第三十一帖 真木柱


31 MAKIBASIRA (Ohoshima-bon)


光る源氏の太政大臣時代
三十七歳冬十月から三十八歳十一月までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo-Daijin era, from October at the age of 37 to November at the age of 38

2
第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動


2  Tale of Higekuro's  Kitanokata pours ashes to Higekuro

2.1
第一段 鬚黒の北の方の嘆き


2-1  Higekuro's wife grieved over her husband's fickleness

2.1.1   内裏へ参りたまはむことを、やすからぬことに大将思せどそのついでにやまかでさせたてまつらむの御心つきたまひて、ただあからさまのほどを 許しきこえたまふ。かく 忍び隠ろへたまふ御ふるまひも、 ならひたまはぬ心地に苦しければ、わが殿のうち修理ししつらひて、年ごろは荒らし埋もれ、うち捨てたまへりつる御しつらひ、よろづの 儀式を改めいそぎたまふ。
 宮中に参内なさることを、心配なことと大将はお思いになるが、その機会に、そのまま退出おさせ申そうかとのお考えを思いつかれて、ただちょっとの暇のお許しを申し上げなさる。このように人目を忍んでお通いになることも、お慣れにならない感じで辛いので、ご自分の邸内の修理し整えて、長年荒れさせ埋もれ、放って置かれたお部屋飾り、すべての飾りつけを立派にしてご準備なさる。
 御所へ尚侍を出すことで大将は不安をさらに多く感じるのであるが、それを機会に御所から自邸へ尚侍を退出させようと考えるようになってからは、短時日の間だけを宮廷へ出ることを許すようになった。こんなふうに婿として通って来る様式などはれないことで大将には苦しいことであったから、自邸を修繕させ、いっさいを完全に設けて一日も早く玉鬘を迎えようとばかり思っていた。今日きょうまではやしきの中も荒れてゆくに任せてあったのである。
  Uti he mawiri tamaha m koto wo, yasukara nu koto ni Daisyau obose do, sono tuide ni ya, makade sase tatematura m no mi-kokoro tuki tamahi te, tada akarasama no hodo wo yurusi kikoye tamahu. Kaku sinobi kakurohe tamahu ohom-hurumahi mo, narahi tamaha nu kokoti ni kurusikere ba, waga tono no uti suri si siturahi te, tosigoro ha arasi udumore, uti-sute tamahe ri turu ohom-siturahi, yorodu no gisiki wo aratame isogi tamahu.
2.1.2  北の方の思し嘆くらむ御心も知りたまはず、かなしうしたまひし君達をも、目にもとめたまはず、 なよびかに情け情けしき心うちまじりたる人こそ、とざまかうざまにつけても、人のため恥がましからむことをば、推し量り思ふところもありけれ、ひたおもむきにすくみたまへる御心にて、人の御心動きぬべきこと多かり。
 北の方がお嘆きになろうお気持ちもお考えにならず、かわいがっていらっしゃったお子たちにも、お目もくれなさらず、やさしく情け深い気持ちのある人ならば、何かのことにつけても、女にとって恥になるようなことには、考え及ぶところもあろうが、一徹で融通のきかないご性分なので、人のお気に障るようなことが多いのであった。
 夫人の悲しむ心も知らず、愛していた子供たちも大将の眼中にはもうなかった。好色な風流男というものは、ただ一人の人だけを愛するのでなしに、だれのため、彼のためも考えて思いやりのある処置をとるものであるが、生一本な人のこうした場合の態度には一方の夫人としてはたまるまいとあわれまれるものがあった。
  Kitanokata no obosi nageku ram mi-kokoro mo siri tamaha zu, kanasiu si tamahi si Kimi-tati wo mo, me ni mo tome tamaha zu, nayobika ni nasakenasakesiki kokoro uti-maziri taru hito koso, tozama-kauzama ni tuke te mo, hito no tame hadigamasikara m koto woba, osihakari omohu tokoro mo ari kere, hita-omomuki ni sukumi tamahe ru mi-kokoro nite, hito no mi-kokoro ugoki nu beki koto ohokari.
2.1.3   女君、人に劣りたまふべきことなし。人の御本性も、さるやむごとなき父親王の、いみじうかしづきたてまつりたまへるおぼえ、世に軽からず、御容貌なども、いとようおはしけるを、あやしう、執念き御もののけにわづらひたまひて、この年ごろ、人にも似たまはず、うつし心なき折々多くものしたまひて、御仲もあくがれてほど経にけれど、やむごとなきものとは、 また並ぶ人なく思ひきこえたまへるを、めづらしう御心移る方の、なのめにだにあらず、 人にすぐれたまへる御ありさまよりも、かの疑ひおきて、皆人の 推し量りしことさへ、心きよくて 過ぐいたまひけるなどを、 ありがたうあはれと、思ひましきこえたまふも、 ことわりになむ
 女君は、人にひけをお取りになるようなところはない。お人柄も、あのような高貴な父親王がたいそう大切にお育て申された世間の評判、けっして軽々しくなく、ご器量なども、たいそう素晴らしくいらっしゃったが、妙に、しつこい物の怪をお患いになって、ここ数年来、普通の人とはお変わりになって、正気のない時々が多くおありになって、ご夫婦仲も疎遠になって長くなったが、れっきとした本妻としては、また並ぶ人もなくお思い申し上げていらっしゃったが、珍しくお心惹かれる方が、一通りどころの方でなく、人より勝れていらっしゃるご様子よりも、あの疑いを持って皆が想像していたことさえ、潔白の身でお過ごしになっていらしたことなどを、めったにない立派な態度だと、ますます深くお思い申し上げなさるのも、もっともなことである。
 夫人は人に劣った女性でもなかった。身分は尊貴な式部卿しきぶきょうの宮の最も大切にされた長女であって、世の中から敬われてもいた。美人でもあったが、ひどい物怪もののけがついて、この何年来は尋常人のようでもないのである。狂っている時が多くて、夫婦の中も遠くなっていたが、なお唯一の妻として尊重していた大将に新しい夫人ができ、それがすぐれた美しい人である点ではなくて、世間も疑っていた源氏との関係もないことであった清い処女であった点に大将の愛は強くかれてしまった。それで第一夫人はそれだけの愛を損しているわけである。
  WomnaGimi, hito ni otori tamahu beki koto nasi. Hito no ohom-honzyau mo, saru yamgotonaki titi-Miko no, imiziu kasiduki tatematuri tamahe ru oboye, yo ni karokara zu, ohom-katati nado mo, ito you ohasi keru wo, ayasiu, sihuneki ohom-mononoke ni wadurahi tamahi te, kono tosigoro, hito ni mo ni tamaha zu, utusigokoro naki woriwori ohoku monosi tamahi te, ohom-naka mo akugare te hodo he ni kere do, yamgotonaki mono to ha, mata narabu hito naku omohi kikoye tamahe ru wo, medurasiu mi-kokoro uturu kata no, nanome ni dani ara zu, hito ni sugure tamahe ru ohom-arisama yori mo, kano utagahi oki te, minahito no osihakari si koto sahe, kokorokiyoku te sugui tamahi keru nado wo, arigatau ahare to, omohimasi kikoye tamahu mo, kotowari ni nam.
2.1.4  式部卿宮聞こし召して、
 式部卿宮がお聞きになって、
 式部卿の宮はこの事情をお聞きになって、
  Sikibukyau-no-Miya kikosimesi te,
2.1.5  「 今は、しか今めかしき人を渡して、もてかしづかむ片隅に、人悪ろくて添ひものしたまはむも、人聞きやさしかる べし。おのがあらむこなたは、いと人笑へなるさまに 従ひなびかでも、ものしたまひなむ」
 「今は、あのような若い女を迎えて、大切にするだろう片隅で、みっともなく連れ添っていらっしゃるのも、外聞も痩せるほど恥ずかしいだろう。自分が生きているうちは、まことに世間に恥をさらして言いなりにならなくても、お過ごしになられよう」
 「今後そうした若い夫人を入れて派手はでに暮らさせようとしている邸の片すみに小さくなって住んでいるようなことをしては、世間体もよろしくない。私の生きている間はそんな屈辱的な待遇を受けて良人おっとの家にいる必要はない」
  "Ima ha, sika imamekasiki hito wo watasi te, mote-kasiduka m katasumi ni, hitowaroku te sohi monosi tamaha m mo, hitogiki yasasikaru besi. Onoga ara m konata ha, ito hitowarahe naru sama ni sitagahi nabika de mo, monosi tamahi na m."
2.1.6  とのたまひて、宮の東の対を払ひしつらひて、「渡したてまつらむ」と思しのたまふを、「 親の御あたりといひながら今は限りの身にて、たち返り見えたてまつらむこと」と、思ひ乱れたまふに、いとど御心地もあやまりて、うちはへ臥しわづらひたまふ。
 とおっしゃって、宮邸の東の対を掃除し整えて、「お迎え申そう」とお考えになっておっしゃるのを、「親の御家と言っても、夫に捨てられた身の上で、再び実家に戻ってお顔を合わせ申すのも」と、思い悩みなさると、ますますご気分も悪くなって、ずっと病床にお臥せりになる。
 と御意見をお言いになった。御自邸の東の対を掃除そうじさせて、大将夫人の移って来る場所に決めておいでになるのであった。親の家ではあっても、良人おっとの愛を失った女になって帰って行くことは、夫人の決心のできかねることであった。
  to notamahi te, Miya no himgasi-no-tai wo harahi siturahi te, "Watasi tatematura m." to obosi notamahu wo, "Oya no ohom-atari to ihi nagara, ima ha kagiri no mi nite, tati-kaheri miye tatematura m koto." to, omohi midare tamahu ni, itodo mi-kokoti mo ayamari te, uti-hahe husi wadurahi tamahu.
2.1.7   本性は、いと静かに心よく、子めきたまへる人の、 時々、心あやまりして、人に疎まれぬべきことなむ、うち混じりたまひける。
 生まれつきは、たいそう静かで気立てもよく、おっとりとしていらっしゃる方で、時々、気がおかしくなって、人から嫌われてしまうようなことが、時たまおありなのであった。
 性質の静かな善良な人で、子供らしいおおようさもある人でいながら、時々人からうとまれるような病的な発作があるのである。
  Honzyau ha, ito siduka ni kokoroyoku, komeki tamahe ru hito no, tokidoki, kokoroayamari si te, hito ni utoma re nu beki koto nam, uti-maziri tamahi keru.
注釈77内裏へ参りたまはむことをやすからぬことに大将思せど以下の段、場面変わって、視点を鬚黒の立場において語る。2.1.1
注釈78そのついでにや大島本は「そのついてにや(△△&にや)まかて」とある。すなわち「そのついて」の次の元の文字の上に重ねて「にや」と書く。『新大系』はその訂正に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「そのついでにやがて」と校訂する。玉鬘が出仕した機会をさす。2.1.1
注釈79まかでさせたてまつらむ宮中から鬚黒の自邸に退出おさせ申そう、の意。2.1.1
注釈80許しきこえたまふ「許し」は名詞、許可の意。鬚黒は源氏にお許しを願い申し上げなさる、意。2.1.1
注釈81忍び隠ろへたまふ御ふるまひ夫婦でありながら鬚黒が人目を忍んで玉鬘のもとにお通いになることをいう。2.1.1
注釈82ならひたまはぬ心地経験のないこと。鬚黒の堅物らしい性格を示す。2.1.1
注釈83儀式を改め格式を立派に改めて、の意。2.1.1
注釈84なよびかに以下「思ふところもありけれ」まで、挿入句。2.1.2
注釈85女君人に劣りたまふべきことなし鬚黒の北の方は、父は式部卿宮、藤壷中宮の姪、源氏の紫の上とは異母姉妹。『紹巴抄』は「女君」以下「ことわりになむ」までを「双地」と指摘する。以下、文体がやや変化する。2.1.3
注釈86また並ぶ人なく思ひきこえたまへるを鬚黒がれっきとした北の方としてお思い申し上げていらしたが。2.1.3
注釈87人にすぐれたまへる御ありさまよりも『万水一露』は「草地に批判したる詞成へし」と指摘する。2.1.3
注釈88推し量りしことさへ過去の助動詞「し」は直接体験した出来事をいう。鬚黒の心に即して語り手が語っている。2.1.3
注釈89ありがたうあはれと『孟津抄』は「草子地也」と指摘する。2.1.3
注釈90ことわりになむ『岷江入楚』は「草子の地なるへし」と指摘する。もっともなことである、という批評判断は語り手の感想である。以上、客観的物語の地の文から次第に語り手中心の文体に変化してきた。2.1.3
注釈91今はしか以下「ものしたまひなむ」まで、式部卿宮の詞。2.1.5
注釈92従ひなびかでも鬚黒の言いなりにならなくても。2.1.5
注釈93親の御あたりといひながら以下「見えたてまつらむこと」まで、北の方の心。2.1.6
注釈94今は限りの身『集成』は「夫に捨てられた身の上」と解し、『完訳』は「ひとたび人の妻となった身の上」と解す。2.1.6
注釈95本性は以下「うち混じりたまひける」まで、語り手の説明的文章が挿入される。2.1.7
注釈96時々心あやまりして物の怪の発作によって気がおかしくなること。2.1.7
校訂10 過ぐい 過ぐい--すく(く/&く、=すイ<朱>)い 2.1.3
校訂11 べし べし--つ(つ/$へ<朱>)し 2.1.5
2.2
第二段 鬚黒、北の方を慰める(一)


