第十四帖 澪標


14 MIWOTUKUSI (Ohoshima-bon)


光る源氏の二十八歳初冬十月から二十九歳冬まで内大臣時代の物語


Tale of Hikaru-Genji's Nai-Daijin era, from October at the age of 28 to in winter at the age of 29

1
第一章 光る源氏の物語 光る源氏の政界領導と御世替わり


1  Tale of Hikaru-Genji  Behaves as a leader in the political world

1.1
第一段 故桐壺院の追善法華御八講


1-1  Genji holds the memorial service, Hokke-hakkou, for Kiritsubo-in

1.1.1   さやかに見えたまひし夢の後は、院の帝の御ことを心にかけきこえたまひて、「 いかで、かの沈みたまふらむ 罪、救ひたてまつることをせむ」と、思し嘆きけるを、かく帰りたまひては、その御急ぎしたまふ。神無月に御八講したまふ。 世の人なびき仕うまつること、昔のやうなり。
 はっきりとお見えになった夢の後は、院の帝の御ことを心にお掛け申し上げになって、「何とか、あの沈んでいらっしゃるという罪、お救い申すことをしたい」と、お嘆きになっていらしたが、このようにお帰りになってからは、そのご準備をなさる。神無月に御八講をお催しになる。世間の人が追従し奉仕すること、昔と同じようである。
 須磨すまの夜の源氏の夢にまざまざとお姿をお現わしになって以来、父帝のことで痛心していた源氏は、帰京ができた今日になってその御菩提ごぼだいを早く弔いたいと仕度したくをしていた。そして十月に法華経ほけきょうの八講が催されたのである。参列者の多く集まって来ることは昔のそうした場合のとおりであった。
  Sayaka ni miye tamahi si yume no noti ha, Win-no-Mikado no ohom-koto wo kokoro ni kake kikoye tamahi te, "Ikade, kano sidumi tamahu ram tumi, sukuhi tatematuru koto wo se m." to, obosi nageki keru wo, kaku kaheri tamahi te ha, sono ohom-isogi si tamahu. Kamnaduki ni mi-ha'kau si tamahu. Yo no hito nabiki tukaumaturu koto, mukasi no yau nari.
1.1.2  大后、御悩み重くおはしますうちにも、「 つひにこの人をえ消たずなりなむこと」と、心病み思しけれど、帝は院の御遺言を思ひきこえたまふ。ものの報いありぬべく思しけるを、直し立てたまひて、御心地涼しくなむ思しける。時々おこり悩ませたまひし御目も、さはやぎたまひぬれど、「 おほかた世にえ長くあるまじう、心細きこと」とのみ、 久しからぬことを 思しつつ、常に召しありて、源氏の君は参りたまふ。世の中のことなども、隔てなくのたまはせつつ、御本意のやうなれば、おほかたの世の人も、あいなく、うれしきことに喜びきこえける。
 皇太后、御病気が重くいらっしゃる間でも、「とうとうこの人を失脚させないで終わってしまうことよ」と、悔しくお思いになったが、帝は故院の御遺言をお考えあそばす。きっと何かの報いがあるにちがいないとお思いになったが、復位おさせになって、御気分がすがすがしくなるのであった。時々眼病が起こってお悩みあそばした御目も、さわやかにおなりになったが、「おおよそ長生きできそうになく、心細いことだ」とばかり、長くないことをお考えになりながら、いつもお召しがあって、源氏の君は参内なさる。政治の事なども、隔意なく仰せになり仰せになっては、御本意のようなので、世間一般の人々も、関係なくも、嬉しいこととお喜び申し上げるのであった。
 今日も重く煩っておいでになる太后は、その中ででも源氏を不運に落としおおせなかったことを口惜くちおしく思召おぼしめすのであったが、みかどは院の御遺言をお思いになって、当時も報いが御自身の上へ落ちてくるような恐れをお感じになったのであるから、このごろはお心持ちがきわめて明るくおなりあそばされた。時々はげしくお煩いになった御眼疾も快くおなりになったのであるが、短命でお終わりになるような予感があってお心細いためによく源氏をお召しになった。政治についても隔てのない進言をお聞きになることができて、一般の人も源氏の意見が多く採用される宮廷の現状を喜んでいた。
  Ohokisaki, ohom-nayami omoku ohasimasu uti ni mo, "Tuhini kono hito wo e keta zu nari na m koto." to, kokoroyami obosi kere do, Mikado ha Win no go-yuigon wo omohi kikoye tamahu. Mono no mukuyi ari nu beku obosi keru wo, nahosi tate tamahi te, mikokoti suzusiku nam obosi keru. Tokidoki okori nayama se tamahi si ohom-me mo, sahayagi tamahi nure do, "Ohokata yo ni e nagaku aru maziu, kokorobosoki koto." to nomi, hisasikara nu koto wo obosi tutu, tuneni mesi ari te, Genzi-no-Kimi ha mawiri tamahu. Yononaka no koto nado mo, hedate naku notamaha se tutu, ohom-ho'i no yau nare ba, ohokata no yo no hito mo, ainaku, uresiki koto ni yorokobi kikoye keru.
