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第四十帖 御法
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40 MINORI (Ohoshima-bon)
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光る源氏の准太上天皇時代 五十一歳三月から八月までの物語
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Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from March to August, at the age of 51
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2 |
第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀
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2 Tale of Murasaki Murasaki's death and funeral
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2.1 |
第一段 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける
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2-1 Akashi-empress sets her seat to nurse Murasaki in the room
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2.1.1 |
秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては、御心地もいささかさはやぐやうなれど、 なほともすれば、かことがまし。さるは、 身にしむばかり思さるべき秋風ならねど、露けき折がちにて ★過ぐしたまふ。
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ようやく待っていた秋になって、世の中が少し涼しくなってからは、ご気分も少しはさわやかになったようであるが、やはりどうかすると、何かにつけ悪くなることがある。といっても、身にしみるほどに思われなさる秋風ではないが、涙でしめりがちな日々をお過ごしになる。
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ようやく秋が来て京の中も涼しくなると、紫夫人の病気も少し快くなったようには見えるのであるが、どうかするとまたもとのような容体にかえるのであった。まだ身にしむほどの秋風が吹くのではないが、しめっぽく曇る心をばかり持って夫人は日を送った。
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Aki mati tuke te, yononaka sukosi suzusiku nari te ha, mi-kokoti mo isasaka sahayagu yau nare do, naho tomo-sure-ba, kakoto gamasi. Saruha, mi ni simu bakari obosa ru beki akikaze nara ne do, tuyukeki wori gati nite sugusi tamahu.
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2.1.2 |
中宮は、参りたまひなむとするを、 今しばしは御覧ぜよとも、聞こえまほしう思せども、さかしきやうにもあり、内裏の御使の隙なきもわづらはしければ、さも聞こえたまはぬに、 あなたにもえ渡りたまはねば、 宮ぞ渡りたまひける。
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中宮は、宮中に参内なさろうとするのを、もう暫くは御逗留をとも、申し上げたくお思いになるが、差し出がましいような気がし、宮中からのお使いがひっきりなしに見えるのも厄介なので、そのようにはお申し上げなさらず、あちらにもお渡りになることができないので、中宮がお越しなさった。
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中宮は御所へおはいりにならず、もう少しここにおいでになるほうがよいことになるでしょうと女王はお言いしたいのであるが、死期を予感しているように賢がって聞こえぬかと恥ずかしく思われもしたし、御所からの御催促の御使いのひっきりなしに来ることに御遠慮がされもして、おとどめすることも申さないでいるうちに、夫人がもう東の対へ出て来ることができないために、宮のほうからそちらへ行こうと中宮が仰せられた。
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Tyuuguu ha, mawiri tamahi na m to suru wo, ima sibasi ha goranze yo to mo, kikoye mahosiu obose domo, sakasiki yau ni mo ari, Uti no ohom-tukahi no hima naki mo wadurahasikere ba, samo kikoye tamaha nu ni, anata ni mo e watari tamaha ne ba, Miya zo watari tamahi keru.
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2.1.3 |
かたはらいたけれど、げに見たてまつらぬもかひなしとて、こなたに御しつらひをことにせさせたまふ。「 こよなう痩せ細りたまへれど、 かくてこそ、あてになまめかしきことの限りなさもまさりて めでたかりけれ」と、来し方あまり匂ひ多く、あざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花の薫りにもよそへられたまひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御さまにて、 いとかりそめに世を思ひたまへるけしき、似るものなく心苦しく ★、すずろにもの悲し。
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恐れ多いことであるが、いかにもお目にかからずには張り合いがないということで、こちらに御座所を特別に設えさせなさる。「すっかり痩せ細っていらっしゃるが、こうしても、高貴で優美でいらっしゃることの限りなさも一段と素晴らしく見事である」と、今まで匂い満ちて華やかでいらっしゃった女盛りは、かえってこの世の花の香にも喩えられていらっしゃったが、この上もなく可憐で美しいご様子で、まことにかりそめの世と思っていらっしゃる様子、他に似るものもなくおいたわしく、何となく物悲しい。
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失礼であると思い心苦しく思いながらも、お目にかからないでいることも悲しくて、西の対へ宮のお居間を設けさせて、夫人はなつかしい宮をお迎えしたのであった。夫人は非常に痩せてしまったが、かえってこれが上品で、最も艶な姿になったように思われた。これまであまりにはなやかであった盛りの時は、花などに比べて見られたものであるが、今は限りもない美の域に達して比較するものはもう地上になかった。その人が人生をはかなく、心細く思っている様子は、見るものの心をまでなんとなく悲しいものにさせた。
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Kataharaitakere do, geni mi tatematura nu mo kahinasi tote, konata ni ohom-siturahi wo koto ni se sase tamahu. "Koyonau yase hosori tamahe re do, kakute koso, ate ni namamekasiki koto no kagiri nasa mo masari te medetakarikere." to, kisikata amari nihohi ohoku, azaaza to ohase si sakari ha, nakanaka konoyo no hana no kawori ni mo yosohe rare tamahi si wo, kagiri mo naku rautage ni wokasige naru ohom-sama nite, ito karisome ni yo wo omohi tamahe ru kesiki, niru mono naku kokorogurusiku, suzuroni mono-ganasi.
