第十九帖 薄雲


19 USUGUMO (Ohoshima-bon)


光る源氏の内大臣時代
三十一歳冬十二月から三十二歳秋までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Nai-Daijin era, from December in winter at the age of 31 to fall at the age of 32

3
第三章 藤壺の物語 藤壺女院の崩御


3  Tale of Fujitsubo  Fujitsubo's death and Genji's grief

3.1
第一段 太政大臣薨去と天変地異


3-1  Death of a high goverment and convulsions of nature

3.1.1   そのころ、太政大臣亡せたまひぬ。世の重しとおはしつる人なれば、朝廷にも思し嘆く。しばし、 籠もりたまひしほどをだに、天の下の騷ぎなりしかば、まして、悲しと思ふ人多かり。源氏の大臣も、いと口惜しく、 よろづこと、おし譲りきこえてこそ、暇もありつるを、心細く、事しげくも思されて、嘆きおはす。
 そのころ、太政大臣がお亡くなりになった。世の重鎮としていらっしゃった方なので、帝におかせられてもお嘆きになる。しばらくの間、籠もっていらっしゃった間でさえ、天下の騷ぎであったので、その時以上に、悲しむ人々が多かった。源氏の大臣も、たいそう残念に、万事の政務、お譲り申し上げてこそ、お暇もあったのだが、心細く政務も忙しく思われなさって、嘆いていっらっしゃる。
 この時分に太政大臣が薨去こうきょした。国家の柱石であった人であるからみかどもお惜しみになった。源氏も遺憾いかんに思った。これまではすべてをその人に任せて閑暇ひまのある地位にいられたわけであるから、死別の悲しみのほかに責任の重くなることを痛感した。
  Sonokoro, Ohokiotodo use tamahi nu. Yo no omosi to ohasi turu hito nare ba, Ohoyake ni mo obosi nageku. Sibasi, komori tamahi si hodo wo dani, amenosita no sawagi nari sika ba, masite, kanasi to omohu hito ohokari. Genzi-no-Otodo mo, ito kutiwosiku, yorodu koto, osi-yuduri kikoye te koso, itoma mo ari turu wo, kokorobosoku, koto sigeku mo obosa re te, nageki ohasu.
3.1.2   帝は、御年よりはこよなう大人大人しうねびさせたまひて、世の 政事も、うしろめたく思ひきこえたまふべきにはあらね ども、またとりたてて御後見したまふべき人もなきを、「 誰れに譲りてかは、静かなる御本意もかなはむ」と思すに、いと飽かず口惜し。
 帝は、お年よりはこの上なく大人らしく御成人あそばして、天下の政治も心配申し上げなさるような必要はないのだが、また特別にご後見なさる適当な方もいないので、「誰に譲って静かに出家の本意をかなえられようか」とお思いになると、まことに残念でならない。
 帝は御年齢の割に大人びた聡明そうめいな方であって、御自身だけで政治をあそばすのにあぶなげもないのであるが、だれか一人の御後見の者は必要であった。だれにそのことを譲って静かな生活から、やがては出家の志望も遂げえようと思われることで源氏は太政大臣の死によって打撃を受けた気がするのである。
  Mikado ha, ohom-tosi yori ha koyonau otonaotonasiu nebi sase tamahi te, yo no maturigoto mo, usirometaku omohi kikoye tamahu beki ni ha ara ne do mo, mata toritate te ohom-usiromi si tamahu beki hito mo naki wo, "Tare ni yuduri te kaha, siduka naru ohom-ho'i mo kanaha m?" to obosu ni, ito akazu kutiwosi.
3.1.3  後の御わざなどにも、御子ども孫に過ぎてなむ、こまやかに弔らひ、扱ひたまひける。
 ご法事などにも、ご子息やお孫たち以上に、心をこめてご弔問なさり、御世話なさるのであった。
 源氏は大臣の息子や孫以上に至誠をもってあとの仏事や法要を営んだ。
  Noti no ohom-waza nado ni mo, miko-domo mumago ni sugi te nam, komayaka ni toburahi, atukahi tamahi keru.
3.1.4   その年、おほかた世の中騒がしくて、朝廷ざまに、もののさとししげく、のどかならで、
 その年は、いったいに世の中が騒然として、朝廷に対して、何事かの前兆が頻繁に現れ、不穏で、
 今年はだいたい静かでない年であった。何かの前兆でないかと思われるようなことも頻々ひんぴんとして起こる。
  Sono tosi, ohokata yononaka sawagasiku te, ohoyakezama ni, mono no satosi sigeku, nodoka nara de,
3.1.5  「 天つ空にも、例に違へる月日星の光見え、雲のたたずまひあり
 「天空にも、いつもと違った月や日や星の光りが見えて、雲がたなびいている」
 日月星などの天象の上にも不思議が多く現われて世間に不安な気がみなぎっていた。
  "Amatusora ni mo, rei ni tagahe ru tuki hi hosi no hikari miye, kumo no tatazumahi ari."
