第十二帖 須磨


12 SUMA (Ohoshima-bon)


光る源氏の二十六歳春三月下旬から二十七歳春三月上巳日まで無位無官時代の都と須磨の物語


Tale of Hikaru-Genji's commoner era in Kyoto and Suma from March at the age of 26 to March at the age of 27

2
第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語


2  Tale of Hikaru-Genji  Gloomy days in summer-rain on Suma and Kyoto

2.1
第一段 須磨の住居


2-1  Genji's life in Suma

2.1.1   おはすべき所は行平の中納言の、「 藻塩垂れつつ」侘びける 家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。
 お住まいになる所は、行平中納言が、「藻塩たれつつ」と詠んだ侘住まい付近なのであった。海岸からは少し入り込んで、身にしみるばかり寂しい山の中である。
 隠栖いんせいの場所は行平ゆきひらが「藻塩もしほれつつぶと答へよ」と歌って住んでいた所に近くて、海岸からはややはいったあたりで、きわめて寂しい山の中である。
  Ohasu beki tokoro ha, Yukihira-no-Tyuunagon no, "Mosiho tare tutu" wabi keru ihewi tikaki watari nari keri. Umidura ha yaya iri te, ahare ni sugoge naru yamanaka nari.
2.1.2  垣のさまよりはじめて、めづらかに見たまふ。茅屋ども、葦葺ける廊めく屋など、をかしうしつらひなしたり。所につけたる御住まひ、やう変はりて、「 かからぬ折ならば、をかしうもありなまし」と、 昔の御心のすさび思し出づ。
 垣根の様子をはじめとして、物珍しく御覧になる。茅葺きの建物、葦で葺いた回廊のような建物など、風情のある造作がしてあった。場所柄にふさわしいお住まい、風変わりに思われて、「このようなでない時ならば、興趣深くもあったであろうに」と、昔のお心にまかせたお忍び歩きのころをお思い出しになる。
 めぐらせた垣根かきね見馴みなれぬ珍しい物に源氏は思った。茅葺かやぶきの家であって、それにあし葺きの廊にあたるような建物が続けられた風流な住居すまいになっていた。都会の家とは全然変わったこの趣も、ただの旅にとどまる家であったならきっとおもしろく思われるに違いないと平生の趣味から源氏は思ってながめていた。
  Kaki no sama yori hazime te, meduraka ni mi tamahu. Kayaya-domo, asi huke ru rau meku ya nado, wokasiu siturahi nasi tari. Tokoro ni tuke taru ohom-sumahi, yau kahari te, "Kakara nu wori nara ba, wokasiu mo ari na masi." to, mukasi no mikokoro no susabi obosi idu.
2.1.3  近き所々の御荘の司召して、さるべきことどもなど、 良清朝臣、親しき家司にて、仰せ行なふも あはれなり。時の間に、いと見所ありてしなさせたまふ。水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地、うつつならず。 国の守も親しき殿人なれば、忍びて心寄せ仕うまつる。かかる旅所ともなう、人騒がしけれども、はかばかしう物をものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地して、いと埋れいたく、「いかで年月を過ぐさまし」と思しやらる。
 近い所々のご荘園の管理者を呼び寄せて、しかるべき事どもを、良清朝臣が、側近の家司として、お命じになり取り仕切るのも感に耐えないことである。暫くの間に、たいそう風情があるようにお手入れさせなさる。遣水を深く流し、植木類を植えたりして、もうすっかりと落ち着きなさるお気持ち、夢のようである。国守も親しい家来筋の者なので、こっそりと好意をもってお世話申し上げる。このような旅の生活にも似ず、人がおおぜい出入りするが、まともにお話相手となりそうな人もいないので、知らない他国の心地がして、ひどく気も滅入って、「どのようにしてこれから先過ごして行こうか」と、お思いやらずにはいられない。
 ここに近い領地の預かり人などを呼び出して、いろいろな仕事を命じたり、良清朝臣よしきよあそんなどが家職の下役しかせぬことにも奔走するのも哀れであった。きわめて短時日のうちにその家もおもしろい上品な山荘になった。水の流れを深くさせたり、木を植えさせたりして落ち着いてみればみるほど夢の気がした。摂津守せっつのかみも以前から源氏に隷属していた男であったから、公然ではないが好意を寄せていた。そんなことで、準配所であるべき家も人出入りは多いのであるが、はかばかしい話し相手はなくて外国にでもいるように源氏は思われるのであった。こうしたつれづれな生活に何年も辛抱しんぼうすることができるであろうかと源氏はみずからあやぶんだ。
  Tikaki tokorodokoro no misau no tukasa mesi te, sarubeki koto-domo nado, Yosikiyo-no-asom, sitasiki keisi nite, ohose okonahu mo ahare nari. Toki no ma ni, ito midokoro ari te si nasa se tamahu. Midu hukau yari nasi, uweki-domo nado si te, ima ha to sidumari tamahu kokoti, ututu nara zu. Kuni-no-kami mo sitasiki tonobito nare ba, sinobi te kokoroyose tukaumaturu. Kakaru tabidokoro to mo nau, hito sawagasikere domo, hakabakasiu mono wo mo notamahi ahasu beki hito si nakere ba, sira nu kuni no kokoti si te, ito mumore itaku, "Ikade tosituki wo sugusa masi." to obosi yara ru.
注釈218おはすべき所は源氏の須磨の生活始まる。2.1.1
注釈219行平の中納言在原行平(弘仁九-寛平五)。阿保親王の子、業平の兄。2.1.1
注釈220藻塩垂れつつ侘びける『源氏釈』は「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ」(古今集雑下、九六二、在原行平)を指摘する。その『古今集』の詞書に「田村の御時に事に当りて津の国の須磨といふ所に籠りはべりけるに、宮のうちにはべりける人に遣はしける」とある。2.1.1
注釈221かからぬ折ならばをかしうもありなまし大島本は「かゝらぬおりならハ」とある。諸本は「かゝるおりならすは」(横池飯書)とある。大島本は肖柏本と同文。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「かかるをりならずは」と校訂する。源氏の感想。2.1.2
注釈222昔の御心のすさび鄙びた夕顔の宿や常陸宮邸の荒廃した邸宅などをさす。2.1.2
注釈223良清朝臣源氏の腹心の家来。「若紫」巻に初出。2.1.3
注釈224あはれなり『集成』は「けなげである」の意に解し、『完訳』「感にたえない」の意に解す。2.1.3
注釈225国の守も摂津国守。2.1.3
出典13 藻塩垂れつつ わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶとこたへよ 古今集雑下-九六二 在原行平 2.1.1
2.2
第二段 京の人々へ手紙


