第三十四帖 若菜上


34 WAKANA-NO-ZYAU (Meiyu-rinmo-bon)


光る源氏の准太上天皇時代
三十九歳暮から四十一歳三月までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from the end of 39 to March the age of 41

5
第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う


5  Tale of Genji  Tamakazura presents wakana to Genji in celebration of his 40 years old

5.1
第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず


5-1  Tamakazura presents wakana to Genji in celebration of his 40 years old

5.1.1   年も返りぬ。朱雀院には、姫宮、六条院に移ろひたまはむ御いそぎをしたまふ。聞こえたまへる人びと、いと口惜しく思し嘆く。 内裏にも御心ばへありて、聞こえたまひけるほどに、かかる御定めを聞こし召して、思し止まりにけり。
 年も改まった。朱雀院におかれては、姫宮が、六条院にお移りになる御準備をなさる。ご求婚申し上げなさっていた方々は、たいそう残念にお嘆きになる。帝におかせられてもお気持ちがあって、お申し入れしていらっしゃるうちに、このような御決定をお耳にあそばして、お諦めになったのであった。
 春になった。朱雀すざく院では姫宮の六条院へおはいりになる準備がととのった。今までの求婚者たちの失望したことは言うまでもない。みかども後宮にお入れになりたい思召おぼしめしを伝えようとしておいでになったが、いよいよ今度のお話の決定したことを聞こし召されておやめになった。
  Tosi mo kaheri nu. Suzyakuwin ni ha, Himemiya, Rokudeuwin ni uturohi tamaha m ohom-isogi wo sitamahu. Kikoye tamahe ru hitobito, ito kutiwosiku obosi nageku. Uti ni mo mi-kokorobahe ari te, kikoye tamahi keru hodo ni, kakaru ohom-sadame wo kikosimesi te, obosi tomari ni keri.
5.1.2   さるは、今年ぞ四十になりたまひければ、御賀のこと、朝廷にも聞こし召し過ぐさず、世の中の営みにて、かねてより響くを、ことのわづらひ多くいかめしきことは、昔より好みたまはぬ御心にて、皆かへさひ申したまふ。
 それはそれとして実は、今年四十歳におなりになったので、その御賀のこと、朝廷でもお聞き流しなさらず、世を挙げての行事として、早くから評判であったが、いろいろと煩わしいことが多い厳めしい儀式は、昔からお嫌いなご性分であるから、皆ご辞退申し上げなさる。
 六条院はこの春で四十歳におなりになるのであったから、内廷からの賀宴を挙行させるべきであると、帝も春の初めから御心みこころにかけさせられ、世間でも御賀を盛んにしたいと望む人の多いのを、院はお聞きになって、昔から御自身のことでたいそうな式などをすることのおきらいな方だったから話を片端から断わっておいでになった。
  Saruha, kotosi zo yosodi ni nari tamahi kere ba, ohom-ga no koto, ohoyake ni mo kikosimesi sugusa zu, yononaka no itonami nite, kanete yori hibiku wo, koto no wadurahi ohoku ikamesiki koto ha, mukasi yori konomi tamaha nu mi-kokoro nite, mina kahesahi mausi tamahu.
5.1.3   正月二十三日、子の日なるに左大将殿の北の方、若菜参りたまふ。かねてけしきも漏らしたまはで、いといたく忍びて思しまうけたりければ、にはかにて、えいさめ返しきこえたまはず。 忍びたれど、さばかりの御勢ひなれば、渡りたまふ 御儀式など、いと響きことなり。
 正月二十三日は、子の日なので、左大将殿の北の方が、若菜を献上なさる。前もってその様子も外に現しなさらず、とてもたいそう密かにご準備なさっていたので、急な事で、ご意見してご辞退申し上げることもできない。内々にではあるが、あれほどのご威勢なので、ご訪問の作法など、たいそう騷ぎが格別である。
 正月の二十三日はの日であったが、左大将の夫人から若菜わかなの賀をささげたいという申し出があった。少し前まではまったく秘密にして用意されていたことで、六条院が御辞退をあそばされる間がなかったのであった。目だたせないようにはしていたが、左大将家をもってすることであったから、玉鬘たまかずら夫人の六条院へ出て来る際の従者の列などはたいしたものであった。
  Syaugwatu nizihu-sam-niti, ne no hi naru ni, Sadaisyau-dono no Kitanokata, wakana mawiri tamahu. Kanete kesiki mo morasi tamaha de, ito itaku sinobi te obosi mauke tari kere ba, nihaka nite, e isame kahesi kikoye tamaha zu. Sinobi tare do, sabakari no ohom-ikihohi nare ba, watari tamahu ohom-gisiki nado, ito hibiki koto nari.
5.1.4   南の御殿の西の放出に御座よそふ。屏風、壁代よりはじめ、新しく 払ひしつらはれたりうるはしく倚子などは立てず御地敷四十枚、御茵、脇息など、すべてその 御具ども、いと きよらにせさせたまへり
 南の御殿の西の放出に御座席を設ける。屏風、壁代をはじめ、新しくすっかり取り替えられている。儀式ばって椅子などは立てず、御地敷四十枚、御褥、脇息など、総じてその道具類は、たいそう美しく整えさせていらっしゃった。
