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第二十一帖 乙女
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21 WOTOME (Ohoshima-bon)
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光る源氏の太政大臣時代 三十三歳の夏四月から三十五歳冬十月までの物語
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Tale of Hikaru-Genji's Daijo-Daijin era, from April in summer at the age of 33 to October in winter at the age of 35
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5 |
第五章 夕霧の物語 幼恋の物語
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5 Tale of Yugiri Childish love in Yugiri and Kumoi-no-kari
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5.1 |
第一段 夕霧と雲居雁の恋の煩悶
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5-1 Yugiri and Kumoi-no-kari are worry their love
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5.1.1 |
「 いとど文なども通はむことのかたきなめり」と思ふに、 いと嘆かしう、 物参りなどしたまへど、さらに参らで、寝たまひぬるやうなれど、心も空にて、人静まるほどに、中障子を引けど、例はことに鎖し固めなどもせぬを、つと鎖して、 人の音もせず。いと心細くおぼえて、障子に寄りかかりてゐたまへるに、 女君も目を覚まして、 風の音の竹に待ちとられて、うちそよめくに、雁の鳴きわたる声の、ほのかに聞こゆるに ★、 幼き心地にも、とかく思し乱るるにや、
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「今後いっそうお手紙などを交わすことは難しいだろう」と考えると、とても嘆かわしく、食事を差し上げても、少しも召し上がらず、お寝みになってしまったふうにしているが、心も落ち着かず、人が寝静まったころに、中障子を引いてみたが、いつもは特に錠など下ろしていないのに、固く錠さして、女房の声も聞こえない。実に心細く思われて、障子に寄りかかっていらっしゃると、女君も目を覚まして、風の音が竹に待ち迎えられて、さらさらと音を立てると、雁が鳴きながら飛んで行く声が、かすかに聞こえるので、子供心にも、あれこれとお思い乱れるのであろうか、
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これからは手紙の往復もいっそう困難になることであろうと思うと、若君の心は暗くなっていった。晩餐が出てもあまり食べずに早く寝てしまったふうは見せながらも、どうかして恋人に逢おうと思うことで夢中になっていた若君は、皆が寝入ったころを見計らって姫君の居間との間の襖子をあけようとしたが、平生は別に錠などを掛けることもなかった仕切りが、今夜はしかと鎖されてあって、向こう側に人の音も聞こえない。若君は心細くなって、襖子によりかかっていると、姫君も目をさましていて、風の音が庭先の竹にとまってそよそよと鳴ったり、空を雁の通って行く声のほのかに聞こえたりすると、無邪気な人も身にしむ思いが胸にあるのか、
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"Itodo humi nado mo kayoha m koto no kataki na' meri." to omohu ni, ito nagekasiu, mono mawiri nado si tamahe do, sarani mawira de, ne tamahi nuru yau nare do, kokoro mo sora nite, hito sidumaru hodo ni, nakasauzi wo hike do, rei ha koto ni sasi katame nado mo se nu wo, tuto sasi te, hito no oto mo se zu. Ito kokorobosoku oboye te, sauzi ni yorikakari te wi tamahe ru ni, Womnagimi mo me wo samasi te, kaze no oto no take ni matitora re te, uti-soyomeku ni, kari no naki wataru kowe no, honoka ni kikoyuru ni, wosanaki kokoti ni mo, tokaku obosi midaruru ni ya,
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5.1.2 |
「 ▼ 雲居の雁もわがごとや」
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「雲居の雁もわたしのようなのかしら」
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「雲井の雁もわがごとや」(霧深き雲井の雁もわがごとや晴れもせず物の悲しかるらん)
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"Kumowi no kari mo waga goto ya?"
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5.1.3 |
と、 独りごちたまふけはひ、若うらうたげなり。
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と、独り言をおっしゃる様子、若々しくかわいらしい。
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と口ずさんでいた。その様子が少女らしくきわめて可憐であった。
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to, hitorigoti tamahu kehahi, wakau rautage nari.
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5.1.4 |
いみじう心もとなければ、
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とてももどかしくてならないので、
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若君の不安さはつのって、
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Imiziu kokoromotonakere ba,
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5.1.5 |
「 これ、開けさせたまへ。小侍従やさぶらふ」
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「ここを、お開け下さい。小侍従はおりますか」
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「ここをあけてください、小侍従はいませんか」
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"Kore, ake sase tamahe! Kozizyuu ya saburahu?"
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5.1.6 |
とのたまへど、音もせず。 御乳母子なりけり。独り言を聞きたまひけるも恥づかしうて、あいなく御顔も引き入れたまへど、 あはれは知らぬにしもあらぬぞ憎きや。乳母たちなど近く臥して、 うちみじろくも苦しければ、 かたみに音もせず。
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とおっしゃるが、返事がない。乳母子だったのである。独り言をお聞きになったのも恥ずかしくて、わけなく顔を衾の中にお入れなさったが、恋心は知らないでもないとは憎いことよ。乳母たちが近くに臥せっていて、起きていることに気づかれるのもつらいので、お互いに音を立てない。
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と言った。あちらには何とも答える者がない。小侍徒は姫君の乳母の娘である。独言を聞かれたのも恥ずかしくて、姫君は夜着を顔に被ってしまったのであったが、心では恋人を憐んでいた、大人のように。乳母などが近い所に寝ていてみじろぎも容易にできないのである。それきり二人とも黙っていた。
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to notamahe do, oto mo se zu. Ohom-menotogo nari keri. Hitorigoto wo kiki tamahi keru mo hadukasiu te, ainaku ohom-kaho mo hikiire tamahe do, ahare ha sira nu ni simo ara nu zo nikuki ya! Menoto-tati nado tikaku husi te, uti-miziroku mo kurusikere ba, katamini oto mo se zu.
