第三十九帖 夕霧


39 YUHUGIRI (Ohoshima-bon)


光る源氏の准太上天皇時代
五十歳秋から冬までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from fall to winter, at the age of 50

2
第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口


2  Tale of Ochiba-no-Miya  A priest's information

2.1
第一段 夕霧の後朝の文


2-1  A letter from Yugiri after the next morning

2.1.1  かやうの歩き、慣らひたまはぬ心地に、をかしうも心尽くしにもおぼえつつ、 殿におはせば、女君の、かかる濡れをあやしと咎めたまひぬべければ、 六条院の東の御殿に参うでたまひぬ。まだ朝霧も晴れず、ましてかしこにはいかに、と思しやる。
 このような出歩き、馴れていらっしゃらないお人柄なので、興をそそられまた気のもめることだとも思われながら、三条殿にお帰りになると、女君が、このような露に濡れているのを変だとお疑いになるに違いないので、六条院の東の御殿に参上なさった。まだ朝霧も晴れず、それ以上にあちらではどうであろうか、とお思いやりになる。
 深い山里の朝露は冷たかった。夫人がこの濡れ姿を見とがめることを恐れて大将は家へは帰らずに六条院の東の花散里はなちるさと夫人の住居すまいへ行った。まだ朝霧は晴れなかった。町でもこんなのであるから、小野の山荘の人はどんなに寂しい霧を眺めておいでになるであろうと大将は思いやった。
  Kayau no ariki, narahi tamaha nu kokoti ni, wokasiu mo kokorodukusi ni mo oboye tutu, tono ni ohase ba, WomnaGimi no, kakaru nure wo ayasi to togame tamahi nu bekere ba, Rokudeu-no-win no Himgasi-no-otodo ni maude tamahi nu. Mada asagiri mo hare zu, masite kasiko ni ha ikani, to obosi yaru.
2.1.2  「 例ならぬ御歩きありけり
 「いつにないお忍び歩きだったのですわ」
 「珍しくお忍び歩きをなさいましたのですよ」
  "Rei nara nu ohom-ariki ari keri."
2.1.3  と、人びとはささめく。しばしうち休みたまひて、御衣脱ぎ替へたまふ。常に夏冬といときよらにしおきたまへれば、 香の御唐櫃より取う出て奉りたまふ。御粥など参りて、 御前に参りたまふ
 と、女房たちはささやき合う。暫くお休みになってから、お召し物を着替えなさる。いつでも夏服冬服と大変きれいに用意していらっしゃるので、香を入れた御唐櫃から取り出して差し上げなさる。お粥など召し上がって、院の御前に参上なさる。
 と女房たちはささやいていた。夕霧の大将はしばらく休息をしてから衣服を脱ぎかえた。平生からこの人の夏物、冬物を幾かさねとなく作って用意してある養母であったから、香の唐櫃からびつからすぐに品々が選び出されたのである。朝のかゆを食べたりしたあとで夫人の居間へ夕霧ははいって行った。
  to, hitobito ha sasameku. Sibasi uti-yasumi tamahi te, ohom-zo nugi kahe tamahu. Tuneni natu huyu to ito kiyorani si oki tamahe re ba, kau no ohom-karabitu yori toude te tatematuri tamahu. Ohom-kayu nado mawiri te, omahe ni mawiri tamahu.
2.1.4   かしこに御文たてまつりたまへれど、御覧じも入れずにはかにあさましかりしありさま、めざましうも恥づかしうも思すに、心づきなくて、御息所の漏り聞きたまはむことも、いと恥づかしう、また、かかることやとかけて知りたまはざらむに、ただならぬふしにても見つけたまひ、 人のもの言ひ隠れなき世なれば、おのづから聞きあはせて、隔てけると思さむがいと苦しければ、
 あちらにお手紙を差し上げなさったが、御覧になろうともなさらない。唐突にも心外であった有様、腹だたしくも恥ずかしくもお思いなさると、不愉快で、母御息所がお聞き知りになることもまことに恥ずかしく、また一方、こんなことがあったとは全然御存知でないのに、普段と変わった態度にお気づきになり、人の噂もすぐに広まる世の中だから、自然と聞き合わせて、隠していたとお思いになるのがとても辛いので、
 夕霧はそこから小野へ手紙をお送りした。山荘の宮は予想もあそばさなかった、にわかな変わった態度を男のとり出した昨夜ゆうべのことで、無礼なとも、恥を見せたともお思いになることで夕霧への御反感が強かった。御息所の耳へはいることがあったならと羞恥しゅうちをお覚えになるのであるが、またそんなことがあったとは少しも御息所が知らずにいて、不意に何かのことから気のついた時に、隔て心があるように思われるのも苦しい、
  Kasiko ni ohom-humi tatematuri tamahe re do, goranzi mo ire zu. Nihakani asamasikari si arisama, mezamasiu mo hadukasiu mo obosu ni, kokorodukinaku te, Miyasumdokoro no mori kiki tamaha m koto mo, ito hadukasiu, mata, kakaru koto ya to kakete siri tamaha zara m ni, tada nara nu husi nite mo mituke tamahi, hito no monoihi kakure naki yo nare ba, onodukara kiki ahase te, hedate keru to obosa m ga ito kurusikere ba,
2.1.5  「 人びとありしままに聞こえ漏らさなむ。憂しと思すともいかがはせむ」と思す。
 「女房たちがありのままに申し上げて欲しい。困ったことだとお思いになってもしかたがない」とお思いになる。
 女房がありのままを話すことによって母を悲しませることがあってもやむをえないと宮はおあきらめになるよりほかはなかった。
  "Hitobito ari si mama ni kikoye morasa nam. Usi to obosu tomo ikagaha se m?" to obosu.
2.1.6  親子の御仲と聞こゆる中にも、つゆ隔てずぞ思ひ交はしたまへる。よその人は漏り聞けども、親に隠すたぐひこそは、 昔の物語にもあめれど、さはた思されず。人びとは、
 母子の御仲と申す中でも、少しも互いに隠さず打ち明けていらっしゃる。他人は漏れ聞いても、親には隠している例は、昔の物語にもあるようだが、そのようにはお思いなさらない。女房たちは、
 親子と申してもこれほど親しみ合う仲は少ない母と御子なのである。世間に噂の立っていることも親にはなお秘密にしておくことがよく昔の小説などにはあるが、宮にそれはおできになれないことであった。女房たちは
  Oyako no ohom-naka to kikoyuru naka ni mo, tuyu hedate zu zo omohi kahasi tamahe ru. Yoso no hito ha mori kike domo, oya ni kakusu taguhi koso ha, mukasi no monogatari ni mo a' mere do, sa hata obosa re zu. Hitobito ha,
2.1.7  「 何かは、ほのかに聞きたまひて、ことしもあり顔に、とかく思し乱れむ。まだきに、心苦し」
 「何の、少しばかりお聞きになって、子細ありそうに、あれこれと御心配なさることがありましょうか。まだ何事もないのに、おいたわしい」
 昨夜ゆうべのことを御息所が片端だけ聞いてもほんとうにあやまちが起こったことのように歎かれるのであろうから、今はまだそうした思いをさせる必要はないと相談をしていながらも、まだどの程度の関係にまで進んだのか進まなかったのか
  "Nanikaha, honokani kiki tamahi te, koto simo arigaho ni, tokaku obosi midare m. Madaki ni, kokorogurusi."
2.1.8  など言ひあはせて、 いかならむと思ふどち、この御消息のゆかしきを、ひきも開けさせたまはねば、心もとなくて、
 などと言い合わせて、この御仲がどうなるのだろうと思っている女房どうしは、このお手紙が見たいと思うが、すこしも開かせなさらないので、じれったくて、
 に疑問を持っていて、今来た大将の手紙が真相を説明してくれるであろうと思う好奇心から、宮がお読みになる時に盗み見をしたいと願っているのであるが、宮はお開きになろうともあそばされないのに気をんで、
  nado ihi ahase te, ikanara m to omohu-doti, kono ohom-seusoko no yukasiki wo, hiki mo ake sase tamaha ne ba, kokoromotonaku te,
2.1.9  「 なほ、むげに聞こえさせたまはざらむも、おぼつかなく、若々しきやうにぞはべらむ」
 「やはり、全然お返事をなさらないのも、不安だし、子供っぽいようでございましょう」
 「全然御返事をあそばさないことも、たよりない御性質のように想像をなさることでもございましょうし、お若々し過ぎることでもございます」
  "Naho, mugeni kikoyesase tamaha zara m mo, obotukanaku, wakawakasiki yau ni zo habera m."
2.1.10  など聞こえて、広げたれば、
 などと申し上げて、広げたので、
 などと言って、大将の手紙をひろげると、
  nado kikoye te, hiroge tare ba,
2.1.11  「 あやしう、何心もなきさまにて人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも、 慰めがたくなむえ見ずとを言へ
