帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
36 | 柏木 |
36 | 1 | 84 | 56 | 第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産 |
36 | 1.1 | 85 | 57 | 第一段 柏木、病気のまま新年となる |
36 | 1.1.1 | 86 | 58 |
衛門督の君、かくのみ悩みわたりたまふこと、なほおこたらで、年も返りぬ。大臣、北の方、思し嘆くさまを見たてまつるに、 |
ゑもんのかんのきみ、かくのみなやみわたりたまふこと、なほおこたらで、としもかへりぬ。おとど、きたのかた、おぼしなげくさまをみたてまつるに、 |
36 | 1.1.2 | 87 | 59 |
「しひてかけ離れなむ命、かひなく、罪重かるべきことを思ふ、心は心として、また、あながちにこの世に離れがたく、惜しみ留めまほしき身かは。いはけなかりしほどより、思ふ心異にて、何ごとをも、人に今一際まさらむと、公私のことに触れて、なのめならず思ひ上りしかど、その心叶ひがたかりけり」 |
"しひてかけはなれなんいのち、かひなく、つみおもかるべきことをおもふ、こころはこころとして、また、あながちにこのよにはなれがたく、をしみとどめまほしきみかは。いはけなかりしほどより、おもふこころことにて、なにごとをも、ひとにいまひときはまさらんと、おほやけわたくしのことにふれて、なのめならずおもひのぼりしかど、そのこころかなひがたかりけり。" |
36 | 1.1.3 | 88 | 60 |
と、一つ二つの節ごとに、身を思ひ落としてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、後の世の行なひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の重きほだしなるべくおぼえしかば、とざまかうざまに紛らはしつつ過ぐしつるを、つひに、 |
と、ひとつふたつのふしごとに、みをおもひおとしてしこなた、なべてのよのなかすさまじうおもひなりて、のちのよのおこなひにほいふかくすすみにしを、おやたちのおほんうらみをおもひて、のやまにもあくがれんみちのおもきほだしなるべくおぼえしかば、とざまかうざまにまぎらはしつつすぐしつるを、つひに、 |
36 | 1.1.4 | 89 | 61 |
「なほ、世に立ちまふべくもおぼえぬもの思ひの、一方ならず身に添ひにたるは、我より他に誰かはつらき、心づからもてそこなひつるにこそあめれ」 |
"なほ、よにたちまふべくもおぼえぬものおもひの、ひとかたならずみにそひにたるは、われよりほかにたれかはつらき、こころづからもてそこなひつるにこそあめれ。" |
36 | 1.1.5 | 90 | 62 |
と思ふに、恨むべき人もなし。 |
とおもふに、うらむべきひともなし。 |
36 | 1.1.6 | 91 | 63 |
「神、仏をもかこたむ方なきは、これ皆さるべきにこそはあらめ。誰も千年の松ならぬ世は、つひに止まるべきにもあらぬを、かく、人にも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ人あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ。 |
"かみ、ほとけをもかこたんかたなきは、これみなさるべきにこそはあらめ。たれもちとせのまつならぬよは、つひにとまるべきにもあらぬを、かく、ひとにも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふひとあらんをこそは、ひとつおもひにもえぬるしるしにはせめ。 |
36 | 1.1.7 | 92 | 64 |
せめてながらへば、おのづからあるまじき名をも立ち、我も人も、やすからぬ乱れ出で来るやうもあらむよりは、なめしと、心置いたまふらむあたりにも、さりとも思し許いてむかし。よろづのこと、今はのとぢめには、皆消えぬべきわざなり。また、異ざまの過ちしなければ、年ごろものの折ふしごとには、まつはしならひたまひにし方のあはれも出で来なむ」 |
せめてながらへば、おのづからあるまじきなをもたち、われもひとも、やすからぬみだれいでくるやうもあらんよりは、なめしと、こころおいたまふらんあたりにも、さりともおぼしゆるいてんかし。よろづのこと、いまはのとぢめには、みなきえぬべきわざなり。また、ことざまのあやまちしなければ、としごろもののをりふしごとには、まつはしならひたまひにしかたのあはれもいできなん。" |
36 | 1.1.8 | 93 | 65 |
など、つれづれに思ひ続くるも、うち返し、いとあぢきなし。 |
など、つれづれにおもひつづくるも、うちかへし、いとあぢきなし。 |
36 | 1.2 | 94 | 66 | 第二段 柏木、女三の宮へ手紙 |
36 | 1.2.1 | 95 | 67 |
「などかく、ほどもなくしなしつる身ならむ」と、かきくらし思ひ乱れて、枕も浮きぬばかり、人やりならず流し添へつつ、いささか隙ありとて、人びと立ち去りたまへるほどに、かしこに御文たてまつれたまふ。 |
"などかく、ほどもなくしなしつるみならん。"と、かきくらしおもひみだれて、まくらもうきぬばかり、ひとやりならずながしそへつつ、いささかひまありとて、ひとびとたちさりたまへるほどに、かしこにおほんふみたてまつれたまふ。 |
36 | 1.2.2 | 96 | 68 |
「今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから聞こしめすやうもはべらむを、いかがなりぬるとだに、御耳とどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いと憂くもはべるかな」 |
"いまはかぎりになりにてはべるありさまは、おのづからきこしめすやうもはべらんを、いかがなりぬるとだに、おほんみみとどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いとうくもはべるかな。" |
36 | 1.2.3 | 97 | 69 |
など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふことも皆書きさして、 |
などきこゆるに、いみじうわななけば、おもふこともみなききさして、 |
36 | 1.2.4 | 98 | 70 |
「今はとて燃えむ煙もむすぼほれ<BR/>絶えぬ思ひのなほや残らむ |
"〔いまはとてもえんけぶりもむすぼほれ<BR/>たえぬおもひのなほやのこらん |
36 | 1.2.5 | 99 | 71 |
あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもしはべらむ」 |
あはれとだにのたまはせよ。こころのどめて、ひとやりならぬやみにまどはんみちのひかりにもしはべらん。" |
36 | 1.2.6 | 100 | 72 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
36 | 1.2.7 | 101 | 73 |
侍従にも、こりずまに、あはれなることどもを言ひおこせたまへり。 |
じじうにも、こりずまに、あはれなることどもをいひおこせたまへり。 |
36 | 1.2.8 | 102 | 74 |
「みづからも、今一度言ふべきことなむ」 |
"みづからも、いまひとたびいふべきことなん。" |
36 | 1.2.9 | 103 | 75 |
とのたまへれば、この人も、童より、さるたよりに参り通ひつつ、見たてまつり馴れたる人なれば、おほけなき心こそうたておぼえたまひつれ、今はと聞くは、いと悲しうて、泣く泣く、 |
とのたまへれば、このひとも、わらはより、さるたよりにまゐりかよひつつ、みたてまつりなれたるひとなれば、おほけなきこころこそうたておぼえたまひつれ、いまはときくは、いとかなしうて、なくなく、 |
36 | 1.2.10 | 104 | 76 |
「なほ、この御返り。まことにこれをとぢめにもこそはべれ」 |
"なほ、このおほんかへり。まことにこれをとぢめにもこそはべれ。" |
36 | 1.2.11 | 105 | 77 |
と聞こゆれば、 |
ときこゆれば、 |
36 | 1.2.12 | 106 | 78 |
「われも、今日か明日かの心地して、もの心細ければ、おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、いと心憂きことと思ひ懲りにしかば、いみじうなむつつましき」 |
"われも、けふかあすかのここちして、ものこころぼそければ、おほかたのあはればかりはおもひしらるれど、いとこころうきこととおもひこりにしかば、いみじうなんつつましき。" |
36 | 1.2.13 | 107 | 79 |
とて、さらに書いたまはず。 |
とて、さらにかいたまはず。 |
36 | 1.2.14 | 108 | 80 |
御心本性の、強くづしやかなるにはあらねど、恥づかしげなる人の御けしきの、折々にまほならぬが、いと恐ろしうわびしきなるべし。されど、御硯などまかなひて責めきこゆれば、しぶしぶに書いたまふ。取りて、忍びて宵の紛れに、かしこに参りぬ。 |
みこころほんじゃうの、つよくづしやかなるにはあらねど、はづかしげなるひとのみけしきの、をりをりにまほならぬが、いとおそろしうわびしきなるべし。されど、おほんすずりなどまかなひてせめきこゆれば、しぶしぶにかいたまふ。とりて、しのびてよひのまぎれに、かしこにまゐりぬ。 |
36 | 1.3 | 109 | 81 | 第三段 柏木、侍従を招いて語る |
36 | 1.3.1 | 110 | 82 |
大臣、かしこき行なひ人、葛城山より請じ出でたる、待ち受けたまひて、加持参らせむとしたまふ。御修法、読経なども、いとおどろおどろしう騷ぎたり。人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る。患ひたまふさまの、そこはかとなくものを心細く思ひて、音をのみ、時々泣きたまふ。 |
おとど、かしこきおこなひびと、かづらきやまよりさうじいでたる、まちうけたまひて、かぢまゐらせんとしたまふ。みすほふ、どきゃうなども、いとおどろおどろしうさわぎたり。ひとのまうすままに、さまざまひじりだつげんざなどの、をさをさよにもきこえず、ふかきやまにこもりたるなどをも、おとうとのきみたちをつかはしつつ、たづねめすに、けにくくこころづきなきやまぶしどもなども、いとおほくまゐる。わづらひたまふさまの、そこはかとなくものをこころぼそくおもひて、ねをのみ、ときどきなきたまふ。 |
36 | 1.3.2 | 111 | 83 |
陰陽師なども、多くは女の霊とのみ占ひ申しければ、さることもやと思せど、さらにもののけの現はれ出で来るもなきに、思ほしわづらひて、かかる隈々をも尋ねたまふなりけり。 |
おみゃうじなども、おほくはをんなのりゃうとのみうらなひまうしければ、さることもやとおぼせど、さらにもののけのあらはれいでくるもなきに、おもほしわづらひて、かかるくまぐまをもたづねたまふなりけり。 |
36 | 1.3.3 | 112 | 84 |
この聖も、丈高やかに、まぶしつべたましくて、荒らかにおどろおどろしく陀羅尼読むを、 |
このひじりも、たけたかやかに、まぶしつべたましくて、あららかにおどろおどろしくだらによむを、 |
36 | 1.3.4 | 113 | 85 |
「いで、あな憎や。罪の深き身にやあらむ、陀羅尼の声高きは、いと気恐ろしくて、いよいよ死ぬべくこそおぼゆれ」 |
"いで、あなにくや。つみのふかきみにやあらん、だらにのこゑたかきは、いとけおそろしくて、いよいよしぬべくこそおぼゆれ。" |
36 | 1.3.5 | 114 | 86 |
とて、やをらすべり出でて、この侍従と語らひたまふ。 |
とて、やをらすべりいでて、このじじゅうとかたらひたまふ。 |
36 | 1.3.6 | 115 | 87 |
大臣は、さも知りたまはず、うち休みたると、人びとして申させたまへば、さ思して、忍びやかにこの聖と物語したまふ。おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきて、もの笑ひしたまふ大臣の、かかる者どもと向ひゐて、この患ひそめたまひしありさま、何ともなくうちたゆみつつ、重りたまへること、 |
おとどは、さもしりたまはず、うちやすみたると、ひとびとしてまうさせたまへば、さおぼして、しのびやかにこのひじりとものがたりしたまふ。おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきて、ものわらひしたまふおとどの、かかるものどもとむかひゐて、このわづらひそめたまひしありさま、なにともなくうちたゆみつつ、おもりたまへること、 |
36 | 1.3.7 | 116 | 88 |
「まことに、このもののけ、現はるべう念じたまへ」 |
"まことに、このもののけ、あらはるべうねんじたまへ。" |
36 | 1.3.8 | 117 | 89 |
など、こまやかに語らひたまふも、いとあはれなり。 |
など、こまやかにかたらひたまふも、いとあはれなり。 |
36 | 1.3.9 | 118 | 90 |
「かれ聞きたまへ。何の罪とも思し寄らぬに、占ひよりけむ女の霊こそ、まことにさる御執の身に添ひたるならば、厭はしき身をひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。 |
"かれききたまへ。なにのつみともおぼしよらぬに、うらなひよりけんをんなのりゃうこそ、まことにさるおほんしふのみにそひたるならば、いとはしきみをひきかへ、やんごとなくこそなりぬべけれ。 |
36 | 1.3.10 | 119 | 91 |
さてもおほけなき心ありて、さるまじき過ちを引き出でて、人の御名をも立て、身をも顧みぬたぐひ、昔の世にもなくやはありける、と思ひ直すに、なほけはひわづらはしう、かの御心に、かかる咎を知られたてまつりて、世にながらへむことも、いとまばゆくおぼゆるは、げに異なる御光なるべし。 |
さてもおほけなきこころありて、さるまじきあやまちをひきいでて、ひとのおほんなをもたて、みをもかへりみぬたぐひ、むかしのよにもなくやはありける、とおもひなほすに、なほけはひわづらはしう、かのみこころに、かかるとがをしられたてまつりて、よにながらへんことも、いとまばゆくおぼゆるは、げにことなるおほんひかりなるべし。 |
36 | 1.3.11 | 120 | 92 |
深き過ちもなきに、見合はせたてまつりし夕べのほどより、やがてかき乱り、惑ひそめにし魂の、身にも返らずなりにしを、かの院のうちにあくがれありかば、結びとどめたまへよ」 |
ふかきあやまちもなきに、みあはせたてまつりしゆふべのほどより、やがてかきみだり、まどひそめにしたましひの、みにもかへらずなりにしを、かのゐんのうちにあくがれありかば、むすびとどめたまへよ。" |
36 | 1.3.12 | 121 | 93 |
など、いと弱げに、殻のやうなるさまして、泣きみ笑ひみ語らひたまふ。 |
など、いとよわげに、からのやうなるさまして、なきみわらひみかたらひたまふ。 |
36 | 1.4 | 122 | 94 | 第四段 女三の宮の返歌を見る |
36 | 1.4.1 | 123 | 95 |
宮もものをのみ恥づかしうつつましと思したるさまを語る。さてうちしめり、面痩せたまへらむ御さまの、面影に見たてまつる心地して、思ひやられたまへば、げにあくがるらむ魂や、行き通ふらむなど、いとどしき心地も乱るれば、 |