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5.1.7 |
「 さ夜中に友呼びわたる雁が音に うたて吹き添ふ荻の上風」 |
「真夜中に友を呼びながら飛んでいく雁の声に さらに悲しく吹き加わる荻の上を吹く風よ」 |
さ夜中に友よびわたる雁がねに うたて吹きそふ荻のうは風
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"Sayonaka ni tomo yobi wataru karigane ni utate huki sohu ogi no uhakaze |
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5.1.8 |
「 ▼ 身にしみけるかな」と 思ひ続けて、宮の御前に帰りて嘆きがちなるも、「 御目覚めてや聞かせたまふらむ」とつつましく、みじろき臥したまへり。
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「身にしみて感じられることだ」と思い続けて、大宮の御前に帰って嘆きがちでいらっしゃるのも、「お目覚めになってお聞きになろうか」と憚られて、もじもじしながら臥せった。
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身にしむものであると若君は思いながら宮のお居間のほうへ帰ったが、歎息してつく吐息を宮がお目ざめになってお聞きにならぬかと遠慮されて、みじろぎながら寝ていた。
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"Mi ni simi keru kana!" to omohi tuduke te, Miya no omahe ni kaheri te nageki-gati naru mo, "Ohom-me same te ya kika se tamahu ram?" to tutumasiku, miziroki husi tamahe ri.
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5.1.9 |
あいなくもの恥づかしうて、 わが御方にとく出でて、御文書きたまへれど、小侍従もえ逢ひたまはず、 かの御方ざまにもえ行かず、胸つぶれておぼえたまふ。
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むやみに何となく恥ずかしい気がして、ご自分のお部屋に早く出て、お手紙をお書きになったが、小侍従にも会うことがおできになれず、あの姫君の方にも行くことがおできになれず、たまらない思いでいらっしゃる。
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若君はわけもなく恥ずかしくて、早く起きて自身の居間のほうへ行き、手紙を書いたが、二人の味方である小侍従にも逢うことができず、姫君の座敷のほうへ行くこともようせずに煩悶をしていた。
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Ainaku mono-hadukasiu te, waga ohom-kata ni toku ide te, ohom-humi kaki tamahe re do, Kozizyuu mo e ahi tamaha zu, kano ohom-kata zama ni mo e yuka zu, mune tubure te oboye tamahu.
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5.1.10 |
女はた、 騒がれたまひしことのみ恥づかしうて、「 わが身やいかがあらむ、人やいかが思はむ」とも深く思し入れず、をかしうらうたげにて、 うち語らふさまなどを、疎ましとも思ひ離れたまはざりけり。
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女は女でまた、騒がれなさったことばかり恥ずかしくて、「自分の身はどうなるのだろう、世間の人はどのように思うだろう」とも深くお考えにならず、美しくかわいらしくて、ちょっと噂していることにも、嫌な話だとお突き放しになることもないのであった。
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女のほうも父親にしかられたり、皆から問題にされたりしたことだけが恥ずかしくて、自分がどうなるとも、あの人がどうなっていくとも深くは考えていない。美しく二人が寄り添って、愛の話をすることが悪いこと、醜いこととは思えなかった。そうした場合がなつかしかった。
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Womna hata, sawaga re tamahi si koto nomi hadukasiu te, "Wagami ya ikaga ara m? Hito ya ikaga omoha m?" tomo hukaku obosi ire zu, wokasiu rautage nite, uti-katarahu sama nado wo, utomasi tomo omohi hanare tamaha zari keri.
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5.1.11 |
また、かう騒がるべき こととも思さざりけるを、御後見どもも いみじうあはめきこゆれば、え言も通はしたまはず。 おとなびたる人や、さるべき隙をも作り出づらむ、 男君も、今すこしものはかなき年のほどにて、ただいと口惜しとのみ思ふ。
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また、このように騒がれねばならないことともお思いでなかったのを、御後見人たちがひどく注意するので、文通をすることもおできになれない。大人であったら、しかるべき機会を作るであろうが、男君も、まだ少々頼りない年頃なので、ただたいそう残念だとばかり思っている。
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こんなに皆に騒がれることが至当なこととは思われないのであるが、乳母などからひどい小言を言われたあとでは、手紙を書いて送ることもできなかった。大人はそんな中でも隙をとらえることが不可能でなかろうが、相手の若君も少年であって、ただ残念に思っているだけであった。
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Mata, kau sawaga ru beki koto tomo obosa zari keru wo, ohom-usiromi-domo mo imiziu ahame kikoyure ba, e koto mo kayohasi tamaha zu. Otonabi taru hito ya, sarubeki hima wo mo tukuri idu ram, Wotokogimi mo, ima sukosi mono-hakanaki tosi no hodo nite, tada ito kutiwosi to nomi omohu.
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出典8 |
風の音の竹に |
風生竹夜窓間臥 月照平沙夏夜霜 |
和漢朗詠-一五一 白居易 |
5.1.1 |
出典9 |
雲居の雁もわがごとや |
霧深く雲居の雁も我がことや晴れせずものは悲しかるらむ |
源氏釈所引、出典未詳 |
5.1.2 |
出典10 |
身にしみけるかな |
吹きよれば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな |
古今六帖一-四二三 |
5.1.8 |
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5.2 |
第二段 内大臣、弘徽殿女御を退出させる
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5-2 Naidaijin forces Kokiden-nyogo to comeback his home
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5.2.1 |
大臣は、そのままに参りたまはず、宮をいとつらしと思ひきこえたまふ。北の方には、かかることなむと、けしきも見せたてまつりたまはず、ただおほかた、いとむつかしき御けしきにて、
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内大臣は、あれ以来参上なさらず、大宮をひどいとお思い申していらっしゃる。北の方には、このようなことがあったとは、そぶりにもお見せ申されず、ただ何かにつけて、とても不機嫌なご様子で、
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内大臣はそれきりお訪ねはしないのであるが宮を非常に恨めしく思っていた。夫人には雲井の雁の姫君の今度の事件についての話をしなかったが、ただ気むずかしく不機嫌になっていた。
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Otodo ha, sono mama ni mawiri tamaha zu, Miya wo ito turasi to omohi kikoye tamahu. Kitanokata ni ha, kakaru koto nam to, kesiki mo mise tatematuri tamaha zu, tada ohokata, ito mutukasiki mi-kesiki nite,
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5.2.2 |
「 中宮のよそほひことにて参りたまへるに、 女御の世の中思ひしめりてものしたまふを、心苦しう胸いたきに、まかでさせたてまつりて、心やすくうち休ませたてまつらむ。さすがに、 主上につとさぶらはせたまひて、夜昼おはしますめれば、 ある人びとも 心ゆるびせず ★、苦しうのみわぶめるに」
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「中宮が格別に威儀を整えて参内なさったのに対して、わが女御が将来を悲嘆していらっしゃるのが、気の毒に胸が痛いので、里に退出おさせ申して、気楽に休ませて上げましょう。立后しなかったとはいえ、主上のお側にずっと伺候なさって、昼夜おいでのようですから、仕えている女房たちも気楽になれず、苦しがってばかりいるようですから」
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「中宮がはなやかな儀式で立后後の宮中入りをなすったこの際に、女御が同じ御所でめいった気持ちで暮らしているかと思うと私はたまらないから、退出させて気楽に家で遊ばせてやりたい。さすがに陛下はおそばをお離しにならないようにお扱いになって、夜昼上の御局へ上がっているのだから、女房たちなども緊張してばかりいなければならないのが苦しそうだから」
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"Tyuuguu no yosohohi koto nite mawiri tamahe ru ni, Nyougo no yononaka omohi simeri te monosi tamahu wo, kokorogurusiu mune itaki ni, makade sase tatematuri te, kokoroyasuku uti yasuma se tatematura m. Sasuga ni, Uhe ni tuto-saburaha se tamahi te, yoru hiru ohasimasu mere ba, aru hito-bito mo kokoro yurubi se zu, kurusiu nomi wabu meru ni."