 「見苦しく、呆然としていて、相手にあの程度でお会いした至らなさを、わが身の過ちと思ってみるが、遠慮のなかったあまりの態度を、情けなく思われるのです。拝見できませんと言いなさい」
 「思いがけないことで、たとえあれだけのことにもせよ男の人を接近させたことは、皆私自身の軽率から起こした過失だとは思うがね、思いやりのないことをした人を、私の憎む心がまだ直らないのだから、読まなかったと言ってやるがいい」
  "Ayasiu, nanigokoro mo naki sama nite, hito ni kabakari ni te mo miyuru ahatukesa no, midukara no ayamati ni omohi nase do, omohiyari nakari si asamasisa mo, nagusame gataku nam. E miye zu to wo ihe."
2.1.12  と、ことのほかにて、寄り臥させたまひぬ。
 と、もってのほかだと、横におなりあそばした。
 と不機嫌ふきげんに仰せられて宮は横になっておしまいになった。
  to, koto no hoka nite, yori husa se tamahi nu.
2.1.13   さるは、憎げもなく、いと心深う書いたまうて、
 実のところは、憎い様子もなく、とても心をこめてお書きになって、
 夕霧の手紙は宮の御迷惑になるようなことを避けて書かれたものであった。
  Saruha, nikuge mo naku, ito kokorobukau kai tamau te,
2.1.14  「 魂をつれなき袖に留めおきて
   わが心から惑はるるかな
 「魂をつれないあなたの所に置いてきて
  自分ながらどうしてよいか分かりません
  たましひをつれなき袖にとどめおきて
  わが心から惑はるるかな
    "Tamasihi wo turenaki sode ni todome oki te
    waga kokorokara madoha ruru kana
2.1.15   ほかなるものはとか 、昔もたぐひありけりと思たまへなすにも、 さらに行く方知らず のみなむ」
 思うにまかせないものは心であるとか、昔も同じような人があったのだと存じてみますにも、まったくどうしてよいものか分かりません」
 「ほかなるものは」(身を捨てていにやしにけん思ふよりほかなるものは心なりけり)と歌われておりますから、昔もすでに私ほど苦しんだ人があったと思いまして、みずからを慰めようとはいたすにもかかわらずなお魂は身に添いません。
  Hoka naru mono ha to ka, mukasi mo taguhi ari keri to omo tamahe nasu ni mo, sarani yukukata sira zu nomi nam."
2.1.16  など、いと多かめれど、 人はえまほにも見ず例のけしきなる今朝の御文にもあらざめれどなほえ思ひはるけず。人びとは、御けしきもいとほしきを、嘆かしう見たてまつりつつ、
 などと、とても多く書いてあるようだが、女房はよく見ることができない。通常の後朝の手紙ではないようであるが、やはりすっきりとしない。女房たちは、ご様子もお気の毒なので、心を痛めて拝見しながら、
 こんなことが長く書かれてあるようであったが、女房も細かに読むことは遠慮されてできないのである。事の成り立ったのちに書かれたふみではないようであるとは見ながらも、なお疑いを消してはいなかった。女房たちは宮の御気分のすぐれぬことをなげきながら、
  nado, ito ohoka' mere do, hito ha e maho ni mo mi zu. Rei no kesiki naru kesa no ohom-humi ni mo ara za' mere do, naho e omohi haruke zu. Hitobito ha, mi-kesiki mo itohosiki wo, nagekasiu mi tatematuri tutu,
2.1.17  「 いかなる御ことにかはあらむ。何ごとにつけても、ありがたうあはれなる御心ざまはほど経ぬれど」
 「どのような御事なのでしょう。どのような事につけても、素晴らしく思いやりのあるお気持ちは長年続いているけれども」
 「昨晩のことがまだ不可解なことに思われます。非常に御親切だということは長い間に私どももお認めしている方ですけれど、
  "Ikanaru ohom-koto ni kaha ara m? Nanigoto ni tuke te mo, arigatau ahare naru mi-kokoro zama ha hodo he nure do."
2.1.18  「 かかる方に頼みきこえては見劣りやしたまはむ、と思ふも危ふく」
 「ご結婚相手としてお頼み申しては、がっかりなさるのではないか、と思うのも不安で」
 良人おっとという御関係におなりになった時と、熱のある友情期間とが同じでありうるでしょうかどうかが心配ですよ」
  "Kakaru kata ni tanomi kikoye te ha, miotori ya si tamaha m, to omohu mo ayahuku."
2.1.19  など、睦ましうさぶらふ限りは、おのがどち思ひ乱る。御息所もかけて知りたまはず。
 などと、親しく伺候している者だけは、皆それぞれ心配している。御息所もまったく御存知でない。
  などと言い、親しく宮にお仕えしている女房たちもこのことに重い関心をもって宮のためにお案じ申し上げているのであった。御息所はまだこのことを少しも知らずにいた。
  nado, mutumasiu saburahu kagiri ha, onoga-doti omohi midaru. Miyasumdokoro mo kakete siri tamaha zu.
注釈177殿におはせば夕霧の自邸、三条殿。ここは夕霧の心中に即した仮定の文脈。2.1.1
注釈178六条院の東の御殿に花散里のもとをさす。夕霧の養母。2.1.1
注釈179例ならぬ御歩きありけり女房たちの詞。「けり」過去の助動詞、詠嘆の意。2.1.2
注釈180香の御唐櫃『集成』は「香を入れて、収めた装束に匂いを移らせる唐櫃」。『完訳』は「香を着物に移らせるための唐櫃」と注す。2.1.3
注釈181御前に参りたまふ源氏の御前をさす。挨拶のためである。2.1.3
注釈182かしこに御文たてまつりたまへれど御覧じも入れず源氏のもとに行く前に夕霧は手紙を小野に差し出したもの。場面は小野に移る。「御覧じも入れず」の主語は落葉宮。2.1.4
注釈183にはかにあさましかりし以下、落葉の宮の心中に沿った叙述。2.1.4
注釈184人のもの言ひ隠れなき世なれば『異本紫明抄』は「ここにしも何匂ふらむ女郎花人の物言ひさがにくき世に」(拾遺集雑、一〇九八、僧正遍昭)を指摘。2.1.4
注釈185人びとありしままに聞こえ漏らさなむ以下「いかがはせむ」まで、落葉の宮の心中文。心中に即した地の文の中に直接話法のように嵌め込まれている。『集成』は「夕霧が近づいたけれども何ごともなかったその実情を、いっそ告げてほしいと思う」と注す。2.1.5
注釈186昔の物語にもあめれど『完訳』は「他人には知られても親には隠しだてをする話。『伊勢物語』や『平中物語』などに多い」と注す。「あめれど」の主体は語り手。2.1.6
注釈187何かはほのかに聞きたまひて以下「まだきに心苦し」まで、女房の詞。「ほのかに聞きたまひて」の主語は御息所。2.1.7
注釈188いかならむと思ふどち宮と夕霧の仲がこれからどうなるのかと関心をもっている女房同士。「心もとなくて」にかかる。2.1.8
注釈189なほむげに聞こえさせたまはざらむも以下「若々しきやうにぞはべらむ」まで、女房の詞。夕霧からの手紙を開いて見るように勧める。2.1.9
注釈190あやしう何心もなきさまにて以下「え見ずとを言へ」まで、落葉宮の詞。2.1.11
注釈191人にかばかりにても見ゆるあはつけさの『集成』は「男の人にあの程度にせよお逢いした至らなさを」と訳す。2.1.11
注釈192慰めがたくなむ係助詞「なむ」の下に「思ふ」などの語句が省略。2.1.11
注釈193え見ずとを言へ「を」間投助詞、強調の意。2.1.11
注釈194さるは憎げもなく『集成』は「とはいえ。落葉の宮のご不興にもかかわらず、というほどの含み」と注す。語り手の夕霧弁護の句。2.1.13
注釈195魂をつれなき袖に留めおきて--わが心から惑はるるかな夕霧から落葉の宮への贈歌。『河海抄』は「飽かざりし袖の中にや入りにけむ我が魂のなき心地する」(古今集雑下、九九二、陸奥)を指摘。2.1.14
注釈196ほかなるものはとか以下「さらに行く方知らずのみなむ」まで、歌に続けた手紙文。『奥入』は「身を捨てて行きやしにけむ思ふよりほかなるものは心なりけり」(古今集雑下、九七七、躬恒)を指摘。2.1.15
注釈197さらに行く方知らず『一葉集』は「我が恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし」(古今集恋一、四八八、読人しらず)を指摘。2.1.15
注釈198人はえまほにも見ず女房は正面から手紙を見ることができない。2.1.16
注釈199例のけしきなる今朝の御文にもあらざめれど後朝の文らしくないことをいう。「あらざめれど」は女房の視点を通しての叙述。2.1.16
注釈200なほえ思ひはるけず『集成』は「普通の後朝の文のような今朝のお手紙でもないようだが、女房たちにはどうも十分に納得がいかない」。『完訳』は「昨夜何事があったのかと不審がる」と注す。2.1.16
注釈201いかなる御ことにかはあらむ以下「思ふも危うく」まで、女房の詞。2.1.17
注釈202かかる方に頼みきこえては「かかる方」は、夫としての意。2.1.18
注釈203見劣りやしたまはむ『集成』は「夫になったら、夕霧は思ったほどでもないかもしれない、と危ぶむ。柏木の前例もあるからであろう」。『完訳』は「夕霧の予測に反して宮が劣って見え、彼が宮を冷遇するのではないかと、女房たちは以前の柏木と宮の関係を根拠に不安に思うらしい」と注す。2.1.18
出典7 魂をつれなき袖 飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する 古今集雑下-九九二 陸奥 2.1.14
出典8 ほかなるものは 身を捨てて行きやしにけむ思ふより外なるものは心なりけり 古今集雑下-九七七 凡河内躬恒 2.1.15
出典9 行く方知らず 我が恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし 古今集恋一-四八八 読人しらず 2.1.15
校訂3 例ならぬ 例ならぬ--れ(れ/+い<朱>)ならぬ 2.1.2
2.2
第二段 律師、御息所に告げ口


