第三十九帖 夕霧


39 YUHUGIRI (Ohoshima-bon)


光る源氏の准太上天皇時代
五十歳秋から冬までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from fall to winter, at the age of 50

3
第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸


3  Tale of Miyasumdokoro  A misfortune of crossed letter

3.1
第一段 御息所、夕霧に返書


3-1  Miyasumdokoro replies a letter to Yugiri

3.1.1  かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも取り入れて、
 あちらからまたお手紙がある。事情を知らない女房が受け取って、
 夕霧の大将からまた手紙が来た。事情を知らない女房が使いから受け取って、
  Kasiko yori mata ohom-humi ari. Kokorosira nu hito simo toriire te,
3.1.2  「 大将殿より、少将の君にとて、御使ひあり
 「大将殿から、少将の君にと言って、お使者があります」
 「大将さんから少将さんにというお手紙がまいりました」
  "Daisyau-dono yori, Seusyau-no-Kimi ni tote, ohom-tukahi ari."
3.1.3  と言ふぞ、 またわびしきや。少将、御文は取りつ。御息所、
 と言うのが、また辛いことであるよ。少将の君は、お手紙は受け取った。母御息所が、
 と、この座敷で披露ひろうしたことは、宮のお心をさらに苦しくさせたことであった。少将はすぐにそれを手もとへ取ってしまった。
  to ihu zo, mata wabisiki ya! Seusyau, ohom-humi ha tori tu. Miyasumdokoro,
3.1.4  「 いかなる御文にか
 「どのようなお手紙ですか」
 「どんなお手紙」
  "Ikanaru ohom-humi ni ka?"
3.1.5  と、 さすがに問ひたまふ人知れず思し弱る心も添ひて、下に待ちきこえたまひけるに、さもあらぬなめりと思ほすも 、心騷ぎして、
 と、やはりお尋ねになる。人知れず弱気な考えも起こって、内心はお待ち申し上げていらしたのに、いらっしゃらないようだとお思いになると、胸騷ぎがして、
 と、今までそのことに一言も触れなかった御息所も問うた。反抗的になっていた御息所の心も、何時間かのうちに弱くなり、人知れず大将の今夜の来訪を待っていたのであるから、手紙が来るのは自身で来ぬことであろうと胸が騒いだのである。
  to, sasuga ni tohi tamahu. Hito sire zu obosi yowaru kokoro mo sohi te, sita ni mati kikoye tamahi keru ni, samo ara nu na' meri to omohosu mo, kokorosawagi si te,
3.1.6  「 いで、その御文、なほ聞こえたまへ。あいなし。人の御名を善さまに言ひ直す人は難きものなり。そこに心きよう思すとも、しか用ゐる人は少なくこそあらめ。心うつくしきやうに聞こえ通ひたまひて、なほありしままならむこそ良からめ。 あいなき甘えたるさまなるべし
 「さあ、そのお手紙には、やはりお返事をなさい。失礼ですよ。一度立った噂を良いほうに言い直してくれる人はいないものです。あなただけ潔白だとお思いになっても、そのまま信用してくれる人は少ないものです。素直にお手紙のやりとりをなさって、やはり以前と同様なのが良いことでしょう。いいかげんな馴れ過ぎた態度というものでしょう」
 「およこしになった手紙のお返事はなさいまし、しかたがございません。一度立てた名を取り消すような評判はだれがしてくれましょう。きれいな御自信はおありになっても、だれがそれを認めてくれましょう。素直にお返事もあそばして、冷淡になさらないほうがよろしゅうございます。わがままな性格だと思われてはなりません」
  "Ide, sono ohom-humi, naho kikoye tamahe. Ainasi. Hito no ohom-na wo yosama ni ihinahosu hito ha kataki mono nari. Soko ni kokoro kiyou obosu tomo, sika motiwiru hito ha sukunaku koso ara me. Kokoroutukusiki yau ni kikoye kayohi tamahi te, naho arisi mama nara m koso yokara me. Ainaki amaye taru sama naru besi."
3.1.7  とて、 召し寄す。苦しけれどたてまつりつ。
 とおっしゃって、取り寄せなさる。辛いけれども差し上げた。
 宮に申し上げて、御息所みやすどころは手紙を少将から受け取ろうとした。少将は心に当惑をしながらも渡すよりほかはなかった。
  tote, mesiyosu. Kurusikere do tatematuri tu.
3.1.8  「 あさましき御心のほどを見たてまつり表いてこそ、なかなか心やすく、ひたぶる心もつきはべりぬべけれ。
 「驚くほど冷淡なお心をはっきり拝見しては、かえって気楽になって、一途な気持ちになってしまいそうです。
  冷ややかなお心を知りましたことによってかえっておさえがたいものに私の恋はなっていきそうです。
  "Asamasiki mi-kokoro no hodo wo mi tatematuri arahai te koso, nakanaka kokoroyasuku, hitaburu kokoro mo tuki haberi nu bekere.
3.1.9    せくからに浅さぞ見えむ山川の
   流れての名をつつみ果てずは
 拒むゆえに浅いお心が見えましょう
  山川の流れのように浮名は包みきれませんから
  せくからに浅くぞ見えん山河やまかは
  流れての名をつつみはてずば
    Seku kara ni asasa zo miye m yamagaha no
    nagare te no na wo tutumi hate zu ha
3.1.10  と言葉も多かれど、見も果てたまはず。
 と言葉も多いが、最後まで御覧にならない。
 まだいろいろに書かれてある手紙であったが、御息所は終わりまでを読まなかった。
  to kotoba mo ohokare do, mi mo hate tamaha zu.
3.1.11  この御文も、けざやかなるけしきにもあらで、めざましげに心地よ顔に、 今宵つれなきを、いといみじと思す。
 このお手紙も、はっきりした態度でもなく、いかにも癪に障るようないい気な調子で、今夜訪れないのを、とてもひどいとお思いになる。
 この手紙も宮との関係を明瞭めいりょうに説明したものでなくて恋人の冷ややかであったことにこうしてむくいるというように、今夜も来ない大将の態度を御息所は悲しんだ。
  Kono ohom-humi mo, kezayaka naru kesiki ni mo ara de, mezamasige ni kokotiyo-gaho ni, koyohi turenaki wo, ito imizi to obosu.
3.1.12  「 故督の君の御心ざまの思はずなりし時、いと憂しと思ひしかど、おほかたのもてなしは、また並ぶ人なかりしかば、 こなたに力ある心地して慰めしだに、世には心もゆかざりしを。あな、いみじや。大殿のわたりに思ひのたまはむこと」
 「故衛門督君が心外に思われた時、とても情けないと思ったが、表向きの待遇は、またとなく大事に扱われたので、こちらに権威のある気がして慰めていたのでさえ、満足ではなかったのに。ああ、何ということであろう。大殿のあたりでどうお思いになりおっしゃっていることだろうか」
 柏木かしわぎが宮にお持ちする愛情のこまやかでないのを知った時に、御息所は悲観したものであるが、ただ一人の妻として形式的には鄭重ていちょうをきわめたお取り扱いを故人がしたことで、強みのある気がして慰められはした。それでも心から御息所は宮が御幸福におなりになったとは思わなかった。それさえもそうであったのに、今度のことは何たる悲しいことであろう。太政大臣家での取り沙汰ざたは想像するだにいやである
  "Ko-Kam-no-Kimi no mi-kokorozama no omoha zu nari si toki, ito usi to omohi sika do, ohokata no motenasi ha, mata narabu hito nakari sika ba, konata ni tikara aru kokoti si te nagusame si dani, yo ni ha kokoro mo yuka zari si wo. Ana, imizi ya! Ohotono no watari ni omohi notamaha m koto."
3.1.13  と思ひしみたまふ。
 と心をお痛めになる。
 と御息所は思うのである。
  to omohi simi tamahu.
3.1.14  「 なほ、いかがのたまふと、けしきをだに見む」と、心地のかき乱り くるるやうにしたまふ目、おし絞りて、あやしき鳥の跡のやうに書きたまふ。
 「やはり、どのようにおっしゃるかと、せめて様子を窺ってみよう」と、気分がひどく悪く涙でかき曇ったような目、おし開けて、見にくい鳥の足跡のような字でお書きになる。
 なおどう大将が言ってくるかと見たい心から、非常に苦しい身体からだの調子であるのを忍んで、目を無理にあけるようにもして書いた力のない、鳥の足跡のような字で返事をするのであった。
  "Naho, ikaga notamahu to, kesiki wo dani mi m." to, kokoti no kaki-midari kururu yau ni si tamahu me, osi-sibori te, ayasiki tori no ato no yau ni kaki tamahu.
3.1.15  「 頼もしげなくなりにてはべる、訪らひに 渡りたまへる折にて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへわづらひてなむ。
 「すっかり弱ってしまった、お見舞いにお越しになった折なので、お勧め申したのですが、まことに沈んだような様子でいらっしゃるようなので、見兼ねまして。
 もう私はなおる見込みもなくなりました。宮様はただ今こちらへ見舞いに来ておいでになるのでございまして、お勧めをしてみましたが、めいったふうになっておいでになりまして、お返事もお書けにならないようでございますから、私が見かねまして、
  "Tanomosige naku nari ni te haberu, toburahi ni watari tamahe ru wori nite, sosonokasi kikoyure do, ito harebaresikara nu sama ni monosi tamahu mere ba, mi tamahe wadurahi te nam.
3.1.16    女郎花萎るる野辺をいづことて
   一夜ばかりの宿を借りけむ
 女郎花が萎れている野辺をどういうおつもりで
  一夜だけの宿をお借りになったのでしょう
  女郎花をみなへししをるる野辺をいづくとて
  一夜ばかりの宿を借りけん
    Wominahesi siworuru nobe wo iduko tote
    hitoyo bakari no yado wo kari kem
3.1.17  と、ただ書きさして、おしひねりて出だしたまひて、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまふ。 御もののけのたゆめけるにやと、人びと言ひ騒ぐ。
 と、ただ途中まで書いて、捻り文にしてお出しなさって、臥せっておしまいになったまま、とてもお苦しがりなさる。御物の怪が油断させていたのかと、女房たちは騒ぐ。
 こう書きさしただけで紙を巻いて出した。そのまままた病床に横たわった御息所ははなはだしく苦しみだした。物怪もののけが油断をさせようと一時的に軽快ならしめていたのかと女房たちは騒ぎだした。
  to, tada kaki sasi te, osi-hineri te idasi tamahi te, husi tamahi nuru mama ni, ito itaku kurusigari tamahu. Ohom-mononoke no tayume keru ni ya to, hitobito ihi sawagu.
3.1.18  例の、験ある限り、いと騒がしうののしる。宮をば、
 いつもの、効験のある僧すべてが、とても大声を出して祈祷する。宮に、
 効験のいちじるしい僧が皆呼び集められて、病室は混雑していた。あちらへお帰りになるように女房たちはお勧めするのであるが、宮は
  Rei no, gen aru kagiri, ito sawagasiu nonosiru. Miya wo ba,
3.1.19  「 なほ、渡らせたまひね
 「やはり、あちらにお移りあそばせ」
 御自身をお悲しみになる心から、いっしょに死のう
  "Naho, watara se tamahi ne."
3.1.20  と、人びと聞こゆれど、 御身の憂きままに、後れきこえじと思せば、つと添ひたまへり。
 と、女房たちが申し上げるが、ご自身が辛く思うと同時に、後れ申すまいとお思いなので、ぴったりと付き添っていらっしゃった。
 と思召して母君からお離れにならないのであった。
  to, hitobito kikoyure do, ohom-mi no uki mama ni, okure kikoye zi to obose ba, tuto sohi tamahe ri.
注釈294大将殿より少将の君にとて御使ひあり大島本は「御つかひ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御文」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。女房の取り次ぎの詞。3.1.2
注釈295またわびしきや『集成』は「宮の思いを直接地の文として書く」。『完訳』は「宮や小少将の立場に即した語り手の感想」と注す。3.1.3
注釈296いかなる御文にか御息所の詞。3.1.4
注釈297さすがに問ひたまふ前に「いかなりしなども問ひきこえたまはず」を受けて、そうは言ってもやはり気がかりで、という文脈。『完訳』は「二人の実事を確信する御息所は、その結婚を不本意としながらも、結ばれた上は夕霧が今夜も来るのを当然と考え、手紙だけ来たのを不審に思う」と注す。3.1.5
注釈298人知れず思し弱る心も添ひて下に待ちきこえたまひけるにさもあらぬなめりと思ほすも主語は御息所。『集成』は「御息所は、ひそかに、宮を夕霧に許そうと、折れる気持にもなっていられて。事ここに及んでは止むを得ないという気持になっていたのである」と注す。3.1.5
注釈299いでその御文以下「甘えたるさまなるべし」まで、御息所の詞。3.1.6
注釈300あいなき甘えたるさまなるべしこの文の前に、返事をしないのは、という内容が略されている。前文の「こそよからめ」という係結びの構文が、逆接的文脈のニュアンスを介在させるので、このような言い方になっている。3.1.6
注釈301召し寄す夕霧からの手紙を。3.1.7
注釈302あさましき御心のほどを以下、和歌の末尾「つつみ果てずは」まで、夕霧の消息文。3.1.8
注釈303せくからに浅さぞ見えむ山川の--流れての名をつつみ果てずは「塞く」「浅さ」「流れ」が「山川」の縁語。3.1.9
注釈304今宵つれなきを今夜の訪問のないのを、の意。3.1.11
注釈305故督の君の以下「思ひのたまはむこと」まで、御息所の心中。3.1.12
注釈306こなたに力ある心地して慰めしだに『完訳』は「皇女で正妻ゆえの強みがある気がして慰めた、それでさえけっして満足できなかった」と注す。3.1.12
注釈307なほいかがのたまふとけしきをだに見む御息所の心中。3.1.14
注釈308くるるやうにしたまふ目おし絞りて「したまふ」は連体形で下の「目」を修飾する。3.1.14
注釈309頼もしげなく以下、和歌の末尾「宿を借りけむ」まで、御息所の返書。3.1.15
注釈310渡りたまへる主語は、落葉宮。3.1.15
注釈311女郎花萎るる野辺をいづことて--一夜ばかりの宿を借りけむ『河海抄』は「秋の野に狩りぞ暮れぬる女郎花今宵ばかりの宿もかさなむ」(古今六帖二、小鷹狩)を指摘。「女郎花」を宮に、「野辺」を小野山荘に喩える。『集成』は「今宵の訪れのないのを責めた歌であるが、同時に、母親として娘を許すという意志表示にもなっている」。『完訳』は「二人の結婚を前提に夕霧の訪れぬのをなじる歌」と注す。3.1.16
注釈312御もののけのたゆめけるにや女房の詞。今まで御息所の気分が良かったのは、の意が省略されている。3.1.17
注釈313なほ渡らせたまひね女房の詞。物の怪が落葉の宮に移らないように。3.1.19
注釈314御身の憂きままに副詞「ままに」。--につれての意と、--と同時にの意があるが、ここは後者の意であろう。『集成』は「情けなさを思うあまり」。『完訳』は「情けなさにつけても」と訳す。3.1.20
校訂7 きこえたまひ きこえたまひ--きこえ(え/+給<朱>) 3.1.5
3.2
第二段 雲居雁、手紙を奪う