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5.2.3 |
とのたまひて、にはかにまかでさせたてまつりたまふ。御暇も許されがたきを、 うちむつかりたまて、主上はしぶしぶに思し召したるを、しひて御迎へしたまふ。
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とおっしゃって、急に里にご退出させ申し上げなさる。お許しは難しかったが、無理をおっしゃって、主上はしぶしぶでおありであったのを、むりやりお迎えなさる。
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こう夫人に語っている大臣はにわかに女御退出のお暇を帝へ願い出た。御寵愛の深い人であったから、お暇を許しがたく帝は思召したのであるが、いろいろなことを言い出して大臣が意志を貫徹しようとするので、帝はしぶしぶ許しあそばされた。自邸に帰った女御に大臣は、
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to notamahi te, nihaka ni makade sase tatematuri tamahu. Ohom-itoma mo yurusa re gataki wo, uti-mutukari tama' te, Uhe ha, sibusibu ni obosimesi taru wo, sihite ohom-mukahe si tamahu.
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5.2.4 |
「 つれづれに思されむを、 姫君渡して、もろともに遊びなどしたまへ。宮に預けたてまつりたる、うしろやすけれど、 いとさくじりおよすけたる人立ちまじりて、おのづから気近きも、あいなきほどになりにたればなむ」
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「所在なくていらっしゃるでしょうから、姫君を迎えて、一緒に遊びなどなさい。大宮にお預け申しているのは、安心なのですが、たいそう小賢しくませた人が一緒なので、自然と親しくなるのも、困った年頃になったので」
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「退屈でしょうから、あちらの姫君を呼んでいっしょに遊ぶことなどなさい。宮にお預けしておくことは安心なようではあるが、年の寄った女房があちらには多すぎるから、同化されて若い人の慎み深さがなくなってはと、もうそんなことも考えなければならない年ごろになっていますから」
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"Turedure ni obosa re m wo, Himegimi watasi te, morotomoni asobi nado si tamahe. Miya ni aduke tatematuri taru, usiroyasukere do, ito sakuziri oyosuke taru hito tati-maziri te, onodukara kedikaki mo, ainaki hodo ni nari ni tare ba nam."
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5.2.5 |
と聞こえたまひて、にはかに渡しきこえたまふ。
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とお申し上げなさって、急にお引き取りになさる。
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こんなことを言って、にわかに雲井の雁を迎えることにした。
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to kikoye tamahi te, nihakani watasi kikoye tamahu.
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5.2.6 |
宮、いとあへなしと思して、
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大宮は、とても気落ちなさって、
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大宮は力をお落としになって、
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Miya, ito ahenasi to obosi te,
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5.2.7 |
「 ひとりものせられし女亡くなりたまひてのち、いとさうざうしく心細かりしに、うれしうこの君を得て、生ける限りのかしづきものと思ひて、明け暮れにつけて、老いのむつかしさも慰めむとこそ思ひつれ、思ひのほかに隔てありて思しなすも、 つらく」
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「一人いらした女の子がお亡くなりになって以来、とても寂しく心細かったのが、うれしいことにこの姫君を得て、生きている間中お世話できる相手と思って、朝な夕なに、老後の憂さつらさの慰めにしようと思っていましたが、心外にも心隔てを置いてお思いになるのも、つらく思われます」
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「たった一人あった女の子が亡くなってから私は心細い気がして寂しがっていた所へ、あなたが姫君をつれて来てくれたので、私は一生ながめて楽しむことのできる宝のように思って世話をしていたのに、この年になってあなたに信用されなくなったかと思うと恨めしい気がします」
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"Hitori monose rare si musume nakunari tamahi te noti, ito sauzausiku kokorobosokari si ni, uresiu kono Kimi wo e te, ike ru kagiri no kasiduki mono to omohi te, akekure, ni tuke te, oyi no mutukasisa mo nagusame m to koso omohi ture, omohi no hoka ni hedate ari te obosi nasu mo, turaku."
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5.2.8 |
など聞こえたまへば、うちかしこまりて、
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などとお申し上げなさると、恐縮して、
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とお言いになると、大臣はかしこまって言った。
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nado kikoye tamahe ba, uti-kasikomari te,
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5.2.9 |
「 心に飽かず思うたまへらるることは、しかなむ思うたまへらるるとばかり聞こえさせしになむ。深く隔て思ひたまふることは、 いかでかはべらむ。
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「心中に不満に存じられますことは、そのように存じられますと申し上げただけでございます。深く隔意もってお思い申し上げることはどうしていたしましょう。
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「遺憾な気のしましたことは、その場でありのままに申し上げただけのことでございます。あなた様を御信用申さないようなことが、どうしてあるものでございますか。
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"Kokoro ni aka zu omou tamahe raruru koto ha, sika nam omou tamahe raruru to bakari kikoye sase si ni nam. Hukaku hedate omohi tamahuru koto ha, ikadeka habera m.
