第三十九帖 夕霧


39 YUHUGIRI (Ohoshima-bon)


光る源氏の准太上天皇時代
五十歳秋から冬までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from fall to winter, at the age of 50

6
第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮


6  Tale of Yugiri  Yugiri worries himself about Kumoinokari and Ochiba-no-Miya

6.1
第一段 夕霧、花散里へ弁明


6-1  Yugiri explains himself to Hanachirusato

6.1.1  六条の院にぞおはして、やすらひたまふ。 東の上
 六条院にいらっしゃって、ご休息なさる。東の上は、
 大将は六条院へ来て休息をした。花散里はなちるさと夫人が、
  Rokudeu-no-win ni zo ohasi te, yasurahi tamahu. Himgasi-no-Uhe,
6.1.2  「 一条の宮渡したてまつりたまへることと、かの大殿わたりなどに聞こゆる、 いかなる御ことにかは
 「一条の宮をお移し申し上げなさったと、あの大殿あたりなどでお噂申しているのは、どのようなことなのですか」
 「一条の宮様と御結婚なすったと太政大臣家あたりではおうわさしているようですが、ほんとうのことはどんなことなのでしょう」
  "Itideu-no-Miya watasi tatematuri tamahe ru koto to, kano Ohotono watari nado ni kikoyuru, ikanaru ohom-koto ni kaha?"
6.1.3  と、いとおほどかにのたまふ。 御几帳添へたれど側よりほのかには、なほ見えたてまつりたまふ
 と、とてもおっとりとお尋ねになる。御几帳を添えているが、端からちらちらと、それでも顔をお見せ申し上げなさる。
 とおおように尋ねた。御簾みす几帳きちょうを添えて立ててあったが、横から優しい継母の顔も見えるのである。
  to, ito ohodokani notamahu. Mi-kityau sohe tare do, soba yori honoka ni ha, naho miye tatematuri tamahu.
6.1.4  「 さやうにも、なほ人の言ひなしつべきことにはべり。故御息所は、いと心強う、あるまじきさまに言ひ放ちたまうしかど、限りのさまに、御心地の弱りけるに、 また見譲るべき人のなき や悲しかりけむ、 亡からむ後の後見にとやうなることのはべりしかばもとよりの心ざしもはべりしことにてかく思たまへなりぬるを、さまざまに、いかに人扱ひはべらむかし。さしもあるまじきをも、 あやしう人こそ、もの言ひさがなきものにあれ
 「そのようにも、やはり世間の人は取り沙汰しそうなことでございます。故御息所は、とても気強く、とんでもないことときっぱりおっしゃいましたが、最期の様子の時に、お気持ちが弱られた折に、わたし以外に後見を依頼できる人のないのが悲しかったのでしょうか、亡くなった後の後見というようなことがございましたので、もともとの心積もりもございましたことなので、このようにお引き受け致すことになりましたが、あれこれと、どのように世間の人は噂するのでございましょう。そうでないことをも、不思議と世間の人は、口さがないものです」
 「そんなふうにうわさもされるでしょう。くなられた御息所みやすどころは、最初私が申し込んだころにはもってのほかのことのように言われたものですが、病気がいよいよ悪くなったころに、ほかに託される人のないのが心細かったのですか、自分の死後の宮様を御後見するようにというような遺言をされたものですから、初めから好きだった方でもあるのですから、こういうことにしたのですが、それをいろいろに付会した噂もするでしょう。そう騒ぐことでないことを人は問題にしたがりますね」
  "Sayau ni mo, naho hito no ihi nasi tu beki koto ni haberi. Ko-Miyasumdokoro ha, ito kokoroduyou, arumaziki sama ni ihi hanati tamau sika do, kagiri no sama ni, mi-kokoti no yowari keru ni, mata mi yuduru beki hito no naki ya kanasikari kem, nakara m noti no usiromi ni to yau naru koto no haberi sika ba, motoyori no kokorozasi mo haberi si koto nite, kaku omo' tamahe nari nuru wo, samazama ni, ikani hito atukahi habera m kasi. Sasimo arumaziki wo mo, ayasiu hito koso, monoihi saganaki mono ni are."
6.1.5   と、うち笑ひつつ
 と、ほほ笑みながら、
 と夕霧は笑って、
  to, uti-warahi tutu,
6.1.6  「 かの正身なむ、なほ世に経じと深う思ひ立ちて、 尼になりなむと思ひ結ぼほれたまふめれば、 何かは。こなたかなたに聞きにくくもはべべきを、 さやうに嫌疑離れても、また、 かの遺言は違へじと思ひたまへて、ただかく言ひ扱ひはべるなり。
 「あのご本人の宮は、もう普通の暮らしはするまいと深く決心なさって、尼になってしまいたいと思い詰めていらっしゃるようなので、どうしてどうして。あちら方こちら方に聞きずらいことでもございますが、そのように嫌疑を招かぬことになったとしても、また一方で、あの遺言に背くまいと存じまして、ただこのようにお世話申しているのでございます。
 「ところが御本人はまだ尼になりたいとばかり考えておいでになるのですから、それもそうおさせして、いろいろに続き合った面倒な人たちから悪く言われることもなくしたほうがよいとは思われますが、私としては御息所の遺言を守らねばならぬ責任感があって、ともかくも形だけは私が良人おっとになって同棲どうせいすることにしたのです。
  "Kano sauzimi nam, naho yo ni he zi to hukau omohitati te, ama ni nari na m to omohi musubohore tamahu mere ba, nanikaha. Konata-kanata ni kiki nikuku mo habe' beki wo, sayau ni kengi hanare te mo, mata, kano yuigon ha tagahe zi to omohi tamahe te, tada kaku ihi atukahi haberu nari.
6.1.7   院の渡らせたまへらむにも、ことのついではべらば、かうやうにまねびきこえさせたまへ。ありありて、心づきなき心つかふと、 思しのたまはむを憚りはべりつれど、 げに、かやうの筋にてこそ、人の諌めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ」
 院がお渡りあそばしたような時に、よい機会がございましたら、このようにわたしの申したとおりに申し上げてください。この年になって、感心しない浮気心を起こしたと、お思いになりおっしゃりもするだろうと気にいたしておりますが、なるほど、このようなことには、人の意見にも、自分の心にも従えないものだということが分かりました」
 院がこちらへおいでになりました時にもお話のついでにそのとおりに申し上げておいてください。堅く通して来ながら、今になって人が批難をするような恋を始めるとはけしからんなどとお言いにならないかと遠慮をしていたのですが、実際恋愛だけは人の忠告にも自身の心にも従えないものなのですからね」
  Win no watara se tamahe ra m ni mo, koto no tuide habera ba, kauyau ni manebi kikoye sase tamahe. Ari ari te, kokorodukinaki kokoro tukahu to, obosi notamaha m wo habakari haberi ture do, geni, kayau no sudi nite koso, hito no isame wo mo, midukara no kokoro ni mo sitagaha nu yau ni haberi kere."
6.1.8  と、忍びやかに聞こえたまふ。
 と、声を小さくして申し上げなさる。
 とも忍びやかに言うのだった。
  to, sinobiyaka ni kikoye tamahu.
6.1.9  「 人のいつはりにやと思ひはべりつるを、まことにさるやうある御けしきにこそは。皆世の常のことなれど、 三条の姫君の思さむことこそ、いとほしけれ。のどやかに 慣らひたまうて
 「誰かの間違いではないかと思っておりましたが、本当にそのようなご事情があったのですね。すべて世間によくある事ですが、三条の姫君がご心配なさるのも、お気の毒です。平穏無事に馴れていらっしゃって」
 「私は人の作り事かと思って聞いていましたが、そんなことでもあるのですね。世間にはたくさんあることですが、三条の姫君がどう思っていらっしゃるだろうかとおかわいそうですよ。今まであんなに幸福だったのですから」「可憐かれんな人のようにお言いになる姫君ですね。がさつな鬼のような女ですよ」
  "Hito no ituhari ni ya to omohi haberi turu wo, makoto ni saru yau aru mi-kesiki ni koso ha. Mina yo no tune no koto nare do, Samdeu-no-Himegimi no obosa m koto koso, itohosikere. Nodoyaka ni narahi tamau te."
6.1.10  と聞こえたまへば、
 と申し上げなさると、
 と言って、また、
  to kikoye tamahe ba,
6.1.11  「 らうたげにものたまはせなす、姫君かな。いと鬼しうはべるさがなものを」とて、「 などてか、それをもおろかにはもてなしはべらむ。かしこけれど、 御ありさまどもにても、推し量らせたまへ
 「かわいらしくおっしゃいますね、姫君とはね。まるで鬼のようでございます性悪な者を」とおっしゃって、「どうして、その人をいい加減に扱っておりましょうか。恐れ多いですが、こちらのご夫人方のご様子からご推量ください。
 「決してそのほうもおろそかになどはいたしませんよ。失礼ですがあなた様御自身の御境遇から御推察なすってください。
  "Rautage ni mo notamahase nasu, HimeGimi kana! Ito onisiu haberu sagana mono wo!" tote, "Nadoteka, sore wo mo orokani ha motenasi habera m. Kasikokere do, ohom-arisama-domo nite mo, osihakara se tamahe.
6.1.12  なだらかならむのみこそ、人はつひのことにははべめれ。さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに憚らるることあれど、それにしも従ひ果つまじきわざなれば、 ことの乱れ出で来ぬる後、我も人も、憎げに飽きたしや。
 穏やかである事だけが、女性として結局良いことのようでございます。口やかましく事を荒立てるのも、暫くの間は煩しく、面倒くさいように遠慮することもありますが、それに必ずしも最後まで従うものではないので、浮気沙汰が出てきた後、自分も相手も、憎らしそうに嫌気のさすものです。
 穏やかにだれへも好意を持って暮らすのが最後の勝利を得る道ではございませんか。嫉妬しっと深いやかましく言う女に対しては、当座こそ面倒だと思ってこちらも慎むことになるでしょうが、永久にそうしていられるものではありませんから、ほかに対象を作る日になると、いっそうかれはやかましくなり、こちらは倦怠けんたいと反感をその女から覚えるだけになります。
  Nadaraka nara m nomi koso, hito ha tuhi no koto ni ha habe' mere. Saganaku koto-gamasiki mo, sibasi ha nama-mutukasiu, wadurahasiki yau ni habakara ruru koto are do, sore ni simo sitagahi hatu maziki waza nare ba, koto no midare ideki nuru noti, ware mo hito mo, nikuge ni akitasi ya!
6.1.13  なほ、 南の御殿の御心もちゐこそ、さまざまにありがたう、 さてはこの御方の御心などこそは、めでたきものには、見たてまつり果てはべりぬれ」
 やはり、南の殿の上のお心遣いこそが、いろいろとまたとないことで、それに次いではこちらのお気立てなどが、素晴らしいものとして、拝見するようになりました」
