第十五帖 蓬生


15 YOMOGIHU (Ohoshima-bon)


光る源氏の須磨明石離京時代から帰京後までの末摘花の物語


Tale of Suetsumu era of Hikaru-Genji in Suma and Akashi, and returned to Kyoto later

1
第一章 末摘花の物語 光る源氏の須磨明石離京時代


1  Tale of Suetsumu  Hikaru-Genji in Suma and Akashi

1.1
第一段 末摘花の孤独


1-1  Suetsumu's lonely days

1.1.1   藻塩垂れつつわびたまひしころほひ、都にも、さまざまに思し嘆く人多かりしを 、さても、わが御身の拠り所あるは、 一方の思ひこそ苦しげなりしか、二条の上なども、のどやかにて、 旅の御住みかをもおぼつかなからず、聞こえ通ひたまひつつ、位を去りたまへる仮の御よそひをも、 竹の子の世の憂き節を 、時々につけてあつかひきこえたまふに、慰めたまひけむ、なかなか、その数と人にも知られず、立ち別れたまひしほどの御ありさまをも、よそのことに思ひやりたまふ人びとの、下の心くだきたまふたぐひ多かり。
 須磨の浦で涙に暮れながら過ごしていらっしゃったころ、都でも、あれこれとお嘆きになっていらっしゃる方々が多かったが、そうはいっても、ご自身の生活のよりどころのある方は、ただお一方をお慕いする思いだけは辛そうであったが、二条の上なども、平穏なお暮らしで、旅のお暮らしをご心配申し、お手紙をやりとりなさっては、位をお退きになってからの仮りのご装束をも、この世の辛い生活をも、季節ごとにご調進申し上げなさることによって、心を慰めなさったであろうが、かえって、その妻妾の一人として世の人にも認められず、ご離京なさった時のご様子にも、他人事のように聞いて思いやった人々で、内心をお痛めになった人も多かった。
 源氏が須磨すま明石あかし漂泊さすらっていたころは、京のほうにも悲しく思い暮らす人の多数にあった中でも、しかとした立場を持っている人は、苦しい一面はあっても、たとえば二条の夫人などは、源氏が旅での生活の様子もかなりくわしく通信されていたし、便宜が多くて手紙を書いて出すこともよくできたし、当時無官になっていた源氏の無紋の衣裳いしょうも季節に従って仕立てて送るような慰みもあった。真実悲しい境遇に落ちた人というのは、源氏が京を出発した際のこともよそに想像するだけであった女性たち、無視して行かれた恋人たちがそれであった。
  Mosiho tare tutu wabi tamahi si korohohi, miyako ni mo, samazama ni obosi nageku hito ohokari si wo, satemo, waga ohom-mi no yoridokoro aru ha, hitokata no omohi koso kurusige nari sika, Nideu-no-Uhe nado mo, nodoyaka nite, tabi no ohom-sumika wo mo obotukanakara zu, kikoye kayohi tamahi tutu, kurawi wo sari tamahe ru kari no ohom-yosohi wo mo, takenoko no yo no uki husi wo, tokidoki ni tuke te atukahi kikoye tamahu ni, nagusame tamahi kem, nakanaka, sono kazu to hito ni mo sira re zu, tati-wakare tamahi si hodo no ohom-arisama wo mo, yoso no koto ni omohi-yari tamahu hitobito no, sita no kokoro kudaki tamahu taguhi ohokari.
1.1.2   常陸宮の君は、父親王の亡せたまひにし名残に、また思ひあつかふ人もなき御身にて、いみじう心細げなりしを、 思ひかけぬ御ことの出で来て、訪らひきこえたまふこと絶えざりしを、いかめしき御勢にこそ、ことにもあらず、はかなきほどの御情けばかりと思したりしかど、待ち受けたまふ袂の狭きに、 大空の星の光を盥の水に映したる心地して過ぐしたまひしほどに、 かかる世の騷ぎ出で来て、なべての世憂く思し乱れしまぎれに、わざと深からぬ方の心ざしはうち忘れたるやうにて、遠くおはしましにしのち、ふりはへてしもえ尋ねきこえたまはず。その名残に、しばしは、泣く泣くも過ぐしたまひしを、年月経るままに、あはれにさびしき御ありさまなり。
 常陸宮の姫君は、父の親王がお亡くなりになってから、他には誰もお世話する人もないお身の上で、ひどく心細い有様であったが、思いがけないお通いが始まって、お気をつけてくださることは絶えなかっが、大変なご威勢には、大したこともない、お情け程度とお思いであったが、それを待ち受けていらっしゃる貧しい生活には、大空の星の光を盥の水に映したような気持ちがして、お過ごしになっていたところ、あのような世の中の騒動が起こって、おしなべて世の中が嫌なことに思い悩まれた折に、格別に深い関係でない方への愛情は、何となく忘れたようになって、遠く旅立ちなさった後は、わざわざお訪ね申し上げることもおできになれない。かつてのご庇護のお蔭で、しばらくの間は、泣きながらもお過ごしになっていらっしゃったが、歳月が過ぎるにしたがって、実にお寂しいご様子である。
 常陸ひたちの宮の末摘花すえつむはなは、父君がおかくれになってから、だれも保護する人のない心細い境遇であったのを、思いがけず生じた源氏との関係から、それ以来物質的に補助されることになって、源氏の富からいえば物の数でもない情けをかけていたにすぎないのであったが、受けるほうの貧しい女王にょおう一家のためには、たらいへ星が映ってきたほどの望外の幸福になって、生活苦から救われて幾年かを来たのであるが、あの事変後の源氏は、いっさい世の中がいやになって、恋愛というほどのものでもなかった女性との関係は心から消しもし、消えもしたふうで、遠くへ立ってからははるばると手紙を送るようなこともしなかった。まだ源氏から恵まれた物があってしばらくは泣く泣くも前の生活を続けることができたのであるが、次の年になり、また次の年になりするうちにはまったく底なしの貧しい身の上になってしまった。
  Hitatinomiya-no-Kimi ha, titi-Miko no use tamahi ni si nagori ni, mata omohi atukahu hito mo naki ohom-mi nite, imiziu kokorobosoge nari si wo, omohikake nu ohom-koto no ideki te, toburahi kikoye tamahu koto taye zari si wo, ikamesiki ohom-ikihohi ni koso, koto ni mo ara zu, hakanaki hodo no ohom-nasake bakari to obosi tari sika do, matiuke tamahu tamoto no sebaki ni, ohozora no hosi no hikari wo tarahi no midu ni utusi taru kokoti si te sugusi tamahi si hodo ni, kakaru yo no sawagi ideki te, nabete no yo uku obosi midare si magire ni, wazato hukakara nu kata no kokorozasi ha uti-wasure taru yau nite, tohoku ohasimasi ni si noti, hurihahe te simo e tadune kikoye tamaha zu. Sono nagori ni, sibasi ha, naku naku mo sugusi tamahi si wo, tosituki huru mama ni, ahare ni sabisiki ohom-arisama nari.