3-2  Kumoinokari takes the letter from Yugiri's hands

3.2.1  大将殿は、この昼つ方、 三条殿におはしにける今宵立ち返り参でたまはむに、「ことしもあり顔に、まだきに聞き苦しかるべし」など念じたまひて、いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、 千重にもの思ひ重ねて 嘆きたまふ。
 大将殿は、この昼頃に、三条殿にいらっしゃったが、今晩再び小野にお伺いなさるのに、「何かわけがありそうで、まだ何もないのに外聞が悪かろう」などと気持ちをお抑えになって、ほんとにかえって今までの気がかりさよりも、幾重にも物思いを重ねて嘆息していらっしゃる。
 夕霧はこの日の昼ごろから三条の家にいた。今夜また小野の山荘へ行くことは、まだない事実をあることらしく人に思わせるだけで、自分のためにはよい結果をもたらすことでないと行きたい心をしいておさえることに努力していたが、これまで恋しくお思いしていたことは物の数でもないほどに昨日からにわかに千倍した恋に苦しむ大将であった。
  Daisyau-dono ha, kono hirutukata, Samdeudono ni ohasi ni keru, koyohi tati-kaheri made tamaha m ni, "Koto simo arigaho ni, madaki ni kiki kurusikaru besi." nado nenzi tamahi te, ito nakanaka tosigoro no kokoromotonasa yori mo, tihe ni mono omohi kasane te nageki tamahu.
3.2.2  北の方は、かかる御ありきのけしきほの聞きて、心やましと聞きゐたまへるに、知らぬやうにて、君達もて遊び紛らはしつつ、わが 昼の御座に臥したまへり
 北の方は、このようなお忍び歩きの様子をちらっと聞いて、面白くなく思っていらっしゃるので、知らないふりをして、若君たちをあやして気を紛らしながら、ご自分の昼のご座所で臥していらっしゃった。
 夫人は山荘の昨日の訪問の様子をほかから聞き出して不快がっていたのであるが、知らぬ顔をして子供の相手をしながら自身の昼の居間のほうで横になっていた。
  Kitanokata ha, kakaru ohom-ariki no kesiki hono-kiki te, kokoroyamasi to kiki wi tamahe ru ni, sira nu yau nite, Kimdati moteasobi magirahasi tutu, waga hiru no omasi ni husi tamahe ri.
3.2.3  宵過ぐるほどにぞ、 この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、大殿油近う取り寄せて見たまふ。 女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、 はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ
 ちょうど宵過ぎるころに、このお返事を持って参ったが、このようにいつもと違った鳥の足跡のような筆跡なので、直ぐにはご判読できないで、大殿油を近くに取り寄せて御覧になる。女君、物を隔てていたようであるが、とてもすばやくお見つけになって、這い寄って、殿の後ろから取り上げなさなった。
 八時過ぎに小野の山荘で書いた御息所の返事は大将の所へ持って来られたのであるが、大病人の書いた鳥の跡は一度見たのではわかりにくい。夕霧がを近くへ持って来させてさらに丁寧に読もうとしている時に、あちらにいたのであるが夫人はそれを見つけて、そっと寄って来て後ろから奪ってしまった。夕霧はあきれて、
  Yohi suguru hodo ni zo, kono ohom-kaheri mote-mawire ru wo, kaku rei ni mo ara nu tori no ato no yau nare ba, tomini mo mi toki tamaha de, ohotonabura tikau toriyose te mi tamahu. WomnaGimi, mono hedate taru yau nare do, ito toku mituke tamau te, hahiyori te, ohom-usiro yori tori tamau tu.
3.2.4  「 あさましう。こは、いかにしたまふぞ。あな、けしからず。 六条の東の上の御文なり。今朝、風邪おこりて悩ましげにしたまへるを、 院の御前にはべりて、出でつるほど、またも参うでずなりぬれば、いとほしさに、 今の間いかにと、聞こえたりつるなり。見たまへよ、懸想びたる文のさまか。さても、なほなほしの御さまや。年月に添へて、いたうあなづりたまふこそうれたけれ。 思はむところを、むげに恥ぢたまはぬよ
 「あきれたことを。これは、何をなさるのですか。何と、けしからん。六条の東の上様のお手紙です。今朝、風邪をひいて苦しそうでいらっしゃったが、院の御前におりまして、帰る時に、もう一度伺わないままになってしまったので、お気の毒に思って、ただ今の加減はいかかがですかと、申し上げたのです。御覧なさい。恋文めいた手紙の様子ですか。それにしても、はしたないなさりようです。年月とともに、ひどく馬鹿になさるのが情けないことです。どう思うか、全く気になさらないのですね」
 「どうするのですか。けしからんじゃありませんか。六条の東のお母様のお手紙ですよ。今朝から風邪かぜでお悪かったから、院の御殿へ伺ったままでこちらへ帰って来て、もう一度おたずねすることをしなかったのがお気の毒だったから、御様子を聞く手紙を持たせてやったのじゃありませんか。御覧なさい、恋の手紙というような書き方ですか、これは。はしたない下品なことをするじゃありませんか。年月に添って私をあなどることがひどくなるのは困ったものだ。女房たちがどう思うかを少しも考慮に入れないのですね」
  "Asamasiu! Koha, ikani si tamahu zo. Ana, kesikara zu. Rokudeu no Himgasi-no-Uhe no ohom-humi nari. Kesa, kaze okori te nayamasige ni si tamahe ru wo, Win no omahe ni haberi te, ide turu hodo, mata mo maude zu nari nure ba, itohosisa ni, ima no ma ikani to, kikoye tari turu nari. Mi tamahe yo, kesaubi taru humi no sama ka? Sate mo, nahonahosi no ohom-sama ya! Tosituki ni sohe te, itau anaduri tamahu koso uretakere. Omoha m tokoro wo, mugeni hadi tamaha nu yo."
3.2.5  とうちうめきて、惜しみ顔にもひこしろひたまはねば、 さすがに、ふとも見で持たまへり。
 と慨嘆して、大切そうに無理に取り返そうとなさらないので、それでもやはり、すぐには見ずに持ったままでいらっしゃった。
 と言って歎息たんそくはしたが、惜しそうにしてしいて夫人の手から取り上げることはしなかったから、雲井くもいかり夫人もさすがにこの場で読むこともできずにじっと持っていた。
  to uti-umeki te, wosimi gaho ni mo hikosirohi tamaha ne ba, sasugani, huto mo mi de mo' tamahe ri.
3.2.6  「 年月に添ふるあなづらはしさは、御心ならひなべかめり
 「年月につれて馬鹿になさるのは、あなたのほうこそそうでございますわ」
 「年月に添って侮るなどとは、あなた御自身がそうでいらっしゃるから、私のことまでも臆測おくそくなさるのよ」
  "Tosituki ni sohuru anadurahasisa ha, mi-kokoronarahi na' beka' meri."
3.2.7  とばかり、 かくうるはしだちたまへるに憚りて、 若やかにをかしきさましてのたまへば、うち笑ひて、
 とだけ、このように泰然としていらっしゃる態度に気後れして、若々しくかわいらしい顔つきでおっしゃるので、ふとお笑いになって、
 夫人は良人おっとがあまりにまじめな顔をしているのに気おくれがして、若々しく甘えてみせた。夕霧は笑って、
  to bakari, kaku uruhasidati tamahe ru ni habakari te, wakayaka ni wokasiki sama si te notamahe ba, uti-warahi te,
3.2.8  「 そは、ともかくもあらむ。世の常のことなり。 またあらじかし、よろしうなりぬる男の、かく紛ふ方なく、一つ所を守らへて、 もの懼ぢしたる鳥の兄鷹やうのもののやうなるは。いかに人 笑ふらむ。 さるかたくなしき者に守られたまふは、御ためにもたけからずや。
 「それは、どちらでも良いことでしょう。夫婦とはそのようなものです。二人といないでしょうね、相当な地位に上った男が、このように気を紛らすことなく、一人の妻を守り続けて、びくびくしている雄鷹のような者はね。どんなに人が笑っているでしょう。そのような愚か者に守られていらっしゃるのは、あなたにとっても名誉なことではありますまい。
 「それはどちらのことでもいい。世間のどこにもあることだからね。けれどもこれだけはほかにないことですよ。相当な身分の男がただ一人の妻を愛して、何かにおそれているたかのように、じっと一所を見守っているようなのに似た私を、どんなに人が笑っていることだろう。そんな偏屈な男に愛されていることはあなたにとっても名誉じゃありませんよ。
  "Soha, tomokakumo ara m. Yo no tune no koto nari. Mata ara zi kasi, yorosiu nari nuru wonoko no, kaku magahu kata naku, hitotu tokoro wo mamorahe te, monoodi si taru tori no seu yau no mono no yau naru ha. Ikani hito warahu ram. Saru katakunasiki mono ni mamora re tamahu ha, ohom-tame ni mo takekara zu ya!
3.2.9   あまたが中に、なほ際まさり、ことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくく、 わが心地もなほ古りがたく、をかしきこともあはれなるすぢも絶えざらめ。かく 翁のなにがし守りけむやうに、おれ惑ひたれば、いとぞ口惜しき。いづこの栄えかあらむ」
 大勢の妻妾の中で、それでも一段と際立って、格別に重んじられていることが、世間の見る目も奥ゆかしく、わが気持ちとしてもいつまでも新鮮な感じがして、興をそそることもしみじみとしたことも続くでしょう。このように翁が何かを守ったように、愚かしく迷っているので、大変に残念なことです。どこに見栄えがありましょうか」
 おおぜいの妻妾さいしょうの中ですぐれて愛される人は、見ない人までもが尊敬を寄せるものだし、自分でも始終緊張していることができて、若々しい血はなくならないであろうし、真の生きがいを感じることが多いだろうと思われる。私のように、昔の何かの小説にある老いぼれの良人のようにあなた一人をただ夢中に愛しているようなことはあなたのために結構なことではありませんよ。そんなことはあなたが世間からはなやかに見られることでは少しもないからね」
  Amata ga naka ni, naho kiha masari, kotonaru kedime miye taru koso, yoso no oboye mo kokoronikuku, waga kokoti mo naho huri gataku, wokasiki koto mo ahare naru sudi mo taye zara me. Kaku okina no nanigasi mamori kem yau ni, ore madohi tare ba, ito zo kutiwosiki. Iduko no haye ka ara m."
3.2.10  と、さすがに、 この文のけしきなく をこつり取らむの心にて 、欺き申したまへば、いとにほひやかにうち笑ひて、
 と、そうはいっても、この手紙を欲しそうな態度を見せずにだまし取ろうとのつもりで、嘘を申し上げると、とても高かにお笑いになって、
 夕霧は小野の手紙をいざこざなしに取ってしまいたい心から妻を欺くと、夫人は派手はでに笑って、
  to, sasugani, kono humi no kesiki naku wokoturi tora m no kokoro nite, azamuki mausi tamahe ba, ito nihohiyaka ni uti-warahi te,
3.2.11  「 ものの映え映えしさ作り出でたまふほど古りぬる人苦しや。いと 今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなりにける事なれば、いとなむ苦しき。 かねてよりならはしたまはで
 「見栄えのある事をお作りになるので、年取ったわたしは辛いのです。とても若々しくなられたご様子がぞっとしてなりませんことも、今まで経験したことのない事なので、とても辛いのです。以前から馴れさせてお置きにならないで」
 「はなやかなことをあなたがしようとしていらっしゃるから、古いじみな女の私が一方で苦しんでいるのですよ。にわかにすっかりまじめでなくおなりになったのですもの、私にはそうした習慣がついていないのですから苦しくてなりません。初めからそうしておいでになればよかったのよ」
  "Mono no hayebayesisa tukuriide tamahu hodo, huri nuru hito kurusi ya! Ito imamekasiku nari kahare ru mi-kesiki no susamazisa mo, mi naraha zu nari ni keru koto nare ba, ito nam kurusiki. Kanete yori narahasi tamaha de."
3.2.12  とかこちたまふも、憎くもあらず。
 と文句をおっしゃるのも、憎くはない。
 と恨めしがる妻も憎くはなかった。
  to kakoti tamahu mo, nikuku mo ara zu.
3.2.13  「 にはかにと思すばかりには、何ごとか見ゆらむ。いとうたてある御心の隈かな。 よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき。あやしう、もとよりまろをば許さぬぞかし。なほ、 かの緑の袖の名残、あなづらはしきにことづけて、 もてなしたてまつらむと 思ふやうあるにや。いろいろ聞きにくきことどもほのめくめり。 あいなき人の御ためにも、いとほしう」
 「急にとお考えになる程に、どこが変わって見えるのでしょう。とても嫌なお心の隔てですね。良くないことを申し上げる女房がいるのでしょう。不思議と、昔からわたしのことを良く思っていないのです。依然として、あの緑の六位の袍の名残で、軽蔑しやすいことにつけて、あなたをうまく操ろうと思っているのではないでしょうか。いろいろと聞きにくいことをほのめかしているらしい。関わりのない方にとっても、お気の毒です」
 「にわかにとあなたが思うようなことが私のどこにあるのですか、あなたは疑い深いのですね。私を中傷する人があるのでしょう。そうした人たちは初めから私に敵意を見せていたものだ。浅葱あさぎの色の位階服が軽蔑けいべつすべきであった私を、今だってあなたの良人にさせておくのが残念で、何かほかの考えを持っている者などがあって、いろんなないうわさをあなたに聞かせるのだろう。一方で私のためにそうした濡衣ぬれぎぬを着せられておいでになる方もお気の毒なものだ」
  "Nihakani to obosu bakari ni ha, nanigoto ka miyu ram. Ito utate aru mi-kokoro no kuma kana! Yokara zu mono kikoye sirasuru hito zo aru beki. Ayasiu, motoyori maro wo ba yurusa nu zo kasi. Naho, kano midori no sode no nagori, anadurahasiki ni kotoduke te, motenasi tatematura m to omohu yau aru ni ya! Iroiro kikinikuki koto-domo honomeku meri. Ainaki hito no ohom-tame ni mo, itohosiu."
3.2.14  などのたまへど、 つひにあるべきことと思せば、ことにあらがはず。 大輔の乳母、いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。
 などとおっしゃるが、結局はそうなることだとお考えなので、特に言い争いはしない。大輔の乳母は、とても辛いと聞いて、何も申し上げない。
 などと言いながらも夕霧は、女二にょにみやの御良人となることも堅く期しているのであるから、深く弁明はしようとしないのであった。乳母めのと大輔たゆう気術きじゅつながって何も言おうとしなかった。
  nado notamahe do, tuhini aru beki koto to obose ba, koto ni aragaha zu. Taihu-no-Menoto, ito kurusi to kiki te, mono mo kikoye zu.
注釈315三条殿におはしにける連体中止法。間合が生きている。3.2.1
注釈316今宵立ち返り参でたまはむに小野山荘に行くことをさす。昨晩一泊した。今夜も行けば結婚の三日通いにとられる。以下「聞き苦しかるべし」まで、夕霧の心中に即した地の文。そのため敬語「たまふ」がある。3.2.1
注釈317千重にもの思ひ重ねて『源氏釈』は「心には千重に思へど人にいはぬ我が恋ひ妻を見むよしもがな」(古今六帖四、恋)を指摘。『源注余滴』は「和泉なる信太の森の楠の木の千重に別れて物をこそ思へ」(古今六帖二、森)を指摘。3.2.1
注釈318昼の御座に臥したまへり以下「御心ならひなべかめり」まで、国宝「源氏物語絵巻」詞書にある。3.2.2
注釈319この御返り持て参れるを母御息所が代筆した返書。「頼もしげなくなりにて」以下「宿を借りけむ」までの内容をさす。3.2.3
注釈320女君もの隔てたるやうなれど『集成』は「人ごとのような顔をしていらしたが」。『完訳』は「女君は、その場からは何か隔て越しのようであったけれど」と訳す。3.2.3
注釈321はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ国宝「源氏物語絵巻」には夕霧の背後から右手を伸ばした雲居雁の立ち姿が描かれている。3.2.3
注釈322あさましうこはいかにしたまふぞ以下「むげに恥ぢたまはぬよ」まで、夕霧の詞。3.2.4
注釈323六条の東の上の御文なり花散里からの手紙であると嘘をつく。花散里は、夕霧の養母。3.2.4
注釈324院の御前にはべりて源氏の御前をさす。3.2.4
注釈325今の間いかに『大系』は「あはざりし時いかなりし物とてかただ今の間も見ねば恋しき(後撰集恋一、五六四、読人しらず)「いかなれや昔思ひしほどよりも今の間思ふ事のまさるは」(落窪物語)を指摘。3.2.4
注釈326思はむところをむげに恥ぢたまはぬよ『集成』は「わたしがどう思おうと、ちっとも気になさらないことだ」。『完訳』は「わたしがどう思おうとまるではずかしいとお思いにならないのですね」と訳す。3.2.4
注釈327さすがに奪ってはみたものの、やはり、の意。本当に養母からの手紙であったらとも思う。はしたなさと嫉妬心むきだしにするのも体裁悪いので。3.2.5
注釈328年月に添ふるあなづらはしさは御心ならひなべかめり雲居雁の詞。夕霧の「とし月にそへていたうあなつりたまふこそうれたけれ」の言葉を取って返す。3.2.6
注釈329かくうるはしだちたまへるに夕霧の態度をさす。3.2.7
注釈330若やかにをかしきさましてのたまへば主語は雲居雁。3.2.7
注釈331そはともかくもあらむ以下「いづこの栄えかあらむ」まで、夕霧の詞。代名詞「そ」は、互いに相手が悪くなったと言ったことをさす。3.2.8
注釈332またあらじかし読点で、下文にかけて読む句。3.2.8
注釈333もの懼ぢしたる鳥の兄鷹やうのもののやうなるは「兄鷹(せう)」。雄鷹は雌鷹にびくびくしているという譬えによる。終助詞「は」詠嘆の意。句点で文が切れる。3.2.8
注釈334さるかたくなしき者に夕霧自身をさしていう。3.2.8
注釈335あまたが中になほ際まさりことなるけぢめ見えたるこそ『完訳』は「大勢の妻妾の中でれっきとした地位を保つこと」と注す。3.2.9
注釈336わが心地もなほ古りがたく夕霧の気持ち。3.2.9
注釈337翁のなにがし守りけむやうに走り出た兎が偶然に当たって首を折った切株を再度期待して見守ったという、「韓非子」五蠹篇に見える話。『源注拾遺』は「住吉の小集楽(をづめ)に出でてうつつにもおの妻すらを鏡と見つも(万葉集巻十六、三八〇八)を指摘。3.2.9
注釈338この文のけしきなくこの手紙を取り返そうの素振り。3.2.10
注釈339をこつり取らむの心にて大島本は「をこつりとゝむ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「取らむ」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。「をこつり」清音。だましとる。『源注拾遺』は「あだ人のをこつり棹の危うさにうけ引くことのかたくもあるかな」(古今六帖五 思ひわづらふ)を指摘。3.2.10
注釈340ものの映え映えしさ作り出でたまふほど以下「ならはしたまはで」まで、雲居雁の詞。落葉宮との関係をいう。3.2.11
注釈341古りぬる人苦しや雲居雁自身をいう。三十一歳。夕霧は二十九歳。3.2.11
注釈342今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも大島本は「いまめかしさも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも」と、「くなり変はれる御けしきのすさまじ」を補訂する。『新大系』は底本のままとし、脚注に「底本の脱文である」と注す。夕霧を諷していう。3.2.11
注釈343かねてよりならはしたまはで『源氏釈』は「かねてよりつらさを我にならはさでにはかに物を思はするかな」(出典未詳)を指摘。3.2.11
注釈344にはかにと以下「いとほしう」まで、夕霧の詞。3.2.13
注釈345よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき後文から大輔の乳母を指して言っていることがわかる。3.2.13
注釈346かの緑の袖の名残夕霧が六位の叙せられたことをさす。「少女」巻に見える。『河海抄』は「松ならば引く人けふはありなまし袖の緑ぞかひなかりける」(拾遺集雑春、一〇二七、大中臣能宣)を指摘。3.2.13
注釈347もてなしたてまつらむとあなた雲居雁を。3.2.13
注釈348思ふやうあるにや『集成』は「魂胆でもあるのでしょうか」、「や」を係助詞に解す。『完訳』は「意趣でもあるのでしょうよ」、「や」を間投助詞に解す。3.2.13
注釈349あいなき人の御ためにも『集成』は「巻き添えにされたお人(落葉の宮)にとってもご迷惑なことです」と訳す。3.2.13
注釈350つひにあるべきことと思せば『完訳』は「結局は宮を得ることになろうと」と注す。3.2.14
注釈351大輔の乳母いと苦しと聞きて雲居雁の乳母。「少女」巻で夕霧を蔑んだ人。3.2.14
出典10 千重にもの思ひ 心には千重に思へど人に言はぬわが恋妻を見むよしもがな 古今六帖四-一九九〇 かさのにらう 3.2.1
出典11 かねてよりならはし かねてより辛さを我にならはさでにはかに物を思はさぬかな 源氏釈所引-出典未詳 3.2.11
校訂8 笑ふ 笑ふ--わつ(つ/$<朱>)らふ 3.2.8
校訂9 取らむ 取らむ--*とゝむ 3.2.10
校訂10 今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなり 今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなり--*いまめかしさも見ならはすなり 3.2.11
3.3
第三段 手紙を見ぬまま朝になる


