帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
49 | 宿木 |
49 | 1 | 128 | 99 | 第一章 薫と匂宮の物語 女二の宮や六の君との結婚話 |
49 | 1.1 | 129 | 100 | 第一段 藤壺女御と女二の宮 |
49 | 1.1.1 | 130 | 101 |
そのころ、藤壺と聞こゆるは、故左大臣殿の女御になむおはしける。まだ春宮と聞こえさせし時、人より先に参りたまひにしかば、睦ましくあはれなる方の御思ひは、ことにものしたまふめれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて年経たまふに、中宮には、宮たちさへあまた、ここら大人びたまふめるに、さやうのこともすくなくて、ただ女宮一所をぞ持ちたてまつりたまへりける。 |
そのころ、ふぢつぼときこゆるは、こさだいじんどののにょうごになんおはしける。まだとうぐうときこえさせしとき、ひとよりさきにまゐりたまひにしかば、むつましくあはれなるかたのおほんおもひは、ことにものしたまふめれど、そのしるしとみゆるふしもなくてとしへたまふに、ちうぐうには、みやたちさへあまた、ここらおとなびたまふめるに、さやうのこともすくなくて、ただをんなみやひとところをぞもちたてまつりたまへりける。 |
49 | 1.1.2 | 131 | 102 |
わがいと口惜しく、人におされたてまつりぬる宿世、嘆かしくおぼゆる代はりに、「この宮をだに、いかで行く末の心も慰むばかりにて見たてまつらむ」と、かしづききこえたまふことおろかならず。御容貌もいとをかしくおはすれば、帝もらうたきものに思ひきこえさせたまへり。 |
わがいとくちをしく、ひとにおされたてまつりぬるすくせ、なげかしくおぼゆるかはりに、"このみやをだに、いかでゆくすゑのこころもなぐさむばかりにてみたてまつらん。"と、かしづききこえたまふことおろかならず。おほんかたちもいとをかしくおはすれば、みかどもらうたきものにおもひきこえさせたまへり。 |
49 | 1.1.3 | 132 | 103 |
女一の宮を、世にたぐひなきものにかしづききこえさせたまふに、おほかたの世のおぼえこそ及ぶべうもあらね、うちうちの御ありさまは、をさをさ劣らず。父大臣の御勢ひ、厳しかりし名残、いたく衰へねば、ことに心もとなきことなどなくて、さぶらふ人びとのなり姿よりはじめ、たゆみなく、時々につけつつ、調へ好み、今めかしくゆゑゆゑしきさまにもてなしたまへり。 |
をんないちのみやを、よにたぐひなきものにかしづききこえさせたまふに、おほかたのよのおぼえこそおよぶべうもあらね、うちうちのおほんありさまは、をさをさおとらず。ちちおとどのおほんいきほひ、いかめしかりしなごり、いたくおとろへねば、ことにこころもとなきことなどなくて、さぶらふひとびとのなりすがたよりはじめ、たゆみなく、ときどきにつけつつ、ととのへこのみ、いまめかしくゆゑゆゑしきさまにもてなしたまへり。 |
49 | 1.2 | 133 | 104 | 第二段 藤壺女御の死去と女二の宮の将来 |
49 | 1.2.1 | 134 | 105 |
十四になりたまふ年、御裳着せたてまつりたまはむとて、春よりうち始めて、異事なく思し急ぎて、何事もなべてならぬさまにと思しまうく。 |
じふしになりたまふとし、おほんもきせたてまつりたまはんとて、はるよりうちはじめて、ことことなくおぼしいそぎて、なにごともなべてならぬさまにとおぼしまうく。 |
49 | 1.2.2 | 135 | 106 |
いにしへより伝はりたりける宝物ども、この折にこそはと、探し出でつつ、いみじく営みたまふに、女御、夏ごろ、もののけにわづらひたまひて、いとはかなく亡せたまひぬ。言ふかひなく口惜しきことを、内裏にも思し嘆く。 |
いにしへよりつたはりたりけるたからものども、このをりにこそはと、さがしいでつつ、いみじくいとなみたまふに、にょうご、なつごろ、もののけにわづらひたまひて、いとはかなくうせたまひぬ。いふかひなくくちをしきことを、うちにもおぼしなげく。 |
49 | 1.2.3 | 136 | 107 |
心ばへ情け情けしく、なつかしきところおはしつる御方なれば、殿上人どもも、「こよなくさうざうしかるべきわざかな」と、惜しみきこゆ。おほかたさるまじき際の女官などまで、しのびきこえぬはなし。 |
こころばへなさけなさけしく、なつかしきところおはしつるおほんかたなれば、てんじゃうびとどもも、"こよなくさうざうしかるべきわざかな。"と、をしみきこゆ。おほかたさるまじききはのにょうかんなどまで、しのびきこえぬはなし。 |
49 | 1.2.4 | 137 | 108 |
宮は、まして若き御心地に、心細く悲しく思し入りたるを、聞こし召して、心苦しくあはれに思し召さるれば、御四十九日過ぐるままに、忍びて参らせたてまつらせたまへり。日々に、渡らせたまひつつ見たてまつらせたまふ。 |
みやは、ましてわかきみここちに、こころぼそくかなしくおぼしいりたるを、きこしめして、こころぐるしくあはれにおぼしめさるれば、おほんしじふくにちすぐるままに、しのびてまゐらせたてまつらせたまへり。ひびに、わたらせたまひつつみたてまつらせたまふ。 |
49 | 1.2.5 | 138 | 109 |
黒き御衣にやつれておはするさま、いとどらうたげにあてなるけしきまさりたまへり。心ざまもいとよく大人びたまひて、母女御よりも今すこしづしやかに、重りかなるところはまさりたまへるを、うしろやすくは見たてまつらせたまへど、まことには、御母方とても、後見と頼ませたまふべき、叔父などやうのはかばかしき人もなし。わづかに大蔵卿、修理大夫などいふは、女御にも異腹なりける。 |
くろきおほんぞにやつれておはするさま、いとどらうたげにあてなるけしきまさりたまへり。こころざまもいとよくおとなびたまひて、ははにょうごよりもいますこしづしやかに、おもりかなるところはまさりたまへるを、うしろやすくはみたてまつらせたまへど、まことには、おほんははかたとても、うしろみとたのませたまふべき、をぢなどやうのはかばかしきひともなし。わづかにおほくらきゃう、すりのかみなどいふは、にょうごにもことばらなりける。 |
49 | 1.2.6 | 139 | 110 |
ことに世のおぼえ重りかにもあらず、やむごとなからぬ人びとを頼もし人にておはせむに、「女は心苦しきこと多かりぬべきこそいとほしけれ」など、御心一つなるやうに思し扱ふも、やすからざりけり。 |
ことによのおぼえおもりかにもあらず、やんごとなからぬひとびとをたのもしびとにておはせんに、"をんなはこころぐるしきことおほかりぬべきこそいとほしけれ。"など、みこころひとつなるやうにおぼしあつかふも、やすからざりけり。 |
49 | 1.3 | 140 | 111 | 第三段 帝,女二の宮を薫に降嫁させようと考える |
49 | 1.3.1 | 141 | 112 |
御前の菊移ろひ果てて盛りなるころ、空のけしきのあはれにうちしぐるるにも、まづこの御方に渡らせたまひて、昔のことなど聞こえさせたまふに、御いらへなども、おほどかなるものから、いはけなからずうち聞こえさせたまふを、うつくしく思ひきこえさせたまふ。 |
おまへのきくうつろひはててさかりなるころ、そらのけしきのあはれにうちしぐるるにも、まづこのおほんかたにわたらせたまひて、むかしのことなどきこえさせたまふに、おほんいらへなども、おほどかなるものから、いはけなからずうちきこえさせたまふを、うつくしくおもひきこえさせたまふ。 |
49 | 1.3.2 | 142 | 113 |
かやうなる御さまを見知りぬべからむ人の、もてはやしきこえむも、などかはあらむ、朱雀院の姫宮を、六条の院に譲りきこえたまひし折の定めどもなど、思し召し出づるに、 |
かやうなるおほんさまをみしりぬべからんひとの、もてはやしきこえんも、などかはあらん、すざくゐんのひめみやを、ろくでうのゐんにゆづりきこえたまひしをりのさだめどもなど、おぼしめしいづるに、 |
49 | 1.3.3 | 143 | 114 |
「しばしは、いでや、飽かずもあるかな。さらでもおはしなまし、と聞こゆることどもありしかど、源中納言の、人よりことなるありさまにて、かくよろづを後見たてまつるにこそ、そのかみの御おぼえ衰へず、やむごとなきさまにてはながらへたまふめれ。さらずは、御心より外なる事どもも出で来て、おのづから人に軽められたまふこともやあらまし」 |
"しばしは、いでや、あかずもあるかな。さらでもおはしなまし、ときこゆることどもありしかど、げんちうなごんの、ひとよりことなるありさまにて、かくよろづをうしろみたてまつるにこそ、そのかみのおほんおぼえおとろへず、やんごとなきさまにてはながらへたまふめれ。さらずは、みこころよりほかなることどももいできて、おのづからひとにかるめられたまふこともやあらまし。" |
49 | 1.3.4 | 144 | 115 |
など思し続けて、「ともかくも、御覧ずる世にや思ひ定めまし」と思し寄るには、やがて、そのついでのままに、この中納言より他に、よろしかるべき人、またなかりけり。 |
などおぼしつづけて、"ともかくも、ごらんずるよにやおもひさだめまし。"とおぼしよるには、やがて、そのついでのままに、このちうなごんよりほかに、よろしかるべきひと、またなかりけり。 |
49 | 1.3.5 | 145 | 116 |
「宮たちの御かたはらにさし並べたらむに、何事もめざましくはあらじを。もとより思ふ人持たりて、聞きにくきことうちまずまじくはた、あめるを、つひにはさやうのことなくてしもえあらじ。さらぬ先に、さもやほのめかしてまし」 |
"みやたちのおほんかたはらにさしならべたらんに、なにごともめざましくはあらじを。もとよりおもふひともたりて、ききにくきことうちまずまじくはた、あめるを、つひにはさやうのことなくてしもえあらじ。さらぬさきに、さもやほのめかしてまし。" |
49 | 1.3.6 | 146 | 117 |
など、折々思し召しけり。 |
など、をりをりおぼしめしけり。 |
49 | 1.4 | 147 | 118 | 第四段 帝,女二の宮や薫と碁を打つ |
49 | 1.4.1 | 148 | 119 |
御碁など打たせたまふ。暮れゆくままに、時雨をかしきほどに、花の色も夕映えしたるを御覧じて、人召して、 |
おほんごなどうたせたまふ。くれゆくままに、しぐれをかしきほどに、はなのいろもゆふばえしたるをごらんじて、ひとめして、 |
49 | 1.4.2 | 149 | 120 |
「ただ今、殿上には誰れ誰れか」 |
"ただいま、てんじゃうにはたれたれか。" |
49 | 1.4.3 | 150 | 121 |
と問はせたまふに、 |
ととはせたまふに、 |
49 | 1.4.4 | 151 | 122 |
「中務親王、上野親王、中納言源朝臣さぶらふ」 |
"なかつかさのみこ、かんづけのみこ、ちうなごんみなもとのあそんさぶらふ。" |
49 | 1.4.5 | 152 | 123 |
と奏す。 |
とそうす。 |
49 | 1.4.6 | 153 | 124 |
「中納言朝臣こなたへ」 |
"ちうなごんのあそんこなたへ。" |
49 | 1.4.7 | 154 | 125 |
と仰せ言ありて参りたまへり。げに、かく取り分きて召し出づるもかひありて、遠くより薫れる匂ひよりはじめ、人に異なるさましたまへり。 |
とおほせごとありてまゐりたまへり。げに、かくとりわきてめしいづるもかひありて、とほくよりかをれるにほひよりはじめ、ひとにことなるさましたまへり。 |
49 | 1.4.8 | 155 | 126 |
「今日の時雨、常よりことにのどかなるを、遊びなどすさまじき方にて、いとつれづれなるを、いたづらに日を送る戯れにて、これなむよかるべき」 |
"けふのしぐれ、つねよりことにのどかなるを、あそびなどすさまじきかたにて、いとつれづれなるを、いたづらにひをおくるたはぶれにて、これなんよかるべき。" |
49 | 1.4.9 | 156 | 127 |
とて、碁盤召し出でて、御碁の敵に召し寄す。いつもかやうに、気近くならしまつはしたまふにならひにたれば、「さにこそは」と思ふに、 |
とて、ごばんめしいでて、おほんごのかたきにめしよす。いつもかやうに、けぢかくならしまつはしたまふにならひにたれば、"さにこそは。"とおもふに、 |
49 | 1.4.10 | 157 | 128 |
「好き賭物はありぬべけれど、軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは」 |
"よきのりものはありぬべけれど、かるがるしくはえわたすまじきを、なにをかは。" |
49 | 1.4.11 | 158 | 129 |
などのたまはする御けしき、いかが見ゆらむ、いとど心づかひしてさぶらひたまふ。 |
などのたまはするみけしき、いかがみゆらん、いとどこころづかひしてさぶらひたまふ。 |
49 | 1.4.12 | 159 | 130 |
さて、打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ。 |
さて、うたせたまふに、さんばんにかずひとつまけさせたまひぬ。 |
49 | 1.4.13 | 160 | 131 |
「ねたきわざかな」とて、「まづ、今日は、この花一枝許す」 |
"ねたきわざかな。"とて、"まづ、けふは、このはなひとえだゆるす。" |
49 | 1.4.14 | 161 | 133 |
とのたまはすれば、御いらへ聞こえさせで、下りておもしろき枝を折りて参りたまへり。 |
とのたまはすれば、おほんいらへきこえさせで、おりておもしろきえだををりてまゐりたまへり。 |
49 | 1.4.15 | 162 | 134 |
「世の常の垣根に匂ふ花ならば<BR/>心のままに折りて見ましを」 |
"〔よのつねのかきねににほふはなならば<BR/>こころのままにをりてみましを〕 |
49 | 1.4.16 | 163 | 135 |
と奏したまへる、用意あさからず見ゆ。 |
とそうしたまへる、よういあさからずみゆ。 |
49 | 1.4.17 | 164 | 136 |
「霜にあへず枯れにし園の菊なれど<BR/>残りの色はあせずもあるかな」 |
"〔しもにあへずかれにしそののきくなれど<BR/>のこりのいろはあせずもあるかな〕 |
49 | 1.4.18 | 165 | 137 |
とのたまはす。 |
とのたまはす。 |
49 | 1.4.19 | 166 | 138 |
かやうに、折々ほのめかさせたまふ御けしきを、人伝てならず承りながら、例の心の癖なれば、急がしくしもおぼえず。 |
かやうに、をりをりほのめかさせたまふみけしきを、ひとづてならずうけたまはりながら、れいのこころのくせなれば、いそがしくしもおぼえず。 |
49 | 1.4.20 | 167 | 139 |
「いでや、本意にもあらず。さまざまにいとほしき人びとの御ことどもをも、よく聞き過ぐしつつ年経ぬるを、今さらに聖のものの、世に帰り出でむ心地すべきこと」 |
"いでや、ほいにもあらず。さまざまにいとほしきひとびとのおほんことどもをも、よくききすぐしつつとしへぬるを、いまさらにひじりのものの、よにかへりいでんここちすべきこと。" |
49 | 1.4.21 | 168 | 140 |
と思ふも、かつはあやしや。 |
とおもふも、かつはあやしや。 |
49 | 1.4.22 | 169 | 141 |
「ことさらに心を尽くす人だにこそあなれ」とは思ひながら、「后腹におはせばしも」とおぼゆる心の内ぞ、あまりおほけなかりける。 |
"ことさらにこころをつくすひとだにこそあなれ。"とはおもひながら、"きさきばらにおはせばしも。"とおぼゆるこころのうちぞ、あまりおほけなかりける。 |
49 | 1.5 | 170 | 142 | 第五段 夕霧、匂宮を六の君の婿にと願う |
49 | 1.5.1 | 171 | 143 |
かかることを、右の大殿ほの聞きたまひて、 |
かかることを、みぎのおほいどのほのききたまひて、 |
49 | 1.5.2 | 172 | 144 |
「六の君は、さりともこの君にこそは。しぶしぶなりとも、まめやかに恨み寄らば、つひには、えいなび果てじ」 |
"ろくのきみは、さりともこのきみにこそは。しぶしぶなりとも、まめやかにうらみよらば、つひには、えいなびはてじ。" |
49 | 1.5.3 | 173 | 145 |
と思しつるを、「思ひの外のこと出で来ぬべかなり」と、ねたく思されければ、兵部卿宮はた、わざとにはあらねど、折々につけつつ、をかしきさまに聞こえたまふことなど絶えざりければ、 |
とおぼしつるを、"おもひのほかのこといできぬべかなり。"と、ねたくおぼされければ、ひゃうぶきゃうのみやはた、わざとにはあらねど、をりをりにつけつつ、をかしきさまにきこえたまふことなどたえざりければ、 |
49 | 1.5.4 | 174 | 146 |
「さはれ、なほざりの好きにはありとも、さるべきにて、御心とまるやうもなどかなからむ。水漏るまじく思ひ定めむとても、なほなほしき際に下らむはた、いと人悪ろく、飽かぬ心地すべし」 |
"さはれ、なほざりのすきにはありとも、さるべきにて、みこころとまるやうもなどかなからん。みづもるまじくおもひさだめんとても、なほなほしききはにくだらんはた、いとひとわろく、あかぬここちすべし。" |
49 | 1.5.5 | 175 | 147 |
など思しなりにたり。 |
などおぼしなりにたり。 |
49 | 1.5.6 | 176 | 148 |
「女子うしろめたげなる世の末にて、帝だに婿求めたまふ世に、まして、ただ人の盛り過ぎむもあいなし」 |
"をんなごうしろめたげなるよのすゑにて、みかどだにむこもとめたまふよに、まして、ただうどのさかりすぎんもあいなし。" |
49 | 1.5.7 | 177 | 149 |
など、誹らはしげにのたまひて、中宮をもまめやかに恨み申したまふこと、たび重なれば、聞こし召しわづらひて、 |
など、そしらはしげにのたまひて、ちうぐうをもまめやかにうらみまうしたまふこと、たびかさなれば、きこしめしわづらひて、 |
49 | 1.5.8 | 178 | 150 |
「いとほしく、かくおほなおほな思ひ心ざして年経たまひぬるを、あやにくに逃れきこえたまはむも、情けなきやうならむ。親王たちは、御後見からこそ、ともかくもあれ。 |
"いとほしく、かくおほなおほなおもひこころざしてとしへたまひぬるを、あやにくにのがれきこえたまはんも、なさけなきやうならん。みこたちは、おほんうしろみからこそ、ともかくもあれ。 |
49 | 1.5.9 | 179 | 151 |
主上の、御代も末になり行くとのみ思しのたまふめるを、ただ人こそ、ひと事に定まりぬれば、また心を分けむことも難げなめれ。それだに、かの大臣のまめだちながら、こなたかなた羨みなくもてなしてものしたまはずやはある。まして、これは、思ひおきてきこゆることも叶はば、あまたもさぶらはむになどかあらむ」 |
うへの、みよもすゑになりゆくとのみおぼしのたまふめるを、ただうどこそ、ひとことにさだまりぬれば、またこころをわけんこともかたげなめれ。それだに、かのおとどのまめだちながら、こなたかなたうらやみなくもてなしてものしたまはずやはある。まして、これは、おもひおきてきこゆることもかなはば、あまたもさぶらはんになどかあらん。" |
49 | 1.5.10 | 180 | 152 |
など、例ならず言続けて、あるべかしく聞こえさせたまふを、 |
など、れいならずことつづけて、あるべかしくきこえさせたまふを、 |
49 | 1.5.11 | 181 | 153 |
「わが御心にも、もとよりもて離れて、はた、思さぬことなれば、あながちには、などてかはあるまじきさまにも聞こえさせたまはむ。ただ、いとことうるはしげなるあたりにとり籠められて、心やすくならひたまへるありさまの所狭からむことを、なま苦しく思すにもの憂きなれど、げに、この大臣に、あまり怨ぜられ果てむもあいなからむ」 |
"わがみこころにも、もとよりもてはなれて、はた、おぼさぬことなれば、あながちには、などてかはあるまじきさまにもきこえさせたまはん。ただ、いとことうるはしげなるあたりにとりこめられて、こころやすくならひたまへるありさまのところせからんことを、なまくるしくおぼすにものうきなれど、げに、このおとどに、あまりゑんぜられはてんもあいなからん。" |
49 | 1.5.12 | 182 | 154 |
など、やうやう思し弱りにたるべし。あだなる御心なれば、かの按察使大納言の、紅梅の御方をも、なほ思し絶えず、花紅葉につけてもののたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくは思しけり。されど、その年は変はりぬ。 |
など、やうやうおぼしよわりにたるべし。あだなるみこころなれば、かのあぜちのだいなごんの、こうばいのおほんかたをも、なほおぼしたえず、はなもみぢにつけてもののたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくはおぼしけり。されど、そのとしはかはりぬ。 |
49 | 2 | 183 | 155 | 第二章 中君の物語 中君の不安な思いと薫の同情 |
49 | 2.1 | 184 | 156 | 第一段 匂宮の婚約と中君の不安な心境 |
49 | 2.1.1 | 185 | 157 |
