第十六帖 関屋


16 SEKIYA (Ohoshima-bon)


光る源氏の須磨明石離京時代から帰京後までの空蝉の物語


Tale of Utsusemi  Ara of Hikaru-Genji in Suma and Akashi, and returned to Kyoto later

1
第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語


1  Tale of Utsusemi  Meeting again at Ohosaka-no-seki

1.1
第一段 空蝉、夫と常陸国下向


1-1  Utsusemi goes to Hitachi with her husband

1.1.1   伊予介といひしは、故院崩れさせたまひて、またの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居も遥かに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へ聞こゆべき よすがだになくて筑波嶺の山を吹き越す風も 、浮きたる心地して、 いささかの伝へだになくて、年月かさなりにけり。 限れることもなかりし御旅居なれど京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ、常陸は上りける
 伊予介と言った人は、故院が御崩御あそばして、その翌年に、常陸介になって下行したので、あの帚木も一緒に連れられて行ったのであった。須磨でのご生活も遥か遠くに聞いて、人知れずお偲び申し上げないではなかったが、お便りを差し上げる手段さえなくて、筑波嶺を吹き越して来る風聞も、不確かな気がして、わずかの噂さえ聞かなくて、歳月が過ぎてしまったのだった。いつまでとは決まっていなかったご退去であったが、京に帰り住まわれることになって、その翌年の秋に、常陸介は上京したのであった。
 以前の伊予介いよのすけは院がおかくれになった翌年常陸介ひたちのすけになって任地へ下ったので、昔の帚木ははきぎもつれて行った。源氏が須磨すまへ引きこもったうわさも、遠い国で聞いて、悲しく思いやらないのではなかったが、音信をする便たよりすらなくて、筑波つくばおろしに落ち着かぬ心を抱きながら消息の絶えた年月を空蝉うつせみは重ねたのである。限定された国司の任期とは違って、いつを限りとも予想されなかった源氏の放浪の旅も終わって、帰京した翌年の秋に常陸介は国を立って来た。
  Iyo-no-Suke to ihi si ha, ko-Win kakure sase tamahi te, matanotosi, Hitati ni nari te kudari sika ba, kano Hahakigi mo izanaha re ni keri. Suma no ohom-tabiwi mo harukani kiki te, hitosirezu omohiyari kikoye nu ni simo ara zari sika do, tutahe kikoyu beki yosuga dani naku te, Tukubane no yama wo huki kosu kaze mo, uki taru kokoti si te, isasaka no tutahe dani naku te, tosituki kasanari ni keri. Kagire ru koto mo nakari si ohom-tabiwi nare do, Kyau ni kaheri sumi tamahi te, matanotosi no aki zo, Hitati ha nobori keru.
注釈1伊予介といひしは故院崩れさせたまひてまたの年常陸になりて下りしかばかの帚木もいざなはれにけり桐壺院の崩御は「賢木」巻の源氏二十三歳の年。その翌年、朧月夜の君は尚侍になり、朝顔の姫君は齋院となり、藤壺宮は出家した。「帚木」という呼称は巻名に因んで呼ばれたもの。作者の命名。読者は「空蝉」と呼称する。1.1.1
注釈2よすがだになくて大島本は「なくて」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「なく」と「て」を削除する。1.1.1
注釈3筑波嶺の山を吹き越す風も「甲斐が嶺を嶺越し山越し吹く風を人にもがもや言づてやらむ」(古今集東歌、一〇九八)を踏まえ、「甲斐が嶺」を「筑波嶺」と言い換えた。1.1.1
注釈4いささかの伝へ大島本は「いささかかの」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「いささかの」と「か」を削除する。1.1.1
注釈5限れることもなかりし御旅居なれど源氏の須磨・明石退去をさす。「御旅居」と敬語表現。1.1.1
注釈6京に帰り住みたまひてまたの年の秋ぞ常陸は上りける『完訳』は「国守任命後、足かけ五年目に辞任、六年目(源氏帰京の翌年)に上京。澪標巻後半に相当」と注す。1.1.1
出典1 筑波嶺の山を吹き越す風 甲斐が嶺を嶺越し山越し吹く風に人にもがもやことづてやらむ 古今集東歌-一〇九八 甲斐歌 1.1.1
1.2
第二段 源氏、石山寺参詣