みやもものをのみはづかしうつつましとおぼしたるさまをかたる。さてうちしめり、おもやせたまへらんおほんさまの、おもかげにみたてまつるここちして、おもひやられたまへば、げにあくがるらんたまや、ゆきかよふらんなど、いとどしきここちもみだるれば、 |
36 | 1.4.2 | 124 | 96 |
「今さらに、この御ことよ、かけても聞こえじ。この世はかうはかなくて過ぎぬるを、長き世のほだしにもこそと思ふなむ、いとほしき。心苦しき御ことを、平らかにとだにいかで聞き置いたてまつらむ。見し夢を心一つに思ひ合はせて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるかな」 |
"いまさらに、このおほんことよ、かけてもきこえじ。このよはかうはかなくてすぎぬるを、ながきよのほだしにもこそとおもふなん、いとほしき。こころぐるしきおほんことを、たひらかにとだにいかでききおいたてまつらん。みしゆめをこころひとつにおもひあはせて、またかたるひともなきが、いみじういぶせくもあるかな。" |
36 | 1.4.3 | 125 | 97 |
など、取り集め思ひしみたまへるさまの深きを、かつはいとうたて恐ろしう思へど、あはれはた、え忍ばず、この人もいみじう泣く。 |
など、とりあつめおもひしみたまへるさまのふかきを、かつはいとうたておそろしうおもへど、あはれはた、えしのばず、このひともいみじうなく。 |
36 | 1.4.4 | 126 | 99 |
紙燭召して、御返り見たまへば、御手もなほいとはかなげに、をかしきほどに書いたまひて、 |
しそくめして、おほんかへりみたまへば、おほんてもなほいとはかなげに、をかしきほどにかいたまひて、 |
36 | 1.4.5 | 127 | 100 |
「心苦しう聞きながら、いかでかは。ただ推し量り。『残らむ』とあるは、 |
"こころぐるしうききながら、いかでかは。ただおしはかり。"のこらん"とあるは、 |
36 | 1.4.6 | 128 | 101 |
立ち添ひて消えやしなまし憂きことを<BR/>思ひ乱るる煙比べに |
たちそひてきえやしなましうきことを<BR/>おもひみだるるけぶりくらべに |
36 | 1.4.7 | 129 | 102 |
後るべうやは」 |
おくるべうやは。" |
36 | 1.4.8 | 130 | 103 |
とばかりあるを、あはれにかたじけなしと思ふ。 |
とばかりあるを、あはれにかたじけなしとおもふ。 |
36 | 1.4.9 | 131 | 104 |
「いでや、この煙ばかりこそは、この世の思ひ出でならめ。はかなくもありけるかな」 |
"いでや、このけぶりばかりこそは、このよのおもひいでならめ。はかなくもありけるかな。" |
36 | 1.4.10 | 132 | 105 |
と、いとど泣きまさりたまひて、御返り、臥しながら、うち休みつつ書いたまふ。言の葉の続きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、 |
と、いとどなきまさりたまひて、おほんかへり、ふしながら、うちやすみつつかいたまふ。ことのはのつづきもなう、あやしきとりのあとのやうにて、 |
36 | 1.4.11 | 133 | 106 |
「行方なき空の煙となりぬとも<BR/>思ふあたりを立ちは離れじ |
"〔ゆくへなきそらのけぶりとなりぬとも<BR/>おもふあたりをたちははなれじ |
36 | 1.4.12 | 134 | 107 |
夕べはわきて眺めさせたまへ。咎めきこえさせたまはむ人目をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも、絶えずかけさせたまへ」 |
ゆふべはわきてながめさせたまへ。とがめきこえさせたまはんひとめをも、いまはこころやすくおぼしなりて、かひなきあはれをだにも、たえずかけさせたまへ。" |
36 | 1.4.13 | 135 | 108 |
など書き乱りて、心地の苦しさまさりければ、 |
などかきみだりて、ここちのくるしさまさりければ、 |
36 | 1.4.14 | 136 | 109 |
「よし。いたう更けぬさきに、帰り参りたまひて、かく限りのさまになむとも聞こえたまへ。今さらに、人あやしと思ひ合はせむを、わが世の後さへ思ふこそ口惜しけれ。いかなる昔の契りにて、いとかかることしも心にしみけむ」 |
"よし。いたうふけぬさきに、かへりまゐりたまひて、かくかぎりのさまになんともきこえたまへ。いまさらに、ひとあやしとおもひあはせんを、わがよののちさへおもふこそくちをしけれ。いかなるむかしのちぎりにて、いとかかることしもこころにしみけん。" |
36 | 1.4.15 | 137 | 110 |
と、泣く泣くゐざり入りたまひぬれば、例は無期に迎へ据ゑて、すずろ言をさへ言はせまほしうしたまふを、言少なにても、と思ふがあはれなるに、えも出でやらず。御ありさまを乳母も語りて、いみじく泣き惑ふ。大臣などの思したるけしきぞいみじきや。 |
と、なくなくゐざりいりたまひぬれば、れいはむごにむかへすゑて、すずろごとをさへいはせまほしうしたまふを、ことずくなにても、とおもふがあはれなるに、えもいでやらず。おほんありさまをめのともかたりて、いみじくなきまどふ。おとどなどのおぼしたるけしきぞいみじきや。 |
36 | 1.4.16 | 138 | 111 |
「昨日今日、すこしよろしかりつるを、などかいと弱げには見えたまふ」 |
"きのふけふ、すこしよろしかりつるを、などかいとよわげにはみえたまふ。" |
36 | 1.4.17 | 139 | 112 |
と騷ぎたまふ。 |
とさわぎたまふ。 |
36 | 1.4.18 | 140 | 113 |
「何か、なほとまりはべるまじきなめり」 |
"なにか、なほとまりはべるまじきなめり。" |
36 | 1.4.19 | 141 | 114 |
と聞こえたまひて、みづからも泣いたまふ。 |
ときこえたまひて、みづからもないたまふ。 |
36 | 1.5 | 142 | 115 | 第五段 女三の宮、男子を出産 |
36 | 1.5.1 | 143 | 116 |
宮は、この暮れつ方より悩ましうしたまひけるを、その御けしきと、見たてまつり知りたる人びと、騷ぎみちて、大殿にも聞こえたりければ、驚きて渡りたまへり。御心のうちは、 |
みやは、このくれつかたよりなやましうしたまひけるを、そのみけしきと、みたてまつりしりたるひとびと、さわぎみちて、おとどにもきこえたりければ、おどろきてわたりたまへり。みこころのうちは、 |
36 | 1.5.2 | 144 | 117 |
「あな、口惜しや。思ひまずる方なくて見たてまつらましかば、めづらしくうれしからまし」 |
"あな、くちをしや。おもひまずるかたなくてみたてまつらましかば、めづらしくうれしからまし。" |
36 | 1.5.3 | 145 | 118 |
と思せど、人にはけしき漏らさじと思せば、験者など召し、御修法はいつとなく不断にせらるれば、僧どもの中に験ある限り皆参りて、加持参り騒ぐ。 |
とおぼせど、ひとにはけしきもらさじとおぼせば、げんざなどめし、みすほふはいつとなくふだんにせらるれば、そうどものなかにげんあるかぎりみなまゐりて、かぢまゐりさわぐ。 |
36 | 1.5.4 | 146 | 119 |
夜一夜悩み明かさせたまひて、日さし上がるほどに生まれたまひぬ。男君と聞きたまふに、 |
よひとよなやみあかさせたまひて、ひさしあがるほどにむまれたまひぬ。をとこぎみとききたまふに、 |
36 | 1.5.5 | 147 | 120 |
「かく忍びたることの、あやにくに、いちじるき顔つきにてさし出でたまへらむこそ苦しかるべけれ。女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見るものならねばやすけれ」 |
"かくしのびたることの、あやにくに、いちじるきかほつきにてさしいでたまへらんこそくるしかるべけれ。をんなこそ、なにとなくまぎれ、あまたのひとのみるものならねばやすけれ。" |
36 | 1.5.6 | 148 | 121 |
と思すに、また、 |
とおぼすに、また、 |
36 | 1.5.7 | 149 | 122 |
「かく、心苦しき疑ひ混じりたるにては、心やすき方にものしたまふもいとよしかし。さても、あやしや。わが世とともに恐ろしと思ひしことの報いなめり。この世にて、かく思ひかけぬことにむかはりぬれば、後の世の罪も、すこし軽みなむや」 |
"かく、こころぐるしきうたがひまじりたるにては、こころやすきかたにものしたまふもいとよしかし。さても、あやしや。わがよとともにおそろしとおもひしことのむくいなめり。このよにて、かくおもひかけぬことにむかはりぬれば、のちのよのつみも、すこしかろみなんや。" |
36 | 1.5.8 | 150 | 123 |
と思す。 |
とおぼす。 |
36 | 1.5.9 | 151 | 124 |
人はた知らぬことなれば、かく心ことなる御腹にて、末に出でおはしたる御おぼえいみじかりなむと、思ひいとなみ仕うまつる。 |
ひとはたしらぬことなれば、かくこころことなるおほんはらにて、すゑにいでおはしたるおほんおぼえいみじかりなんと、おもひいとなみつかうまつる。 |
36 | 1.5.10 | 152 | 125 |
御産屋の儀式、いかめしうおどろおどろし。御方々、さまざまにし出でたまふ御産養、世の常の折敷、衝重、高坏などの心ばへも、ことさらに心々に挑ましさ見えつつなむ。 |
おほんうぶやのぎしき、いかめしうおどろおどろし。おほんかたがた、さまざまにしいでたまふおほんうぶやしなひ、よのつねのをしき、ついがさね、たかつきなどのこころばへも、ことさらにこころごころにいどましさみえつつなん。 |
36 | 1.5.11 | 153 | 126 |
五日の夜、中宮の御方より、子持ちの御前の物、女房の中にも、品々に思ひ当てたる際々、公事にいかめしうせさせたまへり。御粥、屯食五十具、所々の饗、院の下部、庁の召次所、何かの隈まで、いかめしくせさせたまへり。宮司、大夫よりはじめて、院の殿上人、皆参れり。 |
いつかのよる、ちゅうぐうのおほんかたより、こもちのおまへのもの、にょうばうのなかにも、しなじなにおもひあてたるきはぎは、おほやけごとにいかめしうせさせたまへり。おほんかゆ、とんじきごじふぐ、ところどころのきゃう、ゐんのしもべ、ちゃうのめしつぎどころ、なにかのくままで、いかめしくせさせたまへり。みやづかさ、だいぶよりはじめて、ゐんのてんじゃうびと、みなまゐれり。 |
36 | 1.5.12 | 154 | 127 |
七夜は、内裏より、それも公ざまなり。致仕の大臣など、心ことに仕うまつりたまふべきに、このころは、何ごとも思されで、おほぞうの御訪らひのみぞありける。 |
しちやは、うちより、それもおほやけざまなり。ちじのおとどなど、こころことにつかうまつりたまふべきに、このころは、なにごともおぼされで、おほぞうのおほんとぶらひのみぞありける。 |
36 | 1.5.13 | 155 | 128 |
宮たち、上達部など、あまた参りたまふ。おほかたのけしきも、世になきまでかしづききこえたまへど、大殿の御心のうちに、心苦しと思すことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、御遊びなどはなかりけり。 |
みやたち、かんだちめなど、あまたまゐりたまふ。おほかたのけしきも、よになきまでかしづききこえたまへど、おとどのみこころのうちに、こころぐるしとおぼすことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、おほんあそびなどはなかりけり。 |
36 | 1.6 | 156 | 129 | 第六段 女三の宮、出家を決意 |
36 | 1.6.1 | 157 | 130 |
宮は、さばかりひはづなる御さまにて、いとむくつけう、ならはぬことの恐ろしう思されけるに、御湯などもきこしめさず、身の心憂きことを、かかるにつけても思し入れば、 |
みやは、さばかりひはづなるおほんさまにて、いとむくつけう、ならはぬことのおそろしうおぼされけるに、おほんゆなどもきこしめさず、みのこころうきことを、かかるにつけてもおぼしいれば、 |
36 | 1.6.2 | 158 | 131 |
「さはれ、このついでにも死なばや」 |
"さはれ、このついでにもしなばや。" |
36 | 1.6.3 | 159 | 132 |
と思す。大殿は、いとよう人目を飾り思せど、まだむつかしげにおはするなどを、取り分きても見たてまつりたまはずなどあれば、老いしらへる人などは、 |
とおぼす。おとどは、いとようひとめをかざりおぼせど、まだむつかしげにおはするなどを、とりわきてもみたてまつりたまはずなどあれば、おいしらへるひとなどは、 |
36 | 1.6.4 | 160 | 133 |
「いでや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし出でたまへる御ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを」 |
"いでや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさしいでたまへるおほんありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを。" |
36 | 1.6.5 | 161 | 134 |
と、うつくしみきこゆれば、片耳に聞きたまひて、 |
と、うつくしみきこゆれば、かたみみにききたまひて、 |
36 | 1.6.6 | 162 | 135 |
「さのみこそは、思し隔つることもまさらめ」 |
"さのみこそは、おぼしへだつることもまさらめ。" |
36 | 1.6.7 | 163 | 136 |
と恨めしう、わが身つらくて、尼にもなりなばや、の御心尽きぬ。 |
とうらめしう、わがみつらくて、あまにもなりなばや、のみこころつきぬ。 |
36 | 1.6.8 | 164 | 137 |
夜なども、こなたには大殿籠もらず、昼つ方などぞさしのぞきたまふ。 |
よるなども、こなたにはおほとのごもらず、ひるつかたなどぞさしのぞきたまふ。 |
36 | 1.6.9 | 165 | 138 |
「世の中のはかなきを見るままに、行く末短う、もの心細くて、行なひがちになりにてはべれば、かかるほどのらうがはしき心地するにより、え参り来ぬを、いかが、御心地はさはやかに思しなりにたりや。心苦しうこそ」 |
"よのなかのはかなきをみるままに、ゆくすゑみぢかう、ものこころぼそくて、おこなひがちになりにてはべれば、かかるほどのらうがはしきここちするにより、えまゐりこぬを、いかが、みここちはさはやかにおぼしなりにたりや。こころぐるしうこそ。" |
36 | 1.6.10 | 166 | 139 |
とて、御几帳の側よりさしのぞきたまへり。御頭もたげたまひて、 |
とて、みきちゃうのそばよりさしのぞきたまへり。みぐしもたげたまひて、 |
36 | 1.6.11 | 167 | 140 |
「なほ、え生きたるまじき心地なむしはべるを、かかる人は罪も重かなり。尼になりて、もしそれにや生きとまると試み、また亡くなるとも、罪を失ふこともやとなむ思ひはべる」 |
"なほ、えいきたるまじきここちなんしはべるを、かかるひとはつみもおもかなり。あまになりて、もしそれにやいきとまるとこころみ、またなくなるとも、つみをうしなふこともやとなんおもひはべる。" |
36 | 1.6.12 | 168 | 141 |
と、常の御けはひよりは、いとおとなびて聞こえたまふを、 |
と、つねのおほんけはひよりは、いとおとなびてきこえたまふを、 |
36 | 1.6.13 | 169 | 142 |
「いとうたて、ゆゆしき御ことなり。などてか、さまでは思す。かかることは、さのみこそ恐ろしかなれど、さてながらへぬわざならばこそあらめ」 |