3-3  Yugiri sees the next morning without reading the letter

3.3.1  とかく言ひしろひて、この御文はひき隠したまひつれば、せめても漁り取らで、 つれなく大殿籠もりぬれば胸はしりて、「 いかで取りてしがな」と、「御息所の御文なめり。何ごとありつらむ」と、目も合はず思ひ臥したまへり。
 あれこれと言い合いをして、このお手紙はお隠しになってしまったので、無理しても探し出さず、さりげない顔してお寝みになったので、胸騷ぎがして、「何とかして奪い返したいものだ」と、「御息所のお手紙のようだ。何事があったのだろう」と、目も合わず考えながら臥せっていらっしゃった。
 なお夫人は奪った手紙を返そうとはせずにどこかへ隠してしまった。夕霧は無理に取り返そうとはせずに、冷静に見せて寝についたのであるが、動悸どうきばかり高く打ってならなかった。どうかして取り返したい、御息所の手紙らしい、どんな内容なのであろうと思うと眠ることもできないのである。
  Tokaku ihisirohi te, kono ohom-humi ha hiki-kakusi tamahi ture ba, semete mo asari tora de, turenaku ohotonogomori nure ba, mune hasiri te, "Ikade tori te si gana!" to, "Miyasumdokoro no ohom-humi na' meri. Nanigoto ari tu ram?" to, me mo aha zu omohi husi tamahe ri.
3.3.2   女君の寝たまへるに、昨夜の 御座の下などに、さりげなくて探りたまへど、なし。隠したまへらむほどもなければ、いと心やましくて、明けぬれど、とみにも起きたまはず。
 女君が眠っていらっしゃる間に、昨夜のご座所の下などを、何げなくお探しになるが、ない。お隠しなさる場所もないのに、とても悔しい思いで、夜も明けてしまったが、すぐにはお起きにならない。
 夫人が寝入ってしまったので、よいにいた所の敷き物の下などをさりげなく大将は捜すのであるが見つからなかった。深く隠すだけの時間のなかったのを思うと、近い所に置かれてあるに違いないと思うのに見つけられないのが歯がゆくて、悩ましい気持ちになり、夜が明けてもなお起きようとしなかった。
  WomnaGimi no ne tamahe ru ni, yobe no omasi no sita nado ni, sarigenaku te saguri tamahe do, nasi. Kakusi tamahe ra m hodo mo nakere ba, ito kokoroyamasiku te, ake nure do, tomi ni mo oki tamaha zu.
3.3.3  女君は、君達におどろかされて、ゐざり出でたまふにぞ、われも今起きたまふやうにて、よろづにうかがひたまへど、え見つけたまはず。 女は、かく求めむとも 思ひたまへらぬをぞ、「げに、懸想なき御文なりけり」と、 心にも入れねば、君達のあわて遊びあひて、雛作り、拾ひ据ゑて遊びたまふ、 書読み、手習ひなど、さまざまにいとあわたたし、小さき稚児這ひかかり引きしろへば、 取りし文のことも思ひ出でたまはず
 女君は、若君たちに起こされて、いざり出ていらっしゃったので、自分も今お起きになったようにして、あちこちとお探しになるが、見つけることがおできになれない。妻は、このように探そうとお思いなさらないので、「なるほど、恋文ではないお手紙であったのだ」と、気にもかけていないので、若君たちが騒がしく遊びあって、人形を作って、立て並べて遊んでいらっしゃり、漢籍を読んだり、習字をしたりなど、いろいろと雑然としていて、小さい稚児が這ってきて裾を引っ張るので、奪い取った手紙のこともお思い出しにならない。
 夫人は子供に起こされて寝所からいざって出る時に、夕霧も今目をさましたふうに半身を起こして、昨夜の手紙をまたも捜そうとするのであったが、見つけることは不可能であった。夫人は良人おっとがそんなふうにほしがらぬ手紙はやはり恋の消息ではなかったのであろうと思って、もう気にもかからなかった。子供がそばで騒ぎまわったり、やや大きい子が人形を作って遊んだり、本を読んだり、手習いをしたりするのをいちいち見てやらねばならぬ忙しい時にも、また一人の小さい子が後ろからいかかって来てつかまり立ちをしようとするような、母であるための繁忙に追われて、夫人はもう奪った手紙のことなどは忘れ切っていた。
  WomnaGimi ha, Kimdati ni odorokasa re te, wizari ide tamahu ni zo, ware mo ima oki tamahu yau nite, yorodu ni ukagahi tamahe do, e mituke tamaha zu. Womna ha, kaku motome m to mo omohi tamahe ra nu wo zo, "Geni, kesau naki ohom-humi nari keri." to, kokoro ni mo ire ne ba, Kimdati no awate asobi ahi te, hihina tukuri, hirohi suwe te asobi tamahu, humi yomi, tenarahi nado, samazama ni ito awatatasi, tihisaki tigo hahi kakari hiki-sirohe ba, tori si humi no koto mo omohi ide tamaha zu.
3.3.4  男は、異事もおぼえたまはず、かしこに疾く聞こえむと思すに、昨夜の御文のさまも、えたしかに見ずなりにしかば、「 見ぬさまならむも、散らしてけると推し量りたまふべし」など、思ひ乱れたまふ。
 夫は、他の事もお考えにならず、あちらに早く返事を差し出そうとお思いになると、昨夜の手紙の内容も、よく読まないままになってしまったので、「見ないで書いたというようなのも、なくしたのだとお察しになるだろう」などと、お思い乱れなさる。
 男は他のことはいっさい思われないほど手紙がほしかった。小野へ今朝早く消息をしたいと思うのであるが、昨夜の手紙に書かれてあったことをよく見なかったのであるから、それに触れずに手紙を書いては、先方のものをそまつに取り扱って散らせてしまったことが知れてまずいことになると煩悶をしていた。
  Wotoko ha, kotogoto mo oboye tamaha zu, kasiko ni toku kikoye m to obosu ni, yobe no ohom-humi no sama mo, e tasikani mi zu nari ni sika ba, "Mi nu sama nara m mo, tirasi te keru to osihakari tamahu besi." nado, omohi midare tamahu.
3.3.5  誰れも誰れも御台参りなどして、のどかになりぬる昼つ方、思ひわづらひて、
 どなたもどなたもお食事などを召し上がったりして、のんびりとなった昼ころに、困りきって、
 夫婦も子供たちも食事を済ませてのどかになった昼ごろに、大将は思いあまって夫人に言うのであった。
  Tare mo tare mo mi-dai mawiri nado si te, nodokani nari nuru hirutukata, omohi wadurahi te,
3.3.6  「 昨夜の御文は、何ごとかありし。あやしう 見せたまはで。今日も訪らひ聞こゆべし。悩ましうて、六条にもえ参るまじければ、文をこそはたてまつらめ。 何ごとかありけむ
 「昨夜のお手紙には、何が書いてありましたか。けしからん事にお見せにならないで。今日もお見舞い申そう。気分が悪くて、六条院にも参上することができないようなので、手紙を差し上げたい。何が書いてあったのだろうか」
 「昨夜のお手紙には何と書いてあったのですか。ばかなことを言ってあなたが見せてくれないものだから、今日もこれからお見舞いをしなければならないのに困ってしまう。私は気分が悪くて今日は六条へも行きたくないから、手紙で言ってあげなければならないのだが、昨日のことがわからないでは不都合だから」
  "Yobe no ohom-humi ha, nanigoto ka ari si? Ayasiu mise tamaha de. Kehu mo toburahi kikoyu besi. Nayamasiu te, Rokudeu ni mo e mawiru mazikere ba, humi wo koso ha tatematura me. Nanigoto ka ari kem?"
3.3.7  とのたまふが、いとさりげなければ、「 文は、をこがましう取りてけり」とすさまじうて、そのことをばかけたまはず、
 とおっしゃるのが、とてもさりげないので、「手紙を、愚かにも奪い取ってしまった」と興醒めがして、そのことはおっしゃらずに、
 夕霧の様子はきわめてさりげないものであったから、手紙を隠した自身の所作が、むだなことをしたものであると思うと、急に恥ずかしくなったが、それは言わずに、
  to notamahu ga, ito sarigenakere ba, "Humi ha, wokogamasiu tori te keri." to susamaziu te, sono koto wo ba kake tamaha zu,
3.3.8  「 一夜の深山風にあやまりたまへる 悩ましさななりと、をかしきやうにかこちきこえたまへかし」
 「昨夜の深山風に当たって、具合を悪くされたらしいと、風流気取りで訴えられたらよいでしょう」
 「先夜の山風に身体からだを悪くいたしましたからとお言いわけをなさればいいじゃありませんか」
  "Hitoyo no mi-yamakaze ni, ayamari tamahe ru nayamasisa na' nari to, wokasiki yau ni kakoti kikoye tamahe kasi."
3.3.9  と聞こえたまふ。
 と申し上げなさる。
 と言った。
  to kikoye tamahu.
3.3.10  「 いで、このひがこと、な常にのたまひそ。何のをかしきやうかある。世人になずらへたまふこそ、なかなか恥づかしけれ。この女房たちも、かつはあやしきまめざまを、かくのたまふと、ほほ笑むらむものを」
 「さあ、そんな冗談、いつまでもおっしゃいませんな。何の風流なことがあろうか。世間の人と一緒になさるのは、かえって気が引けます。ここの女房たちも、一方では不思議なほどの堅物を、このようにおっしゃると、笑っていることでしょうよ」
 「つまらんことばかり言うのですね。何もおもしろくないじゃありませんか。私が世間並みの男のように言われるのを聞くとかえってきまりが悪くなりますよ。女房たちなども不思議な堅い男を疑うあなたを笑うだろうに」
  "Ide, kono higakoto, na tuneni notamahi so. Nani no wokasiki yau ka aru. Yohito ni nazurahe tamahu koso, nakanaka hadukasikere. Kono nyoubau-tati mo, katuha ayasiki mamezama wo, kaku notamahu to, hohowemu ram mono wo."
3.3.11  と、戯れ言に言ひなして、
 と、冗談に言いなして、
 冗談じょうだんにして、また、
  to, tahaburegoto ni ihi nasi te,
3.3.12  「 その文よ。いづら
 「その手紙ですよ。どこですか」
 「昨夜ゆうべの手紙はどこ」
  "Sono humi yo! Idura?"
3.3.13  とのたまへど、とみにも引き出でたまはぬほどに、なほ物語など聞こえて、しばし臥したまへるほどに、暮れにけり。
 とお尋ねになるが、すぐにはお出しにならないままに、またお話などを申し上げて、暫く横になっていらっしゃるうちに、日が暮れてしまった。
 と言ったが、なおすぐに取り出そうとは夫人のしないままで、ほかの話などをしてしばらく寝ていたが、そのうちに日が暮れた。
  to notamahe do, tomi ni mo hikiide tamaha nu hodo ni, naho monogatari nado kikoye te, sibasi husi tamahe ru hodo ni, kure ni keri.
注釈352つれなく大殿籠もりぬれば主語は夕霧。『異本紫明抄』は「人にあはむ月のなきには思ひおきてむね走り火に心焼けをり(古今集誹諧歌、一〇三〇、小野小町)を指摘。3.3.1
注釈353いかで取りてしがなと以下「何ごとありつらむ」まで、夕霧の心中。途中に地の文の引用句「と」が介在する。『完訳』は「「と」は「--ありつらむと」と並列で、夕霧の心中叙述の文脈を構成」と注す。3.3.1
注釈354女君の寝たまへるに『集成』は「眠っていられる間」、「に」を格助詞に解す。『完訳』は「眠っていらっしゃるので」、「に」を接続助詞、順接の意に解す。3.3.2
注釈355御座の下などに大島本は「したなとに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「下など」と「に」を削除する。『新大系』は底本のままとする。3.3.2
注釈356女はかく求めむとも大島本は「女なは」とある。「な」は衍字であろう。『集成』は「「女君」と呼ばず、敬語抜きなのは、その人に遠慮抜きで親しく密着した書き方。次に夕霧も単に「男」と呼ばれる」。『完訳』は「「男」とともに、夫婦のあり方を強調した呼称」と注す。3.3.3
注釈357心にも入れねば「取りし文のことも」にかかる。「君達のあわて遊び」以下「引きしろへば」まで、挿入句。3.3.3
注釈358書読み手習ひなど『集成』は「漢籍の素読をしたり、お習字をしたりなど。これは少し大きい子たちのお勉強である」と注す。3.3.3
注釈359取りし文のことも思ひ出でたまはず主語は雲居雁。3.3.3
注釈360見ぬさまならむも散らしてけると推し量りたまふべし夕霧の心中。苦悩。3.3.4
注釈361昨夜の御文は以下「何ごとかありけむ」まで、夕霧の詞。3.3.6
注釈362見せたまはで句点。余意余情効果。3.3.6
注釈363何ごとかありけむ『集成』は「どんなご用だったのだろう」。下文の「さりげなく」と呼応させて自問のように訳す。『完訳』は「どんなことだったのでしょうか」。相手への問い掛けとして訳す。3.3.6
注釈364文はをこがましう取りてけり雲居雁の心中。後悔、反省の気持ち。3.3.7
注釈365一夜の深山風に以下「聞こえたまへかし」まで、雲居雁の詞。「御山風」は小野山荘訪問を喩える。皮肉を込める。3.3.8
注釈366あやまりたまへる小野の山風に当たって身体の具合を悪くした、の意。3.3.8
注釈367悩ましさななり「ななり」は断定の助動詞+伝聞推定の助動詞。--であるようだ、の意。3.3.8
注釈368いでこのひがこと以下「ほほ笑むらむものを」まで、夕霧の詞。『集成』は「何と、そんな見当違いなことを、いつもいつもおっしゃるでない。邪推だと、たしなめる」と注す。『完訳』は「まあ、そんなつまらぬことをいつも口になさらぬがよい」と訳す。3.3.10
注釈369その文よいづら夕霧の詞。3.3.12
出典12 胸はしりて 人に逢はむ月のなきには思ひおきて胸走り火に心焼けをり 古今集俳諧-一〇三〇 小野小町 3.3.1
校訂11 女は 女は--*女なは 3.3.3
3.4
第四段 夕霧、手紙を見る


