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36柏木
3618456第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産
361.18557第一段 柏木、病気のまま新年となる
361.1.18658 衛門督(ゑもんのかん)(きみ)、かくのみ(なや)みわたりたまふこと、なほおこたらで、(とし)(かへ)りぬ。大臣(おとど)(きた)(かた)(おぼ)(なげ)くさまを()たてまつるに、 ゑもんのかんきみ、かくのみなやみわたりたまふこと、なほおこたらで、としかへりぬ。おとどきたかたおぼなげくさまをたてまつるに、
361.1.28759 「しひてかけ(はな)れなむ(いのち)、かひなく、罪重(つみおも)かるべきことを(おも)ふ、(こころ)(こころ)として、また、あながちにこの()(はな)れがたく、()しみ(とど)めまほしき()かは。いはけなかりしほどより、(おも)心異(こころこと)にて、(なに)ごとをも、(ひと)今一際(いまひときは)まさらむと、公私(おほやけわたくし)のことに()れて、なのめならず(おも)(のぼ)りしかど、その心叶(こころかな)ひがたかりけり」 "しひてかけはなれなんいのち、かひなく、つみおもかるべきことをおもふ、こころこころとして、また、あながちにこのはなれがたく、しみとどめまほしきかは。いはけなかりしほどより、おもこころことにて、なにごとをも、ひといまひときはまさらんと、おほやけわたくしのことにれて、なのめならずおものぼりしかど、そのこころかなひがたかりけり。"
361.1.38860 と、(ひと)(ふた)つの(ふし)ごとに、()(おも)()としてしこなた、なべての()(なか)すさまじう(おも)ひなりて、(のち)()(おこ)なひに本意深(ほいふか)(すす)みにしを、(おや)たちの御恨(おほんうら)みを(おも)ひて、野山(のやま)にもあくがれむ(みち)(おも)きほだしなるべくおぼえしかば、とざまかうざまに(まぎ)らはしつつ()ぐしつるを、つひに、 と、ひとふたつのふしごとに、おもとしてしこなた、なべてのなかすさまじうおもひなりて、のちおこなひにほいふかすすみにしを、おやたちのおほんうらみをおもひて、のやまにもあくがれんみちおもきほだしなるべくおぼえしかば、とざまかうざまにまぎらはしつつぐしつるを、つひに、
361.1.48961 「なほ、()()ちまふべくもおぼえぬもの(おも)ひの、一方(ひとかた)ならず()()ひにたるは、(われ)より(ほか)(たれ)かはつらき、(こころ)づからもてそこなひつるにこそあめれ」 "なほ、ちまふべくもおぼえぬものおもひの、ひとかたならずひにたるは、われよりほかたれかはつらき、こころづからもてそこなひつるにこそあめれ。"
361.1.59062 (おも)ふに、(うら)むべき(ひと)もなし。 おもふに、うらむべきひともなし。
361.1.69163 (かみ)(ほとけ)をもかこたむ(かた)なきは、これ(みな)さるべきにこそはあらめ。(たれ)千年(ちとせ)(まつ)ならぬ()は、つひに()まるべきにもあらぬを、かく、(ひと)にも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ(ひと)あらむをこそは、(ひと)(おも)ひに()えぬるしるしにはせめ。 "かみほとけをもかこたんかたなきは、これみなさるべきにこそはあらめ。たれちとせまつならぬは、つひにまるべきにもあらぬを、かく、ひとにも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふひとあらんをこそは、ひとおもひにえぬるしるしにはせめ。
361.1.79264 せめてながらへば、おのづからあるまじき()をも()ち、(われ)(ひと)も、やすからぬ(みだ)()()るやうもあらむよりは、なめしと、心置(こころお)いたまふらむあたりにも、さりとも(おぼ)(ゆる)いてむかし。よろづのこと、(いま)はのとぢめには、皆消(みなき)えぬべきわざなり。また、(こと)ざまの(あやま)ちしなければ、(とし)ごろものの(をり)ふしごとには、まつはしならひたまひにし(かた)のあはれも()()なむ」 せめてながらへば、おのづからあるまじきをもち、われひとも、やすからぬみだるやうもあらんよりは、なめしと、こころおいたまふらんあたりにも、さりともおぼゆるいてんかし。よろづのこと、いまはのとぢめには、みなきえぬべきわざなり。また、ことざまのあやまちしなければ、としごろもののをりふしごとには、まつはしならひたまひにしかたのあはれもなん。"
361.1.89365 など、つれづれに(おも)(つづ)くるも、うち(かへ)し、いとあぢきなし。 など、つれづれにおもつづくるも、うちかへし、いとあぢきなし。
361.29466第二段 柏木、女三の宮へ手紙
361.2.19567 「などかく、ほどもなくしなしつる()ならむ」と、かきくらし(おも)(みだ)れて、(まくら)()きぬばかり、(ひと)やりならず(なが)()へつつ、いささか(ひま)ありとて、(ひと)びと()()りたまへるほどに、かしこに御文(おほんふみ)たてまつれたまふ。 "などかく、ほどもなくしなしつるならん。"と、かきくらしおもみだれて、まくらきぬばかり、ひとやりならずながへつつ、いささかひまありとて、ひとびとりたまへるほどに、かしこにおほんふみたてまつれたまふ。
361.2.29668 (いま)(かぎ)りになりにてはべるありさまは、おのづから()こしめすやうもはべらむを、いかがなりぬるとだに、御耳(おほんみみ)とどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いと()くもはべるかな」 "いまかぎりになりにてはべるありさまは、おのづからこしめすやうもはべらんを、いかがなりぬるとだに、おほんみみとどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いとくもはべるかな。"
361.2.39769 など()こゆるに、いみじうわななけば、(おも)ふことも皆書(みなき)きさして、 などこゆるに、いみじうわななけば、おもふこともみなききさして、
361.2.49870 (いま)はとて()えむ(けぶり)もむすぼほれ<BR/>()えぬ(おも)ひのなほや(のこ)らむ "〔いまはとてえんけぶりもむすぼほれ<BR/>えぬおもひのなほやのこらん
361.2.59971 あはれとだにのたまはせよ。(こころ)のどめて、(ひと)やりならぬ(やみ)(まど)はむ(みち)(ひかり)にもしはべらむ」 あはれとだにのたまはせよ。こころのどめて、ひとやりならぬやみまどはんみちひかりにもしはべらん。"
361.2.610072 ()こえたまふ。 こえたまふ。
361.2.710173 侍従(じじう)にも、こりずまに、あはれなることどもを()ひおこせたまへり。 じじうにも、こりずまに、あはれなることどもをひおこせたまへり。
361.2.810274 「みづからも、今一度言(いまひとたびい)ふべきことなむ」 "みづからも、いまひとたびいふべきことなん。"
361.2.910375 とのたまへれば、この(ひと)も、(わらは)より、さるたよりに(まゐ)(かよ)ひつつ、()たてまつり()れたる(ひと)なれば、おほけなき(こころ)こそうたておぼえたまひつれ、(いま)はと()くは、いと(かな)しうて、()()く、 とのたまへれば、このひとも、わらはより、さるたよりにまゐかよひつつ、たてまつりれたるひとなれば、おほけなきこころこそうたておぼえたまひつれ、いまはとくは、いとかなしうて、く、
361.2.1010476 「なほ、この御返(おほんかへ)り。まことにこれをとぢめにもこそはべれ」 "なほ、このおほんかへり。まことにこれをとぢめにもこそはべれ。"
361.2.1110577 ()こゆれば、 こゆれば、
361.2.1210678 「われも、今日(けふ)明日(あす)かの心地(ここち)して、もの心細(こころぼそ)ければ、おほかたのあはればかりは(おも)()らるれど、いと心憂(こころう)きことと(おも)()りにしかば、いみじうなむつつましき」 "われも、けふあすかのここちして、ものこころぼそければ、おほかたのあはればかりはおもらるれど、いとこころうきこととおもりにしかば、いみじうなんつつましき。"
361.2.1310779 とて、さらに()いたまはず。 とて、さらにいたまはず。
361.2.1410880 御心本性(みこころほんじゃう)の、(つよ)くづしやかなるにはあらねど、()づかしげなる(ひと)()けしきの、折々(をりをり)にまほならぬが、いと(おそ)ろしうわびしきなるべし。されど、御硯(おほんすずり)などまかなひて()めきこゆれば、しぶしぶに()いたまふ。()りて、(しの)びて(よひ)(まぎ)れに、かしこに(まゐ)りぬ。 みこころほんじゃうの、つよくづしやかなるにはあらねど、づかしげなるひとけしきの、をりをりにまほならぬが、いとおそろしうわびしきなるべし。されど、おほんすずりなどまかなひてめきこゆれば、しぶしぶにいたまふ。りて、しのびてよひまぎれに、かしこにまゐりぬ。
361.310981第三段 柏木、侍従を招いて語る
361.3.111082 大臣(おとど)、かしこき(おこ)なひ(びと)葛城山(かづらきやま)より(さう)()でたる、()()けたまひて、加持参(かぢまゐ)らせむとしたまふ。御修法(みすほふ)読経(どきゃう)なども、いとおどろおどろしう(さわ)ぎたり。(ひと)(まう)すままに、さまざま(ひじり)だつ験者(げんざ)などの、をさをさ()にも()こえず、(ふか)(やま)()もりたるなどをも、(おとうと)(きみ)たちを(つか)はしつつ、(たづ)()すに、けにくく(こころ)づきなき山伏(やまぶし)どもなども、いと(おほ)(まゐ)る。(わづら)ひたまふさまの、そこはかとなくものを心細(こころぼそ)(おも)ひて、()をのみ、時々泣(ときどきな)きたまふ。 おとど、かしこきおこなひびとかづらきやまよりさうでたる、けたまひて、かぢまゐらせんとしたまふ。みすほふどきゃうなども、いとおどろおどろしうさわぎたり。ひとまうすままに、さまざまひじりだつげんざなどの、をさをさにもこえず、ふかやまもりたるなどをも、おとうときみたちをつかはしつつ、たづすに、けにくくこころづきなきやまぶしどもなども、いとおほまゐる。わづらひたまふさまの、そこはかとなくものをこころぼそおもひて、をのみ、ときどきなきたまふ。
361.3.211183 陰陽師(おみゃうじ)なども、(おほ)くは(をんな)(りゃう)とのみ(うらな)(まう)しければ、さることもやと(おぼ)せど、さらにもののけの(あら)はれ()()るもなきに、(おも)ほしわづらひて、かかる隈々(くまぐま)をも(たづ)ねたまふなりけり。 おみゃうじなども、おほくはをんなりゃうとのみうらなまうしければ、さることもやとおぼせど、さらにもののけのあらはれるもなきに、おもほしわづらひて、かかるくまぐまをもたづねたまふなりけり。
361.3.311284 この(ひじり)も、丈高(たけたか)やかに、まぶしつべたましくて、(あら)らかにおどろおどろしく陀羅尼読(だらによ)むを、 このひじりも、たけたかやかに、まぶしつべたましくて、あららかにおどろおどろしくだらによむを、
361.3.411385 「いで、あな(にく)や。(つみ)(ふか)()にやあらむ、陀羅尼(だらに)声高(こゑたか)きは、いと気恐(けおそ)ろしくて、いよいよ()ぬべくこそおぼゆれ」 "いで、あなにくや。つみふかにやあらん、だらにこゑたかきは、いとけおそろしくて、いよいよぬべくこそおぼゆれ。"
361.3.511486 とて、やをらすべり()でて、この侍従(じじゅう)(かた)らひたまふ。 とて、やをらすべりでて、このじじゅうかたらひたまふ。
361.3.611587 大臣(おとど)は、さも()りたまはず、うち(やす)みたると、(ひと)びとして(まう)させたまへば、さ(おぼ)して、(しの)びやかにこの(ひじり)物語(ものがたり)したまふ。おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきて、もの(わら)ひしたまふ大臣(おとど)の、かかる(もの)どもと(むか)ひゐて、この(わづら)ひそめたまひしありさま、(なに)ともなくうちたゆみつつ、(おも)りたまへること、 おとどは、さもりたまはず、うちやすみたると、ひとびとしてまうさせたまへば、さおぼして、しのびやかにこのひじりものがたりしたまふ。おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきて、ものわらひしたまふおとどの、かかるものどもとむかひゐて、このわづらひそめたまひしありさま、なにともなくうちたゆみつつ、おもりたまへること、
361.3.711688 「まことに、このもののけ、(あら)はるべう(ねん)じたまへ」 "まことに、このもののけ、あらはるべうねんじたまへ。"
361.3.811789 など、こまやかに(かた)らひたまふも、いとあはれなり。 など、こまやかにかたらひたまふも、いとあはれなり。
361.3.911890 「かれ()きたまへ。(なに)(つみ)とも(おぼ)()らぬに、(うらな)ひよりけむ(をんな)(りゃう)こそ、まことにさる御執(おほんしふ)()()ひたるならば、(いと)はしき()をひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。 "かれきたまへ。なにつみともおぼらぬに、うらなひよりけんをんなりゃうこそ、まことにさるおほんしふひたるならば、いとはしきをひきかへ、やんごとなくこそなりぬべけれ。
361.3.1011991 さてもおほけなき(こころ)ありて、さるまじき(あやま)ちを()()でて、(ひと)御名(おほんな)をも()て、()をも(かへり)みぬたぐひ、(むかし)()にもなくやはありける、と(おも)(なほ)すに、なほけはひわづらはしう、かの御心(みこころ)に、かかる(とが)()られたてまつりて、()にながらへむことも、いとまばゆくおぼゆるは、げに(こと)なる御光(おほんひかり)なるべし。 さてもおほけなきこころありて、さるまじきあやまちをでて、ひとおほんなをもて、をもかへりみぬたぐひ、むかしにもなくやはありける、とおもなほすに、なほけはひわづらはしう、かのみこころに、かかるとがられたてまつりて、にながらへんことも、いとまばゆくおぼゆるは、げにことなるおほんひかりなるべし。
361.3.1112092 (ふか)(あやま)ちもなきに、見合(みあ)はせたてまつりし(ゆふ)べのほどより、やがてかき(みだ)り、(まど)ひそめにし(たましひ)の、()にも(かへ)らずなりにしを、かの(ゐん)のうちにあくがれありかば、(むす)びとどめたまへよ」 ふかあやまちもなきに、みあはせたてまつりしゆふべのほどより、やがてかきみだり、まどひそめにしたましひの、にもかへらずなりにしを、かのゐんのうちにあくがれありかば、むすびとどめたまへよ。"
361.3.1212193 など、いと(よわ)げに、(から)のやうなるさまして、()きみ(わら)ひみ(かた)らひたまふ。 など、いとよわげに、からのやうなるさまして、きみわらひみかたらひたまふ。
361.412294第四段 女三の宮の返歌を見る
361.4.112395 (みや)もものをのみ()づかしうつつましと(おぼ)したるさまを(かた)る。さてうちしめり、面痩(おもや)せたまへらむ(おほん)さまの、面影(おもかげ)()たてまつる心地(ここち)して、(おも)ひやられたまへば、げにあくがるらむ(たま)や、()(かよ)ふらむなど、いとどしき心地(ここち)(みだ)るれば、 みやもものをのみづかしうつつましとおぼしたるさまをかたる。さてうちしめり、おもやせたまへらんおほんさまの、おもかげたてまつるここちして、おもひやられたまへば、げにあくがるらんたまや、かよふらんなど、いとどしきここちみだるれば、
