第二十六帖 常夏


26 TOKONATU (Ohoshima-bon)


光る源氏の太政大臣時代
三十六歳の盛夏の物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo-Daijin era, very hot days at the age of 36

2
第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語


2  Tale of Ohomi-no-Kimi  Naidaijin's agony how to treat his daughter

2.1
第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮


2-1  Naidaijin is in agonies how to treat his daughter

2.1.1   大臣、この北の対の今姫君を
 大臣は、この北の対の今姫君を、
 大臣は北の対に住ませてある令嬢を
  Otodo, kono kitanotai no Ima-Himegimi wo,
2.1.2  「 いかにせむさかしらに迎へ率て来て。人かく誹るとて、返し送らむも、いと軽々しく、もの狂ほしきやうなり。かくて 籠めおきたれば、まことにかしづくべき心あるかと、 人の言ひなすなるもねたし。 女御の御方などに交じらはせて、 さるをこのものにしないてむ人のいとかたはなるものに 言ひおとすなる容貌、はた、いとさ言ふばかりに やはある
 「どうしたものか。よけいなことをして迎え取って。世間の人がこのように悪口を言うからといって、送り返したりするのも、まことに軽率で、気違いじみたことのようだ。こうして置いているので、本当に大切にお世話する気があるのかと、他人が噂するのも癪だ。女御の御方などに宮仕えさせて、そうした笑い者にしてしまおう。女房たちがたいそう不細工だとけなしているらしい容貌も、そんなに言われるほどのものではない」
 どうすればよいか、よけいなことをして引き取ったあとで、また人がそしるからといって家へ送り帰すのも軽率な気のすることであるが、娘らしくさせておいては満足しているらしく自分の心持ちが誤解されることになっていやである、女御にょごの所へ来させることにして、馬鹿ばか娘として人中に置くことにさせよう、悪い容貌ようぼうだというがそう見苦しい顔でもないのであるから
  "Ikani se m? Sakasira ni mukahe wi te ki te. Hito kaku sosiru tote, kahesi okura m mo, ito karugarusiku, mono-guruhosiki yau nari. Kakute kome oki tare ba, makoto ni kasiduku beki kokoro aru ka to, hito no ihinasu naru mo netasi. Nyougo-no-Ohomkata nado ni maziraha se te, saru woko no mono ni sinai te m. Hito no ito kataha naru mono ni ihi otosu naru katati, hata, ito sa ihu bakari ni yaha aru."
2.1.3  など思して、女御の君に、
 などとお思いになって、女御の君に、
 と思って、大臣は女御に、
  nado obosi te, Nyougo-no-Kimi ni,
2.1.4  「 かの人参らせむ。見苦しからむことなどは、老いしらへる女房などして、 つつまず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ。若き人びとの言種には、 な笑はせさせたまひそ 。うたてあはつけきやうなり」
 「あの人を出仕させましょう。見ていられないようなことなどは、老いぼれた女房などをして、遠慮なく教えさせなさってお使いなさい。若い女房たちの噂の種になるような、笑い者にはなさらないでください。それではあまりに軽率のようだ」
 「あの娘をあなたの所へよこすことにしよう。悪いことは年のいった女房などに遠慮なく矯正きょうせいさせて使ってください。若い女房などが何を言ってもあなただけはいっしょになって笑うようなことをしないでお置きなさい。軽佻けいちょうに見えることだから」
  "Kano hito mawira se m. Migurusikara m koto nado ha, oyi sirahe ru nyoubau nado si te, tutuma zu, ihi wosihe sase tamahi te goran ze yo. Wakaki hitobito no kotogusa ni ha, na waraha se sase tamahi so. Utate ahatukeki yau nari."
2.1.5  と、笑ひつつ聞こえたまふ。
 と、笑いながら申し上げなさる。
 と笑いながら言った。
  to, warahi tutu kikoye tamahu.
2.1.6  「 などか、いとさことのほかにははべらむ中将などの、いと二なく思ひはべりけむ かね言に足らずといふばかりにこそははべらめ。 かくのたまひ騒ぐを、はしたなう思はるるにもかたへはかかやかしきにや
 「どうして、そんなひどいことがございましょう。中将などが、たいそうまたとなく素晴らしいと吹聴したらしい前触れに及ばないというだけございましょう。このようにお騒ぎになるので、きまり悪くお思いになるにつけ、一つには気後れしているのでございましょう」
 「だれがどう言いましても、そんなつまらない人ではきっとないと思います。中将の兄様などの非常な期待に添わなかったというだけでしょう。こちらへ来ましてからいろんな取り沙汰などをされて、一つはそれでのぼせて粗相そそうなこともするのでございましょう」
  "Nadoka, ito sa koto no hoka ni ha habera m? Tyuuzyau nado no, ito ninaku omohi haberi kem kanegoto ni tara zu to ihu bakari ni koso ha habera me. Kaku notamahi sawagu wo, hasitanau omoha ruru ni mo, katahe ha kakayakasiki ni ya?"
2.1.7  と、 いと恥づかしげにて聞こえさせたまふ。この御ありさまは、こまかに をかしげさはなくて、いと あてに澄みたるものの、なつかしきさま添ひて、 おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけ おぼえて、残り多かりげに ほほ笑みたまへるぞ、人に異なりける、と見たてまつりたまふ
 と、たいそうこちらが気恥ずかしくなるような面持ちで申し上げなさる。この女御のご様子は、何もかも整っていて美しいというのではなくて、たいそう上品で澄ましていらっしゃるが、やさしさがあって、美しい梅の花が咲き初めた朝のような感じがして、おっしゃりたいことも差し控えて微笑んでいらっしゃるのが、人とは違う、と拝見なさる。
 と女御は貴女きじょらしい品のある様子で言っていた。この人は一つ一つ取り立てて美しいということのできない顔で、そして品よく澄み切った美の備わった、美しい梅の半ば開いた花を朝の光に見るような奥ゆかしさを見せて微笑しているのを大臣は満足して見た。だれよりもすぐれた娘であると意識したのである。
  to, ito hadukasige nite kikoye sase tamahu. Kono ohom-arisama ha, komaka ni wokasigesa ha naku te, ito ate ni sumi taru monono, natukasiki sama sohi te, omosiroki mume no hana no hirake sasi taru asaborake oboye te, nokori ohokarige ni hohowemi tamahe ru zo, hito ni kotonari keru, to mi tatematuri tamahu.
2.1.8  「 中将の、いとさ言へど、心若きたどり少なさに
 「中将が、何といっても、思慮が足りなく調査が不十分だったので」
 「しかしなんといっても中将の無経験がさせた失敗だ」
  "Tyuuzyau no, ito sa ihe do, kokorowakaki tadori sukunasa ni."
2.1.9  など申したまふも、 いとほしげなる人の御おぼえかな
 などと申し上げなさるが、お気の毒なお扱いであることよ。
 などとも父に言われている新令嬢は気の毒である。
  nado mausi tamahu mo, itohosige naru hito no ohom-oboye kana!
注釈168大臣この北の対の今姫君を大島本は「いま姫君」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「今君」と「姫」を削除する。内大臣、近江の君の処遇に苦慮する。近江の君が「北の対」にいることが注意される。2.1.1
注釈169いかにせむ以下「さ言ふばかりにやはある」まで、内大臣の心中。2.1.2
注釈170さかしらに『集成』は「独り合点で」。『完訳』は「あらずもがなのことをして」と訳す。2.1.2
注釈171籠めおきたれば邸の奥に置いているので。已然形+「ば」順接条件。2.1.2
注釈172女御の御方などに内大臣の娘弘徽殿女御。2.1.2
注釈173さるをこのものにしないてむ『完訳』は「内大臣は、自分の不見識を難じられぬよう、近江の君を道化者にすべく迎えたと装う」と注す。2.1.2
注釈174人の女房をさす。2.1.2
注釈175言ひおとすなる「なり」伝聞推定の助動詞。2.1.2
注釈176やはある反語表現。そう大してひどくもない、の意。2.1.2
注釈177かの人参らせむ以下「あはつけきやうなり」まで、内大臣の詞。2.1.4
注釈178な笑はせさせたまひそ大島本は「なわらはせさせ給ふそ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「な笑はせさせたまひそ」と校訂する。2.1.4
注釈179つつまず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ『集成』は「びしびし叱って教育させなさってお使い下さい」。『完訳』は「遠慮なくお言い聞かせになって面倒を見ていただきたい」と訳す。2.1.4
注釈180などか、いとさことのほかにははべらむ以下「かかやかしきにや」まで、弘徽殿女御の詞。「などか--はべらむ」反語表現。2.1.6
注釈181中将などの柏木をさす。2.1.6
注釈182かね言に足らず大島本は「かねことにたらすと」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「かね言にたへず」と校訂する。2.1.6
注釈183かくのたまひ騒ぐをはしたなう思はるるにも「のたまひ騒ぐ」の主語は内大臣。「はしたなう思はるる」の主語は近江の君。「るる」は軽い尊敬の助動詞。2.1.6
注釈184かたへはかかやかしきにや『集成』は「一つには面映ゆいのではないでしょうか。それで気後れしてつい失敗が多いのではないか、と取りなす」と注す。2.1.6
注釈185いと恥づかしげにて聞こえさせたまふ『完訳』は「父を圧倒するほどの正論で」と訳す。2.1.7
注釈186をかしげさはなくて接続助詞「て」弱い逆接の意。2.1.7
注釈187あてに澄みたるものの接続助詞「ものの」弱い逆接の意。2.1.7
注釈188おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけ弘徽殿女御の美貌の譬喩。「匂はねどほほゑむ梅の花をこそ我もをかしと折りてながむれ」(曽丹集、二六)。2.1.7
注釈189ほほ笑みたまへるぞ人に異なりけると見たてまつりたまふ地の文がいつしか内大臣の心中文となって、引用句「と見たてまつりたまふ」と表現される。2.1.7
注釈190中将のいとさ言へど心若きたどり少なさに内大臣の詞。『集成』は「一人前だとはいっても、まだ世間知らずでよく考えもせずに」。『完訳』は「賢いとはいえ、思慮が足りず、調査が周到でなかったので。内大臣は柏木に責任を転嫁」と注す。2.1.8
注釈191いとほしげなる人の御おぼえかな『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の、近江の君への同情」と注す。2.1.9
出典10 梅の花の開け 匂はねどほほ笑む梅の花をこそ我もをかしと折りて眺むれ 好忠集-二六 2.1.7
校訂9 たまひそ たまひそ--*給ふそ 2.1.4
2.2
第二段 内大臣、近江君を訪う