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注釈100 | 秋待ちつけて世の中すこし涼しくなりては | 2.1.1 |
注釈101 | なほともすれば、かことがまし | 2.1.1 |
注釈102 | 身にしむばかり思さるべき秋風ならねど、露けき折がちにて | 2.1.1 |
注釈103 | 中宮は参りたまひなむと | 2.1.2 |
注釈104 | 今しばしは御覧ぜよとも聞こえまほしう思せども | 2.1.2 |
注釈105 | あなたにも | 2.1.2 |
注釈106 | 宮ぞ渡りたまひける | 2.1.2 |
注釈107 | こよなう痩せ細りたまへれど | 2.1.3 |
注釈108 | かくてこそ | 2.1.3 |
注釈109 | めでたかりけれと | 2.1.3 |
注釈110 | いとかりそめに世を思ひたまへるけしき似るものなく心苦しく | 2.1.3 |
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出典3 |
身にしむばかり思さるべき秋風 |
秋吹く風はいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ |
詞花集秋-一〇九 和泉式部 |
2.1.1 |
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2.2 |
第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す
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2-2 Murasaki passes away as nursing by Akashi-empress
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2.2.1 |
風すごく吹き出でたる夕暮に、前栽見たまふとて、脇息に寄りゐたまへるを、院渡りて見たてまつりたまひて、
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風が身にこたえるように吹き出した夕暮に、前栽を御覧になろうとして、脇息に寄りかかっていらっしゃるのを、院がお渡りになって拝見なさって、
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風がすごく吹く日の夕方に、前の庭をながめるために、夫人は起きて脇息によりかかっているのを、おりからおいでになった院が御覧になって、
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Kaze sugoku huki ide taru yuhugure ni, sensai mi tamahu tote, kehusoku ni yori wi tamahe ru wo, Win watari te mi tatematuri tamahi te,
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2.2.2 |
「 今日は、いとよく 起きゐたまふめるは。この御前にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし」
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「今日は、とても具合好く起きていらっしゃいますね。この御前では、すっかりご気分も晴れ晴れなさるようですね」
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「今日はそんなに起きていられるのですね。宮がおいでになる時にだけ気分が晴れやかになるようですね」
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"Kehu ha, ito yoku oki wi tamahu meru ha! Kono o-mahe nite ha, koyonaku mi-kokoro mo harebaresige na' meri kasi."
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2.2.3 |
と聞こえたまふ。かばかりの隙あるをも、 いとうれしと思ひきこえたまへる 御けしきを見たまふも、心苦しく、「 つひに、いかに思し騒がむ」と思ふに、あはれなれば、
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と申し上げなさる。この程度の気分の好い時があるのをも、まことに嬉しいとお思い申し上げていらっしゃるご様子を御覧になるのも、おいたわしく、「とうとう最期となった時、どんなにお嘆きになるだろう」と思うと、しみじみ悲しいので、
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とお言いになった。わずかに小康を得ているだけのことにも喜んでおいでになる院のお気持ちが、夫人には心苦しくて、この命がいよいよ終わった時にはどれほどお悲しみになるであろうと思うと物哀れになって、
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to kikoye tamahu. Kabakari no hima aru wo mo, ito uresi to omohi kikoye tamahe ru mi-kesiki wo mi tamahu mo, kokorogurusiku, "Tuhini, ikani obosi sawaga m?" to omohu ni, ahare nare ba,
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2.2.4 |
「 おくと見るほどぞはかなきともすれば 風に乱るる萩のうは露」 |
「起きていると見えますのも暫くの間のこと ややもすれば風に吹き乱れる萩の上露のようなわたしの命です」 |
おくと見るほどぞはかなきともすれば 風に乱るる萩の上露
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"Oku to miru hodo zo hakanaki tomo-sure-ba kaze ni midaruru hagi no uha tuyu |
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2.2.5 |
げにぞ、折れかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたる折さへ忍びがたきを、見出だしたまひても、
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なるほど、風にひるがえってこぼれそうなのが、よそえられたのさえ我慢できないので、お覗きになっても、
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と言った。そのとおりに折れ返った萩の枝にとどまっているべくもない露にその命を比べたのであったし、時もまた秋風の立っている悲しい夕べであったから、
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Geni zo, wore kaheri tomaru beu mo ara nu, yosohe rare taru wori sahe sinobi gataki wo, mi idasi tamahi te mo,
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2.2.6 |
「 ややもせば消えをあらそふ露の世に 後れ先だつほど経ずもがな」 |
「どうかすると先を争って消えてゆく露のようにはかない人の世に せめて後れたり先立ったりせずに一緒に消えたいものです」 |
ややもせば消えを争ふ露の世に 後れ先きだつ程へずもがな
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"Yaya mo se ba kiye wo arasohu tuyu no yo ni okure sakidatu hodo he zu mo gana |
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2.2.7 |
とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、
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と言って、お涙もお拭いになることができない。中宮、
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とお言いになる院は、涙をお隠しになる余裕もないふうでおありになった。宮は、
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tote, ohom-namida wo harahi ahe tamaha zu. Miya,
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2.2.8 |
「 秋風にしばしとまらぬ露の世を 誰れか草葉のうへとのみ見む」 |
「秋風に暫くの間も止まらず散ってしまう露の命を 誰が草葉の上の露だけと思うでしょうか」 |
秋風にしばし留まらぬ露の世を たれか草葉の上とのみ見ん
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"Akikaze ni sibasi tomara nu tuyu no yo wo tare ka kusaba no uhe to nomi mi m |
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2.2.9 |
と聞こえ交はしたまふ御容貌ども、あらまほしく、 見るかひあるにつけても、「 かくて千年を過ぐすわざもがな」と思さるれど、心にかなはぬことなれば、かけとめむ方なきぞ悲しかりける。
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と詠み交わしなさるご器量、申し分なく、見る価値があるにつけても、「こうして千年を過ごしていたいものだ」と思われなさるが、思うにまかせないことなので、命を掛け止めるすべがないのが悲しいのであった。
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とお告げになるのであった。美貌の二女性が最も親しい家族として一堂に会することが快心のことであるにつけても、こうして千年を過ごす方法はないかと院はお思われになるのであったが、命は何の力でもとどめがたいものであるのは悲しい事実である。
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to kikoye kahasi tamahu ohom-katati-domo, aramahosiku, miru kahi aru ni tuke te mo, "Kakute titose wo sugusu waza mo gana" to obosa rure do, kokoro ni kanaha nu koto nare ba, kake tome m kata naki zo kanasikari keru.
