帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
19 | 薄雲 |
19 | 1 | 74 | 54 | 第一章 明石の物語 母子の雪の別れ |
19 | 1.1 | 75 | 55 | 第一段 明石、姫君の養女問題に苦慮する |
19 | 1.1.1 | 76 | 56 |
冬になりゆくままに、川づらの住まひ、いとど心細さまさりて、うはの空なる心地のみしつつ明かし暮らすを、君も、 |
ふゆになりゆくままに、かはづらのすまひ、いとどこころぼそさまさりて、うはのそらなるここちのみしつつあかしくらすを、きみも、 |
19 | 1.1.2 | 77 | 57 |
「なほ、かくては、え過ぐさじ。かの、近き所に思ひ立ちね」 |
"なほ、かくては、えすぐさじ。かの、ちかきところにおもひたちね。" |
19 | 1.1.3 | 78 | 58 |
と、すすめたまへど、「つらき所多く心見果てむも、残りなき心地すべきを、いかに言ひてか」などいふやうに思ひ乱れたり。 |
と、すすめたまへど、"つらきところおほくこころみはてんも、のこりなきここちすべきを、いかにいひてか。"などいふやうにおもひみだれたり。 |
19 | 1.1.4 | 79 | 59 |
「さらば、この若君を。かくてのみは、便なきことなり。思ふ心あれば、かたじけなし。対に聞き置きて、常にゆかしがるを、しばし見ならはさせて、袴着の事なども、人知れぬさまならずしなさむとなむ思ふ」 |
"さらば、このわかぎみを。かくてのみは、びんなきことなり。おもふこころあれば、かたじけなし。たいにききおきて、つねにゆかしがるを、しばしみならはさせて、はかまぎのことなども、ひとしれぬさまならずしなさんとなんおもふ。" |
19 | 1.1.5 | 80 | 60 |
と、まめやかに語らひたまふ。「さ思すらむ」と思ひわたることなれば、いとど胸つぶれぬ。 |
と、まめやかにかたらひたまふ。"さおぼすらん。"とおもひわたることなれば、いとどむねつぶれぬ。 |
19 | 1.1.6 | 81 | 61 |
「改めてやむごとなき方にもてなされたまふとも、人の漏り聞かむことは、なかなかにや、つくろひがたく思されむ」 |
"あらためてやんごとなきかたにもてなされたまふとも、ひとのもりきかんことは、なかなかにや、つくろひがたくおぼされん。" |
19 | 1.1.7 | 82 | 62 |
とて、放ちがたく思ひたる、ことわりにはあれど、 |
とて、はなちがたくおもひたる、ことわりにはあれど、 |
19 | 1.1.8 | 83 | 63 |
「うしろやすからぬ方にやなどは、な疑ひたまひそ。かしこには、年経ぬれど、かかる人もなきが、さうざうしくおぼゆるままに、前斎宮のおとなびものしたまふをだにこそ、あながちに扱ひきこゆめれば、まして、かく憎みがたげなめるほどを、おろかには見放つまじき心ばへに」 |
"うしろやすからぬかたにやなどは、なうたがひたまひそ。かしこには、としへぬれど、かかるひともなきが、さうざうしくおぼゆるままに、さきのさいぐうのおとなびものしたまふをだにこそ、あながちにあつかひきこゆめれば、まして、かくにくみがたげなめるほどを、おろかにはみはなつまじきこころばへに。" |
19 | 1.1.9 | 84 | 64 |
など、女君の御ありさまの思ふやうなることも語りたまふ。 |
など、をんなぎみのおほんありさまのおもふやうなることもかたりたまふ。 |
19 | 1.1.10 | 85 | 65 |
「げに、いにしへは、いかばかりのことに定まりたまふべきにかと、つてにもほの聞こえし御心の、名残なく静まりたまへるは、おぼろけの御宿世にもあらず、人の御ありさまも、ここらの御なかにすぐれたまへるにこそは」と思ひやられて、「数ならぬ人の並びきこゆべきおぼえにもあらぬを、さすがに、立ち出でて、人もめざましと思すことやあらむ。わが身は、とてもかくても同じこと。生ひ先遠き人の御うへも、つひには、かの御心にかかるべきにこそあめれ。さりとならば、げにかう何心なきほどにや譲りきこえまし」と思ふ。 |
"げに、いにしへは、いかばかりのことにさだまりたまふべきにかと、つてにもほのきこえしみこころの、なごりなくしづまりたまへるは、おぼろけのおほんすくせにもあらず、ひとのおほんありさまも、ここらのおほんなかにすぐれたまへるにこそは。"とおもひやられて、"かずならぬひとのならびきこゆべきおぼえにもあらぬを、さすがに、たちいでて、ひともめざましとおぼすことやあらん。わがみは、とてもかくてもおなじこと。おひさきとほきひとのおほんうへも、つひには、かのみこころにかかるべきにこそあめれ。さりとならば、げにかうなにごころなきほどにやゆづりきこえまし。"とおもふ。 |
19 | 1.1.11 | 86 | 66 |
また、「手を放ちて、うしろめたからむこと。つれづれも慰む方なくては、いかが明かし暮らすべからむ。何につけてか、たまさかの御立ち寄りもあらむ」など、さまざまに思ひ乱るるに、身の憂きこと、限りなし。 |
また、"てをはなちて、うしろめたからんこと。つれづれもなぐさむかたなくては、いかがあかしくらすべからん。なににつけてか、たまさかのおほんたちよりもあらん。"など、さまざまにおもひみだるるに、みのうきこと、かぎりなし。 |
19 | 1.2 | 87 | 67 | 第二段 尼君、姫君を養女に出すことを勧める |
19 | 1.2.1 | 88 | 68 |
尼君、思ひやり深き人にて、 |
あまぎみ、おもひやりふかきひとにて、 |
19 | 1.2.2 | 89 | 69 |
「あぢきなし。見たてまつらざらむことは、いと胸いたかりぬべけれど、つひにこの御ためによかるべからむことをこそ思はめ。浅く思してのたまふことにはあらじ。ただうち頼みきこえて、渡したてまつりたまひてよ。母方からこそ、帝の御子も際々におはすめれ。この大臣の君の、世に二つなき御ありさまながら、世に仕へたまふは、故大納言の、今ひときざみなり劣りたまひて、更衣腹と言はれたまひし、けぢめにこそはおはすめれ。まして、ただ人はなずらふべきことにもあらず。 |
"あぢきなし。みたてまつらざらんことは、いとむねいたかりぬべけれど、つひにこのおほんためによかるべからんことをこそおもはめ。あさくおぼしてのたまふことにはあらじ。ただうちたのみきこえて、わたしたてまつりたまひてよ。ははがたからこそ、みかどのみこもきはぎはにおはすめれ。このおとどのきみの、よにふたつなきおほんありさまながら、よにつかへたまふは、こだいなごんの、いまひときざみなりおとりたまひて、かういばらといはれたまひし、けぢめにこそはおはすめれ。まして、ただうどはなずらふべきことにもあらず。 |
19 | 1.2.3 | 90 | 70 |
また、親王たち、大臣の御腹といへど、なほさし向かひたる劣りの所には、人も思ひ落とし、親の御もてなしも、え等しからぬものなり。まして、これは、やむごとなき御方々にかかる人、出でものしたまはば、こよなく消たれたまひなむ。ほどほどにつけて、親にもひとふしもてかしづかれぬる人こそ、やがて落としめられぬはじめとはなれ。御袴着のほども、いみじき心を尽くすとも、かかる深山隠れにては、何の栄かあらむ。ただ任せきこえたまひて、もてなしきこえたまはむありさまをも、聞きたまへ」 |
また、みこたち、おとどのおほんはらといへど、なほさしむかひたるおとりのところには、ひともおもひおとし、おやのおほんもてなしも、えひとしからぬものなり。まして、これは、やんごとなきおほんかたがたにかかるひと、いでものしたまはば、こよなくけたれたまひなん。ほどほどにつけて、おやにもひとふしもてかしづかれぬるひとこそ、やがておとしめられぬはじめとはなれ。おほんはかまぎのほども、いみじきこころをつくすとも、かかるみやまがくれにては、なにのはえかあらん。ただまかせきこえたまひて、もてなしきこえたまはんありさまをも、ききたまへ。" |
19 | 1.2.4 | 91 | 71 |
と教ふ。 |
とをしふ。 |
19 | 1.2.5 | 92 | 72 |
さかしき人の心の占どもにも、もの問はせなどするにも、なほ「渡りたまひてはまさるべし」とのみ言へば、思ひ弱りにたり。 |
さかしきひとのこころのうらどもにも、ものとはせなどするにも、なほ"わたりたまひてはまさるべし。"とのみいへば、おもひよわりにたり。 |
19 | 1.2.6 | 93 | 73 |
殿も、しか思しながら、思はむところのいとほしさに、しひてもえのたまはで、 |
とのも、しかおぼしながら、おもはんところのいとほしさに、しひてもえのたまはで、 |
19 | 1.2.7 | 94 | 74 |
「御袴着のことは、いかやうにか」 |
"おほんはかまぎのことは、いかやうにか。" |
19 | 1.2.8 | 95 | 75 |
とのたまへる御返りに、 |
とのたまへるおほんかへりに、 |
19 | 1.2.9 | 96 | 76 |
「よろづのこと、かひなき身にたぐへきこえては、げに生ひ先もいとほしかるべくおぼえはべるを、たち交じりても、いかに人笑へにや」 |
"よろづのこと、かひなきみにたぐへきこえては、げにおひさきもいとほしかるべくおぼえはべるを、たちまじりても、いかにひとわらへにや。" |
19 | 1.2.10 | 97 | 77 |
と聞こえたるを、いとどあはれに思す。 |
ときこえたるを、いとどあはれにおぼす。 |
19 | 1.2.11 | 98 | 78 |
日など取らせたまひて、忍びやかに、さるべきことなどのたまひおきてさせたまふ。放ちきこえむことは、なほいとあはれにおぼゆれど、「君の御ためによかるべきことをこそは」と念ず。 |
ひなどとらせたまひて、しのびやかに、さるべきことなどのたまひおきてさせたまふ。はなちきこえんことは、なほいとあはれにおぼゆれど、"きみのおほんためによかるべきことをこそは。"とねんず。 |
19 | 1.2.12 | 99 | 79 |
「乳母をもひき別れなむこと。明け暮れのもの思はしさ、つれづれをもうち語らひて、慰めならひつるに、いとどたつきなきことさへ取り添へ、いみじくおぼゆべきこと」と、君も泣く。 |
"めのとをもひきわかれなんこと。あけくれのものおもはしさ、つれづれをもうちかたらひて、なぐさめならひつるに、いとどたつきなきことさへとりそへ、いみじくおぼゆべきこと。"と、きみもなく。 |
19 | 1.2.13 | 100 | 80 |
乳母も、 |
めのとも、 |
19 | 1.2.14 | 101 | 81 |
「さるべきにや、おぼえぬさまにて、見たてまつりそめて、年ごろの御心ばへの、忘れがたう恋しうおぼえたまふべきを、うち絶えきこゆることはよもはべらじ。つひにはと頼みながら、しばしにても、よそよそに、思ひのほかの交じらひしはべらむが、安からずもはべるべきかな」 |
"さるべきにや、おぼえぬさまにて、みたてまつりそめて、としごろのみこころばへの、わすれがたうこひしうおぼえたまふべきを、うちたえきこゆることはよもはべらじ。つひにはとたのみながら、しばしにても、よそよそに、おもひのほかのまじらひしはべらんが、やすからずもはべるべきかな。" |
19 | 1.2.15 | 102 | 82 |
など、うち泣きつつ過ぐすほどに、師走にもなりぬ。 |
など、うちなきつつすぐすほどに、しはすにもなりぬ。 |
19 | 1.3 | 103 | 83 | 第三段 明石と乳母、和歌を唱和 |
19 | 1.3.1 | 104 | 84 |
雪、霰がちに、心細さまさりて、「あやしくさまざまに、もの思ふべかりける身かな」と、うち嘆きて、常よりもこの君を撫でつくろひつつ見ゐたり。 |
