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第三十六帖 柏木
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36 KASIHAGI (Teika-jihitsu-bon)
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光る源氏の准太上天皇時代 四十八歳春一月から夏四月までの物語
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Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from January in spring to April in summer, at the age of 48
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3 |
第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去
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3 Tale of Kashiwagi Yugiri's visit and Kashiwagi's death
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3.1 |
第一段 柏木、権大納言となる
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3-1 Kashiwagi was promoted to Gon-Dainagon
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3.1.1 |
かの衛門督は、 かかる御事を聞きたまふに、いとど消え入るやうにしたまひて、むげに頼む方少なうなりたまひにたり。 女宮のあはれにおぼえたまへば、 ここに渡りたまはむことは、今さらに軽々しきやうにもあらむを、 上も大臣も、かくつと添ひおはすれば、おのづからとりはづして見たてまつりたまふやうもあらむに、あぢきなしと思して、
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あの衛門督は、このような御事をお聞きになって、ますます死んでしまいそうな気がなさって、まるきり回復の見込みもなさそうになってしまわれた。女宮がしみじみと思われなさるので、こちらにお越しになることは、今さら軽々しいようにも思われますが、母上も大臣もこのようにぴったり付き添っていらっしゃるので、何かの折にうっかりお顔を拝見なさるようなことがあっては、困るとお思いになって、
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右衛門督は六条院の宮の御出産から出家と続いての出来事を病床に聞いて、いっそう頼み少ない容体になってしまった。夫人の女二の宮をおかわいそうにばかり思われる衛門督は、助からぬ命にきまった今になって、ここへ宮がおいでになることは軽々しく世間が見ることであろうし、父母が始終近くへ来ている病室では、自然お姿をそれらの近親者に見られておしまいになる隙ができることになってはもったいないと思って、
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Kano Wemon-no-Kami ha, kakaru ohom-koto wo kiki tamahu ni, itodo kiye iru yau ni si tamahi te, mugeni tanomu kata sukunau nari tamahi ni tari. Womnamiya no ahare ni oboye tamahe ba, koko ni watari tamaha m koto ha, imasara ni karugarusiki yau ni mo ara m wo, Uhe mo Otodo mo, kaku tuto sohi ohasure ba, onodukara tori-hadusi te mi tatematuri tamahu yau mo ara m ni, adikinasi to obosi te,
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3.1.2 |
「 かの宮に、とかくして今一度参うでむ」
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「あちらの宮邸に、何とかしてもう一度参りたい」
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「どんな無理をしてでも一条の宮へもう一度行ってみたいのです」
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"Kano Miya ni, tokaku si te ima hito-tabi maude m."
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3.1.3 |
とのたまふを、さらに 許しきこえたまはず。誰にも、この宮の御ことを聞こえつけたまふ。はじめより母御息所は、をさをさ心ゆきたまはざりしを、この大臣の居立ちねむごろに聞こえたまひて、心ざし深かりしに負けたまひて、院にも、いかがはせむと思し許しけるを、 二品の宮の御こと思ほし乱れけるついでに、
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とおっしゃるが、まったくお許し申し上げなさらない。皆にも、この宮の御事をお頼みなさる。最初から母御息所は、あまりお気が進みでなかったのだが、この大臣自身が奔走して熱心に懇請申し上げなさって、そのお気持ちの深いことにお折れになって、院におかれても、しかたないとお許しになったのだが、二品の宮の御事にお心をお痛めになっていた折に、
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と言い続けるのであるが、両親は許さなかった。衛門督はだれにも自分の死後はこの宮を御保護申すようにということを頼んでいた。もともと宮の母君の御息所はこの結婚に不賛成であったのが、衛門督の父の大臣の熱心な懇望が法皇を動かしたてまつって、お許しになることになったものであって、六条院の二品の宮の御幸福のかんばしくない噂などがお耳にはいったころには、
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to notamahu wo, sarani yurusi kikoye tamaha zu. Tare ni mo, kono Miya no ohom-koto wo kikoye tuke tamahu. Hazime yori haha-Miyasumdokoro ha, wosawosa kokoroyuki tamaha zari si wo, kono Otodo no witati nemgoro ni kikoye tamahi te, kokorozasi hukakari si ni make tamahi te, Win ni mo, ikaga ha se m to obosi yurusi keru wo, Nihon-no-Miya no ohom-koto omohosi midare keru tuide ni,
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3.1.4 |
「 なかなか、この宮は行く先うしろやすく、まめやかなる後見まうけたまへり」
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「かえって、この宮は将来安心で、実直な夫をお持ちになったことだ」
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「かえって二の宮のほうが将来の頼もしい良人を得たというものだ」
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"Nakanaka, kono Miya ha yukusaki usiroyasuku, mameyaka naru usiromi mauke tamahe ri."
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3.1.5 |
と、のたまはすと聞きたまひしを、かたじけなう思ひ出づ。
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と、仰せられたとお聞きになったのを、恐れ多いことだと思い出す。
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と法皇が仰せられると聞いたこともあったのに、なんという成り行きになることかと今は悲しむばかりであった。
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to, notamahasu to kiki tamahi si wo, katazikenau omohi idu.
