しなさって、直ぐにはお言葉も出ない。様変わりしたお暮らしぶりで、御簾の端、御几帳も青鈍色になって、隙間隙間から微かに見えている薄鈍色、くちなし色の袖口など、かえって優美で、奥ゆかしく想像されなさる。「一面に解けかかっている池の薄氷、岸の柳の芽ぶきは、時節を忘れていない」などと、あれこれと感慨を催されて、「なるほど情趣を解する」と、ひっそりと朗唱なさっている、またとなく優美である。
 源氏もなんとなく身にしむふうにあたりをながめていて、しばらくの間はものが言えなかった。純然たる尼君のお住居すまいになって、御簾みすふちの色も几帳きちょうにび色であった。そんな物の間から見えるのも女房たちの淡鈍うすにび色の服、黄色な下襲したがさね袖口そでぐちなどであったが、かえってえんに上品に見えないこともなかった。解けてきた池の薄氷にも、芽をだしそめた柳にも自然の春だけが見えて、いろいろに源氏の心をいたましくした。「音に聞く松が浦島うらしま今日ぞ見るうべ心ある海人あまは住みけり」という古歌を口ずさんでいる源氏の様子が美しかった。
  Marauto mo, ito mono-ahare naru kesiki ni, uti-mimahasi tamahi te, tomi ni mono mo notamaha zu. Sama kahare ru ohom-sumahi ni, misu no hasi, mikityau mo awonibi nite, hima hima yori hono-miye taru usunibi, kutinasi no sodeguti nado, nakanaka namamekasiu, okuyukasiu omohiyara re tamahu. "Toke wataru ike no usugohori, kisi no yanagi no kesiki bakari ha, toki wo wasure nu." nado, samazama nagame rare tamahi te, "Mube mo kokoro aru." to, sinobiyaka ni uti-zuzi tamahe ru, mata nau namamekasi.
6.1.5  「 ながめかる海人のすみかと見るからに
   まづしほたるる松が浦島
 「物思いに沈んでいらっしゃるお住まいかと存じますと
  何より先に涙に暮れてしまいます
  ながめかる海人の住処すみかと見るからに
  まづしほたるる松が浦島
    "Nagame karu ama no sumika to miru kara ni
    madu sihotaruru Matu-ga-urasima
6.1.6  と聞こえたまへば、奥深うもあらず、みな仏に譲りきこえたまへる御座所なれば、すこしけ近き心地して、
 と申し上げなさると、奥深い所でもなく、すべて仏にお譲り申していらっしゃる御座所なので、ちょっと身近な心地がして、
 と源氏は言った。今はお座敷の大部分を仏に譲っておいでになって、お居間は端のほうへ変えられたお住居すまいであったから、宮の御座と源氏自身の座の近さが覚えられて、
  to kikoye tamahe ba, okuhukau mo ara zu, mina Hotoke ni yuduri kikoye tamahe ru omasi dokoro nare ba, sukosi kedikaki kokoti si te,
6.1.7  「 ありし世のなごりだになき浦島に
   立ち寄る波のめづらしきかな
 「昔の俤さえないこのような所に
  立ち寄ってくださるとは珍しいですね
  ありし世の名残なごりだになき浦島に
  立ちよる波のめづらしきかな
    "Arisi yo no nagori dani naki Urasima ni
    tatiyoru nami no medurasiki kana
6.1.8  とのたまふも、ほの聞こゆれば、忍ぶれど、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。世を思ひ澄ましたる尼君たちの見るらむも、はしたなければ、言少なにて出でたまひぬ。
 とおっしゃるのが、微かに聞こえるので、堪えていたが、涙がほろほろとおこぼれになった。世の中を悟り澄ましている尼君たちが見ているだろうのも、体裁が悪いので、言葉少なにしてお帰りになった。
 と取り次ぎの女房へお教えになるお声もほのかに聞こえるのであった。源氏の涙がほろほろとこぼれた。今では人生を悟りきった尼になっている女房たちにこれを見られるのが恥ずかしくて、長くはいずに源氏は退出した。
  to notamahu mo, hono-kikoyure ba, sinobure do, namida horohoro to kobore tamahi nu. Yo wo omohi sumasi taru Amagimi-tati no miru ram mo, hasitanakere ba, koto zukuna nite ide tamahi nu.
6.1.9  「 さも、たぐひなくねびまさりたまふかな」
 「なんと、またとないくらい立派にお成りですこと」
 「ますますごりっぱにお見えになる。
  "Samo, taguhinaku nebimasari tamahu kana!"
6.1.10  「心もとなきところなく世に栄え、時にあひたまひし時は、 さる一つものにて、何につけてか世を思し 知らむと、 推し量られたまひしを
 「何の不足もなく世に栄え、時流に乗っていらっしゃった時は、そうした人にありがちのことで、どのようなことで人の世の機微をお知りになるだろうか、と思われておりましたが」  あらゆる幸福を御自分のものにしていらっしゃったころは、ただ天下の第一の人であるだけで、それだけではまだ人生がおわかりにならなかったわけで、ごりっぱでもおきれいでも、正しい意味では欠けていらっしゃるところがあったのです。
  "Kokoromotonaki tokoro naku yo ni sakaye, toki ni ahi tamahi si toki ha, saru hitotu mono nite, nani ni tukete ka yo wo obosi sira m to, osihakara re tamahi si wo."
6.1.11  「今はいといたう思ししづめて、はかなきことにつけても、ものあはれなるけしきさへ添はせたまへるは、あいなう心苦しうもあるかな」
 「今はたいそう思慮深く落ち着いていられて、ちょっとした事につけても、しんみりとした感じまでお加わりになったのは、どうにも気の毒でなりませんね」
 御幸福ばかりでなくおなりになって、深味がおできになりましたね。しかしお気の毒なことですよ」
  "Ima ha ito itau obosi sidume te, hakanaki koto ni tuke te mo, mono-ahare naru kesiki sahe soha se tamahe ru ha, ainau kokorogurusiu mo aru kana!"