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2.2.10 |
「 今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどと言ひながら、いとなめげにはべりや」
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「もうお帰りなさいませ。気分がひどく悪くなりました。お話にもならないほどの状態になってしまったとは申しながらも、まことに失礼でございます」
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「もうあちらへおいでなさいね。私は気分が悪くなってまいりました。病中と申してもあまり失礼ですから」
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"Ima ha watara se tamahi ne. Midarigokoti ito kurusiku nari haberi nu. Ihukahinaku nari ni keru hodo to ihi nagara, ito namege ni haberi ya!"
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2.2.11 |
とて、御几帳引き寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、
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と言って、御几帳引き寄せてお臥せりになった様子が、いつもより頼りなさそうにお見えなので、
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といって、女王は几帳を引き寄せて横になるのであったが、平生に超えて心細い様子であるために、
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tote, mi-kityau hikiyose te husi tamahe ru sama no, tune yori mo ito tanomosige naku miye tamahe ba,
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2.2.12 |
「いかに思さるるにか」
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「どうあそばしましたか」
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どんな気持ちがするのか
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"Ikani obosa ruru ni ka?"
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2.2.13 |
とて、宮は、御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつりたまふに、 まことに消えゆく露の心地して、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、数も知らず立ち騷ぎたり。 先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて、御もののけと疑ひたまひて、夜一夜 さまざまのことをし尽くさせたまへど、かひもなく、 明け果つるほどに消え果てたまひぬ。
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とおっしゃって、中宮は、お手をお取り申して泣きながら拝し上げなさると、本当に消えてゆく露のような感じがして、今が最期とお見えなので、御誦経の使者たちが、数えきれないほど騷ぎだした。以前にもこうして生き返りなさったことがあったのと同じように、御物の怪のしわざかと疑いなさって、一晩中いろいろな加持祈祷のあらん限りをし尽くしなさったが、その甲斐もなく、夜の明けきるころにお亡くなりになった。
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と不安に思召して、宮は手をおとらえになって泣く泣く母君を見ておいでになったが、あの最後の歌の露が消えてゆくように終焉の迫ってきたことが明らかになったので、誦経の使いが寺々へ数も知らずつかわされ、院内は騒ぎ立った。以前も一度こんなふうになった夫人が蘇生した例のあることによって、物怪のすることかと院はお疑いになって、夜通しさまざまのことを試みさせられたが、かいもなくて翌朝の未明にまったくこと切れてしまった。
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tote, Miya ha, ohom-te wo torahe tatematuri te, nakunaku mi tatematuri tamahu ni, makotoni kiye yuku tuyu no kokoti si te, kagiri ni miye tamahe ba, mi-zukyau no tukahi-domo, kazu mo sira zu tati-sawagi tari. Sakizaki mo, kakute iki ide tamahu wori ni narahi tamahi te, ohom-mononoke to utagahi tamahi te, yo hitoyo samazama no koto wo si tukusa se tamahe do, kahi mo naku, ake haturu hodo ni kiye hate tamahi nu.
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注釈111 | 今日はいとよく | 2.2.2 |
注釈112 | 起きゐたまふめるは | 2.2.2 |
注釈113 | いとうれしと思ひきこえたまへる | 2.2.3 |
注釈114 | 御けしきを見たまふも心苦しく | 2.2.3 |
注釈115 | つひにいかに思し騒がむ | 2.2.3 |
注釈116 | おくと見るほどぞはかなきともすれば--風に乱るる萩のうは露 | 2.2.4 |
注釈117 | げにぞ | 2.2.5 |
注釈118 | ややもせば消えをあらそふ露の世に--後れ先だつほど経ずもがな | 2.2.6 |
注釈119 | 秋風にしばしとまらぬ露の世を--誰れか草葉のうへとのみ見む | 2.2.8 |
注釈120 | 見るかひあるにつけても | 2.2.9 |
注釈121 | かくて千年を過ぐすわざもがな | 2.2.9 |
注釈122 | 今は渡らせたまひね | 2.2.10 |
注釈123 | まことに消えゆく露の心地して | 2.2.13 |
注釈124 | 先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて | 2.2.13 |
注釈125 | さまざまのことをし尽くさせたまへど | 2.2.13 |
注釈126 | 明け果つるほどに消え果てたまひぬ | 2.2.13 |
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2.3 |
第三段 源氏、紫の上の落飾のことを諮る
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2-3 Genji asks Yugiri about Murasaki's Buddhist funeral rites
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2.3.1 |
宮も、帰りたまはで、かくて見たてまつりたまへるを、 限りなく思す。誰れも誰れも、ことわりの別れにて、たぐひあることとも思されず、めづらかにいみじく、 明けぐれの夢に惑ひたまふほど、さらなりや。
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中宮もお帰りにならず、こうしてお看取り申されたことを、感慨無量にお思いあそばす。どなたもどなたも、当然の別れとして、誰にでもあることともお思いなされず、又とない大変な悲しみとして、明け方のほの暗い夢かとお惑いなさるのは、言うまでもないことであるよ。
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宮もお居間にお帰りにならぬままで臨終に立ち会えたことを、うれしくも悲しくも思召した。御良人も御娘も、これを人生の常としてだれも経験していることとはお思いになれないで、言語に絶した悲しみ方をしておいでになるのである。
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Miya mo, kaheri tamaha de, kakute mi tatematuri tamahe ru wo, kagiri naku obosu. Tare mo tare mo, kotowari no wakare nite, taguhi aru koto to mo obosa re zu, meduraka ni imiziku, akegure no yume ni madohi tamahu hodo, sara nari ya!