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3.1.6 |
「 かくて、見捨てたてまつりぬるなめりと思ふにつけては、 さまざまにいとほしけれど、心よりほかなる命なれば、堪へぬ契り恨めしうて、思し嘆かれむが、心苦しきこと。御心ざしありて訪らひものせさせたまへ」
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「こうして、後にお残し申し上げてしまうようだと思うにつけても、いろいろとお気の毒だが、思う通りには行かない命なので、添い遂げられない夫婦の仲が恨めしくて、お嘆きになるだろうことがお気の毒なこと。どうか気をつけてお世話してさし上げて下さい」
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「こんなふうで宮様を未亡人にしてしまうのかと思いますと堪えられません。あちらにもこちらにもお気の毒なことばかりですが、自分の心に任せないのが命ですからしかたもありません。宮様の今後の寂しい生活を思いますと心苦しくてなりませんから、お母様は親切にしてあげてください。始終お世話をしてあげてくださいお母様」
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"Kakute, misute tatematuri nuru na' meri to omohu ni tuke te ha, samazama ni itohosikere do, kokoro yori hoka naru inoti nare ba, tahe nu tigiri uramesiu te, obosi nageka re m ga, kokorogurusiki koto. Mi-kokorozasi ari te toburahi monose sase tamahe."
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3.1.7 |
と、母上にも聞こえたまふ。
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と、母上にもお頼み申し上げなさる。
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と督は母夫人にも言っていた。
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to, Hahauhe ni mo kikoye tamahu.
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3.1.8 |
「 いで、あなゆゆし。後れたてまつりては、いくばく世に経べき身とて、かうまで行く先のことをばのたまふ」
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「まあ、何と縁起でもないことを。あなたに先立たれては、どれほど生きていられるわたしだと思って、こうまで先々の事をおっしゃるの」
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「縁起の悪い話をしますね。あなたに死なれたあとで、お母様はどれだけ生きておられると思ってそんな未来のことまでも言うのですか」
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"Ide, ana yuyusi. Okure tatematuri te ha, ikubaku yo ni hu beki mi tote, kau made yukusaki no koto wo ba notamahu."
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3.1.9 |
とて、泣きにのみ泣きたまへば、え聞こえやりたまはず。 右大弁の君にぞ、大方の事どもは詳しう聞こえたまふ。
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と言って、ただもうお泣きになるばかりなので、十分にお頼み申し上げになることができない。右大弁の君に、一通りの事は詳しくお頼み申し上げなさる。
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と言って、母はまず泣き入ってしまうので、衛門督はよく話すこともできないのである。すぐ下の弟である左大弁に兄はくわしく宮の御事は遺言しておいた。
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tote, naki ni nomi naki tamahe ba, e kikoye yaritamaha zu. Udaiben-no-Kimi ni zo, ohokata no koto-domo ha kuhasiu kikoye tamahu.
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3.1.10 |
心ばへののどかによくおはしつる君なれば、弟の君たちも、まだ末々の若きは、親とのみ頼みきこえたまへるに、かう心細うのたまふを、悲しと思はぬ人なく、殿のうちの人も嘆く。
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気性が穏やかでよくできたお方なので、弟の君たちも、まだ下の方の幼い君たちは、まるで親のようにお頼り申していらっしゃったのに、このように心細くおっしゃるのを、悲しいと思わない人はなく、お邸中の人達も嘆いている。
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善良な性質の人であったから、弟たちにも皆親しまれていて、末のほうの弟などは親のように頼みにしているこの人が、遺言をしたりするようになったのを、だれも心細がらぬ者はなくて、家の使用人なども皆悲しんでいるのである。
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Kokorobahe no nodoka ni yoku ohasi turu Kimi nare ba, otouto no Kimi-tati mo, mada suwezuwe no wakaki ha, oya to nomi tanomi kikoye tamahe ru ni, kau kokorobosou notamahu wo, kanasi to omoha nu hito naku, tono no uti no hito mo nageku.
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3.1.11 |
公も、惜しみ口惜しがらせたまふ。かく限りと聞こし召して、にはかに権大納言になさせたまへり。よろこびに思ひ起こして、今一度も参りたまふやうもやあると、思しのたまはせけれど、 さらにえためらひやりたまはで、苦しきなかにも、かしこまり申したまふ。大臣も、かく重き御おぼえを見たまふにつけても、いよいよ悲しうあたらしと思し惑ふ。
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帝も、惜しがり残念がりあそばす。このように最期とお聞きあそばして、急に権大納言にお任じあそばした。喜びに気を取り戻して、もう一度参内なさるようなこともあろうかと、お考えになって仰せになったが、一向に病気が好くおなりにならず、苦しい中ながら、丁重にお礼申し上げなさる。大臣も、このようにご信任の厚いのを御覧になるにつけても、ますます悲しく惜しいとお思い乱れなさる。
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朝廷でも非常にお惜しみになって、いよいよ危篤ということが天聴に達すると、にわかに権大納言に昇任おさせになった。この感激によって元気が出てもう一度だけは参内をするかと帝は期しておいでになったのであるが、それをすることがもう衛門督にはできなかった。ただ病苦の中で拝任の表だけを草して奉った。大臣はこの朝恩の厚さを見てもさらに惜しく悲しくわが子が思われるのであった。
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Ohoyake mo, wosimi kutiwosigara se tamahu. Kaku kagiri to kikosimesi te, nihaka ni Gon-no-Dainagon ni nasa se tamahe ri. Yorokobi ni omohi okosi te, ima hitotabi mo mawiri tamahu yau mo ya aru to, obosi notamaha se kere do, sarani e tamerahi yari tamaha de, kurusiki naka ni mo, kasikomari mausi tamahu. Otodo mo, kaku omoki ohom-oboye wo mi tamahu ni tuke te mo, iyoiyo kanasiu atarasi to obosi madohu.