女二の宮も、御服果てぬれば、「いとど何事にか憚りたまはむ。さも聞こえ出でば」と思し召したる御けしきなど、告げきこゆる人びともあるを、「あまり知らず顔ならむも、ひがひがしうなめげなり」と思し起こして、ほのめかしまゐらせたまふ折々もあるに、「はしたなきやうは、などてかはあらむ。そのほどに思し定めたなり」と伝てにも聞く、みづから御けしきをも見れど、心の内には、なほ飽かず過ぎたまひにし人の悲しさのみ、忘るべき世なくおぼゆれば、「うたて、かく契り深くものしたまひける人の、などてかは、さすがに疎くては過ぎにけむ」と心得がたく思ひ出でらる。 |
をんなにのみやも、おほんぶくはてぬれば、"いとどなにごとにかはばかりたまはん。さもきこえいでば。"とおぼしめしたるみけしきなど、つげきこゆるひとびともあるを、"あまりしらずがほならんも、ひがひがしうなめげなり。"とおぼしおこして、ほのめかしまゐらせたまふをりをりもあるに、"はしたなきやうは、などてかはあらん。そのほどにおぼしさだめたなり。"とつてにもきく、みづからみけしきをもみれど、こころのうちには、なほあかずすぎたまひにしひとのかなしさのみ、わするべきよなくおぼゆれば、"うたて、かくちぎりふかくものしたまひけるひとの、などてかは、さすがにうとくてはすぎにけん。"とこころえがたくおもひいでらる。 |
49 | 2.1.2 | 186 | 158 |
「口惜しき品なりとも、かの御ありさまにすこしもおぼえたらむ人は、心もとまりなむかし。昔ありけむ香の煙につけてだに、今一度見たてまつるものにもがな」とのみおぼえて、やむごとなき方ざまに、いつしかなど急ぐ心もなし。 |
"くちをしきしななりとも、かのおほんありさまにすこしもおぼえたらんひとは、こころもとまりなんかし。むかしありけんかうのけぶりにつけてだに、いまひとたびみたてまつるものにもがな。"とのみおぼえて、やんごとなきかたざまに、いつしかなどいそぐこころもなし。 |
49 | 2.1.3 | 187 | 159 |
右の大殿には急ぎたちて、「八月ばかりに」と聞こえたまひけり。二条院の対の御方には、聞きたまふに、 |
みぎのおほいどのにはいそぎたちて、"はちがちばかりに。"ときこえたまひけり。にでうのゐんのたいのおほんかたには、ききたまふに、 |
49 | 2.1.4 | 188 | 160 |
「さればよ。いかでかは、数ならぬありさまなめれば、かならず人笑へに憂きこと出で来むものぞ、とは思ふ思ふ過ごしつる世ぞかし。あだなる御心と聞きわたりしを、頼もしげなく思ひながら、目に近くては、ことにつらげなること見えず、あはれに深き契りをのみしたまへるを、にはかに変はりたまはむほど、いかがはやすき心地はすべからむ。ただ人の仲らひなどのやうに、いとしも名残なくなどはあらずとも、いかにやすげなきこと多からむ。なほ、いと憂き身なめれば、つひには、山住みに帰るべきなめり」 |
"さればよ。いかでかは、かずならぬありさまなめれば、かならずひとわらへにうきこといでこんものぞ、とはおもふおもふすごしつるよぞかし。あだなるみこころとききわたりしを、たのもしげなくおもひながら、めにちかくては、ことにつらげなることみえず、あはれにふかきちぎりをのみしたまへるを、にはかにかはりたまはんほど、いかがはやすきここちはすべからん。ただうどのなからひなどのやうに、いとしもなごりなくなどはあらずとも、いかにやすげなきことおほからん。なほ、いとうきみなめれば、つひには、やまずみにかへるべきなめり。" |
49 | 2.1.5 | 189 | 161 |
と思すにも、「やがて跡絶えなましよりは、山賤の待ち思はむも人笑へなりかし。返す返すも、宮ののたまひおきしことに違ひて、草のもとを離れにける心軽さ」を、恥づかしくもつらくも思ひ知りたまふ。 |
とおぼすにも、"やがてあとたえなましよりは、やまがつのまちおもはんもひとわらへなりかし。かへすがへすも、みやののたまひおきしことにたがひて、くさのもとをかれにけるこころかるさ。"を、はづかしくもつらくもおもひしりたまふ。 |
49 | 2.1.6 | 190 | 162 |
「故姫君の、いとしどけなげに、ものはかなきさまにのみ、何事も思しのたまひしかど、心の底のづしやかなるところは、こよなくもおはしけるかな。中納言の君の、今に忘るべき世なく嘆きわたりたまふめれど、もし世におはせましかば、またかやうに思すことはありもやせまし。 |
"こひめぎみの、いとしどけなげに、ものはかなきさまにのみ、なにごともおぼしのたまひしかど、こころのそこのづしやかなるところは、こよなくもおはしけるかな。ちうなごんのきみの、いまにわするべきよなくなげきわたりたまふめれど、もしよにおはせましかば、またかやうにおぼすことはありもやせまし。 |
49 | 2.1.7 | 191 | 163 |
それを、いと深く、いかでさはあらじ、と思ひ入りたまひて、とざまかうざまに、もて離れむことを思して、容貌をも変へてむとしたまひしぞかし。かならずさるさまにてぞおはせまし。 |
それを、いとふかく、いかでさはあらじ、とおもひいりたまひて、とざまかうざまに、もてはなれんことをおぼして、かたちをもかへてんとしたまひしぞかし。かならずさるさまにてぞおはせまし。 |
49 | 2.1.8 | 192 | 164 |
今思ふに、いかに重りかなる御心おきてならまし。亡き御影どもも、我をばいかにこよなきあはつけさと見たまふらむ」 |
いまおもふに、いかにおもりかなるみこころおきてならまし。なきおほんかげどもも、われをばいかにこよなきあはつけさとみたまふらん。" |
49 | 2.1.9 | 193 | 165 |
と恥づかしく悲しく思せど、「何かは、かひなきものから、かかるけしきをも見えたてまつらむ」と忍び返して、聞きも入れぬさまにて過ぐしたまふ。 |
とはづかしくかなしくおぼせど、"なにかは、かひなきものから、かかるけしきをもみえたてまつらん。"としのびかへして、ききもいれぬさまにてすぐしたまふ。 |
49 | 2.2 | 194 | 166 | 第二段 中君、匂宮の子を懐妊 |
49 | 2.2.1 | 195 | 167 |
宮は、常よりもあはれになつかしく、起き臥し語らひ契りつつ、この世ならず、長きことをのみぞ頼みきこえたまふ。 |
みやは、つねよりもあはれになつかしく、おきふしかたらひちぎりつつ、このよならず、ながきことをのみぞたのみきこえたまふ。 |
49 | 2.2.2 | 196 | 168 |
さるは、この五月ばかりより、例ならぬさまに悩ましくしたまふこともありけり。こちたく苦しがりなどはしたまはねど、常よりももの参ることいとどなく、臥してのみおはするを、まださやうなる人のありさま、よくも見知りたまはねば、「ただ暑きころなれば、かくおはするなめり」とぞ思したる。 |
さるは、このさつきばかりより、れいならぬさまになやましくしたまふこともありけり。こちたくくるしがりなどはしたまはねど、つねよりもものまゐることいとどなく、ふしてのみおはするを、まださやうなるひとのありさま、よくもみしりたまはねば、"ただあつきころなれば、かくおはするなめり。"とぞおぼしたる。 |
49 | 2.2.3 | 197 | 169 |
さすがにあやしと思しとがむることもありて、「もし、いかなるぞ。さる人こそ、かやうには悩むなれ」など、のたまふ折もあれど、いと恥づかしくしたまひて、さりげなくのみもてなしたまへるを、さし過ぎ聞こえ出づる人もなければ、たしかにもえ知りたまはず。 |
さすがにあやしとおぼしとがむることもありて、"もし、いかなるぞ。さるひとこそ、かやうにはなやむなれ。"など、のたまふをりもあれど、いとはづかしくしたまひて、さりげなくのみもてなしたまへるを、さしすぎきこえいづるひともなければ、たしかにもえしりたまはず。 |
49 | 2.2.4 | 198 | 170 |
八月になりぬれば、その日など、他よりぞ伝へ聞きたまふ。宮は、隔てむことにはあらねど、言ひ出でむほど心苦しくいとほしく思されて、さものたまはぬを、女君は、それさへ心憂くおぼえたまふ。忍びたることにもあらず、世の中なべて知りたることを、そのほどなどだにのたまはぬことと、いかが恨めしからざらむ。 |
はちがちになりぬれば、そのひなど、ほかよりぞつたへききたまふ。みやは、へだてんことにはあらねど、いひいでんほどこころくるしくいとほしくおぼされて、さものたまはぬを、をんなぎみは、それさへこころうくおぼえたまふ。しのびたることにもあらず、よのなかなべてしりたることを、そのほどなどだにのたまはぬことと、いかがうらめしからざらん。 |
49 | 2.2.5 | 199 | 171 |
かく渡りたまひにし後は、ことなることなければ、内裏に参りたまひても、夜泊ることはことにしたまはず、ここかしこの御夜離れなどもなかりつるを、にはかにいかに思ひたまはむと、心苦しき紛らはしに、このころは、時々御宿直とて参りなどしたまひつつ、かねてよりならはしきこえたまふをも、ただつらき方にのみぞ思ひおかれたまふべき。 |
かくわたりたまひにしのちは、ことなることなければ、うちにまゐりたまひても、よるとまることはことにしたまはず、ここかしこのおほんよがれなどもなかりつるを、にはかにいかにおもひたまはんと、こころぐるしきまぎらはしに、このころは、ときどきおほんとのゐとてまゐりなどしたまひつつ、かねてよりならはしきこえたまふをも、ただつらきかたにのみぞおもひおかれたまふべき。 |
49 | 2.3 | 200 | 172 | 第三段 薫、中君に同情しつつ恋慕す |
49 | 2.3.1 | 201 | 173 |
中納言殿も、「いといとほしきわざかな」と聞きたまふ。「花心におはする宮なれば、あはれとは思すとも、今めかしき方にかならず御心移ろひなむかし。女方も、いとしたたかなるわたりにて、ゆるびなく聞こえまつはしたまはば、月ごろも、さもならひたまはで、待つ夜多く過ごしたまはむこそ、あはれなるべけれ」 |
ちうなごんどのも、"いといとほしきわざかな。"とききたまふ。"はなごころにおはするみやなれば、あはれとはおぼすとも、いまめかしきかたにかならずみこころうつろひなんかし。をんながたも、いとしたたかなるわたりにて、ゆるびなくきこえまつはしたまはば、つきごろも、さもならひたまはで、まつよおほくすごしたまはんこそ、あはれなるべけれ。" |
49 | 2.3.2 | 202 | 174 |
など思ひ寄るにつけても、 |
などおもひよるにつけても、 |
49 | 2.3.3 | 203 | 175 |
「あいなしや、わが心よ。何しに譲りきこえけむ。昔の人に心をしめてし後、おほかたの世をも思ひ離れて澄み果てたりし方の心も濁りそめにしかば、ただかの御ことをのみ、とざまかうざまには思ひながら、さすがに人の心許されであらむことは、初めより思ひし本意なかるべし」 |
"あいなしや、わがこころよ。なにしにゆづりきこえけん。むかしのひとにこころをしめてしのち、おほかたのよをもおもひはなれてすみはてたりしかたのこころもにごりそめにしかば、ただかのおほんことをのみ、とざまかうざまにはおもひながら、さすがにひとのこころゆるされであらんことは、はじめよりおもひしほいなかるべし。" |
49 | 2.3.4 | 204 | 176 |
と憚りつつ、「ただいかにして、すこしもあはれと思はれて、うちとけたまへらむけしきをも見む」と、行く先のあらましごとのみ思ひ続けしに、人は同じ心にもあらずもてなして、さすがに、一方にもえさし放つまじく思ひたまへる慰めに、同じ身ぞと言ひなして、本意ならぬ方におもむけたまひしが、ねたく恨めしかりしかば、「まづ、その心おきてを違へむとて、急ぎせしわざぞかし」など、あながちに女々しくものぐるほしく率て歩き、たばかりきこえしほど思ひ出づるも、「いとけしからざりける心かな」と、返す返すぞ悔しき。 |
とはばかりつつ、"ただいかにして、すこしもあはれとおもはれて、うちとけたまへらんけしきをもみん。"と、ゆくさきのあらましごとのみおもひつづけしに、ひとはおなじこころにもあらずもてなして、さすがに、ひとかたにもえさしはなつまじくおもひたまへるなぐさめに、おなじみぞといひなして、ほいならぬかたにおもむけたまひしが、ねたくうらめしかりしかば、"まづ、そのこころおきてをたがへんとて、いそぎせしわざぞかし。"など、あながちにめめしくものぐるほしくゐてありき、たばかりきこえしほどおもひいづるも、"いとけしからざりけるこころかな。"と、かへすがへすぞくやしき。 |
49 | 2.3.5 | 205 | 177 |
「宮も、さりとも、そのほどのありさま思ひ出でたまはば、わが聞かむところをもすこしは憚りたまはじや」と思ふに、「いでや、今は、その折のことなど、かけてものたまひ出でざめりかし。なほ、あだなる方に進み、移りやすなる人は、女のためのみにもあらず、頼もしげなく軽々しき事もありぬべきなめりかし」 |
"みやも、さりとも、そのほどのありさまおもひいでたまはば、わがきかんところをもすこしははばかりたまはじや。"とおもふに、"いでや、いまは、そのをりのことなど、かけてものたまひいでざめりかし。なほ、あだなるかたにすすみ、うつりやすなるひとは、をんなのためのみにもあらず、たのもしげなくかるがるしきこともありぬべきなめりかし。" |
49 | 2.3.6 | 206 | 178 |
など、憎く思ひきこえたまふ。わがまことにあまり一方にしみたる心ならひに、人はいとこよなくもどかしく見ゆるなるべし。 |
など、にくくおもひきこえたまふ。わがまことにあまりひとかたにしみたるこころならひに、ひとはいとこよなくもどかしくみゆるなるべし。 |
49 | 2.4 | 207 | 179 | 第四段 薫、亡き大君を追憶す |
49 | 2.4.1 | 208 | 180 |
「かの人をむなしく見なしきこえたまうてし後、思ふには、帝の御女を賜はむと思ほしおきつるも、うれしくもあらず、この君を見ましかばとおぼゆる心の、月日に添へてまさるも、ただ、かの御ゆかりと思ふに、思ひ離れがたきぞかし。 |
"かのひとをむなしくみなしきこえたまうてしのち、おもふには、みかどのおほんむすめをたまはんとおもほしおきつるも、うれしくもあらず、このきみをみましかばとおぼゆるこころの、つきひにそへてまさるも、ただ、かのおほんゆかりとおもふに、おもひはなれがたきぞかし。 |
49 | 2.4.2 | 209 | 181 |
はらからといふ中にも、限りなく思ひ交はしたまへりしものを、今はとなりたまひにし果てにも、『とまらむ人を同じごとと思へ』とて、『よろづは思はずなることもなし。ただかの思ひおきてしさまを違へたまへるのみなむ、口惜しう恨めしきふしにて、この世には残るべき』とのたまひしものを、天翔りても、かやうなるにつけては、いとどつらしとや見たまふらむ」 |
はらからといふなかにも、かぎりなくおもひかはしたまへりしものを、いまはとなりたまひにしはてにも、'とまらんひとをおなじごととおもへ。'とて、'よろづはおもはずなることもなし。ただかのおもひおきてしさまをたがへたまへるのみなん、くちをしううらめしきふしにて、このよにはのこるべき。'とのたまひしものを、あまかけりても、かやうなるにつけては、いとどつらしとやみたまふらん。" |
49 | 2.4.3 | 210 | 182 |
など、つくづくと人やりならぬ独り寝したまふ夜な夜なは、はかなき風の音にも目のみ覚めつつ、来し方行く先、人の上さへ、あぢきなき世を思ひめぐらしたまふ。 |
など、つくづくとひとやりならぬひとりねしたまふよなよなは、はかなきかぜのおとにもめのみさめつつ、きしかたゆくさき、ひとのうへさへ、あぢきなきよをおもひめぐらしたまふ。 |
49 | 2.4.4 | 211 | 183 |
なげのすさびにものをも言ひ触れ、気近く使ひならしたまふ人びとの中には、おのづから憎からず思さるるもありぬべけれど、まことには心とまるもなきこそ、さはやかなれ。 |
なげのすさびにものをもいひふれ、けぢかくつかひならしたまふひとびとのなかには、おのづからにくからずおぼさるるもありぬべけれど、まことにはこころとまるもなきこそ、さはやかなれ。 |
49 | 2.4.5 | 212 | 184 |
さるは、かの君たちのほどに劣るまじき際の人びとも、時世にしたがひつつ衰へて、心細げなる住まひするなどを、尋ね取りつつあらせなど、いと多かれど、「今はと世を逃れ背き離れむ時、この人こそと、取り立てて、心とまるほだしになるばかりなることはなくて過ぐしてむ」と思ふ心深かりしを、「いと、さも悪ろく、わが心ながら、ねぢけてもあるかな」 |
さるは、かのきみたちのほどにおとるまじききはのひとびとも、ときよにしたがひつつおとろへて、こころぼそげなるすまひするなどを、たづねとりつつあらせなど、いとおほかれど、"いまはとよをのがれそむきはなれんとき、このひとこそと、とりたてて、こころとまるほだしになるばかりなることはなくてすぐしてん。"とおもふこころふかかりしを、"いと、さもわろく、わがこころながら、ねぢけてもあるかな。" |
49 | 2.4.6 | 213 | 185 |
など、常よりも、やがてまどろまず明かしたまへる朝に、霧の籬より、花の色々おもしろく見えわたれる中に、朝顔のはかなげにて混じりたるを、なほことに目とまる心地したまふ。「明くる間咲きて」とか、常なき世にもなずらふるが、心苦しきなめりかし。 |
など、つねよりも、やがてまどろまずあかしたまへるあしたに、きりのまがきより、はなのいろいろおもしろくみえわたれるなかに、あさがほのはかなげにてまじりたるを、なほことにめとまるここちしたまふ。"あくるまさきて〕とか、つねなきよにもなずらふるが、こころぐるしきなめりかし。 |
49 | 2.4.7 | 214 | 186 |
格子も上げながら、いとかりそめにうち臥しつつのみ明かしたまへば、この花の開くるほどをも、ただ一人のみ見たまひける。 |
かうしもあげながら、いとかりそめにうちふしつつのみあかしたまへば、このはなのひらくるほどをも、ただひとりのみみたまひける。 |
49 | 2.5 | 215 | 187 | 第五段 薫、二条院の中君を訪問 |
49 | 2.5.1 | 216 | 188 |
人召して、 |
ひとめして、 |
49 | 2.5.2 | 217 | 189 |
「北の院に参らむに、ことことしからぬ車さし出でさせよ」 |
"きたのゐんにまゐらんに、ことことしからぬくるまさしいでさせよ。" |
49 | 2.5.3 | 218 | 190 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 2.5.4 | 219 | 191 |
「宮は、昨日より内裏になむおはしますなる。昨夜、御車率て帰りはべりにき」 |
"みやは、きのふよりうちになんおはしますなる。よべ、みくるまゐてかへりはべりにき。" |
49 | 2.5.5 | 220 | 192 |
と申す。 |
とまうす。 |
49 | 2.5.6 | 221 | 193 |
「さはれ、かの対の御方の悩みたまふなる、訪らひきこえむ。今日は内裏に参るべき日なれば、日たけぬさきに」 |
"さはれ、かのたいのおほんかたのなやみたまふなる、とぶらひきこえん。けふはうちにまゐるべきひなれば、ひたけぬさきに。" |
49 | 2.5.7 | 222 | 194 |
とのたまひて、御装束したまふ。出でたまふままに、降りて花の中に混じりたまへるさま、ことさらに艶だち色めきてももてなしたまはねど、あやしく、ただうち見るになまめかしく恥づかしげにて、いみじくけしきだつ色好みどもになずらふべくもあらず、おのづからをかしくぞ見えたまひける。朝顔引き寄せたまへる、露いたくこぼる。 |
とのたまひて、おほんさうぞくしたまふ。いでたまふままに、おりてはなのなかにまじりたまへるさま、ことさらにえんだちいろめきてももてなしたまはねど、あやしく、ただうちみるになまめかしくはづかしげにて、いみじくけしきだついろごのみどもになずらふべくもあらず、おのづからをかしくぞみえたまひける。あさがほひきよせたまへる、つゆいたくこぼる。 |
49 | 2.5.8 | 223 | 195 |
「今朝の間の色にや賞でむ置く露の<BR/>消えぬにかかる花と見る見る |
"〔けさのまのいろにやめでんおくつゆの<BR/>きえぬにかかるはなとみるみる |
49 | 2.5.9 | 224 | 196 |
はかな」 |
はかな。" |
49 | 2.5.10 | 225 | 197 |
と独りごちて、折りて持たまへり。女郎花をば、見過ぎてぞ出でたまひぬる。 |
とひとりごちて、をりてもたまへり。をみなへしをば、みすぎてぞいでたまひぬる。 |
49 | 2.5.11 | 226 | 198 |
明け離るるままに、霧立ち乱る空をかしきに、 |
あけはなるるままに、きりたちみだるそらをかしきに、 |
49 | 2.5.12 | 227 | 199 |
「女どちは、しどけなく朝寝したまへらむかし。格子妻戸うちたたき声づくらむこそ、うひうひしかるべけれ。朝まだきまだき来にけり」 |
"をんなどちは、しどけなくあさいしたまへらんかし。かうしつまどうちたたきこわづくらんこそ、うひうひしかるべけれ。あさまだきまだききにけり。" |
49 | 2.5.13 | 228 | 200 |
と思ひながら、人召して、中門の開きたるより見せたまへば、 |
とおもひながら、ひとめして、ちうもんのあきたるよりみせたまへば、 |
49 | 2.5.14 | 229 | 201 |
「御格子ども参りてはべるべし。女房の御けはひもしはべりつ」 |
"みかうしどもまゐりてはべるべし。にょうばうのおほんけはひもしはべりつ。" |
49 | 2.5.15 | 230 | 202 |
と申せば、下りて、霧の紛れにさまよく歩み入りたまへるを、「宮の忍びたる所より帰りたまへるにや」と見るに、露にうちしめりたまへる香り、例の、いとさまことに匂ひ来れば、 |