3.1.6  とのみ、世の人おどろくこと多くて、道々の勘文 どもたてまつれるにも、あやしく世になべてならぬことども混じりたり。 内の大臣のみなむ、御心のうちに、わづらはしく思し知らるることありける
 とばかり言って、世間の人の驚くことが多くて、それぞれの道の勘文を差し上げた中にも、不思議で世に尋常でない事柄が混じっていた。内大臣だけは、ご心中に、厄介にそれとお分りになることがあるのであった。
 天文の専門家や学者が研究して政府へ報告する文章の中にも、普通に見ては奇怪に思われることで、源氏の内大臣だけには解釈のついて、そしてやましく苦しく思われることが混じっていた。
  to nomi, yo no hito odoroku koto ohoku te, mitimiti no kangahebumi-domo tatemature ru ni mo, ayasiku yo ni nabete nara nu koto-domo maziri tari. Uti-no-Otodo nomi nam, mi-kokoro no uti ni, wadurahasiku obosi sira ruru koto ari keru.
注釈113そのころ太政大臣亡せたまひぬ源氏の岳父、太政大臣。「澪標」巻に六十三歳とあったから、六十六歳で死去。『完訳』は「同年齢で死去の関白太政大臣藤原頼忠が想定されるか」と注す。3.1.1
注釈114籠もりたまひし大島本は「給し」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「たまへりし」と校訂する。3.1.1
注釈115よろづこと大島本は「よろつこと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「よろづのこと」と「の」を補訂する。3.1.1
注釈116帝は、御年よりはこよなう大人大人しう冷泉帝十四歳。3.1.2
注釈117誰れに譲りてかは以下「かなはむ」まで、源氏の心中を間接的に叙述。源氏の出家願望は、「葵」巻の妻葵の上を失い、引き続いて「賢木」巻で父桐壺帝を失ったころに始まり、「絵合」巻に嵯峨野御堂の建立、「松風」巻の月に二度の参詣というように深まり、日常化しつつある。「かは」は反語。それも不可能だの意。3.1.2
注釈118その年おほかた世の中騒がしくて『完訳』は「永祚元年(九八九)の史実によるとする説もある。前掲頼忠の死も同年」と注す。3.1.4
注釈119天つ空にも例に違へる月日星の光見え雲のたたずまひあり世人の詞。月食、日食、彗星、雲の様子等の、凶兆。3.1.5
注釈120内の大臣のみなむ御心のうちにわづらはしく思し知らるることありける大島本は「しらるゝ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「知る」と校訂する。『集成』は「源氏の内大臣だけが、ひそかに困ったことだとお気づきになるところがあった。自分が帝の実の父親でありながら臣下として仕えていることが、凶兆の原因であることを悟る」。『完訳』は「源氏の冷泉帝が自分と藤壺の秘密の子であることへの恐懼であろう。「のみ」の限定にも注意」と注す。3.1.6
校訂11 政事も 政事も--まつりことん(ん/$も<朱>) 3.1.2
校訂12 ども ども--とん(ん/$も<朱>) 3.1.2
校訂13 ども ども--とん(ん/#も) 3.1.6
校訂14 のみ のみ--の身(身/$み) 3.1.6
3.2
第二段 藤壺入道宮の病臥


3-2  Fujitsubo falls into critical condition

3.2.1  入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて、三月にはいと重くならせたまひぬれば、行幸などあり。 院に別れたてまつらせたまひしほどはいといはけなくて、もの深くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御けしきなれば、宮もいと悲しく思し召さる。
 入道后の宮は、春の初めころからずっとお悩みになって、三月にはたいそう重くおなりになったので、行幸などがある。院に御死別申し上げられたころは、とても幼くて、深くもお悲しみにはならなかったが、たいそうお嘆きの御様子なので、宮もとても悲しく思わずにはいらっしゃれない。
 女院は今年の春の初めからずっと病気をしておいでになって、三月には御重体にもおなりになったので、行幸などもあった。陛下の院にお別れになったころは御幼年で、何事も深くはお感じにならなかったのであるが、今度の御大病については非常にお悲しみになるふうであったから、女院もまたお悲しかった。
  Nihudau-Kisainomiya, haru no hazime yori nayami watara se tamahi te, Yayohi ni ha, ito omoku nara se tamahi nure ba, gyaugau nado ari. Win ni wakare tatematura se tamahi si hodo ha, ito ihakenaku te, mono hukaku mo obosa re zari si wo, imiziu obosi nageki taru mi-kesiki nare ba, Miya mo ito kanasiku obosimesa ru.