"いとうたて、ゆゆしきおほんことなり。などてか、さまではおぼす。かかることは、さのみこそおそろしかなれど、さてながらへぬわざならばこそあらめ。" |
36 | 1.6.14 | 170 | 143 |
と聞こえたまふ。御心のうちには、 |
ときこえたまふ。みこころのうちには、 |
36 | 1.6.15 | 171 | 144 |
「まことにさも思し寄りてのたまはば、さやうにて見たてまつらむは、あはれなりなむかし。かつ見つつも、ことに触れて心置かれたまはむが心苦しう、我ながらも、え思ひ直すまじう、憂きことうち混じりぬべきを、おのづからおろかに人の見咎むることもあらむが、いといとほしう、院などの聞こし召さむことも、わがおこたりにのみこそはならめ。御悩みにことづけて、さもやなしたてまつりてまし」 |
"まことにさもおぼしよりてのたまはば、さやうにてみたてまつらんは、あはれなりなんかし。かつみつつも、ことにふれてこころおかれたまはんがこころぐるしう、われながらも、えおもひなほすまじう、うきことうちまじりぬべきを、おのづからおろかにひとのみとがむることもあらんが、いといとほしう、ゐんなどのきこしめさんことも、わがおこたりにのみこそはならめ。おほんなやみにことづけて、さもやなしたてまつりてまし。" |
36 | 1.6.16 | 172 | 145 |
など思し寄れど、また、いとあたらしう、あはれに、かばかり遠き御髪の生ひ先を、しかやつさむことも心苦しければ、 |
などおぼしよれど、また、いとあたらしう、あはれに、かばかりとほきみぐしのおひさきを、しかやつさんこともこころぐるしければ、 |
36 | 1.6.17 | 173 | 146 |
「なほ、強く思しなれ。けしうはおはせじ。限りと見ゆる人も、たひらなる例近ければ、さすがに頼みある世になむ」 |
"なほ、つよくおぼしなれ。けしうはおはせじ。かぎりとみゆるひとも、たひらなるためしちかければ、さすがにたのみあるよになん。" |
36 | 1.6.18 | 174 | 147 |
など聞こえたまひて、御湯参りたまふ。いといたう青み痩せて、あさましうはかなげにてうち臥したまへる御さま、おほどき、うつくしげなれば、 |
などきこえたまひて、おほんゆまゐりたまふ。いといたうあをみやせて、あさましうはかなげにてうちふしたまへるおほんさま、おほどき、うつくしげなれば、 |
36 | 1.6.19 | 175 | 148 |
「いみじき過ちありとも、心弱く許しつべき御さまかな」 |
"いみじきあやまちありとも、こころよわくゆるしつべきおほんさまかな。" |
36 | 1.6.20 | 176 | 149 |
と見たてまつりたまふ。 |
とみたてまつりたまふ。 |
36 | 2 | 177 | 150 | 第二章 女三の宮の物語 女三の宮の出家 |
36 | 2.1 | 178 | 151 | 第一段 朱雀院、夜闇に六条院へ参上 |
36 | 2.1.1 | 179 | 152 |
山の帝は、めづらしき御こと平かなりと聞こし召して、あはれにゆかしう思ほすに、 |
やまのみかどは、めづらしきおほんことたひらかなりときこしめして、あはれにゆかしうおもほすに、 |
36 | 2.1.2 | 180 | 153 |
「かく悩みたまふよしのみあれば、いかにものしたまふべきにか」 |
"かくなやみたまふよしのみあれば、いかにものしたまふべきにか。" |
36 | 2.1.3 | 181 | 154 |
と、御行なひも乱れて思しけり。 |
と、おほんおこなひもみだれておぼしけり。 |
36 | 2.1.4 | 182 | 155 |
さばかり弱りたまへる人の、ものを聞こし召さで、日ごろ経たまへば、いと頼もしげなくなりたまひて、年ごろ見たてまつらざりしほどよりも、院のいと恋しくおぼえたまふを、 |
さばかりよわりたまへるひとの、ものをきこしめさで、ひごろへたまへば、いとたのもしげなくなりたまひて、としごろみたてまつらざりしほどよりも、ゐんのいとこひしくおぼえたまふを、 |
36 | 2.1.5 | 183 | 156 |
「またも見たてまつらずなりぬるにや」 |
"またもみたてまつらずなりぬるにや。" |
36 | 2.1.6 | 184 | 157 |
と、いたう泣いたまふ。かく聞こえたまふさま、さるべき人して伝へ奏せさせたまひければ、いと堪へがたう悲しと思して、あるまじきこととは思し召しながら、夜に隠れて出でさせたまへり。 |
と、いたうないたまふ。かくきこえたまふさま、さるべきひとしてつたへそうせさせたまひければ、いとたへがたうかなしとおぼして、あるまじきこととはおぼしめしながら、よにかくれていでさせたまへり。 |
36 | 2.1.7 | 185 | 158 |
かねてさる御消息もなくて、にはかにかく渡りおはしまいたれば、主人の院、おどろきかしこまりきこえたまふ。 |
かねてさるおほんせうそこもなくて、にはかにかくわたりおはしまいたれば、あるじのゐん、おどろきかしこまりきこえたまふ。 |
36 | 2.1.8 | 186 | 159 |
「世の中を顧みすまじう思ひはべりしかど、なほ惑ひ覚めがたきものは、子の道の闇になむはべりければ、行なひも懈怠して、もし後れ先立つ道の道理のままならで別れなば、やがてこの恨みもやかたみに残らむと、あぢきなさに、この世のそしりをば知らで、かくものしはべる」 |
"よのなかをかへりみすまじうおもひはべりしかど、なほまどひさめがたきものは、このみちのやみになんはべりければ、おこなひもけたいして、もしおくれさきだつみちのだうりのままならでわかれなば、やがてこのうらみもやかたみにのこらんと、あぢきなさに、このよのそしりをばしらで、かくものしはべる。" |
36 | 2.1.9 | 187 | 160 |
と聞こえたまふ。御容貌、異にても、なまめかしうなつかしきさまに、うち忍びやつれたまひて、うるはしき御法服ならず、墨染の御姿、あらまほしうきよらなるも、うらやましく見たてまつりたまふ。例の、まづ涙落としたまふ。 |
ときこえたまふ。おほんかたち、ことにても、なまめかしうなつかしきさまに、うちしのびやつれたまひて、うるはしきおほんほふぶくならず、すみぞめのおほんすがた、あらまほしうきよらなるも、うらやましくみたてまつりたまふ。れいの、まづなみだおとしたまふ。 |
36 | 2.1.10 | 188 | 161 |
「患ひたまふ御さま、ことなる御悩みにもはべらず。ただ月ごろ弱りたまへる御ありさまに、はかばかしう物なども参らぬ積もりにや、かくものしたまふにこそ」 |
"わづらひたまふおほんさま、ことなるおほんなやみにもはべらず。ただつきごろよわりたまへるおほんありさまに、はかばかしうものなどもまゐらぬつもりにや、かくものしたまふにこそ。" |
36 | 2.1.11 | 189 | 162 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
36 | 2.2 | 190 | 163 | 第二段 朱雀院、女三の宮の希望を入れる |
36 | 2.2.1 | 191 | 164 |
「かたはらいたき御座なれども」 |
"かたはらいたきおましなれども。" |
36 | 2.2.2 | 192 | 165 |
とて、御帳の前に、御茵参りて入れたてまつりたまふ。宮をも、とかう人びと繕ひきこえて、床のしもに下ろしたてまつる。御几帳すこし押しやらせたまひて、 |
とて、みちゃうのまへに、おほんしとねまゐりていれたてまつりたまふ。みやをも、とかうひとびとつくろひきこえて、ゆかのしもにおろしたてまつる。みきちゃうすこしおしやらせたまひて、 |
36 | 2.2.3 | 193 | 166 |
「夜居加持僧などの心地すれど、まだ験つくばかりの行なひにもあらねば、かたはらいたけれど、ただおぼつかなくおぼえたまふらむさまを、さながら見たまふべきなり」 |
"よゐかぢそうなどのここちすれど、まだげんつくばかりのおこなひにもあらねば、かたはらいたけれど、ただおぼつかなくおぼえたまふらんさまを、さながらみたまふべきなり。" |
36 | 2.2.4 | 194 | 167 |
とて、御目おし拭はせたまふ。宮も、いと弱げに泣いたまひて、 |
とて、おほんめおしのごはせたまふ。みやも、いとよわげにないたまひて、 |
36 | 2.2.5 | 195 | 168 |
「生くべうもおぼえはべらぬを、かくおはしまいたるついでに、尼になさせたまひてよ」 |
"いくべうもおぼえはべらぬを、かくおはしまいたるついでに、あまになさせたまひてよ。" |
36 | 2.2.6 | 196 | 169 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
36 | 2.2.7 | 197 | 170 |
「さる御本意あらば、いと尊きことなるを、さすがに、限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かへりてことの乱れあり、世の人に誹らるるやうありぬべき」 |
"さるおほんほいあらば、いとたふときことなるを、さすがに、かぎらぬいのちのほどにて、ゆくすゑとほきひとは、かへりてことのみだれあり、よのひとにそしらるるやうありぬべき。" |
36 | 2.2.8 | 198 | 171 |
などのたまはせて、大殿の君に、 |
などのたまはせて、おとどのきみに、 |
36 | 2.2.9 | 199 | 172 |
「かくなむ進みのたまふを、今は限りのさまならば、片時のほどにても、その助けあるべきさまにてとなむ、思ひたまふる」 |
"かくなんすすみのたまふを、いまはかぎりのさまならば、かたときのほどにても、そのたすけあるべきさまにてとなん、おもひたまふる。" |
36 | 2.2.10 | 200 | 173 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
36 | 2.2.11 | 201 | 174 |
「日ごろもかくなむのたまへど、邪気などの、人の心たぶろかして、かかる方にて進むるやうもはべなるをとて、聞きも入れはべらぬなり」 |
"ひごろもかくなんのたまへど、ざけなどの、ひとのこころたぶろかして、かかるかたにてすすむるやうもはべなるをとて、ききもいれはべらぬなり。" |
36 | 2.2.12 | 202 | 175 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
36 | 2.2.13 | 203 | 176 |
「もののけの教へにても、それに負けぬとて、悪しかるべきことならばこそ憚らめ、弱りにたる人の、限りとてものしたまはむことを、聞き過ぐさむは、後の悔い心苦しうや」 |
"もののけのをしへにても、それにまけぬとて、あしかるべきことならばこそはばからめ、よわりにたるひとの、かぎりとてものしたまはんことを、ききすぐさんは、のちのくいこころぐるしうや。" |
36 | 2.2.14 | 204 | 177 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
36 | 2.3 | 205 | 178 | 第三段 源氏、女三の宮の出家に狼狽 |
36 | 2.3.1 | 206 | 179 |
御心の内、限りなううしろやすく譲りおきし御ことを、受けとりたまひて、さしも心ざし深からず、わが思ふやうにはあらぬ御けしきを、ことに触れつつ、年ごろ聞こし召し思しつめけること、色に出でて恨みきこえたまふべきにもあらねば、世の人の思ひ言ふらむところも口惜しう思しわたるに、 |
みこころのうち、かぎりなううしろやすくゆづりおきしおほんことを、うけとりたまひて、さしもこころざしふかからず、わがおもふやうにはあらぬみけしきを、ことにふれつつ、としごろきこしめしおぼしつめけること、いろにいでてうらみきこえたまふべきにもあらねば、よのひとのおもひいふらんところもくちをしうおぼしわたるに、 |
36 | 2.3.2 | 207 | 180 |
「かかる折に、もて離れなむも、何かは、人笑へに、世を恨みたるけしきならで、さもあらざらむ。おほかたの後見には、なほ頼まれぬべき御おきてなるを、ただ預けおきたてまつりししるしには思ひなして、憎げに背くさまにはあらずとも、御処分に広くおもしろき宮賜はりたまへるを、繕ひて住ませたてまつらむ。 |
"かかるをりに、もてはなれなんも、なにかは、ひとわらへに、よをうらみたるけしきならで、さもあらざらん。おほかたのうしろみには、なほたのまれぬべきおほんおきてなるを、ただあづけおきたてまつりししるしにはおもひなして、にくげにそむくさまにはあらずとも、おほんそうぶんにひろくおもしろきみやたまはりたまへるを、つくろひてすませたてまつらん。 |
36 | 2.3.3 | 208 | 181 |
わがおはします世に、さる方にても、うしろめたからず聞きおき、またかの大殿も、さいふとも、いとおろかにはよも思ひ放ちたまはじ、その心ばへをも見果てむ」 |
わがおはしますよに、さるかたにても、うしろめたからずききおき、またかのおとども、さいふとも、いとおろかにはよもおもひはなちたまはじ、そのこころばへをもみはてん。" |
36 | 2.3.4 | 209 | 182 |
と思ほし取りて、 |
とおもほしとりて、 |
36 | 2.3.5 | 210 | 183 |
「さらば、かくものしたるついでに、忌むこと受けたまはむをだに、結縁にせむかし」 |
"さらば、かくものしたるついでに、いむことうけたまはんをだに、けちえんにせんかし。" |
36 | 2.3.6 | 211 | 184 |
とのたまはす。 |
とのたまはす。 |
36 | 2.3.7 | 212 | 185 |
大殿の君、憂しと思す方も忘れて、こはいかなるべきことぞと、悲しく口惜しければ、え堪へたまはず、内に入りて、 |
おとどのきみ、うしとおぼすかたもわすれて、こはいかなるべきことぞと、かなしくくちをしければ、えたへたまはず、うちにいりて、 |
36 | 2.3.8 | 213 | 186 |
「などか、いくばくもはべるまじき身をふり捨てて、かうは思しなりにける。なほ、しばし心を静めたまひて、御湯参り、物などをも聞こし召せ。尊きことなりとも、御身弱うては、行なひもしたまひてむや。かつは、つくろひたまひてこそ」 |
"などか、いくばくもはべるまじきみをふりすてて、かうはおぼしなりにける。なほ、しばしこころをしづめたまひて、おほんゆまゐり、ものなどをもきこしめせ。たふときことなりとも、おほんみよわうては、おこなひもしたまひてんや。かつは、つくろひたまひてこそ。" |
36 | 2.3.9 | 214 | 187 |
と聞こえたまへど、頭ふりて、いとつらうのたまふと思したり。つれなくて、恨めしと思すこともありけるにやと見たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。とかく聞こえ返さひ、思しやすらふほどに、夜明け方になりぬ。 |
ときこえたまへど、かしらふりて、いとつらうのたまふとおぼしたり。つれなくて、うらめしとおぼすこともありけるにやとみたてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。とかくきこえかへさひ、おぼしやすらふほどに、よあけがたになりぬ。 |
36 | 2.4 | 215 | 188 | 第四段 朱雀院、夜明け方に山へ帰る |
36 | 2.4.1 | 216 | 189 |
帰り入らむに、道も昼ははしたなかるべしと急がせたまひて、御祈りにさぶらふ中に、やむごとなう尊き限り召し入れて、御髪下ろさせたまふ。いと盛りにきよらなる御髪を削ぎ捨てて、忌むこと受けたまふ作法、悲しう口惜しければ、大殿はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ。 |