2-2  Higekuro gives comfort to his wife(1)

2.2.1  住まひなどの、あやしうしどけなく、もののきよらもなくやつして、いと埋れいたくもてなしたまへるを、 玉を磨ける目移しに、心もとまらねど、年ごろの心ざしひき替ふるものならねば、心には、いとあはれと思ひきこえたまふ。
 お住まいなどが、とんでもなく乱雑で、綺麗さもなく汚れて、たいそう塞ぎ込んでいらっしゃるのを、玉を磨いたような所を見て来た目には、気に入らないが、長年連れ添ってきた愛情が急に変わるものでもないので、心中では、たいそう気の毒にとお思い申し上げる。
 住居すまいなども始終だらしなくなっていて、きれいなことは何一つ残っていない家にいる夫人を、玉鬘の六条院にいるのとは比べようもないのであるが、青年時代から持ち続けた大将の愛は根を張っていて、一朝一夕に変わるものでも、変えられるものでもないから、今も心では非常に妻を哀れに思っていた。
  Sumahi nado no, ayasiu sidokenaku, mono no kiyora mo naku yatusi te, ito mumore itaku motenasi tamahe ru wo, tama wo migake ru me utusi ni, kokoro mo tomara ne do, tosigoro no kokorozasi hiki-kahuru mono nara ne ba, kokoro ni ha, ito ahare to omohi kikoye tamahu.
2.2.2  「 昨日今日の、いと浅はかなる人の御仲らひだに、 よろしき際になれば、皆思ひのどむる方ありてこそ見果つなれ。いと身も苦しげにもてなし たまひつれば、聞こゆべきこともうち出で聞こえにくくなむ。
 「昨日今日の、たいそう浅い夫婦仲でさえ、悪くはない身分の人となれば、皆我慢することがあって添い遂げるものだ。たいそう身体も苦しそうにしていらっしゃったので、申し上げなければならないこともお話し申し上げにくくてね。
 「ただ昨日きのう今日きょうにできた夫婦でも、貴族の人たちは気に入らないことも、気に入らないふうを見せずに済ますものなのだ。全然人を捨ててしまうようなことをわれわれの階級の者はしないものなのだ。あなたには病苦というものがつきまとっていて、それを見るだけでも気の毒で、私の恋愛問題などを話しておこうとしても話す時がなかったのだよ。
  "Kinohu kehu no, ito asahaka naru hito no ohom-nakarahi dani, yorosiki kiha ni nare ba, mina omohi nodomuru kata ari te koso mihatu nare. Ito mi mo kurusige ni motenasi tamahi ture ba, kikoyu beki koto mo uti-ide kikoye nikuku nam.
2.2.3  年ごろ契りきこゆることにはあらずや。 世の人にも似ぬ御ありさまを、見たてまつり果てむとこそは、ここら思ひしづめつつ過ぐし来るに、えさしもあり果つまじき御心おきてに、思し疎むな。
 長年添い遂げ申して来た仲ではありませんか。世間の人と違ったご様子を、最後までお世話申そうと、ずいぶんと我慢して過ごして来たのに、とてもそうは行かないようなお考えで、お嫌いなさるのですね。
 以前からあなたと約束していることでしょう、あなたに病気はあっても私は一生あなたといるつもりだって、私はどんな辛抱しんぼうも続けてするつもりなのに、あなたはほかのことを考え出したのですね。別れてしまうようなことは考えずに私を愛してください。
  Tosigoro tigiri kikoyuru koto ni ha ara zu ya? Yo no hito ni mo ni nu ohom-arisama wo, mi tatematuri hate m to koso ha, kokora omohi-sidume tutu sugusi kuru ni, e sasimo ari hatu maziki mi-kokorookite ni, obosi utomu na.
2.2.4   幼き人びともはべれば、とざまかうざまにつけて、おろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ。ひとわたり見果てたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、まかせてこそ、今しばし御覧じ果てめ。
 幼い子どもたちもいますので、何かにつけて、いいかげんにはしまいとずっと存じ上げてきたのに、女心の考えなさから、このように恨み続けていらっしゃる。最後まで見届けないうちは、そうかも知れないことですが、信頼してこそ、もう少し御覧になっていてください。
 子供もあるのだから、その点から言っても私は一生あなたを大事にすると言っているのに、女の人には困った嫉妬しっとというものがあって、私を恨んでばかりあなたはいる。現在だけを見ておれば、あるいはそのほうが道理かもしれないが、私を信用してしばらく冷静に見ていてくれたなら、私のあなたを思う志はどんなものかが理解できる日があるだろうと思う。
  Wosanaki hitobito mo habere ba, tozama-kauzama ni tuke te, oroka ni ha ara zi to kikoye wataru wo, womna no mi-kokoro no midarigahasiki mama ni, kaku urami watari tamahu. Hitowatari mihate tamaha nu hodo, samo ari nu beki koto nare do, makase te koso, ima sibasi goranzi hate me.
2.2.5  宮の聞こし召し疎みて、さはやかにふと渡したてまつりてむと思しのたまふなむ、かへりていと軽々しき。まことに思しおきつることにやあらむ、しばし勘事したまふべきにやあらむ」
 式部卿宮がお聞きになりお疎みになって、はっきりとすぐにお迎え申そうとお考えになっておっしゃっているのが、かえってたいそう軽率です。ほんとうに決心なさったことなのか、暫く懲らしめなさろうというのでしょうか」
 宮様が不快にお思いになって、今すぐにおやしきへあなたをつれて帰ろうとお言いになるのは、かえってそのほうが軽率なことでないだろうか。実際別れさせてしまおうと思っておいでになるのだろうか。しばらく懲らしめてやろうとお思いになるのだろうか」
  Miya no kikosimesi utomi te, sahayaka ni huto watasi tatematuri te m to obosi notamahu nam, kaherite ito karugarusiki. Makoto ni obosioki turu koto ni ya ara m, sibasi kauzi si tamahu beki ni ya ara m."
2.2.6  と、 うち笑ひてのたまへるいとねたげに心やまし
 と、ちょっと笑っておっしゃる、たいそう憎らしくおもしろくない。
 と笑いながら言う大将の様子には、だれからも反感を持たれるのに十分な利己主義者らしいところがあった。
  to, uti-warahi te notamahe ru, ito netage ni kokoroyamasi.
注釈97玉を磨ける目移しに玉を磨いたように素晴らしい玉鬘の邸を見て来た目には、の意。「磨く」には、「玉を磨く」(素晴らしい)意と「目を磨く」(鑑識眼を高める)の両意が掛けられた表現であろう。2.2.1
注釈98昨日今日の以下「たまふべきにやあらむ」まで、鬚黒の北の方への慰めの詞。2.2.2
注釈99よろしき際になれば皆思ひのどむる方ありてこそ見果つなれある程度の身分ある貴族の夫婦となると、みなお互いに我慢し合って最後まで添い遂げるもののようだ。「なれ」(伝聞推定の助動詞)。鬚黒の忠告は当時の貴族の夫婦生活をいうものか。2.2.2
注釈100世の人にも似ぬ御ありさま世間の人と違った御病気の様子。2.2.3
注釈101幼き人びともはべれば後文によれば、姫君一人、男君二人と見える。2.2.4
注釈102うち笑ひてのたまへる冗談めかした笑い。2.2.6
注釈103いとねたげに心やまし『集成』は「北の方の心を書いたもの」とある。語り手が北の方の立場になって気持ちを語ったところ。2.2.6
校訂12 たまひつれば たまひつれば--給へ(へ/$つ<朱>)れは 2.2.2
2.3
第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)