2-2  Genji mails to ladies in Kyoto

2.2.1  やうやう事静まりゆくに、 長雨のころになりて、京のことも思しやらるるに、恋しき人多く、女君の思したりしさま、春宮の御事、若君の何心もなく紛れたまひしなどをはじめ、ここかしこ思ひやりきこえたまふ。
 だんだんと落ち着いて行くころ、梅雨時期になって、京のことがご心配になられて、恋しい人々が多く、女君の悲しんでいらした様子、東宮のお身の上、若君が無邪気に動き回っていらしたことなどをはじめとして、あちらこちら方をお思いやりになる。
 旅住居ずまいがようやく整った形式を備えるようになったころは、もう五月雨さみだれの季節になっていて、源氏は京の事がしきりに思い出された。恋しい人が多かった。なげきに沈んでいた夫人、東宮のこと、無心に元気よく遊んでいた若君、そんなことばかりを思って悲しんでいた。
  Yauyau koto sidumari yuku ni, nagaame no koro ni nari te, Kyau no koto mo obosi yara ruru ni, kohisiki hito ohoku, Womnagimi no obosi tari si sama, Touguu no ohom-koto, Wakagimi no nanigokoro mo naku magire tamahi si nado wo hazime, kokokasiko omohi yari kikoye tamahu.
2.2.2  京へ人出だし立てたまふ。二条院へたてまつりたまふと、入道の宮のとは、書きもやりたまはず、昏されたまへり。宮には、
 京へ使者をお立てになる。二条院に差し上げなさるのと、入道の宮のとは、筆も思うように進まず、涙に目も暮れなさった。宮には、
 源氏は京へ使いを出すことにした。二条の院へと入道の宮へとの手紙は容易に書けなかった。宮へは、
  Kyau he hito idasitate tamahu. Nideunowin he tatematuri tamahu to, Nihudau-no-Miya no to ha, kaki mo yari tamaha zu, kurasa re tamahe ri. Miya ni ha,
2.2.3  「 松島の海人の苫屋もいかならむ
   須磨の浦人しほたるるころ
 「出家されたあなた様はいかがお過ごしでしょうか
  わたしは須磨の浦で涙に泣き濡れております今日このごろです
  松島のあまの苫屋とまやもいかならん
  須磨の浦人しほたるるころ
    "Matusima no ama no tomaya mo ika nara m
    Suma no urabito siho taruru koro
2.2.4   いつとはべらぬなかにも、来し方行く先かきくらし、『 汀まさりて』なむ」
 悲しさは常のことですが、過去も未来もまっ暗闇といった感じで、『汀まさりて』という思いです」
 いつもそうでございますが、ことに五月雨にはいりましてからは、悲しいことも、昔の恋しいこともひときわ深く、ひときわ自分の世界が暗くなった気がいたされます。というのであった。
  Itu to habera nu naka ni mo, kisikata yukusaki kakikurasi, 'Migiha masari te' nam."
2.2.5  尚侍の御もとに、例の、中納言の君の私事のやうにて、中なるに、
 尚侍のお許に、例によって、中納言の君への私事のようにして、その中に、
 尚侍ないしのかみの所へは、例のように中納言の君への私信のようにして、その中へ入れたのには、
  Naisi-no-Kami no ohom-moto ni, rei no, Tyuunagon-no-Kimi no watakusigoto no yau nite, naka naru ni,
2.2.6  「 つれづれと過ぎにし方の思ひたまへ出でらるるにつけても、
 「所在なく過ぎ去った日々の事柄が自然と思い出されるにつけても、
 流人るにんのつれづれさに昔の追想されることが多くなればなるほど、お逢いしたくてならない気ばかりがされます。
  "Turedure to sugi ni si kata no omohi tamahe ide raruru ni tuke te mo,
2.2.7    こりずまの浦のみるめのゆかしきを
   塩焼く海人やいかが思はむ
  性懲りもなくお逢いしたく思っていますが
  あなた様はどう思っておいででしょうか
  こりずまの浦のみるめのゆかしきを
  塩焼くあまやいかが思はん
    Korizuma no ura no mirume no yukasiki wo
    siho yaku ama ya ikaga omoha m
2.2.8   さまざま書き尽くしたまふ言の葉、思ひやるべし
 いろいろとお心を尽くして書かれた言葉というのを想像してください。
 と書いた。なお言葉は多かった。
  Samazama kaki tukusi tamahu kotonoha, omohiyaru besi.
2.2.9   大殿にも、宰相の乳母にも、仕うまつるべきことなど書きつかはす。
 大殿邸にも、宰相の乳母のもとに、ご養育に関する事柄をお書きつかわしになる。
 左大臣へも書き、若君の乳母めのとの宰相の君へも育児についての注意を源氏は書いて送った。
  Ohoidono ni mo, Saisyau-no-Menoto ni mo, tukaumaturu beki koto nado kaki tukahasu.
2.2.10   京には、この御文、所々に見たまひつつ、御心乱れたまふ人びとのみ多かり。二条院の君は、 そのままに起きも上がりたまはず、尽きせぬさまに思しこがるれば、さぶらふ人びともこしらへわびつつ、心細う思ひあへり。
 京では、このお手紙を、あちこちで御覧になって、お心を痛められる方々ばかりが多かった。二条院の君は、あれからお枕も上がらず、尽きぬ悲しみに沈まれているので、伺候している女房たちもお慰め困じて、互いに心細く思っていた。
 京では須磨の使いのもたらした手紙によって思い乱れる人が多かった。二条の院の女王にょおうは起き上がることもできないほどの衝撃を受けたのである。こがれて泣く女王を女房たちはなだめかねて心細い思いをしていた。
  Kyau ni ha, kono ohom-humi, tokorodokoro ni mi tamahi tutu, mikokoro midare tamahu hitobito nomi ohokari. Nideunowin-no-Kimi ha, sono mama ni oki mo agari tamaha zu, tuki se nu sama ni obosi kogarure ba, saburahu hitobito mo kosirahe wabi tutu, kokorobosou omohi ahe ri.
2.2.11  もてならしたまひし御調度ども、弾きならしたまひし御琴、 脱ぎ捨てたまひつる御衣の匂ひなどにつけても、今はと世になからむ人のやうにのみ思したれば、かつはゆゆしうて、少納言は、 僧都に御祈りのことなど聞こゆ。二方に御修法などせさせたまふ。かつは、「 思し嘆く御心静めたまひて、思ひなき世にあらせたてまつりたまへ」と、心苦しきままに祈り申したまふ。
 日頃お使いになっていらした御調度などや、お弾き馴れていらしたお琴、お脱ぎ置きになったお召し物の薫りなどにつけても、今はもうこの世にいない人のようにばかりお思いになっているので、ごもっともと思う一方で縁起でもないので、少納言は、僧都にご祈祷をお願い申し上げる。お二方のために御修法などをおさせになる。ご帰京を祈る一方では、「このようにお悲しみになっているお気持ちをお鎮めくださって、物思いのないお身の上にさせて上げてください」と、おいたわしい気持ちでお祈り申し上げなさる。
 源氏の使っていた手道具、常にいていた楽器、脱いで行った衣服の香などから受ける感じは、夫人にとっては人の死んだ跡のようにはげしいものらしかった。夫人のこの状態がまた苦労で、少納言は北山の僧都そうず祈祷きとうのことを頼んだ。北山では哀れな肉親の夫人のためと、源氏のために修法しゅほうをした。夫人のなげきの心が静まっていくことと、幸福な日がまた二人の上に帰ってくることを仏に祈ったのである。
  Mote-narasi tamahi si miteudo-domo, hiki narasi tamahi si ohom-koto, nugi sute tamahi turu ohom-zo no nihohi nado ni tuke te mo, imaha to yo ni nakara m hito no yau ni nomi obosi tare ba, katuha yuyusiu te, Seunagon ha, Soudu ni ohom-inori no koto nado kikoyu. Hutakata ni misyuhohu nado se sase tamahu. Katuha, "Obosi nageku mikokoro sidume tamahi te, omohi naki yo ni ara se tatematuri tamahe." to, kokorogurusiki mama ni inori mausi tamahu.
2.2.12  旅の御宿直物など、調じてたてまつりたまふ。かとりの御直衣、指貫、さま変はりたる心地するもいみじきに、「 去らぬ鏡」とのたまひし面影の、げに身に添ひたまへるもかひなし。
 旅先でのご寝具など、作ってお届けなさる。かとりのお直衣、指貫、変わった感じがするにつけても悲しいのに、「去らない鏡の」とお詠みになった面影が、なるほど目に浮かんで離れないのも詮のないことである。
 二条の院では夏の夜着類も作って須磨へ送ることにした。無位無官の人の用いるかとりの絹の直衣のうし指貫さしぬきの仕立てられていくのを見ても、かつて思いも寄らなかった悲哀を夫人は多く感じた。鏡の影ほどの確かさで心は常にあなたから離れないだろうと言った、恋しい人の面影はその言葉のとおりに目から離れなくても、現実のことでないことは何にもならなかった。
  Tabi no ohom-tonowimono nado, teuzi te tatematuri tamahu. Katori no ohom-nahosi, sasinuki, sama kahari taru kokoti suru mo imiziki ni, "Sara nu kagami" to notamahi si omokage no, geni mi ni sohi tamahe ru mo kahinasi.
