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第四十八帖 早蕨
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48 SAWARABI (Ohoshima-bon)
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薫君の中納言時代 二十五歳春の物語
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Tale of Kaoru's Chunagon era, in spring at the age of 25
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1 |
第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活
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1 Tale of Naka-no-kimi A life of just before marriage with Nio-no-miya in Uji
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1.1 |
第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く
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1-1 Early spring, Ajari sends a letter with wild grass to Naka-no-kimi
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1.1.1 |
薮し分かねば、春の光を見たまふにつけても ★、「 いかでかくながらへにける月日ならむ」と、夢のやうにのみおぼえたまふ。
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薮だからといって分け隔てして日光は差すものでないので、春の光を御覧になるにつけても、「どうしてこう生き永らえてきた月日なのだろう」と、夢のようにばかり思われなさる。
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「日の光林藪しわかねばいそのかみ古りにし里も花は咲きけり」と言われる春であったから、山荘のほとりのにおいやかになった光を見ても、宇治の中の君は、どうして自分は今まで生きていられたのであろうと、現在を夢のようにばかり思われた。
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Yabu si waka ne ba, haru no hikari wo mi tamahu ni tuke te mo, "Ikade kaku nagarahe ni keru tukihi nara m?" to, yume no yau ni nomi oboye tamahu.
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1.1.2 |
行き交ふ時々にしたがひ、 ▼ 花鳥の色をも音をも、同じ心に起き臥し見つつ、 はかなきことをも、本末をとりて言ひ交はし、 心細き世の憂さもつらさも、うち語らひ合はせきこえしにこそ、慰む方もありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、聞き知る人もなきままに、よろづかきくらし、心一つをくだきて、 宮のおはしまさずなりにし悲しさよりも、ややうちまさりて恋しくわびしきに、いかにせむと、明け暮るるも知らず惑はれたまへど、 世にとまるべきほどは、限りあるわざなりければ、 死なれぬもあさまし。
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去っては迎える時節時節にしたがって、花や鳥の色をも声をも、同じ気持ちで起き臥し見ては、ちょっとした和歌を詠むことでも、上の句と下の句とをそれぞれ付け交わして、心細いこの世の悲しさも辛さも、語り合ってきたからこそ、慰むこともあったが、おもしろいことや、しみじみとしたことを、聞き知る人がいないままに、すべてまっくら闇で、心一つに思い悩んで、父宮がお亡くなりになった悲しさよりも、もう少しまさって恋しくわびしいので、どうしたらよいかと、明けるのも暮れるのも分からず茫然としていらっしゃるが、世に生きている間は、定めがあることだったので、死ぬことができないのもあきれたことだ。
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四季時々の花の色も鳥の声も、明け暮れ共に見、共に聞き、それによって歌を作りかわすことをし、人生の心細さも苦しさも話し合うことで慰めを得ていた。それ以外に何の楽しみが自分にあったであろう、美しいとすることも、身にしむことも語って自身の感情を解してくれる姉君を、そのかたわらから死に奪われた人であったから、暗い気持ちをどうすることもできず、父宮のお亡れになった時の悲しみにややまさった悲しさ恋しさに、日のたつのも悟らぬほど歎き続けているが、命数には定まったものがあって、死にたくても死なれぬのも人生の悲哀の一つであると見られた。
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Yukikahu tokidoki ni sitagahi, hana tori no iro wo mo ne wo mo, onazi kokoro ni okihusi mi tutu, hakanaki koto wo mo, motosuwe wo tori te ihi kahasi, kokorobosoki yo no usa mo turasa mo, uti-katarahi ahase kikoye si ni koso, nagusamu kata mo ari sika, wokasiki koto, ahare naru husi wo mo, kiki siru hito mo naki mama ni, yorodu kaki-kurasi, kokoro hitotu wo kudaki te, Miya no ohasimasa zu nari ni si kanasisa yori mo, yaya uti-masari te kohisiku wabisiki ni, ikani se m to, ake kururu mo sira zu madoha re tamahe do, yo ni tomaru beki hodo ha, kagiri aru waza nari kere ba, sina re nu mo asamasi.
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1.1.3 |
阿闍梨のもとより、
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阿闍梨のもとから、
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御寺の阿闍梨の所から、
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Azari no moto yori,
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1.1.4 |
「 年改まりては、何ごとかおはしますらむ。御祈りは、たゆみなく仕うまつりはべり。 今は、一所の御ことをなむ、安からず念じきこえさする」
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「新年になってからは、いかがお過ごしでしょうか。ご祈祷は、怠りなくお勤めいたしております。今は、お一方の事を、ご無事にと祈念いたしております」
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年が変わりましてのちどんな御様子でおいでになりますか。御仏へのお祈りは始終いたしております。今になりましてはあなた様お一方のために幸福であれと念じ続けるばかりです。
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"Tosi aratamari te ha, nanigoto ka ohasimasu ram? Ohom-inori ha, tayumi naku tukaumaturi haberi. Ima ha, hitotokoro no ohom-koto wo nam, yasukara zu nenzi kikoye sasuru."
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1.1.5 |
など聞こえて、蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、「 これは、童べの供養じてはべる初穂なり」とて、たてまつれり。 手は、いと悪しうて、歌は、わざとがましくひき放ちてぞ書きたる。
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などと申し上げて、蕨、土筆を、風流な籠に入れて、「これは、童たちが献じましたお初穂です」といって、差し上げた。筆跡は、とても悪筆で、和歌は、わざとらしく放ち書きにしてあった。
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などという手紙を添え、蕨や土筆を風流な籠に入れ、その説明としては、 これは童子どもが山に捜して御仏にささげたものです、初物です。 とも書かれてあった。悪筆で次の歌などは大形に一字ずつ離して書いてある。
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nado kikoye te, warabi, tukudukusi, wokasiki ko ni ire te, "Kore ha, warahabe no kuyauzi te haberu hatuho nari." tote, tatemature ri. Te ha, ito asiu te, uta ha, wazatogamasiku hiki-hanati te zo kaki taru.
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1.1.6 |
「 君にとてあまたの春を摘みしかば 常を忘れぬ初蕨なり |
「わが君にと思って毎年毎年の春に摘みましたので 今年も例年どおりの初蕨です |
君にとてあまたの年をつみしかば 常を忘れぬ初蕨なり
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"Kimi ni tote amata no haru wo tumi sika ba tune wo wasure nu hatu warabi nari |
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1.1.7 |
御前に詠み申さしめたまへ」
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御前でお詠み申し上げてください」
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女王様に読んでお聞かせ申してください。
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Omahe ni yomi mausa sime tamahe."
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1.1.8 |
とあり。
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とある。
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と女房あてにしてあった。
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to ari.
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出典1 |
薮し分かねば、春の光 |
日の光薮し分かねば石の上古りにし里に花も咲きけり |
古今集雑上-八七〇 布留今道 |
1.1.1 |
出典2 |
花鳥の色をも音をも |
花鳥の色をも音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり |
後撰集夏-二一二 藤原雅正 |
1.1.2 |
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1.2 |
第二段 中君、阿闍梨に返事を書く
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1-2 Naka-no-kimi replys to Ajari's letter
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1.2.1 |
大事と思ひまはして詠み出だしつらむ、と思せば、歌の心ばへもいとあはれにて、 なほざりに、さしも思さぬなめりと見ゆる言の葉を、めでたく好ましげに書き尽くしたまへる人の御文よりは、こよなく目とまりて、涙もこぼるれば、 返り事、書かせたまふ。
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大事と思って詠み出したのだろう、とお思いになると、歌の気持ちもまことにしみじみとして、いい加減で、そうたいしてお思いでないように見える言葉を、素晴らしく好ましそうにお書き尽くしなさる方のお手紙よりも、この上なく目が止まって、涙も自然とこぼれてくるので、返事を、お書かせになる。
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一所懸命に考え出した歌であろうと想像されて、つたない中に言ってある心を身にしむように中の君は思い、筆任せに、それほど深くお思いにならぬことであろうと思われることを、多くの美しい言葉で飾ってお送りになる方の文よりもこのほうに心の引かれる気がして、涙さえこぼれてきたために、返事を自身で書いた。
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Daizi to omohi mahasi te yomi idasi tu ram, to obose ba, uta no kokorobahe mo ito ahare nite, nahozarini, sasimo obosa nu na' meri to miyuru kotonoha wo, medetaku konomasigeni kaki tukusi tamahe ru hito no ohom-humi yori ha, koyonaku me tomari te, namida mo koborure ba, kaherigoto, kaka se tamahu.
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1.2.2 |
「 この春は誰れにか見せむ亡き人の かたみに摘める峰の早蕨」 |
「今年の春は誰にお見せしましょうか 亡きお方の形見として摘んだ峰の早蕨を」 |
この春はたれにか見せんなき人の かたみに摘める峰のさわらび
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"Kono haru ha tare ni ka mise m naki hito no katami ni tume ru mine no sawarabi |
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1.2.3 |
使に禄取らせさせたまふ。
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使者に禄を与えさせなさる。
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使いには纏頭が出された。
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Tukahi ni roku tora se sase tamahu.