注釈1さやかに見えたまひし夢の後は源氏、政界に復帰し、院の追善法華八講を催す。1.1.1
注釈2いかでかの沈みたまふらむ大島本は「しつミたまえむ」とある。『集成』『新大系』『古典セレクション』は諸本に従って「沈みたまふらむ」と校訂する。以下「救ひたてまつることをせむ」まで、源氏の心中。「らむ」推量の助動詞、視界外推量。「明石」巻で「われは、位にありし時」云々と源氏に語ったことをふまえる。『集成』は「院が苦しんでいらっしゃるという」と訳す。1.1.1
注釈3つひにこの人を以下「なりなむこと」まで、弘徽殿大后の心中。「なむ」連語、完了の助動詞「な」確述、「む」推量の助動詞、推量の意味を強調確述する。--してしまうのだろう。『完訳』の「とうとうこの君を圧さえきることができないでしまったのかと」は、むしろ「ぬる」の本文に近い訳文。1.1.2
注釈4おほかた世にえ長く以下「心細きこと」まで、帝の心中。「世」は寿命をさす。1.1.2
注釈5久しからぬことを寿命と在位の解釈がある。『集成』は「お命の長かぬことを」。『完訳』は「御位にも久しくおとどまりにはなれまいと」と訳す。二者択一的な理解でなく両義を併せ読んでよいだろう。1.1.2
注釈6思しつつ「つつ」接尾語、同じ動作の繰返し。お考えになりお考えになっては。1.1.2
校訂1 たまふらむ たまふらむ--*たまえむ 1.1.1
校訂2 世の人 世の人--世の人の(の/$<朱>) 1.1.1
1.2
第二段 朱雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執


1-2  A love triangle feud with Suzaku and Genji to Oborozukiyo

1.2.1   下りゐなむの御心づかひ近くなりぬるにも、 尚侍、心細げに 世を思ひ嘆きたまひつるいとあはれに思されけり
 御譲位なさろうとの御配慮が近くなったのにつけても、尚侍の君、心細げに身の上を嘆いていらっしゃるのが、とてもお気の毒に思し召されるのであった。
 帝は近く御遜位ごそんい思召おぼしめしがあるのであるが、尚侍ないしのかみがたよりないふうに見えるのをあわれに思召した。
  Oriwi na m no mikokorodukahi tikaku nari nuru nimo, Naisi-no-Kami, kokorobosoge ni yo wo omohi nageki tamahi turu, ito ahare ni obosa re keri.
1.2.2  「 大臣亡せたまひ、大宮も頼もしげなくのみ篤いたまへるに、 我が世残り少なき心地するになむ、いといとほしう、名残なきさまにて とまりたまはむとすらむ。昔より、 人には思ひ落としたまへれどみづからの心ざしのまたなきならひに、ただ御ことのみなむ、あはれにおぼえける。 立ちまさる人、また御本意ありて見たまふとも、おろかならぬ心ざしはしも、なずらはざらむと思ふさへこそ、心苦しけれ」
 「大臣がお亡くなりになり、大宮も頼りなくばかりいらっしゃる上に、わたしの寿命までが長くないような気がするので、とてもお気の毒に、かつてとすっかり変わった状態で後に残されることでしょう。以前から、あの人より軽く思っておいでですが、わたしの愛情はずっと他の誰よりも深いものですから、ただあなたのことだけを、愛しく思い続けてきたのでした。わたし以上の人が、再び望み通りになってご結婚なさっても、並々ならぬ愛情だけは、及ばないだろうと思うのさえ、たまらないのです」
 「大臣はくなるし、大宮も始終お悪いのに、私さえも余命がないような気がしているのだから、だれの保護も受けられないあなたは、孤独になってどうなるだろうと心配する。初めからあなたの愛はほかの人に向かっていて、私を何とも思っていないのだが、私はだれよりもあなたが好きなのだから、あなたのことばかりがこんな時にも思われる。私よりも優越者がまたあなたと恋愛生活をしても、私ほどにはあなたを思ってはくれないことはないかと、私はそんなことまでも考えてあなたのために泣かれるのだ」
  "Otodo use tamahi, Ohomiya mo tanomosige naku nomi atui tamahe ru ni, waga yo nokori sukunaki kokoti suru ni nam, ito itohosiu, nagori naki sama nite tomari tamaha m to su ram. Mukasi yori, hito ni ha omohi otosi tamahe re do, midukara no kokorozasi no mata naki narahi ni, tada ohom-koto nomi nam, ahare ni oboye keru. Tatimasaru hito, mata ohom-ho'i ari te mi tamahu tomo, oroka nara nu kokorozasi ha simo, nazuraha zara m to omohu sahe koso, kokorogurusikere."