2.2.13  出で入りたまひし方、 寄りゐたまひし真木柱などを見たまふにも、 胸のみふたがりて、ものをとかう思ひめぐらし、世にしほじみぬる齢の人だにあり、まして、馴れむつびきこえ、父母にもなりて生ほし立てならはしたまへれば、恋しう思ひきこえたまへる、ことわりなり。ひたすら世になくなりなむは、言はむ方なくて、やうやう 忘れ草も生ひやすらむ、聞くほどは近けれど、 いつまでと限りある御別れにもあらで、思すに尽きせずなむ。
 始終出入りなさったあたり、寄り掛かりなさった真木柱などを御覧になるにつけても、胸ばかりが塞がって、よく物事の分別がついて、世間の経験を積ん年輩の人でさえそうであるのに、まして、お馴れ親しみ申し、父母にもなりかわってお育て申されてきたので、恋しくお思い申し上げなさるのも、ごもっともなことである。まるでこの世から去られてしまうのは、何とも言いようがなく、だんだん忘れることもできようが、聞けば近い所であるが、いつまでと期限のあるお別れでもないので、思えば思うほど悲しみは尽きないのである。
源氏がそこから出入りした戸口、よりかかっていることの多かった柱も見ては胸が悲しみでふさがる夫人であった。今の悲しみの量を過去の幾つの事に比べてみることができたりする年配の人であっても、こんなことは堪えられないに違いないのを、だれよりもむつまじく暮らして、ある時は父にも母にもなって愛撫あいぶされた保護者で良人おっとだった人ににわかに引き離されて女王が源氏を恋しく思うのはもっともである。死んだ人であれば悲しい中にも、時間があきらめを教えるのであるが、これは遠い十万億土ではないが、いつ帰るとも定めて思えない別れをしているのであるのを夫人はつらく思うのである。
  Ideiri tamahi si kata, yoriwi tamahi si makibasira nado wo mi tamahu ni mo, mune nomi hutagari te, mono wo tokau omohi-megurasi, yo ni sihozimi nuru yohahi no hito dani ari, masite, nare mutubi kikoye, titihaha ni mo nari te ohosi tate narahasi tamahe re ba, kohisiu omohi kikoye tamahe ru, kotowari nari. Hitasura yo ni nakunari na m ha, ihamkatanaku te, yauyau wasuregusa mo ohi ya su ram, kiku hodo ha tikakere do, itu made to kagiri aru ohom-wakare ni mo ara de, obosu ni tuki se zu nam.
2.2.14   入道宮にも、春宮の御事により思し嘆くさま、いとさらなり。御宿世のほどを思すには、 いかが浅く思されむ。年ごろはただものの聞こえなどのつつましさに、「 すこし情けあるけしき見せば、それにつけて人のとがめ出づることもこそ」 とのみ、ひとへに思し忍びつつ、あはれをも多う御覧じ過ぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、「 かばかり憂き世の人言なれど、かけてもこの方には言ひ出づることなくて止みぬるばかりの、 人の御おもむけも、あながちなりし心の引く方にまかせず、かつはめやすくもて隠しつるぞかし」。 あはれに恋しうも、いかが思し出でざらむ。御返りも、すこしこまやかにて、
 入道の宮におかれても、春宮の御将来のことでお嘆きになるご様子、いうまでもない。御宿縁をお考えになると、どうして並大抵のお気持ちでいられようか。近年はただ世間の評判が憚られるので、「少しでも同情の素振りを見せたら、それにつけても誰か咎めだてすることがありはしまいか」とばかり、一途に堪え忍び忍びして、愛情をも多く知らないふりをして、そっけない態度をなさっていたが、「これほどにつらい世の噂ではあるが、少しもこのことについては噂されることなく終わったほどの、あの方の態度も、一途であった恋心の赴くままにまかせず、一方では無難に隠したのだ」。しみじみと恋しいが、どうしてお思い出しになれずにいられようか。お返事も、いつもより情愛こまやかに、
 入道の宮も東宮のために源氏が逆境に沈んでいることを悲しんでおいでになった。そのほか源氏との宿命の深さから思っても宮のおなげきは、複雑なものであるに違いない。これまではただ世間が恐ろしくて、少しのあわれみを見せれば、源氏はそれによって身も世も忘れた行為に出ることが想像されて、動く心もおさえる一方にして、御自身の心までも無視して冷淡な態度を取り続けられたことによって、うるさい世間であるにもかかわらず何のうわさも立たないで済んだのである。源氏の恋にも御自身の内の感情にも成長を与えなかったのは、ただ自分の苦しい努力があったからであると思召おぼしめされる宮が、尼におなりになって、源氏が対象とすべくもない解放された境地から源氏を悲しくも恋しくも今は思召されるのであった。お返事も以前のものに比べて情味があった。
  Nihudau-no-Miya ni mo, Touguu no ohom-koto ni yori obosi-nageku sama, ito sara nari. Ohom-sukuse no hodo wo obosu ni ha, ikaga asaku obosa re m. Tosigoro ha tada mono no kikoye nado no tutumasisa ni, "Sukosi nasake aru kesiki mise ba, sore ni tuke te hito no togame iduru koto mo koso." to nomi, hitohe ni obosi-sinobi tutu, ahare wo mo ohou goranzi sugusi, sukusukusiu motenasi tamahi si wo, "Kabakari uki yo no hitogoto nare do, kakete mo kono kata ni ha ihi iduru koto naku te yami nuru bakari no, hito no ohom-omomuke mo, anagati nari si kokoro no hiku kata ni makase zu, katuha meyasuku mote-kakusi turu zo kasi". Ahare ni kohisiu mo, ikaga obosi ide zara m. Ohom-kaheri mo, sukosi komayaka ni te,
2.2.15  「 このころは、いとど、
 「このごろは、ますます、
 このごろはいっそう、
  "Konokoro ha, itodo,
2.2.16    塩垂るることをやくにて松島に
   年ふる海人も嘆きをぞつむ
  涙に濡れているのを仕事として
  出家したわたしも嘆きを積み重ねています
  しほたるることをやくにて松島に
  年るあまもなげきをぞ積むというのであった。
    Sihotaruru koto wo yaku nite Matusima ni
    tosi huru ama mo nageki wo zo tumu
2.2.17  尚侍君の御返りには、
 尚侍の君のお返事には、
尚侍ないしのかみのは、
  Kam-no-Kimi no ohom-kaheri ni ha,
2.2.18  「 浦にたく海人だにつつむ恋なれば
   くゆる煙よ行く方ぞなき
 「須磨の浦の海人でさえ人目を隠す恋の火ですから
  人目多い都にいる思いはくすぶり続けて晴れようがありません
  浦にたくあまたにつつむ恋なれば
  くゆる煙よ行くかたぞなき
    "Ura ni taku ama dani tutumu kohi nare ba
    kuyuru keburi yo yuku kata zo naki
2.2.19   さらなることどもは、えなむ
 今さら言うまでもございませんことの数々は、申し上げるまでもなく」
 今さら申し上げるまでもないことを略します。
  Sara naru koto-domo ha, e nam."
2.2.20  とばかり、 いささか書きて、中納言の君の中にあり。 思し嘆くさまなど、いみじう言ひたり。あはれと思ひきこえたまふ節々もあれば、うち泣かれたまひぬ。
 とだけ、わずかに書いて、中納言の君の手紙の中にある。お嘆きのご様子など、たくさん書かれてあった。いとしいとお思い申されるところがあるので、ふとお泣きになってしまった。
 という短いので、中納言の君は悲しんでいる尚侍の哀れな状態を報じて来た。身にしむ節々ふしぶしもあって源氏は涙がこぼれた。
  to bakari, isasaka kaki te, Tyuunagon-no-Kimi no naka ni ari. Obosi nageku sama nado, imiziu ihi tari. Ahare to omohi kikoye tamahu husibusi mo are ba, uti-naka re tamahi nu.
2.2.21  姫君の御文は、心ことにこまかなりし御返りなれば、あはれなること多くて、
 姫君のお手紙は、格別に心こめたお返事なので、しみじみと胸を打つことが多くて、
 紫の女王のは特別にこまやかな情のこめられた源氏の手紙の返事であったから、身にしむことも多く書かれてあった。
  Himegimi no ohom-humi ha, kokorokoto ni komaka nari si ohom-kaheri nare ba, ahare naru koto ohoku te,
2.2.22  「 浦人の潮くむ袖に比べ見よ
   波路へだつる夜の衣を
 「あなたのお袖とお比べになってみてください
  遠く波路隔てた都で独り袖を濡らしている夜の衣と
  浦人の塩そでにくらべ見よ
  波路隔つる夜の衣を
    "Urabito no siho kumu sode ni kurabe mi yo
    namidi hedaturu yoru no koromo wo
2.2.23  ものの色、したまへるさまなど、いときよらなり。何ごとも らうらうじうものしたまふを、思ふさまにて、「 今は他事に心あわたたしう、行きかかづらふ方もなく、しめやかにてあるべきものを」と思すに、いみじう口惜しう、夜昼面影におぼえて、 堪へがたう思ひ出でられたまへば、「 なほ忍びてや迎へまし」と思す。またうち返し、「 なぞや、かく憂き世に、罪をだに失はむ」と思せば、やがて御精進にて、明け暮れ行なひておはす。