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1.2.4 |
いと盛りに匂ひ多くおはする人の、 さまざまの御もの思ひに、すこしうち面痩せたまへる、いとあてになまめかしきけしきまさりて、 昔人にもおぼえたまへり。並びたまへりし折は、とりどりにて、 さらに似たまへりとも見えざりしを、うち忘れては、ふとそれかとおぼゆるまでかよひたまへるを、
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まことに盛りではなやいでいらっしゃる方で、いろいろなお悲しみに、少し面痩せしていらっしゃるのが、とても上品で優美な感じがまさって、故人にも似ていらっしゃった。お揃いでいらっしゃったときは、それぞれ素晴らしく、全然似ていらっしゃるとも見えなかったが、ふと忘れては、その人かと思われるまで似ていらっしゃるのを、
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盛りの美しさを備えた人が、いろいろな物思いのために少し面痩せのしたのもかえって貴女らしい艶な趣の添ったように見え、総角の姫君にもよく似ていた。いっしょにいたころはどちらにも特殊な美しさがあって、似ているように見えなかったのであるが、今ではうかとしておれば大姫君であるという錯覚が起こるのを、
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Ito sakari ni nihohi ohoku ohasuru hito no, samazama no ohom-monoomohi ni, sukosi uti-omoyase tamahe ru, ito ate ni namamekasiki kesiki masari te, mukasibito ni mo oboye tamahe ri. Narabi tamahe ri si wori ha, toridori nite, sarani ni tamahe ri to mo miye zari si wo, uti-wasure te ha, huto sore ka to oboyuru made kayohi tamahe ru wo,
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1.2.5 |
「 中納言殿の、 骸をだにとどめて見たてまつるものならましかばと、朝夕に 恋ひきこえたまふめるに、同じくは、見えたてまつりたまふ御宿世ならざりけむよ」
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「中納言殿が亡骸だけでも残って拝見できるものであったらと、朝夕にお慕い申し上げていらっしゃるようだが、同じことなら、結ばれなさるご運命でなかったことよ」
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遺骸だけでも永くとどめてながめていられるものだったならばと、朝夕に恋しがっていた源中納言の夫人になっておいでになればよかったものを、運命のそれを許さなかったのが惜しい
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"Tiunagon-dono no, kara wo dani todome te mi tatematuru mono nara masika ba to, asayuhu ni kohi kikoye tamahu meru ni, onaziku ha, miye tatematuri tamahu ohom-sukuse nara zari kem yo!"
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1.2.6 |
と、見たてまつる人びとは口惜しがる。
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と、拝する女房たちは残念がっている。
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と思い、女房たちは残念がっていた。
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to, mi tatematuru hitobito ha kutiwosigaru.
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1.2.7 |
かの御あたりの人の通ひ来るたよりに、 御ありさまは絶えず聞き交はしたまひけり。 尽きせず思ひほれたまひて、「新しき年ともいはず、いや目になむ、なりたまへる」と聞きたまひても、「 げに、うちつけの心浅さにはものしたまはざりけり」と、 いとど今ぞあはれも深く、思ひ知らるる。
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あの御あたりの人が通って来る便りに、ご様子は常にお互いにお聞きなさっていたのであった。いつまでもぼうっとしていらして、「新年になっても相変わらず、悲しそうな涙顔に、なっていらっしゃる」とお聞きになっても、「なるほど、一時の浮ついたお心ではいらっしゃらなかったのだ」と、ますます今となって愛情も深かったのだと、思い知られる。
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薫の家のほうから始終出て来る人があってそちらのこともこちらの様子も双方でよく知っていた。まだ総角の姫君に死別した悲しみに茫然となっていて、涙目の人になっていると中納言のことの言われているのを聞いて中の君は、中納言の姉君に持っていた愛は浅薄なものではなかったと、いっそう今になって身にしむようにその人の恋が思われるのであった。
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Kano ohom-atari no hito no kayohi kuru tayori ni, ohom-arisama ha taye zu kiki kahasi tamahi keri. Tuki se zu omohi hore tamahi te, "Atarasiki tosi to mo iha zu, iyame ni nam, nari tamahe ru." to kiki tamahi te mo, "Geni, utituke no kokoroasasa ni ha monosi tamaha zari keri." to, itodo ima zo ahare mo hukaku, omohisira ruru.
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1.2.8 |
宮は、おはしますことのいと所狭くありがたければ、「京に渡しきこえむ」と 思し立ちにたり。
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宮は、お越しになることがまことに自由に振る舞えず機会がないので、「京にお移し申そう」とご決意なさっていた。
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兵部卿の宮は宇治へお通いになることが近ごろになっていっそう困難になり、不可能にさえなったために、中の君を京へ迎えようと決心をあそばした。
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Miya ha, ohasimasu koto no ito tokoroseku arigatakere ba, "Kyau ni watasi kikoye m," to obositati ni tari.
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注釈16 | 大事と思ひまはして詠み出だしつらむ | 1.2.1 |
注釈17 | なほざりにさしも思さぬなめりと見ゆる | 1.2.1 |
注釈18 | 返り事書かせたまふ | 1.2.1 |
注釈19 | この春は誰れにか見せむ亡き人の--かたみに摘める峰の早蕨 | 1.2.2 |
注釈20 | さまざまの御もの思ひに | 1.2.4 |
注釈21 | 昔人にも | 1.2.4 |
注釈22 | さらに似たまへりとも見えざりしを | 1.2.4 |
注釈23 | 中納言殿の | 1.2.5 |
注釈24 | 骸をだにとどめて見たてまつるものならましかば | 1.2.5 |
注釈25 | 恋ひきこえたまふめるに同じくは | 1.2.5 |
注釈26 | かの御あたりの人の | 1.2.7 |
注釈27 | 御ありさまは絶えず聞き交はしたまひけり | 1.2.7 |
注釈28 | 尽きせず思ひほれたまひて、「新しき年ともいはず、いや目になむ、なりたまへる」 | 1.2.7 |
注釈29 | げにうちつけの心浅さにはものしたまはざりけり | 1.2.7 |
注釈30 | いとど今ぞあはれも深く思ひ知らるる | 1.2.7 |
注釈31 | 宮は | 1.2.8 |
注釈32 | 思し立ちにたり | 1.2.8 |
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1.3 |
第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問
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1-3 At late in January, Kaoru visits to Nio-no-miya
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1.3.1 |
内宴など、もの騒がしきころ過ぐして、中納言の君、「 心にあまることをも、また誰れにかは語らはむ」と思しわびて、 兵部卿宮の御方に参りたまへり。
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内宴など、何かと忙しい時期を過ごして、中納言の君が、「心におさめかねていることを、また他に誰に話せようか」とお思い余って、兵部卿宮の御方に参上なさった。
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御所の内宴などがあって騒がしいころを過ごしてから薫は、心一つに納めかねるような愁いも、その他のだれに話すことができようと思い、匂宮の御殿をお訪ねした。
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Naien nado, mono-sawagasiki koro sugusi te, Tiunagon-no-Kimi, "Kokoro ni amaru koto wo mo, mata tare ni kaha kataraha m?" to obosi wabi te, Hyaubukyau-no-Miya no ohom-kata ni mawiri tamahe ri.
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1.3.2 |
しめやかなる夕暮なれば、宮うち眺めたまひて、端近くぞおはしましける。箏の御琴かき鳴らしつつ、例の、御心寄せなる梅の香をめでおはする、 下枝を 押し折りて参りたまへる、匂ひのいと艶にめでたきを、折をかしう思して、
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しんみりとした夕暮なので、宮は物思いに耽っておいでになって、端近くにいらっしゃった。箏のお琴を掻き鳴らしながら、いつものように、お気に入りの梅の香を賞美しておいでになる、その下枝を手折って参上なさったが、匂いがたいそう優雅で素晴らしいのを、折柄興あることにお思いになって、
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しめやかな早春の夕べの空の見える所に宮は出ておいでになった。十三絃をお弾きになりながら、例のお好きな梅の香を愛してもいられたのである。薫はその梅の花の下の枝を少し折って、手に持ちながらはいって来た。艶な感じが覚えられることであった。宮はこの早春の夕べにふさわしい客をうれしくお思いになり、
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Simeyaka naru yuhugure nare ba, Miya uti-nagame tamahi te, hasi tikaku zo ohasimasi keru. Sau-no-ohom-koto kaki-narasi tutu, rei no, mi-kokoroyose naru mume no ka wo mede ohasuru, sidue wo osi-wori te mawiri tamahe ru, nihohi no ito en ni medetaki wo, wori wokasiu obosi te,
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1.3.3 |
「 折る人の心にかよふ花なれや 色には出でず下に匂へる」 |
「折る人の心に通っている花なのだろうか 表には現さないで内に匂いを含んでいる」 |
折る人のこころに通ふ花なれや 色にはいでず下ににほへる
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"Woru hito no kokoro ni kayohu hana nare ya iro ni ha ide zu sita ni nihohe ru |
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1.3.4 |
とのたまへば、
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とおっしゃるので、
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とお言いになると、
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to notamahe ba,
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1.3.5 |
「 見る人にかこと寄せける花の枝を 心してこそ折るべかりけれ |
「見る人に言いがかりをつけられる花の枝は 注意して折るべきでした |
「見る人にかごと寄せける花の枝を 心してこそ折るべかりけれ
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"Miru hito ni kakoto yose keru hana no e wo kokorosi te koso woru bekari kere |
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1.3.6 |
わづらはしく」
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迷惑なことです」
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私が困ります」
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Wadurahasiku."
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1.3.7 |
と、戯れ交はしたまへる、 いとよき御あはひなり。
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と冗談を言い交わしなさっているが、実にも仲好いお二方である。
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薫も冗談にしてこんなことを申し上げた。並べて見るに最もよく似合った若い貴人と見えた。
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to, tahabure kahasi tamahe ru, ito yoki ohom-ahahi nari.