とまうせば、おりて、きりのまぎれにさまよくあゆみいりたまへるを、"みやのしのびたるところよりかへりたまへるにや。"とみるに、つゆにうちしめりたまへるかをり、れいの、いとさまことににほひくれば、 |
49 | 2.5.16 | 231 | 203 |
「なほ、めざましくはおはすかし。心をあまりをさめたまへるぞ憎き」 |
"なほ、めざましくはおはすかし。こころをあまりをさめたまへるぞにくき。" |
49 | 2.5.17 | 232 | 204 |
など、あいなく、若き人びとは、聞こえあへり。 |
など、あいなく、わかきひとびとは、きこえあへり。 |
49 | 2.5.18 | 233 | 205 |
おどろき顔にはあらず、よきほどにうちそよめきて、御茵さし出でなどするさまも、いとめやすし。 |
おどろきがほにはあらず、よきほどにうちそよめきて、おほんしとねさしいでなどするさまも、いとめやすし。 |
49 | 2.5.19 | 234 | 206 |
「これにさぶらへと許させたまふほどは、人びとしき心地すれど、なほかかる御簾の前にさし放たせたまへるうれはしさになむ、しばしばもえさぶらはぬ」 |
"これにさぶらへとゆるさせたまふほどは、ひとびとしきここちすれど、なほかかるみすのまへにさしはなたせたまへるうれはしさになん、しばしばもえさぶらはぬ。" |
49 | 2.5.20 | 235 | 207 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 2.5.21 | 236 | 208 |
「さらば、いかがはべるべからむ」 |
"さらば、いかがはべるべからん。" |
49 | 2.5.22 | 237 | 209 |
など聞こゆ。 |
などきこゆ。 |
49 | 2.5.23 | 238 | 210 |
「北面などやうの隠れぞかし。かかる古人などのさぶらはむにことわりなる休み所は。それも、また、ただ御心なれば、愁へきこゆべきにもあらず」 |
"きたおもてなどやうのかくれぞかし。かかるふるびとなどのさぶらはんにことわりなるやすみどころは。それも、また、ただみこころなれば、うれへきこゆべきにもあらず。" |
49 | 2.5.24 | 239 | 211 |
とて、長押に寄りかかりておはすれば、例の、人びと、 |
とて、なげしによりかかりておはすれば、れいの、ひとびと、 |
49 | 2.5.25 | 240 | 212 |
「なほ、あしこもとに」 |
"なほ、あしこもとに。" |
49 | 2.5.26 | 241 | 213 |
など、そそのかしきこゆ。 |
など、そそのかしきこゆ。 |
49 | 2.6 | 242 | 214 | 第六段 薫、中君と語らう |
49 | 2.6.1 | 243 | 215 |
もとよりも、けはひはやりかに男々しくなどはものしたまはぬ人柄なるを、いよいよしめやかにもてなしをさめたまへれば、今は、みづから聞こえたまふことも、やうやううたてつつましかりし方、すこしづつ薄らぎて、面馴れたまひにたり。 |
もとよりも、けはひはやりかにををしくなどはものしたまはぬひとがらなるを、いよいよしめやかにもてなしをさめたまへれば、いまは、みづからきこえたまふことも、やうやううたてつつましかりしかた、すこしづつうすらぎて、おもなれたまひにたり。 |
49 | 2.6.2 | 244 | 216 |
悩ましく思さるらむさまも、「いかなれば」など問ひきこえたまへど、はかばかしくもいらへきこえたまはず、常よりもしめりたまへるけしきの心苦しきも、あはれにおぼえたまひて、こまやかに、世の中のあるべきやうなどを、はらからやうの者のあらましやうに、教へ慰めきこえたまふ。 |
なやましくおぼさるらんさまも、"いかなれば。"などとひきこえたまへど、はかばかしくもいらへきこえたまはず、つねよりもしめりたまへるけしきのこころぐるしきも、あはれにおぼえたまひて、こまやかに、よのなかのあるべきやうなどを、はらからやうのもののあらましやうに、をしへなぐさめきこえたまふ。 |
49 | 2.6.3 | 245 | 217 |
声なども、わざと似たまへりともおぼえざりしかど、あやしきまでただそれとのみおぼゆるに、人目見苦しかるまじくは、簾もひき上げてさし向かひきこえまほしく、うち悩みたまへらむ容貌ゆかしくおぼえたまふも、「なほ、世の中にもの思はぬ人は、えあるまじきわざにやあらむ」とぞ思ひ知られたまふ。 |
こゑなども、わざとにたまへりともおぼえざりしかど、あやしきまでただそれとのみおぼゆるに、ひとめみぐるしかるまじくは、すだれもひきあげてさしむかひきこえまほしく、うちなやみたまへらんかたちゆかしくおぼえたまふも、"なほ、よのなかにものおもはぬひとは、えあるまじきわざにやあらん。"とぞおもひしられたまふ。 |
49 | 2.6.4 | 246 | 218 |
「人びとしくきらきらしき方にははべらずとも、心に思ふことあり、嘆かしく身をもて悩むさまになどはなくて過ぐしつべきこの世と、みづから思ひたまへし、心から、悲しきことも、をこがましく悔しきもの思ひをも、かたがたにやすからず思ひはべるこそ、いとあいなけれ。官位などいひて、大事にすめる、ことわりの愁へにつけて嘆き思ふ人よりも、これや、今すこし罪の深さはまさるらむ」 |
"ひとびとしくきらきらしきかたにははべらずとも、こころにおもふことあり、なげかしくみをもてなやむさまになどはなくてすぐしつべきこのよと、みづからおもひたまへし、こころから、かなしきことも、をこがましくくやしきものおもひをも、かたがたにやすからずおもひはべるこそ、いとあいなけれ。つかさくらゐなどいひて、だいじにすめる、ことわりのうれへにつけてなげきおもふひとよりも、これや、いますこしつみのふかさはまさるらん。" |
49 | 2.6.5 | 247 | 220 |
など言ひつつ、折りたまへる花を、扇にうち置きて見ゐたまへるに、やうやう赤みもて行くも、なかなか色のあはひをかしく見ゆれば、やをらさし入れて、 |
などいひつつ、をりたまへるはなを、あふぎにうちおきてみゐたまへるに、やうやうあかみもてゆくも、なかなかいろのあはひをかしくみゆれば、やをらさしいれて、 |
49 | 2.6.6 | 248 | 221 |
「よそへてぞ見るべかりける白露の<BR/>契りかおきし朝顔の花」 |
"〔よそへてぞみるべかりけるしらつゆの<BR/>ちぎりかおきしあさがほのはな〕" |
49 | 2.6.7 | 249 | 222 |
ことさらびてしももてなさぬに、「露落とさで持たまへりけるよ」と、をかしく見ゆるに、置きながら枯るるけしきなれば、 |
ことさらびてしももてなさぬに、"つゆおとさでもたまへりけるよ。"と、をかしくみゆるに、おきながらかるるけしきなれば、 |
49 | 2.6.8 | 250 | 223 |
「消えぬまに枯れぬる花のはかなさに<BR/>おくるる露はなほぞまされる |
"〔きえぬまにかれぬるはなのはかなさに<BR/>おくるるつゆはなほぞまされる |
49 | 2.6.9 | 251 | 224 |
何にかかれる」 |
なににかかれる。" |
49 | 2.6.10 | 252 | 225 |
と、いと忍びて言も続かず、つつましげに言ひ消ちたまへるほど、「なほ、いとよく似たまへるものかな」と思ふにも、まづぞ悲しき。 |
と、いとしのびてこともつづかず、つつましげにいひけちたまへるほど、"なほ、いとよくにたまへるものかな。"とおもふにも、まづぞかなしき。 |
49 | 2.7 | 253 | 226 | 第七段 薫、源氏の死を語り、亡き大君を追憶 |
49 | 2.7.1 | 254 | 227 |
「秋の空は、今すこし眺めのみまさりはべり。つれづれの紛らはしにもと思ひて、先つころ、宇治にものしてはべりき。庭も籬もまことにいとど荒れ果ててはべりしに、堪へがたきこと多くなむ。 |
"あきのそらは、いますこしながめのみまさりはべり。つれづれのまぎらはしにもとおもひて、さいつころ、うぢにものしてはべりき。にはもまがきもまことにいとどあれはててはべりしに、たへがたきことおほくなん。 |
49 | 2.7.2 | 255 | 228 |
故院の亡せたまひて後、二、三年ばかりの末に、世を背きたまひし嵯峨の院にも、六条の院にも、さしのぞく人の、心をさめむ方なくなむはべりける。木草の色につけても、涙にくれてのみなむ帰りはべりける。かの御あたりの人は、上下心浅き人なくこそはべりけれ。 |
こゐんのうせたまひてのち、に、さんねんばかりのすゑに、よをそむきたまひしさがのゐんにも、ろくでうのゐんにも、さしのぞくひとの、こころをさめんかたなくなんはべりける。きくさのいろにつけても、なみだにくれてのみなんかへりはべりける。かのおほんあたりのひとは、かみしもこころあさきひとなくこそはべりけれ。 |
49 | 2.7.3 | 256 | 229 |
方々集ひものせられける人びとも、皆所々あかれ散りつつ、おのおの思ひ離るる住まひをしたまふめりしに、はかなきほどの女房などはた、まして心をさめむ方なくおぼえけるままに、ものおぼえぬ心にまかせつつ、山林に入り混じり、すずろなる田舎人になりなど、あはれに惑ひ散るこそ多くはべりけれ。 |
かたがたつどひものせられけるひとびとも、みなところどころあかれちりつつ、おのおのおもひはなるるすまひをしたまふめりしに、はかなきほどのにょうばうなどはた、ましてこころをさめんかたなくおぼえけるままに、ものおぼえぬこころにまかせつつ、やまはやしにいりまじり、すずろなるゐなかびとになりなど、あはれにまどひちるこそおほくはべりけれ。 |
49 | 2.7.4 | 257 | 230 |
さて、なかなか皆荒らし果て、忘れ草生ほして後なむ、この右の大臣も渡り住み、宮たちなども方々ものしたまへば、昔に返りたるやうにはべめる。さる世に、たぐひなき悲しさと見たまへしことも、年月経れば、思ひ覚ます折の出で来るにこそは、と見はべるに、げに、限りあるわざなりけり、となむ見えはべる。 |
さて、なかなかみなあらしはて、わすれぐさおほしてのちなん、このみぎのおとどもわたりすみ、みやたちなどもかたがたものしたまへば、むかしにかへりたるやうにはべめる。さるよに、たぐひなきかなしさとみたまへしことも、としつきふれば、おもひさますをりのいでくるにこそは、とみはべるに、げに、かぎりあるわざなりけり、となんみえはべる。 |
49 | 2.7.5 | 258 | 231 |
かくは聞こえさせながらも、かのいにしへの悲しさは、まだいはけなくもはべりけるほどにて、いとさしもしまぬにやはべりけむ。なほ、この近き夢こそ、覚ますべき方なく思ひたまへらるるは、同じこと、世の常なき悲しびなれど、罪深き方はまさりてはべるにやと、それさへなむ心憂くはべる」 |
かくはきこえさせながらも、かのいにしへのかなしさは、まだいはけなくもはべりけるほどにて、いとさしもしまぬにやはべりけん。なほ、このちかきゆめこそ、さますべきかたなくおもひたまへらるるは、おなじこと、よのつねなきかなしびなれど、つみふかきかたはまさりてはべるにやと、それさへなんこころうくはべる。" |
49 | 2.7.6 | 259 | 232 |
とて、泣きたまへるほど、いと心深げなり。 |
とて、なきたまへるほど、いとこころふかげなり。 |
49 | 2.7.7 | 260 | 233 |
昔の人を、いとしも思ひきこえざらむ人だに、この人の思ひたまへるけしきを見むには、すずろにただにもあるまじきを、まして、我もものを心細く思ひ乱れたまふにつけては、いとど常よりも、面影に恋しく悲しく思ひきこえたまふ心なれば、今すこしもよほされて、ものもえ聞こえたまはず、ためらひかねたまへるけはひを、かたみにいとあはれと思ひ交はしたまふ。 |
むかしのひとを、いとしもおもひきこえざらんひとだに、このひとのおもひたまへるけしきをみんには、すずろにただにもあるまじきを、まして、われもものをこころぼそくおもひみだれたまふにつけては、いとどつねよりも、おもかげにこひしくかなしくおもひきこえたまふこころなれば、いますこしもよほされて、ものもえきこえたまはず、ためらひかねたまへるけはひを、かたみにいとあはれとおもひかはしたまふ。 |
49 | 2.8 | 261 | 234 | 第八段 薫と中君の故里の宇治を思う |
49 | 2.8.1 | 262 | 235 |
「世の憂きよりはなど、人は言ひしをも、さやうに思ひ比ぶる心もことになくて、年ごろは過ぐしはべりしを、今なむ、なほいかで静かなるさまにても過ぐさまほしく思うたまふるを、さすがに心にもかなはざめれば、弁の尼こそうらやましくはべれ。 |
"よのうきよりはなど、ひとはいひしをも、さやうにおもひくらぶるこころもことになくて、としごろはすぐしはべりしを、いまなん、なほいかでしづかなるさまにてもすぐさまほしくおもうたまふるを、さすがにこころにもかなはざめれば、べんのあまこそうらやましくはべれ。 |
49 | 2.8.2 | 263 | 236 |
この二十日あまりのほどは、かの近き寺の鐘の声も聞きわたさまほしくおぼえはべるを、忍びて渡させたまひてむや、と聞こえさせばやとなむ思ひはべりつる」 |
このはつかあまりのほどは、かのちかきてらのかねのこゑもききわたさまほしくおぼえはべるを、しのびてわたさせたまひてんや、ときこえさせばやとなんおもひはべりつる。" |
49 | 2.8.3 | 264 | 237 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 2.8.4 | 265 | 238 |
「荒らさじと思すとも、いかでかは。心やすき男だに、往き来のほど荒ましき山道にはべれば、思ひつつなむ月日も隔たりはべる。故宮の御忌日は、かの阿闍梨に、さるべきことども皆言ひおきはべりにき。かしこは、なほ尊き方に思し譲りてよ。時々見たまふるにつけては、心惑ひの絶えせぬもあいなきに、罪失ふさまになしてばや、となむ思ひたまふるを、またいかが思しおきつらむ。 |
"あらさじとおぼすとも、いかでかは。こころやすきをのこだに、ゆききのほどあらましきやまみちにはべれば、おもひつつなんつきひもへだたりはべる。こみやのおほんきにちは、かのあざりに、さるべきことどもみないひおきはべりにき。かしこは、なほたふときかたにおぼしゆづりてよ。ときどきみたまふるにつけては、こころまどひのたえせぬもあいなきに、つみうしなふさまになしてばや、となんおもひたまふるを、またいかがおぼしおきつらん。 |
49 | 2.8.5 | 266 | 239 |
ともかくも定めさせたまはむに従ひてこそは、とてなむ。あるべからむやうにのたまはせよかし。何事も疎からず承らむのみこそ、本意のかなふにてははべらめ」 |
ともかくもさだめさせたまはんにしたがひてこそは、とてなん。あるべからんやうにのたまはせよかし。なにごともうとからずうけたまはらんのみこそ、ほいのかなふにてははべらめ。" |
49 | 2.8.6 | 267 | 240 |
など、まめだちたることどもを聞こえたまふ。経仏など、この上も供養じたまふべきなめり。かやうなるついでにことづけて、やをら籠もりゐなばや、などおもむけたまへるけしきなれば、 |
など、まめだちたることどもをきこえたまふ。きゃうほとけなど、このうへもくやうじたまふべきなめり。かやうなるついでにことづけて、やをらこもりゐなばや、などおもむけたまへるけしきなれば、 |
49 | 2.8.7 | 268 | 241 |
「いとあるまじきことなり。なほ、何事も心のどかに思しなせ」 |
"いとあるまじきことなり。なほ、なにごともこころのどかにおぼしなせ。" |
49 | 2.8.8 | 269 | 242 |
と教へきこえたまふ。 |
とをしへきこえたまふ。 |
49 | 2.9 | 270 | 243 | 第九段 薫、二条院を退出して帰宅 |
49 | 2.9.1 | 271 | 244 |
日さし上がりて、人びと参り集まりなどすれば、あまり長居もことあり顔ならむによりて、出でたまひなむとて、 |
ひさしあがりて、ひとびとまゐりあつまりなどすれば、あまりながゐもことありがほならんによりて、いでたまひなんとて、 |
49 | 2.9.2 | 272 | 245 |
「いづこにても、御簾の外にはならひはべらねば、はしたなき心地しはべりてなむ。今また、かやうにもさぶらはむ」 |
"いづこにても、みすのとにはならひはべらねば、はしたなきここちしはべりてなん。いままた、かやうにもさぶらはん。" |
49 | 2.9.3 | 273 | 246 |
とて立ちたまひぬ。「宮の、などかなき折には来つらむ」と思ひたまひぬべき御心なるもわづらはしくて、侍の別当なる、右京大夫召して、 |
とてたちたまひぬ。"みやの、などかなきをりにはきつらん。"とおもひたまひぬべきみこころなるもわづらはしくて、さぶらひのべったうなる、うきゃうのかみめして、 |
49 | 2.9.4 | 274 | 247 |
「昨夜まかでさせたまひぬと承りて参りつるを、まだしかりければ口惜しきを。内裏にや参るべき」 |
"よべまかでさせたまひぬとうけたまはりてまゐりつるを、まだしかりければくちをしきを。うちにやまゐるべき。" |
49 | 2.9.5 | 275 | 248 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 2.9.6 | 276 | 249 |
「今日は、まかでさせたまひなむ」 |
"けふは、まかでさせたまひなん。" |
49 | 2.9.7 | 277 | 250 |
と申せば、 |
とまうせば、 |
49 | 2.9.8 | 278 | 251 |
「さらば、夕つ方も」 |
"さらば、ゆふつかたも。" |
49 | 2.9.9 | 279 | 252 |
とて、出でたまひぬ。 |
とて、いでたまひぬ。 |
49 | 2.9.10 | 280 | 253 |
なほ、この御けはひありさまを聞きたまふたびごとに、などて昔の人の御心おきてをもて違へて、思ひ隈なかりけむと、悔ゆる心のみまさりて、心にかかりたるもむつかしく、「なぞや、人やりならぬ心ならむ」と思ひ返したまふ。そのままにまだ精進にて、いとどただ行なひをのみしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。 |
なほ、このおほんけはひありさまをききたまふたびごとに、などてむかしのひとのみこころおきてをもてたがへて、おもひくまなかりけんと、くゆるこころのみまさりて、こころにかかりたるもむつかしく、"なぞや、ひとやりならぬこころならん。"とおもひかへしたまふ。そのままにまださうじんにて、いとどただおこなひをのみしたまひつつ、あかしくらしたまふ。 |
49 | 2.9.11 | 281 | 254 |
母宮の、なほいとも若くおほどきて、しどけなき御心にも、かかる御けしきを、いとあやふくゆゆしと思して、 |
ははみやの、なほいともわかくおほどきて、しどけなきみこころにも、かかるみけしきを、いとあやふくゆゆしとおぼして、 |
49 | 2.9.12 | 282 | 255 |
「幾世しもあらじを、見たてまつらむほどは、なほかひあるさまにて見えたまへ。世の中を思ひ捨てたまはむをも、かかる容貌にては、さまたげきこゆべきにもあらぬを、この世の言ふかひなき心地すべき心惑ひに、いとど罪や得むとおぼゆる」 |
"いくよしもあらじを、みたてまつらんほどは、なほかひあるさまにてみえたまへ。よのなかをおもひすてたまはんをも、かかるかたちにては、さまたげきこゆべきにもあらぬを、このよのいふかひなきここちすべきこころまどひに、いとどつみやえんとおぼゆる。" |
49 | 2.9.13 | 283 | 256 |
とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづを思ひ消ちつつ、御前にてはもの思ひなきさまを作りたまふ。 |
とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづをおもひけちつつ、おまへにてはものおもひなきさまをつくりたまふ。 |
49 | 3 | 284 | 257 | 第三章 中君の物語 匂宮と六の君の婚儀 |
49 | 3.1 | 285 | 258 | 第一段 匂宮と六の君の婚儀 |
49 | 3.1.1 | 286 | 259 |
右の大殿には、六条院の東の御殿磨きしつらひて、限りなくよろづを整へて待ちきこえたまふに、十六日の月やうやうさし上がるまで心もとなければ、いとしも御心に入らぬことにて、いかならむと、やすからず思ほして、案内したまへば、 |
みぎのおほいどのには、ろくでうのゐんのひんがしのおとどみがきしつらひて、かぎりなくよろづをととのへてまちきこえたまふに、いさよひのつきやうやうさしあがるまでこころもとなければ、いとしもみこころにいらぬことにて、いかならんと、やすからずおもほして、あないしたまへば、 |
49 | 3.1.2 | 287 | 260 |
「この夕つ方、内裏より出でたまひて、二条院になむおはしますなる」 |
"このゆふつかた、うちよりいでたまひて、にでうのゐんになんおはしますなる。" |
49 | 3.1.3 | 288 | 261 |
と、人申す。思す人持たまへればと、心やましけれど、今宵過ぎむも人笑へなるべければ、御子の頭中将して聞こえたまへり。 |
と、ひとまうす。おぼすひともたまへればと、こころやましけれど、こよひすぎんもひとわらへなるべければ、みこのとうのちうじゃうしてきこえたまへり。 |
49 | 3.1.4 | 289 | 262 |
「大空の月だに宿るわが宿に<BR/>待つ宵過ぎて見えぬ君かな」 |
