帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
01 | 桐壺 |
01 | 1 | 69 | 41 | 第一章 光る源氏前史の物語 |
01 | 1.1 | 70 | 42 | 第一段 父帝と母桐壺更衣の物語 |
01 | 1.1.1 | 71 | 43 |
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。 |
いづれのおほんときにか、にょうご、かういあまたさぶらひたまひけるなかに、いとやんごとなききはにはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり。 |
01 | 1.1.2 | 72 | 44 |
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。 |
はじめよりわれはとおもひあがりたまへるおほんかたがた、めざましきものにおとしめそねみたまふ。おなじほど、それよりげらふのかういたちは、ましてやすからず。 |
01 | 1.1.3 | 73 | 45 |
朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。 |
あさゆふのみやづかへにつけても、ひとのこころをのみうごかし、うらみをおふつもりにやありけん、いとあづしくなりゆき、ものこころぼそげにさとがちなるを、いよいよあかずあはれなるものにおもほして、ひとのそしりをもえはばからせたまはず、よのためしにもなりぬべきおほんもてなしなり。 |
01 | 1.1.4 | 74 | 46 |
上達部、上人なども、あいなく目を側めつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。 |
かんだちめ、うへびとなども、あいなくめをそばめつつ、"いとまばゆきひとのおほんおぼえなり。 |
01 | 1.1.5 | 75 | 47 |
唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。 |
もろこしにも、かかることのおこりにこそ、よもみだれ、あしかりけれ"と、やうやうあめのしたにもあぢきなう、ひとのもてなやみぐさになりて、やうきひのためしもひきいでつべくなりゆくに、いとはしたなきことおほかれど、かたじけなきみこころばへのたぐひなきをたのみにてまじらひたまふ。 |
01 | 1.1.6 | 76 | 48 |
父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。 |
ちちのだいなごんはなくなりて、ははきたのかたなんいにしへのひとのよしあるにて、おやうちぐし、さしあたりてよのおぼえはなやかなるおほんかたがたにもいたうおとらず、なにごとのぎしきをももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしきうしろみしなければ、ことあるときは、なほよりどころなくこころぼそげなり。 |
01 | 1.2 | 77 | 49 | 第二段 御子誕生(一歳) |
01 | 1.2.1 | 78 | 50 |
先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌なり。 |
さきのよにもおほんちぎりやふかかりけん、よになくきよらなるたまのをのこみこさへむまれたまひぬ。いつしかとこころもとながらせたまひて、いそぎまゐらせてごらんずるに、めづらかなるちごのおほんかたちなり。 |
01 | 1.2.2 | 79 | 52 |
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。 |
いちのみこは、うだいじんのにょうごのおほんはらにて、よせおもく、うたがひなきまうけのきみと、よにもてかしづききこゆれど、このおほんにほひにはならびたまふべくもあらざりければ、おほかたのやんごとなきおほんおもひにて、このきみをば、わたくしものにおもほしかしづきたまふことかぎりなし。 |
01 | 1.2.3 | 80 | 53 |
初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際にはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参う上らせたまふ。ある時には大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける。 |
はじめよりおしなべてのうへみやづかへしたまふべききはにはあらざりき。おぼえいとやんごとなく、じゃうずめかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべきおほんあそびのをりをり、なにごとにもゆゑあることのふしぶしには、まづまうのぼらせたまふ。あるときにはおほとのごもりすぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちにおまへさらずもてなさせたまひしほどに、おのづからかろきかたにもみえしを、このみこうまれたまひてのちは、いとこころことにおもほしおきてたれば、"ばうにも、ようせずは、このみこのゐたまふべきなめり。"と、いちのみこのにょうごはおぼしうたがへり。ひとよりさきにまゐりたまひて、やんごとなきおほんおもひなべてならず、みこたちなどもおはしませば、このおほんかたのおほんいさめをのみぞ、なほわづらはしうこころぐるしうおもひきこえさせたまひける。 |
01 | 1.2.4 | 81 | 54 |
かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ疵を求めたまふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。 |
かしこきみかげをばたのみきこえながら、おとしめきずをもとめたまふひとはおほく、わがみはかよわくものはかなきありさまにて、なかなかなるものおもひをぞしたまふ。 |
01 | 1.2.5 | 82 | 55 |
御局は桐壺なり。あまたの御方がたを過ぎさせたまひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。 |
みつぼねはきりつぼなり。あまたのおほんかたがたをすぎさせたまひて、ひまなきおまへわたりに、ひとのみこころをつくしたまふも、げにことわりとみえたり。まうのぼりたまふにも、あまりうちしきるをりをりは、うちはし、わたどののここかしこのみちに、あやしきわざをしつつ、おほんおくりむかへのひとのきぬのすそ、たへがたく、まさなきこともあり。またあるときには、えさらぬめだうのとをさしこめ、こなたかなたこころをあはせて、はしたなめわづらはせたまふときもおほかり。 |
01 | 1.2.6 | 83 | 56 |
事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を他に移させたまひて、上局に賜はす。その恨みましてやらむ方なし。 |
ことにふれてかずしらずくるしきことのみまされば、いといたうおもひわびたるを、いとどあはれとごらんじて、こうらうでんにもとよりさぶらひたまふかういのざうしをほかにうつさせたまひて、うへつぼねにたまはす。そのうらみましてやらんかたなし。 |
01 | 1.3 | 84 | 57 | 第三段 若宮の御袴着(三歳) |
01 | 1.3.1 | 85 | 58 |
この御子三つになりたまふ年、御袴着のこと一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くして、いみじうせさせたまふ。それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよすげもておはする御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを、え嫉みあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。 |
このみこみつになりたまふとし、おほんはかまぎのこといちのみやのたてまつりしにおとらず、くらづかさ、をさめどののものをつくして、いみじうせさせたまふ。それにつけても、よのそしりのみおほかれど、このみこのおよすげもておはするおほんかたちこころばへありがたくめづらしきまでみえたまふを、えそねみあへたまはず。もののこころしりたまふひとは、"かかるひともよにいでおはするものなりけり。"と、あさましきまでめをおどろかしたまふ。 |
01 | 1.4 | 86 | 59 | 第四段 母御息所の死去 |
01 | 1.4.1 | 87 | 60 |