2-2  A priest informs Miyasumdokoro that Yugiri came out Ochiba-no-Miya's room

2.2.1  もののけにわづらひたまふ人は、重しと見れど、さはやぎたまふ隙もありてなむ、ものおぼえたまふ。 日中の御加持果てて、阿闍梨一人とどまりて、なほ陀羅尼読みたまふ。よろしうおはします、喜びて、
 物の怪にお悩みになっていらっしゃる方は、重病と見えるが、爽やかな気分になられる合間もあって、正気にお戻りになる。昼日中のご加持が終わって、阿闍梨一人が残って、なおも陀羅尼を読んでいらっしゃる。好くおなりあそばしたのを、喜んで、
 物怪に煩っている病人は重態に見えるかと思うと、またたちまちに軽快らしくなることもあって、平常に近い気分になっていたこの日の昼ごろに、日中の加持が終わり、律師一人だけが病床に近くいて陀羅尼だらに経を読んでいた。病人の苦痛のやや去ったことを律師は喜んで、祈りの終わりに、
  Mononoke ni wadurahi tamahu hito ha, omosi to mire do, sahayagi tamahu hima mo ari te nam, mono oboye tamahu. Nityuu no ohom-kadi hate te, Azari hitori todomari te, naho Darani yomi tamahu. Yorosiu ohasimasu, yorokobi te,
2.2.2  「 大日如来虚言したまはずはなどてか、かくなにがしが心を致して仕うまつる 御修法、験なきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまとはれたるはかなものなり」
 「大日如来は嘘をおっしゃいません。どうして、このような拙僧が心をこめて奉仕するご修法に、験のないことがありましょうか。悪霊は執念深いようですが、業障につきまとわれた弱いものである」
 「大日如来がうそを仰せられたのでなければ、私が熱誠をこめて行なう修法に効果の見えぬわけはありません。悪霊は執拗しつようであっても、それはごうにまとわれたつまらぬ亡者もうじゃではありませんか」
  "DainitiNyorai soragoto si tamaha zu ha! Nadoteka, kaku nanigasi ga kokoro wo itasi te tukaumaturu mi-suhohu, sirusi naki yau ha ara m. Akuryau ha sihuneki yau nare do, gohusyau ni matoha re taru hakana mono nari."
2.2.3  と、 声はかれて怒りたまふ。いと聖だち、すくすくしき律師にて、ゆくりもなく、
 と、声はしわがれて荒々しくいらっしゃる。たいそう俗世離れした一本気な律師なので、だしぬけに、
 と太い枯れ声で言っていた。俗離れのした強い性格の律師で、突然、
  to, kowe ha kare te ikari tamahu. Ito hiziri-dati, sukusukusiki Risi nite, yukuri mo naku,
2.2.4  「 そよや。この大将は、いつよりここには参り通ひたまふぞ
 「そうでした。あの大将は、いつからここにお通い申すようになられましたか」
 「あ、左大将はいつごろから宮様の所へ通って来ておいでになりますか」
  "Soyo ya! Kono Daisyau ha, itu yori koko ni ha mawiri kayohi tamahu zo."
2.2.5  と問ひ申したまふ。御息所、
 とお尋ねになる。御息所は、
 と問うた。
  to tohi mausi tamahu. Miyasumdokoro,
2.2.6  「 さることもはべらず。故大納言のいとよき仲にて、語らひつけたまへる心違へじと、この年ごろ、さるべきことにつけて、いとあやしくなむ語らひものしたまふも、かくふりはへ、わづらふを訪らひにとて、立ち寄りたまへりければ、かたじけなく聞きはべりし」
 「そのようなことはございません。亡くなった大納言と大変仲が好くて、お約束なさったことを裏切るまいと、ここ数年来、何かの機会につけて、不思議なほど親しくお出入りなさっているのですが、このようにわざわざ、患っていますのをお見舞いにと言って、立ち寄って下さったので、もったいないことと聞いておりました」
 「そんなことはありません、くなられた大納言の親友でしたから、あの方が遺言して宮様のことも頼んでお置きになったものですから、その約束をお守りになって、それ以来親切によくたずねて来てくださることが、もう何年も続いています。そんなお交際つきあいの仲なのですが、この遠い所まで私の病気を見舞いに来てくださいましたそうですから、恐縮して私は聞いておりましたよ」
  "Saru koto mo habera zu. Ko-Dainagon no ito yoki naka nite, katarahituke tamahe ru kokoro tagahe zi to, kono tosigoro, sarubeki koto ni tuke te, ito ayasiku nam katarahi monosi tamahu mo, kaku hurihahe, wadurahu wo toburahi ni tote, tatiyori tamahe ri kere ba, katazikenaku kiki haberi si."
2.2.7  と聞こえたまふ。
 と申し上げなさる。
 御息所みやすどころの答えはこうであった。
  to kikoye tamahu.
2.2.8  「 いで、あなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝、 後夜に参う上りつるにかの西の妻戸より、いとうるはしき男の出でたまへるを、霧深くて、なにがしはえ見分いたてまつらざりつるを、この法師ばらなむ、『大将殿の出でたまふなりけり』と、『 昨夜も御車も返して泊りたまひにける』と、口々申しつる。
 「いや、何とおかしい。拙僧にお隠しになることもありますまい。今朝、後夜の勤めに参上した時に、あの西の妻戸から、たいそう立派な男性がお出になったのを、霧が深くて、拙僧にはお見分け申すことができませんでしたが、この法師どもが、『大将殿がお出なさるのだ』と、『昨夜もお車を帰してお泊りになったのだ』と、口々に申していた。
 「とんでもない。私に隠しだてをなさる必要はない。今朝けさ後夜ごやの勤めにこちらへ参った時に、あちらの西の妻戸からりっぱな若い方が出ておいでになったのを、霧が深くて私にはよく顔が見えませんじゃったが、弟子でしどもは左大将が帰って行かれるのじゃ、昨夜ゆうべも車をお返しになってお泊まりになったのを見たと口々に言っておりました。
  "Ide, ana kataha! Nanigasi ni kakusa ru beki ni mo ara zu. Kesa, goya ni maunobori turu ni, kano nisi no tumado yori, ito uruhasiki wotoko no ide tamahe ru wo, kiri hukaku te, nanigasi ha e miwai tatematura zari turu wo, kono hohusibara nam, "Daisyau-dono no ide tamahu nari keri." to, "Yobe mo mi-kuruma mo kahesi te tomari tamahi ni keru." to, kutiguti mausi turu.
2.2.9   げに、いと香うばしき香の 満ちて、頭痛きまでありつれば、 げにさなりけりと、思ひあはせはべりぬる。常にいと香うばしうものしたまふ君なり。 このこと、いと切にもあらぬことなり。人はいと有職にものしたまふ。
 なるほど、まことに香ばしい薫りが満ちていて、頭が痛くなるほどであったので、なるほどそうであったのかと、合点がいったのでござった。いつもまことに香ばしくいらっしゃる君である。このことは、決して望ましいことではあるまい。相手はまことに立派な方でいらっしゃる。
 そうだろうと私もうなずかれました。よいにおいのする方じゃからな。しかしこの御関係は結構なことじゃありませんなあ。あちらがりっぱな方であることに異議はないが、しかしどうも賛成ができん。
  Geni, ito kaubasiki ka no miti te, kasira itaki made ari ture ba, geni sa nari keri to, omohi ahase haberi nuru. Tune ni ito kaubasiu monosi tamahu Kimi nari. Kono koto, ito seti ni mo ara nu koto nari. Hito ha ito iusoku ni monosi tamahu.
2.2.10  なにがしらも、 童にものしたまうし時より、かの君の御ためのことは、修法をなむ、故大宮ののたまひつけたりしかば、一向にさるべきこと、今に承るところなれど、 いと益なし。本妻強くものしたまふ。さる、時にあへる族類にて、いとやむごとなし。若君たちは、七、八人になりたまひぬ。
 拙僧らも、子供でいらっしゃったころから、あの君の御為の事には、修法を、亡くなられた大宮が仰せつけになったので、もっぱらしかるべき事は、今でも承っているところであるが、まことに無益である。本妻は勢いが強くていらっしゃる。ああした、今を時めく一族の方で、まことに重々しい。若君たちは七、八人におなりになった。
 子供でいられたころからあの方の御祈祷きとうは御祖母の宮様から私が命ぜられていたものじゃから、今も何かといっては私に頼まれるのですがな、そのことはよくありませんな。奥さんの勢力が強くてしかたがない。盛んな一族が背景になっていますからな。お子さんはもう七、八人もできているでしょう。
  Nanigasira mo, waraha ni monosi tamau si toki yori, kano Kimi no ohom-tame no koto ha, suhohu wo nam, ko-Ohomiya no notamahi tuke tari sika ba, ikkau ni sarubeki koto, ima ni uketamaharu tokoro nare do, ito yaku nasi. Honsai tuyoku monosi tamahu. Saru, toki ni ahe ru zourui nite, ito yamgotonasi. WakaGimi-tati ha, siti, hati-nin ni nari tamahi nu.