361.4.212496 (いま)さらに、この(おほん)ことよ、かけても()こえじ。この()はかうはかなくて()ぎぬるを、(なが)()のほだしにもこそと(おも)ふなむ、いとほしき。心苦(こころぐる)しき(おほん)ことを、(たひ)らかにとだにいかで()()いたてまつらむ。()(ゆめ)心一(こころひと)つに(おも)()はせて、また(かた)(ひと)もなきが、いみじういぶせくもあるかな」 "いまさらに、このおほんことよ、かけてもこえじ。このはかうはかなくてぎぬるを、ながのほだしにもこそとおもふなん、いとほしき。こころぐるしきおほんことを、たひらかにとだにいかでいたてまつらん。ゆめこころひとつにおもはせて、またかたひともなきが、いみじういぶせくもあるかな。"
361.4.312597 など、()(あつ)(おも)ひしみたまへるさまの(ふか)きを、かつはいとうたて(おそ)ろしう(おも)へど、あはれはた、え(しの)ばず、この(ひと)もいみじう()く。 など、あつおもひしみたまへるさまのふかきを、かつはいとうたておそろしうおもへど、あはれはた、えしのばず、このひともいみじうく。
361.4.412699 紙燭召(しそくめ)して、御返(おほんかへ)()たまへば、御手(おほんて)もなほいとはかなげに、をかしきほどに()いたまひて、 しそくめして、おほんかへたまへば、おほんてもなほいとはかなげに、をかしきほどにいたまひて、
361.4.5127100 心苦(こころぐる)しう()きながら、いかでかは。ただ()(はか)り。『(のこ)らむ』とあるは、 "こころぐるしうきながら、いかでかは。ただはかり。"のこらん"とあるは、
361.4.6128101 ()()ひて()えやしなまし()きことを<BR/>(おも)(みだ)るる煙比(けぶりくら)べに ひてえやしなましきことを<BR/>おもみだるるけぶりくらべに
361.4.7129102 (おく)るべうやは」 おくるべうやは。"
361.4.8130103 とばかりあるを、あはれにかたじけなしと(おも)ふ。 とばかりあるを、あはれにかたじけなしとおもふ。
361.4.9131104 「いでや、この(けぶり)ばかりこそは、この()(おも)()でならめ。はかなくもありけるかな」 "いでや、このけぶりばかりこそは、このおもでならめ。はかなくもありけるかな。"
361.4.10132105 と、いとど()きまさりたまひて、御返(おほんかへ)り、()しながら、うち(やす)みつつ()いたまふ。(こと)()(つづ)きもなう、あやしき(とり)(あと)のやうにて、 と、いとどきまさりたまひて、おほんかへり、しながら、うちやすみつついたまふ。ことつづきもなう、あやしきとりあとのやうにて、
361.4.11133106 行方(ゆくへ)なき(そら)(けぶり)となりぬとも<BR/>(おも)ふあたりを()ちは(はな)れじ "〔ゆくへなきそらけぶりとなりぬとも<BR/>おもふあたりをちははなれじ
361.4.12134107 (ゆふ)べはわきて(なが)めさせたまへ。(とが)めきこえさせたまはむ人目(ひとめ)をも、(いま)(こころ)やすく(おぼ)しなりて、かひなきあはれをだにも、()えずかけさせたまへ」 ゆふべはわきてながめさせたまへ。とがめきこえさせたまはんひとめをも、いまこころやすくおぼしなりて、かひなきあはれをだにも、えずかけさせたまへ。"
361.4.13135108 など()(みだ)りて、心地(ここち)(くる)しさまさりければ、 などみだりて、ここちくるしさまさりければ、
361.4.14136109 「よし。いたう()けぬさきに、(かへ)(まゐ)りたまひて、かく(かぎ)りのさまになむとも()こえたまへ。(いま)さらに、(ひと)あやしと(おも)()はせむを、わが()(のち)さへ(おも)ふこそ口惜(くちを)しけれ。いかなる(むかし)(ちぎ)りにて、いとかかることしも(こころ)にしみけむ」 "よし。いたうけぬさきに、かへまゐりたまひて、かくかぎりのさまになんともこえたまへ。いまさらに、ひとあやしとおもはせんを、わがのちさへおもふこそくちをしけれ。いかなるむかしちぎりにて、いとかかることしもこころにしみけん。"
361.4.15137110 と、()()くゐざり()りたまひぬれば、(れい)無期(むご)(むか)()ゑて、すずろ(ごと)をさへ()はせまほしうしたまふを、言少(ことずく)なにても、と(おも)ふがあはれなるに、えも()でやらず。(おほん)ありさまを乳母(めのと)(かた)りて、いみじく()(まど)ふ。大臣(おとど)などの(おぼ)したるけしきぞいみじきや。 と、くゐざりりたまひぬれば、れいむごむかゑて、すずろごとをさへはせまほしうしたまふを、ことずくなにても、とおもふがあはれなるに、えもでやらず。おほんありさまをめのとかたりて、いみじくまどふ。おとどなどのおぼしたるけしきぞいみじきや。
361.4.16138111 昨日今日(きのふけふ)、すこしよろしかりつるを、などかいと(よわ)げには()えたまふ」 "きのふけふ、すこしよろしかりつるを、などかいとよわげにはえたまふ。"
361.4.17139112 (さわ)ぎたまふ。 さわぎたまふ。
361.4.18140113 (なに)か、なほとまりはべるまじきなめり」 "なにか、なほとまりはべるまじきなめり。"
361.4.19141114 ()こえたまひて、みづからも()いたまふ。 こえたまひて、みづからもいたまふ。
361.5142115第五段 女三の宮、男子を出産
361.5.1143116 (みや)は、この()れつ(かた)より(なや)ましうしたまひけるを、その()けしきと、()たてまつり()りたる(ひと)びと、(さわ)ぎみちて、大殿(おとど)にも()こえたりければ、(おどろ)きて(わた)りたまへり。御心(みこころ)のうちは、 みやは、このれつかたよりなやましうしたまひけるを、そのけしきと、たてまつりりたるひとびと、さわぎみちて、おとどにもこえたりければ、おどろきてわたりたまへり。みこころのうちは、
361.5.2144117 「あな、口惜(くちを)しや。(おも)ひまずる(かた)なくて()たてまつらましかば、めづらしくうれしからまし」 "あな、くちをしや。おもひまずるかたなくてたてまつらましかば、めづらしくうれしからまし。"
361.5.3145118 (おぼ)せど、(ひと)にはけしき()らさじと(おぼ)せば、験者(げんざ)など()し、御修法(みすほふ)はいつとなく不断(ふだん)にせらるれば、(そう)どもの(なか)(げん)ある(かぎ)皆参(みなまゐ)りて、加持参(かぢまゐ)(さわ)ぐ。 おぼせど、ひとにはけしきらさじとおぼせば、げんざなどし、みすほふはいつとなくふだんにせらるれば、そうどものなかげんあるかぎみなまゐりて、かぢまゐさわぐ。
361.5.4146119 夜一夜悩(よひとよなや)()かさせたまひて、()さし()がるほどに()まれたまひぬ。男君(をとこぎみ)()きたまふに、 よひとよなやかさせたまひて、さしがるほどにまれたまひぬ。をとこぎみきたまふに、
361.5.5147120 「かく(しの)びたることの、あやにくに、いちじるき(かほ)つきにてさし()でたまへらむこそ(くる)しかるべけれ。(をんな)こそ、(なに)となく(まぎ)れ、あまたの(ひと)()るものならねばやすけれ」 "かくしのびたることの、あやにくに、いちじるきかほつきにてさしでたまへらんこそくるしかるべけれ。をんなこそ、なにとなくまぎれ、あまたのひとるものならねばやすけれ。"
361.5.6148121 (おぼ)すに、また、 おぼすに、また、
361.5.7149122 「かく、心苦(こころぐる)しき(うたが)()じりたるにては、(こころ)やすき(かた)にものしたまふもいとよしかし。さても、あやしや。わが()とともに(おそ)ろしと(おも)ひしことの(むく)いなめり。この()にて、かく(おも)ひかけぬことにむかはりぬれば、(のち)()(つみ)も、すこし(かろ)みなむや」 "かく、こころぐるしきうたがじりたるにては、こころやすきかたにものしたまふもいとよしかし。さても、あやしや。わがとともにおそろしとおもひしことのむくいなめり。このにて、かくおもひかけぬことにむかはりぬれば、のちつみも、すこしかろみなんや。"
361.5.8150123 (おぼ)す。 おぼす。
361.5.9151124 (ひと)はた()らぬことなれば、かく(こころ)ことなる御腹(おほんはら)にて、(すゑ)()でおはしたる(おほん)おぼえいみじかりなむと、(おも)ひいとなみ(つか)うまつる。 ひとはたらぬことなれば、かくこころことなるおほんはらにて、すゑでおはしたるおほんおぼえいみじかりなんと、おもひいとなみつかうまつる。
361.5.10152125 御産屋(おほんうぶや)儀式(ぎしき)、いかめしうおどろおどろし。御方々(おほんかたがた)、さまざまにし()でたまふ御産養(おほんうぶやしなひ)()(つね)折敷(をしき)衝重(ついがさね)高坏(たかつき)などの(こころ)ばへも、ことさらに心々(こころごころ)(いど)ましさ()えつつなむ。 おほんうぶやぎしき、いかめしうおどろおどろし。おほんかたがた、さまざまにしでたまふおほんうぶやしなひつねをしきついがさねたかつきなどのこころばへも、ことさらにこころごころいどましさえつつなん。
361.5.11153126 五日(いつか)(よる)中宮(ちゅうぐう)御方(おほんかた)より、子持(こも)ちの御前(おまへ)(もの)女房(にょうばう)(なか)にも、品々(しなじな)(おも)()てたる際々(きはぎは)公事(おほやけごと)にいかめしうせさせたまへり。御粥(おほんかゆ)屯食五十具(とんじきごじふぐ)所々(ところどころ)(きゃう)(ゐん)下部(しもべ)(ちゃう)召次所(めしつぎどころ)(なに)かの(くま)まで、いかめしくせさせたまへり。宮司(みやづかさ)大夫(だいぶ)よりはじめて、(ゐん)殿上人(てんじゃうびと)皆参(みなまゐ)れり。 いつかよるちゅうぐうおほんかたより、こもちのおまへものにょうばうなかにも、しなじなおもてたるきはぎはおほやけごとにいかめしうせさせたまへり。おほんかゆとんじきごじふぐところどころきゃうゐんしもべちゃうめしつぎどころなにかのくままで、いかめしくせさせたまへり。みやづかさだいぶよりはじめて、ゐんてんじゃうびとみなまゐれり。
361.5.12154127 七夜(しちや)は、内裏(うち)より、それも(おほやけ)ざまなり。致仕(ちじ)大臣(おとど)など、(こころ)ことに(つか)うまつりたまふべきに、このころは、(なに)ごとも(おぼ)されで、おほぞうの御訪(おほんとぶ)らひのみぞありける。 しちやは、うちより、それもおほやけざまなり。ちじおとどなど、こころことにつかうまつりたまふべきに、このころは、なにごともおぼされで、おほぞうのおほんとぶらひのみぞありける。
361.5.13155128 (みや)たち、上達部(かんだちめ)など、あまた(まゐ)りたまふ。おほかたのけしきも、()になきまでかしづききこえたまへど、大殿(おとど)御心(みこころ)のうちに、心苦(こころぐる)しと(おぼ)すことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、御遊(おほんあそ)びなどはなかりけり。 みやたち、かんだちめなど、あまたまゐりたまふ。おほかたのけしきも、になきまでかしづききこえたまへど、おとどみこころのうちに、こころぐるしとおぼすことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、おほんあそびなどはなかりけり。
361.6156129第六段 女三の宮、出家を決意
361.6.1157130 (みや)は、さばかりひはづなる(おほん)さまにて、いとむくつけう、ならはぬことの(おそ)ろしう(おぼ)されけるに、御湯(おほんゆ)などもきこしめさず、()心憂(こころう)きことを、かかるにつけても(おぼ)()れば、 みやは、さばかりひはづなるおほんさまにて、いとむくつけう、ならはぬことのおそろしうおぼされけるに、おほんゆなどもきこしめさず、こころうきことを、かかるにつけてもおぼれば、
361.6.2158131 「さはれ、このついでにも()なばや」 "さはれ、このついでにもなばや。"
361.6.3159132 (おぼ)す。大殿(おとど)は、いとよう人目(ひとめ)(かざ)(おぼ)せど、まだむつかしげにおはするなどを、()()きても()たてまつりたまはずなどあれば、()いしらへる(ひと)などは、 おぼす。おとどは、いとようひとめかざおぼせど、まだむつかしげにおはするなどを、きてもたてまつりたまはずなどあれば、いしらへるひとなどは、
361.6.4160133 「いでや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし()でたまへる(おほん)ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを」 "いでや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさしでたまへるおほんありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを。"
361.6.5161134 と、うつくしみきこゆれば、片耳(かたみみ)()きたまひて、 と、うつくしみきこゆれば、かたみみきたまひて、
361.6.6162135 「さのみこそは、(おぼ)(へだ)つることもまさらめ」 "さのみこそは、おぼへだつることもまさらめ。"
361.6.7163136 (うら)めしう、わが()つらくて、(あま)にもなりなばや、の御心尽(みこころつ)きぬ。 うらめしう、わがつらくて、あまにもなりなばや、のみこころつきぬ。
361.6.8164137 (よる)なども、こなたには大殿籠(おほとのご)もらず、(ひる)(かた)などぞさしのぞきたまふ。 よるなども、こなたにはおほとのごもらず、ひるかたなどぞさしのぞきたまふ。
361.6.9165138 ()(なか)のはかなきを()るままに、()末短(すゑみぢか)う、もの心細(こころぼそ)くて、(おこ)なひがちになりにてはべれば、かかるほどのらうがはしき心地(ここち)するにより、え(まゐ)()ぬを、いかが、御心地(みここち)はさはやかに(おぼ)しなりにたりや。心苦(こころぐる)しうこそ」 "なかのはかなきをるままに、すゑみぢかう、ものこころぼそくて、おこなひがちになりにてはべれば、かかるほどのらうがはしきここちするにより、えまゐぬを、いかが、みここちはさはやかにおぼしなりにたりや。こころぐるしうこそ。"
361.6.10166139 とて、御几帳(みきちゃう)(そば)よりさしのぞきたまへり。御頭(みぐし)もたげたまひて、 とて、みきちゃうそばよりさしのぞきたまへり。みぐしもたげたまひて、
361.6.11167140 「なほ、え()きたるまじき心地(ここち)なむしはべるを、かかる(ひと)(つみ)(おも)かなり。(あま)になりて、もしそれにや()きとまると(こころ)み、また()くなるとも、(つみ)(うしな)ふこともやとなむ(おも)ひはべる」 "なほ、えきたるまじきここちなんしはべるを、かかるひとつみおもかなり。あまになりて、もしそれにやきとまるとこころみ、またくなるとも、つみうしなふこともやとなんおもひはべる。"
361.6.12168141 と、(つね)(おほん)けはひよりは、いとおとなびて()こえたまふを、 と、つねおほんけはひよりは、いとおとなびてこえたまふを、
361.6.13169142 「いとうたて、ゆゆしき(おほん)ことなり。などてか、さまでは(おぼ)す。かかることは、さのみこそ(おそ)ろしかなれど、さてながらへぬわざならばこそあらめ」 "いとうたて、ゆゆしきおほんことなり。などてか、さまではおぼす。かかることは、さのみこそおそろしかなれど、さてながらへぬわざならばこそあらめ。"
361.6.14170143 ()こえたまふ。御心(みこころ)のうちには、 こえたまふ。みこころのうちには、