2-3  Higekuro gives comfort to his wife(2)

2.3.1   御召人だちて、仕うまつり馴れたる 木工の君、中将の御許などいふ 人びとだに、ほどにつけつつ、「やすからずつらし」と思ひきこえたるを、北の方は、うつし心ものしたまふほどにて、いとなつかしううち泣きてゐたまへり。
 殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君、中将の御許などという女房たちでさえ、身分相応につけて、「おもしろくなく辛い」と思い申し上げているのだから、まして北の方は、正気でいらっしゃる時なので、たいそうしおらしく泣いていらっしゃった。
 大将のしょうのようにもなっていた木工もくの君や中将の君なども、それ相応に大将を恨めしく思っていたが、夫人は普通な精神状態になっている時で、なつかしいふうを見せて泣いていた。
  Ohom-mesiudodati te, tukaumaturi nare taru Moku-no-Kimi, Tyuuzyau-no-Omoto nado ihu hitobito dani, hodo ni tuke tutu, "Yasukara zu turasi." to omohi kikoye taru wo, Kitanokata ha, utusigokoro monosi tamahu hodo nite, ito natukasiu uti-naki te wi tamahe ri.
2.3.2  「 みづからを、ほけたり、ひがひがし、とのたまひ、恥ぢしむるは、ことわりなることになむ。 宮の御ことをさへ 取り混ぜのたまふぞ漏り聞きたまはむはいとほしう、憂き身のゆかり 軽々しきやうなる。 耳馴れにてはべれば、今はじめていかにもものを思ひはべらず」
 「わたしを、惚けている、僻んでいる、とおっしゃって、馬鹿にするのは、けっこうなことです。父宮のことまでを引き合いに出しておっしゃるのは、もし、お耳に入ったらお気の毒だし、つたないわが身の縁から軽々しいようです。耳馴れていますから、今さら何とも思いません」
 「私を老いぼけた、病的な女だと侮辱なさいますのはごもっともなことですが、そんなお言葉の中に宮様のことをお混ぜになるのを聞きますと、私のような者と親子でおありになるばかりにと思われて宮様がお気の毒でなりません。私はあなたのおうわさを聞くことが近ごろ始まったことでも何でもないのですから、悲しみはいたしません」
  "Midukara wo, hoke tari, higahigasi, to notamahi, hadi simuru ha, kotowari naru koto ni nam. Miya no ohom-koto wo sahe tori-maze notamahu zo, mori kiki tamaha m ha itohosiu, uki mi no yukari karugarusiki yau naru. Miminare nite habere ba, ima hazime te ikani mo mono wo omohi habera zu."
2.3.3  とて、うち背きたまへる、 らうたげなり
 と言って、横を向いていらっしゃる、いじらしい。
 と言って横向く顔が可憐かれんであった。
  tote, uti-somuki tamahe ru, rautage nari.
2.3.4  いとささやかなる人の、常の御悩みに痩せ衰へ、ひはづにて、髪いとけうらにて長かりけるが、わけたるやうに落ち細りて、削ることもをさをさしたまはず、 涙にまつはれたるはいとあはれなり
 たいそう小柄な人で、いつものご病気で痩せ衰え、ひ弱で、髪はとても清らかに長かったが、半分にしたように抜け落ちて細くなって、櫛梳ることもほとんどなさらず、涙で固まっているのは、とてもお気の毒である。
 小柄な人が持病のためにせ衰えて、弱々しくなり、きれいに長い髪が分け取られたかと思うほど薄くなって、しかもその髪はよくくこともされないで、涙に固まっているのが哀れであった。
  Ito sasayaka naru hito no, tune no ohom-nayami ni yase otorohe, hihadu nite, kami ito keura nite nagakari keru ga, wake taru yau ni oti hosori te, keduru koto mo wosawosa si tamaha zu, namida ni matuhare taru ha, ito ahare nari.
2.3.5  こまかに匂へるところはなくて、父宮に似たてまつりて、なまめいたる 容貌したまへるを、もてやつしたまへれば、 いづこのはなやかなるけはひかはあらむ
 つややかに美しいところはなくて、父宮にお似申して、優美な器量をなさっていたが、身なりを構わないでいられるので、どこに華やかな感じがあろうか。
 一つ一つの顔の道具が美しいのではなくて、式部卿の宮によく似て、全体にえんなところのある顔を、構わないままにしてあっては、はなやかな、若々しいというような点はこの人に全然見られない。
  Komaka ni nihohe ru tokoro ha naku te, Titi-Miya ni ni tatematuri te, namamei taru katati si tamahe ru wo, mote-yatusi tamahe re ba, iduko no hanayaka naru kehahi kaha ara m.
2.3.6  「 宮の御ことを軽くはいかが聞こゆる。恐ろしう、人聞きかたはになのたまひなしそ」とこしらへて、
 「宮の御事を、軽んじたりどうして思い申そう。恐ろしい、人聞きの悪いおっしゃりようをなさいますな」となだめて、
 「宮様のことを軽々しくなど私が言うものですか。人に聞かれても恐ろしいようなことを言うものでない」などと大将はなだめて、
  "Miya no ohom-koto wo, karoku ha ikaga kikoyuru. Osorosiu, hitogiki kataha ni na notamahi nasi so." to kosirahe te,
2.3.7  「 かの通ひはべる所の、いとまばゆき 玉の台に、うひうひしう、きすくなるさまにて出で入るほども、かたがたに 人目たつらむと、かたはらいたければ、 心やすく移ろはしてむと思ひはべるなり。
 「あの通っております所の、たいそう眩しい玉の御殿に、もの馴れない、生真面目な恰好で出入りしているのも、あれこれ人目に立つだろうと、気がひけるので、気楽に迎えてしまおうと考えているのです。
 「私の通って行く所はいわゆる玉のうてななのだからね。そんな場所へ不風流な私が出入りすることは、よけいに人目を引くことだろうと片腹痛くてね、自分のやしきへ早くつれて来ようと私は思うのだ。
  "Kano kayohi haberu tokoro no, ito mabayuki tama no utena ni, uhiuhisiu, kisuku naru sama nite ide iru hodo mo, katagata ni hitome tatu ram to, kataharaitakere ba, kokoroyasuku uturohasi te m to omohi haberu nari.
2.3.8   太政大臣の、さる世にたぐひなき御おぼえをば、さらにも聞こえず、心恥づかしう、いたり深うおはすめる御あたりに、 憎げなること漏り聞こえば、 いとなむいとほしう、かたじけなかるべき
 太政大臣が、ああした世に比べるものもないご声望を、今さら申し上げるまでもなく、恥ずかしくなるほど、行き届いていらっしゃるお邸に、よくない噂が漏れ聞こえては、たいそうお気の毒であるし、恐れ多いことでしょう。
 太政大臣が今日の時代にどれだけ勢力のある方だというようなことは今さらなことだが、あのりっぱな人格者の所へ、ここの嫉妬しっと騒ぎが聞こえて行くようではあの方に済まない。
  Ohoki-Otodo no, saru yo ni taguhi naki ohom-oboye wo ba, sarani mo kikoye zu, kokorohadukasiu, itari hukau ohasu meru ohom-atari ni, nikuge naru koto mori kikoye ba, ito nam itohosiu, katazikenakaru beki.
2.3.9  なだらかにて、御仲よくて、語らひてものしたまへ。宮に渡りたまへりとも、忘るることははべらじ。とてもかうても、今さらに心ざしの隔たることはあるまじけれど、 世の聞こえ人笑へに、 まろがためにも軽々しうなむはべるべきを、年ごろの契り違へず、かたみに後見むと、思せ」
 穏やかにして、お二人仲を好くして、親しく付き合ってください。宮邸にお渡りになっても、忘れることはございませんでしょう。いずれにせよ、今さらわたしの気持ちが遠ざかることはあるはずはないのですが、世間の噂や物笑いに、わたしにとっても軽々しいことでございましょうから、長年の約束を違えず、お互いに力になり合おうと、お考えください」
 穏やかに仲よく暮らすように心がけなければならないよ。宮のお邸へあなたが行ってしまったからといっても、私はやはりあなたを愛するだろう。夫婦の形はどうなっても今さら愛のなくなることはないのだが、世間があなたを軽率なように言うだろうし、私のためにも軽々しいことになる。長い間愛し合ってきた二人なのだから、これからも私のためになることをあなたも考えて、世話をし合おうじゃありませんか」
  Nadaraka nite, ohom-naka yoku te, katarahi te monosi tamahe. Miya ni watari tamahe ri tomo, wasururu koto ha habera zi. Totemo-kautemo, imasara ni kokorozasi no hedataru koto ha aru mazikere do, yo no kikoye hitowarahe ni, maro ga tame ni mo karogarosiu nam haberu beki wo, tosigoro no tigiri tagahe zu, katamini usiromi m to, obose."
2.3.10  と、こしらへ聞こえたまへば、
 と、とりなし申し上げなさると、
 とも言った。
  to, kosirahe kikoye tamahe ba,
2.3.11  「 人の御つらさは、ともかくも知りきこえず。 世の人にも似ぬ身の憂きをなむ、宮にも思し嘆きて、今さらに人笑へなることと、御心を 乱りたまふなれば、いとほしう、いかでか見えたてまつらむ、となむ。
 「あなたのお仕打ちは、どうこうと申しません。世間の人と違った身の病を、父宮におかれてもお嘆きになって、今さら物笑いになることと、お心を痛めていらっしゃるとのことなので、お気の毒で、どうしてお目にかかれましょう、と思うのです。
 「あなたの冷酷なことがいいことか悪いことか私はもう考えません。何とも思いません。ただ私が健全な女でないことを悲しんでいます。宮様がお案じになって、娘の私の名誉などをたいそうにお考えになったり、御煩悶はんもんをなすったりするのがお気の毒で、私は邸へ帰りたくないと思っています。
  "Hito no ohom-turasa ha, tomokakumo siri kikoye zu. Yo no hito ni mo ni nu mi no uki wo nam, Miya ni mo obosi nageki te, imasara ni hitowarahe naru koto to, mi-kokoro wo midari tamahu nare ba, itohosiu, ikadeka miye tatematura m, to nam.
2.3.12   大殿の北の方と聞こゆるも、 異人にやはものしたまふかれは、知らぬさまにて生ひ出でたまへる人の、末の世に、かく人の 親だちもてないたまふつらさをなむ、 思ほしのたまふなれどここにはともかくも思はずや。 もてないたまはむさまを見るばかり」
 大殿の北の方と申し上げる方も、他人でいらっしゃいましょうか。あの方は、知らない状態で成長なさった方で、後になって、このように人の親のように振る舞っていらっしゃる辛さを考えて、お口になさるようですが、わたしの方では何とも思っていませんわ。なさりよう見ているばかりです」
 六条の大臣の奥様は私のために他人ではありません。よそで育ったその人が大人おとなになって、養女のために姉の私の良人おっとを婿に取ったりするということで宮様などは恨んでいらっしゃるのですが、私はそんなことも思いませんよ。あちらでしていらっしゃることをながめているだけ」
  Ohotono no Kitanokata to kikoyuru mo, kotobito ni yaha monosi tamahu? Kare ha, sira nu sama nite ohiide tamahe ru hito no, suwe no yo ni, kaku hito no oyadati motenai tamahu turasa wo nam, omohosi notamahu nare do, koko ni ha tomokakumo omoha zu ya! Motenai tamaha m sama wo miru bakari."
2.3.13  とのたまへば、
 とおっしゃるので、