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5.2.10 |
内裏にさぶらふが、 世の中恨めしげにて、このころまかでてはべるに、いとつれづれに思ひて屈しはべれば、心苦しう見たまふるを、もろともに遊びわざをもして慰めよと思うたまへてなむ、あからさまにものしはべる」とて、「育み、人となさせたまへるを、おろかにはよも思ひきこえさせじ」
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宮中に仕えております姫君が、ご寵愛が恨めしい様子で、最近退出おりますが、とても所在なく沈んでおりますので、気の毒に存じますので、一緒に遊びなどをして慰めようと存じまして、ほんの一時引き取るのでございます」と言って、「お育てくださり、一人前にしてくださったのを、けっしていいかげんにはお思い申しておりません」
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御所におります娘が、いろいろと朗らかでないふうでこの節邸へ帰っておりますから、退屈そうなのが哀れでございまして、いっしょに遊んで暮らせばよいと思いまして、一時的につれてまいるのでございます」 また、 「今日までの御養育の御恩は決して忘れさせません」
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Uti ni saburahu ga, yononaka uramesige nite, konokoro makade te haberu ni, ito turedure ni omohi te ku'si habere ba, kokorogurusiu mi tamahuru wo, morotomoni asobiwaza wo mo si te nagusame yo to omou tamahe te nam, akarasama ni monosi haberu." tote, "Hagukumi, hito to nasa se tamahe ru wo, oroka ni ha yo mo omohi kikoye sase zi."
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5.2.11 |
と申したまへば、 かう思し立ちにたれば、止めきこえさせたまふとも、思し返すべき御心ならぬに、いと飽かず口惜しう思されて、
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と申し上げなさると、このようにお思いたちになった以上は、引き止めようとなさっても、お考え直されるご性質ではないので、大変に残念にお思いになって、
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とも言った。こう決めたことはとどめても思い返す性質でないことを御承知の宮はただ残念に思召すばかりであった。
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to mausi tamahe ba, kau obosi tati ni tare ba, todome kikoye sase tamahu tomo, obosi kahesu beki mi-kokoro nara nu ni, ito aka zu kutiwosiu obosa re te,
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5.2.12 |
「 人の心こそ憂きものはあれ。とかく 幼き心どもにも、われに隔てて疎ましかりける ことよ。 また、さもこそあらめ、大臣の、ものの心を深う知りたまひながら、われを怨じて、かく率て渡したまふこと。 かしこにて、これよりうしろやすきこともあらじ」
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「人の心とは嫌なものです。あれこれにつけ幼い子どもたちも、わたしに隠し事をして嫌なことですよ。また一方で、子どもとはそのようなものでしょうが、内大臣が、思慮分別がおありになりながら、わたしを恨んで、このように連れて行っておしまいになるとは。あちらでは、ここよりも安心なことはあるまいに」
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「人というものは、どんなに愛するものでもこちらをそれほどには思ってはくれないものだね。若い二人がそうではないか、私に隠して大事件を起こしてしまったではないか。それはそれでも大臣はりっぱなでき上がった人でいながら私を恨んで、こんなふうにして姫君をつれて行ってしまう。あちらへ行ってここにいる以上の平和な日があるものとは思われないよ」
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"Hito no kokoro koso uki mono ha are! Tokaku wosanaki kokoro-domo ni mo, ware ni hedate te utomasikari keru koto yo! Mata, samo koso ara me, Otodo no, mono no kokoro wo hukau siri tamahi nagara, ware wo wenzi te, kaku wi te watasi tamahu koto. Kasiko nite, kore yori usiroyasuki koto mo ara zi."
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5.2.13 |
と、うち泣きつつのたまふ。
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と、泣きながらおっしゃる。
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お泣きになりながら、こう女房たちに宮は言っておいでになった。
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to, uti-naki tutu notamahu.
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5.3 |
第三段 夕霧、大宮邸に参上
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5-3 Yugiri comes to his grandmother's residence
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5.3.1 |
折しも冠者の君参りたまへり。「もしいささかの隙もや」と、このころはしげうほのめきたまふなりけり。内大臣の御車のあれば、心の鬼にはしたなくて、やをら隠れて、 わが御方に入りゐたまへり。
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ちょうど折しも冠者の君が参上なさった。「もしやちょっとした隙でもありやしないか」と、最近は頻繁にお顔を出しになられるのであった。内大臣のお車があるので、気がとがめて具合悪いので、こっそり隠れて、ご自分のお部屋にお入りになった。
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ちょうどそこへ若君が来た。少しの隙でもないかとこのごろはよく出て来るのである。内大臣の車が止まっているのを見て、心の鬼にきまり悪さを感じた若君は、そっとはいって来て自身の居間へ隠れた。
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Worisimo Kwanza-no-Kimi mawiri tamahe ri. "Mosi isasaka no hima mo ya?" to, konokoro ha sigeu honomeki tamahu nari keri. Utinootodo no mi-kuruma no are ba, kokoronooni ni hasitanaku te, yawora kakure te, waga ohom-kata ni iri wi tamahe ri.
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5.3.2 |
内大殿の君達、 左少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などいふも、皆ここには参り集ひたれど、御簾の内は許したまはず。
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内大臣の若公達の、左近少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などと言った人々も、皆ここには参集なさったが、御簾の内に入ることはお許しにならない。
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内大臣の息子たちである左少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などという人らもこのお邸へ来るが、御簾の中へはいることは許されていないのである。
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Utinoohotono no kimdati, Saseusyau, Seunagon, Hyauwenosuke, Zizyuu, Taihu nado ihu mo, mina koko ni ha mawiri tudohi tare do, misu no uti ha yurusi tamaha zu.
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5.3.3 |
左兵衛督、権中納言なども、異御腹なれど、故殿の御もてなしのままに、今も参り仕うまつりたまふことねむごろなれば、その御子どももさまざま参りたまへど、この君に似るにほひなく見ゆ。
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左兵衛督、権中納言なども、異腹の兄弟であるが、故大殿のご待遇によって、今でも参上して御用を承ることが親密なので、その子どもたちもそれぞれ参上なさるが、この冠者の君に似た美しい人はいないように見える。
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左衛門督、権中納言などという内大臣の兄弟はほかの母君から生まれた人であったが、故人の太政大臣が宮へ親子の礼を取らせていた関係から、今も敬意を表しに来て、その子供たちも出入りするのであるが、だれも源氏の若君ほど美しい顔をしたのはなかった。
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Sahyauwenokami, Gon-Tyuunagon nado mo, koto ohom-hara nare do, ko-Tono no ohom-motenasi no mama ni, ima mo mawiri tukaumaturi tamahu koto nemgoro nare ba, sono ohom-kodomo mo samazama mawiri tamahe do, kono Kimi ni niru nihohi naku miyu.