361.6.15171144 「まことにさも(おぼ)()りてのたまはば、さやうにて()たてまつらむは、あはれなりなむかし。かつ()つつも、ことに()れて心置(こころお)かれたまはむが心苦(こころぐる)しう、(われ)ながらも、え(おも)(なほ)すまじう、()きことうち()じりぬべきを、おのづからおろかに(ひと)見咎(みとが)むることもあらむが、いといとほしう、(ゐん)などの()こし()さむことも、わがおこたりにのみこそはならめ。御悩(おほんなや)みにことづけて、さもやなしたてまつりてまし」 "まことにさもおぼりてのたまはば、さやうにてたてまつらんは、あはれなりなんかし。かつつつも、ことにれてこころおかれたまはんがこころぐるしう、われながらも、えおもなほすまじう、きことうちじりぬべきを、おのづからおろかにひとみとがむることもあらんが、いといとほしう、ゐんなどのこしさんことも、わがおこたりにのみこそはならめ。おほんなやみにことづけて、さもやなしたてまつりてまし。"
361.6.16172145 など(おぼ)()れど、また、いとあたらしう、あはれに、かばかり(とほ)御髪(みぐし)()(さき)を、しかやつさむことも心苦(こころぐる)しければ、 などおぼれど、また、いとあたらしう、あはれに、かばかりとほみぐしさきを、しかやつさんこともこころぐるしければ、
361.6.17173146 「なほ、(つよ)(おぼ)しなれ。けしうはおはせじ。(かぎ)りと()ゆる(ひと)も、たひらなる例近(ためしちか)ければ、さすがに(たの)みある()になむ」 "なほ、つよおぼしなれ。けしうはおはせじ。かぎりとゆるひとも、たひらなるためしちかければ、さすがにたのみあるになん。"
361.6.18174147 など()こえたまひて、御湯参(おほんゆまゐ)りたまふ。いといたう(あを)()せて、あさましうはかなげにてうち()したまへる(おほん)さま、おほどき、うつくしげなれば、 などこえたまひて、おほんゆまゐりたまふ。いといたうあをせて、あさましうはかなげにてうちしたまへるおほんさま、おほどき、うつくしげなれば、
361.6.19175148 「いみじき(あやま)ちありとも、心弱(こころよわ)(ゆる)しつべき(おほん)さまかな」 "いみじきあやまちありとも、こころよわゆるしつべきおほんさまかな。"
361.6.20176149 ()たてまつりたまふ。 たてまつりたまふ。
362177150第二章 女三の宮の物語 女三の宮の出家
362.1178151第一段 朱雀院、夜闇に六条院へ参上
362.1.1179152 (やま)(みかど)は、めづらしき(おほん)こと(たひら)かなりと()こし()して、あはれにゆかしう(おも)ほすに、 やまみかどは、めづらしきおほんことたひらかなりとこしして、あはれにゆかしうおもほすに、
362.1.2180153 「かく(なや)みたまふよしのみあれば、いかにものしたまふべきにか」 "かくなやみたまふよしのみあれば、いかにものしたまふべきにか。"
362.1.3181154 と、御行(おほんおこ)なひも(みだ)れて(おぼ)しけり。 と、おほんおこなひもみだれておぼしけり。
362.1.4182155 さばかり(よわ)りたまへる(ひと)の、ものを()こし()さで、()ごろ()たまへば、いと(たの)もしげなくなりたまひて、(とし)ごろ()たてまつらざりしほどよりも、(ゐん)のいと(こひ)しくおぼえたまふを、 さばかりよわりたまへるひとの、ものをこしさで、ごろたまへば、いとたのもしげなくなりたまひて、としごろたてまつらざりしほどよりも、ゐんのいとこひしくおぼえたまふを、
362.1.5183156 「またも()たてまつらずなりぬるにや」 "またもたてまつらずなりぬるにや。"
362.1.6184157 と、いたう()いたまふ。かく()こえたまふさま、さるべき(ひと)して(つた)(そう)せさせたまひければ、いと()へがたう(かな)しと(おぼ)して、あるまじきこととは(おぼ)()しながら、()(かく)れて()でさせたまへり。 と、いたういたまふ。かくこえたまふさま、さるべきひとしてつたそうせさせたまひければ、いとへがたうかなしとおぼして、あるまじきこととはおぼしながら、かくれてでさせたまへり。
362.1.7185158 かねてさる御消息(おほんせうそこ)もなくて、にはかにかく(わた)りおはしまいたれば、主人(あるじ)(ゐん)、おどろきかしこまりきこえたまふ。 かねてさるおほんせうそこもなくて、にはかにかくわたりおはしまいたれば、あるじゐん、おどろきかしこまりきこえたまふ。
362.1.8186159 ()(なか)(かへり)みすまじう(おも)ひはべりしかど、なほ(まど)()めがたきものは、()(みち)(やみ)になむはべりければ、(おこ)なひも懈怠(けたい)して、もし(おく)先立(さきだ)(みち)道理(だうり)のままならで(わか)れなば、やがてこの(うら)みもやかたみに(のこ)らむと、あぢきなさに、この()のそしりをば()らで、かくものしはべる」 "なかかへりみすまじうおもひはべりしかど、なほまどめがたきものは、みちやみになんはべりければ、おこなひもけたいして、もしおくさきだみちだうりのままならでわかれなば、やがてこのうらみもやかたみにのこらんと、あぢきなさに、こののそしりをばらで、かくものしはべる。"
362.1.9187160 ()こえたまふ。御容貌(おほんかたち)(こと)にても、なまめかしうなつかしきさまに、うち(しの)びやつれたまひて、うるはしき御法服(おほんほふぶく)ならず、墨染(すみぞめ)御姿(おほんすがた)、あらまほしうきよらなるも、うらやましく()たてまつりたまふ。(れい)の、まづ涙落(なみだお)としたまふ。 こえたまふ。おほんかたちことにても、なまめかしうなつかしきさまに、うちしのびやつれたまひて、うるはしきおほんほふぶくならず、すみぞめおほんすがた、あらまほしうきよらなるも、うらやましくたてまつりたまふ。れいの、まづなみだおとしたまふ。
362.1.10188161 (わづら)ひたまふ(おほん)さま、ことなる御悩(おほんなや)みにもはべらず。ただ(つき)ごろ(よわ)りたまへる(おほん)ありさまに、はかばかしう(もの)なども(まゐ)らぬ()もりにや、かくものしたまふにこそ」 "わづらひたまふおほんさま、ことなるおほんなやみにもはべらず。ただつきごろよわりたまへるおほんありさまに、はかばかしうものなどもまゐらぬもりにや、かくものしたまふにこそ。"
362.1.11189162 など()こえたまふ。 などこえたまふ。
362.2190163第二段 朱雀院、女三の宮の希望を入れる
362.2.1191164 「かたはらいたき御座(おまし)なれども」 "かたはらいたきおましなれども。"
362.2.2192165 とて、御帳(みちゃう)(まへ)に、御茵参(おほんしとねまゐ)りて()れたてまつりたまふ。(みや)をも、とかう(ひと)びと(つくろ)ひきこえて、(ゆか)のしもに()ろしたてまつる。御几帳(みきちゃう)すこし()しやらせたまひて、 とて、みちゃうまへに、おほんしとねまゐりてれたてまつりたまふ。みやをも、とかうひとびとつくろひきこえて、ゆかのしもにろしたてまつる。みきちゃうすこししやらせたまひて、
362.2.3193166 夜居加持僧(よゐかぢそう)などの心地(ここち)すれど、まだ(げん)つくばかりの(おこ)なひにもあらねば、かたはらいたけれど、ただおぼつかなくおぼえたまふらむさまを、さながら()たまふべきなり」 "よゐかぢそうなどのここちすれど、まだげんつくばかりのおこなひにもあらねば、かたはらいたけれど、ただおぼつかなくおぼえたまふらんさまを、さながらたまふべきなり。"
362.2.4194167 とて、御目(おほんめ)おし(のご)はせたまふ。(みや)も、いと(よわ)げに()いたまひて、 とて、おほんめおしのごはせたまふ。みやも、いとよわげにいたまひて、
362.2.5195168 ()くべうもおぼえはべらぬを、かくおはしまいたるついでに、(あま)になさせたまひてよ」 "くべうもおぼえはべらぬを、かくおはしまいたるついでに、あまになさせたまひてよ。"
362.2.6196169 ()こえたまふ。 こえたまふ。
362.2.7197170 「さる御本意(おほんほい)あらば、いと(たふと)きことなるを、さすがに、(かぎ)らぬ(いのち)のほどにて、()末遠(すゑとほ)(ひと)は、かへりてことの(みだ)れあり、()(ひと)(そし)らるるやうありぬべき」 "さるおほんほいあらば、いとたふときことなるを、さすがに、かぎらぬいのちのほどにて、すゑとほひとは、かへりてことのみだれあり、ひとそしらるるやうありぬべき。"
362.2.8198171 などのたまはせて、大殿(おとど)(きみ)に、 などのたまはせて、おとどきみに、
362.2.9199172 「かくなむ(すす)みのたまふを、(いま)(かぎ)りのさまならば、片時(かたとき)のほどにても、その(たす)けあるべきさまにてとなむ、(おも)ひたまふる」 "かくなんすすみのたまふを、いまかぎりのさまならば、かたときのほどにても、そのたすけあるべきさまにてとなん、おもひたまふる。"
362.2.10200173 とのたまへば、 とのたまへば、
362.2.11201174 ()ごろもかくなむのたまへど、邪気(ざけ)などの、(ひと)(こころ)たぶろかして、かかる(かた)にて(すす)むるやうもはべなるをとて、()きも()れはべらぬなり」 "ごろもかくなんのたまへど、ざけなどの、ひとこころたぶろかして、かかるかたにてすすむるやうもはべなるをとて、きもれはべらぬなり。"
362.2.12202175 ()こえたまふ。 こえたまふ。
362.2.13203176 「もののけの(をし)へにても、それに()けぬとて、()しかるべきことならばこそ(はばか)らめ、(よわ)りにたる(ひと)の、(かぎ)りとてものしたまはむことを、()()ぐさむは、(のち)()心苦(こころぐる)しうや」 "もののけのをしへにても、それにけぬとて、しかるべきことならばこそはばからめ、よわりにたるひとの、かぎりとてものしたまはんことを、ぐさんは、のちこころぐるしうや。"
362.2.14204177 とのたまふ。 とのたまふ。
362.3205178第三段 源氏、女三の宮の出家に狼狽
362.3.1206179 御心(みこころ)(うち)(かぎ)りなううしろやすく(ゆづ)りおきし(おほん)ことを、()けとりたまひて、さしも(こころ)ざし(ふか)からず、わが(おも)ふやうにはあらぬ()けしきを、ことに()れつつ、(とし)ごろ()こし()(おぼ)しつめけること、(いろ)()でて(うら)みきこえたまふべきにもあらねば、()(ひと)(おも)()ふらむところも口惜(くちを)しう(おぼ)しわたるに、 みこころうちかぎりなううしろやすくゆづりおきしおほんことを、けとりたまひて、さしもこころざしふかからず、わがおもふやうにはあらぬけしきを、ことにれつつ、としごろこしおぼしつめけること、いろでてうらみきこえたまふべきにもあらねば、ひとおもふらんところもくちをしうおぼしわたるに、
362.3.2207180 「かかる(をり)に、もて(はな)れなむも、(なに)かは、人笑(ひとわら)へに、()(うら)みたるけしきならで、さもあらざらむ。おほかたの後見(うしろみ)には、なほ(たの)まれぬべき(おほん)おきてなるを、ただ(あづ)けおきたてまつりししるしには(おも)ひなして、(にく)げに(そむ)くさまにはあらずとも、御処分(おほんそうぶん)(ひろ)くおもしろき宮賜(みやたま)はりたまへるを、(つくろ)ひて()ませたてまつらむ。 "かかるをりに、もてはなれなんも、なにかは、ひとわらへに、うらみたるけしきならで、さもあらざらん。おほかたのうしろみには、なほたのまれぬべきおほんおきてなるを、ただあづけおきたてまつりししるしにはおもひなして、にくげにそむくさまにはあらずとも、おほんそうぶんひろくおもしろきみやたまはりたまへるを、つくろひてませたてまつらん。
362.3.3208181 わがおはします()に、さる(かた)にても、うしろめたからず()きおき、またかの大殿(おとど)も、さいふとも、いとおろかにはよも(おも)(はな)ちたまはじ、その(こころ)ばへをも見果(みは)てむ」 わがおはしますに、さるかたにても、うしろめたからずきおき、またかのおとども、さいふとも、いとおろかにはよもおもはなちたまはじ、そのこころばへをもみはてん。"
362.3.4209182 (おも)ほし()りて、 おもほしりて、
362.3.5210183 「さらば、かくものしたるついでに、()むこと()けたまはむをだに、結縁(けちえん)にせむかし」 "さらば、かくものしたるついでに、むことけたまはんをだに、けちえんにせんかし。"
362.3.6211184 とのたまはす。 とのたまはす。
362.3.7212185 大殿(おとど)(きみ)()しと(おぼ)(かた)(わす)れて、こはいかなるべきことぞと、(かな)しく口惜(くちを)しければ、え()へたまはず、(うち)()りて、 おとどきみしとおぼかたわすれて、こはいかなるべきことぞと、かなしくくちをしければ、えへたまはず、うちりて、
362.3.8213186 「などか、いくばくもはべるまじき()をふり()てて、かうは(おぼ)しなりにける。なほ、しばし(こころ)(しづ)めたまひて、御湯参(おほんゆまゐ)り、(もの)などをも()こし()せ。(たふと)きことなりとも、御身弱(おほんみよわ)うては、(おこ)なひもしたまひてむや。かつは、つくろひたまひてこそ」 "などか、いくばくもはべるまじきをふりてて、かうはおぼしなりにける。なほ、しばしこころしづめたまひて、おほんゆまゐり、ものなどをもこしせ。たふときことなりとも、おほんみよわうては、おこなひもしたまひてんや。かつは、つくろひたまひてこそ。"
362.3.9214187 ()こえたまへど、(かしら)ふりて、いとつらうのたまふと(おぼ)したり。つれなくて、(うら)めしと(おぼ)すこともありけるにやと()たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。とかく()こえ(かへ)さひ、(おぼ)しやすらふほどに、夜明(よあ)(がた)になりぬ。 こえたまへど、かしらふりて、いとつらうのたまふとおぼしたり。つれなくて、うらめしとおぼすこともありけるにやとたてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。とかくこえかへさひ、おぼしやすらふほどに、よあがたになりぬ。
362.4215188第四段 朱雀院、夜明け方に山へ帰る
362.4.1216189 (かへ)()らむに、(みち)(ひる)ははしたなかるべしと(いそ)がせたまひて、御祈(おほんいの)りにさぶらふ(なか)に、やむごとなう(たふと)(かぎ)()()れて、御髪下(みぐしお)ろさせたまふ。いと(さか)りにきよらなる御髪(みぐし)()()てて、()むこと()けたまふ作法(さほふ)(かな)しう口惜(くちを)しければ、大殿(おとど)はえ(しの)びあへたまはず、いみじう()いたまふ。 かへらんに、みちひるははしたなかるべしといそがせたまひて、おほんいのりにさぶらふなかに、やんごとなうたふとかぎれて、みぐしおろさせたまふ。いとさかりにきよらなるみぐしてて、むことけたまふさほふかなしうくちをしければ、おとどはえしのびあへたまはず、いみじういたまふ。
362.4.2217190 (ゐん)はた、もとより()()きてやむごとなう、(ひと)よりもすぐれて()たてまつらむと(おぼ)ししを、この()には甲斐(かひ)なきやうにないたてまつるも、()かず(かな)しければ、うちしほたれたまふ。 ゐんはた、もとよりきてやんごとなう、ひとよりもすぐれてたてまつらんとおぼししを、このにはかひなきやうにないたてまつるも、かずかなしければ、うちしほたれたまふ。