ゆき、あられがちに、こころぼそさまさりて、"あやしくさまざまに、ものおもふべかりけるみかな。"と、うちなげきて、つねよりもこのきみをなでつくろひつつみゐたり。 |
19 | 1.3.2 | 105 | 85 |
雪かきくらし降りつもる朝、来し方行く末のこと、残らず思ひつづけて、例はことに端近なる出で居などもせぬを、汀の氷など見やりて、白き衣どものなよよかなるあまた着て、眺めゐたる様体、頭つき、うしろでなど、「限りなき人と聞こゆとも、かうこそはおはすらめ」と人びとも見る。落つる涙をかき払ひて、 |
ゆきかきくらしふりつもるあした、きしかたゆくすゑのこと、のこらずおもひつづけて、れいはことにはしぢかなるいでゐなどもせぬを、みぎはのこほりなどみやりて、しろききぬどものなよよかなるあまたきて、ながめゐたるやうだい、かしらつき、うしろでなど、"かぎりなきひとときこゆとも、かうこそはおはすらめ。"とひとびともみる。おつるなみだをかきはらひて、 |
19 | 1.3.3 | 106 | 86 |
「かやうならむ日、ましていかにおぼつかなからむ」と、らうたげにうち嘆きて、 |
"かやうならんひ、ましていかにおぼつかなからん。"と、らうたげにうちなげきて、 |
19 | 1.3.4 | 107 | 87 |
「雪深み深山の道は晴れずとも<BR/>なほ文かよへ跡絶えずして」 |
"〔ゆきふかみみやまのみちははれずとも<BR/>なほふみかよへあとたえずして〕 |
19 | 1.3.5 | 108 | 88 |
とのたまへば、乳母、うち泣きて、 |
とのたまへば、めのと、うちなきて、 |
19 | 1.3.6 | 109 | 89 |
「雪間なき吉野の山を訪ねても<BR/>心のかよふ跡絶えめやは」 |
"〔ゆきまなきよしののやまをたづねても<BR/>こころのかよふあとたえめやは〕 |
19 | 1.3.7 | 110 | 90 |
と言ひ慰む。 |
といひなぐさん。 |
19 | 1.4 | 111 | 91 | 第四段 明石の母子の雪の別れ |
19 | 1.4.1 | 112 | 92 |
この雪すこし解けて渡りたまへり。例は待ちきこゆるに、さならむとおぼゆることにより、胸うちつぶれて、人やりならず、おぼゆ。 |
このゆきすこしとけてわたりたまへり。れいはまちきこゆるに、さならんとおぼゆることにより、むねうちつぶれて、ひとやりならず、おぼゆ。 |
19 | 1.4.2 | 113 | 93 |
「わが心にこそあらめ。いなびきこえむをしひてやは、あぢきな」とおぼゆれど、「軽々しきやうなり」と、せめて思ひ返す。 |
"わがこころにこそあらめ。いなびきこえんをしひてやは、あぢきな。"とおぼゆれど、"かるがるしきやうなり。"と、せめておもひかへす。 |
19 | 1.4.3 | 114 | 94 |
いとうつくしげにて、前にゐたまへるを見たまふに、 |
いとうつくしげにて、まへにゐたまへるをみたまふに、 |
19 | 1.4.4 | 115 | 95 |
「おろかには思ひがたかりける人の宿世かな」 |
"おろかにはおもひがたかりけるひとのすくせかな。" |
19 | 1.4.5 | 116 | 96 |
と思ほす。この春より生ふす御髪、尼削ぎのほどにて、ゆらゆらとめでたく、つらつき、まみの薫れるほどなど、言へばさらなり。よそのものに思ひやらむほどの心の闇、推し量りたまふに、いと心苦しければ、うち返しのたまひ明かす。 |
とおもほす。このはるよりおふすみぐし、あまそぎのほどにて、ゆらゆらとめでたく、つらつき、まみのかをれるほどなど、いへばさらなり。よそのものにおもひやらんほどのこころのやみ、おしはかりたまふに、いとくるしければ、うちかへしのたまひあかす。 |
19 | 1.4.6 | 117 | 97 |
「何か。かく口惜しき身のほどならずだにもてなしたまはば」 |
"なにか。かくくちをしきみのほどならずだにもてなしたまはば。" |
19 | 1.4.7 | 118 | 98 |
と聞こゆるものから、念じあへずうち泣くけはひ、あはれなり。 |
ときこゆるものから、ねんじあへずうちなくけはひ、あはれなり。 |
19 | 1.4.8 | 119 | 100 |
姫君は、何心もなく、御車に乗らむことを急ぎたまふ。寄せたる所に、母君みづから抱きて出でたまへり。片言の、声はいとうつくしうて、袖をとらへて、「乗りたまへ」と引くも、いみじうおぼえて、 |
ひめぎみは、なにごころもなく、みくるまにのらんことをいそぎたまふ。よせたるところに、ははぎみみづからいだきていでたまへり。かたことの、こゑはいとうつくしうて、そでをとらへて、"のりたまへ。"とひくも、いみじうおぼえて、 |
19 | 1.4.9 | 120 | 101 |
「末遠き二葉の松に引き別れ<BR/>いつか木高きかげを見るべき」 |
"〔すゑとほきふたばのまつにひきわかれ<BR/>いつかこだかきかげをみるべき〕 |
19 | 1.4.10 | 121 | 102 |
えも言ひやらず、いみじう泣けば、 |
えもいひやらず、いみじうなけば、 |
19 | 1.4.11 | 122 | 103 |
「さりや。あな苦し」と思して、 |
"さりや。あなくるし。"とおぼして、 |
19 | 1.4.12 | 123 | 104 |
「生ひそめし根も深ければ武隈の<BR/>松に小松の千代をならべむ |
"〔おひそめしねもふかければたけくまの<BR/>まつにこまつのちよをならべん |
19 | 1.4.13 | 124 | 105 |
のどかにを」 |
のどかにを。" |
19 | 1.4.14 | 125 | 106 |
と、慰めたまふ。さることとは思ひ静むれど、えなむ堪へざりける。乳母の少将とて、あてやかなる人ばかり、御佩刀、天児やうの物取りて乗る。人だまひによろしき若人、童女など乗せて、御送りに参らす。 |
と、なぐさめたまふ。さることとはおもひしづむれど、えなんたへざりける。めのとのせうしゃうとて、あてやかなるひとばかり、みはかし、あまがつやうのものとりてのる。ひとだまひによろしきわかうど、わらはなどのせて、おほんおくりにまゐらす。 |
19 | 1.4.15 | 126 | 107 |
道すがら、とまりつる人の心苦しさを、「いかに。罪や得らむ」と思す。 |
みちすがら、とまりつるひとのこころぐるしさを、"いかに。つみやうらん。"とおぼす。 |
19 | 1.5 | 127 | 108 | 第五段 姫君、二条院へ到着 |
19 | 1.5.1 | 128 | 109 |
暗うおはし着きて、御車寄するより、はなやかにけはひことなるを、田舎びたる心地どもは、「はしたなくてや交じらはむ」と思ひつれど、西表をことにしつらはせたまひて、小さき御調度ども、うつくしげに調へさせたまへり。乳母の局には、西の渡殿の、北に当れるをせさせたまへり。 |
くらうおはしつきて、みくるまよするより、はなやかにけはひことなるを、ゐなかびたるここちどもは、"はしたなくてやまじらはん。"とおもひつれど、にしおもてをことにしつらはせたまひて、ちひさきおほんでうどども、うつくしげにととのへさせたまへり。めのとのつぼねには、にしのわたどのの、きたにあたれるをせさせたまへり。 |
19 | 1.5.2 | 129 | 110 |
若君は、道にて寝たまひにけり。抱き下ろされて、泣きなどはしたまはず。こなたにて御くだもの参りなどしたまへど、やうやう見めぐらして、母君の見えぬをもとめて、らうたげにうちひそみたまへば、乳母召し出でて、慰め紛らはしきこえたまふ。 |
わかぎみは、みちにてねたまひにけり。いだきおろされて、なきなどはしたまはず。こなたにておほんくだものまゐりなどしたまへど、やうやうみめぐらして、ははぎみのみえぬをもとめて、らうたげにうちひそみたまへば、めのとめしいでて、なぐさめまぎらはしきこえたまふ。 |
19 | 1.5.3 | 130 | 111 |
「山里のつれづれ、ましていかに」と思しやるはいとほしけれど、明け暮れ思すさまにかしづきつつ、見たまふは、ものあひたる心地したまふらむ。 |
"やまざとのつれづれ、ましていかに。"とおぼしやるはいとほしけれど、あけくれおぼすさまにかしづきつつ、みたまふは、ものあひたるここちしたまふらん。 |
19 | 1.5.4 | 131 | 112 |
「いかにぞや、人の思ふべき瑕なきことは、このわたりに出でおはせで」 |
"いかにぞや。ひとのおもふべききずなきことは、このわたりにいでおはせで。" |
19 | 1.5.5 | 132 | 113 |
と、口惜しく思さる。 |
と、くちをしくおぼさる。 |
19 | 1.5.6 | 133 | 114 |
しばしは、人びともとめて泣きなどしたまひしかど、おほかた心やすくをかしき心ざまなれば、上にいとよくつき睦びきこえたまへれば、「いみじううつくしきもの得たり」と思しけり。こと事なく抱き扱ひ、もてあそびきこえたまひて、乳母も、おのづから近う仕うまつり馴れにけり。また、やむごとなき人の乳ある、添へて参りたまふ。 |
しばしは、ひとびともとめてなきなどしたまひしかど、おほかたこころやすくをかしきこころざまなれば、うへにいとよくつきむつびきこえたまへれば、"いみじううつくしきものえたり。"とおぼしけり。ことごとなくいだきあつかひ、もてあそびきこえたまひて、めのとも、おのづからちかうつかうまつりなれにけり。また、やんごとなきひとのちある、そへてまゐりたまふ。 |
19 | 1.5.7 | 134 | 115 |
御袴着は、何ばかりわざと思しいそぐことはなけれど、けしきことなり。御しつらひ、雛遊びの心地してをかしう見ゆ。参りたまへる客人ども、ただ明け暮れのけぢめしなければ、あながちに目も立たざりき。ただ、姫君の襷引き結ひたまへる胸つきぞ、うつくしげさ添ひて見えたまひつる。 |
おほんはかまぎは、なにばかりわざとおぼしいそぐことはなけれど、けしきことなり。おほんしつらひ、ひひなあそびのここちしてをかしうみゆ。まゐりたまへるまらうとども、ただあけくれのけぢめしなければ、あながちにめもたたざりき。ただ、ひめぎみのたすきひきゆひたまへるむねつきぞ、うつくしげさそひてみえたまひつる。 |
19 | 1.6 | 135 | 116 | 第六段 歳末の大堰の明石 |
19 | 1.6.1 | 136 | 117 |
大堰には、尽きせず恋しきにも、身のおこたりを嘆き添へたり。さこそ言ひしか、尼君もいとど涙もろなれど、かくもてかしづかれたまふを聞くはうれしかりけり。何ごとをか、なかなか訪らひきこえたまはむ、ただ御方の人びとに、乳母よりはじめて、世になき色あひを思ひいそぎてぞ、贈りきこえたまひける。 |
おほゐには、つきせずこひしきにも、みのおこたりをなげきそへたり。さこそいひしか、あまぎみもいとどなみだもろなれど、かくもてかしづかれたまふをきくはうれしかりけり。なにごとをか、なかなかとぶらひきこえたまはん、ただおほんかたのひとびとに、めのとよりはじめて、よになきいろあひをおもひいそぎてぞ、おくりきこえたまひける。 |
19 | 1.6.2 | 137 | 118 |
「待ち遠ならむも、いとどさればよ」と思はむに、いとほしければ、年の内に忍びて渡りたまへり。 |
"まちどほならんも、いとどさればよ。"とおもはんに、いとほしければ、としのうちにしのびてわたりたまへり。 |
19 | 1.6.3 | 138 | 119 |
いとどさびしき住まひに、明け暮れのかしづきぐさをさへ離れきこえて、思ふらむことの心苦しければ、御文なども絶え間なく遣はす。 |
いとどさびしきすまひに、あけくれのかしづきぐさをさへはなれきこえて、おもふらんことのこころぐるしければ、おほんふみなどもたえまなくつかはす。 |
19 | 1.6.4 | 139 | 120 |
