帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
06 | 末摘花 |
06 | 1 | 44 | 30 | 第一章 末摘花の物語 |
06 | 1.1 | 45 | 31 | 第一段 亡き夕顔追慕 |
06 | 1.1.1 | 46 | 32 |
思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を、年月経れど、思し忘れず、ここもかしこも、うちとけぬ限りの、気色ばみ心深きかたの御いどましさに、け近くうちとけたりしあはれに、似るものなう恋しく思ほえたまふ。 |
おもへどもなほあかざりしゆふがほのつゆにおくれしここちを、としつきふれど、おぼしわすれず、ここもかしこも、うちとけぬかぎりの、けしきばみこころふかきかたのおほんいどましさに、けぢかくうちとけたりしあはれに、にるものなうこひしくおもほえたまふ。 |
06 | 1.1.2 | 47 | 33 |
いかで、ことことしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなと、こりずまに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと、思し寄るばかりのけはひあるあたりにこそ、一行をもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるは、をさをさあるまじきぞ、いと目馴れたるや。 |
いかで、ことことしきおぼえはなく、いとらうたげならんひとの、つつましきことなからん、みつけてしがなと、こりずまにおぼしわたれば、すこしゆゑづきてきこゆるわたりは、おほんみみとどめたまはぬくまなきに、さてもやと、おぼしよるばかりのけはひあるあたりにこそ、ひとくだりをもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもてはなれたるは、をさをさあるまじきぞ、いとめなれたるや。 |
06 | 1.1.3 | 48 | 34 |
つれなう心強きは、たとしへなう情けおくるるまめやかさなど、あまりもののほど知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず、名残なくくづほれて、なほなほしき方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも多かりける。 |
つれなうこころづよきは、たとしへなうなさけおくるるまめやかさなど、あまりもののほどしらぬやうに、さてしもすぐしはてず、なごりなくくづほれて、なほなほしきかたにさだまりなどするもあれば、のたまひさしつるもおほかりける。 |
06 | 1.1.4 | 49 | 35 |
かの空蝉を、ものの折々には、ねたう思し出づ。荻の葉も、さりぬべき風のたよりある時は、おどろかしたまふ折もあるべし。火影の乱れたりしさまは、またさやうにても見まほしく思す。おほかた、名残なきもの忘れをぞ、えしたまはざりける。 |
かのうつせみを、もののをりをりには、ねたうおぼしいづ。をぎのはも、さりぬべきかぜのたよりあるときは、おどろかしたまふをりもあるべし。ほかげのみだれたりしさまは、またさやうにてもみまほしくおぼす。おほかた、なごりなきものわすれをぞ、えしたまはざりける。 |
06 | 1.2 | 50 | 36 | 第二段 故常陸宮の姫君の噂 |
06 | 1.2.1 | 51 | 37 |
左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに思いたるが女、大輔の命婦とて、内裏にさぶらふ、わかむどほりの兵部大輔なる女なりけり。いといたう色好める若人にてありけるを、君も召し使ひなどしたまふ。母は筑前守の妻にて、下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。 |
さゑもんのめのととて、だいにのさしつぎにおぼいたるがむすめ、たいふのみゃうぶとて、うちにさぶらふ、わかんどほりのひゃうぶのたいふなるむすめなりけり。いといたういろこのめるわかうどにてありけるを、きみもめしつかひなどしたまふ。はははちくぜんのかみのめにて、くだりにければ、ちちぎみのもとをさとにてゆきかよふ。 |
06 | 1.2.2 | 52 | 38 |
故常陸親王の、末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御女、心細くて残りゐたるを、もののついでに語りきこえければ、あはれのことやとて、御心とどめて問ひ聞きたまふ。 |
こひたちのみこの、すゑにまうけていみじうかなしうかしづきたまひしおほんむすめ、こころぼそくてのこりゐたるを、もののついでにかたりきこえければ、あはれのことやとて、みこころとどめてとひききたまふ。 |
06 | 1.2.3 | 53 | 39 |
「心ばへ容貌など、深き方はえ知りはべらず。かいひそめ、人疎うもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにてぞ、語らひはべる。琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」と聞こゆれば、 |
"こころばへかたちなど、ふかきかたはえしりはべらず。かいひそめ、ひとうとうもてなしたまへば、さべきよひなど、ものごしにてぞ、かたらひはべる。きんをぞなつかしきかたらひびととおもへる。"ときこゆれば、 |
06 | 1.2.4 | 54 | 40 |
「三つの友にて、今一種やうたてあらむ」とて、「我に聞かせよ。父親王の、さやうの方にいとよしづきてものしたまうければ、おしなべての手にはあらじ、となむ思ふ」とのたまへば、 |
"みつのともにて、いまひとくさやうたてあらん。"とて、"われにきかせよ。ちちみこの、さやうのかたにいとよしづきてものしたまうければ、おしなべてのてにはあらじ、となんおもふ。"とのたまへば、 |
06 | 1.2.5 | 55 | 41 |
「さやうに聞こし召すばかりにはあらずやはべらむ」 |
"さやうにきこしめすばかりにはあらずやはべらん。" |
06 | 1.2.6 | 56 | 42 |
と言へど、御心とまるばかり聞こえなすを、 |
といへど、みこころとまるばかりきこえなすを、 |
06 | 1.2.7 | 57 | 43 |
「いたうけしきばましや。このころのおぼろ月夜に忍びてものせむ。まかでよ」 |
"いたうけしきばましや。このころのおぼろづきよにしのびてものせん。まかでよ。" |
06 | 1.2.8 | 58 | 44 |
とのたまへば、わづらはしと思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。 |
とのたまへば、わづらはしとおもへど、うちわたりものどやかなるはるのつれづれにまかでぬ。 |
06 | 1.2.9 | 59 | 45 |
父の大輔の君は他にぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりをむつびて、ここには来るなりけり。 |
ちちのたいふのきみはほかにぞすみける。ここにはときどきぞかよひける。みゃうぶは、ままははのあたりはすみもつかず、ひめぎみのおほんあたりをむつびて、ここにはくるなりけり。 |
06 | 1.3 | 60 | 46 | 第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く |
06 | 1.3.1 | 61 | 47 |
のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり。 |
のたまひしもしるく、いざよひのつきをかしきほどにおはしたり。 |
06 | 1.3.2 | 62 | 48 |
「いと、かたはらいたきわざかな。ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに」と聞こゆれど、 |
"いと、かたはらいたきわざかな。もののねすむべきよのさまにもはべらざめるに。"ときこゆれど、 |
06 | 1.3.3 | 63 | 49 |
「なほ、あなたにわたりて、ただ一声も、もよほしきこえよ。むなしくて帰らむが、ねたかるべきを」 |
"なほ、あなたにわたりて、ただひとこゑも、もよほしきこえよ。むなしくてかへらんが、ねたかるべきを。" |
06 | 1.3.4 | 64 | 50 |
とのたまへば、うちとけたる住み処に据ゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。よき折かな、と思ひて、 |
とのたまへば、うちとけたるすみかにすゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしとおもへど、しんでんにまゐりたれば、まだかうしもさながら、むめのかをかしきをみいだしてものしたまふ。よきをりかな、とおもひて、 |
06 | 1.3.5 | 65 | 52 |
「御琴の音、いかにまさりはべらむと、思ひたまへらるる夜のけしきに、誘はれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」と言へば、 |
"おほんことのね、いかにまさりはべらんと、おもひたまへらるるよのけしきに、さそはれはべりてなん。こころあわたたしきいでいりに、えうけたまはらぬこそくちをしけれ。"といへば、 |
06 | 1.3.6 | 66 | 53 |
「聞き知る人こそあなれ。百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは」 |
"ききしるひとこそあなれ。ももしきにゆきかふひとのきくばかりやは。" |
06 | 1.3.7 | 67 | 54 |
とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。 |
とて、めしよするも、あいなう、いかがききたまはんと、むねつぶる。 |
06 | 1.3.8 | 68 | 55 |
ほのかに掻き鳴らしたまふ、をかしう聞こゆ。何ばかり深き手ならねど、ものの音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。 |
ほのかにかきならしたまふ、をかしうきこゆ。なにばかりふかきてならねど、もののねがらのすぢことなるものなれば、ききにくくもおぼされず。 |
06 | 1.3.9 | 69 | 56 |
「いといたう荒れわたりて寂しき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしづき据ゑたりけむ名残なく、いかに思ほし残すことなからむ。かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ」など思ひ続けても、ものや言ひ寄らまし、と思せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまふ。 |
"いといたうあれわたりてさびしきところに、さばかりのひとの、ふるめかしう、ところせく、かしづきすゑたりけんなごりなく、いかにおもほしのこすことなからん。かやうのところにこそは、むかしものがたりにもあはれなることどもありけれ。"などおもひつづけても、ものやいひよらまし、とおぼせど、うちつけにやおぼさんと、こころはづかしくて、やすらひたまふ。 |
06 | 1.3.10 | 70 | 57 |
命婦、かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじ、と思ひければ、 |
みゃうぶ、かどあるものにて、いたうみみならさせたてまつらじ、とおもひければ、 |
06 | 1.3.11 | 71 | 58 |
「曇りがちにはべるめり。客人の来むとはべりつる、いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。御格子参りなむ」 |
"くもりがちにはべるめり。まらうとのこんとはべりつる、いとひがほにもこそ。いまこころのどかにを。みかうしまゐりなん。" |
06 | 1.3.12 | 72 | 59 |
とて、いたうもそそのかさで帰りたれば、 |
とて、いたうもそそのかさでかへりたれば、 |
06 | 1.3.13 | 73 | 60 |
「なかなかなるほどにても止みぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」 |
"なかなかなるほどにてもやみぬるかな。ものききわくほどにもあらで、ねたう。" |
06 | 1.3.14 | 74 | 61 |
とのたまふけしき、をかしと思したり。 |
とのたまふけしき、をかしとおぼしたり。 |
06 | 1.3.15 | 75 | 62 |
「同じくは、け近きほどの立ち聞きせさせよ」 |
"おなじくは、けぢかきほどのたちぎきせさせよ。" |
06 | 1.3.16 | 76 | 63 |
とのたまへど、「心にくくて」と思へば、 |
とのたまへど、"こころにくくて"とおもへば、 |
06 | 1.3.17 | 77 | 64 |