 お召物の色合い、仕立て具合など、実に良く出来上がっていた。何事につけてもいかにも上手にお出来になるのが、思い通りであるので、「今ではよけいな情事に心せわしく、かかずらうこともなく、落ち着いて暮らせるはずものを」とお思いになると、ひどく残念に、昼夜なく面影が目の前に浮かんで、堪え難く思わずにはいらっしゃれないので、「やはりこっそりと呼び寄せようかしら」とお思いになる。また一方で思い返して、「どうして出来ようか、このようにつらい世であるから、せめて罪障だけでも消滅させよう」とお考えになると、そのままご精進の生活に入って、明け暮れお勤めをなさる。
 という夫人から、使いに託してよこした夜着や衣服類に洗練された趣味のよさが見えた。源氏はどんなことにもすぐれた女になった女王がうれしかった。青春時代の恋愛も清算して、この人と静かに生を楽しもうとする時になっていたものをと思うと、源氏は運命が恨めしかった。夜も昼も女王の面影を思うことになって、堪えられぬほど恋しい源氏は、やはり若紫は須磨へ迎えようという気になった。
  Mono no iro, si tamahe ru sama nado, ito kiyora nari. Nanigoto mo raurauziu monosi tamahu wo, omohu sama nite, "Ima ha kotogoto ni kokoro awatatasiu, yuki kakadurahu kata mo naku, simeyaka ni te aru beki mono wo." to obosu ni, imiziu kutiwosiu, yoruhiru omokage ni oboye te, tahe gatau omohi ide rare tamahe ba, "Naho sinobi te ya mukahe masi." to obosu. Mata uti-kahesi, "Nazo ya, kaku uki yo ni, tumi wo dani usinaha m." to obose ba, yagate misauzin nite, akekure okonahi te ohasu.
2.2.24  大殿の若君の御事などあるにも、いと悲しけれど、「 おのづから逢ひ見てむ。頼もしき人びとものしたまへば、うしろめたうはあらず」と、思しなさるるは、 なかなか、子の道の惑はれぬにやあらむ
 大殿の若君のお返事などあるにつけ、とても悲しい気がするが、「いずれ再会の機会はあるであろう。信頼できる人々がついていらっしゃるから、不安なことはない」と、思われなされるのは、子供を思う煩悩の方は、かえってお惑いにならないのであろうか。
 左大臣からの返書には若君のことがいろいろと書かれてあって、それによってまた平生以上に子と別れている親の情は動くのであるが、頼もしい祖父母たちがついていられるのであるから、気がかりに思う必要はないとすぐに考えられて、子のやみという言葉も、愛妻を思う煩悩ぼんのうの闇に比べて薄いものらしくこの人には見えた。
  Ohotono-no-Wakagimi no ohom-koto nado aru ni mo, ito kanasikere do, "Onodukara ahi mi te m. Tanomosiki hitobito monosi tamahe ba, usirometau ha ara zu." to, obosi nasa ruru ha, nakanaka, ko no miti no madoha re nu ni ya ara m.
注釈226長雨のころになりて季節は夏の長雨の頃に推移。2.2.1
注釈227松島の海人の苫屋もいかならむ--須磨の浦人しほたるるころ源氏から藤壺への贈歌。「松島」に「待つ」を掛け、「海人」に「尼」を掛ける。「賢木」巻の贈答歌を踏まえた表現。2.2.3
注釈228いつとはべらぬなかにも以下「まさりてなむ」まで、手紙の文句。2.2.4
注釈229汀まさりて『異本紫明抄』は「君惜しむ涙落ちそひこの河の汀まさりて流るべらなり」(古今六帖四、別)を引歌として指摘する。2.2.4
注釈230つれづれと過ぎにし以下、手紙の文句。2.2.6
注釈231こりずまの浦のみるめのゆかしきを--塩焼く海人やいかが思はむ源氏の朧月夜への贈歌。「懲りずまに」に「須磨」を掛け、「海松布(みるめ)」に「見る目」を掛ける。『奥入』は「白波は立ち騒ぐともこりずまの浦のみるめは刈らむとぞ思ふ」(古今六帖三、みるめ)を引歌として指摘する。2.2.7
注釈232さまざま書き尽くしたまふ言の葉、思ひやるべし語り手のあとは読者の推量に任すという省筆の弁。『岷江入楚』所引三光院実枝は「草子の地なり」と指摘。2.2.8
注釈233京にはこの御文場面が変わって、都の紫の君の悲嘆の様子を語る。2.2.10
注釈234そのままに『集成』は「お別れした日から」の意に解し、『完訳』は「源氏の手紙を読んだまま」の意に解す。2.2.10
注釈235脱ぎ捨てたまひつる御衣大島本は「ぬきすて給つる御そ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「捨てたまへる」と校訂する。2.2.11
注釈236僧都に紫の君の祖母の兄。北山の僧都(「若紫」巻初出)。2.2.11
注釈237思し嘆く大島本は「おほしなけく」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「かく思し嘆く」と「かく」を補訂する。以下「たてまつりたまへ」まで、僧都の祈りの内容。2.2.11
注釈238去らぬ鏡「須磨」巻(第三段)の源氏の和歌の語句を受ける。2.2.12
注釈239寄りゐたまひし真木柱『異本紫明抄』は「わぎもこが来ては寄り立つ真木柱そもむつましやゆかりと思へば」(出典未詳)を引歌として指摘する。2.2.13
注釈240胸のみふたがりて『完訳』は「恋しう」に続くと注す。すると「ものをとかう」以下「ならはしたまへれば」まで挿入句となる。2.2.13
注釈241忘れ草も生ひやすらむ『河海抄』は「恋ふれども逢ふ夜のなきは忘れ草夢路にさへや生ひ茂るらむ」(古今集恋五、七六六、読人しらず)を引歌として指摘する。2.2.13
注釈242入道宮にも、春宮の御事により藤壺、朧月夜・紫の君からの返書を語る。2.2.14
注釈243いかが浅く思されむ大島本は「あさく」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「浅くは」と係助詞「は」を補訂する。語り手の推測。2.2.14
注釈244すこし情けあるけしき見せば以下「出づることもこそ」まで、藤壺の心中。2.2.14
注釈245かばかり憂き世の大島本「かはかり」とあるが、独自異文。青表紙諸本「かはかりに」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は「かばかりに」と校訂する。以下「もて隠しつるぞかし」まで、藤壺の心中。ただし、それを受ける引用句なし。『完訳』は「直接話法の心内」という。2.2.14
注釈246人の御おもむけ「人」は源氏をさす。2.2.14
注釈247あはれに恋しうも、いかが思し出でざらむ『細流抄』は「草子地ことはる也」と指摘。『完訳』は「心内語から、語り手の推測に転じて、源氏と隔った今、ひとり源氏への感動を反芻する心中と推測」と注す。2.2.14
注釈248このころは以下和歌の終わりまで、藤壺の手紙。2.2.15
注釈249塩垂るることをやくにて松島に--年ふる海人も嘆きをぞつむ藤壺の返歌。「役」と「焼く」、「松島」の「まつ」に「待つ」、「海人」と「尼」、「嘆き」と「投げ木」を掛ける。「投げ木」とは「積む」の縁語。『新大系』は「四方の海に塩焼くあまの心からやくとはかかるなげきをやつむ」(紫式部集)を指摘。2.2.16
注釈250浦にたく海人だにつつむ恋なれば--くゆる煙よ行く方ぞなき「海人だに」と「数多に」、「恋」の「ひ」に「火」、「燻ゆる」に「悔ゆる」を掛ける。以下「えなむ」まで、朧月夜からの手紙。2.2.18
注釈251さらなることどもはえなむ和歌に添えた言葉。「えなむ」の下に「書き続けぬ」などの語句が省略されている。2.2.19
注釈252いささか書きて大島本は「いさゝかかきて」とあるが、独自異文。青表紙諸本「いさゝかにて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は「いささかにて」と校訂する。2.2.20
注釈253思し嘆くさまなどいみじう言ひたり中納言の私信の中に。2.2.20
注釈254浦人の潮くむ袖に比べ見よ--波路へだつる夜の衣を紫の君の返歌。「浦人」は源氏をいう。2.2.22
注釈255今は他事に以下「あるべきものを」まで、源氏の心中。2.2.23
注釈256なほ忍びてや迎へまし源氏の心中。2.2.23
注釈257なぞやかく憂き世に罪をだに失はむ源氏の心中。『完訳』は「せめて仏罰だけでも消滅させよう。無実の謫居生活に、藤壺と深くかかわらねばならなかった罪業を贖おうとする」と注す。2.2.23
注釈258おのづから逢ひ見てむ以下「うしろめたうはあらず」まで、源氏の心中。2.2.24
注釈259なかなか、子の道の惑はれぬにやあらむ『異本紫明抄』は「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を引歌として指摘する。「にやあらむ」は語り手の源氏の心を推量。『完訳』は「夫婦仲よりもかえって、親子の道には迷わぬのか、とする語り手の評、夫婦愛を強調」と注す。2.2.24
出典14 汀まさりて 君をのみ涙落ちそひこの川の汀まさりて流るべらなり 古今六帖四-二三四五 2.2.4
出典15 こりずまの浦のみるめ 白波は立ち騒ぐともこりずまの浦のみるめは刈らむとぞ思ふ 古今六帖三-一八七〇 2.2.7
出典16 寄りゐたまひし真木柱 我妹子が来ては寄り立つ槙柱そもむつまじやゆかりと思へば 出典未詳-紫明抄所引 2.2.13
出典17 いつまでと限りある 別れてはいつ逢ひ見むと思ふらむ限りある世の命ともなし 後撰集離別-一三一九 伊勢 2.2.13
出典18 子の道の惑はれ 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな 後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔 2.2.24
校訂22 大殿にも 大殿にも--大殿(殿/+に)も 2.2.9
校訂23 とのみ とのみ--(/+と<朱>)のみ 2.2.14
校訂24 らうらうじう らうらうじう--よ(よ/$ら)う/\しう 2.2.23
校訂25 堪へがたう 堪へがたう--たえ(え/$へ)かたう 2.2.23
2.3
第三段 伊勢の御息所へ手紙