1.2.3  とて、うち泣きたまふ。
 と言って、お泣きあそばす。
 帝は泣いておいでになった。
  tote, uti-naki tamahu.
1.2.4  女君、顔はいと赤く匂ひて、こぼるばかりの御愛敬にて、涙もこぼれぬるを、 よろづの罪忘れて、あはれにらうたしと 御覧ぜらる
 女君、顔は赤くそまって、こぼれるばかりのお美しさで、涙もこぼれたのを、一切の過失を忘れて、しみじみと愛しい、と御覧にならずにはいらっしゃれない。
 羞恥しゅうちほおを染めているためにいっそうはなやかに、愛嬌あいきょうがこぼれるように見える尚侍も涙を流しているのを御覧になると、どんな罪も許すに余りあるように思召されて、御愛情がそのほうへ傾くばかりであった。
  Womnagimi, kaho ha ito akaku nihohi te, koboru bakari no ohom-aigyau nite, namida mo kobore nuru wo, yorodu no tumi wasure te, ahare ni rautasi to goranze raru.
1.2.5  「 などか、御子をだに持たまへるまじき 。口惜しうもあるかな。 契り深き人のためには、今見出でたまひてむと思ふも、口惜しや。 限りあれば、ただ人にてぞ見たまはむかし」
 「どうして、せめて御子だけでも生まれなかったのだろうか。残念なことよ。ご縁の深いあの方のためでしたら、今すぐにでもお生みになるだろうと思うにつけても、たまらないことよ。身分に限りがあるので、臣下としてお育てになるのだろうね」
 「なぜあなたに子供ができないのだろう。残念だね。前生の縁の深い人とあなたの中にはすぐにまたそのよろこびをする日もあるだろうと思うとくやしい。それでも気の毒だね、親王を生むのでないから」
  "Nadoka, miko wo dani mo' tamahe ru maziki? Kutiwosiu mo aru kana! Tigiri hukaki hito no tame ni ha, ima miide tamahi te m to omohu mo, kutiwosi ya! Kagiri are ba, tadaudo nite zo mi tamaha m kasi."
1.2.6  など、行く末のことをさへのたまはするに、 いと恥づかしうも悲しうもおぼえたまふ。御容貌など、なまめかしうきよらにて、限りなき御心ざしの年月に添ふやうにもてなさせたまふに、 めでたき人なれど、さしも 思ひたまへらざりしけしき、心ばへなど、もの思ひ知られたまふままに、「 などて、わが心の若くいはけなきにまかせて、さる騷ぎをさへ引き出でて、わが名をばさらにもいはず、人の御ためさへ」など思し出づるに、 いと憂き御身なり
 などと、先々のことまで仰せになるので、とても恥ずかしくも悲しくもお思いになる。お顔など、優雅で美しくて、この上ない御愛情が年月とともに深まってお扱いあそばすので、素晴らしい方であるが、それほど深く愛してくださらなかった様子、気持ちなど、自然と物事がお分かりになってくるにつれて、「どうして自分の思慮の若く未熟なのにまかせて、あのような事件まで引き起こして、自分の名はいうまでもなく、あの方のためにさえ」などとお思い出しになると、まことにつらいお身の上である。
 こんな未来のことまでも仰せになるので、恥ずかしい心がしまいには悲しくばかりなった。帝は御容姿もおきれいで、深く尚侍をお愛しになる御心は年月とともに顕著になるのを、尚侍は知っていて、源氏はすぐれた男であるが、自分を思う愛はこれほどのものでなかったということもようやく悟ることができてきては、若い無分別さからあの大事件までも引き起こし、自分の名誉を傷つけたことはもとより、あの人にも苦労をさせることになったとも思われて、それも皆自分が薄倖はっこうな女だからであるとも悲しんでいた。
  nado, yukusuwe no koto wo sahe notamaha suru ni, ito hadukasiu mo kanasiu mo oboye tamahu. Ohom-katati nado, namamekasiu kiyora nite, kagiri naki mikokorozasi no tosituki ni sohu yau ni motenasa se tamahu ni, medetaki hito nare do, sasimo omohi tamahe ra zari si kesiki, kokorobahe nado, monoomohi sira re tamahu mama ni, "Nado te, waga kokoro no wakaku ihakenaki ni makase te, saru sawagi wo sahe hikiide te, waga na wo ba sarani mo iha zu, hito no ohom-tame sahe." nado obosi iduru ni, ito uki ohom-mi nari.