2.2.11  え皇女の君圧したまはじ。また、 女人の悪しき身をうけ長夜の闇に惑ふは、 ただかやうの罪によりなむ、 さるいみじき報いをも受くるものなる。人の御怒り出で来なば、長きほだしとなりなむ。もはら受けひかず」
 皇女の君とて圧倒できまい。また、女人という罪障深い身を受け、無明長夜の闇に迷うのは、ただこのような罪によって、そのようなひどい報いを受けるものである。本妻のお怒りが生じたら、長く成仏の障りとなろう。全く賛成できぬ」
 こちらの宮様がそれにお勝ちになることはできないでしょうな。また一方から言えば女という罪障の深いものに生まれて、救いのない長夜のやみに迷うのもこうした関係から生じる煩悩ぼんのうが原因になり、恐ろしい報いを受けることになりますからな、長いきずなが付きまとわることですからな、絶対によろしくないことじゃ」
  E Miko-no-Kimi osi tamaha zi. Mata, nyonin no asiki mi wo uke, dyauya no yami ni madohu ha, tada kayau no tumi ni yori nam, saru imiziki mukuyi wo mo ukuru mono naru. Hito no ohom-ikari ideki na ba, nagaki hodasi to nari na m. Mohara ukehika zu."
2.2.12  と、頭振りて、ただ言ひに言ひ放てば、
 と、頭を振って、ずけずけと思い通りに言うので、
 律師は頭を振り立てながら、興奮して乱暴なことも言うのである。
  to, kasira huri te, tada ihi ni ihi hanate ba,
2.2.13  「 いとあやしきことなり。さらにさるけしきにも見えたまはぬ人なり。よろづ心地の惑ひにしかば、 うち休みて対面せむとてなむ、しばし立ち止まりたまへると、ここなる御達言ひしを、 さやうにて泊りたまへるにやあらむ。おほかたいとまめやかに、すくよかに ものしたまふ人を
 「何とも妙な話です。まったくそのようにはお見えにならない方です。いろいろと気分が悪かったので、一休みしてお目にかかろうとおっしゃって、暫くの間立ち止まっていらっしゃると、ここの女房たちが言っていたが、そのように言ってお泊まりになったのでしょうか。だいたいが誠実で、実直でいらっしゃる方ですが」
 「私にはに落ちないことですよ。そんな様子などは少しもお見せにならなかった方ですもの、昨日は私があまり苦しんでいたものですから、しばらく休息をしてからまた話そうとお言いになって、あちらにいらっしゃると女房たちは言っていましたが、そんなふうで夜明けまでおいでになったのでしょう。至極まじめな堅い方をそんなふうに言う人があるのはよくありません」
  "Ito ayasiki koto nari. Sarani saru kesiki ni mo miye tamaha nu hito nari. Yorodu kokoti no madohi ni sika ba, uti-yasumi te taime se m tote nam, sibasi tati-tomari tamahe ru to, koko naru gotati ihi si wo, sayau nite tomari tamahe ru ni ya ara m? Ohokata ito mameyaka ni, sukuyoka ni monosi tamahu hito wo."
2.2.14  と、おぼめいたまひながら、心のうちに、
 と、不審がりなさりながら、心の中では、
 と御息所はなお不審をいだくふうを僧に見せながらも、
  to, obomei tamahi nagara, kokoro no uti ni,
2.2.15  「 さることもやありけむ。ただならぬ御けしきは、折々見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人の誹りあらむことははぶき捨て、うるはしだちたまへるに、 たはやすく心許されぬことはあらじと、うちとけたるぞかし。 人少なにておはするけしきを見て、はひ入りもやし たまへりけむ」と思す。
 「そのような事があったのだろうか。普通でないご様子は、時々見えたが、お人柄がたいそうしっかりしていて、努めて人の非難を受けるようなことは避けて、真面目に振る舞っていらっしゃったのに、たやすく納得できないことはなさるまいと、安心していたのだ。人少なでいらっしゃる様子を見て、忍び込みなさったのであろうか」とお思いになる。
 心のうちではそんなことがあったのかもしれない、宮を恋しくお思いする様子はおりおり見えたが、りっぱな人格のある人は人の批難の種になるようなことは避けて、まじめな友情だけを見せていたために、危険はないものとして自分は油断をしていたが、おそばに人も少ないのを見てお居間へはいるようなこともしたのではないかと思われもした。
  "Saru koto mo ya ari kem? Tada nara nu mi-kesiki ha, woriwori miyure do, hito no ohom-sama no ito kadokadosiu, anagati ni hito no sosiri ara m koto ha habuki sute, uruhasidati tamahe ru ni, tahayasuku kokoro yurusa re nu koto ha ara zi to, utitoke taru zo kasi. Hito zukuna nite ohasuru kesiki wo mi te, hahiiri mo ya si tamahe ri kem." to obosu.
注釈204日中の御加持果てて大島本は「日中の」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『完本』は諸本に従って「昼日中の」と「昼」を補訂する。2.2.1
注釈205大日如来虚言したまはずは以下「はかなものなり」まで、阿闍梨の詞。『集成』は「は」を係助詞に解し、読点で下に掛けて読む。『完訳』は「は」を終助詞に解し詠嘆の意にとって、句点で文を完結する。2.2.2
注釈206などてか「なきやうはあらむ」に係る。反語表現。2.2.2
注釈207御修法大島本は「御す法」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御修法に」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。2.2.2
注釈208声はかれて怒りたまふ『集成』は「修法に声は嗄れて、いかめしく言い放たれる」。『完訳』は「声はしわがれて肩をいからしておられる」と訳す。2.2.3
注釈209そよやこの大将はいつよりここには参り通ひたまふぞ阿闍梨の詞。2.2.4
注釈210さることもはべらず以下「かたじけなく聞きはべりし」まで、御息所の詞。2.2.6
注釈211いであなかたは以下「もはら受けひかず」まで、阿闍梨の詞。『集成』は「いや、それは見苦しい。いらざる弁解だというほどの意」と注す。2.2.8
注釈212後夜に参う上りつるに六時の勤行の一つ。夜半から暁にかけて行われる。2.2.8
注釈213かの西の妻戸より落葉宮のいる寝殿の西表の妻戸。2.2.8
注釈214昨夜も御車も返して係助詞「も」、最初の「も」は同例の意、後出の「も」は強調の意。過去にも見掛けたことがあったという含み。2.2.8
注釈215げにいと香うばしき香の「げに」は、法師ばらの言うことを受けた意。2.2.9
注釈216げにさなりけり「げに」は、自分自身で納得した気持ち。『集成』は「なるほどそうだったのかと」。『完訳』は「個人個人特有の薫香を用いるので誰であるか分る」と注す。2.2.9
注釈217このこといと切にもあらぬことなり『集成』は「このご縁組は、たって望ましいことでもありませぬ」。『完訳』は「この大将のこちらへのお通いは、まったくどうしても是非にといったものではございません」と訳す。2.2.9
注釈218童にものしたまうし時より主語は夕霧。敬語が付いている。2.2.10
注釈219いと益なし『集成』は「お二人のご縁組は何のためにもなりませぬ」と訳す。2.2.10
注釈220女人の悪しき身をうけ女は罪深いとする仏教思想。2.2.11
注釈221長夜の闇『完訳』は「無明長夜の闇。煩悩ゆえに、死後も未来永劫に迷いさまよって真理の光明を見られないこと」と注す。2.2.11
注釈222ただかやうの罪により愛欲の罪。2.2.11
注釈223さるいみじき報いをも受くるものなる「さる」は、女性に生まれて無明長夜の闇に迷うことをさす。2.2.11
注釈224いとあやしきことなり以下「すくよかにものしたまふ人を」まで、御息所の詞。2.2.13
注釈225うち休みて対面せむ以下「立ち止まりたまへる」まで、御達の詞を引用。その中にさらに夕霧の詞を引用。「うち休みて」の主語は夕霧。2.2.13
注釈226さやうにて泊りたまへるにやあらむ「さやうにて」は「昨夜も御車も返して」の内容をさす。2.2.13
注釈227ものしたまふ人を「を」間投助詞、詠嘆。接続助詞の逆接的ニュアンスもある。『完訳』は「夕霧が宮に通じるはずがない、の気持をこめる。しかし律師の説得力ある言葉に、夕霧への信頼感が揺れる」と注す。2.2.13
注釈228さることもやありけむ以下「はひ入りもやしたまひけむ」まで、御息所の心中。2.2.15
注釈229たはやすく心許されぬことはあらじ主語は御息所。夕霧を信頼。2.2.15
注釈230人少なにておはするけしき落葉宮の周辺。2.2.15
注釈231たまへりけむ大島本は「給へりけむ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまひけむ」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。2.2.15
校訂4 満ちて 満ちて--みちに(に/$<朱>)て 2.2.9
2.3
第三段 御息所、小少将君に問い質す