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1.3.8 |
こまやかなる御物語どもになりては、かの 山里の御ことをぞ、まづはいかにと、宮は聞こえたまふ。中納言も、 過ぎにし方の飽かず悲しきこと、 そのかみより今日まで思ひの絶えぬよし、折々につけて、あはれにもをかしくも、泣きみ笑ひみとかいふらむやうに、聞こえ出でたまふに、ましてさばかり色めかしく、涙もろなる御癖は、 ▼ 人の御上にてさへ、袖もしぼるばかりになりて、 かひがひしくぞあひしらひきこえたまふめる。
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こまごまとしたお話になってからは、あの山里の御事を、まずはどうしているかと、宮はお尋ね申し上げなさる。中納言も、亡くなった方のことが諦めようもなく悲しいことを、その当時から今日までの思いの断ち切れないことを、四季折々につけて、悲しいことや風流なことを、悲喜こもごもとか言うように、申し上げなさると、それ以上にあれほど色っぽく涙もろいご性癖は、人のお身の上のことでさえ、袖をしぼるほどになって、話しがいがあるようにお答えなさっているようである。
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しんみりとした話になっていって、どうしているかと宇治のことをまず宮はお聞きになった。薫も恋人に死なれた悲しみを言い、初めから今までのその人に関する物思いの連続を、そのおりあのおりと、身にしむようにも、美しくも泣きながら、笑いながらというように話し出したのを、聞いておいでになって、繊細な感情に富んでおいでになり、涙もろい癖の宮は、他人のことながらも、袖を絞るほどの涙をお流しになって、熱心な受け答えをあそばされるのであった。
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Komayaka naru ohom-monogatari-domo ni nari te ha, ka no yamazato no ohom-koto wo zo, madu ha ikani to, Miya ha kikoye tamahu. Tiunagon mo, sugi ni si kata no akazu kanasiki koto, sonokami yori kehu made omohi no taye nu yosi, woriwori ni tuke te, ahareni mo wokasiku mo, nakimi warahimi to ka ihu ram yau ni, kikoye ide tamahu ni, masite sabakari iromekasiku, namidamoro naru ohom-kuse ha, hito no ohom-uhe nite sahe, sode mo siboru bakari ni nari te, kahigahisiku zo ahisirahi kikoye tamahu meru.
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出典3 |
人の御上にてさへ |
わが身から憂き世の中と名付けつつ人のためさへ悲しかるらむ |
古今集雑下-九六〇 読人しらず |
1.3.8 |
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1.4 |
第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う
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1-4 Nio-no-miya tells Kaoru that he will call Naka-no-kimi to Kyoto
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1.4.1 |
空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞みわたれる。 夜になりて、烈しう吹き出づる風のけしき、まだ冬めきていと寒げに、大殿油も消えつつ、 闇はあやなきたどたどしさなれど ★、かたみに聞きさしたまふべくもあらず、尽きせぬ御物語をえはるけやりたまはで、夜もいたう更けぬ。
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空の様子もまた、なるほど心を知っているかのように霞わたっていた。夜になって烈しく吹き出した風の様子、まだ冬らしくてまこと寒そうで、大殿油も消え消えし、闇は梅の香を隠せず匂っているが、互いにそのままお話をやめることもなさらず、尽きないお話を心ゆくまでお話しきれないで、夜もたいそう更けてしまった。
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天もまた哀愁の人に同情するかのように、空を霞がぼんやりこめて、夜になってからは烈しく風も吹き出し、まだ冬らしい寒さが寄ってきて灯も消えた。「春の夜の闇はあやなし」というようなたよりなさではあったが、話す人、聞く人もそれを障りにしてそのままにやむ話ではなかった。どんなに語っても中納言は心の晴れることを覚えないままで深更になった。
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Sora no kesiki mo mata, geni zo ahare siri gaho ni kasumi watare ru. Yoru ni nari te, hagesiu huki iduru kaze no kesiki, mada huyumeki te ito samuge ni, ohotonabura mo kiye tutu, yami ha ayanaki tadotadosisa nare do, katamini kiki sasi tamahu beku mo ara zu, tukise nu ohom-monogatari wo e haruke yari tamaha de, yoru mo itau huke nu.
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1.4.2 |
世にためしありがたかりける仲の睦びを、「 いで、さりとも、いとさのみはあらざりけむ」と、残りありげに問ひなしたまふぞ、 わりなき御心ならひなめるかし。 さりながらも、ものに心えたまひて、嘆かしき心のうちもあきらむばかり、かつは慰め、またあはれをもさまし、さまざまに語らひたまふ、御さまのをかしきにすかされたてまつりて、 げに、心にあまるまで思ひ結ぼほるることども、すこしづつ語りきこえたまふぞ、こよなく胸のひまあく心地したまふ。
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世にも稀な二人の仲のよさを、「さあ、そうはいっても、とてもそんなばかりではなかったでしょう」と、隠しているものがあるようにお尋ねになるのは、理不尽なご性癖のせいである。そうは言っても、物事をよくお分かりになって、悲しい心の中を晴れるように、一方では慰めもし、また悲しみを忘れさせ、いろいろとお語らいになる、そのご様子の魅力にお引かれ申して、なるほど、心に余るほどに鬱積していたことがらを、少しずつお話し申し上げなさるのは、この上なく心が晴れ晴れする気がなさる。
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世の中にまたたぐいもないような精神的愛に止まったという薫の話を、必ずしも終わりまでそうではなかったであろうと宮のお思いになるのも、御自身から割り出してお考えになるからであろう。そうではあるが他の点では御想像が穎敏で、薫の気持ちをよく理解され、悲しみも慰めるに足るほどな言葉をお出しになった。一つは御容姿のお美しさが心をよく賺して、結ぼれの解けぬ歎きを少しずつ語っていかれるのは非常に気の楽になることのように薫に思われたのである。
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Yo ni tamesi arigatakari keru naka no mutubi wo, "Ide, saritomo, ito sa nomi ha ara zari kem." to, nokori arige ni tohi nasi tamahu zo, warinaki mi-kokoronarahi na' meru kasi. Sarinagara mo, mono ni kokoroe tamahi te, nagekasiki kokoro no uti mo akiramu bakari, katu ha nagusame, mata ahare wo mo samasi, samazama ni katarahi tamahu, ohom-sama no wokasiki ni sukasa re tatematuri te, geni, kokoro ni amaru made omohi musubohoruru koto-domo, sukosi dutu katari kikoye tamahu zo, koyonaku mune no hima aku kokoti si tamahu.
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1.4.3 |
宮も、 かの人近く渡しきこえてむとするほどのことども、語らひきこえたまふを、
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宮も、あの方を近々お移し申そうとすることについて、ご相談申し上げなさるのを、
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宮も近日に中の君を京へお迎えになろうとすることで中納言へ御相談をあそばされると、
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Miya mo, kano hito tikaku watasi kikoye te m to suru hodo no koto-domo, katarahi kikoye tamahu wo,
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1.4.4 |
「 いとうれしきことにもはべるかな。あいなく、 みづからの過ちとなむ思うたまへらるる。飽かぬ昔の名残を、また尋ぬべき方もはべらねば、おほかたには、何ごとにつけても、 心寄せきこゆべき人となむ思うたまふるを、もし便なくや思し召さるべき」
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「まことに嬉しいことでございますね。不本意ながら、わたしの過失と存じておりました。諦め切れない故人の縁者を、また他に訪ねるべき人もございませんので、後見一般としては、どのようなことでも、お世話申し上げるべき人と存じておりますが、もし不都合なこととお思いになりましょうか」
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「非常にけっこうなことでございます。あのままになりましては私の責任になりますことと苦しく思っておりました。昔の人の名残の家も、あの女王があなた様のものであれば、今では私のお訪ねして行く名目に困っていたのでした。しかしただのお世話は十分に私がせねばならぬ方だと思っていますが、そのことで御感情を害するようなことはないでしょうか」
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"Ito uresiki koto ni mo haberu kana! Ainaku, midukara no ayamati to nam omou tamahe raruru. aka nu mukasi no nagori wo, mata tadunu beki kata mo habera ne ba, ohokata ni ha, nanigoto ni tuke te mo, kokoroyose kikoyu beki hito to nam omou tamahuru wo, mosi bin naku ya obosimesa ru beki."
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1.4.5 |
とて、かの、「 異人とな思ひわきそ」と、譲りたまひし心おきてをも、すこしは語りきこえたまへど、 岩瀬の森の呼子鳥めいたりし夜のことは ★、 残したりけり。心のうちには、「 かく慰めがたき形見にも、げに、さてこそ、かやうにも扱ひきこゆべかりけれ」と、悔しきことやうやうまさりゆけど、今はかひなきものゆゑ、「 常にかうのみ思はば、あるまじき心もこそ出で来れ。誰がためにもあぢきなく、をこがましからむ」と思ひ離る。「 さても、おはしまさむにつけても、まことに思ひ後見きこえむ方は、また誰れかは」と思せば、御渡りのことどもも 心まうけせさせたまふ。
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と言って、あの、「他人とお思いくださるな」と、お譲りになったお心向けをも、少しお話し申し上げなさるが、岩瀬の森の呼子鳥めいた夜のことは、話さずにいたのであった。心の中では、「このように慰めがたい形見にも、なるほど、おっしゃったように、このようにお世話申し上げるべきであった」と、悔しさがだんだんと高じてゆくが、今では甲斐のないゆえに、「常にこのようにばかり思っていたら、とんでもない料簡が出て来るかもしれない。誰にとってもつまらなく、馬鹿らしいことだろう」と思い諦める。「それにしても、お移りになるにしても、ほんとうにご後見申し上げる人は、わたし以外に誰がいようか」とお思いになるので、お引越しの準備を用意おさせになる。
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と薫は言い、なお故人が以前に、自分と同じものと思えと言い、中の君と自分の結婚を望んだことも少しお話ししたが、あの中の君と兄妹のような心で語っていた寝室の一夜のことには触れなかった。心の中では、こんなにも悲しまれる日の心の慰めとして妻に得ておくべきであって、宮がなされようとするがごとく京へその人を迎えることもできたのであったと、残念な気持ちがようやく深くなっていくのである。今はもう思っても何の効もないことを、しかも始終それを思いつめておれば、なしてならぬことをなしたい心も出てくるであろう、それは宮の御ため、中の君、自分のためにも人笑われなことに違いないとこうこの人は反省した。それにしても中の君が京へ移ることになっての仕度その他について、自分のほかにだれも力になる人はないのであると薫は思い、手もとでいろいろな品の新調などをさせていた。
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tote, kano, "Kotobito to na omohiwaki so." to, yuduri tamahi si kokorookite wo mo, sukosi ha katari kikoye tamahe do, Ihase-no-mori no yobukodori mei tari si yo no koto ha, nokosi tari keri. Kokoro no uti ni ha, "Kaku nagusame gataki katami ni mo, geni, sate koso, kayau ni mo atukahi kikoyu bekari kere." to, kuyasiki koto yauyau masari yuke do, ima ha kahi naki mono yuwe, "Tune ni kau nomi omoha ba, aru maziki kokoro mo koso idekure. Taga tame ni mo adikinaku, wokogamasikara m." to omohi hanaru. "Sate mo, ohasimasa m ni tuke te mo, makoto ni omohi usiromi kikoye m kata ha, mata tare kaha." to obose ba, ohom-watari no koto-domo mo kokoromauke se sase tamahu.