2-2  Naidaijin visits to Ohomi-no-Kimi

2.2.1   やがて、この御方のたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、 簾高くおし張りて、五節の君とて、されたる若人のあると、双六をぞ打ちたまふ。手をいと切におしもみて、
 そのまま、この女御の御方を訪ねたついでに、ぶらぶらお歩きになって、お覗きになると、簾を高く押し出して、五節の君といって、気の利いた若い女房がいるのと、双六を打っていらっしゃる。手をしきりに揉んで、
 大臣は女房をたずねた帰りにその人の所へも行って見た。座敷の御簾みすをいっぱいに張り出すようにしてすそをおさえた中で、五節ごせちという生意気な若い女房と令嬢は双六すごろくを打っていた。
  Yagate, kono Ohom-kata no tayori ni, tatazumi ohasi te, nozoki tamahe ba, sudare takaku osihari te, Goseti-no-Kimi tote, sare taru wakaudo no aru to, suguroku wo zo uti tamahu. Te wo ito seti ni osi-momi te,
2.2.2  「 せうさい、せうさい
 「小賽、小賽」
 「しょうさい、しょうさい」
  "Seusai, seusai!"
2.2.3  とこふ声ぞ、 いと舌疾きや。「あな、うたて」と思して、御供の人の前駆 追ふをも、手かき制したまうて、なほ、妻戸の細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。
 と祈る声は、とても早口であるよ。「ああ、情ない」とお思いになって、お供の人が先払いするのをも、手で制しなさって、やはり、妻戸の細い隙間から、襖の開いているところをお覗き込みなさる。
 と両手をすりすりさいく時の呪文じゅもんを早口に唱えているのに悪感おかんを覚えながらも大臣は従って来た人たちの人払いの声を手で制して、なおも妻戸の細目に開いたすきから、障子の向こうを大臣はのぞいていた。
  to kohu kowe zo, ito sitadoki ya! "Ana, utate!" to obosi te, ohom-tomo no hito no saki ohu wo mo, tekaki seisi tamau te, naho, tumado no hosome naru yori, sauzi no aki ahi taru wo miire tamahu.
2.2.4   この従姉妹も、はた、けしきはやれる、
 この従姉妹も、同じく、興奮していて、
 五節も蓮葉はすっぱらしく騒いでいた。
  Kono itoko mo, hata, kesiki hayare ru,
2.2.5  「 御返しや、御返しや
 「お返しよ、お返しよ」
 「御返報しますよ。御返報しますよ」
  "Ohom-kahesi ya, ohom-kahesi ya!"
2.2.6  と、筒をひねりて、 とみに打ち出でず中に思ひはありやすらむ 、いとあさへたるさまどもしたり。
 と、筒をひねり回して、なかなか振り出さない。心中に思っていることはあるのかも知れないが、たいそう軽薄な振舞をしている。
 賽の筒を手でひねりながらすぐには撒こうとしない。
  to, tou wo hineri te, tomi ni uti-ide zu. Naka ni omohi ha ari ya su ram, ito asahe taru sama-domo si tari.
2.2.7  容貌はひちちかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとに そこなはれたるなめり。取りたててよしとはなけれど、 異人とあらがふべくもあらず鏡に思ひあはせられたまふにいと宿世心づきなし
 器量は親しみやすく、かわいらしい様子をしていて、髪は立派で、欠点はあまりなさそうだが、額がひどく狭いのと、声の上っ調子なのとで台なしになっているようである。取り立てて良いというのではないが、他人だと抗弁することもできず、鏡に映る顔が似ていらっしゃるので、まったく運命が恨めしく思われる。
 姫君の容貌は、ちょっと人好きのする愛嬌あいきょうのある顔で、髪もきれいであるが、額の狭いのと頓狂とんきょうな声とにそこなわれている女である。美人ではないがこの娘の顔に、鏡で知っている自身の顔と共通したもののあるのを見て、大臣は運にのろわれている気がした。
  Katati ha hititika ni, aigyauduki taru sama si te, kami uruhasiku, tumi karoge naru wo, hitahi no ito tikayaka naru to, kowe no ahatukesa to ni sokonaha re taru na' meri. Toritate te yosi to ha nakere do, kotobito to aragahu beku mo ara zu, kagami ni omohiahase rare tamahu ni, ito sukuse kokorodukinasi.
2.2.8  「 かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。ことしげくのみありて、 訪らひまうでずや
 「こうしていらっしゃるのは、落ち着かず馴染めないのではありませんか。大変に忙しいばかりで、お訪ねできませんが」
 「こちらで暮らすようになって、あなたに何か気に入らないことがありますか。つい忙しくてたずねに来ることも十分できないが」
  "Kakute monosi tamahu ha, tukinaku uhiuhisiku nado ya aru? Koto sigeku nomi ari te, toburahi maude zu ya!"
2.2.9  とのたまへば、例の、いと舌疾にて、
 とおっしゃると、例によって、とても早口で、
 と大臣が言うと、例の調子で新令嬢は言う。
  to notamahe ba, rei no, ito sitado nite,
2.2.10  「 かくてさぶらふは何のもの思ひかはべらむ。年ごろ、おぼつかなく、ゆかしく思ひきこえさせし御顔、常にえ見たてまつらぬばかりこそ、 手打たぬ心地しはべれ
 「こうして伺候しておりますのは、何の心配がございましょうか。長年、どんなお方かとお会いしたいとお思い申し上げておりましたお顔を、常に拝見できないのだけが、よい手を打たぬ時のようなじれったい気が致します」
「こうしていられますことに何の不足があるものでございますか。長い間お目にかかりたいと念がけておりましたお顔を、始終拝見できませんことだけは成功したものとは思われませんが」
  "Kakute saburahu ha, nani no monoomohi ka habera m? Tosigoro, obotukanaku, yukasiku omohi kikoye sase si ohom-kaho, tune ni e mi tatematura nu bakari koso, te uta nu kokoti si habere."
2.2.11  と聞こえたまふ。
 とお申し上げになさる。