2-3  Miyasumdokoro asks Ko-Syosyo that is true or not true

2.3.1  律師立ちぬる後に、小少将の君を召して、
 律師が立ち去った後に、小少将の君を呼んで、
 律師が立って行ったあとで、少将を呼んで、こうこうしたことを聞いたとまず御息所は言った。
  Risi tati nuru noti ni, Ko-Syausyau-no-Kimi wo mesi te,
2.3.2  「 かかることなむ聞きつる。いかなりしことぞ。などかおのれには、さなむ、かくなむとは聞かせたまはざりける。さしもあらじと思ひながら」
 「これこれの事を聞きました。どうした事ですか。どうしてわたしには、これこれ、しかじかの事があったとお聞かせ下さらなかったのですか。そんな事はあるまいと思いますが」
 「ほんとうのことはどれほどのことだったのかね。なぜ私にくわしく報告してくれなかったの。人の言うようなことは決してあるまいとは思っていても私の心は不安でならない」
  "Kakaru koto nam kiki turu. Ikanari si koto zo? Nadoka onore ni ha, sa nam, kaku nam to ha kika se tamaha zari keru. Sasimo arazi to omohi nagara."
2.3.3  とのたまへば、いとほしけれど、初めよりありしやうを、詳しう聞こゆ。今朝の御文のけしき、宮もほのかにのたまはせつるやうなど聞こえ、
 とおっしゃると、お気の毒であるが、最初からのいきさつを、詳しく申し上げる。今朝のお手紙の様子、宮もかすかに仰せになった事などを申し上げ、
 聞く御息所に気の毒な思いをしながらも、小少将は昨日のことを初めからくわしく話した。今朝の手紙の内容、宮がその時におらしになった言葉なども言って、
  to notamahe ba, itohosikere do, hazime yori ari si yau wo, kuhasiu kikoyu. Kesa no ohom-humi no kesiki, Miya mo honokani notamahase turu yau nado kikoye,
2.3.4  「 年ごろ、忍びわたりたまひける 心の内を、聞こえ知らせむとばかりにやはべりけむ。 ありがたう用意ありてなむ、明かしも果てで出でたまひぬるを、人は いかに聞こえはべるにか」。
 「長年、秘めていらしたお胸の中を、お耳に入れようというほどでございましたでしょうか。めったにないお心づかいで、夜も明けきらないうちにお帰りになりましたが、人はどのようなふうに申し上げたのでございましょうか」
 「ながくおさえ続けておいでになりました心を、お知らせなさろうというだけのことだったかと存じます。宮様への敬意をお失いになるようなことはございませんで、御迷惑とお考えになって朝まではおいでになられませんで早く出てお行きになりましたのを、ほかの人はどんなふうに申し上げたのでしょう」
  "Tosigoro, sinobi watari tamahi keru kokoro no uti wo, kikoye sirase m to bakari ni ya haberi kem. Arigatau youi ari te nam, akasi mo hate de ide tamahi nuru wo, hito ha ikani kikoye haberu ni ka?"
2.3.5   律師とは思ひも寄らで、忍びて 人の聞こえけると思ふ。 ものものたまはで、いと憂く口惜しと思すに、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。 見たてまつるも、いといとほしう、「 何に、ありのままに聞こえつらむ。苦しき御心地を、いとど思し乱るらむ」と悔しう思ひゐたり。
 律師とは思いもよらず、こっそりと女房が申し上げたものと思っている。何もおっしゃらず、とても残念だとお思いになると、涙がぽろぽろとこぼれなさった。拝見するのも、まことにお気の毒で、「どうして、ありのままを申し上げてしまったのだろう。苦しいご気分を、ますますお胸を痛めていらっしゃるだろう」と後悔していた。
 と、律師とは知らずに、ほかに密告した女房があったのだと小少将は思って言った。御息所は何も言わずに、残念そうな表情をしていたが涙がほろほろとこぼれ出した。見ていて小少将は気の毒で、なぜありのままのことを言ったのだろう、病気の上に御息所は煩悶はんもんをして、どんなに堪えがたいことであろうと悔いた。
  Risi to ha omohi mo yora de, sinobi te hito no kikoye keru to omohu. Mono mo notamaha de, ito uku kutiwosi to obosu ni, namida horohoroto kobore tamahi nu. Mi tatematuru mo, ito itohosiu, "Nani ni, arinomama ni kikoye tu ram? Kurusiki mi-kokoti wo, itodo obosi midaru ram." to kuyasiu omohi wi tari.
2.3.6  「 障子は鎖してなむ」と、よろづによろしきやうに聞こえなせど、
 「襖は懸金が懸けてありました」と、いろいろと適当に言いつくろって申し上げるが、
 「襖子からかみはしめたままでございました」などと、今になって、少しでもよいように取りなそうと努めるのであったが、
  "Sauzi ha sasi te nam." to, yoroduni yorosiki yau ni kikoye nase do,
2.3.7  「 とてもかくても、さばかりに、何の用意もなく、軽らかに人に見えたまひけむこそ、いといみじけれ。 うちうちの御心きようおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、 よからぬ童べなどは、 まさに言ひ残してむや人には、いかに言ひあらがひ、さもあらぬことと 言ふべきにかあらむ。すべて、心幼き限りしも、ここにさぶらひて」
 「どうあったにせよ、そのように近々と、何の用心もなく、軽々しく人とお会いになったことが、とんでもないのです。内心のお気持ちが潔白でいらっしゃっても、こうまで言った法師たちや、口さがない童などは、まさに言いふらさずには置くまい。世間の人には、どのように抗弁をし、何もなかった事と言うことができましょうか。皆、思慮の足りない者ばかりがここにお仕えしていて」
 そんなことはどうでも、なぜそんなに近くへ男の寄って来るようなことを宮がおさせになったかと思うと悲しい。やましいところはおありにならなくても、さっき聞いたようなことを言って騒いでいる律師の弟子たちは、宮様のためにこれは不利であると思って隠すようなことをするはずもない、どう人に言いわけをすればいいことかわからない、絶対にないことと打ち消すことはしなければなるまい、何にしても心の幼稚な女房ばかりがお付きしていて
  "Totemo-kakutemo, sabakari ni, nani no youi mo naku, karuraka ni hito ni miye tamahi kem koso, ito imizikere. Utiuti no mi-kokorokiyou ohasu tomo, kaku made ihi turu hohusibara, yokara nu warahabe nado ha, masani ihi nokosi te m ya. Hito ni ha, ikani ihi aragahi, samo ara nu koto to ihu beki ni ka ara m? Subete, kokoro-wosanaki kagiri simo, koko ni saburahi te."
2.3.8  とも、えのたまひやらず。いと苦しげなる御心地に、ものを思しおどろきたれば、 いといとほしげなり 。気高うもてなしきこえむとおぼいたるに、世づかはしう、軽々しき名の立ちたまふべきを、おろかならず 思し嘆かる
 と、最後までおっしゃれない。とても苦しそうなご容態の上に、心を痛めてびっくりなさったので、まことにお気の毒である。品高くお扱い申そうとお思いになっていたのに、色恋事の、軽々しい浮名がお立ちになるに違いないのを、並々ならずお嘆きにならずにはいられない。
 とも思う心を御息所は口へ出しては言えなかった。病気が重い上に大きい衝動を受けたのであったからこの人はいたましいほどにも苦しんだ。神聖な方としており立てしていきたかった宮様も、世間の女並みに浮き名を立てられておしまいになることがもってのほかに思われてならなかった。
  to mo, e notamahi yara zu. Ito kurusige naru mi-kokoti ni, mono wo obosi odoroki tare ba, ito itohosige nari. Kedakau motenasi kikoye m to oboi taru ni, yodukahasiu, karugarusiki na no tati tamahu beki wo, oroka nara zu obosi nageka ru.
2.3.9  「 かうすこしものおぼゆる隙に渡らせたまうべう聞こえよそなたへ参り来べけれど、動きすべうもあらでなむ。見たてまつらで、久しうなりぬる心地すや」
 「このように少しはっきりしている間に、お越しになるよう申し上げなさい。あちらへお伺いすべきですが、動けそうにありません。お会いしないで、長くなってしまった気がしますわ」
 「今日のような私の気分の少しよい間に、宮様がこちらへおいでくださるように申し上げなさい。あちらへ伺うはずだけれど動けそうではないのだからね。ずいぶんながくお目にかからない気がする」
  "Kau sukosi mono oboyuru hima ni, watara se tamau beu kikoye yo. Sonata he mawiri ku bekere do, ugoki su beu mo ara de nam. Mi tatematura de, hisasiu nari nuru kokoti su ya!"
2.3.10  と、涙を浮けてのたまふ。 参りて
 と、涙を浮かべておっしゃる。参上して、
 御息所は目に涙を浮かべてこう言っているのであった。
  to, namida wo uke te notamahu. Mawiri te,
2.3.11  「 しかなむ聞こえさせたまふ
 「しかじかと申されていらっしゃいます」
 小少将は宮のお居間へ帰って、
  "Sika nam kikoyesase tamahu."
2.3.12   とばかり聞こゆ
 とだけ申し上げる。
 御息所の最後の言葉だけをお伝えした。
  to bakari kikoyu.
注釈232かかることなむ聞きつる以下「あらじとは思ひながら」まで、御息所の詞。「かかること」は、小少将の君には具体的に言った内容を、語り手が要約したもの。2.3.2
注釈233年ごろ忍びわたり以下「いかに聞こえはべるにか」まで、小少将の君の詞。2.3.4
注釈234心の内を聞こえ知らせむ夕霧の心の中を落葉の宮に。2.3.4
注釈235ありがたう用意ありてなむ『完訳』は「無体な行為には出なかったと弁明」と注す。2.3.4
注釈236いかに聞こえはべるにか会話文の引用句がなく、即地の文に続く文章の呼吸。2.3.4
注釈237律師とは思ひも寄らで主語は小少将の君。2.3.5
注釈238人の他の女房をさす。2.3.5
注釈239ものものたまはで主語は御息所。『完訳』は「小少将の言葉から、夕霧を見たとする律師の話を信頼し、二人に実事があったと思い込む。宮に裏切られた思い」と注す。2.3.5
注釈240見たてまつるもいといとほしう小少将の君が御息所を。2.3.5
注釈241何にありのままに以下「いとど思し乱るらむ」まで、小少将の君の心中。2.3.5
注釈242障子は鎖してなむ小少将の詞。係助詞「なむ」の下に「はべりつる」などの語句が省略。実事はなかったように言う。2.3.6
注釈243とてもかくても以下「ここにさぶらひて」まで、御息所の詞。『完訳』は「掛け金があろうとなかろうと。襖を隔てただけで。二人の実事を思い込む御息所には、小少将の気休めの言葉もかえって逆効果」と注す。2.3.7
注釈244うちうちの御心きようおはすとも落葉宮の心をさす。2.3.7
注釈245よからぬ童べなど『集成』は「たちのよくない京童べ。都の無頼の若者たち」。『完訳』は「口さがない若者。ここは、僧たちに従う召使か」と注す。2.3.7
注釈246まさに言ひ残してむや「言い残す」は、言わずに置くの意。係助詞「や」反語の意が加わって、言わないことがあろうか、きっと言い触らすにちがいない。「てむ」連語、当然の結果を予想する。2.3.7
注釈247人にはいかに言ひあらがひ世間の人に対して。2.3.7
注釈248言ふべきにかあらむ反語表現。2.3.7
注釈249いといとほしげなり大島本は「いと/\ほしけなる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いとほしげなり」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。2.3.8
注釈250思し嘆かる主語は御息所。「る」自発の助動詞。2.3.8
注釈251かうすこしものおぼゆる隙に以下「久しうなりぬる心地すや」まで、御息所の詞。主語は御息所自身。2.3.9
注釈252渡らせたまうべう聞こえよ落葉宮にこちらにいらっしゃるよう申し上げなさい、の意。2.3.9
注釈253そなたへ参り来べけれど主語は御息所。娘ではあるが皇女なので、自らは「参る」という謙譲語表現をし、宮には「渡らせたまふ」という尊敬語表現を使う。2.3.9
注釈254参りて主語は小少将の君。会話文をはさんで「とばかり聞こゆ」に係る。2.3.10
注釈255しかなむ聞こえさせたまふ小少将の君の詞。「しか」は語り手が言い換えたもの。2.3.11
注釈256とばかり聞こゆ『完訳』は「小少将は自分が密告者のようになりかねないので、ばつがわるい。御息所の言葉だけを伝えた」と注す。副助詞「ばかり」限定の意に注意。2.3.12
校訂5 いとほしげなり いとほしげなり--*いとほしけなる 2.3.8
2.4
第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る