 南の御殿の西の離れ座敷に賀をお受けになる院のお席が作られたのである。屏風びょうぶ壁代かべしろの幕も皆新しい物でしつらわれた。形式をたいそうにせず院の御座に椅子いすは立てなかった。地敷きの織物が四十枚敷かれ、しとね脇息きょうそくなど今日の式場の装飾は皆左大将家からもたらした物であって、趣味のよさできれいに整えられてあった。
  Minami no otodo no nisi no hanatiide ni omasi yosohu. Byaubu, kabesiro yori hazime, atarasiku harahi situraha re tari. Uruhasiku isi nado ha tate zu, ohom-disiki sizihu-mai, ohom-sitone, kehusoku nado, subete sono ohom-gu-domo, ito kiyora ni se sase tamahe ri.
5.1.5  螺鈿の御厨子二具に、 御衣筥四つ据ゑて 、夏冬の御装束。香壺、薬の筥、御硯、ゆする坏、掻上の筥などやうのもの、 うちうちきよらを尽くしたまへり。御插頭の台には、沈、紫檀を作り、めづらしきあやめを尽くし、 同じき金をも、色使ひなしたる、心ばへあり、今めかしく。
 螺鈿の御厨子二具に、御衣箱四つを置いて、夏冬の御装束。香壷、薬の箱、御硯、ゆする坏、掻上の箱などのような物を、目立たない所に善美を尽くしていらっしゃった。御插頭の台としては、沈や、紫檀で作り、珍しい紋様を凝らし、同じ金属製品でも、色を使いこなしているのは、趣があり、現代風で。
 螺鈿らでんの置きだな二つへ院のお召し料の衣服箱四つを置いて、夏冬の装束、香壺こうご、薬の箱、おすずり洗髪器ゆするつきくしの具の箱なども皆美術的な作品ばかりが選んであった。御挿頭かざしの台はじん紫檀したんの最上品が用いられ、飾りの金属も持ち色をいろいろに使い分けてある上品な、そして派手はでなものであった。
  Raden no mi-dusi huta-yorohi ni, ohom-koromobako yo-tu suwe te, natu huyu no ohom-sauzoku. Kaugo, kusuri no hako, ohom-suzuri, yusurutuki, kakage no hako nado yau no mono, utiuti kiyora wo tukusi tamahe ri. Ohom-kazasi no dai ni ha, din, sitan wo tukuri, medurasiki ayame wo tukusi, onaziki kane wo mo, iro tukahi nasi taru, kokorobahe ari, imamekasiku.
5.1.6   尚侍の君、もののみやび深く、かどめきたまへる人にて 、目馴れぬさまにしなしたまへる、おほかたのことをば、ことさらにことことしからぬほどなり。
 尚侍の君は、風雅の心が深く、才気のある方なので、目新しい形に整えなさっていたが、儀式全般のこととしては、格別に仰々しくないようにしてある。
 玉鬘夫人は芸術的な才能のある人で、工芸品を院のために新しく作りそろえたすぐれたものである。そのほかのことはきわだたせず質素に見せて実質のある賀宴をしたのであった。
  Kamnokimi, mono no miyabi hukaku, kadomeki tamahe ru hito nite, menare nu sama ni si nasi tamahe ru, ohokata no koto wo ba, kotosara ni kotokotosikara nu hodo nari.
注釈260年も返りぬ源氏四十歳となる。紫の上三十二、女三の宮十四、五歳。5.1.1
注釈261内裏にも御心ばへありて聞こえたまひけるほどに冷泉帝も女三の宮の入内を希望していた、という。初めて語られる。5.1.1
注釈262さるは明融臨模本は「さる(る$)は」とある。すなわち「る」をミセケチにする。大島本や諸本は「さるは」とある。『集成』『完本』は底本(明融臨模本)の訂正以前本文や大島本等の本文に従う。『新大系』は底本(大島本)のままとする。『集成』は「(それはそれとして)実は。前の叙述の内容を受けて、別の事情を提示説明する」と注す。5.1.2
注釈263正月二十三日子の日なるに『河海抄』は、延長二年正月二十五日甲子、宇多法皇が醍醐天皇の四十賀のために、若菜を献じた例を引く。正月の子日に小松を引いたり若菜を摘んで食べたりして、長寿を祈念した。5.1.3
注釈264左大将殿の北の方鬚黒左大将の北の方、すなわち玉鬘。『完訳』は「鬚黒の北の方に収まり、もはや源氏とは無関係とする呼称」と注す。5.1.3
注釈265御儀式明融臨模本は「(+御)きしき」とある。すなわち「御」を補入する。大島本は「御きしき」とある。『集成』『完本』は底本(明融臨模本)の訂正以前本文の本文に従う。『新大系』は底本(大島本)のままとする。5.1.3
注釈266南の御殿の西の放出に六条院南の御殿の寝殿の西面の母屋と廂間を一続きにした所。5.1.4
注釈267うるはしく倚子などは立てず椅子を用いるのは中国式、また天皇が用いる。5.1.4
注釈268御地敷四十枚御地敷、茣蓙の一種。四十賀にちなむ数を用意する。5.1.4
注釈269きよらにせさせたまへり「させ」使役の助動詞、「たまへ」尊敬の補助動詞、「り」完了の助動詞、存続。主語は玉鬘。5.1.4
注釈270御衣筥四つ据ゑて四つも四十賀にちなむ数。5.1.5
注釈271うちうちきよらを尽くしたまへり『集成』は「目立たぬところに善美を尽していらっしゃる」。『完訳』は「内々で善美を尽してご調製になられた」と訳す。5.1.5
注釈272同じき金をも『集成』は「金銀も」。『完訳』は「同じ金具でも」と訳す。5.1.5
注釈273尚侍の君もののみやび深くかどめきたまへる人にて玉鬘の人柄。風雅の趣味が深く才気がある人。5.1.6
校訂67 忍びたれど 忍びたれど--しのひたれは(は/$と) 5.1.3
校訂68 御儀式 御儀式--(/+御)きしき 5.1.3
校訂69 払ひしつらはれたり 払ひしつらはれたり--はこ(こ/$ら)ひしつらひ(ひ/$)はれたり 5.1.4
校訂70 御具 御具--御(御/+く) 5.1.4
校訂71 四つ 四つ--よ(よ/+つ) 5.1.5
校訂72 尚侍の君 尚侍の君--かむのき(き/+み) 5.1.6
5.2
第二段 源氏、玉鬘と対面