「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」 |
"いでや。いとかすかなるありさまにおもひきえて、こころぐるしげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや。" |
06 | 1.3.18 | 78 | 65 |
と言へば、「げに、さもあること。にはかに我も人もうちとけて語らふべき人の際は、際とこそあれ」など、あはれに思さるる人の御ほどなれば、 |
といへば、"げに、さもあること。にはかにわれもひともうちとけてかたらふべきひとのきはは、きはとこそあれ。"など、あはれにおぼさるるひとのおほんほどなれば、 |
06 | 1.3.19 | 79 | 66 |
「なほ、さやうのけしきをほのめかせ」と、語らひたまふ。 |
"なほ、さやうのけしきをほのめかせ。"と、かたらひたまふ。 |
06 | 1.3.20 | 80 | 67 |
また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。 |
またちぎりたまへるかたやあらん、いとしのびてかへりたまふ。 |
06 | 1.3.21 | 81 | 68 |
「主上の、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそ、をかしう思うたまへらるる折々はべれ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」 |
"うへの、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそ、をかしうおもうたまへらるるをりをりはべれ。かやうのおほんやつれすがたを、いかでかはごらんじつけん。" |
06 | 1.3.22 | 82 | 69 |
と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、 |
ときこゆれば、たちかへり、うちわらひて、 |
06 | 1.3.23 | 83 | 70 |
「異人の言はむやうに、咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」 |
"ことびとのいはんやうに、とがなあらはされそ。これをあだあだしきふるまひといはば、をんなのありさまくるしからん。" |
06 | 1.3.24 | 84 | 71 |
とのたまへば、「あまり色めいたりと思して、折々かうのたまふを、恥づかし」と思ひて、ものも言はず。 |
とのたまへば、"あまりいろめいたりとおぼして、をりをりかうのたまふを、はづかし。"とおもひて、ものもいはず。 |
06 | 1.3.25 | 85 | 72 |
寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思して、やをら立ち退きたまふ。透垣のただすこし折れ残りたる隠れの方に、立ち寄りたまふに、もとより立てる男ありけり。「誰れならむ。心かけたる好き者ありけり」と思して、蔭につきて立ち隠れたまへば、頭中将なりけり。 |
しんでんのかたに、ひとのけはひきくやうもやとおぼして、やをらたちのきたまふ。すいがいのただすこしをれのこりたるかくれのかたに、たちよりたまふに、もとよりたてるをとこありけり。"たれならん。こころかけたるすきものありけり。"とおぼして、かげにつきてたちかくれたまへば、とうのちゅうじゃうなりけり。 |
06 | 1.3.26 | 86 | 74 |
この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、後につきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方に入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほどに、ものの音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふと、下待つなりけり。 |
このゆふつかた、うちよりもろともにまかでたまひける、やがておほいどのにもよらず、にでうのゐんにもあらで、ひきわかれたまひけるを、いづちならんと、ただならで、われもゆくかたあれど、あとにつきてうかがひけり。あやしきむまに、かりぎぬすがたのないがしろにてきければ、えしりたまはぬに、さすがに、かうことかたにいりたまひぬれば、こころもえずおもひけるほどに、もののねにききついてたてるに、かへりやいでたまふと、したまつなりけり。 |
06 | 1.3.27 | 87 | 75 |
君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、抜き足に歩みたまふに、ふと寄りて、 |
きみは、たれともえみわきたまはで、われとしられじと、ぬきあしにあゆみたまふに、ふとよりて、 |
06 | 1.3.28 | 88 | 76 |
「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。 |
"ふりすてさせたまへるつらさに、おほんおくりつかうまつりつるは。 |
06 | 1.3.29 | 89 | 77 |
もろともに大内山は出でつれど<BR/>入る方見せぬいさよひの月」 |
もろともにおほうちやまはいでつれど<BR/>いるかたみせぬいさよひのつき〕" |
06 | 1.3.30 | 90 | 78 |
と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。 |
とうらむるもねたけれど、このきみとみたまふ、すこしをかしうなりぬ。 |
06 | 1.3.31 | 91 | 79 |
「人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、 |
"ひとのおもひよらぬことよ。"とにくむにくむ、 |
06 | 1.3.32 | 92 | 80 |
「里わかぬかげをば見れどゆく月の<BR/>いるさの山を誰れか尋ぬる」 |
"〔さとわかぬかげをばみれどゆくつきの<BR/>いるさのやまをたれかたづぬる〕 |
06 | 1.3.33 | 93 | 81 |
「かう慕ひありかば、いかにせさせたまはむ」と聞こえたまふ。 |
"かうしたひありかば、いかにせさせたまはん。"ときこえたまふ。 |
06 | 1.3.34 | 94 | 82 |
「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ。後らさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩きは、軽々しき事も出で来なむ」 |
"まことは、かやうのおほんありきには、ずいじんからこそはかばかしきこともあるべけれ。おくらさせたまはでこそあらめ。やつれたるおほんありきは、かるがるしきこともいできなん。" |
06 | 1.3.35 | 95 | 83 |
と、おし返しいさめたてまつる。かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心のうちに思し出づ。 |
と、おしかへしいさめたてまつる。かうのみみつけらるるを、ねたしとおぼせど、かのなでしこはえたづねしらぬを、おもきこうに、みこころのうちにおぼしいづ。 |
06 | 1.4 | 96 | 84 | 第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く |
06 | 1.4.1 | 97 | 85 |
おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹き合せて大殿におはしぬ。 |
おのおのちぎれるかたにも、あまえて、えゆきわかれたまはず、ひとつくるまにのりて、つきのをかしきほどにくもがくれたるみちのほど、ふえふきあはせておほいどのにおはしぬ。 |
06 | 1.4.2 | 98 | 86 |
前駆なども追はせたまはず、忍び入りて、人見ぬ廊に御直衣ども召して、着替へたまふ。つれなう、今来るやうにて、御笛ども吹きすさびておはすれば、大臣、例の聞き過ぐしたまはで、高麗笛取り出でたまへり。いと上手におはすれば、いとおもしろう吹きたまふ。御琴召して、内にも、この方に心得たる人びとに弾かせたまふ。 |
さきなどもおはせたまはず、しのびいりて、ひとみぬらうにおほんなほしどもめして、きかへたまふ。つれなう、いまくるやうにて、おほんふえどもふきすさびておはすれば、おとど、れいのききすぐしたまはで、こまぶえとりいでたまへり。いとじゃうずにおはすれば、いとおもしろうふきたまふ。おほんことめして、うちにも、このかたにこころえたるひとびとにひかせたまふ。 |
06 | 1.4.3 | 99 | 87 |
中務の君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて離れて、ただこのたまさかなる御けしきのなつかしきをば、え背ききこえぬに、おのづから隠れなくて、大宮などもよろしからず思しなりたれば、もの思はしく、はしたなき心地して、すさまじげに寄り臥したり。絶えて見たてまつらぬ所に、かけ離れなむも、さすがに心細く思ひ乱れたり。 |
なかつかさのきみ、わざとびははひけど、とうのきみこころかけたるをもてはなれて、ただこのたまさかなるみけしきのなつかしきをば、えそむききこえぬに、おのづからかくれなくて、おほみやなどもよろしからずおぼしなりたれば、ものおもはしく、はしたなきここちして、すさまじげによりふしたり。たえてみたてまつらぬところに、かけはなれなんも、さすがにこころぼそくおもひみだれたり。 |
06 | 1.4.4 | 100 | 88 |
君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、やう変へてをかしう思ひつづけ、「あらましごとに、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐたらむ時、見そめて、いみじう心苦しくは、人にももて騒がるばかりや、わが心もさま悪しからむ」などさへ、中将は思ひけり。この君のかう気色ばみありきたまふを、「まさに、さては、過ぐしたまひてむや」と、なまねたう危ふがりけり。 |
きみたちは、ありつるきんのねをおぼしいでて、あはれげなりつるすまひのさまなども、やうかへてをかしうおもひつづけ、"あらましごとに、いとをかしうらうたきひとの、さてとしつきをかさねゐたらんとき、みそめて、いみじうこころぐるしくは、ひとにももてさわがるばかりや、わがこころもさまあしからん。"などさへ、ちゅうじゃうはおもひけり。このきみのかうけしきばみありきたまふを、"まさに、さては、すぐしたまひてんや。"と、なまねたうあやふがりけり。 |
06 | 1.4.5 | 101 | 89 |
その後、こなたかなたより、文などやりたまふべし。いづれも返り事見えず、おぼつかなく心やましきに、「あまりうたてもあるかな。さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたるけしき、はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、心ばせ推し測らるる折々あらむこそあはれなるべけれ、重しとても、いとかうあまり埋もれたらむは、心づきなく、悪びたり」と、中将は、まいて心焦られしけり。例の、隔てきこえたまはぬ心にて、 |
そののち、こなたかなたより、ふみなどやりたまふべし。いづれもかへりごとみえず、おぼつかなくこころやましきに、"あまりうたてもあるかな。さやうなるすまひするひとは、ものおもひしりたるけしき、はかなききくさ、そらのけしきにつけても、とりなしなどして、こころばせおしはからるるをりをりあらんこそあはれなるべけれ、おもしとても、いとかうあまりうもれたらんは、こころづきなく、わるびたり。"と、ちゅうじゃうは、まいてこころいられしけり。れいの、へだてきこえたまはぬこころにて、 |
06 | 1.4.6 | 102 | 90 |
「しかしかの返り事は見たまふや。試みにかすめたりしこそ、はしたなくて止みにしか」 |
"しかしかのかへりごとはみたまふや。こころみにかすめたりしこそ、はしたなくてやみにしか。" |
06 | 1.4.7 | 103 | 91 |
と、憂ふれば、「さればよ、言ひ寄りにけるをや」と、ほほ笑まれて、 |
と、うれふれば、"さればよ、いひよりにけるをや。"と、ほほゑまれて、 |
06 | 1.4.8 | 104 | 92 |
「いさ、見むとしも思はねばにや、見るとしもなし」 |
"いさ、みんとしもおもはねばにや、みるとしもなし。" |
06 | 1.4.9 | 105 | 93 |
と、答へたまふを、「人わきしける」と思ふに、いとねたし。 |
と、いらへたまふを、"ひとわきしける"とおもふに、いとねたし。 |
06 | 1.4.10 | 106 | 94 |
君は、深うしも思はぬことの、かう情けなきを、すさまじく思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひありきけるを、「言多く言ひなれたらむ方にぞ靡かむかし。したり顔にて、もとのことを思ひ放ちたらむけしきこそ、憂はしかるべけれ」と思して、命婦をまめやかに語らひたまふ。 |