3.2.2  「 今年は、かならず逃るまじき年と思ひたまへつれど、おどろおどろしき心地にもはべらざりつれば、命の限り知り顔にはべらむも、人やうたて、ことことしう思はむと憚りてなむ、功徳のことなども、わざと例よりも取り分きてしもはべらずなりにける。
 「今年は、必ずや逃れることのできない年回りと思っておりましたが、それほどひどい気分ではございませんでしたので、寿命を知っている顔をしますようなのも、人もいやに思い、わざとらしいと思うだろうと遠慮して、功徳の事なども、特に平素よりも取り立てて致しませんでした。
 「今年はきっと私の死ぬ年ということを知っていましたけれど、初めはたいした病気でもございませんでしたから、賢明に死を予感して言うらしく他に見られるのもいかがと思いまして功徳くどくのことのほうも例年以上なことは遠慮してしませんでした。
  "Kotosi ha, kanarazu nogaru maziki tosi to omohi tamahe ture do, odoroodorosiki kokoti ni mo habera zari ture ba, inoti no kagiri siri gaho ni habera m mo, hito ya utate, kotokotosiu omoha m to habakari te nam, kudoku no koto nado mo, wazato rei yori mo toriwaki te simo habera zu nari ni keru.
3.2.3  参りて、心のどかに昔の御物語もなど思ひたまへながら、うつしざまなる折少なくはべりて、口惜しく、いぶせくて過ぎはべりぬること」
 参内して、ゆっくりと昔のお話でもなどと思っておりながら、気分のすっきりした時が少なうございまして、残念にも、鬱々として過ごしてしまいましたこと」
 参内いたしましてね、故院こいんのお話などもお聞かせしようなどとも思っているのでしたが、普通の気分でいられる時が少のうございましたから、お目にも長くかからないでおりました」
  Mawiri te, kokoro nodoka ni mukasi no ohom-monogatari mo nado omohi tamahe nagara, utusizama naru wori sukunaku haberi te, kutiwosiku, ibuseku te sugi haberi nuru koto."
3.2.4  と、いと弱げに聞こえたまふ。
 と、たいそう弱々しくお申し上げなさる。
 と弱々しいふうで女院は帝へ申された。
  to, ito yowage ni kikoye tamahu.
3.2.5   三十七にぞおはしましける 。されど、いと若く盛りにおはしますさまを、惜しく悲しと見たてまつらせたまふ。
 三十七歳でいらっしゃるのであった。けれども、とてもお若く盛りでいらっしゃるご様子を、惜しく悲しく拝し上げあそばす。
 今年は三十七歳でおありになるのである。しかしお年よりもずっとお若くお見えになってまだ盛りの御容姿をお持ちあそばれるのであるから、帝は惜しく悲しく思召おぼしめされた。
  Samzihusiti ni zo ohasimasi keru. Saredo, ito wakaku sakari ni ohasimasu sama wo, wosiku kanasi to mi tatematura se tamahu.
3.2.6  「 慎ませたまふべき御年なるに、晴れ晴れしからで、月ごろ過ぎさせたまふことをだに、嘆きわたりはべりつるに、 御慎みなどをも、常よりことにせさせたまはざりけること
 「お慎みあそばさねばならないお年回りであるが、気分もすぐれず、何か月かをお過ごしになることでさえ、嘆き悲しんでおりましたのに、ご精進などをも、いつもより特別になさらなかったことよ」
 お厄年であることから、はっきりとされない御容体の幾月も続くのをすら帝は悲しんでおいでになりながら、そのころにもっとよく御養生をさせ、熱心に祈祷きとうをさせなかったかと
  "Tutusima se tamahu beki ohom-tosi naru ni, harebaresikara de, tukigoro sugi sase tamahu koto wo dani, nageki watari haberi turu ni, ohom-tutusimi nado wo mo, tune yori koto ni se sase tamaha zari keru koto."
3.2.7  と、いみじう思し召したり。ただこの ころぞおどろきて、よろづのことせさせたまふ。月ごろは、常の御悩みとのみうちたゆみたりつるを、源氏の大臣も深く思し入りたり。限りあれば、ほどなく帰らせたまふも、悲しきこと多かり。
 と、ひどく悲しくお思いであった。つい最近に、気づいて、いろいろなご祈祷をおさせあそばす。今までは、いつものご病気とばかり油断していたのだが、源氏の大臣も深くご心配になっていた。一定のきまりがあるので、間もなくお帰りあそばすのも、悲しいことが多かった。
 帝は悔やんでおいでになった。近ごろになってお驚きになったように急に御快癒かいゆの法などを行なわせておいでになるのである。これまではお弱い方にまた御持病が出たというように解釈して油断のあったことを源氏も深くなげいていた。尊貴な御身は御病母のもとにも長くはおとどまりになることができずに間もなくお帰りになるのであった。悲しい日であった。
  to, imiziu obosimesi tari. Tada konokoro zo, odoroki te, yorodu no koto se sase tamahu. Tukigoro ha, tune no ohom-nayami to nomi uti-tayumi tari turu wo, Genzi-no-Otodo mo hukaku obosi iri tari. Kagiri are ba, hodo naku kahera se tamahu mo, kanasiki koto ohokari.