その年の夏、御息所、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇さらに許させたまはず。 |
そのとしのなつ、みやすんどころ、はかなきここちにわづらひて、まかでなんとしたまふを、いとまさらにゆるさせたまはず。 |
01 | 1.4.2 | 88 | 61 |
年ごろ、常の篤しさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五、六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。 |
としごろ、つねのあづしさになりたまへれば、おほんめなれて、"なほしばしこころみよ。"とのみのたまはするに、ひびにおもりたまひて、ただいつかむいかのほどにいとよわうなれば、ははぎみなくなくそうして、まかでさせたてまつりたまふ。 |
01 | 1.4.3 | 89 | 62 |
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。 |
かかるをりにも、あるまじきはぢもこそとこころづかひして、みこをばとどめたてまつりて、しのびてぞいでたまふ。 |
01 | 1.4.4 | 90 | 63 |
限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。 |
かぎりあれば、さのみもえとどめさせたまはず、ごらんじだにおくらぬおぼつかなさを、いふかたなくおもほさる。いとにほひやかにうつくしげなるひとの、いたうおもやせて、いとあはれとものをおもひしみながら、ことにいでてもきこえやらず、あるかなきかにきえいりつつものしたまふをごらんずるに、きしかたゆくすゑおぼしめされず、よろづのことをなくなくちぎりのたまはすれど、おほんいらへもえきこえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、われかのけしきにてふしたれば、いかさまにとおぼしめしまどはる。てぐるまのせんじなどのたまはせても、またいらせたまひて、さらにえゆるさせたまはず。 |
01 | 1.4.5 | 91 | 64 |
「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」 |
"かぎりあらんみちにも、おくれさきだたじと、ちぎらせたまひけるを。さりとも、うちすてては、えゆきやらじ。" |
01 | 1.4.6 | 92 | 65 |
とのたまはするを、女もいといみじと、見たてまつりて、 |
とのたまはするを、をんなもいといみじと、みたてまつりて、 |
01 | 1.4.7 | 93 | 66 |
「限りとて別るる道の悲しきに<BR/>いかまほしきは命なりけり |
"〔かぎりとてわかるるみちのかなしきに<BR/>いかまほしきはいのちなりけり |
01 | 1.4.8 | 94 | 67 |
いとかく思ひたまへましかば」 |
いとかくおもひたまへましかば。" |
01 | 1.4.9 | 95 | 68 |
と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。 |
と、いきもたえつつ、きこえまほしげなることはありげなれど、いとくるしげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならんをごらんじはてんとおぼしめすに、"けふはじむべきいのりども、さるべきひとびとうけたまはれる、こよひより。"と、きこえいそがせば、わりなくおもほしながらまかでさせたまふ。 |
01 | 1.4.10 | 96 | 69 |
御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。 |
おほんむねつとふたがりて、つゆまどろまれず、あかしかねさせたまふ。おほんつかひのゆきかふほどもなきに、なほいぶせさをかぎりなくのたまはせつるを、"よなかうちすぐるほどになん、たえはてたまひぬる。"とてなきさわげば、おほんつかひもいとあへなくてかへりまゐりぬ。きこしめすみこころまどひ、なにごともおぼしめしわかれず、こもりおはします。 |
01 | 1.4.11 | 97 | 70 |
御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、例なきことなれば、まかでたまひなむとす。何事かあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、主上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。 |
みこは、かくてもいとごらんぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、れいなきことなれば、まかでたまひなんとす。なにごとかあらんともおぼしたらず、さぶらふひとびとのなきまどひ、うへもおほんなみだのひまなくながれおはしますを、あやしとみたてまつりたまへるを、よろしきことにだに、かかるわかれのかなしからぬはなきわざなるを、ましてあはれにいふかひなし。 |
01 | 1.5 | 98 | 71 | 第五段 故御息所の葬送 |
01 | 1.5.1 | 99 | 72 |
限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人びともてわづらひきこゆ。 |
かぎりあれば、れいのさほふにをさめたてまつるを、ははきたのかた、おなじけぶりにのぼりなんと、なきこがれたまひて、おほんおくりのにょうばうのくるまにしたひのりたまひて、おたぎといふところにいといかめしうそのさほふしたるに、おはしつきたるここち、いかばかりかはありけん。"むなしきおほんからをみるみる、なほおはするものとおもふが、いとかひなければ、はひになりたまはんをみたてまつりて、いまはなきひとと、ひたぶるにおもひなりなん。"と、さかしうのたまひつれど、くるまよりもおちぬべうまろびたまへば、さはおもひつかしと、ひとびともてわづらひきこゆ。 |
01 | 1.5.2 | 100 | 73 |
内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉みたまひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。なくてぞとは、かかる折にやと見えたり。 |
うちよりおほんつかひあり。みつのくらゐおくりたまふよし、ちょくしきてそのせんみゃうよむなん、かなしきことなりける。にょうごとだにいはせずなりぬるが、あかずくちをしうおぼさるれば、いまひときざみのくらゐをだにと、おくらせたまふなりけり。これにつけてもにくみたまふひとびとおほかり。ものおもひしりたまふは、さま、かたちなどのめでたかりしこと、こころばせのなだらかにめやすく、にくみがたかりしことなど、いまぞおぼしいづる。さまあしきおほんもてなしゆゑこそ、すげなうそねみたまひしか、ひとがらのあはれになさけありしみこころを、うへのにょうばうなどもこひしのびあへり。なくてぞとは、かかるをりにやとみえたり。 |
01 | 2 | 101 | 74 | 第二章 父帝悲秋の物語 |
01 | 2.1 | 102 | 75 | 第一段 父帝悲しみの日々 |
01 | 2.1.1 | 103 | 76 |
はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直なども絶えてしたまはず、ただ涙にひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。「亡きあとまで、人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな」とぞ、弘徽殿などにはなほ許しなうのたまひける。一の宮を見たてまつらせたまふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。 |
はかなくひごろすぎて、のちのわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほどふるままに、せんかたなうかなしうおぼさるるに、おほんかたがたのおほんとのゐなどもたえてしたまはず、ただなみだにひちてあかしくらさせたまへば、みたてまつるひとさへつゆけきあきなり。"なきあとまで、ひとのむねあくまじかりけるひとのおほんおぼえかな。"とぞ、こうきでんなどにはなほゆるしなうのたまひける。いちのみやをみたてまつらせたまふにも、わかみやのおほんこひしさのみおもほしいでつつ、したしきにょうばう、おほんめのとなどをつかはしつつ、ありさまをきこしめす。 |
01 | 2.2 | 104 | 77 | 第二段 靫負命婦の弔問 |
01 | 2.2.1 | 105 | 78 |