6.1.12  など、老いしらへる人びと、うち泣きつつ、めできこゆ。宮も思し出づること多かり。
 などと、年老いた女房たち、涙を流しながら、お褒め申し上げる。宮も、お思い出しになる事が多かった。
 などと老いた女房が泣きながらほめていた。中宮もお心にいろいろな場合の過去の源氏の面影を思っておいでになった。
  nado, oyi sirahe ru hitobito, uti-naki tutu, mede kikoyu. Miya mo obosi iduru koto ohokari.
注釈432年も変はりぬれば源氏二十五歳、桐壺院の諒闇が明ける。6.1.1
注釈433内宴踏歌など内宴は正月下旬の宮廷における公宴。踏歌は、男踏歌が正月十四日の夜、女踏歌が正月十六日夜に、帝の御前を出発して院の御所、中宮御所、春宮御所の順に廻って、宮中に明け方帰ってくる。出家した藤壺には無関係。6.1.1
注釈434見なしにやあらむ語り手の挿入句。6.1.2
注釈435白馬ばかりぞ、なほ牽き変へぬものにて、女房などの見ける白馬の節会。正月七日の年中行事。6.1.3
注釈436上達部など大島本は朱筆で「たち」を補入する。6.1.3
注釈437向かひの大殿に二条大路を挟んで、南側に藤壺の三条宮邸、北側に右大臣邸が向かい合っているという設定。6.1.3
注釈438むべも心あると『源氏釈』は「音に聞く松が浦島今日ぞ見るむべも心あるあまは住みけり」(後撰集雑一、一〇九三、素性法師)を指摘する。6.1.4
注釈439ながめかる海人のすみかと見るからに--まづしほたるる松が浦島源氏の贈歌。「ながめ」に「長布」(海藻)と「眺め」、「あま」に「海人」と「尼」を掛ける。「潮垂る」は「海人」の縁語。「松が浦島」は歌枕。6.1.5
注釈440ありし世のなごりだになき浦島に--立ち寄る波のめづらしきかな藤壺の返歌。「浦島」を受けて返す。「余波」と「波」は縁語。浦島伝説を踏まえる。6.1.7
注釈441さもたぐひなく以下「心苦しうもあるかな」まで、女房の詞。6.1.9
注釈442さる一つものにて「さる」は恵まれた人をさす。そうした人に共通のことでの意。6.1.10
注釈443推し量られたまひしを「れ」(受身の助動詞)「給ひ」(尊敬の補助動詞)、源氏が推量されなさったの意。6.1.10
出典18 むべも心ある 音に聞く松が浦島今日ぞ見るむべも心ある海人は住みけり 後撰集雑一-一〇九三 素性法師 6.1.4
校訂45 南に 南に--みなみの(の/#)に 6.1.1
校訂46 上達部 上達部--かむ(む/+たち<朱>)め 6.1.3
校訂47 知らむ 知らむ--え(え/&しら<朱>)む 6.1.10
6.2
第二段 源氏一派の人々の不遇


6-2  A group of Genji are obliged to have unfortunate life

6.2.1   司召のころ、この宮の人は、賜はるべき官も得ず、おほかたの道理にても、宮の御賜はりにても、かならずあるべき加階などをだにせずなどして、嘆くたぐひいと多かり。 かくても、いつしかと御位を去り、 御封などの停まるべきにもあらぬを、ことつけて変はること多かり。皆かねて思し捨ててし世なれど、宮人どもも、よりどころなげに悲しと思へるけしきどもにつけてぞ、御心動く折々あれど、「 わが身をなきになしても、春宮の御代をたひらかにおはしまさば」とのみ思しつつ、御行なひたゆみなくつとめさせたまふ。
 司召のころ、この宮の人々は、当然賜るはずの官職も得られず、世間一般の道理から考えても、宮の御年官でも、必ずあるはずの加階などさえなかったりして、嘆いている者がたいそう多かった。このように出家しても、直ちにお位を去り、御封などが停止されるはずもないのに、出家にかこつけて変わることが多かった。すべて既にお捨てになった世の中であるが、宮に仕えている人々も、頼りなげに悲しいと思っている様子を見るにつけて、お気持ちの納まらない時々もあるが、「自分の身を犠牲にしてでも、東宮の御即位が無事にお遂げあそばされるなら」とだけお考えになっては、御勤行に余念なくお勤めあそばす。
 春期の官吏の除目じもくの際にも、この宮付きになっている人たちは当然得ねばならぬ官も得られず、宮に付与されてある権利で推薦あそばされた人々の位階の陞叙しょうじょもそのままに捨て置かれて、不幸を悲しむ人が多かった。尼におなりになったことで后の御位みくらいは消滅して、それとともに給封もなくなるべきであると法文を解釈して、その口実をつけて政府の御待遇が変わってきた。宮は予期しておいでになったことで、何の執着もそれに対して持っておいでにならなかったが、お付きの役人たちにたより所を失った悲しいふうの見える時などはお心にいささかの動揺をお感じにならないこともなかった。しかも自分は犠牲になっても東宮の御即位に支障を起こさないように祈るべきであると、宮はどんな時にもお考えになっては専心に仏勤めをあそばされた。
  Tukasamesi no koro, kono Miya no hito ha, tamaha ru beki tukasa mo e zu, ohokata no dauri nite mo, Miya no ohom-tamahari nite mo, kanarazu aru beki kakai nado wo dani se zu nado si te, nageku taguhi ito ohokari. Kakute mo, itusika to ohom-kurawi wo sari, mihu nado no tomaru beki ni mo ara nu wo, kototuke te kaharu koto ohokari. Mina kanete obosi sute te si yo nare do, Miyabito-domo mo, yoridokoro nage ni kanasi to omohe ru kesiki-domo ni tuke te zo, mikokoro ugoku woriwori are do, "Waga mi wo naki ni nasi te mo, Touguu no miyo wo tahiraka ni ohasimasa ba." to nomi obosi tutu, ohom-okonahi tayumi naku tutome sase tamahu.