1.1.3  古き女ばらなどは、
 昔からの女房などは、
 古くからいた女房たちなどは、
  Huruki womnabara nado ha,
1.1.4  「 いでや、いと口惜しき御宿世なりけり。おぼえず神仏の現はれたまへらむやうなりし御心ばへに、かかるよすがも人は出でおはするものなりけりと、ありがたう見たてまつりしを、 おほかたの世の事といひながら、また頼む方なき御ありさまこそ、悲しけれ」
 「いやはや、まったく情けないご運であった。思いがけない神仏がご出現なさったようであったお心寄せを受けて、このような頼りになることも出ていらっしゃるのだと、ありがたく拝見しておりましたが、世間一般のこととはいいながらも、また他には誰をも頼りにできないお身の上は、悲しいことです」
 「ほんとうに運の悪い方ですよ。思いがけなく神か仏の出現なすったような親切をお見せになる方ができて、人というものはどこに幸運があるかわからないなどと、私たちはありがたく思ったのですがね、人生というものは移り変わりがあるものだといっても、またまたこんな頼りない御身分になっておしまいになるって、悲しゅうございますね、世の中は」
  "Ideya, ito kutiwosiki ohom-sukuse nari keri. Oboye zu Kami Hotoke no arahare tamahe ra m yau nari si mi-kokorobahe ni, kakaru yosuga mo hito ha ide ohasuru mono nari keri to, arigatau mi tatematuri si wo, ohokata no yo no koto to ihi nagara, mata tanomu kata naki ohom-arisama koso, kanasikere."
1.1.5  と、つぶやき嘆く。 さる方にありつきたりしあなたの年ごろは、いふかひなきさびしさに目なれて過ぐしたまふを、なかなかすこし世づきてならひにける年月に、いと堪へがたく思ひ嘆くべし。すこしも、 さてありぬべき人びとは、おのづから参りつきてありしを、皆次々に従ひて行き散りぬ。女ばらの命堪へぬもありて、 月日に従ひては、上下人数少なくなりゆく
 と、ぶつぶつ言って嘆く。あのような生活に馴れていた昔の長い年月は、何とも言いようもない寂しさに目なれてお過ごしになっていたが、なまじっか少し世間並みの生活になった年月を送ったばかりに、かえってとても堪え難く嘆くのであろう。少しでも、女房としてふさわしい者たちは、自然と参集して来たが、みな次々と後を追って離散して行ってしまった。女房たちの中には亡くなった者もいて、月日の過ぎるにしたがって、上下の女房の数が少なくなって行く。
 となげくのであった。昔は長い貧しい生活に慣れてしまって、だれにもあきらめができていたのであるが、中で一度源氏の保護が加わって、世間並みの暮らしができたことによって、今の苦痛はいっそうはげしいものに感ぜられた。よかった時代に昔から縁故のある女房ははじめてここに皆居つくことにもなって、数が多くなっていたのも、またちりぢりにほかへ行ってしまった。そしてまた老衰して死ぬ女もあって、月日とともに上から下まで召使の数が少なくなっていく。
  to, tubuyaki nageku. Saru kata ni arituki tari si anata no tosigoro ha, ihukahinaki sabisisa ni menare te sugusi tamahu wo, nakanaka sukosi yoduki te narahi ni keru tosituki ni, ito tahe gataku omohi nageku besi. Sukosi mo, sate ari nu beki hitobito ha, onodukara mawiri tuki te, ari si wo, mina tugitugi ni sitagahi te iki tiri nu. Womnabara no inoti tahe nu mo ari te, tukihi ni sitagahi te ha, kami simo hito kazu sukunaku nari yuku.
注釈1藻塩垂れつつわびたまひしころほひ、都にも、さまざまに思し嘆く人多かりしを大島本は「さま/\に」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「さまざま」と「に」を削除する。源氏が須磨明石に謫去していた間の都の女性たちの動向。「藻塩垂れつつ」は「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ」(古今集雑下、九六二、在原行平)にもとづく表現。1.1.1
注釈2一方の思ひこそ苦しげなりしか「一方」は源氏をさす。「こそ」係助詞。「しか」過去の助動詞、已然形。係結び。読点で逆接の文脈。1.1.1
注釈3旅の御住みかをも「聞こえ通ひたまひつつ」に係り、「仮の御よそひをも--時々につけてあつかひきこえたまふに」と並ぶ並列の構文。1.1.1
注釈4竹の子の世の憂き節を「今さらに何生ひ出づらむ竹の子の憂き節しげき世とは知らずや」(古今集雑下、九五七、凡河内躬恒)を踏まえる。1.1.1
注釈5常陸宮の君は、父親王の亡せたまひにし名残に末摘花の生活窮乏し、その邸も荒廃する。1.1.2
注釈6思ひかけぬ御ことの出で来て訪らひきこえたまふこと絶えざりしを源氏との関係が生じたこと。「訪らひきこえたまふこと」は、源氏本人が直接通って来ることではなく手紙などで間接的に見舞ってやることであろう。1.1.2
注釈7大空の星の光を盥の水に映したる心地して『完訳』は「さほどでもない源氏の援助も困窮の末摘花には無上の恵みと思われる気持を、大空の無数の星も水面には目だって映るのにたとえた。また盥の水に星影を映すのが七夕行事の一つだという。その七夕の甘美な恋物語のような夢見心地も重なっていよう」と注す。1.1.2
注釈8かかる世の騷ぎ出で来て源氏の須磨明石流謫事件をさす。1.1.2
注釈9いでやいと口惜しき御宿世なりけり以下「悲しけれ」まで、女房の詞。1.1.4
注釈10おほかたの世の事といひながら『集成』は「(源氏の訪れなくなったのは)ご政治向きのことのためとはいいながら。「おほかたの世のこと」は、ここでは末摘花との個人的な関係に対して、世間一般にかかわる事件。須磨退去をさす」。『完訳』は「移り変わるのは世間の習いとは申すものの」と注す。1.1.4
注釈11さる方にありつきたりしあなたの年ごろ昔の貧しい生活に慣れていた時代をさす。1.1.5
注釈12さてありぬべき女房としてふさわしいの意。1.1.5
注釈13月日に従ひては上下人数少なくなりゆく大島本は「月日にしたかひてハかみしも」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「従ひて上下の」と「は」を削除し「の」を補訂する。1.1.5
出典1 藻塩垂れつつわびたまひしころほひ わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ 古今集雑下-九六二 在原行平 1.1.1
出典2 竹の子の世の憂き節 今さらに何に生ひ出づらむ竹の子の憂き節しげき世とは知らずや 古今集雑下-九五七 凡河内躬恒 1.1.1
1.2
第二段 常陸宮邸の窮乏