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5.3.4 |
大宮の御心ざしも、なずらひなく思したるを、ただこの姫君をぞ、気近うらうたきものと思しかしづきて、御かたはらさけず、うつくしきものに思したりつるを、かくて渡りたまひなむが、いとさうざうしきことを思す。
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大宮のご愛情も、この上なくお思いであったが、ただこの姫君を、身近にかわいい者とお思いになってお世話なさって、いつもお側にお置きになって、かわいがっていらっしゃったのに、このようにしてお引き移りになるのが、とても寂しいこととお思いになる。
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宮のお愛しになることも比類のない御孫であったが、そのほかには雲井の雁だけがお手もとで育てられてきて深い御愛情の注がれている御孫であったのに、突然こうして去ってしまうことになって、お寂しくなることを宮は歎いておいでになった。
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Ohomiya no mi-kokorozasi mo, nazurahi naku obosi taru wo, tada kono Himegimi wo zo, kedikau rautaki mono to obosi kasiduki te, ohom-katahara sake zu, utukusiki mono ni obosi tari turu wo, kakute watari tamahi na m ga, ito sauzausiki koto wo obosu.
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5.3.5 |
殿は、
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内大臣殿は、
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大臣は、
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Tono ha,
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5.3.6 |
「 今のほどに、内裏に参りはべりて、夕つ方迎へに参りはべらむ」
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「今の間に、内裏に参上しまして、夕方に迎えに参りましょう」
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「ちょっと御所へ参りまして、夕方に迎えに来ようと思います」
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"Ima no hodo ni, Uti ni mawiri haberi te, yuhutukata mukahe ni mawiri habera m."
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5.3.7 |
とて、出でたまひぬ。
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と言って、お出になった。
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と言って出て行った。
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tote, ide tamahi nu.
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5.3.8 |
「 いふかひなきことを、なだらかに言ひなして、 さてもやあらまし」と思せど、なほ、いと心やましければ、「 人の御ほどのすこしものものしくなりなむに、かたはならず見なして、そのほど、心ざしの深さ浅さのおもむきをも見定めて、許すとも、 ことさらなるやうにもてなしてこそあらめ。制し諌むとも、一所にては、幼き心のままに、見苦しうこそあらめ。宮も、よもあながちに 制したまふことあらじ」
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「今さら言っても始まらないことだが、穏便に言いなして、二人の仲を許してやろうか」とお思いになるが、やはりとても面白くないので、「ご身分がもう少し一人前になったら、不満足な地位でないと見做して、その時に、愛情が深いか浅いかの状態も見極めて、許すにしても、改まった結婚という形式を踏んで婿として迎えよう。厳しく言っても、一緒にいては、子どものことだから、見苦しいことをしよう。大宮も、まさかむやみにお諌めになることはあるまい」
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事実に潤色を加えて結婚をさせてもよいとは大臣の心にも思われたのであるが、やはり残念な気持ちが勝って、ともかくも相当な官歴ができたころ、娘への愛の深さ浅さをも見て、許すにしても形式を整えた結婚をさせたい、厳重に監督しても、そこが男の家でもある所に置いては、若いどうしは放縦なことをするに違いない。宮もしいて制しようとはあそばさないであろうから
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"Ihukahinaki koto wo, nadaraka ni ihinasi te, satemo ya ara masi." to obose do, naho, ito kokoroyamasikere ba, "Hito no ohom-hodo no sukosi monomonosiku nari na m ni, kataha nara zu minasi te, sono hodo, kokorozasi no hukasa asasa no omomuki wo mo misadame te, yurusu tomo, kotosara naru yau ni motenasi te koso ara me. Seisi isamu tomo, hitotokoro nite ha, wosanaki kokoro no mama ni, migurusiu koso ara me. Miya mo, yo mo anagati ni seisi tamahu koto ara zi."
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5.3.9 |
と思せば、女御の御つれづれにことつけて、 ここにもかしこにも ★おいらかに言ひなして、渡したまふなりけり。
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とお思いになると、弘徽殿女御が寂しがっているのにかこつけて、こちらにもあちらにも穏やかに話して、お連れになるのであった。
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とこう思って、女御のつれづれに託して、自家のほうへも官邸へも軽いふうを装って伴い去ろうと大臣はするのである。
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to obose ba, Nyougo no ohom-turedure ni kototuke te, koko ni mo kasiko ni mo oyiraka ni ihinasi te, watasi tamahu nari keri.
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5.4 |
第四段 夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬
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5-4 Yugiri meets with Kumoi-no-kari in a short time
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5.4.1 |
宮の御文にて、
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大宮のお手紙で、
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宮は雲井の雁へ手紙をお書きになった。
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Miya no ohom-humi nite,
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5.4.2 |
「 大臣こそ、恨みもしたまはめ、君は、さりとも心ざしのほども知りたまふらむ。 渡りて見えたまへ」
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「内大臣は、お恨みでしょうが、あなたは、こうはなってもわたしの気持ちはわかっていただけるでしょう。いらっしゃってお顔をお見せください」
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大臣は私を恨んでいるかしりませんが、あなたは、私がどんなにあなたを愛しているかを知っているでしょう。こちらへ逢いに来てください。
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"Otodo koso, urami mo si tamaha me, Kimi ha, saritomo kokorozasi no hodo mo siri tamahu ram. Watari te miye tamahe."
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5.4.3 |
と聞こえたまへれば、いとをかしげにひきつくろひて渡りたまへり。十四になむおはしける。かたなりに見えたまへど、いと子めかしう、しめやかに、うつくしきさましたまへり。
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と差し上げなさると、とても美しく装束を整えていらっしゃった。十四歳でいらっしゃった。まだ十分に大人にはお見えでないが、とてもおっとりとしていらして、しとやかで、美しい姿態をしていらっしゃった。
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宮のお言葉に従って、きれいに着かざった姫君が出て来た。年は十四なのである。まだ大人にはなりきってはいないが、子供らしくおとなしい美しさのある人である。
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to kikoye tamahe re ba, ito wokasige ni hiki-tukurohi te watari tamahe ri. Zihusi ni nam ohasi keru. Katanari ni miye tamahe do, ito komekasiu, simeyaka ni, utukusiki sama si tamahe ri.