注釈7下りゐなむの御心づかひ「なむ」連語、「な」完了の助動詞、確述。「む」推量の助動詞。御譲位なさってしまおうとの御配慮。1.2.1
注釈8尚侍朧月夜尚侍。朱雀帝の後宮の尚侍。定員二名のうちの実質的な帝の御妻。もう一人は実務官。1.2.1
注釈9世を思ひ嘆きたまひつる大島本は「なけき給つる」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「たまへる」と校訂する。「世」は人生、身の上をさす。1.2.1
注釈10いとあはれに思されけり主語は帝。「れ」自発の助動詞。帝は朧月夜をとても不憫なと思わずにはいらっしゃれないのだった。1.2.1
注釈11大臣亡せたまひ以下「心苦しけれ」まで、朱雀帝の朧月夜への詞。1.2.2
注釈12我が世残り少なき心地するになむ「世」は寿命。「なむ」係助詞、「いといとほしう」に係るが、結びの流れで、下文に続く。帝の譲位後は、帝の内侍(御妻)としての待遇からうって変わった境遇、臣下の一人としてのような。1.2.2
注釈13とまりたまはむとすらむ「む」推量の助動詞、推量また意志とも。「らむ」推量の助動詞、視界外推量。生きておいでになろうとするのであろう。朧月夜の将来に対する気づかいとともに生い先短いと自覚する帝の僻みが感じられる言い方。1.2.2
注釈14人には思ひ落としたまへれど「人」は源氏を暗示した言い方。主語はあなた(朧月夜)。あなたはわたしのことを源氏より軽んじていらっしゃるが。1.2.2
注釈15みづからの心ざしのまたなきならひに『集成』は「私の方は誰にも劣らぬ深い愛情が身にしみてしまっていて」。『完訳』は「わたし自身の気持は一貫して誰にも劣るものではないのですから」と訳す。1.2.2
注釈16立ちまさる人源氏をさしていう。1.2.2
注釈17よろづの罪忘れて帝は美しい朧月夜の顔から涙のこぼれるのを見て、すべての過失を許す気持ちになる。1.2.4
注釈18御覧ぜらる「らる」自発の助動詞。御覧にならずにいられない。1.2.4
注釈19などか御子をだに持たまへるまじき以下「見たまはむかし」まで、帝の詞。「だに」副助詞、最低限の希望。せめて--だけでも。「も」副助詞、強調。「たまへ」は「与える」の尊敬語。「る」完了の助動詞。「まじき」打消推量の助動詞、係結びで、連体形。朧月夜との間に子供の出来なかった恨み言をいう。『集成』は「どうして、せめて御子だけでもお産みでなかったのでしょうか」。『完訳』は「どうして、せめてわたしの御子だけでもお産みになろうとしなかったのです」は、意志の打消推量に解す。1.2.5
注釈20契り深き人のためには今見出でたまひてむ前世からの契りの浅い深いによって子供も生まれたり生まれなかったりするというのが、当時の考え方。「契り深き人」は源氏をさした言い方。「てむ」連語、「て」完了の助動詞、連用形、確述、「む」推量の助動詞。当然そうなろうという推量の強調。1.2.5
注釈21限りあれば身分に規定がある。源氏は臣下で、皇族すなわち皇位継承者でないからの意。1.2.5
注釈22いと恥づかしうも悲しうもおぼえたまふ主語は朧月夜。「恥づかし」「悲し」ともに含蓄のある言葉で、その内様は読者の想像に委ねた表現。1.2.6
注釈23めでたき人なれど源氏をさす。以下、朧月夜の心に即した表現。1.2.6
注釈24などてわが心の以下「人の御ためさへ」まで、朧月夜の心中。1.2.6
注釈25いと憂き御身なり集成「朧月夜の思いと草子地が一体になった文章」、完訳「悲運の女君として語り収める」。1.2.6
校訂3 御子を 御子を--みこ(こ/+を) 1.2.5
校訂4 思ひたまへら 思ひたまへら--おも(も/+ひ)給つ(つ/#へ)ら 1.2.6
1.3
第三段 東宮の御元服と御世替わり


1-3  Tougu growns-up and ascends the throne

1.3.1   明くる年の如月に、春宮の御元服のことあり。十一になりたまへど、ほどより大きに、おとなしうきよらにて、ただ源氏の大納言の御顔を二つに写したらむやうに見えたまふ。いとまばゆきまで光りあひたまへるを、世人めでたきものに聞こゆれど、 母宮、いみじうかたはらいたきことに、あいなく御心を尽くしたまふ。
 翌年の二月に、東宮の御元服の儀式がある。十一歳におなりだが、年齢以上に大きくおとならしく美しくて、まるで源氏の大納言のお顔をもう一つ写したようにお見えになる。たいそう眩しいまでに光り輝き合っていらっしゃるのを、世間の人々は素晴らしいこととお噂申し上げるが、母宮は、たいそうはらはらなさって、どうにもならないことにお心をお痛めになる。
 翌年の二月に東宮の御元服があった。十二でおありになるのであるが、御年齢のわりには御大人おんおとならしくて、おきれいで、ただ源氏の大納言の顔が二つできたようにお見えになった。まぶしいほどの美を備えておいでになるのを、世間ではおほめしているが、母宮はそれを人知れず苦労にしておいでになった。
  Akurutosi no Kisaragi ni, Touguu no go-genbuku no koto ari. Zihuiti ni nari tamahe do, hodo yori ohoki ni, otonasiu kiyora nite, tada Genzi-no-Dainagon no ohom-kaho wo hutatu ni utusi tara m yau ni miye tamahu. Ito mabayuki made hikari ahi tamahe ru wo, yohito medetaki mono ni kikoyure do, Hahamiya, imiziu kataharaitaki koto ni, ainaku mikokoro wo tukusi tamahu.