362.4.3218191 「かくても、(たひら)かにて、(おな)じうは念誦(ねんず)をも(つと)めたまへ」 "かくても、たひらかにて、おなじうはねんずをもつとめたまへ。"
362.4.4219192 ()こえ()きたまひて、()()てぬるに、(いそ)ぎて()でさせたまひぬ。 こえきたまひて、てぬるに、いそぎてでさせたまひぬ。
362.4.5220193 (みや)は、なほ(よわ)()()るやうにしたまひて、はかばかしうもえ()たてまつらず、ものなども()こえたまはず。大殿(おとど)も、 みやは、なほよわるやうにしたまひて、はかばかしうもえたてまつらず、ものなどもこえたまはず。おとども、
362.4.6221194 (ゆめ)のやうに(おも)ひたまへ(みだ)るる心惑(こころまど)ひに、かう(むかし)おぼえたる御幸(みゆき)のかしこまりをも、え御覧(ごらん)ぜられぬらうがはしさは、ことさらに(まゐ)りはべりてなむ」 "ゆめのやうにおもひたまへみだるるこころまどひに、かうむかしおぼえたるみゆきのかしこまりをも、えごらんぜられぬらうがはしさは、ことさらにまゐりはべりてなん。"
362.4.7222195 ()こえたまふ。御送(おほんおく)りに(ひと)びと(まゐ)らせたまふ。 こえたまふ。おほんおくりにひとびとまゐらせたまふ。
362.4.8223196 ()(なか)の、今日(けふ)明日(あす)かにおぼえはべりしほどに、また()(ひと)もなくて、(ただよ)はむことの、あはれに()りがたうおぼえはべしかば、御本意(おほんほい)にはあらざりけめど、かく()こえつけて、(とし)ごろは(こころ)やすく(おも)ひたまへつるを、もしも()きとまりはべらば、さま(こと)(かは)りて、(ひと)しげき()まひはつきなかるべきを、さるべき山里(やまざと)などにかけ(はな)れたらむありさまも、またさすがに心細(こころぼそ)かるべくや。さまに(したが)ひて、なほ、(おぼ)(はな)つまじく」 "なかの、けふあすかにおぼえはべりしほどに、またひともなくて、ただよはんことの、あはれにりがたうおぼえはべしかば、おほんほいにはあらざりけめど、かくこえつけて、としごろはこころやすくおもひたまへつるを、もしもきとまりはべらば、さまことかはりて、ひとしげきまひはつきなかるべきを、さるべきやまざとなどにかけはなれたらんありさまも、またさすがにこころぼそかるべくや。さまにしたがひて、なほ、おぼはなつまじく。"
362.4.9224197 など()こえたまへば、 などこえたまへば、
362.4.10225198 「さらにかくまで(おほ)せらるるなむ、かへりて()づかしう(おも)ひたまへらるる。(みだ)心地(ごこち)、とかく(みだ)れはべりて、何事(なにごと)もえわきまへはべらず」 "さらにかくまでおほせらるるなん、かへりてづかしうおもひたまへらるる。みだごこち、とかくみだれはべりて、なにごともえわきまへはべらず。"
362.4.11226199 とて、げに、いと()へがたげに(おぼ)したり。 とて、げに、いとへがたげにおぼしたり。
362.4.12227200 後夜(ごや)御加持(おほんかぢ)に、(おほん)もののけ()()て、 ごやおほんかぢに、おほんもののけて、
362.4.13228201 「かうぞあるよ。いとかしこう()(かへ)しつと、一人(ひとり)をば(おぼ)したりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなむ、()ごろさぶらひつる。(いま)(かへ)りなむ」 "かうぞあるよ。いとかしこうかへしつと、ひとりをばおぼしたりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなん、ごろさぶらひつる。いまかへりなん。"
362.4.14229202 とて、うち(わら)ふ。いとあさましう、 とて、うちわらふ。いとあさましう、
362.4.15230203 「さは、このもののけのここにも、(はな)れざりけるにやあらむ」 "さは、このもののけのここにも、はなれざりけるにやあらん。"
362.4.16231204 (おぼ)すに、いとほしう(くや)しう(おぼ)さる。(みや)、すこし()()でたまふやうなれど、なほ(たの)みがたげに()えたまふ。さぶらふ(ひと)びとも、いといふかひなうおぼゆれど、「かうても、(たひら)かにだにおはしまさば」と、(ねん)じつつ、御修法(みすほふ)また()べて、たゆみなく(おこ)なはせなど、よろづにせさせたまふ。 おぼすに、いとほしうくやしうおぼさる。みや、すこしでたまふやうなれど、なほたのみがたげにえたまふ。さぶらふひとびとも、いといふかひなうおぼゆれど、"かうても、たひらかにだにおはしまさば。"と、ねんじつつ、みすほふまたべて、たゆみなくおこなはせなど、よろづにせさせたまふ。
363232205第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去
363.1233206第一段 柏木、権大納言となる
363.1.1234207 かの衛門督(ゑもんのかみ)は、かかる御事(おほんこと)()きたまふに、いとど()()るやうにしたまひて、むげに(たの)方少(かたすく)なうなりたまひにたり。女宮(をんなみや)のあはれにおぼえたまへば、ここに(わた)りたまはむことは、(いま)さらに軽々(かるがる)しきやうにもあらむを、(うへ)大臣(おとど)も、かくつと()ひおはすれば、おのづからとりはづして()たてまつりたまふやうもあらむに、あぢきなしと(おぼ)して、 かのゑもんのかみは、かかるおほんこときたまふに、いとどるやうにしたまひて、むげにたのかたすくなうなりたまひにたり。をんなみやのあはれにおぼえたまへば、ここにわたりたまはんことは、いまさらにかるがるしきやうにもあらんを、うへおとども、かくつとひおはすれば、おのづからとりはづしてたてまつりたまふやうもあらんに、あぢきなしとおぼして、
363.1.2235208 「かの(みや)に、とかくして今一度参(いまひとたびま)うでむ」 "かのみやに、とかくしていまひとたびまうでん。"
363.1.3236209 とのたまふを、さらに(ゆる)しきこえたまはず。(たれ)にも、この(みや)(おほん)ことを()こえつけたまふ。はじめより母御息所(ははみやすんどころ)は、をさをさ(こころ)ゆきたまはざりしを、この大臣(おとど)居立(ゐた)ちねむごろに()こえたまひて、(こころ)ざし(ふか)かりしに()けたまひて、(ゐん)にも、いかがはせむと(おぼ)(ゆる)しけるを、二品(にほん)(みや)(おほん)こと(おも)ほし(みだ)れけるついでに、 とのたまふを、さらにゆるしきこえたまはず。たれにも、このみやおほんことをこえつけたまふ。はじめよりははみやすんどころは、をさをさこころゆきたまはざりしを、このおとどゐたちねんごろにこえたまひて、こころざしふかかりしにけたまひて、ゐんにも、いかがはせんとおぼゆるしけるを、にほんみやおほんことおもほしみだれけるついでに、
363.1.4237210 「なかなか、この(みや)()(さき)うしろやすく、まめやかなる後見(うしろみ)まうけたまへり」 "なかなか、このみやさきうしろやすく、まめやかなるうしろみまうけたまへり。"
363.1.5238211 と、のたまはすと()きたまひしを、かたじけなう(おも)()づ。 と、のたまはすときたまひしを、かたじけなうおもづ。
363.1.6239212 「かくて、見捨(みす)てたてまつりぬるなめりと(おも)ふにつけては、さまざまにいとほしけれど、(こころ)よりほかなる(いのち)なれば、()へぬ(ちぎ)(うら)めしうて、(おぼ)(なげ)かれむが、心苦(こころぐる)しきこと。御心(みこころ)ざしありて(とぶ)らひものせさせたまへ」 "かくて、みすてたてまつりぬるなめりとおもふにつけては、さまざまにいとほしけれど、こころよりほかなるいのちなれば、へぬちぎうらめしうて、おぼなげかれんが、こころぐるしきこと。みこころざしありてとぶらひものせさせたまへ。"
363.1.7240213 と、母上(ははうへ)にも()こえたまふ。 と、ははうへにもこえたまふ。
363.1.8241214 「いで、あなゆゆし。(おく)れたてまつりては、いくばく()()べき()とて、かうまで()(さき)のことをばのたまふ」 "いで、あなゆゆし。おくれたてまつりては、いくばくべきとて、かうまでさきのことをばのたまふ。"
363.1.9242215 とて、()きにのみ()きたまへば、え()こえやりたまはず。右大弁(うだいべん)(きみ)にぞ、大方(おほかた)(こと)どもは(くは)しう()こえたまふ。 とて、きにのみきたまへば、えこえやりたまはず。うだいべんきみにぞ、おほかたことどもはくはしうこえたまふ。
363.1.10243216 (こころ)ばへののどかによくおはしつる(きみ)なれば、(おとうと)(きみ)たちも、まだ末々(すゑずゑ)(わか)きは、(おや)とのみ(たの)みきこえたまへるに、かう心細(こころぼそ)うのたまふを、(かな)しと(おも)はぬ(ひと)なく、殿(との)のうちの(ひと)(なげ)く。 こころばへののどかによくおはしつるきみなれば、おとうときみたちも、まだすゑずゑわかきは、おやとのみたのみきこえたまへるに、かうこころぼそうのたまふを、かなしとおもはぬひとなく、とののうちのひとなげく。
363.1.11244217 (おほやけ)も、()しみ口惜(くちを)しがらせたまふ。かく(かぎ)りと()こし()して、にはかに権大納言(ごんのだいなごん)になさせたまへり。よろこびに(おも)()こして、今一度(いまひとたび)(まゐ)りたまふやうもやあると、(おぼ)しのたまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、(くる)しきなかにも、かしこまり(まう)したまふ。大臣(おとど)も、かく(おも)(おほん)おぼえを()たまふにつけても、いよいよ(かな)しうあたらしと(おぼ)(まど)ふ。 おほやけも、しみくちをしがらせたまふ。かくかぎりとこしして、にはかにごんのだいなごんになさせたまへり。よろこびにおもこして、いまひとたびまゐりたまふやうもやあると、おぼしのたまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、くるしきなかにも、かしこまりまうしたまふ。おとども、かくおもおほんおぼえをたまふにつけても、いよいよかなしうあたらしとおぼまどふ。
363.2245218第二段 夕霧、柏木を見舞う
363.2.1246219 大将(だいしゃう)(きみ)(つね)にいと(ふか)(おも)(なげ)き、(とぶ)らひきこえたまふ。御喜(おほんよろこ)びにもまづ()うでたまへり。このおはする(たい)のほとり、こなたの御門(みかど)は、(むま)(くるま)たち()み、人騒(ひとさわ)がしう(さわ)()ちたり。今年(ことし)となりては、()()がることもをさをさしたまはねば、重々(おもおも)しき(おほん)さまに、(みだ)れながらは、え対面(たいめん)したまはで、(おも)ひつつ(よわ)りぬること、と(おも)ふに口惜(くちを)しければ、 だいしゃうきみつねにいとふかおもなげき、とぶらひきこえたまふ。おほんよろこびにもまづうでたまへり。このおはするたいのほとり、こなたのみかどは、むまくるまたちみ、ひとさわがしうさわちたり。ことしとなりては、がることもをさをさしたまはねば、おもおもしきおほんさまに、みだれながらは、えたいめんしたまはで、おもひつつよわりぬること、とおもふにくちをしければ、
363.2.2247220 「なほ、こなたに()らせたまへ。いとらうがはしきさまにはべる(つみ)は、おのづから(おぼ)(ゆる)されなむ」 "なほ、こなたにらせたまへ。いとらうがはしきさまにはべるつみは、おのづからおぼゆるされなん。"
363.2.3248221 とて、()したまへる枕上(まくらがみ)(かた)に、(そう)などしばし()だしたまひて、()れたてまつりたまふ。 とて、したまへるまくらがみかたに、そうなどしばしだしたまひて、れたてまつりたまふ。
363.2.4249222 (はや)うより、いささか(へだ)てたまふことなう、(むつ)()はしたまふ御仲(おほんなか)なれば、(わか)れむことの(かな)しう(こひ)しかるべき(なげ)き、親兄弟(おやはらから)御思(おほんおも)ひにも(おと)らず。今日(けふ)(よろこ)びとて、心地(ここち)よげならましをと(おも)ふに、いと口惜(くちを)しう、かひなし。 はやうより、いささかへだてたまふことなう、むつはしたまふおほんなかなれば、わかれんことのかなしうこひしかるべきなげき、おやはらからおほんおもひにもおとらず。けふよろこびとて、ここちよげならましをとおもふに、いとくちをしう、かひなし。
363.2.5250223 「などかく(たの)もしげなくはなりたまひにける。今日(けふ)は、かかる御喜(おほんよろこ)びに、いささかすくよかにもやとこそ(おも)ひはべりつれ」 "などかくたのもしげなくはなりたまひにける。けふは、かかるおほんよろこびに、いささかすくよかにもやとこそおもひはべりつれ。"
363.2.6251224 とて、几帳(きちゃう)のつま()()げたまへれば、 とて、きちゃうのつまげたまへれば、
363.2.7252225 「いと口惜(くちを)しう、その(ひと)にもあらずなりにてはべりや」 "いとくちをしう、そのひとにもあらずなりにてはべりや。"
363.2.8253226 とて、烏帽子(えぼうし)ばかりおし()れて、すこし()()がらむとしたまへど、いと(くる)しげなり。(しろ)(きぬ)どもの、なつかしうなよよかなるをあまた(かさ)ねて、(ふすま)ひきかけて()したまへり。御座(おまし)のあたりものきよげに、けはひ()うばしう、(こころ)にくくぞ()みなしたまへる。 とて、えぼうしばかりおしれて、すこしがらんとしたまへど、いとくるしげなり。しろきぬどもの、なつかしうなよよかなるをあまたかさねて、ふすまひきかけてしたまへり。おましのあたりものきよげに、けはひうばしう、こころにくくぞみなしたまへる。
363.2.9254228 うちとけながら、用意(ようい)ありと()ゆ。(おも)(わづら)ひたる(ひと)は、おのづから髪髭(かみひげ)(みだ)れ、ものむつかしきけはひも()ふわざなるを、()せさらぼひたるしも、いよいよ(しろ)うあてなるさまして、(まくら)をそばだてて、ものなど()こえたまふけはひ、いと(よわ)げに、(いき)()えつつ、あはれげなり。 うちとけながら、よういありとゆ。おもわづらひたるひとは、おのづからかみひげみだれ、ものむつかしきけはひもふわざなるを、せさらぼひたるしも、いよいよしろうあてなるさまして、まくらをそばだてて、ものなどこえたまふけはひ、いとよわげに、いきえつつ、あはれげなり。
363.3255229第三段 柏木、夕霧に遺言
363.3.1256230 (ひさ)しう(わづら)ひたまへるほどよりは、ことにいたうもそこなはれたまはざりけり。(つね)御容貌(おほんかたち)よりも、なかなかまさりてなむ()えたまふ」 "ひさしうわづらひたまへるほどよりは、ことにいたうもそこなはれたまはざりけり。つねおほんかたちよりも、なかなかまさりてなんえたまふ。"
363.3.2257231 とのたまふものから、(なみだ)おし(のご)ひて、 とのたまふものから、なみだおしのごひて、
363.3.3258232 (おく)先立(さきだ)(へだ)てなくとこそ(ちぎ)りきこえしか。いみじうもあるかな。この御心地(みここち)のさまを、何事(なにごと)にて(おも)りたまふとだに、え()()きはべらず。かく(した)しきほどながら、おぼつかなくのみ」 "おくさきだへだてなくとこそちぎりきこえしか。いみじうもあるかな。このみここちのさまを、なにごとにておもりたまふとだに、えきはべらず。かくしたしきほどながら、おぼつかなくのみ。"
363.3.4259233 などのたまふに、 などのたまふに、