6.2.2   人知れず危ふくゆゆしう思ひきこえさせたまふことしあれば、「 我にその罪を軽めて、宥したまへ」と、仏を念じきこえたまふに、よろづを慰めたまふ。
 人知れず危険で不吉にお思い申し上げあそばす事があるので、「わたしにその罪障を軽くして、お宥しください」と、仏をお念じ申し上げることによって、万事をお慰めになる。
 お心の中に人知れぬ恐怖と不安があって、御自身の信仰によって、その罪の東宮に及ばないことを期しておいでになった。そうしてみずから慰められておいでになったのである。
  Hitosirezu ayahuku yuyusiu omohi kikoye sase tamahu koto si are ba, "Ware ni sono tumi wo karome te, yurusi tamahe!" to, Hotoke wo nenzi kikoye tamahu ni, yorodu wo nagusame tamahu.
6.2.3   大将も、しか見たてまつりたまひて、ことわりに思す。 この殿の人どもも、また同じきさまに、からきことのみあれば、 世の中はしたなく思されて、籠もりおはす。
 大将も、そのように拝見なさって、ごもっともであるとお考えになる。こちらの殿の人々も、また同様に、辛いことばかりあるので、世の中を面白くなく思わずにはいらっしゃれなくて、退き籠もっていらっしゃる。
 源氏もこの宮のお心持ちを知っていて、ごもっともであると感じていた。一方では家司けいしとして源氏に属している官吏も除目じもくの結果を見れば不幸であった。不面目な気がして源氏は家にばかり引きこもっていた。
  Daisyau mo, sika mi tatematuri tamahi te, kotowari ni obosu. Kono Tono no hito-domo mo, mata onaziki sama ni, karaki koto nomi are ba, yononaka hasitanaku obosa re te, komori ohasu.
6.2.4  左の大臣も、公私ひき変へたる世のありさまに、もの憂く思して、致仕の表たてまつりたまふを、帝は、 故院のやむごとなく重き御後見と思して、 長き世のかためと聞こえ置きたまひし御遺言を思し召すに、 捨てがたきものに思ひきこえたまへるにかひなきことと、たびたび用ゐさせたまはねど、せめて返さひ申したまひて、籠もりゐたまひぬ。
 左大臣も、公私ともに変わった世の中の情勢に、億劫にお思いになって、致仕の表を上表なさるのを、帝は、故院が重大な重々しい御後見役とお考えになって、いつまでも国家の柱石と申された御遺言をお考えになると、見捨てにくい方とお思い申していらっしゃるので、無意味なことだと、何度もお許しあそばさないが、無理に御返上申されて、退き籠もっておしまいになった。
 左大臣も公人として、また個人として幸福の去ってしまった今日を悲観して致仕の表を奉った。帝は院が非常に御信用あそばして、国家の柱石は彼であると御遺言あそばしたことを思召おぼしめすと、辞表を御採用になることができなくて、たびたびお返しになったが、大臣のほうではまた何度も繰り返して、辞意を奏上して、そしてそのまま出仕をしないのであったから、
  Hidari-no-Otodo mo, ohoyake watakusi hiki-kahe taru yo no arisama ni, monouku obosi te, tizi no heu tatematuri tamahu wo, Mikado ha, ko-Win no yamgotonaku omoki ohom-usiromi to obosi te, nagaki yo no katame to kikoye oki tamahi si ohom-yuigon wo obosimesu ni, sute gataki mono ni omohi kikoye tamahe ru ni, kahinaki koto to, tabitabi motiwi sase tamaha ne do, semete kahesahi mausi tamahi te, komori wi tamahi nu.
6.2.5  今は、いとど 一族のみ、返す返す栄えたまふこと、限りなし。 世の重しとものしたまへる大臣の、かく世を逃がれたまへば、朝廷も心細う思され、世の人も、 心ある限りは嘆きけり。
 今では、ますます一族だけが、いやが上にもお栄えになること、この上ない。世の重鎮でいらっしゃった大臣が、このように政界をお退きになったので、帝も心細くお思いあそばし、世の中の人も、良識のある人は皆嘆くのであった。
 太政大臣一族だけが栄えに栄えていた。国家の重鎮である大臣が引きこもってしまったので、帝も心細く思召されるし、世間の人たちもなげいていた。
  Ima ha, itodo hitozou nomi, kahesu gahesu sakaye tamahu koto, kagiri nasi. Yo no omosi to monosi tamahe ru Otodo no, kaku yo wo nogare tamahe ba, Ohoyake mo kokorobosou obosa re, yo no hito mo, kokoro aru kagiri ha nageki keri.