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3.2 |
第二段 夕霧、柏木を見舞う
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3-2 Yugiri visits Kashiwagi in bed
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3.2.1 |
大将の君、常にいと深う思ひ嘆き、訪らひきこえたまふ。御喜びにもまづ参うでたまへり。このおはする対のほとり、こなたの御門は、 馬、車たち込み、人騒がしう騷ぎ満ちたり。今年となりては、起き上がることもをさをさしたまはねば、 重々しき御さまに、乱れながらは、え対面したまはで、思ひつつ弱りぬること、と思ふに口惜しければ、
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大将の君、いつも大変に心配して、お見舞い申し上げなさる。ご昇進のお祝いにも早速参上なさった。このいらっしゃる対の屋の辺り、こちらの御門は、馬や、車がいっぱいで、人々が騒がしいほど混雑しあっていた。今年になってからは、起き上がることもほとんどなさらないので、重々しいご様子に、取り乱した恰好では、お会いすることがおできになれないで、そう思いながら会えずに衰弱してしまったこと、と思うと残念なので、
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左大将は常に親友の病をいたんで見舞いを書き送っているのであるが、昇任の祝いを述べに真先に大臣家を訪問したのもこの人であった。衛門督の住んでいるほうの対の門内には馬や車がたくさん来ていて、忙しそうに人々が出入りしていた。今年にはいってからは起き上がることもあまりできない衛門督であったから、大官の親友を病室に招くことが遠慮されて恋しく思いながら逢えないことを思うと残念で、督は、
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Daisyau-no-Kimi, tuneni ito hukau omohi nageki, toburahi kikoye tamahu. Ohom-yorokobi ni mo madu maude tamahe ri. Kono ohasuru tai no hotori, konata no mi-kado ha, muma, kuruma tatikomi, hito sawagasiu sawagi miti tari. Kotosi to nari te ha, okiagaru koto mo wosawosa si tamaha ne ba, omoomosiki ohom-sama ni, midare nagara ha, e taimen si tamaha de, omohi tutu yowari nuru koto, to omohu ni kutiwosikere ba,
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3.2.2 |
「 なほ、こなたに入らせたまへ。いとらうがはしきさまにはべる罪は、 おのづから思し許されなむ」
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「どうぞ、こちらへお入り下さい。まことに失礼な恰好でおりますご無礼は、何とぞお許し下さい」
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「失礼ですがやはりここへ来ていただくことにします。この場合のことでやむをえないとお許しくださるでしょう」
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"Naho, konata ni ira se tamahe. Ito raugahasiki sama ni haberu tumi ha, onodukara obosi yurusa re na m."
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3.2.3 |
とて、臥したまへる枕上の方に、僧などしばし出だしたまひて、入れたてまつりたまふ。
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と言って、臥せっていらっしゃる枕元に、僧たちを暫く外にお出しになって、お入れ申し上げなさる。
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と挨拶をさせて、病室の床の近くに侍している僧などをしばらく外のほうへ出して大将を迎えた。
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tote, husi tamahe ru makuragami no kata ni, sou nado sibasi idasi tamahi te, ire tatematuri tamahu.
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3.2.4 |
早うより、いささか隔てたまふことなう、睦び交はしたまふ御仲なれば、別れむことの悲しう恋しかるべき嘆き、親兄弟の御思ひにも劣らず。 今日は喜びとて、心地よげならましをと思ふに、いと口惜しう、かひなし。
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幼少のころから、少しも分け隔てなさることなく、仲好くしていらっしゃったお二方なので、別れることの悲しく恋しいに違いない嘆きは、親兄弟の思いにも負けない。今日はお祝いということで、元気になっていたらどんなによかろうと思うが、まことに残念に、その甲斐もない。
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少年時代から隔てなく交際して来た間柄であったから、近く迫った死別の悲しみは大将にとって親兄弟の思いに劣らないのである。今日だけは昇任の悦びで気分もよくなっているであろうとこの人は想像していたのであるが、期待ははずれてしまった。
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Hayau yori, isasaka hedate tamahu koto nau, mutubi kahasi tamahu ohom-naka nare ba, wakare m koto no kanasiu kohisikaru beki nageki, oya harakara no ohom-omohi ni mo otora zu. Kehu ha yorokobi tote, kokotiyoge nara masi wo to omohu ni, ito kutiwosiu, kahinasi.
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3.2.5 |
「 などかく頼もしげなくはなりたまひにける。今日は、かかる御喜びに、いささかすくよかにもやと こそ思ひはべりつれ」
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「どうしてこんなにお弱りになってしまわれたのですか。今日は、このようなお祝いに、少しでも元気になったろうかと思っておりましたのに」
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「どうしてこんなにまた悪くおなりになったのでしょう。今日だけはめでたいのですから少し気分でもよくなっておられるかと思って来ましたよ」
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"Nado kaku tanomosige naku ha nari tamahi ni keru. Kehu ha, kakaru ohom-yorokobi ni, isasaka sukuyoka ni mo ya to koso omohi haberi ture."
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3.2.6 |
とて、 几帳のつま引き上げたまへれば、
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と言って、几帳の端を引き上げなさったところ、
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と言って、病床に添えた几帳の端を上げて中を見ると、
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tote, kityau no tuma hikiage tamahe re ba,
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3.2.7 |
「 いと口惜しう、その人にもあらずなりにてはべりや」
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「まことに残念なことに、本来の自分ではなくなってしまいましたよ」
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「全然私のようでなくなってしまいましたよ」
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"Ito kutiwosiu, sono hito ni mo ara zu nari ni te haberi ya!"