1.3.2  内裏にも、めでたしと見たてまつりたまひて、世の中譲りきこえたまふべきことなど、なつかしう聞こえ知らせたまふ。
 主上におかれても、御立派だと拝しあそばして、御位をお譲り申し上げなさる旨などを、やさしくお話し申し上げあそばす。
 帝も東宮のごりっぱでおありになることに御満足をあそばして御即位後のことをなつかしい御様子でお教えあそばした。
  Uti ni mo, medetasi to mi tatematuri tamahi te, yononaka yuduri kikoye tamahu beki koto nado, natukasiu kikoye sirase tamahu.
1.3.3  同じ月の二十余日、御国譲りのことにはかなれば、大后思しあわてたり。
 同じ月の二十日過ぎ、御譲位の事が急だったので、大后はおあわてになった。
 この同じ月の二十幾日に譲位のことが行なわれた。太后はお驚きになった。
  Onazi tuki no nizihuyoniti, mi-kuniyuduri no koto nihaka nare ba, Ohokisaki obosi awate tari.
1.3.4  「 かひなきさまながらも心のどかに御覧ぜらるべきことを思ふなり
 「何の見栄えもしない身の上となりますが、ゆっくりとお目にかからせていただくことを考えているのです」
 「ふがいなく思召すでしょうが、私はこうして静かにあなたへ御孝養がしたいのです」
  "Kahinaki sama nagara mo, kokoro nodoka ni goranze raru beki koto wo omohu nari."
1.3.5  とぞ、聞こえ慰めたまひける。
 といって、お慰め申し上げあそばすのであった。
 と帝はお慰めになったのであった。
  to zo, kikoye nagusame tamahi keru.
1.3.6  坊には 承香殿の皇子ゐたまひぬ。世の中改まりて、引き変へ今めかしきことども多かり。源氏の大納言、内大臣になりたまひぬ。 数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はりたまふなりけり。
 東宮坊には承香殿の皇子がお立ちになった。世の中が一変して、うって変わってはなやかなことが多くなった。源氏の大納言は、内大臣におなりになった。席がふさがって余裕がなかったので、員外の大臣としてお加わりになったのであった。
 東宮には承香殿じょうきょうでん女御にょごのお生みした皇子がお立ちになった。
  Bau ni ha Sokyauden-no-Miko wi tamahi nu. Yononaka aratamari te, hikikahe imamekasiki koto-domo ohokari. Genzi-no-Dainagon, Naidaizin ni nari tamahi nu. Kazu sadamari te, kuturogu tokoro mo nakari kere ba, kuhahari tamahu nari keri.
1.3.7  やがて世の政事を したまふべきなれど、「 さやうの事しげき職には堪へずなむ 」とて、致仕の大臣、摂政したまふべきよし、譲りきこえたまふ。
 ただちに政治をお執りになるはずであるが、「そのようないそがしい職務には耐えられない」と言って、致仕の大臣に、摂政をなさるように、お譲り申し上げなさる。
 すべてのことに新しい御代みよの光の見える日になった。見聞きするに耳にはなやかな気分の味わわれることが多かった。源氏の大納言は内大臣になった。左右の大臣の席がふさがっていたからである。そして摂政せっしょうにこの人がなることも当然のことと思われていたが、「私はそんな忙しい職に堪えられない」と言って、致仕ちしの左大臣に摂政を譲った。
  Yagate yo no maturigoto wo si tamahu beki nare do, "Sayau no koto sigeki soku ni ha tahe zu nam." tote, Tizi-no-Otodo, se'ssyau si tamahu beki yosi, yuduri kikoye tamahu.
1.3.8  「 病によりて、位を返したてまつりてしを、いよいよ老のつもり添ひて、さかしきことはべらじ」
 「病気を理由にして官職をお返し申し上げたのに、ますます老齢を重ねて、立派な政務はできますまい」
 「私は病気によっていったん職をお返しした人間なのですから、今日はまして年も老いてしまったし、そうした重任に当たることなどはだめです」
  "Yamahi ni yori te, kurawi wo kahesi tatematuri te si wo, iyoiyo oyi no tumori sohi te, sakasiki koto habera zi."