363.3.5260234 (こころ)には、(おも)くなるけぢめもおぼえはべらず。そこどころと(くる)しきこともなければ、たちまちにかうも(おも)ひたまへざりしほどに、月日(つきひ)()(よわ)りはべりにければ、(いま)はうつし(ごころ)()せたるやうになむ。 "こころには、おもくなるけぢめもおぼえはべらず。そこどころとくるしきこともなければ、たちまちにかうもおもひたまへざりしほどに、つきひよわりはべりにければ、いまはうつしごころせたるやうになん。
363.3.6261235 ()しげなき()を、さまざまにひき(とど)めらるる(いの)り、(がん)などの(ちから)にや、さすがにかかづらふも、なかなか(くる)しうはべれば、(こころ)もてなむ、(いそ)()心地(ここち)しはべる。 しげなきを、さまざまにひきとどめらるるいのり、がんなどのちからにや、さすがにかかづらふも、なかなかくるしうはべれば、こころもてなん、いそここちしはべる。
363.3.7262236 さるは、この()(わか)れ、()りがたきことは、いと(おほ)うなむ。(おや)にも(つか)うまつりさして、(いま)さらに御心(みこころ)どもを(なや)まし、(きみ)(つか)うまつることも(なか)ばのほどにて、()(かへり)みる(かた)、はた、ましてはかばかしからぬ(うら)みを(とど)めつる大方(おほかた)(なげ)きをば、さるものにて。 さるは、このわかれ、りがたきことは、いとおほうなん。おやにもつかうまつりさして、いまさらにみこころどもをなやまし、きみつかうまつることもなかばのほどにて、かへりみるかた、はた、ましてはかばかしからぬうらみをとどめつるおほかたなげきをば、さるものにて。
363.3.8263237 また(こころ)(うち)(おも)ひたまへ(みだ)るることのはべるを、かかる(いま)はのきざみにて、(なに)かは()らすべきと(おも)ひはべれど、なほ(しの)びがたきことを、(たれ)にかは(うれ)へはべらむ。これかれあまたものすれど、さまざまなることにて、さらにかすめはべらむも、あいなしかし。 またこころうちおもひたまへみだるることのはべるを、かかるいまはのきざみにて、なにかはらすべきとおもひはべれど、なほしのびがたきことを、たれにかはうれへはべらん。これかれあまたものすれど、さまざまなることにて、さらにかすめはべらんも、あいなしかし。
363.3.9264238 六条院(ろくでうのゐん)にいささかなる(こと)(たが)()ありて、(つき)ごろ、(こころ)(うち)にかしこまり(まう)すことなむはべりしを、いと本意(ほい)なう、()中心細(なかこころぼそ)(おも)ひなりて、(やまひ)づきぬとおぼえはべしに、()しありて、(ゐん)御賀(おほんが)楽所(がくそ)(こころ)みの日参(ひまゐ)りて、()けしきを(たま)はりしに、なほ(ゆる)されぬ御心(みこころ)ばへあるさまに、御目尻(おほんまじり)()たてまつりはべりて、いとど()にながらへむことも(はばか)(おほ)うおぼえなりはべりて、あぢきなう(おも)ひたまへしに、(こころ)(さわ)ぎそめて、かく(しづ)まらずなりぬるになむ。 ろくでうのゐんにいささかなることたがありて、つきごろ、こころうちにかしこまりまうすことなんはべりしを、いとほいなう、なかこころぼそおもひなりて、やまひづきぬとおぼえはべしに、しありて、ゐんおほんががくそこころみのひまゐりて、けしきをたまはりしに、なほゆるされぬみこころばへあるさまに、おほんまじりたてまつりはべりて、いとどにながらへんこともはばかおほうおぼえなりはべりて、あぢきなうおもひたまへしに、こころさわぎそめて、かくしづまらずなりぬるになん。
363.3.10265239 人数(ひとかず)には(おぼ)()れざりけめど、いはけなうはべし(とき)より、(ふか)(たの)(まう)(こころ)のはべりしを、いかなる讒言(ざうげん)などのありけるにかと、これなむ、この()(うれ)へにて(のこ)りはべるべければ、(ろん)なうかの(のち)()(さまた)げにもやと(おも)ひたまふるを、ことのついではべらば、御耳留(おほんみみとど)めて、よろしう(あき)らめ(まう)させたまへ。 ひとかずにはおぼれざりけめど、いはけなうはべしときより、ふかたのまうこころのはべりしを、いかなるざうげんなどのありけるにかと、これなん、このうれへにてのこりはべるべければ、ろんなうかののちさまたげにもやとおもひたまふるを、ことのついではべらば、おほんみみとどめて、よろしうあきらめまうさせたまへ。
363.3.11266240 ()からむ(うし)ろにも、この勘事許(かうじゆる)されたらむなむ、御徳(おほんとく)にはべるべき」 からんうしろにも、このかうじゆるされたらんなん、おほんとくにはべるべき。"
363.3.12267241 などのたまふままに、いと(くる)しげにのみ()えまされば、いみじうて、(こころ)(うち)(おも)()はすることどもあれど、さして(たし)かには、えしも()(はか)らず。 などのたまふままに、いとくるしげにのみえまされば、いみじうて、こころうちおもはすることどもあれど、さしてたしかには、えしもはからず。
363.3.13268242 「いかなる御心(みこころ)(おに)にかは。さらに、さやうなる()けしきもなく、かく(おも)りたまへる(よし)をも()きおどろき(なげ)きたまふこと、(かぎ)りなうこそ口惜(くちを)しがり(まう)したまふめりしか。など、かく(おぼ)すことあるにては、(いま)まで(のこ)いたまひつらむ。こなたかなた(あき)らめ(まう)すべかりけるものを。(いま)はいふかひなしや」 "いかなるみこころおににかは。さらに、さやうなるけしきもなく、かくおもりたまへるよしをもきおどろきなげきたまふこと、かぎりなうこそくちをしがりまうしたまふめりしか。など、かくおぼすことあるにては、いままでのこいたまひつらん。こなたかなたあきらめまうすべかりけるものを。いまはいふかひなしや。"
363.3.14269243 とて、()(かへ)さまほしう(かな)しく(おぼ)さる。 とて、かへさまほしうかなしくおぼさる。
363.3.15270244 「げに、いささかも(ひま)ありつる(をり)()こえうけたまはるべうこそはべりけれ。されど、いとかう今日明日(けふあす)としもやはと、みづからながら()らぬ(いのち)のほどを、(おも)ひのどめはべりけるもはかなくなむ。このことは、さらに御心(みこころ)より()らしたまふまじ。さるべきついではべらむ(をり)には、御用意加(おほんよういくは)へたまへとて、()こえおくになむ。 "げに、いささかもひまありつるをりこえうけたまはるべうこそはべりけれ。されど、いとかうけふあすとしもやはと、みづからながららぬいのちのほどを、おもひのどめはべりけるもはかなくなん。このことは、さらにみこころよりらしたまふまじ。さるべきついではべらんをりには、おほんよういくはへたまへとて、こえおくになん。
363.3.16271245 一条(いちでう)にものしたまふ(みや)、ことに()れて(とぶ)らひきこえたまへ。心苦(こころぐる)しきさまにて、(ゐん)などにも()こし()されたまはむを、つくろひたまへ」 いちでうにものしたまふみや、ことにれてとぶらひきこえたまへ。こころぐるしきさまにて、ゐんなどにもこしされたまはんを、つくろひたまへ。"
363.3.17272246 などのたまふ。()はまほしきことは(おほ)かるべけれど、心地(ここち)せむかたなくなりにければ、 などのたまふ。はまほしきことはおほかるべけれど、ここちせんかたなくなりにければ、
363.3.18273247 ()でさせたまひね」 "でさせたまひね。"
363.3.19274248 と、()かききこえたまふ。加持参(かぢまゐ)(そう)ども(ちか)(まゐ)り、(うへ)大臣(おとど)などおはし(あつま)りて、(ひと)びとも()(さわ)げば、()()()でたまひぬ。 と、かききこえたまふ。かぢまゐそうどもちかまゐり、うへおとどなどおはしあつまりて、ひとびともさわげば、でたまひぬ。
363.4275249第四段 柏木、泡の消えるように死去
363.4.1276250 女御(にょうご)をばさらにも()こえず、この大将(だいしゃう)御方(おほんかた)などもいみじう(なげ)きたまふ。(こころ)おきての、あまねく(ひと)のこのかみ(ごころ)にものしたまひければ、(みぎ)大殿(おほとの)(きた)(かた)も、この(きみ)をのみぞ、(むつ)ましきものに(おも)ひきこえたまひければ、よろづに(おも)(なげ)きたまひて、御祈(おほんいの)りなど()()きてせさせたまひけれど、やむ(くすり)ならねば、かひなきわざになむありける。女宮(をんなみや)にも、つひにえ対面(たいめん)しきこえたまはで、(あわ)()()るやうにて()せたまひぬ。 にょうごをばさらにもこえず、このだいしゃうおほんかたなどもいみじうなげきたまふ。こころおきての、あまねくひとのこのかみごころにものしたまひければ、みぎおほとのきたかたも、このきみをのみぞ、むつましきものにおもひきこえたまひければ、よろづにおもなげきたまひて、おほんいのりなどきてせさせたまひけれど、やむくすりならねば、かひなきわざになんありける。をんなみやにも、つひにえたいめんしきこえたまはで、あわるやうにてせたまひぬ。
363.4.2277251 (とし)ごろ、(した)(こころ)こそねむごろに(ふか)くもなかりしか、大方(おほかた)には、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、()なつかしう、(こころ)ばへをかしう、うちとけぬさまにて()ぐいたまひければ、つらき(ふし)もことになし。ただ、 としごろ、したこころこそねんごろにふかくもなかりしか、おほかたには、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、なつかしう、こころばへをかしう、うちとけぬさまにてぐいたまひければ、つらきふしもことになし。ただ、
363.4.3278252 「かく(みじか)かりける御身(おほんみ)にて、あやしくなべての(よの)すさまじう(おも)ひたまへけるなりけり」 "かくみじかかりけるおほんみにて、あやしくなべてのよのすさまじうおもひたまへけるなりけり。"
363.4.4279253 (おも)()でたまふに、いみじうて、(おぼ)()りたるさま、いと心苦(こころぐる)し。 おもでたまふに、いみじうて、おぼりたるさま、いとこころぐるし。
363.4.5280254 御息所(みやすんどころ)も、「いみじう人笑(ひとわら)へに口惜(くちを)し」と、()たてまつり(なげ)きたまふこと、(かぎ)りなし。 みやすんどころも、"いみじうひとわらへにくちをし。"と、たてまつりなげきたまふこと、かぎりなし。
363.4.6281255 大臣(おとど)(きた)(かた)などは、ましていはむかたなく、 おとどきたかたなどは、ましていはんかたなく、
363.4.7282256 (われ)こそ先立(さきだ)ため。()のことわりなうつらいこと」 "われこそさきだため。のことわりなうつらいこと。"
363.4.8283257 ()がれたまへど、(なに)のかひなし。 がれたまへど、なにのかひなし。
363.4.9284258 尼宮(あまみや)は、おほけなき(こころ)もうたてのみ(おぼ)されて、()(なが)かれとしも(おぼ)さざりしを、かくなむと()きたまふは、さすがにいとあはれなりかし。 あまみやは、おほけなきこころもうたてのみおぼされて、ながかれとしもおぼさざりしを、かくなんときたまふは、さすがにいとあはれなりかし。
363.4.10285259 若君(わかぎみ)(おほん)ことを、さぞと(おも)ひたりしも、げに、かかるべき(ちぎ)りにてや、(おも)ひのほかに心憂(こころう)きこともありけむ」と(おぼ)()るに、さまざまもの心細(こころぼそ)うて、うち()かれたまひぬ。 "わかぎみおほんことを、さぞとおもひたりしも、げに、かかるべきちぎりにてや、おもひのほかにこころうきこともありけん。"とおぼるに、さまざまものこころぼそうて、うちかれたまひぬ。
364286260第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い
364.1287261第一段 三月、若君の五十日の祝い
364.1.1288262 弥生(やよひ)になれば、(そら)のけしきもものうららかにて、この(きみ)五十日(いか)のほどになりたまひて、いと(しろ)ううつくしう、ほどよりはおよすけて、物語(ものがたり)などしたまふ。大殿渡(おとどわた)りたまひて、 やよひになれば、そらのけしきもものうららかにて、このきみいかのほどになりたまひて、いとしろううつくしう、ほどよりはおよすけて、ものがたりなどしたまふ。おとどわたりたまひて、
364.1.2289263 御心地(みここち)は、さはやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもはべるかな。(れい)(おほん)ありさまにて、かく()なしたてまつらましかば、いかにうれしうはべらまし。心憂(こころう)く、(おぼ)()てけること」 "みここちは、さはやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもはべるかな。れいおほんありさまにて、かくなしたてまつらましかば、いかにうれしうはべらまし。こころうく、おぼてけること。"
364.1.3290264 と、(なみだ)ぐみて(うら)みきこえたまふ。日々(ひび)(わた)りたまひて、(いま)しも、やむごとなく(かぎ)りなきさまにもてなしきこえたまふ。 と、なみだぐみてうらみきこえたまふ。ひびわたりたまひて、いましも、やんごとなくかぎりなきさまにもてなしきこえたまふ。
364.1.4291265 御五十日(おほんいか)餅参(もちひまゐ)らせたまはむとて、容貌異(かたちこと)なる(おほん)さまを、(ひと)びと、「いかに」など()こえやすらへど、院渡(ゐんわた)らせたまひて、 おほんいかもちひまゐらせたまはんとて、かたちことなるおほんさまを、ひとびと、"いかに。"などこえやすらへど、ゐんわたらせたまひて、
364.1.5292266 (なに)か。(をんな)にものしたまはばこそ、(おな)(すぢ)にて、いまいましくもあらめ」 "なにか。をんなにものしたまはばこそ、おなすぢにて、いまいましくもあらめ。"
364.1.6293267 とて、南面(みなみおもて)(ちひ)さき御座(おまし)などよそひて、(まゐ)らせたまふ。御乳母(おほんめのと)、いとはなやかに装束(さうぞ)きて、御前(おまへ)のもの、いろいろを()くしたる籠物(こもの)桧破籠(ひわりご)(こころ)ばへどもを、(うち)にも()にも、もとの(こころ)()らぬことなれば、()()らし、何心(なにごころ)もなきを、「いと心苦(こころぐる)しうまばゆきわざなりや」と(おぼ)す。 とて、みなみおもてちひさきおましなどよそひて、まゐらせたまふ。おほんめのと、いとはなやかにさうぞきて、おまへのもの、いろいろをくしたるこものひわりごこころばへどもを、うちにもにも、もとのこころらぬことなれば、らし、なにごころもなきを、"いとこころぐるしうまばゆきわざなりや。"とおぼす。
364.2294268第二段 源氏と女三の宮の夫婦の会話
364.2.1295269 (みや)()きゐたまひて、御髪(みぐし)(すゑ)所狭(ところせ)(ひろ)ごりたるを、いと(くる)しと(おぼ)して、(ひたひ)など()でつけておはするに、几帳(きちゃう)()きやりてゐたまへば、いと()づかしうて(そむ)きたまへるを、いとど(ちひ)さう(ほそ)りたまひて、御髪(みぐし)()しみきこえて、(なが)()ぎたりければ、(うし)ろは(こと)にけぢめも()えたまはぬほどなり。 みやきゐたまひて、みぐしすゑところせひろごりたるを、いとくるしとおぼして、ひたひなどでつけておはするに、きちゃうきやりてゐたまへば、いとづかしうてそむきたまへるを、いとどちひさうほそりたまひて、みぐししみきこえて、ながぎたりければ、うしろはことにけぢめもえたまはぬほどなり。