かへりいらんに、みちもひるははしたなかるべしといそがせたまひて、おほんいのりにさぶらふなかに、やんごとなうたふときかぎりめしいれて、みぐしおろさせたまふ。いとさかりにきよらなるみぐしをそぎすてて、いむことうけたまふさほふ、かなしうくちをしければ、おとどはえしのびあへたまはず、いみじうないたまふ。 |
36 | 2.4.2 | 217 | 190 |
院はた、もとより取り分きてやむごとなう、人よりもすぐれて見たてまつらむと思ししを、この世には甲斐なきやうにないたてまつるも、飽かず悲しければ、うちしほたれたまふ。 |
ゐんはた、もとよりとりわきてやんごとなう、ひとよりもすぐれてみたてまつらんとおぼししを、このよにはかひなきやうにないたてまつるも、あかずかなしければ、うちしほたれたまふ。 |
36 | 2.4.3 | 218 | 191 |
「かくても、平かにて、同じうは念誦をも勤めたまへ」 |
"かくても、たひらかにて、おなじうはねんずをもつとめたまへ。" |
36 | 2.4.4 | 219 | 192 |
と聞こえ置きたまひて、明け果てぬるに、急ぎて出でさせたまひぬ。 |
ときこえおきたまひて、あけはてぬるに、いそぎていでさせたまひぬ。 |
36 | 2.4.5 | 220 | 193 |
宮は、なほ弱う消え入るやうにしたまひて、はかばかしうもえ見たてまつらず、ものなども聞こえたまはず。大殿も、 |
みやは、なほよわうきえいるやうにしたまひて、はかばかしうもえみたてまつらず、ものなどもきこえたまはず。おとども、 |
36 | 2.4.6 | 221 | 194 |
「夢のやうに思ひたまへ乱るる心惑ひに、かう昔おぼえたる御幸のかしこまりをも、え御覧ぜられぬらうがはしさは、ことさらに参りはべりてなむ」 |
"ゆめのやうにおもひたまへみだるるこころまどひに、かうむかしおぼえたるみゆきのかしこまりをも、えごらんぜられぬらうがはしさは、ことさらにまゐりはべりてなん。" |
36 | 2.4.7 | 222 | 195 |
と聞こえたまふ。御送りに人びと参らせたまふ。 |
ときこえたまふ。おほんおくりにひとびとまゐらせたまふ。 |
36 | 2.4.8 | 223 | 196 |
「世の中の、今日か明日かにおぼえはべりしほどに、また知る人もなくて、漂はむことの、あはれに避りがたうおぼえはべしかば、御本意にはあらざりけめど、かく聞こえつけて、年ごろは心やすく思ひたまへつるを、もしも生きとまりはべらば、さま異に変りて、人しげき住まひはつきなかるべきを、さるべき山里などにかけ離れたらむありさまも、またさすがに心細かるべくや。さまに従ひて、なほ、思し放つまじく」 |
"よのなかの、けふかあすかにおぼえはべりしほどに、またしるひともなくて、ただよはんことの、あはれにさりがたうおぼえはべしかば、おほんほいにはあらざりけめど、かくきこえつけて、としごろはこころやすくおもひたまへつるを、もしもいきとまりはべらば、さまことにかはりて、ひとしげきすまひはつきなかるべきを、さるべきやまざとなどにかけはなれたらんありさまも、またさすがにこころぼそかるべくや。さまにしたがひて、なほ、おぼしはなつまじく。" |
36 | 2.4.9 | 224 | 197 |
など聞こえたまへば、 |
などきこえたまへば、 |
36 | 2.4.10 | 225 | 198 |
「さらにかくまで仰せらるるなむ、かへりて恥づかしう思ひたまへらるる。乱り心地、とかく乱れはべりて、何事もえわきまへはべらず」 |
"さらにかくまでおほせらるるなん、かへりてはづかしうおもひたまへらるる。みだりごこち、とかくみだれはべりて、なにごともえわきまへはべらず。" |
36 | 2.4.11 | 226 | 199 |
とて、げに、いと堪へがたげに思したり。 |
とて、げに、いとたへがたげにおぼしたり。 |
36 | 2.4.12 | 227 | 200 |
後夜の御加持に、御もののけ出で来て、 |
ごやのおほんかぢに、おほんもののけいできて、 |
36 | 2.4.13 | 228 | 201 |
「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつと、一人をば思したりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなむ、日ごろさぶらひつる。今は帰りなむ」 |
"かうぞあるよ。いとかしこうとりかへしつと、ひとりをばおぼしたりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなん、ひごろさぶらひつる。いまはかへりなん。" |
36 | 2.4.14 | 229 | 202 |
とて、うち笑ふ。いとあさましう、 |
とて、うちわらふ。いとあさましう、 |
36 | 2.4.15 | 230 | 203 |
「さは、このもののけのここにも、離れざりけるにやあらむ」 |
"さは、このもののけのここにも、はなれざりけるにやあらん。" |
36 | 2.4.16 | 231 | 204 |
と思すに、いとほしう悔しう思さる。宮、すこし生き出でたまふやうなれど、なほ頼みがたげに見えたまふ。さぶらふ人びとも、いといふかひなうおぼゆれど、「かうても、平かにだにおはしまさば」と、念じつつ、御修法また延べて、たゆみなく行なはせなど、よろづにせさせたまふ。 |
とおぼすに、いとほしうくやしうおぼさる。みや、すこしいきいでたまふやうなれど、なほたのみがたげにみえたまふ。さぶらふひとびとも、いといふかひなうおぼゆれど、"かうても、たひらかにだにおはしまさば。"と、ねんじつつ、みすほふまたのべて、たゆみなくおこなはせなど、よろづにせさせたまふ。 |
36 | 3 | 232 | 205 | 第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去 |
36 | 3.1 | 233 | 206 | 第一段 柏木、権大納言となる |
36 | 3.1.1 | 234 | 207 |
かの衛門督は、かかる御事を聞きたまふに、いとど消え入るやうにしたまひて、むげに頼む方少なうなりたまひにたり。女宮のあはれにおぼえたまへば、ここに渡りたまはむことは、今さらに軽々しきやうにもあらむを、上も大臣も、かくつと添ひおはすれば、おのづからとりはづして見たてまつりたまふやうもあらむに、あぢきなしと思して、 |
かのゑもんのかみは、かかるおほんことをききたまふに、いとどきえいるやうにしたまひて、むげにたのむかたすくなうなりたまひにたり。をんなみやのあはれにおぼえたまへば、ここにわたりたまはんことは、いまさらにかるがるしきやうにもあらんを、うへもおとども、かくつとそひおはすれば、おのづからとりはづしてみたてまつりたまふやうもあらんに、あぢきなしとおぼして、 |
36 | 3.1.2 | 235 | 208 |
「かの宮に、とかくして今一度参うでむ」 |
"かのみやに、とかくしていまひとたびまうでん。" |
36 | 3.1.3 | 236 | 209 |
とのたまふを、さらに許しきこえたまはず。誰にも、この宮の御ことを聞こえつけたまふ。はじめより母御息所は、をさをさ心ゆきたまはざりしを、この大臣の居立ちねむごろに聞こえたまひて、心ざし深かりしに負けたまひて、院にも、いかがはせむと思し許しけるを、二品の宮の御こと思ほし乱れけるついでに、 |
とのたまふを、さらにゆるしきこえたまはず。たれにも、このみやのおほんことをきこえつけたまふ。はじめよりははみやすんどころは、をさをさこころゆきたまはざりしを、このおとどのゐたちねんごろにきこえたまひて、こころざしふかかりしにまけたまひて、ゐんにも、いかがはせんとおぼしゆるしけるを、にほんのみやのおほんことおもほしみだれけるついでに、 |
36 | 3.1.4 | 237 | 210 |
「なかなか、この宮は行く先うしろやすく、まめやかなる後見まうけたまへり」 |
"なかなか、このみやはゆくさきうしろやすく、まめやかなるうしろみまうけたまへり。" |
36 | 3.1.5 | 238 | 211 |
と、のたまはすと聞きたまひしを、かたじけなう思ひ出づ。 |
と、のたまはすとききたまひしを、かたじけなうおもひいづ。 |
36 | 3.1.6 | 239 | 212 |
「かくて、見捨てたてまつりぬるなめりと思ふにつけては、さまざまにいとほしけれど、心よりほかなる命なれば、堪へぬ契り恨めしうて、思し嘆かれむが、心苦しきこと。御心ざしありて訪らひものせさせたまへ」 |
"かくて、みすてたてまつりぬるなめりとおもふにつけては、さまざまにいとほしけれど、こころよりほかなるいのちなれば、たへぬちぎりうらめしうて、おぼしなげかれんが、こころぐるしきこと。みこころざしありてとぶらひものせさせたまへ。" |
36 | 3.1.7 | 240 | 213 |
と、母上にも聞こえたまふ。 |
と、ははうへにもきこえたまふ。 |
36 | 3.1.8 | 241 | 214 |
「いで、あなゆゆし。後れたてまつりては、いくばく世に経べき身とて、かうまで行く先のことをばのたまふ」 |
"いで、あなゆゆし。おくれたてまつりては、いくばくよにふべきみとて、かうまでゆくさきのことをばのたまふ。" |
36 | 3.1.9 | 242 | 215 |
とて、泣きにのみ泣きたまへば、え聞こえやりたまはず。右大弁の君にぞ、大方の事どもは詳しう聞こえたまふ。 |
とて、なきにのみなきたまへば、えきこえやりたまはず。うだいべんのきみにぞ、おほかたのことどもはくはしうきこえたまふ。 |
36 | 3.1.10 | 243 | 216 |
心ばへののどかによくおはしつる君なれば、弟の君たちも、まだ末々の若きは、親とのみ頼みきこえたまへるに、かう心細うのたまふを、悲しと思はぬ人なく、殿のうちの人も嘆く。 |
こころばへののどかによくおはしつるきみなれば、おとうとのきみたちも、まだすゑずゑのわかきは、おやとのみたのみきこえたまへるに、かうこころぼそうのたまふを、かなしとおもはぬひとなく、とののうちのひともなげく。 |
36 | 3.1.11 | 244 | 217 |
公も、惜しみ口惜しがらせたまふ。かく限りと聞こし召して、にはかに権大納言になさせたまへり。よろこびに思ひ起こして、今一度も参りたまふやうもやあると、思しのたまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、苦しきなかにも、かしこまり申したまふ。大臣も、かく重き御おぼえを見たまふにつけても、いよいよ悲しうあたらしと思し惑ふ。 |
おほやけも、をしみくちをしがらせたまふ。かくかぎりときこしめして、にはかにごんのだいなごんになさせたまへり。よろこびにおもひおこして、いまひとたびもまゐりたまふやうもやあると、おぼしのたまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、くるしきなかにも、かしこまりまうしたまふ。おとども、かくおもきおほんおぼえをみたまふにつけても、いよいよかなしうあたらしとおぼしまどふ。 |
36 | 3.2 | 245 | 218 | 第二段 夕霧、柏木を見舞う |
36 | 3.2.1 | 246 | 219 |
大将の君、常にいと深う思ひ嘆き、訪らひきこえたまふ。御喜びにもまづ参うでたまへり。このおはする対のほとり、こなたの御門は、馬、車たち込み、人騒がしう騷ぎ満ちたり。今年となりては、起き上がることもをさをさしたまはねば、重々しき御さまに、乱れながらは、え対面したまはで、思ひつつ弱りぬること、と思ふに口惜しければ、 |
だいしゃうのきみ、つねにいとふかうおもひなげき、とぶらひきこえたまふ。おほんよろこびにもまづまうでたまへり。このおはするたいのほとり、こなたのみかどは、むま、くるまたちこみ、ひとさわがしうさわぎみちたり。ことしとなりては、おきあがることもをさをさしたまはねば、おもおもしきおほんさまに、みだれながらは、えたいめんしたまはで、おもひつつよわりぬること、とおもふにくちをしければ、 |
36 | 3.2.2 | 247 | 220 |
「なほ、こなたに入らせたまへ。いとらうがはしきさまにはべる罪は、おのづから思し許されなむ」 |
"なほ、こなたにいらせたまへ。いとらうがはしきさまにはべるつみは、おのづからおぼしゆるされなん。" |
36 | 3.2.3 | 248 | 221 |
とて、臥したまへる枕上の方に、僧などしばし出だしたまひて、入れたてまつりたまふ。 |
とて、ふしたまへるまくらがみのかたに、そうなどしばしいだしたまひて、いれたてまつりたまふ。 |
36 | 3.2.4 | 249 | 222 |
早うより、いささか隔てたまふことなう、睦び交はしたまふ御仲なれば、別れむことの悲しう恋しかるべき嘆き、親兄弟の御思ひにも劣らず。今日は喜びとて、心地よげならましをと思ふに、いと口惜しう、かひなし。 |
はやうより、いささかへだてたまふことなう、むつびかはしたまふおほんなかなれば、わかれんことのかなしうこひしかるべきなげき、おやはらからのおほんおもひにもおとらず。けふはよろこびとて、ここちよげならましをとおもふに、いとくちをしう、かひなし。 |
36 | 3.2.5 | 250 | 223 |
「などかく頼もしげなくはなりたまひにける。今日は、かかる御喜びに、いささかすくよかにもやとこそ思ひはべりつれ」 |
"などかくたのもしげなくはなりたまひにける。けふは、かかるおほんよろこびに、いささかすくよかにもやとこそおもひはべりつれ。" |
36 | 3.2.6 | 251 | 224 |
とて、几帳のつま引き上げたまへれば、 |
とて、きちゃうのつまひきあげたまへれば、 |
36 | 3.2.7 | 252 | 225 |
「いと口惜しう、その人にもあらずなりにてはべりや」 |
"いとくちをしう、そのひとにもあらずなりにてはべりや。" |
36 | 3.2.8 | 253 | 226 |
とて、烏帽子ばかりおし入れて、すこし起き上がらむとしたまへど、いと苦しげなり。白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、衾ひきかけて臥したまへり。御座のあたりものきよげに、けはひ香うばしう、心にくくぞ住みなしたまへる。 |
とて、えぼうしばかりおしいれて、すこしおきあがらんとしたまへど、いとくるしげなり。しろききぬどもの、なつかしうなよよかなるをあまたかさねて、ふすまひきかけてふしたまへり。おましのあたりものきよげに、けはひかうばしう、こころにくくぞすみなしたまへる。 |
36 | 3.2.9 | 254 | 228 |
うちとけながら、用意ありと見ゆ。重く患ひたる人は、おのづから髪髭も乱れ、ものむつかしきけはひも添ふわざなるを、痩せさらぼひたるしも、いよいよ白うあてなるさまして、枕をそばだてて、ものなど聞こえたまふけはひ、いと弱げに、息も絶えつつ、あはれげなり。 |
うちとけながら、よういありとみゆ。おもくわづらひたるひとは、おのづからかみひげもみだれ、ものむつかしきけはひもそふわざなるを、やせさらぼひたるしも、いよいよしろうあてなるさまして、まくらをそばだてて、ものなどきこえたまふけはひ、いとよわげに、いきもたえつつ、あはれげなり。 |
36 | 3.3 | 255 | 229 | 第三段 柏木、夕霧に遺言 |
36 | 3.3.1 | 256 | 230 |
「久しう患ひたまへるほどよりは、ことにいたうもそこなはれたまはざりけり。常の御容貌よりも、なかなかまさりてなむ見えたまふ」 |
"ひさしうわづらひたまへるほどよりは、ことにいたうもそこなはれたまはざりけり。つねのおほんかたちよりも、なかなかまさりてなんみえたまふ。" |