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注釈47 | 空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞みわたれる | 1.4.1 |
注釈48 | 夜になりて烈しう吹き出づる風のけしきまだ冬めきていと寒げに | 1.4.1 |
注釈49 | 闇はあやなきたどたどしさなれど | 1.4.1 |
注釈50 | 世にためしありがたかりける仲の睦びを | 1.4.2 |
注釈51 | いで、さりとも、いとさのみはあらざりけむ | 1.4.2 |
注釈52 | わりなき御心ならひなめるかし | 1.4.2 |
注釈53 | さりながらも | 1.4.2 |
注釈54 | げに心にあまるまで思ひ結ぼほるることども | 1.4.2 |
注釈55 | かの人近く渡しきこえてむとするほどのことども | 1.4.3 |
注釈56 | いとうれしきことにもはべるかな | 1.4.4 |
注釈57 | みづからの過ちとなむ思うたまへらるる飽かぬ昔の名残を | 1.4.4 |
注釈58 | 心寄せきこゆべき人となむ | 1.4.4 |
注釈59 | 異人とな思ひわきそ | 1.4.5 |
注釈60 | 岩瀬の森の呼子鳥めいたりし夜のことは | 1.4.5 |
注釈61 | かく慰めがたき形見にも | 1.4.5 |
注釈62 | 常にかうのみ思はば | 1.4.5 |
注釈63 | さてもおはしまさむにつけても | 1.4.5 |
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出典4 |
闇はあやなき |
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる |
古今集春上-四一 凡河内躬恒 |
1.4.1 |
出典5 |
岩瀬の森の呼子鳥 |
恋しくは来てもみよかし人づてに岩瀬の森の呼子鳥かな |
玄々集-九三 |
1.4.5 |
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1.5 |
第五段 中君、姉大君の服喪が明ける
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1-5 Naka-no-kimi comes out of the late Ohoi-kimi's mourning
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1.5.1 |
かしこにも、 よき若人童など求めて、人びとは心ゆき顔にいそぎ思ひたれど、 今はとてこの 伏見を荒らし果てむも ★、いみじく心細ければ、嘆かれたまふこと尽きせぬを、さりとても、またせめて心ごはく、絶え籠もりてもたけかるまじく、「 浅からぬ仲の契りも、 絶え果てぬべき御住まひを、いかに思しえたるぞ」とのみ、怨みきこえたまふも、すこしはことわりなれば、 いかがすべからむ、と思ひ乱れたまへり。
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あちらでも、器量の良い若い女房や童女などを雇って、女房たちは満足げに準備しているが、今を最後とこの伏見ならぬ宇治を荒らしてしまうのも、たいそう心細いので、お嘆きになること尽きないが、だからといって、また気負い立って強情を張って、閉じ籠もっていてもどうしようもなく、「浅くない縁が、絶え果ててしまいそうなお住まいなのに、どういうおつもりですか」とばかり、お恨み申し上げなさるのも、少しは道理なので、どうしたらよいだろう、と思案なさっていた。
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宇治でもきれいな若女房、童女などを捜して雇い入れ、女房たちは幸福感に浸っているのであるが、いよいよ父宮の遺愛の宇治の山荘を離れて行くことになるのかと中の君は心細くて歎かればかりする、そうかといって寂しさに堪えてここに独居する決心もできそうになかった。宮から熱愛はしていながらもこのままでは自然に遠い仲になっていくかもしれぬのをどう思っているかと恨んでおよこしになるのも少しお道理に思われるところもあったので、どうすればよいかとばかり煩悶する中の君であった。
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Kasiko ni mo, yoki wakaudo waraha nado motome te, hitobito ha kokoroyuki gaho ni isogi omohi tare do, ima ha tote kono Husimi wo arasi hate m mo, imiziku kokorobosokere ba, nageka re tamahu koto tuki se nu wo, saritote mo, mata semete kokorogohaku, taye komori te mo takekaru maziku, "Asakara nu naka no tigiri mo, taye hate nu beki ohom-sumahi wo, ikani obosi e taru zo." to nomi, urami kikoye tamahu mo, sukosi ha kotowari nare ba, ikaga su bekara m, to omohi midare tamahe ri.
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1.5.2 |
如月の朔日ごろとあれば、ほど近くなるままに、花の木どものけしきばむも残りゆかしく、「 峰の霞の立つを見捨てむことも ★、おのが常世にてだにあらぬ旅寝にて、いかにはしたなく人笑はれなることもこそ」など、よろづにつつましく、心一つに思ひ明かし暮らしたまふ。
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二月の上旬頃にというので、間近になるにつれて、花の木の蕾みがふくらんでくるのもその後が気になって、「峰に霞が立つのを見捨てて行くことも、自分の常住の住まいでさえない旅寝のようで、どんなに体裁悪く物笑いになっては」などと、万事に気がひけて、一人思案に暮れて過ごしていらっしゃる。
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二月になったらすぐということであったから、近づくにしたがい咲く花の蕾も大きくふくらんでくるのを見ては、春の花のすべてを見ずに行くことが心残りに思われ、帰雁のように霞の山を捨てて行く先は、自身の家でもないことが不安で、宮の愛が永久に変わらぬものと見なされぬ心から寂しい未来も考えられてひそかに思い悩んでいるのであった。
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Kisaragi no tuitati-goro to are ba, hodo tikaku naru mama ni, hana no ki-domo no kesikibamu mo nokori yukasiku, "Mine no kasumi no tatu wo misute m koto mo, onoga tokoyo nite dani ara nu tabine nite, ikani hasitanaku hitowaraha re naru koto mo koso." nado, yorodu ni tutumasiku, kokoro hitotu ni omohi akasi kurasi tamahu.
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1.5.3 |
御服も、限りあることなれば、脱ぎ捨てたまふに、禊も浅き心地ぞする。 親一所は、見たてまつらざりしかば、恋しきことは思ほえず。その御代はりにも、 この度の衣を深く染めむと、心には思しのたまへど、さすがに、さるべきゆゑもなきわざなれば、飽かず悲しきこと限りなし。
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御服喪も、期限があることなので、脱ぎ捨てなさるのに、禊も浅い気がする。母親は、お顔を存じ上げていないので、恋しいとも思われない。そのお代わりにも、今回の喪服の色を濃く染めようと、心にお思いになりおっしゃりもしたが、はやり、そのような理由もないことなので、物足りなく悲しいことは限りがない。
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姉の服喪の期間は三月であって、除服の禊を行なうことになっているのも飽き足らぬことに中の君は思った。母夫人とは顔も知らぬほどの縁であったから、恋しいとは思いようもなかったが、そのかわりとして子の服喪を姉のためにしたい心であったが、これは定まったことでかってにはならなかった。
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Ohom-buku mo, kagiri aru koto nare ba, nugi sute tamahu ni, misogi mo asaki kokoti zo suru. Oya hito tokoro ha, mi tatematura zari sika ba, kohisiki koto ha omohoye zu. Sono ohom-kahari ni mo, kono tabi no koromo wo hukaku some m to, kokoro ni ha obosi notamahe do, sasugani, sarubeki yuwe mo naki waza nare ba, akazu kanasiki koto kagirinasi.
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1.5.4 |
中納言殿より、御車、御前の人びと、 博士などたてまつれたまへり。
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中納言殿から、お車や、御前の供人や、博士などを差し向けなさった。
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禊の日の女王の車、前駆を勤める人々、守刀などが薫のほうから送られた。
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Tiunagon-dono yori, mi-kuruma, omahe no hitobito, hakase nado tatemature tamahe ri.
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1.5.5 |
「 はかなしや霞の衣裁ちしまに 花のひもとく折も来にけり」 |
「早いものですね、霞の衣を作ったばかりなのに もう花が綻ぶ季節となりました」 |
はかなしや霞のころもたちしまに 花の紐とく折も来にけり
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"Hakanasi ya kasumi no koromo tati si ma ni hana no himo toku wori mo ki ni keri |
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1.5.6 |
げに、色々いときよらにてたてまつれたまへり。御渡りのほどの被け物どもなど、ことことしからぬものから、品々にこまやかに思しやりつつ、いと多かり。
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なるほど、色とりどりにたいそう美しくして差し上げなさった。お引越しの時のお心づけなど、仰々しくない物で、それぞれの身分に応じていろいろと考えて、とても多かった。
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添えられたこの歌のように、春の花のいろいろに似た衣服も贈られたのであった。京へ移って行った日に入り用な纏頭に使う品、それらもあまり大形には見せずこまごまと気をつけてそろえて届けられたのである。
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Geni, iroiro ito kiyora nite tatemature tamahe ri. Ohom-watari no hodo no kadukemono-domo nado, kotokotosikara nu monokara, sinazina ni komayaka ni obosiyari tutu, ito ohokari.