364.2.2296270 すぎすぎ()ゆる鈍色(にびいろ)ども、()がちなる今様色(いまやういろ)など()たまひて、まだありつかぬ(おほん)かたはらめ、かくてしもうつくしき()どもの心地(ここち)して、なまめかしうをかしげなり。 すぎすぎゆるにびいろども、がちなるいまやういろなどたまひて、まだありつかぬおほんかたはらめ、かくてしもうつくしきどものここちして、なまめかしうをかしげなり。
364.2.3297271 「いで、あな心憂(こころう)墨染(すみぞめ)こそ、なほ、いとうたて()もくるる(いろ)なりけれ。かやうにても、()たてまつることは、()ゆまじきぞかしと、(おも)(なぐさ)めはべれど、()りがたうわりなき心地(ここち)する(なみだ)人悪(ひとわ)ろさを、いとかう(おも)()てられたてまつる()(とが)(おも)ひなすも、さまざまに(むね)いたう口惜(くちを)しくなむ。()(かへ)すものにもがなや」 "いで、あなこころうすみぞめこそ、なほ、いとうたてもくるるいろなりけれ。かやうにても、たてまつることは、ゆまじきぞかしと、おもなぐさめはべれど、りがたうわりなきここちするなみだひとわろさを、いとかうおもてられたてまつるとがおもひなすも、さまざまにむねいたうくちをしくなん。かへすものにもがなや。"
364.2.4298272 と、うち(なげ)きたまひて、 と、うちなげきたまひて、
364.2.5299273 (いま)はとて(おぼ)(はな)れば、まことに御心(みこころ)(いと)()てたまひけると、()づかしう心憂(こころう)くなむおぼゆべき。なほ、あはれと(おぼ)せ」 "いまはとておぼはなれば、まことにみこころいとてたまひけると、づかしうこころうくなんおぼゆべき。なほ、あはれとおぼせ。"
364.2.6300274 ()こえたまへば、 こえたまへば、
364.2.7301275 「かかるさまの(ひと)は、もののあはれも()らぬものと()きしを、ましてもとより()らぬことにて、いかがは()こゆべからむ」 "かかるさまのひとは、もののあはれもらぬものときしを、ましてもとよりらぬことにて、いかがはこゆべからん。"
364.2.8302276 とのたまへば、 とのたまへば、
364.2.9303277 「かひなのことや。(おぼ)()(かた)もあらむものを」 "かひなのことや。おぼかたもあらんものを。"
364.2.10304278 とばかりのたまひさして、若君(わかぎみ)()たてまつりたまふ。 とばかりのたまひさして、わかぎみたてまつりたまふ。
364.3305279第三段 源氏、老後の感懐
364.3.1306280 御乳母(おほんめのと)たちは、やむごとなく、めやすき(かぎ)りあまたさぶらふ。()()でて、(つか)うまつるべき(こころ)おきてなどのたまふ。 おほんめのとたちは、やんごとなく、めやすきかぎりあまたさぶらふ。でて、つかうまつるべきこころおきてなどのたまふ。
364.3.2307281 「あはれ、(のこ)(すく)なき()に、()()づべき(ひと)にこそ」 "あはれ、のこすくなきに、づべきひとにこそ。"
364.3.3308282 とて、(いだ)()りたまへば、いと(こころ)やすくうち()みて、つぶつぶと()えて(しろ)ううつくし。大将(だいしゃう)などの稚児生(ちごお)ひ、ほのかに(おぼ)()づるには()たまはず。女御(にょうご)御宮(おほんみや)たち、はた、父帝(ちちみかど)御方(おほんかた)ざまに、王気(わうけ)づきて気高(けだか)うこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうしもおはせず。 とて、いだりたまへば、いとこころやすくうちみて、つぶつぶとえてしろううつくし。だいしゃうなどのちごおひ、ほのかにおぼづるにはたまはず。にょうごおほんみやたち、はた、ちちみかどおほんかたざまに、わうけづきてけだかうこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうしもおはせず。
364.3.4309283 この(きみ)、いとあてなるに()へて、愛敬(あいぎゃう)づき、まみの(かを)りて、()がちなるなどを、いとあはれと()たまふ。(おも)ひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。ただ(いま)ながら、眼居(まなこゐ)ののどかに()づかしきさまも、やう(はな)れて、(かを)りをかしき(かほ)ざまなり。 このきみ、いとあてなるにへて、あいぎゃうづき、まみのかをりて、がちなるなどを、いとあはれとたまふ。おもひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。ただいまながら、まなこゐののどかにづかしきさまも、やうはなれて、かをりをかしきかほざまなり。
364.3.5310285 (みや)はさしも(おぼ)()かず。(ひと)はた、さらに()らぬことなれば、ただ一所(ひとところ)御心(みこころ)(うち)にのみぞ、 みやはさしもおぼかず。ひとはた、さらにらぬことなれば、ただひとところみこころうちにのみぞ、
364.3.6311286 「あはれ、はかなかりける(ひと)(ちぎ)りかな」 "あはれ、はかなかりけるひとちぎりかな。"
364.3.7312287 ()たまふに、大方(おほかた)()(さだ)めなさも(おぼ)(つづ)けられて、(なみだ)のほろほろとこぼれぬるを、今日(けふ)言忌(ことい)みすべき()をと、おし(のご)(かく)したまふ。 たまふに、おほかたさだめなさもおぼつづけられて、なみだのほろほろとこぼれぬるを、けふこといみすべきをと、おしのごかくしたまふ。
364.3.8313288 (しづ)かに(おも)ひて(なげ)くに()へたり」 "しづかにおもひてなげくにへたり"
364.3.9314289 と、うち()うじたまふ。五十八(ごじふはち)十取(とをと)()てたる御齢(おほんよはひ)なれど、(すゑ)になりたる心地(ここち)したまひて、いとものあはれに(おぼ)さる。「(なんぢ)(ちち)に」とも、(いさ)めまほしう(おぼ)しけむかし。 と、うちうじたまふ。ごじふはちとをとてたるおほんよはひなれど、すゑになりたるここちしたまひて、いとものあはれにおぼさる。"なんぢちちに"とも、いさめまほしうおぼしけんかし。
364.4315290第四段 源氏、女三の宮に嫌味を言う
364.4.1316291 「このことの心知(こころし)れる(ひと)女房(にょうばう)(なか)にもあらむかし。()らぬこそ、ねたけれ。烏滸(をこ)なりと()るらむ」と、(やす)からず(おぼ)せど、「わが御咎(おほんとが)あることはあへなむ。(ふた)()はむには、(をんな)(おほん)ためこそ、いとほしけれ」 "このことのこころしれるひとにょうばうなかにもあらんかし。らぬこそ、ねたけれ。をこなりとるらん。"と、やすからずおぼせど、"わがおほんとがあることはあへなん。ふたはんには、をんなおほんためこそ、いとほしけれ。"
364.4.2317292 など(おぼ)して、(いろ)にも()だしたまはず。いと何心(なにごころ)なう物語(ものがたり)して(わら)ひたまへるまみ、(くち)つきのうつくしきも、「心知(こころし)らざらむ(ひと)はいかがあらむ。なほ、いとよく似通(にかよ)ひたりけり」と()たまふに、「(おや)たちの、()だにあれかしと、()いたまふらむにも、え()せず、人知(ひとし)れずはかなき形見(かたみ)ばかりをとどめ()きて、さばかり(おも)()がり、およすけたりし()を、(こころ)もて(うしな)ひつるよ」 などおぼして、いろにもだしたまはず。いとなにごころなうものがたりしてわらひたまへるまみ、くちつきのうつくしきも、"こころしらざらんひとはいかがあらん。なほ、いとよくにかよひたりけり。"とたまふに、"おやたちの、だにあれかしと、いたまふらんにも、えせず、ひとしれずはかなきかたみばかりをとどめきて、さばかりおもがり、およすけたりしを、こころもてうしなひつるよ。"
364.4.3318293 と、あはれに()しければ、めざましと(おも)(こころ)もひき(かへ)し、うち()かれたまひぬ。 と、あはれにしければ、めざましとおもこころもひきかへし、うちかれたまひぬ。
364.4.4319294 (ひと)びとすべり(かく)れたるほどに、(みや)(おほん)もとに()りたまひて、 ひとびとすべりかくれたるほどに、みやおほんもとにりたまひて、
364.4.5320295 「この(ひと)をば、いかが()たまふや。かかる(ひと)()てて、(そむ)()てたまひぬべき()にやありける。あな、心憂(こころう) "このひとをば、いかがたまふや。かかるひとてて、そむてたまひぬべきにやありける。あな、こころう。"
364.4.6321296 と、おどろかしきこえたまへば、(かほ)うち(あか)めておはす。 と、おどろかしきこえたまへば、かほうちあかめておはす。
364.4.7322297 ()()にか(たね)()きしと人問(ひとと)はば<BR/>いかが岩根(いはね)(まつ)(こた)へむ "〔にかたねきしとひととはば<BR/>いかがいはねまつこたへん
364.4.8323298 あはれなり」 あはれなり。"
364.4.9324299 など、(しの)びて()こえたまふに、(おほん)いらへもなうて、ひれふしたまへり。ことわりと(おぼ)せば、しひても()こえたまはず。 など、しのびてこえたまふに、おほんいらへもなうて、ひれふしたまへり。ことわりとおぼせば、しひてもこえたまはず。
364.4.10325300 「いかに(おぼ)すらむ。もの(ふか)うなどはおはせねど、いかでかはただには」 "いかにおぼすらん。ものふかうなどはおはせねど、いかでかはただには。"
364.4.11326301 と、()(はか)りきこえたまふも、いと心苦(くる)しうなむ。 と、はかりきこえたまふも、いとくるしうなん。
364.5327302第五段 夕霧、事の真相に関心
364.5.1328303 大将(だいしゃう)(きみ)は、かの(こころ)(あま)りて、ほのめかし()でたりしを、 だいしゃうきみは、かのこころあまりて、ほのめかしでたりしを、
364.5.2329304 「いかなることにかありけむ。すこしものおぼえたるさまならましかば、さばかりうち()でそめたりしに、いとようけしきは()てましを。いふかひなきとぢめにて、折悪(をりあ)しういぶせくて、あはれにもありしかな」 "いかなることにかありけん。すこしものおぼえたるさまならましかば、さばかりうちでそめたりしに、いとようけしきはてましを。いふかひなきとぢめにて、をりあしういぶせくて、あはれにもありしかな。"
364.5.3330305 と、面影忘(おもかげわす)れがたうて、兄弟(はらから)(きみ)たちよりも、しひて(かな)しとおぼえたまひけり。 と、おもかげわすれがたうて、はらからきみたちよりも、しひてかなしとおぼえたまひけり。
364.5.4331306 女宮(をんなみや)のかく()(そむ)きたまへるありさま、おどろおどろしき御悩(おほんなや)みにもあらで、すがやかに(おぼ)()ちけるほどよ。また、さりとも、(ゆる)しきこえたまふべきことかは。 "をんなみやのかくそむきたまへるありさま、おどろおどろしきおほんなやみにもあらで、すがやかにおぼちけるほどよ。また、さりとも、ゆるしきこえたまふべきことかは。
364.5.5332307 二条(にでう)(うへ)の、さばかり(かぎ)りにて、()()(まう)したまふと()きしをば、いみじきことに(おぼ)して、つひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを」 にでううへの、さばかりかぎりにて、まうしたまふときしをば、いみじきことにおぼして、つひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを。"
364.5.6333308 など、()(あつ)めて(おも)ひくだくに、 など、あつめておもひくだくに、
364.5.7334309 「なほ、(むかし)より()えず()ゆる(こころ)ばへ、え(しの)ばぬ折々(をりをり)ありきかし。いとようもて(しづ)めたるうはべは、(ひと)よりけに用意(ようい)あり、のどかに、(なに)ごとをこの(ひと)(こころ)のうちに(おも)ふらむと、()(ひと)(くる)しきまでありしかど、すこし(よわ)きところつきて、なよび()ぎたりしけぞかし。 "なほ、むかしよりえずゆるこころばへ、えしのばぬをりをりありきかし。いとようもてしづめたるうはべは、ひとよりけによういあり、のどかに、なにごとをこのひとこころのうちにおもふらんと、ひとくるしきまでありしかど、すこしよわきところつきて、なよびぎたりしけぞかし。
364.5.8335310 いみじうとも、さるまじきことに(こころ)(みだ)りて、かくしも()()ふべきことにやはありける。(ひと)のためにもいとほしう、わが()はいたづらにやなすべき。さるべき(むかし)(ちぎ)りといひながら、いと軽々(かるがる)しう、あぢきなきことなりかし」 いみじうとも、さるまじきことにこころみだりて、かくしもふべきことにやはありける。ひとのためにもいとほしう、わがはいたづらにやなすべき。さるべきむかしちぎりといひながら、いとかるがるしう、あぢきなきことなりかし。"
364.5.9336311 など、心一(こころひと)つに(おも)へど、女君(をんなぎみ)にだに()こえ()でたまはず。さるべきついでなくて、(ゐん)にもまだえ(まう)したまはざりけり。さるは、かかることをなむかすめし、と(まう)()でて、()けしきも()まほしかりけり。 など、こころひとつにおもへど、をんなぎみにだにこえでたまはず。さるべきついでなくて、ゐんにもまだえまうしたまはざりけり。さるは、かかることをなんかすめし、とまうでて、けしきもまほしかりけり。
364.5.10337312 父大臣(ちちおとど)母北(ははきた)(かた)は、(なみだ)のいとまなく(おぼ)(しづ)みて、はかなく()ぐる日数(ひかず)をも()りたまはず、(おほん)わざの法服(ほふぶく)御装束(おほんさうぞく)(なに)くれのいそぎをも、(きみ)たち、御方々(おほんかたがた)、とりどりになむ、せさせたまひける。 ちちおとどははきたかたは、なみだのいとまなくおぼしづみて、はかなくぐるひかずをもりたまはず、おほんわざのほふぶくおほんさうぞくなにくれのいそぎをも、きみたち、おほんかたがた、とりどりになん、せさせたまひける。
364.5.11338313 経仏(きゃうほとけ)のおきてなども、右大弁(うだいべん)(きみ)せさせたまふ。七日七日(なぬかなぬか)御誦経(みずきゃう)などを、(ひと)()こえおどろかすにも、 きゃうほとけのおきてなども、うだいべんきみせさせたまふ。なぬかなぬかみずきゃうなどを、ひとこえおどろかすにも、
364.5.12339314 (われ)にな()かせそ。かくいみじと(おも)(まど)ふに、なかなか道妨(みちさまた)げにもこそ」 "われになかせそ。かくいみじとおもまどふに、なかなかみちさまたげにもこそ。"
364.5.13340315 とて、()きやうに(おぼ)()れたり。 とて、きやうにおぼれたり。
365341316第五章 夕霧の物語 柏木哀惜
365.1342317第一段 夕霧、一条宮邸を訪問
365.1.1343318 一条(いちでう)(みや)には、まして、おぼつかなうて(わか)れたまひにし(うら)みさへ()ひて、()ごろ()るままに、(ひろ)(みや)(うち)人気少(ひとけすく)なう心細(こころぼそ)げにて、(した)しく使(つか)()らしたまひし(ひと)は、なほ(まゐ)(とぶ)らひきこゆ。 いちでうみやには、まして、おぼつかなうてわかれたまひにしうらみさへひて、ごろるままに、ひろみやうちひとけすくなうこころぼそげにて、したしくつからしたまひしひとは、なほまゐとぶらひきこゆ。