 そうしたことで、こちらの南の女王の態度といい、あなた様の善良さといい、皆手本にすべきものだと私は信じております」
  Naho, Minami-no-Otodo no mi-kokoro motiwi koso, samazama ni arigatau, sateha kono ohom-kata no mi-kokoro nado koso ha, medetaki mono ni ha, mi tatematuri hate haberi nure."
6.1.14  など、ほめきこえたまへば、笑ひたまひて、
 などと、お誉め申し上げなさると、お笑いになって、
 と継母をほめると、夫人は笑って、
  nado, home kikoye tamahe ba, warahi tamahi te,
6.1.15  「 もののためしに 引き出でたまふほどに身の人悪ろきおぼえこそあらはれぬべう
 「そうした女性の例に出したりなさるので、我が身の体裁の悪い評判がはっきりしてしまいそうで。
 「物の例にお引きになればなるほど、私が愛されていない妻であることが明瞭めいりょうになりますよ。
  "Mono no tamesi ni hikiide tamahu hodo ni, mi no hitowaroki oboye koso arahare nu beu.
6.1.16   さて、をかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、 いささかあだあだしき御心づかひをば大事と思いて、戒め申したまふ。後言にも聞こえたまふめるこそ、賢しだつ人の、おのが上知らぬやうにおぼえはべれ」
 ところで、おかしなことは、院が、ご自分の女癖を誰も知らないように、ちょっとした好色めいたお心遣いを、重大事とお思いになって、お諌め申し上げなさる。陰口をも申し上げなさっているらしいのは、賢ぶっている人が、自分のことは知らないでいるように思われます」
 それにしましてもおかしいことは、院は御自身の多情なお癖はお忘れになったように、少しの恋愛事件をお起こしになるとたいへんなことのようにおさとしになろうとしたり、かげでも御心配になったりするのを拝見しますと、賢がる人が自己のことをたなに上げているということのような気がしてなりませんよ」
  Sate, wokasiki koto ha, Win no, midukara no mi-kuse wo ba hito sira nu yau ni, isasaka adaadasiki mi-kokorodukahi wo ba, daizi to oboi te, imasime mausi tamahu. Siriugoto ni mo kikoye tamahu meru koso, sakasidatu hito no, onoga uhe sira nu yau ni oboye habere."
6.1.17  とのたまへば、
 とおっしゃると、
 こう花散里夫人が言った。
  to notamahe ba,
6.1.18  「 さなむ、常に この道をしも戒め仰せらるる。さるは、かしこき御教へならでも、いとよく をさめてはべる心を
 「さように、いつも女性の事では厳しくお仰せになります。しかし、恐れ多い教えを戴かなくても、自分で十分に気をつけておりますのに」
 「そうですよ。始終品行のことで教訓を受けますよ。親の言葉がなくても私は浮気うわきなことなどをする男でもないのに」
  "Sa nam, tuneni kono miti wo simo imasime ohose raruru. Saruha, kasikoki ohom-wosihe nara de mo, ito yoku wosame te haberu kokoro wo."
6.1.19  とて、げにをかしと思ひたまへり。
 とおっしゃって、なるほどおかしいと思っていらっしゃった。
 大将は非常におかしいと思うふうであった。
  tote, geni wokasi to omohi tamahe ri.
6.1.20   御前に参りたまへれば、かのことは聞こし召したれど、 何かは聞き顔にもと思いて、ただうちまもりたまへるに、
 御前に参上なさると、あの事件はお聞きあそばしていらしたが、どうして知っている顔をしていられようかとお思いになって、ただじっと顔を窺っていらっしゃると、
 院のお居間へも来た大将を御覧になって、院は新事実を知っておいでになったが、知った顔を見せる必要はないとしておいでになって、ただ顔をながめておいでになるのであった。
  Omahe ni mawiri tamahe re ba, kano koto ha kikosimesi tare do, nanikaha kikigaho ni mo to oboi te, tada uti-mamori tamahe ru ni,
6.1.21  「 いとめでたくきよらに、このころこそねびまさりたまへる御盛りなめれ。 さるさまの好き事をしたまふとも、人のもどくべきさまもしたまはず。鬼神も罪許しつべく、あざやかにものきよげに、若う盛りに匂ひを散らしたまへり。
 「実に素晴らしく美しくて、最近特に男盛りになったようだ。そのような浮気事をなさっても、人が非難すべきご様子もなさっていない。鬼神も罪を許すに違いなく、鮮やかでどことなく清らかで、若々しく今を盛りに生気溌剌としていらっしゃる。
 それは非常に美しくて今が男の美の盛りのような夕霧であった。今問題になっているような恋愛事件をこの人が起こしても、だれも当然のことと認めてしまうに違いないと思召された。鬼神でも罪を許すであろうほどな鮮明な美貌びぼうからは若い光とにおいが散りこぼれるようである。
  "Ito medetaku kiyora ni, konokoro koso nebi masari tamahe ru ohom-sakari na' mere. Saru sama no sukigoto wo si tamahu tomo, hito no modoku beki sama mo si tamaha zu. OniGami mo tumi yurusi tu beku, azayakani mono kiyoge ni, wakau sakari ni nihohi wo tirasi tamahe ri.
6.1.22   もの思ひ知らぬ若人のほどにはたおはせず、かたほなるところなうねびととのほりたまへる、 ことわりぞかし。女にて、 などかめでざらむ。鏡を見ても、などかおごらざらむ」
 何の分別もない若い人ではいらっしゃらず、どこからどこまですっかり成人なさっている、無理もないことだ。女性として、どうして素晴らしいと思わないでいられようか。鏡を見ても、どうして心奢らずにいられようか」
 感情にまだ多少の欠陥のある青年者でもなく、どこも皆完全に発達したきれいな貴人であると院は御覧になって、問題の起こるのももっともである。女でいてこの人を愛せずにおられるはずもなく、鏡を見てみずから慢心をせぬわけもなかろう
  Mono-omohi sira nu wakaudo no hodo ni hata ohase zu, kataho naru tokoro nau nebi totonohori tamahe ru, kotowari zo kasi. Womna nite, nadoka mede zara m. Kagami wo mi te mo, nadoka ogora zara m."
6.1.23  と、わが御子ながらも、思す。
 と、ご自分のお子ながらも、そうお思いになる。
 とわが子ながらもお思いになる院でおありになった。
  to, waga ohom-ko nagara mo, obosu.
注釈758東の上花散里。夕霧の母代。6.1.1
注釈759一条の宮以下「いかなる御ことにかは」まで、花散里の詞。6.1.2
注釈760いかなる御ことにかは疑問の構文。下に「あらむ」などの語句が省略。6.1.2
注釈761御几帳添へたれど夕霧との間に御簾の他にさらに御几帳を添えて隔てている、意。6.1.3
注釈762側よりほのかにはなほ見えたてまつりたまふ主語は花散里。『集成』は「養母としての花散里の飾らない人柄が示されている」。『完訳』は「彼女が夕霧を見たいためでもある」と注す。6.1.3
注釈763さやうにもなほ人の以下「さかなきものにあれ」まで、夕霧の詞。6.1.4
注釈764また見譲るべき人のなき大島本は「ゆつる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見譲る」と「見」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。自分夕霧以外に世話をする人はいない、意。6.1.4
注釈765亡からむ後の後見にとやうなることのはべりしかば御息所から夕霧に贈られた「女郎花」歌を踏まえて言う。6.1.4
注釈766もとよりの心ざしもはべりしことにて『完訳』は「柏木の遺言をさすか」「もとより故人とのよしみもございますこととて」と注す。6.1.4
注釈767かく思たまへなりぬるを落葉宮を宮邸に迎えて結婚したことをさす。6.1.4
注釈768あやしう人こそもの言ひさがなきものにあれ『河海抄』は「ここにしも何匂ふらむ女郎花人の物言ひさがにくき世に」(拾遺集雑秋、一〇九八、僧正遍昭)を指摘。6.1.4
注釈769とうち笑ひつつ夕霧の会話文と会話文の間に挿入した地の文。余裕を見せた笑み。6.1.5
注釈770かの正身なむ以下「はべりけれ」まで、夕霧の詞。落葉宮をさす。6.1.6
注釈771尼になりなむと「なり」動詞、連用形、「な」完了の助動詞、確述の意、「む」推量の助動詞、意志の意。尼になってしまいたい、の意。なお願望の終助詞「なむ」は未然形に接続し、他に対する誂えの願望を表す。自らの願望は終助詞「ばや」である。6.1.6
注釈772何かは『集成』は「正しくは反語で受けるべきであるが、「またかの遺言は違へじ」で受けられる」と注す。6.1.6
注釈773さやうに嫌疑離れても夕霧との仲の嫌疑を離れるとは、出家し尼になったとしても、の意。6.1.6
注釈774かの遺言は違へじと御息所が宮の後見を頼むという遺言。6.1.6
注釈775院の渡らせたまへらむにも源氏がこちらにいらっしゃった時に。6.1.7
注釈776思しのたまはむを主語は源氏。6.1.7
注釈777げにかやうの筋にてこそ『完訳』は「恋は盲目と世間で言うとおり」と注す。6.1.7
注釈778人のいつはりにやと以下「のとやかに慣らひたまうて」まで、花散里の詞。6.1.9
注釈779三条の姫君の思さむことこそいとほしけれ雲居雁をさす。夕霧の北の方を「姫君」と、ちょっと変わった言い方をした。6.1.9
注釈780慣らひたまうて接続助詞「て」逆接の意で言いさした、余情表現。6.1.9
注釈781らうたげにも以下「さがなものを」まで、夕霧の詞。「らうたげに」は花散里の「姫君」という呼称のしかたをさしていう。6.1.11
注釈782などてかそれをも「見たてまつり果てはべりぬれ」まで、夕霧の詞。「それ」は雲居雁をさす。「などてか--はべらむ」反語構文。6.1.11
注釈783御ありさまどもにても推し量らせたまへ六条院のご夫人方のお互いに嫉妬しないありさまからご想像してほしい、の意。6.1.11
注釈784ことの乱れ出で来ぬる後浮気沙汰が表面化した後。6.1.12
注釈785南の御殿の御心もちゐこそ紫の上の気立てをいう。6.1.13
注釈786さてはこの御方の御心などこそは紫の上に次いでは、こちら花散里の気立てが、の意。6.1.13
注釈787もののためしに以下「おぼえはべれ」まで、花散里の詞。6.1.15
注釈788引き出でたまふほどに目的語は花散里自分を。6.1.15
注釈789身の人悪ろきおぼえこそあらはれぬべう『完訳』は「夫からの冷遇に腹も立てない女の手本にされるのでは、名誉でもない、の気持。軽い皮肉である」と注す。係助詞「こそ」の結びは流れている。「べけれ」と言い切った表現よりも言いさした表現に余情効果が生じる。6.1.15
注釈790さてをかしきことは院のみづからの話題転換、源氏の身の上について話題を転じる。6.1.16
注釈791いささかあだあだしき御心づかひをば夕霧の「あだあだしき御心遣ひ」をさす。6.1.16
注釈792大事と思いて主語は源氏。6.1.16
注釈793さなむ常に以下「をさめてはべる心を」まで、夕霧の詞。「仰せらるる」は連体中止法、余情表現と見る。6.1.18
注釈794この道を女性関係の問題をさす。6.1.18
注釈795をさめてはべる心を夕霧自身の心。「を」間投助詞、詠嘆の意。6.1.18
注釈796御前に参りたまへれば夕霧が源氏の御前に。6.1.20
注釈797何かは聞き顔にも源氏の心中。「何かは」反語表現。「聞き顔にも」の下に「見えむ」などの語句が省略。6.1.20
注釈798いとめでたくきよらに以下「などかおごらざらむ」まで、源氏の目に映じた夕霧の姿を心中に思う。『完訳』は「夕霧二十九歳。父親としての源氏の目と心にそって貫祿十分なその風姿が語られる」と注す。6.1.21
注釈799さるさまの好き事をしたまふとも落葉宮との関係をさす。6.1.21
注釈800もの思ひ知らぬ若人のほどにはたおはせず夕霧をさしていう。6.1.22
注釈801ことわりぞかし挿入句。上の「ねびととのほりたまへる」は下の「女にて」の原因理由を表す。6.1.22
注釈802などかめでざらむ反語表現。誰でも素晴らしいと思う、の意。6.1.22
校訂22 見譲る 見譲る--*ゆつる 6.1.4
6.2
第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う