3.2.8  宮、いと苦しうて、はかばかしうものも聞こえさせたまはず。御心のうちに思し続くるに、「 高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心のうちに 飽かず思ふ ことも人にまさりける身」と思し知らる。主上の、夢のうちにも、かかる事の心を知らせたまはぬを、さすがに心苦しう見たてまつりたまひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたることに、思し置かるべき心地したまひける。
 宮は、ひどく苦しくて、はきはきとお話し申し上げることができない。ご心中思い続けなさるに、「高い宿縁、この世の繁栄も並ぶ人がなく、心の中に物足りなく思うことも人一倍多い身であった」と思わずにはいらっしゃれない。主上が、夢の中にも、こうした事情を御存じあそばされないのを、それでもはやりお気の毒に拝し上げなさって、この事だけを、気がかりで心の晴れないこととして、死後にも思い続けそうな気がなさるのであった。
 女院は御病苦のためにはかばかしくものもお言われになれないのである。お心の中ではすぐれた高貴の身に生まれて、人間の最上の光栄とするきさきの位にも自分は上った。不満足なことの多いようにも思ったが、考えればだれの幸福よりも大きな幸福のあった自分であるとも思召した。帝が夢にも源氏との重い関係をご存じでないことだけを女院はおいたわしくお思いになって、これがこの世に心の残ることのような気があそばされた。
  Miya, ito kurusiu te, hakabakasiu mono mo kikoye sase tamaha zu. Mi-kokoro no uti ni obosi tudukuru ni, "Takaki sukuse, yo no sakaye mo narabu hito naku, kokoro no uti ni akazu omohu koto mo hito ni masari keru mi." to obosi sira ru. Uhe no, yume no uti ni mo, kakaru koto no kokoro wo sira se tamaha nu wo, sasuga ni kokorogurusiu mi tatematuri tamahi te, kore nomi zo, usirometaku musubohore taru koto ni, obosi oka ru beki kokoti si tamahi keru.
注釈121院に別れたてまつらせたまひしほどは主語は帝。3.2.1
注釈122いといはけなくて「賢木」巻の桐壺院崩御の折、帝は五歳であった。3.2.1
注釈123今年はかならず以下「過ぎはべりぬること」まで、藤壺の詞。死を覚悟。3.2.2
注釈124三十七にぞおはしましける女の重い厄年。『完訳』は「当時は、十三・二十五・三十七歳など、生年の十二支がめぐってくる年が厄年とされた」と注す。3.2.5
注釈125慎ませたまふべき以下「せさせたまはざりけること」まで、帝の心中。『完訳』は「帝の心中。ただし会話的な丁寧語「はべり」が混じる」と注す。3.2.6
注釈126御慎みなどをも常よりことにせさせたまはざりけること『完訳』は「精進・潔斎・祈祷など。前の「功徳の事」と照応。前者が死を前提とする仏事であるのに対し、これは寿命を延ばすための仏事」と注す。藤壺は延命を願わない。3.2.6
注釈127おどろきてよろづのことせさせたまふ主語は帝。藤壺の容態や特に延命の加持祈祷などしないことに気づいて。3.2.7
注釈128高き宿世以下「人にまさりける身」まで、藤壺の心中。『完訳』は「栄華も憂愁も人にぬきんでたする点で、源氏晩年の述懐と酷似」と注す。3.2.8
注釈129飽かず思ふこと『集成』は「源氏に愛情は抱きながらも拒まねばならなかったことをいう」と注す。3.2.8
校訂15 にぞ にぞ--にて(て/#そ) 3.2.5
校訂16 ころぞ ころぞ--ころそ(そ/$そ) 3.2.7
校訂17 ことも ことも--ことん(ん/$も<朱>) 3.2.8
3.3
第三段 藤壺入道宮の崩御


3-3  Fujitsubo passed away as a candle went out

3.3.1  大臣は、朝廷方ざまにても、かくやむごとなき人の限り、うち続き亡せたまひなむことを思し嘆く。 人知れぬあはれ、はた、限りなくて、御祈りなど思し寄らぬことなし。年ごろ思し絶えたりつる筋さへ、今一度、聞こえずなりぬるが、いみじく思さるれば、近き御几帳のもとに寄りて、 御ありさまなども、さるべき人びとに問ひ聞きたまへば、親しき限りさぶらひて、こまかに聞こゆ。
 大臣は、朝廷の立場からしても、こうした高貴な方々ばかりが、引き続いてお亡くなりになることをお嘆きになる。人には知られない思慕は、それはまた、限りないほどで、ご祈祷などお気づきにならないことはない。長年思い絶っていたことさえ、もう一度申し上げられなくなってしまったのが、ひどく残念に思われなさるので、近くの御几帳の側に寄って、ご容態など、しかるべき女房たちにお尋ねになると、親しい女房だけがお付きしていて詳しく申し上げる。