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1.5.7 |
「 折につけては、忘れぬさまなる御心寄せのありがたく、はらからなども、えいとかうまではおはせぬわざぞ」
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「何かにつけて、忘れず気のつくご好意をありがたく、兄弟などでさえ、とてもこうまではいらっしゃらないことだ」
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何かのおりには親身な志を見せる薫を喜んで、女房たちは、 「こんなにまでは御兄弟だってなさるものではございませんよ」
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"Wori ni tuke te ha, wasure nu sama naru mi-kokoroyose no arigataku, harakara nado mo, e ito kau made ha ohase nu waza zo."
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1.5.8 |
など、人びとは聞こえ知らす。あざやかならぬ古人どもの心には、かかる方を心にしめて聞こゆ。若き人は、時々も見たてまつりならひて、 今はと異ざまになりたまはむを、さうざうしく、「 いかに恋しくおぼえさせたまはむ」と聞こえあへり。
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などと、女房たちはお教え申し上げる。ぱっとしない老女房連中の考えとしては、このような点を身にしみて申し上げる。若い女房は、時々拝見し馴れているので、今を限りに縁遠くおなりになるのを、物足りなく、「どんなに恋しくお思いなされるでしょう」とお噂し合っていた。
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などと中の君に教えるのであった。こうした老いた女の心には物質的の補助ほどありがたいものはないと深く思われるので、自然これを女王に知らせようと努めるのである。若い女房たちは時々来る薫に親しみを持っていて、 「いよいよ姫君がほかの方の所へ行っておしまいになっては、どんなにあの方様が恋しく思召すことでしょう」 と同情していた。
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nado, hitobito ha kikoye sirasu. Azayaka nara nu hurubito-domo no kokoro ni ha, kakaru kata wo kokoro ni sime te kikoyu. Wakaki hito ha, tokidoki mo mi tatematuri narahi te, ima ha to kotozama ni nari tamaha m wo, sauzausiku, "Ikani kohisiku oboye sase tamaha m." to kikoye ahe ri.
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出典6 |
伏見を荒らし |
いざここにわが世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し |
古今集雑下-九八一 読人しらず |
1.5.1 |
出典7 |
峰の霞の立つを見捨て |
春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる |
古今集春上-三一 伊勢 |
1.5.2 |
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1.6 |
第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問
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1-6 Kaoru visits to Naka-no-kimi at the day before leaving Uji for Kyoto
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1.6.1 |
みづからは、渡りたまはむこと明日とての、まだつとめておはしたり。 例の、客人居の方におはするにつけても、今はやうやうもの馴れて、「 我こそ、人より先に、かうやうにも思ひそめしか」など、 ありしさま、のたまひし心ばへを思ひ出でつつ、「 さすがに、かけ離れ、ことの外になどは、はしたなめたまはざりしを、わが心もて、あやしうも隔たりにしかな」と、胸いたく思ひ続けられたまふ。
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ご自身は、お移りになることが明日という日の、まだ早朝においでになった。いつものように、客人席にお通りになるにつけても、今は、だんだん何にも馴れて、「自分こそ、誰よりも先に、このように思っていたのだ」などと、生前のご様子や、おっしゃったお気持ちをお思い出しになって、「それでも、よそよそしく、思いの外になどとは、おあしらいなさらなかったが、自分のほうから、妙に他人で終わることになってしまったな」と、胸痛くお思い続けなさる。
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薫自身は山荘の人の京へ立つのが明日という日の早朝に訪ねて来た。例の客室にはいっていて、月日が自然に恋人と自分を近づけていき、妻とした大姫君を、今度の中の君のようにして京へ迎えることを、自分のほうが先に期していたのであったと思い、大姫君の生きていたころの様子、話した心を思い出して、絶対に自分を避けようとはせず、もってのほかなどと自分をとがめるようなことはなかったのに、自分の気弱さからついに友情以上のものをあの人にいだかせずに終わったと考えると、胸が痛くさえなるほどに残念であった。
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Midukara ha, watari tamaha m koto asu tote no, mada tutomete ohasi tari. Rei no, marautowi no kata ni ohasuru ni tuke te mo, ima ha yauyau mono nare te, "Ware koso, hito yori saki ni, kau yau ni mo omohisome sika." nado, ari si sama, notamahi si kokorobahe wo omohi ide tutu, "Sasugani, kakehanare, koto no hoka ni nado ha, hasitaname tamaha zari si wo, waga kokoro mote, ayasiu mo hedatari ni si kana!" to, mune itaku omohi tuduke rare tamahu.
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1.6.2 |
垣間見せし障子の穴も思ひ出でらるれば、寄りて見たまへど、この中をば下ろし籠めたれば、いとかひなし。
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垣間見した襖障子の穴も思い出されるので、近寄って御覧になるが、部屋の中が閉めきってあるので、何にもならない。
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父宮の喪中にここから仏間にいるのをのぞいて見た北の襖子の穴も恋しく思い出されて、寄って行って見たが、中の室は戸が皆おろしてあって暗いために何も見えない。
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Kaimami se si sauzi no ana mo omohi ide rarure ba, yori te mi tamahe do, kono naka wo ba orosi kome tare ba, ito kahinasi.
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1.6.3 |
内にも、人びと 思ひ出できこえつつうちひそみあへり。中の宮は、まして、もよほさるる 御涙の川に、明日の渡りもおぼえたまはず、ほれぼれしげにてながめ臥したまへるに、
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部屋の中でも、女房たちはお思い出し申し上げながら涙ぐんでいた。中の宮は、女房たち以上に、催される涙の川で、明日の引っ越しもお考えになれず、茫然として物思いに沈んで臥せっておいでになるので、
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女房も薫の来たことによって昔を思い出して泣いていた。中の君はましてとめどもなく流れる涙のために茫となって横たわっていた。
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Uti ni mo, hitobito omohi ide kikoye tutu uti-hisomi ahe ri. Naka-no-Miya ha, masite, moyohosa ruru ohom-namida no kaha ni, asu no watari mo oboye tamaha zu, horeboresige nite nagame husi tamahe ru ni,
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1.6.4 |
「 月ごろの積もりも、そこはかとなけれど、 いぶせく思うたまへらるるを、片端もあきらめきこえさせて、慰めはべらばや。例の、はしたなくなさし放たせたまひそ。 いとどあらぬ世の心地しはべり」
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「幾月ものご無沙汰の間に積もりましたお話も、何ということございませんが、鬱々としておりましたので、少しでもお晴らし申し上げて、気を紛らわせたく存じます。いつものように、きまり悪く他人行儀なさらないでください。ますます知らない世界に来た気が致します」
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「伺うことのできませんでした間に、何をどうしたということはありませんが、絶えぬ思いの続きました一端でもお話をいたして心の慰めにさせていただきたいと思います。例のように他人らしくお扱いにならないでください。いよいよ今と昔の相違を深く覚えることになって悲しいでしょうから」
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"Tukigoro no tumori mo, sokohakatonakere do, ibuseku omou tamahe raruru wo, katahasi mo akirame kikoye sase te, nagusame habera baya! Rei no, hasitanaku na sasi-hanata se tamahi so. Itodo ara nu yo no kokoti si haberi."
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1.6.5 |
と聞こえたまへれば、
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と申し上げなさると、
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と薫から中の君へ取り次がせてきた。
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to kikoye tamahe re ba,
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1.6.6 |
「 はしたなしと思はれたてまつらむとしも思はねど、いさや、心地も例のやうにもおぼえず、かき乱りつつ、いとどはかばかしからぬひがこともやと、つつましうて」
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「体裁が悪いとお思い申されようとは思いませんが、それでも、気分もいつものようでなく、心も乱れ乱れて、ますますはきはきしない失礼を申し上げてはと、気がひけまして」
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「失礼だとは思われたくはないけれど、私は今気分も普通でなくて、何だか苦しいのだから、いっそうそんなことでわからぬお返辞を申し上げたりすることになってはならないと御遠慮がされる」
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"Hasitanasi to omoha re tatematura m to simo omoha ne do, isaya, kokoti mo rei no yau ni mo oboye zu, kaki-midari tutu, itodo hakabakasikara nu higakoto mo ya to, tutumasiu te."
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1.6.7 |
など、苦しげにおぼいたれど、「 いとほし」など、これかれ聞こえて、 中の障子の口にて対面したまへり。
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などと、つらそうにお思いになっているが、「お気の毒です」などと、あれこれ女房が申し上げるので、中の襖障子口でお会いなさった。
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と言い、中の君は気の進まぬふうであったが、御好意に対してそれではと女房らに諫められて、中の襖子の口の所で物越しの対談をすることにした。
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nado, kurusige ni oboyi tare do, "Itohosi" nado, korekare kikoye te, naka no sauzi no kuti nite taimen si tamahe ri.