女君も、今はことに怨じきこえたまはず、うつくしき人に罪ゆるしきこえたまへり。 |
をんなぎみも、いまはことにゑんじきこえたまはず、うつくしきひとにつみゆるしきこえたまへり。 |
19 | 2 | 140 | 121 | 第二章 源氏の女君たちの物語 新春の女君たちの生活 |
19 | 2.1 | 141 | 122 | 第一段 東の院の花散里 |
19 | 2.1.1 | 142 | 123 |
年も返りぬ。うららかなる空に、思ふことなき御ありさまは、いとどめでたく、磨き改めたる御よそひに、参り集ひたまふめる人の、おとなしきほどのは、七日、御よろこびなどしたまふ、ひき連れたまへり。 |
としもかへりぬ。うららかなるそらに、おもふことなきおほんありさまは、いとどめでたく、みがきあらためたるおほんよそひに、まゐりつどひたまふめるひとの、おとなしきほどのは、なぬか、おほんよろこびなどしたまふ、ひきつれたまへり。 |
19 | 2.1.2 | 143 | 124 |
若やかなるは、何ともなく心地よげに見えたまふ。次々の人も、心のうちには思ふこともやあらむ、うはべは誇りかに見ゆる、ころほひなりかし。 |
わかやかなるは、なにともなくここちよげにみえたまふ。つぎつぎのひとも、こころのうちにはおもふこともやあらん、うはべはほこりかにみゆる、ころほひなりかし。 |
19 | 2.1.3 | 144 | 125 |
東の院の対の御方も、ありさまは好ましう、あらまほしきさまに、さぶらふ人びと、童女の姿など、うちとけず、心づかひしつつ過ぐしたまふに、近きしるしはこよなくて、のどかなる御暇の隙などには、ふとはひ渡りなどしたまへど、夜たち泊りなどやうに、わざとは見えたまはず。 |
ひんがしのゐんのたいのおほんかたも、ありさまはこのましう、あらまほしきさまに、さぶらふひとびと、わらはべのすがたなど、うちとけず、こころづかひしつつすぐしたまふに、ちかきしるしはこよなくて、のどかなるおほんいとまのひまなどには、ふとはひわたりなどしたまへど、よるたちとまりなどやうに、わざとはみえたまはず。 |
19 | 2.1.4 | 145 | 126 |
ただ御心ざまのおいらかにこめきて、「かばかりの宿世なりける身にこそあらめ」と思ひなしつつ、ありがたきまでうしろやすくのどかにものしたまへば、をりふしの御心おきてなども、こなたの御ありさまに劣るけぢめこよなからずもてなしたまひて、あなづりきこゆべうはあらねば、同じごと、人参り仕うまつりて、別当どもも事おこたらず、なかなか乱れたるところなく、目やすき御ありさまなり。 |
ただみこころざまのおいらかにこめきて、"かばかりのすくせなりけるみにこそあらめ。"とおもひなしつつ、ありがたきまでうしろやすくのどかにものしたまへば、をりふしのみこころおきてなども、こなたのおほんありさまにおとるけぢめこよなからずもてなしたまひて、あなづりきこゆべうはあらねば、おなじごと、ひとまゐりつかうまつりて、べたうどももことおこたらず、なかなかみだれたるところなく、めやすきおほんありさまなり。 |
19 | 2.2 | 146 | 127 | 第二段 源氏、大堰山荘訪問を思いつく |
19 | 2.2.1 | 147 | 128 |
山里のつれづれをも絶えず思しやれば、公私もの騒がしきほど過ぐして、渡りたまふとて、常よりことにうち化粧じたまひて、桜の御直衣に、えならぬ御衣ひき重ねて、たきしめ、装束きたまひて、まかり申したまふさま、隈なき夕日に、いとどしくきよらに見えたまふ。女君、ただならず見たてまつり送りたまふ。 |
やまざとのつれづれをもたえずおぼしやれば、おほやけわたくしものさわがしきほどすぐして、わたりたまふとて、つねよりことにうちけさうじたまひて、さくらのおほんなほしに、えならぬおほんぞひきかさねて、たきしめ、さうぞきたまひて、まかりまうしたまふさま、くまなきゆふひに、いとどしくきよらにみえたまふ。をんなぎみ、ただならずみたてまつりおくりたまふ。 |
19 | 2.2.2 | 148 | 130 |
姫君は、いはけなく御指貫の裾にかかりて、慕ひきこえたまふほどに、外にも出でたまひぬべければ、立ちとまりて、いとあはれと思したり。こしらへおきて、「明日帰り来む」と、口ずさびて出でたまふに、渡殿の戸口に待ちかけて、中将の君して聞こえたまへり。 |
ひめぎみは、いはけなくおほんさしぬきのすそにかかりて、したひきこえたまふほどに、とにもいでたまひぬべければ、たちとまりて、いとあはれとおぼしたり。こしらへおきて、"あすかへりこん"と、くちずさびていでたまふに、わたどののとぐちにまちかけて、ちゅうじゃうのきみしてきこえたまへり。 |
19 | 2.2.3 | 149 | 131 |
「舟とむる遠方人のなくはこそ<BR/>明日帰り来む夫と待ち見め」 |
"〔ふねとむるをちかたびとのなくはこそ<BR/>あすかへりこんせなとまちみめ〕 |
19 | 2.2.4 | 150 | 132 |
いたう馴れて聞こゆれば、いとにほひやかにほほ笑みて、 |
いたうなれてきこゆれば、いとにほひやかにほほゑみて、 |
19 | 2.2.5 | 151 | 133 |
「行きて見て明日もさね来むなかなかに<BR/>遠方人は心置くとも」 |
"〔ゆきてみてあすもさねこんなかなかに<BR/>をちかたびとはこころおくとも〕 |
19 | 2.2.6 | 152 | 134 |
何事とも聞き分かでされありきたまふ人を、上はうつくしと見たまへば、遠方人のめざましきも、こよなく思しゆるされにたり。 |
なにごとともききわかでされありきたまふひとを、うへはうつくしとみたまへば、をちかたびとのめざましきも、こよなくおぼしゆるされにたり。 |
19 | 2.2.7 | 153 | 135 |
「いかに思ひおこすらむ。われにて、いみじう恋しかりぬべきさまを」 |
"いかにおもひおこすらん。われにて、いみじうこひしかりぬべきさまを。" |
19 | 2.2.8 | 154 | 136 |
と、うちまもりつつ、ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ、戯れゐたまへる御さま、見どころ多かり。御前なる人びとは、 |
と、うちまもりつつ、ふところにいれて、うつくしげなるおほんちをくくめたまひつつ、たはぶれゐたまへるおほんさま、みどころおほかり。おまへなるひとびとは、 |
19 | 2.2.9 | 155 | 137 |
「などか、同じくは」 |
"などか、おなじくは。" |
19 | 2.2.10 | 156 | 138 |
「いでや」 |
"いでや。" |
19 | 2.2.11 | 157 | 139 |
など、語らひあへり。 |
など、かたらひあへり。 |
19 | 2.3 | 158 | 140 | 第三段 源氏、大堰山荘から嵯峨野の御堂、桂院に回る |
19 | 2.3.1 | 159 | 141 |
かしこには、いとのどやかに、心ばせあるけはひに住みなして、家のありさまも、やう離れめづらしきに、みづからのけはひなどは、見るたびごとに、やむごとなき人びとなどに劣るけぢめこよなからず、容貌、用意あらまほしうねびまさりゆく。 |
かしこには、いとのどやかに、こころばせあるけはひにすみなして、いへのありさまも、やうはなれめづらしきに、みづからのけはひなどは、みるたびごとに、やんごとなきひとびとなどにおとるけぢめこよなからず、かたち、よういあらまほしうねびまさりゆく。 |
19 | 2.3.2 | 160 | 142 |
「ただ、世の常のおぼえにかき紛れたらば、さるたぐひなくやはと思ふべきを、世に似ぬひがものなる親の聞こえなどこそ、苦しけれ。人のほどなどは、さてもあるべきを」など思す。 |
"ただ、よのつねのおぼえにかきまぎれたらば、さるたぐひなくやはとおもふべきを、よににぬひがものなるおやのきこえなどこそ、くるしけれ。ひとのほどなどは、さてもあるべきを。"などおぼす。 |
19 | 2.3.3 | 161 | 143 |
はつかに、飽かぬほどにのみあればにや、心のどかならず立ち帰りたまふも苦しくて、「夢のわたりの浮橋か」とのみ、うち嘆かれて、箏の琴のあるを引き寄せて、かの明石にて、小夜更けたりし音も、例の思し出でらるれば、琵琶をわりなく責めたまへば、すこし掻き合はせたる、「いかで、かうのみひき具しけむ」と思さる。若君の御ことなど、こまやかに語りたまひつつおはす。 |
はつかに、あかぬほどにのみあればにや、こころのどかならずたちかへりたまふもくるしくて、"ゆめのわたりのうきはしか。"とのみ、うちなげかれて、さうのことのあるをひきよせて、かのあかしにて、さよふけたりしねも、れいのおぼしいでらるれば、びはをわりなくせめたまへば、すこしかきあはせたる、"いかで、かうのみひきぐしけん。"とおぼさる。わかぎみのおほんことなど、こまやかにかたりたまひつつおはす。 |
19 | 2.3.4 | 162 | 144 |
ここは、かかる所なれど、かやうに立ち泊りたまふ折々あれば、はかなき果物、強飯ばかりはきこしめす時もあり。近き御寺、桂殿などにおはしまし紛らはしつつ、いとまほには乱れたまはねど、また、いとけざやかにはしたなく、おしなべてのさまにはもてなしたまはぬなどこそは、いとおぼえことには見ゆめれ。 |
ここは、かかるところなれど、かやうにたちとまりたまふをりをりあれば、はかなきくだもの、こはいひばかりはきこしめすときもあり。ちかきみてら、かつらどのなどにおはしましまぎらはしつつ、いとまほにはみだれたまはねど、また、いとけざやかにはしたなく、おしなべてのさまにはもてなしたまはぬなどこそは、いとおぼえことにはみゆめれ。 |
19 | 2.3.5 | 163 | 145 |
女も、かかる御心のほどを見知りきこえて、過ぎたりと思すばかりのことはし出でず、また、いたく卑下せずなどして、御心おきてにもて違ふことなく、いとめやすくぞありける。 |
をんなも、かかるみこころのほどをみしりきこえて、すぎたりとおぼすばかりのことはしいでず、また、いたくひげせずなどして、みこころおきてにもてたがふことなく、いとめやすくぞありける。 |
19 | 2.3.6 | 164 | 146 |
おぼろけにやむごとなき所にてだに、かばかりもうちとけたまふことなく、気高き御もてなしを聞き置きたれば、 |
おぼろけにやんごとなきところにてだに、かばかりもうちとけたまふことなく、けだかきおほんもてなしをききおきたれば、 |
19 | 2.3.7 | 165 | 147 |
「近きほどに交じらひては、なかなかいと目馴れて、人あなづられなることどももぞあらまし。たまさかにて、かやうにふりはへたまへるこそ、たけき心地すれ」 |
"ちかきほどにまじらひては、なかなかいとめなれて、ひとあなづられなることどももぞあらまし。たまさかにて、かやうにふりはへたまへるこそ、たけきここちすれ。" |
19 | 2.3.8 | 166 | 148 |
と思ふべし。 |
とおもふべし。 |
19 | 2.3.9 | 167 | 149 |
明石にも、さこそ言ひしか、この御心おきて、ありさまをゆかしがりて、おぼつかなからず、人は通はしつつ、胸つぶるることもあり、また、おもだたしく、うれしと思ふことも多くなむありける。 |
あかしにも、さこそいひしか、このみこころおきて、ありさまをゆかしがりて、おぼつかなからず、ひとはかよはしつつ、むねつぶるることもあり、また、おもだたしく、うれしとおもふこともおほくなんありける。 |
19 | 3 | 168 | 150 | 第三章 藤壺の物語 藤壺女院の崩御 |
19 | 3.1 | 169 | 151 | 第一段 太政大臣薨去と天変地異 |
19 | 3.1.1 | 170 | 152 |