5-2  Genji meets Tamakazura after a long time

5.2.1  人びと参りなどしたまひて、 御座に出でたまふとて、尚侍の君に御対面あり御心のうちには、いにしへ思し出づることもさまざまなりけむかし
 人々が参上などなさって、お座席にお出になるに当たり、尚侍の君とご対面がある。お心の中では、昔を思い出しなさることがさまざまとあったことであろう。
 参列者を引見されるために客座敷へお出しになる時に玉鬘夫人と面会された。いろいろの過去の光景がお心に浮かんだことと思われる。
  Hitobito mawiri nado si tamahi te, omasi ni ide tamahu tote, Kamnokimi ni ohom-taimen ari. Mi-kokoro no uti ni ha, inisihe obosi iduru koto mo samazama nari kem kasi.
5.2.2  いと若くきよらにて、かく御賀などいふことは、ひが数へにやと、おぼゆるさまの、なまめかしく、人の親げなくおはしますを、めづらしくて 年月隔てて見たてまつりたまふは、いと恥づかしけれど、 なほけざやかなる隔てもなくて、御物語聞こえ交はしたまふ。
 実に若々しく美しくて、このように御四十の賀などということは、数え違いではないかと、つい思われる様子で、優美で子を持つ親らしくなくいらっしゃるのを、珍しくて、歳月を経て拝見なさるのは、とても恥ずかしい思いがするが、やはり際立った隔てもなく、お話を交わしなさる。
 院のお顔は若々しくおきれいで、四十の賀などは数え違いでないかと思われるほどえんで、賀を奉る夫人の養父でおありになるとも思われないのを見て、何年かを中に置いてお目にかかる玉鬘たまかずら尚侍ないしのかみは恥ずかしく思いながらも以前どおりに親しいお話をした。
  Ito wakaku kiyora nite, kaku ohom-ga nado ihu koto ha, higa kazohe ni ya to, oboyuru sama no, namamekasiku, hito no oyage naku ohasimasu wo, medurasiku te tosituki hedate te mi tatematuri tamahu ha, ito hadukasikere do, naho kezayaka naru hedate mo naku te, ohom-monogatari kikoye kahasi tamahu.
5.2.3   幼き君も、いとうつくしくて ものしたまふ。尚侍の君は、 うち続きても御覧ぜられじとのたまひけるを、 大将、かかるついでにだに御覧ぜさせむとて、二人同じやうに、振分髪の何心なき 直衣姿どもにておはす。
 幼い君も、とてもかわいらしくいらっしゃる。尚侍の君は、続いて二人もお目にかけたくないとおっしゃったが、大将が、せめてこのような機会に御覧に入れようと言って、二人同じように、振り分け髪で、無邪気な童直衣姿でいらっしゃる。
 尚侍の幼児がかわいい顔をしていた。玉鬘夫人は続いて生まれた子供などをお目にかけるのをはばかっていたが、良人おっとの左大将はこんな機会にでもお見せ申し上げておかねばおわせすることもできないからと言って、兄弟はほとんど同じほどの大きさで振り分け髪に直衣のうしを着せられて来ていたのである。
  Wosanaki Kimi mo, ito utukusiku te monosi tamahu. Kamnokimi ha, uti-tuduki te mo goranze rare zi to notamahi keru wo, Daisyau, kakaru tuide ni dani goranze sase m tote, hutari onazi yau ni, huriwakegami no nanigokoronaki nahosisugata-domo nite ohasu.
5.2.4  「 過ぐる齢も、みづからの心にはことに思ひとがめられず、ただ昔ながらの若々しきありさまにて、改むることもなきを、 かかる末々のもよほしになむなまはしたなきまで思ひ知らるる折もはべりける
 「年を取ると、自分自身では特に気にもならず、ただ昔のままの若々しい様子で、変わることもないのだが、このような孫たちができたことで、きまりの悪いまでに年を取ったことを思い知られる時もあるのですね。
 「過ぎた年月のことというものは、自身の心には長い気などはしないもので、やはり昔のままの若々しい心が改められないのですが、こうした孫たちを見せてもらうことでにわかに恥ずかしいまでに年齢としを考えさせられます。
  "Suguru yohahi mo, midukara no kokoro ni ha koto ni omohi togame rare zu, tada mukasi nagara no wakawakasiki arisama nite, aratamuru koto mo naki wo, kakaru suwezuwe no moyohosi ni nam, nama-hasitanaki made omohi sira ruru wori mo haberi keru.
5.2.5   中納言のいつしかとまうけたなるを、ことことしく思ひ隔てて、まだ見せずかし。人よりことに、数へ取りたまひける今日の 子の日こそ、なほうれたけれ。しばしは老を 忘れてもはべるべきを
 中納言が早々と子をなしたというのに、仰々しく分け隔てして、まだ見せませんよ。誰より先に、私の年を数えて祝ってくださった今日の子の日は、やはりつらく思われます。しばらくは老いを忘れてもいられたでしょうに」
 中納言にも子供ができているはずなのだが、うとい者に私をしているのかまだ見せませんよ。あなたがだれよりも先に数えてくだすって年齢としの祝いをしてくださるの日も、少し恨めしくないことはない。もう少し老いは忘れていたいのですがね」
  Tyuunagon no itusika to mauke ta' naru wo, kotokotosiku omohi hedate te, mada mi se zu kasi. Hito yori koto ni, kazohe tori tamahi keru kehu no nenohi koso, naho uretakere. Sibasi ha oyi wo wasure te mo haberu beki wo."
5.2.6  と聞こえたまふ。
 と申し上げなさる。
 と、院は仰せられた。
  to kikoye tamahu.
注釈274御座に出でたまふとて尚侍の君に御対面あり女性は祝賀の宴席に出られないので、その前に、源氏は玉鬘に会う。5.2.1
注釈275御心のうちには、いにしへ思し出づることもさまざまなりけむかし明融臨模本は「ことも」とある。大島本や諸本は「事とも」とある。『集成』『完本』は大島本や諸本に従って「ことども」と校訂する。『新大系』は底本(大島本)のままとする。『孟津抄』は「草子地也」と指摘。『完訳』は「以下、語り手が源氏の未練の心を推測し、変らぬ風貌をも叙述」と注す。5.2.1
注釈276年月隔てて見たてまつりたまふは主語は玉鬘。源氏三十七歳の冬十月頃に結婚して二年余り、源氏とは三年目の対面。5.2.2
注釈277なほけざやかなる隔てもなくて『集成』は「昔通り、堅苦しい隔てもない有様で」。『完訳』「やはり際だって他人行儀というふうでもなく」。御簾や御几帳越しまた女房を介してというのではなく、直接会うことをいう。5.2.2
注釈278幼き君もいとうつくしくて結婚の翌年に誕生、数え年三歳になる。5.2.3
注釈279うち続きても御覧ぜられじ年子で、もう一人生まれている。5.2.3
注釈280大将かかるついでに明融臨模本は「大将」とある。大島本や諸本は「大将の」とある。『集成』『完本』は大島本や諸本に従って「大将の」と校訂する。『新大系』は底本(大島本)のままとする。5.2.3
注釈281直衣姿どもにて童直衣姿。5.2.3
注釈282過ぐる齢も以下「忘れてもはべるべきを」まで、源氏の詞。5.2.4
注釈283かかる末々のもよほしになむ玉鬘は源氏の実子ではないが、養女となったので、「末々(孫)」が生まれて、という。5.2.4
注釈284なまはしたなきまで思ひ知らるる折もはべりける『集成』は「何やらきまりが悪いほど自分の年を痛感させられることもあるものでした」。『完訳』は「こうして孫たちができると、それに促されるように自分の年齢がなにやらきまりわるいくらい痛感させられるときもあったのですね」。「ける」過去の助動詞、連体形、「なむ」の係結び、詠嘆の意。5.2.4
注釈285中納言のいつしかとまうけたなるを夕霧が雲居雁と結婚したのは、昨年の四月。『完訳』は「子があるとするのは、やや不自然」と注す。約十月間ある。またその間に閏月を想定すれば、不自然なこともないが、藤典侍(五節の舞姫、惟光の娘)との間の子であろうか。5.2.5
注釈286子の日『集成』は「ねのび」と訓じる。『日葡辞書』に「ネノビ」とある。5.2.5
注釈287忘れてもはべるべきを『完訳』は「忘れてもいられたでしょうに」。「べき」推量の助動詞、可能の意。「を」接続助詞、逆接の意。5.2.5
校訂73 うつくしくて うつくしくて--うつくし(し/+く)て 5.2.3
5.3
第三段 源氏、玉鬘と和歌を唱和