 源氏は一廷臣として太政大臣に続いてまた女院のすでに危篤状態になっておいでになることはなげかわしいとしていた。人知れぬ心の中では無限の悲しみをしていて、あらゆる神仏に頼んで宮のお命をとどめようとしているのである。もう長い間禁制の言葉としておさえていた初恋以来の心を告げることが、この際になるまで果たしえないことを源氏は非常に悲しいことであると思った。源氏は伺候して女院の御寝室の境に立った几帳きちょうの前で御容体などを女房たちに聞いてみると、ごく親しくお仕えする人たちだけがそこにはいて、くわしく話してくれた。
  Otodo ha, ohoyakegatazama nite mo, kaku yamgotonaki hito no kagiri, uti-tuduki use tamahi na m koto wo obosi nageku. Hito sire nu ahare, hata, kagirinaku te, ohom-inori nado obosi yora nu koto nasi. Tosigoro obosi taye tari turu sudi sahe, ima hitotabi, kikoye zu nari nuru ga, imiziku obosa rure ba, tikaki mikityau no moto ni yori te, ohom-arisama nado mo, sarubeki hitobito ni tohi kiki tamahe ba, sitasiki kagiri saburahi te, komaka ni kikoyu.
3.3.2  「 月ごろ悩ませたまへる御心地に、御行なひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふ積もりの、いとどいたう くづほれさせたまふに、このころとなりては、柑子などをだに、触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころなくならせたまひにたること」
 「この数か月ずっとご気分がすぐれずにいらっしゃいましたのに、お勤めを少しの間も怠らずになさいました疲労も積もって、ますますひどくご衰弱あそばしたところに、最近になっては、柑子などにさえ、お口にあそばされなくなりましたので、ご回復の希望もなくなっておしまいになりましたことです」
 「もうずっと前からお悪いのを我慢あそばして仏様のお勤めを少しもお休みになりませんでしたのが、積もり積もってどっとお悪くおなりあそばしたのでございます。このごろでは柑子こうじ類すらもお口にお触れになりませんから、御衰弱が進むばかりで、御心配申し上げるような御容体におなりあそばしました」
  "Tukigoro nayama se tamahe ru mi-kokoti ni, ohom-okonahi wo toki no ma mo tayuma se tamaha zu se sase tamahu tumori no, itodo itau kuduhore sase tamahu ni, konokoro to nari te ha, kauzi nado wo dani, hure sase tamaha zu nari ni tare ba, tanomidokoro naku nara se tamahi ni taru koto."
3.3.3  と、泣き嘆く人びと多かり。
 と言って、泣き嘆き悲しんでいる女房たちが多かった。
 と歎くのであった。
  to, naki nageku hitobito ohokari.
3.3.4  「 院の御遺言にかなひて、内裏の御後見仕うまつりたまふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてかは、その心寄せことなるさまをも、漏らしきこえむとのみ、のどかに思ひはべりけるを、今なむあはれに口惜しく」
 「故院のご遺言どおりに、帝のご後見をなさること、長年存じておりますことは多かったのですが、何かの機会に、そのお礼の気持ちが並大抵でないことを、ちらっと知っていただこうとばかり、気長に待っておりましたが、今は悲しく残念に思われまして」
 「院の御遺言をお守りくだすって、陛下の御後見をしてくださいますことで、今までどれほど感謝して参ったかしれませんが、あなたにお報いする機会がいつかあることと、のんきに思っておりましたことが、今日になりましてはまことに残念でなりません」
  "Win no ohom-yuigon ni kanahi te, Uti no ohom-usiromi tukaumaturi tamahu koto, tosigoro omohisiri haberu koto ohokare do, nani ni tukete kaha, sono kokoroyose koto naru sama wo mo, morasi kikoye m to nomi, nodoka ni omohi haberi keru wo, ima nam ahare ni kutiwosiku."