365.1.2344319 (この)みたまひし(たか)(むま)など、その(かた)(あづか)りどもも、(みな)つくところなう(おも)()じて、かすかに()()るを()たまふも、ことに()れてあはれは()きぬものになむありける。もて使(つか)ひたまひし御調度(おほんでうど)ども、(つね)()きたまひし琵琶(びは)和琴(わごん)などの()()(はな)ちやつされて、()()てぬも、いと(むも)れいたきわざなりや。 このみたまひしたかむまなど、そのかたあづかりどもも、みなつくところなうおもじて、かすかにるをたまふも、ことにれてあはれはきぬものになんありける。もてつかひたまひしおほんでうどども、つねきたまひしびはわごんなどのはなちやつされて、てぬも、いとむもれいたきわざなりや。
365.1.3345320 御前(おまへ)木立(こだち)いたう(けぶ)りて、(はな)(とき)(わす)れぬけしきなるを(なが)めつつ、もの(がな)しく、さぶらふ(ひと)びとも、鈍色(にびいろ)にやつれつつ、(さび)しうつれづれなる(ひる)(かた)前駆(さき)はなやかに()(おと)して、ここに()まりぬる(ひと)あり。 おまへこだちいたうけぶりて、はなときわすれぬけしきなるをながめつつ、ものがなしく、さぶらふひとびとも、にびいろにやつれつつ、さびしうつれづれなるひるかたさきはなやかにおとして、ここにまりぬるひとあり。
365.1.4346321 「あはれ、故殿(ことの)(おほん)けはひとこそ、うち(わす)れては(おも)ひつれ」 "あはれ、ことのおほんけはひとこそ、うちわすれてはおもひつれ。"
365.1.5347322 とて、()くもあり。大将殿(だいしゃうどの)のおはしたるなりけり。御消息聞(おほんせうそこき)こえ()れたまへり。(れい)(べん)(きみ)宰相(さいしゃう)などのおはしたると(おぼ)しつるを、いと()づかしげにきよらなるもてなしにて()りたまへり。 とて、くもあり。だいしゃうどののおはしたるなりけり。おほんせうそこきこえれたまへり。れいべんきみさいしゃうなどのおはしたるとおぼしつるを、いとづかしげにきよらなるもてなしにてりたまへり。
365.1.6348323 母屋(もや)(ひさし)御座(おまし)よそひて()れたてまつる。おしなべたるやうに、(ひと)びとのあへしらひきこえむは、かたじけなきさまのしたまへれば、御息所(みやすんどころ)対面(たいめん)したまへる。 もやひさしおましよそひてれたてまつる。おしなべたるやうに、ひとびとのあへしらひきこえんは、かたじけなきさまのしたまへれば、みやすんどころたいめんしたまへる。
365.1.7349324 「いみじきことを(おも)ひたまへ(なげ)(こころ)は、さるべき(ひと)びとにも()えてはべれど、(かぎ)りあれば、()こえさせやる(かた)なうて、()(つね)になりはべりにけり。(いま)はのほどにも、のたまひ()くことはべりしかば、おろかならずなむ。 "いみじきことをおもひたまへなげこころは、さるべきひとびとにもえてはべれど、かぎりあれば、こえさせやるかたなうて、つねになりはべりにけり。いまはのほどにも、のたまひくことはべりしかば、おろかならずなん。
365.1.8350325 (たれ)ものどめがたき()なれど、(おく)先立(さきだ)つほどのけぢめには、(おも)ひたまへ(およ)ばむに(したが)ひて、(ふか)(こころ)のほどをも御覧(ごらん)ぜられにしがなとなむ。神事(かみわざ)などのしげきころほひ、(わたくし)(こころ)ざしにまかせて、つくづくと()もりゐはべらむも、(れい)ならぬことなりければ、()ちながらはた、なかなかに()かず(おも)ひたまへらるべうてなむ、()ごろを()ぐしはべりにける。 たれものどめがたきなれど、おくさきだつほどのけぢめには、おもひたまへおよばんにしたがひて、ふかこころのほどをもごらんぜられにしがなとなん。かみわざなどのしげきころほひ、わたくしこころざしにまかせて、つくづくともりゐはべらんも、れいならぬことなりければ、ちながらはた、なかなかにかずおもひたまへらるべうてなん、ごろをぐしはべりにける。
365.1.9351326 大臣(おとど)などの(こころ)(みだ)りたまふさま、見聞(みき)きはべるにつけても、親子(おやこ)(みち)(やみ)をばさるものにて、かかる御仲(おほんなか)らひの、(ふか)(おも)ひとどめたまひけむほどを、()(はか)りきこえさするに、いと()きせずなむ」 おとどなどのこころみだりたまふさま、みききはべるにつけても、おやこみちやみをばさるものにて、かかるおほんなからひの、ふかおもひとどめたまひけんほどを、はかりきこえさするに、いときせずなん。"
365.1.10352327 とて、しばしばおし(のご)ひ、(はな)うちかみたまふ。あざやかに気高(けだか)きものから、なつかしうなまめいたり。 とて、しばしばおしのごひ、はなうちかみたまふ。あざやかにけだかきものから、なつかしうなまめいたり。
365.2353328第二段 母御息所の嘆き
365.2.1354329 御息所(みやすんどころ)鼻声(はなごゑ)になりたまひて、 みやすんどころはなごゑになりたまひて、
365.2.2355330 「あはれなることは、その(つね)なき()のさがにこそは。いみじとても、またたぐひなきことにやはと、年積(としつ)もりぬる(ひと)は、しひて心強(こころづよ)うさましはべるを、さらに(おぼ)()りたるさまの、いとゆゆしきまで、しばしも()(おく)れたまふまじきやうに()えはべれば、すべていと心憂(こころう)かりける()の、(いま)までながらへはべりて、かくかたがたにはかなき()(すゑ)のありさまを()たまへ()ぐすべきにやと、いと静心(しづこころ)なくなむ。 "あはれなることは、そのつねなきのさがにこそは。いみじとても、またたぐひなきことにやはと、としつもりぬるひとは、しひてこころづようさましはべるを、さらにおぼりたるさまの、いとゆゆしきまで、しばしもおくれたまふまじきやうにえはべれば、すべていとこころうかりけるの、いままでながらへはべりて、かくかたがたにはかなきすゑのありさまをたまへぐすべきにやと、いとしづこころなくなん。
365.2.3356331 おのづから(ちか)御仲(おほんなか)らひにて、()(およ)ばせたまふやうもはべりけむ。(はじ)めつ(かた)より、をさをさうけひききこえざりし(おほん)ことを、大臣(おとど)御心(みこころ)むけも心苦(こころぐる)しう、(ゐん)にもよろしきやうに(おぼ)(ゆる)いたる()けしきなどのはべしかば、さらばみづからの(こころ)おきての(およ)ばぬなりけりと、(おも)ひたまへなしてなむ、()たてまつりつるを、かく(ゆめ)のやうなることを()たまふるに、(おも)ひたまへ()はすれば、みづからの(こころ)のほどなむ、(おな)じうは(つよ)うもあらがひきこえましを、と(おも)ひはべるに、なほいと(くや)しう。それは、かやうにしも(おも)()りはべらざりきかし。 おのづからちかおほんなからひにて、およばせたまふやうもはべりけん。はじめつかたより、をさをさうけひききこえざりしおほんことを、おとどみこころむけもこころぐるしう、ゐんにもよろしきやうにおぼゆるいたるけしきなどのはべしかば、さらばみづからのこころおきてのおよばぬなりけりと、おもひたまへなしてなん、たてまつりつるを、かくゆめのやうなることをたまふるに、おもひたまへはすれば、みづからのこころのほどなん、おなじうはつようもあらがひきこえましを、とおもひはべるに、なほいとくやしう。それは、かやうにしもおもりはべらざりきかし。
365.2.4357332 皇女(みこ)たちは、おぼろけのことならで、()しくも()くも、かやうに()づきたまふことは、え(こころ)にくからぬことなりと、(ふる)めき(ごころ)には(おも)ひはべしを、いづかたにもよらず、中空(なかぞら)()御宿世(おほんすくせ)なりければ、(なに)かは、かかるついでに(けぶり)にも(まぎ)れたまひなむは、この御身(おほんみ)のための人聞(ひとぎ)きなどは、ことに口惜(くちを)しかるまじけれど、さりとても、しかすくよかに、え(おも)(しづ)むまじう、(かな)しう()たてまつりはべるに、いとうれしう、(あさ)からぬ御訪(おほんとぶ)らひのたびたびになりはべめるを、()(がた)うもと()こえはべるも、さらば、かの御契(おほんちぎ)りありけるにこそはと、(おも)ふやうにしも()えざりし御心(みこころ)ばへなれど、(いま)はとて、これかれにつけおきたまひける御遺言(おほんゆいごん)の、あはれなるになむ、()きにもうれしき()はまじりはべりける」 みこたちは、おぼろけのことならで、しくもくも、かやうにづきたまふことは、えこころにくからぬことなりと、ふるめきごころにはおもひはべしを、いづかたにもよらず、なかぞらおほんすくせなりければ、なにかは、かかるついでにけぶりにもまぎれたまひなんは、このおほんみのためのひとぎきなどは、ことにくちをしかるまじけれど、さりとても、しかすくよかに、えおもしづむまじう、かなしうたてまつりはべるに、いとうれしう、あさからぬおほんとぶらひのたびたびになりはべめるを、がたうもとこえはべるも、さらば、かのおほんちぎりありけるにこそはと、おもふやうにしもえざりしみこころばへなれど、いまはとて、これかれにつけおきたまひけるおほんゆいごんの、あはれなるになん、きにもうれしきはまじりはべりける。"
365.2.5358333 とて、いといたう()いたまふけはひなり。 とて、いといたういたまふけはひなり。
365.3359334第三段 夕霧、御息所と和歌を詠み交わす
365.3.1360335 大将(だいしゃう)も、とみにえためらひたまはず。 だいしゃうも、とみにえためらひたまはず。
365.3.2361336 「あやしう、いとこよなくおよすけたまへりし(ひと)の、かかるべうてや、この()三年(さんねん)のこなたなむ、いたうしめりて、もの心細(こころぼそ)げに()えたまひしかば、あまり()のことわりを(おも)()り、もの(ふか)うなりぬる(ひと)の、()()ぎて、かかる(ためし)(こころ)うつくしからず、かへりては、あざやかなる(かた)のおぼえ(うす)らぐものなりとなむ、(つね)にはかばかしからぬ(こころ)(いさ)めきこえしかば、心浅(こころあさ)しと(おも)ひたまへりし。よろづよりも、(ひと)にまさりて、げに、かの(おぼ)(なげ)くらむ御心(みこころ)(うち)の、かたじけなけれど、いと心苦(こころぐる)しうもはべるかな」 "あやしう、いとこよなくおよすけたまへりしひとの、かかるべうてや、このさんねんのこなたなん、いたうしめりて、ものこころぼそげにえたまひしかば、あまりのことわりをおもり、ものふかうなりぬるひとの、ぎて、かかるためしこころうつくしからず、かへりては、あざやかなるかたのおぼえうすらぐものなりとなん、つねにはかばかしからぬこころいさめきこえしかば、こころあさしとおもひたまへりし。よろづよりも、ひとにまさりて、げに、かのおぼなげくらんみこころうちの、かたじけなけれど、いとこころぐるしうもはべるかな。"
365.3.3362337 など、なつかしうこまやかに()こえたまひて、ややほど()てぞ()でたまふ。 など、なつかしうこまやかにこえたまひて、ややほどてぞでたまふ。
365.3.4363338 かの(きみ)は、()六年(ろくねん)のほどのこのかみなりしかど、なほ、いと(わか)やかに、なまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとすくよかに重々(おもおも)しく、男々(をを)しきけはひして、(かほ)のみぞいと(わか)うきよらなること、(ひと)にすぐれたまへる。(わか)(ひと)びとは、もの(がな)しさもすこし(まぎ)れて見出(みい)だしたてまつる。 かのきみは、ろくねんのほどのこのかみなりしかど、なほ、いとわかやかに、なまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとすくよかにおもおもしく、ををしきけはひして、かほのみぞいとわかうきよらなること、ひとにすぐれたまへる。わかひとびとは、ものがなしさもすこしまぎれてみいだしたてまつる。
365.3.5364339 御前近(おまへちか)(さくら)のいとおもしろきを、「今年(ことし)ばかりは」と、うちおぼゆるも、いまいましき(すぢ)なりければ、 おまへちかさくらのいとおもしろきを、"ことしばかりは〕と、うちおぼゆるも、いまいましきすぢなりければ、
365.3.6365340 「あひ()むことは」 "〔あひんことは〕
365.3.7366341 (くち)ずさびて、 くちずさびて、
365.3.8367342 (とき)しあれば()はらぬ(いろ)(にほ)ひけり<BR/>片枝枯(かたえか)れにし宿(やど)(さくら)も」 "〔ときしあればはらぬいろにほひけり<BR/>かたえかれにしやどさくらも〕
365.3.9368343 わざとならず()じなして()ちたまふに、いととう、 わざとならずじなしてちたまふに、いととう、
365.3.10369344 「この(はる)(やなぎ)()にぞ(たま)はぬく<BR/>()()(はな)行方知(ゆくへし)らねば」 "〔このはるやなぎにぞたまはぬく<BR/>はなゆくへしらねば〕
365.3.11370345 ()こえたまふ。いと(ふか)きよしにはあらねど、(いま)めかしう、かどありとは()はれたまひし更衣(かうい)なりけり。「げに、めやすきほどの用意(ようい)なめり」と()たまふ。 こえたまふ。いとふかきよしにはあらねど、いまめかしう、かどありとははれたまひしかういなりけり。"げに、めやすきほどのよういなめり"とたまふ。
365.4371346第四段 夕霧、太政大臣邸を訪問
365.4.1372347 致仕(ちじ)大殿(おほとの)に、やがて(まゐ)りたまへれば、(きみ)たちあまたものしたまひけり。 ちじおほとのに、やがてまゐりたまへれば、きみたちあまたものしたまひけり。
365.4.2373348 「こなたに()らせたまへ」 "こなたにらせたまへ。"
365.4.3374349 とあれば、大臣(おとど)御出居(おほんいでゐ)(かた)()りたまへり。ためらひて対面(たいめん)したまへり。()りがたうきよげなる御容貌(おほんかたち)、いたう()(おとろ)へて、御髭(おほんひげ)などもとりつくろひたまはねば、しげりて、(おや)(けう)よりも、けにやつれたまへり。()たてまつりたまふより、いと(しの)びがたければ、「あまりにをさまらず(みだ)()つる(なみだ)こそ、はしたなけれ」と(おも)へば、せめてぞもて(かく)したまふ。 とあれば、おとどおほんいでゐかたりたまへり。ためらひてたいめんしたまへり。りがたうきよげなるおほんかたち、いたうおとろへて、おほんひげなどもとりつくろひたまはねば、しげりて、おやけうよりも、けにやつれたまへり。たてまつりたまふより、いとしのびがたければ、"あまりにをさまらずみだつるなみだこそ、はしたなけれ。"とおもへば、せめてぞもてかくしたまふ。
365.4.4375350 大臣(おとど)も、「()()きて御仲(おほんなか)よくものしたまひしを」と()たまふに、ただ()りに()()ちて、えとどめたまはず、()きせぬ御事(おほんこと)どもを()こえ()はしたまふ。 おとども、"きておほんなかよくものしたまひしを。"とたまふに、ただりにちて、えとどめたまはず、きせぬおほんことどもをこえはしたまふ。
365.4.5376351 一条(いちでう)(みや)()でたりつるありさまなど()こえたまふ。いとどしう、春雨(はるさめ)かと()ゆるまで、(のき)(しづく)(こと)ならず、()らし()へたまふ。畳紙(たたんがみ)に、かの「(やなぎ)()にぞ」とありつるを、()いたまへるをたてまつりたまへば、「()()えずや」と、おし(しぼ)りつつ()たまふ。 いちでうみやでたりつるありさまなどこえたまふ。いとどしう、はるさめかとゆるまで、のきしづくことならず、らしへたまふ。たたんがみに、かの"やなぎにぞ〕とありつるを、いたまへるをたてまつりたまへば、"えずや"と、おししぼりつつたまふ。