6.2.6   御子どもは、いづれともなく人がらめやすく世に用ゐられて、心地よげにものしたまひしを、こよなう静まりて、 三位中将なども、世を思ひ沈めるさま、こよなし。 かの四の君をも、 なほ、かれがれにうち通ひつつ、 めざましうもてなされたれば、心解けたる御婿のうちにも入れたまはず。 思ひ知れとにやこのたびの司召にも漏れぬれど、いとしも思ひ入れず。
 ご子息たちは、どの方も皆人柄が良く朝廷に用いられて、得意そうでいらっしゃったが、すっかり沈んで、三位中将なども、前途を悲観している様子、格別である。あの四の君との仲も、相変わらず、間遠にお通いになっては、心外なお扱いをなさっているので、気を許した婿君の中にはお入れにならない。思い知れというのであろうか、今度の司召にも漏れてしまったが、たいして気にはしていない。
 左大臣家の公子たちもりっぱな若い官吏で、皆順当に官位も上りつつあったが、もうその時代は過ぎ去ってしまった。三位さんみ中将などもこうした世の中に気をめいらせていた。太政大臣の四女の所へ途絶えがちに通いは通っているが、誠意のない婿であるということに反感を持たれていて、思い知れというように今度の除目にはこの人も現官のままで置かれた。この人はそんなことは眼中に置いていなかった。
  Miko-domo ha, idure to mo naku hitogara meyasuku yo ni motiwi rare te, kokotiyoge ni monosi tamahi si wo, koyonau sidumari te, Samwi-no-Tyuuzyau nado mo, yo wo omohi sidume ru sama, koyonasi. Kano Si-no-Kimi wo mo, naho, karegare ni uti-kayohi tutu, mezamasiu motenasa re tare ba, kokorotoke taru ohom-muko no uti ni mo ire tamaha zu. Omohisire to ni ya, konotabi no Tukasamesi ni mo more nure do, ito simo omohi ire zu.
6.2.7   大将殿、かう静かにておはするに、世ははかなきものと 見えぬるを、 ましてことわり、と思しなして、常に参り通ひたまひつつ、 学問をも 遊びをももろともにしたまふ。
 大将殿、このようにひっそりとしていらっしゃるので、世の中というものは無常なものだと思えたので、まして当然のことだ、としいてお考えになって、いつも参上なさっては、学問も管弦のお遊びをもご一緒になさる。
 源氏の君さえも不遇のなげきがある時代であるのだから、まして自分などはこう取り扱わるべきであるとあきらめていて、始終源氏の所へ来て、学問も遊び事もいっしょにしていた。
  Daisyaudono, kau siduka nite ohasuru ni, yo ha hakanaki mono to miye nuru wo, masite kotowari, to obosi nasi te, tune ni mawiri kayohi tamahi tutu, gakumon wo mo asobi wo mo morotomoni si tamahu.
6.2.8   いにしへも、もの狂ほしきまで、挑みきこえたまひしを思し出でて、かたみに今もはかなきことにつけつつ、さすがに挑みたまへり。
 昔も、気違いじみてまで、張り合い申されたことをお思い出しになって、お互いに今でもちょっとした事につけてでも、そうはいうものの張り合っていらっしゃる。
 青年時代の二人の間に強い競争心のあったことを思い出して、今でも遊び事の時などに、一方のすることをそれ以上に出ようとして一方が力を入れるというようなことがままあった。
  Inisihe mo, monoguruhosiki made, idomi kikoye tamahi si wo obosi ide te, katamini ima mo hakanaki koto ni tuke tutu, sasugani idomi tamahe ri.
6.2.9   春秋の御読経をばさるものにて、臨時にも、さまざま尊き事どもをせさせたまひなどして、また、いたづらに暇ありげなる博士ども召し集めて、 文作り、韻塞ぎなどやうのすさびわざどもをもしなど、心をやりて、宮仕へをもをさをさしたまはず、御心にまかせてうち遊びておはするを、 世の中には、わづらはしきことどもやうやう言ひ出づる人びとあるべし
 春秋の季の御読経はいうまでもなく、臨時のでも、あれこれと尊い法会をおさせになったりなどして、また一方、無聊で暇そうな博士連中を呼び集めて、作文会、韻塞ぎなどの気楽な遊びをしたりなど、気を晴らして、宮仕えなどもめったになさらず、お気の向くままに遊び興じていらっしゃるのを、世間では、厄介なことをだんだん言い出す人々がきっといるであろう。
 春秋の読経どきょうの会以外にもいろいろと宗教に関した会を開いたり、現代にいれられないでいる博士はかせや学者を集めて詩を作ったり、いんふたぎをしたりして、官吏の職務を閑却した生活をこの二人がしているという点で、これを問題にしようとしている人もあるようである。
  Haru aki no midokyau wo ba saru mono nite, rinzi ni mo, samazama tahutoki koto-domo wo se sase tamahi nado si te, mata, itadura ni itoma arige naru Hakase-domo mesi atume te, humitukuri, winhutagi nado yau no susabiwaza-domo wo mo si nado, kokoro wo yari te, miyadukahe wo mo wosawosa si tamaha zu, mikokoro ni makase te uti-asobi te ohasuru wo, yononaka ni ha, wadurahasiki koto-domo yauyau ihi iduru hitobito aru besi.