3.3.5  と、ほのかにのたまはするも、ほのぼの聞こゆるに、御応へも聞こえやりたまはず、泣きたまふさま、いといみじ。「 などかうしも心弱きさまに」と、人目を思し返せど、いにしへよりの御ありさまを、おほかたの世につけても、あたらしく惜しき人の御さまを、 心にかなふわざならねば、かけとどめきこえむ方なく、いふかひなく思さるること限りなし。
 と、かすかに仰せになるのも、ほのかに聞こえるので、お返事も十分に申し上げられず、お泣きになる様子、実においたわしい。「どうしてこうも気が弱い状態で」と、人目を憚ってお気を取り直しなさるが、昔からのご様子を、世間一般から見ても、もったいなく惜しいご様子のお方を、思いどおりにならないことなので、お引き止め申すすべもなく、何とも言いようもなく悲しいこと限りない。
 お言葉を源氏へお取り次がせになる女房へ仰せられるお声がほのかに聞こえてくるのである。源氏はお言葉をいただいてもお返辞ができずに泣くばかりである。見ている女房たちにはそれもまた悲しいことであった。どうしてこんなに泣かれるのか、気の弱さを顕わに見せることではないかと人目が思われるのであるが、それにもかかわらず涙が流れる。女院のお若かった日から今日までのことを思うと、恋は別にして考えても惜しいお命が人間の力でどうなることとも思われないことで限りもなく悲しかった。
  to, honoka ni notamahasuru mo, honobono kikoyuru ni, ohom-irahe mo kikoyeyari tamaha zu, naki tamahu sama, ito imizi. "Nado kau simo kokoroyowaki sama ni." to, hitome wo obosi kahese do, inisihe yori no ohom-arisama wo, ohokata no yo ni tuke te mo, atarasiku wosiki hito no ohom-sama wo, kokoro ni kanahu waza narane ba, kake-todome kikoye m kata naku, ihukahinaku obosa ruru koto kagiri nasi.
3.3.6  「 はかばかしからぬ身ながらも、昔より、御後見仕うまつるべきことを、心のいたる限り、おろかならず思ひたまふるに、太政大臣の隠れたまひぬるをだに、世の中、心あわたたしく思ひたまへらるるに、また、かくおはしませば、よろづに心乱れはべりて、世にはべらむことも、残りなき 心地なむしはべる
 「取るに足りないわが身ですが、昔から、ご後見申し上げねばならないことは、気のつく限り、一生懸命に存じておりましたが、太政大臣がお亡くなりになったことだけでも、この世の、無常迅速が存じられてなりませんのに、さらにまた、このようにいらっしゃいますと、何から何まで心が乱れまして、生きていることも、残り少ない気が致します」
 「無力な私も陛下の御後見にできますだけの努力はしておりますが、太政大臣の薨去されましたことで大きな打撃を受けましたおりから、御重患におなりあそばしたので、頭はただ混乱いたすばかりで、私も長く生きていられない気がいたします」
  "Hakabakasikara nu mi nagara mo, mukasi yori, ohom-usiromi tukaumaturu beki koto wo, kokoro no itaru kagiri, oroka nara zu omohi tamahuru ni, Ohokiotodo no kakure tamahi nuru wo dani, yononaka, kokoro awatatasiku omohi tamahe raruru ni, mata, kaku ohasimase ba, yorodu ni kokoro midare haberi te, yo ni habera m koto mo, nokori naki kokoti nam si haberu."
3.3.7  など聞こえたまふほどに、 燈火などの消え入るやうにて果てたまひぬれば 、いふかひなく悲しきことを思し嘆く。
 などとお申し上げになっているうちに、燈火などが消えるようにしてお隠れになってしまったので、何とも言いようがなくお悲しい別れを嘆きになる。
 こんなことを源氏が言っているうちに、あかりが消えていくように女院は崩御ほうぎょあそばされた。源氏は力を落として深い悲しみに浸っていた。
  nado kikoye tamahu hodo ni, tomosibi nado no kiye iru yau nite hate tamahi nure ba, ihukahinaku kanasiki koto wo obosi nageku.