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3.2.8 |
とて、 烏帽子ばかりおし入れて、すこし起き上がらむとしたまへど、いと苦しげなり。白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、衾ひきかけて臥したまへり。御座のあたりものきよげに、けはひ香うばしう、心にくくぞ住みなしたまへる。
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と言って、烏帽子だけを押し入れるように被って、少し起き上がろうとなさるが、とても苦しそうである。白い着物で、柔らかそうなのをたくさん重ね着して、衾を引き掛けて臥していらっしゃる。御座所の辺りをこぎれいにしていて、あたりに香が薫っていて、奥ゆかしい感じにお過ごしになっていた。
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と言いながら、衛門督は烏帽子だけを身体の下へかって、少し起き上がろうとしたが、苦しそうであった。柔らかい白の着物を幾枚も重ねて、夜着を上に掛けているのである。病床の置かれた室は清潔に整理がされてあって感じがよい。
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tote, ebousi bakari osi-ire te, sukosi okiagara m to si tamahe do, ito kurusige nari. Siroki kinu-domo no, natukasiu nayoyoka naru wo amata kasane te, husuma hiki-kake te husi tamahe ri. Omasi no atari mono kiyoge ni, kehahi kaubasiu, kokoronikuku zo sumi nasi tamahe ru.
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3.2.9 |
うちとけながら、用意ありと見ゆ。重く患ひたる人は、おのづから髪髭も乱れ、ものむつかしきけはひも添ふわざなるを、痩せさらぼひたるしも、いよいよ白う あてなるさまして、枕をそばだてて、ものなど聞こえたまふけはひ、いと弱げに、息も絶えつつ、あはれげなり。
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くつろいだままながら、嗜みがあると見える。重病人というものは、自然と髪や髭も乱れ、むさくるしい様子がするものだが、痩せてはいるが、かえって、ますます白く上品な感じがして、枕を立ててお話を申し上げなさる様子、とても弱々しそうで、息も絶え絶えで、見ていて気の毒そうである。
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こんな場合にも規律の正しい病人の性格がうかがえるようであった。病人というものは髪や髭も乱れるにまかせて気味の悪い所もできてくるものであるが、この人の痩せ細った姿はいよいよ品のよい気がされて、枕から少し顔を上げてものを言う時には息も今絶えそうに見えるのが非常に哀れであった。
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Utitoke nagara, youi ari to miyu. Omoku wadurahi taru hito ha, onodukara kami hige mo midare, mono-mutukasiki kehahi mo sohu waza naru wo, yase sarabohi taru simo, iyoiyo sirou ate naru sama si te, makura wo sobadate te, mono nado kikoye tamahu kehahi, ito yowage ni, iki mo taye tutu, aharege nari.
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3.3 |
第三段 柏木、夕霧に遺言
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3-3 Kashiwagi leaves his will to Yugiri
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3.3.1 |
「 久しう患ひたまへるほどよりは、ことにいたうも そこなはれたまはざりけり。常の御容貌よりも、なかなかまさりてなむ見えたまふ」
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「長らくご病気でいらっしゃったわりには、ことにひどくもやつれていらっしゃらないね。いつものご容貌よりも、かえって素晴らしくお見えになります」
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「御病気の長かったことから言えば、特別ひどく病人らしいお顔になったとも言えませんよ。平生よりも美男に見えますよ」
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"Hisasiu wadurahi tamahe ru hodo yori ha, koto ni itau mo sokonaha re tamaha zari keri. Tune no ohom-katati yori mo, nakanaka masari te nam miye tamahu."
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3.3.2 |
とのたまふものから、涙おし拭ひて、
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とおっしゃるものの、涙を拭って
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こんなことを口では言いながらも大将は涙をぬぐっていた。
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to notamahu monokara, namida osi-nogohi te,
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3.3.3 |
「 ▼ 後れ先立つ隔てなくとこそ契りきこえしか。いみじうもあるかな。この御心地のさまを、 何事にて重りたまふとだに、え聞き分きはべらず。かく親しきほどながら、おぼつかなくのみ」
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「後れたり先立ったりすることなく死ぬ時は一緒にとお約束申していたのに。ひどいことだな。このご病気の様子を、何が原因でこうもご重態になられたのかと、それさえ伺うことができないでおります。こんなに親しい間柄ながら、もどかしく思うばかりです」
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「同じ時に死のうなどと約束もしたではありませんか。悲しいことですよ。あなたの症状は何がどうして悪くなったのだということも言ってくれる者がありませんから、親しい私でさえ何の御病気だか知らないのがたよりないことですよ」
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"Okure sakidatu hedate naku to koso tigiri kikoye sika. Imiziu mo aru kana! Kono mi-kokoti no sama wo, nanigoto nite omori tamahu to dani, e kikiwaki habera zu. Kaku sitasiki hodo nagara, obotukanaku nomi."
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3.3.4 |
などのたまふに、
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などとおっしゃると、
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nado notamahu ni,
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3.3.5 |
「 心には、重くなるけぢめもおぼえはべらず。そこどころと苦しきこともなければ、たちまちにかうも思ひたまへざりしほどに、月日も経で弱りはべりにければ、今は うつし心も失せたるやうになむ。
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「わたし自身には、いつから重くなったのか分かりません。どこといって苦しいこともありませんで、急にこのようになろうとは思ってもおりませんでしたうちに、月日を経ずに衰弱してしまいましたので、今では正気も失せたような有様で。
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「自分ではいつ悪くなって行くかわからずに来ましたよ。どこか苦しいときまった患部もないものですから、病がこうまで早く進行するとも思わないうちに重態になってしまったのですから、私はもう今では何が何やら知覚もなくなっている気がしています。
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"Kokoro ni ha, omoku naru kedime mo oboye habera zu. Soko dokoro to kurusiki koto mo nakere ba, tatimati ni kau mo omohi tamahe zari si hodo ni, tukihi mo he de yowari haberi ni kere ba, ima ha utusigokoro mo use taru yau ni nam.