野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり。 |
のわきだちて、にはかにはださむきゆふぐれのほど、つねよりもおぼしいづることおほくて、ゆげひのみゃうぶといふをつかはす。ゆふづくよのをかしきほどにいだしたてさせたまひて、やがてながめおはします。かうやうのをりは、おほんあそびなどせさせたまひしに、こころことなるもののねをかきならし、はかなくきこえいづることのはも、ひとよりはことなりしけはひかたちの、おもかげにつとそひておぼさるるにも、やみのうつつにはなほおとりけり。 |
01 | 2.2.2 | 106 | 79 |
命婦、かしこに参で着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎にも障はらず差し入りたる。南面に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。 |
みゃうぶ、かしこにまでつきて、かどひきいるるより、けはひあはれなり。やもめずみなれど、ひとひとりのおほんかしづきに、とかくつくろひたてて、めやすきほどにてすぐしたまひつる、やみにくれてふししづみたまへるほどに、くさもたかくなり、のわきにいとどあれたるここちして、つきかげばかりぞやへむぐらにもさはらずさしいりたる。みなみおもてにおろして、ははぎみも、とみにえものものたまはず。 |
01 | 2.2.3 | 107 | 80 |
「今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」 |
"いままでとまりはべるがいとうきを、かかるおほんつかひのよもぎふのつゆわけいりたまふにつけても、いとはづかしうなん。" |
01 | 2.2.4 | 108 | 81 |
とて、げにえ堪ふまじく泣いたまふ。 |
とて、げにえたふまじくないたまふ。 |
01 | 2.2.5 | 109 | 83 |
「『参りては、いとど心苦しう、心肝も尽くるやうになむ』と、典侍の奏したまひしを、もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」 |
"'まゐりては、いとどこころぐるしう、こころぎももつくるやうになん'と、ないしのすけのそうしたまひしを、ものおもうたまへしらぬここちにも、げにこそいとしのびがたうはべりけれ。" |
01 | 2.2.6 | 110 | 84 |
とて、ややためらひて、仰せ言伝へきこゆ。 |
とて、ややためらひて、おほせごとつたへきこゆ。 |
01 | 2.2.7 | 111 | 85 |
「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」 |
"'しばしはゆめかとのみたどられしを、やうやうおもひしづまるにしも、さむべきかたなくたへがたきは、いかにすべきわざにかとも、とひあはすべきひとだになきを、しのびてはまゐりたまひなんや。わかみやのいとおぼつかなく、つゆけきなかにすぐしたまふも、こころぐるしうおぼさるるを、とくまゐりたまへ。'など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつはひともこころよわくみたてまつるらんと、おぼしつつまぬにしもあらぬみけしきのこころぐるしさに、うけたまはりはてぬやうにてなん、まかではべりぬる。" |
01 | 2.2.8 | 112 | 86 |
とて、御文奉る。 |
とて、おほんふみたてまつる。 |
01 | 2.2.9 | 113 | 87 |
「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見たまふ。 |
"めもみえはべらぬに、かくかしこきおほせごとをひかりにてなん。"とて、みたまふ。 |
01 | 2.2.10 | 114 | 88 |
「ほど経ばすこしうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきはわりなきわざになむ。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともに育まぬおぼつかなさを。今は、なほ昔のかたみになずらへて、ものしたまへ」 |
"ほどへばすこしうちまぎるることもやと、まちすぐすつきひにそへて、いとしのびがたきはわりなきわざになん。いはけなきひとをいかにとおもひやりつつ、もろともにはぐくまぬおぼつかなさを。いまは、なほむかしのかたみになずらへて、ものしたまへ。" |
01 | 2.2.11 | 115 | 89 |
など、こまやかに書かせたまへり。 |
など、こまやかにかかせたまへり。 |
01 | 2.2.12 | 116 | 90 |
「宮城野の露吹きむすぶ風の音に<BR/>小萩がもとを思ひこそやれ」 |
"〔みやぎののつゆふきむすぶかぜのおとに<BR/>こはぎがもとをおもひこそやれ〕 |
01 | 2.2.13 | 117 | 91 |
とあれど、え見たまひ果てず。 |
とあれど、えみたまひはてず。 |
01 | 2.2.14 | 118 | 92 |
「命長さの、いとつらう思うたまへ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思うたまへはべれば、百敷に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひたまへたつまじき。 |
"いのちながさの、いとつらうおもうたまへしらるるに、まつのおもはんことだに、はづかしうおもうたまへはべれば、ももしきにゆきかひはべらんことは、ましていとはばかりおほくなん。かしこきおほせごとをたびたびうけたまはりながら、みづからはえなんおもひたまへたつまじき。 |
01 | 2.2.15 | 119 | 93 |
若宮は、いかに思ほし知るにか、参りたまはむことをのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに思うたまふるさまを奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」 |
わかみやは、いかにおもほししるにか、まゐりたまはんことをのみなんおぼしいそぐめれば、ことわりにかなしうみたてまつりはべるなど、うちうちにおもうたまふるさまをそうしたまへ。ゆゆしきみにはべれば、かくておはしますも、いまいましうかたじけなくなん。" |
01 | 2.2.16 | 120 | 94 |
とのたまふ。宮は大殿籠もりにけり。 |
とのたまふ。みやはおほとのごもりにけり。 |
01 | 2.2.17 | 121 | 95 |
「見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに、夜更けはべりぬべし」とて急ぐ。 |
"みたてまつりて、くはしうみありさまもそうしはべらまほしきを、まちおはしますらんに、よふけはべりぬべし。"とていそぐ。 |
01 | 2.2.18 | 122 | 96 |
「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしうはべるを、私にも心のどかにまかでたまへ。年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。 |
"くれまどふこころのやみもたへがたきかたはしをだに、はるくばかりにきこえまほしうはべるを、わたくしにもこころのどかにまかでたまへ。としごろ、うれしくおもだたしきついでにてたちよりたまひしものを、かかるおほんせうそこにてみたてまつる、かへすがへすつれなきいのちにもはべるかな。 |
01 | 2.2.19 | 123 | 97 |
生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、『ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひたまふめりつるを、人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」 |
うまれしときより、おもふこころありしひとにて、こだいなごん、いまはとなるまで、'ただ、このひとのみやづかへのほい、かならずとげさせたてまつれ。われなくなりぬとて、くちをしうおもひくづほるな。'と、かへすがへすいさめおかれはべりしかば、はかばかしううしろみおもふひともなきまじらひは、なかなかなるべきこととおもひたまへながら、ただかのゆいごんをたがへじとばかりに、いだしたてはべりしを、みにあまるまでのみこころざしの、よろづにかたじけなきに、ひとげなきはぢをかくしつつ、まじらひたまふめりつるを、ひとのそねみふかくつもり、やすからぬことおほくなりそひはべりつるに、よこさまなるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなん、かしこきみこころざしをおもひたまへられはべる。これもわりなきこころのやみになん。" |