注釈130人知れぬあはれ『集成』は「藤壺への人知れぬ哀惜の思い」。『完訳』は「藤壺へのひそかな恋」と注す。3.3.1
注釈131御ありさまなども大島本は「なとも」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「など」と「も」を削除する。3.3.1
注釈132月ごろ悩ませたまへる御心地に以下「ならせたまひにたること」まで、女房たちの詞。3.3.2
注釈133くづほれさせたまふに大島本は「給に」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「たまへるに」と校訂する。3.3.2
注釈134院の御遺言にかなひて以下「口惜しく」まで、藤壺の詞。3.3.4
注釈135などかうしも心弱きさまに源氏の心中。感情を抑える自制心。3.3.5
注釈136心にかなふわざ命だに心にかなふものならば何か別れの悲しからまし(古今集離別-三八七 白女)(text19.html 出典8 から転載)3.3.5
注釈137はかばかしからぬ以下「心地しなむはべる」まで、源氏の詞。3.3.6
注釈138心地なむしはべる--など大島本は「なと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「と」と「な」を削除する。3.3.6
注釈139燈火などの消え入るやうにて果てたまひぬれば『新大系』「釈迦の入滅に喩えた表現か。「無漏。(むろ)の妙法を説きて、無量の衆生を度(すく)ひ、後、当(まさ)に涅槃に入ること、煙尽きて灯の滅ゆるが如し」(法華経・安楽行品)」と注す。3.3.7
出典8 心にかなふわざ 命だに心にかなふものならば何か別れの悲しからまし 古今集離別-三八七 白女 3.3.5
出典9 燈火などの消え入るやう 説無漏妙法 度無量衆生 後当入涅槃 如煙尽灯滅 法華経-安楽行品 3.3.7
3.4
第四段 源氏、藤壺を哀悼


3-4  Genji mourned grief at death of Fujitsubo

3.4.1  かしこき御身のほどと聞こゆるなかにも、御心ばへなどの、 世のためしにもあまねくあはれにおはしまして、豪家にことよせて、人の愁へとあること などもおのづからうち混じるを、いささかもさやうなる事の乱れなく、人の仕うまつることをも、世の苦しみとあるべきことをば、止めたまふ。
 恐れ多い身分のお方と申し上げた中でも、ご性質などが、世の中の例としても広く慈悲深くいらっしゃって、権勢を笠に着て、人々が迷惑することを自然と行ないがちなのだが、少しもそのような道理に外れた事はなく、人々が奉仕することも、世の苦しみとなるはずのことは、お止めになる。
 尊貴な方でもすぐれた御人格の宮は、民衆のためにも大きな愛を持っておいでになった。権勢があるために知らず知らず一部分の人をしいたげることもできてくるものであるが、女院にはそうしたおあやまちもなかった。女院をお喜ばせしようと当局者の考えることもそれだけ国民の負担がふえることであるとお認めになることはお受けにならなかった。
  Kasikoki ohom-mi no hodo to kikoyuru naka ni mo, mi-kokorobahe nado no, yo no tamesi ni mo amaneku ahare ni ohasimasi te, gauke ni kotoyose te, hito no urehe to aru koto nado mo onodukara uti-maziru wo, isasaka mo sayau naru koto no midare naku, hito no tukaumaturu koto wo mo, yo no kurusimi to aru beki koto wo ba, todome tamahu.
3.4.2  功徳の方とても、勧むるによりたまひて、いかめしうめづらしうしたまふ 人なども 、昔の さかしき世に皆ありけるを、これは、さやうなることなく、ただもとよりの宝物、得たまふべき 年官、年爵、御封の物のさるべき限りして、まことに心深きことどもの限りをし置かせたまへれば、何とわくまじき山伏などまで惜しみきこゆ。
 功徳の方面でも、人の勧めに従いなさって、荘厳に珍しいくらい立派になさる人なども、昔の聖代には皆あったのだが、この后宮は、そのようなこともなく、ただもとからの財産、頂戴なさるはずの年官、年爵、御封のしかるべき収入だけで、ほんとうに真心のこもった供養の最善をしておかれになったので、物のわけも分からない山伏などまでが惜しみ申し上げる。
 宗教のほうのことも僧の言葉をお聞きになるだけで、派手はでな人目を驚かすような仏事、法要などの行なわれた話は、昔の模範的な聖代にもあることであったが、女院はそれを避けておいでになった。御両親の御遺産、官から年々定まって支給せられる物の中から、実質的な慈善と僧家への寄付をあそばされた。
  Kudoku no kata tote mo, susumuru ni yori tamahi te, ikamesiu medurasiu si tamahu hito nado mo, mukasi no sakasiki yo ni mina ari keru wo, kore ha, sayau naru koto naku, tada motoyori no takaramono, e tamahu beki tukasa, kauburi, mihu no mono no sarubeki kagiri si te, makoto ni kokoro hukaki koto-domo no kagiri wo si oka se tamahe re ba, nani to waku maziki yamabusi nado made wosimi kikoyu.