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5.4.4 |
「 かたはらさけたてまつらず、明け暮れのもてあそびものに思ひきこえつるを、いとさうざうしくもあるべきかな。残りすくなき齢のほどにて、御ありさまを見果つまじきことと、 命をこそ思ひつれ、今さらに見捨てて移ろひたまふや、いづちならむと思へば、 いとこそあはれなれ」
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「いままでお側をお離し申さず、明け暮れの話相手とお思い申していたのに、とても寂しいことですね。残り少ない晩年に、あなたのご将来を見届けることができないことは、寿命と思いますが、今のうちから見捨ててお移りになる先が、どこかしらと思うと、とても不憫でなりません」
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「始終あなたをそばに置いて見ることが、私のなくてならぬ慰めだったのだけれど、行ってしまっては寂しくなることでしょう。私は年寄りだから、あなたの生い先が見られないだろうと、命のなくなるのを心細がったものですがね。私と別れてあなたの行く所はどこかと思うとかわいそうでならない」
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"Katahara sake tatematura zu, akekure no mote-asobi mono ni omohi kikoye turu wo, ito sauzausiku mo aru beki kana! Nokori sukunaki yohahi no hodo nite, ohom-arisama wo mi hatu maziki koto to, inoti wo koso omohi ture, imasara ni misute te uturohi tamahu ya, iduti nara m to omohe ba, ito koso ahare nare."
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5.4.5 |
とて泣きたまふ。姫君は、 恥づかしきことを思せば、顔ももたげたまはで、ただ泣きにのみ泣きたまふ。男君の御乳母、宰相の君出で来て、
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と言ってお泣きになる。姫君は、恥ずかしいこととお思いになると、顔もお上げにならず、ただ泣いてばかりいらっしゃる。男君の御乳母の、宰相の君が出て来て、
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と言って宮はお泣きになるのであった。雲井の雁は祖母の宮のお歎きの原因に自分の恋愛問題がなっているのであると思うと、羞恥の感に堪えられなくて、顔も上げることができずに泣いてばかりいた。若君の乳母の宰相の君が出て来て、
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tote naki tamahu. Hemegimi ha, hadukasiki koto wo obose ba, kaho mo motage tamaha de, tada naki ni nomi naki tamahu. Wotokogimi no ohom-menoto, Saisyaunokimi ideki te,
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5.4.6 |
「 同じ君とこそ頼みきこえさせつれ、口惜しくかく 渡らせたまふこと。 殿はことざまに思しなることおはしますとも、さやうに思しなびかせたまふな」
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「同じご主人様とお頼り申しておりましたが、残念にもこのようにお移りあそばすとは。内大臣殿は別にお考えになるところがおありでも、そのようにお思いあそばしますな」
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「若様とごいっしょの御主人様だとただ今まで思っておりましたのに行っておしまいになるなどとは残念なことでございます。殿様がほかの方と御結婚をおさせになろうとあそばしましても、お従いにならぬようにあそばせ」
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"Onazi Kimi to koso tanomi kikoye sase ture, kutiwosiku kaku watara se tamahu koto. Tono ha kotozama ni obosi naru koto ohasimasu tomo, sayau ni obosi nabika se tamahu na."
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5.4.7 |
など、ささめき聞こゆれば、いよいよ恥づかしと思して、物ものたまはず。
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などと、ひそひそと申し上げると、いっそう恥ずかしくお思いになって、何ともおっしゃらない。
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などと小声で言うと、いよいよ恥ずかしく思って、雲井の雁はものも言えないのである。
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nado, sasameki kikoyure ba, iyoiyo hadukasi to obosi te, mono mo notamaha zu.
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5.4.8 |
「 いで、むつかしきことな聞こえられそ。人の御宿世宿世、いと定めがたく」
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「いえもう、厄介なことは申し上げなさいますな。人の運命はそれぞれで、とても先のことは分からないもので」
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「そんな面倒な話はしないほうがよい。縁だけはだれも前生から決められているのだからわからない」
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"Ide, mutukasiki koto na kikoye rare so. Hito no ohom-sukuse sukuse, ito sadame gataku."
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5.4.9 |
とのたまふ。
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とおっしゃる。
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と宮がお言いになる。
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to notamahu.
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5.4.10 |
「 いでや、ものげなしとあなづりきこえさせ たまふにはべるめりかし。さりとも、げに、 わが君人に劣りきこえさせたまふと、聞こしめし合はせよ」
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「いえいえ、一人前でないとお侮り申していらっしゃるのでしょう。今はそうですが、わたくしどもの若君が人にお劣り申していらっしゃるかどうか、どなたにでもお聞き合わせくださいませ」
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「でも殿様は貧弱だと思召して若様を軽蔑あそばすのでございましょうから。まあお姫様見ておいであそばせ、私のほうの若様が人におくれをおとりになる方かどうか」
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"Ideya! Monogenasi to anaduri kikoye sase tamahu ni haberu meri kasi. Saritomo, geni, wagakimi hito ni otori kikoye sase tamahu to, kikosimesi ahase yo!"
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5.4.11 |
と、なま心やましきままに言ふ。
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と、癪にさわるのにまかせて言う。
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口惜しがっている乳母はこんなことも言うのである。
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to, nama-kokoroyamasiki mama ni ihu.
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5.4.12 |
冠者の君、物のうしろに入りゐて見たまふに、人の咎めむも、よろしき時こそ苦しかりけれ、いと心細くて、涙おし拭ひつつおはするけしきを、御乳母、いと心苦しう見て、宮にとかく聞こえたばかりて、夕まぐれの人のまよひに、 対面せさせたまへり。
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冠者の君は、物陰に入って御覧になると、人が見咎めるのも、何でもない時は苦しいだけであったが、とても心細くて、涙を拭いながらいらっしゃる様子を、御乳母が、とても気の毒に見て、大宮にいろいろとご相談申し上げて、夕暮の人の出入りに紛れて、対面させなさった。
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若君は几帳の後ろへはいって来て恋人をながめていたが、人目を恥じることなどはもう物の切迫しない場合のことで、今はそんなことも思われずに泣いているのを、乳母はかわいそうに思って、宮へは体裁よく申し上げ、夕方の暗まぎれに二人をほかの部屋で逢わせた。
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Kwanza-no-Kimi, mono no usiro ni iri wi te mi tamahu ni, hito no togame m mo, yorosiki toki koso kurusikari kere, ito kokorobosoku te, namida osi-nogohi tutu ohasuru kesiki wo, ohom-menoto, ito kokorogurusiu mi te, Miya ni tokaku kikoye tabakari te, yuhumagure no hito no mayohi ni, taimen se sase tamahe ri.