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1.6.8 |
いと心恥づかしげになまめきて、また「このたびは、ねびまさりたまひにけり」と、目も驚くまで匂ひ多く、「 人にも似ぬ用意など、 あな、めでたの人や」とのみ見えたまへるを、 姫宮は、 面影さらぬ人の御ことをさへ思ひ出できこえたまふに、 いとあはれと見たてまつりたまふ。
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たいそうこちらが気恥ずかしくなるほど優美で、また「今度は、一段と立派におなりになった」と、目も驚くほどはなやかに美しく、「誰にも似ない心ばせなど、何とも、素晴らしい方だ」とばかりお見えになるのを、姫宮は、面影の離れない方の御事までお思い出し申し上げなさると、まことにしみじみとお会い申し上げなさる。
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気品よく艶で、今度はまた以前よりもひときわまさったと女房たちの目も驚くほど美しさがあって、だれにもない清楚な身のとりなしの備わっている薫は、これ以上の男がこの世にはあるまいと見えた。中の君はこの人に亡き姉君のことをさえまた恋しく思われ、身に沁んで薫を見ていた。
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Ito kokorohadukasige ni namameki te, mata "Kono tabi ha, nebi masari tamahi ni keri." to, me mo odoroku made nihohi ohoku, "Hito ni mo ni nu youi nado, ana, medeta no hito ya!" to nomi miye tamahe ru wo, Hime-Miya ha, omokage sara nu hito no ohom-koto wo sahe omohi ide kikoye tamahu ni, ito ahare to mi tatematuri tamahu.
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1.6.9 |
「 尽きせぬ御物語なども、 今日は言忌すべくや」
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「つきないお話なども、今日は言忌みしましょうね」
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「取り返しがたい方のことも、今日は縁起を祝わねばなりませんからお話をさし控えたほうがよろしいでしょう」
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"Tukise nu ohom-monogatari nado mo, kehu ha kotoimi su beku ya."
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1.6.10 |
など言ひさしつつ、
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などと言いさして、
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と中納言は言い、ややしばらくして、また、
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nado ihi sasi tutu,
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1.6.11 |
「 渡らせたまふべき所近く、 このころ過ぐして移ろひはべるべければ、 夜中暁と、つきづきしき人の言ひはべるめる、何事の折にも、疎からず思しのたまはせば、世にはべらむ限りは、聞こえさせ承りて過ぐさまほしくなむはべるを、いかがは思し召すらむ。人の心さまざまにはべる世なれば、 あいなくやなど、一方にもえこそ思ひはべらね」
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「お移りになるはずの所の近くに、もう幾日かして移ることになっていますので、夜中も早朝もと、親しい間柄の人が言いますように、どのような機会にも、親しくお考えくださりおっしゃっていただければ、この世に生きております限りは、申し上げもし承りもして過ごしとうございますが、どのようにお考えでしょうか。人の考えはいろいろでございます世の中なので、かえって迷惑かなどと、独り決めもしかねるのです」
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「今度おいでになるお邸の近い所へ、私の家もまたすぐに移転することになっていますから、夜中でも暁でもと能弁家がよく言いますように、何事がありましても私へ御用をお言いくださいましたなら、生きておりますうちはどんなにもしてあなた様のために尽くそうと私は思っているのですが、あなたはどう思ってくださいますか、御迷惑にはお感じになりませんか。出すぎたお世話はいけないかもしれぬのですから、自分の考えをよいこととばかり信じても行なえませんから、お尋ねするのです」
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"Watara se tamahu beki tokoro tikaku, konokoro sugusi te uturohi haberu bekere ba, yonaka akatuki to, tukidukisiki hito no ihi haberu meru, nanigoto no wori ni mo, utokara zu obosi notamahase ba, yo ni habera m kagiri ha, kikoye sase uketamahari te sugusa mahosiku nam haberu wo, ikaga ha obosimesu ram. Hito no kokoro samazama ni haberu yo nare ba, ainaku ya nado, hitokata ni mo e koso omohi habera ne."
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1.6.12 |
と聞こえたまへば、
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と申し上げなさると、
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こう言うと、
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to kikoye tamahe ba,
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1.6.13 |
「 宿をばかれじと ★思ふ心深くはべるを、近く、などのたまはするにつけても、よろづに乱れはべりて、聞こえさせやるべき方もなく」
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「邸を離れまいと思う考えは強うございますが、近くに、などとおっしゃって下さるにつけても、いろいろと思い乱れまして、お返事の申し上げようもなくて」
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「この家を永久に離れたくないように思われます私は、近くへ来るなどとおっしゃるのを承っていますだけでも心が乱れまして、何とお返辞を申し上げてよろしいかもわかりません」
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"Yado wo ba kare zi to omohu kokorohukaku haberu wo, tikaku, nado notamahasuru ni tuke te mo, yoroduni midare haberi te, kikoye sase yaru beki kata mo naku."
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1.6.14 |
など、所々言ひ消ちて、 いみじくものあはれと思ひたまへるけはひなど、 いとようおぼえたまへるを、「 心からよそのものに見なしつる」と、いと悔しく思ひゐたまへれど、かひなければ、 その夜のことかけても言はず、 忘れにけるにやと見ゆるまで、けざやかにもてなしたまへり。
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などと、言葉とぎれとぎれに言って、ひどく心に感じ入っていらっしゃる様子など、ひどくよく似ていらっしゃるのを、「自分から他人の妻にしてしまった」と思うと、とても悔しく思っていらっしゃるが、言っても効ないので、あの夜のことは何も言わず、忘れてしまったのかと見えるまで、きれいさっぱりと振る舞っていらっしゃった。
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所々は言おうとする言葉も消して、非常に物悲しく思っている様子の見えるところなどもよく大姫君に似ているのを知って、自身の心からこの人を他へやることになったとくちおしく思われてならぬ薫であったが、効のないことであったから、あの以前のある夜のことなどは話題にせず、そんなことは忘れてしまったのかと思われるほど平静なふうを見せていた。 |
nado, tokorodokoro ihi keti te, imiziku mono ahare to omohi tamahe ru kehahi nado, ito you oboye tamahe ru wo, "Kokorokara yoso no mono ni minasi turu." to, ito kuyasiku omohi wi tamahe re do, kahinakere ba, sono yo no koto kake te mo iha zu, wasure ni keru ni ya to miyuru made, kezayakani motenasi tamahe ri.
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出典8 |
宿をばかれじ |
今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をば離れず訪ふべかりけり |
古今集雑下-九六九 在原業平 |
1.6.13 |
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1.7 |
第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す
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1-7 Naka-no-kimi and Kaoru compose and exchange waka viewing ume blossoms
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1.7.1 |
御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに、鴬だに見過ぐしがたげにうち鳴きて渡るめれば、まして「 春や昔の」と ★心を惑はしたまふどちの御物語に、 折あはれなりかし。風のさと吹き入るるに、花の香も客人の御匂ひも、 橘ならねど、昔思ひ出でらるるつまなり ★。「 つれづれの紛らはしにも、世の憂き慰めにも、心とどめてもてあそびたまひしものを」など、心にあまりたまへば、
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お庭前近い紅梅が、花も香もなつかしいので、鴬でさえ見過ごしがたそうに鳴いて飛び移るようなので、まして、「春や昔の」と心を惑わしなさるどうしのお話に、折からしみじみと心を打つのである。風がさっと吹いて入ってくると、花の香も客人のお匂いも、橘ではないが、昔が思い出されるよすがである。「所在ない気の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、
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近い庭の紅梅の色も香もすぐれた木は、鶯も見すごしがたいように啼いて通るのは、まして「月やあらぬ春や昔の春ならぬ」という歎きをしている人たちの心を打つことであろうと思われた。さっと御簾を透かして吹く風に、花の香と客の貴人のにおいの混じって立つのも花橘ではないが昔恋しい心を誘った。つれづれな生活の慰めにも人生の悲しみを紛らわすためにも、紅梅の花は姉君の愛したものであったと思うことが心からあふれて、
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Omahe tikaki koubai no, iro mo ka mo natukasiki ni, uguhisu dani misugusi gatage ni uti-naki te wataru mere ba, masite "Haru ya mukasi no" to kokoro wo madohasi tamahu-doti no ohom-monogatari ni, wori ahare nari kasi. Kaze no sato huki iruru ni, hana no ka mo marauto no ohom-nihohi mo, tatibana nara ne do, mukasi omohi ide raruru tuma nari. "Turedure no magirahasi ni mo, yo no uki nagusame ni mo, kokoro todome te mote-asobi tamahi si mono wo." nado, kokoro ni amari tamahe ba,
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1.7.2 |
「 見る人もあらしにまよふ山里に ★ 昔おぼゆる花の香ぞする」 |
「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、嵐に吹き乱れる山里に 昔を思い出させる花の香が匂って来ます」 |
見る人もあらしにまよふ山里に 昔覚ゆる花の香ぞする
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"Miru hito mo arasi ni mayohu yamazato ni mukasi oboyuru hana no ka zo suru |
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1.7.3 |
言ふともなくほのかにて、たえだえ聞こえたるを、 なつかしげにうち誦じなして、
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言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、
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と言うともなくほのかに絶え絶えに言うのを、薫はなつかしそうに自身の口にのせてから、
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Ihu to mo naku honoka nite, tayedaye kikoye taru wo, natukasige ni uti-zuzi nasi te,
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1.7.4 |
「 袖ふれし梅は変はらぬ匂ひにて 根ごめ移ろふ宿やことなる」 |
「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが 根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」 |
袖ふれし梅は変はらぬにほひにて ねごめうつろふ宿やことなる
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"Sode hure si mume ha kahara nu nihohi nite negome uturohu yado ya koto naru |
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1.7.5 |
堪へぬ涙をさまよくのごひ隠して、言多くもあらず、
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止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉数多くもなく、
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と自作を告げた。絶えない涙をぬぐい隠して、あまり多くは言わぬ薫であった。
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Tahe nu namida wo sama yoku nogohi kakusi te, koto ohoku mo ara zu,
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1.7.6 |
「 またもなほ、かやうにてなむ、何ごとも聞こえさせよかるべき」
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「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」
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「またこんなふうにして何のお話も申し上げようと思います」
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"Mata mo naho, kayau nite nam, nanigoto mo kikoye sase yokaru beki."