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2.3.2 |
さかしき人おはせざりけり。さぶらふ女房なども、ある限り、さらにものおぼえたるなし。院は、まして思し静めむ方なければ、大将の君近く参りたまへるを、御几帳のもとに呼び寄せたてまつりたまひて、
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しっかりとした人はいらっしゃらなかった。伺候する女房たちも、居合わせた者は、全て分別のある者はまったくいない。院は、誰よりもお気の静めようもないので、大将の君がお側近くに参上なさっているのを、御几帳の側にお呼び寄せ申されて、
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二条の院の中は絶望して心を取り乱した人ばかりになった。院はお心の静めようもないふうで、大将を几帳のそばへお呼び寄せになって、
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Sakasiki hito ohase zari keri. Saburahu nyoubau nado mo, aru kagiri, sarani mono oboye taru nasi. Win ha, masite obosi sidume m kata nakere ba, Daisyau-no-Kimi tikaku mawiri tamahe ru wo, mi-kityau no moto ni yobi yose tatematuri tamahi te,
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2.3.3 |
「 かく今は限りの さまなめるを、 年ごろの本意ありて思ひつること、かかるきざみに、その思ひ違へてやみなむが いといとほしき。御加持にさぶらふ大徳たち、読経の僧なども、皆声やめて出でぬなるを、さりとも、立ちとまりてものすべきもあらむ。この世にはむなしき心地するを、仏の御しるし、 今はかの冥き途のとぶらひにだに頼み申すべきを、頭おろすべきよしものしたまへ。さるべき僧、誰れかとまりたる」
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「このように今はもうご臨終のようなので、長年願っていたこと、このような際にその願いを果たせずに終わってしまうことがかわいそうだ。御加持を勤める大徳たち、読経の僧なども、皆声を止めて帰ったようだが、そうはいっても、まだ残っている僧たちもいるだろう。この現世のためには何の役にも立たないような気がするが、仏の御利益は、今はせめて冥途の道案内としてでもお頼み申さねばならないゆえ、剃髪するよう計らいなさい。適当な僧で、誰が残っているか」
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「もうだめになったことは確かなようだ。長く希望していた出家のことをこの際に遂げさせてやらないのは惨酷なように思われるが、加持に来ていた僧たちも読経の僧たちも皆することをやめて帰ったとしても、少しは残っているのもあろうから、この世の利益はもう必要がなくなった今では冥土のお手引きに仏をお願いすることにして、髪を切って尼にすることをそのだれかにさせてくれ。相当な僧ではだれが残っているか」
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"Kaku ima ha kagiri no sama na' meru wo, tosigoro no ho'i ari te omohi turu koto, kakaru kizami ni, sono omohi tagahe te yami na m ga ito itohosiki. Ohom-kadi ni saburahu Daitoko-tati, dokyau no sou nado mo, mina kowe yame te ide nu naru wo, saritomo, tati tomari te monosu beki mo ara m. Konoyo ni ha munasiki kokoti suru wo, Hotoke no ohom-sirusi, ima ha kano kuraki miti no toburahi ni dani tanomi mawosu beki wo, kasira orosu beki yosi monosi tamahe. Sarubeki sou, tare ka tomari taru?"
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2.3.4 |
などのたまふ御けしき、 心強く思しなすべかめれど、御顔の色もあらぬさまに、いみじく堪へかね、御涙のとまらぬを、 ことわりに悲しく見たてまつりたまふ。
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などとおっしゃるご様子、気強くお思いのようであるが、お顔の色も常とは変わって、ひどく悲しみに堪えかね、お涙の止まらないのを、無理もないことと悲しく拝し上げなさる。
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こうお言いになる御様子にも、自制しておいでになるのであろうが、御血色もまったくないようで、涙がとまらず流れているお顔を、ごもっともなことであると大将は悲しく見た。
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nado notamahu mi-kesiki, kokoroduyoku obosi nasu beka' mere do, ohom-kaho no iro mo ara nu sama ni, imiziku tahe kane, ohom-namida no tomara nu wo, kotowari ni kanasiku mi tatematuri tamahu.