6-2  Kumoinokari is cosumed with jealosy

6.2.1   日たけて、殿には渡りたまへり入りたまふより、若君たち、すぎすぎうつくしげにて、まつはれ遊びたまふ。 女君は、帳の内に臥したまへり
 日が高くなって、殿にお帰りになった。お入りになるや、若君たちが、次々とかわいらしい姿で、纏わりついてお遊びになる。女君は、御帳台の中に臥せっていらっしゃった。
 昼近くなって大将は三条の家へ帰ったのであった。家へはいるともうすぐに何人もの同じほどの子供たちがそばへまつわりに来た。夫人は帳台の中に寝ていた。
  Hi take te, tono ni ha watari tamahe ri. Iri tamahu yori, WakaGimi-tati, sugisugi utukusige nite, matuhare asobi tamahu. WomnaGimi ha, tyau no uti ni husi tamahe ri.
6.2.2   入りたまへれど、目も見合はせたまはず。 つらきにこそはあめれ、と見たまふもことわりなれど、憚り顔にももてなしたまはず、御衣をひきやりたまへれば、
 お入りになったが、目もお合わせにならない。ひどいと思っているのであろう、と御覧になるのもごもっともであるが、遠慮した素振りもお見せにならず、お召し物を引きのけなさると、
 大将がそこへ行っても目も見合わせようとしない。恨めしいのであろう、もっともであると夕霧も知っているのであるが、気にとめぬふうをして夫人の顔の上にかかった夜着の端をのけると、
  Iri tamahe re do, me mo mi aha se tamaha zu. Turaki ni koso ha a' mere, to mi tamahu mo kotowari nare do, habakarigaho ni mo motenasi tamaha zu, ohom-zo wo hikiyari tamahe re ba,
6.2.3  「 いづことておはしつるぞまろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」
 「ここをどこと思っていらっしゃったのですか。わたしはとっくに死にました。いつも鬼とおっしゃるので、同じことならすっかりなってしまおうと思って」
 「ここをどこと思っておいでになったのですか。私はもう死んでしまいましたよ。平生から私のことを鬼だとお言いになりますから、いっそほんとうの鬼になろうと思って」
  "Iduko tote ohasi turu zo? Maro ha hayau sini ki. Tuneni oni to notamahe ba, onaziku ha nari hate na m tote."
6.2.4  とのたまふ。
 とおっしゃる。
 と夫人は言った。
  to notamahu.
6.2.5  「 御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」
 「お心は、鬼以上でいらっしゃるが、姿形は憎らしくもないので、すっかり嫌いになることはできないな」
 「あなたの気持ちは鬼以上だけれど、あなたの顔はそうでないから私はきらいになれないだろう」
  "Mi-kokoro koso, oni yori keni mo ohasure, sama ha nikuge mo nakere ba, e utomi hatu mazi."
6.2.6  と、何心もなう言ひなしたまふも、 心やましうて
 と、何くわぬ顔でおっしゃるのも、癪にさわって、
 何一つやましいこともないようにこんな冗談じょうだんを言う良人おっとを夫人は不快に思って、
  to, nanigokoro mo nau ihi nasi tamahu mo, kokoroyamasiu te,
6.2.7  「 めでたきさまになまめいたまへらむあたりに、 あり経べき身にもあらねば、いづちもいづちも 失せなむとするを、かくだにな思し出でそ。あいなく年ごろを経けるだに、悔しきものを」
 「結構な姿形で優美に振る舞っていらっしゃるお方に、いつまでも連れ添っていられる身でもありませんので、どこへなりとも消え失せようと思うのを、このようにさえお思い出しますな。いつのまにか過ごした年月さえ、惜しく思われるものを」
 「美しい恋をする人たちの中に混じって生きていられない私ですから、どんな所でも行ってしまいます、もうあなたの念頭になぞ置かれたくない。長くいっしょにいたことすら後悔しているのですから」
  "Medetaki sama ni namamei tamahe ra m atari ni, ari hu beki mi ni mo ara ne ba, iduti mo iduti mo use na m to suru wo, kaku dani na obosi ide so. Ainaku tosigoro wo he keru dani, kuyasiki mono wo."
6.2.8  とて、起き上がりたまへるさまは、いみじう愛敬づきて、 匂ひやかにうち赤みたまへる顔、いとをかしげなり。
 と言って、起き上がりなさった様子は、たいそう愛嬌があって、つやつやとして赤くなった顔、実に美しい。
 と言って、起き上がった夫人の愛嬌あいきょうのある顔が真赤まっかになっていて一種の魅力をもっていた。
  tote, okiagari tamahe ru sama ha, imiziu aigyauduki te, nihohiyaka ni uti-akami tamahe ru kaho, ito wokasige nari.
6.2.9  「 かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は恐ろしくもあらずなりにたれ。神々しき気を添へばや」
 「このように子供っぽく腹を立てていらっしゃるからでしょうか、見慣れて、この鬼は、今では恐ろしくもなくなってしまったなあ。神々しい感じを加わえたいものだ」
 「子供らしく始終腹をたてる鬼だから、もう見なれておそろしい気はしなくなった。少し恐ろしいところを添えたいね」
  "Kaku kokorowosanage ni haradati nasi tamahe re ba ni ya, menare te, kono oni koso, ima ha osorosiku mo ara zu nari ni tare. Kaugausiki ke wo sohe baya."
6.2.10  と、戯れに言ひなしたまへど、
 と、冗談事におっしゃるが、
 と良人が冗談事じょうだんごとにしてしまおうとするのを、
  to, tahabure ni ihi nasi tamahe do,
6.2.11  「 何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」
 「何を言うの。あっさりと死んでおしまいなさい。わたしも死にたい。見ていると憎らしい。聞くも気にくわない。後に残して死ぬのは気になるし」
 「何を言っているのですか。おとなしく死んでおしまいなさいよ。私も死にますよ。いろんなことを聞いているとますますあなたがいやになりますよ。置いて死ねばまたどんなことをなさるかと気がかりだから」
  "Nanigoto ihu zo? Oyirakani sini tamahi ne. Maro mo sina m. Mire ba nikusi. Kike ba aigyau nasi. Misute te sina m ha usirometasi."
6.2.12  とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、 こまやかに笑ひて
 とおっしゃるが、とても愛らしさが増すばかりなので、心からにっこりして、
 と腹をたてるのであるが、ますます愛嬌の出てくる夫人を夕霧は笑顔えがおで見ながら、
  to notamahu ni, ito wokasiki sama nomi masare ba, komayakani warahi te,
6.2.13  「 近くてこそ見たまはざらめ、 よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」
 「近くで御覧にならなくても、よそながらどうして噂をお聞きにならないわけには行きますまい。そうして、夫婦の縁の深いことを分からせようとのおつもりのようですね。急に続くような冥土への旅立ちは、そのようにお約束申したからね」
 「近くで見るのがいやになっても、私の噂を無関心には聞かないでしょう。あなたはどんなに二人の宿縁の深いかを知らすために、私を殺して自分も死のうというのですね。二人の葬儀をいっしょにしてもらうというような約束は前にしてあったのだからね」
  "Tikaku te koso mi tamaha zara me, yoso ni ha nanika kiki tamaha zara m. Satemo, tigiri hukaka' naru se wo sirase m no mi-kokoro na' nari. Nihakani uti-tuduku beka' naru yomidi no isogi ha, sakoso ha tigiri kikoye sika."
6.2.14  と、 いとつれなく言ひて何くれと慰めこしらへきこえ慰めたまへばいと若やかに心うつくしう、らうたき心はたおはする人なれば、なほざり言とは見たまひながら、おのづからなごみつつものしたまふを、 いとあはれと思すものから、心は空にて、
 と、まこと素っ気なく言って、何やかやと宥めすかし申し慰めなさると、とても若々しく素直で、かわいらしいお心の持ち主でいらっしゃる方なので、口からの出まかせの言葉とはお思いになりながら、自然と和らいでいらっしゃるのを、とても愛しい人だとお思いになる一方で、心はうわの空で、
 大将はまだ夫人の嫉妬しっとに取り合わないふうをして、いろいろにすかしたり、なだめたりしていると、若々しく単純な性質の夫人であるから、良人の言葉はいいかげんな言葉であると思いながらも機嫌きげんが直ってゆくのを、哀れに思いながらも、大将の心は一条の宮へ飛んでいた。
  to, ito turenaku ihi te, nanikure to nagusame kosirahe kikoye nagusame tamahe ba, ito wakayaka ni kokoroutukusiu, rautaki kokoro hata ohasuru hito nare ba, nahozarigoto to ha mi tamahi nagara, onodukara nagomi tutu monosi tamahu wo, ito ahare to obosu monokara, kokoro ha sora nite,
6.2.15  「 かれも、いとわが心を立てて、強うものものしき人のけはひには見えたまはねど、もしなほ 本意ならぬことにて、尼になども思ひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな」
 「あの方も、とても我を張って、強く頑固な人の様子にはお見えではないが、もしやはり不本意なことと思って、尼などになっておしまいになったら、馬鹿らしくもあるな」
 あちらも意志の強いばかりの女性とはお見えにならぬが、やはり自分との結婚を肯定することはできずに、尼にでもなっておしまいになれば、自分の不名誉である
  "Kare mo, ito waga kokoro wo tate te, tuyou monomonosiki hito no kehahi ni ha miye tamaha ne do, mosi naho ho'i nara nu koto nite, ama ni nado mo omohi nari tamahi na ba, wokogamasiu mo abei kana!"
6.2.16  と思ふに、 しばしはとだえ置くまじう、あわたたしき心地して、暮れゆくままに、「 今日も御返りだになきよ」と思して、 心にかかりつつ、いみじう眺めをしたまふ。
 と思うと、暫くの間は絶え間なく通おうと、落ち着いていられない気がして、日が暮れて行くにつれて、「今日もお返事さえなかったな」とお思いになって、気にかかりながら、ひどく物思いに耽っていらっしゃる。
 と思うと、当分は毎夜あちらに行っていねばならぬとあわただしい気がして、日の暮れていく空をながめても、まだ今日でさえお返事をくださらないではないかと煩悶はんもんされた。
  to omohu ni, sibasi ha todaye oku maziu, awatatasiki kokoti si te, kure yuku mama ni, "Kehu mo ohom-kaheri dani naki yo!" to obosi te, kokoro ni kakari tutu, imiziu nagame wo si tamahu.
注釈803日たけて殿には渡りたまへり夕霧、日が高くなってから三条殿に帰邸。6.2.1
注釈804入りたまふより若君たち格助詞「より」時間の起点を表す、入るや否や、の意。6.2.1
注釈805女君は帳の内に臥したまへり『完訳』は「雲居雁は一睡もせず夕霧の帰邸を待っていたのだろう」と注す。6.2.1
注釈806入りたまへれど夕霧が御帳台の中に。6.2.2
注釈807つらきにこそはあめれ夕霧の心中。雲居雁の気持を推察。6.2.2
注釈808いづことておはしつるぞ以下「なり果てなむとて」まで、雲居雁の詞。皮肉をこめた言い方。6.2.3
注釈809まろは早う死にき『源注拾遺』は「あらばこそ初めも果ても思ほえめ今日にも逢はで消えにしものを」(大和物語)「恋しとも今は思はず魂の逢ひ見ぬさきに亡くなりぬれば」(興風集)を指摘。6.2.3
注釈810御心こそ鬼より以下「え疎みはつまじ」まで、夕霧の詞。『完訳』は「相手の言葉じりを捉えてからかい、美貌をほめて機嫌をとる」と注す。係助詞「こそ」--「おはすれ」已然形、読点、逆接用法。『源注拾遺』は「恋しくは影をだに見て慰めよ我が打ち解けて忍ぶ顔なり」(後撰集恋五、九一〇、読人しらず)「影見ればいとど心ぞ惑はるる近からぬけの疎きなりけり」(後撰集恋五、九一一、伊勢)を指摘。6.2.5
注釈811心やましうて『完訳』は「雲居雁は真剣なだけに、夫のごまかしの冗談に腹が立つ」と訳す。6.2.6
注釈812めでたきさまに以下「くやしきものを」まで、雲居雁の詞。夕霧の姿をさしていう。6.2.7
注釈813あり経べき身にもあらねば雲居雁わが身をいう。6.2.7
注釈814失せなむとするをかくだにな思し出でそ大島本は「うせなむとする越」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「失せなむとす。なほ」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。『集成』は「今日のようにたまに思い出して尋ねてくるようなこともしてほしくない、の意」。『完訳』は「「さまは憎げも--」を受け、私を美貌とさえ思い出すな、の意。相手のうれしがらせが快く耳に残った。人の好さが躍如」と注す。6.2.7
注釈815匂ひやかにうち赤みたまへる顔『完訳』は「興奮して赤らむ顔も魅力的」と注す。6.2.8
注釈816かく心幼げに以下「神々しき気を添へばや」まで、夕霧の詞。からかいの言葉。6.2.9
注釈817何ごと言ふぞ以下「うしろめたし」まで、雲居雁の詞。『完訳』は「雲居雁はいよいよ興奮。相手への敬語も省く。以下、短い言葉を矢つぎばやに発する」と注す。6.2.11
注釈818こまやかに笑ひて『集成』は「こみあげるように」。『完訳』は「にこやかな笑顔になって」と訳す。6.2.12
注釈819近くてこそ以下「契りきこえしか」まで、夕霧の詞。係助詞「こそ」--「見たまはざらめ」已然形、逆接用法。「見たまはざらめ」の目的語は、わたし夕霧を。6.2.13
注釈820よそにはなにか大島本は「なにか」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「などか」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。「なにか」--「聞きたまはざらむ」反語表現。6.2.13
注釈821いとつれなく言ひて『集成』は「相手にもせずあしらって」。『完訳』は「まったく取り合う様子もなくあしらって」と訳す。6.2.14
注釈822何くれと慰めこしらへきこえ慰めたまへば大島本は「なにくれとなくさめこしらへきこえなくさめ給へハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「何くれとこしらへきこえ慰めたまへば」と「慰め」を削除する。『新大系』は底本のままとする。6.2.14
注釈823いと若やかに心うつくしう雲居雁の心根。6.2.14
注釈824いとあはれと思すものから主語は夕霧。6.2.14
注釈825かれもいとわが心を以下「あべいかな」まで、夕霧の詞。落葉宮を思う。6.2.15
注釈826本意ならぬことにて夕霧との結婚を不本意なことと考えて。6.2.15
注釈827しばしはとだえ置くまじう結婚当初だから絶え間なく通おうと。6.2.16
注釈828今日も御返りだになきよ夕霧の心中。落葉宮のもとからの返書。6.2.16
注釈829心にかかりつつ大島本は「心にかゝりつゝ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心にかかりて」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。6.2.16
6.3
第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す