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3.3.6 |
惜しげなき身を、さまざまにひき留めらるる祈り、願などの力にや、さすがにかかづらふも、なかなか苦しうはべれば、心もてなむ、急ぎ立つ 心地しはべる。
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惜しくもない身を、いろいろとこの世に引き止められる祈祷や、願などの力でしょうか、そうはいっても生き永らえるのも、かえって苦しいものですから、自分から進んで、早く死出の道へ旅立ちたく思っております。
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惜しくもない私の命が祈りとか、願とかの力でさすがに引きとめられていることは苦痛なものですから、自身から早くなるのを望むようにもなって変なものですよ。
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Wosige naki mi wo, samazama ni hiki-todome raruru inori, gwan nado no tikara ni ya, sasuga ni kakadurahu mo, nakanaka kurusiu habere ba, kokoro mote nam, isogi tatu kokoti si haberu.
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3.3.7 |
さるは、この世の別れ、避りがたきことは、いと多うなむ。 ▼ 親にも仕うまつりさして、今さらに御心どもを悩まし、君に仕うまつることも半ばのほどにて、 ▼ 身を顧みる方、はた、ましてはかばかしからぬ恨みを留めつる 大方の嘆きをば、さるものにて。
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そうは言うものの、この世の別れに、捨て難いことが数多くあります。親にも孝行を十分せずに、今になって両親にご心配をおかけし、主君にお仕えすることも中途半端な有様で、わが身の立身出世を顧みると、また、なおさら大したこともない恨みを残すような世間一般の嘆きは、それはそれとして。
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私とすればこの世から去ってしまうことで、いろいろな堪えがたい気持ちのすることもそれは少なくありません。親への孝行も中途までしかしてありませんし、私自身のためにも遺憾なことはありますが、
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Saruha, konoyo no wakare, sari gataki koto ha, ito ohou nam. Oya ni mo tukaumaturi sasi te, imasara ni mi-kokoro-domo wo nayamasi, Kimi ni tukaumaturu koto mo nakaba no hodo nite, mi wo kaherimiru kata, hata, masite hakabakasikara nu urami wo todome turu ohokata no nageki wo ba, saru mono nite.
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3.3.8 |
また心の内に思ひたまへ乱るることのはべるを、かかる今はのきざみにて、 何かは漏らすべきと思ひはべれど、なほ忍びがたきことを、誰にかは愁へはべらむ。これかれあまたものすれど、さまざまなることにて、さらにかすめはべらむも、あいなしかし。
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また、心中に思い悩んでおりますことがございますが、このような臨終の時になって、どうして口に出そうかと思っておりましたが、やはり堪えきれないことを、あなたの他に誰に訴えられましょう。誰彼と兄弟は多くいますが、いろいろと事情があって、まったく仄めかしたところで、何にもなりません。
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そうしたいっさいのことよりも大事な煩悶を私はいだいているのです。この命の末になってほかへ洩らす必要はないとも思いますが、やはり自分一人だけで思っているには堪えられないのでもあるのです。身内の者はあっても、その人たちに言い出す勇気を私は持っていません。それであなたにだけ言わせていただきますが、
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Mata kokoro no uti ni omohi tamahe midaruru koto no haberu wo, kakaru ima ha no kizami nite, nanikaha morasu beki to omohi habere do, naho sinobi gataki koto wo, tare ni kaha urehe habera m. Kore kare amata monosure do, samazama naru koto nite, sarani kasume habera m mo, ainasi kasi.
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3.3.9 |
六条院にいささかなる事の違ひ目ありて、月ごろ、心の内にかしこまり申すことなむはべりしを、いと本意なう、世の中心細う思ひなりて、病づきぬとおぼえはべしに、召しありて、院の御賀の楽所の試みの日参りて、御けしきを賜はりしに、なほ許されぬ御心ばへあるさまに、御目尻を見たてまつりはべりて、いとど世にながらへむことも憚り多うおぼえなりはべりて、 あぢきなう思ひたまへしに、心の騷ぎそめて、かく静まらずなりぬるになむ。
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六条院にちょっとした不都合なことがありまして、ここ幾月、心中密かに恐縮申していることがございましたが、まことに不本意なことで、世の中に生きて行くのも心細くなって、病気になったと思われたのですが、お招きがあって、朱雀院の御賀の楽所の試楽の日に参上して、ご機嫌を伺いましたところ、やはりお許しなさらないお気持ちの様子に、御目差しを拝見致しまして、ますますこの世に生き永らえることも憚り多く思われまして、どうにもならなく存じられましたが、魂がうろうろ離れ出しまして、このように鎮まらなくなってしまいました。
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私が六条院様の感情をそこねているらしいことがありましてね、それを苦しんで心の中でお詫びをして暮らすうちに病気のようになってしまったのですが、お招きがありまして、あの法皇様の賀宴の試楽の日に伺いました時に、お目にかかったのですが、なお許していただけない御感情のあるのをお顔で私は知って、それからの私はもう生きていることがはばかりのあることのように思われ出して、憂鬱な気持ちで暮らして来たのですが、その際に受けた衝動が強かったために、起ちがたい衰弱に自分で自分を導いてしまったのですよ。
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Rokudeu-no-Win ni isasaka naru koto no tagahime ari te, tukigoro, kokoro no uti ni kasikomari mausu koto nam haberi si wo, ito ho'i nau, yononaka kokorobosou omohi nari te, yamahiduki nu to oboye habe si ni, mesi ari te, Win no ohom-ga no gakuso no kokoromi no hi mawiri te, mi-kesiki wo tamahari si ni, naho yurusa re nu mi-kokorobahe aru sama ni, ohom-maziri wo mi tatematuri haberi te, itodo yo ni nagarahe m koto mo habakari ohou oboye nari haberi te, adikinau omohi tamahe si ni, kokoro no sawagi some te, kaku sidumara zu nari nuru ni nam.