"〔おほぞらのつきだにやどるわがやどに<BR/>まつよひすぎてみえぬきみかな〕 |
49 | 3.1.5 | 290 | 263 |
宮は、「なかなか今なむとも見えじ、心苦し」と思して、内裏におはしけるを、御文聞こえたまへりけり。御返りやいかがありけむ、なほいとあはれに思されければ、忍びて渡りたまへりけるなりけり。らうたげなるありさまを、見捨てて出づべき心地もせず、いとほしければ、よろづに契り慰めて、もろともに月を眺めておはするほどなりけり。 |
みやは、"なかなかいまなんともみえじ、こころぐるし。"とおぼして、うちにおはしけるを、おほんふみきこえたまへりけり。おほんかへりやいかがありけん、なほいとあはれにおぼされければ、しのびてわたりたまへりけるなりけり。らうたげなるありさまを、みすてていづべきここちもせず、いとほしければ、よろづにちぎりなぐさめて、もろともにつきをながめておはするほどなりけり。 |
49 | 3.1.6 | 291 | 264 |
女君は、日ごろもよろづに思ふこと多かれど、いかでけしきに出ださじと念じ返しつつ、つれなく覚ましたまふことなれば、ことに聞きもとどめぬさまに、おほどかにもてなしておはするけしき、いとあはれなり。 |
をんなぎみは、ひごろもよろづにおもふことおほかれど、いかでけしきにいださじとねんじかへしつつ、つれなくさましたまふことなれば、ことにききもとどめぬさまに、おほどかにもてなしておはするけしき、いとあはれなり。 |
49 | 3.1.7 | 292 | 265 |
中将の参りたまへるを聞きたまひて、さすがにかれもいとほしければ、出でたまはむとて、 |
ちうじゃうのまゐりたまへるをききたまひて、さすがにかれもいとほしければ、いでたまはんとて、 |
49 | 3.1.8 | 293 | 266 |
「今、いと疾く参り来む。一人月な見たまひそ。心そらなればいと苦しき」 |
"いま、いととくまゐりこん。ひとりつきなみたまひそ。こころそらなればいとくるしき。" |
49 | 3.1.9 | 294 | 267 |
と聞こえおきたまひて、なほかたはらいたければ、隠れの方より寝殿へ渡りたまふ、御うしろでを見送るに、ともかくも思はねど、ただ枕の浮きぬべき心地すれば、「心憂きものは人の心なりけり」と、我ながら思ひ知らる。 |
ときこえおきたまひて、なほかたはらいたければ、かくれのかたよりしんでんへわたりたまふ、おほんうしろでをみおくるに、ともかくもおもはねど、ただまくらのうきぬべきここちすれば、"こころうきものはひとのこころなりけり。"と、われながらおもひしらる。 |
49 | 3.2 | 295 | 268 | 第二段 中君の不安な心境 |
49 | 3.2.1 | 296 | 269 |
「幼きほどより心細くあはれなる身どもにて、世の中を思ひとどめたるさまにもおはせざりし人一所を頼みきこえさせて、さる山里に年経しかど、いつとなくつれづれにすごくありながら、いとかく心にしみて世を憂きものとも思はざりしに、うち続きあさましき御ことどもを思ひしほどは、世にまたとまりて片時経べくもおぼえず、恋しく悲しきことのたぐひあらじと思ひしを、命長くて今までもながらふれば、人の思ひたりしほどよりは、人にもなるやうなるありさまを、長かるべきこととは思はねど、見る限りは憎げなき御心ばへもてなしなるに、やうやう思ふこと薄らぎてありつるを、この折ふしの身の憂さはた、言はむ方なく、限りとおぼゆるわざなりけり。 |
"をさなきほどよりこころぼそくあはれなるみどもにて、よのなかをおもひとどめたるさまにもおはせざりしひとひとところをたのみきこえさせて、さるやまざとにとしへしかど、いつとなくつれづれにすごくありながら、いとかくこころにしみてよをうきものともおもはざりしに、うちつづきあさましきおほんことどもをおもひしほどは、よにまたとまりてかたときふべくもおぼえず、こひしくかなしきことのたぐひあらじとおもひしを、いのちながくていままでもながらふれば、ひとのおもひたりしほどよりは、ひとにもなるやうなるありさまを、ながかるべきこととはおもはねど、みるかぎりはにくげなきみこころばへもてなしなるに、やうやうおもふことうすらぎてありつるを、このをりふしのみのうさはた、いはんかたなく、かぎりとおぼゆるわざなりけり。 |
49 | 3.2.2 | 297 | 270 |
ひたすら世になくなりたまひにし人びとよりは、さりともこれは、時々もなどかは、とも思ふべきを、今宵かく見捨てて出でたまふつらさ、来し方行く先、皆かき乱り心細くいみじきが、わが心ながら思ひやる方なく、心憂くもあるかな。おのづからながらへば」 |
ひたすらよになくなりたまひにしひとびとよりは、さりともこれは、ときどきもなどかは、ともおもふべきを、こよひかくみすてていでたまふつらさ、きしかたゆくさき、みなかきみだりこころぼそくいみじきが、わがこころながらおもひやるかたなく、こころうくもあるかな。おのづからながらへば。" |
49 | 3.2.3 | 298 | 272 |
など慰めむことを思ふに、さらに姨捨山の月澄み昇りて、夜更くるままによろづ思ひ乱れたまふ。松風の吹き来る音も、荒ましかりし山おろしに思ひ比ぶれば、いとのどかになつかしく、めやすき御住まひなれど、今宵はさもおぼえず、椎の葉の音には劣りて思ほゆ。 |
などなぐさめんことをおもふに、さらにをばすてやまのつきすみのぼりて、よふくるままによろづおもひみだれたまふ。まつかぜのふきくるおとも、あらましかりしやまおろしにおもひくらぶれば、いとのどかになつかしく、めやすきおほんすまひなれど、こよひはさもおぼえず、しひのはのおとにはおとりておもほゆ。 |
49 | 3.2.4 | 299 | 273 |
「山里の松の蔭にもかくばかり<BR/>身にしむ秋の風はなかりき」 |
"〔やまざとのまつのかげにもかくばかり<BR/>みにしむあきのかぜはなかりき〕 |
49 | 3.2.5 | 300 | 274 |
来し方忘れにけるにやあらむ。 |
きしかたわすれにけるにやあらん。 |
49 | 3.2.6 | 301 | 275 |
老い人どもなど、 |
おいびとどもなど、 |
49 | 3.2.7 | 302 | 276 |
「今は、入らせたまひね。月見るは忌みはべるものを。あさましく、はかなき御くだものをだに御覧じ入れねば、いかにならせたまはむ」と。「あな、見苦しや。ゆゆしう思ひ出でらるることもはべるを、いとこそわりなく」 |
"いまは、いらせたまひね。つきみるはいみはべるものを。あさましく、はかなきおほんくだものをだにごらんじいれねば、いかにならせたまはん。"と、"あな、みぐるしや。ゆゆしうおもひいでらるることもはべるを、いとこそわりなく。" |
49 | 3.2.8 | 303 | 277 |
とうち嘆きて、 |
とうちなげきて、 |
49 | 3.2.9 | 304 | 278 |
「いで、この御ことよ。さりとも、かうておろかには、よもなり果てさせたまはじ。さいへど、もとの心ざし深く思ひそめつる仲は、名残なからぬものぞ」 |
"いで、このおほんことよ。さりとも、かうておろかには、よもなりはてさせたまはじ。さいへど、もとのこころざしふかくおもひそめつるなかは、なごりなからぬものぞ。" |
49 | 3.2.10 | 305 | 279 |
など言ひあへるも、さまざまに聞きにくく、「今は、いかにもいかにもかけて言はざらなむ、ただにこそ見め」と思さるるは、人には言はせじ、我一人怨みきこえむとにやあらむ。「いでや、中納言殿の、さばかりあはれなる御心深さを」など、そのかみの人びとは言ひあはせて、「人の御宿世のあやしかりけることよ」と言ひあへり。 |
などいひあへるも、さまざまにききにくく、"いまは、いかにもいかにもかけていはざらなん、ただにこそみめ。"とおぼさるるは、ひとにはいはせじ、われひとりうらみきこえんとにやあらん。"いでや、ちうなごんどのの、さばかりあはれなるみこころふかさを。"など、そのかみのひとびとはいひあはせて、"ひとのおほんすくせのあやしかりけることよ。"といひあへり。 |
49 | 3.3 | 306 | 280 | 第三段 匂宮、六の君に後朝の文を書く |
49 | 3.3.1 | 307 | 281 |
宮は、いと心苦しく思しながら、今めかしき御心は、いかでめでたきさまに待ち思はれむと、心懸想して、えならず薫きしめたまへる御けはひ、言はむ方なし。待ちつけきこえたまへる所のありさまも、いとをかしかりけり。人のほど、ささやかにあえかになどはあらで、よきほどになりあひたる心地したまへるを、 |
みやは、いとこころぐるしくおぼしながら、いまめかしきみこころは、いかでめでたきさまにまちおもはれんと、こころげさうして、えならずたきしめたまへるおほんけはひ、いはんかたなし。まちつけきこえたまへるところのありさまも、いとをかしかりけり。ひとのほど、ささやかにあえかになどはあらで、よきほどになりあひたるここちしたまへるを、 |
49 | 3.3.2 | 308 | 282 |
「いかならむ。ものものしくあざやぎて、心ばへもたをやかなる方はなく、ものほこりかになどやあらむ。さらばこそ、うたてあるべけれ」 |
"いかならん。ものものしくあざやぎて、こころばへもたをやかなるかたはなく、ものほこりかになどやあらん。さらばこそ、うたてあるべけれ。" |
49 | 3.3.3 | 309 | 283 |
などは思せど、さやなる御けはひにはあらぬにや、御心ざしおろかなるべくも思されざりけり。秋の夜なれど、更けにしかばにや、ほどなく明けぬ。 |
などはおぼせど、さやなるおほんけはひにはあらぬにや、みこころざしおろかなるべくもおぼされざりけり。あきのよなれど、ふけにしかばにや、ほどなくあけぬ。 |
49 | 3.3.4 | 310 | 284 |
帰りたまひても、対へはふともえ渡りたまはず、しばし大殿籠もりて、起きてぞ御文書きたまふ。 |
かへりたまひても、たいへはふともえわたりたまはず、しばしおほとのごもりて、おきてぞおほんふみかきたまふ。 |
49 | 3.3.5 | 311 | 285 |
「御けしきけしうはあらぬなめり」 |
"みけしきけしうはあらぬなめり。" |
49 | 3.3.6 | 312 | 286 |
と、御前なる人びとつきじろふ。 |
と、おまへなるひとびとつきじろふ。 |
49 | 3.3.7 | 313 | 287 |
「対の御方こそ心苦しけれ。天下にあまねき御心なりとも、おのづからけおさるることもありなむかし」 |
"たいのおほんかたこそこころぐるしけれ。てんげにあまねきみこころなりとも、おのづからけおさるることもありなんかし。" |
49 | 3.3.8 | 314 | 288 |
など、ただにしもあらず、皆馴れ仕うまつりたる人びとなれば、やすからずうち言ふどももありて、すべて、なほねたげなるわざにぞありける。「御返りも、こなたにてこそは」と思せど、「夜のほどおぼつかなさも、常の隔てよりはいかが」と、心苦しければ、急ぎ渡りたまふ。 |
など、ただにしもあらず、みななれつかうまつりたるひとびとなれば、やすからずうちいふどももありて、すべて、なほねたげなるわざにぞありける。"おほんかへりも、こなたにてこそは。"とおぼせど、"よのほどおぼつかなさも、つねのへだてよりはいかが。"と、こころくるしければ、いそぎわたりたまふ。 |
49 | 3.3.9 | 315 | 289 |
寝くたれの御容貌、いとめでたく見所ありて、入りたまへるに、臥したるもうたてあれば、すこし起き上がりておはするに、うち赤みたまへる顔の匂ひなど、今朝しもことにをかしげさまさりて見えたまふに、あいなく涙ぐまれて、しばしうちまもりきこえたまふを、恥づかしく思してうつ臥したまへる、髪のかかり、髪ざしなど、なほいとありがたげなり。 |
ねくたれのおほんかたち、いとめでたくみどころありて、いりたまへるに、ふしたるもうたてあれば、すこしおきあがりておはするに、うちあかみたまへるかほのにほひなど、けさしもことにをかしげさまさりてみえたまふに、あいなくなみだぐまれて、しばしうちまもりきこえたまふを、はづかしくおぼしてうつぶしたまへる、かみのかかり、かんざしなど、なほいとありがたげなり。 |
49 | 3.3.10 | 316 | 290 |
宮も、なまはしたなきに、こまやかなることなどは、ふともえ言ひ出でたまはぬ面隠しにや、 |
みやも、なまはしたなきに、こまやかなることなどは、ふともえいひいでたまはぬおもがくしにや、 |
49 | 3.3.11 | 317 | 291 |
「などかくのみ悩ましげなる御けしきならむ。暑きほどのこととか、のたまひしかば、いつしかと涼しきほど待ち出でたるも、なほはればれしからぬは、見苦しきわざかな。さまざまにせさすることも、あやしく験なき心地こそすれ。さはありとも、修法はまた延べてこそはよからめ。験あらむ僧もがな。なにがし僧都をぞ、夜居にさぶらはすべかりける」 |
"などかくのみなやましげなるみけしきならん。あつきほどのこととか、のたまひしかば、いつしかとすずしきほどまちいでたるも、なほはればれしからぬは、みぐるしきわざかな。さまざまにせさすることも、あやしくしるしなきここちこそすれ。さはありとも、すほふはまたのべてこそはよからめ。しるしあらんそうもがな。なにがしそうづをぞ、よゐにさぶらはすべかりける。" |
49 | 3.3.12 | 318 | 292 |
など、やうなるまめごとをのたまへば、かかる方にも言よきは、心づきなくおぼえたまへど、むげにいらへきこえざらむも例ならねば、 |
など、やうなるまめごとをのたまへば、かかるかたにもことよきは、こころづきなくおぼえたまへど、むげにいらへきこえざらんもれいならねば、 |
49 | 3.3.13 | 319 | 293 |
「昔も、人に似ぬありさまにて、かやうなる折はありしかど、おのづからいとよくおこたるものを」 |
"むかしも、ひとににぬありさまにて、かやうなるをりはありしかど、おのづからいとよくおこたるものを。" |
49 | 3.3.14 | 320 | 294 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 3.3.15 | 321 | 295 |
「いとよくこそ、さはやかなれ」 |
"いとよくこそ、さはやかなれ。" |
49 | 3.3.16 | 322 | 296 |
とうち笑ひて、「なつかしく愛敬づきたる方は、これに並ぶ人はあらじかし」とは思ひながら、なほまた、とくゆかしき方の心焦られも立ち添ひたまへるは、御心ざしおろかにもあらぬなめりかし。 |
とうちわらひて、"なつかしくあいぎゃうづきたるかたは、これにならぶひとはあらじかし。"とはおもひながら、なほまた、とくゆかしきかたのこころいられもたちそひたまへるは、みこころざしおろかにもあらぬなめりかし。 |
49 | 3.4 | 323 | 297 | 第四段 匂宮、中君を慰める |
49 | 3.4.1 | 324 | 298 |
されど、見たまふほどは変はるけぢめもなきにや、後の世まで誓ひ頼めたまふことどもの尽きせぬを聞くにつけても、げに、この世は短かめる命待つ間も、つらき御心に見えぬべければ、「後の契りや違はぬこともあらむ」と思ふにこそ、なほこりずまに、またも頼まれぬべけれとて、いみじく念ずべかめれど、え忍びあへぬにや、今日は泣きたまひぬ。 |
されど、みたまふほどはかはるけぢめもなきにや、のちのよまでちかひたのめたまふことどものつきせぬをきくにつけても、げに、このよはみじかめるいのちまつまも、つらきみこころにみえぬべければ、"のちのちぎりやたがはぬこともあらん。"とおもふにこそ、なほこりずまに、またもたのまれぬべけれとて、いみじくねんずべかめれど、えしのびあへぬにや、けふはなきたまひぬ。 |
49 | 3.4.2 | 325 | 299 |
日ごろも、「いかでかう思ひけりと見えたてまつらじ」と、よろづに紛らはしつるを、さまざまに思ひ集むることし多かれば、さのみもえもて隠されぬにや、こぼれそめては、えとみにもためらはぬを、いと恥づかしくわびしと思ひて、いたく背きたまへば、しひてひき向けたまひつつ、 |
ひごろも、"いかでかうおもひけりとみえたてまつらじ。"と、よろづにまぎらはしつるを、さまざまにおもひあつむることしおほかれば、さのみもえもてかくされぬにや、こぼれそめては、えとみにもためらはぬを、いとはづかしくわびしとおもひて、いたくそむきたまへば、しひてひきむけたまひつつ、 |
49 | 3.4.3 | 326 | 300 |
「聞こゆるままに、あはれなる御ありさまと見つるを、なほ隔てたる御心こそありけれな。さらずは、夜のほどに思し変はりにたるか」 |
"きこゆるままに、あはれなるおほんありさまとみつるを、なほへだてたるみこころこそありけれな。さらずは、よのほどにおぼしかはりにたるか。" |
49 | 3.4.4 | 327 | 301 |
とて、わが御袖して涙を拭ひたまへば、 |
とて、わがおほんそでしてなみだをのぐひたまへば、 |
49 | 3.4.5 | 328 | 302 |
「夜の間の心変はりこそ、のたまふにつけて、推し量られはべりぬれ」 |
"よのまのこころがはりこそ、のたまふにつけて、おしはかられはべりぬれ。" |
49 | 3.4.6 | 329 | 303 |
とて、すこしほほ笑みぬ。 |
とて、すこしほほゑみぬ。 |
49 | 3.4.7 | 330 | 304 |
「げに、あが君や、幼なの御もの言ひやな。されどまことには、心に隈のなければ、いと心やすし。いみじくことわりして聞こゆとも、いとしるかるべきわざぞ。むげに世のことわりを知りたまはぬこそ、らうたきものからわりなけれ。よし、わが身になしても思ひめぐらしたまへ。身を心ともせぬありさまなり。もし、思ふやうなる世もあらば、人にまさりける心ざしのほど、知らせたてまつるべきひとふしなむある。たはやすく言出づべきことにもあらねば、命のみこそ」 |
"げに、あがきみや、をさなのおほんものいひやな。されどまことには、こころにくまのなければ、いとこころやすし。いみじくことわりしてきこゆとも、いとしるかるべきわざぞ。むげによのことわりをしりたまはぬこそ、らうたきものからわりなけれ。よし、わがみになしてもおもひめぐらしたまへ。みをこころともせぬありさまなり。もし、おもふやうなるよもあらば、ひとにまさりけるこころざしのほど、しらせたてまつるべきひとふしなんある。たはやすくこといづべきことにもあらねば、いのちのみこそ。" |
49 | 3.4.8 | 331 | 305 |
などのたまふほどに、かしこにたてまつれたまへる御使、いたく酔ひ過ぎにければ、すこし憚るべきことども忘れて、けざやかにこの南面に参れり。 |
などのたまふほどに、かしこにたてまつれたまへるおほんつかひ、いたくゑひすぎにければ、すこしはばかるべきことどもわすれて、けざやかにこのみなみおもてにまゐれり。 |
49 | 3.5 | 332 | 306 | 第五段 後朝の使者と中君の諦観 |
49 | 3.5.1 | 333 | 307 |
海人の刈るめづらしき玉藻にかづき埋もれたるを、「さなめり」と、人びと見る。いつのほどに急ぎ書きたまへらむと見るも、やすからずはありけむかし。宮も、あながちに隠すべきにはあらねど、さしぐみはなほいとほしきを、すこしの用意はあれかしと、かたはらいたけれど、今はかひなければ、女房して御文とり入れさせたまふ。 |
あまのかるめづらしきたまもにかづきうづもれたるを、"さなめり。"と、ひとびとみる。いつのほどにいそぎかきたまへらんとみるも、やすからずはありけんかし。みやも、あながちにかくすべきにはあらねど、さしぐみはなほいとほしきを、すこしのよういはあれかしと、かたはらいたけれど、いまはかひなければ、にょうばうしておほんふみとりいれさせたまふ。 |
49 | 3.5.2 | 334 | 308 |
「同じくは、隔てなきさまにもてなし果ててむ」と思ほして、ひき開けたまへるに、「継母の宮の御手なめり」と見ゆれば、今すこし心やすくて、うち置きたまへり。宣旨書きにても、うしろめたのわざや。 |
"おなじくは、へだてなきさまにもてなしはててん。"とおもほして、ひきあけたまへるに、"ままははのみやのおほんてなめり。"とみゆれば、いますこしこころやすくて、うちおきたまへり。せんじがきにても、うしろめたのわざや。 |
49 | 3.5.3 | 335 | 309 |
「さかしらは、かたはらいたさに、そそのかしはべれど、いと悩ましげにてなむ。 |
"さかしらは、かたはらいたさに、そそのかしはべれど、いとなやましげにてなん。 |
49 | 3.5.4 | 336 | 310 |
女郎花しをれぞまさる朝露の<BR/>いかに置きける名残なるらむ」 |
をみなへししをれぞまさるあさつゆの<BR/>いかにおきけるなごりなるらん〕 |
49 | 3.5.5 | 337 | 311 |
あてやかにをかしく書きたまへり。 |
あてやかにをかしくかきたまへり。 |
49 | 3.5.6 | 338 | 312 |
「かことがましげなるもわづらはしや。まことは、心やすくてしばしはあらむと思ふ世を、思ひの外にもあるかな」 |
"かことがましげなるもわづらはしや。まことは、こころやすくてしばしはあらんとおもふよを、おもひのほかにもあるかな。" |
49 | 3.5.7 | 339 | 313 |
などはのたまへど、 |
などはのたまへど、 |
49 | 3.5.8 | 340 | 314 |
「また二つとなくて、さるべきものに思ひならひたるただ人の仲こそ、かやうなることの恨めしさなども、見る人苦しくはあれ、思へばこれはいと難し。つひにかかるべき御ことなり。宮たちと聞こゆるなかにも、筋ことに世人思ひきこえたれば、幾人も幾人も得たまはむことも、もどきあるまじければ、人も、この御方いとほしなども思ひたらぬなるべし。かばかりものものしくかしづき据ゑたまひて、心苦しき方、おろかならず思したるをぞ、幸ひおはしける」 |