1-2  Suetsumu lives in poverty

1.2.1   もとより荒れたりし宮の内、いとど 狐の棲みかになりて 、うとましう、気遠き木立に、梟の声を朝夕に耳ならしつつ、 人気にこそ、さやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしからぬものども、 所得て、やうやう を現はし、ものわびしきことのみ数知らぬに、まれまれ残りてさぶらふ人は、
 もともと荒れていた宮の邸の中、ますます狐の棲みかとなって、気味悪く、人気のない木立に、梟の声を毎日耳にして、人気のあるによって、そのような物どもも阻まれて姿を隠していたが、木霊などの怪異の物どもが、我がもの顔になって、だんだんと姿を現し、何ともやりきれないことばかりが数知らず増えて行くので、たまたま残っていてお仕えしている女房は、
 もとから荒廃していたやしきはいっそうきつねの巣のようになった。気味悪く大きくなった木立ちになくふくろうの声を毎日邸の人は聞いていた。人が多ければそうしたものは影も見せない木精こだまなどという怪しいものも次第に形をあらわしてきたりする不快なことが数しらずあるのである。まだ少しばかり残っている女房は、
  Motoyori are tari si miya no uti, itodo kitune no sumika ni nari te, utomasiu, kedohoki kodati ni, hukurohu no kowe wo asayuhu ni mimi narasi tutu, hitoge ni koso, sayau no mono mo seka re te kage kakusi kere, kodama nado, kesikara nu mono-domo, tokoroe te, yauyau katati wo arahasi, mono-wabisiki koto nomi kazu sira nu ni, mare mare nokori te saburahu hito ha,
1.2.2  「 なほ、いとわりなし。この受領どもの、おもしろき家造り好むが、この宮の木立を心につけて、放ちたまはせてむやと、ほとりにつきて、案内し申さするを、さやうにせさせたまひて、いとかう、もの恐ろしからぬ御住まひに、思し移ろはなむ。立ちとまりさぶらふ人も、いと 堪へがたし」
 「やはり、まこと困ったことです。最近の受領どもで、風流な家造りを好む者が、この宮の木立に心をかけて、お手放しにならないかと、伝を求めて、ご意向を伺わせていますが、そのようにあそばして、とてもこう、恐ろしくないお住まいに、ご転居をお考えになってください。今も残って仕えている者も、とても我慢できません」
 「これではしようがございません。近ごろは地方官などがよい邸を自慢に造りますが、こちらのお庭の木などに目をつけて、お売りになりませんかなどと近所の者から言わせてまいりますが、そうあそばして、こんなおそろしい所はお捨てになってほかへお移りなさいましよ。いつまでも残っております私たちだってたまりませんから」
  "Naho, ito warinasi. Kono zuryau-domo no, omosiroki ihedukuri konomu ga, kono Miya no kodati wo kokoro ni tuke te, hanati tamaha se te m ya to, hotori ni tuki te, a'naisi mausa suru wo, sayau ni se sase tamahi te, ito kau, mono-osorosikara nu ohom-sumahi ni, obosi uturoha nam. Tati-tomari saburahu hito mo, ito tahe gatasi."
1.2.3  など聞こゆれど、
 などと申し上げるが、
 などと女主人に勧めるのであったが、
  nado kikoyure do,
1.2.4  「 あな、いみじや。人の聞き思はむこともあり。生ける世に、 しか名残なきわざ、いかがせむ。かく恐ろしげに荒れ果てぬれど、親の御影とまりたる心地する古き住みかと思ふに、慰みてこそあれ」
 「まあ、とんでもありません。世間の外聞もあります。生きているうちに、そのようなお形見を何もかも無くしてしまうなんて、どうしてできましょう。このように恐ろしそうにすっかり荒れてしまったが、親の面影がとどまっている心地がする懐かしい住まいだと思うから、慰められるのです」
 「そんなことをしてはたいへんよ。世間体もあります。私が生きている間は邸を人手に渡すなどということはできるものでない。こんなにこわい気がするほど荒れていても、お父様の魂が残っていると思う点で、私はあちこちをながめても心が慰むのだからね」
  "Ana, imizi ya! Hito no kiki omoha m koto mo ari. Ike ru yo ni, sika nagori naki waza, ikaga se m? Kaku osorosige ni are hate nure do, oya no ohom-kage tomari taru kokoti suru huruki sumika to omohu ni, nagusami te koso are."
1.2.5  と、うち泣きつつ、思しもかけず。
 と、泣く泣くおっしゃって、お考えにも入れない。
 女王は泣きながらこう言って、女房たちの進言を思いも寄らぬことにしていた。
  to, uti-naki tutu, obosi mo kake zu.
1.2.6   御調度どもを、いと古代になれたるが、昔やうにてうるはしきを、なまもののゆゑ知らむと思へる人、さるもの要じて、わざとその人かの人にせさせたまへると尋ね聞きて、 案内するも、おのづからかかる貧しきあたりと思ひあなづりて言ひ来るを、例の女ばら、