1-2  Genji visits to Ishiyama-temple

1.2.1   関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
 逢坂の関に入る日、ちょうど、この殿が、石山寺にご願果たしに参詣なさったのであった。京から、あの紀伊守などといった子どもや、迎えに来た人々、「この殿がこのように参詣なさる予定だ」と告げたので、「道中、きっと混雑するだろう」と思って、まだ暁のうちから急いだが、女車が多く、道いっぱいに練り歩いて来たので、日が高くなってしまった。
 一行が逢坂おうさかの関を越えようとする日は、偶然にも源氏が石山寺へ願ほどきに参詣さんけいする日であった。京から以前紀伊守きいのかみであった息子むすこその他の人が迎えに来ていて源氏の石山もうでを告げた。途中が混雑するであろうから、こちらは早く逢坂山を越えておこうとして、常陸介は夜明けに近江おうみの宿を立って道を急いだのであるが、女車が多くてはかがゆかない。
  Seki iru hi simo, kono Tono, Isiyama ni ohom-gwanhatasi ni maude tamahi keri. Kyau yori, kano Kii-no-Kami nado ihi si kodomo, mukahe ni ki taru hitobito, "Kono Tono kaku maude tamahu besi." to tuge kere ba, "Miti no hodo sawagasi kari na m mono zo." tote, mada akatuki yori isogi keru wo, womnaguruma ohoku, tokoroseu yurugi kuru ni, hi take nu.
1.2.2   打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて 、御前の人びと、 道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、 木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。 車など、かたへは後らかし、 先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
 打出の浜にやって来た時に、「殿は、粟田山を既にお越えになった」と言って、御前駆の人々が、道も避けきれないほど大勢入り込んで来たので、関山で皆下りてかしこまって、あちらこちらの杉の木の下に幾台もの車の轅を下ろして、木蔭に座りかしこまってお通し申し上げる。車などは行列の一部は遅らせたり、先にやったりしたが、それでもなお、一族が多く見える。 打出うちでの浜を来るころに、源氏はもう粟田山あわたやまを越えたということで、前駆を勤めている者が無数に東へ向かって来た。道を譲るくらいでは済まない人数なのであったから、関山で常陸の一行は皆下馬してしまって、あちらこちらのすぎの下に車などをかつぎおろして、木の間にかしこまりながら源氏の通過を目送しようとした。女車も一部分はあとへ残し、一部分は先へやりなどしてあったのであるが、なおそれでも族類の多い派手はでな地方長官の一門と見えた。
  Utiidenohama kuru hodo ni, "Tono ha, Ahatayama koye tamahi nu." tote, gozen no hitobito, miti mo sari ahe zu ki komi nure ba, Sekiyama ni mina ori wi te, kokokasiko no sugi no sita ni kuruma-domo kaki-orosi, kogakure ni wi kasikomari te sugusi tatematuru. Kuruma nado, katahe ha okurakasi, saki ni tate nado si tare do, naho, rui hiroku miyu.
1.2.3   車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車 思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。
 車十台ほどから、袖口、衣装の色合いなども、こぼれ出て見えるのが、田舎風にならず品があって、斎宮のご下向か何かの時の物見車が自然とお思い出しになられる。殿も、このように世に栄え出なされた珍しさに、数知れない御前駆の者たちが、皆目を留めた。
 そこには十台ほどの車があって、外に出したそでの色の好みは田舎いなかびずにきれいであった。斎宮さいぐう下向げこうの日に出る物見車が思われた。源氏の光がまた発揮される時代になっていて、希望して来た多数の随従者は常陸ひたちの一行に皆目を留めて過ぎた。
  Kuruma towo bakari zo, sodeguti, mono no iroahi nado mo, moriide te miye taru, winakabi zu, yosi ari te, Saiguu no ohom-kudari nanizo yau no wori no monomiguruma obosiide raru. Tono mo, kaku yo ni sakaye ide tamahu medurasisa ni, kazu mo naki gozen-domo, mina me todome tari.
注釈7関入る日しもこの殿石山に御願果しに詣でたまひけり常陸介一行が逢坂関を通る日に、源氏は石山寺にお礼参りに逢坂関にさしかかる。1.2.1
注釈8打出の浜来るほどに殿は粟田山越えたまひぬとて「打出の浜」は大津の浜。「粟田山」は京山科との間の山。1.2.2
注釈9道もさりあへず来込みぬれば『集成』は「梓弓春の山辺を越え来れば道もさりあへず花ぞちりける」(古今集春下、一一五、貫之)の言葉を借りた表現であることを指摘。1.2.2
注釈10木隠れに居かしこまりて木蔭に隠れるように座って、源氏の一行の通り過ぎるのを待つ。1.2.2
注釈11車など以下、常陸介一行の車をいう。敬語がついていない。1.2.2
注釈12先に立てなどしたれど『集成』は「〔一部は〕前日に出発させたりしたが」と注す。1.2.2
注釈13車十ばかりぞ係助詞「ぞ」は「見えたる」連体形に係るが、連体中止で、読点で下文に続き、その主格となる。1.2.3
注釈14思し出でらる主語は源氏。「思す」という敬語表現による。1.2.3
校訂1 殿は 殿は--との(の/+は) 1.2.2
1.3
第三段 逢坂の関での再会