3-4  Yugiri discovers the letter in the afternoon

3.4.1   ひぐらしの声におどろきて、「 山の蔭いかに霧りふたがりぬらむ。あさましや。今日この御返事をだに」と、 いとほしうて、ただ知らず顔に硯おしすりて、「いかになしてしにかとりなさむ」と、 眺めおはする
 蜩の鳴き声に目が覚めて、「小野の麓ではどんなに霧が立ち籠めているだろう。何ということか。せめて今日中にお返事をしよう」と、お気の毒になって、ただ知らない顔をして硯を擦って、「どのように取り繕って書こうか」と、物思いに耽っていらっしゃる。
 ひぐらしの声に驚いて目をさました大将は、この時刻に山荘の庭を霧がどんなに深くふさいでいることであろう、情けないことである、今日のうちに昨日の手紙の返事をすら自分は送ることができなかったのであると思って、何でもないふうにすずりの墨をすりながら、どんなふうに書いて送ったものであろうと歎息たんそくをして
  Higurasi no kowe ni odoroki te, "Yama no kage ikani kiri hutagari nu ram? Asamasi ya! Kehu kono ohom-kaherigoto wo dani." to, itohosiu te, tada sirazugaho ni suzuri osi-suri te, "Ikani nasi te si ni ka torinasa m?" to, nagame ohasuru.
3.4.2   御座の奥のすこし上がりたる所を、試みにひき上げたまへれば、「 これにさし挟みたまへるなりけり」と、うれしうもをこがましうもおぼゆるに、うち笑みて見たまふに、かう心苦しきことなむありける。胸つぶれて、「 一夜のことを、心ありて聞きたまうける」と思すに、いとほしう心苦し。
 ご座所の奥の少し盛り上がった所を、試しにお引き上げなさったところ、「ここに差し挟みなさったのだ」と、嬉しくもまた馬鹿らしくも思えるので、にっこりして御覧になると、あのようなおいたわしいことが書いてあったのであった。胸がどきりとして、「先夜の出来事を、何かあったようにお聞きになったのだ」とお思いになると、おいたわしくて胸が痛む。
 一所を見つめていた目に敷き畳の奥のほうの少し上がっている所を発見した。試みにそこを上げてみると、昨日の手紙は下にはさまれてあった。うれしくも思われまたばかばかしくも夕霧は思った。微笑をしながら読んでみると、それは苦しい複雑な心を重態の病人が伝えているものであったから、大将の鼓動は急に高くなって、自分がしいて結合を遂げたものとして書かれてあると思うと気の毒で心苦しくて、
  Omasi no oku no sukosi agari taru tokoro wo, kokoromi ni hikiage tamahe re ba, "Kore ni sasi-hasami tamahe ru nari keri." to, uresiu mo wokogamasiu mo oboyuru ni, uti-wemi te mi tamahu ni, kau kokorogurusiki koto nam ari keru. Mune tubure te, "Hitoyo no koto wo, kokoro ari te kiki tamau keru." to obosu ni, itohosiu kokorogurusi.
3.4.3  「 昨夜だに、いかに思ひ明かしたまうけむ。今日も、今まで文をだに」
 「昨夜でさえ、どれほどの思いで夜をお明かしになったことだろう。今日も、今まで手紙さえ上げずに」
 第二の夜の昨夜に自分の行かなかったことでどんなに御息所みやすどころ煩悶はんもんしたことであろう、今日さえまだ手紙が送ってないということは、
  "Yobe dani, ikani omohi akasi tamau kem? Kehu mo, ima made humi wo dani."
3.4.4  と、言はむ方なくおぼゆ。いと苦しげに、言ふかひなく、書き紛らはしたまへるさまにて、
 と、何とも言いようなく思われる。とても苦しそうに、言いようもなく、書き紛らしていらっしゃる様子で、
 新婚の良人おっととしていえばきわめて無情な態度である。
  to, iha m kata naku oboyu. Ito kurusige ni, ihukahinaku, kaki magirahasi tamahe ru sama nite,
3.4.5  「 おぼろけに思ひあまりてやは、かく書きたまうつらむ。つれなくて今宵の明けつらむ」
 「よほど思案にあまって、このようにお書きになったのだろう。返事のないまま、夜が明けていくのだろう」
 露骨に言わずに自分の行くのを促してある消息を受けていながら、自分を待ちつけることがしまいまでできずに今朝になったのであったかと思うと、
  "Oboroke ni omohi amari te yaha, kaku kaki tamau tu ram. Turenaku te koyohi no ake tu ram."
3.4.6  と、言ふべき方のなければ、 女君ぞ、いとつらう心憂き
 と、申し上げる言葉もないので、女君が、まことに辛く恨めしい。
 大将は妻が恨めしくも憎くも思われた。
  to, ihu beki kata no nakere ba, WomnaGimi zo, ito turau kokorouki.
3.4.7  「 すずろに、かく、あだへ隠して。いでや、 わがならはしぞや」と、さまざまに 身もつらくすべて泣きぬべき心地したまふ。
 「いいかげんな、あなようなことをして、悪ふざけに隠すとは。いやはや、自分がこのようにしつけたのだ」と、あれこれとわが身が情けなくなって、全く泣き出したい気がなさる。
 無法なことをして大事な手紙を隠させるようなしぐさも皆自分がつけさせたわがままな癖であると思うと、自分自身にすら反感を覚えて泣きたい気がした。
  "Suzuroni, kaku, adahe kakusi te. Ideya, waga narahasi zo ya!" to, samazamani mi mo turaku, subete naki nu beki kokoti si tamahu.
3.4.8  やがて出で立ちたまはむとするを、
 そのままお出かけなさろうとするが、
 これからすぐに行こうと夕霧は思うのであったが、
  Yagate idetati tamaha m to suru wo,
3.4.9  「 心やすく対面もあらざらむものから、 人もかくのたまふ、いかならむ。 坎日にもありけるを、もしたまさかに思ひ許したまはば、悪しからむ。なほ吉からむことをこそ」
 「気安く対面することもできないだろうから、御息所もあのようにおっしゃっているし、どうであろうか。坎日でもあったが、もし万が一にお許し下さっても、日が悪かろう。やはり縁起の良いように」
 たやすく宮はおうとなされないであろうということは予想されることであったし、妻はこうして昨日から嫉妬しっとをし続けているのであるし、それに今日が坎日かんにちにあたることはもし宮のお心が解けた場合を考えると、永久に幸福を得なければならぬ結婚の最初に避けなければならぬことでもあるから
  "Kokoroyasuku taime mo ara zara m monokara, hito mo kaku notamahu, ikanara m? Kanniti ni mo ari keru wo, mosi tamasaka ni omohi yurusi tamaha ba, asikara m. Naho yokara m koto wo koso."
3.4.10  と、 うるはしき心に思して、まづ、この御返りを聞こえたまふ。
 と、几帳面な性格から判断なさって、まずは、このお返事を差し上げなさる。
 と、まじめな性格からは、恋しい方との将来に不安がないように慎重に事をすべきであると考えられて、行くことはおいて、まず御息所への返事を書いた。
  to, uruhasiki kokoro ni obosi te, madu, kono ohom-kaheri wo kikoye tamahu.
3.4.11  「 いとめづらしき御文を、かたがたうれしう見たまふるに、 この御咎めをなむ。いかに聞こし召したることにか。
 「とても珍しいお手紙を、何かと嬉しく拝見しましたが、このお叱りは。どのようにお聞きあそばしたのですか。
 珍しいお手紙を拝見いたしましたことは、御病気をお案じ申し上げるほうから申しても非常にうれしいことでしたが、おとがめを受けましたことにつきましては何かお聞き違えになったのではないかと思われるのでございます。
  "Ito medurasiki ohom-humi wo, katagata uresiu mi tamahuru ni, kono ohom-togame wo nam. Ikani kikosimesi taru koto ni ka?
3.4.12    秋の野の草の茂みは分けしかど
   仮寝の枕結びやはせし
  秋の野の草の茂みを踏み分けてお伺い致しましたが
  仮初の夜の枕に契りを結ぶようなことを致しましょうか
  秋の野の草の繁みは分けしかど
  仮寝のまくら結びやはせし
    Aki no no no kusa no sigemi ha wake sika do
    karine no makura musubi yaha se si
3.4.13  明らめきこえさするもあやなけれど、 昨夜の罪は、ひたやごもりにや
 言い訳を申すのも筋違いですが、昨夜の罪は、一方的過ぎませんでしょうか」
 弁明をいたしますのもおかしゅうございますが、宮様に対して御想像なさいますような無礼を申し上げた私では決してございません。
  Akirame kikoye sasuru mo aya nakere do, yobe no tumi ha, hitayagomori ni ya?"
3.4.14  とあり。宮には、いと多く聞こえたまひて、 御厩に足疾き御馬に移し置きて、一夜の大夫をぞたてまつれたまふ。
 とある。宮には、たいそう多くお書き申し上げなさって、御厩にいる足の速いお馬に移し鞍を置いて、先夜の大夫を差し向けなさる。
 というふみである。宮へは長い手紙を書いた。そして夕霧はうまやの中の駿足しゅんそくの馬にくらを置かせて、一昨夜の五位の男を小野へ使いに出すことにした。
  to ari. Miya ni ha, ito ohoku kikoye tamahi te, mi-maya ni asi toki ohom-muma ni utusi oki te, hitoyo no Taihu wo zo tatemature tamahu.
3.4.15  「 昨夜より、六条の院にさぶらひて、ただ今なむまかでつると言へ」
 「昨夜から、六条院に伺候していて、たった今退出してきたところだと言え」
 「昨夜から六条院に御用があって行っていて、今帰ったばかりだと申してくれ」
  "Yobe yori, Rokudeu-no-win ni saburahi te, tadaima nam makade turu to ihe."
3.4.16  とて、言ふべきやう、ささめき教へたまふ。
 と言って、言うべきさま、ひそひそとお教えになる。
 大将は山荘へ行ってからのことでなおいろいろに注意を与えた。
  tote, ihu beki yau, sasameki wosihe tamahu.
注釈370ひぐらしの声におどろきて『源氏物語引歌』は「ひぐらしの鳴きつるなべに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける」(古今集秋上、二〇四、読人しらず)を指摘。3.4.1
注釈371山の蔭いかに霧りふたがりぬらむ以下「御返事をだに」まで、夕霧の心中。「山の蔭」は小野山荘をさす。直前の「ひぐらしの」歌による措辞。
【いかに霧りふたがりぬらむ】-『完訳』は「涙に濡れて思い屈する意」と注す。
3.4.1
注釈372いとほしうて『集成』は「困ってしまって」。『完訳』は「あの宮がおいたわしく思われるので」と訳す。3.4.1
注釈373眺めおはする連体中止法。3.4.1
注釈374御座の奥の『集成』は「夕霧のだろう」。『完訳』は「夕霧の。一説に雲居雁の」と注す。3.4.2
注釈375これにさし挟みたまへるなりけり夕霧の心中。「けり」過去の助動詞、詠嘆の意。3.4.2
注釈376一夜のことを心ありて聞きたまうける夕霧の心中。『完訳』は「意味ありげに。御息所の「女郎花--」の歌から宮との実事が思われていると察する」と注す。3.4.2
注釈377昨夜だにいかに以下「文をだに」まで、夕霧の心中。『集成』は「昨夜だって、どんな思いで夜をお明かしだったろう、今日も、今までお返事もさし上げないでと」。『完訳』は「御息所の判断では昨夜は結婚の第二夜。それを無視したと気づく」と注す。「昨夜だに」の副助詞「だに」は、軽いほうを示して重いほうを暗示する文脈を作る。昨夜すらまして今日は、の気持ち。「文をだに」の下には「差し上げないで」の意が省略。否定の語句と呼応して最小限のそれさえ、という気持ちを含む表現。3.4.3
注釈378おぼろけに以下「今宵の明けつらむ」まで、夕霧の心中。『集成』は「娘を許すとまで書いた御息所の苦衷を察する」と注す。3.4.5
注釈379女君ぞいとつらう心憂き雲居雁をさす。3.4.6
注釈380すずろにかく以下「わがならはしぞや」まで、夕霧の心中。3.4.7
注釈381わがならはしぞやと--すべて泣きぬべき心地『源氏釈』は「海人のかるもに棲む虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ(古今集恋五、八〇七、典侍藤原直子朝臣)を引歌指摘。「や」詠嘆の意。3.4.7
注釈382身もつらく大島本は「身もつらく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「身もつらくて」と「て」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。3.4.7
注釈383心やすく対面も以下「なほ吉からむことをこそ」まで、夕霧の心中。3.4.9
注釈384人もかくのたまふ「人」は御息所をさす。3.4.9
注釈385坎日にもありけるを「ありける」という過去表現。「坎日」は陰陽道で外出その他を忌む日。『完訳』は「宮との結婚を一方的にきめこんで、それが凶日から始るのを避けようとする夕霧には、宮や御息所の苦悩が想像できない」と注す。3.4.9
注釈386うるはしき心に『完訳』は「几帳面な心に。語り手の皮肉」と注す。3.4.10
注釈387いとめづらしき御文を以下「ひたやごもりにや」まで、夕霧から一条御息所への返書。3.4.11
注釈388この御咎めをなむ句点で文が切れる。係助詞「なむ」の下に「いかにせむ」などの語句が省略された形。『集成』は「このお叱りは何としたことなのでしょう」。『完訳』は「このお咎めをどうお受けしたらよいのでしょうか」と訳す。3.4.11
注釈389秋の野の草の茂みは分けしかど--仮寝の枕結びやはせし「草」「枕」「結び」が縁語。「結びやはせし」反語表現。仮初の契りを結んだおぼえはありません、の意。3.4.12
注釈390昨夜の罪はひたやごもりにや『異本紫明抄』は「憂きによりひたやごもりと思へども近江の海は打出てみよ」(和泉式部集)を指摘。『集成』は「一方的な決めつけ方だという気持」と注す。『完訳』は「それを黙ってお受けしなければならないのでしょうか」と訳す。「にや」の下に「あらむ」などの語句が省略された形。3.4.13
注釈391御厩に足疾き御馬に移し置きて『源注拾遺』は「常陸なるをのだの御牧の露草をうつしは駒のおくにぞありける」(閑院左大将朝光卿集)を指摘。『集成』は「移鞍(うつしぐら)という。移馬(うつしうま、官吏の公用の乗馬用として左右の馬寮に飼われている馬)に置く一定の型式の鞍。駿足の馬に公用の鞍を用いさせたというのは、使命の重さを印象づける」と注す。3.4.14
注釈392昨夜より以下「まかでつると言へ」まで、夕霧の詞。大夫に嘘を言うように命じる。3.4.15
3.5
第五段 御息所の嘆き