そのころ、太政大臣亡せたまひぬ。世の重しとおはしつる人なれば、朝廷にも思し嘆く。しばし、籠もりたまひしほどをだに、天の下の騷ぎなりしかば、まして、悲しと思ふ人多かり。源氏の大臣も、いと口惜しく、よろづこと、おし譲りきこえてこそ、暇もありつるを、心細く、事しげくも思されて、嘆きおはす。 |
そのころ、おほきおとどうせたまひぬ。よのおもしとおはしつるひとなれば、おほやけにもおぼしなげく。しばし、こもりたまひしほどをだに、あめのしたのさわぎなりしかば、まして、かなしとおもふひとおほかり。げんじのおとども、いとくちをしく、よろづこと、おしゆづりきこえてこそ、いとまもありつるを、こころぼそく、ことしげくもおぼされて、なげきおはす。 |
19 | 3.1.2 | 171 | 153 |
帝は、御年よりはこよなう大人大人しうねびさせたまひて、世の政事も、うしろめたく思ひきこえたまふべきにはあらねども、またとりたてて御後見したまふべき人もなきを、「誰れに譲りてかは、静かなる御本意もかなはむ」と思すに、いと飽かず口惜し。 |
みかどは、おほんとしよりはこよなうおとなおとなしうねびさせたまひて、よのまつりごとも、うしろめたくおもひきこえたまふべきにはあらねども、またとりたてておほんうしろみしたまふべきひともなきを、"たれにゆづりてかは、しづかなるおほんほいもかなはん。"とおぼすに、いとあかずくちをし。 |
19 | 3.1.3 | 172 | 154 |
後の御わざなどにも、御子ども孫に過ぎてなむ、こまやかに弔らひ、扱ひたまひける。 |
のちのおほんわざなどにも、みこどもむまごにすぎてなん、こまやかにとぶらひ、あつかひたまひける。 |
19 | 3.1.4 | 173 | 155 |
その年、おほかた世の中騒がしくて、朝廷ざまに、もののさとししげく、のどかならで、 |
そのとし、おほかたよのなかさわがしくて、おほやけざまに、もののさとししげく、のどかならで、 |
19 | 3.1.5 | 174 | 156 |
「天つ空にも、例に違へる月日星の光見え、雲のたたずまひあり」 |
"あまつそらにも、れいにたがへるつきひほしのひかりみえ、くものたたずまひあり。" |
19 | 3.1.6 | 175 | 157 |
とのみ、世の人おどろくこと多くて、道々の勘文どもたてまつれるにも、あやしく世になべてならぬことども混じりたり。内の大臣のみなむ、御心のうちに、わづらはしく思し知らるることありける。 |
とのみ、よのひとおどろくことおほくて、みちみちのかんがへぶみどもたてまつれるにも、あやしくよになべてならぬことどもまじりたり。うちのおとどのみなん、みこころのうちに、わづらはしくおぼししらるることありける。 |
19 | 3.2 | 176 | 158 | 第二段 藤壺入道宮の病臥 |
19 | 3.2.1 | 177 | 159 |
入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて、三月にはいと重くならせたまひぬれば、行幸などあり。院に別れたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくて、もの深くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御けしきなれば、宮もいと悲しく思し召さる。 |
にふだうきさいのみや、はるのはじめよりなやみわたらせたまひて、やよひにはいとおもくならせたまひぬれば、ぎゃうがうなどあり。ゐんにわかれたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくて、ものふかくもおぼされざりしを、いみじうおぼしなげきたるみけしきなれば、みやもいとかなしくおぼしめさる。 |
19 | 3.2.2 | 178 | 160 |
「今年は、かならず逃るまじき年と思ひたまへつれど、おどろおどろしき心地にもはべらざりつれば、命の限り知り顔にはべらむも、人やうたて、ことことしう思はむと憚りてなむ、功徳のことなども、わざと例よりも取り分きてしもはべらずなりにける。 |
"ことしは、かならずのがるまじきとしとおもひたまへつれど、おどろおどろしきここちにもはべらざりつれば、いのちのかぎりしりがほにはべらんも、ひとやうたて、ことことしうおもはんとはばかりてなん、くどくのことなども、わざとれいよりもとりわきてしもはべらずなりにける。 |
19 | 3.2.3 | 179 | 161 |
参りて、心のどかに昔の御物語もなど思ひたまへながら、うつしざまなる折少なくはべりて、口惜しく、いぶせくて過ぎはべりぬること」 |
まゐりて、こころのどかにむかしのおほんものがたりもなどおもひたまへながら、うつしざまなるをりすくなくはべりて、くちをしく、いぶせくてすぎはべりぬること。" |
19 | 3.2.4 | 180 | 162 |
と、いと弱げに聞こえたまふ。 |
と、いとよわげにきこえたまふ。 |
19 | 3.2.5 | 181 | 163 |
三十七にぞおはしましける。されど、いと若く盛りにおはしますさまを、惜しく悲しと見たてまつらせたまふ。 |
さんじふしちにぞおはしましける。されど、いとわかくさかりにおはしますさまを、をしくかなしとみたてまつらせたまふ。 |
19 | 3.2.6 | 182 | 164 |
「慎ませたまふべき御年なるに、晴れ晴れしからで、月ごろ過ぎさせたまふことをだに、嘆きわたりはべりつるに、御慎みなどをも、常よりことにせさせたまはざりけること」 |
"つつしませたまふべきおほんとしなるに、はればれしからで、つきごろすぎさせたまふことをだに、なげきわたりはべりつるに、おほんつつしみなどをも、つねよりことにせさせたまはざりけること。" |
19 | 3.2.7 | 183 | 165 |
と、いみじう思し召したり。ただこのころぞ、おどろきて、よろづのことせさせたまふ。月ごろは、常の御悩みとのみうちたゆみたりつるを、源氏の大臣も深く思し入りたり。限りあれば、ほどなく帰らせたまふも、悲しきこと多かり。 |
と、いみじうおぼしめしたり。ただこのころぞ、おどろきて、よろづのことせさせたまふ。つきごろは、つねのおほんなやみとのみうちたゆみたりつるを、げんじのおとどもふかくおぼしいりたり。かぎりあれば、ほどなくかへらせたまふも、かなしきことおほかり。 |
19 | 3.2.8 | 184 | 166 |
宮、いと苦しうて、はかばかしうものも聞こえさせたまはず。御心のうちに思し続くるに、「高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心のうちに飽かず思ふことも人にまさりける身」と思し知らる。主上の、夢のうちにも、かかる事の心を知らせたまはぬを、さすがに心苦しう見たてまつりたまひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたることに、思し置かるべき心地したまひける。 |
みや、いとくるしうて、はかばかしうものもきこえさせたまはず。みこころのうちにおぼしつづくるに、"たかきすくせ、よのさかえもならぶひとなく、こころのうちにあかずおもふこともひとにまさりけるみ。"とおぼししらる。うへの、ゆめのうちにも、かかることのこころをしらせたまはぬを、さすがにこころぐるしうみたてまつりたまひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたることに、おぼしおかるべきここちしたまひける。 |
19 | 3.3 | 185 | 167 | 第三段 藤壺入道宮の崩御 |
19 | 3.3.1 | 186 | 168 |
大臣は、朝廷方ざまにても、かくやむごとなき人の限り、うち続き亡せたまひなむことを思し嘆く。人知れぬあはれ、はた、限りなくて、御祈りなど思し寄らぬことなし。年ごろ思し絶えたりつる筋さへ、今一度、聞こえずなりぬるが、いみじく思さるれば、近き御几帳のもとに寄りて、御ありさまなども、さるべき人びとに問ひ聞きたまへば、親しき限りさぶらひて、こまかに聞こゆ。 |
おとどは、おほやけがたざまにても、かくやんごとなきひとのかぎり、うちつづきうせたまひなんことをおぼしなげく。ひとしれぬあはれ、はた、かぎりなくて、おほんいのりなどおぼしよらぬことなし。としごろおぼしたえたりつるすぢさへ、いまひとたび、きこえずなりぬるが、いみじくおぼさるれば、ちかきみきちゃうのもとによりて、おほんありさまなども、さるべきひとびとにとひききたまへば、したしきかぎりさぶらひて、こまかにきこゆ。 |
19 | 3.3.2 | 187 | 169 |
「月ごろ悩ませたまへる御心地に、御行なひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふ積もりの、いとどいたうくづほれさせたまふに、このころとなりては、柑子などをだに、触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころなくならせたまひにたること」 |
"つきごろなやませたまへるみここちに、おほんおこなひをときのまもたゆませたまはずせさせたまふつもりの、いとどいたうくづほれさせたまふに、このころとなりては、かうじなどをだに、ふれさせたまはずなりにたれば、たのみどころなくならせたまひにたること。" |
19 | 3.3.3 | 188 | 170 |
と、泣き嘆く人びと多かり。 |
と、なきなげくひとびとおほかり。 |
19 | 3.3.4 | 189 | 171 |
「院の御遺言にかなひて、内裏の御後見仕うまつりたまふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてかは、その心寄せことなるさまをも、漏らしきこえむとのみ、のどかに思ひはべりけるを、今なむあはれに口惜しく」 |
"ゐんのおほんゆいごんにかなひて、うちのおほんうしろみつかうまつりたまふこと、としごろおもひしりはべることおほかれど、なににつけてかは、そのこころよせことなるさまをも、もらしきこえんとのみ、のどかにおもひはべりけるを、いまなんあはれにくちをしく。" |
19 | 3.3.5 | 190 | 172 |
と、ほのかにのたまはするも、ほのぼの聞こゆるに、御応へも聞こえやりたまはず、泣きたまふさま、いといみじ。「などかうしも心弱きさまに」と、人目を思し返せど、いにしへよりの御ありさまを、おほかたの世につけても、あたらしく惜しき人の御さまを、心にかなふわざならねば、かけとどめきこえむ方なく、いふかひなく思さるること限りなし。 |
と、ほのかにのたまはするも、ほのぼのきこゆるに、おほんいらへもきこえやりたまはず、なきたまふさま、いといみじ。"などかうしもこころよわきさまに。"と、ひとめをおぼしかへせど、いにしへよりのおほんありさまを、おほかたのよにつけても、あたらしくをしきひとのおほんさまを、こころにかなふわざならねば、かけとどめきこえんかたなく、いふかひなくおぼさるることかぎりなし。 |
19 | 3.3.6 | 191 | 173 |
「はかばかしからぬ身ながらも、昔より、御後見仕うまつるべきことを、心のいたる限り、おろかならず思ひたまふるに、太政大臣の隠れたまひぬるをだに、世の中、心あわたたしく思ひたまへらるるに、また、かくおはしませば、よろづに心乱れはべりて、世にはべらむことも、残りなき心地なむしはべる」 |
"はかばかしからぬみながらも、むかしより、おほんうしろみつかうまつるべきことを、こころのいたるかぎり、おろかならずおもひたまふるに、おほきおとどのかくれたまひぬるをだに、よのなか、こころあわたたしくおもひたまへらるるに、また、かくおはしませば、よろづにこころみだれはべりて、よにはべらんことも、のこりなきここちなんしはべる。" |