01 | 2.2.20 | 124 | 98 |
と、言ひもやらずむせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。 |
と、いひもやらずむせかへりたまふほどに、よもふけぬ。 |
01 | 2.2.21 | 125 | 99 |
「主上もしかなむ。『我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、いとど人悪ろうかたくなになり果つるも、前の世ゆかしうなむ』とうち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。泣く泣く、「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。 |
"うへもしかなん。'わがみこころながら、あながちにひとめおどろくばかりおぼされしも、ながかるまじきなりけりと、いまはつらかりけるひとのちぎりになん。よにいささかもひとのこころをまげたることはあらじとおもふを、ただこのひとのゆゑにて、あまたさるまじきひとのうらみをおひしはてはては、かううちすてられて、こころをさめんかたなきに、いとどひとわろうかたくなになりはつるも、さきのよゆかしうなん。'とうちかへしつつ、おほんしほたれがちにのみおはします。"とかたりてつきせず。なくなく、"よいたうふけぬれば、こよひすぐさず、おほんかへりそうせん。"といそぎまゐる。 |
01 | 2.2.22 | 126 | 100 |
月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。 |
つきはいりがたの、そらきようすみわたれるに、かぜいとすずしくなりて、くさむらのむしのこゑごゑもよほしがほなるも、いとたちはなれにくきくさのもとなり。 |
01 | 2.2.23 | 127 | 101 |
「鈴虫の声の限りを尽くしても<BR/>長き夜あかずふる涙かな」 |
"〔すずむしのこゑのかぎりをつくしても<BR/>ながきよあかずふるなみだかな〕 |
01 | 2.2.24 | 128 | 102 |
えも乗りやらず。 |
えものりやらず。 |
01 | 2.2.25 | 129 | 103 |
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に<BR/>露置き添ふる雲の上人 |
"〔いとどしくむしのねしげきあさぢふに<BR/>つゆおきそふるくものうへびと |
01 | 2.2.26 | 130 | 104 |
かごとも聞こえつべくなむ」 |
かごともきこえつべくなん。" |
01 | 2.2.27 | 131 | 105 |
と言はせたまふ。をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一領、御髪上げの調度めく物添へたまふ。 |
といはせたまふ。をかしきおほんおくりものなどあるべきをりにもあらねば、ただかのおほんかたみにとて、かかるようもやとのこしたまへりけるおほんさうぞくひとくだり、みぐしあげのてうどめくものそへたまふ。 |
01 | 2.2.28 | 132 | 106 |
若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身の添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。 |
わかきひとびと、かなしきことはさらにもいはず、うちわたりをあさゆふにならひて、いとさうざうしく、うへのおほんありさまなどおもひいできこゆれば、とくまゐりたまはんことをそそのかしきこゆれど、"かくいまいましきみのそひたてまつらんも、いとひとぎきうかるべし、また、みたてまつらでしばしもあらんは、いとうしろめたう。"おもひきこえたまひて、すがすがともえまゐらせたてまつりたまはぬなりけり。 |
01 | 2.3 | 133 | 107 | 第三段 命婦帰参 |
01 | 2.3.1 | 134 | 108 |
命婦は、「まだ大殿籠もらせたまはざりける」と、あはれに見たてまつる。御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四、五人さぶらはせたまひて、御物語せさせたまふなりけり。 |
みゃうぶは、"まだおほとのごもらせたまはざりける。"と、あはれにみたてまつる。おまへのつぼせんざいのいとおもしろきさかりなるをごらんずるやうにて、しのびやかにこころにくきかぎりのにょうばうしごにんさぶらはせたまひて、おほんものがたりせさせたまふなりけり。 |
01 | 2.3.2 | 135 | 109 |
このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院の描かせたまひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせたまふ。いとこまやかにありさま問はせたまふ。あはれなりつること忍びやかに奏す。御返り御覧ずれば、 |
このごろ、あけくれごらんずるちゃうごんかのおほんゑ、ていじのゐんのかかせたまひて、いせ、つらゆきによませたまへる、やまとことのはをも、もろこしのうたをも、ただそのすぢをぞ、まくらごとにせさせたまふ。いとこまやかにありさまとはせたまふ。あはれなりつることしのびやかにそうす。おほんかへりごらんずれば、 |
01 | 2.3.3 | 136 | 110 |
「いともかしこきは置き所もはべらず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱り心地になむ。 |
"いともかしこきはおきどころもはべらず。かかるおほせごとにつけても、かきくらすみだりごこちになん。 |
01 | 2.3.4 | 137 | 111 |
荒き風ふせぎし蔭の枯れしより<BR/>小萩がうへぞ静心なき」 |
あらきかぜふせぎしかげのかれしより<BR/>こはぎがうへぞしづごころなき〕 |
01 | 2.3.5 | 138 | 113 |
などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし。いとかうしも見えじと、思し静むれど、さらにえ忍びあへさせたまはず、御覧じ初めし年月のことさへかき集め、よろづに思し続けられて、「時の間もおぼつかなかりしを、かくても月日は経にけり」と、あさましう思し召さる。 |
などやうにみだりがはしきを、こころをさめざりけるほどとごらんじゆるすべし。いとかうしもみえじと、おぼししづむれど、さらにえしのびあへさせたまはず、ごらんじはじめしとしつきのことさへかきあつめ、よろづにおぼしつづけられて、"ときのまもおぼつかなかりしを、かくてもつきひはへにけり。"と、あさましうおぼしめさる。 |
01 | 2.3.6 | 139 | 114 |
「故大納言の遺言あやまたず、宮仕への本意深くものしたりしよろこびは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ。言ふかひなしや」とうちのたまはせて、いとあはれに思しやる。「かくても、おのづから若宮など生ひ出でたまはば、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ思ひ念ぜめ」 |
"こだいなごんのゆいごんあやまたず、みやづかへのほいふかくものしたりしよろこびは、かひあるさまにとこそおもひわたりつれ。いふかひなしや。"とうちのたまはせて、いとあはれにおぼしやる。"かくても、おのづからわかみやなどおひいでたまはば、さるべきついでもありなん。いのちながくとこそおもひねんぜめ。" |
01 | 2.3.7 | 140 | 115 |
などのたまはす。かの贈り物御覧ぜさす。「亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば」と思ほすもいとかひなし。 |
などのたまはす。かのおくりものごらんぜさす。"なきひとのすみかたづねいでたりけんしるしのかんざしならましかば。"とおもほすもいとかひなし。 |
01 | 2.3.8 | 141 | 116 |
「尋ねゆく幻もがなつてにても<BR/>魂のありかをそこと知るべく」 |
"〔たづねゆくまぼろしもがなつてにても<BR/>たまのありかをそことしるべく〕 |
01 | 2.3.9 | 142 | 117 |
絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。大液芙蓉未央柳も、げに通ひたりし容貌を、唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき。 |