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1.7.7 |
など、聞こえおきて立ちたまひぬ。
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などと、申し上げおいてお立ちになった。
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と最後に言って立って行った。
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nado, kikoye oki te tati tamahi nu.
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1.7.8 |
御渡りにあるべきことども、 人びとにのたまひおく。 この宿守に、 かの鬚がちの宿直人などはさぶらふべければ、 このわたりの近き御荘どもなどに、そのことどもものたまひ預けなど、 こまやかなることどもをさへ定めおきたまふ。
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お引越しに必要な支度を、人びとにお指図おきなさる。この邸の留守番役として、あの鬚がちの宿直人などが仕えることになっているので、この近辺の御荘園の者どもなどに、そのことをお命じになるなど、生活面の事まで定めおきなさる。
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薫は中の君の出京について心得ておくことを女房たちに言い、山荘の留守居にあの髭男の侍などが残るであろうことを思って、ここに近い領地の支配をする者を呼び寄せて、今後もここへそれらの人の生活に不足せぬほどの物を届けさせる用も命じた。
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Ohom-watari ni aru beki koto-domo, hitobito ni notamahi oku. Kono yadomori ni, kano higegati no tonowibito nado ha saburahu bekere ba, kono watari no tikaki misau-domo nado ni, sono koto-domo mo notamahi aduke nado, komayaka naru koto-domo wo sahe sadame oki tamahu.
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出典9 |
春や昔の |
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして |
古今集恋五-七四七 在原業平 |
1.7.1 |
出典10 |
橘ならねど、昔思ひ出でらるる |
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする |
古今集夏-一三九 読人しらず |
1.7.1 |
出典11 |
あらしにまよふ |
逢ふことのあらしにまよふ小舟ゆゑとまる我さへこがれぬるかな |
九条右大臣集-三五 |
1.7.2 |
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1.8 |
第八段 薫、弁の尼と対面
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1-8 Kaoru meets Ben-no-ama
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1.8.1 |
弁ぞ、
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弁は、
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弁は
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Ben zo,
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1.8.2 |
「 かやうの御供にも、思ひかけず長き命いとつらくおぼえはべるを、人もゆゆしく見思ふべければ、今は世にあるものとも人に知られはべらじ」
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「このようなお供にも、思いもかけず長生きがつらく思われますが、人も不吉に見たり思ったりするにちがいないでしょうから、今は世に生きている者とも人に知られますまい」
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中の君の移る二条の院へ従って行こうとも思わず、さまざまのことに出あって自身の長生きするのを恨めしい気がするし、人が見ても無気味な老女と思うであろうから、もう自分は存在しないものと思われるように
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"Kayau no ohom-tomo ni mo, omohikake zu nagaki inoti ito turaku oboye haberu wo, hito mo yuyusiku mi omohu bekere ba, ima ha yo ni aru mono to mo hito ni sira re habera zi."
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1.8.3 |
とて、 容貌も変へてけるを、しひて召し出でて、いとあはれと見たまふ。例の、昔物語などせさせたまひて、
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と言って、出家をしていたのを、しいて召し出して、まことにしみじみと御覧になる。いつものように、昔の思い出話などをおさせになって、
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と言って、尼になっていた。そして引きこもっていた部屋から薫はしいて呼び出して、哀れに変わった面影のその人を見た。いつものように大姫君の話を薫はして、
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tote, katati mo kahe te keru wo, sihite mesiide te, ito ahare to mi tamahu. Rei no, mukasimonogatari nado se sase tamahi te,
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1.8.4 |
「 ここには、なほ、 時々は参り来べきを、いとたつきなく心細かるべきに、かくてものしたまはむは、いとあはれにうれしかるべきことになむ」
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「ここには、やはり、時々参りましょうが、まことに頼りなく心細いので、こうしてお残りになるのは、まことにしみじみとありがたく嬉しいことです」
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「ここへは今後も時々私は来るつもりなのですが、知った人がいなくなっては心細いのに、あなたがあとへ残ってくれるのは非常にうれしい」
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"Koko ni ha, naho, tokidoki ha mawiri ku beki wo, ito tatuki naku kokorobosokaru beki ni, kaku te monosi tamaha m ha, ito ahareni uresikaru beki koto ni nam."
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1.8.5 |
など、えも言ひやらず泣きたまふ。
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などと、最後まで言い終わらずにお泣きになる。
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など皆も言うことができず泣いてしまった。
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nado, e mo ihi yara zu naki tamahu.
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1.8.6 |
「 ▼ 厭ふにはえて延びはべる命のつらく、またいかにせよとて、 うち捨てさせたまひけむ、と恨めしく、 なべての世を思ひたまへ沈むに ★、罪もいかに深くはべらむ」
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「厭わしく思えば思うほど長生きをする寿命がつらく、またどう生きよといって、先に逝っておしまいになったのか、と恨めしく、この世のすべてを情けなく思っておりますので、罪もどんなにか深い事でございましょう」
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「世の中をいとえばいとうほど延びてまいります命も恨めしゅうございますし、また私をどうなれとお思いになって、捨ててお死にになったのかと女王様も恨めしゅうございまして、人生に対して片意地になっておりますのも罪の深いことと思われましてね」
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"Itohu ni haye te nobi haberu inoti no turaku, mata ikani se yo tote, uti-sute sase tamahi kem, to uramesiku, nabete no yo wo omohi tamahe sidumu ni, tumi mo ikani hukaku habera m."
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1.8.7 |
と、思ひけることどもを愁へかけきこゆるも、 かたくなしげなれど、 いとよく言ひ慰めたまふ。
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と、思っていたことをお訴え申し上げるのも、愚痴っぽいが、とてもよく言い慰めなさる。
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と、尼になるまでの気持ちを弁の訴えるのも老いた女らしく一徹に聞こえるのであったが、薫はよく言い慰めていた。
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to, omohi keru koto-domo wo urehe kake kikoyuru mo, katakunasige nare do, ito yoku ihi nagusame tamahu.
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1.8.8 |
いたくねびにたれど、昔、きよげなりける名残を削ぎ捨てたれば、額のほど、様変はれるに、すこし若くなりて、 さる方に雅びかなり。
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たいそう年をとっているが、昔、美しかった名残の黒髪を削ぎ落としたので、額の具合、変わった感じに少し若くなって、その方面の身としては優美である。
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非常に年は取っているが、昔の日に美しかった名残の髪を切り捨て後ろ梳きの尼額になったために、かえって少し若く見え雅味があるようにも思われた。
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Itaku nebi ni tare do, mukasi, kiyoge nari keru nagori wo sogi sute tare ba, hitahi no hodo, sama kahare ru ni, sukosi wakaku nari te, saru kata ni miyabika nari.
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1.8.9 |
「 思ひわびては、などかかる様にもなしたてまつらざりけむ。それに 延ぶるやうもやあらまし。さても、いかに心深く語らひきこえてあらまし」
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「思いあぐねた果てに、どうしてこのような尼姿にして差し上げなかったのだろう。それによって寿命が延びるようなこともあったろうに。そうして、どんなに親密に語らい申し上げられたろうに」
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故人の恋しさに堪えない心から、なぜあの人の望みどおりに尼にさせなかったのであろう、そしたならあるいは命が助かっていたかもしれぬではないか、そして二人して御仏に仕え、ますますこまやかな交情を作っていきたかった、
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"Omohi-wabi te ha, nado kakaru sama ni mo nasi tatematura zari kem. Sore ni noburu yau mo ya ara masi. Sate mo, ikani kokorohukaku katarahi kikoye te ara masi."
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1.8.10 |
など、一方ならずおぼえたまふに、 この人さへうらやましければ、隠ろへたる几帳をすこし引きやりて、 こまかにぞ語らひたまふ。げに、むげに思ひほけたるさまながら、ものうち言ひたるけしき、用意、 口惜しからず、ゆゑありける人の名残と見えたり。
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などと、一方ならず思われなさると、この人までが羨ましいので、隠れている几帳を少し引いて、こまやかに語らいなさる。なるほど、すっかり悲しみに暮れている様子だが、何か言う態度、心づかいは、並々でなく、嗜みのあった女房の面影が残っていると見えた。
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とこんなことさえ思われる薫には、弁の尼姿さえうらやまれてきて、身体を隠すようにしている几帳を少し横へ引きやって、親しみ深くいろいろな話をした。見た所はぼけたようではあるが、ものを言う気配などに洗練された跡が見え、美しい若い日を持っていたことが想像される。
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nado, hitokata nara zu oboye tamahu ni, kono hito sahe urayamasikere ba, kakurohe taru kityau wo sukosi hiki-yari te, komakani zo katarahi tamahu. Geni, mugeni omohi hoke taru sama nagara, mono uti-ihi taru kesiki, youi, kutiwosikara zu, yuwe ari keru hito no nagori to miye tari.
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1.8.11 |
「 さきに立つ涙の川に身を投げば 人におくれぬ命ならまし」 |
「先に立つ涙の川に身を投げたら 死に後れしなかったでしょうに」 |
さきに立つ涙の川に身を投げば 人におくれぬ命ならまし
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"Saki ni tatu namida no kaha ni mi wo nage ba hito ni okure nu inoti nara masi |
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1.8.12 |
と、うちひそみ聞こゆ。
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と、泣き顔になって申し上げる。
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悲しそうな表情で弁の尼は言った。
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to, uti-hisomi kikoyu.