"またふたつとなくて、さるべきものにおもひならひたるただうどのなかこそ、かやうなることのうらめしさなども、みるひとくるしくはあれ、おもへばこれはいとかたし。つひにかかるべきおほんことなり。みやたちときこゆるなかにも、すぢことによひとおもひきこえたれば、いくたりもいくたりもえたまはんことも、もどきあるまじければ、ひとも、このおほんかたいとほしなどもおもひたらぬなるべし。かばかりものものしくかしづきすゑたまひて、こころぐるしきかた、おろかならずおぼしたるをぞ、さいはひおはしける。" |
49 | 3.5.9 | 341 | 315 |
と聞こゆめる。みづからの心にも、あまりにならはしたまうて、にはかにはしたなかるべきが嘆かしきなめり。 |
ときこゆめる。みづからのこころにも、あまりにならはしたまうて、にはかにはしたなかるべきがなげかしきなめり。 |
49 | 3.5.10 | 342 | 316 |
「かかる道を、いかなれば浅からず人の思ふらむと、昔物語などを見るにも、人の上にても、あやしく聞き思ひしは、げにおろかなるまじきわざなりけり」 |
"かかるみちを、いかなればあさからずひとのおもふらんと、むかしものがたりなどをみるにも、ひとのうへにても、あやしくききおもひしは、げにおろかなるまじきわざなりけり。" |
49 | 3.5.11 | 343 | 317 |
と、わが身になりてぞ、何ごとも思ひ知られたまひける。 |
と、わがみになりてぞ、なにごともおもひしられたまひける。 |
49 | 3.6 | 344 | 318 | 第六段 匂宮と六の君の結婚第二夜 |
49 | 3.6.1 | 345 | 319 |
宮は、常よりもあはれに、うちとけたるさまにもてなしたまひて、 |
みやは、つねよりもあはれに、うちとけたるさまにもてなしたまひて、 |
49 | 3.6.2 | 346 | 320 |
「むげにもの参らざなるこそ、いと悪しけれ」 |
"むげにものまゐらざなるこそ、いとあしけれ。" |
49 | 3.6.3 | 347 | 321 |
とて、よしある御くだもの召し寄せ、また、さるべき人召して、ことさらに調ぜさせなどしつつ、そそのかしきこえたまへど、いとはるかにのみ思したれば、「見苦しきわざかな」と嘆ききこえたまふに、暮れぬれば、夕つ方、寝殿へ渡りたまひぬ。 |
とて、よしあるおほんくだものめしよせ、また、さるべきひとめして、ことさらにてうぜさせなどしつつ、そそのかしきこえたまへど、いとはるかにのみおぼしたれば、"みぐるしきわざかな。"となげききこえたまふに、くれぬれば、ゆふつかた、しんでんへわたりたまひぬ。 |
49 | 3.6.4 | 348 | 322 |
風涼しく、おほかたの空をかしきころなるに、今めかしきにすすみたまへる御心なれば、いとどしく艶なるに、もの思はしき人の御心のうちは、よろづに忍びがたきことのみぞ多かりける。ひぐらしの鳴く声に、山の蔭のみ恋しくて、 |
かぜすずしく、おほかたのそらをかしきころなるに、いまめかしきにすすみたまへるみこころなれば、いとどしくえんなるに、ものおもはしきひとのみこころのうちは、よろづにしのびがたきことのみぞおほかりける。ひぐらしのなくこゑに、やまのかげのみこひしくて、 |
49 | 3.6.5 | 349 | 323 |
「おほかたに聞かましものをひぐらしの<BR/>声恨めしき秋の暮かな」 |
"〔おほかたにきかましものをひぐらしの<BR/>こゑうらめしきあきのくれかな〕 |
49 | 3.6.6 | 350 | 324 |
今宵はまだ更けぬに出でたまふなり。御前駆の声の遠くなるままに、海人も釣すばかりになるも、「我ながら憎き心かな」と、思ふ思ふ聞き臥したまへり。はじめよりもの思はせたまひしありさまなどを思ひ出づるも、疎ましきまでおぼゆ。 |
こよひはまだふけぬにいでたまふなり。おほんさきのこゑのとほくなるままに、あまもつりすばかりになるも、"われながらにくきこころかな。"と、おもふおもふききふしたまへり。はじめよりものおもはせたまひしありさまなどをおもひいづるも、うとましきまでおぼゆ。 |
49 | 3.6.7 | 351 | 325 |
「この悩ましきことも、いかならむとすらむ。いみじく命短き族なれば、かやうならむついでにもやと、はかなくなりなむとすらむ」 |
"このなやましきことも、いかならんとすらん。いみじくいのちみじかきぞうなれば、かやうならんついでにもやと、はかなくなりなんとすらん。" |
49 | 3.6.8 | 352 | 326 |
と思ふには、「惜しからねど、悲しくもあり、またいと罪深くもあなるものを」など、まどろまれぬままに思ひ明かしたまふ。 |
とおもふには、"をしからねど、かなしくもあり、またいとつみふかくもあなるものを。"など、まどろまれぬままにおもひあかしたまふ。 |
49 | 3.7 | 353 | 327 | 第七段 匂宮と六の君の結婚第三夜の宴 |
49 | 3.7.1 | 354 | 328 |
その日は、后の宮悩ましげにおはしますとて、誰も誰も、参りたまへれど、御風邪におはしましければ、ことなることもおはしまさずとて、大臣は昼まかでたまひにけり。中納言の君誘ひきこえたまひて、一つ御車にてぞ出でたまひにける。 |
そのひは、きさいのみやなやましげにおはしますとて、たれもたれも、まゐりたまへれど、おほんかぜにおはしましければ、ことなることもおはしまさずとて、おとどはひるまかでたまひにけり。ちうなごんのきみさそひきこえたまひて、ひとつくるまにてぞいでたまひにける。 |
49 | 3.7.2 | 355 | 329 |
「今宵の儀式、いかならむ。きよらを尽くさむ」と思すべかめれど、限りあらむかし。この君も、心恥づかしけれど、親しき方のおぼえは、わが方ざまにまたさるべき人もおはせず、ものの栄にせむに、心ことにおはする人なればなめりかし。例ならずいそがしく参でたまひて、人の上に見なしたるを口惜しとも思ひたらず、何やかやともろ心に扱ひたまへるを、大臣は、人知れずなまねたしと思しけり。 |
"こよひのぎしき、いかならん。きよらをつくさん。"とおぼすべかめれど、かぎりあらんかし。このきみも、こころはづかしけれど、したしきかたのおぼえは、わがかたざまにまたさるべきひともおはせず、もののはえにせんに、こころことにおはするひとなればなめりかし。れいならずいそがしくまでたまひて、ひとのうへにみなしたるをくちをしともおもひたらず、なにやかやともろごころにあつかひたまへるを、おとどは、ひとしれずなまねたしとおぼしけり。 |
49 | 3.7.3 | 356 | 330 |
宵すこし過ぐるほどにおはしましたり。寝殿の南の廂、東に寄りて御座参れり。御台八つ、例の御皿など、うるはしげにきよらにて、また、小さき台二つに、花足の御皿なども、今めかしくせさせたまひて、餅参らせたまへり。めづらしからぬこと書きおくこそ憎けれ。 |
よひすこしすぐるほどにおはしましたり。しんでんのみなみのひさし、ひんがしによりておましまゐれり。みだいやつ、れいのおほんさらなど、うるはしげにきよらにて、また、ちひさきだいふたつに、けそくのさらなども、いまめかしくせさせたまひて、もちひまゐらせたまへり。めづらしからぬことかきおくこそにくけれ。 |
49 | 3.7.4 | 357 | 331 |
大臣渡りたまひて、「夜いたう更けぬ」と、女房してそそのかし申したまへど、いとあざれて、とみにも出でたまはず。北の方の御はらからの左衛門督、藤宰相などばかりものしたまふ。 |
おとどわたりたまひて、"よいたうふけぬ。"と、にょうばうしてそそのかしまうしたまへど、いとあざれて、とみにもいでたまはず。きたのかたのおほんはらからのさゑもんのかみ、とうさいしゃうなどばかりものしたまふ。 |
49 | 3.7.5 | 358 | 333 |
からうして出でたまへる御さま、いと見るかひある心地す。主人の頭中将、盃ささげて御台参る。次々の御土器、二度、三度参りたまふ。中納言のいたく勧めたまへるに、宮すこしほほ笑みたまへり。 |
からうしていでたまへるおほんさま、いとみるかひあるここちす。あるじのとうのちうじゃう、さかづきささげてみだいまゐる。つぎつぎのおほんかはらけ、ふたたび、みたびまゐりたまふ。ちうなごんのいたくすすめたまへるに、みやすこしほほゑみたまへり。 |
49 | 3.7.6 | 359 | 334 |
「わづらはしきわたりを」 |
"わづらはしきわたりを。" |
49 | 3.7.7 | 360 | 335 |
と、ふさはしからず思ひて言ひしを、思し出づるなめり。されど、見知らぬやうにて、いとまめなり。 |
と、ふさはしからずおもひていひしを、おぼしいづるなめり。されど、みしらぬやうにて、いとまめなり。 |
49 | 3.7.8 | 361 | 336 |
東の対に出でたまひて、御供の人びともてはやしたまふ。おぼえある殿上人どもいと多かり。 |
ひんがしのたいにいでたまひて、おほんとものひとびともてはやしたまふ。おぼえあるてんじゃうびとどもいとおほかり。 |
49 | 3.7.9 | 362 | 337 |
四位六人は、女の装束に細長添へて、五位十人は、三重襲の唐衣、裳の腰も皆けぢめあるべし。六位四人は、綾の細長、袴など。かつは、限りあることを飽かず思しければ、ものの色、しざまなどをぞ、きよらを尽くしたまへりける。 |
しゐろくにんは、をんなのさうぞくにほそながそへて、ごゐじふにんは、みへがさねのからぎぬ、ものこしもみなけぢめあるべし。ろくゐよにんは、あやのほそなが、はかまなど。かつは、かぎりあることをあかずおぼしければ、もののいろ、しざまなどをぞ、きよらをつくしたまへりける。 |
49 | 3.7.10 | 363 | 338 |
召次、舎人などの中には、乱りがはしきまでいかめしくなむありける。げに、かくにぎははしくはなやかなることは、見るかひあれば、物語などに、まづ言ひたてたるにやあらむ。されど、詳しくはえぞ数へ立てざりけるとや。 |
めしつぎ、とねりなどのなかには、みだりがはしきまでいかめしくなんありける。げに、かくにぎははしくはなやかなることは、みるかひあれば、ものがたりなどに、まづいひたてたるにやあらん。されど、くはしくはえぞかぞへたてざりけるとや。 |
49 | 4 | 364 | 339 | 第四章 薫の物語 中君に同情しながら恋慕の情高まる |
49 | 4.1 | 365 | 340 | 第一段 薫、匂宮の結婚につけわが身を顧みる |
49 | 4.1.1 | 366 | 341 |
中納言殿の御前の中に、なまおぼえあざやかならぬや、暗き紛れに立ちまじりたりけむ、帰りてうち嘆きて、 |
ちうなごんどののごぜんのなかに、なまおぼえあざやかならぬや、くらきまぎれにたちまじりたりけん、かへりてうちなげきて、 |
49 | 4.1.2 | 367 | 342 |
「わが殿の、などかおいらかに、この殿の御婿にうちならせたまふまじき。あぢきなき御独り住みなりや」 |
"わがとのの、などかおいらかに、このとののおほんむこにうちならせたまふまじき。あぢきなきおほんひとりずみなりや。" |
49 | 4.1.3 | 368 | 343 |
と、中門のもとにてつぶやきけるを聞きつけたまひて、をかしとなむ思しける。夜の更けてねぶたきに、かのもてかしづかれつる人びとは、心地よげに酔ひ乱れて寄り臥しぬらむかしと、うらやましきなめりかし。 |
と、ちうもんのもとにてつぶやきけるをききつけたまひて、をかしとなんおぼしける。よのふけてねぶたきに、かのもてかしづかれつるひとびとは、ここちよげにゑひみだれてよりふしぬらんかしと、うらやましきなめりかし。 |
49 | 4.1.4 | 369 | 344 |
君は、入りて臥したまひて、 |
きみは、いりてふしたまひて、 |
49 | 4.1.5 | 370 | 345 |
「はしたなげなるわざかな。ことことしげなるさましたる親の出でゐて、離れぬなからひなれど、これかれ、火明くかかげて、勧めきこゆる盃などを、いとめやすくもてなしたまふめりつるかな」 |
"はしたなげなるわざかな。ことことしげなるさましたるおやのいでゐて、はなれぬなからひなれど、これかれ、ひあかくかかげて、すすめきこゆるさかづきなどを、いとめやすくもてなしたまふめりつるかな。" |
49 | 4.1.6 | 371 | 346 |
と、宮の御ありさまを、めやすく思ひ出でたてまつりたまふ。 |
と、みやのおほんありさまを、めやすくおもひいでたてまつりたまふ。 |
49 | 4.1.7 | 372 | 347 |
「げに、我にても、よしと思ふ女子持たらましかば、この宮をおきたてまつりて、内裏にだにえ参らせざらまし」と思ふに、「誰れも誰れも、宮にたてまつらむと心ざしたまへる女は、なほ源中納言にこそと、とりどりに言ひならふなるこそ、わがおぼえの口惜しくはあらぬなめりな。さるは、いとあまり世づかず、古めきたるものを」など、心おごりせらる。 |
"げに、われにても、よしとおもふをんなごもたらましかば、このみやをおきたてまつりて、うちにだにえまゐらせざらまし。"とおもふに、"たれもたれも、みやにたてまつらんとこころざしたまへるむすめは、なほげんちうなごんにこそと、とりどりにいひならふなるこそ、わがおぼえのくちをしくはあらぬなめりな。さるは、いとあまりよづかず、ふるめきたるものを。"など、こころおごりせらる。 |
49 | 4.1.8 | 373 | 348 |
「内裏の御けしきあること、まことに思したたむに、かくのみもの憂くおぼえば、いかがすべからむ。おもだたしきことにはありとも、いかがはあらむ。いかにぞ、故君にいとよく似たまへらむ時に、うれしからむかし」と思ひ寄らるるは、さすがにもて離るまじき心なめりかし。 |
"うちのみけしきあること、まことにおぼしたたんに、かくのみものうくおぼえば、いかがすべからん。おもだたしきことにはありとも、いかがはあらん。いかにぞ、こきみにいとよくにたまへらんときに、うれしからんかし。"とおもひよらるるは、さすがにもてはなるまじきこころなめりかし。 |
49 | 4.2 | 374 | 349 | 第二段 薫と按察使の君、匂宮と六の君 |
49 | 4.2.1 | 375 | 350 |
例の、寝覚がちなるつれづれなれば、按察使の君とて、人よりはすこし思ひましたまへるが局におはして、その夜は明かしたまひつ。明け過ぎたらむを、人の咎むべきにもあらぬに、苦しげに急ぎ起きたまふを、ただならず思ふべかめり。 |
れいの、ねざめがちなるつれづれなれば、あぜちのきみとて、ひとよりはすこしおもひましたまへるがつぼねにおはして、そのよはあかしたまひつ。あけすぎたらんを、ひとのとがむべきにもあらぬに、くるしげにいそぎおきたまふを、ただならずおもふべかめり。 |
49 | 4.2.2 | 376 | 351 |
「うち渡し世に許しなき関川を<BR/>みなれそめけむ名こそ惜しけれ」 |
"〔うちわたしよにゆるしなきせきかはを<BR/>みなれそめけんなこそをしけれ〕 |
49 | 4.2.3 | 377 | 352 |
いとほしければ、 |
いとほしければ、 |
49 | 4.2.4 | 378 | 353 |
「深からず上は見ゆれど関川の<BR/>下の通ひは絶ゆるものかは」 |
"〔ふかからずうへはみゆれどせきかはの<BR/>したのかよひはたゆるものかは〕 |
49 | 4.2.5 | 379 | 355 |
深しと、のたまはむにてだに頼もしげなきを、この上の浅さは、いとど心やましくおぼゆらむかし。妻戸押し開けて、 |
ふかしと、のたまはんにてだにたのもしげなきを、このうへのあささは、いとどこころやましくおぼゆらんかし。つまどおしあけて、 |
49 | 4.2.6 | 380 | 356 |
「まことは、この空見たまへ。いかでかこれを知らず顔にては明かさむとよ。艶なる人まねにてはあらで、いとど明かしがたくなり行く、夜な夜なの寝覚には、この世かの世までなむ思ひやられて、あはれなる」 |
"まことは、このそらみたまへ。いかでかこれをしらずがほにてはあかさんとよ。えんなるひとまねにてはあらで、いとどあかしがたくなりゆく、よなよなのねざめには、このよかのよまでなんおもひやられて、あはれなる。" |
49 | 4.2.7 | 381 | 357 |
など、言ひ紛らはしてぞ出でたまふ。ことにをかしきことの数を尽くさねど、さまのなまめかしき見なしにやあらむ、情けなくなどは人に思はれたまはず。かりそめの戯れ言をも言ひそめたまへる人の、気近くて見たてまつらばや、とのみ思ひきこゆるにや、あながちに、世を背きたまへる宮の御方に、縁を尋ねつつ参り集まりてさぶらふも、あはれなること、ほどほどにつけつつ多かるべし。 |
など、いひまぎらはしてぞいでたまふ。ことにをかしきことのかずをつくさねど、さまのなまめかしきみなしにやあらん、なさけなくなどはひとにおもはれたまはず。かりそめのたはぶれごとをもいひそめたまへるひとの、けぢかくてみたてまつらばや、とのみおもひきこゆるにや、あながちに、よをそむきたまへるみやのおほんかたに、えんをたづねつつまゐりあつまりてさぶらふも、あはれなること、ほどほどにつけつつおほかるべし。 |
49 | 4.2.8 | 382 | 358 |
宮は、女君の御ありさま、昼見きこえたまふに、いとど御心ざしまさりけり。おほきさよきほどなる人の、様体いときよげにて、髪のさがりば、頭つきなどぞ、ものよりことに、あなめでた、と見えたまひける。色あひあまりなるまで匂ひて、ものものしく気高き顔の、まみいと恥づかしげにらうらうじく、すべて何ごとも足らひて、容貌よき人と言はむに、飽かぬところなし。 |
みやは、をんなぎみのおほんありさま、ひるみきこえたまふに、いとどみこころざしまさりけり。おほきさよきほどなるひとの、やうだいいときよげにて、かみのさがりば、かしらつきなどぞ、ものよりことに、あなめでた、とみえたまひける。いろあひあまりなるまでにほひて、ものものしくけだかきかほの、まみいとはづかしげにらうらうじく、すべてなにごともたらひて、かたちよきひとといはんに、あかぬところなし。 |
49 | 4.2.9 | 383 | 359 |
二十に一つ二つぞ余りたまへりける。いはけなきほどならねば、片なりに飽かぬところなく、あざやかに、盛りの花と見えたまへり。限りなくもてかしづきたまへるに、かたほならず。げに、親にては、心も惑はしたまひつべかりけり。 |
にじふにひとつふたつぞあまりたまへりける。いはけなきほどならねば、かたなりにあかぬところなく、あざやかに、さかりのはなとみえたまへり。かぎりなくもてかしづきたまへるに、かたほならず。げに、おやにては、こころもまどはしたまひつべかりけり。 |
49 | 4.2.10 | 384 | 360 |
ただ、やはらかに愛敬づきらうたきことぞ、かの対の御方はまづ思ほし出でられける。もののたまふいらへなども、恥ぢらひたれど、また、あまりおぼつかなくはあらず、すべていと見所多く、かどかどしげなり。 |
ただ、やはらかにあいぎゃうづきらうたきことぞ、かのたいのおほんかたはまづおもほしいでられける。もののたまふいらへなども、はぢらひたれど、また、あまりおぼつかなくはあらず、すべていとみどころおほく、かどかどしげなり。 |
49 | 4.2.11 | 385 | 361 |
よき若人ども三十人ばかり、童六人、かたほなるなく、装束なども、例のうるはしきことは、目馴れて思さるべかめれば、引き違へ、心得ぬまでぞ好みそしたまへる。三条殿腹の大君を、春宮に参らせたまへるよりも、この御ことをば、ことに思ひおきてきこえたまへるも、宮の御おぼえありさまからなめり。 |
よきわかうどどもさんじふにんばかり、わらはろくにん、かたほなるなく、さうぞくなども、れいのうるはしきことは、めなれておぼさるべかめれば、ひきたがへ、こころえぬまでぞこのみそしたまへる。さんでうどのばらのおほいきみを、とうぐうにまゐらせたまへるよりも、このおほんことをば、ことにおもひおきてきこえたまへるも、みやのおほんおぼえありさまからなめり。 |
49 | 4.3 | 386 | 362 | 第三段 中君と薫、手紙を書き交す |
49 | 4.3.1 | 387 | 363 |
かくて後、二条院に、え心やすく渡りたまはず。軽らかなる御身ならねば、思すままに、昼のほどなどもえ出でたまはねば、やがて同じ南の町に、年ごろありしやうにおはしまして、暮るれば、また、え引き避きても渡りたまはずなどして、待ち遠なる折々あるを、 |
かくてのち、にでうのゐんに、えこころやすくわたりたまはず。かるらかなるおほんみならねば、おぼすままに、ひるのほどなどもえいでたまはねば、やがておなじみなみのまちに、としごろありしやうにおはしまして、くるれば、また、えひきよきてもわたりたまはずなどして、まちどほなるをりをりあるを、 |
49 | 4.3.2 | 388 | 364 |
「かからむとすることとは思ひしかど、さしあたりては、いとかくやは名残なかるべき。げに、心あらむ人は、数ならぬ身を知らで、交じらふべき世にもあらざりけり」 |
"かからんとすることとはおもひしかど、さしあたりては、いとかくやはなごりなかるべき。げに、こころあらんひとは、かずならぬみをしらで、まじらふべきよにもあらざりけり。" |
49 | 4.3.3 | 389 | 365 |
と、返す返すも山路分け出でけむほど、うつつともおぼえず悔しく悲しければ、 |
と、かへすがへすもやまぢわけいでけんほど、うつつともおぼえずくやしくかなしければ、 |
49 | 4.3.4 | 390 | 366 |