36 | 3.3.2 | 257 | 231 |
とのたまふものから、涙おし拭ひて、 |
とのたまふものから、なみだおしのごひて、 |
36 | 3.3.3 | 258 | 232 |
「後れ先立つ隔てなくとこそ契りきこえしか。いみじうもあるかな。この御心地のさまを、何事にて重りたまふとだに、え聞き分きはべらず。かく親しきほどながら、おぼつかなくのみ」 |
"おくれさきだつへだてなくとこそちぎりきこえしか。いみじうもあるかな。このみここちのさまを、なにごとにておもりたまふとだに、えききわきはべらず。かくしたしきほどながら、おぼつかなくのみ。" |
36 | 3.3.4 | 259 | 233 |
などのたまふに、 |
などのたまふに、 |
36 | 3.3.5 | 260 | 234 |
「心には、重くなるけぢめもおぼえはべらず。そこどころと苦しきこともなければ、たちまちにかうも思ひたまへざりしほどに、月日も経で弱りはべりにければ、今はうつし心も失せたるやうになむ。 |
"こころには、おもくなるけぢめもおぼえはべらず。そこどころとくるしきこともなければ、たちまちにかうもおもひたまへざりしほどに、つきひもへでよわりはべりにければ、いまはうつしごころもうせたるやうになん。 |
36 | 3.3.6 | 261 | 235 |
惜しげなき身を、さまざまにひき留めらるる祈り、願などの力にや、さすがにかかづらふも、なかなか苦しうはべれば、心もてなむ、急ぎ立つ心地しはべる。 |
をしげなきみを、さまざまにひきとどめらるるいのり、がんなどのちからにや、さすがにかかづらふも、なかなかくるしうはべれば、こころもてなん、いそぎたつここちしはべる。 |
36 | 3.3.7 | 262 | 236 |
さるは、この世の別れ、避りがたきことは、いと多うなむ。親にも仕うまつりさして、今さらに御心どもを悩まし、君に仕うまつることも半ばのほどにて、身を顧みる方、はた、ましてはかばかしからぬ恨みを留めつる大方の嘆きをば、さるものにて。 |
さるは、このよのわかれ、さりがたきことは、いとおほうなん。おやにもつかうまつりさして、いまさらにみこころどもをなやまし、きみにつかうまつることもなかばのほどにて、みをかへりみるかた、はた、ましてはかばかしからぬうらみをとどめつるおほかたのなげきをば、さるものにて。 |
36 | 3.3.8 | 263 | 237 |
また心の内に思ひたまへ乱るることのはべるを、かかる今はのきざみにて、何かは漏らすべきと思ひはべれど、なほ忍びがたきことを、誰にかは愁へはべらむ。これかれあまたものすれど、さまざまなることにて、さらにかすめはべらむも、あいなしかし。 |
またこころのうちにおもひたまへみだるることのはべるを、かかるいまはのきざみにて、なにかはもらすべきとおもひはべれど、なほしのびがたきことを、たれにかはうれへはべらん。これかれあまたものすれど、さまざまなることにて、さらにかすめはべらんも、あいなしかし。 |
36 | 3.3.9 | 264 | 238 |
六条院にいささかなる事の違ひ目ありて、月ごろ、心の内にかしこまり申すことなむはべりしを、いと本意なう、世の中心細う思ひなりて、病づきぬとおぼえはべしに、召しありて、院の御賀の楽所の試みの日参りて、御けしきを賜はりしに、なほ許されぬ御心ばへあるさまに、御目尻を見たてまつりはべりて、いとど世にながらへむことも憚り多うおぼえなりはべりて、あぢきなう思ひたまへしに、心の騷ぎそめて、かく静まらずなりぬるになむ。 |
ろくでうのゐんにいささかなることのたがひめありて、つきごろ、こころのうちにかしこまりまうすことなんはべりしを、いとほいなう、よのなかこころぼそうおもひなりて、やまひづきぬとおぼえはべしに、めしありて、ゐんのおほんがのがくそのこころみのひまゐりて、みけしきをたまはりしに、なほゆるされぬみこころばへあるさまに、おほんまじりをみたてまつりはべりて、いとどよにながらへんこともはばかりおほうおぼえなりはべりて、あぢきなうおもひたまへしに、こころのさわぎそめて、かくしづまらずなりぬるになん。 |
36 | 3.3.10 | 265 | 239 |
人数には思し入れざりけめど、いはけなうはべし時より、深く頼み申す心のはべりしを、いかなる讒言などのありけるにかと、これなむ、この世の愁へにて残りはべるべければ、論なうかの後の世の妨げにもやと思ひたまふるを、ことのついではべらば、御耳留めて、よろしう明らめ申させたまへ。 |
ひとかずにはおぼしいれざりけめど、いはけなうはべしときより、ふかくたのみまうすこころのはべりしを、いかなるざうげんなどのありけるにかと、これなん、このよのうれへにてのこりはべるべければ、ろんなうかののちのよのさまたげにもやとおもひたまふるを、ことのついではべらば、おほんみみとどめて、よろしうあきらめまうさせたまへ。 |
36 | 3.3.11 | 266 | 240 |
亡からむ後ろにも、この勘事許されたらむなむ、御徳にはべるべき」 |
なからんうしろにも、このかうじゆるされたらんなん、おほんとくにはべるべき。" |
36 | 3.3.12 | 267 | 241 |
などのたまふままに、いと苦しげにのみ見えまされば、いみじうて、心の内に思ひ合はすることどもあれど、さして確かには、えしも推し量らず。 |
などのたまふままに、いとくるしげにのみみえまされば、いみじうて、こころのうちにおもひあはすることどもあれど、さしてたしかには、えしもおしはからず。 |
36 | 3.3.13 | 268 | 242 |
「いかなる御心の鬼にかは。さらに、さやうなる御けしきもなく、かく重りたまへる由をも聞きおどろき嘆きたまふこと、限りなうこそ口惜しがり申したまふめりしか。など、かく思すことあるにては、今まで残いたまひつらむ。こなたかなた明らめ申すべかりけるものを。今はいふかひなしや」 |
"いかなるみこころのおににかは。さらに、さやうなるみけしきもなく、かくおもりたまへるよしをもききおどろきなげきたまふこと、かぎりなうこそくちをしがりまうしたまふめりしか。など、かくおぼすことあるにては、いままでのこいたまひつらん。こなたかなたあきらめまうすべかりけるものを。いまはいふかひなしや。" |
36 | 3.3.14 | 269 | 243 |
とて、取り返さまほしう悲しく思さる。 |
とて、とりかへさまほしうかなしくおぼさる。 |
36 | 3.3.15 | 270 | 244 |
「げに、いささかも隙ありつる折、聞こえうけたまはるべうこそはべりけれ。されど、いとかう今日明日としもやはと、みづからながら知らぬ命のほどを、思ひのどめはべりけるもはかなくなむ。このことは、さらに御心より漏らしたまふまじ。さるべきついではべらむ折には、御用意加へたまへとて、聞こえおくになむ。 |
"げに、いささかもひまありつるをり、きこえうけたまはるべうこそはべりけれ。されど、いとかうけふあすとしもやはと、みづからながらしらぬいのちのほどを、おもひのどめはべりけるもはかなくなん。このことは、さらにみこころよりもらしたまふまじ。さるべきついではべらんをりには、おほんよういくはへたまへとて、きこえおくになん。 |
36 | 3.3.16 | 271 | 245 |
一条にものしたまふ宮、ことに触れて訪らひきこえたまへ。心苦しきさまにて、院などにも聞こし召されたまはむを、つくろひたまへ」 |
いちでうにものしたまふみや、ことにふれてとぶらひきこえたまへ。こころぐるしきさまにて、ゐんなどにもきこしめされたまはんを、つくろひたまへ。" |
36 | 3.3.17 | 272 | 246 |
などのたまふ。言はまほしきことは多かるべけれど、心地せむかたなくなりにければ、 |
などのたまふ。いはまほしきことはおほかるべけれど、ここちせんかたなくなりにければ、 |
36 | 3.3.18 | 273 | 247 |
「出でさせたまひね」 |
"いでさせたまひね。" |
36 | 3.3.19 | 274 | 248 |
と、手かききこえたまふ。加持参る僧ども近う参り、上、大臣などおはし集りて、人びとも立ち騒げば、泣く泣く出でたまひぬ。 |
と、てかききこえたまふ。かぢまゐるそうどもちかうまゐり、うへ、おとどなどおはしあつまりて、ひとびともたちさわげば、なくなくいでたまひぬ。 |
36 | 3.4 | 275 | 249 | 第四段 柏木、泡の消えるように死去 |
36 | 3.4.1 | 276 | 250 |
女御をばさらにも聞こえず、この大将の御方などもいみじう嘆きたまふ。心おきての、あまねく人のこのかみ心にものしたまひければ、右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、睦ましきものに思ひきこえたまひければ、よろづに思ひ嘆きたまひて、御祈りなど取り分きてせさせたまひけれど、やむ薬ならねば、かひなきわざになむありける。女宮にも、つひにえ対面しきこえたまはで、泡の消え入るやうにて亡せたまひぬ。 |
にょうごをばさらにもきこえず、このだいしゃうのおほんかたなどもいみじうなげきたまふ。こころおきての、あまねくひとのこのかみごころにものしたまひければ、みぎのおほとののきたのかたも、このきみをのみぞ、むつましきものにおもひきこえたまひければ、よろづにおもひなげきたまひて、おほんいのりなどとりわきてせさせたまひけれど、やむくすりならねば、かひなきわざになんありける。をんなみやにも、つひにえたいめんしきこえたまはで、あわのきえいるやうにてうせたまひぬ。 |
36 | 3.4.2 | 277 | 251 |
年ごろ、下の心こそねむごろに深くもなかりしか、大方には、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、気なつかしう、心ばへをかしう、うちとけぬさまにて過ぐいたまひければ、つらき節もことになし。ただ、 |
としごろ、したのこころこそねんごろにふかくもなかりしか、おほかたには、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、けなつかしう、こころばへをかしう、うちとけぬさまにてすぐいたまひければ、つらきふしもことになし。ただ、 |
36 | 3.4.3 | 278 | 252 |
「かく短かりける御身にて、あやしくなべての世すさまじう思ひたまへけるなりけり」 |
"かくみじかかりけるおほんみにて、あやしくなべてのよのすさまじうおもひたまへけるなりけり。" |
36 | 3.4.4 | 279 | 253 |
と思ひ出でたまふに、いみじうて、思し入りたるさま、いと心苦し。 |
とおもひいでたまふに、いみじうて、おぼしいりたるさま、いとこころぐるし。 |
36 | 3.4.5 | 280 | 254 |
御息所も、「いみじう人笑へに口惜し」と、見たてまつり嘆きたまふこと、限りなし。 |
みやすんどころも、"いみじうひとわらへにくちをし。"と、みたてまつりなげきたまふこと、かぎりなし。 |
36 | 3.4.6 | 281 | 255 |
大臣、北の方などは、ましていはむかたなく、 |
おとど、きたのかたなどは、ましていはんかたなく、 |
36 | 3.4.7 | 282 | 256 |
「我こそ先立ため。世のことわりなうつらいこと」 |
"われこそさきだため。よのことわりなうつらいこと。" |
36 | 3.4.8 | 283 | 257 |
と焦がれたまへど、何のかひなし。 |
とこがれたまへど、なにのかひなし。 |
36 | 3.4.9 | 284 | 258 |
尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世に長かれとしも思さざりしを、かくなむと聞きたまふは、さすがにいとあはれなりかし。 |
あまみやは、おほけなきこころもうたてのみおぼされて、よにながかれとしもおぼさざりしを、かくなんとききたまふは、さすがにいとあはれなりかし。 |
36 | 3.4.10 | 285 | 259 |
「若君の御ことを、さぞと思ひたりしも、げに、かかるべき契りにてや、思ひのほかに心憂きこともありけむ」と思し寄るに、さまざまもの心細うて、うち泣かれたまひぬ。 |
"わかぎみのおほんことを、さぞとおもひたりしも、げに、かかるべきちぎりにてや、おもひのほかにこころうきこともありけん。"とおぼしよるに、さまざまものこころぼそうて、うちなかれたまひぬ。 |
36 | 4 | 286 | 260 | 第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い |
36 | 4.1 | 287 | 261 | 第一段 三月、若君の五十日の祝い |
36 | 4.1.1 | 288 | 262 |
弥生になれば、空のけしきもものうららかにて、この君、五十日のほどになりたまひて、いと白ううつくしう、ほどよりはおよすけて、物語などしたまふ。大殿渡りたまひて、 |
やよひになれば、そらのけしきもものうららかにて、このきみ、いかのほどになりたまひて、いとしろううつくしう、ほどよりはおよすけて、ものがたりなどしたまふ。おとどわたりたまひて、 |
36 | 4.1.2 | 289 | 263 |
「御心地は、さはやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもはべるかな。例の御ありさまにて、かく見なしたてまつらましかば、いかにうれしうはべらまし。心憂く、思し捨てけること」 |
"みここちは、さはやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもはべるかな。れいのおほんありさまにて、かくみなしたてまつらましかば、いかにうれしうはべらまし。こころうく、おぼしすてけること。" |
36 | 4.1.3 | 290 | 264 |
と、涙ぐみて怨みきこえたまふ。日々に渡りたまひて、今しも、やむごとなく限りなきさまにもてなしきこえたまふ。 |
と、なみだぐみてうらみきこえたまふ。ひびにわたりたまひて、いましも、やんごとなくかぎりなきさまにもてなしきこえたまふ。 |
36 | 4.1.4 | 291 | 265 |
御五十日に餅参らせたまはむとて、容貌異なる御さまを、人びと、「いかに」など聞こえやすらへど、院渡らせたまひて、 |
おほんいかにもちひまゐらせたまはんとて、かたちことなるおほんさまを、ひとびと、"いかに。"などきこえやすらへど、ゐんわたらせたまひて、 |
36 | 4.1.5 | 292 | 266 |
「何か。女にものしたまはばこそ、同じ筋にて、いまいましくもあらめ」 |
"なにか。をんなにものしたまはばこそ、おなじすぢにて、いまいましくもあらめ。" |
36 | 4.1.6 | 293 | 267 |
とて、南面に小さき御座などよそひて、参らせたまふ。御乳母、いとはなやかに装束きて、御前のもの、いろいろを尽くしたる籠物、桧破籠の心ばへどもを、内にも外にも、もとの心を知らぬことなれば、取り散らし、何心もなきを、「いと心苦しうまばゆきわざなりや」と思す。 |
とて、みなみおもてにちひさきおましなどよそひて、まゐらせたまふ。おほんめのと、いとはなやかにさうぞきて、おまへのもの、いろいろをつくしたるこもの、ひわりごのこころばへどもを、うちにもとにも、もとのこころをしらぬことなれば、とりちらし、なにごころもなきを、"いとこころぐるしうまばゆきわざなりや。"とおぼす。 |
36 | 4.2 | 294 | 268 | 第二段 源氏と女三の宮の夫婦の会話 |
36 | 4.2.1 | 295 | 269 |
宮も起きゐたまひて、御髪の末の所狭う広ごりたるを、いと苦しと思して、額など撫でつけておはするに、几帳を引きやりてゐたまへば、いと恥づかしうて背きたまへるを、いとど小さう細りたまひて、御髪は惜しみきこえて、長う削ぎたりければ、後ろは異にけぢめも見えたまはぬほどなり。 |