  to kikoye tamahu.
2.2.12  「 げに、身に近く使ふ人もをさをさなきに、 さやうにても見ならしたてまつらむと、かねては思ひしかど、 えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづから立ち交らひて、人の耳をも目をも、かならずしもとどめぬものなれば、心やすかべかめれ。 それだに、その人の女、かの人の子と知らるる際になれば、親兄弟の面伏せなる類ひ多かめり。 まして
 「なるほど、身近に使う人もあまりいないので、側に置いていつも拝見していようと、以前は思っていましたが、そうもできかねることでした。普通の宮仕人であれば、どうあろうとも、自然と立ち混じって、誰の目にも耳にも、必ずしもつかないものですから、安心していられましょう。それであってさえ、誰それの娘、何がしの子と知られる身分となると、親兄弟の面目を潰す例が多いようだ。ましてや」
 「そうだ、私もそばで手足の代わりに使う者もあまりないのだから、あなたが来たらそんな用でもしてもらおうかと思っていたが、やはりそうはいかないものだからね。ただの女房たちというものは、多少の身分の高下はあっても、皆いっしょに用事をしていては目だたずに済んで気安いものなのだが、それでもだれの娘、だれの子ということが知られているほどの身の上の者は、親兄弟の名誉を傷つけるようなことも自然起こってきておもしろくないものだろうが、まして」
  "Geni, mi ni tikaku tukahu hito mo wosawosa naki ni, sayau nite mo minarasi tatematura m to, kanete ha omohi sika do, e sasimo aru maziki waza nari keri. Nabete no tukaumaturi-bito koso, toarumo-kakarumo, onodukara tati-mazirahi te, hito no mimi wo mo me wo mo, kanarazu simo todome nu mono nare ba, kokoroyasuka' beka' mere. Sore dani, sono hito no musume, kano hitonoko to sira ruru kiha ni nare ba, oya harakara no omotebuse naru taguhi ohoka' meri. Masite."
2.2.13  とのたまひさしつる、御けしきの 恥づかしきも知らず
 と言いかけてお止めになった、そのご立派さも分からず、
 言いさして話をやめた父の自尊心などに令嬢は頓着とんじゃくしていなかった。
  to notamahi sasi turu, mi-kesiki no hadukasiki mo sira zu,
2.2.14  「 何か、そはことことしく思ひたまひて交らひはべらばこそ、所狭からめ。大御大壺取りにも、仕うまつりなむ」
 「いえいえ、それは、大層に思いなさって宮仕え致しましたら、窮屈でしょう。大御大壷の係なりともお仕え致しましょう」
 「いいえ、かまいませんとも、令嬢だなどと思召おぼしめさないで、女房たちの一人としてお使いくださいまし。お便器のほうのお仕事だって私はさせていただきます」
  "Nanika, so ha, kotokotosiku omohi tamahi te mazirahi habera ba koso, tokorosekara me. Ohomi-ohotubo-tori ni mo, tukaumaturi na m."
2.2.15  と聞こえたまへば、え念じたまはで、うち笑ひたまひて、
 とお答え申し上げるので、お堪えになることができず、ついお笑いになって、

  to kikoye tamahe ba, e nenzi tamaha de, uti-warahi tamahi te,
2.2.16  「 似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに会へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声を、すこしのどめて聞かせたまへ。さらば、命も延びなむかし」
 「似つかわしくない役のようだ。このようにたまに会える親に孝行する気持ちがあるならば、その物をおっしゃる声を、少しゆっくりにしてお聞かせ下さい。そうすれば、寿命もきっと延びましょう」
 「それはあまりに不似合いな役でしょう。たまたま巡り合った親に孝行をしてくれる心があれば、その物言いを少し静かにして聞かせてください。それができれば私の命も延びるだろう」
  "Nitukahasikara nu yaku na' nari. Kaku tamasaka ni ahe ru oya no keu se m no kokoro ara ba, kono mono notamahu kowe wo, sukosi nodome te kikase tamahe. Saraba, inoti mo nobi na m kasi."
2.2.17  と、をこめいたまへる大臣にて、 ほほ笑みてのたまふ
 と、おどけたところのある大臣なので、苦笑しながらおっしゃる。
 道化たことを言うのも好きな大臣は笑いながら言っていた。
  to, wokomei tamahe ru Otodo nite, hohowemi te notamahu.
注釈192やがてこの御方のたよりに弘徽殿女御は里下がりして、現在、寝殿にいる。そこから、内大臣は北の対の近江の君のもとを訪れようとする。2.2.1
注釈193簾高くおし張りて『集成』は「簾を外に大きく張り出して。身体ごと簾を押し出すのであろう。つつしみのない端居のさま」と注す。2.2.1
注釈194せうさいせうさい近江の君の詞。『古典セレクション』は「小賽、小賽」と表記する。2.2.2
注釈195いと舌疾きやあなうたて「いと舌疾きや」は語り手の感想。「あなうたて」は内大臣の心中。また、全体が内大臣の心中とも考えらえる文章表現。2.2.3
注釈196この従姉妹も五節の君をさす。2.2.4
注釈197御返しや御返しや五節の君の詞。2.2.5
注釈198とみに打ち出でず大島本は「とみに」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「とみにも」と「も」を補訂する。2.2.6
注釈199中に思ひはありやすらむ語り手の推測、挿入句。「さざれ石の中に思ひはありながらうち出づることのかたくもあるかな」(紫明抄所引、出典未詳)を踏まえる。2.2.6
注釈200そこなはれたるなめり連語「なめり」断定の助動詞+推量の助動詞、語り手の主観的推量のニュアンス。2.2.7
注釈201異人とあらがふべくもあらず『完訳』は「自分(内大臣)と近江の君とが、他人であるとは思われない意」と注す。2.2.7
注釈202鏡に思ひあはせられたまふに主語は内大臣。2.2.7
注釈203いと宿世心づきなし『集成』は「内大臣の思いをそのまま地の文にした書き方」と注す。2.2.7
注釈204かくてものしたまふは以下「訪らひまうでずや」まで、内大臣の詞。2.2.8
注釈205訪らひまうでずや内大臣が近江の君を。「や」間投助詞、詠嘆。2.2.8
注釈206かくてさぶらふは以下「心地しはべれ」まで、近江の君の詞。2.2.10
注釈207何のもの思ひかはべらむ反語表現。2.2.10
注釈208手打たぬ心地しはべれ『集成』は「まるでよい手を打たぬ時のような(焦れったい)気がいたします。「手打つ」は、双六で、巧みな手を打つこと」と注す。2.2.10
注釈209げに、身に近く使ふ人も以下「まして」まで、内大臣の詞。「身に近くさぶらふ人」とは、内大臣の身辺をさしていう。2.2.12
注釈210さやうにても見ならしたてまつらむと『集成』は「内大臣づきの女房役にするつもりだった、と言う」と注す。2.2.12
注釈211えさしもあるまじきわざなりけり実の娘ゆえにそのようにもできかねる、という意。2.2.12
注釈212それだに「それ」は「なべての仕うまつり人」をさす。『集成』は「その場合でも、誰それの娘、何がしの子と、名の通った家の生れとなると、親兄弟の面目を潰すような者が多いようだ。娘が至らぬ場合、名家の出身ほで家門の恥になる。家風を云々されるからである」と注す。2.2.12
注釈213まして下に、内大臣家の娘とあっては、の意が省略。2.2.12
注釈214恥づかしきも知らず大島本は「はつかしきもしらす」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「見知らず」と「見」を補訂する。2.2.13
注釈215何かそは以下「仕うまつりなむ」まで、近江の君の詞。2.2.14
注釈216ことことしく思ひたまひて大島本は「おもひ給ひて」とある。『古典セレクション』は底本のままとする。『集成』『新大系』は諸本に従って「思ひたまへて」と校訂する。本来「思ひたまへて」と謙譲表現であるべきところ。底本のままとする2.2.14
注釈217似つかはしからぬ役ななり以下「延びなむかし」まで、内大臣の詞。連語「ななり」断定の助動詞+伝聞推定の助動詞。2.2.16
注釈218ほほ笑みてのたまふ大島本は「ほゝゑミてのまふ」とある。大島本は「のたまふ」の「た」脱字とみて「た」を補訂する。2.2.17
出典11 中に思ひは さざれ石の中の思ひはありながらうち出ることのさもかたくもあるかな 紫明抄所引-出典未詳 2.2.6
校訂10 追ふをも 追ふをも--ほふせ(せ/$を<朱>)も 2.2.3
校訂11 のたまふ のたまふ--*のまふ 2.2.17
2.3
第三段 近江君の性情