注釈444司召のころ正月中旬の地方官の除目。源氏、藤壺方の人々、任官にもれる。6.2.1
注釈445かくてもいつしかと「かく」は出家をさす。「いつしか」はこうも早くはの意。6.2.1
注釈446御封中宮の御封は千五百戸。6.2.1
注釈447わが身をなきになしても、春宮の御代をたひらかにおはしまさば藤壺の心中。6.2.1
注釈448人知れず危ふくゆゆしう思ひきこえさせたまふこと春宮が帝の実子でなく、本来なら皇位につくべきべきでないのを即位させようとする危険。6.2.2
注釈449我にその罪を軽めて宥したまへ藤壺の心中。わが子春宮が不義の子であるがゆえに生涯負わねばならない罪障。それを自分に負わせて軽減してもらえるよう仏に祈る。6.2.2
注釈450大将もしか見たてまつり源氏も藤壺の心中をそうと理解する。6.2.3
注釈451この殿の人どももまた「また」は藤壺邸に仕える人々同様にの意。6.2.3
注釈452世の中はしたなく思されて主語は源氏。6.2.3
注釈453故院のやむごとなく重き御後見朱雀帝の心中。左大臣に対する待遇。6.2.4
注釈454長き世のかため桐壺院の遺言。左大臣に対する待遇。6.2.4
注釈455捨てがたきものに思ひきこえたまへるに主語は朱雀帝。6.2.4
注釈456かひなきこと辞表を提出しても受理しない意。6.2.4
注釈457一族のみ右大臣一族のみの意。6.2.5
注釈458世の重しとものしたまへる左大臣は皇族と姻戚関係のある摂関家的人物でなく、広く国家の重鎮たる人物であった。6.2.5
注釈459心ある限りは情理をわきまえた人。6.2.5
注釈460御子どもはいづれともなく左大臣の子息たち。6.2.6
注釈461三位中将もとの頭中将。既に「葵」巻に三位中将とある。6.2.6
注釈462かの四の君右大臣の四君。「桐壺」巻で頭中将との結婚が語られていた。6.2.6
注釈463なほかれがれにうち通ひ既に「桐壺」巻に同様に語られている。6.2.6
注釈464めざましうもてなされたれば「めざまし」と思うのは右大臣。「もてなす」のは三位中将。「れ」は尊敬の助動詞。つまり右大臣が見てしゃくにさわるように三位中将が四君に対して振る舞うので、の意。6.2.6
注釈465思ひ知れとにや語り手の挿入句。右大臣の心を忖度。6.2.6
注釈466このたびの司召にも漏れぬれど正月の司召。主として地方官の除目であるが、兼官のことであろうか。6.2.6
注釈467大将殿かう静かにて以下「ましてことわり」まで、三位中将の心中。6.2.7
注釈468見えぬる「ぬる」は完了の助動詞。見てしまったというニュアンス。6.2.7
注釈469ましてことわり源氏と比較して自分の不遇はまして当然のことの意。6.2.7
注釈470学問をも大島本は朱筆で「む」を補入する。6.2.7
注釈471いにしへももの狂ほしきまで挑みきこえたまひしを「帚木」「末摘花」「紅葉賀」巻などに語られている。6.2.8
注釈472春秋の御読経季の御読経。大勢の僧侶を招いて『大般若経』を転読する行事。当時は宮中のみならず貴族の家でも催された。6.2.9
注釈473文作り韻塞ぎなどやうのすさびわざども作文会(漢詩)、詩の隠してある韻を当てる遊び。6.2.9
注釈474世の中にはわづらはしきことどもやうやう言ひ出づる人びとあるべし「べし」(推量の助動詞)は語り手の言辞。『岷江入楚』が「筆者の詞也」と指摘。6.2.9
校訂48 学問 学問--かくも(も/+む<朱>) 6.2.7
6.3
第三段 韻塞ぎに無聊を送る


6-3  Genji and his friends play with a game of In-futagi

6.3.1   夏の雨、のどかに降りて、つれづれなるころ、中将、さるべき集どもあまた 持たせて参りたまへり。殿にも、文殿開けさせたまひて、まだ開かぬ御厨子どもの、めづらしき古集のゆゑなからぬ、すこし 選り出でさせたまひてその道の人びと、わざとはあらねどあまた召したり。殿上人も大学のも、いと多う集ひて、左右に こまどりに分かせたまへり。賭物どもなど、いと二なくて、挑みあへり。
 夏の雨、静かに降って、所在ないころ、中将、適当な詩集類をたくさん持たせて参上なさった。殿でも、文殿を開けさせなさって、まだ開いたことのない御厨子類の中の、珍しい古集で由緒あるものを、少し選び出させなさって、その道に堪能な人々、特別にというのではないが、おおぜい呼んであった。殿上人も大学の人も、とてもおおぜい集まって、左方と右方とに交互に組をお分けになった。賭物なども、又となく素晴らしい物で、競争し合った。
 夏の雨がいつやむともなく降ってだれもつれづれを感じるころである、三位中将はいろいろな詩集を持って二条の院へ遊びに来た。源氏も自家の図書室の中の、平生使わないたなの本の中から珍しい詩集をり出して来て、詩人たちを目だつようにはせずに、しかもおおぜい呼んで左右に人を分けて、よい賭物かけものを出して韻ふたぎに勝負をつけようとした。
  Natu no ame, nodoka ni huri te, turedure naru koro, Tyuuzyau, sarubeki sihu-domo amata motase te mawiri tamahe ri. Tono ni mo, hudono ake sase tamahi te, mada hiraka nu midusi-domo no, medurasiki kosihu no yuwe nakara nu, sukosi eri ide sase tamahi te, sono miti no hitobito, wazato ha ara ne do amata mesi tari. Tenzyaubito mo Daigaku no mo, ito ohou tudohi te, hidari migi ni komadori ni kata waka se tamahe ri. Kakemono-domo nado, ito ninaku te, idomi ahe ri.
6.3.2   塞ぎもて行くままに、難き韻の文字どもいと多くて、おぼえある博士どもなどの惑ふところどころを、時々うちのたまふさま、いとこよなき御才のほどなり。
 韻塞ぎが進んで行くにつれて、難しい韻の文字類がとても多くて、世に聞こえた博士連中などがまごついている箇所箇所を、時々口にされる様子、実に深い学殖である。
 隠した韻字をあてはめていくうちに、むずかしい字がたくさん出てきて、経験の多い博士はかせなども困った顔をする場合に、時々源氏が注意を与えることがよくあてはまるのである。非常な博識であった。
  Hutagi mote-yuku mama ni, kataki win no mozi-domo ito ohoku te, oboye aru Hakase-domo nado no madohu tokorodokoro wo, tokidoki uti-notamahu sama, ito koyonaki ohom-zae no hodo nari.
6.3.3  「 いかで、かうしもたらひたまひけむ
 「どうして、こうも満ち足りていらっしたのだろう」
 「どうしてこんなに何もかもがおできになるのだろう。
  "Ikade, kau simo tarahi tamahi kem."