19 | 3.3.7 | 192 | 174 |
など聞こえたまふほどに、燈火などの消え入るやうにて果てたまひぬれば、いふかひなく悲しきことを思し嘆く。 |
などきこえたまふほどに、ともしびなどのきえいるやうにてはてたまひぬれば、いふかひなくかなしきことをおぼしなげく。 |
19 | 3.4 | 193 | 175 | 第四段 源氏、藤壺を哀悼 |
19 | 3.4.1 | 194 | 176 |
かしこき御身のほどと聞こゆるなかにも、御心ばへなどの、世のためしにもあまねくあはれにおはしまして、豪家にことよせて、人の愁へとあることなどもおのづからうち混じるを、いささかもさやうなる事の乱れなく、人の仕うまつることをも、世の苦しみとあるべきことをば、止めたまふ。 |
かしこきおほんみのほどときこゆるなかにも、みこころばへなどの、よのためしにもあまねくあはれにおはしまして、がうけにことよせて、ひとのうれへとあることなどもおのづからうちまじるを、いささかもさやうなることのみだれなく、ひとのつかうまつることをも、よのくるしみとあるべきことをば、とどめたまふ。 |
19 | 3.4.2 | 195 | 177 |
功徳の方とても、勧むるによりたまひて、いかめしうめづらしうしたまふ人なども、昔のさかしき世に皆ありけるを、これは、さやうなることなく、ただもとよりの宝物、得たまふべき年官、年爵、御封の物のさるべき限りして、まことに心深きことどもの限りをし置かせたまへれば、何とわくまじき山伏などまで惜しみきこゆ。 |
くどくのかたとても、すすむるによりたまひて、いかめしうめづらしうしたまふひとなども、むかしのさかしきよにみなありけるを、これは、さやうなることなく、ただもとよりのたからもの、えたまふべきつかさ、かうぶり、みふのもののさるべきかぎりして、まことにこころふかきことどものかぎりをしおかせたまへれば、なにとわくまじきやまぶしなどまでをしみきこゆ。 |
19 | 3.4.3 | 196 | 179 |
をさめたてまつるにも、世の中響きて、悲しと思はぬ人なし。殿上人など、なべてひとつ色に黒みわたりて、ものの栄なき春の暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴の折など思し出づ。「今年ばかりは」と、一人ごちたまひて、人の見とがめつべければ、御念誦堂に籠もりゐたまひて、日一日泣き暮らしたまふ。夕日はなやかにさして、山際の梢あらはなるに、雲の薄くわたれるが、鈍色なるを、何ごとも御目とどまらぬころなれど、いとものあはれに思さる。 |
をさめたてまつるにも、よのなかひびきて、かなしとおもはぬひとなし。てんじゃうびとなど、なべてひとついろにくろみわたりて、もののはえなきはるのくれなり。にでうのゐんのおまへのさくらをごらんじても、はなのえんのをりなどおぼしいづ。"ことしばかりは。"と、ひとりごちたまひて、ひとのみとがめつべければ、おほんねんずだうにこもりゐたまひて、ひひとひなきくらしたまふ。ゆふひはなやかにさして、やまぎはのこずゑあらはなるに、くものうすくわたれるが、にびいろなるを、なにごともおほんめとどまらぬころなれど、いとものあはれにおぼさる。 |
19 | 3.4.4 | 197 | 180 |
「入り日さす峰にたなびく薄雲は<BR/>もの思ふ袖に色やまがへる」 |
"〔いりひさすみねにたなびくうすぐもは<BR/>ものおもふそでにいろやまがへる〕 |
19 | 3.4.5 | 198 | 181 |
人聞かぬ所なれば、かひなし。 |
ひときかぬところなれば、かひなし。 |
19 | 4 | 199 | 182 | 第四章 冷泉帝の物語 出生の秘密と譲位ほのめかし |
19 | 4.1 | 200 | 183 | 第一段 夜居僧都、帝に密奏 |
19 | 4.1.1 | 201 | 184 |
御わざなども過ぎて、事ども静まりて、帝、もの心細く思したり。この入道の宮の御母后の御世より伝はりて、次々の御祈りの師にてさぶらひける僧都、故宮にもいとやむごとなく親しきものに思したりしを、朝廷にも重き御おぼえにて、いかめしき御願ども多く立てて、世にかしこき聖なりける、年七十ばかりにて、今は終りの行なひをせむとて籠もりたるが、宮の御事によりて出でたるを、内裏より召しありて、常にさぶらはせたまふ。 |
みわざなどもすぎて、ことどもしづまりて、みかど、ものこころぼそくおぼしたり。このにふだうのみやのおほんははぎさきのみよよりつたはりて、つぎつぎのおほんいのりのしにてさぶらひけるそうづ、こみやにもいとやんごとなくしたしきものにおぼしたりしを、おほやけにもおもきおほんおぼえにて、いかめしきおほんがんどもおほくたてて、よにかしこきひじりなりける、とししちじふばかりにて、いまはをはりのおこなひをせんとてこもりたるが、みやのおほんことによりていでたるを、うちよりめしありて、つねにさぶらはせたまふ。 |
19 | 4.1.2 | 202 | 185 |
このごろは、なほもとのごとく参りさぶらはるべきよし、大臣も勧めのたまへば、 |
このごろは、なほもとのごとくまゐりさぶらはるべきよし、おとどもすすめのたまへば、 |
19 | 4.1.3 | 203 | 186 |
「今は、夜居など、いと堪へがたうおぼえはべれど、仰せ言のかしこきにより、古き心ざしを添へて」 |
"いまは、よゐなど、いとたへがたうおぼえはべれど、おほせごとのかしこきにより、ふるきこころざしをそへて。" |
19 | 4.1.4 | 204 | 187 |
とて、さぶらふに、静かなる暁に、人も近くさぶらはず、あるはまかでなどしぬるほどに、古代にうちしはぶきつつ、世の中のことども奏したまふついでに、 |
とて、さぶらふに、しづかなるあかつきに、ひともちかくさぶらはず、あるはまかでなどしぬるほどに、こたいにうちしはぶきつつ、よのなかのことどもそうしたまふついでに、 |
19 | 4.1.5 | 205 | 188 |
「いと奏しがたく、かへりては罪にもやまかり当たらむと思ひたまへ憚る方多かれど、知ろし召さぬに、罪重くて、天眼恐ろしく思ひたまへらるることを、心にむせびはべりつつ、命終りはべりなば、何の益かははべらむ。仏も心ぎたなしとや思し召さむ」 |
"いとそうしがたく、かへりてはつみにもやまかりあたらんとおもひたまへはばかるかたおほかれど、しろしめさぬに、つみおもくて、てんげんおそろしくおもひたまへらるることを、こころにむせびはべりつつ、いのちをはりはべりなば、なにのやくかははべらん。ほとけもこころぎたなしとやおぼしめさん。" |
19 | 4.1.6 | 206 | 189 |
とばかり奏しさして、えうち出でぬことあり。 |
とばかりそうしさして、えうちいでぬことあり。 |
19 | 4.2 | 207 | 190 | 第二段 冷泉帝、出生の秘密を知る |
19 | 4.2.1 | 208 | 191 |
主上、「何事ならむ。この世に恨み残るべく思ふことやあらむ。法師は、聖といへども、あるまじき横様の嫉み深く、うたてあるものを」と思して、 |
うへ、"なにごとならん。このよにうらみのこるべくおもふことやあらん。ほふしは、ひじりといへども、あるまじきよこざまのそねみふかく、うたてあるものを。"とおぼして、 |
19 | 4.2.2 | 209 | 192 |
「いはけなかりし時より、隔て思ふことなきを、そこには、かく忍び残されたることありけるをなむ、つらく思ひぬる」 |
"いはけなかりしときより、へだておもふことなきを、そこには、かくしのびのこされたることありけるをなん、つらくおもひぬる。" |
19 | 4.2.3 | 210 | 193 |
とのたまはすれば、 |
とのたまはすれば、 |
19 | 4.2.4 | 211 | 194 |
「あなかしこ。さらに、仏の諌め守りたまふ真言の深き道をだに、隠しとどむることなく広め仕うまつりはべり。まして、心に隈あること、何ごとにかはべらむ。 |
"あなかしこ。さらに、ほとけのいさめまもりたまふしんごんのふかきみちをだに、かくしとどむることなくひろめつかうまつりはべり。まして、こころにくまあること、なにごとにかはべらん。 |
19 | 4.2.5 | 212 | 195 |
これは来し方行く先の大事とはべることを、過ぎおはしましにし院、后の宮、ただ今世をまつりごちたまふ大臣の御ため、すべて、かへりてよからぬ事にや漏り出ではべらむ。かかる老法師の身には、たとひ愁へはべりとも、何の悔かはべらむ。仏天の告げあるによりて奏しはべるなり。 |
これはきしかたゆくさきのだいじとはべることを、すぎおはしましにしゐん、きさいのみや、ただいまよをまつりごちたまふおとどのおほんため、すべて、かへりてよからぬことにやもりいではべらん。かかるおいほふしのみには、たとひうれへはべりとも、なにのくいかはべらん。ぶつてんのつげあるによりてそうしはべるなり。 |
19 | 4.2.6 | 213 | 196 |
わが君はらまれおはしましたりし時より、故宮の深く思し嘆くことありて、御祈り仕うまつらせたまふゆゑなむはべりし。詳しくは法師の心にえ悟りはべらず。事の違ひめありて、大臣横様の罪に当たりたまひし時、いよいよ懼ぢ思し召して、重ねて御祈りども承はりはべりしを、大臣も聞こし召してなむ、またさらに言加へ仰せられて、御位に即きおはしまししまで仕うまつることどもはべりし。 |
わがきみはらまれおはしましたりしときより、こみやのふかくおぼしなげくことありて、おほんいのりつかうまつらせたまふゆゑなんはべりし。くはしくはほふしのこころにえさとりはべらず。ことのたがひめありて、おとどよこさまのつみにあたりたまひしとき、いよいよおぢおぼしめして、かさねておほんいのりどもうけたまはりはべりしを、おとどもきこしめしてなん、またさらにことくはへおほせられて、おほんくらゐにつきおはしまししまでつかうまつることどもはべりし。 |
19 | 4.2.7 | 214 | 197 |
その承りしさま」 |
そのうけたまはりしさま。" |
19 | 4.2.8 | 215 | 198 |
とて、詳しく奏するを聞こし召すに、あさましうめづらかにて、恐ろしうも悲しうも、さまざまに御心乱れたり。 |
とて、くはしくそうするをきこしめすに、あさましうめづらかにて、おそろしうもかなしうも、さまざまにみこころみだれたり。 |
19 | 4.2.9 | 216 | 199 |
とばかり、御応へもなければ、僧都、「進み奏しつるを便なく思し召すにや」と、わづらはしく思ひて、やをらかしこまりてまかづるを、召し止めて、 |
とばかり、おほんいらへもなければ、そうづ、"すすみそうしつるをびんなくおぼしめすにや"と、わづらはしくおもひて、やをらかしこまりてまかづるを、めしとどめて、 |
19 | 4.2.10 | 217 | 200 |
「心に知らで過ぎなましかば、後の世までの咎めあるべかりけることを、今まで忍び籠められたりけるをなむ、かへりてはうしろめたき心なりと思ひぬる。またこの事を知りて漏らし伝ふるたぐひやあらむ」 |
"こころにしらですぎなましかば、のちのよまでのとがめあるべかりけることを、いままでしのびこめられたりけるをなん、かへりてはうしろめたきこころなりとおもひぬる。またこのことをしりてもらしつたふるたぐひやあらん。" |
19 | 4.2.11 | 218 | 201 |
とのたまはす。 |
とのたまはす。 |
19 | 4.2.12 | 219 | 202 |