2-3  Ohomi-no-Kimi's character

2.3.1  「 舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、故母の常に苦しがり教へはべりし。 妙法寺の別当大徳の、産屋にはべりける、 あえものとなむ嘆きはべりたうびし。いかでこの舌疾さやめはべらむ」
 「舌の生まれつきなのでございましょう。子供でした時でさえ、亡くなった母君がいつも嫌がって注意しておりました。妙法寺の別当の大徳が、産屋に詰めておりましたので、それにあやかってしまったと嘆いていらっしゃいました。何とかしてこの早口は直しましょう」
 「私の舌の性質がそうなんですね。小さい時にも母が心配しましてよく訓戒されました。妙法寺の別当の坊様が私の生まれる時産屋うぶやにいたのですってね。その方にあやかったのだと言って母が歎息たんそくしておりました。どうかして直したいと思っております」
  "Sita no honzyau ni koso ha habera me. Wosanaku haberi si toki dani, ko-Haha no tune ni kurusigari wosihe haberi si. Myauhohuzi no Be'tau-Daitoko no, ubuya ni haberi keru, ayemono to nam nageki haberi taubi si. Ikade kono sitadosa yame habera m?"
2.3.2  と思ひ騒ぎたるも、 いと孝養の心深く、あはれなりと見たまふ。
 と大変だと思っているのも、たいそう孝行心が深く、けなげだとお思いになる。
 むきになってこう言うのを聞いても孝心はある娘であると大臣は思った。
  to omohi sawagi taru mo, ito keuyau no kokoro hukaku, ahare nari to mi tamahu.
2.3.3  「 その、気近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の 報いななり唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪にも、数へたるかし」
 「その、側近くまで入り込んだ大徳こそ、困ったものです。ただその人の前世で犯した罪の報いなのでしょう。唖とどもりは、法華経を悪く言った罪の中にも、数えているよ」
 「産屋うぶやなどへそんなお坊さんの来られたのが災難なんだね。そのお坊さんの持っている罪の報いに違いないよ。おしどもりは仏教をそしった者の報いに数えられてあるからね」
  "Sono, kedikaku iritati tari kem Daitoko koso ha, adikinakari kere! Tada sono tumi no mukuyi na' nari. Osi, kotodomori to zo, daizyou sosiri taru tumi ni mo, kazuhe taru kasi."
2.3.4  とのたまひて、「 子ながら恥づかしくおはする御さまに見えたてまつらむこそ恥づかしけれ。いかに定めて、かくあやしきけはひも尋ねず迎へ寄せけむ」と思し、「 人びともあまた見つぎ、言ひ散らさむこと」と、 思ひ返したまふものから
 とおっしゃって、「わが子ながらも気の引けるほどの御方に、お目に掛けるのは気が引ける。どのよう考えて、こんな変な人を調べもせずに迎え取ったのだろう」とお思いになって、「女房たちが次々と見ては言い触らすだろう」と、考え直しなさるが、
 と大臣は言っていたが、子ながらも畏敬いけいの心の女御にょごの所へこの娘をやることは恥ずかしい、どうしてこんな欠陥の多い者を家へ引き取ったのであろう、人中へ出せばいよいよ悪評がそれからそれへ伝えられる結果を生むではないかと思って、大臣は計画を捨てる気にもなったのであるが、また、
  to notamahi te, "Ko nagara hadukasiku ohasuru ohom-sama ni, miye tatematura m koso hadukasikere. Ikani sadame te, kaku ayasiki kehahi mo tadune zu mukahe yose kem?" to obosi, "Hitobito mo amata mitugi, ihitirasa m koto." to, omohikahesi tamahu monokara,
2.3.5  「 女御里にものしたまふ時々、渡り参りて、人のありさまなども見ならひたまへかし。ことなることなき人も、おのづから人に交じらひ、さる方になれば、さてもありぬかし。 さる心して見えたてまつりたまひなむや
 「女御が里下りしていらっしゃる時々には、お伺いして、女房たちの行儀作法を見習いなさい。特に優れたところのない人でも、自然と大勢の中に混じって、その立場に立つと、いつか恰好もつくものです。そのような心積もりをして、お目通りなさってはいかがですか」
 「女御がうちへ帰っておいでになる間に、あなたは時々あちらへ行って、いろんなことを見習うがいいと思う。平凡な人間も貴女きじょがたの作法に会得えとくが行くと違ってくるものだからね。そんなつもりであちらへ行こうと思いますか」
  "Nyougo sato ni monosi tamahu tokidoki, watari mawiri te, hito no arisama nado mo minarahi tamahe kasi. Koto naru koto naki hito mo, onodukara hito ni mazirahi, saru kata ni nare ba, satemo ari nu kasi. Saru kokoro si te, miye tatematuri tamahi na m ya!"
2.3.6  とのたまへば、
 とおっしゃると、
 とも言った。
  to notamahe ba,
2.3.7  「 いとうれしきことにこそはべるなれ。ただ、いかでもいかでも、 御方々に数まへしろしめされむことをなむ、寝ても覚めても、年ごろ何ごとを思ひたまへつるにもあらず。御許しだにはべらば、 水を汲みいただきても、仕うまつりなむ
 「とても嬉しいことでございますわ。ただただ、何としてでも、皆様方にお認めいただくことばかりを、寝ても覚めても、長年この願い以外のことは思ってもいませんでした。お許しさえあれば、水を汲んで頭上に乗せて運びましても、お仕え致しましょう」
 「まあうれしい。私はどうかして皆さんから兄弟だと認めていただきたいと寝てもめても祈っているのでございますからね。そのほかのことはどうでもいいと思っていたくらいでございますからね。お許しさえございましたら女御さんのために私は水をんだり運んだりしましてもお仕えいたします」
  "Ito uresiki koto ni koso haberu nare. Tada, ikade mo ikade mo, ohom-katagata ni kazumahe sirosimesa re m koto wo nam, ne te mo same te mo, tosigoro nanigoto wo omohi tamahe turu ni mo ara zu. Ohom-yurusi dani habera ba, midu wo kumi itadaki te mo, tukaumaturi na m."
2.3.8  と、いとよげに、今すこしさへづれば、いふかひなしと思して、
 と、たいそういい気になって、一段と早口にしゃべるので、どうしようもないとお思いになって、
 なお早口にしゃべり続けるのを聞いていて大臣はますます憂鬱ゆううつな気分になるのを、紛らすために言った。
  to, ito yoge ni, ima sukosi sahedure ba, ihukahinasi to obosi te,
2.3.9  「 いとしか、おりたちて 薪拾ひたまはずとも参りたまひなむ。ただかのあえものにしけむ法の師だに遠くは」
 「そんなにまで、自分自身で薪をお拾いにならなくても、参上なさればよいでしょう。ただあのあやかったという法師さえ離れたならばね」
 「そんな労働などはしないでもいいがお行きなさい。あやかったお坊さんはなるべく遠方のほうへやっておいてね」
  "Ito sika, oritati te, takigi hirohi tamaha zu tomo, mawiri tamahi na m. Tada kano ayemono ni si kem nori no si dani tohoku ha."
2.3.10  と、 をこごとにのたまひなすをも知らず、同じき大臣と聞こゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、 おぼろけの人見えにくき御けしきをも見知らず、
 と、冗談事に紛らわしておしまいになるのも気づかずに、同じ大臣と申し上げる中でも、たいそう美しく堂々として、きらびやかな感じがして、並々の人では顔を合わせにくい程立派な方とも分からずに、
 滑稽こっけい扱いにして言っているとも令嬢は知らない。また同じ大臣といっても、きれいで、物々しい風采ふうさいを備えた、りっぱな中のりっぱな大臣で、だれも気おくれを感じるほどの父であることも令嬢は知らない。
  to, wokogoto ni notamahi nasu wo mo sira zu, onaziki Otodo to kikoyuru naka ni mo, ito kiyoge ni monomonosiku, hanayaka naru sama si te, oboroke no hito miye nikuki mi-kesiki wo mo misira zu,
2.3.11  「 さて、いつか女御殿には参りはべらむずる
 「それでは、いつ女御殿の許に参上するといたしましょう」
 「それではいつ女御さんの所へ参りましょう」
  "Sate, ituka Nyougo-dono ni ha mawiri habera m zuru?"
2.3.12  と聞こゆれば、
 とお尋ね申すので、