6.3.4  「なほ さるべきにて、よろづのこと、 人にすぐれたまへるなりけり
 「やはり前世の因縁で、何事にも、人に優っていらっしゃるのであるなあ」
 やはり前生ぜんしょうの因に特別なもののある方に違いない」
  "Naho sarubeki nite, yorodu no koto, hito ni sugure tamahe ru nari keri!"
6.3.5  と、めできこゆ。つひに、 右負けにけり
 と、お褒め申し上げる。最後には、右方が負けた。
 などと学者たちがほめていた。とうとう右のほうが負けになった。
  to, mede kikoyu. Tuhini, migi make ni keri.
6.3.6  二日ばかりありて、 中将負けわざしたまへり。ことことしうはあらで、なまめきたる桧破籠ども、賭物などさまざまにて、今日も例の人びと、多く召して、文など作らせたまふ。
 二日ほどして、中将が負け饗応をなさった。大げさではなく、優美な桧破子類、賭物などがいろいろとあって、今日もいつもの人々、おおぜい招いて、漢詩文などをお作らせになる。
 それから二日ほどして三位中将が負けぶるまいをした。たいそうにはしないで雅趣のある檜破子ひわりご弁当が出て、勝ち方に出す賭物かけものも多く持参したのである。今日も文士が多く招待されていて皆席上で詩を作った。
  Hutuka bakari ari te, Tyuuzyau makewaza si tamahe ri. Kotokotosiu ha ara de, namameki taru hiwarigo-domo, kakemono nado samazama nite, kehu mo rei no hitobito, ohoku mesi te, humi nado tukura se tamahu.
6.3.7   階のもとの薔薇、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに 、うちとけ遊びたまふ。
 階のもとの薔薇、わずかばかり咲いて、春秋の花盛りよりもしっとりと美しいころなので、くつろいで合奏をなさる。
 階前の薔薇ばらの花が少し咲きかけた初夏の庭のながめには濃厚な春秋の色彩以上のものがあった。自然な気分の多い楽しい会であった。
  Hasi no moto no saubi, kesiki bakari saki te, haru aki no hanazakari yori mo simeyaka ni wokasiki hodo naru ni, utitoke asobi tamahu.
6.3.8  中将の御子の、今年初めて 殿上する、八つ、九つばかりにて、声いと おもしろく、笙の笛吹きなどするを、 うつくしびもてあそびたまふ。四の君腹の二郎なりけり。世の人の思へる寄せ重くて、 おぼえことにかしづけり。心ばへもかどかどしう、容貌もをかしくて、御遊びのすこし乱れゆくほどに、「 高砂」を出だして謡ふ、いとうつくし。大将の君、御衣脱ぎてかづけたまふ。
 中将のご子息で、今年初めて童殿上する、八、九歳ほどで、声がとても美しく、笙の笛を吹いたりなどする子を、かわいがりお相手なさる。四の君腹の二郎君であった。世間の心寄せも重くて、特別大切に扱っていた。気立ても才気があふれ、顔形も良くて、音楽のお遊びが少しくだけてゆくころ、「高砂」を声張り上げて謡う、とてもかわいらしい。大将の君、お召物を脱いでお与えになる。
 中将の子で今年から御所の侍童に出る八、九歳の少年でおもしろくしょうの笛を吹いたりする子を源氏はかわいがっていた。これは四の君が生んだ次男である。よい背景を持っていて世間から大事に扱われている子であった。才があって顔も美しいのである。主客が酔いを催したころにこの子が「高砂たかさご」を歌い出した。非常に愛らしい。(「高砂の尾上をのへに立てる白玉椿しらたまつばき、それもがと、ましもがと、今朝けさ咲いたる初花にはましものを云々うんぬん」という歌詞である)源氏は服を一枚脱いで与えた。
  Tyuuzyau-no-miko no, kotosi hazimete tenzyau suru, yatu, kokonotu bakari nite, kowe ito omosiroku, syau no hue huki nado suru wo, utukusibi mote-asobi tamahu. Si-no-Kimi bara no zirau nari keri. Yonohito no omohe ru yose omoku te, oboye koto ni kasiduke ri. Kokorobahe mo kadokadosiu, katati mo wokasiku te, ohom-asobi no sukosi midare yuku hodo ni, Takasago wo idasi te utahu, ito utukusi. Daisyau-no-Kimi, ohom-zo nugi te kaduke tamahu.
6.3.9  例よりは、うち乱れたまへる御顔の匂ひ、似るものなく見ゆ。薄物の直衣、単衣を着たまへるに、透きたまへる肌つき、ましていみじう見ゆるを、年老いたる博士どもなど、遠く見たてまつりて、涙落しつつゐたり。「 逢はましものを、小百合ばの」と謡ふとぢめに、中将、 御土器参りたまふ
 いつもよりは、お乱れになったお顔の色つや、他に似るものがなく見える。羅の直衣に、単重を着ていらっしゃるので、透いてお見えになる肌、いよいよ美しく見えるので、年老いた博士連中など、遠くから拝見して、涙落としながら座っていた。「逢いたいものを、小百合の花の」と謡い終わるところで、中将、お杯を差し上げなさる。
 平生よりも打ち解けたふうの源氏はことさらにまた美しいのであった。着ている直衣のうし単衣ひとえも薄物であったから、きれいなはだの色が透いて見えた。老いた博士たちは遠くからながめて源氏の美に涙を流していた。「逢はましものを小百合葉さゆりばの」という高砂の歌の終わりのところになって、中将は杯を源氏に勧めた。
  Rei yori ha, uti-midare tamahe ru ohom-kaho no nihohi, niru mono naku miyu. Usumono no nahosi, hitohe wo ki tamahe ru ni, suki tamahe ru hadatuki, masite imiziu miyuru wo, tosi oyi taru Hakase-domo nado, tohoku mi tatematuri te, namida otosi tutu wi tari. "Aha masi mono wo, sayuri ba no" to utahu todime ni, Tyuuzyau, ohom-kaharake mawiri tamahu.