きみは、ふかうしもおもはぬことの、かうなさけなきを、すさまじくおもひなりたまひにしかど、かうこのちゅうじゃうのいひありきけるを、"ことおほくいひなれたらんかたにぞなびかんかし。したりがほにて、もとのことをおもひはなちたらんけしきこそ、うれはしかるべけれ。"とおぼして、みゃうぶをまめやかにかたらひたまふ。 |
06 | 1.4.11 | 107 | 95 |
「おぼつかなく、もて離れたる御けしきなむ、いと心憂き。好き好きしき方に疑ひ寄せたまふにこそあらめ。さりとも、短き心ばへつかはぬものを。人の心ののどやかなることなくて、思はずにのみあるになむ、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。心のどかにて、親はらからのもてあつかひ恨むるもなう、心やすからむ人は、なかなかなむらうたかるべきを」とのたまへば、 |
"おぼつかなく、もてはなれたるみけしきなん、いとこころうき。すきずきしきかたにうたがひよせたまふにこそあらめ。さりとも、みじかきこころばへつかはぬものを。ひとのこころののどやかなることなくて、おもはずにのみあるになん、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。こころのどかにて、おやはらからのもてあつかひうらむるもなう、こころやすからんひとは、なかなかなんらうたかるべきを。"とのたまへば、 |
06 | 1.4.12 | 108 | 96 |
「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿りには、えしもやと、つきなげにこそ見えはべれ。ひとへにものづつみし、ひき入りたる方はしも、ありがたうものしたまふ人になむ」 |
"いでや。さやうにをかしきかたのおほんかさやどりには、えしもやと、つきなげにこそみえはべれ。ひとへにものづつみし、ひきいりたるかたはしも、ありがたうものしたまふひとになん。" |
06 | 1.4.13 | 109 | 97 |
と、見るありさま語りきこゆ。「らうらうじう、かどめきたる心はなきなめり。いと子めかしうおほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」と思し忘れず、のたまふ。 |
と、みるありさまかたりきこゆ。"らうらうじう、かどめきたるこころはなきなめり。いとこめかしうおほどかならんこそ、らうたくはあるべけれ。"とおぼしわすれず、のたまふ。 |
06 | 1.4.14 | 110 | 98 |
瘧病みにわづらひたまひ、人知れぬもの思ひの紛れも、御心のいとまなきやうにて、春夏過ぎぬ。 |
わらはやみにわづらひたまひ、ひとしれぬものおもひのまぎれも、みこころのいとまなきやうにて、はるなつすぎぬ。 |
06 | 1.5 | 111 | 99 | 第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う |
06 | 1.5.1 | 112 | 100 |
秋のころほひ、静かに思しつづけて、かの砧の音も耳につきて聞きにくかりしさへ、恋しう思し出でらるるままに、常陸宮にはしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世づかず、心やましう、負けては止まじの御心さへ添ひて、命婦を責めたまふ。 |
あきのころほひ、しづかにおぼしつづけて、かのきぬたのおともみみにつきてききにくかりしさへ、こひしうおぼしいでらるるままに、ひたちのみやにはしばしばきこえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、よづかず、こころやましう、まけてはやまじのみこころさへそひて、みゃうぶをせめたまふ。 |
06 | 1.5.2 | 113 | 101 |
「いかなるやうぞ。いとかかる事こそ、まだ知らね」 |
"いかなるやうぞ。いとかかることこそ、まだしらね。" |
06 | 1.5.3 | 114 | 102 |
と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて、 |
と、いとものしとおもひてのたまへば、いとほしとおもひて、 |
06 | 1.5.4 | 115 | 103 |
「もて離れて、似げなき御事とも、おもむけはべらず。ただ、おほかたの御ものづつみのわりなきに、手をえさし出でたまはぬとなむ見たまふる」と聞こゆれば、 |
"もてはなれて、にげなきおほんこととも、おもむけはべらず。ただ、おほかたのおほんものづつみのわりなきに、てをえさしいでたまはぬとなんみたまふる。"ときこゆれば、 |
06 | 1.5.5 | 116 | 104 |
「それこそは世づかぬ事なれ。物思ひ知るまじきほど、独り身をえ心にまかせぬほどこそ、ことわりなれ、何事も思ひしづまりたまへらむ、と思ふこそ。そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと、世づける筋ならで、その荒れたる簀子にたたずままほしきなり。いとうたて心得ぬ心地するを、かの御許しなくとも、たばかれかし。心苛られし、うたてあるもてなしには、よもあらじ」 |
"それこそはよづかぬことなれ。ものおもひしるまじきほど、ひとりみをえこころにまかせぬほどこそ、ことわりなれ、なにごともおもひしづまりたまへらん、とおもふこそ。そこはかとなく、つれづれにこころぼそうのみおぼゆるを、おなじこころにいらへたまはんは、ねがひかなふここちなんすべき。なにやかやと、よづけるすぢならで、そのあれたるすのこにたたずままほしきなり。いとうたてこころえぬここちするを、かのおほんゆるしなくとも、たばかれかし。こころいられし、うたてあるもてなしには、よもあらじ。" |
06 | 1.5.6 | 117 | 105 |
など、語らひたまふ。 |
など、かたらひたまふ。 |
06 | 1.5.7 | 118 | 106 |
なほ世にある人のありさまを、おほかたなるやうにて聞き集め、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうしき宵居など、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞こえ出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、「なまわづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしき事や見えむなむ」と思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、「聞き入れざらむも、ひがひがしかるべし。父親王おはしける折にだに、旧りにたるあたりとて、おとなひきこゆる人もなかりけるを、まして、今は浅茅分くる人も跡絶えたるに」。 |
なほよにあるひとのありさまを、おほかたなるやうにてききあつめ、みみとどめたまふくせのつきたまへるを、さうざうしきよひゐなど、はかなきついでに、さるひとこそとばかりきこえいでたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、"なまわづらはしく、をんなぎみのおほんありさまも、よづかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなるみちびきに、いとほしきことやみえんなん。"とおもひけれど、きみのかうまめやかにのたまふに、"ききいれざらんも、ひがひがしかるべし。ちちみこおはしけるをりにだに、ふりにたるあたりとて、おとなひきこゆるひともなかりけるを、まして、いまはあさぢわくるひともあとたえたるに。" |
06 | 1.5.8 | 119 | 107 |
かく世にめづらしき御けはひの、漏りにほひくるをば、なま女ばらなども笑み曲げて、「なほ聞こえたまへ」と、そそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。 |
かくよにめづらしきおほんけはひの、もりにほひくるをば、なまをんなばらなどもゑみまげて、"なほきこえたまへ"と、そそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふこころにて、ひたぶるにみもいれたまはぬなりけり。 |
06 | 1.5.9 | 120 | 108 |
命婦は、「さらば、さりぬべからむ折に、物越しに聞こえたまはむほど、御心につかずは、さても止みねかし。また、さるべきにて、仮にもおはし通はむを、とがめたまふべき人なし」など、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかる事なども言はざりけり。 |
みゃうぶは、"さらば、さりぬべからんをりに、ものごしにきこえたまはんほど、みこころにつかずは、さてもやみねかし。また、さるべきにて、かりにもおはしかよはんを、とがめたまふべきひとなし。"など、あだめきたるはやりごころはうちおもひて、ちちぎみにも、かかることなどもいはざりけり。 |
06 | 1.5.10 | 121 | 109 |
八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへの事語り出でて、うち泣きなどしたまふ。「いとよき折かな」と思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。 |
はちがちにじふよにち、よひすぐるまでまたるるつきのこころもとなきに、ほしのひかりばかりさやけく、まつのこずゑふくかぜのおとこころぼそくて、いにしへのことかたりいでて、うちなきなどしたまふ。"いとよきをりかな。"とおもひて、おほんせうそこやきこえつらん、れいのいとしのびておはしたり。 |
06 | 1.5.11 | 122 | 110 |
月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましくうち眺めたまふに、琴そそのかされて、ほのかにかき鳴らしたまふほど、けしうはあらず。「すこし、け近う今めきたる気をつけばや」とぞ、乱れたる心には、心もとなく思ひゐたる。人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。今しもおどろき顔に、 |
つきやうやういでて、あれたるまがきのほどうとましくうちながめたまふに、きんそそのかされて、ほのかにかきならしたまふほど、けしうはあらず。"すこし、けぢかういまめきたるけをつけばや。"とぞ、みだれたるこころには、こころもとなくおもひゐたる。ひとめしなきところなれば、こころやすくいりたまふ。みゃうぶをよばせたまふ。いましもおどろきがほに、 |
06 | 1.5.12 | 123 | 111 |
「いとかたはらいたきわざかな。しかしかこそ、おはしましたなれ。常に、かう恨みきこえたまふを、心にかなはぬ由をのみ、いなびきこえはべれば、『みづからことわりも聞こえ知らせむ』と、のたまひわたるなり。いかが聞こえ返さむ。なみなみのたはやすき御ふるまひならねば、心苦しきを。物越しにて、聞こえたまはむこと、聞こしめせ」 |
"いとかたはらいたきわざかな。しかしかこそ、おはしましたなれ。つねに、かううらみきこえたまふを、こころにかなはぬよしをのみ、いなびきこえはべれば、'みづからことわりもきこえしらせん。'と、のたまひわたるなり。いかがきこえかへさん。なみなみのたはやすきおほんふるまひならねば、こころぐるしきを。ものごしにて、きこえたまはんこと、きこしめせ。" |
06 | 1.5.13 | 124 | 112 |
と言へば、いと恥づかしと思ひて、 |
といへば、いとはづかしとおもひて、 |
06 | 1.5.14 | 125 | 113 |
「人にもの聞こえむやうも知らぬを」 |
"ひとにものきこえんやうもしらぬを。" |
06 | 1.5.15 | 126 | 114 |
とて、奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。うち笑ひて、 |
とて、おくざまへゐざりいりたまふさま、いとうひうひしげなり。うちわらひて、 |
06 | 1.5.16 | 127 | 115 |
「いと若々しうおはしますこそ、心苦しけれ。限りなき人も、親などおはしてあつかひ後見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かばかり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思し憚るは、つきなうこそ」と教へきこゆ。 |
"いとわかわかしうおはしますこそ、こころぐるしけれ。かぎりなきひとも、おやなどおはしてあつかひうしろみきこえたまふほどこそ、わかびたまふもことわりなれ、かばかりこころぼそきおほんありさまに、なほよをつきせずおぼしはばかるは、つきなうこそ。"とをしへきこゆ。 |
06 | 1.5.17 | 128 | 116 |
さすがに、人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて、 |
さすがに、ひとのいふことはつようもいなびぬみこころにて、 |