2-3  Genji mails to Lady Rokujo in Ise

2.3.1   まことや、騒がしかりしほどの紛れに漏らしてけり。かの伊勢の宮へも御使ありけり。かれよりも、ふりはへ尋ね参れり。浅からぬ ことども書きたまへり。言の葉、筆づかひなどは、人よりことになまめかしく、いたり深う見えたり。
 ほんと、そうであった、混雑しているうちに言い落としてしまった。あの伊勢の宮へもお使者があったのであった。そこからもお見舞いの使者がわざわざ尋ねて参った。並々ならぬ事柄をお書きになっていた。言葉の用い方、筆跡などは、誰よりも格別に優美で教養の深さが窺えた。
 源氏が須磨へ移った初めの記事の中に筆者は書きらしてしまったが伊勢いせ御息所みやすどころのほうへも源氏は使いを出したのであった。あちらからもまたはるばるとふみを持って使いがよこされた。熱情的に書かれた手紙で、典雅な筆つきと見えた。
  Makoto ya, sawagasikari si hodo no magire ni morasi te keri. Kano Ise no Miya he mo ohom-tukahi ari keri. Kare yori mo, hurihahe tadune mawire ri. Asakara nu koto-domo kaki tamahe ri. Kotonoha, hudedukahi nado ha, hito yori koto ni namamekasiku, itari hukau miye tari.
2.3.2  「 なほうつつとは思ひたまへられぬ御住ひをうけたまはるも、 明けぬ夜の心惑ひかとなむ。さりとも、 年月隔てたまはじと、思ひやりきこえさするにも、罪深き身のみこそ、また聞こえさせむこともはるかなるべけれ。
 「依然として現実のこととは存じられませぬお住まいの様を承りますと、無明長夜の闇に迷っているのかと存じられます。そうは言っても、長の年月をお送りになることはありますまいと推察申し上げますにつけても、罪障深いわが身だけは、再びお目にかかることも遠い先のことでしょう。
 どうしましても現実のことと思われませんような御隠栖いんせいのことを承りました。あるいはこれもまだ私の暗い心から、夜の夢の続きを見ているのかもしれません。なお幾年もそうした運命の中にあなたがお置かれになることはおそらくなかろうと思われます。それを考えますと、罪の深い私は何時をはてともなくこの海の国にさすらえていなければならないことかと思われます。
  "Naho ututu to ha omohi tamahe rare nu ohom-sumahi wo uketamaharu mo, ake nu yo no kokoromadohi ka to nam. Saritomo, tosituki hedate tamaha zi to, omohiyari kikoye sasuru ni mo, tumi hukaki mi nomi koso, mata kikoye sase m koto mo haruka naru bekere.
2.3.3    うきめかる伊勢をの海人を思ひやれ
   藻塩垂るてふ須磨の浦にて
  辛く淋しい思いを致してます伊勢の人を思いやってくださいまし
  やはり涙に暮れていらっしゃるという須磨の浦から
  うきめかる伊勢をの海人あまを思ひやれ
  もしほるてふ須磨の浦にて
    Ukime karu Isewonoama wo omohiyare
    mosiho taru tehu Suma no ura nite
2.3.4  よろづに思ひたまへ乱るる世のありさまも、なほいかになり果つべきにか」
 何事につけても思い乱れます世の中の有様も、やはりこれから先どのようになって行くのでしょうか」
 世の中はどうなるのでしょう。
  Yorodu ni omohi tamahe midaruru yo no arisama mo, naho ikani nari hatu beki ni ka?"
2.3.5  と多かり。
 と多く書いてある。
 不安な思いばかりがいたされます。
  to ohokari.
2.3.6  「 伊勢島や潮干の潟に漁りても
   いふかひなきは我が身なりけり
 「伊勢の海の干潟で貝取りしても
  何の甲斐もないのはこのわたしです
  伊勢島や潮干しほひのかたにあさりても
  言ふかひなきはわが身なりけり
    "Isesima ya sihohi no kata ni asari te mo
    ihukahinaki ha wagami nari keri
2.3.7  ものをあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書きたまへる、白き唐の紙、四、五枚ばかりを巻き 続けて、墨つきなど見所あり。
 しみじみとしたお気持ちで、筆を置いては書き置いては書きなさっている、白い唐紙、四、五枚ほどを継ぎ紙に巻いて、墨の付け具合なども素晴らしい。
 などという長いものである。源氏の手紙に衝動を受けた御息所はあとへあとへと書きいで、白い支那しなの紙四、五枚を巻き続けてあった。書風も美しかった。
  Mono wo ahare to obosi keru mama ni, uti-oki uti-oki kaki tamahe ru, siroki kara no kami, si, gomai bakari wo maki tuduke te, sumituki nado midokoro ari.
2.3.8  「 あはれに思ひきこえし人をひとふし憂しと思ひきこえし心あやまりに、かの御息所も思ひ倦じて別れたまひにし」と思せば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひきこえたまふ。折からの御文、いとあはれなれば、御使さへむつましうて、二、三日据ゑさせたまひて、かしこの物語などせさせて聞こしめす。
 「もともと慕わしくお思い申し上げていた人であったが、あの一件を辛くお思い申し上げた心の行き違いから、あの御息所も情けなく思って別れて行かれたのだ」とお思いになると、今ではお気の毒に申し訳ないこととお思い申し上げていらっしゃる。折からのお手紙、たいそう胸にしみたので、お使いの者までが慕わしく思われて、二、三日逗留させなさって、あちらのお話などをさせてお聞きになる。
 愛していた人であったが、その人の過失的な行為を、同情の欠けた心で見て恨んだりしたことから、御息所も恋をなげうって遠い国へ行ってしまったのであると思うと、源氏は今も心苦しくて、済まない目にあわせた人として御息所を思っているのである。そんな所へ情のある手紙が来たのであったから、使いまでも恋人のゆかりの親しい者に思われて、二、三日滞留させて伊勢の話を侍臣たちに問わせたりした。
  "Ahare ni omohi kikoye si hito wo, hitohusi usi to omohi kikoye si kokoro ayamari ni, kano Miyasumdokoro mo omohi unzi te wakare tamahi ni si." to obose ba, ima ni itohosiu katazikenaki mono ni omohi kikoye tamahu. Worikara no ohom-humi, ito ahare nare ba, ohom-tukahi sahe mutumasiu te, hutuka, mika suwe sase tamahi te, kasiko no monogatari nado se sase te kikosimesu.
2.3.9  若やかにけしきある侍の人なりけり。かくあはれなる御住まひなれば、かやうの人もおのづからもの遠からで、ほの見たてまつる御さま、容貌を、 いみじうめでたし、と涙落しをりけり。 御返り書きたまふ、言の葉、思ひやるべし
 若々しく教養ある侍所の人なのであった。このような寂しいお住まいなので、このような使者も自然と間近にちらっと拝する御様子、容貌を、たいそう立派である、と感涙するのであった。お返事をお書きになる、文言、想像してみるがよいであろう。
 若やかな気持ちのよい侍であった。閑居のことであるから、そんな人もやや近い所でほのかに源氏の風貌ふうぼうに接することもあって侍は喜びの涙を流していた。伊勢の消息に感動した源氏の書く返事の内容は想像されないこともない。
  Wakayaka ni kesiki aru saburahi no hito nari keri. Kaku ahare naru ohom-sumahi nare ba, kayau no hito mo onodukara mono-tohokara de, hono-mi tatematuru ohom-sama, katati wo, imiziu medetasi, to namida otosi wori keri. Ohom-kaheri kaki tamahu, kotonoha, omohi-yaru besi.
2.3.10  「 かく世を離るべき身と思ひたまへましかば、同じくは慕ひきこえ ましものを、などなむ。つれづれと、心細きままに、
 「このように都から離れなければならない身の上と、分かっておりましたら、いっそのこと後をお慕い申して行けばよかったものを、などと思えます。所在のない、心淋しいままに、