6.3.10  「 それもがと今朝開けたる初花に
   劣らぬ君が匂ひをぞ見る
 「それを見たいと思っていた今朝咲いた花に
  劣らないお美しさのわが君でございます
  それもがと今朝けさ開けたる初花に
  劣らぬ君がにほひをぞ見る
    "Sore mo ga to kesa hirake taru hatuhana ni
    otora nu Kimi ga nihohi wo zo miru
6.3.11   ほほ笑みて、取りたまふ
 苦笑して、お受けになる。
 と乾杯の辞を述べた。源氏は微笑をしながら杯を取った。
  Hohowemi te, tori tamahu.
6.3.12  「 時ならで今朝咲く花は夏の雨に
   しをれにけらし匂ふほどなく
 「時節に合わず今朝咲いた花は夏の雨に
  萎れてしまったらしい、美しさを見せる間もなく
  「時ならで今朝咲く花は夏の雨に
  しをれにけらしにほふほどなく
    "Toki nara de kesa saku hana ha natu no ame ni
    siwore ni ke' rasi nihohu hodo naku
6.3.13   衰へにたるものを
 すっかり衰えてしまったものを」
 すっかり衰えてしまったのに」
  Otorohe ni taru mono wo."
6.3.14  と、うちさうどきて、 らうがはしく聞こし召しなすを咎め出でつつ、しひきこえたまふ
 と、陽気に戯れて、酔いの紛れの言葉とお取りなしになるのを、お咎めになる一方で、無理に杯をお進めになる。
 あとはもう酔ってしまったふうをして源氏が飲もうとしない酒を中将は許すまいとしてしいていた。
  to, uti-saudoki te, raugahasiku kikosimesi nasu wo, togame ide tutu, sihi kikoye tamahu.
6.3.15   多かめりし言どもも、かうやうなる折のまほならぬこと、数々に書きつくる、心地なきわざとか、貫之が諌め、たうるる方にて、むつかしければ、とどめつ 。皆、この御ことをほめたる筋にのみ、大和のも唐のも 作り続けたり 。わが御心地にも、いたう思しおごりて、
 多く詠まれたらしい歌も、このような時の真面目でない歌、数々書き連ねるのも、はしたないわざだと、貫之の戒めていることであり、それに従って、面倒なので省略した。すべて、この君を讃えた趣旨ばかりで、和歌も漢詩も詠み続けてあった。ご自身でも、たいそう自負されて、
 席上でできた詩歌の数は多かったが、こんな時のまじめでない態度の作をたくさんつらねておくことのむだであることを貫之つらゆきも警告しているのであるからここには書かないでおく。歌も詩も源氏の君を讃美さんびしたものが多かった。源氏自身もよい気持ちになって、
  Ohoka' meri si koto-domo mo, kauyau naru wori no maho nara nu koto, kazukazu ni kaki tukuru, kokotinaki waza to ka, Turayuki ga isame, taururu kata nite, mutukasikere ba, todome tu. Mina, kono ohom-koto wo home taru sudi ni nomi, Yamato no mo Kara no mo tukuri tuduke tari. Waga mikokoti ni mo, itau obosi ogori te,
6.3.16  「 文王の子、武王の弟
 「文王の子、武王の弟」
 「文王の子武王の弟」
  "Bunwau no ko, Buwau no otouto."
6.3.17  と、うち誦じたまへる御名のりさへぞ、げに、めでたき。「 成王の何」とか、のたまはむとすらむ。そればかりや、また心もとなからむ
 と、口ずさみなさったご自認の言葉までが、なるほど、立派である。「成王の何」と、おっしゃろうというのであろうか。それだけは、また自信がないであろうよ。
 と史記の周公伝の一節を口にした。その文章の続きは成王の伯父おじというのであるが、これは源氏が明瞭めいりょうに言いえないはずである。
  to, uti-zuzi tamahe ru ohom-nanori sahe zo, geni, medetaki. "Seiwau no nani" to ka, notamaha m to su ram? Sore bakari ya, mata kokoromotonakara m.
6.3.18   兵部卿宮も常に渡りたまひつつ、御遊びなども、をかしうおはする宮なれば、今めかしき 御遊びどもなり
 兵部卿宮も常にお越しになっては、管弦のお遊びなども、嗜みのある宮なので、華やかなお相手である。
 兵部卿ひょうぶきょうの宮も始終二条の院へおいでになって、音楽に趣味を持つ方であったから、よくいっしょにそんな遊びをされるのであった。
  Hyaubukyau-no-Miya mo tune ni watari tamahi tutu, ohom-asobi nado mo, wokasiu ohasuru Miya nare ba, imamekasiki ohom-asobi-domo nari.