みやもおきゐたまひて、みぐしのすゑのところせうひろごりたるを、いとくるしとおぼして、ひたひなどなでつけておはするに、きちゃうをひきやりてゐたまへば、いとはづかしうてそむきたまへるを、いとどちひさうほそりたまひて、みぐしはをしみきこえて、ながうそぎたりければ、うしろはことにけぢめもみえたまはぬほどなり。 |
36 | 4.2.2 | 296 | 270 |
すぎすぎ見ゆる鈍色ども、黄がちなる今様色など着たまひて、まだありつかぬ御かたはらめ、かくてしもうつくしき子どもの心地して、なまめかしうをかしげなり。 |
すぎすぎみゆるにびいろども、きがちなるいまやういろなどきたまひて、まだありつかぬおほんかたはらめ、かくてしもうつくしきこどものここちして、なまめかしうをかしげなり。 |
36 | 4.2.3 | 297 | 271 |
「いで、あな心憂。墨染こそ、なほ、いとうたて目もくるる色なりけれ。かやうにても、見たてまつることは、絶ゆまじきぞかしと、思ひ慰めはべれど、古りがたうわりなき心地する涙の人悪ろさを、いとかう思ひ捨てられたてまつる身の咎に思ひなすも、さまざまに胸いたう口惜しくなむ。取り返すものにもがなや」 |
"いで、あなこころう。すみぞめこそ、なほ、いとうたてめもくるるいろなりけれ。かやうにても、みたてまつることは、たゆまじきぞかしと、おもひなぐさめはべれど、ふりがたうわりなきここちするなみだのひとわろさを、いとかうおもひすてられたてまつるみのとがにおもひなすも、さまざまにむねいたうくちをしくなん。とりかへすものにもがなや。" |
36 | 4.2.4 | 298 | 272 |
と、うち嘆きたまひて、 |
と、うちなげきたまひて、 |
36 | 4.2.5 | 299 | 273 |
「今はとて思し離れば、まことに御心と厭ひ捨てたまひけると、恥づかしう心憂くなむおぼゆべき。なほ、あはれと思せ」 |
"いまはとておぼしはなれば、まことにみこころといとひすてたまひけると、はづかしうこころうくなんおぼゆべき。なほ、あはれとおぼせ。" |
36 | 4.2.6 | 300 | 274 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
36 | 4.2.7 | 301 | 275 |
「かかるさまの人は、もののあはれも知らぬものと聞きしを、ましてもとより知らぬことにて、いかがは聞こゆべからむ」 |
"かかるさまのひとは、もののあはれもしらぬものとききしを、ましてもとよりしらぬことにて、いかがはきこゆべからん。" |
36 | 4.2.8 | 302 | 276 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
36 | 4.2.9 | 303 | 277 |
「かひなのことや。思し知る方もあらむものを」 |
"かひなのことや。おぼししるかたもあらんものを。" |
36 | 4.2.10 | 304 | 278 |
とばかりのたまひさして、若君を見たてまつりたまふ。 |
とばかりのたまひさして、わかぎみをみたてまつりたまふ。 |
36 | 4.3 | 305 | 279 | 第三段 源氏、老後の感懐 |
36 | 4.3.1 | 306 | 280 |
御乳母たちは、やむごとなく、めやすき限りあまたさぶらふ。召し出でて、仕うまつるべき心おきてなどのたまふ。 |
おほんめのとたちは、やんごとなく、めやすきかぎりあまたさぶらふ。めしいでて、つかうまつるべきこころおきてなどのたまふ。 |
36 | 4.3.2 | 307 | 281 |
「あはれ、残り少なき世に、生ひ出づべき人にこそ」 |
"あはれ、のこりすくなきよに、おひいづべきひとにこそ。" |
36 | 4.3.3 | 308 | 282 |
とて、抱き取りたまへば、いと心やすくうち笑みて、つぶつぶと肥えて白ううつくし。大将などの稚児生ひ、ほのかに思し出づるには似たまはず。女御の御宮たち、はた、父帝の御方ざまに、王気づきて気高うこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうしもおはせず。 |
とて、いだきとりたまへば、いとこころやすくうちゑみて、つぶつぶとこえてしろううつくし。だいしゃうなどのちごおひ、ほのかにおぼしいづるにはにたまはず。にょうごのおほんみやたち、はた、ちちみかどのおほんかたざまに、わうけづきてけだかうこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうしもおはせず。 |
36 | 4.3.4 | 309 | 283 |
この君、いとあてなるに添へて、愛敬づき、まみの薫りて、笑がちなるなどを、いとあはれと見たまふ。思ひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。ただ今ながら、眼居ののどかに恥づかしきさまも、やう離れて、薫りをかしき顔ざまなり。 |
このきみ、いとあてなるにそへて、あいぎゃうづき、まみのかをりて、ゑがちなるなどを、いとあはれとみたまふ。おもひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。ただいまながら、まなこゐののどかにはづかしきさまも、やうはなれて、かをりをかしきかほざまなり。 |
36 | 4.3.5 | 310 | 285 |
宮はさしも思し分かず。人はた、さらに知らぬことなれば、ただ一所の御心の内にのみぞ、 |
みやはさしもおぼしわかず。ひとはた、さらにしらぬことなれば、ただひとところのみこころのうちにのみぞ、 |
36 | 4.3.6 | 311 | 286 |
「あはれ、はかなかりける人の契りかな」 |
"あはれ、はかなかりけるひとのちぎりかな。" |
36 | 4.3.7 | 312 | 287 |
と見たまふに、大方の世の定めなさも思し続けられて、涙のほろほろとこぼれぬるを、今日は言忌みすべき日をと、おし拭ひ隠したまふ。 |
とみたまふに、おほかたのよのさだめなさもおぼしつづけられて、なみだのほろほろとこぼれぬるを、けふはこといみすべきひをと、おしのごひかくしたまふ。 |
36 | 4.3.8 | 313 | 288 |
「静かに思ひて嗟くに堪へたり」 |
"しづかにおもひてなげくにたへたり" |
36 | 4.3.9 | 314 | 289 |
と、うち誦うじたまふ。五十八を十取り捨てたる御齢なれど、末になりたる心地したまひて、いとものあはれに思さる。「汝が爺に」とも、諌めまほしう思しけむかし。 |
と、うちずうじたまふ。ごじふはちをとをとりすてたるおほんよはひなれど、すゑになりたるここちしたまひて、いとものあはれにおぼさる。"なんぢがちちに"とも、いさめまほしうおぼしけんかし。 |
36 | 4.4 | 315 | 290 | 第四段 源氏、女三の宮に嫌味を言う |
36 | 4.4.1 | 316 | 291 |
「このことの心知れる人、女房の中にもあらむかし。知らぬこそ、ねたけれ。烏滸なりと見るらむ」と、安からず思せど、「わが御咎あることはあへなむ。二つ言はむには、女の御ためこそ、いとほしけれ」 |
"このことのこころしれるひと、にょうばうのなかにもあらんかし。しらぬこそ、ねたけれ。をこなりとみるらん。"と、やすからずおぼせど、"わがおほんとがあることはあへなん。ふたついはんには、をんなのおほんためこそ、いとほしけれ。" |
36 | 4.4.2 | 317 | 292 |
など思して、色にも出だしたまはず。いと何心なう物語して笑ひたまへるまみ、口つきのうつくしきも、「心知らざらむ人はいかがあらむ。なほ、いとよく似通ひたりけり」と見たまふに、「親たちの、子だにあれかしと、泣いたまふらむにも、え見せず、人知れずはかなき形見ばかりをとどめ置きて、さばかり思ひ上がり、およすけたりし身を、心もて失ひつるよ」 |
などおぼして、いろにもいだしたまはず。いとなにごころなうものがたりしてわらひたまへるまみ、くちつきのうつくしきも、"こころしらざらんひとはいかがあらん。なほ、いとよくにかよひたりけり。"とみたまふに、"おやたちの、こだにあれかしと、ないたまふらんにも、えみせず、ひとしれずはかなきかたみばかりをとどめおきて、さばかりおもひあがり、およすけたりしみを、こころもてうしなひつるよ。" |
36 | 4.4.3 | 318 | 293 |
と、あはれに惜しければ、めざましと思ふ心もひき返し、うち泣かれたまひぬ。 |
と、あはれにをしければ、めざましとおもふこころもひきかへし、うちなかれたまひぬ。 |
36 | 4.4.4 | 319 | 294 |
人びとすべり隠れたるほどに、宮の御もとに寄りたまひて、 |
ひとびとすべりかくれたるほどに、みやのおほんもとによりたまひて、 |
36 | 4.4.5 | 320 | 295 |
「この人をば、いかが見たまふや。かかる人を捨てて、背き果てたまひぬべき世にやありける。あな、心憂」 |
"このひとをば、いかがみたまふや。かかるひとをすてて、そむきはてたまひぬべきよにやありける。あな、こころう。" |
36 | 4.4.6 | 321 | 296 |
と、おどろかしきこえたまへば、顔うち赤めておはす。 |
と、おどろかしきこえたまへば、かほうちあかめておはす。 |
36 | 4.4.7 | 322 | 297 |
「誰が世にか種は蒔きしと人問はば<BR/>いかが岩根の松は答へむ |
"〔たがよにかたねはまきしとひととはば<BR/>いかがいはねのまつはこたへん |
36 | 4.4.8 | 323 | 298 |
あはれなり」 |
あはれなり。" |
36 | 4.4.9 | 324 | 299 |
など、忍びて聞こえたまふに、御いらへもなうて、ひれふしたまへり。ことわりと思せば、しひても聞こえたまはず。 |
など、しのびてきこえたまふに、おほんいらへもなうて、ひれふしたまへり。ことわりとおぼせば、しひてもきこえたまはず。 |
36 | 4.4.10 | 325 | 300 |
「いかに思すらむ。もの深うなどはおはせねど、いかでかはただには」 |
"いかにおぼすらん。ものふかうなどはおはせねど、いかでかはただには。" |
36 | 4.4.11 | 326 | 301 |
と、推し量りきこえたまふも、いと心苦しうなむ。 |
と、おしはかりきこえたまふも、いとくるしうなん。 |
36 | 4.5 | 327 | 302 | 第五段 夕霧、事の真相に関心 |
36 | 4.5.1 | 328 | 303 |
大将の君は、かの心に余りて、ほのめかし出でたりしを、 |
だいしゃうのきみは、かのこころにあまりて、ほのめかしいでたりしを、 |
36 | 4.5.2 | 329 | 304 |
「いかなることにかありけむ。すこしものおぼえたるさまならましかば、さばかりうち出でそめたりしに、いとようけしきは見てましを。いふかひなきとぢめにて、折悪しういぶせくて、あはれにもありしかな」 |
"いかなることにかありけん。すこしものおぼえたるさまならましかば、さばかりうちいでそめたりしに、いとようけしきはみてましを。いふかひなきとぢめにて、をりあしういぶせくて、あはれにもありしかな。" |
36 | 4.5.3 | 330 | 305 |
と、面影忘れがたうて、兄弟の君たちよりも、しひて悲しとおぼえたまひけり。 |
と、おもかげわすれがたうて、はらからのきみたちよりも、しひてかなしとおぼえたまひけり。 |
36 | 4.5.4 | 331 | 306 |
「女宮のかく世を背きたまへるありさま、おどろおどろしき御悩みにもあらで、すがやかに思し立ちけるほどよ。また、さりとも、許しきこえたまふべきことかは。 |
"をんなみやのかくよをそむきたまへるありさま、おどろおどろしきおほんなやみにもあらで、すがやかにおぼしたちけるほどよ。また、さりとも、ゆるしきこえたまふべきことかは。 |
36 | 4.5.5 | 332 | 307 |
二条の上の、さばかり限りにて、泣く泣く申したまふと聞きしをば、いみじきことに思して、つひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを」 |
にでうのうへの、さばかりかぎりにて、なくなくまうしたまふとききしをば、いみじきことにおぼして、つひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを。" |
36 | 4.5.6 | 333 | 308 |
など、取り集めて思ひくだくに、 |
など、とりあつめておもひくだくに、 |
36 | 4.5.7 | 334 | 309 |
「なほ、昔より絶えず見ゆる心ばへ、え忍ばぬ折々ありきかし。いとようもて静めたるうはべは、人よりけに用意あり、のどかに、何ごとをこの人の心のうちに思ふらむと、見る人も苦しきまでありしかど、すこし弱きところつきて、なよび過ぎたりしけぞかし。 |
"なほ、むかしよりたえずみゆるこころばへ、えしのばぬをりをりありきかし。いとようもてしづめたるうはべは、ひとよりけによういあり、のどかに、なにごとをこのひとのこころのうちにおもふらんと、みるひともくるしきまでありしかど、すこしよわきところつきて、なよびすぎたりしけぞかし。 |
36 | 4.5.8 | 335 | 310 |
いみじうとも、さるまじきことに心を乱りて、かくしも身に代ふべきことにやはありける。人のためにもいとほしう、わが身はいたづらにやなすべき。さるべき昔の契りといひながら、いと軽々しう、あぢきなきことなりかし」 |
いみじうとも、さるまじきことにこころをみだりて、かくしもみにかふべきことにやはありける。ひとのためにもいとほしう、わがみはいたづらにやなすべき。さるべきむかしのちぎりといひながら、いとかるがるしう、あぢきなきことなりかし。" |
36 | 4.5.9 | 336 | 311 |
など、心一つに思へど、女君にだに聞こえ出でたまはず。さるべきついでなくて、院にもまだえ申したまはざりけり。さるは、かかることをなむかすめし、と申し出でて、御けしきも見まほしかりけり。 |
など、こころひとつにおもへど、をんなぎみにだにきこえいでたまはず。さるべきついでなくて、ゐんにもまだえまうしたまはざりけり。さるは、かかることをなんかすめし、とまうしいでて、みけしきもみまほしかりけり。 |
36 | 4.5.10 | 337 | 312 |
父大臣、母北の方は、涙のいとまなく思し沈みて、はかなく過ぐる日数をも知りたまはず、御わざの法服、御装束、何くれのいそぎをも、君たち、御方々、とりどりになむ、せさせたまひける。 |
ちちおとど、ははきたのかたは、なみだのいとまなくおぼししづみて、はかなくすぐるひかずをもしりたまはず、おほんわざのほふぶく、おほんさうぞく、なにくれのいそぎをも、きみたち、おほんかたがた、とりどりになん、せさせたまひける。 |
36 | 4.5.11 | 338 | 313 |
経仏のおきてなども、右大弁の君せさせたまふ。七日七日の御誦経などを、人の聞こえおどろかすにも、 |
きゃうほとけのおきてなども、うだいべんのきみせさせたまふ。なぬかなぬかのみずきゃうなどを、ひとのきこえおどろかすにも、 |
36 | 4.5.12 | 339 | 314 |
「我にな聞かせそ。かくいみじと思ひ惑ふに、なかなか道妨げにもこそ」 |
"われになきかせそ。かくいみじとおもひまどふに、なかなかみちさまたげにもこそ。" |
36 | 4.5.13 | 340 | 315 |
とて、亡きやうに思し惚れたり。 |
とて、なきやうにおぼしほれたり。 |
36 | 5 | 341 | 316 | 第五章 夕霧の物語 柏木哀惜 |
36 | 5.1 | 342 | 317 | 第一段 夕霧、一条宮邸を訪問 |