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1.8.13 |
「 それもいと 罪深かなることにこそ。かの岸に到ること、などか。さしもあるまじきことにてさへ、深き底に沈み過ぐさむもあいなし。すべて、なべてむなしく思ひとるべき世になむ」
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「それもとても罪深いことです。彼岸に辿り着くことは、どうしてできようか。それ以外のことであってさえも、深い悲しみの底に沈んで生きてゆくのもつまらない。すべて、皆無常だと悟るべき世の中なのです」
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「それも罪の深いことになるのですよ、そんな死に方をしては極楽へ行けることがまれで、そして暗い中有に長くいなければならなくなるのもつまりませんよ、いっさい空とあきらめるのがいちばんいいのですよ」
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"Sore mo ito tumi hukaka' naru koto ni koso. Kano kisi ni itaru koto, nado ka? Sasimo arumaziki koto nite sahe, hukaki soko ni sidumi sugusa m mo ainasi. Subete, nabete munasiku omohi toru beki yo ni nam."
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1.8.14 |
などのたまふ。
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などとおっしゃる。
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とも薫は教えた。
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nado notamahu.
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1.8.15 |
「 身を投げむ涙の川に沈みても ★ 恋しき瀬々に忘れしもせじ |
「身を投げるという涙の川に沈んでも 恋しい折々を忘れることはできまい |
「身を投げん涙の川に沈みても 恋しき瀬々に忘れしもせじ
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"Mi wo nage m namida no kaha ni sidumi te mo kohisiki seze ni wasure si mo se zi |
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1.8.16 |
いかならむ世に、すこしも思ひ慰むることありなむ」
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いつになったら、少しは思いが慰むことがあろうか」
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どんな時が来れば少しでも心の慰むことが発見されるのだろう」
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Ikanara m yo ni, sukosi mo omohi nagusamuru koto ari na m."
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1.8.17 |
と、 果てもなき心地したまふ ★。
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と、終わりのない気がなさる。
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と薫は言い、終わりもない哀愁をいだかせられる気持ちがした。
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to, hate mo naki kokoti si tamahu.
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1.8.18 |
帰らむ方もなく眺められて、日も暮れにけれど、すずろに 旅寝せむも、 人のとがむることやと、あいなければ、帰りたまひぬ。
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帰る気にもなれず物思いに沈んで、日も暮れてしまったが、わけもなく外泊するのも、人が咎めることであろうかと、仕方ないので、お帰りになった。
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帰って行く気もせず物思いを続けているうちに日も暮れたが、このまま泊まっていくことは人の疑いを招くことになりやすいからと思い帰京した。
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Kahera m kata mo naku nagame rare te, hi mo kure ni kere do, suzuroni tabine se m mo, hito no togamuru koto ya to, ainakere ba, kaheri tamahi nu.
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出典12 |
厭ふにはえて |
憎さのみ益田の池のねぬなはは厭ふにはふるものにぞありける |
源氏釈所引-出典未詳 |
1.8.6 |
あやしくも厭ふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき |
後撰集恋二-六〇八 読人しらず |
出典13 |
なべての世を思ひたまへ沈む |
大方の我が身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな |
拾遺集恋五-九五三 紀貫之 |
1.8.6 |
出典14 |
涙の川に沈み |
涙河底の水屑となりはてて恋しき瀬々に流れこそすれ |
拾遺集恋四-八七七 源順 |
1.8.15 |
出典15 |
果てもなき心地 |
我が恋は行方も知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ |
古今集恋二-六一一 凡河内躬恒 |
1.8.17 |
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1.9 |
第九段 弁の尼、中君と語る
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1-9 Ben-no-ama talks with Naka-no-kimi
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1.9.1 |
思ほしのたまへるさまを語りて、弁は、いとど慰めがたくくれ惑ひたり。 皆人は心ゆきたるけしきにて、もの縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌も知らず、つくろひさまよふに、 いよいよやつして、
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お悲しみなっておっしゃっていたご様子を話して、弁は、ますます慰めがたく悲しみに暮れていた。女房たちは満足そうな様子で、衣類を縫い用意しながら、年老いた容貌も気にせず、身づくろいにうろうろしている中で、ますます質素にして、
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源中納言の悲しんでいた様子を中の君に語って、弁はいっそう慰めがたいふうになっていた。他の女房たちは楽しいふうで、明日の用意に物を縫うのに夢中になっていたり、老いて醜くなった顔に化粧をして座敷の中を行き歩いていたりしている一方で弁は、いよいよ世捨て人らしいふうを見せて、
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Omohosi notamahe ru sama wo katari te, Ben ha, itodo nagusame gataku kure madohi tari. Minahito ha kokoro yuki taru kesiki nite, mono nuhi itonami tutu, oyi yugame ru katati mo sira zu, tukurohi samayohu ni, iyoiyo yatusi te,
|
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1.9.2 |
「 人はみないそぎたつめる袖の浦に 一人藻塩を垂るる海人かな」 |
「人びとは皆準備に忙しく繕い物をしているようですが 一人藻塩を垂れて涙に暮れている尼の私です」 |
人は皆いそぎ立つめる袖のうらに 一人もしほをたるるあまかな
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"Hito ha mina isogi tatu meru Sode no ura ni hitori mosiho wo taruru ama kana |
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1.9.3 |
と愁へきこゆれば、
|
と訴え申し上げると、
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と中の君へ訴えた。
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to urehe kikoyure ba,
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1.9.4 |
「 塩垂るる海人の衣に異なれや 浮きたる波に濡るるわが袖 ★ |
「藻塩を垂れて涙に暮れるあなたと同じです 浮いた波に涙を流しているわたしは |
「しほたるるあまの衣に異なれや うきたる波に濡るる我が袖
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"Siho taruru ama no koromo ni koto nare ya uki taru nami ni nururu waga sode |
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1.9.5 |
世に住みつかむことも、いとありがたかるべきわざとおぼゆれば、 さまに従ひて、ここをば荒れ果てじとなむ思ふを、さらば対面もありぬべけれど、しばしのほども、心細くて立ちとまりたまふを見おくに、いとど 心もゆかずなむ。かかる容貌なる人も、かならずひたぶるにしも絶え籠もらぬわざなめるを、なほ世の常に思ひなして、 時々も見えたまへ」
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結婚生活に入ることも、とてもできそうにないことと思われるので、事情によっては、ここを荒れはてさせまいと思うが、そうしたらお会いすることもありましょうが、暫くの間も、心細くお残りになるのを見ていると、ますます気が進みません。このような尼姿の人も、必ずしも引き籠もってばかりいないもののようですので、やはり世間一般の人のように考えて、時々会いに来てください」
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世間へ出て人並みな幸福な生活が続けていけるとは思われないのだから、ことによってはここをまた最後の隠れ家として私は帰って来るつもりだから、そうなればまたあなたに逢うこともできますが、しばらくでも別れ別れになって、寂しいあなたの残るのを捨てていくかと思うと、私の進まない心はいっそう進まなくなります。あなたのような姿になった人だっても、絶対に人づきあいをしないものではないようなのですからね、そうした人と同じ気持ちになって、時々は私の所へも来てください」
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Yo ni sumituka m koto mo, ito arigatakaru beki waza to oboyure ba, sama ni sitagahi te, koko wo ba are hate zi to nam omohu wo, saraba taimen mo ari nu bekere do, sibasi no hodo mo, kokorobosoku te tatitomari tamahu wo mi oku ni, itodo kokoro mo yuka zu nam. Kakaru katati naru hito mo, kanarazu hitaburuni simo taye komora nu waza na' meru wo, naho yo no tuneni omohinasi te, tokidoki mo miye tamahe."
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1.9.6 |
など、いとなつかしく語らひたまふ。 昔の人のもてつかひたまひしさるべき御調度どもなどは、皆この人にとどめおきたまひて、
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などと、とてもやさしくお話しになる。亡き姉君がお使いになったしかるべきご調度類などは、みなこの尼にお残しになって、
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などと女王はなつかしいふうに話していた。大姫君の使っていて、なお用に立つような手道具類は皆この人へのこしておくことに中の君はした。
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nado, ito natukasiku katarahi tamahu. Mukasi no hito no mote-tukahi tamahi si sarubeki mi-teudo-domo nado ha, mina kono hito ni todome oki tamahi te,
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1.9.7 |
「 かく、人より深く思ひ沈みたまへるを見れば、 前の世も、取り分きたる契りもや、ものしたまひけむと思ふさへ、睦ましくあはれになむ」
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「このように、誰よりも深く悲しんでおいでなのを見ると、前世からも、特別の約束がおありだっただろうかと思うのまでが、慕わしくしみじみ思われます」
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「だれよりも深くお姉様を悲しんでいてくれるあなたを見ると、深い縁が前生からあったのではなかろうかと、こんなことも思われて特別なものにあなたが見えます」
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"Kaku, hito yori hukaku omohi sidumi tamahe ru wo mire ba, saki no yo mo, toriwaki taru tigiri mo ya, monosi tamahi kem to omohu sahe, mutumasiku ahareni nam."
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1.9.8 |
とのたまふに、いよいよ童べの恋ひて泣くやうに、心をさめむ方なくおぼほれゐたり。
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とおっしゃると、ますます子供が親を慕って泣くように、気持ちを抑えることができず涙に沈んでいた。
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こんなことを言われて、いよいよ弁の尼は子供が母を恋しがって泣くように泣く。自身の気持ちをおさえる力も今はないように見えた。
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to notamahu ni, iyoiyo warahabe no kohi te naku yau ni, kokoro wosame m kata naku obohore wi tari.
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出典16 |
浮きたる波に濡るる |
心から浮きたる舟に乗りそめて一日も波に濡れぬ日ぞなき |
後撰集恋三-七七九 小野小町 |
1.9.4 |
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Last updated 4/28/2011(ver.2-2) 渋谷栄一校訂(C) Last updated 4/28/2011(ver.2-2) 渋谷栄一注釈(C) |
Last updated 3/31/2002 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 4/28/2011 (ver.2-1) Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya(C)
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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