 こうした運命に出逢う日を予知していましたなら、どこよりも私はあなたとごいっしょの旅に出てしまうべきだったなどと、つれづれさから癖になりました物思いの中にはそれがよく思われます。心細いのです。
  "Kaku yo wo hanaru beki mi to, omohi tamahe masika ba, onaziku ha sitahi kikoye masi mono wo, nado nam. Turedure to, kokorobosoki mama ni,
2.3.11    伊勢人の波の上漕ぐ小舟にも
   うきめは刈らで乗らましものを
  伊勢人が波の上を漕ぐ舟に一緒に乗ってお供すればよかったものを
  須磨で浮海布など刈って辛い思いをしているよりは
  伊勢人の波の上漕ぐ小船をぶねにも
  うきめは刈らで乗らましものを
    Isebito no nami no uhe kogu wobune ni mo
    ukime ha kara de nora masi mono wo
2.3.12    海人がつむなげきのなかに塩垂れて
   いつまで須磨の浦に眺めむ
  海人が積み重ねる投げ木の中に涙に濡れて
  いつまで須磨の浦にさすらっていることでしょう
  あまがつむなげきの中にしほたれて
  何時いつまで須磨の浦にながめん
    Ama ga tumu nageki no naka ni siho tare te
    itu made Suma no ura ni nagame m
2.3.13  聞こえさせむことの、いつともはべらぬこそ、尽きせぬ心地しはべれ」
 お目にかかれることが、いつの日とも分かりませんことが、尽きせず悲しく思われてなりません」
 いつ口ずからお話ができるであろうと思っては毎日同じように悲しんでおります。
  Kikoye sase m koto no, itu to mo habera nu koso, tuki se nu kokoti si habere."
2.3.14  などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからず聞こえかはしたまふ。
 などとあったのだった。このように、どの方ともことこまかにお手紙を書き交わしなさる。
 というのである。こんなふうに、どの人へも相手の心の慰むに足るような愛情を書き送っては返事を得る喜びにまた自身を慰めている源氏であった。
  nado zo ari keru. Kayau ni, iduko ni mo obotukanakara zu kikoye kahasi tamahu.
2.3.15  花散里も、悲しと思しけるままに書き集めたまへる 御心々見たまふ、をかしきも目なれぬ心地して、いづれもうち見つつ慰めたまへど、もの思ひのもよほしぐさなめり。
 花散里も、悲しいとお思いになって書き集めなさったお二方の心を御覧になると、興趣あり珍しい心地もして、どちらも見ながら慰められなさるが、物思いを起こさせる種のようである。
 花散里はなちるさとも悲しい心を書き送って来た。どれにも個性が見えて、恋人の手紙は源氏を慰めぬものもないが、また物思いの催されるたねともなるのである。
  Hanatirusato mo, kanasi to obosi keru mama ni kaki atume tamahe ru mikokorogokoro mi tamahu, wokasiki mo me nare nu kokoti si te, idure mo uti-mi tutu nagusame tamahe do, mono-omohi no moyohosigusa na' meri.
2.3.16  「 荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ
   しげくも露のかかる袖かな
 「荒れて行く軒の忍ぶ草を眺めていると
  ひどく涙の露に濡れる袖ですこと
  荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ
  しげくも露のかかる袖かな
    "Are masaru noki no sinobu wo nagame tutu
    sigeku mo tuyu no kakaru sode kana
2.3.17  とあるを、「 げに、葎よりほかの後見もなきさまにておはすらむ」と思しやりて、「 長雨に築地所々崩れてなむ」と聞きたまへば、京の家司のもとに仰せつかはして、近き国々の御荘の者などもよほさせて、仕うまつるべき由のたまはす。
 とあるのを、「なるほど、八重葎より他の後見もない状態でいられるのだろう」とお思いやりになって、「長雨に築地が所々崩れて」などとお聞きになったので、京の家司のもとにご命令なさって、近くの国々の荘園の者たちを徴用させて、修理をさせるようお命じになる。
 と歌っている花散里は、高くなったという雑草のほかに後見うしろみをする者のない身の上なのであると源氏は思いやって、長雨に土塀どべいがところどころくずれたことも書いてあったために、京の家司けいしへ命じてやって、近国にある領地から人夫を呼ばせて花散里のやしきの修理をさせた。
  to aru wo, "Geni, mugura yori hoka no usiromi mo naki sama nite ohasu ram." to obosi yari te, "Nagaame ni tuidi tokorodokoro kudure te nam." to kiki tamahe ba, Kyau no keisi no moto ni ohose tukahasi te, tikaki kuniguni no misau no mono nado moyohosa se te, tukaumaturu beki yosi notamahasu.
注釈260まことや騒がしかりしほどの紛れに漏らしてけり「まことや」は話題転換の常套表現。「書き漏らしてけり」は語り手の弁明。『一葉抄』は「記者詞也」と指摘。六条御息所や花散里との手紙のやりとりを語る。2.3.1
注釈261なほうつつとは以下「なり果つべきにか」まで、御息所の手紙。2.3.2
注釈262明けぬ夜の心惑ひかと『完訳』は「無明長夜の闇、煩悩に迷っているのか。自身の源氏への執心」と注す。2.3.2
注釈263年月隔てたまはじ大島本は「とし月」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「年月は」と係助詞「は」を補訂する。2.3.2
注釈264うきめかる伊勢をの海人を思ひやれ--藻塩垂るてふ須磨の浦にて御息所の返歌。「浮き布」に「憂き目」を掛ける。2.3.3
注釈265伊勢島や潮干の潟に漁りても--いふかひなきは我が身なりけり御息所の独詠歌。「貝」に「効」を掛ける。『完訳』は「己が不毛の人生を、漁りがいのない潟の景として形象。前歌では源氏と自分を対比的に詠み、これは自己のみを詠嘆」と注す。2.3.6
注釈266あはれに思ひきこえし人を以下「別れたまひにし」まで、源氏の心中。2.3.8
注釈267ひとふし憂しと生霊事件をさす(「葵」巻)。2.3.8
注釈268いみじうめでたし御息所の使者の感嘆。2.3.9
注釈269御返り書きたまふ言の葉思ひやるべし語り手の読者への語りかけ。『岷江入楚』所引三光院実枝説「草子の地なり」と指摘。『集成』は「草子地。以下、歌の前後の文章だけをしるした趣」と指摘。『完訳』は「語り手の推測」と注す。
【書きたまふ言の葉】-『集成』は「書きたまふ言の葉」と一文に続け、『完訳』は「書きたまふ。言の葉」云々と文を切る。
2.3.9
注釈270かく世を離るべき身と以下「心地しはべれ」まで、源氏の御息所への返書。2.3.10
注釈271思ひたまへましかば--ましものを反実仮想の表現。2.3.10
注釈272伊勢人の波の上漕ぐ小舟にも--うきめは刈らで乗らましものを『異本紫明抄』は「伊勢人はあやしき者をや何どてへば小舟に乗りてや波の上を漕ぐや波の上漕ぐや」(風俗歌・伊勢人)を指摘する。「うきめ」に「浮き布」と「憂き目」を掛ける。2.3.11
注釈273海人がつむなげきのなかに塩垂れて--いつまで須磨の浦に眺めむ源氏の返歌。御息所の第二首に応える。「なげき」に「嘆き」と「投げ木」を掛ける。2.3.12
注釈274御心々見たまふ大島本は「御心/\見給ふ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御心ごころ見たまふは」と係助詞「は」を補訂する。姉麗景殿女御と花散里の心。2.3.15
注釈275荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ--しげくも露のかかる袖かな花散里の贈歌。「偲ぶ」と「忍(草)」、「長雨」と「眺め」の掛詞。「忍(草)」と「露」は縁語。「軒の忍(草)」は荒廃した邸を象徴し、「露」は「涙」を連想させる。2.3.16
注釈276げに、葎よりほかの後見もなきさまにておはすらむ源氏の心中。『集成』は「葎が門を閉ざすという表現が和歌にあり、それが用心堅固だという気持で「後見」という」と注す。2.3.17
注釈277長雨に築地所々崩れて季節が長雨の頃に推移。2.3.17
出典19 伊勢人の波の上漕ぐ小舟 伊勢人は あやしき者をや 何ど言へば 小舟に乗りてや 波の上を漕ぐや 波の上を漕ぐや 風俗歌-伊勢人 2.3.11
校訂26 ことども ことども--こと(と/+と)も 2.3.1
校訂27 続けて 続けて--つ(つ/+つ<朱>)けて 2.3.7
2.4
第四段 朧月夜尚侍参内する