36 | 5.1.1 | 343 | 318 |
一条の宮には、まして、おぼつかなうて別れたまひにし恨みさへ添ひて、日ごろ経るままに、広き宮の内、人気少なう心細げにて、親しく使ひ慣らしたまひし人は、なほ参り訪らひきこゆ。 |
いちでうのみやには、まして、おぼつかなうてわかれたまひにしうらみさへそひて、ひごろふるままに、ひろきみやのうち、ひとけすくなうこころぼそげにて、したしくつかひならしたまひしひとは、なほまゐりとぶらひきこゆ。 |
36 | 5.1.2 | 344 | 319 |
好みたまひし鷹、馬など、その方の預りどもも、皆つくところなう思ひ倦じて、かすかに出で入るを見たまふも、ことに触れてあはれは尽きぬものになむありける。もて使ひたまひし御調度ども、常に弾きたまひし琵琶、和琴などの緒も取り放ちやつされて、音を立てぬも、いと埋れいたきわざなりや。 |
このみたまひしたか、むまなど、そのかたのあづかりどもも、みなつくところなうおもひうじて、かすかにいでいるをみたまふも、ことにふれてあはれはつきぬものになんありける。もてつかひたまひしおほんでうどども、つねにひきたまひしびは、わごんなどのをもとりはなちやつされて、ねをたてぬも、いとむもれいたきわざなりや。 |
36 | 5.1.3 | 345 | 320 |
御前の木立いたう煙りて、花は時を忘れぬけしきなるを眺めつつ、もの悲しく、さぶらふ人びとも、鈍色にやつれつつ、寂しうつれづれなる昼つ方、前駆はなやかに追ふ音して、ここに止まりぬる人あり。 |
おまへのこだちいたうけぶりて、はなはときをわすれぬけしきなるをながめつつ、ものがなしく、さぶらふひとびとも、にびいろにやつれつつ、さびしうつれづれなるひるつかた、さきはなやかにおふおとして、ここにとまりぬるひとあり。 |
36 | 5.1.4 | 346 | 321 |
「あはれ、故殿の御けはひとこそ、うち忘れては思ひつれ」 |
"あはれ、ことののおほんけはひとこそ、うちわすれてはおもひつれ。" |
36 | 5.1.5 | 347 | 322 |
とて、泣くもあり。大将殿のおはしたるなりけり。御消息聞こえ入れたまへり。例の弁の君、宰相などのおはしたると思しつるを、いと恥づかしげにきよらなるもてなしにて入りたまへり。 |
とて、なくもあり。だいしゃうどののおはしたるなりけり。おほんせうそこきこえいれたまへり。れいのべんのきみ、さいしゃうなどのおはしたるとおぼしつるを、いとはづかしげにきよらなるもてなしにていりたまへり。 |
36 | 5.1.6 | 348 | 323 |
母屋の廂に御座よそひて入れたてまつる。おしなべたるやうに、人びとのあへしらひきこえむは、かたじけなきさまのしたまへれば、御息所ぞ対面したまへる。 |
もやのひさしにおましよそひていれたてまつる。おしなべたるやうに、ひとびとのあへしらひきこえんは、かたじけなきさまのしたまへれば、みやすんどころぞたいめんしたまへる。 |
36 | 5.1.7 | 349 | 324 |
「いみじきことを思ひたまへ嘆く心は、さるべき人びとにも越えてはべれど、限りあれば、聞こえさせやる方なうて、世の常になりはべりにけり。今はのほどにも、のたまひ置くことはべりしかば、おろかならずなむ。 |
"いみじきことをおもひたまへなげくこころは、さるべきひとびとにもこえてはべれど、かぎりあれば、きこえさせやるかたなうて、よのつねになりはべりにけり。いまはのほどにも、のたまひおくことはべりしかば、おろかならずなん。 |
36 | 5.1.8 | 350 | 325 |
誰ものどめがたき世なれど、後れ先立つほどのけぢめには、思ひたまへ及ばむに従ひて、深き心のほどをも御覧ぜられにしがなとなむ。神事などのしげきころほひ、私の心ざしにまかせて、つくづくと籠もりゐはべらむも、例ならぬことなりければ、立ちながらはた、なかなかに飽かず思ひたまへらるべうてなむ、日ごろを過ぐしはべりにける。 |
たれものどめがたきよなれど、おくれさきだつほどのけぢめには、おもひたまへおよばんにしたがひて、ふかきこころのほどをもごらんぜられにしがなとなん。かみわざなどのしげきころほひ、わたくしのこころざしにまかせて、つくづくとこもりゐはべらんも、れいならぬことなりければ、たちながらはた、なかなかにあかずおもひたまへらるべうてなん、ひごろをすぐしはべりにける。 |
36 | 5.1.9 | 351 | 326 |
大臣などの心を乱りたまふさま、見聞きはべるにつけても、親子の道の闇をばさるものにて、かかる御仲らひの、深く思ひとどめたまひけむほどを、推し量りきこえさするに、いと尽きせずなむ」 |
おとどなどのこころをみだりたまふさま、みききはべるにつけても、おやこのみちのやみをばさるものにて、かかるおほんなからひの、ふかくおもひとどめたまひけんほどを、おしはかりきこえさするに、いとつきせずなん。" |
36 | 5.1.10 | 352 | 327 |
とて、しばしばおし拭ひ、鼻うちかみたまふ。あざやかに気高きものから、なつかしうなまめいたり。 |
とて、しばしばおしのごひ、はなうちかみたまふ。あざやかにけだかきものから、なつかしうなまめいたり。 |
36 | 5.2 | 353 | 328 | 第二段 母御息所の嘆き |
36 | 5.2.1 | 354 | 329 |
御息所も鼻声になりたまひて、 |
みやすんどころもはなごゑになりたまひて、 |
36 | 5.2.2 | 355 | 330 |
「あはれなることは、その常なき世のさがにこそは。いみじとても、またたぐひなきことにやはと、年積もりぬる人は、しひて心強うさましはべるを、さらに思し入りたるさまの、いとゆゆしきまで、しばしも立ち後れたまふまじきやうに見えはべれば、すべていと心憂かりける身の、今までながらへはべりて、かくかたがたにはかなき世の末のありさまを見たまへ過ぐすべきにやと、いと静心なくなむ。 |
"あはれなることは、そのつねなきよのさがにこそは。いみじとても、またたぐひなきことにやはと、としつもりぬるひとは、しひてこころづようさましはべるを、さらにおぼしいりたるさまの、いとゆゆしきまで、しばしもたちおくれたまふまじきやうにみえはべれば、すべていとこころうかりけるみの、いままでながらへはべりて、かくかたがたにはかなきよのすゑのありさまをみたまへすぐすべきにやと、いとしづこころなくなん。 |
36 | 5.2.3 | 356 | 331 |
おのづから近き御仲らひにて、聞き及ばせたまふやうもはべりけむ。初めつ方より、をさをさうけひききこえざりし御ことを、大臣の御心むけも心苦しう、院にもよろしきやうに思し許いたる御けしきなどのはべしかば、さらばみづからの心おきての及ばぬなりけりと、思ひたまへなしてなむ、見たてまつりつるを、かく夢のやうなることを見たまふるに、思ひたまへ合はすれば、みづからの心のほどなむ、同じうは強うもあらがひきこえましを、と思ひはべるに、なほいと悔しう。それは、かやうにしも思ひ寄りはべらざりきかし。 |
おのづからちかきおほんなからひにて、ききおよばせたまふやうもはべりけん。はじめつかたより、をさをさうけひききこえざりしおほんことを、おとどのみこころむけもこころぐるしう、ゐんにもよろしきやうにおぼしゆるいたるみけしきなどのはべしかば、さらばみづからのこころおきてのおよばぬなりけりと、おもひたまへなしてなん、みたてまつりつるを、かくゆめのやうなることをみたまふるに、おもひたまへあはすれば、みづからのこころのほどなん、おなじうはつようもあらがひきこえましを、とおもひはべるに、なほいとくやしう。それは、かやうにしもおもひよりはべらざりきかし。 |
36 | 5.2.4 | 357 | 332 |
皇女たちは、おぼろけのことならで、悪しくも善くも、かやうに世づきたまふことは、え心にくからぬことなりと、古めき心には思ひはべしを、いづかたにもよらず、中空に憂き御宿世なりければ、何かは、かかるついでに煙にも紛れたまひなむは、この御身のための人聞きなどは、ことに口惜しかるまじけれど、さりとても、しかすくよかに、え思ひ静むまじう、悲しう見たてまつりはべるに、いとうれしう、浅からぬ御訪らひのたびたびになりはべめるを、有り難うもと聞こえはべるも、さらば、かの御契りありけるにこそはと、思ふやうにしも見えざりし御心ばへなれど、今はとて、これかれにつけおきたまひける御遺言の、あはれなるになむ、憂きにもうれしき瀬はまじりはべりける」 |
みこたちは、おぼろけのことならで、あしくもよくも、かやうによづきたまふことは、えこころにくからぬことなりと、ふるめきごころにはおもひはべしを、いづかたにもよらず、なかぞらにうきおほんすくせなりければ、なにかは、かかるついでにけぶりにもまぎれたまひなんは、このおほんみのためのひとぎきなどは、ことにくちをしかるまじけれど、さりとても、しかすくよかに、えおもひしづむまじう、かなしうみたてまつりはべるに、いとうれしう、あさからぬおほんとぶらひのたびたびになりはべめるを、ありがたうもときこえはべるも、さらば、かのおほんちぎりありけるにこそはと、おもふやうにしもみえざりしみこころばへなれど、いまはとて、これかれにつけおきたまひけるおほんゆいごんの、あはれなるになん、うきにもうれしきせはまじりはべりける。" |
36 | 5.2.5 | 358 | 333 |
とて、いといたう泣いたまふけはひなり。 |
とて、いといたうないたまふけはひなり。 |
36 | 5.3 | 359 | 334 | 第三段 夕霧、御息所と和歌を詠み交わす |
36 | 5.3.1 | 360 | 335 |
大将も、とみにえためらひたまはず。 |
だいしゃうも、とみにえためらひたまはず。 |
36 | 5.3.2 | 361 | 336 |
「あやしう、いとこよなくおよすけたまへりし人の、かかるべうてや、この二、三年のこなたなむ、いたうしめりて、もの心細げに見えたまひしかば、あまり世のことわりを思ひ知り、もの深うなりぬる人の、澄み過ぎて、かかる例、心うつくしからず、かへりては、あざやかなる方のおぼえ薄らぐものなりとなむ、常にはかばかしからぬ心に諌めきこえしかば、心浅しと思ひたまへりし。よろづよりも、人にまさりて、げに、かの思し嘆くらむ御心の内の、かたじけなけれど、いと心苦しうもはべるかな」 |
"あやしう、いとこよなくおよすけたまへりしひとの、かかるべうてや、このに、さんねんのこなたなん、いたうしめりて、ものこころぼそげにみえたまひしかば、あまりよのことわりをおもひしり、ものふかうなりぬるひとの、すみすぎて、かかるためし、こころうつくしからず、かへりては、あざやかなるかたのおぼえうすらぐものなりとなん、つねにはかばかしからぬこころにいさめきこえしかば、こころあさしとおもひたまへりし。よろづよりも、ひとにまさりて、げに、かのおぼしなげくらんみこころのうちの、かたじけなけれど、いとこころぐるしうもはべるかな。" |
36 | 5.3.3 | 362 | 337 |
など、なつかしうこまやかに聞こえたまひて、ややほど経てぞ出でたまふ。 |
など、なつかしうこまやかにきこえたまひて、ややほどへてぞいでたまふ。 |
36 | 5.3.4 | 363 | 338 |
かの君は、五、六年のほどのこのかみなりしかど、なほ、いと若やかに、なまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとすくよかに重々しく、男々しきけはひして、顔のみぞいと若うきよらなること、人にすぐれたまへる。若き人びとは、もの悲しさもすこし紛れて見出だしたてまつる。 |
かのきみは、ご、ろくねんのほどのこのかみなりしかど、なほ、いとわかやかに、なまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとすくよかにおもおもしく、ををしきけはひして、かほのみぞいとわかうきよらなること、ひとにすぐれたまへる。わかきひとびとは、ものがなしさもすこしまぎれてみいだしたてまつる。 |
36 | 5.3.5 | 364 | 339 |
御前近き桜のいとおもしろきを、「今年ばかりは」と、うちおぼゆるも、いまいましき筋なりければ、 |
おまへちかきさくらのいとおもしろきを、"ことしばかりは〕と、うちおぼゆるも、いまいましきすぢなりければ、 |
36 | 5.3.6 | 365 | 340 |
「あひ見むことは」 |
"〔あひみんことは〕 |
36 | 5.3.7 | 366 | 341 |
と口ずさびて、 |
とくちずさびて、 |
36 | 5.3.8 | 367 | 342 |
「時しあれば変はらぬ色に匂ひけり<BR/>片枝枯れにし宿の桜も」 |
"〔ときしあればかはらぬいろににほひけり<BR/>かたえかれにしやどのさくらも〕 |
36 | 5.3.9 | 368 | 343 |
わざとならず誦じなして立ちたまふに、いととう、 |
わざとならずずじなしてたちたまふに、いととう、 |
36 | 5.3.10 | 369 | 344 |
「この春は柳の芽にぞ玉はぬく<BR/>咲き散る花の行方知らねば」 |
"〔このはるはやなぎのめにぞたまはぬく<BR/>さきちるはなのゆくへしらねば〕 |
36 | 5.3.11 | 370 | 345 |
と聞こえたまふ。いと深きよしにはあらねど、今めかしう、かどありとは言はれたまひし更衣なりけり。「げに、めやすきほどの用意なめり」と見たまふ。 |
ときこえたまふ。いとふかきよしにはあらねど、いまめかしう、かどありとはいはれたまひしかういなりけり。"げに、めやすきほどのよういなめり"とみたまふ。 |
36 | 5.4 | 371 | 346 | 第四段 夕霧、太政大臣邸を訪問 |
36 | 5.4.1 | 372 | 347 |
致仕の大殿に、やがて参りたまへれば、君たちあまたものしたまひけり。 |
ちじのおほとのに、やがてまゐりたまへれば、きみたちあまたものしたまひけり。 |
36 | 5.4.2 | 373 | 348 |
「こなたに入らせたまへ」 |
"こなたにいらせたまへ。" |
36 | 5.4.3 | 374 | 349 |
とあれば、大臣の御出居の方に入りたまへり。ためらひて対面したまへり。古りがたうきよげなる御容貌、いたう痩せ衰へて、御髭などもとりつくろひたまはねば、しげりて、親の孝よりも、けにやつれたまへり。見たてまつりたまふより、いと忍びがたければ、「あまりにをさまらず乱れ落つる涙こそ、はしたなけれ」と思へば、せめてぞもて隠したまふ。 |
とあれば、おとどのおほんいでゐのかたにいりたまへり。ためらひてたいめんしたまへり。ふりがたうきよげなるおほんかたち、いたうやせおとろへて、おほんひげなどもとりつくろひたまはねば、しげりて、おやのけうよりも、けにやつれたまへり。みたてまつりたまふより、いとしのびがたければ、"あまりにをさまらずみだれおつるなみだこそ、はしたなけれ。"とおもへば、せめてぞもてかくしたまふ。 |
36 | 5.4.4 | 375 | 350 |
大臣も、「取り分きて御仲よくものしたまひしを」と見たまふに、ただ降りに降り落ちて、えとどめたまはず、尽きせぬ御事どもを聞こえ交はしたまふ。 |
おとども、"とりわきておほんなかよくものしたまひしを。"とみたまふに、ただふりにふりおちて、えとどめたまはず、つきせぬおほんことどもをきこえかはしたまふ。 |
36 | 5.4.5 | 376 | 351 |
一条の宮に参でたりつるありさまなど聞こえたまふ。いとどしう、春雨かと見ゆるまで、軒の雫に異ならず、濡らし添へたまふ。畳紙に、かの「柳の芽にぞ」とありつるを、書いたまへるをたてまつりたまへば、「目も見えずや」と、おし絞りつつ見たまふ。 |
いちでうのみやにまでたりつるありさまなどきこえたまふ。いとどしう、はるさめかとみゆるまで、のきのしづくにことならず、ぬらしそへたまふ。たたんがみに、かの"やなぎのめにぞ〕とありつるを、かいたまへるをたてまつりたまへば、"めもみえずや"と、おししぼりつつみたまふ。 |