6-3  Kumoinokari and Yugiri compose and change waka

6.3.1  昨日今日 つゆも参らざりけるもの、いささか参りなどしておはす。
 昨日今日と全然お召し上がりにならなかった食事を、少々はお召し上がりになったりなどしていらっしゃる。
 昨日から今日へかけて何一つ食べなかった夫人が夕食をとったりしていた。
  Kinohu kehu tuyu mo mawira zari keru mono, isasaka mawiri nado si te ohasu.
6.3.2  「 昔より、御ために心ざしのおろかならざりしさま、大臣のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴れがましき名を取りしかど、堪へがたきを念じて、 ここかしこ、すすみけしきばみしあたりを、あまた聞き過ぐししありさまは、 女だにさしもあらじとなむ、 人ももどきし
 「昔から、あなたのために愛情が並大抵でなかった事情は、大臣がひどいお扱いをなさったために、世間から愚かな男だとの評判を受けたが、堪えがたいところを我慢して、あちらこちらが、進んで申し込まれた縁談を、たくさん聞き流して来た態度は、女性でさえそれほどの人はいるまいと、世間の人も皮肉った。
 「昔から私はあなたのために、どれほどの苦労をしたことだろう。大臣が冷酷な処置をおとりになったから、失恋男とだれにも言われるのを我慢して、あちこちからある縁談を皆断わって、すべて棄権をしてしまっていたようなことは女だってそうはできないことだと皆言いましたよ。どうしてそんなにしていられただろうと、自分ながら若い時の自重心を認めないではいられないのですからね。
  "Mukasi yori, ohom-tame ni kokorozasi no oroka nara zari si sama, Otodo no turaku motenasi tamau si ni, yononaka no siregamasiki na wo tori sika do, tahe gataki wo nenzi te, kokokasiko, susumi kesikibami si atari wo, amata kiki sugusi si arisama ha, womna dani sasimo ara zi to nam, hito mo modoki si.
6.3.3  今思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、 いにしへだに重かりけりと思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、 思し捨つまじき人びと、いと所狭きまで数添ふめれば御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず。また、よし見たまへや。 命こそ定めなき世なれ
 今思うにつけても、どうしてそうであったのかと、自分ながらも、昔でさえ重々しかったと反省されるが、今は、このようにお憎みになっても、お捨てになることのできない子供たちが、とても辺りせましと数増えたようなので、あなたのお気持ち一つで出てお行きになることはできません。また、まあ見ていてくださいよ。寿命とは分からないのがこの世の常です」
 今のあなたは私をあくまで憎んでいても、愛すべき人たちが家の中いっぱいにいるのだから、あなた一人の問題ではなくなったような現在に、軽々しい挙動はできないではありませんか。よく見ていてください。どんなに変わらぬ愛を持っている私であるかを、長い将来に見てください。命だけではあなたとさえ引き離されることがあるでしょうがね」
  Ima omohu ni mo, ikadekaha sa ari kem to, waga kokoro nagara, inisihe dani omokari keri to omohi sira ruru wo, ima ha, kaku nikumi tamahu tomo, obosi sutu maziki hitobito, ito tokoroseki made kazu sohu mere ba, mi-kokoro hitotu ni mote-hanare tamahu beku mo ara zu. Mata, yosi mi tamahe ya. Inoti koso sadame naki yo nare."
6.3.4  とて、うち泣きたまふこともあり。 女も、昔のことを思ひ出でたまふに、
 と言って、お泣きになったりすることもある。女も、往時を思い出しなさると、
 こんな話になって大将は泣き出した。夫人も昔のことを思い出すと、
  tote, uti-naki tamahu koto mo ari. Womna mo, mukasi no koto wo omohi ide tamahu ni,
6.3.5  「あはれにもありがたかりし御仲の、 さすがに契り深かりけるかな
 「しみじみとも世に又となく仲睦まじかった二人の仲が、何と言っても前世の約束が深かったのだな」
 あんなにもして周囲に打ち勝って育ててきた恋から夫婦になっている自分たちではないかと、さすがに宿縁の深さも
  "Ahare ni mo arigatakari si ohom-naka no, sasugani tigiri hukakari keru kana!"
6.3.6  と、思ひ出でたまふ。 なよびたる御衣ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねて焚きしめたまひ、めでたうつくろひ化粧じて出でたまふを、灯影に見出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単衣の袖をひき寄せたまひて、
 と、お思い出しなさる。柔らかくなったお召し物をお脱ぎになって、新調の素晴らしいのを重ねて香をたきしめなさり、立派に身繕いし化粧してお出かけになるのを、灯火の光で見送って、堪えがたく涙が込み上げて来るので、脱ぎ置きなさった単衣の袖を引き寄せなさって、
 思われるのであった。畳み目の消えた衣服をぎ捨てて、ことにきれいなのを幾つも重ね、薫香たきものそでくすべることもして、化粧もよくした良人が出かけて行く姿を、の明りで見ていると涙が流れてきた。夕霧の脱いだ単衣ひとえの袖を、夫人は自分の座のほうへ引き寄せて、
  to, omohi ide tamahu. Nayobi taru ohom-zo-domo nui tamau te, kokoro koto naru wo tori kasane te takisime tamahi, medetau tukurohi kesauzi te ide tamahu wo, hokage ni miidasi te, sinobi gataku namida no ide kure ba, nugi tome tamahe ru hitohe no sode wo hikiyose tamahi te,
6.3.7  「 馴るる身を恨むるよりは松島の
   海人の衣に裁ちやかへまし
 「長年連れ添って古びたこの身を恨んだりするよりも
  いっそ尼衣に着替えてしまおうかしら
  「るる身を恨みんよりは松島の
  あまの衣にたちやかへまし
    "Naruru mi wo uramuru yori ha Matusima no
    ama no koromo ni tati ya kahe masi
6.3.8   なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり
 やはり俗世の人のままでは、生きて行くことができないわ」
 どうしてもこのままでは辛抱しんぼうができない」
  Naho utusibito nite ha, e sugusu mazikari keri."
6.3.9  と、独言にのたまふを、立ち止まりて、
 と、独言としておっしゃるのを、立ち止まって、
 と独言ひとりごとするのに夕霧は気づくと、出かける足をとめて、
  to, hitorigoto ni notamahu wo, tati-tomari te,
6.3.10  「 さも心憂き御心かな
 「何とも嫌なお心ですね。
 「ほんとうに困った心ですね。
  "Samo kokorouki mi-kokoro kana!
6.3.11    松島の海人の濡衣なれぬとて
   脱ぎ替へつてふ名を立ためやは
  いくら長年連れ添ったからといって、わたしを見限って
  尼になったという噂が立ってよいものでしょうか
  松島のあまの濡衣ぬれぎぬれぬとて
  脱ぎ変へつてふ名を立ためやは」
    Matusima no ama no nureginu nare nu tote
    nugi kahe tu tehu na wo tata me yaha
6.3.12   うち急ぎて、いとなほなほしや
 急いでいて、とても平凡な歌であるよ。
 と言った。急いだからであろうが平凡な歌である。
  Uti isogi te, ito nahonahosi ya!
注釈830つゆも参らざりけるもの主語は雲居雁。6.3.1
注釈831昔より御ために心ざしの以下「命こそ定めなき世なれ」まで、夕霧の詞。
【御ために心ざしの】-あなたのためにわたしの気持ちの、の意。
6.3.2
注釈832ここかしこすすみけしきばみしあたりを「ここかしこ」が主語。縁談を申し込んできた。6.3.2
注釈833女だにさしもあらじ女性には多数の縁談の申し込みを断ることがよくある、というのが前提になっている。6.3.2
注釈834人ももどきし世間の人が皮肉った。6.3.2
注釈835いにしへだに重かりけりまして現在は昔以上に重々しい、の含み。6.3.3
注釈836思し捨つまじき人びといと所狭きまで数添ふめれば夕霧と雲居雁の間にできた子供たちをさす。6.3.3
注釈837御心ひとつにあなた雲居雁の考え一つで。6.3.3
注釈838命こそ定めなき世なれ『集成』は「人の命は不定だが、私のあなたへの情愛は不変だ、の意」と注す。係助詞「こそ」--「なれ」已然形の係結び、逆接のニュアンスの余意余情表現。6.3.3
注釈839女も『完訳』は「男女関係強調の呼称」と注す。6.3.4
注釈840さすがに契り深かりけるかな『完訳』は「恨めしくもあるが、やはり。雲居雁は素直な性格を印象づける」と注す。6.3.5
注釈841なよびたる御衣ども脱いたまうて主語は夕霧。6.3.6
注釈842馴るる身を恨むるよりは松島の--海人の衣に裁ちやかへまし雲居雁の独詠歌。手にとった源氏の下着から「馴るる」と出る。「恨む」「裏」、「尼」「海人」は掛詞。「馴るる」「裏」「衣」「裁ち」、「浦」「松島」は縁語。『完訳』は「夫に飽きられた悲しみを、衣の縁語表現でまとめた歌」と注す。6.3.7
注釈843なほうつし人にてはえ過ぐすまじかりけり歌に付いて出た言葉。『源氏釈』は「かひすらも妹背ぞなべてある物をうつし人にて我ひとり寝る」(出典未詳)を指摘。6.3.8
注釈844さも心憂き御心かな夕霧の詞。6.3.10
注釈845松島の海人の濡衣なれぬとて--脱ぎ替へつてふ名を立ためやは夕霧の返歌。「松島」「海人」「馴る」「裁つ」の語句を受けて返す。「やは」反語表現。私を捨てて尼になったという噂が立ってよいものか。『河海抄』は「松島や小島の磯にあさりせし海人の袖こそかくは濡れしか」(後拾遺集恋四、八二八、源重之)。『源氏物語事典』は「音に聞く松が浦島今日ぞ見るむべも心あるあまは住みけり」(後撰集雑一、一〇九四、素性法師)を指摘。6.3.11
注釈846うち急ぎていとなほなほしや三光院説「草子地也」と指摘。『全集』は「語り手の夕霧に対するからかい。読者の夕霧に対する非難を先取りする軽い諧謔」と注す。6.3.12
6.4
第四段 塗籠の落葉宮を口説く