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5.4.13 |
かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、物も言はで泣きたまふ。
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お互いに何となく恥ずかしく胸がどきどきして、何も言わないでお泣きになる。
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きまり悪さと恥ずかしさで二人はものも言わずに泣き入った。
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Katamini mono-hadukasiku mune tubure te, mono mo iha de naki tamahu.
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5.4.14 |
「 大臣の御心のいとつらければ、さはれ、思ひやみなむと思へど、恋しうおはせむこそわりなかるべけれ。などて、すこし隙ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらむ」
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「内大臣のお気持ちがとてもつらいので、ままよ、いっそ諦めようと思いますが、恋しくいらっしゃてたまらないです。どうして、少しお逢いできそうな折々があったころは、離れて過ごしていたのでしょう」
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「伯父様の態度が恨めしいから、恋しくても私はあなたを忘れてしまおうと思うけれど、逢わないでいてはどんなに苦しいだろうと今から心配でならない。なぜ逢えば逢うことのできたころに私はたびたび来なかったろう」
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"Otodo no mi-kokoro no ito turakere ba, sahare, omohi yami na m to omohe do, kohisiu ohase m koso warinakaru bekere. Nadote, sukosi hima ari nu bekari turu higoro, yoso ni hedate tu ram?"
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5.4.15 |
とのたまふさまも、いと若うあはれげなれば、
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とおっしゃる様子も、たいそう若々しく痛々しげなので、
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と言う男の様子には、若々しくてそして心を打つものがある。
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to notamahu sama mo, ito wakau aharege nare ba,
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5.4.16 |
「 まろも、さこそはあらめ」
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「わたしも、あなたと同じ思いです」
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「私も苦しいでしょう、きっと」
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"Maro mo, sakoso ha ara me."
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5.4.17 |
とのたまふ。
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とおっしゃる。
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to notamahu.
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5.4.18 |
「 恋しとは思しなむや」
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「恋しいと思ってくださるでしょうか」
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「恋しいだろうとお思いになる」
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"Kohisi to ha obosi na m ya?"
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5.4.19 |
とのたまへば、すこしうなづきたまふさまも、幼げなり。
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とおっしゃると、ちょっとうなずきなさる様子も、幼い感じである。
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と男が言うと、雲井の雁が幼いふうにうなずく。
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to notamahe ba, sukosi unaduki tamahu sama mo, wosanage nari.
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5.5 |
第五段 乳母、夕霧の六位を蔑む
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5-5 Her nurse despises his low status
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5.5.1 |
御殿油参り、殿まかでたまふけはひ、こちたく追ひののしる 御前駆の声に、人びと、
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御殿油をお点けし、内大臣が宮中から退出なさって来た様子で、ものものしく大声を上げて先払いする声に、女房たちが、
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座敷には灯がともされて、門前からは大臣の前駆の者が大仰に立てる人払いの声が聞こえてきた。女房たちが、
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Ohom-tonabura mawiri, Tono makade tamahu kehahi, kotitaku ohi nonosiru ohom-saki no kowe ni, hitobito,
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5.5.2 |
「 そそや」
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「それそれ、お帰りだ」
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「さあ、さあ」
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"Sosoya!"
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5.5.3 |
など懼ぢ騒げば、 いと恐ろしと思してわななきたまふ。 さも騒がればと、ひたぶる心に、許しきこえたまはず。 御乳母参りてもとめたてまつるに、けしきを見て、
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などと慌てるので、とても恐ろしくお思いになって震えていらっしゃる。そんなにやかましく言われるなら言われても構わないと、一途な心で、姫君をお放し申されない。姫君の乳母が参ってお捜し申して、その様子を見て、
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と騒ぎ出すと、雲井の雁は恐ろしがってふるえ出す。男はもうどうでもよいという気になって、姫君を帰そうとしないのである。姫君の乳母が捜しに来て、はじめて二人の会合を知った。
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nado odi sawage ba, ito osorosi to obosi te wananaki tamahu. Samo sawaga re ba to, hitaburu kokoro ni, yurusi kikoye tamaha zu. Ohom-menoto mawirite motome tatematuru ni, kesiki wo mi te,
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5.5.4 |
「 あな、心づきなや。げに、宮知らせたまはぬことにはあらざりけり」
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「まあ、いやだわ。なるほど、大宮は御存知ないことではなかったのだわ」
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何といういまわしいことであろう、やはり宮はお知りにならなかったのではなかったか
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"Ana, kokorodukina' ya! Geni, Miya sira se tamaha nu koto ni ha ara zari keri."
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5.5.5 |
と思ふに、いとつらく、
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と思うと、実に恨めしくなって、
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と思うと、乳母は恨めしくてならなかった。
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to omohu ni, ito turaku,
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5.5.6 |
「 いでや、憂かりける世かな ★。 殿の思しのたまふことは、さらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせたまはむ。めでたくとも、もののはじめの六位宿世よ」
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「何とも、情けないことですわ。内大臣殿がおっしゃることは、申すまでもなく、大納言殿にもどのようにお聞きになることでしょう。結構な方であっても、初婚の相手が六位風情との御縁では」
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「ほんとうにまあ悲しい。殿様が腹をおたてになって、どんなことをお言い出しになるかしれないばかしか、大納言家でもこれをお聞きになったらどうお思いになることだろう。貴公子でおありになっても、最初の殿様が浅葱の袍の六位の方とは」
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"Ideya, ukari keru yo kana! Tono no obosi notamahu koto ha, sarani mo kikoye zu, Dainagon-dono ni mo ikani kika se tamaha m? Medetaku tomo, mono no hazime no rokuwi sukuse yo!"
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5.5.7 |
と、つぶやくもほの聞こゆ。ただこの屏風のうしろに 尋ね来て、嘆くなりけり。
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と、つぶやいているのがかすかに聞こえる。ちょうどこの屏風のすぐ背後に捜しに来て、嘆くのであった。
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こう言う声も聞こえるのであった。すぐ二人のいる屏風の後ろに来て乳母はこぼしているのである。
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to, tubuyaku mo hono-kikoyu. Tada kono byaubu no usiro ni tadune ki te, nageku nari keri.