「さらに、なにがしと王命婦とより他の人、この事のけしき見たるはべらず。さるによりなむ、いと恐ろしうはべる。天変しきりにさとし、世の中静かならぬは、このけなり。いときなく、ものの心知ろし召すまじかりつるほどこそはべりつれ、やうやう御齢足りおはしまして、何事もわきまへさせたまふべき時に至りて、咎をも示すなり。よろづのこと、親の御世より始まるにこそはべるなれ。何の罪とも知ろし召さぬが恐ろしきにより、思ひたまへ消ちてしことを、さらに心より出しはべりぬること」 |
"さらに、なにがしとわうみゃうぶとよりほかのひと、このことのけしきみたるはべらず。さるによりなん、いとおそろしうはべる。てんべんしきりにさとし、よのなかしづかならぬは、このけなり。いときなく、もののこころしろしめすまじかりつるほどこそはべりつれ、やうやうおほんよはひたりおはしまして、なにごともわきまへさせたまふべきときにいたりて、とがをもしめすなり。よろづのこと、おやのみよよりはじまるにこそはべるなれ。なにのつみともしろしめさぬがおそろしきにより、おもひたまへけちてしことを、さらにこころよりいだしはべりぬること。" |
19 | 4.2.13 | 220 | 203 |
と、泣く泣く聞こゆるほどに、明け果てぬれば、まかでぬ。 |
と、なくなくきこゆるほどに、あけはてぬれば、まかでぬ。 |
19 | 4.2.14 | 221 | 204 |
主上は、夢のやうにいみじきことを聞かせたまひて、いろいろに思し乱れさせたまふ。 |
うへは、ゆめのやうにいみじきことをきかせたまひて、いろいろにおぼしみだれさせたまふ。 |
19 | 4.2.15 | 222 | 205 |
「故院の御ためもうしろめたく、大臣のかくただ人にて世に仕へたまふも、あはれにかたじけなかりける事」 |
"こゐんのおほんためもうしろめたく、おとどのかくただうどにてよにつかへたまふも、あはれにかたじけなかりけること。" |
19 | 4.2.16 | 223 | 206 |
かたがた思し悩みて、日たくるまで出でさせたまはねば、「かくなむ」と聞きたまひて、大臣も驚きて参りたまへるを、御覧ずるにつけても、いとど忍びがたく思し召されて、御涙のこぼれさせたまひぬるを、 |
かたがたおぼしなやみて、ひたくるまでいでさせたまはねば、"かくなん。"とききたまひて、おとどもおどろきてまゐりたまへるを、ごらんずるにつけても、いとどしのびがたくおぼしめされて、おほんなみだのこぼれさせたまひぬるを、 |
19 | 4.2.17 | 224 | 207 |
「おほかた故宮の御事を、干る世なく思し召したるころなればなめり」 |
"おほかたこみやのおほんことを、ひるよなくおぼしめしたるころなればなめり。" |
19 | 4.2.18 | 225 | 208 |
と見たてまつりたまふ。 |
とみたてまつりたまふ。 |
19 | 4.3 | 226 | 209 | 第三段 帝,譲位の考えを漏らす |
19 | 4.3.1 | 227 | 210 |
その日、式部卿の親王亡せたまひぬるよし奏するに、いよいよ世の中の騒がしきことを嘆き思したり。かかるころなれば、大臣は里にもえまかでたまはで、つとさぶらひたまふ。 |
そのひ、しきぶきゃうのみこうせたまひぬるよしそうするに、いよいよよのなかのさわがしきことをなげきおぼしたり。かかるころなれば、おとどはさとにもえまかでたまはで、つとさぶらひたまふ。 |
19 | 4.3.2 | 228 | 211 |
しめやかなる御物語のついでに、 |
しめやかなるおほんものがたりのついでに、 |
19 | 4.3.3 | 229 | 212 |
「世は尽きぬるにやあらむ。もの心細く例ならぬ心地なむするを、天の下もかくのどかならぬに、よろづあわたたしくなむ。故宮の思さむところによりてこそ、世間のことも思ひ憚りつれ、今は心やすきさまにても過ぐさまほしくなむ」 |
"よはつきぬるにやあらん。ものこころぼそくれいならぬここちなんするを、あめのしたもかくのどかならぬに、よろづあわたたしくなん。こみやのおぼさんところによりてこそ、せけんのこともおもひはばかりつれ、いまはこころやすきさまにてもすぐさまほしくなん。" |
19 | 4.3.4 | 230 | 213 |
と語らひきこえたまふ。 |
とかたらひきこえたまふ。 |
19 | 4.3.5 | 231 | 214 |
「いとあるまじき御ことなり。世の静かならぬことは、かならず政事の直く、ゆがめるにもよりはべらず。さかしき世にしもなむ、よからぬことどももはべりける。聖の帝の世にも、横様の乱れ出で来ること、唐土にもはべりける。わが国にもさなむはべる。まして、ことわりの齢どもの、時至りぬるを、思し嘆くべきことにもはべらず」 |
"いとあるまじきおほんことなり。よのしづかならぬことは、かならずまつりごとのなほく、ゆがめるにもよりはべらず。さかしきよにしもなん、よからぬことどももはべりける。ひじりのみかどのよにも、よこさまのみだれいでくること、もろこしにもはべりける。わがくににもさなんはべる。まして、ことわりのよはひどもの、ときいたりぬるを、おぼしなげくべきことにもはべらず。" |
19 | 4.3.6 | 232 | 215 |
など、すべて多くのことどもを聞こえたまふ。片端まねぶも、いとかたはらいたしや。 |
など、すべておほくのことどもをきこえたまふ。かたはしまねぶも、いとかたはらいたしや。 |
19 | 4.3.7 | 233 | 216 |
常よりも黒き御装ひに、やつしたまへる御容貌、違ふところなし。主上も、年ごろ御鏡にも、思しよることなれど、聞こし召ししことの後は、またこまかに見たてまつりたまひつつ、ことにいとあはれに思し召さるれば、「いかで、このことをかすめ聞こえばや」と思せど、さすがに、はしたなくも思しぬべきことなれば、若き御心地につつましくて、ふともえうち出できこえたまはぬほどは、ただおほかたのことどもを、常よりことになつかしう聞こえさせたまふ。 |
つねよりもくろきおほんよそひに、やつしたまへるおほんかたち、たがふところなし。うへも、としごろおほんかがみにも、おぼしよることなれど、きこしめししことののちは、またこまかにみたてまつりたまひつつ、ことにいとあはれにおぼしめさるれば、"いかで、このことをかすめきこえばや。"とおぼせど、さすがに、はしたなくもおぼしぬべきことなれば、わかきみここちにつつましくて、ふともえうちいできこえたまはぬほどは、ただおほかたのことどもを、つねよりことになつかしうきこえさせたまふ。 |
19 | 4.3.8 | 234 | 217 |
うちかしこまりたまへるさまにて、いと御けしきことなるを、かしこき人の御目には、あやしと見たてまつりたまへど、いとかく、さださだと聞こし召したらむとは思さざりけり。 |
うちかしこまりたまへるさまにて、いとみけしきことなるを、かしこきひとのおほんめには、あやしとみたてまつりたまへど、いとかく、さださだときこしめしたらんとはおぼさざりけり。 |
19 | 4.4 | 235 | 218 | 第四段 帝,源氏への譲位を思う |
19 | 4.4.1 | 236 | 219 |
主上は、王命婦に詳しきことは、問はまほしう思し召せど、 |
うへは、わうみゃうぶにくはしきことは、とはまほしうおぼしめせど、 |
19 | 4.4.2 | 237 | 220 |
「今さらに、しか忍びたまひけむこと知りにけりと、かの人にも思はれじ。ただ、大臣にいかでほのめかし問ひきこえて、先々のかかる事の例はありけりやと問ひ聞かむ」 |
"いまさらに、しかしのびたまひけんことしりにけりと、かのひとにもおもはれじ。ただ、おとどにいかでほのめかしとひきこえて、さきざきのかかることのれいはありけりやととひきかん。" |
19 | 4.4.3 | 238 | 221 |
とぞ思せど、さらについでもなければ、いよいよ御学問をせさせたまひつつ、さまざまの書どもを御覧ずるに、 |
とぞおぼせど、さらについでもなければ、いよいよおほんがくもんをせさせたまひつつ、さまざまのふみどもをごらんずるに、 |
19 | 4.4.4 | 239 | 222 |
「唐土には、現はれても忍びても、乱りがはしき事いと多かりけり。日本には、さらに御覧じ得るところなし。たとひあらむにても、かやうに忍びたらむことをば、いかでか伝へ知るやうのあらむとする。一世の源氏、また納言、大臣になりて後に、さらに親王にもなり、位にも即きたまひつるも、あまたの例ありけり。人柄のかしこきにことよせて、さもや譲りきこえまし」 |
"もろこしには、あらはれてもしのびても、みだりがはしきこといとおほかりけり。ひのもとには、さらにごらんじうるところなし。たとひあらんにても、かやうにしのびたらんことをば、いかでかつたへしるやうのあらんとする。いちせのげんじ、またなふごん、だいじんになりてのちに、さらにみこにもなり、くらゐにもつきたまひつるも、あまたのれいありけり。ひとがらのかしこきにことよせて、さもやゆづりきこえまし。" |
19 | 4.4.5 | 240 | 223 |
など、よろづにぞ思しける。 |
など、よろづにぞおぼしける。 |
19 | 4.5 | 241 | 224 | 第五段 源氏、帝の意向を峻絶 |
19 | 4.5.1 | 242 | 225 |
秋の司召に、太政大臣になりたまふべきこと、うちうちに定め申したまふついでになむ、帝、思し寄する筋のこと、漏らしきこえたまひけるを、大臣、いとまばゆく、恐ろしう思して、さらにあるまじきよしを申し返したまふ。 |
あきのつかさめしに、だいじゃうだいじんになりたまふべきこと、うちうちにさだめまうしたまふついでになん、みかど、おぼしよするすぢのこと、もらしきこえたまひけるを、おとど、いとまばゆく、おそろしうおぼして、さらにあるまじきよしをまうしかへしたまふ。 |
19 | 4.5.2 | 243 | 226 |
「故院の御心ざし、あまたの皇子たちの御中に、とりわきて思し召しながら、位を譲らせたまはむことを思し召し寄らずなりにけり。何か、その御心改めて、及ばぬ際には昇りはべらむ。ただ、もとの御おきてのままに、朝廷に仕うまつりて、今すこしの齢かさなりはべりなば、のどかなる行なひに籠もりはべりなむと思ひたまふる」 |
"こゐんのみこころざし、あまたのみこたちのおほんなかに、とりわきておぼしめしながら、くらゐをゆづらせたまはんことをおぼしめしよらずなりにけり。なにか、そのみこころあらためて、およばぬきはにはのぼりはべらん。ただ、もとのおほんおきてのままに、おほやけにつかうまつりて、いますこしのよはひかさなりはべりなば、のどかなるおこなひにこもりはべりなんとおもひたまふる。" |
19 | 4.5.3 | 244 | 227 |
と、常の御言の葉に変はらず奏したまへば、いと口惜しうなむ思しける。 |
と、つねのおほんことのはにかはらずそうしたまへば、いとくちをしうなんおぼしける。 |
19 | 4.5.4 | 245 | 228 |
太政大臣になりたまふべき定めあれど、しばし、と思すところありて、ただ御位添ひて、牛車聴されて参りまかでしたまふを、帝、飽かず、かたじけなきものに思ひきこえたまひて、なほ親王になりたまふべきよしを思しのたまはすれど、 |
だいじゃうだいじんになりたまふべきさだめあれど、しばし、とおぼすところありて、ただみくらゐそひて、うしぐるまゆるされてまゐりまかでしたまふを、みかど、あかず、かたじけなきものにおもひきこえたまひて、なほみこになりたまふべきよしをおぼしのたまはすれど、 |
19 | 4.5.5 | 246 | 229 |
「世の中の御後見したまふべき人なし。権中納言、大納言になりて、右大将かけたまへるを、今一際あがりなむに、何ごとも譲りてむ。さて後に、ともかくも、静かなるさまに」 |
"よのなかのおほんうしろみしたまふべきひとなし。ごんちゅうなごん、だいなごんになりて、うだいしゃうかけたまへるを、いまひときはあがりなんに、なにごともゆづりてん。さてのちに、ともかくも、しづかなるさまに。" |