6-4  Yugiri persuades Ochiba-no-Miya to get married

6.4.1   かしこにはなほさし籠もりたまへるを、人びと、
 あちらには、やはり籠もっていらっしゃるのを、女房たちが、
 一条ではまだ前夜のまま宮が内蔵くらからお出にならないために、女房たちが、
  Kasiko ni ha, naho sasi-komori tamahe ru wo, hitobito,
6.4.2  「 かくてのみやは。若々しうけしからぬ聞こえもはべりぬべきを、 例の御ありさまにて、あるべきことをこそ聞こえたまはめ」
 「こうしてばかりいらしてよいものでしょうか。子供っぽく良くない噂も立つでございましょうから、いつものご座所に戻って、お考えのほどを申し上げなさいませ」
 「こんなふうにいつまでもしておいでになりましては、若々しい、もののおわかりにならぬ方だという評判も立ちましょうから、平生のお座敷へお帰りになりまして、そちらでお心持ちを殿様の御了解なさいますようにお話しあそばせばよろしいではございませんか」
  "Kaku te nomi yaha! Wakawakasiu kesikara nu kikoye mo haberi nu beki wo, rei no ohom-arisama nite, aru beki koto wo koso kikoye tamaha me."
6.4.3  など、よろづに聞こえければ、さもあることとは思しながら、今より後のよその聞こえをも、わが御心の過ぎにし方をも、 心づきなく、恨めしかりける人のゆかりと思し知りて、その夜も対面したまはず。「 戯れにくく、めづらかなり」と、聞こえ尽くしたまふ。 人もいとほしと見たてまつる
 などと、いろいろと申し上げたので、もっともなことだとお思いになりながら、今から以後の世間での噂も、自分のどのようなお気持ちで過ごして来たかも、気にくわなく、恨めしかった方のせいだとお考えになって、その夜もお会いなさらない。「冗談ではなく、変わった方だ」と、言葉を尽くして恨みのたけを申し上げなさる。女房もお気の毒だと拝す。
 と言うのを、もっともなことに宮もお思いになるのであるが、世間でこれからの御自身がお受けになるそしりもつらく、過去のあるころにその人に好意を持っておいでになった御自身をさえ恨めしく、そんなことから母君を失ったとお考えになると最もいとわしくて、この晩もおいにはならなかった。「あまりに、御冷酷過ぎる」こんな気持ちをいろいろに言って取り次がせて夕霧はいた。女房たちも同情をせずにおられないのであった。
  nado, yorodu ni kikoye kere ba, samo aru koto to ha obosi nagara, ima yori noti no yoso no kikoye wo mo, waga mi-kokoro no sugi ni si kata wo mo, kokorodukinaku, uramesikari keru hito no yukari to obosi siri te, sono yo mo taimen si tamaha zu. "Tahaburenikuku, meduraka nari." to, kikoye tukusi tamahu. Hito mo itohosi to mi tatematuru.
6.4.4  「『 いささかも人心地する折あらむに忘れたまはずはともかうも聞こえむこの御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむ』となむ、深く思しのたまはするを、かくいと あやにくに知らぬ人なくなりぬめるを、なほいみじうつらきものに聞こえたまふ」
 「『わずかでも人心地のする時があろうときに、お忘れでなかったら、何なりとお返事申し上げましょう。この御服喪期間中は、せめて他の事で頭を思い乱すことなく過ごしたい』と、深くお思いになりおっしゃっていますが、このようにまことに都合悪く、知らない人のなくなってしまったようなことを、やはりひどくお辛いことと申し上げておいでです」
 「少しでも普通の人らしい気分が帰ってくる時まで、忘れずにいてくだすったならとおっしゃるのでございます。母君の喪中だけはほかのことをいっさい思わずに謹慎して暮らしたいという思召しが濃厚でおありあそばす一方では、知らぬ者がないほどにあなた様のことが世間へ知れましたのを残念がっておいでになるのでございます」
  "'Isasaka mo hitogokoti suru wori ara m ni, wasure tamaha zu ha, tomokaumo kikoye m. Kono ohom-buku no hodo ha, hitosudi ni omohi midaruru koto naku te dani sugusa m.' to nam, hukaku obosi notamahasuru wo, kaku ito ayaniku ni, sira nu hito naku nari nu meru wo, naho imiziu turaki mono ni kikoye tamahu."
6.4.5  と聞こゆ。
 と申し上げる。