1-3  Meeting again at Ohosaka-no-seki

1.3.1   九月晦日なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、色々の襖のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、 今、右衛門佐なる を召し寄せて、
 九月の晦日なので、紅葉の色とりどりに混じり、霜枯れの叢が趣深く見わたされるところに、関屋からさっと現れ出た何人もの旅姿の、色とりどりの狩襖に似つかわしい刺繍をし、絞り染めした姿も、興趣深く見える。お車は簾を下ろしなさって、あの昔の小君、今、右衛門佐である者を召し寄せて、
 九月の三十日であったから、山の紅葉もみじは濃くうすく紅を重ねた間に、霜枯れの草の黄が混じって見渡される逢坂山の関の口から、またさっと一度に出て来た襖姿あおすがたの侍たちの旅装の厚織物やくくり染めなどは一種の美をなしていた。源氏の車はみすがおろされていた。今は右衛門佐うえもんのすけになっている昔の小君こぎみを近くへ呼んで、
  Nagatuki tugomori nare ba, momidi no iroiro kokimaze, simogare no kusa muramura wokasiu miyewataru ni, Sekiya yori, sato kudureide taru tabisugata-domo no, iro-iro no awo no tukidukisiki nuhimono, kukurizome no sama mo, saru kata ni wokasiu miyu. Ohom-kuruma ha sudare orosi tamahi te, kano mukasi no Kogimi, ima, Uwemon-no-Suke naru wo mesiyose te,
1.3.2  「 今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ
 「今日のお関迎えは、無視なさるまいな」
 「今日こうして関迎えをした私を姉さんは無関心にも見まいね」
  "Kehu no ohom-sekimukahe ha, e omohisute tamaha zi."
1.3.3  など のたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
 などとおっしゃる、ご心中、まことにしみじみとお思い出しになることが数多いけれど、ありきたりの伝言では何の効もない。女も人知れず昔のことを忘れないので、あの頃を思い出して、しみじみと胸一杯になる。
 などと言った。心のうちにはいろいろな思いが浮かんで来て、恋しい人と直接言葉がかわしたかった源氏であるが、人目の多い場所ではどうしようもないことであった。女も悲しかった。昔が昨日のように思われて、煩悶はんもんもそれに続いた煩悶がされた。
  nado notamahu mikokoro no uti, ito ahare ni obosiiduru koto ohokare do, ohozou nite kahinasi. Womna mo, hitosirezu mukasi no koto wasure ne ba, torikahesi te, mono-ahare nari.
1.3.4  「 行くと来とせき止めがたき涙をや
   絶えぬ清水と人は見るらむ
 「行く人と来る人の逢坂の関で、せきとめがたく流れるわたしの涙を
  絶えず流れる関の清水と人は見るでしょう
  行くととせきとめがたき涙をや
  絶えぬ清水しみづと人は見るらん
    "Yuku to ku to seki tome gataki namida wo ya
    taye nu simidu to hito ha miru ram
1.3.5   え知りたまはじかし」と思ふに、 いとかひなし
 お分かりいただけまい」と思うと、本当に効ない。
  自分のこの心持ちはお知りにならないであろうと思うとはかなまれた。
  E siri tamaha zi kasi." to omohu ni, ito kahinasi.
注釈15九月晦日なれば紅葉の色々こきまぜ霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに関屋よりさとくづれ出でたる旅姿どもの大島本は「くつれいてたる」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「はづれ出でたる」と校訂する。晩秋九月の晦、山道に紅葉、霜枯れの草々、源氏一行の人々の動きを活写。1.3.1
注釈16今、右衛門佐大島本は「いま右衛門のすけ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「今は衛門佐」と「は」を補訂し「右」を削除する。従五位上相当官。1.3.1
注釈17今日の御関迎へはえ思ひ捨てたまはじ源氏の詞。「御関迎へ」は自分を逢坂関で出迎えることをいう。「思ひ捨てたまはじ」の主語は空蝉。冗談を交えた物の言い方。『完訳』は「私の逢坂の関での出迎えを空蝉は無視なさるまい、の意。偶然の再会を、「関迎へ」と言いなした」と注す。1.3.2
注釈18のたまふ『集成』は下文の「御心のうち」に続ける。『完訳』は句点で文を切る。1.3.3
注釈19行くと来とせき止めがたき涙をや--絶えぬ清水と人は見るらむ空蝉の独詠歌。「塞き止め難き」に「(逢坂の)関」を掛ける。「清水」は歌枕「関の清水」。『完訳』は「源氏にも理解されない孤心を形象」と注す。1.3.4
注釈20え知りたまはじかし空蝉の心中。「知りたまはじ」の主語は源氏。1.3.5
注釈21いとかひなし前に源氏に対して「おほぞうにてかひなし」とあった。「女も」「いとかひなし」という文脈。1.3.5
校訂2 を召し を召し--をし(し/$<朱>)めし 1.3.1
Last updated 9/21/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 10/11/2009(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 6/27/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kumi(青空文庫)

2003年5月9日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2008年3月22日

Last updated 10/11/2009 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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