ゑにかけるやうきひのかたちは、いみじきゑしといへども、ふでかぎりありければいとにほひすくなし。たいえきのふようびやうのやなぎも、げにかよひたりしかたちを、からめいたるよそひはうるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしをおぼしいづるに、はなとりのいろにもねにもよそふべきかたぞなき。 |
01 | 2.3.10 | 143 | 118 |
朝夕の言種に、「翼をならべ、枝を交はさむ」と契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせず恨めしき。 |
あさゆふのことぐさに、"はねをならべ、えだをかはさん。"とちぎらせたまひしに、かなはざりけるいのちのほどぞ、つきせずうらめしき。 |
01 | 2.3.11 | 144 | 119 |
風の音、虫の音につけて、もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿には、久しく上の御局にも参う上りたまはず、月のおもしろきに、夜更くるまで遊びをぞしたまふなる。いとすさまじう、ものしと聞こし召す。このごろの御気色を見たてまつる上人、女房などは、かたはらいたしと聞きけり。いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて、ことにもあらず思し消ちてもてなしたまふなるべし。月も入りぬ。 |
かぜのおと、むしのねにつけて、もののみかなしうおぼさるるに、こうきでんには、ひさしくうへのみつぼねにもまうのぼりたまはず、つきのおもしろきに、よふくるまであそびをぞしたまふなる。いとすさまじう、ものしときこしめす。このごろのみけしきをみたてまつるうへびと、にょうばうなどは、かたはらいたしとききけり。いとおしたちかどかどしきところものしたまふおほんかたにて、ことにもあらずおぼしけちてもてなしたまふなるべし。つきもいりぬ。 |
01 | 2.3.12 | 145 | 120 |
「雲の上も涙にくるる秋の月<BR/>いかですむらむ浅茅生の宿」 |
"〔くものうへもなみだにくるるあきのつき<BR/>いかですむらんあさぢふのやど〕" |
01 | 2.3.13 | 146 | 121 |
思し召しやりつつ、灯火をかかげ尽くして起きおはします。右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし。人目を思して、夜の御殿に入らせたまひても、まどろませたまふことかたし。 |
おぼしめしやりつつ、ともしびをかかげつくしておきおはします。うこんのつかさのとのゐまうしのこゑきこゆるは、うしになりぬるなるべし。ひとめをおぼして、よるのおとどにいらせたまひても、まどろませたまふことかたし。 |
01 | 2.3.14 | 147 | 122 |
朝に起きさせたまふとても、「明くるも知らで」と思し出づるにも、なほ朝政は怠らせたまひぬべかめり。 |
あしたにおきさせたまふとても、"あくるもしらで。"とおぼしいづるにも、なほあさまつりごとはおこたらせたまひぬべかめり。 |
01 | 2.3.15 | 148 | 123 |
ものなども聞こし召さず、朝餉のけしきばかり触れさせたまひて、大床子の御膳などは、いと遥かに思し召したれば、陪膳にさぶらふ限りは、心苦しき御気色を見たてまつり嘆く。すべて、近うさぶらふ限りは、男女、「いとわりなきわざかな」と言ひ合はせつつ嘆く。「さるべき契りこそはおはしましけめ。そこらの人の誹り、恨みをも憚らせたまはず、この御ことに触れたることをば、道理をも失はせたまひ、今はた、かく世の中のことをも、思ほし捨てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」と、人の朝廷の例まで引き出で、ささめき嘆きけり。 |
ものなどもきこしめさず、あさがれひのけしきばかりふれさせたまひて、だいしゃうじのおものなどは、いとはるかにおぼしめしたれば、はいぜんにさぶらふかぎりは、こころぐるしきみけしきをみたてまつりなげく。すべて、ちかうさぶらふかぎりは、をとこをんな、"いとわりなきわざかな。"といひあはせつつなげく。"さるべきちぎりこそはおはしましけめ。そこらのひとのそしり、うらみをもはばからせたまはず、このおほんことにふれたることをば、だうりをもうしなはせたまひ、いまはた、かくよのなかのことをも、おもほしすてたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり。"と、ひとのみかどのためしまでひきいで、ささめきなげきけり。 |
01 | 3 | 149 | 124 | 第三章 光る源氏の物語 |
01 | 3.1 | 150 | 125 | 第一段 若宮参内(四歳) |
01 | 3.1.1 | 151 | 126 |
月日経て、若宮参りたまひぬ。いとどこの世のものならず清らにおよすげたまへれば、いとゆゆしう思したり。 |
つきひへて、わかみやまゐりたまひぬ。いとどこのよのものならずきよらにおよすげたまへれば、いとゆゆしうおぼしたり。 |
01 | 3.1.2 | 152 | 127 |
明くる年の春、坊定まりたまふにも、いと引き越さまほしう思せど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ、なかなか危く思し憚りて、色にも出ださせたまはずなりぬるを、「さばかり思したれど、限りこそありけれ」と、世人も聞こえ、女御も御心落ちゐたまひぬ。 |
あくるとしのはる、ばうさだまりたまふにも、いとひきこさまほしうおぼせど、おほんうしろみすべきひともなく、またよのうけひくまじきことなりければ、なかなかあやふくおぼしはばかりて、いろにもいださせたまはずなりぬるを、"さばかりおぼしたれど、かぎりこそありけれ。"と、よひともきこえ、にょうごもみこころおちゐたまひぬ。 |
01 | 3.1.3 | 153 | 128 |
かの御祖母北の方、慰む方なく思し沈みて、おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひたまひししるしにや、つひに亡せたまひぬれば、またこれを悲しび思すこと限りなし。御子六つになりたまふ年なれば、このたびは思し知りて恋ひ泣きたまふ。年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを、見たてまつり置く悲しびをなむ、返す返すのたまひける。 |
かのおほんおばきたのかた、なぐさむかたなくおぼししづみて、おはすらんところにだにたづねゆかんとねがひたまひししるしにや、つひにうせたまひぬれば、またこれをかなしびおぼすことかぎりなし。みこむつになりたまふとしなれば、このたびはおぼししりてこひなきたまふ。としごろなれむつびきこえたまひつるを、みたてまつりおくかなしびをなん、かへすがへすのたまひける。 |
01 | 3.2 | 154 | 129 | 第二段 読書始め(七歳) |
01 | 3.2.1 | 155 | 130 |
今は内裏にのみさぶらひたまふ。七つになりたまへば、読書始めなどせさせたまひて、世に知らず聡う賢くおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず。 |
いまはうちにのみさぶらひたまふ。ななつになりたまへば、ふみはじめなどせさせたまひて、よにしらずさとうかしこくおはすれば、あまりおそろしきまでごらんず。 |
01 | 3.2.2 | 156 | 131 |
「今は誰れも誰れもえ憎みたまはじ。母君なくてだにらうたうしたまへ」とて、弘徽殿などにも渡らせたまふ御供には、やがて御簾の内に入れたてまつりたまふ。いみじき武士、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば、えさし放ちたまはず。女皇女たち二ところ、この御腹におはしませど、なずらひたまふべきだにぞなかりける。御方々も隠れたまはず、今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしううちとけぬ遊び種に、誰れも誰れも思ひきこえたまへり。 |
"いまはたれもたれもえにくみたまはじ。ははぎみなくてだにらうたうしたまへ。"とて、こうきでんなどにもわたらせたまふおほんともには、やがてみすのうちにいれたてまつりたまふ。いみじきもののふ、あたかたきなりとも、みてはうちゑまれぬべきさまのしたまへれば、えさしはなちたまはず。をんなみこたちふたところ、このおほんはらにおはしませど、なずらひたまふべきだにぞなかりける。おほんかたがたもかくれたまはず、いまよりなまめかしうはづかしげにおはすれば、いとをかしううちとけぬあそびぐさに、たれもたれもおもひきこえたまへり。 |