  to kikoyure ba,
2.3.13  「 よろしき日などやいふべからむ。よし、ことことしくは何かは。さ思はれば、今日にても」
 「吉日などと言うのが良いでしょう。いや何、大げさにすることはない。そのようにお思いならば、今日にでも」
 「そう、吉日でなければならないかね。なにいいよ、そんなたいそうなふうには考えずに、行こうと思えば今日にでも」
  "Yorosiki hi nado ya ihu bekara m. Yosi, kotokotosiku ha nani kaha. Sa omoha re ba, kehu ni te mo."
2.3.14  とのたまひ捨てて渡りたまひぬ。
 と、お言い捨てになって、お渡りになった。
 言い捨てて大臣は出て行った。
  to notamahi sute te watari tamahi nu.
注釈219舌の本性にこそははべらめ以下「いかでこの舌疾さやめはべらむ」まで、近江の君の詞。2.3.1
注釈220妙法寺の別当大徳妙法寺(近江国神崎郡高屋郷にあった寺)の別当大徳。2.3.1
注釈221あえものとなむ別当大徳のあやかり者という意。その大徳は早口であったらしい。2.3.1
注釈222いと孝養の心深く『集成』は「内大臣の言葉の真意を解せず、素直に応じる近江の君をややからかった言い方」と注す。2.3.2
注釈223その気近く以下「数へたるかし」まで、内大臣の詞。2.3.3
注釈224報いななり連語「ななり」断定の助動詞+伝聞推定の助動詞。2.3.3
注釈225唖言吃とぞ大乗誹りたる罪「若し人と為ることを得れば、聾盲おんあにして、貧窮諸衰、以自ら荘厳し、(中略)斯の経を謗るが故に、罪を獲ること是くの如し」(法華経、譬喩品)。2.3.3
注釈226子ながら恥づかしくおはする御さまに以下「迎へ寄せけむ」まで、内大臣の心中。弘徽殿女御をさしていう。近江の君を引き取ったことを後悔する。2.3.4
注釈227見えたてまつらむこそ近江の君を弘徽殿女御にお目にかける、の意。2.3.4
注釈228人びともあまた見つぎ言ひ散らさむこと内大臣の心中。2.3.4
注釈229思ひ返したまふものから近江の君を弘徽殿女御に仕えさせることを、考え直させる、の意。2.3.4
注釈230女御里にものしたまふ時々以下「見たてまつりたまひなむや」まで、内大臣の詞。2.3.5
注釈231さる心して直前の「ことなることなき人もおのづから人に交じらひ、さる方になればさてもありぬかし」をさす。2.3.5
注釈232見えたてまつりたまひなむや「なむや」、完了の助動詞「な」確述。推量の助動詞「む」勧誘。係助詞「や」疑問の意。~なさいませんか。2.3.5
注釈233いとうれしきことにこそはべるなれ以下「仕うまつりなむ」まで、近江の君の詞。「なれ」断定の助動詞。2.3.7
注釈234御方々に数まへ弘徽殿女御や雲居雁をさす。姉妹の一人としての意。2.3.7
注釈235水を汲みいただきても仕うまつりなむ「法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水を汲み仕へてぞ得し」(拾遺集哀傷、一三四六、大僧正行基)を踏まえる。2.3.7
注釈236いとしかおりたちて以下「法の師だに遠くは」まで、内大臣の詞。2.3.9
注釈237薪拾ひたまはずとも前の大僧正行基の和歌を踏まえる。2.3.9
注釈238参りたまひなむ「なむ」は完了の助動詞「な」確述。推量の助動詞「む」適当。2.3.9
注釈239をこごとにのたまひなすをも知らず「見えにくき御けしきをも見知らず」と並列の構文。2.3.10
注釈240おぼろけの人見えにくき御けしき普通の人であったら気後れするほど立派な内大臣に対しての意。2.3.10
注釈241さていつか女御殿には参りはべらむずる近江の君の詞。枕草子では「むず」を下品な言葉遣いとする。2.3.11
注釈242よろしき日などや以下「今日にても」まで、内大臣の詞。2.3.13
出典12 薪拾ひたまはずとも 法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し 拾遺集哀傷-一三一四 大僧正行基 2.3.9
2.4
第四段 近江君、血筋を誇りに思う


2-4  Ohomi-no-Kimi is proud of to be descended from Naidaijin

2.4.1  よき四位五位たちの、いつききこえて、 うち身じろきたまふにも、いといかめしき御勢ひなるを見送りきこえて、
 立派な四位五位たちが、うやうやしくお供申し上げて、ちょっとどこかへお出ましになるにも、たいそう堂々とした御威勢なのを、お見送り申し上げて、
 四位五位の官人が多くあとに従った、権勢の強さの思われる父君を見送っていた令嬢は言う。
  Yoki Si-wi Go-wi-tati no, ituki kikoye te, uti-miziroki tamahu ni mo, ito ikamesiki ohom-ikihohi naru wo miokuri kikoye te,
2.4.2  「 いで、あな、めでたのわが親や。かかりける胤ながら、あやしき小家に生ひ出でけること」
 「何と、まあ、ご立派なお父様ですわ。このような方の子供でありながら、賤しい小さい家で育ったこととは」
 「ごりっぱなお父様だこと、あんな方の種なんだのに、ずいぶん小さい家で育ったものだ私は」
  "Ide, ana, medeta no waga oya ya! Kakari keru tane nagara, ayasiki koihe ni ohiide keru koto."
2.4.3  とのたまふ。五節、
 とおっしゃる。五節は、
 五節ごせちは横から、
  to notamahu. Goseti,
2.4.4  「 あまりことことしく、恥づかしげにぞおはする。よろしき親の、思ひかしづかむにぞ、 尋ね出でられたまはまし
 「あまり立派過ぎて、こちらが恥ずかしくなる方でいらっしゃいますわ。相応な親で、大切にしてくれる方に、捜し出しされなさったならよかったのに」
 「でもあまりおいばりになりすぎますわ、もっと御自分はよくなくても、ほんとうに愛してくださるようなお父様に引き取られていらっしゃればよかった」
  "Amari kotokotosiku, hadukasige ni zo ohasuru. Yorosiki oya no, omohi kasiduka m ni zo, taduneide rare tamaha masi."
2.4.5  と言ふも、 わりなし
 と言うのも、無理な話である。
 と言った。真理がありそうである。
  to ihu mo, warinasi.
2.4.6  「 例の、君の、人の言ふこと 破りたまひて、めざまし。 今は、ひとつ口に言葉な交ぜられそあるやうあるべき身にこそあめれ
 「いつもの、あなたが、わたしの言うことをぶちこわしなさって、心外だわ。今は、友達みたいな口をきかないでよ。将来のある身の上なのようですから」
 「まああんた、ぶちこわしを言うのね。失礼だわ。私と自分とを同じように言うようなことはよしてくださいよ。私はあなたなどとは違った者なのだから」
  "Rei no, Kimi no, hito no ihu koto yaburi tamahi te, mezamasi. Ima ha, hitotukuti ni kotoba na maze rare so. Aru yau aru beki mi ni koso a' mere."
2.4.7  と、腹立ちたまふ顔やう、気近く、愛敬づきて、うちそぼれたるは、さる方にをかしく罪許されたり。
 と、腹をお立てになる顔つきが、親しみがあり、かわいらしくて、ふざけたところは、それなりに美しく大目に見られた。