06 | 1.5.18 | 129 | 117 |
「答へきこえで、ただ聞け、とあらば。格子など鎖してはありなむ」とのたまふ。 |
"いらへきこえで、ただきけ、とあらば。かうしなどさしてはありなん。"とのたまふ。 |
06 | 1.5.19 | 130 | 118 |
「簀子などは便なうはべりなむ。おしたちて、あはあはしき御心などは、よも」 |
"すのこなどはびんなうはべりなん。おしたちて、あはあはしきみこころなどは、よも。" |
06 | 1.5.20 | 131 | 119 |
など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づからいと強く鎖して、御茵うち置きひきつくろふ。 |
など、いとよくいひなして、ふたまのきはなるさうじ、てづからいとつよくさして、おほんしとねうちおきひきつくろふ。 |
06 | 1.5.21 | 132 | 120 |
いとつつましげに思したれど、かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども、夢に知りたまはざりければ、命婦のかう言ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。乳母だつ老い人などは、曹司に入り臥して、夕まどひしたるほどなり。若き人、二、三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまを、ゆかしきものに思ひきこえて、心げさうしあへり。よろしき御衣たてまつり変へ、つくろひきこゆれば、正身は、何の心げさうもなくておはす。 |
いとつつましげにおぼしたれど、かやうのひとにものいふらんこころばへなども、ゆめにしりたまはざりければ、みゃうぶのかういふを、あるやうこそはとおもひてものしたまふ。めのとだつおいびとなどは、ざうしにいりふして、ゆふまどひしたるほどなり。わかきひと、に、さんにんあるは、よにめでられたまふおほんありさまを、ゆかしきものにおもひきこえて、こころげさうしあへり。よろしきおほんぞたてまつりかへ、つくろひきこゆれば、さうじみは、なにのこころげさうもなくておはす。 |
06 | 1.5.22 | 133 | 121 |
男は、いと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意したまへる御けはひ、いみじうなまめきて、「見知らむ人にこそ見せめ、栄えあるまじきわたりを、あな、いとほし」と、命婦は思へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、「うしろやすう、さし過ぎたることは見えたてまつりたまはじ」と思ひける。「わが常に責められたてまつる罪さりごとに、心苦しき人の御もの思ひや出でこむ」など、やすからず思ひゐたり。 |
をとこは、いとつきせぬおほんさまを、うちしのびよういしたまへるおほんけはひ、いみじうなまめきて、"みしらんひとにこそみせめ、はえあるまじきわたりを、あな、いとほし。"と、みゃうぶはおもへど、ただおほどかにものしたまふをぞ、"うしろやすう、さしすぎたることはみえたてまつりたまはじ。"とおもひける。"わがつねにせめられたてまつるつみさりごとに、こころぐるしきひとのおほんものおもひやいでこん。"など、やすからずおもひゐたり。 |
06 | 1.5.23 | 134 | 122 |
君は、人の御ほどを思せば、「されくつがへる今様のよしばみよりは、こよなう奥ゆかしう」と思さるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、忍びやかに、衣被の香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、「さればよ」と思す。年ごろ思ひわたるさまなど、いとよくのたまひつづくれど、まして近き御答へは絶えてなし。「わりなのわざや」と、うち嘆きたまふ。 |
きみは、ひとのおほんほどをおぼせば、"されくつがへるいまやうのよしばみよりは、こよなうおくゆかしう。"とおぼさるるに、いたうそそのかされて、ゐざりよりたまへるけはひ、しのびやかに、えひのかいとなつかしうかをりいでて、おほどかなるを、"さればよ"とおぼす。としごろおもひわたるさまなど、いとよくのたまひつづくれど、ましてちかきおほんいらへはたえてなし。"わりなのわざや。"と、うちなげきたまふ。 |
06 | 1.5.24 | 135 | 123 |
「いくそたび君がしじまにまけぬらむ<BR/>ものな言ひそと言はぬ頼みに |
"〔いくそたびきみがしじまにまけぬらん<BR/>ものないひそといはぬたのみに |
06 | 1.5.25 | 136 | 124 |
のたまひも捨ててよかし。玉だすき苦し」 |
のたまひもすててよかし。たまだすきくるし。" |
06 | 1.5.26 | 137 | 125 |
とのたまふ。女君の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、「いと心もとなう、かたはらいたし」と思ひて、さし寄りて、聞こゆ。 |
とのたまふ。をんなぎみのおほんめのとご、じじゅうとて、はやりかなるわかうど、"いとこころもとなう、かたはらいたし。"とおもひて、さしよりて、きこゆ。 |
06 | 1.5.27 | 138 | 126 |
「鐘つきてとぢめむことはさすがにて<BR/>答へまうきぞかつはあやなき」 |
"〔かねつきてとぢめんことはさすがにて<BR/>こたへまうきぞかつはあやなき〕 |
06 | 1.5.28 | 139 | 127 |
いと若びたる声の、ことに重りかならぬを、人伝てにはあらぬやうに聞こえなせば、「ほどよりはあまえて」と聞きたまへど、 |
いとわかびたるこゑの、ことにおもりかならぬを、ひとづてにはあらぬやうにきこえなせば、"ほどよりはあまえて"とききたまへど、 |
06 | 1.5.29 | 140 | 128 |
「めづらしきが、なかなか口ふたがるわざかな |
"めづらしきが、なかなかくちふたがるわざかな |
06 | 1.5.30 | 141 | 129 |
言はぬをも言ふにまさると知りながら<BR/>おしこめたるは苦しかりけり」 |
いはぬをもいふにまさるとしりながら<BR/>おしこめたるはくるしかりけり〕 |
06 | 1.5.31 | 142 | 130 |
何やかやと、はかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、何のかひなし。 |
なにやかやと、はかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、なにのかひなし。 |
06 | 1.5.32 | 143 | 131 |
「いとかかるも、さまかはり、思ふ方ことにものしたまふ人にや」と、ねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。 |
"いとかかるも、さまかはり、おもふかたことにものしたまふひとにや。"と、ねたくて、やをらおしあけていりたまひにけり。 |
06 | 1.5.33 | 144 | 132 |
命婦、「あな、うたて。たゆめたまへる」と、いとほしければ、知らず顔にて、わが方へ往にけり。この若人ども、はた、世にたぐひなき御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえて、おどろおどろしうも嘆かれず、ただ、思ひもよらずにはかにて、さる御心もなきをぞ、思ひける。 |
みゃうぶ、"あな、うたて。たゆめたまへる。"と、いとほしければ、しらずがほにて、わがかたへいにけり。このわかうどども、はた、よにたぐひなきおほんありさまのおとぎきに、つみゆるしきこえて、おどろおどろしうもなげかれず、ただ、おもひもよらずにはかにて、さるみこころもなきをぞ、おもひける。 |
06 | 1.5.34 | 145 | 133 |
正身は、ただ我にもあらず、恥づかしくつつましきよりほかのことまたなければ、「今はかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人、うちかしづかれたる」と、見ゆるしたまふものから、心得ず、なまいとほしとおぼゆる御さまなり。何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。 |
さうじみは、ただわれにもあらず、はづかしくつつましきよりほかのことまたなければ、"いまはかかるぞあはれなるかし、まだよなれぬひと、うちかしづかれたる。"と、みゆるしたまふものから、こころえず、なまいとほしとおぼゆるおほんさまなり。なにごとにつけてかはみこころのとまらん、うちうめかれて、よぶかういでたまひぬ。 |
06 | 1.5.35 | 146 | 134 |
命婦は、「いかならむ」と、目覚めて、聞き臥せりけれど、「知り顔ならじ」とて、「御送りに」とも、声づくらず。君も、やをら忍びて出でたまひにけり。 |
みゃうぶは、"いかならん。"と、めさめて、ききふせりけれど、"しりがほならじ"とて、"おほんおくりに"とも、こわづくらず。きみも、やをらしのびていでたまひにけり。 |
06 | 1.6 | 147 | 135 | 第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる |
06 | 1.6.1 | 148 | 136 |
二条院におはして、うち臥したまひても、「なほ思ふにかなひがたき世にこそ」と、思しつづけて、軽らかならぬ人の御ほどを、心苦しとぞ思しける。思ひ乱れておはするに、頭中将おはして、 |
にでうのゐんにおはして、うちふしたまひても、"なほおもふにかなひがたきよにこそ。"と、おぼしつづけて、かるらかならぬひとのおほんほどを、こころぐるしとぞおぼしける。おもひみだれておはするに、とうのちゅうじゃうおはして、 |
06 | 1.6.2 | 149 | 137 |
「こよなき御朝寝かな。ゆゑあらむかしとこそ、思ひたまへらるれ」 |
"こよなきおほんあさいかな。ゆゑあらんかしとこそ、おもひたまへらるれ。" |
06 | 1.6.3 | 150 | 138 |
と言へば、起き上がりたまひて、 |
といへば、おきあがりたまひて、 |
06 | 1.6.4 | 151 | 139 |
「心やすき独り寝の床にて、ゆるびにけりや。内裏よりか」 |
"こころやすきひとりねのとこにて、ゆるびにけりや。うちよりか。" |
06 | 1.6.5 | 152 | 140 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
06 | 1.6.6 | 153 | 141 |
「しか。まかではべるままなり。朱雀院の行幸、今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣にも伝へ申さむとてなむ、まかではべる。やがて帰り参りぬべうはべり」 |
"しか。まかではべるままなり。すざくゐんのぎゃうがう、けふなん、がくにん、まひびとさだめらるべきよし、よべうけたまはりしを、おとどにもつたへまうさんとてなん、まかではべる。やがてかへりまゐりぬべうはべり。" |
06 | 1.6.7 | 154 | 142 |
と、いそがしげなれば、 |
と、いそがしげなれば、 |
06 | 1.6.8 | 155 | 143 |
「さらば、もろともに」 |
"さらば、もろともに。" |
06 | 1.6.9 | 156 | 144 |
とて、御粥、強飯召して、客人にも参りたまひて、引き続けたれど、一つにたてまつりて、 |
とて、おほんかゆ、こはいひめして、まらうとにもまゐりたまひて、ひきつづけたれど、ひとつにたてまつりて、 |
06 | 1.6.10 | 157 | 145 |
「なほ、いとねぶたげなり」 |
"なほ、いとねぶたげなり。" |
06 | 1.6.11 | 158 | 146 |
と、とがめ出でつつ、 |
と、とがめいでつつ、 |
06 | 1.6.12 | 159 | 147 |
「隠いたまふこと多かり」 |
"かくいたまふことおほかり。" |
06 | 1.6.13 | 160 | 148 |
とぞ、恨みきこえたまふ。 |
とぞ、うらみきこえたまふ。 |
06 | 1.6.14 | 161 | 149 |
事ども多く定めらるる日にて、内裏にさぶらひ暮らしたまひつ。 |
ことどもおほくさだめらるるひにて、うちにさぶらひくらしたまひつ。 |
06 | 1.6.15 | 162 | 150 |
かしこには、文をだにと、いとほしく思し出でて、夕つ方ぞありける。雨降り出でて、ところせくもあるに、笠宿りせむと、はた、思されずやありけむ。かしこには、待つほど過ぎて、命婦も、「いといとほしき御さまかな」と、心憂く思ひけり。正身は、御心のうちに恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、咎とも思ひわきたまはざりけり。 |
かしこには、ふみをだにと、いとほしくおぼしいでて、ゆふつかたぞありける。あめふりいでて、ところせくもあるに、かさやどりせんと、はた、おぼされずやありけん。かしこには、まつほどすぎて、みゃうぶも、"いといとほしきおほんさまかな。"と、こころうくおもひけり。さうじみは、みこころのうちにはづかしうおもひたまひて、けさのおほんふみのくれぬれど、なかなか、とがともおもひわきたまはざりけり。 |