  to notamahe ba,
2.3.14  「 いとようのたまふを、例の御心違ひにや、苦しきことも出で来む。 大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず。いつき女のやうにてものしたまへば、 かく思ひ落とされたる人の上 までは 知りたまひなむや。人の御親げなくこそ ものしたまふべかめれかかることの聞こえあらば、 いとど苦しかるべきこと
 「たいそう良いことをおっしゃるが、いつものご乱心では、困ったことも起こるでしょう。大殿の北の方がご存知になることでもございません。箱入り娘のようでいらっしゃっるので、このように軽蔑された人の身の上まではご存知のはずがありません。あの人の親らしくなくおいでのようです。このようなことが耳に入ったら、ますます困ることでしょう」
 「こんなにあなたはよく筋道の立つ話ができるのだがね。病気の起こることがあって、取り返しもつかないようなことがこれからも起こるだろうと気の毒だね。この問題に六条院の女王にょおうは関係していられないのだよ。今でもたいせつなお嬢様のように大臣から扱われていらっしゃる方などが、よそから来た娘のことなどに関心を持たれるわけもないのだからね。まあまったく親らしくない継母ままはは様だともいえるね。それだのに恨んだりしていることがお耳にはいっては済まないよ」
  "Ito you notamahu wo, rei no mi-kokorotagahi ni ya, kurusiki koto mo ideko m. Ohotono no Kitanokata no siri tamahu koto ni mo habera zu. Ituki musume no yau nite monosi tamahe ba, kaku omohi otosa re taru hito no uhe made ha siri tamahi na m ya? Hito no ohom-oyage naku koso monosi tamahu beka' mere. Kakaru koto no kikoye ara ba, itodo kurusikaru beki koto."
2.3.15  など、日一日 入りゐて、語らひ申したまふ。
 などと、一日中お側で、お慰め申し上げなさる。
 などと、終日夫人のそばにいて大将は語っていた。
  nado, hi hitohi iri wi te, katarahi mausi tamahu.
注釈104御召人だちて妻に準じる待遇の鬚黒の女房。2.3.1
注釈105木工の君中将の御許女房名。2.3.1
注釈106人びとだに女房たちでさえ~であるのだから、まして北の方は。2.3.1
注釈107みづからを以下「思ひはべらず」まで、北の方の詞。2.3.2
注釈108宮の御ことを父兵部卿宮の悪口。2.3.2
注釈109取り混ぜのたまふぞ大島本は「とりませの給う」とある。『新大系』『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「取りまぜのたまふぞ」と「ぞ」を補入する。2.3.2
注釈110漏り聞きたまはむは兵部卿宮が悪口を漏れ聞きなさったら。推量の助動詞「む」は仮定の意。2.3.2
注釈111軽々しき皇族の身にとって軽々しい、すなわち、傷がつくようだの意。2.3.2
注釈112耳馴れ自分への悪口は聞き馴れている。2.3.2
注釈113らうたげなり語り手の、北の方をいじらしいという評言。以下、北の方の若かったころの美貌が語られる。2.3.3
注釈114涙にまつはれたるは大島本は「まつはれたる」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「まろがれたる」と校訂する。2.3.4
注釈115いとあはれなり語り手の、北の方をとてもかわいそうだどいう評言。2.3.4
注釈116いづこのはなやかなるけはひかはあらむ反語表現。どこにも派手やかなところはない、という語り手の感想。以上、北の方への解説が終わり、再び物語の現時点に戻る。2.3.5
注釈117宮の御ことを以下「なのたまひなしそ」まで、鬚黒の北の方への慰めの詞。下に「こしらへて」とある。2.3.6
注釈118軽くは軽んじる、ないがしろにするの意。2.3.6
注釈119かの通ひはべる所の以下「かたみに後見むと思せ」まで、引き続き、鬚黒の北の方への慰めの詞。同じく下に「こしらへ聞こえたまへば」とある。六条院をいう。2.3.7
注釈120玉の台六条院をいう。歌語的表現をした。2.3.7
注釈121人目たつらむ眩しいほどの六条院に不格好なさまをして通っていたのでは人目にたって見苦しいとする、鬚黒自身認めており、またその解消策として玉鬘の迎えとりを持ち出す。2.3.7
注釈122心やすく移ろはしてむ気安く玉鬘を自分の邸に迎えてしまおうと。2.3.7
注釈123太政大臣源氏を「太政大臣」と呼ぶ。以下、その権勢をかさに着たものものしい言い方をする。2.3.8
注釈124憎げなること北の方と玉鬘との不和の噂。2.3.8
注釈125いとなむいとほしうかたじけなかるべき『集成』では「まことに不都合千万で、申しわけないことでしょう」と解し、『完訳』では「あなたにはまったく気の毒なことだし、大臣にも畏れ多いことになりましょう」と解す。2.3.8
注釈126世の聞こえ人笑へ『完訳』は「家の体面をつぶし、北の方も身を滅ぼす危惧」と解す。2.3.9
注釈127まろがためにも係助詞「も」同類の意。あなたはもちろんのこと、わたにとっても。2.3.9
注釈128人の御つらさは以下「見るばかり」まで、北の方の詞。2.3.11
注釈129世の人にも似ぬ身の憂き世間の人と違った身の不運、病い持ち。2.3.11
注釈130乱りたまふなれば「なれ」(伝聞推定の助動詞)。お心を砕いていらっしゃるというので。2.3.11
注釈131大殿の北の方六条院の北の方、すなわち紫の上をさしてこう呼ぶ。2.3.12
注釈132異人にやはものしたまふ反語表現。鬚黒の北の方と紫の上は異腹の姉妹である。2.3.12
注釈133かれは紫の上をさす。以下「つらさをなむ」まで、北の方が父宮の詞を間接的にいったもの。2.3.12
注釈134親だち紫の上が玉鬘の親代わりとなって結婚の世話をすることをいう。2.3.12
注釈135思ほしのたまふなれど「なれ」(伝聞推定の助動詞)。父宮はおっしゃるようだが。2.3.12
注釈136ここにはわたしには。2.3.12
注釈137もてないたまはむさま『集成』は「どうしようと紫の上の勝手で、私は構わない」と解し、『完訳』は「あなたのなさることを」と解す。2.3.12
注釈138いとようのたまふを以下「苦しかるべきこと」まで、鬚黒の詞。2.3.14
注釈139大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず「知る」は単に知っているという意でなく、関知し指図する意。紫の上が関知し指図したことではありません。2.3.14
注釈140かく思ひ落とされたる人玉鬘をさす。自分の結婚相手を卑下した言い方。2.3.14
注釈141知りたまひなむや係助詞「や」は反語。関知していらっしゃろうか、そんなことはない。2.3.14
注釈142ものしたまふべかめれ「べか」(推量の助動詞、推量)「めれ」(推量の助動詞、視界内推量)、鬚黒の体験から判断して「~でいらっしゃるようだ」。2.3.14
注釈143かかることの聞こえ紫の上が玉鬘の結婚を指図しているという非難。2.3.14
注釈144いとど苦しかるべきこと大島本は「いとゝ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「いと」と校訂する。2.3.14
注釈145入りゐて北の方の部屋に入って座り続けて。2.3.15
校訂13 みづからを みづからを--身つからは(は/#を) 2.3.2
校訂14 容貌 容貌--かたち(ち/$ち<朱>) 2.3.5
校訂15 までは までは--さ(さ/$ま<朱>)ては 2.3.14
2.4
第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする


2-4  Higekuro wants to go to Tamakazura

2.4.1  暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで出でなむと思ほすに、 雪かきたれて降るかかる空にふり出でむも人目いとほしう、この御けしきも、憎げに ふすべ恨みなどしたまはば、なかなかことつけて、われも 迎ひ火つくりてあるべきを、いとおいらかに、つれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦しければ、いかにせむ、と思ひ乱れつつ、格子などもさながら、端近ううち眺めてゐたまへり。
 日が暮れたので、気もそぞろになって、何とか出かけたいとお思いになるが、雪がまっくらにして降っている。このような天候にあえて出かけるのも、人目に立ってお気の毒であるし、このご様子も憎らしく嫉妬して恨みなどなさるならば、かえってそれを口実にして、自分も対抗して出て行くのだが、たいそうおっとりと、気にかけていらっしゃらない様子が、たいそうお気の毒なので、どうしようか、と迷いながら、格子なども上げたまま、端近くに物思いに耽っていらっしゃった。
 日が暮れると大将の心はもう静めようもなく浮き立って、どうかして自邸から一刻も早く出たいとばかり願うのであったが、大降りに雪が降っていた。こんな天候の時に家を出て行くことは人目に不人情なことに映ることであろうし、妻が見さかいなしの嫉妬しっとでもするのでもあれば自分のほうからも十分に抗争して家を出て行く機会も作れるのであるが、おおように静かにしていられては、ただ気の毒になるばかりであると、大将は煩悶して格子こうしろさせずに、縁側へ近い所で庭をながめているのを、
  Kure nure ba, kokoro mo sora ni ukitati te, ikade ide nam to omohosu ni, yuki kaki-tare te huru. Kakaru sora ni huriide m mo, hitome itohosiu, kono mi-kesiki mo, nikuge ni husube urami nado si tamaha ba, nakanaka kototuke te, ware mo mukahibi tukuri te aru beki wo, ito oiraka ni, turenau motenasi tamahe ru sama no, ito kokorokurusikere ba, ikani se m, to omohi midare tutu, kausi nado mo sanagara, hasi tikau uti-nagame te wi tamahe ri.
2.4.2  北の方 けしきを見て
 北の方がその様子を見て、
 夫人が見て、
  Kitanokata kesiki wo mi te,
2.4.3  「 あやにくなめる雪を、いかで分けたまはむとすらむ。夜も更けぬめりや」
 「あいにくな雪ですが、どう踏み分けてお出かけなさろうとするのでしょう。夜も更けたようですわ」
 「あやにくな雪はだんだん深くなるようですよ。時間だってもうおそいでしょう」
  "Ayaniku na' meru yuki wo, ikade wake tamaha m to su ram? Yo mo huke nu meri ya?"
2.4.4  とそそのかしたまふ。「 今は限り、とどむとも」と思ひめぐらしたまへるけしき、いとあはれなり。
 とお促しになる。「今はもうおしまいだ、引き止めたところで」と思案なさっている様子、まことに不憫である。
 と外出を促して、もう自分といることに全然良人は興味を失っているのであるから、とめてもむだであると考えているらしいのが哀れに見られた。
  to sosonokasi tamahu. "Ima ha kagiri, todomu tomo." to omohi megurasi tamahe ru kesiki, ito ahare nari.
2.4.5  「 かかるには、いかでか
 「このような雪では、どうして出かけられようか」
 「こんな夜にどうして」
  "Kakaru ni ha, ikadeka."
2.4.6  とのたまふものから、
 とおっしゃる一方で、
 と大将は言ったのであるが、そのあとではまた反対な意味のことを、
  to notamahu monokara,
2.4.7  「 なほ、このころばかり。心のほどを知らで、とかく人の言ひなし、 大臣たちも、左右に聞き思さむことを憚りてなむ、とだえあらむはいとほしき。思ひしづめて、なほ見果てたまへ。ここになど渡しては、心やすくはべりなむ。かく世の常なる御けしき見えたまふ時は、ほかざまに分くる心も失せてなむ、あはれに思ひきこゆる」
 「やはり、ここ当分の間だけは。わたしの気持ちを知らないで、何かと人が噂し、大臣たちもあれこれとお耳になさろうことを憚って、途絶えを置くのは気の毒です。落ち着いて、やはりわたしの気持ちをお見届けください。こちらになど迎えたら、気がねもなくなるでしょう。このように普通のご様子をしていらっしゃる時は、他の女に心を移すこともなくなって、いとおしくお思い申し上げます」
 「当分はこちらの心持ちを知らずに、そばにいる女房などからいろんなことを言われたりして疑ったりすることもあるだろうし、また両方で大臣がこちらの態度を監視していられもするのだから、間を置かないで行く必要がある。あなたは落ち着いて、気長に私を見ていてください。やしきへつれて来れば、それからはその人だけを偏愛するように見えることもしないで済むでしょう。今日のように病気が起こらないでいる時には、少し外へ向いているような心もなくなって、あなたばかりが好きになる」
  "Naho, konokoro bakari. Kokoro no hodo wo sira de, tokaku hito no ihi nasi, Otodo-tati mo, hidari migi ni kiki obosa m koto wo habakari te nam, todaye ara m ha itohosiki. Omohi sidume te, naho mihate tamahe. Koko ni nado watasi te ha, kokoroyasuku haberi na m. Kaku yo no tune naru mi-kesiki miye tamahu toki ha, hokazama ni wakuru kokoro mo use te nam, ahare ni omohi kikoyuru."
2.4.8  など、語らひたまへば、
 などと、お慰めなさると、
 こんなに言っていた。
  nado, katarahi tamahe ba,
2.4.9  「 立ちとまりたまひても、御心のほかならむは、なかなか苦しうこそあるべけれ。よそにても、思ひだにおこせたまはば、 袖の氷も 解けなむかし
 「お止まりになっても、お心が他に行っているのなら、かえってつらいことでございましょう。他の所にいても、せめて思い出してくだされば、涙に濡れた袖の氷もきっと解けることでしょう」
 「家においでになっても、お心だけは外へ行っていては私も苦しゅうございます。よそにいらっしってもこちらのことを思いやっていてさえくだされば私のこおった涙も解けるでしょう」
  "Tatitomari tamahi te mo, mi-kokoro no hoka nara m ha, nakanaka kurusiu koso aru bekere. Yoso nite mo, omohi dani okose tamaha ba, sode no kohori mo toke na m kasi."
2.4.10  など、なごやかに言ひゐたまへり。
 などと、穏やかにおっしゃっていられる。
 夫人は柔らかに言っていた。
  nado, nagoyaka ni ihi wi tamaheri.
注釈146雪かきたれて降る前に「霜月になりぬ」とあった。季節は冬である。雪が空をまっくらにして降る様子が描写される。2.4.1
注釈147かかる空にふり出でむも「ふり」は「雪」の縁語。「雪が降る」と「振り出す」の両意をこめた掛け詞的表現。以下、鬚黒の心情に添った語りとなる。言葉遊び的表現が見られる。2.4.1
注釈148人目いとほしうひどい雪の中をわざわざ出掛けて行ったとあっては、人目に立って北の方にも気の毒である。2.4.1
注釈149ふすべ下文の「火」の縁語。2.4.1
注釈150迎ひ火大島本は「むかひ火」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「むかへ火」と校訂する。『日本書紀』巻第七に倭建命が相模野で迎え火をつけて難を逃れた故事がある。こちらから対抗して。2.4.1
注釈151けしきを見て物思いにふけっている鬚黒の様子を見て。2.4.2
注釈152あやにくなめる以下「更けぬめりや」まで、北の方の詞。2.4.3
注釈153今は限りとどむとも北の方の心。「いかならむ」などの語句が省略されている。鬚黒の気持ちはもう元には戻るまいという諦めの気持ち。2.4.4
注釈154かかるにはいかでか鬚黒の詞。「え出でむ」などの語句が省略されている。このようにひどい雪ではどうして出掛けられようかの意。2.4.5
注釈155なほこのころばかり以下「思ひきこゆる」まで、引き続き鬚黒の詞。結婚したばかりのころ。文はここで、いったん切れる。この語を受ける述語はない。2.4.7
注釈156大臣たち源氏太政大臣や内大臣。2.4.7
注釈157立ちとまりたまひても以下「解けなむかし」まで、北の方の詞。2.4.9
注釈158袖の氷も『奥入』は「思ひつゝねなくに明くる冬の夜の袖の氷はとけずもあるかな」(後撰集冬。四八二、読人しらず)<あの人を思いながら泣き明かした冬の夜は涙に濡れて凍った袖も解けないままであることよ>を指摘し、現在の注釈書でも指摘する。2.4.9
注釈159解けなむかしきっと解けましょう。「な」(完了の助動詞、確述)「む」(推量の助動詞)。2.4.9
出典1 袖の氷も解けなむ 思ひつつ寝泣くに明くる冬の夜の袖の氷は解けずもあるかな 後撰集冬-四八一 読人しらず 2.4.9
2.5
第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける


2-5  Kitanokata pours ashes to Higekuro

2.5.1  御火取り召して、いよいよ 焚きしめさせたてまつりたまふ。みづからは、 萎えたる御衣ども、うちとけたる御姿、いとど細う、か弱げなり。しめりておはする、 いと心苦し。御目のいたう泣き腫れたるぞ、 すこしものしけれどいとあはれと見る時は、罪なう思して、
 御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせてお上げになる。自分自身は、皺になったお召物類で、身なりを構わないお姿が、ますますほっそりとか弱げである。沈んでいらっしゃるのは、たいそうお気の毒である。お目をたいそう泣き腫らしているのは、少し疎ましいが、しみじみといとおしいと見る時は、咎める気もお消えになって、
 火入れを持って来させて夫人は良人おっとの外出の衣服に香をきしめさせていた。夫人自身は構わない着ふるした衣服を着て、ほっそりとした弱々しい姿で、気のめいるふうにすわっているのをながめて、大将は心苦しく思った。目の泣きはらされているのだけは醜いのを、愛している良人の心にはそれも悪いとは思えないのである。
  Ohom-hitori mesi te, iyoiyo taki sime sase tatematuri tamahu. Midukara ha, naye taru ohom-zo-domo, utitoke taru ohom-sugata, itodo hosou, kayowage nari. Simeri te ohasuru, ito kokorogurusi. Ohom-me no itau naki hare taru zo, sukosi monosikere do, ito ahare to miru toki ha, tumi nau obosi te,
2.5.2  「 いかで過ぐしつる年月ぞ」と、「 名残なう移ろふ心のいと軽きぞや」とは 思ふ思ふ、なほ心懸想は進みてそら嘆きをうちしつつ、なほ装束したまひて、小さき火取り取り寄せて、袖に引き入れて しめゐたまへり
 「どうして今まで疎遠にしてきたのか」と、「すっかり心変わりした自分が何とも軽薄だ」とは思いながらも、やはり気持ちははやって、溜息をつきながら、やはりお召物を整えなさって、小さい香炉を取り寄せて、袖に入れてたきしめていらっしゃった。
 長い年月の間二人だけが愛し合ってきたのであると思うと、新しい妻に傾倒してしまった自分は軽薄な男であると、大将は反省をしながらも、行っておうとする新しい妻を思う興奮はどうすることもできない。心にもない歎息たんそくをしながら、着がえをして、なお小さい火入れをそでの中へ入れてにおいをしめていた。
  "Ikade sugusi turu tosituki zo." to, "Nagori nau uturohu kokoro no ito karoki zo ya!" to ha omohu omohu, naho kokorogesau ha susumi te, sora-nageki wo uti si tutu, naho sauzoku si tamahi te, tihisaki hitori toriyose te, sode ni hikiire te sime wi tamahe ri.
2.5.3   なつかしきほどに萎えたる御装束に、 容貌もかの並びなき御光にこそ 圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、ただ人と見えず、心恥づかしげなり。
 やさしいほどに着馴れたお召物で、器量も、あの並ぶ人のないお方には圧倒されるが、たいそうすっきりした男性らしい感じで、普通の人とは見えず、気おくれするほど立派である。
 ちょうどよいほどに着なれた衣服に身を装うた大将は、源氏の美貌びぼうの前にこそ光はないが、くっきりとした男性的な顔は、平凡な階級の男の顔ではなかった。貴族らしい風采ふうさいである。
  Natukasiki hodo ni naye taru ohom-sauzoku ni, katati mo, kano narabi naki ohom-hikari ni koso osa rure do, ito azayaka ni wowosiki sama si te, tadaudo to miye zu, kokorohadukasige nari.
2.5.4   に、人びと声して、
 侍所で、供人たちが声立てて、
 侍所さむらいどころに集っている人たちが、
  Saburahi ni, hitobito kowe si te,
2.5.5  「 雪すこし隙あり。夜は更けぬらむかし
 「雪が小止みです。夜が更けてしまいましょう」
 「ちょっと雪もやんだようだ。もうおそかろう」
  "Yuki sukosi hima ari. Yo ha huke nu ram kasi."
2.5.6  など、 さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、声づくりあへり。
 などと、それでもあらわには言わないで、お促し申して、咳払いをし合っている。
 などと言って、さすがに真正面から促すのでなく、主人あるじの注意を引こうとするようなことを言う声が聞こえた。
  nado, sasuga ni maho ni ha ara de, sosonokasi kikoye te, kowadukuri ahe ri.
2.5.7   中将、木工など、「 あはれの世や」などうち嘆きつつ、語らひて臥したるに、 正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふほど、人の ややみあふるほどもなう、あさましきに、 あきれてものしたまふ
 中将の君や、木工の君などは、「おいたわしいことだわ」などと嘆きながら、話し合って臥しているが、ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる。
 中将の君や木工もくなどは、
「悲しいことになってしまいましたね」
 などと話して、なげきながら皆床にはいっていたが、夫人は静かにしていて、可憐なふうに身体からだを横たえたかと見るうちに、起き上がって、大きな衣服のあぶりかごの下に置かれてあった火入れを手につかんで、良人の後ろに寄り、それを投げかけた。人が見とがめる間も何もないほどの瞬間のことであった。大将はこうした目にあってただあきれていた。
  Tyuuzyau, Moku nado, "Ahare no yo ya!" nado uti-nageki tutu, katarahi te husi taru ni, sauzimi ha, imiziu omohi sidume te, rautage ni yorihusi tamahe ri to miru hodo ni, nihaka ni okiagari te, ohoki naru ko no sita nari turu hitori wo toriyose te, Tono no usiro ni yori te, sato ikake tamahu hodo, hito no yayami ahuru hodo mo nau, asamasiki ni, akire te monosi tamahu.
2.5.8   さるこまかなる灰の、目鼻にも入りて、おぼほれてものもおぼえず。払ひ捨てたまへど、立ち満ちたれば、御衣ども脱ぎたまひつ。
 あのような細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼうっとして何も分からない。払い除けなさるが、立ちこめているので、お召物をお脱ぎになった。
 細かな灰が目にも鼻にもはいって何もわからなくなっていた。やがて払い捨てたが、部屋じゅうにもうもうと灰が立っていたから大将は衣服も脱いでしまった。
  Saru komaka naru hahi no, me hana ni mo iri te, obohore te mono mo oboye zu. Harahi sute tamahe do, tati-miti tare ba, ohom-zo-domo nugi tamahi tu.
2.5.9   うつし心にてかくしたまふぞと思はば、またかへりみすべくもあらずあさましけれど、
 正気でこのようなことをなさると思ったら、二度と見向く気にもなれず驚くほかないが、
 正気でこんなことをする夫人であったら、だれも顧みる者はないであろうが、
  Utusigokoro nite kaku si tamahu zo to omoha ba, mata kaherimi su beku mo ara zu asamasikere do,
2.5.10  「 例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」
 「例の物の怪が、人から嫌われるようにしようとしていることだ」
 いつもの物怪もののけが夫人を憎ませようとしていることであるから、
  "Rei no ohom-mononoke no, hito ni utoma se m to suru waza."
2.5.11  と、御前なる人びとも、いとほしう見たてまつる。
 と、お側の女房たちもお気の毒に拝し上げる。
 夫人は気の毒であると女房らも見ていた。
  to, omahe naru hitobito mo, itohosiu mi tatematuru.
2.5.12  立ち騷ぎて、御衣どもたてまつり替へなどすれど、そこらの灰の、鬢のわたりにも立ちのぼり、よろづの所に満ちたる心地すれば、 きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参うでたまふべきにもあらず。
 大騒ぎになって、お召物をお召し替えなどするが、たくさんの灰が鬢のあたりにも舞い上がり、すべての所にいっぱいの気がするので、善美を尽くしていらっしゃる所に、このまま参上なさることはできない。
 皆が大騒ぎをして大将に着がえをさせたりしたが、灰が髪などにもたくさん降りかかって、どこもかしこも灰になった気がするので、きれいな六条院へこのままで行けるわけのものではなかった。
  Tati-sawagi te, ohom-zo-domo tatematuri kahe nado sure do, sokora no hahi no, bin no watari ni mo tatinobori, yorodu no tokoro ni miti taru kokoti sure ba, kiyora wo tukusi tamahu watari ni, sanagara maude tamahu beki ni mo ara zu.
2.5.13  「 心違ひとはいひながら、なほめづらしう、見知らぬ人の御ありさまなりや」と 爪弾きせられ、疎ましうなりて、 あはれと思ひつる心も残らねど、「 このころ、荒立てては、いみじきこと出で来なむ」と思ししづめて、夜中になりぬれど、僧など召して、加持参り騒ぐ。 呼ばひののしりたまふ声など、思ひ疎みたまはむにことわりなり。
 「気が違っているとはいっても、やはり珍しい、見たこともないご様子だ」と愛想も尽き、疎ましくなって、いとしいと思っていた気持ちも消え失せたが、「今、事を荒立てたら、大変なことになるだろう」と心を鎮めて、夜中になったが、僧などを呼んで、加持をさせる騷ぎとなる。わめき叫んでいらっしゃる声など、お嫌いになるのもごもっともである。
 大将は爪弾つまはじきがされて、妻に対する憎悪ぞうおの念ばかりが心につのった。先刻愛を感じていた気持ちなどは跡かたもなくなったが、現在は荒だてるのに都合のよろしくない時である。どんな悪い影響が自分の新しい幸福の上に現われてくるかもしれないと、大将は夫人に腹をたてながらも、もう夜中であったが僧などを招いて加持かじをさせたりしていた。夫人が上げるあさましい叫び声などを聞いては、大将がうとむのも道理であると思われた。
  "Kokorotagahi to ha ihi nagara, naho medurasiu, misira nu hito no ohom-arisama nari ya!" to, tumahaziki se rare, utomasiu nari te, ahare to omohi turu kokoro mo nokora ne do, "Konokoro, aradate te ha, imiziki koto ideki na m." to obosi sidume te, yonaka ni nari nure do, sou nado mesi te, kadi mawiri sawagu. Yobahi nonosiri tamahu kowe nado, omohi-utomi tamaha m ni kotowari nari.
注釈160焚きしめさせたてまつりたまふ北の方が女房をして鬚黒の衣装に香をたきこめさせ申し上げなさる。2.5.1
注釈161萎えたる御衣ども大島本は「御そとも」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御衣どもに」と「に」を補訂する。2.5.1
注釈162いと心苦し語り手の北の方に対する同情の句。2.5.1
注釈163すこしものしけれど鬚黒と語り手の感情が重なったような表現。2.5.1
注釈164いとあはれ鬚黒の心。鬚黒が北の方をたいそういとおしいと思う。2.5.1
注釈165いかで過ぐしつる年月ぞ鬚黒の感想。『集成』は「どうして今まで長の年月、疎遠に過してきたのか」と訳し、『完訳』は「よくもこの長い年月いっしょに過してきたものよ」と訳す。前者は鬚黒の反省、後悔と解し、後者は鬚黒が北の方との仲を不思議に思っているところと解す。「いかで」は疑問であるとともに反語でもあろう。2.5.2
注釈166名残なう移ろふ心のいと軽きぞや引き続き、鬚黒の反省、後悔。2.5.2
注釈167思ふ思ふなほ心懸想は進みて「思ふ思ふ」「なほ」というように、その反面ではやはり玉鬘を思う気持ちははやって、という複雑な心理を捉えて語る。2.5.2
注釈168そら嘆きをうちしつつ嘘の嘆息を何度もして見せる。あなたを置いて出掛けるのは億劫だというポーズである。2.5.2
注釈169しめゐたまへり大島本は「しゐ給へり」とある。『新大系』『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「しめゐたまへり」と「め」を補訂する。2.5.2
注釈170なつかしきほどに鬚黒の様子について語る。2.5.3
注釈171容貌も『万水一露』は「草子の批判の詞也」と指摘する。「心恥づかしげなり」は語り手の評言ともいえよう。2.5.3
注釈172かの並びなき御光源氏の美しさを譬喩していう。2.5.3
注釈173名詞。侍所のこと、供人の詰所。2.5.4
注釈174雪すこし隙あり夜は更けぬらむかし供人の声。「ぬ」(完了の助動詞、確述)「らむ」(推量の助動詞、視界外推量)「かし」(終助詞、強調)。夜が更けてしまいましょうの意。2.5.5
注釈175さすがにまほにはあらで供人たちの北の方への遠慮した態度動作。2.5.6
注釈176中将木工など召人の中将の御許や木工の君など。2.5.7
注釈177あはれの世や中将の御許や木工の君など感慨。北の方への同情。「世」は鬚黒と北の方の夫婦仲をいう。2.5.7
注釈178正身は以下「あきれてものしたまふ」まで北の方の一連の動作。その間の緩急の行動が「~と見るほどに、~て、~ほど、~のほどもなう、~に」という語りの口調の上に巧みに語られている。2.5.7
注釈179ややみあふる『集成』は「「ややみ」「あふる」と複合動詞と見るべきであろうが、語義不詳。「ややむ」は驚きあるいは呼び掛けの語「やや」を活用させたものか。「あふる」は煽るか。「やや見敢ふる」と見るのは無理であろう」と注す。『完訳』は「「見敢ふ」で見届ける意。人の目にもとまらぬ瞬時の出来事」と注す。2.5.7
注釈180あきれてものしたまふ鬚黒の態度。すでに灰を浴びせ掛けられて茫然自失しているさま。2.5.7
注釈181さるこまかなる以下、その様子を細かく具体的に語る。2.5.8
注釈182うつし心にてかくしたまふぞと思はば鬚黒の気持ちに添って語る。2.5.9
注釈183例の御もののけの以下「するわざ」まで、鬚黒の感想であるとともに、「御前なる人びとも」とあるように女房たちの感想へと移る。2.5.10
注釈184きよらを尽くしたまふわたり六条院の玉鬘の所を指していう。2.5.12
注釈185心違ひとはいひながら以下「さまなりや」まで、鬚黒の気持ち。2.5.13
注釈186爪弾きせられ「られ」(自発の助動詞)。自然と~とういう気持ちになって。2.5.13
注釈187あはれと思ひつる心『集成』は「いとしいと思っていた気持」と解し、『完訳』は「憐憫」と注し「いじらしいと思っていた気持」と訳すが、憐憫よりも愛情であろう。2.5.13
注釈188このころ荒立ててはいみじきこと出で来なむ鬚黒の心。この時期に事を荒立てては源氏方からも式部卿宮方からも厄介な事が出てこようという懸念。2.5.13
注釈189呼ばひののしりたまふ声など北の方に乗り移った物の怪の声。2.5.13
校訂16 しめゐ しめゐ--*しゐ 2.5.2
校訂17 圧さるれ 圧さるれ--おさな(な/$る<朱>)れ 2.5.3
2.6
第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る