3-5  Miyasumdokoro deplores her daughter's misfortune

3.5.1  かしこには、 昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを、忍びあへで、 後の聞こえをもつつみあへず恨みきこえたまうしを、その御返りだに見えず、今日の暮れ果てぬるを、 いかばかりの御心にかはと、もて離れてあさましう、心もくだけて、よろしかりつる御心地、またいといたう悩みたまふ。
 あちらでは、昨夜も薄情なとお見えになったご様子を、我慢することができないで、後のちの評判をもはばからず恨み申し上げなさったが、そのお返事さえ来ずに、今日がすっかり暮れてしまったのを、どれ程のお気持ちかと、愛想が尽きて、驚きあきれて、心も千々に乱れて、すこしは好ろしかったご気分も、再びたいそうひどくお苦しみになる。
 小野の御息所は、昨夜は夕霧の来ないらしいことに気がもまれて、あとの評判になっては不名誉であろうこともはばかられずに、促すような手紙も書いたのに、その返事すら送られなかったことに失望をしていてそのまま次の今日さえも暮れてきたことに煩悶を多く覚えて、やや軽くなったふうであった容体がまた非常に険悪なものになってきた。
  Kasiko ni ha, yobe mo turenaku miye tamahi si mi-kesiki wo, sinobi ahe de, noti no kikoye wo mo tutumi ahe zu urami kikoye tamau si wo, sono ohom-kaheri dani miye zu, kehu no kure hate nuru wo, ikabakari no mi-kokoro ni kaha to, mote-hanare te asamasiu, kokoro mo kudake te, yorosikari turu mi-kokoti, mata ito itau nayami tamahu.
3.5.2   なかなか正身の御心のうちは、このふしをことに憂しとも思し、驚くべきことしなければ、ただ おぼえぬ人に、うちとけたりしありさまを見えしことばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かく いみじうおぼいたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへるけしき見えたまふを、「 いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける」と見たてまつるも、胸つとふたがりて悲しければ、
 かえってご本人のお気持ちは、このことを特に辛いこととお思いになり、心を動かすほどのことではないので、ただ思いも寄らない方に、気を許した態度で会ったことだけが残念であったが、たいしてお心にかけていなかったのに、このようにひどくお悩みになっているのを、言いようもなく恥ずかしく、弁解申し上げるすべもなくて、いつもよりも恥ずかしがっていらっしゃる様子にお見えになるのを、「とてもお気の毒で、ご心労ばかりがお加わりになって」と拝するにつけても、胸が締めつけられて悲しいので、
 かえって宮御自身は御息所の思い悩む点を何ともお思いになるわけはなくて、ただ異性の他人をあれほどまでも近づかせたことが残念に思われる自分であって、彼の愛の厚薄は念頭にも置いていないにもかかわらず、それを一大事として母君が煩悶していると、恥ずかしくも苦しくも思召されて、母君ながらそのことはお話しになることもできずに、ただ平生よりも羞恥しゅうちを多くお感じになるふうの見える宮を、御息所は心苦しく思い、この上にまた多くの苦労をお積みにならねばなるまいと、悲しさに胸のふさがる思いをした。
  Nakanaka sauzimi no mi-kokoro no uti ha, kono husi wo kotoni usi to mo obosi, odoroku beki koto si nakere ba, tada oboye nu hito ni, utitoke tari si arisama wo miye si koto bakari koso kutiwosikere, ito simo obosi sima nu wo, kaku imiziu oboi taru wo, asamasiu hadukasiu, akirame kikoye tamahu kata naku te, rei yori mo mono-hadi si tamahe ru kesiki miye tamahu wo, "Ito kokorogurusiu, mono wo nomi omohosi sohu bekari keru." to mi tatematuru mo, mune tuto hutagari te kanasikere ba,
3.5.3  「 今さらにむつかしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御宿世とはいひながら、思はずに 心幼くて、人のもどきを 負ひたまふべきことを。取り返すべきことにはあらねど、今よりは、なほ さる心したまへ
 「今さら厄介なことは申し上げまいと思いますが、やはり、ご運命とは言いながらも、案外に思慮が甘くて、人から非難されなさることでしょうが。それを元に戻れるものではありませんが、今からは、やはり慎重になさいませ。
 「今さらお小言おこごとらしいことは申したくないのでございますが、それも運命とは申しながら、異性に対する御認識が不足していましたために、人がどう批難をいたすかしれませんことが起こってしまいましたのですよ。それは取り返されることではございませんが、これからはそうしたことによく御注意をなさいませ。
  "Imasara ni mutukasiki koto wo ba kikoye zi to omohe do, naho, ohom-sukuse to ha ihi nagara, omoha zu ni kokorowosanaku te, hito no modoki wo ohi tamahu beki koto wo. Torikahesu beki koto ni ha ara ne do, ima yori ha, naho saru kokoro si tamahe.
3.5.4   数ならぬ身ながらも、よろづに育みきこえつるを、今は何事をも思し知り、世の中のとざまかうざまのありさまをも、思したどりぬべきほどに、 見たてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なほ いといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れはべるに、今しばしの命も とどめまほしうなむ
 物の数に入るわが身ではありませんが、いろいろとお世話申し上げてきましたが、今ではどのようなことでもお分かりになり、世の中のあれやこれやの有様も、お分かりになるほどに、お世話申してきたことと、そうした方面は安心だと拝見していましたが、やはりとても幼くて、しっかりしたお心構えがなかったことと、思い乱れておりますので、もう暫く長生きしたく思います。
 つまらぬ私でございますが、今までは御保護の役を勤めましたが、もうあなた様はいろいろな御経験をお積みになりまして、お一人立ちにおなりになりましても充分なように思って、私は安心していたのでございますよ。けれどまだ実際はそうした御幼稚らしいところがあって、すきをお見せになったのかと思いますと、御後見のために私はもう少し生きていたい気がいたします。
  Kazu nara nu mi nagara mo, yorodu ni hagukumi kikoye turu wo, ima ha nanigoto wo mo obosi siri, yononaka no tozama-kauzama no arisama wo mo, obosi tadori nu beki hodo ni, mi tatematuri oki turu koto to, sonata zama ha usiroyasuku koso mi tatematuri ture, naho ito ihake te, tuyoki mi-kokorookite no nakari keru koto to, omohi midare haberu ni, ima sibasi no inoti mo todome mahosiu nam.
3.5.5   ただ人だに、すこしよろしくなりぬる 女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、 さばかりおぼろけにて人の近づききこゆべきにもあらぬを思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり悩みしかど、さるべき 御宿世にこそは
 普通の人でさえ、多少とも人並みの身分に育った女性で、二人の男性に嫁ぐ例は、感心しない軽薄なことですのに、ましてこのようなご身分では、そのようないい加減なことで、男性がお近づき申してよいことでもないのに、思ってもいませんでした心外なご結婚と、長年来心を痛めてまいりましたが、そのようなご運命であったのでしょう。
 普通の女でも貴族階級の人は再婚して二人めの良人おっとを持つことをあさはかなことに人は見ているのでございますからね、まして尊貴な内親王様であなたはいらっしゃるのでございますから、あそばすならすぐれた結婚をなさらなければならなかったのでございますが、以前の御縁組みの場合にも、私はあなた様の最上の御良人ごりょうじんとあの方を見ることができませんで、御賛成申さなかったのですが、前生のお約束事だったのでしょうか、
  Tadabito dani, sukosi yorosiku nari nuru womna no, hito hutari to miru tamesi ha, kokorouku ahatukeki waza naru wo, masite kakaru ohom-mi ni ha, sabakari oboroke nite, hito no tikaduki kikoyu beki ni mo ara nu wo, omohi no hoka ni kokoro ni mo tuka nu ohom-arisama to, tosigoro mo mi tatematuri nayami sika do, sarubeki ohom-sukuse ni koso ha.
3.5.6  院より始めたてまつりて、思しなびき、 この父大臣にも 許いたまふべき御けしきありしに、おのれ一人しも心をたてても、いかがはと 思ひ寄りはべりしことなれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御過ちならぬに、 大空をかこちて見たてまつり過ぐすを、いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべきことの出で来添ひぬべきが、さても、 よその御名をば知らぬ顔にて、 世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり経むにつけても、慰むこともやと、思ひなしはべるを、こよなう情けなき人の御心にもはべりけるかな」
 院をお始め申して、御賛成なさり、この父大臣にもお許しなさろうとの御内意があったのに、わたし一人が反対を申し上げても、どんなものかと思いよりましたことですが、のちのちまで面白からぬお身の上を、あなたご自身の過ちではないので、天命を恨んでお世話してまいりましたが、とてもこのような相手にとってもあなたにとっても、いろいろと聞きにくい噂が加わって来ましょうが、そうなっても、世間の噂を知らない顔をして、せめて世間並のご夫婦としてお暮らしになれるのでしたら、自然と月日が過ぎて行くうちに、心の安まる時が来ようかと、思う気持ちにもなりましたが、この上ない薄情なお心の方でございますね」
 院の陛下がお乗り気になりまして許容をあそばす御意志をあちらの大臣へまずもってお示しになったものですから、私一人が御反対をいたし続けるのもいかがかと思いまして、負けてしまいましたのですが、予想してすでに御幸福なように思われませんでしたことは皆そのとおりでお気の毒なあなた様にしてしまいましたことを、私自身の過失ではないのですが、天を仰いで歎息たんそくしておりました。その上また今度のことでございます。あの方のためにも、あなた様のためにも、これは世間が騒ぐはずのことですから、どんなに堪えがたい誹謗ひぼうの声を忍ばなければならぬかしれませんが、しかしそれはしいて忘れることにいたしましても、あの人の愛情さえ深ければながい月日のうちには見よいことにもなろうかと、私はしいて思おうとするのですが、まったく冷淡な人でございますね」
  Win yori hazime tatematuri te, obosi nabiki, kono titi-Otodo ni mo yurui tamahu beki mi-kesiki ari si ni, onore hitori simo kokoro wo tate te mo, ikagaha to omohiyori haberi si koto nare ba, suwe no yo made monosiki ohom-arisama wo, waga ohom-ayamati nara nu ni, ohozora wo kakoti te mi tatematuri sugusu wo, ito kau hito no tame waga tame no, yoroduni kikinikukari nu beki koto no ideki sohi nu beki ga, satemo, yoso no ohom-na wo ba sira nu kaho nite, yo no tune no ohom-arisama ni dani ara ba, onodukara ari he m ni tuke te mo, nagusamu koto mo ya to, omohi nasi haberu wo, koyonau nasakenaki hito no mi-kokoro ni mo haberi keru kana!"
3.5.7  と、 つぶつぶと泣きたまふ
 と、ほろほろとお泣きになる。
 と言い続けて御息所は泣くのであった。
  to, tubutubuto naki tamahu.
注釈393昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを「つれなく」は訪問のなかったことをさす。副助詞「も」は強調のニュアンスを添える。3.5.1
注釈394後の聞こえをもつつみあへず後々の評判とは、御息所のほうから手紙を贈って宮の結婚を許した、ということをさす。3.5.1
注釈395いかばかりの御心にかはと以下、御息所の心中に即した地の文。「御心」は夕霧の心を推測したもの。3.5.1
注釈396なかなか正身の御心のうちは『集成』は「夕霧の訪れのないのをかえって幸いとするほどの気持であろう」。『完訳』は「世間体を気にする御息所とは対照的」と注す。3.5.2
注釈397おぼえぬ人にうちとけたりし夕霧をさす。3.5.2
注釈398いみじうおぼいたるを主語は落葉宮。3.5.2
注釈399いと心苦しう以下「添ふべかりける」まで、御息所の心中。3.5.2
注釈400今さらに以下「はべりけるかな」まで、御息所の詞。3.5.3
注釈401心幼くて大島本は「をさなくて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心幼くて」と「心」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。3.5.3
注釈402負ひたまふべきことを『集成』は「を」格助詞、目的格の意に解し、読点で文を下に続ける。『完訳』は「を」間投助詞、詠嘆の意に解し、句点で文を結ぶ。3.5.3
注釈403さる心したまへ『完訳』は「世間の非難をつのらせぬよう、慎重にふるまってほしい、の意」と注す。3.5.3
注釈404数ならぬ身ながらもよろづに育みきこえつるを御息所は落葉の宮に対して宮様ゆえに、母子の関係ではあるが、自ら遜り娘に尊敬語を使用する。3.5.4
注釈405見たてまつりおきつることとお世話申してきた、の意。3.5.4
注釈406いといはけて強き御心おきての『源注拾遺』は「逢ふことの片寄せにする網の目にいはけなきまで恋ひかかりぬる」(古今六帖三、網)を指摘。3.5.4
注釈407とどめまほしうなむ係助詞「なむ」の下に「思ひはべる」などの語句が省略。3.5.4
注釈408ただ人だに臣下の人でさえ、まして皇女は、のニュアンス。3.5.5
注釈409女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを『河海抄』は「忠臣不事二君、貞女不更二夫」(史記、田単列伝)を指摘。3.5.5
注釈410さばかりおぼろけにてそんないい加減なことで、の意。3.5.5
注釈411人の近づききこゆべきにもあらぬを推量の助動詞「べき」当然の意。「を」について、『集成』は接続助詞、逆接の意に解し、読点で下文に続けて読み、『完訳』は間投助詞、詠嘆の意に解し、句点で文を結ぶ。3.5.5
注釈412思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと御息所は落葉宮の柏木との結婚を不本意なことと思っていた。3.5.5
注釈413御宿世にこそは係助詞「こそ」「は」の下に「あれ」などの語句が省略。3.5.5
注釈414この父大臣落葉宮の夫の父親である致仕太政大臣。3.5.6
注釈415許いたまふべき御けしき朱雀院の御内意。3.5.6
注釈416思ひ寄りはべりし大島本は「おもひより」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『完本』は諸本に従って「思ひ弱り」と「わ」を補訂する。3.5.6
注釈417大空をかこちて見たてまつり過ぐすを『異本紫明抄』は「身の憂きを世の憂きとのみながむればいかに大空苦しかるらむ」(出典未詳)を指摘。『源注拾遺』は「世の中はいかに苦しと思ふらむここらの人に恨みらるれば」(古今集雑体、一〇六二、在原元方)「大空は恋しき人の形見かはもの思ふごとに眺めらるらむ」(古今集恋四、七四三、境人実)を指摘。『評釈』は「逢ふことはいとど雲居の大空に立つ名のみしてやみぬばかりか」(後撰集恋一、五三五、読人しらず)を指摘する。3.5.6
注釈418よその御名をば世間でのあなたの評判、の意。3.5.6
注釈419世の常の御ありさまにだにあらば世間並の夫婦、の意。副助詞「だに」せめて--だけでも、という最低限のニュアンスを添える。3.5.6
注釈420つぶつぶと泣きたまふ『集成』は「かきくどいて」。『完訳』は「しきりに涙をおこぼしになる」と訳す。3.5.7
校訂12 心幼くて 心幼くて--*をさなくて 3.5.3
3.6
第六段 御息所死去す