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2.3.5 |
「 御もののけなどの、これも、人の御心乱らむとて、かくのみものははべめるを、 さもやおはしますらむ。 さらば、とてもかくても、御本意のことは、よろしきことにはべなり。 一日一夜忌むことのしるしこそは、むなしからずははべなれ ★。まことにいふかひなくなり果てさせたまひて、後の御髪ばかりをやつさせたまひても、異なるかの世の 御光ともならせたまはざらむものから、目の前の悲しびのみまさるやうにて、いかがはべるべからむ」
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「御物の怪などが、今度も、この方のお心を悩まそうとして、このようなことになるもののようでございますから、そのようなことでいらっしゃいましょう。それならば、いずれにせよ、御念願のことは、結構なことでございます。一日一夜でも戒をお守りになりましたら、その効は必ずあるものと聞いております。本当に息絶えてしまわれて、後から御髪だけをお下ろしなさっても、特に後世の御功徳とはおなりではないでしょうから、目の前の悲しみだけが増えるようで、いかがなものでございましょうか」
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「物怪などが周囲の者を驚かすために、そうしたことをすることもあるのですが、絶望の御状態とはそうしたわけではないのでございましょうか。それでございましたら、ただ今承りましたことは結構なことでございまして、一日一夜でも道におはいりになっただけのことは報いられるでしょうが、しかしもうまったくお亡くなりになったのでございましたら、死後のお髪の形を変えますだけのことがあの世の光にはならないでしょう。そして眼で見る遺族たちの悲しみだけが増大することになるだけのことでございますから、私はいかがかと存じます」
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"Ohom-mononoke nado no, kore mo, hito no mi-kokoro midara m tote, kaku nomi mono ha habemeru wo, samo ya ohasimasu ram. Saraba, totemo-kakutemo, ohom-ho'i no koto ha, yorosiki koto ni habe' nari. Iti-niti iti-ya imu koto no sirusi koso ha, munasikara zu ha habe nare. Makoto ni ihukahinaku nari hate sase tamahi te, noti no mi-gusi bakari wo yatusa se tamahi te mo, koto naru kano yo no ohom-hikari to mo nara se tamaha zara m monokara, me no mahe no kanasibi nomi masaru yau nite, ikaga haberu bekara m?"
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2.3.6 |
と申したまひて、 御忌に籠もりさぶらふべき心ざしありてまかでぬ僧、その人、かの人など召して、さるべきことども、この君ぞ行なひたまふ。
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と申し上げなさって、御忌みに籠もって伺候しようとするお志があって止まっている僧のうち、あの僧、この僧などをお召しになって、しかるべきことどもを、この君がお命じになる。
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と大将は言って、忌中をこの院でこもり続けようとする志のある僧たちの中から人選して念仏をさせることを命じたりすることなども皆この人がした。
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to mawosi tamahi te, ohom-imi ni komori saburahu beki kokorozasi ari te makade nu sou, sono hito, kano hito nado mesi te, sarubeki koto-domo, kono Kimi zo okonahi tamahu.
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出典4 |
一日一夜忌むことのしるし |
中品中生者 若有衆生 若一日一夜 受持八戒斎 若一日一夜 持沙弥戒 若一日一夜 持具足戒 |
観無量寿経-中品中生 |
2.3.5 |
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2.4 |
第四段 夕霧、紫の上の死に顔を見る
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2-4 Yugiri gazes Murasaki in her face
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2.4.1 |
年ごろ、何やかやと、 おほけなき心はなかりしかど、「いかならむ世に、ありしばかりも見たてまつらむ。 ほのかにも御声をだに聞かぬこと」など、心にも離れず思ひわたりつるものを、「声はつひに聞かせたまはずなりぬるに こそはあめれ、むなしき御骸にても、今一度見たてまつらむの心ざしかなふべき折は、ただ今よりほかにいかでかあらむ」と思ふに、つつみもあへず泣かれて、女房の、ある限り騷ぎ惑ふを、
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長年、何やかやと、分不相応な考えは持たなかったが、「いつの世にか、あの時同様に拝見したいものだ。かすかにお声さえ聞かなかったことよ」などと、忘れることなく慕い続けていたが、「声はとうとうお聞かせなさらないで終わったようだが、むなしい御亡骸なりとも、もう一度拝見したい気持ちが叶えられる折は、ただ今の時以外にどうしてあろう」と思うと、抑えることもできずつい泣けて、女房たちで、側に伺候する人たち皆が泣き騷ぎおろおろしているのを、
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今日までだいそれた恋の心をいだくというのではなかったが、どんな時にまたあの野分の夕べに隙見を遂げた程度にでも、また美しい継母が見られるのであろう、声すらも聞かれぬ運命で自分は終わるのであろうかというあこがれだけは念頭から去らなかったものであるが、声だけは永遠に聞かせてもらえない宿命であったとしても、遺骸になった人にせよもう一度見る機会は今この時以外にあるわけもないと夕霧は思うと、声も立てて泣かれてしまうのであった。あるだけの女房は皆泣き騒いでいるのを、
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Tosigoro, naniya-kaya to, ohokenaki kokoro ha nakari sika do, "Ikanara m yo ni, arisi bakari mo mi tatematura m? Honokani mo ohom-kowe wo dani kika nu koto." nado, kokoro ni mo hanare zu omohi watari turu mono wo, "Kowe ha tuhini kika se tamaha zu nari nuru ni koso ha a' mere, munasiki ohom-kara nite mo, ima hitotabi mi tatematura m no kokorozasi kanahu beki wori ha, tada ima yori hoka ni ikadeka ara m?" to omohu ni, tutumi mo ahe zu naka re te, nyoubau no, aru kagiri sawagi madohu wo,
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2.4.2 |
「 あなかま、しばし」
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「静かに。暫く」
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「少し静かに、しばらく静かに」
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"Anakama! sibasi."