06 | 1.6.16 | 163 | 151 |
「夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬに<BR/>いぶせさそふる宵の雨かな |
"〔ゆふぎりのはるるけしきもまだみぬに<BR/>いぶせさそふるよひのあめかな |
06 | 1.6.17 | 164 | 152 |
雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」 |
くもままちいでんほど、いかにこころもとなう。" |
06 | 1.6.18 | 165 | 153 |
とあり。おはしますまじき御けしきを、人びと胸つぶれて思へど、 |
とあり。おはしますまじきみけしきを、ひとびとむねつぶれておもへど、 |
06 | 1.6.19 | 166 | 154 |
「なほ、聞こえさせたまへ」 |
"なほ、きこえさせたまへ。" |
06 | 1.6.20 | 167 | 155 |
と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたまへるほどにて、え型のやうにも続けたまはねば、「夜更けぬ」とて、侍従ぞ、例の教へきこゆる。 |
と、そそのかしあへれど、いとどおもひみだれたまへるほどにて、えかたのやうにもつづけたまはねば、"よふけぬ。"とて、じじゅうぞ、れいのをしへきこゆる。 |
06 | 1.6.21 | 168 | 156 |
「晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ<BR/>同じ心に眺めせずとも」 |
"〔はれぬよのつきまつさとをおもひやれ<BR/>おなじこころにながめせずとも〕 |
06 | 1.6.22 | 169 | 157 |
口々に責められて、紫の紙の、年経にければ灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下等しく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。 |
くちぐちにせめられて、むらさきのかみの、としへにければはひおくれふるめいたるに、てはさすがにもじつよう、なかさだのすぢにて、かみしもひとしくかいたまへり。みるかひなううちおきたまふ。 |
06 | 1.6.23 | 170 | 158 |
いかに思ふらむと思ひやるも、安からず。 |
いかにおもふらんとおもひやるも、やすからず。 |
06 | 1.6.24 | 171 | 159 |
「かかることを、悔しなどは言ふにやあらむ。さりとていかがはせむ。我は、さりとも、心長く見果ててむ」と、思しなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける。 |
"かかることを、くやしなどはいふにやあらん。さりとていかがはせん。われは、さりとも、こころながくみはててん。"と、おぼしなすみこころをしらねば、かしこにはいみじうぞなげいたまひける。 |
06 | 1.6.25 | 172 | 160 |
大臣、夜に入りてまかでたまふに、引かれたてまつりて、大殿におはしましぬ。行幸のことを興ありと思ほして、君たち集りて、のたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころのことにて過ぎゆく。 |
おとど、よるにいりてまかでたまふに、ひかれたてまつりて、おほいどのにおはしましぬ。ぎゃうがうのことをきょうありとおもほして、きみたちあつまりて、のたまひ、おのおのまひどもならひたまふを、そのころのことにてすぎゆく。 |
06 | 1.6.26 | 173 | 161 |
ものの音ども、常よりも耳かしかましくて、かたがたいどみつつ、例の御遊びならず、大篳篥、尺八の笛などの大声を吹き上げつつ、太鼓をさへ高欄のもとにまろばし寄せて、手づからうち鳴らし、遊びおはさうず。 |
もののねども、つねよりもみみかしかましくて、かたがたいどみつつ、れいのおほんあそびならず、おほひちりき、さくはちのふえなどのおほごゑをふきあげつつ、たいこをさへかうらんのもとにまろばしよせて、てづからうちならし、あそびおはさうず。 |
06 | 1.6.27 | 174 | 163 |
御いとまなきやうにて、せちに思す所ばかりにこそ、盗まはれたまへれ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、秋暮れ果てぬ。なほ頼み来しかひなくて過ぎゆく。 |
おほんいとまなきやうにて、せちにおぼすところばかりにこそ、ぬすまはれたまへれ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、あきくれはてぬ。なほたのみこしかひなくてすぎゆく。 |
06 | 1.7 | 175 | 164 | 第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問 |
06 | 1.7.1 | 176 | 165 |
行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる。 |
ぎゃうがうちかくなりて、しがくなどののしるころぞ、みゃうぶはまゐれる。 |
06 | 1.7.2 | 177 | 166 |
「いかにぞ」など、問ひたまひて、いとほしとは思したり。ありさま聞こえて、 |
"いかにぞ。"など、とひたまひて、いとほしとはおぼしたり。ありさまきこえて、 |
06 | 1.7.3 | 178 | 167 |
「いとかう、もて離れたる御心ばへは、見たまふる人さへ、心苦しく」 |
"いとかう、もてはなれたるみこころばへは、みたまふるひとさへ、こころぐるしく。" |
06 | 1.7.4 | 179 | 168 |
など、泣きぬばかり思へり。「心にくくもてなして止みなむと思へりしことを、くたいてける、心もなくこの人の思ふらむ」をさへ思す。正身の、ものは言はで、思しうづもれたまふらむさま、思ひやりたまふも、いとほしければ、 |
など、なきぬばかりおもへり。"こころにくくもてなしてやみなんとおもへりしことを、くたいてける、こころもなくこのひとのおもふらん。"をさへおぼす。さうじみの、ものはいはで、おぼしうづもれたまふらんさま、おもひやりたまふも、いとほしければ、 |
06 | 1.7.5 | 180 | 169 |
「いとまなきほどぞや。わりなし」と、うち嘆いたまひて、「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」 |
"いとまなきほどぞや。わりなし。"と、うちなげいたまひて、"ものおもひしらぬやうなるこころざまを、こらさんとおもふぞかし。" |
06 | 1.7.6 | 181 | 170 |
と、ほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もうち笑まるる心地して、「わりなの、人に恨みられたまふ御齢や。思ひやり少なう、御心のままならむも、ことわり」と思ふ。 |
と、ほほゑみたまへる、わかううつくしげなれば、われもうちゑまるるここちして、"わりなの、ひとにうらみられたまふおほんよはひや。おもひやりすくなう、みこころのままならんも、ことわり。"とおもふ。 |
06 | 1.7.7 | 182 | 171 |
この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。 |
このおほんいそぎのほどすぐしてぞ、ときどきおはしける。 |
06 | 1.7.8 | 183 | 172 |
かの紫のゆかり、尋ねとりたまひて、そのうつくしみに心入りたまひて、六条わたりにだに、離れまさりたまふめれば、まして荒れたる宿は、あはれに思しおこたらずながら、もの憂きぞ、わりなかりけると、ところせき御もの恥ぢを見あらはさむの御心も、ことになうて過ぎゆくを、またうちかへし、「見まさりするやうもありかし。手さぐりのたどたどしきに、あやしう、心得ぬこともあるにや。見てしがな」と思ほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし。うちとけたる宵居のほど、やをら入りたまひて、格子のはさまより見たまひけり。 |
かのむらさきのゆかり、たづねとりたまひて、そのうつくしみにこころいりたまひて、ろくでうわたりにだに、かれまさりたまふめれば、ましてあれたるやどは、あはれにおぼしおこたらずながら、ものうきぞ、わりなかりけると、ところせきおほんものはぢをみあらはさんのみこころも、ことになうてすぎゆくを、またうちかへし、"みまさりするやうもありかし。てさぐりのたどたどしきに、あやしう、こころえぬこともあるにや。みてしがな。"とおもほせど、けざやかにとりなさんもまばゆし。うちとけたるよひゐのほど、やをらいりたまひて、かうしのはさまよりみたまひけり。 |
06 | 1.7.9 | 184 | 173 |
されど、みづからは見えたまふべくもあらず。几帳など、いたく損なはれたるものから、年経にける立ちど変はらず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて、御達四、五人ゐたり。御台、秘色やうの唐土のものなれど、人悪ろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、まかでて人びと食ふ。 |
されど、みづからはみえたまふべくもあらず。きちゃうなど、いたくそこなはれたるものから、としへにけるたちどかはらず、おしやりなどみだれねば、こころもとなくて、ごたちし、ごにんゐたり。みだい、ひそくやうのもろこしのものなれど、ひとわろきに、なにのくさはひもなくあはれげなる、まかでてひとびとくふ。 |
06 | 1.7.10 | 185 | 174 |
隅の間ばかりにぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなる褶引き結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おし垂れて挿したる額つき、内教坊、内侍所のほどに、かかる者どもあるはやと、をかし。かけても、人のあたりに近うふるまふ者とも知りたまはざりけり。 |
すみのまばかりにぞ、いとさむげなるをんなばら、しろききぬのいひしらずすすけたるに、きたなげなるしびらひきゆひつけたるこしつき、かたくなしげなり。さすがにくしおしたれてさしたるひたひつき、ないけうばう、ないしどころのほどに、かかるものどもあるはやと、をかし。かけても、ひとのあたりにちかうふるまふものともしりたまはざりけり。 |
06 | 1.7.11 | 186 | 175 |
「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にもあふものなりけり」 |
"あはれ。さもさむきとしかな。いのちながければ、かかるよにもあふものなりけり。" |
06 | 1.7.12 | 187 | 176 |
とて、うち泣くもあり。 |
とて、うちなくもあり。 |
06 | 1.7.13 | 188 | 177 |
「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」 |
"こみやおはしまししよを、などてからしとおもひけん。かくたのみなくてもすぐるものなりけり。" |
06 | 1.7.14 | 189 | 178 |
とて、飛び立ちぬべくふるふもあり。 |
とて、とびたちぬべくふるふもあり。 |
06 | 1.7.15 | 190 | 179 |
さまざまに人悪ろきことどもを、愁へあへるを聞きたまふも、かたはらいたければ、たちのきて、ただ今おはするやうにて、うちたたきたまふ。 |
さまざまにひとわろきことどもを、うれへあへるをききたまふも、かたはらいたければ、たちのきて、ただいまおはするやうにて、うちたたきたまふ。 |
06 | 1.7.16 | 191 | 180 |
「そそや」など言ひて、火とり直し、格子放ちて入れたてまつる。 |
"そそや。"などいひて、ひとりなほし、かうしはなちていれたてまつる。 |
06 | 1.7.17 | 192 | 181 |
侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。いよいよあやしうひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。 |
じじゅうは、さいゐんにまゐりかよふわかうどにて、このごろはなかりけり。いよいよあやしうひなびたるかぎりにて、みならはぬここちぞする。 |
06 | 1.7.18 | 193 | 182 |
いとど、愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空の気色はげしう、風吹き荒れて、大殿油消えにけるを、ともしつくる人もなし。かの、ものに襲はれし折思し出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人気のすこしあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。 |