注釈475夏の雨のどかに降りてつれづれなるころ長雨の頃か。「帚木」巻の雨夜の品定めの段と似た季節描写。6.3.1
注釈476持たせて「せ」使役の助動詞。三位中将が供人に持たせての意。6.3.1
注釈477選り出でさせたまひて「させ」使役の助動詞。源氏が家人をしての意。6.3.1
注釈478その道の人びと漢詩文の創作に堪能な人々。6.3.1
注釈479こまどりにたとえば、奇数を左方、偶数を右方に、交互に編成するやりかた。6.3.1
注釈480分かせたまへり大成異同の記載ナシ。『集成』は「分たせたまへり」とする。6.3.1
注釈481塞ぎもて行くままに韻塞ぎの競技が進んで行くにつれての意。6.3.2
注釈482いかでかうしもたらひたまひけむ以下「すぐれたまへるなりけり」まで、人々の詞。源氏の才能を絶賛。6.3.3
注釈483さるべきにて前世からの宿縁での意。6.3.4
注釈484人にすぐれたまへるなりけり大島本は「人にすくれ給へるなりけり」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「人には」と「は」を補訂する。6.3.4
注釈485右負けにけり三位中将方をいう。6.3.5
注釈486中将負けわざ負けた方が勝った方に饗応すること。6.3.6
注釈487階のもとの薔薇けしきばかり咲きて春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに『源氏釈』は『和漢朗詠集』上、首夏(『白氏文集』巻十七、律詩)の「甕の頭の竹葉は春を経て熟す、階の底の薔薇は夏に入つて開けり」を指摘する。「薔薇」は漢詩的景物である。6.3.7
注釈488殿上する童殿上する意。6.3.8
注釈489おもしろく大島本は「おもろしく」とある。6.3.8
注釈490うつくしびもてあそびたまふ主語は源氏。6.3.8
注釈491おぼえことにかしづけり主語は世間の人々。『集成』は「特別大切にお仕えしている」と解し、『完訳』は「格別大事に扱っている」と解す。6.3.8
注釈492高砂催馬楽、律。「高砂の さいささごの 高砂の 尾上に立てる 白玉玉椿 玉柳 それもがと さむ 汝(まし)もがと 汝もがと 練緒(ねりを)染緒(さみを)の 御衣架(みそかけ)にせむ 玉柳 何しかも さ 何しかも 心もまたいけむ 百合花の さ 百合花の 今朝咲いたる 初花に 逢はましものを さ 百合花の」。呂の音階が中国伝来の正階なのに対して、律の音階は日本的なくだけた音階。6.3.8
注釈493逢はましものを小百合ばの「高砂」の末句。歌詞は「さ百合花の」であるが、実際歌う時は「さゆりばの」となったかという(『湖月抄』師説)。『集成』は「さゆりばの」と濁音、『古典セレクション』は「さゆりはの」の清音に読む。6.3.9
注釈494御土器参りたまふお盃を源氏に差し上げなさる意。6.3.9
注釈495それもがと今朝開けたる初花に--劣らぬ君が匂ひをぞ見る三位中将の歌。源氏の美しさを薔薇の花に比して賞賛する。「我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり」(古今集物名、四三六、紀貫之)を踏まえる。6.3.10
注釈496ほほ笑みて取りたまふ主語は源氏。苦笑である。6.3.11
注釈497時ならで今朝咲く花は夏の雨に--しをれにけらし匂ふほどなく源氏の返歌。6.3.12
注釈498衰へにたるものを和歌に添えた言葉。すっかりだめになってしまったよ、の意。6.3.13
注釈499らうがはしく聞こし召しなすを『集成』は「酔いの紛れの言葉とお取りなしになるのを」の意に解す。『完訳』は「中将の歌を出まかせなものと、わざとひがんでおとりになるので」の意に解す。6.3.14
注釈500咎め出でつつしひきこえたまふ主語は三位中将。相手は源氏。6.3.14
注釈501多かめりし言どもも、かうやうなる折のまほならぬこと、数々に書きつくる、心地なきわざとか、貫之が諌め、たうるる方にて、むつかしければ、とどめつ貫之の意見にかこつけた語り手の省筆の文章。『弄花抄』は「記者詞也」と指摘。
【まほならぬこと】-大島本は朱筆で「な」を補入する。
【たうるる方にて】-大島本は「たうるゝかたにて」とあり傍らに「タハフレ」と注す。『集成』『新大系』は「倒るる方」(大勢に順応してというほどの意)と解す。『古典セレクション』は「「たうるる方にて」の語法は不審。本文に損傷があるか。仮に「たふ(倒)るる方にて」(螢巻に用例がある)と解しておく」と注す。
6.3.15
注釈502作り続けたり大島本は「つくりつけたり」とある。『集成』『新大系』『古典セレクション』は諸本に従って「作り続けたり」と校訂する。6.3.15
注釈503文王の子武王の弟『和漢朗詠集』下、丞相(『史記』魯周公世家、また『本朝文粋』所引)の句。6.3.16
注釈504成王の何とかのたまはむとすらむそればかりやまた心もとなからむ語り手の挿入文。「成王」を春宮に比すとすれば、原文では「成王の叔父」とあるのだが、源氏の実子でるから、そうとは言えない。『集成』は「それだけは自身がおありでないでしょう」の意に解し、「実は、源氏の子であるから、「成王の叔父」とは言えまいという皮肉」と注す。『完訳』は「不義の子東宮のことは、やはり気がかりだろう」と注す。6.3.17
注釈505兵部卿宮肖柏本と書陵部本は「帥の宮」とある。『完訳』は「通説では紫の上の父。源氏と親交する趣味人という点で、後の螢兵部卿宮(花宴巻では帥宮)とする説のほうが妥当」と注す。6.3.18
注釈506御遊びどもなり大島本は「御あそひともなり」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御あはひどもなり」と校訂する。6.3.18
出典19 階のもとの薔薇 甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開 白氏文集巻十七-一〇五五 6.3.7
出典20 高砂 高砂の さいさごの 高砂の 尾上に立てる 白玉 玉椿 玉柳 それもがと さむ 汝もがと 練緒染緒の 御衣架にせむ 玉柳 何しかも さ 何しかも 何しかも 心もまたいけむ 百合花の さ百合花の 今朝咲いたる 初花に あはましものを さゆり花の 催馬楽-高砂 6.3.8
出典21 文王の子、武王の弟 周公戒伯禽曰 我文王之子 武王之弟 成王之叔父 史記-魯周公世家 6.3.16
校訂49 かう かう--かこ(こ/$う<朱>) 6.3.3
校訂50 おもしろく おもしろく--*おもろしく 6.3.8
校訂51 ならぬ ならぬ--(/+な<朱>)らぬ 6.3.15
校訂52 続け 続け--*つけ 6.3.15
Last updated 9/20/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 9/5/2009(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 5/19/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
小林繁雄(青空文庫)

2003年7月13日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年10月30日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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