3.4.3  をさめたてまつるにも、世の中響きて、悲しと思はぬ人なし。殿上人など、なべてひとつ色に黒みわたりて、ものの栄なき春の暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴の折など思し出づ。「 今年ばかりは」と、一人ごちたまひて、人の見とがめつべければ、御念誦堂に籠もりゐたまひて、日一日泣き暮らしたまふ。夕日はなやかにさして、山際の梢あらはなるに、雲の薄くわたれるが、鈍色なるを、何ごとも御目とどまらぬころなれど、いとものあはれに思さる。
 ご葬送の時にも、世を挙げての騷ぎで、悲しいと思わない人はいない。殿上人など、すべて黒一色の喪服で、何の華やかさもない晩春である。二条院のお庭先の桜を御覧になるにつけても、花の宴の時などをお思い出しになる。「今年ぐらいは」と独り口ずさみなさって、他人が変に思うに違いないので、御念誦堂にお籠もりなさって、一日中泣き暮らしなさる。夕日が明るく射して、山際の梢がくっきりと見えるところに、雲が薄くたなびいているのが、鈍色なのを、何ごともお目に止まらないころなのだが、たいそう悲しく思わずにはいらっしゃれない。
 であったから僧の片端にすぎないほどの者までも御恩恵に浴していたことを思って崩御を悲しんだ。世の中の人は皆女院をお惜しみして泣いた。殿上の人も皆真黒まっくろな喪服姿になって寂しい春であった。源氏は二条の院の庭の桜を見ても、故院の花の宴の日のことが思われ、当時の中宮ちゅうぐうが思われた。「今年ばかりは」(墨染めに咲け)と口ずさまれるのであった。人が不審を起こすであろうことをはばかって、念誦ねんず堂に引きこもって終日源氏は泣いていた。はなやかに春の夕日がさして、はるかな山のいただきの立ち木の姿もあざやかに見える下を、薄く流れて行く雲がにび色であった。何一つも源氏の心をくものもないころであったが、これだけは身にんでながめられた。
  Wosame tatematuru ni mo, yononaka hibiki te, kanasi to omoha nu hito nasi. Tenzyaubito nado, nabete hitotuiro ni kuromi watari te, mono no haye naki haru no kure nari. Nideunowin no omahe no sakura wo goranzi te mo, hananoen no wori nado obosi idu. "Kotosi bakari ha." to, hitorigoti tamahi te, hito no mi togame tu bekere ba, ohom-nenzudau ni komori wi tamahi te, hihitohi naki kurasi tamahu. Yuhuhi hanayaka ni sasi te, yamagiha no kozuwe araha naru ni, kumo no usuku watare ru ga, nibiiro naru wo, nanigoto mo ohom-me todomara nu koro nare do, ito mono ahare ni obosa ru.
3.4.4  「 入り日さす峰にたなびく薄雲は
   もの思ふ袖に色やまがへる
 「入日が射している峰の上にたなびいている薄雲は
  悲しんでいるわたしの喪服の袖の色に似せたのだろうか
  入り日さす峯にたなびく薄雲は
  物思ふそでに色やまがへる
    "Irihi sasu mine ni tanabiku usugumo ha
    mono omohu sode ni iro ya magahe ru
3.4.5   人聞かぬ所なれば、かひなし
 誰も聞いていない所なので、かいがない。
 これはだれも知らぬ源氏の歌である。
  Hito kika nu tokoro nare ba, kahinasi.
注釈140世のためしにも大島本は「ためし」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ため」と「し」を削除する。3.4.1
注釈141人なども大島本は「なとん(ん$も<朱>)」とある。すなわち本行本文の「ん」を朱筆でミセケチにして傍らに「も」と訂正する。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「など」と校訂する。3.4.2
注釈142年官年爵御封の物のさるべき限りして『完訳』は「当然お受けになってしかるべき年官や年爵、また御封などの給与の中から差し支えない範囲で」と訳す。3.4.2
注釈143今年ばかりは源氏の口ずさみ。「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」(古今集哀傷、八三二、上野岑雄)を踏まえる。3.4.3
注釈144入り日さす峰にたなびく薄雲は--もの思ふ袖に色やまがへる源氏の独詠歌。東三条院詮子崩御の折の自作歌「雲の上も物思ふ春は墨染に霞む空さへあはれなるかな」(紫式部集)を踏まえる。3.4.4
注釈145人聞かぬ所なればかひなし語り手の言辞。『集成』は「誰も聞いている人のいない念誦堂でのこととて、この源氏の悲しみのお歌を知って唱和する人もなく、かいのないことだ。草子地」と注す。3.4.5
出典10 今年ばかりは 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 古今集哀傷-八三二 上野岑雄 3.4.3
校訂18 なども なども--なとん(ん/$も<朱>) 3.4.1
校訂19 なども なども--なとん(ん/$も<朱>) 3.4.2
校訂20 さかしき さかしき--さ(さ/+か)しき 3.4.2
Last updated 10/27/2009(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 10/27/2009(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 7/15/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2003年7月14日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2008年3月22日

Last updated 10/27/2009 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
このページは再編集プログラムによって2024/9/21に出力されました。
源氏物語の世界 再編集プログラム Ver 4.00: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経