19 | 4.5.6 | 247 | 230 |
とぞ思しける。なほ思しめぐらすに、 |
とぞおぼしける。なほおぼしめぐらすに、 |
19 | 4.5.7 | 248 | 231 |
「故宮の御ためにもいとほしう、また主上のかく思し召し悩めるを見たてまつりたまふもかたじけなきに、誰れかかることを漏らし奏しけむ」 |
"こみやのおほんためにもいとほしう、またうへのかくおぼしめしなやめるをみたてまつりたまふもかたじけなきに、たれかかることをもらしそうしけん。" |
19 | 4.5.8 | 249 | 232 |
と、あやしう思さる。 |
と、あやしうおぼさる。 |
19 | 4.5.9 | 250 | 233 |
命婦は、御匣殿の替はりたる所に移りて、曹司たまはりて参りたり。大臣、対面したまひて、 |
みゃうぶは、みくしげどののかはりたるところにうつりて、ざうしたまはりてまゐりたり。おとど、たいめんしたまひて、 |
19 | 4.5.10 | 251 | 234 |
「このことを、もし、もののついでに、露ばかりにても漏らし奏したまふことやありし」 |
"このことを、もし、もののついでに、つゆばかりにてももらしそうしたまふことやありし。" |
19 | 4.5.11 | 252 | 235 |
と案内したまへど、 |
とあないしたまへど、 |
19 | 4.5.12 | 253 | 236 |
「さらに。かけても聞こし召さむことを、いみじきことに思し召して、かつは、罪得ることにやと、主上の御ためを、なほ思し召し嘆きたりし」 |
"さらに。かけてもきこしめさんことを、いみじきことにおぼしめして、かつは、つみうることにやと、うへのおほんためを、なほおぼしめしなげきたりし。" |
19 | 4.5.13 | 254 | 237 |
と聞こゆるにも、ひとかたならず心深くおはせし御ありさまなど、尽きせず恋ひきこえたまふ。 |
ときこゆるにも、ひとかたならずこころぶかくおはせしおほんありさまなど、つきせずこひきこえたまふ。 |
19 | 5 | 255 | 238 | 第五章 光る源氏の物語 春秋優劣論と六条院造営の計画 |
19 | 5.1 | 256 | 239 | 第一段 斎宮女御、二条院に里下がり |
19 | 5.1.1 | 257 | 240 |
斎宮の女御は、思ししもしるき御後見にて、やむごとなき御おぼえなり。御用意、ありさまなども、思ふさまにあらまほしう見えたまへれば、かたじけなきものにもてかしづききこえたまへり。 |
さいぐうのにょうごは、おぼししもしるきおほんうしろみにて、やんごとなきおほんおぼえなり。おほんようい、ありさまなども、おもふさまにあらまほしうみえたまへれば、かたじけなきものにもてかしづききこえたまへり。 |
19 | 5.1.2 | 258 | 241 |
秋のころ、二条院にまかでたまへり。寝殿の御しつらひ、いとど輝くばかりしたまひて、今はむげの親ざまにもてなして、扱ひきこえたまふ。 |
あきのころ、にでうのゐんにまかでたまへり。しんでんのおほんしつらひ、いとどかかやくばかりしたまひて、いまはむげのおやざまにもてなして、あつかひきこえたまふ。 |
19 | 5.1.3 | 259 | 242 |
秋の雨いと静かに降りて、御前の前栽の色々乱れたる露のしげさに、いにしへのことどもかき続け思し出でられて、御袖も濡れつつ、女御の御方に渡りたまへり。こまやかなる鈍色の御直衣姿にて、世の中の騒がしきなどことつけたまひて、やがて御精進なれば、数珠ひき隠して、さまよくもてなしたまへる、尽きせずなまめかしき御ありさまにて、御簾の内に入りたまひぬ。 |
あきのあめいとしづかにふりて、おまへのせんさしのいろいろみだれたるつゆのしげさに、いにしへのことどもかきつづけおぼしいでられて、おほんそでもぬれつつ、にょうごのおほんかたにわたりたまへり。こまやかなるにびいろのおほんなほしすがたにて、よのなかのさわがしきなどことつけたまひて、やがておほんさうじんなれば、ずずひきかくして、さまよくもてなしたまへる、つきせずなまめかしきおほんありさまにて、みすのうちにいりたまひぬ。 |
19 | 5.2 | 260 | 243 | 第二段 源氏、女御と往時を語る |
19 | 5.2.1 | 261 | 244 |
御几帳ばかりを隔てて、みづから聞こえたまふ。 |
みきちゃうばかりをへだてて、みづからきこえたまふ。 |
19 | 5.2.2 | 262 | 245 |
「前栽どもこそ残りなく紐解きはべりにけれ。いとものすさまじき年なるを、心やりて時知り顔なるも、あはれにこそ」 |
"せんさいどもこそのこりなくひもときはべりにけれ。いとものすさまじきとしなるを、こころやりてときしりがほなるも、あはれにこそ。" |
19 | 5.2.3 | 263 | 246 |
とて、柱に寄りゐたまへる夕ばえ、いとめでたし。昔の御ことども、かの野の宮に立ちわづらひし曙などを、聞こえ出でたまふ。いとものあはれと思したり。 |
とて、はしらによりゐたまへるゆふばえ、いとめでたし。むかしのおほんことども、かのののみやにたちわづらひしあけぼのなどを、きこえいでたまふ。いとものあはれとおぼしたり。 |
19 | 5.2.4 | 264 | 247 |
宮も、「かくれば」とにや、すこし泣きたまふけはひ、いとらうたげにて、うち身じろきたまふほども、あさましくやはらかになまめきておはすべかめる。「見たてまつらぬこそ、口惜しけれ」と、胸のうちつぶるるぞ、うたてあるや。 |
みやも、"かくれば"とにや、すこしなきたまふけはひ、いとらうたげにて、うちみじろきたまふほども、あさましくやはらかになまめきておはすべかめる。"みたてまつらぬこそ、くちをしけれ。"と、むねのうちつぶるるぞ、うたてあるや。 |
19 | 5.2.5 | 265 | 248 |
「過ぎにし方、ことに思ひ悩むべきこともなくてはべりぬべかりし世の中にも、なほ心から、好き好きしきことにつけて、もの思ひの絶えずもはべりけるかな。さるまじきことどもの、心苦しきが、あまたはべりし中に、つひに心も解けず、むすぼほれて止みぬること、二つなむはべる。 |
"すぎにしかた、ことにおもひなやむべきこともなくてはべりぬべかりしよのなかにも、なほこころから、すきずきしきことにつけて、ものおもひのたえずもはべりけるかな。さるまじきことどもの、こころぐるしきが、あまたはべりしなかに、つひにこころもとけず、むすぼほれてやみぬること、ふたつなんはべる。 |
19 | 5.2.6 | 266 | 249 |
一つは、この過ぎたまひにし御ことよ。あさましうのみ思ひつめて止みたまひにしが、長き世の愁はしきふしと思ひたまへられしを、かうまでも仕うまつり、御覧ぜらるるをなむ、慰めに思うたまへなせど、燃えし煙の、むすぼほれたまひけむは、なほいぶせうこそ思ひたまへらるれ」 |
ひとつは、このすぎたまひにしおほんことよ。あさましうのみおもひつめてやみたまひにしが、ながきよのうれはしきふしとおもひたまへられしを、かうまでもつかうまつり、ごらんぜらるるをなん、なぐさめにおもうたまへなせど、もえしけぶりの、むすぼほれたまひけんは、なほいぶせうこそおもひたまへらるれ。" |
19 | 5.2.7 | 267 | 250 |
とて、今一つはのたまひさしつ。 |
とて、いまひとつはのたまひさしつ。 |
19 | 5.2.8 | 268 | 251 |
「中ごろ、身のなきに沈みはべりしほど、方々に思ひたまへしことは、片端づつかなひにたり。東の院にものする人の、そこはかとなくて、心苦しうおぼえわたりはべりしも、おだしう思ひなりにてはべり。心ばへの憎からぬなど、我も人も見たまへあきらめて、いとこそさはやかなれ。 |
"なかごろ、みのなきにしづみはべりしほど、かたがたにおもひたまへしことは、かたはしづつかなひにたり。ひんがしのゐんにものするひとの、そこはかとなくて、こころぐるしうおぼえわたりはべりしも、おだしうおもひなりにてはべり。こころばへのにくからぬなど、われもひともみたまへあきらめて、いとこそさはやかなれ。 |
19 | 5.2.9 | 269 | 252 |
かく立ち返り、朝廷の御後見仕うまつるよろこびなどは、さしも心に深く染まず、かやうなる好きがましき方は、静めがたうのみはべるを、おぼろけに思ひ忍びたる御後見とは、思し知らせたまふらむや。あはれとだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらむ」 |
かくたちかへり、おほやけのおほんうしろみつかうまつるよろこびなどは、さしもこころにふかくしまず、かやうなるすきがましきかたは、しづめがたうのみはべるを、おぼろけにおもひしのびたるおほんうしろみとは、おぼししらせたまふらんや。あはれとだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらん。" |
19 | 5.2.10 | 270 | 253 |
とのたまへば、むつかしうて、御応へもなければ、 |
とのたまへば、むつかしうて、おほんいらへもなければ、 |
19 | 5.2.11 | 271 | 254 |
「さりや。あな心憂」 |
"さりや。あなこころう。" |
19 | 5.2.12 | 272 | 255 |
とて、異事に言ひ紛らはしたまひつ。 |
とて、ことことにいひまぎらはしたまひつ。 |
19 | 5.2.13 | 273 | 256 |
「今は、いかでのどやかに、生ける世の限り、思ふこと残さず、後の世の勤めも心にまかせて、籠もりゐなむと思ひはべるを、この世の思ひ出にしつべきふしのはべらぬこそ、さすがに口惜しうはべりぬべけれ。かならず、幼き人のはべる、生ひ先いと待ち遠なりや。かたじけなくとも、なほ、この門広げさせたまひて、はべらずなりなむ後にも、数まへさせたまへ」 |
"いまは、いかでのどやかに、いけるよのかぎり、おもふことのこさず、のちのよのつとめもこころにまかせて、こもりゐなんとおもひはべるを、このよのおもひいでにしつべきふしのはべらぬこそ、さすがにくちをしうはべりぬべけれ。かならず、をさなきひとのはべる、おひさきいとまちどほなりや、かたじけなくとも、なほ、このかどひろげさせたまひて、はべらずなりなんのちにも、かずまへさせたまへ。" |
19 | 5.2.14 | 274 | 257 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
19 | 5.2.15 | 275 | 258 |
御応へは、いとおほどかなるさまに、からうして一言ばかりかすめたまへるけはひ、いとなつかしげなるに聞きつきて、しめじめと暮るるまでおはす。 |
おほんいらへは、いとおほどかなるさまに、からうしてひとことばかりかすめたまへるけはひ、いとなつかしげなるにききつきて、しめじめとくるるまでおはす。 |
19 | 5.3 | 276 | 259 | 第三段 女御に春秋の好みを問う |
19 | 5.3.1 | 277 | 260 |
「はかばかしき方の望みはさるものにて、年のうち行き交はる時々の花紅葉、空のけしきにつけても、心の行くこともしはべりにしがな。春の花の林、秋の野の盛りを、とりどりに人争ひはべりける、そのころの、げにと心寄るばかりあらはなる定めこそはべらざなれ。 |
"はかばかしきかたののぞみはさるものにて、としのうちゆきかはるときどきのはなもみぢ、そらのけしきにつけても、こころのゆくこともしはべりにしがな。はるのはなのはやし、あきのののさかりを、とりどりにひとあらそひはべりける、そのころの、げにとこころよるばかりあらはなるさだめこそはべらざなれ。 |
19 | 5.3.2 | 278 | 261 |