 お道具類も、たいそう古風で使い馴れているのが、昔風で立派なのを、なまはんかに由緒を尋ねようとする者、そのような物を欲しがって、特別にあの人この人にお作らせになったのだと聞き出して、お伺いを立てるのも、自然とこのような貧しいあたりと侮って言って来るのを、いつもの女房、
 手道具なども昔の品の使い慣らしたりっぱな物のあるのを、なま物識りの骨董こっとう好きの人が、だれに製作させた物、某の傑作があると聞いて、譲り受けたいと、想像のできる貧乏さを軽蔑けいべつして申し込んでくるのを、例のように女房たちは、
  Ohom-deudo-domo wo, ito kotai ni nare taru ga, mukasiyau nite uruhasiki wo, nama-mono no yuwe sira m to omohe ru hito, saru mono euzi te, waza to sono hito kano hito ni se sase tamahe ru to tadune kiki te, a'naisuru mo, onodukara kakaru madusiki atari to omohi anaduri te ihi kuru wo, rei no womnabara,
1.2.7  「 いかがはせむ。そこそは世の常のこと
 「しかたがございません。そうすることが世間一般のこと」
 「しかたのないことでございますよ。困れば道具をお手放しになるのは」
  "Ikagaha se m? Soko so ha yo no tune no koto."
1.2.8  とて、取り紛らはしつつ、目に近き今日明日の見苦しさを繕はむとする時もあるを、いみじう諌めたまひて、
 と思って、目立たぬように取り計らって、眼前の今日明日の生活の不自由を繕う時もあるのを、きつくお叱りになって、
 と言って、それを金にかえて目前の窮迫から救われようとする時があると、末摘花は頑強がんきょうにそれを拒む。
  tote, tori-magirahasi tutu, me ni tikaki kehu asu no migurusisa wo tukuroha m to suru toki mo aru wo, imiziu isame tamahi te,
1.2.9  「 見よと思ひたまひてこそ、しおかせたまひけめ。などてか、軽々しき人の家の飾りとはなさむ。亡き人の御本意違はむが、あはれなること」
 「わたしのためにとお考えになって、お作らせになったのでしょう。どうして、賤しい人の家の飾り物にさせましょうか。亡きお父上のご遺志に背くのが、たまりません」
 「私が見るようにと思って作らせておいてくだすったに違いないのだから、それをつまらない家の装飾品になどさせてよいわけはない。お父様のお心持ちを無視することになるからね、お父様がおかわいそうだ」
  "Mi yo to omohi tamahi te koso, si oka se tamahi keme. Nadote ka, karogarosiki hito no ihe no kazari to ha nasa m? Naki hito no ohom-ho'i tagaha m ga, ahare naru koto."
1.2.10  とのたまひて、さるわざはせさせたまはず。
 とおっしゃって、そのようなことはおさせにならない。
 ただ少しの助力でもしようとする人をも持たない女王であった。
  to notamahi te, saru waza ha se sase tamaha zu.
注釈14もとより荒れたりし宮の内末摘花、荒廃した邸を守りながら生き抜く。1.2.1
注釈15狐の棲みかになりて以下の文章は、「梟は松桂の枝に鳴き狐は蘭菊の叢に蔵る」(白氏文集、諷諭詩、「凶宅詩」)を踏まえた表現。同様の荒廃した邸の描写に「凶宅詩」を踏まえた表現は「夕顔」巻にも見られる。1.2.1
注釈16人気にこそ以下「隠しけれ」まで、挿入句。係り結び。逆接の文脈。1.2.1
注釈17所得て大島本は「ところえて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「所を得て」と「を」を補訂する。1.2.1
注釈18なほいとわりなし以下「いと堪へがたし」まで、女房の詞。姫君に邸を手放し、他の恐しくない邸に移るよう進言する。1.2.2
注釈19あないみじや以下「慰みてこそあれ」まで末摘花の返答。1.2.4
注釈20しか名残なきわざいかがせむ大島本は「わさ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『新大系』は諸本に従って「わざは」と「は」を補訂する。反語表現。父親の形見を何もかも失うことはできない。1.2.4
注釈21御調度どもを大島本は「御てうとゝも越」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御調度どもも」と校訂する。1.2.6
注釈22いかがはせむそこそは世の常のこと女房の心中。『集成』は「もはや仕方がない。それこそ、世間の習いよ」と訳す。1.2.7
注釈23見よと思ひたまひて以下「あはれなること」まで、末摘花の詞。家財道具を売り払うことをきつく諌める。自分の家の家財道具が賎しい家の物になることを不本意と思う。1.2.9
出典3 狐の棲みか 梟鳴松桂枝 狐蔵蘭菊叢 白氏文集巻一-四 凶宅詩 1.2.1
校訂1 形--かた(かた/$<朱>)かたち 1.2.1
校訂2 堪へ 堪へ--たえ(え/$へ) 1.2.2
校訂3 案内 案内--あん(ん/+ない) 1.2.6
1.3
第三段 常陸宮邸の荒廃