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5.5.8 |
男君、「 我をば位なしとて、はしたなむるなりけり」と思すに、世の中恨めしければ、あはれもすこしさむる心地して、めざまし。
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男君は、「自分のことを位がないと軽蔑しているのだ」とお思いになると、こんな二人の仲がたまらなくなって、愛情も少しさめる感じがして、許しがたい。
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若君は自分の位の低いことを言って侮辱しているのであると思うと、急に人生がいやなものに思われてきて、恋も少しさめる気がした。
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Wotokogimi, "Ware wo ba kurawi nasi tote, hasitanamuru nari keri." to obosu ni, yononaka uramesikere ba, ahare mo sukosi samuru kokoti si te, mezamasi.
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5.5.9 |
「 かれ聞きたまへ。
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「あれをお聞きなさい。
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「そらあんなことを言っている。
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"Kare kiki tamahe.
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5.5.10 |
くれなゐの涙に深き袖の色を 浅緑にや言ひしをるべき |
真っ赤な血の涙を流して恋い慕っているわたしを 浅緑の袖の色だと言ってけなしてよいものでしょうか |
くれなゐの涙に深き袖の色を 浅緑とやいひしをるべき
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Kurenawi no namida ni hukaki sode no iro wo asamidori ni ya ihi siworu beki |
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5.5.11 |
恥づかし」
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恥ずかしい」
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恥ずかしくてならない」
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hadukasi."
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5.5.12 |
とのたまへば、
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とおっしゃると、
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と言うと、
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to notamahe ba,
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5.5.13 |
「 いろいろに身の憂きほどの知らるるは いかに染めける中の衣ぞ」 |
「色々とわが身の不運が思い知らされますのは どのような因縁の二人なのでしょう」 |
いろいろに身のうきほどの知らるるは いかに染めける中の衣ぞ
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"Iroiro ni mi no uki hodo no sira ruru ha ikani some keru naka no koromo zo |
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5.5.14 |
と、物のたまひ果てぬに、殿入りたまへば、わりなくて 渡りたまひぬ。
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と、言い終わらないうちに、殿がお入りになっていらしたので、しかたなくお戻りになった。
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と雲井の雁が言ったか言わぬに、もう大臣が家の中にはいって来たので、そのまま雲井の雁は立ち上がった。
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to, mono notamahi hate nu ni, Tono iri tamahe ba, warinaku te watari tamahi nu.
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5.5.15 |
男君は、立ちとまりたる心地も、 いと人悪く、胸ふたがりて、わが御方に臥したまひぬ。
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男君は、後に残された気持ちも、とても体裁が悪く、胸が一杯になって、ご自分のお部屋で横におなりになった。
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取り残された見苦しさも恥ずかしくて、悲しみに胸をふさがらせながら、若君は自身の居間へはいって、そこで寝つこうとしていた。
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Wotokogimi ha, tati-tomari taru kokoti mo, ito hitowaruku, mune hutagari te, waga ohom-kata ni husi tamahi nu.
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5.5.16 |
御車三つばかりにて、忍びやかに急ぎ出でたまふけはひを聞くも、静心なければ、宮の御前より、「参りたまへ」とあれど、寝たるやうにて動きもしたまはず。
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お車は三輌ほどで、ひっそりと急いでお出になる様子を聞くのも、落ち着かないので、大宮の御前から「いらっしゃい」とあるが、寝ている様子をして身動きもなさらない。
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三台ほどの車に分乗して姫君の一行は邸をそっと出て行くらしい物音を聞くのも若君にはつらく悲しかったから、宮のお居間から、来るようにと、女房を迎えにおよこしになった時にも、眠ったふうをしてみじろぎもしなかった。
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Ohom-kuruma mitu bakari nite, sinobiyaka ni isogi ide tamahu kehahi wo kiku mo, sidugokoro nakere ba, Miya no omahe yori, "Mawiri tamahe." to are do, ne taru yau nite ugoki mo si tamaha zu.
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5.5.17 |
涙のみ止まらねば、嘆きあかして、霜のいと白きに急ぎ出でたまふ。うちはれたるまみも、人に見えむが恥づかしきに、宮 はた、召しまつはすべかめれば、 心やすき所にとて、急ぎ出でたまふなりけり。
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涙ばかりが止まらないので、嘆きながら夜を明かして、霜がたいそう白いころに急いでお帰りになる。泣き腫らした目許も、人に見られるのが恥ずかしいので、大宮もまた、お召しになって放さないだろうから、気楽な所でと思って、急いでお帰りになったのであった。
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涙だけがまだ止まらずに一睡もしないで暁になった。霜の白いころに若君は急いで出かけて行った。泣き腫らした目を人に見られることが恥ずかしいのに、宮はきっとそばへ呼ぼうとされるのであろうから、気楽な場所へ行ってしまいたくなったのである。
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Namida nomi tomara ne ba, nageki akasi te, simo no ito siroki ni isogi ide tamahu. Uti-hare taru mami mo, hito ni miye m ga hadukasiki ni, Miya hata, mesi matuhasu beka' mere ba, kokoroyasuki tokoro ni tote, isogi ide tamahu nari keri.
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5.5.18 |
道のほど、人やりならず、心細く思ひ続くるに、 空のけしきもいたう雲りて、まだ暗かりけり。
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その道中は、誰のせいからでなく、心細く思い続けると、空の様子までもたいそう曇って、まだ暗いのであった。
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車の中でも若君はしみじみと破れた恋の悲しみを感じるのであったが、空模様もひどく曇って、まだ暗い寂しい夜明けであった。
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Miti no hodo, hitoyarinarazu, kokorobosoku omohi tudukuru ni, sora no kesiki mo itau kumori te, mada kurakari keri.
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5.5.19 |
「 霜氷うたてむすべる明けぐれの 空かきくらし降る涙かな」 |
「霜や氷が嫌に張り詰めた明け方の 空を真暗にして降る涙の雨だなあ」 |
霜氷うたて結べる明けぐれの 空かきくらし降る涙かな
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"Simo kohori utate musube ru akegure no sora kaki-kurasi huru namida kana |
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5.5.20 |
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こんな歌を思った。
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Last updated 9/21/2010(ver.2-3) 渋谷栄一校訂(C) Last updated 11/10/2009(ver.2-2) 渋谷栄一注釈(C) |
Last updated 8/5/2001 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 11/10/2009 (ver.2-2) Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C) |
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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