  to kikoyu.
6.4.6  「 思ふ心は、また異ざまにうしろやすきものを。思はずなりける世かな」とうち嘆きて、「 例のやうにておはしまさば、物越などにても、思ふことばかり聞こえて、御心破るべきにもあらず。あまたの年月をも過ぐしつべくなむ」
 「愛する気持ちは、また普通の人とは違って安心ですのに。思いも寄らない目に遭うものですね」と嘆息して、「普通のご気分でいらっしゃったら、物越しなどでも、自分の気持ちだけでも申し上げて、お心を傷つけるようなことはしません。何年でもきっとお待ちしましょう」
 「私の愛はうわさとか何とかいうものに左右されない絶大なものなのだがね。そんなことが理解していただけないとは苦しいものだ」
 と大将は歎息して、「普通にお居間のほうへおいでになれば、物越しで私の心持ちをお話しするだけにとどめて、それ以上のことはまだいつまでも待っていていいのです」
  "Omohu kokoro ha, mata kotozama ni usiroyasuki mono wo. Omohazu nari keru yo kana!" to uti-nageki te, "Rei no yau nite ohasimasa ba, monogosi nado nite mo, omohu koto bakari kikoye te, mi-kokoro yaburu beki ni mo ara zu. Amata no tosituki wo mo sugusi tu beku nam."
6.4.7  など、尽きもせず聞こえたまへど、
 などと、どこまでも申し上げなさるが、
 同じようなことをまた取り次がせるのであったが、
  nado, tuki mo se zu kikoye tamahe do,
6.4.8  「 なほ、かかる乱れに添へてわりなき御心なむいみじうつらき。人の聞き思はむことも、よろづになのめならざりける身の憂さをば、さるものにて、ことさらに心憂き御心がまへなれ」
 「やはり、このような喪中の心の乱れに加えて、無理をおっしゃるお心がひどく辛い。他人が聞いて想像することも、すべていい加減なことで済まされないわが身の辛さは、それはそれとして措いても、格別に情けないお心づもりです」
 「弱いものがこんなに悲しみに疲れております際に、しいていろいろなことをおっしゃるのが非常にお恨めしく思われるのでございます。人が見てどう私が思われることでしょう。その一部は私の不幸なせいでもあるでしょうが、あなた様がお一人ぎめをあそばしたからだとこれを思います」
  "Naho, kakaru midare ni sohe te, warinaki mi-kokoro nam imiziu turaki. Hito no kiki omoha m koto mo, yorodu ni nanome nara zari keru mi no usa wo ba, saru mono nite, kotosarani kokorouki mi-kokorogamahe nare."
6.4.9  と、また言ひ返し恨みたまひつつ、 はるかにのみもてなしたまへり
 と、重ねて拒否してお恨みになりながら、つき放してお相手していらっしゃった。
 とまた御抗弁になった。
  to, mata ihi kahesi urami tamahi tutu, harukani nomi motenasi tamahe ri.
注釈847かしこには一条宮邸の落葉宮をさす。6.4.1
注釈848なほさし籠もりたまへるを塗籠の中に落葉宮が。6.4.1
注釈849かくてのみやは以下「聞こえたまはめ」まで、女房たちの詞。6.4.2
注釈850例の御ありさまにていつものご座所に戻って。6.4.2
注釈851心づきなく恨めしかりける人のゆかりと夕霧をさす。『一葉抄』は「双紙の地也」と注す。『集成』は「夕霧と結婚することに対する外部の悪評、夕霧のせいで母御息所の亡くなったを落葉の宮は思う」と注す。6.4.3
注釈852戯れにくくめづらかなり夕霧の詞。『異本紫明抄』は「ありぬやと試みがてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき」(古今集誹諧、一〇二五、読人しらず)を指摘。『完訳』は「冗談も言いにくく、非常識で融通もきかないほど珍しい、の意」と注す。6.4.3
注釈853人もいとほしと見たてまつる主語は小少将の君。目的語は夕霧とも落葉宮とも、また二人とも解せる。6.4.3
注釈854いささかも人心地する折あらむに以下「聞こえたまふ」まで、小少将の君の詞。ただし「いささかも」から「過ぐさむ」までは宮の言葉を伝えたもの。6.4.4
注釈855忘れたまはずは主語は夕霧。あなたがわたしを。6.4.4
注釈856ともかうも聞こえむ主語はわたし落葉宮。6.4.4
注釈857この御服のほどは『集成』は「御息所の喪に服している間は。一年間ということになる」と注す。6.4.4
注釈858あやにくに母親の服喪中にも関わらず夕霧と結婚したことをさす。6.4.4
注釈859知らぬ人なくなりぬめるを目的語、夕霧とのことを、が省略。6.4.4
注釈860思ふ心は以下「思はずなりける世かな」まで、夕霧の詞。6.4.6
注釈861例のやうにて以下「過ぐしつべくなむ」まで、夕霧の詞。6.4.6
注釈862なほかかる乱れに添へて以下「御心がまへなり」まで、落葉宮の詞。小少将の君を介して。喪中の悲しみに取り乱している折に、の意。6.4.8
注釈863わりなき御心夕霧の求婚。6.4.8
注釈864はるかにのみもてなしたまへり『異本紫明抄』は「陸奥のちかの塩釜近ながら遥けくのみも思ほゆるかな」(古今六帖、しほ)を指摘。6.4.9
6.5
第五段 夕霧、塗籠に入って行く