2-6  Higekuro sends a letter to Tamakazura

2.6.1   夜一夜、打たれ引かれ、泣きまどひ明かしたまひて、すこしうち休みたまへるほどに、 かしこへ御文たてまつれたまふ。
 一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて夜をお明かしになって、少しお静かになっているころに、あちらへお手紙を差し上げなさる。
 夜通し夫人は僧から打たれたり、引きずられたりしていたあとで、少し眠ったのを見て、大将はその間に玉鬘たまかずらへ手紙を書いた。
  Yohitoyo, uta re hika re, naki madohi akasi tamahi te, sukosi uti-yasumi tamahe ru hodo ni, kasiko he ohom-humi tatemature tamahu.
2.6.2  「 昨夜、にはかに消え入る人のはべしにより、雪のけしきも ふり出でがたく、やすらひはべしに、 身さへ冷えてなむ。御心をばさるものにて、人いかに取りなしはべりけむ」
 「昨夜、急に意識を失った人が出まして、雪の降り具合も出掛けにくく、ためらっておりましたところ、身体までが冷えてしまいました。あなたのお気持ちはもちろんのこと、周囲の人はどのように取り沙汰したことでございましょう」
 昨夜から容体のよろしくない病人ができまして、おりから降る雪もひどく、こんな時に出て行くことはどうかと、そちらへ行くのをやむなく断念することにしましたが、外界の雪のためでもなく、私の身の内は凍ってしまうほど寂しく思われました。あなたは信じていてくださるでしょうが、そばの者が何とかいいかげんなことを忖度そんたくして申し上げなかったであろうかと心配です。
  "Yobe, nihaka ni kiyeiru hito no habesi ni yori, yuki no kesiki mo huri ide gataku, yasurahi habesi ni, mi sahe hiye te nam. Mi-kokoro wo ba saru mono nite, hito ikani torinasi haberi kem?"
2.6.3  と、きすくに書きたまへり。
 と、生真面目にお書きになっている。
 という文学的でない文章であった。
  to, kisuku ni kaki tamahe ri.
2.6.4  「 心さへ空に乱れし雪もよに
   ひとり冴えつる片敷の袖
 「心までが中空に思い乱れましたこの雪に
  独り冷たい片袖を敷いて寝ました
  心さへそらに乱れし雪もよに
  一人さえつる片敷かたしきそで
    "Kokoro sahe sora ni midare si yukimoyo ni
    hitori saye turu katasiki no sode
2.6.5   堪へがたくこそ
 耐えられませんでした」
 堪えがたいことです。
  tahe gataku koso."
2.6.6  と、 白き薄様に、つつやかに書い たまへれどことにをかしきところもなし。手はいときよげなり。才かしこくなどぞものしたまひける。
 と、白い薄様に、重々しくお書きになっているが、格別風情のあるところもない。筆跡はたいそうみごとである。漢学の才能は高くいらっしゃるのであった。
 ともあった。白い薄様うすように重苦しい字で書かれてあった。字は能書であった。大将は学問のある人でもあった。
  to, siroki usuyau ni, tutuyaka ni kai tamahe re do, koto ni wokasiki tokoro mo nasi. Te ha ito kiyoge nari. Zae kasikoku nado zo monosi tamahi keru.
2.6.7   尚侍の君、夜がれを何とも思されぬに、 かく心ときめきしたまへるを、見も入れたまはねば、御返りなし。 、胸つぶれて、思ひ暮らしたまふ。
 尚侍の君は、夜離れを何ともお思いなさらないので、このように心はやっていらっしゃるのを、御覧にもならないので、お返事もない。男は、落胆して、一日中物思いをなさる。
 尚侍ないしのかみは大将の来ないことで何の痛痒つうようも感じていないのに、一方は一所懸命な言いわけがしてあるこの手紙も、玉鬘たまかずらは無関心なふうに見てしまっただけであるから、返事は来なかった。大将は自宅で憂鬱ゆううつな一日を暮らした。
  Kam-no-Kimi, yogare wo nani to mo obosa re nu ni, kaku kokoro tokimeki si tamahe ru wo, mi mo ire tamaha ne ba, ohom-kaheri nasi. Wotoko, mune tubure te, omohi kurasi tamahu.
2.6.8  北の方は、なほいと苦しげにしたまへば、御修法など始めさせたまふ。 心のうちにも、「 このころばかりだに、ことなく、うつし心にあらせたまへ」と念じたまふ。「 まことの心ばへのあはれなるを見ず知らずは、かうまで思ひ過ぐすべくもなきけ疎さかな」と、思ひゐたまへり。
 北の方は、依然としてたいそう苦しそうになさっているので、御修法などを始めさせなさる。心の中でも、「せめてもう暫くの間だけでも、何事もなく、正気でいらっしゃってください」とお祈りになる。「ほんとうの気立てが優しいのを知らなかったら、こんなにまで我慢できない気味悪さだ」と、思っていらっしゃった。
 夫人はなお今日も苦しんでいたから、大将は修法しゅほうなどを始めさせた。大将自身の心の中でも、ここしばらくは夫人に発作のないようにと祈っていた。物怪もののけにつかれないほんとうの妻は愛すべき性質であるのを自分は知っているから我慢ができるのであるが、そうでもなかったら捨てて惜しくない気もすることであろうと大将は思っていた。
  Kitanokata ha, naho ito kurusige ni si tamahe ba, mi-syuhohu nado hazime sase tamahu. Kokoro no uti ni mo, "Konokoro bakari dani, koto naku, utusigokoro ni ara se tamahe." to nenzi tamahu. "Makoto no kokorobahe no ahare naru wo mi zu sira zu ha, kau made omohi sugusu beku mo naki ke-utosa kana!" to, omohi wi tamahe ri.
注釈190夜一夜打たれ引かれ泣きまどひ北の方が僧から打たれたり引き回されたり、また北の方自身泣き叫んだりしている様子。2.6.1
注釈191かしこへ鬚黒は玉鬘のもとへ。2.6.1
注釈192昨夜にはかに消え入る人のはべしにより以下「とりなしはべりけむ」まで、鬚黒の文。北の方が物の怪に苦しめられて、と言わずに、漠然と昨夜急に瀕死の状態に陥った人が生じてと、言い訳をしている。2.6.2
注釈193ふり出でがたく「ふり」は雪の縁語。また「降る」と「振る」の掛詞的表現。2.6.2
注釈194身さへ心はもちろん身体までがの意。2.6.2
注釈195心さへ空に乱れし雪もよに--ひとり冴えつる片敷の袖鬚黒から玉鬘への贈歌。空模様ばかりでなく心までが。2.6.4
注釈196堪へがたくこそ歌に添えた言葉。2.6.5
注釈197白き薄様に雪にあわせて白の薄様の紙を選んだ。2.6.6
注釈198ことにをかしきところもなし語り手の鬚黒の手紙に対する評言。以下「ものしたまひける」まで、鬚黒についての評言が続く。2.6.6
注釈199尚侍の君玉鬘。2.6.7
注釈200かく心ときめきしたまへるを鬚黒がはらはらしてお書きになった手紙を。「を」は下の「見も入れたまはねば」の目的格を表すとともに、内容的には逆接的に繋がっていくので、逆接の接続助詞とも見られる。両義性をもった用法である。2.6.7
注釈201鬚黒を「男」と呼ぶことに注意。男と女の場面。2.6.7
注釈202心のうちにも鬚黒の心をいう。2.6.8
注釈203このころばかりだに以下「あらせたまへ」まで、鬚黒の心。仏への祈り。2.6.8
注釈204まことの心ばへの以下「け疎さかな」まで、鬚黒の心。2.6.8
校訂18 たまへれど たまへれど--(/+給)へれと 2.6.6
2.7
第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う