2-4  Oborotukiyo goes in the Imperial Court of Suzaku

2.4.1   尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを、大臣いとかなしうしたまふ君にて、せちに、 宮にも内裏にも奏したまひければ、「 限りある女御、御息所にもおはせず、 公ざまの宮仕へ」と 思し直り、また、「 かの憎かりしゆゑこそ、いかめしきことも出で来しか」。許されたまひて、参りたまふべきにつけても、なほ心に染みにし方ぞ、あはれにおぼえたまける。
 尚侍の君は、世間体を恥じてひどく沈みこんでいられるのを、大臣がたいそうかわいがっていらっしゃる姫君なので、無理やり、大后にも帝にもお許しを奏上なさったので、「決まりのある女御や御息所でもいらっしゃらず、公的な宮仕え人」とお考え直しになり、また、「あの一件が憎く思われたゆえに、厳しい処置も出て来たのだが」と。赦されなさって、参内なさるにつけても、やはり心に深く染み込んだお方のことが、しみじみと恋しく思われなさるのであった。
 尚侍ないしのかみは源氏の追放された直接の原因になった女性であるから、世間からは嘲笑ちょうしょう的に注視され、恋人には遠く離れて、深いなげきの中におぼれているのを、大臣は最も愛している娘であったからあわれに思って、熱心に太后へ取りなしをしたし、みかどへもお詫びを申し上げたので、尚侍は公式の女官長であって、燕寝えんしんに侍する女御にょご更衣こういが起こした問題ではないから、過失として勅免があればそれでよいということになった。帝の御愛寵あいちょうを裏切って情人を持った点をお憎みになったのであるが、赦免の宣旨せんじが出て宮中へまたはいることになっても、尚侍の心は源氏の恋しさに満たされていた。
  Kam-no-Kimi ha, hitowarahe ni imiziu obosi kuduhoruru wo, Otodo ito kanasiu si tamahu Kimi nite, seti ni, Miya ni mo Uti ni mo sousi tamahi kere ba, "Kagiri aru Nyougo, Miyasumdokoro ni mo ohase zu, ohoyakezama no miyadukahe." to obosi nahori, mata, "Kano nikukari si yuwe koso, ikamesiki koto mo ideko sika". Yurusa re tamahi te, mawiri tamahu beki ni tuke te mo, naho kokoro ni simi ni si kata zo, ahare ni oboye tama' keru.
2.4.2   七月になりて参りたまふいみじかりし御思ひの名残なれば、人のそしりもしろしめされず、 例の、主上につとさぶらはせたまひて、よろづに怨み、かつはあはれに契らせたまふ
 七月になって参内なさる。格別であった御寵愛が今に続いているので、他人の悪口などお気になさらず、いつものようにお側にずっと伺候させあそばして、いろいろと恨み言を言い、一方では愛情深く将来をお約束あそばす。
 七月になってその事が実現された。非常なお気に入りであったのであるから、人のそしりも思召おぼしめさずに、お常御殿の宿直所とのいどころにばかり尚侍は置かれていた。お恨みになったり、永久に変わらぬ愛の誓いを仰せられたりする帝の-
  Huduki ni nari te mawiri tamahu. Imizikari si ohom-omohi no nagori nare ba, hito no sosiri mo sirosimesa re zu, rei no, Uhe ni tuto saburaha se tamahi te, yorodu ni urami, katuha ahare ni tigira se tamahu.
2.4.3   御さま容貌もいとなまめかしうきよらなれど思ひ出づることのみ多かる心のうちぞ、かたじけなき。御遊びのついでに、
 お姿もお顔もとてもお優しく美しいのだが、思い出されることばかり多い心中こそ、恐れ多いことである。管弦の御遊の折に、
風采ふうさいはごりっぱで、優美な方なのであるが、これを飽き足らぬものとは自覚していないが、なお尚侍には源氏ばかりが恋しいというのはもったいない次第である。音楽の合奏を侍臣たちにさせておいでになる時に、帝は尚侍へ、
  Ohom-sama katati mo ito namamekasiu kiyora nare do, omohi iduru koto nomi ohokaru kokoro no uti zo, katazikenaki. Ohom-asobi no tuide ni,
2.4.4  「 その人のなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさ思ふ人多からむ。何ごとも光なき心地するかな」とのたまはせて、「 院の思しのたまはせし御心を違へつるかな。罪得らむかし
 「あの人がいないのが、とても淋しいね。どんなに自分以上にそのように思っている人が多いことであろう。何事につけても、光のない心地がするね」と仰せになって、「院がお考えになり仰せになったお心に背いてしまったなあ。きっと罰を得るだろう」
 「あの人がいないことは寂しいことだ。私でもそう思うのだから、ほかにはもっと痛切にそう思われる人があるだろう。何の上にも光というものがなくなった気がする」と仰せられるのであった。それからまた、「院の御遺言にそむいてしまった。私は死んだあとで罰せられるに違いない」
  "Sono hito no naki koso, ito sauzausikere! Ikani masite sa omohu hito ohokara m. Nanigoto mo hikari naki kokoti suru kana!" to notamahase te, "Win no obosi notamahase si mikokoro wo tagahe turu kana! Tumi u ram kasi."
2.4.5  とて、涙ぐませたまふに、 え念じたまはず
 と言って、涙ぐみあそばすので、涙をお堪えきれになれない。
 と涙ぐみながらお言いになるのを聞いて、尚侍は泣かずにいられなかった。
  tote, namidaguma se tamahu ni, e nenzi tamaha zu.
2.4.6  「 世の中こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、と思ひ知るままに、久しく世にあらむものとなむ、さらに思はぬ。 さもなりなむにいかが思さるべき近きほどの別れに思ひ落とされむこそ、ねたけれ。 生ける世にとは 、げに、よからぬ人の言ひ置きけむ」
 「世の中は、生きていてもつまらないものだと思い知られるにつれて、長生きをしようなどとは、少しも思わない。そうなった時には、どのようにお思いになるでしょう。最近の別れよりも軽く思われるのが、悔しい。生きている日のためというのは、なるほど、つまらない人が詠み残したのであろう」
 「人生はつまらないものだという気がしてきて、それとともにもう決して長くは生きていられないように思われる。私がなくなってしまった時、あなたはどう思いますか、旅へ人の行った時の別れ以上に悲しんでくれないでは私は失望する。生きている限り愛し合おうという約束をして満足している人たちに、私のあなたを思う愛の深さはわからないだろう。私は来世に行ってまであなたと愛し合いたいのだ」