3-6  Miyasumdokoro dies with greef

3.6.1   いとわりなくおしこめてのたまふを、あらがひはるけむ言の葉もなくて、 ただうち泣きたまへるさま、おほどかにらうたげなり。 うちまもりつつ
 ほんとうにどうしようもなく独りぎめにしておっしゃるので、抗弁して申し開きをする言葉もなくて、ただ泣いていらっしゃる様子、おっとりとしていじらしい。じっと見つめながら、
 あった事実と独断してこう言うのを、御弁明あそばすこともおできにならない宮が、ただ泣いておいでになる御様子は、おおようで可憐かれんなものであった。御息所はじっと宮をながめながら、
  Ito warinaku osikome te notamahu wo, aragahi haruke m kotonoha mo naku te, tada uti-naki tamahe ru sama, ohodokani rautage nari. Uti-mamori tutu,
3.6.2  「 あはれ、何ごとかは、人に劣りたまへる。 いかなる御宿世にて、やすからず、ものを深く思すべき契り深かりけむ」
 「ああ、どこが、人に劣っていらっしゃろうか。どのようなご運命で、心も安まらず、物思いなさらなければならない因縁が深かったのでしょう」
「あなたはどこが人より悪いのでしょう。そんなことは絶対にない。何という運命でこうした御不幸な目にばかりおあいになるのだろう」
  "Ahare, nanigoto kaha, hito ni otori tamahe ru. Ikanaru ohom-sukuse nite, yasukara zu, mono wo hukaku obosu beki tigiri hukakari kem?"
3.6.3  など のたまふままに、いみじう苦しうしたまふ。 もののけなども、かかる弱目に所得るものなりければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入りたまふ。律師も騷ぎたちたまうて、 願など立てののしりたまふ。
 などとおっしゃるうちに、ひどくお苦しみになる。物の怪などが、このような弱り目につけ込んで勢いづくものだから、急に息も途絶えて、見る見るうちに冷たくなっていかれる。律師も騷ぎ出しなさって、願などを立てて大声でお祈りなさる。
 などと言っているうちに御息所の容体は最悪なものになっていった。物怪もののけなどというものもこうした弱り目に暴虐をするものであるから、御息所の呼吸はにわかにとまって、身体からだは冷え入るばかりになった。律師もあわててがんなどを立て、祈祷きとうに大声を放っているのである。
  nado notamahu mama ni, imiziu kurusiu si tamahu. Mononoke nado mo, kakaru yowame ni tokoro uru mono nari kere ba, nihakani kiyeiri te, tada hiye ni hiye iri tamahu. Risi mo sawagitati tamau te, gwan nado tate nonosiri tamahu.
3.6.4   深き誓ひにて、今は命を限りける山籠もりを、かくまでおぼろけならず 出で立ちて、壇こぼちて帰り入らむことの、面目なく、仏もつらくおぼえたまふべきことを、心を起こして祈り申したまふ。宮の泣き惑ひたまふこと、いとことわりなりかし。
 深い誓いを立てて、命果てるまでと決心した山籠もりを、こんなにまで並々の思いでなく出てきて、壇を壊して退出することが、面目なくて、仏も恨めしく思わずいはいらっしゃれない趣旨を、一心不乱にお祈り申し上げなさる。宮が泣き取り乱していらっしゃること、まことに無理もないことではある。
 御仏みほとけに約して、自身の生存する最後の時まで下山せず寺にこもると立てた堅い決心をひるがえして、この人を助けようとする自分の祈祷が効を奏せずに失敗して山へ帰るほど不名誉なことはなくて、その場合には御仏さえも恨むであろうことを言葉にして祈っているのである。宮が泣き惑うておいでになるのもごもっともなことに思われた。
  Hukaki tikahi nite, ima ha inoti wo kagiri keru yamagomori wo, kaku made oboroke nara zu idetati te, dan koboti te kaheri ira m koto no, meiboku naku, Hotoke mo turaku oboye tamahu beki koto wo, kokoro wo okosi te inori mausi tamahu. Miya no naki madohi tamahu koto, ito kotowari nari kasi.
3.6.5  かく騒ぐほどに、大将殿より御文取り入れたる、 ほのかに聞きたまひて今宵もおはすまじきなめり、とうち聞きたまふ。
 このように騒いでいる最中に、大将殿からお手紙を受け取ったと、かすかにお聞きになって、今夜もいらっしゃらないらしい、とお聞きになる。
 この騒ぎの中で、大将の消息が来たという者の声を、御息所はほのかに聞いてそれでは今夜も来ないのであろうと思った。
  Kaku sawagu hodo ni, Daisyau-dono yori ohom-humi toriire taru, honokani kiki tamahi te, koyohi mo ohasu maziki na' meri, to uti-naki tamahu.
3.6.6  「 心憂く。世のためしにも引かれたまふべきなめり。何に我さへ さる言の葉を残しけむ」
 「情けない。世間の話の種にも引かれるに違いない。どうして自分まであのような和歌を残したのだろう」
 情けないことである、こうした恥ずかしい名を宮はまたお受けになるのであろう、自分までがなぜ受け入れるふうな手紙などを書いてやったのであろう
  "Kokorouku. Yo no tamesi ni mo hika re tamahu beki na' meri. Nani ni ware sahe saru kotonoha wo nokosi kem."
3.6.7  と、さまざま思し出づるに、やがて絶え入りたまひぬ。 あへなくいみじと言へばおろかなり。昔より、もののけには時々患ひたまふ。限りと見ゆる折々もあれば、「 例のごと取り入れたるなめり」とて、加持参り騒げど、今はのさま、しるかりけり。
 と、あれこれとお思い出しなさると、そのまま息絶えてしまわれた。あっけなく情けないことだと言っても言い足りない。昔から、物の怪には時々お患いになさる。最期と見えた時々もあったので、「いつものように物の怪が取り入ったのだろう」と考えて、加持をして大声で祈ったが、臨終の様子は、明らかであったのだ。
 ともだえるうちに御息所の命は終わった。悲しいことである。昔から物怪のためにたびたび大病をしてもうだめなように見えたこともおりおりあったのであるから、また物怪が一時的に絶息をさせたのかもしれぬと僧たちは加持かじに力を入れたのであるが、今度はもう何の望みもなく終焉しゅうえんていはいちじるしかった。
  to, samazama obosi iduru ni, yagate taye iri tamahi nu. Ahenaku imizi to ihe ba oroka nari. Mukasi yori, mononoke ni ha tokidoki wadurahi tamahu. Kagiri to miyuru woriwori mo are ba, "Rei no goto toriire taru na' meri." tote, kadi mawiri sawage do, imaha no sama, sirukari keri.
3.6.8  宮は、後れじと思し入りて、つと添ひ臥したまへり。 人びと参りて
 宮は、一緒に死にたいとお悲しみに沈んで、ぴったりと添い臥していらっしゃった。女房たちが参って、
 宮はともに死にたいと思召す御様子でじっと母君の遺骸いがいに身を寄せておいでになった。女房たちがおそばに来て、
  Miya ha, okure zi to obosi iri te, tuto sohi husi tamahe ri. Hitobito mawiri te,
3.6.9  「 今は、いふかひなし。いとかう思すとも、 限りある道は、帰りおはすべきことにもあらず。慕ひきこえたまふとも、 いかでか御心にはかなふべき」
 「もう、何ともしかたありません。まことこのようにお悲しみになっても、定められた運命の道は、引き返すことはできるものでありません。お慕い申されようとも、どうしてお思いどおりになりましょう」
 「もういたしかたがございません。そんなにお悲しみになりましても、お死にになった方がお帰りになるものでございません。お慕いになりましてもあなた様のお思いが通るものでもございません」
  "Ima ha, ihukahinasi. Ito kau obosu tomo, kagiri aru miti ha, kaheri ohasu beki koto ni mo ara zu. Sitahi kikoye tamahu tomo, ikadeka ohom-kokoro ni ha kanahu beki."
3.6.10  と、さらなることわりを聞こえて、
 と、言うまでもない道理を申し上げて、
 とわかりきった生死の別れをお説きして、
  to, sara naru kotowari wo kikoye te,
3.6.11  「 いとゆゆしう亡き御ためにも、罪深きわざなり。今は去らせたまへ」
 「とても不吉です。亡くなったお方にとっても、罪深いことです。もうお離れなさいまし」
 「こうしておいであそばすことは非常によろしくないことでございます。おかくれになりました方をお迷わせすることになりますから、あちらへおいであそばせ」
  "Ito yuyusiu. Naki ohom-tame ni mo, tumi hukaki waza nari. Ima ha sara se tamahe."
3.6.12  と、引き動かいたてまつれど、すくみたるやうにて、ものもおぼえたまはず。
 と、引き動かし申し上げるが、身体もこわばったようで、何もお分かりにならない。
 お引き立て申して行こうとするのであるが、宮のお身体からだはすくんでしまって御自身の思召すようにもならないのであった。
  to, hiki-ugokai tatemature do, sukumi taru yau nite, mono mo oboye tamaha zu.
3.6.13  修法の壇こぼちて、ほろほろと出づるに、 さるべき限り、片へこそ立ちとまれ 、今は限りのさま、 いと悲しう心細し
 修法の壇を壊して、ばらばらと出て行くので、しかるべき僧たちだけ、一部の者が残ったが、今は全てが終わった様子、まことに悲しく心細い。
 祈祷の壇をこわして僧たちは立ち去る用意をしていた。少数の者だけはあとへ残るであろうが、そうしたことも心細く思われた。
  Suhohu no dan koboti te, horohoroto iduru ni, sarubeki kagiri, katahe koso tati tomare, ima ha kagiri no sama, ito kanasiu kokorobososi.
注釈421いとわりなくおしこめてのたまふを主語は御息所。3.6.1
注釈422ただうち泣きたまへるさま落葉宮の様子。3.6.1
注釈423うちまもりつつ主語は御息所。3.6.1
注釈424あはれ何ごとかは以下「契り深かりけむ」まで、御息所の詞。「何ごとかは--劣りたまへる」反語表現。3.6.2
注釈425いかなる御宿世にて疑問表現。前世の因果を思う。3.6.2
注釈426のたまふままに連語「ままに」、同時進行の意。おっしゃっているうちに。3.6.3
注釈427もののけなどもかかる弱目に所得るものなりければ『湖月抄』は「地」と注す。3.6.3
注釈428願など立て蘇生の願文。3.6.3
注釈429深き誓ひにて以下「仏もつらくおぼえたまふべきこと」まで、願文の趣旨。3.6.4
注釈430出で立ちて壇こぼちて最初の接続助詞「て」逆接用法、後出の接続助詞「て」順接用法。「壇壊つ」は、修法の護摩壇。加持の僧侶は効験がないと判断すると護摩壇を壊して帰山する。3.6.4
注釈431ほのかに聞きたまひて主語は御息所。『完訳』は「御息所は少し意識を回復する」と注す。3.6.5
注釈432今宵もおはすまじきなめり御息所の心中。3.6.5
注釈433心憂く。世のためしにも以下「残しけむ」まで、御息所の心中。「世の例」は、『完訳』は「皇女なのに一夜で男に捨てられる例」と注す。3.6.6
注釈434さる言の葉を夕霧に贈った手紙、特に「女郎花」の歌をさす。3.6.6
注釈435あへなくいみじと言へばおろかなり『全集』は「語り手のことば」と注す。3.6.7
注釈436例のごと取り入れたるなめり僧たちの心中。『集成』は「いつものように物の怪が気を失わせたのだろうと」。『完訳』は「物の怪が魂を奪って、自分のほうに取り込める意」と注す。3.6.7
注釈437人びと参りて女房たち。3.6.8
注釈438今はいふかひなし以下「御心にはかなふべき」まで、女房の詞。3.6.9
注釈439限りある道は『集成』は「きまった運命の死出の旅路では」。『完訳』は「決められた死出の御旅路から」と訳す。3.6.9
注釈440いかでか「--かなふべき」反語表現。3.6.9
注釈441いとゆゆしう以下「去らせたまへ」まで、女房の詞。3.6.11
注釈442亡き御ためにも罪深きわざなり『完訳』は「死者に執して後を追うようなのは、死者の成仏を妨げるとする」と注す。3.6.11
注釈443さるべき限り片へこそ立ちとまれ『集成』は「しかるべき僧たちだけ。近親者とともに三十日の忌に篭る僧たちであろう」、完訳「葬儀を行うべき人々だけ。三十日の忌に篭る僧たちか」と注す。係助詞「こそ」--「とまれ」係結び、逆接用法。3.6.13
注釈444いと悲しう心細し『評釈』は「第三者として眺めている作者(物語の語り手)の判断なのである。この語はなくてもよい。しかし語り手はつぶやかずにはいられないのだ」と注す。3.6.13
校訂13 片へこそ 片へこそ--かたへに(に/$こ<朱>)そ 3.6.13
3.7
第七段 朱雀院の弔問の手紙