5-3  Genji and Tamakazura exchange waka each other

5.3.1  尚侍の君も、 いとよくねびまさり、ものものしきけさへ添ひて、見るかひあるさましたまへり
 尚侍の君も、すっかり立派に成熟して、貫祿まで加わって、素晴らしいご様子でいらっしゃった。
玉鬘もますますきれいになって、重味というようなものも添ってきてりっぱな貴婦人と見えた。
  Kamnokimi mo, ito yoku nebi masari, monomonosiki ke sahe sohi te, miru kahi aru sama si tamahe ri.
5.3.2  「 若葉さす野辺の小松を引き連れて
   もとの岩根を祈る今日かな
 「若葉が芽ぐむ野辺の小松を引き連れて
  育てて下さった元の岩根を祝う今日の子の日ですこと
  若葉さす野辺のべの小松をひきつれて
  もとの岩根を祈る今日かな
    "Wakaba sasu nobe no komatu wo hiki ture te
    moto no ihane wo inoru kehu kana
5.3.3  と、せめておとなび聞こえたまふ。沈の折敷四つして、御若菜さまばかり 参れり。御土器取りたまひて、
 と、強いて母親らしく申し上げなさる。沈の折敷を四つ用意して、御若菜を御祝儀ばかりに献上なさった。御杯をお取りになって、
 こう大人おとなびた御挨拶あいさつをした。じんの木の四つの折敷おしきに若菜を形式的にだけ少し盛って出した。院は杯をお取りになって、
  to, semete otonabi kikoye tamahu. Din no wosiki yo-tu si te, ohom-wakana sama bakari mawire ri. Ohom-kaharake tori tamahi te,
5.3.4  「 小松原末の齢に引かれてや
   野辺の若菜も年を摘むべき
 「小松原の将来のある齢にあやかって
  野辺の若菜も長生きするでしょう
  小松原末のよはひに引かれてや
  野辺の若菜も年をつむべき
    "Komatubara suwe no yohahi ni hika re te ya
    nobe no wakana mo tosi wo tumu beki
5.3.5  など聞こえ交はしたまひて、上達部あまた南の廂に着きたまふ。
 などと詠み交わしなさっているうちに、上達部が大勢南の廂の間にお着きになる。
 などとお歌いになった。高官たちは南の外座敷の席に着いた。
  nado kikoye kahasi tamahi te, Kamdatime amata minami no hisasi ni tuki tamahu.
5.3.6   式部卿宮は、参りにくく思しけれど、 御消息ありけるにかく親しき御仲らひにて、心あるやうならむも便なくて、日たけてぞ渡りたまへる。
 式部卿宮は、参上しにくくお思いであったが、ご招待があったのに、このように親しい間柄で、わけがあるみたいに取られるのも具合が悪いので、日が高くなってからお渡りになった。
式部卿の宮は参りにくく思召おぼしめしたのであるが、院から御招待をお受けになって、御しゅうとでいらせられながら賀宴に出ないことは含むことでもあるようであるからとお思いになり、ずっと時間をおくらせておいでになった。
  Sikibukyau-no-Miya ha, mawiri nikuku obosi kere do, ohom-seusoko ari keru ni, kaku sitasiki ohom-nakarahi ni te, kokoro aru yau nara m mo binnaku te, hi take te zo watari tamahe ru.
5.3.7   大将のしたり顔にて、かかる御仲らひに、うけばりてものしたまふも、げに心やましげなるわざなめれど、 御孫の君たちは、いづ方につけても、おり立ちて雑役したまふ。籠物四十枝、折櫃物四十。中納言をはじめたてまつりて、さるべき限り 取り続きたまへり。御土器くだり、若菜の御羹参る。御前には、沈の懸盤四つ、御坏どもなつかしく、今めきたるほどにせられたり。
 大将が得意顔で、このようなお間柄ゆえ、すべて取り仕切っていらっしゃるのも、いかにも癪に障ることのようであるが、御孫の君たちは、どちらからも縁続きゆえに、骨身を惜しまず、雑用をなさっている。籠物四十枝、折櫃物四十。中納言をおはじめ申して、相当な方々ばかりが、次々に受け取って献上なさっていた。お杯が下されて、若菜の御羹をお召し上がりになる。御前には、沈の懸盤四つ、御坏類も好ましく現代風に作られていた。
 以前の婿の左大将が御養女の婿として得意な色を見せて、賀宴の主催者になっているのを御覧になる宮は、御不快なことであろうとも思われたが、御孫である左大将家の長男次男は紫夫人のおいとしても、主催者の子としても席上の用にいろいろと立ち働いていた。かご詰めの料理の付けられた枝が四十、折櫃おりびつに入れられた物が四十、それらを中納言をはじめとして御親戚しんせきの若い役人たちが取り次いで御前へ持って出た。院の御前にはじん懸盤かけばんが四つ、優美な杯の台などがささげられた。
  Daisyau no sitarigaho nite, kakaru ohom-nakarahi ni, ukebari te monosi tamahu mo, geni kokoroyamasige naru waza na' mere do, ohom-mago no Kimi-tati ha, idukata ni tuke te mo, oritati te zahuyaku si tamahu. Komono yoso-yeda, woribitu mono yosodi. Tyuunagon wo hazime tatematuri te, sarubeki kagiri torituduki tamahe ri. Ohom-kaharake kudari, wakana no ohom-atumono mawiru. Omahe ni ha, din no kakeban yo-tu, ohom-tuki-domo natukasiku, imameki taru hodo ni se rare tari.
注釈288いとよくねびまさりものものしきけさへ添ひて見るかひあるさましたまへり『完訳』は「まことに美しく女ざかりとなり、重々しい風采までそなわってきて、見るにはりあいのある有様でいらっしゃる」と訳す。5.3.1
注釈289若葉さす野辺の小松を引き連れて--もとの岩根を祈る今日かな玉鬘が源氏を祝う歌。「小松」は玉鬘の子ども、「元の岩根」は源氏をそれぞれさす。「小松」「引き」「岩根」は縁語。みずみずしく生い先豊かな「小松」の成長力と永遠不滅の「岩根」にあやっかって、源氏のますますの健康と長寿を祈る意。5.3.2
注釈290小松原末の齢に引かれてや--野辺の若菜も年を摘むべき源氏の返歌。「若葉」「野辺」「小松」「引く」の語句を受けて「小松原」「引かれて」「野辺」「若菜」の語句を用いる。「摘む」「積む」の掛詞。「小松」「摘む」の縁語。小松の生命力にあやかって、私も長寿を保てようと祝う歌。5.3.4
注釈291式部卿宮は参りにくく玉鬘主催の源氏四十賀に、紫の上の父式部卿宮は参列しにくく思う。鬚黒大将の北の方であった娘が、鬚黒と玉鬘の結婚によって、離縁されたといういきさつがある。5.3.6
注釈292御消息ありけるに『完訳』は「源氏からのお誘い」と注す。5.3.6
注釈293かく親しき御仲らひにて源氏と式部卿宮との間には、源氏の須磨明石流離の前後には一時疎遠になっていたが、その後、源氏は式部卿宮の五十賀を祝う(「少女」巻)など、その関係は縒りがもどったらしい。5.3.6
注釈294大将のしたり顔にて『完訳』は「以下「雑役したまふ」まで、宮の心中に即した叙述」と注す。5.3.7
注釈295御孫の君たちはいづ方につけても源氏の孫の君たち。すなわち鬚黒の前の北の方の子供たち、玉鬘は継母、紫の上は叔母に当たる。5.3.7
注釈296取り続きたまへり『完訳』は「以下、正式の賀宴の作法。夕霧ら、しかるべき人々が順次献上する」と注す。5.3.7
校訂74 参れり 参れり--(/+ま)いれり 5.3.3
5.4
第四段 管弦の遊び催す