01 | 3.2.3 | 157 | 132 |
わざとの御学問はさるものにて、琴笛の音にも雲居を響かし、すべて言ひ続けば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。 |
わざとのごがくもんはさるものにて、ことふえのねにもくもゐをひびかし、すべていひつづけば、ことごとしう、うたてぞなりぬべきひとのおほんさまなりける。 |
01 | 3.3 | 158 | 133 | 第三段 高麗人の観相、源姓賜わる |
01 | 3.3.1 | 159 | 134 |
そのころ、高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを聞こし召して、宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡めあれば、いみじう忍びて、この御子を鴻臚館に遣はしたり。御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。 |
そのころ、こまうどのまゐれるなかに、かしこきさうにんありけるをきこしめして、みやのうちにめさんことは、うだのみかどのおほんいましめあれば、いみじうしのびて、このみこをこうろかんにつかはしたり。おほんうしろみだちてつかうまつるうだいべんのこのやうにおもはせてゐてたてまつるに、さうにんおどろきて、あまたたびかたぶきあやしぶ。 |
01 | 3.3.2 | 160 | 136 |
「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」と言ふ。 |
"くにのおやとなりて、ていわうのかみなきくらゐにのぼるべきさうおはしますひとの、そなたにてみれば、みだれうれふることやあらん。おほやけのかためとなりて、あめのしたをたすくるかたにてみれば、またそのさうたがふべし。"といふ。 |
01 | 3.3.3 | 161 | 137 |
弁も、いと才かしこき博士にて、言ひ交はしたることどもなむ、いと興ありける。文など作り交はして、今日明日帰り去りなむとするに、かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもを捧げたてまつる。朝廷よりも多くの物賜はす。 |
べんも、いとざえかしこきはかせにて、いひかはしたることどもなん、いときょうありける。ふみなどつくりかはして、けふあすかへりさりなんとするに、かくありがたきひとにたいめんしたるよろこび、かへりてはかなしかるべきこころばへをおもしろくつくりたるに、みこもいとあはれなるくをつくりたまへるを、かぎりなうめでたてまつりて、いみじきおくりものどもをささげたてまつる。おほやけよりもおほくのものたまはす。 |
01 | 3.3.4 | 162 | 138 |
おのづから事広ごりて、漏らさせたまはねど、春宮の祖父大臣など、いかなることにかと思し疑ひてなむありける。 |
おのづからことひろごりて、もらさせたまはねど、とうぐうのおほぢおとどなど、いかなることにかとおぼしうたがひてなんありける。 |
01 | 3.3.5 | 163 | 139 |
帝、かしこき御心に、倭相を仰せて、思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを、「相人はまことにかしこかりけり」と思して、「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ。わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせたまふ。 |
みかど、かしこきみこころに、やまとさうをおほせて、おぼしよりにけるすぢなれば、いままでこのきみをみこにもなさせたまはざりけるを、"さうにんはまことにかしこかりけり。"とおぼして、"むほんのしんわうのげしゃくのよせなきにてはただよはさじ。わがみよもいとさだめなきを、ただうどにておほやけのおほんうしろみをするなん、ゆくさきもたのもしげなめること。"とおぼしさだめて、いよいよみちみちのざえをならはさせたまふ。 |
01 | 3.3.6 | 164 | 140 |
際ことに賢くて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王となりたまひなば、世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば、宿曜の賢き道の人に勘へさせたまふにも、同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべく思しおきてたり。 |
きはことにかしこくて、ただうどにはいとあたらしけれど、みことなりたまひなば、よのうたがひおひたまひぬべくものしたまへば、すくえうのかしこきみちのひとにかんがへさせたまふにも、おなじさまにまうせば、げんじになしたてまつるべくおぼしおきてたり。 |
01 | 3.4 | 165 | 141 | 第四段 先帝の四宮(藤壺)入内 |
01 | 3.4.1 | 166 | 142 |
年月に添へて、御息所の御ことを思し忘るる折なし。「慰むや」と、さるべき人びと参らせたまへど、「なずらひに思さるるだにいとかたき世かな」と、疎ましうのみよろづに思しなりぬるに、先帝の四の宮の、御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします、母后世になくかしづききこえたまふを、主上にさぶらふ典侍は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、 |
としつきにそへて、みやすんどころのおほんことをおぼしわするるをりなし。"なぐさむや。"と、さるべきひとびとまゐらせたまへど、"なずらひにおぼさるるだにいとかたきよかな。"と、うとましうのみよろづにおぼしなりぬるに、せんだいのしのみやの、おほんかたちすぐれたまへるきこえたかくおはします、ははぎさきよになくかしづききこえたまふを、うへにさぶらふないしのすけは、せんだいのおほんときのひとにて、かのみやにもしたしうまゐりなれたりければ、いはけなくおはしまししときよりみたてまつり、いまもほのみたてまつりて、 |
01 | 3.4.2 | 167 | 143 |
「亡せたまひにし御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見たてまつりつけぬを、后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、「まことにや」と、御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたまひけり。 |
"うせたまひにしみやすんどころのおほんかたちににたまへるひとを、さんだいのみやづかへにつたはりぬるに、えみたてまつりつけぬを、きさいのみやのひめみやこそ、いとようおぼえておひいでさせたまへりけれ。ありがたきおほんかたちびとになん。"とそうしけるに、"まことにや。"と、みこころとまりて、ねんごろにきこえさせたまひけり。 |
01 | 3.4.3 | 168 | 144 |
母后、「あな恐ろしや。春宮の女御のいとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せたまひぬ。 |
ははぎさき、"あなおそろしや。とうぐうのにょうごのいとさがなくて、きりつぼのかういの、あらはにはかなくもてなされにしためしもゆゆしう。"と、おぼしつつみて、すがすがしうもおぼしたたざりけるほどに、きさきもうせたまひぬ。 |
01 | 3.4.4 | 169 | 145 |
心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ」と、いとねむごろに聞こえさせたまふ。さぶらふ人びと、御後見たち、御兄の兵部卿の親王など、「かく心細くておはしまさむよりは、内裏住みせさせたまひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせたてまつりたまへり。 |
こころぼそきさまにておはしますに、"ただ、わがをんなみこたちのおなじつらにおもひきこえん。"と、いとねんごろにきこえさせたまふ。さぶらふひとびと、おほんうしろみたち、おほんせうとのひゃうぶきゃうのみこなど、"かくこころぼそくておはしまさんよりは、うちずみせさせたまひて、みこころもなぐさむべく。"などおぼしなりて、まゐらせたてまつりたまへり。 |
01 | 3.4.5 | 170 | 146 |
藤壺と聞こゆ。げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御際まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめきこえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。 |