1-3  Ruined Suetsumu's residence

1.3.1  はかなきことにても、 見訪らひきこゆる人はなき御身なり。ただ、 御兄の禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふ時は、さしのぞきたまへど、それも、世になき古めき人にて、同じき法師といふなかにも、 たづきなく、この世を離れたる聖にものしたまひて、しげき草、蓬をだに、かき払はむものとも思ひ寄りたまはず。
 ちょっとした用件でも、お訪ね申す人はないお身の上である。ただ、ご兄弟の禅師の君だけが、たまに京にお出になる時には、お立ち寄りになるが、その方も、世にもまれな古風な方で、同じ法師という中でも、処世の道を知らない、この世離れした僧でいらっしゃって、生い茂った草、蓬をさえ、かき払うものともお考えつきにならない。
 兄の禅師ぜんじだけはまれに山から京へ出た時にたずねて来るが、その人も昔風な人で、同じ僧といっても生活する能力が全然ない、脱俗したとほめて言えば言えるような男であったから、庭の雑草を払わせればきれいになるものとも気がつかない。
  Hakanaki koto nite mo, mi toburahi kikoyuru hito ha naki ohom-mi nari. Tada, ohom-seuto no Zenzi-no-Kimi bakari zo, mare ni mo kyau ni ide tamahu toki ha, sasi-nozoki tamahe do, sore mo, yo ni naki hurumeki bito nite, onaziki hohusi to ihu naka ni mo, taduki naku, kono yo wo hanare taru hiziri ni monosi tamahi te, sigeki kusa, yomogi wo dani, kakiharaha m mono to mo omohiyori tamaha zu.
1.3.2  かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒を争ひて生ひのぼる。 葎は西東の御門を閉ぢこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞ、めざましき。
 このような状態で、浅茅は庭の表面も見えず、生い茂った蓬生は軒と争って成長している。葎は西と東の御門を鎖し固めているのは心強いが、崩れかかった周囲の土築を馬、牛などが踏みならした道にして、春夏ともなると、放ち飼いする子どもの料簡も、けしからぬことである。
 浅茅あさじは庭の表も見えぬほど茂って、よもぎは軒の高さに達するほど、むぐらは西門、東門を閉じてしまったというと用心がよくなったようにも聞こえるが、くずれた土塀どべいは牛や馬が踏みならしてしまい、春夏には無礼な牧童が放牧をしに来た。
  Kakaru mama ni, asadi ha niha no omo mo miye zu, sigeki yomogi ha noki wo arasohi te ohi noboru. Mugura ha nisi himgasi no mikado wo todikome taru zo tanomosikere do, kudure gati naru meguri no kaki wo muma, usi nado no humi narasi taru miti nite, haru natu ni nare ba, hanati kahu agemaki no kokoro sahe zo, mezamasiki.
1.3.3  八月、野分荒かりし年、廊どもも倒れ伏し、下の屋どもの、はかなき板葺なりしなどは、骨のみわづかに残りて、立ちとまる下衆だになし。煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり。
 八月、野分の激しかった年、渡廊類が倒れふし、幾棟もの下屋の、粗末な板葺きであったのなどは、骨組みだけがわずかに残って、居残る下衆さえいない。炊事の煙も上らなくなって、お気の毒なことが多かった。
 八月に野分のわきの風が強かった年以来廊などは倒れたままになり、下屋の板葺いたぶきの建物のほうはわずかに骨が残っているだけ、下男などのそこにとどまっている者はない。くりやの煙が立たないでなお生きた人が住んでいるという悲しいやしきである。
  Haduki, nowaki arakari si tosi, rau-domo mo tahure husi, simo no ya-domo no, hakanaki itabuki nari si nado ha, hone nomi waduka ni nokori te, tati-tomaru gesu dani nasi. Keburi taye te, ahare ni imiziki koto ohokari.
1.3.4  盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりの寂しければにや、この宮をば不要のものに踏み過ぎて、 寄り来ざりければ、かくいみじき野良、薮なれども、さすがに寝殿のうちばかりは、ありし御しつらひ変らず、つややかに掻い掃きなどする人もなし。塵は積もれど、紛るることなきうるはしき御住まひにて、明かし暮らしたまふ。
 盗人などという情け容赦のない連中も、想像するだけで貧乏と思ってか、この邸を無用のものと通り過ぎて、寄りつきもしなかったので、このようにひどい野原、薮原であるが、それでも寝殿の中だけは、昔の装飾と変わらないが、ぴかぴかに掃いたり拭いたりする人もいない。塵は積もっても、れっきとした荘厳なお住まいで、お過ごしになっている。
 盗人というようながむしゃらな連中も外見の貧弱さに愛想あいそをつかせて、ここだけは素通りにしてやって来なかったから、こんな野良藪のらやぶのような邸の中で、寝殿しんでんだけは昔通りの飾りつけがしてあった。しかしきれいに掃除そうじをしようとするような心がけの人もない。ちりは積もってもあるべき物の数だけはそろった座敷に末摘花すえつむはなは暮らしていた。
  Nusubito nado ihu hitaburugokoro aru mono mo, omohiyari no sabisikere ba ni ya, kono Miya wo ba huyou no mono ni humi sugi te, yoriko zari kere ba, kaku imiziki nora, yabu nare do mo, sasugani sinden no uti bakari ha, arisi ohom-siturahi kahara zu, tuyayaka ni kai-haki nado suru hito mo nasi. Tiri ha tumore do, magiruru koto naki uruhasiki ohom-sumahi nite, akasi kurasi tamahu.
注釈24見訪らひ大島本は「見とふらひ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「とぶらひ」と「見」を削除する。1.3.1
注釈25御兄の禅師の君末摘花の兄君。後の「初音」巻に「醍醐の阿闍梨の君」と呼称される。今、「まれにも京に出でたまふ時は」とあるのも、山科の醍醐寺あたりを想定してよい。1.3.1
注釈26たづきなくこの世を離れたる聖にものしたまひて『集成』は「処世のすべを知らず、現世とは縁のない聖のようなお暮しぶりで」と訳す。1.3.1
注釈27葎は西東の御門を閉ぢこめたるぞ頼もしけれど『集成』は「今さらにとふべき人も思ほえず八重葎して門鎖せりてへ」(古今集雑下、九七五、読人しらず)を指摘。1.3.2
注釈28寄り来ざりければこの句の直接係る語句はなく、文脈が別に流れている。1.3.4
1.4
第四段 末摘花の気紛らし