5-4  Genji holds a concert

5.4.1  朱雀院の御薬のこと、なほたひらぎ果てたまはぬにより、 楽人などは 召さず。御笛など、太政大臣の、その方は整へたまひて、
 朱雀院の御病気が、まだすっかり良くならないことによって、楽人などはお召しにならない。管楽器などは、太政大臣が、そちらの方面はお整えになって、
 朱雀すざく院がまだ御全快あそばさないので、この御宴席で専門の音楽者は呼ばれなかった。楽器類のことは玉鬘夫人の実父の太政大臣が引き受けて名高いものばかりが集められてあった。
  Suzyakuwin no ohom-kusuri no koto, naho tahiragi hate tamaha nu ni yori, gakunin nado ha mesa zu. Ohom-hue nado, Ohokiotodo no, sono kata ha totonohe tamahi te,
5.4.2  「 世の中に、この御賀よりまためづらしくきよら尽くすべきことあらじ
 「世の中に、この御賀より他に立派で善美を尽くすような催しはまたとあるまい」
 「この世で六条院の賀宴のほかに、高尚こうしょうなものの集まってよい席というものはない筈なのだ」
  "Yononaka ni, kono ohom-ga yori mata medurasiku kiyora tukusu beki koto ara zi."
5.4.3  とのたまひて、すぐれたる音の限りを、かねてより思しまうけたりければ、忍びやかに御遊びあり。
 とおっしゃって、優れた楽器ばかりを、以前からご準備なさっていたので、内輪の方々で音楽のお遊びが催される。
 と言って、大臣は当日の楽器を苦心して選んだ。それらで静かな音楽の合奏があった。
  to notamahi te, sugure taru ne no kagiri wo, kanete yori obosi mauke tari kere ba, sinobiyaka ni ohom-asobi ari.
5.4.4  とりどりにたてまつる中に、和琴は、かの大臣の第一に秘したまひける御琴なり。 さるものの上手の、心をとどめて弾き馴らしたまへる音、いと並びなきを、異人は掻きたてにくくしたまへば、 衛門督の固く否ぶるを責めたまへばげにいとおもしろく、をさをさ劣るまじく弾く
 それぞれ演奏する楽器の中で、和琴は、あの太政大臣が第一にご秘蔵なさっていた御琴である。このような名人が、日頃入念に弾き馴らしていらっしゃる音色、またとないほどなので、他の人は弾きにくくなさるので、衛門督が固く辞退しているのを催促なさると、なるほど実に見事に、少しも父親に負けないほどに弾く。
 和琴わごんはこの大臣の秘蔵して来た物で、かつてこの名手が熱心にいた楽器は諸人がかき立てにくく思うようであったから、かたく辞退していた右衛門督うえもんのかみにぜひにとくことを院がお求めになったが、予想以上に巧みに名手の長男は弾いた。
  Toridori ni tatematuru naka ni, wagon ha, kano Otodo no daiiti ni hisi tamahi keru ohom-koto nari. Saru mono no zyauzu no, kokoro wo todome te hiki narasi tamahe ru ne, ito narabi naki wo, kotobito ha kaki-tate nikuku si tamahe ba, Wemon-no-Kami no kataku inaburu wo seme tamahe ba, geni ito omosiroku, wosawosa otoru maziku hiku.
5.4.5  「 何ごとも、上手の嗣といひながら、かくしもえ 継がぬわざぞかし」と、心にくくあはれに人びと思す。 調べに従ひて、跡ある手ども、定まれる唐土の伝へどもは 、なかなか尋ね知るべき方あらはなるを、心にまかせて、ただ掻き合はせたるすが掻きに、よろづの物の音調へられたるは、妙におもしろく、あやしきまで響く。
 「どのようなことも、名人の後嗣と言っても、これほどにはとても継ぐことはできないものだ」と、奥ゆかしく感心なことに人々はお思いになる。それぞれの調子に従って、楽譜の整っている弾き方や、決まった型のある中国伝来の曲目は、かえって習い方もはっきりしているが、気分にまかせて、ただ掻き合わせるすが掻きに、すべての楽器の音色が一つになっていくのは、見事に素晴らしく、不思議なまでに響き合う。
 どう遺伝があるものとしても、こうまで父の芸を継ぐことは困難なものであるがとだれも感動を隠せずにいた。支那しなから伝わった弾き方をする楽器はかえって学びやすいが、和琴はただ清掻すががきだけで他の楽器を統制していくものであるからむずかしい芸で、そしてまたおもしろいものなのである。右衛門督の爪音つまおとはよく響いた。