「なほ、いかで忍びて渡りなむ。むげに背くさまにはあらずとも、しばし心をも慰めばや。憎げにもてなしなどせばこそ、うたてもあらめ」 |
"なほ、いかでしのびてわたりなん。むげにそむくさまにはあらずとも、しばしこころをもなぐさめばや。にくげにもてなしなどせばこそ、うたてもあらめ。" |
49 | 4.3.5 | 391 | 367 |
など、心一つに思ひあまりて、恥づかしけれど、中納言殿に文たてまつれたまふ。 |
など、こころひとつにおもひあまりて、はづかしけれど、ちうなごんどのにふみたてまつれたまふ。 |
49 | 4.3.6 | 392 | 368 |
「一日の御ことをば、阿闍梨の伝へたりしに、詳しく聞きはべりにき。かかる御心の名残なからましかば、いかにいとほしくと思ひたまへらるるにも、おろかならずのみなむ。さりぬべくは、みづからも」 |
"ひとひのおほんことをば、あざりのつたへたりしに、くはしくききはべりにき。かかるみこころのなごりなからましかば、いかにいとほしくとおもひたまへらるるにも、おろかならずのみなん。さりぬべくは、みづからも。" |
49 | 4.3.7 | 393 | 369 |
と聞こえたまへり。 |
ときこえたまへり。 |
49 | 4.3.8 | 394 | 370 |
陸奥紙に、ひきつくろはずまめだち書きたまへるしも、いとをかしげなり。宮の御忌日に、例のことどもいと尊くせさせたまへりけるを、喜びたまへるさまの、おどろおどろしくはあらねど、げに、思ひ知りたまへるなめりかし。例は、これよりたてまつる御返りをだに、つつましげに思ほして、はかばかしくも続けたまはぬを、「みづから」とさへのたまへるが、めづらしくうれしきに、心ときめきもしぬべし。 |
みちのくにがみに、ひきつくろはずまめだちかきたまへるしも、いとをかしげなり。みやのおほんきにちに、れいのことどもいとたふとくせさせたまへりけるを、よろこびたまへるさまの、おどろおどろしくはあらねど、げに、おもひしりたまへるなめりかし。れいは、これよりたてまつるおほんかへりをだに、つつましげにおもほして、はかばかしくもつづけたまはぬを、"みづから"とさへのたまへるが、めづらしくうれしきに、こころときめきもしぬべし。 |
49 | 4.3.9 | 395 | 371 |
宮の今めかしく好みたちたまへるほどにて、思しおこたりけるも、げに心苦しく推し量らるれば、いとあはれにて、をかしやかなることもなき御文を、うちも置かず、ひき返しひき返し見ゐたまへり。御返りは、 |
みやのいまめかしくこのみたちたまへるほどにて、おぼしおこたりけるも、げにこころぐるしくおしはからるれば、いとあはれにて、をかしやかなることもなきおほんふみを、うちもおかず、ひきかへしひきかへしみゐたまへり。おほんかへりは、 |
49 | 4.3.10 | 396 | 372 |
「承りぬ。一日は、聖だちたるさまにて、ことさらに忍びはべしも、さ思ひたまふるやうはべるころほひにてなむ。名残とのたまはせたるこそ、すこし浅くなりにたるやうにと、恨めしく思うたまへらるれ。よろづはさぶらひてなむ。あなかしこ」 |
"うけたまはりぬ。ひとひは、ひじりだちたるさまにて、ことさらにしのびはべしも、さおもひたまふるやうはべるころほひにてなん。なごりとのたまはせたるこそ、すこしあさくなりにたるやうにと、うらめしくおもうたまへらるれ。よろづはさぶらひてなん。あなかしこ。" |
49 | 4.3.11 | 397 | 373 |
と、すくよかに、白き色紙のこはごはしきにてあり。 |
と、すくよかに、しろきしきしのこはごはしきにてあり。 |
49 | 4.4 | 398 | 374 | 第四段 薫、中君を訪問して慰める |
49 | 4.4.1 | 399 | 375 |
さて、またの日の夕つ方ぞ渡りたまへる。人知れず思ふ心し添ひたれば、あいなく心づかひいたくせられて、なよよかなる御衣どもを、いとど匂はし添へたまへるは、あまりおどろおどろしきまであるに、丁子染の扇の、もてならしたまへる移り香などさへ、喩へむ方なくめでたし。 |
さて、またのひのゆふつかたぞわたりたまへる。ひとしれずおもふこころしそひたれば、あいなくこころづかひいたくせられて、なよよかなるおほんぞどもを、いとどにほはしそへたまへるは、あまりおどろおどろしきまであるに、ちゃうじぞめのあふぎの、もてならしたまへるうつりがなどさへ、たとへんかたなくめでたし。 |
49 | 4.4.2 | 400 | 376 |
女君も、あやしかりし夜のことなど、思ひ出でたまふ折々なきにしもあらねば、まめやかにあはれなる御心ばへの、人に似ずものしたまふを見るにつけても、「さてあらましを」とばかりは思ひやしたまふらむ。 |
をんなぎみも、あやしかりしよのことなど、おもひいでたまふをりをりなきにしもあらねば、まめやかにあはれなるみこころばへの、ひとににずものしたまふをみるにつけても、"さてあらましを。"とばかりはおもひやしたまふらん。 |
49 | 4.4.3 | 401 | 377 |
いはけなきほどにしおはせねば、恨めしき人の御ありさまを思ひ比ぶるには、何事もいとどこよなく思ひ知られたまふにや、常に隔て多かるもいとほしく、「もの思ひ知らぬさまに思ひたまふらむ」など思ひたまひて、今日は、御簾の内に入れたてまつりたまひて、母屋の簾に几帳添へて、我はすこしひき入りて対面したまへり。 |
いはけなきほどにしおはせねば、うらめしきひとのおほんありさまをおもひくらぶるには、なにごともいとどこよなくおもひしられたまふにや、つねにへだておほかるもいとほしく、"ものおもひしらぬさまにおもひたまふらん。"などおもひたまひて、けふは、みすのうちにいれたてまつりたまひて、もやのすだれにきちゃうそへて、われはすこしひきいりてたいめんしたまへり。 |
49 | 4.4.4 | 402 | 378 |
「わざと召しとはべらざりしかど、例ならず許させたまへりし喜びに、すなはちも参らまほしくはべりしを、宮渡らせたまふと承りしかば、折悪しくやはとて、今日になしはべりにける。さるは、年ごろの心のしるしもやうやうあらはれはべるにや、隔てすこし薄らぎはべりにける御簾の内よ。めづらしくはべるわざかな」 |
"わざとめしとはべらざりしかど、れいならずゆるさせたまへりしよろこびに、すなはちもまゐらまほしくはべりしを、みやわたらせたまふとうけたまはりしかば、をりあしくやはとて、けふになしはべりにける。さるは、としごろのこころのしるしもやうやうあらはれはべるにや、へだてすこしうすらぎはべりにけるみすのうちよ。めづらしくはべるわざかな。" |
49 | 4.4.5 | 403 | 379 |
とのたまふに、なほいと恥づかしく、言ひ出でむ言葉もなき心地すれど、 |
とのたまふに、なほいとはづかしく、いひいでんことばもなきここちすれど、 |
49 | 4.4.6 | 404 | 380 |
「一日、うれしく聞きはべりし心の内を、例の、ただ結ぼほれながら過ぐしはべりなば、思ひ知る片端をだに、いかでかはと、口惜しさに」 |
"ひとひ、うれしくききはべりしこころのうちを、れいの、ただむすぼほれながらすぐしはべりなば、おもひしるかたはしをだに、いかでかはと、くちをしさに。" |
49 | 4.4.7 | 405 | 381 |
と、いとつつましげにのたまふが、いたくしぞきて、絶え絶えほのかに聞こゆれば、心もとなくて、 |
と、いとつつましげにのたまふが、いたくしぞきて、たえだえほのかにきこゆれば、こころもとなくて、 |
49 | 4.4.8 | 406 | 382 |
「いと遠くもはべるかな。まめやかに聞こえさせ、承らまほしき世の御物語もはべるものを」 |
"いととほくもはべるかな。まめやかにきこえさせ、うけたまはらまほしきよのおほんものがたりもはべるものを。" |
49 | 4.4.9 | 407 | 383 |
とのたまへば、げに、と思して、すこしみじろき寄りたまふけはひを聞きたまふにも、ふと胸うちつぶるれど、さりげなくいとど静めたるさまして、宮の御心ばへ、思はずに浅うおはしけりとおぼしく、かつは言ひも疎め、また慰めも、かたがたにしづしづと聞こえたまひつつおはす。 |
とのたまへば、げに、とおぼして、すこしみじろきよりたまふけはひをききたまふにも、ふとむねうちつぶるれど、さりげなくいとどしづめたるさまして、みやのみこころばへ、おもはずにあさうおはしけりとおぼしく、かつはいひもうとめ、またなぐさめも、かたがたにしづしづときこえたまひつつおはす。 |
49 | 4.5 | 408 | 384 | 第五段 中君、薫に宇治への同行を願う |
49 | 4.5.1 | 409 | 385 |
女君は、人の御恨めしさなどは、うち出で語らひきこえたまふべきことにもあらねば、ただ、世やは憂きなどやうに思はせて、言少なに紛らはしつつ、山里にあからさまに渡したまへとおぼしく、いとねむごろに思ひてのたまふ。 |
をんなぎみは、ひとのおほんうらめしさなどは、うちいでかたらひきこえたまふべきことにもあらねば、ただ、よやはうきなどやうにおもはせて、ことずくなにまぎらはしつつ、やまざとにあからさまにわたしたまへとおぼしく、いとねんごろにおもひてのたまふ。 |
49 | 4.5.2 | 410 | 386 |
「それはしも、心一つにまかせては、え仕うまつるまじきことにはべり。なほ、宮にただ心うつくしく聞こえさせたまひて、かの御けしきに従ひてなむよくはべるべき。さらずは、すこしも違ひ目ありて、心軽くもなど思しものせむに、いと悪しくはべりなむ。さだにあるまじくは、道のほども御送り迎へも、おりたちて仕うまつらむに、何の憚りかははべらむ。うしろやすく人に似ぬ心のほどは、宮も皆知らせたまへり」 |
"それはしも、こころひとつにまかせては、えつかうまつるまじきことにはべり。なほ、みやにただこころうつくしくきこえさせたまひて、かのみけしきにしたがひてなんよくはべるべき。さらずは、すこしもたがひめありて、こころかろくもなどおぼしものせんに、いとあしくはべりなん。さだにあるまじくは、みちのほどもおほんおくりむかへも、おりたちてつかうまつらんに、なにのはばかりかははべらん。うしろやすくひとににぬこころのほどは、みやもみなしらせたまへり。" |
49 | 4.5.3 | 411 | 387 |
などは言ひながら、折々は、過ぎにし方の悔しさを忘るる折なく、ものにもがなやと、取り返さまほしきと、ほのめかしつつ、やうやう暗くなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、 |
などはいひながら、をりをりは、すぎにしかたのくやしさをわするるをりなく、ものにもがなやと、とりかへさまほしきと、ほのめかしつつ、やうやうくらくなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、 |
49 | 4.5.4 | 412 | 388 |
「さらば、心地も悩ましくのみはべるを、また、よろしく思ひたまへられむほどに、何事も」 |
"さらば、ここちもなやましくのみはべるを、また、よろしくおもひたまへられんほどに、なにごとも。" |
49 | 4.5.5 | 413 | 389 |
とて、入りたまひぬるけしきなるが、いと口惜しければ、 |
とて、いりたまひぬるけしきなるが、いとくちをしければ、 |
49 | 4.5.6 | 414 | 390 |
「さても、いつばかり思し立つべきにか。いとしげくはべし道の草も、すこしうち払はせはべらむかし」 |
"さても、いつばかりおぼしたつべきにか。いとしげくはべしみちのくさも、すこしうちはらはせはべらんかし。" |
49 | 4.5.7 | 415 | 391 |
と、心とりに聞こえたまへば、しばし入りさして、 |
と、こころとりにきこえたまへば、しばしいりさして、 |
49 | 4.5.8 | 416 | 392 |
「この月は過ぎぬめれば、朔日のほどにも、とこそは思ひはべれ。ただ、いと忍びてこそよからめ。何か、世の許しなどことことしく」 |
"このつきはすぎぬめれば、ついたちのほどにも、とこそはおもひはべれ。ただ、いとしのびてこそよからめ。なにか、よのゆるしなどことことしく。" |
49 | 4.5.9 | 417 | 393 |
とのたまふ声の、「いみじくらうたげなるかな」と、常よりも昔思ひ出でらるるに、えつつみあへで、寄りゐたまへる柱もとの簾の下より、やをらおよびて、御袖をとらへつ。 |
とのたまふこゑの、"いみじくらうたげなるかな。"と、つねよりもむかしおもひいでらるるに、えつつみあへで、よりゐたまへるはしらもとのすだれのしたより、やをらおよびて、おほんそでをとらへつ。 |
49 | 4.6 | 418 | 394 | 第六段 薫、中君に迫る |
49 | 4.6.1 | 419 | 395 |
女、「さりや、あな心憂」と思ふに、何事かは言はれむ、ものも言はで、いとど引き入りたまへば、それにつきていと馴れ顔に、半らは内に入りて添ひ臥したまへり。 |
をんな、"さりや、あなこころう。"とおもふに、なにごとかはいはれん、ものもいはで、いとどひきいりたまへば、それにつきていとなれがほに、なからはうちにいりてそひふしたまへり。 |
49 | 4.6.2 | 420 | 396 |
「あらずや。忍びてはよかるべく思すこともありけるがうれしきは、ひが耳か、聞こえさせむとぞ。疎々しく思すべきにもあらぬを、心憂のけしきや」 |
"あらずや。しのびてはよかるべくおぼすこともありけるがうれしきは、ひがみみか、きこえさせんとぞ。うとうとしくおぼすべきにもあらぬを、こころうのけしきや。" |
49 | 4.6.3 | 421 | 397 |
と怨みたまへば、いらへすべき心地もせず、思はずに憎く思ひなりぬるを、せめて思ひしづめて、 |
とうらみたまへば、いらへすべきここちもせず、おもはずににくくおもひなりぬるを、せめておもひしづめて、 |
49 | 4.6.4 | 422 | 398 |
「思ひの外なりける御心のほどかな。人の思ふらむことよ。あさまし」 |
"おもひのほかなりけるみこころのほどかな。ひとのおもふらんことよ。あさまし。" |
49 | 4.6.5 | 423 | 399 |
とあはめて、泣きぬべきけしきなる、すこしはことわりなれば、いとほしけれど、 |
とあはめて、なきぬべきけしきなる、すこしはことわりなれば、いとほしけれど、 |
49 | 4.6.6 | 424 | 400 |
「これは咎あるばかりのことかは。かばかりの対面は、いにしへをも思し出でよかし。過ぎにし人の御許しもありしものを。いとこよなく思しけるこそ、なかなかうたてあれ。好き好きしくめざましき心はあらじと、心やすく思ほせ」 |
"これはとがあるばかりのことかは。かばかりのたいめんは、いにしへをもおぼしいでよかし。すぎにしひとのおほんゆるしもありしものを。いとこよなくおぼしけるこそ、なかなかうたてあれ。すきずきしくめざましきこころはあらじと、こころやすくおもほせ。" |
49 | 4.6.7 | 425 | 401 |
とて、いとのどやかにはもてなしたまへれど、月ごろ悔しと思ひわたる心のうちの、苦しきまでなりゆくさまを、つくづくと言ひ続けたまひて、許すべきけしきにもあらぬに、せむかたなく、いみじとも世の常なり。なかなか、むげに心知らざらむ人よりも、恥づかしく心づきなくて、泣きたまひぬるを、 |
とて、いとのどやかにはもてなしたまへれど、つきごろくやしとおもひわたるこころのうちの、くるしきまでなりゆくさまを、つくづくといひつづけたまひて、ゆるすべきけしきにもあらぬに、せんかたなく、いみじともよのつねなり。なかなか、むげにこころしらざらんひとよりも、はづかしくこころづきなくて、なきたまひぬるを、 |
49 | 4.6.8 | 426 | 402 |
「こは、なぞ。あな、若々し」 |
"こは、なぞ。あな、わかわかし。" |
49 | 4.6.9 | 427 | 403 |
とは言ひながら、言ひ知らずらうたげに、心苦しきものから、用意深く恥づかしげなるけはひなどの、見しほどよりも、こよなくねびまさりたまひにけるなどを見るに、「心からよそ人にしなして、かくやすからずものを思ふこと」と悔しきにも、またげに音は泣かれけり。 |
とはいひながら、いひしらずらうたげに、こころぐるしきものから、よういふかくはづかしげなるけはひなどの、みしほどよりも、こよなくねびまさりたまひにけるなどをみるに、"こころからよそびとにしなして、かくやすからずものをおもふこと。"とくやしきにも、またげにねはなかれけり。 |
49 | 4.7 | 428 | 404 | 第七段 薫、自制して退出する |
49 | 4.7.1 | 429 | 405 |
近くさぶらふ女房二人ばかりあれど、すずろなる男のうち入り来たるならばこそは、こはいかなることぞとも、参り寄らめ、疎からず聞こえ交はしたまふ御仲らひなめれば、さるやうこそはあらめと思ふに、かたはらいたければ、知らず顔にてやをらしぞきぬるに、いとほしきや。 |
ちかくさぶらふにょうばうふたりばかりあれど、すずろなるをとこのうちいりきたるならばこそは、こはいかなることぞとも、まゐりよらめ、うとからずきこえかはしたまふおほんなからひなめれば、さるやうこそはあらめとおもふに、かたはらいたければ、しらずがほにてやをらしぞきぬるに、いとほしきや。 |
49 | 4.7.2 | 430 | 406 |
男君は、いにしへを悔ゆる心の忍びがたさなども、いと静めがたかりぬべかめれど、昔だにありがたかりし心の用意なれば、なほいと思ひのままにももてなしきこえたまはざりけり。かやうの筋は、こまかにもえなむまねび続けざりける。かひなきものから、人目のあいなきを思へば、よろづに思ひ返して出でたまひぬ。 |
をとこぎみは、いにしへをくゆるこころのしのびがたさなども、いとしづめがたかりぬべかめれど、むかしだにありがたかりしこころのよういなれば、なほいとおもひのままにももてなしきこえたまはざりけり。かやうのすぢは、こまかにもえなんまねびつづけざりける。かひなきものから、ひとめのあいなきをおもへば、よろづにおもひかへしていでたまひぬ。 |
49 | 4.7.3 | 431 | 407 |
まだ宵と思ひつれど、暁近うなりにけるを、見とがむる人もやあらむと、わづらはしきも、女の御ためのいとほしきぞかし。 |
まだよひとおもひつれど、あかつきちかうなりにけるを、みとがむるひともやあらんと、わづらはしきも、をんなのおほんためのいとほしきぞかし。 |
49 | 4.7.4 | 432 | 408 |
「悩ましげに聞きわたる御心地は、ことわりなりけり。いと恥づかしと思したりつる腰のしるしに、多くは心苦しくおぼえてやみぬるかな。例のをこがましの心や」と思へど、「情けなからむことは、なほいと本意なかるべし。また、たちまちのわが心の乱れにまかせて、あながちなる心をつかひて後、心やすくしもはあらざらむものから、わりなく忍びありかむほども心尽くしに、女のかたがた思し乱れむことよ」 |
"なやましげにききわたるみここちは、ことわりなりけり。いとはづかしとおぼしたりつるこしのしるしに、おほくはこころぐるしくおぼえてやみぬるかな。れいのをこがましのこころや。"とおもへど、"なさけなからんことは、なほいとほいなかるべし。また、たちまちのわがこころのみだれにまかせて、あながちなるこころをつかひてのち、こころやすくしもはあらざらんものから、わりなくしのびありかんほどもこころづくしに、をんなのかたがたおぼしみだれんことよ。" |
49 | 4.7.5 | 433 | 409 |
など、さかしく思ふにせかれず、今の間も恋しきぞわりなかりける。さらに見ではえあるまじくおぼえたまふも、返す返すあやにくなる心なりや。 |
など、さかしくおもふにせかれず、いまのまもこひしきぞわりなかりける。さらにみではえあるまじくおぼえたまふも、かへすがへすあやにくなるこころなりや。 |
49 | 5 | 434 | 410 | 第五章 中君の物語 中君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す |
49 | 5.1 | 435 | 411 | 第一段 翌朝、薫、中君に手紙を書く |
49 | 5.1.1 | 436 | 412 |
昔よりはすこし細やぎて、あてにらうたかりつるけはひなどは、立ち離れたりともおぼえず、身に添ひたる心地して、さらに異事もおぼえずなりにたり。 |
むかしよりはすこしほそやぎて、あてにらうたかりつるけはひなどは、たちはなれたりともおぼえず、みにそひたるここちして、さらにことごともおぼえずなりにたり。 |
49 | 5.1.2 | 437 | 413 |
「宇治にいと渡らまほしげに思いためるを、さもや、渡しきこえてまし」など思へど、「まさに宮は許したまひてむや。さりとて、忍びてはた、いと便なからむ。いかさまにしてかは、人目見苦しからで、思ふ心のゆくべき」と、心もあくがれて眺め臥したまへり。 |
"うぢにいとわたらまほしげにおぼいためるを、さもや、わたしきこえてまし。"などおもへど、"まさにみやはゆるしたまひてんや。さりとて、しのびてはた、いとびんなからん。いかさまにしてかは、ひとめみぐるしからで、おもふこころのゆくべき。"と、こころもあくがれてながめふしたまへり。 |
49 | 5.1.3 | 438 | 414 |
まだいと深き朝に御文あり。例の、うはべはけざやかなる立文にて、 |
まだいとふかきあしたにおほんふみあり。れいの、うはべはけざやかなるたてぶみにて、 |
49 | 5.1.4 | 439 | 415 |
「いたづらに分けつる道の露しげみ<BR/>昔おぼゆる秋の空かな |
"〔いたづらにわけつるみちのつゆしげみ<BR/>むかしおぼゆるあきのそらかな |