1-4  Distraction of Suetsumu's life

1.4.1  はかなき古歌、物語などやうの すさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住まひをも思ひ慰むるわざなめれ、さやうのことにも心遅くものしたまふ。わざと好ましからねど、おのづからまた急ぐことなきほどは、同じ心なる文通はしなどうちしてこそ、若き人は木草につけても心を慰めたまふべけれど、親のもてかしづきたまひし御心掟のままに、世の中をつつましきものに思して、まれにも言通ひたまふべき御あたりをも、さらに馴れたまはず、古りにたる御厨子開けて、『 唐守』、『 藐姑射の刀自』、『 かぐや姫の物語』の絵に描きたるをぞ、時々のまさぐりものにしたまふ。
 たわいもない古歌、物語などみたいな物を慰み事にして、無聊を紛らわし、このような生活でも慰める方法なのであろうが、そのような方面にも関心が鈍くいらっしゃる。特に風流ぶらずとも、自然と急ぐ用事もない時には、気の合う者どうしで手紙の書き交わしなど気軽にし合って、若い人は木や草につけて心をお慰めになるはずなのだが、父宮が大事にお育てになったお考えどおりに、世間を用心すべきものとお思いになって、たまには文通なさってもよさそうなご関係の家にも、まったくお親しみにならず、古くなった御厨子を開けて、『唐守』『藐姑射の刀自』『かぐや姫の物語』などの絵に描いてあるのを、時々のもて遊び物にしていらっしゃる。
 古い歌集を読んだり、小説を見たりすることでつれづれが慰められることにもなるし、物質的に不足の多い境遇も忍んで行けるのであるが、末摘花はそんな趣味も持っていない。それは必ずしもよいことではないが、暇な女性の間で友情を盛った手紙を書きかわすことなどは、多感な年ごろではそれによって自然の見方も深くなっていき、木や草にも慰められることにもなるが、この女王は父宮が大事にお扱いになった時と同じ心持ちでいて、普通の人との交際はいっさい避けて友人を持っていないのである。親戚関係があっても親しもうとせず、好意を寄せようとしない態度は手紙を書かぬ所にうかがわれもするのである。
  Hakanaki huruuta, monogatari nado yau no susabigoto nite koso, turedure wo mo magirahasi, kakaru sumahi wo mo omohi nagusamuru waza na' mere, sayau no koto ni mo kokoro-osoku monosi tamahu. Wazato konomasikara ne do, onodukara mata isogu koto naki hodo ha, onazi kokoro naru humi kayohasi nado uti-si te koso, wakaki hito ha ki kusa ni tuke te mo kokoro wo nagusame tamahu bekere do, oya no mote-kasiduki tamahi si mikokorookite no mama ni, yononaka wo tutumasiki mono ni obosi te, mare ni mo koto kayohi tamahu beki ohom-atari wo mo, sarani nare tamaha zu, huri ni taru midusi ake te, Karamori, Hakoya-no-Tozi, Kaguyahime-no-monogatari no we ni kaki taru wo zo, tokidoki no masaguri mono ni si tamahu.
1.4.2  古歌とても、 をかしきやうに選り出で、題をも読人をもあらはし心得たるこそ見所もありけれうるはしき紙屋紙、陸奥紙などのふくだめるに、古言どもの目馴れたるなどは、いとすさまじげなるを、せめて眺めたまふ折々は、ひき広げたまふ。今の世の人のすめる、経うち読み、行なひなどいふことは、いと恥づかしくしたまひて、見たてまつる人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。かやうにうるはしくぞものしたまひける。
 古歌といっても、優雅な趣向で選び出して、題詞や読人をはっきりさせて鑑賞するのは見所もあるが、きちんとした紙屋紙、陸奥紙などの厚ぼったいのに、古歌のありふれた歌が書かれているのなどは、実に興醒めな感じがするが、つとめて物思いに耽りなさるような時々には、お広げになっている。今の時代の人が好んでするような、読経をちょっとしたり、勤行などということは、とてもきまり悪いものとお考えになって、拝見する人もいないのだが、数珠などをお取り寄せにならない。このように万事きちんとしていらっしゃるのであった。
 古くさい書物だなから、唐守からもり藐姑射はこや刀自とじ赫耶姫かぐやひめ物語などを絵に描いた物を引き出して退屈しのぎにしていた。古歌などもよい作をって、端書きも作者の名も書き抜いて置いて見るのがおもしろいのであるが、この人は古紙屋紙ふるかんやがみとか、檀紙だんしとかの湿り気を含んで厚くなった物などへ、だれもの知っている新味などは微塵みじんもないようなものの書き抜いてしまってあるのを、物思いのつのった時などには出してひろげていた。今の婦人がだれもするように経を読んだり仏勤めをしたりすることは生意気だと思うのかだれも見る人はないのであるが、数珠じゅずを持つようなことは絶対にない。こんなふうに末摘花は古典的であった。
  Huruuta tote mo, wokasiki yau ni eri ide, dai wo mo yomibito wo mo arahasi kokoroe taru koso midokoro mo ari kere, uruhasiki Kamyagami, Mitinokunigami nado no hukudame ru ni, hurukoto-domo no me nare taru nado ha, ito susamazige naru wo, semete nagame tamahu woriwori ha, hiki-hiroge tamahu. Ima no yonohito no su meru, kyau uti-yomi, okonahi nado ihu koto ha, ito hadukasiku si tamahi te, mi tatematuru hito mo nakere do, zuzu nado toriyose tamaha zu. Kayau ni uruhasiku zo monosi tamahi keru.
注釈29すさびごとにてこそ「こそ」は「なめれ」に係る。読点で、逆接の文脈。1.4.1
注釈30唐守散逸した物語。内容未詳。『宇津保物語』「国譲上」「楼上下」に見える。1.4.1
注釈31藐姑射の刀自散逸した物語。内容未詳。平安時代から鎌倉時代初期までの物語作品中の和歌を集めた『風葉和歌集』(文永八年撰進)に見える。1.4.1
注釈32かぐや姫の物語『竹取物語』の別名。1.4.1
注釈33をかしきやうに選り出で題をも読人をもあらはし心得たるこそ見所もありけれ『集成』は「おもしろい趣向で選択編集し、詞書(歌の成立事情)や作者をもはっきりさせて、歌の気持のよく分るのが興をそそるのだが」「歌物語風のものであろう」。『完訳』「味わい深い趣向で選び出し、題詞や詠み人がはっきり書いてあって、その意味のよく分るのは見ごたえもあるのだが」「歌を、題詞・作者など作歌事情とともに観賞。当時の観賞法」と注す。1.4.2
注釈34うるはしき紙屋紙、陸奥紙などのふくだめる『新大系』は「紙屋(製紙所)で漉いた紙の意で、陸奥紙とともに、撰集の清書、女の手紙などには用いない。「うるはしき」は、色気のないの意」「陸奥紙の厚くて毛ばだった状態をいう」と注す。1.4.2
校訂4 唐守 唐守--からもりて(て/$<朱>) 1.4.1
1.5
第五段 乳母子の侍従と叔母