365.4.6377352 うちひそみつつぞ()たまふ(おほん)さま、(れい)心強(こころづよ)うあざやかに、(ほこ)りかなる()けしき名残(なごり)なく、人悪(ひとわ)ろし。さるは、(こと)なることなかめれど、この「(たま)はぬく」とある(ふし)の、げにと(おぼ)さるるに、心乱(こころみだ)れて、(ひさ)しうえためらひたまはず。 うちひそみつつぞたまふおほんさま、れいこころづようあざやかに、ほこりかなるけしきなごりなく、ひとわろし。さるは、ことなることなかめれど、この"たまはぬく〕とあるふしの、げにとおぼさるるに、こころみだれて、ひさしうえためらひたまはず。
365.4.7378353 (きみ)御母君(おほんははぎみ)(かく)れたまへりし(あき)なむ、()(かな)しきことの(きは)にはおぼえはべりしを、(をんな)(かぎ)りありて、()人少(ひとすく)なう、とあることもかかることもあらはならねば、(かな)しびも(かく)ろへてなむありける。 "きみおほんははぎみかくれたまへりしあきなん、かなしきことのきはにはおぼえはべりしを、をんなかぎりありて、ひとすくなう、とあることもかかることもあらはならねば、かなしびもかくろへてなんありける。
365.4.8379354 はかばかしからねど、朝廷(おほやけ)()てたまはず、やうやう(ひと)となり、官位(つかさくらゐ)につけて、あひ(たの)(ひと)びと、おのづから次々(つぎつぎ)(おほ)うなりなどして、おどろき口惜(くちを)しがるも、(るい)()れてあるべし。 はかばかしからねど、おほやけてたまはず、やうやうひととなり、つかさくらゐにつけて、あひたのひとびと、おのづからつぎつぎおほうなりなどして、おどろきくちをしがるも、るいれてあるべし。
365.4.9380355 かう(ふか)(おも)ひは、その大方(おほかた)()のおぼえも、官位(つかさくらゐ)(おも)ほえず。ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、()へがたく(こひ)しかりけれ。(なに)ばかりのことにてか、(おも)ひさますべからむ」 かうふかおもひは、そのおほかたのおぼえも、つかさくらゐおもほえず。ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、へがたくこひしかりけれ。なにばかりのことにてか、おもひさますべからん。"
365.4.10381356 と、(そら)(あふ)ぎて(なが)めたまふ。 と、そらあふぎてながめたまふ。
365.4.11382357 夕暮(ゆふぐれ)(くも)のけしき、鈍色(にびいろ)(かす)みて、(はな)()りたる(こずゑ)どもをも、今日(けふ)()とどめたまふ。この御畳紙(おほんたたんがみ)に、 ゆふぐれくものけしき、にびいろかすみて、はなりたるこずゑどもをも、けふとどめたまふ。このおほんたたんがみに、
365.4.12383358 ()(した)(しづく)()れてさかさまに<BR/>(かすみ)衣着(ころもき)たる(はる)かな」 "〔したしづくれてさかさまに<BR/>かすみころもきたるはるかな〕
365.4.13384359 大将(だいしゃう)(きみ) だいしゃうきみ
365.4.14385360 ()(ひと)(おも)はざりけむうち()てて<BR/>(ゆふ)べの霞君着(かすみきみき)たれとは」 "〔ひとおもはざりけんうちてて<BR/>ゆふべのかすみきみきたれとは〕
365.4.15386361 (べん)(きみ) べんきみ
365.4.16387362 (うら)めしや(かすみ)衣誰(ころもた)()よと<BR/>(はる)よりさきに(はな)()りけむ」 "〔うらめしやかすみころもたよと<BR/>はるよりさきにはなりけん〕
365.4.17388363 (おほん)わざなど、()(つね)ならず、いかめしうなむありける。大将殿(だいしゃうどの)(きた)(かた)をばさるものにて、殿(との)(こころ)ことに、誦経(ずきゃう)なども、あはれに(ふか)(こころ)ばへを(くは)へたまふ。 おほんわざなど、つねならず、いかめしうなんありける。だいしゃうどのきたかたをばさるものにて、とのこころことに、ずきゃうなども、あはれにふかこころばへをくはへたまふ。
365.5389364第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問
365.5.1390365 かの一条(いちでう)(みや)にも、(つね)(とぶ)らひきこえたまふ。卯月(うづき)ばかりの()(はな)は、そこはかとなう心地(ここち)よげに、(ひと)(いろ)なる四方(よも)(こずゑ)もをかしう()えわたるを、もの(おも)宿(やど)は、よろづのことにつけて(しづ)かに心細(こころぼそ)う、()らしかねたまふに、(れい)(わた)りたまへり。 かのいちでうみやにも、つねとぶらひきこえたまふ。うづきばかりのはなは、そこはかとなうここちよげに、ひといろなるよもこずゑもをかしうえわたるを、ものおもやどは、よろづのことにつけてしづかにこころぼそう、らしかねたまふに、れいわたりたまへり。
365.5.2391366 (には)もやうやう(あを)()づる若草見(わかくさみ)えわたり、ここかしこの砂子薄(すなごうす)きものの(かく)れの(かた)に、()所得顔(ぎもところえがほ)なり。前栽(せんさい)心入(こころい)れてつくろひたまひしも、(こころ)にまかせて(しげ)りあひ、一村薄(ひとむらすすき)(たの)もしげに(ひろ)ごりて、(むし)音添(ねそ)へむ秋思(あきおも)ひやらるるより、いとものあはれに(つゆ)けくて、()()りたまふ。 にはもやうやうあをづるわかくさみえわたり、ここかしこのすなごうすきもののかくれのかたに、ぎもところえがほなり。せんさいこころいれてつくろひたまひしも、こころにまかせてしげりあひ、ひとむらすすきたのもしげにひろごりて、むしねそへんあきおもひやらるるより、いとものあはれにつゆけくて、りたまふ。
365.5.3392367 伊予簾(いよす)かけ(わた)して、鈍色(にびいろ)几帳(きちゃう)衣更(ころもが)へしたる透影(すきかげ)(すず)しげに()えて、よき童女(わらは)の、こまやかに()ばめる汗衫(かざみ)のつま、(かしら)つきなどほの()えたる、をかしけれど、なほ()おどろかるる(いろ)なりかし。 いよすかけわたして、にびいろきちゃうころもがへしたるすきかげすずしげにえて、よきわらはの、こまやかにばめるかざみのつま、かしらつきなどほのえたる、をかしけれど、なほおどろかるるいろなりかし。
365.5.4393369 今日(けふ)簀子(すのこ)にゐたまへば、(しとね)さし()でたり。「いと(かる)らかなる御座(おまし)なり」とて、(れい)の、御息所(みやすどころ)おどろかしきこゆれど、このごろ、(なや)ましとて()()したまへり。とかく()こえ(まぎ)らはすほど、御前(おまへ)木立(こだち)ども、(おも)ふことなげなるけしきを()たまふも、いとものあはれなり。 けふすのこにゐたまへば、しとねさしでたり。"いとかるらかなるおましなり。"とて、れいの、みやすどころおどろかしきこゆれど、このごろ、なやましとてしたまへり。とかくこえまぎらはすほど、おまへこだちども、おもふことなげなるけしきをたまふも、いとものあはれなり。
365.5.5394370 柏木(かしはぎ)(かへで)との、ものよりけに(わか)やかなる(いろ)して、(えだ)さし()はしたるを、 かしはぎかへでとの、ものよりけにわかやかなるいろして、えださしはしたるを、
365.5.6395371 「いかなる(ちぎ)りにか、末逢(すゑあ)へる(たの)もしさよ」 "いかなるちぎりにか、すゑあへるたのもしさよ。"
365.5.7396372 などのたまひて、(しの)びやかにさし()りて、 などのたまひて、しのびやかにさしりて、
365.5.8397373 「ことならば()らしの(えだ)にならさなむ<BR/>葉守(はもり)(かみ)(ゆる)しありきと "〔ことならばらしのえだにならさなん<BR/>はもりかみゆるしありきと
365.5.9398374 御簾(みす)()(へだ)てあるほどこそ、(うら)めしけれ」 みすへだてあるほどこそ、うらめしけれ。"
365.5.10399375 とて、長押(なげし)()りゐたまへり。 とて、なげしりゐたまへり。
365.5.11400376 「なよび姿(すがた)はた、いといたうたをやぎけるをや」 "なよびすがたはた、いといたうたをやぎけるをや。"
365.5.12401377 と、これかれつきしろふ。この(おほん)あへしらひきこゆる少将(せうしゃう)(きみ)といふ(ひと)して、 と、これかれつきしろふ。このおほんあへしらひきこゆるせうしゃうきみといふひとして、
365.5.13402378 柏木(かしはぎ)葉守(はもり)(かみ)はまさずとも<BR/>(ひと)ならすべき宿(やど)(こずゑ) "〔かしはぎはもりかみはまさずとも<BR/>ひとならすべきやどこずゑ
365.5.14403379 うちつけなる御言(おほんこと)()になむ、(あさ)(おも)ひたまへなりぬる」 うちつけなるおほんことになん、あさおもひたまへなりぬる。"
365.5.15404380 ()こゆれば、げにと(おぼ)すに、すこしほほ()みたまひぬ。 こゆれば、げにとおぼすに、すこしほほみたまひぬ。
365.6405381第六段 夕霧、御息所と対話
365.6.1406382 御息所(みやすんどころ)ゐざり()でたまふけはひすれば、やをらゐ(なほ)りたまひぬ。 みやすんどころゐざりでたまふけはひすれば、やをらゐなほりたまひぬ。
365.6.2407383 ()()(なか)を、(おも)ひたまへ(しづ)月日(つきひ)()もるけぢめにや、(みだ)心地(ごこち)も、あやしうほれぼれしうて()ぐしはべるを、かくたびたび(かさ)ねさせたまふ御訪(おほんとぶ)らひの、いとかたじけなきに、(おも)ひたまへ()こしてなむ」 "なかを、おもひたまへしづつきひもるけぢめにや、みだごこちも、あやしうほれぼれしうてぐしはべるを、かくたびたびかさねさせたまふおほんとぶらひの、いとかたじけなきに、おもひたまへこしてなん。"
365.6.3408384 とて、げに(なや)ましげなる(おほん)けはひなり。 とて、げになやましげなるおほんけはひなり。
365.6.4409385 (おも)ほし(なげ)くは、()のことわりなれど、またいとさのみはいかが。よろづのこと、さるべきにこそはべめれ。さすがに(かぎ)りある()になむ」 "おもほしなげくは、のことわりなれど、またいとさのみはいかが。よろづのこと、さるべきにこそはべめれ。さすがにかぎりあるになん。"
365.6.5410386 と、(なぐさ)めきこえたまふ。 と、なぐさめきこえたまふ。
365.6.6411387 「この(みや)こそ、()きしよりは(こころ)奥見(おくみ)えたまへ、あはれ、げに、いかに人笑(ひとわら)はれなることを()()へて(おぼ)すらむ」 "このみやこそ、きしよりはこころおくみえたまへ、あはれ、げに、いかにひとわらはれなることをへておぼすらん。"
365.6.7412388 (おも)ふもただならねば、いたう(こころ)とどめて、(おほん)ありさまも()ひきこえたまひけり。 おもふもただならねば、いたうこころとどめて、おほんありさまもひきこえたまひけり。
365.6.8413389 容貌(かたち)ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、いと見苦(みぐる)しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、()()により(ひと)をも(おも)()き、また、さるまじきに(こころ)をも(まど)はすべきぞ。さま()しや。ただ、(こころ)ばせのみこそ、()ひもてゆかむには、やむごとなかるべけれ」と(おも)ほす。 "かたちぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、いとみぐるしうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、によりひとをもおもき、また、さるまじきにこころをもまどはすべきぞ。さましや。ただ、こころばせのみこそ、ひもてゆかんには、やんごとなかるべけれ。"とおもほす。
365.6.9414390 (いま)はなほ(むかし)(おも)ほしなずらへて、(うと)からずもてなさせたまへ」 "いまはなほむかしおもほしなずらへて、うとからずもてなさせたまへ。"
365.6.10415391 など、わざと懸想(けさう)びてはあらねど、ねむごろにけしきばみて()こえたまふ。直衣姿(なほしすがた)いとあざやかにて、(たけ)だちものものしう、そぞろかにぞ()えたまひける。 など、わざとけさうびてはあらねど、ねんごろにけしきばみてこえたまふ。なほしすがたいとあざやかにて、たけだちものものしう、そぞろかにぞえたまひける。
365.6.11416392 「かの大殿(おとど)は、よろづのことなつかしうなまめき、あてに愛敬(あいぎゃう)づきたまへることの(なら)びなきなり」 "かのおとどは、よろづのことなつかしうなまめき、あてにあいぎゃうづきたまへることのならびなきなり。"
365.6.12417393 「これは、男々(をを)しうはなやかに、あなきよらと、ふと()えたまふにほひぞ、(ひと)()ぬや」 "これは、ををしうはなやかに、あなきよらと、ふとえたまふにほひぞ、ひとぬや。"
365.6.13418394 と、うちささめきて、 と、うちささめきて、
365.6.14419395 (おな)じうは、かやうにても()()りたまはましかば」 "おなじうは、かやうにてもりたまはましかば。"
365.6.15420396 など、(ひと)びと()ふめり。 など、ひとびとふめり。
365.6.16421397 右将軍(いうしゃうぐん)(つか)草初(くさはじ)めて(あを)し」 "〔いうしゃうぐんつかくさはじめてあをし〕
365.6.17422398 と、うち(くち)ずさびて、それもいと(ちか)()のことなれば、さまざまに(ちか)(とほ)う、心乱(こころみだ)るやうなりし()(なか)に、(たか)きも(くだ)れるも、()しみあたらしがらぬはなきも、むべむべしき(かた)をばさるものにて、あやしう(なさ)けを()てたる(ひと)にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人(おほやけびと)女房(にょうばう)などの年古(としふる)めきたるどもさへ、()(かな)しびきこゆる。まして、(うへ)には、御遊(おほんあそ)びなどの(をり)ごとにも、まづ(おぼ)()でてなむ、しのばせたまひける。 と、うちくちずさびて、それもいとちかのことなれば、さまざまにちかとほう、こころみだるやうなりしなかに、たかきもくだれるも、しみあたらしがらぬはなきも、むべむべしきかたをばさるものにて、あやしうなさけをてたるひとにぞものしたまひければ、さしもあるまじきおほやけびとにょうばうなどのとしふるめきたるどもさへ、かなしびきこゆる。まして、うへには、おほんあそびなどのをりごとにも、まづおぼでてなん、しのばせたまひける。
365.6.18423399 「あはれ、衛門督(ゑもんのかみ) "あはれ、ゑもんのかみ。"
365.6.19424400 といふ言種(ことぐさ)(なに)ごとにつけても()はぬ(ひと)なし。六条院(ろくでうのゐん)には、ましてあはれと(おぼ)()づること、月日(つきひ)()へて(おほ)かり。 といふことぐさなにごとにつけてもはぬひとなし。ろくでうのゐんには、ましてあはれとおぼづること、つきひへておほかり。
365.6.20425401 この若君(わかぎみ)を、御心一(おほんこころひと)つには形見(かたみ)()なしたまへど、(ひと)(おも)()らぬことなれば、いとかひなし。(あき)(かた)になれば、この(きみ)は、ゐざりなど。 このわかぎみを、おほんこころひとつにはかたみなしたまへど、ひとおもらぬことなれば、いとかひなし。あきかたになれば、このきみは、ゐざりなど。