ふぢつぼときこゆ。げに、おほんかたちありさま、あやしきまでぞおぼえたまへる。これは、ひとのおほんきはまさりて、おもひなしめでたく、ひともえおとしめきこえたまはねば、うけばりてあかぬことなし。 |
01 | 3.4.6 | 171 | 147 |
かれは、人の許しきこえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。思し紛るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。 |
かれは、ひとのゆるしきこえざりしに、みこころざしあやにくなりしぞかし。おぼしまぎるとはなけれど、おのづからみこころうつろひて、こよなうおぼしなぐさむやうなるも、あはれなるわざなりけり。 |
01 | 3.5 | 172 | 148 | 第五段 源氏、藤壺を思慕 |
01 | 3.5.1 | 173 | 149 |
源氏の君は、御あたり去りたまはぬを、ましてしげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあへたまはず。いづれの御方も、われ人に劣らむと思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人びたまへるに、いと若ううつくしげにて、切に隠れたまへど、おのづから漏り見たてまつる。 |
げんじのきみは、おほんあたりさりたまはぬを、ましてしげくわたらせたまふおほんかたは、えはぢあへたまはず。いづれのおほんかたも、われひとにおとらんとおぼいたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うちおとなびたまへるに、いとわかううつくしげにて、せちにかくれたまへど、おのづからもりみたてまつる。 |
01 | 3.5.2 | 174 | 150 |
母御息所も、影だにおぼえたまはぬを、「いとよう似たまへり」と、典侍の聞こえけるを、若き御心地にいとあはれと思ひきこえたまひて、常に参らまほしく、「なづさひ見たてまつらばや」とおぼえたまふ。 |
ははみやすんどころも、かげだにおぼえたまはぬを、"いとようにたまへり"と、ないしのすけのきこえけるを、わかきみここちにいとあはれとおもひきこえたまひて、つねにまゐらまほしく、"なづさひみたてまつらばや。"とおぼえたまふ。 |
01 | 3.5.3 | 175 | 151 |
主上も限りなき御思ひどちにて、「な疎みたまひそ。あやしくよそへきこえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくしたまへ。つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見えたまふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。こよなう心寄せきこえたまへれば、弘徽殿の女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。 |
うへもかぎりなきおほんおもひどちにて、"なうとみたまひそ。あやしくよそへきこえつべきここちなんする。なめしとおぼさで、らうたくしたまへ。つらつき、まみなどは、いとようにたりしゆゑ、かよひてみえたまふも、にげなからずなん。"などきこえつけたまへれば、をさなごこちにも、はかなきはなもみぢにつけてもこころざしをみえたてまつる。こよなうこころよせきこえたまへれば、こうきでんのにょうご、またこのみやともおほんなかそばそばしきゆゑ、うちそへて、もとよりのにくさもたちいでて、ものしとおぼしたり。 |
01 | 3.5.4 | 176 | 152 |
世にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。 |
よにたぐひなしとみたてまつりたまひ、なだかうおはするみやのおほんかたちにも、なほにほはしさはたとへんかたなく、うつくしげなるを、よのひと、"ひかるきみ"ときこゆ。ふぢつぼならびたまひて、おほんおぼえもとりどりなれば、"かかやくひのみや"ときこゆ。 |
01 | 3.6 | 177 | 153 | 第六段 源氏元服(十二歳) |
01 | 3.6.1 | 178 | 154 |
この君の御童姿、いと変へまうく思せど、十二にて御元服したまふ。居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添へさせたまふ。 |
このきみのおほんわらはすがた、いとかへまうくおぼせど、じふににておほんげんぷくしたまふ。ゐたちおぼしいとなみて、かぎりあることにことをそへさせたまふ。 |
01 | 3.6.2 | 179 | 156 |
一年の春宮の御元服、南殿にてありし儀式、よそほしかりし御響きに落とさせたまはず。所々の饗など、内蔵寮、穀倉院など、公事に仕うまつれる、おろそかなることもぞと、とりわき仰せ言ありて、清らを尽くして仕うまつれり。 |
ひととせのとうぐうのおほんげんぷく、なでんにてありしぎしき、よそほしかりしおほんひびきにおとさせたまはず。ところどころのきゃうなど、くらづかさ、こくさうゐんなど、おほやけごとにつかうまつれる、おろそかなることもぞと、とりわきおほせごとありて、きよらをつくしてつかうまつれり。 |
01 | 3.6.3 | 180 | 157 |
おはします殿の東の廂、東向きに椅子立てて、冠者の御座、引入の大臣の御座、御前にあり。申の時にて源氏参りたまふ。角髪結ひたまへるつらつき、顔のにほひ、さま変へたまはむこと惜しげなり。大蔵卿、蔵人仕うまつる。いと清らなる御髪を削ぐほど、心苦しげなるを、主上は、「御息所の見ましかば」と、思し出づるに、堪へがたきを、心強く念じかへさせたまふ。 |
おはしますでんのひんがしのひさし、ひんがしむきにいしたてて、かんざのござ、ひきいれのおとどのござ、おまへにあり。さるのときにてげんじまゐりたまふ。みづらゆひたまへるつらつき、かほのにほひ、さまかへたまはんことをしげなり。おほくらきゃう、くらびとつかうまつる。いときよらなるみぐしをそぐほど、こころぐるしげなるを、うへは、"みやすんどころのみましかば。"と、おぼしいづるに、たへがたきを、こころづよくねんじかへさせたまふ。 |
01 | 3.6.4 | 181 | 158 |
かうぶりしたまひて、御休所にまかでたまひて、御衣奉り替へて、下りて拝したてまつりたまふさまに、皆人涙落としたまふ。帝はた、ましてえ忍びあへたまはず、思し紛るる折もありつる昔のこと、とりかへし悲しく思さる。いとかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしく思されつるを、あさましううつくしげさ添ひたまへり。 |
かうぶりしたまひて、おほんやすみどころにまかでたまひて、おほんぞたてまつりかへて、おりてはいしたてまつりたまふさまに、みなひとなみだおとしたまふ。みかどはた、ましてえしのびあへたまはず、おぼしまぎるるをりもありつるむかしのこと、とりかへしかなしくおぼさる。いとかうきびはなるほどは、あげおとりやとうたがはしくおぼされつるを、あさましううつくしげさそひたまへり。 |
01 | 3.6.5 | 182 | 159 |
引入の大臣の皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女、春宮よりも御けしきあるを、思しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。 |
ひきいれのおとどのみこばらにただひとりかしづきたまふおほんむすめ、とうぐうよりもみけしきあるを、おぼしわづらふことありける、このきみにたてまつらんのみこころなりけり。 |
01 | 3.6.6 | 183 | 160 |
内裏にも、御けしき賜はらせたまへりければ、「さらば、この折の後見なかめるを、添ひ臥しにも」ともよほさせたまひければ、さ思したり。 |
うちにも、みけしきたまはらせたまへりければ、"さらば、このをりのうしろみなかめるを、そひぶしにも。"ともよほさせたまひければ、さおぼしたり。 |
01 | 3.6.7 | 184 | 161 |
さぶらひにまかでたまひて、人びと大御酒など参るほど、親王たちの御座の末に源氏着きたまへり。大臣気色ばみきこえたまふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひきこえたまはず。 |
さぶらひにまかでたまひて、ひとびとおほみきなどまゐるほど、みこたちのおほんざのすゑにげんじつきたまへり。おとどけしきばみきこえたまふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひきこえたまはず。 |