 腹をたてて言う令嬢の顔つきに愛嬌あいきょうがあって、ふざけたふうな姿が可憐かれんでないこともなかった。
  to, haradati tamahu kahoyau, kedikaku, aigyauduki te, uti-sobore taru ha, saru kata ni wokasiku tumi yurusa re tari.
2.4.8  ただ、いと鄙び、あやしき下人の中に 生ひ出でたまへれば、もの言ふさまも知らず。 ことなるゆゑなき言葉をも、声のどやかに押ししづめて言ひ出だしたるは、 打ち聞き、耳異におぼえ、をかしからぬ歌語りをするも、声づかひつきづきしくて、残り思はせ、 本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは、深き筋思ひ得ぬほどの 打ち聞きには、をかしかなりと、耳もとまるかし。
 ただひどい田舎で、賤しい下人の中でお育ちになっていたので、物の言い方も知らない。大したことのない話でも、声をゆっくりと静かな調子で言い出したのは、ふと聞く耳でも、格別に思われ、おもしろくない歌語りをするのも、声の調子がしっくりしていて、先が聞きたくなり、歌の初めと終わりとをはっきり聞こえないように口ずさむのは、深い内容までは理解しないまでもの、ちょっと聞いたところでは、おもしろそうだと、聞き耳を立てるものである。
 ただきわめて下層の家で育てられた人であったから、ものの言いようを知らないのである。何でもない言葉もゆるく落ち着いて言えば聞き手はよいことのように聞くであろうし、巧妙でない歌を話に入れて言う時も、こわづかいをよくして、初め終わりをよく聞けないほどにして言えば、作の善悪を批判する余裕のないその場ではおもしろいことのようにも受け取られるのである。
  Tada, ito inakabi, ayasiki simobito no naka ni ohiide tamahe re ba, mono ihu sama mo sira zu. Koto naru yuwe naki kotoba wo mo, kowe nodoyaka ni osi-sidume te ihiidasi taru ha, utigiki, mimi koto ni oboye, wokasikara nu utagatari wo suru mo, kowedukahi tukidukisiku te, nokori omohase, moto suwe wosimi taru sama nite uti-zuzi taru ha, hukaki sudi omohi e nu hodo no utigiki ni ha, wokasika' nari to, mimi mo tomaru kasi.
2.4.9   いと心深くよしあることを言ひゐたりとも、よろしき心地あらむと聞こゆべくもあらず、あはつけき声ざまにのたまひ出づる言葉こはごはしく、 言葉たみて、わがままに誇りならひたる乳母の懐にならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。
 たとえまことに深い内容の趣向ある話をしたとしても、相当な嗜みがあるとも聞こえるはずもない、うわずった声づかいをしておっしゃる言葉はごつごつして、訛があって、気ままに威張りちらした乳母に今も馴れきっているふうに、態度がたいそう不作法なので、悪く聞こえるのであった。
 強々こわごわしく非音楽的な言いようをすればいことも悪く思われる。乳母めのとふところ育ちのままで、何の教養も加えられてない新令嬢の真価は外観から誤られもするのである。
  Ito kokoro hukaku yosi aru koto wo ihi wi tari tomo, yorosiki kokoti ara m to kikoyu beku mo ara zu, ahatukeki kowazama ni notamahi iduru kotoba kohagohasiku, kotoba tami te, wagamama ni hokori narahi taru menoto no hutokoro ni narahi taru sama ni, motenasi ito ayasiki ni, yatururu nari keri.
2.4.10   いといふかひなくはあらず、三十文字あまり、本末あはぬ歌、口疾くうち続けなどしたまふ。
 まったくお話にならないというのではないが、三十一文字の、上句と下句との意味が通じない歌を、早口で続けざまに作ったりなさる。
 そう頭が悪いのでもなかった。三十一字の初めと終わりの一貫してないような歌を早く作って見せるくらいの才もあるのである。
  Ito ihukahinaku ha ara zu, misomozi amari, moto suwe aha nu uta, kutitoku uti-tuduke nado si tamahu.
注釈243うち身じろきたまふにも内大臣がちょっとどこかへお出ましになるにも、の意。2.4.1
注釈244いであなめでたのわが親や以下「生ひ出でたること」まで、近江の君の詞。2.4.2
注釈245あまりことことしく以下「尋ね出でられたまはまし」まで、五節君の詞。2.4.4
注釈246尋ね出でられたまはまし「られ」受身の助動詞。「まし」推量の助動詞、反実仮想の意。『完訳』は「ほどほどの身分の親で、大切に愛育してくれそうな方に引き取ってもらえばよかったのに。素直な感想だが、内大臣の娘としては不相応、の意にも解せる」と注す。2.4.4
注釈247わりなし『集成』は「草子地」と注す。語り手の批評の言葉。2.4.5
注釈248例の君の人の言ふこと以下「こそあめれ」まで、近江の君の詞。「君」は、あなた五節の君をさしていう。「人の」は、わたしの、の意。『完訳』は「五節の言葉を、自分への言いがかりと解した」と注す。2.4.6
注釈249今はひとつ口に言葉な交ぜられそ『集成』は「友だちみたいに、口出ししないで下さい」。『完訳』は「私が内大臣の娘と分った今は、気やすく口をきかないでくれ」と訳す。「られ」軽い尊敬の助動詞。2.4.6
注釈250あるやうあるべき身にこそあめれ『集成』は「きっと何か仔細のある身の上なのでしょう。内大臣に見出されたからには、特別の運勢に恵まれているのだろう、の意」と注す。2.4.6
注釈251ことなるゆゑなき言葉をも『完訳』は「「耳もとまるかし」まで、近江の君評の前提となる一般論」と注す。2.4.8
注釈252打ち聞き大島本は「うちきく(く=き<朱>)」とある。すなわち「く」の右傍らに朱筆で「き」と傍記する。『集成』『新大系』は底本の朱筆傍記に従う。『古典セレクション』は訂正以前本文に従う。2.4.8
注釈253本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは『集成』は「歌の上の句、下の句いずれにしろ、皆まで言わないように、ひそかに吟じたのは」と訳す。2.4.8
注釈254いと心深くよしあることを言ひゐたりとも『完訳』は「以下、近江の君の場合。たとえ深い内容で趣向のあることを」と注す。2.4.9
注釈255言葉たみて「東にて養はれたる人の子は舌たみてこそものは言ひけれ」(拾遺集物名、四一三、読人しらず)。2.4.9
注釈256いといふかひなくはあらず『完訳』は「以下、語り手の揶揄」と注す。2.4.10
出典13 言葉たみて 東にて養はれたる人の子は舌だみてこそ物は言ひけれ 拾遺集物名-四一三 読人しらず 2.4.9
校訂12 例の 例の--れ(れ/+い)の 2.4.6
校訂13 生ひ 生ひ--おや(や/#)ひ 2.4.8
校訂14 打ち聞き 打ち聞き--うちきく(く/=き<朱>) 2.4.8
2.5
第五段 近江君の手紙