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2.4.3 |
と、しづめ顔にて、御几帳の帷を、もののたまふ紛れに、引き上げて見たまへば、ほのぼのと明けゆく光もおぼつかなければ、大殿油を近くかかげて 見たてまつりたまふに、飽かずうつくしげに、めでたうきよらに見ゆる御顔のあたらしさに、 この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あながちに隠さむの御心も思されぬなめり。
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と制止するふりして、御几帳の帷子を、何かおっしゃるのに紛らして、引き上げて御覧になると、ほのぼのと明けてゆく光も弱々しいので、大殿油を近くにかかげて拝見なさると、どこまでもかわいらしげに、立派で美しく見えるお顔のもったいなさに、この君がこのように覗き込んでいらっしゃるのを目にしながらも、無理に隠そうとのお気持ちも起こらないようである。
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と制するようにして、ものを言う間に几帳の垂れ絹を手で上げて見たが、まだほのぼのとしはじめたばかりの夜明けの光でよく見えないために、灯を近くへ寄せてうかがうと、麗人の女王は遺骸になってなお美しくきれいで、その顔を大将がのぞいていても隠そうとする心はもう残っていなかった。院は、
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to, sidume gaho nite, mi-kityau no katabira wo, mono notamahu magire ni, hikiage te mi tamahe ba, honobono to ake yuku hikari mo obotukanakere ba, ohotonabura wo tikaku kakage te mi tatematuri tamahu ni, aka zu utukusige ni, medetau kiyora ni miyuru ohom-kaho no atarasisa ni, kono Kimi no kaku nozoki tamahu wo miru miru mo, anagatini kakusa m no mi-kokoro mo obosa re nu na' meri.
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2.4.4 |
「 かく何ごともまだ変らぬけしきながら、限りのさまはしるかりけるこそ」
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「このとおりに何事もまだそのままの感じだが、最期の様子ははっきりしているのです」
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「このとおりにまだなんら変わったところはないが、生きた人でないことだけはだれにもわかるではないか」
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"Kaku nanigoto mo mada kahara nu kesiki nagara, kagiri no sama ha sirukari keru koso."
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2.4.5 |
とて、御袖を顔におしあてたまへるほど、大将の君も、涙にくれて、目も見えたまはぬを、 しひてしぼり開けて見たてまつるに、 なかなか飽かず悲しきことたぐひなきに、まことに心惑ひもしぬべし。 御髪のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、露ばかり乱れたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。
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と言って、お袖を顔におし当てていらっしゃる時、大将の君も、涙にくれて、目も見えなさらないのを、無理に涙を絞り出すように目を開いて拝見すると、かえって悲しみが増してたとえようもなく、本当に心もかき乱れてしまいそうである。御髪が無造作に枕許にうちやられていらっしゃる様子、ふさふさと美しくて、一筋も乱れた様子はなく、つやつやと美しそうな様子、この上ない。
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こうお言いになって、袖で顔をおさえておいでになるのを見ては、大将もしきりに涙がこぼれて、目も見えないのを、しいて引きあけて、遺骸をながめることをしたがかえって悲しみは増してくるばかりで、気も失うのではないかと夕霧はみずから思った。横にむぞうさになびけた髪が豊かで、清らかで、少しのもつれもなくつやつやとして美しい。
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tote, ohom-sode wo kaho ni osiate tamahe ru hodo, Daisyau-no-Kimi mo, namida ni kure te, me mo miye tamaha nu wo, sihite sibori ake te mi tatematuru ni, nakanaka aka zu kanasiki koto taguhi naki ni, makoto ni kokoromadohi mo si nu besi. Mi-gusi no tada uti-yara re tamahe ru hodo, kotitaku keura nite, tuyu bakari midare taru kesiki mo nau, tuyatuya to utukusige naru sama zo kagiri naki.
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2.4.6 |
灯のいと明かきに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛らはすこと、ありしうつつの御もてなしよりも、 いふかひなきさまにて、 何心なくて臥したまへる御ありさまの、 飽かぬ所なしと言はむもさらなりや。なのめにだにあらず、たぐひなきを見たてまつるに、「 死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」と思ほゆるも、わりなきことなりや。
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灯火がたいそう明るいので、お顔色はとても白く光るようで、何かと身づくろいをしていらっしゃった、生前のご様子よりも、今さら嘆いても嘆くかいのない、正体のない状態で無心に臥せっていらっしゃるご様子が、一点の非の打ちどころもないと言うのも、ことさらめいたことである。並一通りの美しさどころか、類のない美しさを拝見すると、「死に入ろうとする魂がそのままこの御亡骸に止まっていてほしい」と思われるのも、無理というものであるよ。
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明るい灯のもとに顔の色は白く光るようで、生きた佳人の、人から見られぬよう見られぬようと願う心の休みなく働いているのよりも、己をあやぶむことも、他を疑うこともない純粋なふうで寝ている美女の魅力は大きかった。少々の欠点があってもなお夕霧の心は恍惚としていたであろうが、見れば見るほど故人の美貌の完全であることが認識されるばかりであったから、この自分を離れてしまうような気持ちのする心はそのままこの遺骸にとどまってしまうのではないかというような奇妙なことも夕霧は思った。
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Hi no ito akaki ni, ohom-iro ha ito siroku hikaru yau nite, tokaku uti-magirahasu koto, arisi ututu no ohom-motenasi yori mo, ihukahinaki sama nite, nanigokoro naku te husi tamahe ru ohom-arisama no, aka nu tokoro nasi to iha m mo saranari ya! Nanomeni dani ara zu, taguhinaki wo mi tatematuru ni, "Si ni iru tamasihi no, yagate kono ohom-kara ni tomara nam." to omohoyuru mo, warinaki koto nari ya!