2-4  Ochiba-no-Miya goes into her mother's room

2.4.1  渡りたまはむとて、御額髪の 濡れまろがれたる、ひきつくろひ、単衣の 御衣ほころびたる、着替へなどしたまひても、とみにもえ動いたまはず。
 お越しになろうとして、額髪が濡れて固まっている、繕い直し、単重のお召し物が綻びているが、着替えなどなさっても、すぐにはお動きになれない。
 宮は母君の所へ行こうとあそばされて、額髪の涙でかたまったのをお直しになり、お召し物のほころんでいた単衣ひとえをお着かえになっても、お気が進まないでじっとすわっておいでになるのであった。
  Watari tamaha m tote, ohom-hitaigami no nure marogare taru, hiki-tukurohi, hitohe no ohom-zo hokorobi taru, kigahe nado si tamahi te mo, tomini mo e ugoi tamaha zu.
2.4.2  「 この人びともいかに思ふらむまだえ知りたまはで、後にいささかも聞きたまふことあらむに、つれなくてありしよ」
 「この女房たちもどのように思っているだろう。まだご存知なくて、後に少しでもお聞きになることがあったとき、素知らぬ顔をしていたよ」
 この女房たちもどう自分を見ているのであろう、御息所も今は何もお知りにならないで、あとで少しでも昨夜のことをお聞きになることがあったなら、素知らぬ顔をしていた
  "Kono hitobito mo ikani omohu ram? Mada e siri tamaha de, noti ni isasaka mo kiki tamahu koto ara m ni, turenaku te ari si yo."
2.4.3  と思しあはせむも、いみじう恥づかしければ、また臥したまひぬ。
 とお思い当たられるのも、ひどく恥ずかしいので、再び臥せっておしまいになった。
 と今日の自分が思われることであろうとお考えになると、非常に恥ずかしくおなりになり、宮はまた横になっておしまいになって、
  to obosi ahase m mo, imiziu hadukasikere ba, mata husi tamahi nu.
2.4.4  「 心地のいみじう悩ましきかな。やがて 直らぬさまにもありなむいとめやすかりぬべくこそ。脚の気の上りたる心地す」
 「気分がひどく悩ましいわ。このまま治らなくなったら、とてもいい都合だろう。脚の気が上がった気がする」
 「私はどうも気分がよくない。このまま病気になって死んでしまうのはいいことだけれどね、あしからのぼせ上がってきたようだから」
  "Kokoti no imiziu nayamasiki kana! Yagate nahora nu sama ni mo ari na m, ito meyasukari nu beku koso. Asinoke no nobori taru kokoti su."
2.4.5  と、押し下させたまふ。 ものをいと苦しう、さまざまに思すには、気ぞ上がりける
 と、脚を指圧させなさる。心配事をとてもつらく、あれこれ気にしていらっしゃる時には、気が上がるのであった。
 とお言いになり、宮は脚をおませになった。あまり物思いをあそばすためにおのぼせになったのである。
  to, osi-kudasa se tamahu. Mono wo ito kurusiu, samazama ni obosu ni ha, ke zo agari keru.
2.4.6  少将、
 小少将の君は、