2-7  Higekuro visits to Tamakazura the next day

2.7.1   暮るれば、例の、急ぎ出でたまふ。御装束のことなども、 めやすくしなしたまはず世にあやしう、うちあはぬさまにのみむつかりたまふを、あざやかなる御直衣なども、え取りあへたまはで、いと見苦し。
 日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる。お召物のことなども、体裁よく整えなさらず、まことに奇妙で身にそぐわないとばかり不機嫌でいらっしゃるが、立派な御直衣などは、間に合わせることがおできになれず、たいそう見苦しい。
 大将は日が暮れるとすぐに出かける用意にかかったのである。大将の服装などについても、夫人は行き届いた妻らしい世話の十分できない人なのである。自分の着せられるものは流行おくれの調子のそろわないものだと大将は不足を言っていたが、きれいな直衣のうしなどがすぐまにあわないで見苦しかった。
  Kurure ba, rei no, isogi ide tamahu. Ohom-sauzoku no koto nado mo, meyasuku si nasi tamaha zu, yo ni ayasiu, uti-aha nu sama ni nomi mutukari tamahu wo, azayaka naru ohom-nahosi nado mo, e tori ahe tamaha de, ito migurusi.
2.7.2  昨夜のは、焼けとほりて、疎ましげに焦れたるにほひなども、ことやうなり。御衣どもに移り香もしみたり。ふすべられけるほどあらはに、人も倦じたまひぬべければ、脱ぎ替へて、御湯殿など、いたうつくろひたまふ。
 昨夜のは、焼け穴があいて、気味悪く焦げた匂いがするのも異様である。御下着にまでその匂いが染みていた。嫉妬された跡がはっきりして、相手もお嫌いになるに違いないので、脱ぎ替えて、御湯殿などで、たいそう身繕いをなさる。
 昨夜ゆうべのは焼け通って焦げ臭いにおいがした。小袖こそで類にもその臭気は移っていたから、妻の嫉妬しっとにあったことを標榜ひょうぼうしているようで、先方の反感を買うことになるであろうと思って、一度着た衣服をいで、風呂ふろを立てさせて入浴したりなどして大将は苦心した。
  Yobe no ha, yake tohori te, utomasige ni kogare taru nihohi nado mo, koto yau nari. Ohom-zo-domo ni uturiga mo simi tari. Husube rare keru hodo araha ni, hito mo u-zi tamahi nu bekere ba, nugi kahe te, ohom-yudono nado, itau tukurohi tamahu.
2.7.3  木工の君、御薫物しつつ、
 木工の君、お召物に香をたきしめながら、
 木工もくの君は主人あるじのために薫物たきものをしながら言う、
  Moku-no-Kimi, ohom-takimono si tutu,
2.7.4  「 ひとりゐて焦がるる胸の苦しきに
   思ひあまれる炎とぞ見し
 「北の方が独り残されて、思い焦がれる胸の苦しさが
  思い余って炎となったその跡と拝見しました
  「一人ゐてこがるる胸の苦しきに
  思ひ余れるほのほとぞ見し
    "Hitori wi te kogaruru mune no kurusiki ni
    omohi amare ru honoho to zo mi si
2.7.5  名残なき御もてなしは、見たてまつる人だに、ただにやは」
 すっかり変わったお仕打ちは、お側で拝見する者でさえも、平気でいられましょうか」
 あまりに露骨な態度をおとりになりますから、拝見する私たちまでもお気の毒になってなりません」
  Nagori naki ohom-motenasi ha, mi tatematuru hito dani, tada ni yaha."
2.7.6  と、口おほひてゐたる、まみ、いといたし。されど、「 いかなる心にて、かやうの人にものを言ひけむ」などのみぞおぼえたまひける。 情けなきことよ
 と、口もとをおおっている、目もとは、たいそう魅力的である。けれども、「どのような気持ちからこのような女に情けをかけたのだろう」などとだけ思われなさるのであった。薄情なことであるよ。
 袖で口をおおうて言っている木工の君の目つきは大将を十分にとがめているのであったが、主人あるじのほうでは、どうして自分はこんな女などと情人関係を作ったのであろうとだけ思っていた。情けない話である。
  to, kutiohohi te wi taru, mami, ito itasi. Saredo, "Ikanaru kokoro nite, kayau no hito ni mono wo ihi kem?" nado nomi zo oboye tamahi keru. Nasake naki koto yo!
2.7.7  「 憂きことを思ひ騒げばさまざまに
   くゆる煙ぞいとど立ちそふ
 「嫌なことを思って心が騒ぐので、あれこれと
  後悔の炎がますます立つのだ
  「うきことを思ひ騒げばさまざまに
  くゆる煙ぞいとど立ち添ふ
    "Uki koto wo omohi sawage ba samazama ni
    kuyuru keburi zo itodo tatisohu
2.7.8   いとことのほかなることどもの、もし聞こえあらば、 中間になりぬべき身なめり」
 まったくとんでもない事が、もし先方の耳に入ったら、宙ぶらりな身の上となるだろう」
 ああした醜態がうわさになれば、あちらの人も私を悪く思うようになって、どちらつかずの不幸な私になるだろうよ」
  Ito koto no hoka naru koto-domo no, mosi kikoye ara ba, tyuugen ni nari nu beki mi na' meri."
2.7.9  と、うち嘆きて出でたまひぬ。
 と、溜息ついてお出かけになった。
 などと歎息たんそくらしながら大将は出て行った。
  to, uti-nageki te ide tamahi nu.
2.7.10  一夜ばかりの隔てだに、まためづらしう、をかしさまさりておぼえたまふありさまに、 いとど心を分くべくもあらずおぼえて心憂ければ久しう籠もりゐたまへり
 一夜会わなかっただけなのに、改めて珍しいほどに、美しさが増して見えなさるご様子に、ますます心を他の女に分けることもできないように思われて、憂鬱なので、長い間居続けていらっしゃった。
 中一夜置いただけで美しさがまた加わったように見える玉鬘であったから、大将の愛はいっそうこの一人に集まる気がして、自邸へ帰ることができずにそのままずっと玉鬘のほうにいた。
  Hitoyo bakari no hedate dani, mata medurasiu, wokasisa masari te oboye tamahu arisama ni, itodo kokoro wo waku beku mo ara zu oboye te, kokoroukere ba, hisasiu komori wi tamahe ri.
注釈205暮るれば例の「例の」とあることによって、日が暮れると鬚黒は玉鬘のもとへ出掛けて行くことが習慣化していることが知られる。2.7.1
注釈206めやすくしなしたまはず大島本は「めやすくしなしたまはす」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「めやすくもしなしたまはず」と「も」を補訂する。2.7.1
注釈207世にあやしううちあはぬさまにのみむつかりたまふを鬚黒の身につかない風流事を自分自身でも認め不快がっている。2.7.1
注釈208ひとりゐて焦がるる胸の苦しきに--思ひあまれる炎とぞ見し木工の君の贈歌。「ひとり」に「独り」と「火取り」を掛ける。「焦がるる」「炎」は「火」の縁語。「思ひ」の「ひ」に「火」を掛ける。2.7.4
注釈209いかなる心にて以下「言ひけむ」まで鬚黒の心。2.7.6
注釈210情けなきことよ『細流抄』は「草子地の評也」と注し、『評釈』は「木工の君がそう思い、この物語を読み上げる女房がそう思い、男心と秋の空、と、物語の読者たる女性は思う」と解説する。『全集』『集成』『完訳』等も「草子地」と注す。鬚黒の木工の君に対する態度を薄情なことだという語り手の評言。2.7.6
注釈211憂きことを思ひ騒げばさまざまに--くゆる煙ぞいとど立ちそふ鬚黒の返歌。「思ひ」の「ひ」に「火」を掛け、「くゆる」に「燻る」と「悔ゆる」を掛ける。「燻る煙」は「火」の縁語。2.7.7
注釈212いとことの以下「身なめり」まで鬚黒の詞が歌の後に続く。2.7.8
注釈213中間になりぬべきどっちつかずの状態。北の方は式部卿宮に引き取られ、玉鬘は源氏方から仲を裂かれるような状態。2.7.8
注釈214いとど心を分くべくもあらずおぼえて玉鬘のことを思うとますます他の女性に愛情を分けることはできないように思われて。2.7.10
注釈215心憂ければ北の方のことを思うと憂鬱なので。2.7.10
注釈216久しう籠もりゐたまへり鬚黒が六条院の玉鬘のもとに。2.7.10
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渋谷栄一校訂(C)
Last updated 2/6/2010(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 9/23/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2003年9月3日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2009年12月18日

Last updated 2/6/2010 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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