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注釈144 | 年ごろ何やかやと | 2.4.1 |
注釈145 | おほけなき心 | 2.4.1 |
注釈146 | ほのかにも御声をだに聞かぬこと | 2.4.1 |
注釈147 | こそはあめれ | 2.4.1 |
注釈148 | あなかましばし | 2.4.2 |
注釈149 | 見たてまつりたまふに | 2.4.3 |
注釈150 | この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あながちに隠さむの御心も思されぬなめり | 2.4.3 |
注釈151 | かく何ごとも | 2.4.4 |
注釈152 | しひてしぼり開けて | 2.4.5 |
注釈153 | なかなか飽かず悲しきことたぐひなきにまことに心惑ひもしぬべし | 2.4.5 |
注釈154 | 御髪のただうちやられたまへるほどこちたくけうらにて | 2.4.5 |
注釈155 | 灯のいと明かきに | 2.4.6 |
注釈156 | いふかひなきさまにて | 2.4.6 |
注釈157 | 何心なくて臥したまへる御ありさまの | 2.4.6 |
注釈158 | 飽かぬ所なしと言はむもさらなりや | 2.4.6 |
注釈159 | 死に入る魂のやがてこの御骸にとまらなむと思ほゆるもわりなきことなりや | 2.4.6 |
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2.5 |
第五段 紫の上の葬儀
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2-5 Murasaki's funeral
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2.5.1 |
仕うまつり馴れたる女房などの、ものおぼゆるもなければ、 院ぞ、何ごとも思しわかれず思さるる御心地を、あながちに静めたまひて、限りの御ことどもしたまふ。 いにしへも、悲しと思すこともあまた見たまひし御身なれど、いとかうおり立ちてはまだ知りたまはざりけることを、すべて来し方行く先、たぐひなき心地したまふ。
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お仕え親しんでいた女房たちで、気の確かな者もいないので、院が、何事もお分かりにならないように思われなさるお気持ちを、無理にお静めになって、ご葬送のことをお指図なさる。昔も、悲しいとお思いになることを多くご経験なさったお身の上であるが、まことにこのようにご自身でもってお指図なさることはご経験なさらなかったことなので、すべて過去にも未来にも、またとない気がなさる。
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長く仕えていた女房の中に意識の確かにあるような者はない状態であったから、院は非常に悲しい気持ちをしいておしずめになって、遺骸の始末などをあそばすのであった。昔も愛人や妻の死におあいになった経験はおありになっても、まだこんなことまでも手ずから世話あそばされたことはなかったから、自身としては空前絶後の悲しみであると見ておいでになるのであった。
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Tukaumaturi nare taru nyoubau nado no, mono oboyuru mo nakere ba, Win zo, nanigoto mo obosi waka re zu obosa ruru mi-kokoti wo, anagatini sidume tamahi te, kagiri no ohom-koto-domo si tamahu. Inisihe mo, kanasi to obosu koto mo amata mi tamahi si ohom-mi nare do, ito kau oritati te ha mada siri tamaha zari keru koto wo, subete kisikata yukusaki, taguhinaki kokoti si tamahu.
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2.5.2 |
やがて、その日、とかく収めたてまつる。限りありけることなれば、 骸を見つつもえ過ぐしたまふまじかりけるぞ ★、心憂き世の中なりける。 はるばると広き野の、所もなく立ち込みて、限りなくいかめしき作法なれど、いとはかなき煙にて、はかなく昇りたまひぬるも、 例のことなれど、あへなくいみじ。
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そのまま、その当日に、あれこれしてご葬儀をお営み申し上げる。所定の作法があることなので、亡骸を見ながらお過しになるということもできないのが、情けない人の世なのであった。広々とした広い野原に、いっぱいに人が立ち込めて、この上もなく厳めしい葬儀であるが、まことにあっけない煙となって、はかなく上っていっておしまいになったのも、常のことであるが、あっけなく何とも悲しい。
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紫の女王の遺骸はその日のうちに納棺された。どれほど愛すればとて遺骸は遺骸として葬送せねばならぬのが人生の悲しい掟であった。はるばると広い野にあいた場所がないほどにも葬送の人の集まったいかめしい儀式であったが、送られた人ははかない煙になって間もなく立ち昇ってしまった。当然のことではあるがこれをも人々は悲しんだ。
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Yagate, sono hi, tokaku wosame tatematuru. Kagiri ari keru koto nare ba, kara wo mi tutu mo e sugusi tamahu mazikari keru zo, kokorouki yononaka nari keru. Harubaru to hiroki no no, tokoro mo naku tati-komi te, kagiri naku ikamesiki sahohu nare do, ito hakanaki keburi nite, hakanaku nobori tamahi nuru mo, rei no koto nare do, ahenaku imizi.
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2.5.3 |
空を歩む心地して、人にかかりてぞおはしましけるを、見たてまつる人も、「 さばかりいつかしき御身を」と、ものの心知らぬ下衆さへ、泣かぬなかりけり。御送りの 女房は、まして夢路に惑ふ心地して、 車よりもまろび落ちぬべきをぞ、もてあつかひける。
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地に足が付かない感じで、人に支えられてお出ましになったのを、拝し上げる人も、「あれほど威厳のあるお方が」と、わけも分からない下衆まで泣かない者はいなかった。ご葬送の女房は、それ以上に夢路に迷ったような気がして、車から転び落ちてしまいそうになるのに、手を焼くのであった。
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空を歩いているような気持ちで院は人によりかかって足を運んでおいでになるのを見ては、あの高貴な御身分でと低級な頭のものさえも御同情して泣かない者はなかった。遺骸の供をして来た女房たちはまして夢の中に彷徨しているような気持ちになっていて、車から転び落ちそうに見えるのを従者たちは扱いかねていた。
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Sora wo ayumu kokoti si te, hito ni kakari te zo ohasimasi keru wo, mi tatematuru hito mo, "Sabakari itukasiki ohom-mi wo." to, mono no kokorosira nu gesu sahe, naka nu nakari keri. Ohom-okuri no nyoubau ha, masite yumedi ni madohu kokoti si te, kuruma yori mo marobi oti nu beki wo zo, mote-atukahi keru.