  Seusyau,
2.4.7  「 上に、この御ことほのめかし聞こえける人こそはべけれ。 いかなりしことぞ、と問はせたまひつれば、ありのままに聞こえさせて、御障子の固めばかりをなむ、すこしこと添へて、けざやかに聞こえさせつる。もし、さやうにかすめきこえさせたまはば、同じさまに聞こえさせたまへ」
 「母上に、あの御事をそれとなく申し上げた人がいたようでございます。どのような事であったのかと、お尋ねあそばしたので、ありのままに申し上げて、御襖障子の掛金の点だけを、少し誇張して、はっきりと申し上げました。もし、そのように何かお尋ねなさいましたら、同じように申し上げなさいまし」
 「御息所に昨晩のことをほのめかしてお話しした人があったのでございますよ。ほんとうのことが聞きたいとお言いになるものでございますから、正直にお話しいたしましたが、お襖子からかみのことだけは少し誇張をいたしまして、しまいまで皆はあいたのでないように申し上げておきましたから、もしくわしいお話を聞こうとなさいましたら、私のと同じようにおっしゃってくださいまし」
  "Uhe ni, kono ohom-koto honomekasi kikoye keru hito koso habe' kere. Ikanari si koto zo, to toha se tamahi ture ba, ari no mama ni kikoye sase te, mi-sauzi no katame bakari wo nam, sukosi koto sohe te, kezayaka ni kikoyesase turu. Mosi, sayauni kasume kikoyesase tamaha ba, onazi sama ni kikoyesase tamahe."
2.4.8  と申す。
 と申し上げる。
 こう小少将が言った。
  to mausu.
2.4.9   嘆いたまへるけしきは聞こえ出でず。「 さればよ」と、いとわびしくて、ものものたまはぬ御枕より、雫ぞ落つる。
 お嘆きでいらっしゃる様子は申し上げない。「やはりそうであったか」と、とても悲しくて、何もおっしゃらない御枕もとから涙の雫がこぼれる。
 御息所が悲しんでいることは申さない。宮はそれでお呼びになったのであると、いっそうわびしい気におなりになり、何も仰せられなかったが、おまくらからしずくが落ちていた。
  Nagei tamahe ru kesiki ha kikoye ide zu. "Sarebayo!" to, ito wabisiku te, mono mo notamaha nu ohom-makura yori, siduku zo oturu.
2.4.10  「 このことにのみもあらず身の思はずになりそめしより いみじうものをのみ思はせたてまつること
 「このことだけでない、不本意な結婚をして以来、ひどくご心配をお掛け申していることよ」
 この問題だけではなく、自分の意志でなくした結婚からこの方、母に物思いばかりをさせる自分である
  "Kono koto ni nomi mo ara zu, mi no omoha zu ni nari some si yori, imiziu mono wo nomi omoha se tatematuru koto."
2.4.11  と、 生けるかひなく思ひ続けたまひて、「 この人は、かうても止まで、とかく言ひかかづらひ出でむも、わづらはしう、聞き苦しかるべう」、よろづに思す。「 まいて、いふかひなく人の言によりていかなる名を朽たさまし
 と、生きている甲斐もなくお思い続けなさって、「この方は、このまま引き下がることはなく、何かと言い寄ってくることも、厄介で聞き苦しいだろう」と、いろいろとお悩みになる。「まして、言いようもなく、相手の言葉に従ったらどんなに評判を落とすことになるだろう」
 と、宮は子としてのかいのないことを悲しんでおいでになって、あの大将もこのままで心をひるがえすことはせずに、いろいろと自分を苦しめるであろうことが煩わしい、それについて立つうわさもあろうと御煩悶はんもんをあそばした。弁明することのできない弱い女の自分は、無根のことでどんなに悪名をきせられることになるのであろう
  to, ike ru kahinaku omohi tuduke tamahi te, "Kono hito ha, kau te mo yama de, tokaku ihi kakadurahi ide m mo, wadurahasiu, kiki gurusikaru beu", yorodu ni obosu. "Maite, ihukahinaku, hito no koto ni yori te, ikanaru na wo kutasa masi."
2.4.12  など、すこし思し慰むる方はあれど、「 かばかりになりぬる高き人の、かくまでも、すずろに人に見ゆるやうはあらじかし」と、宿世憂く思し屈して、 夕つ方ぞ
 などと、多少はお気持ちの慰められる面もあるが、「内親王ほどにもなった高貴な人が、こんなにまでも、うかうかと男と会ってよいものであろうか」と、わが身の不運を悲しんで、夕方に、
 と、けがれのない自信は持っておいでになるのであるが、皇女に生まれた者があれほど異性と近くいて夜の何時間かを過ごしたというようなことはありうることでなく、あってよいわけのものでもないとお思いになることで、御自身の運命がお悲しまれになり、憂鬱ゆううつにされておいでになったが、夕方にまた、
  nado, sukosi obosi nagusamuru kata ha are do, "Kabakari ni nari nuru takaki hito no, kaku made mo, suzuroni hito ni miyuru yau ha ara zi kasi." to, sukuse uku obosi kussi te, yuhutukata zo,
2.4.13  「 なほ、渡らせたまへ
 「やはり、お出で下さい」
 「ぜひおいでなさいますように」
  "Naho, watara se tamahe."
2.4.14  とあれば、 中の塗籠の戸開けあはせて、渡りたまへる。
 とあるので、中の塗籠の戸を両方を開けて、お越しになった。
 と、御息所のほうから言って来たので、間にある座敷倉の戸を、向こうとこちらと両方であけて宮は御息所の東の病室へおいでになった。
  to are ba, naka no nurigome no to ake ahase te, watari tamahe ru.
注釈257濡れまろがれたる連体中止法。以下にも「ほころびたる」も連体中止法。助詞を省略した間合をもたせる余意余情表現である。2.4.1
注釈258御衣ほころびたる『完訳』は「夕霧に引っぱられて綻びていた」と注す。2.4.1
注釈259この人びともいかに思ふらむ以下「つれなくてありしよ」まで、落葉宮の心中。2.4.2
注釈260まだえ知りたまはで主語は母御息所。2.4.2
注釈261心地のいみじう悩ましきかな以下「上りたる心地す」まで、落葉宮の詞。2.4.4
注釈262直らぬさまにもありなむ「なり」動詞、連用形に、完了の助動詞「な」確述の意と推量の助動詞「む」、推量の意が付いて、強い推量の意を表す。以下の文の主語になっている。2.4.4
注釈263いとめやすかりぬべくこそ係助詞「こそ」の下に「あれ」已然形、などの語句が省略された形。強い意志を表す。『集成』は「何もかも好都合というものです」。『完訳』は「そのほうがいやな噂も立たず見苦しいこともなかろうに」と訳す。2.4.4
注釈264ものをいと苦しう、さまざまに思すには、気ぞ上がりける『万水一露』は「双紙の地也」と指摘。2.4.5
注釈265上にこの御こと以下「同じさまに聞こえさせたまへ」まで、小少将の君の詞。2.4.7
注釈266いかなりしことぞと問はせたまひつれば主語は御息所。2.4.7
注釈267嘆いたまへるけしきは御息所が。2.4.9
注釈268さればよと落葉宮の心中。2.4.9
注釈269このことにのみもあらず以下「思はせたてまつること」まで、落葉宮の心中。『完訳』は「以下、不本意なわが身を柏木との過往に遡って思念」と注す。2.4.10
注釈270身の思はずになりそめしより柏木との不本意な結婚をさす。2.4.10
注釈271いみじうものをのみ思はせたてまつること母御息所に対して。2.4.10
注釈272生けるかひなく思ひ続けたまひて『源注余滴』は「ねぬなはの苦しかるらむ人よりも我ぞ益田の生けるかひなき」(拾遺集恋四、八九四、読人しらず)を指摘。2.4.11
注釈273この人は夕霧をさす。以下「聞き苦しかるべう」まで、落葉宮の心中。ただし、その引用句はなく、地の文に続く。2.4.11
注釈274まいていふかひなく以下「いかなる名を朽たさまし」まで、落葉の宮の心中。『完訳』「実事がなくともこんなにつらいのだから、まして、意気地なく夕霧の言いなりになっていたら」と注す。2.4.11
注釈275人の言によりて「人」は夕霧。接続助詞「て」順接、下文の反実仮想の助動詞「まし」と呼応して、仮定の意を含む。2.4.11
注釈276いかなる名を朽たさまし『完訳』は「「まし」に注意。夕霧の言葉に従わずによかったとするが、実は法師たちの噂にのぼされている」と注す。2.4.11
注釈277かばかりになりぬる高き人の以下「人に見ゆるやうはあらじかし」まで、落葉宮の心中。「かばかりになりぬる貴き人」とは皇女の意。2.4.12
注釈278夕つ方ぞ係助詞「ぞ」は「渡りたまへる」に係る。2.4.12
注釈279なほ渡らせたまへ御息所からの消息。2.4.13
注釈280中の塗籠の戸開けあはせて『完訳』は「女房や僧などの目を避けるべく、この塗籠を通り抜けるか」と注す。2.4.14
校訂6 身の 身の--身(身/+の) 2.4.10
2.5
第五段 御息所の嘆き