  "Yononaka koso, aru ni tuke te mo adikinaki mono nari kere, to omohi siru mama ni, hisasiku yo ni ara m mono to nam, sarani omoha nu. Samo nari na m ni, ikaga obosa ru beki. Tikaki hodo no wakare ni omohiotosa re m koso, netakere. Ike ru yo ni to ha, geni, yokara nu hito no ihi oki kem."
2.4.7  と、いとなつかしき御さまにて、ものをまことにあはれと思し入りてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ出づれば、
 と、とても優しい御様子で、何事も本当にしみじみとお考え入って仰せになるのにつけて、ぽろぽろと涙がこぼれ出ると、
となつかしい調子で仰せられる、それにはお心の底からあふれるような愛が示されていることであったから、尚侍の涙はほろほろとこぼれた。
  to, ito natukasiki ohom-sama nite, mono wo makoto ni ahare to obosi iri te notamahasuru ni tuke te, horohoro to kobore idure ba,
2.4.8  「 さりや。いづれに落つるにか
 「それごらん。誰のために流すのだろうか」
 「そら、涙が落ちる、どちらのために」
  "Sariya! Idure ni oturu ni ka?"
2.4.9  とのたまはす。
 と仰せになる。
 と帝はお言いになった。
  to notamahasu.
2.4.10  「 今まで御子たちのなきこそ、さうざうしけれ。春宮を院ののたまはせしさまに思へど、よからぬことども出で来めれば、心苦しう」
 「今までお子様たちがいないのが、物足りないね。東宮を故院の仰せどおりに思っているが、良くない事柄が出てくるようなので、お気の毒で」
 「今まで私に男の子のないのが寂しい。東宮を院のお言葉どおりに自分の子のように私は考えているのだが、いろいろな人間が間にいて、私の愛が徹底しないから心苦しくてならない」
  "Ima made Miko-tati no naki koso, sauzausikere. Touguu wo Win no notamahase si sama ni omohe do, yokara nu koto-domo ideku mere ba, kokorogurusiu."
2.4.11  など、 世を御心のほかにまつりごちなしたまふ人びとのあるに、若き御心の、強きところなきほどにて、いとほしと思したることも多かり。
 などと、治世をお心向きとは違って取り仕切る人々がいても、お若い思慮で、強いことの言えないお年頃なので、困ったことだとお思いあそばすことも多いのであった。
 などとお語りになる。御意志によらない政治を行なう者があって、それを若いお心の弱さはどうなされようもなくて御煩悶はんもんが絶えないらしい。
  nado, yo wo mikokoro no hoka ni maturigoti nasi tamahu hitobito no aru ni, wakaki mikokoro no, tuyoki tokoro naki hodo nite, itohosi to obosi taru koto mo ohokari.
注釈278尚侍の君は人笑へに朧月夜、源氏との関係が世間に知られて参内停止になっている。2.4.1
注釈279宮にも内裏にも奏したまひければ「宮」は弘徽殿大后をいう。2.4.1
注釈280限りある以下「出で来しか」まで、挿入句。「奏しければ」「許され給て」と文脈は続く。「限りある」とは、帝の後宮の后妃の一人としての意。尚侍は妃ではなく公職の人なのだという帝の心意を語る文。2.4.1
注釈281公ざまの宮仕へ尚侍は内侍司の長官という公職の人である意。2.4.1
注釈282思し直り主語は朱雀帝。2.4.1
注釈283かの憎かりしゆゑこそいかめしきことも出で来しか源氏との一件から参内停止という処置をとったのだが。「こそ--出で来しか」係結び、逆接用法。連用中止で、下に、源氏が退去した今となっては、朧月夜一人に辛く当たる必要はない、という意が省略。2.4.1
注釈284七月になりて参りたまふ季節は秋七月に移る。朧月夜参内を許される。2.4.2
注釈285いみじかりし御思ひの名残なれば帝の大変な御寵愛が今に失せない人なので。2.4.2
注釈286例の主上につとさぶらはせたまひてよろづに怨みかつはあはれに契らせたまふ帝と朧月夜との関係は形の上で元のごとく復活。「例の」「つと」とあることに注意。2.4.2
注釈287御さま容貌もいとなまめかしうきよらなれど『集成』と『新大系』は帝の容貌や姿態の美しさと解す。『完訳』は「以下、語り手は朧月夜の美貌から、源氏との思い出に生きる心中に転じ、畏れ多い心と評す」と注す。2.4.3
注釈288思ひ出づることのみ多かる心のうちぞかたじけなき朧月夜の心中。「心のうちぞ」以下、語り手の批評。『首書源氏物語』所引「或抄」は「朧月夜の心中を地より云也」と指摘。『完訳』も「語り手は--評す」と注す。2.4.3
注釈289その人のなきこそ以下「心地するかな」まで、帝の詞。源氏のいないことをさびしがる。2.4.4
注釈290院の思しのたまはせし御心を違へつるかな罪得らむかし帝の詞。桐壺院の遺言に背いてしまったことをいう。「賢木」巻にその遺言が語られている。2.4.4
注釈291え念じたまはず主語は朧月夜。2.4.5
注釈292世の中こそあるにつけても以下「人の言ひ置きけむ」まで、帝の詞。厭離思想。2.4.6
注釈293さもなりなむに「さ」は死ぬことをさす。2.4.6
注釈294いかが思さるべき主語は朧月夜。自分との死別を源氏との生別離に比較して問う。2.4.6
注釈295近きほどの別れ源氏との生別離をさす。2.4.6
注釈296生ける世にとは『源氏釈』は「恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ人の見まくほしけれ」(拾遺集恋一、六八五、大伴百世)を引歌として指摘する。『集成』は「あなたの心は源氏のことでいっぱいだから、「生きているこの世で」と思っても、何にもならぬことなのだ、古歌は私のような場合のあることを知らないのだ、の意」と注す。2.4.6
注釈297さりやいづれに落つるにか帝の詞。2.4.8
注釈298今まで御子たちのなきこそ以下「心苦しう」まで、帝の詞。2.4.10
注釈299世を御心のほかにまつりごちなしたまふ人びと大島本は「人/\」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「人」と校訂する。政治を帝の御意に反して行う人々。2.4.11
出典20 生ける世に 恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ人の見まくほしけれ 拾遺集恋一-六八五 大伴百世 2.4.6
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渋谷栄一校訂(C)
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渋谷栄一注釈(C)
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渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-3)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
砂場清隆(青空文庫)

2003年7月2日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年11月8日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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