いとど、うれふなりつるゆき、かきたれいみじうふりけり。そらのけしきはげしう、かぜふきあれて、おほとなぶらきえにけるを、ともしつくるひともなし。かの、ものにおそはれしをりおぼしいでられて、あれたるさまはおとらざめるを、ほどのせばう、ひとけのすこしあるなどになぐさめたれど、すごう、うたていざときここちするよるのさまなり。 |
06 | 1.7.19 | 194 | 183 |
をかしうもあはれにも、やうかへて、心とまりぬべきありさまを、いと埋れすくよかにて、何の栄えなきをぞ、口惜しう思す。 |
をかしうもあはれにも、やうかへて、こころとまりぬべきありさまを、いとうもれすくよかにて、なにのはえなきをぞ、くちをしうおぼす。 |
06 | 1.8 | 195 | 184 | 第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る |
06 | 1.8.1 | 196 | 185 |
からうして明けぬるけしきなれば、格子手づから上げたまひて、前の前栽の雪を見たまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじう寂しげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、 |
からうしてあけぬるけしきなれば、かうしてづからあげたまひて、まへのせんさいのゆきをみたまふ。ふみあけたるあともなく、はるばるとあれわたりて、いみじうさびしげなるに、ふりいでてゆかんこともあはれにて、 |
06 | 1.8.2 | 197 | 186 |
「をかしきほどの空も見たまへ。尽きせぬ御心の隔てこそ、わりなけれ」 |
"をかしきほどのそらもみたまへ。つきせぬみこころのへだてこそ、わりなけれ。" |
06 | 1.8.3 | 198 | 187 |
と、恨みきこえたまふ。まだほの暗けれど、雪の光にいとどきよらに若う見えたまふを、老い人ども笑みさかえて見たてまつる。 |
と、うらみきこえたまふ。まだほのくらけれど、ゆきのひかりにいとどきよらにわかうみえたまふを、おいびとどもゑみさかえてみたてまつる。 |
06 | 1.8.4 | 199 | 188 |
「はや出でさせたまへ。あぢきなし。心うつくしきこそ」 |
"はやいでさせたまへ。あぢきなし。こころうつくしきこそ。" |
06 | 1.8.5 | 200 | 189 |
など教へきこゆれば、さすがに、人の聞こゆることをえいなびたまはぬ御心にて、とかう引きつくろひて、ゐざり出でたまへり。 |
などをしへきこゆれば、さすがに、ひとのきこゆることをえいなびたまはぬみこころにて、とかうひきつくろひて、ゐざりいでたまへり。 |
06 | 1.8.6 | 201 | 190 |
見ぬやうにて、外の方を眺めたまへれど、後目はただならず。「いかにぞ、うちとけまさりの、いささかもあらばうれしからむ」と思すも、あながちなる御心なりや。 |
みぬやうにて、とのかたをながめたまへれど、しりめはただならず。"いかにぞ、うちとけまさりの、いささかもあらばうれしからん。"とおぼすも、あながちなるみこころなりや。 |
06 | 1.8.7 | 202 | 191 |
まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪恥づかしく白うて真青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ。「何に残りなう見あらはしつらむ」と思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがに、うち見やられたまふ。 |
まづ、ゐだけのたかく、をせながにみえたまふに、"さればよ。"と、むねつぶれぬ。うちつぎて、あなかたはとみゆるものは、はななりけり。ふとめぞとまる。ふげんぼさつののりものとおぼゆ。あさましうたかうのびらかに、さきのかたすこしたりていろづきたること、ことのほかにうたてあり。いろはゆきはづかしくしろうてさあをに、ひたひつきこよなうはれたるに、なほしもがちなるおもやうは、おほかたおどろおどろしうながきなるべし。やせたまへること、いとほしげにさらぼひて、かたのほどなどは、いたげなるまできぬのうへまでみゆ。"なににのこりなうみあらはしつらん。"とおもふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがに、うちみやられたまふ。 |
06 | 1.8.8 | 203 | 192 |
頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人びとにも、をさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかりあまりたらむと見ゆ。着たまへるものどもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも、人の御装束をこそまづ言ひためれ。 |
かしらつき、かみのかかりはしも、うつくしげにめでたしとおもひきこゆるひとびとにも、をさをさおとるまじう、うちきのすそにたまりてひかれたるほど、いちさくばかりあまりたらんとみゆ。きたまへるものどもをさへいひたつるも、ものいひさがなきやうなれど、むかしものがたりにも、ひとのおほんさうぞくをこそまづいひためれ。 |
06 | 1.8.9 | 204 | 193 |
聴し色のわりなう上白みたる一襲、なごりなう黒き袿重ねて、表着には黒貂の皮衣、いときよらに香ばしきを着たまへり。古代のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やかなる女の御よそひには、似げなうおどろおどろしきこと、いともてはやされたり。されど、げに、この皮なうて、はた、寒からましと見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見たまふ。 |
ゆるしいろのわりなううはじらみたるひとかさね、なごりなうくろきうちきかさねて、うはぎにはふるきのかはぎぬ、いときよらにかうばしきをきたまへり。こたいのゆゑづきたるおほんさうぞくなれど、なほわかやかなるをんなのおほんよそひには、にげなうおどろおどろしきこと、いともてはやされたり。されど、げに、このかはなうて、はた、さむからましとみゆるおほんかほざまなるを、こころぐるしとみたまふ。 |
06 | 1.8.10 | 205 | 194 |
何ごとも言はれたまはず、我さへ口閉ぢたる心地したまへど、例のしじまも心みむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢらひて、口おほひしたまへるさへ、ひなび古めかしう、ことことしく、儀式官の練り出でたる臂もちおぼえて、さすがにうち笑みたまへるけしき、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。 |
なにごともいはれたまはず、われさへくちとぢたるここちしたまへど、れいのしじまもこころみんと、とかうきこえたまふに、いたうはぢらひて、くちおほひしたまへるさへ、ひなびふるめかしう、ことことしく、ぎしきかんのねりいでたるひぢもちおぼえて、さすがにうちゑみたまへるけしき、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとどいそぎいでたまふ。 |
06 | 1.8.11 | 206 | 195 |
「頼もしき人なき御ありさまを、見そめたる人には、疎からず思ひむつびたまはむこそ、本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御けしきなれば、つらう」など、ことつけて、 |
"たのもしきひとなきおほんありさまを、みそめたるひとには、うとからずおもひむつびたまはんこそ、ほいあるここちすべけれ。ゆるしなきみけしきなれば、つらう。"など、ことつけて、 |
06 | 1.8.12 | 207 | 196 |
「朝日さす軒の垂氷は解けながら<BR/>などかつららの結ぼほるらむ」 |
"〔あさひさすのきのたるひはとけながら<BR/>などかつららのむすぼほるらん〕 |
06 | 1.8.13 | 208 | 197 |
とのたまへど、ただ「むむ」とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ、出でたまひぬ。 |
とのたまへど、ただ"むむ。"とうちわらひて、いとくちおもげなるもいとほしければ、いでたまひぬ。 |
06 | 1.8.14 | 209 | 198 |
御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらもよろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地して、ものあはれなるを、「かの人びとの言ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし。げに、心苦しくらうたげならむ人をここに据ゑて、うしろめたう恋しと思はばや。あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかし」と、「思ふやうなる住みかに合はぬ御ありさまは、取るべきかたなし」と思ひながら、「我ならぬ人は、まして見忍びてむや。わがかうて見馴れけるは、故親王のうしろめたしとたぐへ置きたまひけむ魂のしるべなめり」とぞ思さるる。 |
みくるまよせたるちゅうもんの、いといたうゆがみよろぼひて、よめにこそ、しるきながらもよろづかくろへたることおほかりけれ、いとあはれにさびしくあれまどへるに、まつのゆきのみあたたかげにふりつめる、やまざとのここちして、ものあはれなるを、"かのひとびとのいひしむぐらのかどは、かうやうなるところなりけんかし。げに、こころぐるしくらうたげならんひとをここにすゑて、うしろめたうこひしとおもはばや。あるまじきものおもひは、それにまぎれなんかし。"と、"おもふやうなるすみかにあはぬおほんありさまは、とるべきかたなし。"とおもひながら、"われならぬひとは、ましてみしのびてんや。わがかうてみなれけるは、こみこのうしろめたしとたぐへおきたまひけんたましひのしるべなめり。"とぞおぼさるる。 |
06 | 1.8.15 | 210 | 199 |
橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も、「名に立つ末の」と見ゆるなどを、「いと深からずとも、なだらかなるほどにあひしらはむ人もがな」と見たまふ。 |
たちばなのきのうづもれたる、みずいじんめしてはらはせたまふ。うらやみがほに、まつのきのおのれおきかへりて、さとこぼるるゆきも、"なにたつすゑの"とみゆるなどを、"いとふかからずとも、なだらかなるほどにあひしらはんひともがな。"とみたまふ。 |
06 | 1.8.16 | 211 | 201 |
御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預かり尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。娘にや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へるけしき、深うて、あやしきものに火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。御供の人、寄りてぞ開けつる。 |
みくるまいづべきかどは、まだあけざりければ、かぎのあづかりたづねいでたれば、おきなのいといみじきぞいできたる。むすめにや、むまごにや、はしたなるおほきさのをんなの、きぬはゆきにあひてすすけまどひ、さむしとおもへるけしき、ふかうて、あやしきものにひをただほのかにいれてそでぐくみにもたり。おきな、かどをえあけやらねば、よりてひきたすくる、いとかたくななり。おほんとものひと、よりてぞあけつる。 |
06 | 1.8.17 | 212 | 202 |
「降りにける頭の雪を見る人も<BR/>劣らず濡らす朝の袖かな |
"〔ふりにけるかしらのゆきをみるひとも<BR/>おとらずぬらすあさのそでかな |
06 | 1.8.18 | 213 | 203 |
『幼き者は形蔽れず』」 |
'わかきものはかたちかくれず'" |
06 | 1.8.19 | 214 | 204 |
とうち誦じたまひても、鼻の色に出でて、いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられて、ほほ笑まれたまふ。「頭中将に、これを見せたらむ時、いかなることをよそへ言はむ、常にうかがひ来れば、今見つけられなむ」と、術なう思す。 |
とうちじゅじたまひても、はなのいろにいでて、いとさむしとみえつるおほんおもかげ、ふとおもひいでられて、ほほゑまれたまふ。"とうのちゅうじゃうに、これをみせたらんとき、いかなることをよそへいはん、つねにうかがひくれば、いまみつけられなん。"と、すべなうおぼす。 |
06 | 1.8.20 | 215 | 205 |