  "Nanigoto mo, zyauzu no tugi to ihi nagara, kaku simo e tuga nu waza zo kasi." to, kokoronikuku ahare ni hitobito obosu. Sirabe ni sitagahi te, ato aru te-domo, sadamare ru morokosi no tutahe-domo ha, nakanaka tadune siru beki kata araha naru wo, kokoro ni makase te, tada kaki-ahase taru sugagaki ni, yorodu no mono no ne totonohe rare taru ha, tahe ni omosiroku, ayasiki made hibiku.
5.4.6  父大臣は、琴の緒もいと緩に張りて、いたう下して調べ、響き多く合はせてぞ掻き鳴らしたまふ。 これは、いとわららかに昇る音の、なつかしく愛敬づきたるを、「 いとかうしもは聞こえざりしを」と、親王たちも驚きたまふ。
 父大臣は、琴の緒をとても緩く張って、たいそう低い調子で調べ、余韻を多く響かせて掻き鳴らしなさる。こちらは、たいそう明るく高い調子で、親しみのある朗らかなので、「とてもこんなにまでとは知らなかった」と、親王たちはびっくりなさる。
 一つのほうの和琴は父の大臣がいともゆるく、も低くおろして、余韻を重くして、弾いていた。子息のははなやかにがたって、甘美な愛嬌あいきょうがあると聞こえた。これほど上手じょうずであるという評判はなかったのであるがと親王がたも驚いておいでになった。
  Titi-Otodo ha, koto no wo mo ito yuru ni hari te, itau kudasi te sirabe, hibiki ohoku ahase te zo kaki-narasi tamahu. Kore ha, ito wararaka ni noboru ne no, natukasiku aigyauduki taru wo, "Ito kau simo ha kikoye zari si wo!" to, Miko-tati mo odoroki tamahu.
5.4.7  琴は、兵部卿宮弾きたまふ。この御琴は、 宜陽殿の御物にて、代々に第一の名ありし御琴を、 故院の末つ方、一品宮の好みたまふことにて、賜はりたまへりけるを、この折のきよらを尽くしたまはむとするため、 大臣の申し賜はりたまへる 御伝へ伝へを思すに、いとあはれに、昔のことも恋しく思し出でらる。
 琴は、兵部卿宮がお弾きになる。この御琴は、宜陽殿の御物で、代々に第一の評判のあった御琴を、故院の晩年に、一品宮がお嗜みがおありであったので、御下賜なさったのを、この御賀の善美を尽しなさろうとして、大臣が願い出て賜ったという次々の伝来をお思いになると、実にしみじみと、昔のことが恋しくお思い出さずにはいらっしゃれない。
 琴は兵部卿ひょうぶきょうの宮があそばされた。この琴は宮中の宜陽殿ぎようでんに納めておかれた御物ぎょぶつであって、どの時代にも第一の名のあった楽器であったが、故院の御代みよの末ごろに御長皇女おんちょうこうじょ一品いっぽんの宮が琴を好んでお弾きになったので御下賜あそばされたのを、今日の賀宴のために太政大臣が拝借してきたのである。この楽器によって御父帝の御時のこと、また御姉宮に賜わった時のことが思召されて六条院はことさら身にんで音色ねいろに聞き入っておいでになった。
  Kin ha, Hyaubukyau-no-Miya hiki tamahu. Kono ohom-koto ha, Giyauden no ohom-mono nite, daidai ni daiiti no na ari si ohom-koto wo, Ko-Win no suwe tu kata, Itupon-no-Miya no konomi tamahu koto nite, tamahari tamahe ri keru wo, kono wori no kiyora wo tukusi tamaha m to suru tame, Otodo no mausi tamahari tamahe ru ohom-tutahe tutahe wo obosu ni, ito ahare ni, mukasi no koto mo kohisiku obosi ide raru.
5.4.8  親王も、酔ひ泣きえとどめたまはず。 御けしきとりたまひて、琴は御前に譲りきこえさせたまふ。 もののあはれにえ過ぐしたまはで、めづらしきもの一つばかり弾きたまふに、ことことしからねど、限りなくおもしろき夜の 御遊びなり。
 親王も、酔い泣きを抑えることがおできになれない。ご心中をお察しになって、琴は御前にお譲り申し上げあそばす。感興にじっとしていらっしゃれずに、珍しい曲目を一曲だけお弾きなさると、儀式ばった仰々しさはないけれども、この上なく素晴らしい夜のお遊びである。
 兵部卿の宮も酔い泣きがとめられない御様子であった。そして院の御意をお伺いになった上琴を御前へ移された。今夜の御気分からおいなみになることはできずに院は珍しい曲を一つだけお弾きになった。そんなこともあって大がかりな演奏ではないがおもしろい音楽の夜になったのである。
  Miko mo, wehinaki e todome tamaha zu. Mi-kesiki tori tamahi te, kin ha omahe ni yuduri kikoye sase tamahu. Mono no ahare ni e sugusi tamaha de, medurasiki mono hitotu bakari hiki tamahu ni, kotokotosikara ne do, kagiri naku omosiroki yo no ohom-asobi nari.