01 | 3.6.8 | 185 | 162 |
御前より、内侍、宣旨うけたまはり伝へて、大臣参りたまふべき召しあれば、参りたまふ。御禄の物、主上の命婦取りて賜ふ。白き大袿に御衣一領、例のことなり。 |
おまへより、ないし、せんじうけたまはりつたへて、おとどまゐりたまふべきめしあれば、まゐりたまふ。おほんろくのもの、うへのみゃうぶとりてたまふ。しろきおほうちきにおほんぞひとくだり、れいのことなり。 |
01 | 3.6.9 | 186 | 163 |
御盃のついでに、 |
おほんさかづきのついでに、 |
01 | 3.6.10 | 187 | 164 |
「いときなき初元結ひに長き世を<BR/>契る心は結びこめつや」 |
"〔いときなきはつもとゆひにながきよを<BR/>ちぎるこころはむすびこめつや。〕" |
01 | 3.6.11 | 188 | 165 |
御心ばへありて、おどろかさせたまふ。 |
みこころばへありて、おどろかさせたまふ。 |
01 | 3.6.12 | 189 | 166 |
「結びつる心も深き元結ひに<BR/>濃き紫の色し褪せずは」 |
"〔むすびつるこころもふかきもとゆひに<BR/>こきむらさきのいろしあせずは。〕" |
01 | 3.6.13 | 190 | 167 |
と奏して、長橋より下りて舞踏したまふ。 |
とそうして、ながはしよりおりてぶたふしたまふ。 |
01 | 3.6.14 | 191 | 168 |
左馬寮の御馬、蔵人所の鷹据ゑて賜はりたまふ。御階のもとに親王たち上達部つらねて、禄ども品々に賜はりたまふ。 |
ひだりのつかさのおほんむま、くらうどどころのたかすゑてたまはりたまふ。みはしのもとにみこたちかんだちめつらねて、ろくどもしなじなにたまはりたまふ。 |
01 | 3.6.15 | 192 | 169 |
その日の御前の折櫃物、籠物など、右大弁なむ承りて仕うまつらせける。屯食、禄の唐櫃どもなど、ところせきまで、春宮の御元服の折にも数まされり。なかなか限りもなくいかめしうなむ。 |
そのひのおまへのをりびつもの、こものなど、うだいべんなんうけたまはりてつかうまつらせける。とんじき、ろくのからびつどもなど、ところせきまで、とうぐうのおほんげんぷくのをりにもかずまされり。なかなかかぎりもなくいかめしうなん。 |
01 | 3.7 | 193 | 170 | 第七段 源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚 |
01 | 3.7.1 | 194 | 171 |
その夜、大臣の御里に源氏の君まかでさせたまふ。作法世にめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひきこえたまへり。女君はすこし過ぐしたまへるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかしと思いたり。 |
そのよ、おとどのおほんさとにげんじのきみまかでさせたまふ。さほふよにめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしとおもひきこえたまへり。をんなぎみはすこしすぐしたまへるほどに、いとわかうおはすれば、にげなくはづかしとおぼいたり。 |
01 | 3.7.2 | 195 | 172 |
この大臣の御おぼえいとやむごとなきに、母宮、内裏の一つ后腹になむおはしければ、いづ方につけてもいとはなやかなるに、この君さへかくおはし添ひぬれば、春宮の御祖父にて、つひに世の中を知りたまふべき右大臣の御勢ひは、ものにもあらず圧されたまへり。 |
このおとどのおほんおぼえいとやんごとなきに、ははみや、うちのひとつきさいばらになんおはしければ、いづかたにつけてもいとはなやかなるに、このきみさへかくおはしそひぬれば、とうぐうのおほんおほぢにて、つひによのなかをしりたまふべきみぎのおとどのおほんいきほひは、ものにもあらずおされたまへり。 |
01 | 3.7.3 | 196 | 173 |
御子どもあまた腹々にものしたまふ。宮の御腹は、蔵人少将にていと若うをかしきを、右大臣の、御仲はいと好からねど、え見過ぐしたまはで、かしづきたまふ四の君にあはせたまへり。劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。 |
みこどもあまたはらばらにものしたまふ。みやのおほんはらは、くらうどのせうしゃうにていとわかうをかしきを、みぎのおとどの、おほんなかはいとよからねど、えみすぐしたまはで、かしづきたまふしのきみにあはせたまへり。おとらずもてかしづきたるは、あらまほしきおほんあはひどもになん。 |
01 | 3.7.4 | 197 | 174 |
源氏の君は、主上の常に召しまつはせば、心安く里住みもえしたまはず。心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、類なしと思ひきこえて、「さやうならむ人をこそ見め。似る人なくもおはしけるかな。大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず」おぼえたまひて、幼きほどの心一つにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。 |
げんじのきみは、うへのつねにめしまつはせば、こころやすくさとずみもえしたまはず。こころのうちには、ただふぢつぼのおほんありさまを、たぐひなしとおもひきこえて、"さやうならんひとをこそみめ。にるひとなくもおはしけるかな。おほいどののきみ、いとをかしげにかしづかれたるひととはみゆれど、こころにもつかず。"おぼえたまひて、をさなきほどのこころひとつにかかりて、いとくるしきまでぞおはしける。 |
01 | 3.8 | 198 | 175 | 第八段 源氏、成人の後 |
01 | 3.8.1 | 199 | 176 |
大人になりたまひて後は、ありしやうに御簾の内にも入れたまはず。御遊びの折々、琴笛の音に聞こえかよひ、ほのかなる御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ。五、六日さぶらひたまひて、大殿に二、三日など、絶え絶えにまかでたまへど、ただ今は幼き御ほどに、罪なく思しなして、いとなみかしづききこえたまふ。 |
おとなになりたまひてのちは、ありしやうにみすのうちにもいれたまはず。おほんあそびのをりをり、ことふえのねにきこえかよひ、ほのかなるおほんこゑをなぐさめにて、うちずみのみこのましうおぼえたまふ。いつかむいかさぶらひたまひて、おほいどのにふつかみかなど、たえだえにまかでたまへど、ただいまはをさなきおほんほどに、つみなくおぼしなして、いとなみかしづききこえたまふ。 |
01 | 3.8.2 | 200 | 177 |
御方々の人びと、世の中におしなべたらぬを選りととのへすぐりてさぶらはせたまふ。御心につくべき御遊びをし、おほなおほな思しいたつく。 |
おほんかたがたのひとびと、よのなかにおしなべたらぬをえりととのへすぐりてさぶらはせたまふ。みこころにつくべきおほんあそびをし、おほなおほなおぼしいたつく。 |
01 | 3.8.3 | 201 | 178 |
内裏には、もとの淑景舎を御曹司にて、母御息所の御方の人びとまかで散らずさぶらはせたまふ。 |
うちには、もとのしげいさをおほんざうしにて、ははみやすんどころのおほんかたのひとびとまかでちらずさぶらはせたまふ。 |
01 | 3.8.4 | 202 | 179 |
里の殿は、修理職、内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造らせたまふ。もとの木立、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる。 |
さとのとのは、すりしき、たくみづかさにせんじくだりて、になうあらためつくらせたまふ。もとのこだち、やまのたたずまひ、おもしろきところなりけるを、いけのこころひろくしなして、めでたくつくりののしる。 |
01 | 3.8.5 | 203 | 180 |
「かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」とのみ、嘆かしう思しわたる。 |
"かかるところにおもふやうならんひとをすゑてすまばや。"とのみ、なげかしうおぼしわたる。 |
01 | 3.8.6 | 204 | 181 |
「光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつりける」とぞ、言ひ伝へたるとなむ。 |
"ひかるきみといふなは、こまうどのめできこえてつけたてまつりける。"とぞ、いひつたへたるとなん。 |