世の常なるほどの、異なることなさならば、思ひ捨てても止みぬべきを、さだかに見たまひて後は、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなるさまに、常に訪れたまふ。 |
よのつねなるほどの、ことなることなさならば、おもひすててもやみぬべきを、さだかにみたまひてのちは、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなるさまに、つねにおとづれたまふ。 |
06 | 1.8.21 | 216 | 206 |
黒貂の皮ならぬ、絹、綾、綿など、老い人どもの着るべきもののたぐひ、かの翁のためまで、上下思しやりてたてまつりたまふ。かやうのまめやかごとも恥づかしげならぬを、心やすく、「さる方の後見にて育まむ」と思ほしとりて、さまことに、さならぬうちとけわざもしたまひけり。 |
ふるきのかはならぬ、きぬ、あや、わたなど、おいびとどものきるべきもののたぐひ、かのおきなのためまで、かみしもおぼしやりてたてまつりたまふ。かやうのまめやかごともはづかしげならぬを、こころやすく、"さるかたのうしろみにてはぐくまん。"とおもほしとりて、さまことに、さならぬうちとけわざもしたまひけり。 |
06 | 1.8.22 | 217 | 207 |
「かの空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、いと悪ろかりし容貌ざまなれど、もてなしに隠されて、口惜しうはあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは。げに品にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかに、ねたげなりしを、負けて止みにしかな」と、ものの折ごとには思し出づ。 |
"かのうつせみの、うちとけたりしよひのそばめには、いとわろかりしかたちざまなれど、もてなしにかくされて、くちをしうはあらざりきかし。おとるべきほどのひとなりやは。げにしなにもよらぬわざなりけり。こころばせのなだらかに、ねたげなりしを、まけてやみにしかな。"と、もののをりごとにはおぼしいづ。 |
06 | 1.9 | 218 | 208 | 第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる |
06 | 1.9.1 | 219 | 209 |
年も暮れぬ。内裏の宿直所におはしますに、大輔の命婦参れり。御梳櫛などには、懸想だつ筋なく、心やすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、使ひならしたまへれば、召しなき時も、聞こゆべき事ある折は、参う上りけり。 |
としもくれぬ。うちのとのゐどころにおはしますに、たいふのみゃうぶまゐれり。みけづりぐしなどには、けさうだつすぢなく、こころやすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、つかひならしたまへれば、めしなきときも、きこゆべきことあるをりは、まうのぼりけり。 |
06 | 1.9.2 | 220 | 210 |
「あやしきことのはべるを、聞こえさせざらむもひがひがしう、思ひたまへわづらひて」 |
"あやしきことのはべるを、きこえさせざらんもひがひがしう、おもひたまへわづらひて。" |
06 | 1.9.3 | 221 | 211 |
と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、 |
と、ほほゑみてきこえやらぬを、 |
06 | 1.9.4 | 222 | 212 |
「何ざまのことぞ。我にはつつむことあらじと、なむ思ふ」とのたまへば、 |
"なにざまのことぞ。われにはつつむことあらじと、なんおもふ。"とのたまへば、 |
06 | 1.9.5 | 223 | 213 |
「いかがは。みづからの愁へは、かしこくとも、まづこそは。これは、いと聞こえさせにくくなむ」 |
"いかがは。みづからのうれへは、かしこくとも、まづこそは。これは、いときこえさせにくくなん。" |
06 | 1.9.6 | 224 | 214 |
と、いたう言籠めたれば、 |
と、いたうことこめたれば、 |
06 | 1.9.7 | 225 | 215 |
「例の、艶なる」と憎みたまふ。 |
"れいの、えんなる。"とにくみたまふ。 |
06 | 1.9.8 | 226 | 216 |
「かの宮よりはべる御文」とて、取り出でたり。 |
"かのみやよりはべるおほんふみ。"とて、とりいでたり。 |
06 | 1.9.9 | 227 | 217 |
「まして、これは取り隠すべきことかは」 |
"まして、これはとりかくすべきことかは。" |
06 | 1.9.10 | 228 | 218 |
とて、取りたまふも、胸つぶる。 |
とて、とりたまふも、むねつぶる。 |
06 | 1.9.11 | 229 | 219 |
陸奥紙の厚肥えたるに、匂ひばかりは深うしめたまへり。いとよう書きおほせたり。歌も、 |
みちのくにがみのあつごえたるに、にほひばかりはふかうしめたまへり。いとようかきおほせたり。うたも、 |
06 | 1.9.12 | 230 | 220 |
「唐衣君が心のつらければ<BR/>袂はかくぞそぼちつつのみ」 |
"〔からころもきみがこころのつらければ<BR/>たもとはかくぞそぼちつつのみ〕 |
06 | 1.9.13 | 231 | 221 |
心得ずうちかたぶきたまへるに、包みに、衣筥の重りかに古代なるうち置きて、おし出でたり。 |
こころえずうちかたぶきたまへるに、つつみに、ころもばこのおもりかにこたいなるうちおきて、おしいでたり。 |
06 | 1.9.14 | 232 | 222 |
「これを、いかでかは、かたはらいたく思ひたまへざらむ。されど、朔日の御よそひとて、わざとはべるめるを、はしたなうはえ返しはべらず。ひとり引き籠めはべらむも、人の御心違ひはべるべければ、御覧ぜさせてこそは」と聞こゆれば、 |
"これを、いかでかは、かたはらいたくおもひたまへざらん。されど、ついたちのおほんよそひとて、わざとはべるめるを、はしたなうはえかへしはべらず。ひとりひきこめはべらんも、ひとのみこころたがひはべるべければ、ごらんぜさせてこそは。"ときこゆれば、 |
06 | 1.9.15 | 233 | 223 |
「引き籠められなむは、からかりなまし。袖まきほさむ人もなき身にいとうれしき心ざしにこそは」 |
"ひきこめられなんは、からかりなまし。そでまきほさんひともなきみにいとうれしきこころざしにこそは。" |
06 | 1.9.16 | 234 | 224 |
とのたまひて、ことにもの言はれたまはず。「さても、あさましの口つきや。これこそは手づからの御ことの限りなめれ。侍従こそとり直すべかめれ。また、筆のしりとる博士ぞなかべき」と、言ふかひなく思す。心を尽くして詠み出でたまひつらむほどを思すに、 |
とのたまひて、ことにものいはれたまはず。"さても、あさましのくちつきや。これこそはてづからのおほんことのかぎりなめれ。じじゅうこそとりなほすべかめれ。また、ふでのしりとるはかせぞなかべき。"と、いふかひなくおぼす。こころをつくしてよみいでたまひつらんほどをおぼすに、 |
06 | 1.9.17 | 235 | 225 |
「いともかしこき方とは、これをも言ふべかりけり」 |
"いともかしこきかたとは、これをもいふべかりけり。" |
06 | 1.9.18 | 236 | 226 |
と、ほほ笑みて見たまふを、命婦、面赤みて見たてまつる。 |
と、ほほゑみてみたまふを、みゃうぶ、おもてあかみてみたてまつる。 |
06 | 1.9.19 | 237 | 227 |
今様色の、えゆるすまじく艶なう古めきたる直衣の、裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞ見えたる。「あさまし」と思すに、この文をひろげながら、端に手習ひすさびたまふを、側目に見れば、 |
いまやういろの、えゆるすまじくつやなうふるめきたるなほしの、うらうへひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞみえたる。"あさまし"とおぼすに、このふみをひろげながら、はしにてならひすさびたまふを、そばめにみれば、 |
06 | 1.9.20 | 238 | 229 |
「なつかしき色ともなしに何にこの<BR/>すゑつむ花を袖に触れけむ |
"〔なつかしきいろともなしになににこの<BR/>すゑつむはなをそでにふれけん |
06 | 1.9.21 | 239 | 230 |
色濃き花と見しかども」 |
いろこきはなとみしかども。" |
06 | 1.9.22 | 240 | 231 |
など、書きけがしたまふ。花のとがめを、なほあるやうあらむと、思ひ合はする折々の、月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ。 |
など、かきけがしたまふ。はなのとがめを、なほあるやうあらんと、おもひあはするをりをりの、つきかげなどを、いとほしきものから、をかしうおもひなりぬ。 |
06 | 1.9.23 | 241 | 232 |
「紅のひと花衣うすくとも<BR/>ひたすら朽す名をし立てずは |
"〔くれなゐのひとはなごろもうすくとも<BR/>ひたすらくたすなをしたてずは |
06 | 1.9.24 | 242 | 233 |
心苦しの世や」 |
こころぐるしのよや。" |
06 | 1.9.25 | 243 | 234 |
と、いといたう馴れてひとりごつを、よきにはあらねど、「かうやうのかいなでにだにあらましかば」と、返す返す口惜し。人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさすがなり。人びと参れば、 |
と、いといたうなれてひとりごつを、よきにはあらねど、"かうやうのかいなでにだにあらましかば。"と、かへすがへすくちをし。ひとのほどのこころぐるしきに、なのくちなんはさすがなり。ひとびとまゐれば、 |
06 | 1.9.26 | 244 | 235 |
「取り隠さむや。かかるわざは人のするものにやあらむ」 |
"とりかくさんや。かかるわざはひとのするものにやあらん。" |
06 | 1.9.27 | 245 | 236 |
と、うちうめきたまふ。「何に御覧ぜさせつらむ。我さへ心なきやうに」と、いと恥づかしくて、やをら下りぬ。 |
と、うちうめきたまふ。"なににごらんぜさせつらん。われさへこころなきやうに。"と、いとはづかしくて、やをらおりぬ。 |
06 | 1.9.28 | 246 | 237 |
またの日、上にさぶらへば、台盤所にさしのぞきたまひて、 |
またのひ、うへにさぶらへば、だいばんどころにさしのぞきたまひて、 |
06 | 1.9.29 | 247 | 238 |
「くはや。昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」 |
"くはや。きのふのかへりごと。あやしくこころばみすぐさるる。" |
06 | 1.9.30 | 248 | 239 |
とて、投げたまへり。女房たち、何ごとならむと、ゆかしがる。 |
とて、なげたまへり。にょうばうたち、なにごとならんと、ゆかしがる。 |
06 | 1.9.31 | 249 | 240 |
「ただ梅の花の色のごと、三笠の山のをとめをば捨てて」 |
"ただむめのはなのいろのごと、みかさのやまのをとめをばすてて。" |
06 | 1.9.32 | 250 | 241 |
と、歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦は「いとをかし」と思ふ。心知らぬ人びとは、 |
と、うたひすさびていでたまひぬるを、みゃうぶは"いとをかし"とおもふ。こころしらぬひとびとは、 |
06 | 1.9.33 | 251 | 242 |
「なぞ、御ひとりゑみは」と、とがめあへり。 |
"なぞ。おほんひとりゑみは。"と、とがめあへり。 |
06 | 1.9.34 | 252 | 243 |
「あらず。寒き霜朝に、掻練好める花の色あひや見えつらむ。御つづしり歌のいとほしき」と言へば、 |
"あらず。さむきしもあさに、かいねりこのめるはなのいろあひやみえつらん。おほんつづしりうたのいとほしき。"といへば、 |
06 | 1.9.35 | 253 | 244 |
「あながちなる御ことかな。このなかには、にほへる鼻もなかめり」 |
"あながちなるおほんことかな。このなかには、にほへるはなもなかめり。" |
06 | 1.9.36 | 254 | 245 |
「左近の命婦、肥後の采女や混じらひつらむ」 |
"さこんのみゃうぶ、ひごのうねべやまじらひつらん。" |
06 | 1.9.37 | 255 | 246 |
など、心も得ず言ひしろふ。 |
など、こころもえずいひしろふ。 |
06 | 1.9.38 | 256 | 247 |
御返りたてまつりたれば、宮には、女房つどひて、見めでけり。 |
おほんかへりたてまつりたれば、みやには、にょうばうつどひて、みめでけり。 |
06 | 1.9.39 | 257 | 248 |
「逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に<BR/>重ねていとど見もし見よとや」 |
"〔あはぬよをへだつるなかのころもでに<BR/>かさねていとどみもしみよとや〕 |
06 | 1.9.40 | 258 | 249 |
白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。 |
しろきかみに、すてかいたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。 |
06 | 1.9.41 | 259 | 250 |
晦日の日、夕つ方、かの御衣筥に、「御料」とて、人のたてまつれる御衣一領、葡萄染の織物の御衣、また山吹か何ぞ、いろいろ見えて、命婦ぞたてまつりたる。「ありし色あひを悪ろしとや見たまひけむ」と思ひ知らるれど、「かれはた、紅の重々しかりしをや。さりとも消えじ」と、ねび人どもは定むる。 |
つごもりのひ、ゆふつかた、かのおほんころもばこに、"ごれう"とて、ひとのたてまつれるおほんぞひとくだり、えびぞめのおりもののおほんぞ、またやまぶきかなにぞ、いろいろみえて、みゃうぶぞたてまつりたる。"ありしいろあひをわろしとやみたまひけん。"とおもひしらるれど、"かれはた、くれなゐのおもおもしかりしをや。さりともきえじ。"と、ねびびとどもはさだむる。 |
06 | 1.9.42 | 260 | 251 |
「御歌も、これよりのは、道理聞こえて、したたかにこそあれ」 |
"おほんうたも、これよりのは、ことわりきこえて、したたかにこそあれ。" |
06 | 1.9.43 | 261 | 252 |
「御返りは、ただをかしき方にこそ」 |
"おほんかへりは、ただをかしきかたにこそ。" |
06 | 1.9.44 | 262 | 253 |
など、口々に言ふ。姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、ものに書きつけて置きたまへりけり。 |
など、くちぐちにいふ。ひめぎみも、おぼろけならでしいでたまひつるわざなれば、ものにかきつけておきたまへりけり。 |
06 | 1.10 | 263 | 254 | 第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる |
06 | 1.10.1 | 264 | 255 |
朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌あるべければ、例の、所々遊びののしりたまふに、もの騒がしけれど、寂しき所のあはれに思しやらるれば、七日の日の節会果てて、夜に入りて、御前よりまかでたまひけるを、御宿直所にやがてとまりたまひぬるやうにて、夜更かしておはしたり。 |
ついたちのほどすぎて、ことし、をとこだふかあるべければ、れいの、ところどころあそびののしりたまふに、ものさわがしけれど、さびしきところのあはれにおぼしやらるれば、なぬかのひのせちゑはてて、よるにいりて、ごぜんよりまかでたまひけるを、おほんとのゐどころにやがてとまりたまひぬるやうにて、よふかしておはしたり。 |
06 | 1.10.2 | 265 | 256 |
例のありさまよりは、けはひうちそよめき、世づいたり。君も、すこしたをやぎたまへるけしきもてつけたまへり。「いかにぞ、改めてひき変へたらむ時」とぞ、思しつづけらるる。 |
れいのありさまよりは、けはひうちそよめき、よづいたり。きみも、すこしたをやぎたまへるけしきもてつけたまへり。"いかにぞ。あらためてひきかへたらんとき。"とぞ、おぼしつづけらるる。 |
06 | 1.10.3 | 266 | 257 |
日さし出づるほどに、やすらひなして、出でたまふ。東の妻戸、おし開けたれば、向ひたる廊の、上もなくあばれたれば、日の脚、ほどなくさし入りて、雪すこし降りたる光に、いとけざやかに見入れらる。 |
ひさしいづるほどに、やすらひなして、いでたまふ。ひんがしのつまど、おしあけたれば、むかひたるらうの、うへもなくあばれたれば、ひのあし、ほどなくさしいりて、ゆきすこしふりたるひかりに、いとけざやかにみいれらる。 |
06 | 1.10.4 | 267 | 258 |
御直衣などたてまつるを見出だして、すこしさし出でて、かたはら臥したまへる頭つき、こぼれ出でたるほど、いとめでたし。「生ひなほりを見出でたらむ時」と思されて、格子引き上げたまへり。 |
おほんなほしなどたてまつるをみいだして、すこしさしいでて、かたはらふしたまへるかしらつき、こぼれいでたるほど、いとめでたし。"おひなほりをみいでたらんとき。"とおぼされて、かうしひきあげたまへり。 |
06 | 1.10.5 | 268 | 259 |
いとほしかりしもの懲りに、上げも果てたまはで、脇息をおし寄せて、うちかけて、御鬢ぐきのしどけなきをつくろひたまふ。わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛笥、掻上の筥など、取り出でたり。さすがに、男の御具さへほのぼのあるを、されてをかしと見たまふ。 |
いとほしかりしものごりに、あげもはてたまはで、けふそくをおしよせて、うちかけて、おほんびんぐきのしどけなきをつくろひたまふ。わりなうふるめきたるきゃうだいの、からくしげ、かかげのはこなど、とりいでたり。さすがに、をとこのおほんぐさへほのぼのあるを、されてをかしとみたまふ。 |
06 | 1.10.6 | 269 | 260 |
女の御装束、「今日は世づきたり」と見ゆるは、ありし筥の心葉を、さながらなりけり。さも思しよらず、興ある紋つきてしるき表着ばかりぞ、あやしと思しける。 |
をんなのおほんさうぞく、"けふはよづきたり。"とみゆるは、ありしはこのこころばを、さながらなりけり。さもおぼしよらず、きょうあるもんつきてしるきうはぎばかりぞ、あやしとおぼしける。 |
06 | 1.10.7 | 270 | 261 |
「今年だに、声すこし聞かせたまへかし。侍たるるものはさし置かれて、御けしきの改まらむなむゆかしき」とのたまへば、 |
"ことしだに、こゑすこしきかせたまへかし。またるるものはさしおかれて、みけしきのあらたまらんなんゆかしき。"とのたまへば、 |
06 | 1.10.8 | 271 | 262 |
「さへづる春は」 |
"さへづるはるは。" |
06 | 1.10.9 | 272 | 263 |
と、からうしてわななかし出でたり。 |
と、からうしてわななかしいでたり。 |
06 | 1.10.10 | 273 | 264 |
「さりや。年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひたまひて、「夢かとぞ見る」 |
"さりや。としへぬるしるしよ。"と、うちわらひたまひて、"ゆめかとぞみる。" |
06 | 1.10.11 | 274 | 265 |
と、うち誦じて出でたまふを、見送りて添ひ臥したまへり。口おほひの側目より、なほ、かの末摘花、いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやと思さる。 |
と、うちずじていでたまふを、みおくりてそひふしたまへり。くちおほひのそばめより、なほ、かのすゑつむはな、いとにほひやかにさしいでたり。みぐるしのわざやとおぼさる。 |
06 | 2 | 275 | 266 | 第二章 若紫の物語 |
06 | 2.1 | 276 | 267 | 第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる |
06 | 2.1.1 | 277 | 268 |
二条院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、「紅はかうなつかしきもありけり」と見ゆるに、無紋の桜の細長、なよらかに着なして、何心もなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。古代の祖母君の御なごりにて、歯黒めもまだしかりけるを、ひきつくろはせたまへれば、眉のけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり。「心から、などか、かう憂き世を見あつかふらむ。かく心苦しきものをも見てゐたらで」と、思しつつ、例の、もろともに雛遊びしたまふ。 |
にでうのゐんにおはしたれば、むらさきのきみ、いともうつくしきかたおひにて、"くれなゐはかうなつかしきもありけり。"とみゆるに、むもんのさくらのほそなが、なよらかにきなして、なにごころもなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。こたいのおばぎみのおほんなごりにて、はぐろめもまだしかりけるを、ひきつくろはせたまへれば、まゆのけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり。"こころから、などか、かううきよをみあつかふらん。かくこころぐるしきものをもみてゐたらで。"と、おぼしつつ、れいの、もろともにひひなあそびしたまふ。 |
06 | 2.1.2 | 278 | 269 |
絵など描きて、色どりたまふ。よろづにをかしうすさび散らしたまひけり。我も描き添へたまふ。髪いと長き女を描きたまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、画に描きても見ま憂きさましたり。わが御影の鏡台にうつれるが、いときよらなるを見たまひて、手づからこの赤鼻を描きつけ、にほはして見たまふに、かくよき顔だに、さてまじれらむは見苦しかるべかりけり。姫君、見て、いみじく笑ひたまふ。 |
ゑなどかきて、いろどりたまふ。よろづにをかしうすさびちらしたまひけり。われもかきそへたまふ。かみいとながきをんなをかきたまひて、はなにべにをつけてみたまふに、かたにかきてもみまうきさましたり。わがみかげのきゃうだいにうつれるが、いときよらなるをみたまひて、てづからこのあかははをかきつけ、にほはしてみたまふに、かくよきかほだに、さてまじれらんはみぐるしかるべかりけり。ひめぎみ、みて、いみじくわらひたまふ。 |
06 | 2.1.3 | 279 | 270 |
「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」とのたまへば、 |
"まろが、かくかたはになりなんとき、いかならん。"とのたまへば、 |
06 | 2.1.4 | 280 | 271 |
「うたてこそあらめ」 |
"うたてこそあらめ。" |
06 | 2.1.5 | 281 | 272 |
とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひたまへり。そら拭ごひをして、 |
とて、さもやしみつかんと、あやふくおもひたまへり。そらのごひをして、 |
06 | 2.1.6 | 282 | 273 |
「さらにこそ、白まね。用なきすさびわざなりや。内裏にいかにのたまはむとすらむ」 |
"さらにこそ、しろまね。ようなきすさびわざなりや。うちにいかにのたまはんとすらん。" |
06 | 2.1.7 | 283 | 274 |
と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて、拭ごひたまへば、 |
と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしとおぼして、よりて、のごひたまへば、 |
06 | 2.1.8 | 284 | 275 |
「平中がやうに色どり添へたまふな。赤からむはあへなむ」 |
"へいちゅうがやうにいろどりそへたまふな。あかからんはあへなん。" |
06 | 2.1.9 | 285 | 276 |
と、戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。 |
と、たはぶれたまふさま、いとをかしきいもせとみえたまへり。 |
06 | 2.1.10 | 286 | 277 |
日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの、心もとなきなかにも、梅はけしきばみ、ほほ笑みわたれる、とりわきて見ゆ。階隠のもとの紅梅、いととく咲く花にて、色づきにけり。 |
ひのいとうららかなるに、いつしかとかすみわたれるこずゑどもの、こころもとなきなかにも、むめはけしきばみ、ほほゑみわたれる、とりわきてみゆ。はしかくしのもとのこうばい、いととくさくはなにて、いろづきにけり。 |
06 | 2.1.11 | 287 | 278 |
「紅の花ぞあやなくうとまるる<BR/>梅の立ち枝はなつかしけれど |
"〔くれなゐのはなぞあやなくうとまるる<BR/>むめのたちえはなつかしけれど |
06 | 2.1.12 | 288 | 279 |
いでや」 |
いでや。" |
06 | 2.1.13 | 289 | 280 |
と、あいなくうちうめかれたまふ。 |
と、あいなくうちうめかれたまふ。 |
06 | 2.1.14 | 290 | 281 |
かかる人びとの末々、いかなりけむ。 |
かかるひとびとのすゑずゑ、いかなりけん。 |