49 | 5.1.5 | 440 | 416 |
御けしきの心憂さは、ことわり知らぬつらさのみなむ。聞こえさせむ方なく」 |
みけしきのこころうさは、ことわりしらぬつらさのみなん。きこえさせんかたなく。" |
49 | 5.1.6 | 441 | 417 |
とあり。御返しなからむも、人の、例ならずと見とがむべきを、いと苦しければ、 |
とあり。おほんかへしなからんも、ひとの、れいならずとみとがむべきを、いとくるしければ、 |
49 | 5.1.7 | 442 | 418 |
「承りぬ。いと悩ましくて、え聞こえさせず」 |
"うけたまはりぬ。いとなやましくて、えきこえさせず。" |
49 | 5.1.8 | 443 | 419 |
とばかり書きつけたまへるを、「あまり言少ななるかな」とさうざうしくて、をかしかりつる御けはひのみ恋しく思ひ出でらる。 |
とばかりかきつけたまへるを、"あまりことずくななるかな。"とさうざうしくて、をかしかりつるおほんけはひのみこひしくおもひいでらる。 |
49 | 5.1.9 | 444 | 420 |
すこし世の中をも知りたまへるけにや、さばかりあさましくわりなしとは思ひたまへりつるものから、ひたぶるにいぶせくなどはあらで、いとらうらうじく恥づかしげなるけしきも添ひて、さすがになつかしく言ひこしらへなどして、出だしたまへるほどの心ばへなどを思ひ出づるも、ねたく悲しく、さまざまに心にかかりて、わびしくおぼゆ。何事も、いにしへにはいと多くまさりて思ひ出でらる。 |
すこしよのなかをもしりたまへるけにや、さばかりあさましくわりなしとはおもひたまへりつるものから、ひたぶるにいぶせくなどはあらで、いとらうらうじくはづかしげなるけしきもそひて、さすがになつかしくいひこしらへなどして、いだしたまへるほどのこころばへなどをおもひいづるも、ねたくかなしく、さまざまにこころにかかりて、わびしくおぼゆ。なにごとも、いにしへにはいとおほくまさりておもひいでらる。 |
49 | 5.1.10 | 445 | 421 |
「何かは。この宮離れ果てたまひなば、我を頼もし人にしたまふべきにこそはあめれ。さても、あらはれて心やすきさまにえあらじを、忍びつつまた思ひます人なき、心のとまりにてこそはあらめ」 |
"なにかは。このみやかれはてたまひなば、われをたのもしびとにしたまふべきにこそはあめれ。さても、あらはれてこころやすきさまにえあらじを、しのびつつまたおもひますひとなき、こころのとまりにてこそはあらめ。" |
49 | 5.1.11 | 446 | 422 |
など、ただこの事のみ、つとおぼゆるぞ、けしからぬ心なるや。さばかり心深げにさかしがりたまへど、男といふものの心憂かりけることよ。亡き人の御悲しさは、言ふかひなきことにて、いとかく苦しきまではなかりけり。これは、よろづにぞ思ひめぐらされたまひける。 |
など、ただこのことのみ、つとおぼゆるぞ、けしからぬこころなるや。さばかりこころふかげにさかしがりたまへど、をとこといふもののこころうかりけることよ。なきひとのおほんかなしさは、いふかひなきことにて、いとかくくるしきまではなかりけり。これは、よろづにぞおもひめぐらされたまひける。 |
49 | 5.1.12 | 447 | 423 |
「今日は、宮渡らせたまひぬ」 |
"けふは、みやわたらせたまひぬ。" |
49 | 5.1.13 | 448 | 424 |
など、人の言ふを聞くにも、後見の心は失せて、胸うちつぶれて、いとうらやましくおぼゆ。 |
など、ひとのいふをきくにも、うしろみのこころはうせて、むねうちつぶれて、いとうらやましくおぼゆ。 |
49 | 5.2 | 449 | 425 | 第二段 匂宮、帰邸して、薫の移り香に不審を抱く |
49 | 5.2.1 | 450 | 426 |
宮は、日ごろになりにけるは、わが心さへ恨めしく思されて、にはかに渡りたまへるなりけり。 |
みやは、ひごろになりにけるは、わがこころさへうらめしくおぼされて、にはかにわたりたまへるなりけり。 |
49 | 5.2.2 | 451 | 427 |
「何かは、心隔てたるさまにも見えたてまつらじ。山里にと思ひ立つにも、頼もし人に思ふ人も、疎ましき心添ひたまへりけり」 |
"なにかは、こころへだてたるさまにもみえたてまつらじ。やまざとにとおもひたつにも、たのもしびとにおもふひとも、うとましきこころそひたまへりけり。" |
49 | 5.2.3 | 452 | 428 |
と見たまふに、世の中いと所狭く思ひなられて、「なほいと憂き身なりけり」と、「ただ消えせぬほどは、あるにまかせて、おいらかならむ」と思ひ果てて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐたまへれば、いとどあはれにうれしく思されて、日ごろのおこたりなど、限りなくのたまふ。 |
とみたまふに、よのなかいとところせくおもひなられて、"なほいとうきみなりけり。"と、"ただきえせぬほどは、あるにまかせて、おいらかならん。"とおもひはてて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐたまへれば、いとどあはれにうれしくおぼされて、ひごろのおこたりなど、かぎりなくのたまふ。 |
49 | 5.2.4 | 453 | 429 |
御腹もすこしふくらかになりにたるに、かの恥ぢたまふしるしの帯の引き結はれたるほどなど、いとあはれに、まだかかる人を近くても見たまはざりければ、めづらしくさへ思したり。うちとけぬ所にならひたまひて、よろづのこと、心やすくなつかしく思さるるままに、おろかならぬ事どもを、尽きせず契りのたまふを聞くにつけても、かくのみ言よきわざにやあらむと、あながちなりつる人の御けしきも思ひ出でられて、年ごろあはれなる心ばへなどは思ひわたりつれど、かかる方ざまにては、あれをもあるまじきことと思ふにぞ、この御行く先の頼めは、いでや、と思ひながらも、すこし耳とまりける。 |
おほんはらもすこしふくらかになりにたるに、かのふぢたまふしるしのおびのひきゆはれたるほどなど、いとあはれに、まだかかるひとをちかくてもみたまはざりければ、めづらしくさへおぼしたり。うちとけぬところにならひたまひて、よろづのこと、こころやすくなつかしくおぼさるるままに、おろかならぬことどもを、つきせずちぎりのたまふをきくにつけても、かくのみことよきわざにやあらんと、あながちなりつるひとのみけしきもおもひいでられて、としごろあはれなるこころばへなどはおもひわたりつれど、かかるかたざまにては、あれをもあるまじきこととおもふにぞ、このおほんゆくさきのたのめは、いでや、とおもひながらも、すこしみみとまりける。 |
49 | 5.2.5 | 454 | 430 |
「さても、あさましくたゆめたゆめて、入り来たりしほどよ。昔の人に疎くて過ぎにしことなど語りたまひし心ばへは、げにありがたかりけりと、なほうちとくべくはた、あらざりけりかし」 |
"さても、あさましくたゆめたゆめて、いりきたりしほどよ。むかしのひとにうとくてすぎにしことなどかたりたまひしこころばへは、げにありがたかりけりと、なほうちとくべくはた、あらざりけりかし。" |
49 | 5.2.6 | 455 | 431 |
など、いよいよ心づかひせらるるにも、久しくとだえたまはむことは、いともの恐ろしかるべくおぼえたまへば、言に出でては言はねど、過ぎぬる方よりは、すこしまつはしざまにもてなしたまへるを、宮はいとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香の、いと深くしみたまへるが、世の常の香の香に入れ薫きしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしととがめ出でたまひて、いかなりしことぞと、けしきとりたまふに、ことのほかにもて離れぬことにしあれば、言はむ方なくわりなくて、いと苦しと思したるを、 |
など、いよいよこころづかひせらるるにも、ひさしくとだえたまはんことは、いとものおそろしかるべくおぼえたまへば、ことにいでてはいはねど、すぎぬるかたよりは、すこしまつはしざまにもてなしたまへるを、みやはいとどかぎりなくあはれとおもほしたるに、かのひとのおほんうつりがの、いとふかくしみたまへるが、よのつねのかうのかにいれたきしめたるにもにず、しるきにほひなるを、そのみちのひとにしおはすれば、あやしととがめいでたまひて、いかなりしことぞと、けしきとりたまふに、ことのほかにもてはなれぬことにしあれば、いはんかたなくわりなくて、いとくるしとおぼしたるを、 |
49 | 5.2.7 | 456 | 432 |
「さればよ。かならずさることはありなむ。よも、ただには思はじ、と思ひわたることぞかし」 |
"さればよ。かならずさることはありなん。よも、ただにはおもはじ、とおもひわたることぞかし。" |
49 | 5.2.8 | 457 | 433 |
と御心騷ぎけり。さるは、単衣の御衣なども、脱ぎ替へたまひてけれど、あやしく心より外にぞ身にしみにける。 |
とみこころさわぎけり。さるは、ひとへのおほんぞなども、ぬぎかへたまひてけれど、あやしくこころよりほかにぞみにしみにける。 |
49 | 5.2.9 | 458 | 434 |
「かばかりにては、残りありてしもあらじ」 |
"かばかりにては、のこりありてしもあらじ。" |
49 | 5.2.10 | 459 | 435 |
と、よろづに聞きにくくのたまひ続くるに、心憂くて、身ぞ置き所なき。 |
と、よろづにききにくくのたまひつづくるに、こころうくて、みぞおきどころなき。 |
49 | 5.2.11 | 460 | 436 |
「思ひきこゆるさまことなるものを、我こそ先になど、かやうにうち背く際はことにこそあれ。また御心おきたまふばかりのほどやは経ぬる。思ひの外に憂かりける御心かな」 |
"おもひきこゆるさまことなるものを、われこそさきになど、かやうにうちそむくきははことにこそあれ。またみこころおきたまふばかりのほどやはへぬる。おもひのほかにうかりけるみこころかな。" |
49 | 5.2.12 | 461 | 437 |
と、すべてまねぶべくもあらず、いとほしげに聞こえたまへど、ともかくもいらへたまはぬさへ、いとねたくて、 |
と、すべてまねぶべくもあらず、いとほしげにきこえたまへど、ともかくもいらへたまはぬさへ、いとねたくて、 |
49 | 5.2.13 | 462 | 438 |
「また人に馴れける袖の移り香を<BR/>わが身にしめて恨みつるかな」 |
"〔またひとになれけるそでのうつりがを<BR/>わがみにしめてうらみつるかな〕 |
49 | 5.2.14 | 463 | 439 |
女は、あさましくのたまひ続くるに、言ふべき方もなきを、いかがは、とて、 |
をんなは、あさましくのたまひつづくるに、いふべきかたもなきを、いかがは、とて、 |
49 | 5.2.15 | 464 | 440 |
「みなれぬる中の衣と頼めしを<BR/>かばかりにてやかけ離れなむ」 |
"〔みなれぬるなかのころもとたのめしを<BR/>かばかりにてやかけはなれなん〕 |
49 | 5.2.16 | 465 | 441 |
とて、うち泣きたまへるけしきの、限りなくあはれなるを見るにも、「かかればぞかし」と、いと心やましくて、我もほろほろとこぼしたまふぞ、色めかしき御心なるや。まことにいみじき過ちありとも、ひたぶるにはえぞ疎み果つまじく、らうたげに心苦しきさまのしたまへれば、えも怨み果てたまはず、のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。 |
とて、うちなきたまへるけしきの、かぎりなくあはれなるをみるにも、"かかればぞかし。"と、いとこころやましくて、われもほろほろとこぼしたまふぞ、いろめかしきみこころなるや。まことにいみじきあやまちありとも、ひたぶるにはえぞうとみはつまじく、らうたげにこころぐるしきさまのしたまへれば、えもうらみはてたまはず、のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。 |
49 | 5.3 | 466 | 442 | 第三段 匂宮、中君の素晴しさを改めて認識 |
49 | 5.3.1 | 467 | 443 |
またの日も、心のどかに大殿籠もり起きて、御手水、御粥などもこなたに参らす。御しつらひなども、さばかりかかやくばかり、高麗、唐土の錦綾を裁ち重ねたる目移しには、世の常にうち馴れたる心地して、人びとの姿も、萎えばみたるうち混じりなどして、いと静かに見まはさる。 |
またのひも、こころのどかにおほとのごもりおきて、おほんてうづ、おほんかゆなどもこなたにまゐらす。おほんしつらひなども、さばかりかかやくばかり、こま、もろこしのにしきあやをたちかさねたるめうつしには、よのつねにうちなれたるここちして、ひとびとのすがたも、なえばみたるうちまじりなどして、いとしづかにみまはさる。 |
49 | 5.3.2 | 468 | 444 |
君は、なよよかなる薄色どもに、撫子の細長重ねて、うち乱れたまへる御さまの、何事もいとうるはしく、ことことしきまで盛りなる人の御匂ひ、何くれに思ひ比ぶれど、気劣りてもおぼえず、なつかしくをかしきも、心ざしのおろかならぬに恥なきなめりかし。まろにうつくしく肥えたりし人の、すこし細やぎたるに、色はいよいよ白くなりて、あてにをかしげなり。 |
きみは、なよよかなるうすいろどもに、なでしこのほそながかさねて、うちみだれたまへるおほんさまの、なにごともいとうるはしく、ことことしきまでさかりなるひとのおほんにほひ、なにくれにおもひくらぶれど、けおとりてもおぼえず、なつかしくをかしきも、こころざしのおろかならぬにはぢなきなめりかし。まろにうつくしくこえたりしひとの、すこしほそやぎたるに、いろはいよいよしろくなりて、あてにをかしげなり。 |
49 | 5.3.3 | 469 | 445 |
かかる御移り香などのいちじるからぬ折だに、愛敬づきらうたきところなどの、なほ人には多くまさりて思さるるままには、 |
かかるおほんうつりがなどのいちじるからぬをりだに、あいぎゃうづきらうたきところなどの、なほひとにはおほくまさりておぼさるるままには、 |
49 | 5.3.4 | 470 | 446 |
「これをはらからなどにはあらぬ人の、気近く言ひかよひて、事に触れつつ、おのづから声けはひをも聞き見馴れむは、いかでかただにも思はむ。かならずしか思しぬべきことなるを」 |
"これをはらからなどにはあらぬひとの、けぢかくいひかよひて、ことにふれつつ、おのづからこゑけはひをもききみなれんは、いかでかただにもおもはん。かならずしかおぼしぬべきことなるを。" |
49 | 5.3.5 | 471 | 447 |
と、わがいと隈なき御心ならひに思し知らるれば、常に心をかけて、「しるきさまなる文などやある」と、近き御厨子、小唐櫃などやうのものをも、さりげなくて探したまへど、さるものもなし。ただ、いとすくよかに言少なにて、なほなほしきなどぞ、わざともなけれど、ものにとりまぜなどしてもあるを、「あやし。なほ、いとかうのみはあらじかし」と疑はるるに、いとど今日はやすからず思さるる、ことわりなりかし。 |
と、わがいとくまなきみこころならひにおぼししらるれば、つねにこころをかけて、"しるきさまなるふみなどやある。"と、ちかきみづし、からびつなどやうのものをも、さりげなくてさがしたまへど、さるものもなし。ただ、いとすくよかにことすくなにて、なほなほしきなどぞ、わざともなけれど、ものにとりまぜなどしてもあるを、"あやし。なほ、いとかうのみはあらじかし。"とうたがはるるに、いとどけふはやすからずおぼさるる、ことわりなりかし。 |
49 | 5.3.6 | 472 | 448 |
「かの人のけしきも、心あらむ女の、あはれと思ひぬべきを、などてかは、ことの他にはさし放たむ。いとよきあはひなれば、かたみにぞ思ひ交はすらむかし」 |
"かのひとのけしきも、こころあらんをんなの、あはれとおもひぬべきを、などてかは、ことのほかにはさしはなたん。いとよきあはひなれば、かたみにぞおもひかはすらんかし。" |
49 | 5.3.7 | 473 | 449 |
と思ひやるぞ、わびしく腹立たしくねたかりける。なほ、いとやすからざりければ、その日もえ出でたまはず。六条院には、御文をぞ二度三度たてまつりたまふを、 |
とおもひやるぞ、わびしくはらだたしくねたかりける。なほ、いとやすからざりければ、そのひもえいでたまはず。ろくづのゐんには、おほんふみをぞふたたびみたびたてまつりたまふを、 |
49 | 5.3.8 | 474 | 450 |
「いつのほどに積もる御言の葉ならむ」 |
"いつのほどにつもるおほんことのはならん。" |
49 | 5.3.9 | 475 | 451 |
とつぶやく老い人どもあり。 |
とつぶやくおいびとどもあり。 |
49 | 5.4 | 476 | 452 | 第四段 薫、中君に衣料を贈る |
49 | 5.4.1 | 477 | 453 |
中納言の君は、かく宮の籠もりおはするを聞くにしも、心やましくおぼゆれど、 |
ちうなごんのきみは、かくみやのこもりおはするをきくにしも、こころやましくおぼゆれど、 |
49 | 5.4.2 | 478 | 454 |
「わりなしや。これはわが心のをこがましく悪しきぞかし。うしろやすくと思ひそめてしあたりのことを、かくは思ふべしや」 |
"わりなしや。これはわがこころのをこがましくあしきぞかし。うしろやすくとおもひそめてしあたりのことを、かくはおもふべしや。" |
49 | 5.4.3 | 479 | 455 |
と、しひてぞ思ひ返して、「さはいへど、え思し捨てざめりかし」と、うれしくもあり、「人びとのけはひなどの、なつかしきほどに萎えばみためりしを」と思ひやりたまひて、母宮の御方に参りたまひて、 |
と、しひてぞおもひかへして、"さはいへど、えおぼしすてざめりかし。"と、うれしくもあり、"ひとびとのけはひなどの、なつかしきほどになえばみためりしを。"とおもひやりたまひて、ははみやのおほんかたにまゐりたまひて、 |
49 | 5.4.4 | 480 | 456 |
「よろしきまうけのものどもやさぶらふ。使ふべきこと」 |
"よろしきまうけのものどもやさぶらふ。つかふべきこと。" |
49 | 5.4.5 | 481 | 457 |
など申したまへば、 |
などまうしたまへば、 |
49 | 5.4.6 | 482 | 458 |
「例の、立たむ月の法事の料に、白きものどもやあらむ。染めたるなどは、今はわざともしおかぬを、急ぎてこそせさせめ」 |
"れいの、たたんつきのほふじのれうに、しろきものどもやあらん。そめたるなどは、いまはわざともしおかぬを、いそぎてこそせさせめ。" |
49 | 5.4.7 | 483 | 459 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 5.4.8 | 484 | 460 |
「何か。ことことしき用にもはべらず。さぶらはむにしたがひて」 |
"なにか。ことことしきようにもはべらず。さぶらはんにしたがひて。" |
49 | 5.4.9 | 485 | 461 |
とて、御匣殿などに問はせたまひて、女の装束どもあまた領に、細長どもも、ただあるにしたがひて、ただなる絹綾などとり具したまふ。みづからの御料と思しきには、わが御料にありける紅の擣目なべてならぬに、白き綾どもなど、あまた重ねたまへるに、袴の具はなかりけるに、いかにしたりけるにか、腰の一つあるを、引き結び加へて、 |
とて、みくしげどのなどにとはせたまひて、をんなのさうぞくどもあまたくだりに、ほそながどもも、ただあるにしたがひて、ただなるきぬあやなどとりぐしたまふ。みづからのごれうとおぼしきには、わがごれうにありけるくれなゐのうちめなべてならぬに、しろきあやどもなど、あまたかさねたまへるに、はかまのぐはなかりけるに、いかにしたりけるにか、こしのひとつあるを、ひきむすびくはへて、 |
49 | 5.4.10 | 486 | 462 |
「結びける契りことなる下紐を<BR/>ただ一筋に恨みやはする」 |
"〔むすびけるちぎりことなるしたひもを<BR/>ただひとすぢにうらみやはする〕 |
49 | 5.4.11 | 487 | 463 |
大輔の君とて、大人しき人の、睦ましげなるにつかはす。 |
たいふのきみとて、おとなしきひとの、むつましげなるにつかはす。 |
49 | 5.4.12 | 488 | 464 |
「とりあへぬさまの見苦しきを、つきづきしくもて隠して」 |
"とりあへぬさまのみぐるしきを、つきづきしくもてかくして。" |
49 | 5.4.13 | 489 | 465 |
などのたまひて、御料のは、しのびやかなれど、筥にて包みも異なり。御覧ぜさせねど、さきざきも、かやうなる御心しらひは、常のことにて目馴れにたれば、けしきばみ返しなど、ひこしろふべきにもあらねば、いかがとも思ひわづらはで、人びとにとり散らしなどしたれば、おのおのさし縫ひなどす。 |
などのたまひて、ごれうのは、しのびやかなれど、はこにてつつみもことなり。ごらんぜさせねど、さきざきも、かやうなるみこころしらひは、つねのことにてめなれにたれば、けしきばみかへしなど、ひこしろふべきにもあらねば、いかがともおもひわづらはで、ひとびとにとりちらしなどしたれば、おのおのさしぬひなどす。 |
49 | 5.4.14 | 490 | 466 |
若き人びとの、御前近く仕うまつるなどをぞ、取り分きては繕ひたつべき。下仕へどもの、いたく萎えばみたりつる姿どもなどに、白き袷などにて、掲焉ならぬぞなかなかめやすかりける。 |