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3.3.10 |
人数には思し入れざりけめど、 いはけなうはべし時より、深く頼み申す心のはべりしを、いかなる讒言などのありけるにかと、これなむ、この世の愁へにて残りはべるべければ、論なうかの後の世の妨げにもやと思ひたまふるを、ことのついではべらば、御耳留めて、よろしう明らめ申させたまへ。
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一人前とはお考え下さいませんでしたでしょうが、幼うございました時から、深くお頼り申す気持ちがございましたが、どのような中傷などがあったのかと、このことが、この世の恨みとして残りましょうから、きっと来世への往生の妨げになろうかと存じますので、何かの機会がございましたら、お耳に止めて下さって、よろしく申し開きなさって下さい。
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自身の無能なことは承知しながらも少年時代から深く御信頼して、誠心誠意この方のためにお尽くししようと決心していた私ですが、中傷した者でもあったろうかと、死んで残るこの問題への関心はむろん後世の往生の妨げになるだろうと思っていますが、何かの機会にこの話をあなたは覚えていてくださって六条院へ弁明の労を取ってください。
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Hitokazu ni ha obosi ire zari keme do, ihakenau habe' si toki yori, hukaku tanomi mausu kokoro no haberi si wo, ikanaru zaugen nado no ari keru ni ka to, kore nam, konoyo no urehe nite nokori haberu bekere ba, ron nau kano notinoyo no samatage ni mo ya to omohi tamahuru wo, koto no tuide habera ba, ohom-mimi todome te, yorosiu akirame mausa se tamahe.
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3.3.11 |
亡からむ後ろにも、この勘事許されたらむなむ、御徳にはべるべき」
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死んだ後にも、このお咎めが許されたらば、あなたのお蔭でございましょう」
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死にましてからでもこのお取りなしがいただければ私はあなたに感謝します」
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Nakara m usiro ni mo, kono kauzi yurusa re tara m nam, ohom-toku ni haberu beki."
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3.3.12 |
などのたまふままに、いと苦しげにのみ見えまされば、いみじうて、心の内に思ひ合はすることどもあれど、さして確かには、えしも推し量らず。
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などとおっしゃるうちに、たいそう苦しそうになって行くばかりなので、おいたわしくて、心中に思い当たることもいくつかあるが、どうしたことなのか、はっきりとは推量できない。
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新大納言はこう語るうちにも病苦の堪えがたいもののある様子も見えて、大将は悲しんだのであるが、その話について思いあたることが、この人にあっても、不確かな断定はそれでできない気がした。
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nado notamahu mama ni, ito kurusige ni nomi miye masare ba, imiziu te, kokoro no uti ni omohi ahasuru koto-domo are do, sasite tasikani ha, e simo osihakara zu.
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3.3.13 |
「 いかなる御心の鬼にかは。さらに、さやうなる 御けしきもなく、かく重りたまへる由をも 聞きおどろき嘆きたまふこと、限りなうこそ口惜しがり申したまふめりしか。など、かく思すことあるにては、今まで 残いたまひつらむ。こなた かなた明らめ申すべかりけるものを。今はいふかひなしや」
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「どのような良心の呵責なのでしょうか。全然、そのようなご様子もなく、このように重態になられた由を聞いて驚きお嘆きになっていること、この上もなく残念がり申されていたようでした。どうして、このようにお悩みになることがあって、今まで打ち明けて下さらなかったのでしょうか。こちらとあちらとの間に立って弁解して差し上げられたでしょうに。今となってはどうしようもありません」
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「あなた自身の誤解ではないのですか、少しもそんな御様子を私は見受けませんよ。あなたの御病気の重くなったことで御心配をしておられて、いつも遺憾がっておいでになりますよ。そんな煩悶をあなたがしておいでになるのなら、なぜ今までに私へ言ってくださらなかったのでしょう。私が及ばずながら双方の誤解を解いてあげるのでした。もう間に合いませんね」
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"Ikanaru mi-kokoro no oni ni ka ha. Sarani, sayau naru mi-kesiki mo naku, kaku omori tamahe ru yosi wo mo kiki odoroki nageki tamahu koto, kagirinau koso kutiwosigari mausi tamahu meri sika. Nado, kaku obosu koto aru nite ha, ima made nokoi tamahi tu ram? Konata kanata akirame mausu bekari keru mono wo. Ima ha ihukahinasi ya!"
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3.3.14 |
とて、取り返さまほしう悲しく思さる。
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と言って、昔を今に取り戻したくお思いになる。
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取り返したいように大将は残念がった。
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tote, torikahesa mahosiu kanasiku obosa ru.
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3.3.15 |
「 げに、いささかも隙ありつる折、聞こえうけたまはるべうこそはべりけれ。されど、いとかう 今日明日としもやはと、みづからながら知らぬ命のほどを、思ひのどめはべりけるもはかなくなむ。このことは、さらに御心より漏らしたまふまじ。さるべきついではべらむ折には、御用意加へたまへとて、聞こえおくになむ。
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「おっしゃる通り、少しでも具合の良い時に、申し上げてご意見を承るべきでございました。けれども、ほんとうに今日か明日かの命になろうとは、自分ながら分からない寿命のことを、悠長に考えておりましたのも、はかないことでした。このことは、決してあなた以外にお漏らしなさらないで下さい。適当な機会がございました折には、ご配慮戴きたいと申し上げて置くのです。
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「そうですよ。少し快い時もあったのですから、そんな時に御相談をすればよかったのです。自分自身でわからないのが命にもせよ、まさかこんなに早く終わろうとは思わなかったというのもはかないわけですね。このことは絶対にだれへもお話しにならないでください。よい機会に私のために御好意のある弁解をしていただきたいと思ってお話ししただけです。
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"Geni, isasaka mo hima ari turu wori, kikoye uketamaharu beu koso haberi kere. Saredo, ito kau kehu asu to simo yaha to, midukara nagara sira nu inoti no hodo wo, omohi nodome haberi keru mo hakanaku nam. Kono koto ha, sarani mi-kokoro yori morasi tamahu mazi. Sarubeki tuide habera m wori ni ha, ohom-youi kuhahe tamahe tote, kikoye oku ni nam.