6-5  Yugiri comes into nurigome

6.5.1  「 さりとて、かくのみやは。人の聞き漏らさむこともことわり」と、はしたなう、ここの人目もおぼえたまへば、
 「そうかといって、こうしてばかりいられようか。人が洩れ聞くことも当然だ」と、きまり悪く、こちらの人目も気にかかりなさるので、
 まだ親しもうとあそばすふうはない。そうは言っても、いつまでも真の夫婦になりえないことは、人の口から世間へも伝わるであろうから恥ずかしいと、この女房たちに対してさえきまり悪く思う大将であった。
  "Saritote, kaku nomi yaha! Hito no kiki morasa m koto mo kotowari." to, hasitanau, koko no hitome mo oboye tamahe ba,
6.5.2  「 うちうちの御心づかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは 情けばまむ。世づかぬありさまの、いとうたてあり。また、かかりとて、ひき絶え参らずは、 人の御名 いかがはいとほしかるべき。ひとへにものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」
 「内々のお気づかいは、このおっしゃることに適っても、暫くの間はお気持ちに逆らわないでいよう。夫婦らしからぬ様子が、とても嫌である。また、こうだからといって、まったく参らなくなったら、あなたのご評判がどんなにかおいたわしいことでしょうか。一方的にお考えになって、大人げないのが困ったことです」
 「実際のことは宮様の御意志どおりの関係にとどめるにしても、この状態はあまりに変則だ。またそうであるからといって、私が断然来なくなったら、宮様はどういう世評をお取りになるだろう。あまりに人生を悲観なされ過ぎて、御幼稚な態度をお改めにならないのを私は宮様のために惜しむ」
  "Utiuti no mi-kokorodukahi ha, kono notamahu sama ni kanahi te mo, sibasi ha nasakebama m. Yoduka nu arisama no, ito utate ari. Mata, kakari tote, hiki-taye mawira zu ha, hito no ohom-na ikagaha itohosikaru beki. Hitoheni mono wo obosi te, wosanage naru koso itohosikere."
6.5.3  など、 この人を責めたまへばげにと思ひ 見たてまつるも今は心苦しう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、 人通はしたまふ塗籠の北の口より、入れたてまつりてけり。
 など、この女房をお責めになるので、なるほどと思って、拝するのも今はお気の毒になって、恐れ多くも思われる様子なので、女房を出入りさせなさる塗籠の北の口から、お入れ申し上げてしまった。
 などと大将が責めるのに道理があるように少将は思い、また夕霧の様子には気の毒で見ておられぬところがあって、女房たちが通って行く出入り口にしてある内蔵の北の戸から大将を入れた。
  nado, kono hito wo seme tamahe ba, geni to omohi, mi tatematuru mo ima ha kokorogurusiu, katazikenau oboyuru sama nare ba, hito kayohasi tamahu nurigome no kita no kuti yori, ire tatematuri te keri.
6.5.4   いみじうあさましうつらしと、 さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつべかりけりと、 頼もしき人もなくなり果てたまひぬる御身を、かへすがへす悲しう思す。
 ひどく驚いて情けなくむごいと、伺候している女房も、なるほどこのような世間の人の心だから、これ以上ひどい目に遭わせるに違いないと、頼りにする人もいなくなってしまった我が身を、かえすがえす悲しくお思いになる。
 ひどいことをする恨めしい人たちであると宮は女房をお思いになり、こうしてだれの心も利己的になるのであるから、これ以上のことを女房たちからされないものでもないとお考えになると、その人ら以外に頼む者のない今の御境遇をかえすがえす悲しくお思いになった。
  Imiziu asamasiu turasi to, saburahu hito wo mo, geni kakaru yo no hito no kokoro nare ba, kore yori masaru me wo mo mise tu bekari keri to, tanomosiki hito mo naku nari hate tamahi nuru ohom-mi wo, kahesu gahesu kanasiu obosu.
6.5.5   男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、 つらく心づきなしとのみ思いたり
 男は、いろいろと納得なさるような条理を尽くしてお説き申し上げ、言葉数多く、しみじみと気を引くようなことをどこまでも申し上げなさるが、辛く気にくわないとばかりお思いになっていた。
 男は宮のお心の動かねばならぬようにして多くささやくのであるが、宮はただ恨めしくばかりお思いになって、この人に親しみを見いだそうとはあそばさない。
  Wotoko ha, yorodu ni obosi siru beki kotowari wo kikoye sirase, kotonoha ohou, ahareni mo wokasiu mo kikoye tukusi tamahe do, turaku kokorodukinasi to nomi oboi tari.
6.5.6  「 いと、かう、言はむ方なきものに思ほされける 身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、 あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔しうおぼえはべれど、 とり返すものならぬうちに何のたけき御名にかはあらむ。いふかひなく思し弱れ。
 「まったく、このように、何とも言いようもない者に思われなさった身のほどは、例のないくらい恥ずかしいので、あってはならない考えがつき始まったのも、迂闊にも悔しく思われますが、昔に戻ることのできない関係で、何の立派なご評判がございましょうか。もう仕方のないこととお諦めください。
 「こんなふうにあらん限りの侮蔑ぶべつを加えられております私が非常に恥ずかしくて、あるまじい恋をし始めました初めの自分を後悔いたしますが、これは取り返しうるものではありませんし、あなた様のためにももうそれはしてならないことです。
  "Ito, kau, ihamkatanaki mono ni omohosa re keru mi no hodo ha, taguhi nau hadukasikere ba, arumaziki kokoro no tuki some kem mo, kokoti naku kuyasiu oboye habere do, torikahesu mono nara nu uti ni, nani no takeki ohom-na ni kaha ara m? Ihukahinaku obosi yoware.
6.5.7  思ふにかなはぬ時、身を投ぐるためしもはべなるを、ただかかる心ざしを 深き淵になずらへたまて、捨てつる身と思しなせ
 思い通りにならない時、淵に身を投げる例もございますそうですが、ただこのような愛情を深い淵だとお思いになって、飛び込んだ身だとお思いください」
 ですからもう御自分はどうでもよいという徹底した弱い心におなりなさい。思うことのかなわない時に身を投げる人があるのですから、私のこの愛情を深い水とお思いになって、それへ身を捨てるとお思いになればよいと思います」
  Omohu ni kanaha nu toki, mi wo naguru tamesi mo habe' naru wo, tada kakaru kokorozasi wo hukaki huti ni nazurahe tama' te, sute turu mi to obosi nase."
6.5.8  と聞こえたまふ。単衣の御衣を御髪込めひきくくみて、たけきこととは、音を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、
 と申し上げなさる。単衣のお召し物をお髪ごと被って、できることといっては、声を上げてお泣きになる様子が、心底お気の毒なので、
 と夕霧は言った。単衣ひとえの着物にお身体からだを包むようにして、ほかへお見せになる強さといっては声を出してお泣きになることよりおできにならないのも、あくまで女らしくお気の毒なのをながめていて、
  to kikoye tamahu. Hitohe no ohom-zo wo mi-gusi kome hiki kukumi te, takeki koto to ha, ne wo naki tamahu sama no, kokoro hukaku itohosikere ba,
6.5.9  「 いとうたて。いかなればいとかう思すらむ。 いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶけしきもあるを、 岩木よりけになびきがたきは 、契り遠うて、憎しなど思ふやうなるを、さや思すらむ」
 「まったく困ったことだ。どうしてまったくこのようにまでお嫌いになるのだろう。強情を張っている人でも、これほどになってしまえば、自然と弱くなる様子もあるのだが、石や木よりもほんとうに心を動かさないのは、前世の因縁が薄いために、恨むようなことがあるが、そのようにお思いなのだろうか」
 なぜこうであろう、こんなにまで自分をお愛しになることが不可能なのであろうか、どんなに許しがたく思う人といっても、これほどの志を見ていては自然に心のゆるんでくるものであるが、岩や木以上に無情なふうをお見せになるのは、前生の約束がそうであるためで、自分に憎悪ぞうおをお持ちにならねばならぬ運命を持っておいでになるのではなかろうかと、
  "Ito utate. Ikanare ba ito kau obosu ram? Imiziu omohu hito mo, kabakari ni nari nure ba, onodukara yurubu kesiki mo aru wo, ihaki yori keni nabiki gataki ha, tigiri tohou te, nikusi nado omohu yau naru wo, saya obosu ram."
6.5.10   と思ひ寄るに、あまりなれば心憂く、 三条の君の思ひたまふらむこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひ交はしたりし世のこと、年ごろ、今はとうらなきさまに うち頼み、解けたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう 思ひ続けらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。
 と思い当たると、あまりひどいので情けなくなって、三条の君がお悲しみであろうことや、昔も何の疑いもなく、お互いに愛情を交わし合った当時のこと、長年にわたり、もう安心と信頼し、打ち解けていらっしゃった様子を思い出すにつけても、自分のせいで、まことにつまらなく思い続けられずにはいられないので、無理にもお慰め申し上げなさらず、嘆息しながら夜をお明かしになった。
 こんなことを思った時から大将はあまりなお扱いに憤りに似た気持ちが起こって、三条の夫人が今ごろどう思っているかと考えだすと、単純な幼心に思い合った昔のこと、近年になって望みがかない、同棲どうせいすることのできて以来の信頼し合った夫婦の情味などが思われて、自身のし始めたことではあるが、この恋が味気なくなって、もうしいて宮の御機嫌きげんをとろうとも努めずに歎き明かした。
  to omohiyoru ni, amari nare ba kokorouku, Samdeu-no-Kimi no omohi tamahu ram koto, inisihe mo nanigokoro mo nau, ahi omohikahasi tari si yo no koto, tosigoro, ima ha to uranaki sama ni uti-tanomi, toke tamahe ru sama wo omohi iduru mo, waga kokoro mote, ito adikinau omohi tuduke rarure ba, anagati ni mo kosirahe kikoye tamaha zu, nageki akasi tamau tu.
注釈865さりとてかくのみやは人の聞き漏らさむこともことわり夕霧の心中。6.5.1
注釈866うちうちの御心づかひは以下「いとほしけれ」まで、夕霧の詞。6.5.2
注釈867情けばまむ『完訳』は「宮の気持に逆わず、表向きだけの夫婦でいよう。本心ではない」と注す。6.5.2
注釈868人の御名あなた落葉宮の評判。6.5.2
注釈869いかがはいとほしかるべき「いかがは」--「べき」は強調表現。6.5.2
注釈870この人を責めたまへば夕霧が小少将の君を。6.5.3
注釈871げにと思ひ大島本は「けにとも(も$)」とある。すなわち「も」をミセケチにする。『集成』『完本』は諸本に従って「げにとも」と校訂する。『新大系』は底本の訂正に従う。主語は小少将の君。『一葉集』は「双紙の地也」と指摘。『林逸抄』は「双紙の地也又は少将か心也」と注す。6.5.3
注釈872見たてまつるも今は目的語は夕霧。6.5.3
注釈873人通はしたまふ塗籠の北の口より宮が女房の出入りを許していらっしゃる塗籠の北の口から。6.5.3
注釈874いみじうあさましうつらし落葉宮の心。6.5.4
注釈875さぶらふ人をも以下「見せつべかりけり」まで落葉宮の心。6.5.4
注釈876頼もしき人もなくなり果てたまひぬる御身を『完訳』は「信頼していた小少将の君にも裏切られた感じ」と注す。6.5.4
注釈877男は『集成』は「男女対座の場面なので、「男」と端的に呼ぶ」。『完訳』は「男女関係強調の呼称」と注す。6.5.5
注釈878つらく心づきなしとのみ思いたり主語は落葉宮。6.5.5
注釈879いとかう言はむ方なきものに以下「捨てつる身と思しなせ」まで、夕霧の詞。6.5.6
注釈880身のほどは夕霧の身。我が身のつたなさは、の意。6.5.6
注釈881あるまじき心のつきそめけむも『完訳』は「人臣の身で皇女を娶ろうとする心づもりをいう」と注す。6.5.6
注釈882とり返すものならぬうちに『奥入』は「取り返すものにもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ」(出典未詳)。『弄花抄』は「むら鳥の立ちにし我が名今さらにことなしぶともしるしあらめや」(古今集恋三、六七四、読人しらず)を指摘。6.5.6
注釈883何のたけき御名にかはあらむ反語表現、いまさら何にもならない。6.5.6
注釈884深き淵になずらへたまて捨てつる身と思しなせ『異本紫明抄』は「身を捨てて深き淵にも入りぬべし底の知らまほしさに」(後拾遺集恋一、六四七、源道済)。『河海抄』は「世の中の憂きたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ」(古今集誹諧、一〇六一、読人しらず)。『評釈』は「そこひなき淵やは騒ぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て」(古今集恋四、七二二、素性法師)を指摘。6.5.7
注釈885いとうたていかなれば以下「さやおぼすらむ」まで、夕霧の心中。6.5.9
注釈886いみじう思ふ人も『集成』は「どんなに決心の固い人でも」。『完訳』は「どんなに気強い女でも」と訳す。6.5.9
注釈887岩木よりけになびきがたきは「人、木石に非ざれば皆情あり」(白氏文集、李夫人)。6.5.9
注釈888契り遠うて憎しなど思ふやうあなるを『完訳』は「前世の因縁で憎むのなら、これはどうしょうもないが、の意」と注す。
注釈889と思ひ寄るに『集成』は「「と思ひ寄るに」以下、地の文だが、「思ひ出づるも」「思ひ続けらるれば」と、敬語を欠き、夕霧の思いに密着した書き方」と注す。6.5.10
注釈890三条の君の思ひたまふらむこと雲居雁がお悲しみであろうこと。推量の助動詞「らむ」視界外推量、遥かに思い遣るニュアンス。6.5.10
注釈891うち頼み解けたまへるさまを雲居雁が夕霧を信頼し打ち解けていらした、の意。6.5.10
注釈892思ひ続けらるれば「らるれ」自発の助動詞。『集成』は「落葉宮にうとまれ、雲居の雁からは怨まれる結果になったのも、皆自分の招いたことだ、と苦い思いを反芻する」と注す。6.5.10
出典19 深き淵になずらへ 身を捨てて深き淵にも入りぬべし底の心の知らまほしさに 後拾遺集恋一-六四七 源道済 6.5.7
出典20 岩木よりけになびきがたき 人非木石皆有情 不如不遇傾城色 白氏文集四-一六〇 「李夫人」 6.5.9
校訂23 げにと げにと--けにとも(も/$) 6.5.3
6.6
第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ


6-6  At last Yugiri and Ochiba-no-Miya get married

6.6.1   かうのみ痴れがましうて出で入らむもあやしければ、今日は泊りて、心のどかにおはす。かくさへひたぶるなるを、あさましと 宮は思いて、いよいよ疎き御けしきのまさるを、 をこがましき御心かなと、 かつは、つらきもののあはれなり
 こうしてばかり馬鹿らしく出入りするのもみっともないので、今日は泊まって、ゆっくりとしていらっしゃる。こんなにまで一途なのを、あきれたことと宮はお思いになって、ますます疎んずる態度が増してくるのを、愚かしい意地の張りようだと、思う一方で、情けなくもおいたわしい。
 こんなみじめなことで来たり出て行ったりすることもきまり悪くこの人は思って、今日はこちらにとどまっていることにして落ち着いているのにも、宮は反感がお持たれになって、いよいようといふうをお見せになることが増してくるのを、幼稚なお心の方であると、恨めしく思いながらも哀れに感じていた。
  Kau nomi siregamasiu te ide ira m mo ayasikere ba, kehu ha tomari te, kokoro nodokani ohasu. Kaku sahe hitaburu naru wo, asamasi to miya ha oboi te, iyoiyo utoki mi-kesiki no masaru wo, wokogamasiki mi-kokoro kana to, katuha, turaki mono no ahare nari.
6.6.2  塗籠も、ことにこまかなるもの多うもあらで、香の 御唐櫃、御厨子などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、気近うしつらひてぞおはしける。うちは暗き心地すれど、朝日さし出でたるけはひ漏り来たるに、 埋もれたる御衣ひきやり、いとうたて乱れたる 御髪、かきやりなどしてほの見たてまつりたまふ
 塗籠も、格別こまごまとした物も多くはなくて、香の御唐櫃や、御厨子などばかりがあるのは、あちらこちらに片づけて、親しみの持てる感じに設えていらっしゃるのだった。内側は暗い感じがするが、朝日がさし昇った感じが漏れて来たので、被っていた単衣をひき払って、とてもひどく乱れていたお髪、かき上げたりなどして、わずかに拝見なさる。
 くらの中も別段細かなものがたくさん置かれてあるのでなく、香の唐櫃からびつ、お置きだななどだけを体裁よくあちこちのすみへ置いて、感じよく居間に作って宮はおいでになるのである。中は暗い気のする所へ、出たらしい朝日の光がさして来た時に、夕霧はかずいでおいでになる宮の夜着の端をのけて、乱れたおぐしを手でなで直しなどしながらお顔を少し見た。
  Nurigome mo, kotoni komakanaru mono ohou mo ara de, kau no ohom-karabitu, mi-dusi nado bakari aru ha, konata kanata ni kakiyose te, kedikau siturahi te zo ohasi keru. Uti ha kuraki kokoti sure do, asahi sasi-ide taru kehahi mori ki taru ni, udumore taru ohom-zo hiki-yari, ito utate midare taru mi-gusi, kaki-yari nado si te, hono-mi tatematuri tamahu.
6.6.3  いとあてに女しう、なまめいたるけはひしたまへり。 男の御さまは、うるはしだちたまへる時よりも、 うちとけてものしたまふは、限りもなうきよげなり。
 まことに気品高く女性的で、優美な感じでいらっしゃった。夫君のご様子は、凛々しくしていらっしゃる時よりも、くつろいでいらっしゃる時は、限りなく美しい感じである。
 上品で、あくまで女らしくえんなお顔であった。男は正しく装っている時以上に、部屋の中での柔らかな姿が顔を引き立ててきれいに見えた。
  Ito ateni womnasiu, namamei taru kehahi si tamahe ri. Wotoko no ohom-sama ha, uruhasidati tamahe ru toki yori mo, utitoke te monosi tamahu ha, kagiri mo nau kiyoge nari.
6.6.4  「 故君の異なることなかりしだに、心の限り思ひあがり、 御容貌まほにおはせずと、ことの折に思へりしけしきを思し出づれば、 まして、かういみじう衰へにたるありさまを、しばしにても 見忍びなむやと思ふも、いみじう恥づかしう、とざまかうざまに思ひめぐらしつつ、わが御心をこしらへたまふ。
 「亡き夫君が特別すぐれた容貌というわけでなかったが、その彼でさえ、すっかり気位高く持って、ご器量がお美しくないと、何かの折に思っていたらしい様子をお思い出しになると、それ以上に、このようにひどく衰えた様子を、少しの間でも我慢できようか」と思うのも、ひどく恥ずかしく、あれやこれやと思案しながら、自分のお気持ちを納得させなさる。
 柏木かしわぎが普通の風采ふうさいでしかないのにもかかわらず思い上がり切っていて、宮を美人でないと思うふうを時々見せたことを宮はお思い出しになると、その当時よりも衰えてしまった自分をこの人は愛し続けることができないであろうとお考えられになって、恥ずかしくてならぬ気があそばされるのであった。宮はなるべく楽観的にものを考えることにお努めになってみずから慰めようとしておいでになるのであった。
  "Ko-Kimi no kotonaru koto nakari si dani, kokoro no kagiri omohi-agari, ohom-katati maho ni ohase zu to, koto no wori ni omohe ri si kesiki wo obosi idure ba, masite, kau imiziu otorohe ni taru arisama wo, sibasi nite mo mi sinobi na m ya." to omohu mo, imiziu hadukasiu, tozama-kauzama ni omohi megurasi tutu, waga mi-kokoro wo kosirahe tamahu.
6.6.5   ただかたはらいたうここもかしこも、人の聞き思さむことの罪さらむ方なきに、 折さへいと心憂ければ 、慰めがたきなりけり。
 ただ外聞が悪く、こちらでもあちらでも、人がお聞きになってどうお思いなさろうかの罪は避けられないうえ、喪中でさえあるのがとても情けないので、気持ちの慰めようがないのであった。
 ただ複雑な関係になって、あちらへもこちらへも済まぬわけになることを苦しくお思いになるのと、おりが母君の喪中であることによってこうした冷ややかな態度をおとり続けになるのである。
  Tada kataharaitau, koko mo kasiko mo, hito no kiki obosa m koto no tumi sara m kata naki ni, wori sahe ito kokoroukere ba, nagusame gataki nari keri.
6.6.6  御手水、御粥など、 例の御座の方に参れり。色異なる御しつらひも、いまいましきやうなれば、東面は屏風を立てて、母屋の際に香染の御几帳など、ことことしきやうに見えぬ物、沈の二階なんどやうのを立てて、心ばへありてしつらひたり。 大和守のしわざなりけり
 御手水や、お粥などを、いつものご座所の方で差し上げる。色の変わった御調度類も、縁起でもないようなので、東面には屏風を立てて、母屋との境に香染の御几帳など、大げさに見えない物、沈の二階棚などのような物を立てて、気を配って飾ってある。大和守のしたことであったのだ。
 大将の手水ちょうず朝餉あさげかゆが宮のお居間のほうへ運ばれた。この際に喪の色を不吉として、なるべく目につかぬようにこの室の東のほうには屏風びょうぶを立て、中央のへやとの仕切りの所には香染めの几帳きちょうを置いて、目に立つ巻き絵物などは避けたじんの木製の二段のたななどを手ぎわよく配置してあるのは皆大和守やまとのかみのしたことであった。
  Mi-teudu, ohom-kayu nado, rei no omasi no kata ni mawire ri. Iro kotonaru ohom-siturahi mo, imaimasiki yau nare ba, himgasiomote ha byaubu wo tate te, moya no kiha ni kauzome no mi-kityau nado, kotokotosiki yau ni miye nu mono, din no nikai nando yau no wo tate te, kokorobahe ari te siturahi tari. Yamato-no-Kami no siwaza nari keri.
6.6.7   人びとも、鮮やかならぬ色の、山吹、掻練、濃き衣、青鈍などを着かへさせ、薄色の裳、青朽葉などを、とかく紛らはして、御台は参る。 女所にて、しどけなくよろづのことならひたる宮の内に、ありさま心とどめて、わづかなる下人をも言ひととのへ、 この人一人のみ扱ひ行ふ
 女房たちも、派手でない色の、山吹襲、掻練襲、濃い紫の衣、青鈍色などを着替えさせ、薄紫色の裳、青朽葉などを、何かと目立たないようにして、お食膳を差し上げる。女主人の生活で、諸事しまりなくいろいろ習慣になっていた宮邸の中で、有様に気を配って、わずかの下人たちにも声をかけてきちんとさせ、この大和守一人だけで取り仕切っている。
 派手はでな色でない山吹やまぶき色、黒みのある紅、深い紫、青鈍あおにびなどに喪服を着かえさせ、薄紫、青朽葉くちばなどのを目だたせず用いさせた女房たちが大将の給仕をした。今まで婦人がただけのお住居すまいであって、規律のくずれていたのを引き締めて、少数の侍を巧みに使い不都合のないようにしているのも、皆一人の大和守が利巧りこうな男だからである。
  Hitobito mo, azayaka nara nu iro no, yamabuki, kaineri, koki kinu, awonibi nado wo kikahe sase, usuiro no mo, awokutiba nado wo, tokaku magirahasi te, mi-dai ha mawiru. Womnadokoro nite, sidokenaku yorodu no koto narahi taru miya no uti ni, arisama kokoro todome te, waduka naru simobito wo mo ihi totonohe, kono hito hitori nomi atukahi okonahu.
6.6.8  かくおぼえぬ やむごとなき客人のおはすると聞きて、 もと勤めざりける家司など、うちつけに参りて、政所など言ふ方にさぶらひて営みけり。
 このように思いがけない高貴な来客がいらっしゃったと聞いて、もとから怠けていた家司なども、急に参上して、政所などという所に控えて仕事をするのだった。
 こうして思いがけず勢力のある宮の御良人ごりょうじんがおできになったことを聞いて、もとは勤めていなかった家司けいしなどが突然現われて来て事務所に詰め、仕事に取りかかっていた。
  Kaku oboye nu yamgotonaki marauto no ohasuru to kiki te, moto tutome zari keru keisi nado, utitukeni mawiri te, madokoro nado ihu kata ni saburahi te itonami keri.
注釈893かうのみ痴れがましうて出で入らむもあやしければ『集成』は「いつもこんなことでおめおめ間抜け者然と出入りするのも不体裁なので」。『完訳』は「こうして、いかにもばかげた有様で出入りするのも変なものであるから」。「かく」副詞、「痴れがまし」を修飾。副助詞「のみ」のニュアンスを添える。6.6.1
注釈894宮は思いて主語「宮は」を添えて強調する。「女は」とはないことに注意。6.6.1
注釈895をこがましき御心かな夕霧の心中。『集成』は「みっともないほどの意地の張りようかと」。『完訳』は「大将は、愚かしい方よと」と訳す。6.6.1
注釈896かつはつらきもののあはれなり地の文から語り手の夕霧と落葉宮に対する評語に移る表現。6.6.1
注釈897埋もれたる御衣ひきやり主語は夕霧。落葉宮の被っていた御衣を払いのける。6.6.2
注釈898御髪かきやりなどして主語は夕霧。6.6.2
注釈899ほの見たてまつりたまふ『完訳』は「宮の顔をほのかに見る。情交のあったことをにおわせる表現」と注す。6.6.2
注釈900男の御さまは『完訳』は「以下、宮の心情に即した行文。「男」の呼称も情交の場を強調」と注す。6.6.3
注釈901うちとけてものしたまふは『完訳』は「肌を許し合う仲として見直すと、夕霧の美しさが際だつ。契り交した後の女の心の変化に注意」と注す。6.6.3
注釈902故君の異なることなかりしだに以下「見忍びなむや」まで、落葉宮の心中。『集成』は「以下、落葉の宮の思い」。『完訳』は「女三の宮を思う柏木は、ことさら宮を低く見た。宮の劣等感の原因」と注す。6.6.4
注釈903御容貌まほにおはせずと柏木が思いまた落葉宮に言ったこと。落葉宮の心中文に敬語「思す」がまじる。6.6.4
注釈904ましてかういみじう衰へにたるありさまを柏木との結婚当時以上に年衰え醜くなった、の意。『完訳』は「宮は二十代後半であろう。ちなみに女三の宮は二十四、五歳。確かに、女盛りは過ぎている」と注す。6.6.4
注釈905見忍びなむや主語は夕霧。敬語がないことに注意。結婚後の夫婦間の心情。6.6.4
注釈906と思ふもいみじう恥づかしう大島本は「はつかしう」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「恥づかし」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。作中人物の気持ちと地の文が一体化した表現。6.6.4
注釈907ただかたはらいたう『集成』は「以下、宮の心中を説明する」と注す。6.6.5
注釈908ここもかしこも朱雀院や致仕の太政大臣をさす。6.6.5
注釈909折さへいと心憂ければ母御息所の喪中であることをさす。6.6.5
注釈910例の御座の方に塗籠から出ていつもの御座所に移る。6.6.6
注釈911大和守のしわざなりけり語り手の説明的叙述。6.6.6
注釈912人びとも鮮やかならぬ色の女房たち。喪中ゆえに服飾の色も目立たないものを用いる。6.6.7
注釈913女所にてしどけなくよろづのことならひたる宮の内に『集成』は「女世帯なので、諸事しまりもなく今までやってこられた邸内に」。『完訳』は「女ばかりの住いとて、万事締りのないのが習慣になっていた邸内だったのを」と訳す。6.6.7
注釈914この人一人のみ扱ひ行ふ大和守一人が取り仕切る。6.6.7
注釈915やむごとなき客人のおはする夕霧をさす。6.6.8
注釈916もと勤めざりける家司などうちつけに参りて以前には真面目に勤めなかった家司が急にやって来て、の意。6.6.8
校訂24 御唐櫃 御唐櫃--御からう(う/=ひ<朱>)つ 6.6.2
校訂25 心憂ければ 心憂ければ--心うけれ(れ/+は<朱>) 6.6.5
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渋谷栄一校訂(C)
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渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
柳沢成雄(青空文庫)

2003年5月16日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年7月20日

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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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