2-5  Miyasumdokoro sighs for grief

2.5.1   苦しき御心地にも、なのめならずかしこまりかしづききこえたまふ。常の御作法あやまたず、起き上がりたまうて、
 苦しいご気分ながら、並々ならずかしこまって丁重にご応対申し上げなさる。いつものご作法と違わず、起き上がりなさって、
 病苦がありながらも御息所はうやうやしく宮をお取り扱いした。平生の作法どおりに起き上がってもいた。
  Kurusiki mi-kokoti ni mo, nanome nara zu kasikomari kasiduki kikoye tamahu. Tune no ohom-sahohu ayamata zu, okiagari tamau te,
2.5.2  「 いと乱りがはしげにはべれば、渡らせたまふも 心苦しうてなむ。この二、三日ばかり見たてまつらざりけるほどの、年月の心地するも、かつはいと はかなくなむ後、かならずしも、対面のはべるべきにもはべらざめりまためぐり参るとも、かひやははべるべき
 「とても見苦しい有様でおりますので、お越し頂くにもお気の毒に存じます。ここ二、三日ほど、拝見しませんでした期間が、年月がたったような気がし、また一方では心細い気がします。後の世で、必ずしもお会いできるとも限らないもののようでございます。再びこの世に生まれて参っても、何にもならないことでございましょう。
 「だらしなくいたしているのでございますから、お迎えいたしますことも心が引けてなりません。ただ二、三日だけお目にかからなかったのでございますのを、何年もおいすることのできなかったほど寂しく思われますのも味気ないことでございます。親子の縁では未来で必然的にお逢いできますともきまらないのでございますからね。もう一度生まれてまいりましてもだめなのでございますのに、
  "Ito midarigahasige ni habere ba, watara se tamahu mo kokorogurusiu te nam. Kono hutuka, mika bakari mi tatematura zari keru hodo no, tosituki no kokoti suru mo, katuha ito hakanaku nam. Noti, kanarazusimo, taime no haberu beki ni mo habera za' meri. Mata meguri mawiru tomo, kahi ya ha haberu beki.
2.5.3  思へば、 ただ時の間に隔たりぬべき世の中をあながちにならひはべりにけるも悔しきまでなむ
 考えてみれば、ただ一瞬一瞬の間に別れ別れにならねばならない世の中を、無理に馴れ親しんでまいりましたのも、悔しい気がします」
 考えますれば瞬間で永遠の別れになりますわれわれがあまりに愛し過ぎて暮らしましたのが、後悔いたされます」
  Omohe ba, tada toki no ma ni hedatari nu beki yononaka wo, anagatini narahi haberi ni keru mo, kuyasiki made nam."
2.5.4  など泣きたまふ。
 などとお泣きになる。
 などと、御息所は泣くのであった。
  nado naki tamahu.
2.5.5  宮も、もののみ悲しう取り集め思さるれば、聞こえたまふこともなくて見たてまつりたまふ。 ものづつみをいたうしたまふ本性に、際々しうのたまひさはやぐべきにもあらねば、恥づかしとのみ思すに、いといとほしうて、いかなりしなども、 問ひきこえたまはず
 宮も、物悲しい思いばかりがせられて、申し上げる言葉もなくてただ拝見なさっている。ひどく内気なご性格で、はきはきと弁明をなさるような方ではないから、恥ずかしいとばかりお思いなので、とてもお気の毒になって、どのような事であったのですかなどと、お尋ね申し上げなさらない。
 宮もいろいろなことがお心にあってお悲しい時で、何もお言いになることができずに、ただ母君の顔をながめておいでになった。非常にお内気で思うことをはきはきとお告げになることもおできにならずに、恥ずかしいお様子ばかりのお見えになるのがおかわいそうで、御息所は昨日のことをお尋ねすることもできない。
  Miya mo, mono nomi kanasiu toriatume obosa rure ba, kikoye tamahu koto mo naku te mi tatematuri tamahu. Mono-dutumi wo itau si tamahu honzyau ni, kihagihasiu notamahi sahayagu beki ni mo ara ne ba, hadukasi to nomi obosu ni, ito itohosiu te, ikanari si nado mo, tohi kikoye tamaha zu.
2.5.6  大殿油など急ぎ参らせて、御台など、こなたにて参らせたまふ。もの聞こし召さずと聞きたまひて、 とかう手づからまかなひ直しなどしたまへど、触れたまふべくもあらず。 ただ御心地のよろしう見えたまふぞ、胸すこしあけたまふ
 大殿油などを急いで灯させて、お膳など、こちらで差し上げなさる。何も召し上がらないとお聞きになって、あれこれと自分自身で食事を整え直しなさるが、箸もおつけにならない。ただご気分がよろしくお見えなので、少し胸がほっとなさる。
 を早くつけさせてお夕食などもこちらで差し上げさせることに御息所はした。今朝から何も召し上がらないことを御息所は聞いて、ある物は自身で料理をし変えさせることを命じまでしてお勧めするのであるが、宮は御はしをお触れになる気にもおなりになれなかった。ただ母君の容体がよさそうである点だけで少しの慰めを得ておいでになった。
  Ohotonabura nado isogi mawira se te, mi-dai nado, konata nite mawirase tamahu. Mono kikosi mesa zu to kiki tamahi te, tokau tedukara makanahi nahosi nado si tamahe do, hure tamahu beku mo ara zu. Tada mi-kokoti no yorosiu miye tamahu zo, mune sukosi ake tamahu.
注釈281苦しき御心地にもなのめならずかしこまりかしづききこえたまふ主語は御息所。母が娘の皇女に対して礼儀を尽くす態度。2.5.1
注釈282いと乱りがはしげにはべれば以下「悔しきまでなむ」まで、御息所の詞。2.5.2
注釈283心苦しうてなむ係助詞「なむ」の下に「はべる」などの語句が省略。2.5.2
注釈284はかなくなむ係助詞「なむ」の下に「はべる」などの語句が省略。2.5.2
注釈285後かならずしも対面のはべるべきにもはべらざめり「後」は、来世。親子は一世の縁という。『河海抄』は「一世には二たび見えぬ父母を置きてや長く吾が別れなむ」(万葉集巻五、八九一)を引歌として指摘。2.5.2
注釈286まためぐり参るともかひやははべるべき仏教の輪廻転生の考え。反語表現。『集成』は「もう一度この世に生を享けましても、何にもならぬことでございます。お互い顔も見知らぬであろうからである」と注す。『源注拾遺』は「契りありて此の世にまたも生まるとも面変はりして見もや忘れむ」(後拾遺集哀傷、五六六、藤原実方)を引歌として指摘。2.5.2
注釈287ただ時の間に隔たりぬべき世の中を『集成』は「思えば、ほんの一時のうちに別れ別れにならねばならない無常迅速のこの世ですのに、それを勝手についつい親子の情にほだされてきましたのも、今となってはくやまれるほどでございます」と訳す。2.5.3
注釈288あながちにならひはべりにけるも『休聞抄』は「思ふとていとこそ人に馴れざらめしか習ひてぞ見ねば恋しき」(拾遺集恋四、九〇〇、読人しらず)を引歌として指摘。2.5.3
注釈289悔しきまでなむ係助詞「なむ」の下に「思ふ」などの語句が省略。2.5.3
注釈290ものづつみをいたうしたまふ本性に際々しうのたまひさはやぐべきにもあらねば落葉宮の性格。『完訳』は「宮の遠慮深く寡黙な性分。ここで宮が夕霧との一件を弁明せず、御息所も不憫さから何も尋ねない」と注す。2.5.5
注釈291問ひきこえたまはず主語は御息所。御息所の誤解思い込みは解消されないまま、母と娘の間の気まずさは続く。2.5.5
注釈292とかう手づからまかなひ直しなどしたまへど主語は御息所。病床から起き上がって礼儀を尽くしていた御息所が自ら宮に食事の給仕をする。2.5.6
注釈293ただ御心地のよろしう見えたまふぞ胸すこしあけたまふ御息所のご気分がよく見えたので、宮はわずかほっとなさる、というさま。2.5.6
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渋谷栄一校訂(C)
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渋谷栄一注釈(C)
Last updated 1/31/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
柳沢成雄(青空文庫)

2003年5月16日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年7月20日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
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