1.3.9  と、受けひき申したまはず。「 人の国にも、こと移り世の中定まらぬ折は、深き山に跡を絶えたる人だにも、治まれる世には、白髪も恥ぢず出で仕へけるをこそ、まことの聖にはしけれ。病に沈みて、返し申したまひける位を、世の中変はりてまた改めたまはむに、さらに咎あるまじう」、 公、私定めらる。さる例もありければ、すまひ果てたまはで、太政大臣になりたまふ。 御年も六十三にぞなりたまふ
 と、ご承諾なさらない。「外国でも、事変が起こり国政が不穏な時は、深山に身を隠してしまった人でさえも、平和な世には、白髪になったのも恥じず進んでお仕えする人を、本当の聖人だと言っていた。病に沈んで、お返し申された官職を、世の中が変わって再びご就任なさるのに、何の差支えもない」と、朝廷、世間ともに決定される。そうした先例もあったので、辞退しきれず、太政大臣におなりになる。お歳も六十三におなりである。
 と大臣は言って引き受けない。「支那しなでも政界の混沌こんとんとしている時代は退しりぞいて隠者になっている人も治世の君がお決まりになれば、白髪も恥じずお仕えに出て来るような人をほんとうの聖人だと言ってほめています。御病気で御辞退になった位を次の天子の御代に改めて頂戴ちょうだいすることはさしつかえがありませんよ」と源氏も、公人として私人として忠告した。大臣も断わり切れずに太政大臣になった。年は六十三であった。
  to, ukehiki mausi tamaha zu. "Hitonokuni ni mo, koto uturi yononaka sadamara nu wori ha, hukaki yama ni ato wo taye taru hito dani mo, wosamare ru yo ni ha, sirokami mo hadi zu ide tukahe keru wo koso, makoto no hiziri ni ha si kere. Yamahi ni sidumi te, kahesi mausi tamahi keru kurawi wo, yononaka kahari te mata aratame tamaha m ni, sarani toga aru maziu", ohoyake, watakusi sadame raru. Saru tamesi mo ari kere ba, sumahi hate tamaha de, Daizyaudaizin ni nari tamahu. Ohom-tosi mo rokuzihusam ni zo nari tamahu.
1.3.10  世の中すさまじきにより、かつは 籠もりゐたまひしを、とりかへし花やぎたまへば、御子どもなど沈むやうにものしたまへるを、皆浮かびたまふ。とりわきて、 宰相中将、権中納言になりたまふ。かの四の君の御腹の姫君、十二になりたまふを、内裏に参らせむとかしづきたまふ。 かの「高砂」歌ひし君も、かうぶりせさせて、いと思ふさまなり。腹々に御子どもいとあまた次々に 生ひ出でつつ、にぎははしげなるを、源氏の大臣は羨みたまふ。
 世の中がおもしろくなかったことにより、それが一つの理由で隠居していらしたのだが、また元のように盛んになられたので、ご子息たちなども不遇な様子でいらしたが、皆よくおなりになる。とりわけて、宰相中将は、権中納言におなりになる。あの四の君腹の姫君、十二歳におなりになるのを、帝に入内させようと大切にお世話なさる。あの「高砂」を謡った君も、元服させて、たいそう思いのままである。ご夫人方にご子息方がとてもおおぜい次々とお育ちになって、にぎやかそうなのを、源氏の内大臣は、羨ましくお思いになる。
 事実は先朝に権力をふるった人たちに飽き足りないところがあって引きこもっていたのであるから、この人に栄えの春がまわってきたわけである。一時不遇なように見えた子息たちも浮かび出たようである。その中でも宰相中将は権中納言になった。四の君が生んだ今年十二になる姫君を早くから後宮に擬して中納言は大事に育てていた。以前二条の院につれられて来て高砂たかさごを歌った子も元服させて幸福な家庭を中納言は持っていた。腹々に生まれた子供が多くて一族がにぎやかであるのを源氏はうらやましく思っていた。
  Yononaka susamaziki ni yori, katuha komoriwi tamahi si wo, torikahesi hanayagi tamahe ba, Miko-domo nado sidumu yau ni monosi tamahe ru wo, mina ukabi tamahu. Toriwaki te, Saisyau-no-Tyuuzyau, Gon-no-Tyuunagon ni nari tamahu. Kano Si-no-Kimi no ohom-hara no Himegimi, zihuni ni nari tamahu wo, Uti ni mawira se m to kasiduki tamahu. Kano Takasago utahi si kimi mo, kauburi se sase te, ito omohu sama nari. Harabara ni Miko-domo ito amata tugitugi ni ohi ide tutu, nigihahasige naru wo, Genzi-no-Otodo ha urayami tamahu.