2-5  Ohomi-no-Kimi wrights a letter to Nyougo

2.5.1  「 さて、女御殿に参れとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、 ものしくもこそ思せ。夜さりまうでむ。大臣の君、 天下に思すとも、この御方々のすげなくしたまはむには、殿のうちには立てりなむはや」
 「ところで、女御様に参上せよとおっしゃったのを、しぶるように見えたら、不快にお思いになるでしょう。夜になったら参上しましょう。大臣の君が、世界一大切に思ってくださっても、ご姉妹の方々が冷たくなさったら、お邸の中には居られましょうか」
 「女御さんの所へ行けとお言いになったのだから、私がしぶしぶにして気が進まないふうに見えては感情をお害しになるだろう。私は今夜のうちに出かけることにする。大臣がいらっしゃっても女御さんなどから冷淡にされてはこの家で立って行きようがないじゃないか」
  "Sate, Nyougo-dono ni mawire to notamahi turu wo, sibusibu naru sama nara ba, monosiku mo koso obose. Yosari maude m. Otodo-no-Kimi, tenga ni obosu tomo, kono ohom-katagata no sugenaku si tamaha m ni ha, tono no uti ni ha tate ri na m haya!"
2.5.2  とのたまふ。 御おぼえのほど、いと軽らかなりや
 とおっしゃる。ご声望のほどは、たいそう軽いことであるよ。
 と令嬢は言っていた。自信のなさが気の毒である。
  to notamahu. Ohom-oboye no hodo, ito karoraka nari ya!
2.5.3  まづ御文たてまつりたまふ。
 さっそくお手紙を差し上げなさる。
 手紙を先に書いた。
  Madu ohom-humi tatematuri tamahu.
2.5.4  「 葦垣のま近きほどに はさぶらひながら、今まで 影踏むばかりのしるしもはべらぬは 勿来の関をや据ゑさせたまへらむとなむ。 知らねども、武蔵野といへばかしこけれども。あなかしこや、あなかしこや」
 「お側近くにおりながら、今までお伺いする幸せを得ませんのは、来るなと関所をお設けになったのでしょうか。お目にかかってはいませんのに、お血続きの者ですと申し上げるのは、恐れ多いことですが。まことに失礼ながら、失礼ながら」
 葦垣あしがきのまぢかきほどにはべらひながら、今まで影踏むばかりのしるしも侍らぬは、なこその関をやゑさせ給ひつらんとなん。知らねども武蔵野むさしのといへばかしこけれど、あなかしこやかしこや。
  "Asigaki no madikaki hodo ni ha saburahi nagara, ima made kage humu bakari no sirusi mo habera nu ha, Nakoso-no-seki wo ya suwe sase tamahe ra m to nam. Sira ne domo, Musasino to ihe ba kasikokere domo. Ana kasiko ya, ana kasiko ya!"
2.5.5  と、 点がちにて、裏には、
 と、点ばかり多い書き方で、その裏には、
 点の多い書き方で、裏にはまた、
  to, ten-gati nite, ura ni ha,
2.5.6  「 まことや、暮にも参り来むと思うたまへ立つは、 厭ふにはゆるにや 。いでや、いでや、 あやしきは水無川にを」
 「実は、今晩にも参上しようと存じますのは、お厭いになるとかえって思いが募るのでしょうか。いいえ、いいえ、見苦しい字は大目に見ていただきたく」
 まことや、暮れにも参りこむと思ひ給へ立つは、いとふにはゆるにや侍らん。いでや、いでや、怪しきはみなせ川にを。
  "Makoto ya, kure ni mo mawiri ko m to omou tamahe tatu ha, itohu ni hayuru ni ya? Ide ya, ide ya, ayasiki ha Minasegaha ni wo."
2.5.7  とて、また端に、かくぞ、
 とあって、また端の方に、このように、
 と書かれ、端のほうに歌もあった。
  tote, mata hasi ni, kaku zo,
2.5.8  「 草若み常陸の浦のいかが崎
   いかであひ見む田子の浦波
 「未熟者ですが、いかがでしょうかと
  何とかしてお目にかかりとうございます
  草若みひたちの海のいかがさき
  いかで相見む田子の浦波
    "Kusa wakami Hitati-no-ura no Ikagasaki
    ikade ahimi m Tago-no-uranami
2.5.9   大川水の
 並一通りの思いではございません」
 大川水の(みよし野の大川水のゆほびかに思ふものゆゑなみの立つらん)
  Ohokaha-midu no."
2.5.10  と、青き色紙一重ねに、いと草がちに、いかれる手の、その筋とも見えず、ただよひたる書きざまも 下長に 、わりなくゆゑばめり。行のほど、端ざまに筋交ひて、倒れぬべく見ゆるを、うち笑みつつ見て、さすがにいと細く小さく巻き結びて、撫子の花につけたり。
 と、青い色紙一重ねに、たいそう草仮名がちの、角張った筆跡で、誰の書風を継ぐとも分からない、ふらふらした書き方も下長で、むやみに気取っているようである。行の具合は、端に行くほど曲がって来て、倒れそうに見えるのを、にっこりしながら見て、それでもたいそう細く小さく巻き結んで、撫子の花に付けてあった。
 青い色紙一重ねに漢字がちに書かれてあった。肩がいかって、しかも漂って見えるほど力のない字、しという字を長く気どって書いてある。一行一行が曲がって倒れそうな自身の字を、満足そうに令嬢は微笑して読み返したあとで、さすがに細く小さく巻いて撫子なでしこの花へつけたのであった。
  to, awoki sikisi hito-kasane ni, ito sau-gati ni, ikare ru te no, sono sudi to mo miye zu, tadayohi taru kakizama mo simonaga ni, warinaku yuwebame ri. Kudari no hodo, hasizama ni sudikahi te, tahure nu beku miyuru wo, uti-wemi tutu mi te, sasuga ni ito hosoku tihisaku maki musubi te, nadesiko no hana ni tuke tari.
注釈257さて女御殿に以下「殿のうちには立てりなむや」まで、近江の君の詞。2.5.1
注釈258ものしくもこそ思せ主語は内大臣。2.5.1
注釈259天下に思すとも強調表現、大袈裟な言い方。2.5.1
注釈260御おぼえのほど、いと軽らかなりや『集成』は「からかいの草子地」。『完訳』は「語り手のからかい気味の同情」と注す。2.5.2
注釈261葦垣のま近きほどに以下「あなかしこやあなかしこや」まで、近江の君の手紙文。「人知れぬ思ひやなぞと葦垣のま近けれども逢ふよしのなき」(古今集恋一、五〇六、読人しらず)。2.5.4
注釈262影踏むばかりのしるしもはべらぬは「立ち寄らば影ふむばかり近けれど誰か勿来の関を据ゑけむ」(後撰集恋二、六八二、小八条御息所)。「勿来の関」は陸奥の枕詞。2.5.4
注釈263知らねども武蔵野といへば「知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ」(古今六帖五、むらさき、三五〇七)。2.5.4
注釈264点がちにて字画の点が目立つ書き方かといわれる。2.5.5
注釈265まことや暮にも以下「水無瀬川にを」まで、近江の君の手紙の裏書き。2.5.6
注釈266厭ふにはゆるにや「あやしくもいとふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき」(後撰集恋二、六〇八、読人しらず)。2.5.6
注釈267あやしきは水無川「悪しき手をなほよきさまにみなせ川底の水屑の数ならずとも」(源氏釈所引、出典未詳)。2.5.6
注釈268草若み常陸の浦のいかが崎--いかであひ見む田子の浦波近江の君の弘徽殿女御への贈歌。『集成』は「「いかが崎」は、「いかで」を言い出す序。河内の国の枕詞(あるいは近江とも)。「田子の浦」は駿河の国の枕詞。第一句「草若み」は、自分を卑下したつもりか。三箇所の関係のない名所を詠み込み、「本末あはぬ歌」の実例」と注す。2.5.8
注釈269大川水の歌に添えた言葉。「み吉野の大川野辺の藤波の並に思はば我が恋ひめやは」(古今集恋四、六九九、読人しらず)。2.5.9
注釈270下長に文字の下半分が長い書き方。2.5.10
出典14 葦垣のま近き 人知れぬ思ひやなぞと葦垣の間近けれども逢ふよしのなき 古今集恋一-五〇六 読人知らず 2.5.4
出典15 影踏むばかり 立ち寄らば影踏むばかり近けれど誰か勿来の関を据ゑけむ 後撰集恋二-六八二 小八条御息所 2.5.4
出典16 勿来の関をや据ゑ 逢ひ見では面伏せにや思ふらむ勿来の関に生ひよ帚木 源氏釈所引-出典未詳 2.5.4
出典17 知らねども、武蔵野といへば 知らねども武蔵野と言へばかこたれぬよしやそこそは紫のゆゑ 古今六帖五-三五〇七 2.5.4
出典18 厭ふにはゆる あやしくも厭ふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき 後撰集恋二-六〇八 読人しらず 2.5.6
出典19 あやしきは水無川 悪しき手をなほ善きさまに水無瀬川底の水屑の数ならずとも 源氏釈所引-出典未詳 2.5.6
出典20 大川水の み吉野の大川野辺の藤浪のなみに思はばわが恋ひめやは 古今集恋四-六九九 読人しらず 2.5.9
校訂15 下長 下長--しり(り/$も<朱>)なか 2.5.10
2.6
第六段 女御の返事