3-7  A letter of condolence from Suzaku to Ochiba-no-Miya

3.7.1  所々の御弔ひ、いつの間にかと見ゆ。大将殿も、限りなく聞き驚きたまうて、まづ聞こえたまへり。六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていとしげう聞こえたまふ。山の帝も聞こし召して、いとあはれに御文書いたまへり。宮は、この御消息にぞ、御ぐしもたげたまふ。
 あちこちからのご弔問、いつの間に知れたのかと見える。大将殿も、限りなく驚きなさって、さっそくご弔問申し上げなさった。六条院からも、致仕の大臣からも、皆々頻繁にご弔問申し上げなさる。山の帝もお聞きあそばして、まことにしみじみとしたお手紙をお書きなさっていた。宮は、このお手紙には、おぐしをお上げなさる。
 ほうぼうから弔問の使いが来た。いつの間に知ったかと思われるほどである。夕霧の大将は非常に驚いてさっそく使いを立てた。六条院からも太政大臣家からも来た。ひっきりなしにそうした使いが来るのである。御寺みてらの院もお聞きになって、御愛情のこもったお手紙を宮へお書きになった。この御消息が参ったことによって、悲しみにおぼれておいでになった宮もはじめてつむりをお上げになったのであった。
  Tokorodokoro no ohom-toburahi, itu no ma ni ka to miyu. Daisyau-dono mo, kagirinaku kiki odoroki tamau te, madu kikoye tamahe ri. Rokudeu-no-Win yori mo, Tizi-no-Ohotono yori mo, subete ito sigeu kikoye tamahu. Yama-no-Mikado mo kikosimesi te, ito ahare ni ohom-humi kai tamahe ri. Miya ha, kono ohom-seusoko ni zo, mi-gusi motage tamahu.
3.7.2  「 日ごろ重く悩みたまふと聞きわたりつれど、例も篤しうのみ聞きはべりつるならひに、 うちたゆみてなむ。かひなきことをばさるものにて、 思ひ嘆いたまふらむありさま推し量るなむ、あはれに心苦しき。 なべての世のことわりに思し慰めたまへ
 「長らく重く患っていらっしゃるとずっと聞いていましたが、いつも病気がちとばかり聞き馴れておりましたので、つい油断しておりました。言ってもしかたのないことはそれとして、お悲しみ嘆いていらっしゃるだろう有様、想像するのがお気の毒でおいたわしい。すべて世の中の定めとお諦めになって慰めなさい」
 いつかから病気がだいぶ重いということは聞いていましたが、平生から弱い人だったために、つい怠って尋ねてあげることもしませんでした。故人の死をいたむことはむろんですが、あなたがどんなに悲しんでおられるだろうと、それを最も私は心苦しく思います。死はだれも免れないものであるからという道理を思って心を平静にしなさい。
  "Higoro omoku nayami tamahu to kiki watari ture do, rei mo atusiu nomi kiki haberi turu narahi ni, uti-tayumi te nam. Kahinaki koto wo ba saru mono nite, omohi nagei tamahu ram arisama osihakaru nam, ahare ni kokorogurusiki. Nabete no yo no kotowari ni obosi nagusame tamahe."
3.7.3  とあり。目も見えたまはねど、御返り聞こえたまふ。
 とある。目もお見えにならないが、お返事は申し上げなさる。
 とあった。宮は涙でお目もよく見えないのであるが、このお返事だけはお書きになった。
  to ari. Me mo miye tamaha ne do, ohom-kaheri kikoye tamahu.
3.7.4  常に さこそあらめとのたまひけることとて、 今日やがてをさめたてまつるとて御甥の大和守にてありけるぞ、よろづに扱ひきこえける。
 普段からそうして欲しいとおっしゃっていたことなので、今日直ちに葬儀を執り行い申すことになって、御甥の大和守であった者が、万事お世話申し上げたのであった。
 平生からすぐに遺骸いがいは火葬にするようにと御息所みやすどころは遺言してあったので、葬儀は今日のうちにすることになって、故人のおい大和守やまとのかみである人が万端の世話をしていた。
  Tuneni sa koso ara me to notamahi keru koto tote, kehu yagate wosame tatematuru tote, ohom-wohi no Yamato-no-Kami nite ari keru zo, yorodu ni atukahi kikoye keru.
3.7.5   骸をだにしばし見たてまつらむとて宮は惜しみきこえたまひけれど、さてもかひあるべきならねば、皆いそぎたちて、ゆゆしげなるほどにぞ、大将おはしたる。
 せめて亡骸だけでも暫くの間拝していたいと思って、宮は惜しみ申し上げなさったが、いくら別れを惜しんでもきりがないので、皆準備にとりかかって、忌中の最中に、大将がいらっしゃった。
 亡骸なきがらだけでもせめて見ていたいと宮はお惜しみになるのであったが、そうしたところでしかたのないことであると皆が申し上げて、入棺などのことをしている騒ぎの最中に左大将は来た。
  Kara wo dani sibasi mi tatematura m tote, Miya ha wosimi kikoye tamahi kere do, sate mo kahi aru beki nara ne ba, mina isogitati te, yuyusige naru hodo ni zo, Daisyau ohasi taru.
3.7.6  「 今日より後、日ついで悪しかりけり
 「今日から後は、日柄が悪いのだ」
 「今日弔問に行っておかないでは、あとは皆、そうしたことに私の携われない暦になっているから」
  "Kehu yori noti, hi tuide asikari keri."
3.7.7  など、人聞きにはのたまひて、いとも悲しうあはれに、 宮の思し嘆くらむことを推し量りきこえたまうて
 などと、人前ではおっしゃって、とても悲しくしみじみと、宮がお悲しみであろうことをご推察申し上げなさって、
 などと、表面は言って、心の中では宮のお悲しみが悲しく想像され、少しでも早く小野へ行きたく思っているのに、
  nado, hitogiki ni ha notamahi te, ito mo kanasiu ahareni, Miya no obosi nageku ram koto wo osihakari kikoye tamau te,
3.7.8  「 かくしも急ぎわたりたまふべきことならず
 「こんなに急いでお出掛けになる必要はありません」
 「そんなにまですぐにお駆けつけになるほどの御関係でもないではございませんか」
  "Kaku simo isogi watari tamahu beki koto nara zu."
3.7.9  と、人びといさめきこゆれど、しひておはしましぬ。
 と、女房たちがお引き止め申したが、無理にいらっしゃった。
 と家従たちがいさめるのを退けてしいて出て来たのである。
  to, hitobito isame kikoyure do, sihite ohasimasi nu.
注釈445日ごろ重く悩みたまふと以下「思し慰めたまへ」まで、朱雀院から落葉の宮への弔問の手紙文。3.7.2
注釈446うちたゆみてなむ係助詞「なむ」の下に「はべりける」などの語句が省略。余意余情の効果表現。3.7.2
注釈447思ひ嘆いたまふらむありさま『完訳』は「御息所の死よりも、宮の悲嘆ぶりを想像して同情する」と注す。3.7.2
注釈448なべての世のことわりに思し慰めたまへ『集成』は「世間の人誰しも逃れられぬ(無常の)道理なのだと、お心をお慰めなさい。出家人らしい言い方」と注す。3.7.2
注釈449さこそあらめ御息所の遺言の趣旨。死後すぐに葬られることを希望していた。地の文で語る。3.7.4
注釈450今日やがてをさめたてまつるとて『完訳』は「当時は蘇生を期待して葬儀を延ばすのが普通」と注す。当時の葬儀(火葬)は夜に行われた。3.7.4
注釈451御甥の大和守にてありけるぞ御息所の甥の大和守。『完訳』は「大和守(従五位上)が親類縁者の代表だけに、家柄の低い一族と知れる」と注す。3.7.4
注釈452骸をだにしばし見たてまつらむとて『伊行釈』は「空蝉はからを見つつも慰めつ深草の山煙だに立て」(古今集哀傷、八三一、僧都勝延)を指摘。3.7.5
注釈453宮は惜しみきこえたまひけれど『集成』は「葬儀の日延べを希望する趣」と注す。3.7.5
注釈454今日より後日ついで悪しかりけり夕霧の詞。『完訳』は「以下、時間を遡って、夕霧が自邸を出る様子。弔問に赴く口実」と注す。場面は夕霧の三条殿。3.7.6
注釈455宮の思し嘆くらむことを推し量りきこえたまうて夕霧の心中。「人聞きには」と対照させて語る。推量の助動詞「らむ」視界外推量や「推し量りきこえ」などに、これから出向く様子がうかがえる。3.7.7
注釈456かくしも急ぎわたりたまふべきことならず女房の詞。特別に御息所の縁者でもない夕霧が急いで弔問に出かける必要はない、という。3.7.8
3.8
第八段 夕霧の弔問