1.3.11   大殿腹の若君、人よりことにうつくしうて、 内裏、春宮の殿上したまふ故姫君の亡せたまひにし嘆きを、宮、大臣、またさらに改めて思し嘆く。されど、おはせぬ名残も、ただこの大臣の御光に、 よろづ もてなされたまひて 、年ごろ、思し沈みつる名残なきまで栄えたまふ。なほ昔に御心ばへ変はらず、折節ごとに渡りたまひなどしつつ、若君の御乳母たち、さらぬ人びとも、 年ごろのほどまかで散らざりけるは、皆さるべきことに触れつつ、 よすがつけむことを思しおきつるに幸ひ人多くなりぬべし
 大殿腹の若君、誰よりも格別におかわいらしゅうて、内裏や東宮御所の童殿上なさる。故姫君がお亡くなりになった悲しみを、大宮と大臣、改めてお嘆きになる。けれど、亡くなられた後も、まったくこの大臣のご威光によって、なにもかも引き立てられなさって、ここ数年、思い沈んでいらした跡形もないまでにお栄えになる。やはり昔とお心づかいは変わらず、事あるごとにお渡りになっては、若君の御乳母たちや、その他の女房たちにも、長年の間暇を取らずにいた人々には、皆適当な機会ごとに、便宜を計らっておやりになることをお考えおきになっていたので、幸せ者がきっと多くなったことであろう。
 太政大臣家で育てられていた源氏の子はだれよりも美しい子供で、御所へも東宮へも殿上童てんじょうわらわとして出入りしているのである。源氏のあおい夫人の死んだことを、父母はまたこの栄えゆく春に悲しんだ。しかしすべてが昔の婿の源氏によってもたらされた光明であって、何年かの暗い影が源氏のためにこの家から取り去られたのである。源氏は今も昔のとおりに老夫妻に好意を持っていて何かの場合によくたずねて行った。若君の乳母めのとそのほかの女房も長い間そのままに勤めている者に、厚くむくいてやることも源氏は忘れなかった。幸せ者が多くできたわけである。
  Ohotono bara no Wakagimi, hito yori koto ni utukusiu te, Uti, Touguu no tenzyau si tamahu. Ko-Himegimi no use tamahi ni si nageki wo, Miya, Otodo, mata sarani aratame te obosi nageku. Saredo, ohase nu nagori mo, tada kono Otodo no ohom-hikari ni, yorodu motenasa re tamahi te, tosigoro, obosi sidumi turu nagori naki made sakaye tamahu. Naho mukasi ni mikokorobahe kahara zu, worihusi goto ni watari tamahi nado si tutu, Wakagimi no ohom-menoto-tati, saranu hitobito mo, tosigoro no hodo makade tira zari keru ha, mina sarubeki koto ni hure tutu, yosuga tuke m koto wo obosi oki turu ni, saihahibito ohoku nari nu besi.
1.3.12  二条院にも、同じごと待ちきこえける人を、あはれなるものに思して、年ごろの胸あくばかりと思せば、 中将、中務やうの人びとには、ほどほどにつけつつ情けを見えたまふに、御いとまなくて、他歩きもしたまはず。
 二条院でも、同じようにお待ち申し上げていた人々を、殊勝の者だとお考えになって、数年来の胸のつかえが晴れるほどにと、お思いになると、中将の君、中務の君のような人たちには、身分に応じて情愛をかけておやりになるので、お暇がなくて、外歩きもなさらない。
 二条の院でもそのとおりに、主人を変えようともしなかった女房を源氏は好遇した。また中将とか、中務なかつかさとかいう愛人関係であった人たちにも、多年の孤独が慰むるに足るほどな愛撫あいぶが分かたれねばならないのであったから、暇がなくて外歩きも源氏はしなかった。
  Nideunowin ni mo, onazi goto mati kikoye keru hito wo, ahare naru mono ni obosi te, tosigoro no mune aku bakari to obose ba, Tyuuzyau, Nakatukasa yau no hitobito ni ha, hodo hodo ni tuke tutu nasake wo miye tamahu ni, ohom-itoma naku te, hokaariki mo si tamaha zu.
1.3.13  二条院の東なる宮、院の御処分なりしを、 二なく改め造らせたまふ。「花散里などやうの心苦しき人びと住ませむ」など、思し当てて 繕はせたまふ
 二条院の東にある邸は、故院の御遺産であったのを、またとなく素晴らしくご改築なさる。「花散里などのようなお気の毒な人々を住まわせよう」などと、お考えで修繕させなさる。
 二条の院の東に隣ったやしきは院の御遺産で源氏の所有になっているのをこのごろ源氏は新しく改築させていた。花散里はなちるさとなどという恋人たちを住ませるための設計をして造られているのである。
  Nideunowin no himgasi naru miya, Win no go-syobun nari si wo, ninaku aratame tukura se tamahu. "Hanatirusato nado yau no kokorogurusiki hitobito suma se m." nado, obosi ate te tukuroha se tamahu.