5.4.9   唱歌の人びと御階に召して、すぐれたる声の限り出だして、 返り声になる。夜の更け行くままに、物の調べども、なつかしく変はりて、「 青柳」遊びたまふほど げに、ねぐらの鴬おどろきぬべく、いみじくおもしろし。 私事のさまにしなしたまひて、禄など、いと警策にまうけられたりけり
 唱歌の人々を御階に召して、美しい声ばかりで歌わせて、返り声に転じて行く。夜が更けて行くにつれて、楽器の調子など、親しみやすく変わって、「青柳」を演奏なさるころに、なるほど、ねぐらの鴬が目を覚ますに違いないほど、大変に素晴らしい。私的な催しの形式になさって、禄など、たいそう見事な物を用意なさっていた。
 階段きざはしの所に声のよい若い殿上人たちの集められたのが、器楽のあとを歌曲に受け、「青柳」の歌われたころはもうねぐらに帰っていたうぐいすも驚くほど派手はでなものになった。主催する人は別にあった宴会ではあるが、院のほうでも纏頭の御用意があって出された。
  Sauga no hitobito mi-hasi ni mesi te, sugure taru kowe no kagiri idasi te, kaherigowe ni naru. Yo no huke yuku mama ni, mono no sirabe-domo, natukasiku kahari te, Awoyagi asobi tamahu hodo, geni, negura no uguhisu odoroki nu beku, imiziku omosirosi. Watakusigoto no sama ni si nasi tamahi te, roku nado, ito kyausaku ni mauke rare tari keri.
注釈297楽人『集成』は「雅楽寮、楽所、六衛府の官人などで音楽をよくする者をいう」と注す。5.4.1
注釈298世の中にこの御賀よりまためづらしくきよら尽くすべきことあらじ太政大臣の詞。5.4.2
注釈299さるものの上手の太政大臣が和琴の名手であることは、「少女」「常夏」に語られている。5.4.4
注釈300げにいとおもしろくをさをさ劣るまじく弾く柏木も和琴の名手であったことは「梅枝」に語られている。5.4.4
注釈301何ごとも上手の嗣といひながら以下「え継がぬわざぞかし」まで、人々の感想。5.4.5
注釈302調べに従ひて跡ある手ども定まれる唐土の伝へどもは『集成』は「それぞれの調子に従って楽譜が整っている弾き方や、きまった型のある中国伝来の曲なら」。『完訳』は「それぞれの調子に従って一定の型が決っている奏法や、楽譜の決っている唐伝来の曲などは」と訳す。5.4.5
注釈303これは柏木をさす。5.4.6
注釈304いとかうしもは聞こえざりしを親王たちの感想。5.4.6
注釈305宜陽殿の御物にて宮中の殿舎の一つ。累代の楽器や書籍を保管した殿。5.4.7
注釈306故院の末つ方一品宮の好みたまふことにて桐壺院の晩年、その内親王、女一の宮、母は弘徽殿大后。初めて見える記事。5.4.7
注釈307大臣の申し賜はりたまへる太政大臣が女一の宮に願い出て頂戴なさった、の意。北の方が弘徽殿大后の妹四の宮という縁からであろう。5.4.7
注釈308御伝へ伝へ皇室に代々第一の御物であったのが桐壺院の女一の宮に伝えられ、それがさらに太政大臣に伝わったということをいう。5.4.7
注釈309御けしきとりたまひて主語は蛍兵部卿宮。5.4.8
注釈310もののあはれにえ過ぐしたまはで主語は源氏。5.4.8
注釈311唱歌の人びと御階に召して楽器の譜を歌う殿上人を寝殿の南正面の階段の前に召しての意。5.4.9
注釈312返り声になる『集成』は「音楽の調子が、呂旋法より律旋法に変ること。正式な感じから、くだけた感じになる」と注す。5.4.9
注釈313青柳遊びたまふほど催馬楽「青柳」律の曲。「青柳を 片糸によりて や おけや 鴬の おけや 鴬の 縫ふといふ笠は おけや 梅の花笠や」。5.4.9
注釈314げにねぐらの鴬「青柳」の歌詞を受けて、「げに」という。5.4.9
注釈315私事のさまにしなしたまひて禄などいと警策にまうけられたりけり准太上天皇という身分では規定があるので、私的な内輪の祝賀とすることによって、かえって見事な禄などを準備したという。5.4.9
出典7 青柳 青柳を 片糸によりて や おけや 鴬の おけや 鴬の 縫ふといふ笠は おけや 梅の花笠や 催馬楽-青柳 5.4.9
校訂75 召さず。御笛など、太政大臣の、その 召さず。御笛など、太政大臣の、その--(/+めさす御ふえなとおほきおとゝのその) 5.4.1
校訂76 衛門督の固く否ぶるを責めたまへば 衛門督の固く否ぶるを責めたまへば--(/+衛門のかみのかたくいなふるをせめたまへは) 5.4.4
校訂77 継がぬ 継がぬ--つ(つ/+か)ぬ 5.4.5
校訂78 伝へ 伝へ--つる(る/$た)へ 5.4.5
校訂79 賜はり 賜はり--給はる(る/$り) 5.4.7
校訂80 御遊び 御遊び--御(御/+あ)そひ 5.4.8
5.5
第五段 暁に玉鬘帰る