3-8  Yugiri visits to the mountain villa to express his condolence

3.8.1   ほどさへ遠くて、入りたまふほど、いと心すごし。 ゆゆしげに引き隔てめぐらしたる儀式の方は隠してこの西面に入れたてまつる。大和守出で来て、泣く泣くかしこまりきこゆ。 妻戸の簀子におし掛かりたまうて女房呼び出でさせたまふに、ある限り、心も収まらず、物おぼえぬほどなり。
 道のりまでも遠くて、山麓にお入りになるころ、じつにぞっとした気がする。不吉そうに幕を引き廻らした葬儀の方は目につかないようにして、この西面にお入れ申し上げる。大和守が出て来て、泣きながら挨拶を申し上げる。妻戸の前の簀子に寄り掛かりなさって、女房をお呼び出しなさるが、伺候する者みな、悲しみも収まらず、何も考えられない状態である。
 しかも遠距離ですぐにも行き着くことのできない道は夕霧をますます悲しませたのであった。山荘は凄惨せいさんの気に満ちていた。最後の式の行なわれる所は仕切りで隠して人々は例の西の縁側のほうへ大将にまわってもらった。妻戸の前の縁側によりかかって夕霧は女房を呼び出したが、だれも皆平静な気持ちでいる者はないのである。
  Hodo sahe tohoku te, iri tamahu hodo, ito kokoro sugosi. Yuyusigeni hiki-hedate megurasi taru gisiki no kata ha kakusi te, kono nisiomote ni ire tatematuru. Yamato-no-Kami ideki te, nakunaku kasikomari kikoyu. Tumado no sunoko ni osikakari tamau te, nyoubau yobi ide sase tamahu ni, aru kagiri, kokoro mo wosamara zu, mono oboye nu hodo nari.
3.8.2  かく渡りたまへるにぞ、いささか慰めて、 少将の君は参る。物もえのたまひやらず。 涙もろにおはせぬ心強さなれど所のさま、人のけはひなどを思しやるも、いみじうて、常なき世のありさまの、人の上ならぬも、いと悲しきなりけり。 ややためらひて
 このようにお越しになったので、すこし気持ちもほっとして、小少将の君は参った。何もおっしゃることができない。涙もろくはいらっしゃらない気丈な方であるが、場所柄、人の様子などをお思いやりになると、ひどく悲しくて、無常の世の有様が、他人事でもないのも、まことに悲しいのであった。少し気を落ち着けてから、
 大将が来たことで少し慰められるところがあって少将が応接に出た。夕霧も急にものは言えないのであった。すぐ泣くふうの人ではないのであるが、ここの悲しい空気に人々の様子も想像されて無常の世の道理も自身に近い人の上に実証されたことにひどく心を打たれているのである。ややしばらくして、
  Kaku watari tamahe ru ni zo, isasaka nagusame te, Seusyau-no-Kimi ha mawiru. Mono mo e notamahi yara zu. Namidamoro ni ohase nu kokoroduyosa nare do, tokoro no sama, hito no kehahi nado wo obosi yaru mo, imiziu te, tune naki yo no arisama no, hito no uhe nara nu mo, ito kanasiki nari keri. Yaya tamerahi te,
3.8.3  「 よろしうおこたりたまふさまに承りしかば、思うたまへたゆみたりしほどに。夢も覚むるほどはべなるを、いとあさましうなむ」
 「好くおなりになったように承っておりましたので、油断しておりました時に。夢でも醒める時がございますというのに、何とも思いがけないことで」
 「少しおよろしいように伺ったものですから、安心していたのですが、何たることが起こったのでしょう。どんな悪夢でもさめる時はあるのですが、これはそうした希望も持てませんことを悲しく思います」
  "Yorosiu okotari tamahu sama ni uketamahari sika ba, omou tamahe tayumi tari si hodo ni. Yume mo samuru hodo habe' naru wo, ito asamasiu nam."
3.8.4  と聞こえたまへり。「 思したりしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし」と思すに、さるべきとは言ひながらも、いとつらき人の御契りなれば、いらへをだにしたまはず。
 と申し上げなさった。「ご心痛であったご様子、この方のために多くはお心も乱れになったのだ」とお思いになると、そうなる運命とはいっても、まことに恨めしい人とのご因縁なので、お返事さえなさらない。
 と宮への御挨拶あいさつを申し入れた。御息所が煩悶はんもんしていたことをお思いになって、大将が原因で免れがたい運命とはいえ母君はおくなりになったとお思いになると、恨めしい因縁の人の弔問に宮はお返辞すらあそばさない。
  to kikoye tamahe ri. "Obosi tari si sama, kore ni ohoku ha mi-kokoro mo midare ni si zo kasi." to obosu ni, sarubeki to ha ihi nagara mo, ito turaki hito no ohom-tigiri nare ba, irahe wo dani si tamaha zu.
3.8.5  「 いかに聞こえさせたまふとか、聞こえはべるべき」
 「どのように申し上げあそばしたかと、申し上げましょうか」
 「どう仰せられますと申し上げればよろしゅうございましょう。
  "Ikani kikoyesase tamahu to ka, kikoye haberu beki?"
3.8.6  「 いと軽らかならぬ御さまにて、かくふりはへ急ぎ渡らせたまへる御心ばへを、思し分かぬやうならむも、あまりにはべりぬべし」
 「とても重々しいご身分で、このように遠路急いでお越しになったご厚志を、お分かりにならないようなのも、あまりというものでございましょう」
 重いお身柄をお忘れになってすぐにこの遠い所をおくやみにおいでくださいました御好意を無視あそばすようなお扱いもあまりでございましょうから」
  "Ito karuraka nara nu ohom-sama nite, kaku hurihahe isogi watara se tamahe ru mi-kokorobahe wo, obosi waka nu yau nara m mo, amari ni haberi nu besi."
3.8.7  と、口々聞こゆれば、
 と、口々に申し上げるので、
  女房が口々に言うと、
  to, kutiguti kikoyure ba,
3.8.8  「 ただ、推し量りて。我は言ふべきこともおぼえず」
 「ただ、よいように返事せよ。わたしはどう言ってよいか分かりません」
 「いいかげんに言っておくがいい。何を何と言っていいか今はそんなこともわからない」
  "Tada, osihakari te. Ware ha ihu beki koto mo oboye zu."
3.8.9  とて、臥したまへるもことわりにて、
 とおっしゃって、臥せっていらっしゃるのも道理なので、
 宮がこう言って横になっておしまいになったのももっともなこの場合のことであったから、女房が、
  tote, husi tamahe ru mo kotowari nite,
3.8.10  「 ただ今は、亡き人と異ならぬ 御ありさまにてなむ。渡らせたまへるよしは、聞こえさせはべりぬ」
 「ただ今は、亡き人と同然のご様子でありまして。お出あそばしました旨は、お耳に入れ申し上げました」
 「ただ今のところ宮様はおかくれになった方同然でいらっしゃいます。おいでくださいましたことは申し上げておきました」
  "Tada ima ha, naki hito to koto nara nu ohom-arisama ni te nam. Watara se tamahe ru yosi ha, kikoyesase haberi nu."
3.8.11  と聞こゆ。この人びともむせかへるさまなれば、
 と申し上げる。この女房たちも涙にむせんでいる様子なので、
 と夕霧へ言った。この人たちは涙にむせかえっているのであるから、
  to kikoyu. Kono hitobito mo musekaheru sama nare ba,
3.8.12  「 聞こえやるべき方もなきを 。今すこしみづからも思ひのどめ、また静まりたまひなむに、参り来む。 いかにしてかくにはかにと、その御ありさまなむゆかしき」
 「お慰め申し上げようもありませんが。もう少し、私自身も気が静まって、またお静まりになったころに、参りましょう。どうしてこのように急にと、そのご様子が知りたい」
 「何とも申し上げようのないことですから、私の心も少し落ち着き、宮様の御気分もお静まりになったころにまた参りましょう。どうしてそんな急変が来たのか、私はその理由だけを知りたい」
  "Kikoye yaru beki kata mo naki wo. Ima sukosi midukara mo omohi nodome, mata sidumari tamahi na m ni, mawiri ko m. Ikani si te kaku nihakani to, sono ohom-arisama nam yukasiki."
3.8.13  とのたまへば、まほにはあらねど、かの思ほし嘆きしありさまを、片端づつ聞こえて、
 とおっしゃると、すっかりではないが、あのお悩みになり嘆いていた様子を、少しずつお話し申し上げて、
 と大将は女房に言った。露骨には言わないが少将は御息所の煩悶した一昼夜のことを少し夕霧に知らせて、
  to notamahe ba, maho ni ha ara ne do, kano omohosi nageki si arisama wo, katahasi dutu kikoye te,
3.8.14  「 かこちきこえさするさまになむ、なりはべりぬべき。今日は、いとど 乱りがはしき心地どもの惑ひに、聞こえさせ違ふることどももはべりなむ。 さらば、かく 思し惑へる御心地も、限りあることにて、すこし静まらせたまひなむほどに、 聞こえさせ承らむ
 「恨み言を申し上げるようなことに、きっとなりましょう。今日は、いっそう取り乱したみなの気持ちのせいで、間違ったことを申し上げることもございましょう。それゆえ、このようにお悲しみに暮れていらっしゃるご気分も、きりのあるはずのことで、少しお静まりあそばしたころに、お話を申し上げ承りましょう」
 「そう申してまいればお恨み言になっていけません。今日は頭が混乱しておりまして間違ってお話し申し上げることがあるかもしれません。それでは宮様のお悲しみもいずれはおあきらめにならなければならないことでございますから、御気分のお落ち着きになりますころにまたおいでくださいまし」
  "Kakoti kikoyesasuru sama ni nam, nari haberi nu beki. Kehu ha, itodo midarigahasiki kokoti-domo no madohi ni, kikoyesase tagahuru koto-domo mo haberi na m. Saraba, kaku obosi madohe ru mi-kokoti mo, kagiri aru koto nite, sukosi sidumara se tamahi na m hodo ni, kikoyesase uketamahara m."
3.8.15  とて、我にもあらぬさまなれば、のたまひ出づることも口ふたがりて、
 と言って、正気もない様子なので、おっしゃる言葉も口に出ず、
 と言った。その人たちも気を顛倒てんとうさせている様子を見ては、大将も言いたいことが口から出ない。
  tote, ware ni mo ara nu sama nare ba, notamahi iduru koto mo kuti hutagari te,
3.8.16  「 げにこそ、闇に惑へる心地すれ。なほ、 聞こえ慰めたまひて、いささかの 御返りもあらばなむ
 「なるほど、闇に迷った気がします。やはり、お慰め申し上げなさって、わずかのお返事でもありましたら」
 「私の心なども暗闇まっくらになったように思われるのですから、宮様としてはごもっともです。極力お慰め申し上げて、あなたがたの力で今後少しのお返事でもいただけるように計らってください」
  "Geni koso, yami ni madohe ru kokoti sure. Naho, kikoye nagusame tamahi te, isasaka no ohom-kaheri mo ara ba nam."
3.8.17  などのたまひおきて、 立ちわづらひたまふも、軽々しう、さすがに人騒がしければ、帰りたまひぬ。
 などと言い残しなさって、ぐずぐずしていらっしゃるのも、身分柄軽々しく思われ、そうはいっても人目が多いので、お帰りになった。
 などと言いおいて、長い立ち話をしていることもさすがに出入りの人の多い今日の山荘では軽々しく見られることであろうとはばかって大将は帰ることにした。
  nado notamahi oki te, tati wadurahi tamahu mo, karugarusiu, sasugani hito sawagasikere ba, kaheri tamahi nu.
注釈457ほどさへ遠くて副助詞「さへ」添加の意。『完訳』は「気がせくうえ、道のりまでも」と注す。3.8.1
注釈458ゆゆしげに引き隔てめぐらしたる儀式の方は隠して死の穢れを忌むために祭場との間に幕が引き廻らされている。3.8.1
注釈459この西面に落葉宮が居間として使っている部屋。3.8.1
注釈460妻戸の簀子におし掛かりたまうて主語は夕霧。妻戸の前の簀子の高欄に寄り掛かった姿。3.8.1
注釈461女房呼び出でさせたまふに「させ」使役の助動詞。接続助詞「に」逆接用法。3.8.1
注釈462少将の君は参る落葉の宮づきの女房、小少将の君。夕霧の前に出る。3.8.2
注釈463涙もろにおはせぬ心強さなれど夕霧の性格。感傷的でなく意志がしっかりしている性格。理性的で頑迷な性格。3.8.2
注釈464所のさま人のけはひなどを『完訳』は「小野という場所柄、宮の悲嘆する様子などを。狭い山荘で、隣室の様子も感取。「けはひ」に注意」と注す。3.8.2
注釈465ややためらひて主語は夕霧。3.8.2
注釈466よろしうおこたりたまふさまに以下「あさましうなむ」まで、夕霧の詞。3.8.3
注釈467思したりしさま以下「乱れにしぞかし」まで、落葉宮の心中。「思したりし」の主語は御息所。3.8.4
注釈468いかに聞こえさせたまふとか以下「あまりにはべりぬべし」まで、女房たちの詞。3.8.5
注釈469いと軽らかならぬ御さまにて夕霧をさす。近衛大将。遠路はるばる自ら急いで弔問に訪れたことをいう。3.8.6
注釈470ただ推し量りて以下「言ふべきこともおぼえず」まで、落葉宮の詞。『集成』は「そなたたちのはからい次第に。よいように返事せよ、の意」。『完訳』は「私の気持を察して。宮は、母の死は夕霧との一件ゆえと思うので、応対する気にもなれない」と注す。3.8.8
注釈471ただ今は以下「聞こえさせはべりぬ」まで、小少将の君の詞。3.8.10
注釈472御ありさまにてなむ係助詞「なむ」の下に「おはす」などの語句が省略された形。3.8.10
注釈473聞こえやるべき方もなきを以下「なむゆかしき」まで、夕霧の詞。3.8.12
注釈474いかにしてかくにはかに主語は御息所。3.8.12
注釈475かこちきこえさする以下「聞こえさせ承らむ」まで、小少将の君の詞。「かこちきこえさする」の相手は夕霧。3.8.14
注釈476乱りがはしき心地どもの惑ひに女房たちの「心惑ひ」複数形。3.8.14
注釈477さらばかく『集成』は「夕霧が「またしづまりたまひなむに、参り来む」と、辞去する旨を告げたのに応ずる」と注す。3.8.14
注釈478思し惑へる御心地も落葉宮の悲しみの気持ち。3.8.14
注釈479聞こえさせ承らむ主語は小少将君。小少将君が落葉宮に夕霧の言葉をお話し申し上げ宮の返事を承りましょう、の意。3.8.14
注釈480げにこそ以下「御返りもあらばなむ」まで、夕霧の詞。『完訳』は「小少将の言葉を受け、宮と同様に自分も悲嘆が深いとする」と注す。3.8.16
注釈481聞こえ慰めたまひて主語はあなた、小少将君が落葉宮を。3.8.16
注釈482御返りもあらばなむ係助詞「なむ」の下に「うれしく思ふ」などの語句が省略。3.8.16
注釈483立ちわづらひたまふも軽々しう『完訳』は「葬儀当日、縁者でもないのにぐずぐずしている自分を、高貴の身分柄、軽率と反省」と注す。夕霧の心中を地の文で語る。3.8.17
校訂14 なきを なきを--な(な/+き)を 3.8.12
3.9
第九段 御息所の葬儀


3-9  Miyasumdokoro's funeral ceremony is held

3.9.1   今宵しもあらじと思ひつる事どものしたため、いとほどなく際々しきを、いとあへなしと思いて、 近き御荘の人びと召し仰せて、さるべき事ども仕うまつるべく、おきて定めて出でたまひぬ。事のにはかなれば、削ぐやうなりつることども、いかめしう、人数なども 添ひてなむ。大和守も、
 まさか今夜ではあるまいと思っていた葬儀の準備が、実に短時間にてきぱきと整えられたのを、いかにもあっけないとお思いになって、近くの御荘園の人々をお呼びになりお命じになって、しかるべき事どもをお仕えするように、指図してお帰りになった。事が急なので、簡略になりがちであったのが、盛大になり、人数も多くなった。大和守も、
 今夜のうちに済ませるために納棺その他のことを着々進行させている物音にも、盛大ならぬ葬儀の悲哀が感ぜられて、大将はこの近くにある自家の荘園から侍たちを招いて、いろいろな役を分担して助けることを命じていった。急なことであったから自然簡単で済ませることになった葬儀が、これによって外見をきわめてよくすることができるようになった。大和守やまとのかみも、
  Koyohi simo ara zi to omohi turu koto-domo no sitatame, ito hodo naku kihagihasiki wo, ito ahenasi to oboi te, tikaki mi-sau no hitobito mesi ohose te, sarubeki koto-domo tukaumaturu beku, okite sadame te ide tamahi nu. Koto no nihaka nare ba, sogu yau nari turu koto-domo, ikamesiu, hitokazu nado mo sohi te nam. Yamato-no-Kami mo,
3.9.2  「 ありがたき殿の御心おきて
 「有り難い殿のお心づかいだ」
 「すべて殿様のありがたい御親切のおかげでございます」
  "Arigataki Tono no ohom-kokorookite."
3.9.3  など、喜びかしこまりきこゆ。「 名残だになくあさましきこと」と、宮は臥しまろびたまへど、かひなし。 親と聞こゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり。見たてまつる人びとも、この御事を、またゆゆしう嘆ききこゆ。大和守、残りのことどもしたためて、
 などと、喜んでお礼申し上げる。「跡形もなくあっけないこと」と、宮は身をよじってお悲しみになるが、どうすることもできない。親と申し上げても、まことにこのように仲睦まじくするものではないのだった。拝見する女房たちも、このご悲嘆を、また不吉だと嘆き申し上げる。大和守は、後始末をして、
 と感謝していた。母君を何も残らぬ無にしておしまいになったことで、宮は伏しまろんで悲しんでおいでになった。親は子にこのかたがたのような片時離れぬ習慣はつけておくべきでないと思い、宮のこの御状態を女房たちはまた歎き合った。大和守が葬儀の跡の始末を皆してから、
  nado, yorokobi kasikomari kikoyu. "Nagori dani naku asamasiki koto." to, Miya ha husi marobi tamahe do, kahinasi. Oya to kikoyu tomo, ito kaku ha narahasu maziki mono nari keri. Mi tatematuru hitobito mo, kono ohom-koto wo, mata yuyusiu nageki kikoyu. Yamato-no-Kami, nokori no koto-domo sitatame te,
3.9.4  「 かく心細くては、えおはしまさじ。いと御心の隙あらじ」
 「このように心細い状態では、いらっしゃれまい。とてもお心の紛れることはありますまい」
 「こんなふうになさいまして、まだながく寂しい山荘においでになることは御無理です。いっそうお悲しみが紛れないことになりましょう」
  "Kaku kokorobosoku te ha, e ohasimasa zi. Ito mi-kokoro no hima ara zi."
3.9.5  など聞こゆれど、 なほ、峰の煙をだに、気近くて思ひ出できこえむと、この山里に住み果てなむと思いたり。
 などと申し上げるが、やはり、せめて峰の煙だけでも、側近くお思い出し申そうと、この山里で一生を終わろうとお考えになっていた。
 などと宮へ申し上げるのであったが、宮は母君の煙におなりになった場所にせめて近くいたいと思召おぼしめす心から、このままここへ永住あそばすお考えを持っておいでになった。
  nado kikoyure do, naho, mine no keburi wo dani, ke-dikaku te omohi ide kikoye m to, kono yamazato ni sumi hate nam to oboi tari.
3.9.6   御忌に籠もれる僧は、東面、 そなたの渡殿、下屋などに、はかなき隔てしつつ、かすかにゐたり。西の廂をやつして、宮はおはします。明け暮るるも思し分かねど、 月ごろ経ければ、九月になりぬ
 御忌中に籠もっていた僧は、東面や、そちらの渡殿、下屋などに、仮の仕切りを立てて、ひっそりとしていた。西の廂の間の飾りを取って、宮はお住まいになる。日の明け暮れもお分かりにならないが、いく月かが過ぎて、九月になった。
 忌中だけこもっている僧たちは東の座敷からそちらの廊の座敷、下屋しもやまでを使って、わずかな仕切りをして住んでいた。西の端の座敷を急ごしらえの居間にして宮はおいでになるのである。朝になることも夜になることも宮は忘れておいでになるうちに日がたって九月になった。
  Ohom-imi ni komore ru sou ha, himgasiomote, sonata no watadono, simoya nado ni, hakanaki hedate si tutu, kasuka ni wi tari. Nisi no hisasi wo yatusi te, Miya ha ohasimasu. Ake kururu mo obosi waka ne do, tukigoro he kere ba, Nagatuki ni nari nu.
注釈484今宵しもあらじと思ひつる主語は夕霧。以下「いとあへなし」まで、夕霧の心中に即して語る。3.9.1
注釈485近き御荘の人びと夕霧の荘園、栗栖野の人々。3.9.1
注釈486添ひてなむ係助詞「なむ」の下に「ありける」などの語句が省略。3.9.1
注釈487ありがたき殿の御心おきて大和守の詞。『集成』は「めったにない大将殿(夕霧)のご配慮です」。『完訳』は「願ってもない殿のご配慮で」と訳す。3.9.2
注釈488名残だになくあさましきこと落葉宮の心中。3.9.3
注釈489親と聞こゆともいとかくはならはすまじきものなりけり『完訳』は「語り手の言辞。親子の間柄とはいえ、異常に仲睦まじくしすぎたために、こうも悲嘆しなければならないのだ」と注す。真淵『新釈』は「思ふとていとこそ人に馴れざらめしかならひてぞ見ねば恋しき」(拾遺集恋四、九〇〇、読人しらず)を指摘。3.9.3
注釈490かく心細くては以下「心の隙あらじ」まで、大和守の詞。3.9.4
注釈491なほ峰の煙をだに以下「住み果てなむ」まで、落葉宮の心中に即した地の文。3.9.5
注釈492御忌に籠もれる『集成』は「死穢のため、三十日間、近親者が忌に籠る」。『完訳』は「喪中の四十九日間」と注す。3.9.6
注釈493そなたの渡殿「そなた」は寝殿の西表と西の対を結ぶ方面をさす。3.9.6
注釈494月ごろ経ければ九月になりぬ一条御息所の逝去は八月二十日ごろであった。八月九月と両月にわたるので、「月ごろ」といったもの。3.9.6
Last updated 9/22/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 7/20/2010(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 1/31/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
柳沢成雄(青空文庫)

2003年5月16日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年7月20日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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