1-5  Jiju, a foster sister, and her aunt

1.5.1   侍従などいひし御乳母子のみこそ、年ごろあくがれ果てぬ者にてさぶらひつれど、通ひ参りし斎院亡せたまひなどして、いと堪へがたく心細きに、この姫君の母 北の方のはらから、世におちぶれて受領の北の方になりたまへるありけり。
 侍従などと言った御乳母子だけが、長年お暇も取ろうともしない者としてお仕えしていたが、お出入りしていた斎院がお亡くなりなったりなどして、まことに生活が苦しく心細い気がしていたところ、この姫君の母北の方の姉妹で、落ちぶれて受領の北の方におなりになっていた人がいた。
 侍従という乳母めのとの娘などは、主家を離れないで残っている女房の一人であったが、以前から半分ずつは勤めに出ていた斎院がおくれになってからは、侍従もしかたなしに女王にょおうの母君の妹で、その人だけが身分違いの地方官の妻になっている人があって、
  Zizyuu nado ihi si ohom-menotogo nomi koso, tosigoro akugare hate nu mono nite saburahi ture do, kayohi mawiri si Saiwin use tamahi nado si te, ito tahe gataku kokorobosoki ni, kono Himegimi no haha-Kitanokata no harakara, yo ni otibure te zuryau no kitanokata ni nari tamahe ru ari keri.
1.5.2  娘どもかしづきて、 よろしき若人どもも、「むげに知らぬ所よりは、親どももまうで通ひしを」と思ひて、時々行き通ふ。この姫君は、かく人疎き御癖なれば、むつましくも言ひ通ひたまはず。
 娘たちを大切にしていて、見苦しくない若い女房たちも、「全然知らない家よりは、親たちが出入りしていた所を」と思って、時々出入りしている。この姫君は、このように人見知りするご性格なので、親しくお付き合いなさらない。
 娘をかしずいて、若いよい女房を幾人でもほしがる家へ、そこは死んだ母もおりふし行っていた所であるからと思って、時々そこへ行って勤めていた。末摘花は人に親しめない性格であったから、叔母おばともあまり交際をしなかった。
  Musume-domo kasiduki te, yorosiki wakaudo-domo mo, "Mugeni sira nu tokoro yori ha, oya-domo mo maude kayohi si wo." to omohi te, tokidoki iki kayohu. Kono Himegimi ha, kaku hito utoki ohom-kuse nare ba, mutumasiku mo ihi kayohi tamaha zu.
1.5.3  「 おのれをばおとしめたまひて、面伏せに思したりしかば、姫君の御ありさまの心苦しげなるも、え訪らひきこえず」
 「わたしを軽蔑なさって、不名誉にお思いであったから、姫君のご生活が困窮しているようなのも、お見舞い申し上げられないのです」
 「お姉様は私を軽蔑けいべつなすって、私のいることを不名誉にしていらっしゃったから、姫君が気の毒な一人ぼっちでも私は世話をしてあげないのだよ」
  "Onore wo ba otosime tamahi te, omotebuse ni obosi tari sika ba, Himegimi no ohom-arisama no kokorogurusige naru mo, e toburahi kikoye zu."
1.5.4  など、なま憎げなる言葉ども言ひ聞かせつつ、時々聞こえけり。
 などと、こ憎らしい言葉を言って聞かせては、時々手紙を差し上げた。
 などという悪態口も侍従に聞かせながら、時々侍従に手紙を持たせてよこした。
  nado, nama-nikuge naru kotoba-domo ihi kika se tutu, tokidoki kikoye keri.
1.5.5  もとよりありつきたるさやうの並々の人は、なかなかよき人の真似に心をつくろひ、思ひ上がるも多かるを、やむごとなき筋ながらも、かうまで落つべき宿世ありければにや、心すこしなほなほしき御叔母にぞありける。
 もともと生まれついたそのような並みの人は、かえって高貴な人の真似をすることに神経をつかって、お高くとまっている人も多くいるが、高貴なお血筋ながらも、こうまで落ちぶれる運命だったからであろうか、心が少し卑しい叔母だったのであった。
 初めから地方官級の家に生まれた人は、貴族をまねて、思想的にも思い上がった人になっている者も多いのに、この夫人は貴族の出でありながら、下の階級へはいって行く運命を生まれながらに持っていたものか、卑しい性格の叔母君であった。
  Motoyori ari tuki taru sayau no naminami no hito ha, nakanaka yoki hito no mane ni kokoro wo tukurohi, omohiagaru mo ohokaru wo, yamgotonaki sudi nagara mo, kau made otu beki sukuse ari kere ba ni ya, kokoro sukosi nahonahosiki ohom-woba ni zo ari keru.
1.5.6  「 わがかく劣りのさまにて、あなづらはしく思はれたりしを、 いかで、かかる世の末に、この君を、わが娘どもの使人になしてしがな。心ばせなどの古びたる方こそあれ、いとうしろやすき後見ならむ」と思ひて、
 「わたしがこのように落ちぶれたさまを、軽蔑されていたのだから、何とかして、このような宮家の衰退した折に、この姫君を、自分の娘たちの召し使いにしたいものだ。考え方の古風なところがあるが、それはいかにも安心できる世話役といえよう」と思って、
 自身が、家門の顔汚しのように思われていた昔の腹いせに、常陸ひたちの宮の女王を自身の娘たちの女房にしてやりたい、昔風なところはあるが気だてのよい後見役ができるであろうとこんなことを思って、
  "Waga kaku otori no sama nite, anadurahasiku omoha re tari si wo, ikade, kakaru yo no suwe ni, kono Kimi wo, waga musume-domo no tukahibito ni nasi te si gana. Kokorobase nado no hurubi taru kata koso are, ito usiroyasuki usiromi nara m." to omohi te,
1.5.7  「 時々ここに渡らせたまひて。御琴の音もうけたまはらまほしがる人なむはべる」
 「時々こちらにお出あそばして。お琴の音を聴きたがっている人がおります」
 時々私の宅へもおいでくだすったらいかがですか。あなたのお琴のも伺いたがる娘たちもおります。
  "Tokidoki koko ni watara se tamahi te. Ohom-koto no ne mo uketamahara mahosigaru hito nam haberu."
1.5.8  と聞こえけり。この侍従も、常に言ひもよほせど、人にいどむ心にはあらで、ただこちたき御ものづつみなれば、さもむつびたまはぬを、ねたしとなむ思ひける。