唐土には、春の花の錦に如くものなしと言ひはべめり。大和言の葉には、秋のあはれを取り立てて思へる。いづれも時々につけて見たまふに、目移りて、えこそ花鳥の色をも音をもわきまへはべらね。 |
もろこしには、はるのはなのにしきにしくものなしといひはべめり。やまとことのはには、あきのあはれをとりたてておもへる。いづれもときどきにつけてみたまふに、めうつりて、えこそはなとりのいろをもねをもわきまへはべらね。 |
19 | 5.3.3 | 279 | 262 |
狭き垣根のうちなりとも、その折の心見知るばかり、春の花の木をも植ゑわたし、秋の草をも堀り移して、いたづらなる野辺の虫をも棲ませて、人に御覧ぜさせむと思ひたまふるを、いづ方にか御心寄せはべるべからむ」 |
せばきかきねのうちなりとも、そのをりのこころみしるばかり、はるのはなのきをもうゑわたし、あきのくさをもほりうつして、いたづらなるのべのむしをもすませて、ひとにごらんぜさせんとおもひたまふるを、いづかたにかみこころよせはべるべからん。" |
19 | 5.3.4 | 280 | 263 |
と聞こえたまふに、いと聞こえにくきことと思せど、むげに絶えて御応へ聞こえたまはざらむもうたてあれば、 |
ときこえたまふに、いときこえにくきこととおぼせど、むげにたえておほんいらへきこえたまはざらんもうたてあれば、 |
19 | 5.3.5 | 281 | 264 |
「まして、いかが思ひ分きはべらむ。げに、いつとなきなかに、あやしと聞きし夕べこそ、はかなう消えたまひにし露のよすがにも、思ひたまへられぬべけれ」 |
"まして、いかがおもひわきはべらん。げに、いつとなきなかに、あやしとききしゆふべこそ、はかなうきえたまひにしつゆのよすがにも、おもひたまへられぬべけれ。" |
19 | 5.3.6 | 282 | 265 |
と、しどけなげにのたまひ消つも、いとらうたげなるに、え忍びたまはで、 |
と、しどけなげにのたまひけつも、いとらうたげなるに、えしのびたまはで、 |
19 | 5.3.7 | 283 | 266 |
「君もさはあはれを交はせ人知れず<BR/>わが身にしむる秋の夕風 |
"〔きみもさはあはれをかはせひとしれず<BR/>わがみにしむるあきのゆふかぜ |
19 | 5.3.8 | 284 | 267 |
忍びがたき折々もはべりかし」 |
しのびがたきをりをりもはべりかし。" |
19 | 5.3.9 | 285 | 268 |
と聞こえたまふに、「いづこの御応へかはあらむ。心得ず」と思したる御けしきなり。このついでに、え籠めたまはで、恨みきこえたまふことどもあるべし。 |
ときこえたまふに、"いづこのおほんいらへかはあらん。こころえず。"とおぼしたるみけしきなり。このついでに、えこめたまはで、うらみきこえたまふことどもあるべし。 |
19 | 5.3.10 | 286 | 269 |
今すこし、ひがこともしたまひつべけれども、いとうたてと思いたるも、ことわりに、わが御心も、「若々しうけしからず」と思し返して、うち嘆きたまへるさまの、もの深うなまめかしきも、心づきなうぞ思しなりぬる。 |
いますこし、ひがこともしたまひつべけれども、いとうたてとおぼいたるも、ことわりに、わがみこころも、"わかわかしうけしからず。"とおぼしかへして、うちなげきたまへるさまの、ものふかうなまめかしきも、こころづきなうぞおぼしなりぬる。 |
19 | 5.3.11 | 287 | 270 |
やをらづつひき入りたまひぬるけしきなれば、 |
やをらづつひきいりたまひぬるけしきなれば、 |
19 | 5.3.12 | 288 | 271 |
「あさましうも、疎ませたまひぬるかな。まことに心深き人は、かくこそあらざなれ。よし、今よりは、憎ませたまふなよ。つらからむ」 |
"あさましうも、うとませたまひぬるかな。まことにこころふかきひとは、かくこそあらざなれ。よし、いまよりは、にくませたまふなよ。つらからん。" |
19 | 5.3.13 | 289 | 272 |
とて、渡りたまひぬ。 |
とて、わたりたまひぬ。 |
19 | 5.3.14 | 290 | 273 |
うちしめりたる御匂ひのとまりたるさへ、疎ましく思さる。人びと、御格子など参りて、 |
うちしめりたるおほんにほひのとまりたるさへ、うとましくおぼさる。ひとびと、みかうしなどまゐりて、 |
19 | 5.3.15 | 291 | 274 |
「この御茵の移り香、言ひ知らぬものかな」 |
"このおほんしとねのうつりが、いひしらぬものかな。" |
19 | 5.3.16 | 292 | 275 |
「いかでかく取り集め、柳の枝に咲かせたる御ありさまならむ」 |
"いかでかくとりあつめ、やなぎのえだにさかせたるおほんありさまならん。" |
19 | 5.3.17 | 293 | 276 |
「ゆゆしう」 |
"ゆゆしう。" |
19 | 5.3.18 | 294 | 277 |
と聞こえあへり。 |
ときこえあへり。 |
19 | 5.4 | 295 | 278 | 第四段 源氏、紫の君と語らう |
19 | 5.4.1 | 296 | 279 |
対に渡りたまひて、とみにも入りたまはず、いたう眺めて、端近う臥したまへり。燈籠遠くかけて、近く人びとさぶらはせたまひて、物語などせさせたまふ。 |
たいにわたりたまひて、とみにもいりたまはず、いたうながめて、はしちかうふしたまへり。とうろとほくかけて、ちかくひとびとさぶらはせたまひて、ものがたりなどせさせたまふ。 |
19 | 5.4.2 | 297 | 280 |
「かうあながちなることに胸ふたがる癖の、なほありけるよ」 |
"かうあながちなることにむねふたがるくせの、なほありけるよ。" |
19 | 5.4.3 | 298 | 281 |
と、わが身ながら思し知らる。 |
と、わがみながらおぼししらる。 |
19 | 5.4.4 | 299 | 282 |
「これはいと似げなきことなり。恐ろしう罪深き方は多うまさりけめど、いにしへの好きは、思ひやりすくなきほどの過ちに、仏神も許したまひけむ」と、思しさますも、「なほ、この道は、うしろやすく深き方のまさりけるかな」 |
"これはいとにげなきことなり。おそろしうつみふかきかたはおほうまさりけめど、いにしへのすきは、おもひやりすくなきほどのあやまちに、ほとけかみもゆるしたまひけん。"と、おぼしさますも、"なほ、このみちは、うしろやすくふかきかたのまさりけるかな。" |
19 | 5.4.5 | 300 | 283 |
と、思し知られたまふ。 |
と、おぼししられたまふ。 |
19 | 5.4.6 | 301 | 284 |
女御は、秋のあはれを知り顔に応へ聞こえてけるも、「悔しう恥づかし」と、御心ひとつにものむつかしうて、悩ましげにさへしたまふを、いとすくよかにつれなくて、常よりも親がりありきたまふ。 |
にょうごは、あきのあはれをしりがほにいらへきこえてけるも、"くやしうはづかし。"と、みこころひとつにものむつかしうて、なやましげにさへしたまふを、いとすくよかにつれなくて、つねよりもおやがりありきたまふ。 |
19 | 5.4.7 | 302 | 285 |
女君に、 |
をんなぎみに、 |
19 | 5.4.8 | 303 | 286 |
「女御の、秋に心を寄せたまへりしもあはれに、君の、春の曙に心しめたまへるもことわりにこそあれ。時々につけたる木草の花によせても、御心とまるばかりの遊びなどしてしがなと、公私のいとなみしげき身こそふさはしからね、いかで思ふことしてしがなと、ただ、御ためさうざうしくやと思ふこそ、心苦しけれ」 |
"にょうごの、あきにこころをよせたまへりしもあはれに、きみの、はるのあけぼのにこころしめたまへるもことわりにこそあれ。ときどきにつけたるきくさのはなによせても、みこころとまるばかりのあそびなどしてしがなと、おほやけわたくしのいとなみしげきみこそふさはしからね、いかでおもふことしてしがなと、ただ、おほんためさうざうしくやとおもふこそ、こころぐるしけれ。" |
19 | 5.4.9 | 304 | 287 |
など語らひきこえたまふ。 |
などかたらひきこえたまふ。 |
19 | 5.5 | 305 | 288 | 第五段 源氏、大堰の明石を訪う |
19 | 5.5.1 | 306 | 289 |
「山里の人も、いかに」など、絶えず思しやれど、所狭さのみまさる御身にて、渡りたまふこと、いとかたし。 |
"やまざとのひとも、いかに。"など、たえずおぼしやれど、ところせさのみまさるおほんみにて、わたりたまふこと、いとかたし。 |
19 | 5.5.2 | 307 | 290 |
「世の中をあぢきなく憂しと思ひ知るけしき、などかさしも思ふべき。心やすく立ち出でて、おほぞうの住まひはせじと思へる」を、「おほけなし」とは思すものから、いとほしくて、例の、不断の御念仏にことつけて渡りたまへり。 |
"よのなかをあぢきなくうしとおもひしるけしき、などかさしもおもふべき。こころやすくたちいでて、おほぞうのすまひはせじとおもへる。"を、"おほけなし。"とはおぼすものから、いとほしくて、れいの、ふだんのおほんねんぶつにことつけてわたりたまへり。 |
19 | 5.5.3 | 308 | 291 |
住み馴るるままに、いと心すごげなる所のさまに、いと深からざらむことにてだに、あはれ添ひぬべし。まして、見たてまつるにつけても、つらかりける御契りの、さすがに、浅からぬを思ふに、なかなかにて慰めがたきけしきなれば、こしらへかねたまふ。 |
すみなるるままに、いとこころすごげなるところのさまに、いとふかからざらんことにてだに、あはれそひぬべし。まして、みたてまつるにつけても、つらかりけるおほんちぎりの、さすがに、あさからぬをおもふに、なかなかにてなぐさめがたきけしきなれば、こしらへかねたまふ。 |
19 | 5.5.4 | 309 | 292 |
いと木繁き中より、篝火どもの影の、遣水の螢に見えまがふもをかし。 |
いとこしげきなかより、かがりびどものかげの、やりみづのほたるにみえまがふもをかし。 |
19 | 5.5.5 | 310 | 293 |
「かかる住まひにしほじまざらましかば、めづらかにおぼえまし」 |
"かかるすまひにしほじまざらましかば、めづらかにおぼえまし。" |
19 | 5.5.6 | 311 | 294 |
とのたまふに、 |
とのたまふに、 |
19 | 5.5.7 | 312 | 295 |
「漁りせし影忘られぬ篝火は<BR/>身の浮舟や慕ひ来にけむ |
"〔いさりせしかげわすられぬかがりびは<BR/>みのうきふねやしたひきにけん |
19 | 5.5.8 | 313 | 296 |
思ひこそ、まがへられはべれ」 |
おもひこそ、まがへられはべれ。" |
19 | 5.5.9 | 314 | 297 |
と聞こゆれば、 |
ときこゆれば、 |
19 | 5.5.10 | 315 | 298 |
「浅からぬしたの思ひを知らねばや<BR/>なほ篝火の影は騒げる |
"〔あさからぬしたのおもひをしらねばや<BR/>なほかがりびのかげはさわげる |
19 | 5.5.11 | 316 | 299 |
誰れ憂きもの」 |
たれうきもの。" |
19 | 5.5.12 | 317 | 300 |
と、おし返し恨みたまへる。 |
と、おしかへしうらみたまへる。 |
19 | 5.5.13 | 318 | 301 |
おほかたもの静かに思さるるころなれば、尊きことどもに御心とまりて、例よりは日ごろ経たまふにや、すこし思ひ紛れけむ、とぞ。 |
おほかたものしづかにおぼさるるころなれば、たふときことどもにみこころとまりて、れいよりはひごろへたまふにや、すこしおもひまぎれけん、とぞ。 |