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2.5.4 |
昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも、 かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり。
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昔、大将の君の御母君がお亡くなりになった時の暁のことをお思い出しになっても、あの時は、やはりまだ物事の分別ができたのであろうか、月の顔が明るく見えたが、今宵はただもう真暗闇で何も分からないお気持ちでいらっしゃった。
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昔、大将の母君の葵夫人の葬送の夜明けのことを院は思い出しておいでになったが、その時はなお月の形が明瞭に見えた御記憶があった。今は心も目も暗闇のうちのような気のあそばされる院でおありになった。
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Mukasi, Daisyau-no-Kimi no ohom-HahaGimi use tamahe ri si toki no akatuki wo omohi-iduru ni mo, kare ha, naho mono no oboye keru ni ya, tuki no kaho no akirakani oboye si wo, koyohi ha tada kure madohi tamahe ri.
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2.5.5 |
十四日に亡せたまひて、これは十五日の暁なりけり。日はいとはなやかにさし上がりて、 野辺の露も隠れたる隈なくて、世の中思し続くるに、いとど厭はしくいみじければ、「 後るとても、幾世かは経べき。 かかる悲しさの紛れに、昔よりの御本意も遂げてまほしく」思ほせど、心弱き後のそしりを思せば、「このほどを過ぐさむ」としたまふに、胸のせきあぐるぞ堪へがたかりける。
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十四日にお亡くなりになって、葬儀は十五日の暁であった。日はたいそう明るくさし昇って、野辺の露も隠れたところなく照らし出して、人の世をお思い続けなさると、ますます厭わしく悲しいので、「先立たれたとて、何年生きられようか。このような悲しみに紛れて、昔からのご本意の出家を遂げたく」お思いになるが、女々しいとの後の評判をお考えになると、「この時期を過ごしてから」とお思いなさるにつけ、胸に込み上げてくるものが我慢できないのであった。
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女王は十四日に薨去したのであって、これは十五日の夜明けのことである。はなやかな日が上って、野原一面に置き渡した露がすみずみまできらめく所をお通りになりながら、院はいっそうこの時人生というものをいとわしく悲しく思召して、残った自分の命といっても、もう長くは保ちえられるものではないであろうから、こうした苦しみを見る時に、昔からの希望であった出家も遂げたいとしきりにお思われになるのであったが、気の弱さを史上に残すことが顧慮されて、当分はこのままで忍ぶほかはないと御決心はあそばされても、なお胸の悲しみはせき上がってくるのであった。
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Zihuyo-niti ni use tamahi te, kore ha zihugo-niti no akatuki nari keri. Hi ha ito hanayaka ni sasi-agari te, nobe no tuyu mo kakure taru kuma naku te, yononaka obosi tudukuru ni, itodo itohasiku imizikere ba, "Okuru tote mo, ikuyo kaha hu beki. Kakaru kanasisa no magire ni, mukasi yori no ohom-ho'i mo toge te mahosiku" omohose do, kokoroyowaki noti no sosiri wo obose ba, "Kono hodo wo sugusa m" to si tamahu ni, mune no seki aguru zo tahe gatakari keru.
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注釈160 | 院ぞ | 2.5.1 |
注釈161 | いにしへも悲しと思すこともあまた見たまひし御身なれど | 2.5.1 |
注釈162 | やがてその日とかく収めたてまつる | 2.5.2 |
注釈163 | 骸を見つつもえ過ぐしたまふまじかりけるぞ | 2.5.2 |
注釈164 | はるばると広き野の | 2.5.2 |
注釈165 | 例のことなれどあへなくいみじ | 2.5.2 |
注釈166 | 空を歩む心地して人にかかりてぞおはしましけるを | 2.5.3 |
注釈167 | さばかりいつかしき御身をと | 2.5.3 |
注釈168 | 女房はまして夢路に惑ふ心地して | 2.5.3 |
注釈169 | 車よりもまろび落ちぬべきをぞ | 2.5.3 |
注釈170 | 昔大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも | 2.5.4 |
注釈171 | かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり | 2.5.4 |
注釈172 | 十四日に亡せたまひてこれは十五日の暁なりけり | 2.5.5 |
注釈173 | 野辺の露も隠れたる隈なくて世の中思し続くるに | 2.5.5 |
注釈174 | 後るとても幾世かは経べき | 2.5.5 |
注釈175 | かかる悲しさの紛れに | 2.5.5 |
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出典5 |
骸を見つつも |
空蝉はからを見つつも慰めつ深草の山煙だにたて |
古今集哀傷-八三一 僧都勝延 |
2.5.2 |
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Last updated 9/22/2010(ver.2-3) 渋谷栄一校訂(C) Last updated 7/29/2010(ver.2-2) 渋谷栄一注釈(C) |
Last updated 2/3/2002 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 7/29/2010 (ver.2-2) Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C)
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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