 と申し上げた。この侍従も、いつもお勧めするが、人に張り合う気持ちからではないが、ただ大変なお引っ込み思案なので、そのように親しくなさらないのを、憎らしく思うのであった。
 と言って来た。これを実現させようと叔母は侍従にも促すのであるが、末摘花は負けじ魂からではなく、ただ恥ずかしくきまりが悪いために、叔母の招待に応じようとしないのを、叔母のほうではくやしく思っていた。
  to kikoye keri. Kono Zizyuu mo, tune ni ihi moyohose do, hito ni idomu kokoro ni ha ara de, tada kotitaki ohom-monodutumi nare ba, samo mutubi tamaha nu wo, netasi to nam omohi keru.
1.5.9   かかるほどに、かの家主人、大弐になりぬ。娘どもあるべきさまに 見置きて、下りなむとす。この君を、なほも誘はむの心深くて、
 こうしているうちに、あの叔母の夫が、大宰大弍になった。娘たちをしかるべく縁づけて、筑紫に下向しようとする。この姫君を、なおも誘おうという執念が深くて、
 そのうちに叔母の良人おっとが九州の大弐だいにに任命された。娘たちをそれぞれ結婚させておいて、夫婦で任地へ立とうとする時にもまだ叔母は女王を伴って行きたがって、
  Kakaru hodo ni, kano ihearuzi, Daini ni nari nu. Musume-domo aru beki sama ni mioki te, kudari na m to su. Kono Kimi wo, naho mo izanaha m no kokoro hukaku te,
1.5.10  「 はるかに、かく まかりなむとするに 、心細き御ありさまの、常にしも訪らひきこえねど、近き頼みはべりつるほどこそあれ、いとあはれにうしろめたくなむ」
 「遥か遠方に、このように赴任することになりましたが、心細いご様子が、つねにお見舞い申し上げていたわけではありませんでしたが、近くにいるという安心感があった間はともかく、とても気の毒で心配でなりません」
 「遠方へ行くことになりますと、あなたが心細い暮らしをしておいでになるのを捨てておくことが気になってなりません。ただ今までもお構いはしませんでしたが、近い所にいるうちはいつでもお力になれる自信がありましたので」
  "Haruka ni, kaku makari na m to suru ni, kokoro-bosoki ohom-arisama no, tuneni simo toburahi kikoye ne do, tikaki tanomi haberi turu hodo koso are, ito ahare ni usirometaku nam."
1.5.11  など、言よがるを、さらに受け引きたまはねば、
 などと、言葉巧みに言うが、まったくご承知なさらないので、
 と体裁よくことづてて誘いかけるのも、女王が聞き入れないから、
  nado, kotoyogaru wo, sarani ukehiki tamaha ne ba,
1.5.12  「 あな、憎。ことことしや。心一つに思し上がるとも、さる薮原に年経たまふ人を、大将殿も、やむごとなくしも思ひきこえたまはじ」
 「まあ、憎らしい。ご大層なこと。自分一人お高くとまっていても、あのような薮原に過ごしていらっしゃる人を、大将殿も、大事にお思い申し上げないでしょう」
 「まあ憎らしい。いばっていらっしゃる。自分だけはえらいつもりでも、あのやぶの中の人を大将さんだって奥様らしくは扱ってくださらないだろう」
  "Ana, niku! Kotokotosi ya! Kokoro hitotu ni obosi agaru tomo, saru yabuhara ni tosi he tamahu hito wo, Daisyaudono mo, yamgotonaku simo omohi kikoye tamaha zi."
1.5.13  など、怨じうけひけり。
 などと、恨んだり呪ったりしているのであった。
 と言ってののしった。
  nado, wenzi ukehi keri.
注釈35侍従などいひし御乳母子のみこそ「末摘花」巻に既出の人物。1.5.1
注釈36よろしき若人ども「よろし」は「よし」よりも一段劣った意味。1.5.2
注釈37おのれをばおとしめたまひて以下「え訪らひきこえず」まで、叔母の詞。末摘花の母親が受領と結婚したことを軽蔑し、一門の不名誉に思っていたという。侍従を前にして述べているので、敬語を使っている。1.5.3
注釈38わがかく劣りのさまにて以下「後見ならむ」まで、叔母の心中。末摘花を自分の娘たちの使用人にして復讐してやろう、末摘花の古風なところはあるが、かえって安心だ、と考える。1.5.6
注釈39いかで大島本は「いかて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「いかでか」と「か」を補訂する。1.5.6
注釈40時々ここに渡らせたまひて以下「人なむはべる」まで、叔母の詞。末摘花を叔母の家に誘い出す。1.5.7
注釈41かかるほどに、かの家主人、大弐になりぬ叔母の夫が大宰大弍になったので、末摘花を筑紫に連れて行こうとする。娘たちは都の人に縁づけて、今度は自分の使用人にするつもりである。1.5.9
注釈42はるかにかく以下「うしろめたくなむ」まで、叔母の詞。末摘花を筑紫に連れて行こうとする言葉巧みな誘い。1.5.10
注釈43まかりなむとするに大島本は「ま△(△#)か(か$)りなむ」とある。すなわち二文字を抹消とミセケチにしたために、語形が壊れてしまっている。おそらく原文「まかかりなむ」とあったところを、初め後出の「か」をミセケチにしたのだが、後人がその小さなミセケチ符号を見落とし、その前の「か(可)」をまで抹消してしまったのであろう。その結果、語形が壊れてしまったものであろう。1.5.10
注釈44あな憎ことことしや以下「思ひきこえたまはじ」まで、叔母の詞。『完訳』は「末摘花にではなく、第三者に漏らした発言であろう」と注す。1.5.12
校訂5 北の方の 北の方の--(/+き)か(か/$)たの(の/+かたの) 1.5.1
校訂6 見置きて 見置きて--見せ(せ/$を)きて 1.5.9
校訂7 まかり まかり--*まか(か/#)か(か/$)り 1.5.10
Last updated 10/9/2009(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 10/9/2009(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 3/24/2006
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-4)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
伊藤時也(青空文庫)

2003年5月9日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2009年12月18日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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