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3.3.16 |
一条にものしたまふ宮、ことに触れて訪らひきこえたまへ。心苦しきさまにて、院などにも聞こし召されたまはむを、つくろひたまへ」
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一条の邸にいらっしゃる宮を、何かの折にはお見舞い申し上げて下さい。お気の毒な様子で、父院などにおかれても御心配あそばされるでしょうが、よろしく計らって上げて下さい」
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一条にいらっしゃる宮様には何かの時に御好意を寄せてあげてください。お聞きになって法皇様が御心配をあそばさないように、御生活の上のことも気をつけてあげてください」
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Itideu ni monosi tamahu Miya, koto ni hure te toburahi kikoye tamahe. Kokorogurusiki sama nite, Win nado ni mo kikosimesa re tamaha m wo, tukurohi tamahe."
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3.3.17 |
などのたまふ。言はまほしきことは多かるべけれど、心地せむかたなくなりにければ、
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などとおっしゃる。言いたいことは多くあるに違いないようだが、気分がどうにもならなくなってきたので、
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などとも大納言は言った。もっと言いたいことは多かったであろうが、我慢のならぬほど苦しくなった衛門督は、
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nado notamahu. Iha mahosiki koto ha ohokaru bekere do, kokoti semkatanaku nari ni kere ba,
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3.3.18 |
「 出でさせたまひね」
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「お出になって下さい」
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もう帰れ
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"Ide sase tamahi ne."
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3.3.19 |
と、手かききこえたまふ。加持参る僧ども近う参り、上、大臣などおはし集りて、人びとも立ち騒げば、泣く泣く出でたまひぬ。
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と、手真似で申し上げなさる。加持を致す僧たちが近くに参って、母上、大臣などがお集まりになって、女房たちも立ち騒ぐので、泣く泣くお立ちになった。
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と手を振って見せた。加持をする僧などが近くへ来て、母の夫人や大臣も出てくるふうで、騒がしくなったので大将は泣く泣く辞し去った。
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to, te kaki kikoye tamahu. Kadi mawiru sou-domo tikau mawiri, Uhe, Otodo nado ohasi atumari te, hitobito mo tati-sawage ba, nakunaku ide tamahi nu.
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出典7 |
後れ先立つ |
末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ |
古今六帖一-五九三 僧正遍昭 |
3.3.3 |
出典8 |
親にも仕うまつりさし |
夫孝始於事親 中於事君 終於立身 |
孝経 |
3.3.7 |
出典9 |
身を顧みる |
吾日三省吾身 |
論語-学而 |
3.3.7 |
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3.4 |
第四段 柏木、泡の消えるように死去
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3-4 Kashiwagi died just like a bubble disappered
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3.4.1 |
女御をばさらにも聞こえず、この大将の御方などもいみじう嘆きたまふ。 心おきての、あまねく人のこのかみ心にものしたまひければ、 右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、睦ましきものに思ひきこえたまひければ、よろづに思ひ嘆きたまひて、御祈りなど取り分きてせさせたまひけれど、 ▼ やむ薬ならねば、かひなきわざになむありける。女宮にも、つひにえ対面しきこえたまはで、 ▼ 泡の消え入るやうにて亡せたまひぬ。
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女御は申し上げるまでもなく、この大将の御方などもひどくお嘆きになる。思ひやりが、誰に対しても兄としての面倒見がよくていらっしゃったので、右の大殿の北の方も、この君だけを親しい人とお思い申し上げていらしたので、万事にお嘆きになって、ご祈祷などを特別におさせになったが、薬では治らない病気なので、何の役にも立たないことであった。女宮にも、とうとうお目にかかることがおできになれないで、泡が消えるようにしてお亡くなりになった。
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同胞である院の女御はもとより、妹の一人である大将夫人も衛門督のことを非常に歎いていた。だれのためにもよき兄であろうとする善良な性格であったから、右大臣夫人などもこの人とだけは今まで非常に親しんでいて、今度も玉鬘は心配のあまり自身の手でも祈祷をさせていたが、そうしたことも不死の薬ではなかったから効果は見えなかった。夫人の宮にもしまいにお逢いできないままで、泡が消えたように衛門督は死んでしまった。
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Nyougo wo ba sarani mo kikoye zu, kono Daisyau no ohom-Kata nado mo imiziu nageki tamahu. Kokorookite no, amaneku hito no konokamigokoro ni monosi tamahi kere ba, Migi-no-Ohotono no Kitanokata mo, kono Kimi wo nomi zo, mutumasiki mono ni omohi kikoye tamahi kere ba, yorodu ni omohi-nageki tamahi te, ohom-inori nado toriwaki te se sase tamahi kere do, yamu kusuri nara ne ba, kahinaki waza ni nam ari keru. Womnamiya ni mo, tuhini e taimen si kikoye tamaha de, awa no kiye iru yau nite use tamahi nu.