5-5  Tamakazura leaves Rokujo-in at dawn

5.5.1   暁に、尚侍君帰りたまふ御贈り物などありけり
 明け方に、尚侍の君はお帰りになる。御贈り物などがあるのだった。
 夜明けに尚侍は自邸へ帰るのであった。院からのお贈り物があった。
  Akatuki ni, Kamnokimi kaheri tamahu. Ohom-okurimono nado ari keri.
5.5.2  「 かう世を捨つるやうにて明かし暮らすほどに、年月の行方も知らず顔なるを、かう数へ知らせたまへるにつけては、心細くなむ。
 「このように世を捨てたようにして毎日を送っていると、年月のたつのも気づかぬありさまだが、このように齢を数えて祝ってくださるにつけて、心細い気がする。
 「私はもう世の中から離れた気にもなって、勝手な生活をしていますから、たって行く月日もわからないのだが、こんなに年を数えてきてくだすったことで、老いが急に来たような心細さが感ぜられます。
  "Kau yo wo suturu yau nite akasi kurasu hodo ni, tosituki no yukuhe mo sirazugaho naru wo, kau kazohe sira se tamahe ru ni tuke te ha, kokorobosoku nam.
5.5.3  時々は、老いやまさると見たまひ比べよかし。 かく古めかしき身の所狭さに、思ふに従ひて対面なきも、いと口惜しくなむ」
 時々は、前より年とったかどうか見比べにいらっしゃって下さいよ。このように老人の身の窮屈さから、思うままにお会いできないのも、まことに残念だ」
 おりおりはどんな老人になったかとその時その時を見比べに来てください。老人でいながら自由に行動のできない窮屈な身の上ということにともかくもなっているのですから、自分の思うとおりに御訪問などができず、お目にかかる機会の少ないのを残念に思います」
  Tokidoki ha, oyi ya masaru to mi tamahi kurabe yo kasi. Kaku hurumekasiki mi no tokorosesa ni, omohu ni sitagahi te taimen naki mo, ito kutiwosiku nam."
5.5.4  など聞こえたまひて、あはれにもをかしくも、思ひ出できこえたまふことなきにしもあらねば、なかなかほのかにて、かく急ぎ渡りたまふを、いと飽かず口惜しくぞ思されける。
 などと申し上げなさって、しんみりとまた情趣深く、思い出しなさることがないでもないから、かえってちらっと顔を見せただけで、このように急いでお帰りになるのを、たいそう堪らなく残念に思わずにはいらっしゃれなかった。
 などと院はお言いになって、身にしむことも、恋しい日のこともお思いにならないのではないのに、玉鬘たまかずらがたまたま来ても早く去って行こうとするのを物足らず思召すようであった。
  nado kikoye tamahi te, ahare ni mo wokasiku mo, omohi ide kikoye tamahu koto naki ni simo ara ne ba, nakanaka honoka nite, kaku isogi watari tamahu wo, ito aka zu kutiwosiku zo obosa re keru.
5.5.5  尚侍の君も、まことの親をばさるべき契りばかりに思ひきこえたまひて、 ありがたくこまかなりし御心ばへを、年月に添へて、かく世に住み果てたまふにつけても、 おろかならず思ひきこえたまひけり
 尚侍の君も、実の親は親子の宿縁とお思い申し上げなさるだけで、世にも珍しく親切であったお気持ちの程を、年月とともに、このようにお身の上が落ち着きなさったにつけても、並々ならずありがたく感謝申し上げなさるのであった。
 玉鬘の尚侍も実父には肉親としての愛は持っているが、院のこまやかだった御愛情に対しては、年月に添って感謝の心が深くなるばかりであった。今日の境遇の得られたのも院の恩恵であると思っていた。
  Kamnokimi mo, makoto no oya wo ba sarubeki tigiri bakari ni omohi kikoye tamahi te, arigataku komaka nari si mi-kokorobahe wo, tosituki ni sohe te, kaku yo ni sumi hate tamahu ni tuke te mo, oroka nara zu omohi kikoye tamahi keri.
注釈316暁に尚侍君帰りたまふ時刻は、夜明け方となる。玉鬘帰途につく。5.5.1
注釈317御贈り物などありけり源氏方から玉鬘への返礼の御贈り物。5.5.1
注釈318かう世を捨つるやうにて以下「いと口惜しくなむ」まで、源氏の詞。5.5.2
注釈319かく古めかしき身の所狭さに『集成』は「こんな老人で動きにくくて」。『完訳』は「こんな年寄の身の窮屈さから」と訳す。5.5.3
注釈320ありがたくこまかなりし御心ばへを源氏の愛情をいう。5.5.5
注釈321おろかならず思ひきこえたまひけり『集成』は「並々ならずありがたくお思い申された」。『完訳』は「ひとかたならずお慕い申しあげていらっしゃるのであった」と訳す。5.5.5
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渋谷栄一校訂(C)
Last updated 4/2/2010(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 11/15/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
門田裕志、小林繁雄(青空文庫)

2004年3月9日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年9月4日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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