36 | 5.4.6 | 377 | 352 |
うちひそみつつぞ見たまふ御さま、例は心強うあざやかに、誇りかなる御けしき名残なく、人悪ろし。さるは、異なることなかめれど、この「玉はぬく」とある節の、げにと思さるるに、心乱れて、久しうえためらひたまはず。 |
うちひそみつつぞみたまふおほんさま、れいはこころづようあざやかに、ほこりかなるみけしきなごりなく、ひとわろし。さるは、ことなることなかめれど、この"たまはぬく〕とあるふしの、げにとおぼさるるに、こころみだれて、ひさしうえためらひたまはず。 |
36 | 5.4.7 | 378 | 353 |
「君の御母君の隠れたまへりし秋なむ、世に悲しきことの際にはおぼえはべりしを、女は限りありて、見る人少なう、とあることもかかることもあらはならねば、悲しびも隠ろへてなむありける。 |
"きみのおほんははぎみのかくれたまへりしあきなん、よにかなしきことのきはにはおぼえはべりしを、をんなはかぎりありて、みるひとすくなう、とあることもかかることもあらはならねば、かなしびもかくろへてなんありける。 |
36 | 5.4.8 | 379 | 354 |
はかばかしからねど、朝廷も捨てたまはず、やうやう人となり、官位につけて、あひ頼む人びと、おのづから次々に多うなりなどして、おどろき口惜しがるも、類に触れてあるべし。 |
はかばかしからねど、おほやけもすてたまはず、やうやうひととなり、つかさくらゐにつけて、あひたのむひとびと、おのづからつぎつぎにおほうなりなどして、おどろきくちをしがるも、るいにふれてあるべし。 |
36 | 5.4.9 | 380 | 355 |
かう深き思ひは、その大方の世のおぼえも、官位も思ほえず。ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、堪へがたく恋しかりけれ。何ばかりのことにてか、思ひさますべからむ」 |
かうふかきおもひは、そのおほかたのよのおぼえも、つかさくらゐもおもほえず。ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、たへがたくこひしかりけれ。なにばかりのことにてか、おもひさますべからん。" |
36 | 5.4.10 | 381 | 356 |
と、空を仰ぎて眺めたまふ。 |
と、そらをあふぎてながめたまふ。 |
36 | 5.4.11 | 382 | 357 |
夕暮の雲のけしき、鈍色に霞みて、花の散りたる梢どもをも、今日ぞ目とどめたまふ。この御畳紙に、 |
ゆふぐれのくものけしき、にびいろにかすみて、はなのちりたるこずゑどもをも、けふぞめとどめたまふ。このおほんたたんがみに、 |
36 | 5.4.12 | 383 | 358 |
「木の下の雫に濡れてさかさまに<BR/>霞の衣着たる春かな」 |
"〔このしたのしづくにぬれてさかさまに<BR/>かすみのころもきたるはるかな〕 |
36 | 5.4.13 | 384 | 359 |
大将の君、 |
だいしゃうのきみ、 |
36 | 5.4.14 | 385 | 360 |
「亡き人も思はざりけむうち捨てて<BR/>夕べの霞君着たれとは」 |
"〔なきひともおもはざりけんうちすてて<BR/>ゆふべのかすみきみきたれとは〕 |
36 | 5.4.15 | 386 | 361 |
弁の君、 |
べんのきみ、 |
36 | 5.4.16 | 387 | 362 |
「恨めしや霞の衣誰れ着よと<BR/>春よりさきに花の散りけむ」 |
"〔うらめしやかすみのころもたれきよと<BR/>はるよりさきにはなのちりけん〕 |
36 | 5.4.17 | 388 | 363 |
御わざなど、世の常ならず、いかめしうなむありける。大将殿の北の方をばさるものにて、殿は心ことに、誦経なども、あはれに深き心ばへを加へたまふ。 |
おほんわざなど、よのつねならず、いかめしうなんありける。だいしゃうどののきたのかたをばさるものにて、とのはこころことに、ずきゃうなども、あはれにふかきこころばへをくはへたまふ。 |
36 | 5.5 | 389 | 364 | 第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問 |
36 | 5.5.1 | 390 | 365 |
かの一条の宮にも、常に訪らひきこえたまふ。卯月ばかりの卯の花は、そこはかとなう心地よげに、一つ色なる四方の梢もをかしう見えわたるを、もの思ふ宿は、よろづのことにつけて静かに心細う、暮らしかねたまふに、例の渡りたまへり。 |
かのいちでうのみやにも、つねにとぶらひきこえたまふ。うづきばかりのうのはなは、そこはかとなうここちよげに、ひとついろなるよものこずゑもをかしうみえわたるを、ものおもふやどは、よろづのことにつけてしづかにこころぼそう、くらしかねたまふに、れいのわたりたまへり。 |
36 | 5.5.2 | 391 | 366 |
庭もやうやう青み出づる若草見えわたり、ここかしこの砂子薄きものの隠れの方に、蓬も所得顔なり。前栽に心入れてつくろひたまひしも、心にまかせて茂りあひ、一村薄も頼もしげに広ごりて、虫の音添へむ秋思ひやらるるより、いとものあはれに露けくて、分け入りたまふ。 |
にはもやうやうあをみいづるわかくさみえわたり、ここかしこのすなごうすきもののかくれのかたに、よもぎもところえがほなり。せんさいにこころいれてつくろひたまひしも、こころにまかせてしげりあひ、ひとむらすすきもたのもしげにひろごりて、むしのねそへんあきおもひやらるるより、いとものあはれにつゆけくて、わけいりたまふ。 |
36 | 5.5.3 | 392 | 367 |
伊予簾かけ渡して、鈍色の几帳の衣更へしたる透影、涼しげに見えて、よき童女の、こまやかに鈍ばめる汗衫のつま、頭つきなどほの見えたる、をかしけれど、なほ目おどろかるる色なりかし。 |
いよすかけわたして、にびいろのきちゃうのころもがへしたるすきかげ、すずしげにみえて、よきわらはの、こまやかににばめるかざみのつま、かしらつきなどほのみえたる、をかしけれど、なほめおどろかるるいろなりかし。 |
36 | 5.5.4 | 393 | 369 |
今日は簀子にゐたまへば、茵さし出でたり。「いと軽らかなる御座なり」とて、例の、御息所おどろかしきこゆれど、このごろ、悩ましとて寄り臥したまへり。とかく聞こえ紛らはすほど、御前の木立ども、思ふことなげなるけしきを見たまふも、いとものあはれなり。 |
けふはすのこにゐたまへば、しとねさしいでたり。"いとかるらかなるおましなり。"とて、れいの、みやすどころおどろかしきこゆれど、このごろ、なやましとてよりふしたまへり。とかくきこえまぎらはすほど、おまへのこだちども、おもふことなげなるけしきをみたまふも、いとものあはれなり。 |
36 | 5.5.5 | 394 | 370 |
柏木と楓との、ものよりけに若やかなる色して、枝さし交はしたるを、 |
かしはぎとかへでとの、ものよりけにわかやかなるいろして、えださしかはしたるを、 |
36 | 5.5.6 | 395 | 371 |
「いかなる契りにか、末逢へる頼もしさよ」 |
"いかなるちぎりにか、すゑあへるたのもしさよ。" |
36 | 5.5.7 | 396 | 372 |
などのたまひて、忍びやかにさし寄りて、 |
などのたまひて、しのびやかにさしよりて、 |
36 | 5.5.8 | 397 | 373 |
「ことならば馴らしの枝にならさなむ<BR/>葉守の神の許しありきと |
"〔ことならばならしのえだにならさなん<BR/>はもりのかみのゆるしありきと |
36 | 5.5.9 | 398 | 374 |
御簾の外の隔てあるほどこそ、恨めしけれ」 |
みすのとのへだてあるほどこそ、うらめしけれ。" |
36 | 5.5.10 | 399 | 375 |
とて、長押に寄りゐたまへり。 |
とて、なげしによりゐたまへり。 |
36 | 5.5.11 | 400 | 376 |
「なよび姿はた、いといたうたをやぎけるをや」 |
"なよびすがたはた、いといたうたをやぎけるをや。" |
36 | 5.5.12 | 401 | 377 |
と、これかれつきしろふ。この御あへしらひきこゆる少将の君といふ人して、 |
と、これかれつきしろふ。このおほんあへしらひきこゆるせうしゃうのきみといふひとして、 |
36 | 5.5.13 | 402 | 378 |
「柏木に葉守の神はまさずとも<BR/>人ならすべき宿の梢か |
"〔かしはぎにはもりのかみはまさずとも<BR/>ひとならすべきやどのこずゑか |
36 | 5.5.14 | 403 | 379 |
うちつけなる御言の葉になむ、浅う思ひたまへなりぬる」 |
うちつけなるおほんことのはになん、あさうおもひたまへなりぬる。" |
36 | 5.5.15 | 404 | 380 |
と聞こゆれば、げにと思すに、すこしほほ笑みたまひぬ。 |
ときこゆれば、げにとおぼすに、すこしほほゑみたまひぬ。 |
36 | 5.6 | 405 | 381 | 第六段 夕霧、御息所と対話 |
36 | 5.6.1 | 406 | 382 |
御息所ゐざり出でたまふけはひすれば、やをらゐ直りたまひぬ。 |
みやすんどころゐざりいでたまふけはひすれば、やをらゐなほりたまひぬ。 |
36 | 5.6.2 | 407 | 383 |
「憂き世の中を、思ひたまへ沈む月日の積もるけぢめにや、乱り心地も、あやしうほれぼれしうて過ぐしはべるを、かくたびたび重ねさせたまふ御訪らひの、いとかたじけなきに、思ひたまへ起こしてなむ」 |
"うきよのなかを、おもひたまへしづむつきひのつもるけぢめにや、みだりごこちも、あやしうほれぼれしうてすぐしはべるを、かくたびたびかさねさせたまふおほんとぶらひの、いとかたじけなきに、おもひたまへおこしてなん。" |
36 | 5.6.3 | 408 | 384 |
とて、げに悩ましげなる御けはひなり。 |
とて、げになやましげなるおほんけはひなり。 |
36 | 5.6.4 | 409 | 385 |
「思ほし嘆くは、世のことわりなれど、またいとさのみはいかが。よろづのこと、さるべきにこそはべめれ。さすがに限りある世になむ」 |
"おもほしなげくは、よのことわりなれど、またいとさのみはいかが。よろづのこと、さるべきにこそはべめれ。さすがにかぎりあるよになん。" |
36 | 5.6.5 | 410 | 386 |
と、慰めきこえたまふ。 |
と、なぐさめきこえたまふ。 |
36 | 5.6.6 | 411 | 387 |
「この宮こそ、聞きしよりは心の奥見えたまへ、あはれ、げに、いかに人笑はれなることを取り添へて思すらむ」 |
"このみやこそ、ききしよりはこころのおくみえたまへ、あはれ、げに、いかにひとわらはれなることをとりそへておぼすらん。" |
36 | 5.6.7 | 412 | 388 |
と思ふもただならねば、いたう心とどめて、御ありさまも問ひきこえたまひけり。 |
とおもふもただならねば、いたうこころとどめて、おほんありさまもとひきこえたまひけり。 |
36 | 5.6.8 | 413 | 389 |
「容貌ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、いと見苦しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、見る目により人をも思ひ飽き、また、さるまじきに心をも惑はすべきぞ。さま悪しや。ただ、心ばせのみこそ、言ひもてゆかむには、やむごとなかるべけれ」と思ほす。 |
"かたちぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、いとみぐるしうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、みるめによりひとをもおもひあき、また、さるまじきにこころをもまどはすべきぞ。さまあしや。ただ、こころばせのみこそ、いひもてゆかんには、やんごとなかるべけれ。"とおもほす。 |
36 | 5.6.9 | 414 | 390 |
「今はなほ昔に思ほしなずらへて、疎からずもてなさせたまへ」 |
"いまはなほむかしにおもほしなずらへて、うとからずもてなさせたまへ。" |
36 | 5.6.10 | 415 | 391 |
など、わざと懸想びてはあらねど、ねむごろにけしきばみて聞こえたまふ。直衣姿いとあざやかにて、丈だちものものしう、そぞろかにぞ見えたまひける。 |
など、わざとけさうびてはあらねど、ねんごろにけしきばみてきこえたまふ。なほしすがたいとあざやかにて、たけだちものものしう、そぞろかにぞみえたまひける。 |
36 | 5.6.11 | 416 | 392 |
「かの大殿は、よろづのことなつかしうなまめき、あてに愛敬づきたまへることの並びなきなり」 |
"かのおとどは、よろづのことなつかしうなまめき、あてにあいぎゃうづきたまへることのならびなきなり。" |
36 | 5.6.12 | 417 | 393 |
「これは、男々しうはなやかに、あなきよらと、ふと見えたまふにほひぞ、人に似ぬや」 |
"これは、ををしうはなやかに、あなきよらと、ふとみえたまふにほひぞ、ひとににぬや。" |
36 | 5.6.13 | 418 | 394 |
と、うちささめきて、 |
と、うちささめきて、 |
36 | 5.6.14 | 419 | 395 |
「同じうは、かやうにても出で入りたまはましかば」 |
"おなじうは、かやうにてもいでいりたまはましかば。" |
36 | 5.6.15 | 420 | 396 |
など、人びと言ふめり。 |
など、ひとびといふめり。 |
36 | 5.6.16 | 421 | 397 |
「右将軍が墓に草初めて青し」 |
"〔いうしゃうぐんがつかにくさはじめてあをし〕 |
36 | 5.6.17 | 422 | 398 |
と、うち口ずさびて、それもいと近き世のことなれば、さまざまに近う遠う、心乱るやうなりし世の中に、高きも下れるも、惜しみあたらしがらぬはなきも、むべむべしき方をばさるものにて、あやしう情けを立てたる人にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人、女房などの年古めきたるどもさへ、恋ひ悲しびきこゆる。まして、上には、御遊びなどの折ごとにも、まづ思し出でてなむ、しのばせたまひける。 |
と、うちくちずさびて、それもいとちかきよのことなれば、さまざまにちかうとほう、こころみだるやうなりしよのなかに、たかきもくだれるも、をしみあたらしがらぬはなきも、むべむべしきかたをばさるものにて、あやしうなさけをたてたるひとにぞものしたまひければ、さしもあるまじきおほやけびと、にょうばうなどのとしふるめきたるどもさへ、こひかなしびきこゆる。まして、うへには、おほんあそびなどのをりごとにも、まづおぼしいでてなん、しのばせたまひける。 |
36 | 5.6.18 | 423 | 399 |
「あはれ、衛門督」 |
"あはれ、ゑもんのかみ。" |
36 | 5.6.19 | 424 | 400 |
といふ言種、何ごとにつけても言はぬ人なし。六条院には、ましてあはれと思し出づること、月日に添へて多かり。 |
といふことぐさ、なにごとにつけてもいはぬひとなし。ろくでうのゐんには、ましてあはれとおぼしいづること、つきひにそへておほかり。 |
36 | 5.6.20 | 425 | 401 |
この若君を、御心一つには形見と見なしたまへど、人の思ひ寄らぬことなれば、いとかひなし。秋つ方になれば、この君は、ゐざりなど。 |
このわかぎみを、おほんこころひとつにはかたみとみなしたまへど、ひとのおもひよらぬことなれば、いとかひなし。あきつかたになれば、このきみは、ゐざりなど。 |