2-6  Nyougo replyies a letter to Ohomi-no-Kimi

2.6.1   樋洗童しも 、いと馴れてきよげなる、今参りなりけり。 女御の御方の台盤所に寄りて
 樋洗童は、たいそうもの馴れた態度できれいな子で、新参者なのであった。女御の御方の台盤所に寄って、
 かわや係りの童女はきれいな子で、奉公なれた新参者であるが、それが使いになって、女御の台盤所だいばんどころへそっと行って、
  Hisumasiwaraha simo, ito nare te kiyoge naru, imamawiri nari keri. Nyougo-no-Ohomkata no daibandokoro ni yori te,
2.6.2  「 これ、参らせたまへ
 「これを差し上げてください」
 「これを差し上げてください」
  "Kore, mawira se tamahe."
2.6.3  と言ふ。 下仕へ見知りて
 と言う。下仕えが顔を知っていて、
 と言って出した。下仕しもづかえの女が顔を知っていて、
  to ihu. Simodukahe misiri te,
2.6.4  「 北の対にさぶらふ童なりけり
 「北の対に仕えている童だわ」
 北の対に使われている女の子だ
  "Kitanotai ni saburahu waraha nari keri."
2.6.5  とて、御文取り入る。 大輔の君といふ、 持て参りて、引き解きて御覧ぜさす。
 と言って、お手紙を受け取る。大輔の君というのが、持参して、開いて御覧に入れる。
 といって、撫子を受け取った。大輔たゆうという女房が女御の所へ持って出て、手紙をあけて見せた。
  tote, ohom-humi toriiru. Taihu-no-Kimi to ihu, mote-mawiri te, hikitoki te goranze sasu.
2.6.6  女御、ほほ笑みてうち置かせたまへるを、 中納言の君といふ、 近くゐて、そばそば見けり。
 女御が、苦笑してお置きあそばしたのを、中納言の君という者が、お近くにいて、横目でちらちらと見た。
 女御は微笑をしながら下へ置いた手紙を、中納言という女房がそばにいて少し読んだ。
  Nyougo, hohowemi te utioka se tamahe ru wo, Tyuunagon-no-Kimi to ihu, tikaku wi te, sobasoba mi keri.
2.6.7  「 いと今めかしき御文のけしきにもはべめるかな」
 「たいそうしゃれたお手紙のようでございますね」
 「何でございますか、新しい書き方のお手紙のようでございますね」
  "Ito imamekasiki ohom-humi no kesiki ni mo habe' meru kana!"
2.6.8  と、ゆかしげに思ひたれば、
 と、見たそうにしているので、
 となお見たそうに言うのを聞いて、女御は、
  to, yukasige ni omohi tare ba,
2.6.9  「 草の文字は、え見知らねばにやあらむ、本末なくも見ゆるかな」
 「草仮名の文字は、読めないからかしら、歌の意味が続かないように見えます」
 「漢字は見つけないせいかしら、前後が一貫してないように私などには思われる手紙よ」
  "Sau no mozi ha, e misira ne ba ni ya ara m, moto suwe naku mo miyuru kana!"
2.6.10  とて、賜へり。
 とおっしゃって、お下しになった。
 と言いながら渡した。
  tote, tamahe ri.
2.6.11  「 返りこと、かくゆゑゆゑしく書かずは、悪ろしとや思ひおとされむ。やがて書きたまへ」
 「お返事は、このように由緒ありげに書かなかったら、なっていないと軽蔑されましょう。そのままお書きなさい」
 「返事もそんなふうにたいそうに書かないでは低級だと言って軽蔑けいべつされるだろうね。それを読んだついでにあなたから書いておやりよ」
  "Kaherikoto, kaku yuweyuwesiku kaka zu ha, warosi to ya omohi otosa re m. Yagate kaki tamahe."
2.6.12  と、譲りたまふ。 もて出でてこそあらね、若き人は、ものをかしくて、皆うち笑ひぬ。 御返り乞へば
 と、お任せになる。そう露骨に現しはしないが、若い女房たちは、何ともおかしくて、皆笑ってしまった。お返事を催促するので、
 と女御は言うのであった。露骨に笑い声はたてないが若い女房は皆笑っていた。使いが返事を請求していると言ってきた。
  to, yuduri tamahu. Mote-ide te koso ara ne, wakaki hito ha, mono-wokasiku te, mina uti-warahi nu. Ohom-kaheri kohe ba,
2.6.13  「 をかしきことの筋にのみまつはれてはべめれば、 聞こえさせにくくこそ。宣旨書きめきては、いとほしからむ」
 「風流な引歌ばかり使ってございますので、お返事が難しゅうございます。代筆めいては、お気の毒でしょう」
 「風流なお言葉ばかりでできているお手紙ですから、お返事はむずかしゅうございます。仰せはこうこうと書いて差し上げるのも失礼ですし」
  "Wokasiki koto no sudi ni nomi matuha re te habe' mere ba, kikoye sase nikuku koso. Senzigaki meki te ha, itohosikara m."
2.6.14  とて、ただ、御文めきて書く。
 と言って、まるで、女御のご筆跡のように書く。
 と言って、中納言は女御の手紙のようにして書いた。
  tote, tada, ohom-humi meki te kaku.
2.6.15  「 近きしるしなき、おぼつかなさは、恨めしく、
 「お近くにいらっしゃるのにその甲斐なく、お目にかかれないのは、恨めしく存じられまして、
 近きしるしなきおぼつかなさは恨めしく、
  "Tikaki sirusi naki, obotukanasa ha, uramesiku,
2.6.16    常陸なる駿河の海の須磨の浦に
   波立ち出でよ筥崎の松
  常陸にある駿河の海の須磨の浦に
  お出かけください、箱崎の松が待っています
  ひたちなる駿河するがの海の須磨すまの浦に
  なみ立ちいでよ箱崎はこざきの松
    Hitati naru Suruga no umi no Suma no ura ni
    nami tatiide yo Hakozaki no matu
2.6.17  と書きて、読みきこゆれば、
 と書いて、読んでお聞かせす申すと、
 中納言が読むのを聞いて女御は、
  to kaki te, yomi kikoyure ba,
2.6.18  「 あな、うたて。まことにみづからのにもこそ言ひなせ」
 「まあ、困りますわ。ほんとうにわたしが書いたのだと言ったらどうしましょう」
「そんなこと、私が言ったように人が皆思うだろうから」
  "Ana, utate! Makoto ni midukara no ni mo koso ihi nase."
2.6.19  と、かたはらいたげに思したれど、
 と、迷惑そうに思っていらっしゃったが、
 と言って困ったような顔をしていると、
  to, kataharaitage ni obosi tare do,
2.6.20  「 それは聞かむ人わきまへはべりなむ
 「それは聞く人がお分かりでございましょう」
「大丈夫でございますよ。聞いた人が判断いたしますよ」
  "Sore ha kika m hito wakimahe haberi na m."
2.6.21  とて、 おし包みて出だしつ
 と言って、紙に包んで使いにやった。
 と中納言は言って、そのまま包んで出した。
  tote, osi-tutumi te idasi tu.
2.6.22   御方見て
 御方が見て、
 新令嬢はそれを見て、
  Ohomkata mi te,
2.6.23  「 をかしの御口つきや。待つとのたまへるを
 「しゃれたお歌ですこと。待っているとおっしゃっているわ」
「うまいお歌だこと、まつとお言いになったのだから」
  "Wokasi no ohom-kutituki ya! Matu to notamahe ru wo!"
2.6.24  とて、いとあまえたる薫物の香を、返す返す薫きしめゐたまへり。紅といふもの、いと赤らかにかいつけて、髪けづりつくろひたまへる、さる方ににぎははしく、愛敬づきたり。 御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし
 と言って、たいそう甘ったるい薫物の香を、何度も何度も着物にた焚きしめていらっしゃった。紅というものを、たいそう赤く付けて、髪を梳いて化粧なさったのは、それなりに派手で愛嬌があった。ご対面の時、さぞ出過ぎたこともあったであろう。
 と言って、甘いにおいの薫香くんこうを熱心に着物へき込んでいた。べにを赤々とつけて、髪をきれいになでつけた姿にはにぎやかな愛嬌あいきょうがあった、女御との会談にどんな失態をすることか。
  tote, ito amaye taru takimono no ka wo, kahesugahesu taki sime wi tamahe ri. Beni to ihu mono, ito akaraka ni kai-tuke te, kami keduri tukurohi tamahe ru, saru kata ni nigihahasiku, aigyauduki tari. Ohom-taimen no hodo, sasi-sugusi taru koto mo ara m kasi.
注釈271樋洗童しも大島本は「ひすましわらハゝ(ゝ#<朱>)しも」とある。すなわち底本は踊り字「ゝ」を朱筆で抹消する。『新大系』は底本の朱筆訂正に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本及び底本の訂正以前本文に従って「樋洗童はしも」と校訂する。2.6.1
注釈272女御の御方の台盤所に寄りて弘徽殿女御方の女房の詰所。2.6.1
注釈273これ参らせたまへ使者の詞。2.6.2
注釈274下仕へ見知りて女御方の下仕え。2.6.3
注釈275北の対にさぶらふ童なりけり女御方の下仕えの詞。2.6.4
注釈276大輔の君女御方の女房。2.6.5
注釈277持て参りて大島本は「もてままいりて」とある。「ま」は衍字であろう。2.6.5
注釈278中納言の君女御方の女房。女房名からして上臈の女房。2.6.6
注釈279近くゐて大島本は「ちかくいて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「近くさぶらひて」と校訂する。2.6.6
注釈280いと今めかしき以下「はべめるかな」まで、中納言の君の詞。2.6.7
注釈281草の文字は以下「見ゆるかな」まで、弘徽殿女御の詞。『集成』は「草仮名の読みにくさにかこつけて、やんわりと批評したもの」と注す。2.6.9
注釈282返りこと以下「書きたまへ」まで、弘徽殿女御の詞。2.6.11
注釈283もて出でてこそあらね挿入句。『集成』は「(ご姉妹のことゆえ)おおっぴらにではないが」。『完訳』は「そう露骨に示しはしないが」と訳す。2.6.12
注釈284御返り乞へば主語は使者の樋洗童。2.6.12
注釈285をかしきことの以下「いとほしからむ」まで、中納言の君の詞。2.6.13
注釈286聞こえさせにくくこそ係助詞「こそ」の下に「侍れ」などの語句が省略。2.6.13
注釈287近きしるしなき以下、和歌の終わり「筥崎の松」まで、中納言の君が書いた返事。2.6.15
注釈288常陸なる駿河の海の須磨の浦に--波立ち出でよ筥崎の松「常陸の浦」「田子の浦波」の語句を受けて、「常陸なる駿河の海」と返し、また「須磨の浦」「筥崎の松」という歌枕を詠んで返す。「松」は「待つ」の掛詞。「波」と「立つ」は縁語。歌意は「立ち出でよ」「待つ」にある。2.6.16
注釈289あなうたて以下「もこそ言ひなせ」まで、弘徽殿女御の詞。連語「もこそ」は、懸念の意を表す。2.6.18
注釈290それは聞かむ人わきまへはべりなむ中納言の君の詞。2.6.20
注釈291おし包みて出だしつ『完訳』は「正式な書状の形式の立文にした。女同士の文通には用いない」と注す。2.6.21
注釈292御方見て近江の君をさす。「御方」という敬語表現が皮肉。2.6.22
注釈293をかしの御口つきや待つとのたまへるを近江の君の詞。間投助詞「を」詠嘆。2.6.23
注釈294御対面のほどさし過ぐしたることもあらむかし『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の言辞。この夜の出仕のさまを読者の想像にまかせる」と注す。2.6.24
校訂16 樋洗童 樋洗童--ひすましわらはゝ(ゝ/$<朱>) 2.6.1
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渋谷栄一校訂(C)
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渋谷栄一注釈(C)
Last updated 8/26/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
砂場清隆(青空文庫)

2003年8月31日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2008年3月22日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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