注釈26明くる年の如月に春宮の御元服のことあり源氏二十九歳、春二月。春宮、元服し冷泉帝として即位する。
【御元服】-「ゲンブク」(伊京集・日葡辞書)
1.3.1
注釈27母宮大島本は「はゝ宮」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「母君は」と「は」を補訂する。1.3.1
注釈28かひなきさまながらも以下「思ふなり」まで、朱雀帝の詞。1.3.4
注釈29心のどかに御覧ぜらるべきことを思ふなり「御覧ぜ」の主語は弘徽殿大后。「らる」受身の助動詞。朱雀帝が母弘徽殿大后から「御覧ぜ」られるの意。「べき」推量の助動詞、可能。「なり」断定の助動詞。1.3.4
注釈30承香殿の皇子「承香殿 ショウキャウ(デン)」(黒川本色葉字類抄)1.3.6
注釈31数定まりてくつろぐ所もなかりければ左右大臣、定員各一名がふさがっていて、大臣になる余裕がなかったので。1.3.6
注釈32さやうの事しげき職には堪へずなむ源氏の詞。1.3.7
注釈33病によりて以下「ことはべらじ」まで、致仕大臣の詞。1.3.8
注釈34人の国にもこと移り以下「咎あるまじう」まで、世間の風評を間接的に叙述。引用句がなく地の文に続く。中国の漢の時代の四晧の故事を引用する。1.3.9
注釈35公私定めらる「らる」受身の助動詞、決定される。『集成』は「朝廷の会議の席でも、個人の間のお話でも、ご決着がついた」。『完訳』は「朝廷でも世間でもそうしたご沙汰である」と訳す。1.3.9
注釈36御年も六十三にぞなりたまふ藤原良房が貞観八年(八六六)に六十三歳で摂政になった例がある。1.3.9
注釈37籠もりゐたまひしを「を」接続助詞、逆接。『集成』は「篭居していらしたのを」。『完訳』は「引きこもっていらっしゃったのだが」と訳す。1.3.10
注釈38宰相中将権中納言になりたまふ左大臣家の嫡男。娘を冷泉帝の後宮に入内させることを準備する。1.3.10
注釈39かの高砂歌ひし君も「賢木」巻に見える。四君腹の二郎君。現在、十二、三歳。元服させる。1.3.10
注釈40生ひ出でつつ「つつ」接尾語、同じ動作の繰返のニュアンス。次々とお育ちになって。1.3.10
注釈41大殿腹の若君葵の上所生の子、夕霧。現在、八歳。1.3.11
注釈42内裏春宮の殿上したまふ内裏と東宮御所の童殿上を許可される。1.3.11
注釈43故姫君の亡せたまひにし嘆きを葵の上の死去をいう。「葵」巻に語られた。1.3.11
注釈44もてなされたまひて「れ」受身の助動詞、左大臣家は源氏から、の文意。1.3.11
注釈45年ごろのほどまかで散らざりけるは「年ごろの程」について、『集成』は「お留守の間の年月を辞めて出てゆかなかった者には」。『完訳』は「この長い年月お暇をとらず今日までお仕えしていた者には」。直接的には、源氏の須磨明石流離の間をさすが、広くは葵の上死去以後現在までの間をさそう。1.3.11
注釈46よすがつけむことを思しおきつるに『集成』は「ここでは、見込みのある男との縁組や、夫や親兄弟、子供の官職の世話などをして、生活の安定を計ってやること」と注す。1.3.11
注釈47幸ひ人多くなりぬべし「ぬべし」連語。「ぬ」完了の助動詞+「べし」推量の助動詞、当然。多くなるにちがいない、多くなりそうだ。1.3.11
注釈48中将中務源氏の召人。身分は女房であるが妻には数えられない愛人。「中務 ナカヅカサ」(伊京集)。1.3.12
注釈49二なく改め造らせたまふ「せ」使役の助動詞、「たまふ」尊敬の補助動詞。1.3.13
注釈50繕はせたまふ「せ」使役の助動詞、「たまふ」尊敬の補助動詞。上の「二なく改め築らせ給ふ」と同じことを重ねていう。『集成』は「お手入れをおさせになる」。『完訳』は「ご造営になるのである」と訳す。1.3.13
校訂5 したまふ したまふ--した(た/+ま<朱>)ふ 1.3.7
校訂6 さやうの事しげき職には さやうの事しげき職には--さやう(/う+の)事は(こと/+しけきそくには<朱>、は/$<朱>) 1.3.7
校訂7 よろづ よろづ--よろつに(に/$) 1.3.11
校訂8 なされ なされ--なされて(て/#<朱>) 1.3.11
Last updated 9/21/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 10/3/2009(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Latest updated 6/21/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
伊藤時也(青空文庫)

2003年4月28日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2006年1月6日

Last updated 10/3/2009 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
このページは再編集プログラムによって2024/9/21に出力されました。
源氏物語の世界 再編集プログラム Ver 4.00: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経