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3.4.2 |
年ごろ、下の心こそねむごろに深くもなかりしか、大方には、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、気なつかしう、心ばへをかしう、 うちとけぬさまにて過ぐいたまひければ、つらき節もことになし。ただ、
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長年の間、心底から真心こめて愛していたのではなかったが、表面的には、まことに申し分なく大事にお世話申し上げて、素振りもお優しく、気立てもよく、礼節をわきまえてお過ごしになられたので、辛いと思った事も特にない。ただ、
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今まで愛情の点では批議すべき点もあったが、形式的にはよく御待遇をして、あくまで御降嫁を得た夫人として敬意を失わない優しい良人であったのであるから、恨めしい思いを格別宮は抱いておいでにならなかった。
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Tosigoro, sita no kokoro koso nemgoro ni hukaku mo nakari sika, ohokata ni ha, ito aramahosiku motenasi kasiduki kikoye te, ke natukasiu, kokorobahe wokasiu, utitoke nu sama nite sugui tamahi kere ba, turaki husi mo koto ni nasi. Tada,
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3.4.3 |
「 かく短かりける御身にて、あやしく なべての世すさまじう思ひたまへけるなりけり」
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「このように短命なお方だったので、不思議なことに普通の生活を面白くなくお思いであったのだわ」
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こんな短命で終わる人であったから何にも興味が持てない寂しいふうを見せたのであったか
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"Kaku mizikakari keru ohom-mi nite, ayasiku nabete no yo no susamaziu omohi tamahe keru nari keri."
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3.4.4 |
と思ひ出でたまふに、いみじうて、思し入りたるさま、いと心苦し。
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とお思い出されると、悲しくて、沈み込んでいらっしゃる様子、ほんとうにおいたわしい。
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と追想あそばされるのが悲しかった。
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to omohi ide tamahu ni, imiziu te, obosi iri taru sama, ito kokorogurusi.
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3.4.5 |
御息所も、「いみじう人笑へに口惜し」と、見たてまつり嘆きたまふこと、限りなし。
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母御息所も、「大変に外聞が悪く残念だ」と、拝見しお嘆きになること、この上もない。
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御息所も早く不幸な未亡人に宮のおなりになったことを悲しんでいた。
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Miyasumdokoro mo, "Imiziu hitowarahe ni kutiwosi." to, mi tatematuri nageki tamahu koto, kagirinasi.
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3.4.6 |
大臣、北の方などは、ましていはむかたなく、
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大臣や、北の方などは、それ以上に何とも言いようがなく、
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衛門督の死で大臣と夫人はまして言いようもない、悲歎に沈んでいた。
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Otodo, Kitanokata nado ha, masite ihamkatanaku,
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3.4.7 |
「 我こそ先立ため。世のことわりなうつらいこと」
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「自分こそ先に死にたいものだ。世間の道理もあったものでなく辛いことよ」
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自分が先に死ぬのが当然なことであるのに、あまりにも道理にはずれた死である
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"Ware koso sakidata me. Yo no kotowari nau turai koto."
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3.4.8 |
と焦がれたまへど、何のかひなし。
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と恋い焦がれなさったが、何にもならない。
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と泣きこがれているが、それが何のかいのあることとも見えなかった。
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to kogare tamahe do, nani no kahinasi.
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3.4.9 |
尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世に長かれとしも思さざりしを、 かくなむと聞きたまふは、 さすがに いとあはれなりかし。
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尼宮は、大それた恋心も不愉快なこととばかりお思いなされて、長生きして欲しいともお思いではなかったが、このように亡くなったとお聞きになると、さすがにかわいそうな気がした。
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女三の宮は衛門督の恋を苦しくばかりお思いになって、長く生きていようとお望みにならなかったのであるが、死の報をお得になってはさすがに物哀れなお気持ちになった。
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Amamiya ha, ohokenaki kokoro mo utate nomi obosa re te, yo ni nagakare to simo obosa zari si wo, kaku nam to kiki tamahu ha, sasuga ni ito ahare nari kasi.
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3.4.10 |
「 若君の御ことを、 さぞと思ひたりしも、げに、かかるべき契りにてや、思ひのほかに心憂きこともありけむ」と思し寄るに、さまざまもの心細うて、うち泣かれたまひぬ。
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「若君のご誕生を、自分の子だと思っていたのも、なるほど、こうなるはずの運命であってか、思いがけない辛い事もあったのだろう」とお考えいたると、あれこれと心細い気がして、お泣きになった。
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若君を自身の子のように衛門督は思っていたが、衛門督の死におあいになってみると、神秘なかかわりもある気があそばされて、衛門督が信じていたことがほんとうであったかもしれぬとお思われになり、いよいよ御自身の運命の悲しさにお泣きになるのであった。
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"Wakagimi no ohom-koto wo, sa zo to omohi tari simo, geni, kakaru beki tigiri nite ya, omohi no hoka ni kokorouki koto mo ari kem." to obosi yoru ni, samazama mono-kokorobosou te, uti-naka re tamahi nu.
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出典10 |
やむ薬ならねば |
我こそや見ぬ人恋ふる病すれ逢ふ日ならではやむ薬なし |
拾遺集恋一-六六五 読人しらず |
3.4.1 |
出典11 |
泡の消え入るやうに |
水の泡の消えて憂き身といひながら流れてなほも頼まるるかな |
古今集恋五-七九二 紀友則 |
3.4.1 |
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Last updated 9/22/2010(ver.2-3) 渋谷栄一校訂(C) Last updated 5/27/2010(ver.2-2) 渋谷栄一注釈(C) |
Last updated 1/13/2002 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 5/27/2010 (ver.2-2) Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C) |
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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