わかきひとびとの、おまへちかくつかうまつるなどをぞ、とりわきてはつくろひたつべき。しもづかへどもの、いたくなえばみたりつるすがたどもなどに、しろきあはせなどにて、けちえんならぬぞなかなかめやすかりける。 |
49 | 5.5 | 491 | 467 | 第五段 薫、中君をよく後見す |
49 | 5.5.1 | 492 | 468 |
誰かは、何事をも後見かしづききこゆる人のあらむ。宮は、おろかならぬ御心ざしのほどにて、「よろづをいかで」と思しおきてたれど、こまかなるうちうちのことまでは、いかがは思し寄らむ。限りもなく人にのみかしづかれてならはせたまへれば、世の中うちあはずさびしきこと、いかなるものとも知りたまはぬ、ことわりなり。 |
たれかは、なにごとをもうしろみかしづききこゆるひとのあらん。みやは、おろかならぬみこころざしのほどにて、"よろづをいかで。"とおぼしおきてたれど、こまかなるうちうちのことまでは、いかがはおぼしよらん。かぎりもなくひとにのみかしづかれてならはせたまへれば、よのなかうちあはずさびしきこと、いかなるものともしりたまはぬ、ことわりなり。 |
49 | 5.5.2 | 493 | 469 |
艶にそぞろ寒く、花の露をもてあそびて世は過ぐすべきものと思したるほどよりは、思す人のためなれば、おのづから折節につけつつ、まめやかなることまでも扱ひ知らせたまふこそ、ありがたくめづらかなることなめれば、「いでや」など、誹らはしげに聞こゆる御乳母などもありけり。 |
えんにそぞろさむく、はなのつゆをもてあそびてよはすぐすべきものとおぼしたるほどよりは、おぼすひとのためなれば、おのづからをりふしにつけつつ、まめやかなることまでもあつかひしらせたまふこそ、ありがたくめづらかなることなめれば、"いでや。"など、そしらはしげにきこゆるおほんめのとなどもありけり。 |
49 | 5.5.3 | 494 | 470 |
童べなどの、なりあざやかならぬ、折々うち混じりなどしたるをも、女君は、いと恥づかしく、「なかなかなる住まひにもあるかな」など、人知れずは思すことなきにしもあらぬに、ましてこのころは、世に響きたる御ありさまのはなやかさに、かつは、「宮のうちの人の見思はむことも、人げなきこと」と、思し乱るることも添ひて嘆かしきを、中納言の君は、いとよく推し量りきこえたまへば、疎からむあたりには、見苦しくくだくだしかりぬべき心しらひのさまも、あなづるとはなけれど、「何かは、ことことしくしたて顔ならむも、なかなかおぼえなく見とがむる人やあらむ」と、思すなりけり。 |
わらはべなどの、なりあざやかならぬ、をりをりうちまじりなどしたるをも、をんなぎみは、いとはづかしく、"なかなかなるすまひにもあるかな。"など、ひとしれずはおぼすことなきにしもあらぬに、ましてこのころは、よにひびきたるおほんありさまのはなやかさに、かつは、"みやのうちのひとのみおもはんことも、ひとげなきこと。"と、おぼしみだるることもそひてなげかしきを、ちうなごんのきみは、いとよくおしはかりきこえたまへば、うとからんあたりには、みぐるしくくだくだしかりぬべきこころしらひのさまも、あなづるとはなけれど、"なにかは、ことことしくしたてがほならんも、なかなかおぼえなくみとがむるひとやあらん。"と、おぼすなりけり。 |
49 | 5.5.4 | 495 | 471 |
今ぞまた、例のめやすきさまなるものどもなどせさせたまひて、御小袿織らせ、綾の料賜はせなどしたまひける。この君しもぞ、宮に劣りきこえたまはず、さま異にかしづきたてられて、かたはなるまで心おごりもし、世を思ひ澄まして、あてなる心ばへはこよなけれど、故親王の御山住みを見そめたまひしよりぞ、「さびしき所のあはれさはさま異なりけり」と、心苦しく思されて、なべての世をも思ひめぐらし、深き情けをもならひたまひにける。いとほしの人ならはしや、とぞ。 |
いまぞまた、れいのめやすきさまなるものどもなどせさせたまひて、おほんこうちきおらせ、あやのれうたまはせなどしたまひける。このきみしもぞ、みやにもおとりきこえたまはず、さまことにかしづきたてられて、かたはなるまでこころおごりもし、よをおもひすまして、あてなるこころばへはこよなけれど、こみこのみやまずみをみそめたまひしよりぞ、"さびしきところのあはれさはさまことなりけり。"と、こころぐるしくおぼされて、なべてのよをもおもひめぐらし、ふかきなさけをもならひたまひにける。いとほしのひとならはしや、とぞ。 |
49 | 5.6 | 496 | 472 | 第六段 薫と中君の、それぞれの苦悩 |
49 | 5.6.1 | 497 | 473 |
「かくて、なほ、いかでうしろやすく大人しき人にてやみなむ」と思ふにも、したがはず、心にかかりて苦しければ、御文などを、ありしよりはこまやかにて、ともすれば、忍びあまりたるけしき見せつつ聞こえたまふを、女君、いとわびしきこと添ひたる身と思し嘆かる。 |
"かくて、なほ、いかでうしろやすくおとなしきひとにてやみなん。"とおもふにも、したがはず、こころにかかりてくるしければ、おほんふみなどを、ありしよりはこまやかにて、ともすれば、しのびあまりたるけしきみせつつきこえたまふを、をんなぎみ、いとわびしきことそひたるみとおぼしなげかる。 |
49 | 5.6.2 | 498 | 474 |
「ひとへに知らぬ人なれば、あなものぐるほしと、はしたなめさし放たむにもやすかるべきを、昔よりさま異なる頼もし人にならひ来て、今さらに仲悪しくならむも、なかなか人目悪しかるべし。さすがに、あさはかにもあらぬ御心ばへありさまの、あはれを知らぬにはあらず。さりとて、心交はし顔にあひしらはむもいとつつましく、いかがはすべからむ」 |
"ひとへにしらぬひとなれば、あなものぐるほしと、はしたなめさしはなたんにもやすかるべきを、むかしよりさまことなるたのもしびとにならひきて、いまさらになかあしくならんも、なかなかひとめあしかるべし。さすがに、あさはかにもあらぬみこころばへありさまの、あはれをしらぬにはあらず。さりとて、こころかはしがほにあひしらはんもいとつつましく、いかがはすべからん。" |
49 | 5.6.3 | 499 | 475 |
と、よろづに思ひ乱れたまふ。 |
と、よろづにおもひみだれたまふ。 |
49 | 5.6.4 | 500 | 476 |
さぶらふ人びとも、すこしものの言ふかひありぬべく若やかなるは、皆あたらし、見馴れたるとては、かの山里の古女ばらなり。思ふ心をも、同じ心になつかしく言ひあはすべき人のなきままには、故姫君を思ひ出できこえたまはぬ折なし。 |
さぶらふひとびとも、すこしもののいふかひありぬべくわかやかなるは、みなあたらし、みなれたるとては、かのやまざとのふるをんなばらなり。おもふこころをも、おなじこころになつかしくいひあはすべきひとのなきままには、こひめぎみをおもひいできこえたまはぬをりなし。 |
49 | 5.6.5 | 501 | 477 |
「おはせましかば、この人もかかる心を添へたまはましや」 |
"おはせましかば、このひともかかるこころをそへたまはましや。" |
49 | 5.6.6 | 502 | 478 |
と、いと悲しく、宮のつらくなりたまはむ嘆きよりも、このこといと苦しくおぼゆ。 |
と、いとかなしく、みやのつらくなりたまはんなげきよりも、このこといとくるしくおぼゆ。 |
49 | 6 | 503 | 479 | 第六章 薫の物語 中君から異母妹の浮舟の存在を聞く |
49 | 6.1 | 504 | 480 | 第一段 薫、二条院の中君を訪問 |
49 | 6.1.1 | 505 | 481 |
男君も、しひて思ひわびて、例の、しめやかなる夕つ方おはしたり。やがて端に御茵さし出でさせたまひて、「いと悩ましきほどにてなむ、え聞こえさせぬ」と、人して聞こえ出だしたまへるを聞くに、いみじくつらくて、涙落ちぬべきを、人目につつめば、しひて紛らはして、 |
をとこぎみも、しひておもひわびて、れいの、しめやかなるゆふつかたおはしたり。やがてはしにおほんしとねさしいでさせたまひて、"いとなやましきほどにてなん、えきこえさせぬ。"と、ひとしてきこえいだしたまへるをきくに、いみじくつらくて、なみだおちぬべきを、ひとめにつつめば、しひてまぎらはして、 |
49 | 6.1.2 | 506 | 482 |
「悩ませたまふ折は、知らぬ僧なども近く参り寄るを。医師などの列にても、御簾の内にはさぶらふまじくやは。かく人伝てなる御消息なむ、かひなき心地する」 |
"なやませたまふをりは、しらぬそうなどもちかくまゐりよるを。くすしなどのつらにても、みすのうちにはさぶらふまじくやは。かくひとづてなるおほんせうそこなん、かひなきここちする。" |
49 | 6.1.3 | 507 | 483 |
とのたまひて、いとものしげなる御けしきなるを、一夜もののけしき見し人びと、 |
とのたまひて、いとものしげなるみけしきなるを、ひとよもののけしきみしひとびと、 |
49 | 6.1.4 | 508 | 484 |
「げに、いと見苦しくはべるめり」 |
"げに、いとみぐるしくはべるめり。" |
49 | 6.1.5 | 509 | 485 |
とて、母屋の御簾うち下ろして、夜居の僧の座に入れたてまつるを、女君、まことに心地もいと苦しけれど、人のかく言ふに、掲焉にならむも、またいかが、とつつましければ、もの憂ながらすこしゐざり出でて、対面したまへり。 |
とて、もやのみすうちおろして、よゐのそうのざにいれたてまつるを、をんなぎみ、まことにここちもいとくるしけれど、ひとのかくいふに、けちえんにならんも、またいかが、とつつましければ、ものうながらすこしゐざりいでて、たいめんしたまへり。 |
49 | 6.1.6 | 510 | 486 |
いとほのかに、時々もののたまふ御けはひの、昔人の悩みそめたまへりしころ、まづ思ひ出でらるるも、ゆゆしく悲しくて、かきくらす心地したまへば、とみにものも言はれず、ためらひてぞ聞こえたまふ。 |
いとほのかに、ときどきもののたまふおほんけはひの、むかしびとのなやみそめたまへりしころ、まづおもひいでらるるも、ゆゆしくかなしくて、かきくらすここちしたまへば、とみにものもいはれず、ためらひてぞきこえたまふ。 |
49 | 6.1.7 | 511 | 487 |
こよなく奥まりたまへるもいとつらくて、簾の下より几帳をすこしおし入れて、例の、なれなれしげに近づき寄りたまふが、いと苦しければ、わりなしと思して、少将といひし人を近く呼び寄せて、 |
こよなくおくまりたまへるもいとつらくて、すのしたよりきちゃうをすこしおしいれて、れいの、なれなれしげにちかづきよりたまふが、いとくるしければ、わりなしとおぼして、せうしゃうといひしひとをちかくよびよせて、 |
49 | 6.1.8 | 512 | 488 |
「胸なむ痛き。しばしおさへて」 |
"むねなんいたき。しばしおさへて。" |
49 | 6.1.9 | 513 | 489 |
とのたまふを聞きて、 |
とのたまふをききて、 |
49 | 6.1.10 | 514 | 490 |
「胸はおさへたるは、いと苦しくはべるものを」 |
"むねはおさへたるは、いとくるしくはべるものを。" |
49 | 6.1.11 | 515 | 491 |
とうち嘆きて、ゐ直りたまふほども、げにぞ下やすからぬ。 |
とうちなげきて、ゐなほりたまふほども、げにぞしたやすからぬ。 |
49 | 6.1.12 | 516 | 492 |
「いかなれば、かくしも常に悩ましくは思さるらむ。人に問ひはべりしかば、しばしこそ心地は悪しかなれ、さてまた、よろしき折あり、などこそ教へはべしか。あまり若々しくもてなさせたまふなめり」 |
"いかなれば、かくしもつねになやましくはおぼさるらん。ひとにとひはべりしかば、しばしこそここちはあしかなれ、さてまた、よろしきをりあり、などこそをしへはべしか。あまりわかわかしくもてなさせたまふなめり。" |
49 | 6.1.13 | 517 | 493 |
とのたまふに、いと恥づかしくて、 |
とのたまふに、いとはづかしくて、 |
49 | 6.1.14 | 518 | 494 |
「胸は、いつともなくかくこそははべれ。昔の人もさこそはものしたまひしか。長かるまじき人のするわざとか、人も言ひはべるめる」 |
"むねは、いつともなくかくこそははべれ。むかしのひともさこそはものしたまひしか。ながかるまじきひとのするわざとか、ひともいひはべるめる。" |
49 | 6.1.15 | 519 | 495 |
とぞのたまふ。「げに、誰も千年の松ならぬ世を」と思ふには、いと心苦しくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かむもつつまれず、かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむれ、昔より思ひきこえしさまなどを、かの御耳一つには心得させながら、人はかたはにも聞くまじきさまに、さまよくめやすくぞ言ひなしたまふを、「げに、ありがたき御心ばへにも」と聞きゐたりけり。 |
とぞのたまふ。"げに、たれもちとせのまつならぬよを。"とおもふには、いとこころぐるしくあはれなれば、このめしよせたるひとのきかんもつつまれず、かたはらいたきすぢのことをこそえりとどむれ、むかしよりおもひきこえしさまなどを、かのおほんみみひとつにはこころえさせながら、ひとはかたはにもきくまじきさまに、さまよくめやすくぞいひなしたまふを、"げに、ありがたきみこころばへにも。"とききゐたりけり。 |
49 | 6.2 | 520 | 496 | 第二段 薫、亡き大君追慕の情を訴える |
49 | 6.2.1 | 521 | 497 |
何事につけても、故君の御事をぞ尽きせず思ひたまへる。 |
なにごとにつけても、こぎみのおほんことをぞつきせずおもひたまへる。 |
49 | 6.2.2 | 522 | 498 |
「いはけなかりしほどより、世の中を思ひ離れてやみぬべき心づかひをのみならひはべしに、さるべきにやはべりけむ、疎きものからおろかならず思ひそめきこえはべりしひとふしに、かの本意の聖心は、さすがに違ひやしにけむ。 |
"いはけなかりしほどより、よのなかをおもひはなれてやみぬべきこころづかひをのみならひはべしに、さるべきにやはべりけん、うときものからおろかならずおもひそめきこえはべりしひとふしに、かのほいのひじりごころは、さすがにたがひやしにけん。 |
49 | 6.2.3 | 523 | 499 |
慰めばかりに、ここにもかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを見むにつけて、紛るることもやあらむなど、思ひ寄る折々はべれど、さらに他ざまにはなびくべくもはべらざりけり。 |
なぐさめばかりに、ここにもかしこにもゆきかかづらひて、ひとのありさまをみんにつけて、まぎるることもやあらんなど、おもひよるをりをりはべれど、さらにほかざまにはなびくべくもはべらざりけり。 |
49 | 6.2.4 | 524 | 500 |
よろづに思ひたまへわびては、心の引く方の強からぬわざなりければ、好きがましきやうに思さるらむと、恥づかしけれど、あるまじき心の、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりのほどにて、時々思ふことをも聞こえさせ承りなどして、隔てなくのたまひかよはむを、誰れかはとがめ出づべき。世の人に似ぬ心のほどは、皆人にもどかるまじくはべるを、なほうしろやすく思したれ」 |
よろづにおもひたまへわびては、こころのひくかたのつよからぬわざなりければ、すきがましきやうにおぼさるらんと、はづかしけれど、あるまじきこころの、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりのほどにて、ときどきおもふことをもきこえさせうけたまはりなどして、へだてなくのたまひかよはんを、たれかはとがめいづべき。よのひとににぬこころのほどは、みなひとにもどかるまじくはべるを、なほうしろやすくおぼしたれ。" |
49 | 6.2.5 | 525 | 501 |
など、怨み泣きみ聞こえたまふ。 |
など、うらみなきみきこえたまふ。 |
49 | 6.2.6 | 526 | 502 |
「うしろめたく思ひきこえば、かくあやしと人も見思ひぬべきまでは聞こえはべるべくや。年ごろ、こなたかなたにつけつつ、見知ることどものはべりしかばこそ、さま異なる頼もし人にて、今はこれよりなどおどろかしきこゆれ」 |
"うしろめたくおもひきこえば、かくあやしとひともみおもひぬべきまではきこえはべるべくや。としごろ、こなたかなたにつけつつ、みしることどものはべりしかばこそ、さまことなるたのもしびとにて、いまはこれよりなどおどろかしきこゆれ。" |
49 | 6.2.7 | 527 | 503 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 6.2.8 | 528 | 504 |
「さやうなる折もおぼえはべらぬものを、いとかしこきことに思しおきてのたまはするや。この御山里出で立ち急ぎに、からうして召し使はせたまふべき。それもげに、御覧じ知る方ありてこそはと、おろかにやは思ひはべる」 |
"さやうなるをりもおぼえはべらぬものを、いとかしこきことにおぼしおきてのたまはするや。このおほんやまざといでたちいそぎに、からうしてめしつかはせたまふべき。それもげに、ごらんじしるかたありてこそはと、おろかにやはおもひはべる。" |
49 | 6.2.9 | 529 | 505 |
などのたまひて、なほいともの恨めしげなれど、聞く人あれば、思ふままにもいかでかは続けたまはむ。 |
などのたまひて、なほいとものうらめしげなれど、きくひとあれば、おもふままにもいかでかはつづけたまはん。 |
49 | 6.3 | 530 | 506 | 第三段 薫、故大君に似た人形を望む |
49 | 6.3.1 | 531 | 507 |
外の方を眺め出だしたれば、やうやう暗くなりにたるに、虫の声ばかり紛れなくて、山の方小暗く、何のあやめも見えぬに、いとしめやかなるさまして寄りゐたまへるも、わづらはしとのみ内には思さる。 |
とのかたをながめいだしたれば、やうやうくらくなりにたるに、むしのこゑばかりまぎれなくて、やまのかたをぐらく、なにのあやめもみえぬに、いとしめやかなるさましてよりゐたまへるも、わづらはしとのみうちにはおぼさる。 |
49 | 6.3.2 | 532 | 508 |
「限りだにある」 |
"かぎりだにある。" |
49 | 6.3.3 | 533 | 509 |
など、忍びやかにうち誦じて、 |
など、しのびやかにうちずじて、 |
49 | 6.3.4 | 534 | 510 |
「思うたまへわびにてはべり。音無の里求めまほしきを、かの山里のわたりに、わざと寺などはなくとも、昔おぼゆる人形をも作り、絵にも描きとりて、行なひはべらむとなむ、思うたまへなりにたる」 |
"おもうたまへわびにてはべり。おとなしのさともとめまほしきを、かのやまざとのわたりに、わざとてらなどはなくとも、むかしおぼゆるひとがたをもつくり、ゑにもかきとりて、おこなひはべらんとなん、おもうたまへなりにたる。" |
49 | 6.3.5 | 535 | 511 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 6.3.6 | 536 | 512 |
「あはれなる御願ひに、またうたて御手洗川近き心地する人形こそ、思ひやりいとほしくはべれ。黄金求むる絵師もこそなど、うしろめたくぞはべるや」 |
"あはれなるおほんねがひに、またうたてみたらしがはちかきここちするひとがたこそ、おもひやりいとほしくはべれ。こがねもとむるゑしもこそなど、うしろめたくぞはべるや。" |
49 | 6.3.7 | 537 | 513 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 6.3.8 | 538 | 514 |
「そよ。その工も絵師も、いかでか心には叶ふべきわざならむ。近き世に花降らせたる工もはべりけるを、さやうならむ変化の人もがな」 |
"そよ。そのたくみもゑしも、いかでかこころにはかなふべきわざならん。ちかきよにはなふらせたるたくみもはべりけるを、さやうならんへんげのひともがな。" |
49 | 6.3.9 | 539 | 515 |
と、とざまかうざまに忘れむ方なきよしを、嘆きたまふけしきの、心深げなるもいとほしくて、今すこし近くすべり寄りて、 |
と、とざまかうざまにわすれんかたなきよしを、なげきたまふけしきの、こころぶかげなるもいとほしくて、いますこしちかくすべりよりて、 |
49 | 6.3.10 | 540 | 516 |
「人形のついでに、いとあやしく思ひ寄るまじきことをこそ、思ひ出ではべれ」 |
"ひとがたのついでに、いとあやしくおもひよるまじきことをこそ、おもひいではべれ。" |
49 | 6.3.11 | 541 | 517 |
とのたまふけはひの、すこしなつかしきも、いとうれしくあはれにて、 |
とのたまふけはひの、すこしなつかしきも、いとうれしくあはれにて、 |
49 | 6.3.12 | 542 | 518 |
「何ごとにか」 |
"なにごとにか。" |
49 | 6.3.13 | 543 | 519 |
と言ふままに、几帳の下より手を捉ふれば、いとうるさく思ひならるれど、「いかさまにして、かかる心をやめて、なだらかにあらむ」と思へば、この近き人の思はむことのあいなくて、さりげなくもてなしたまへり。 |
といふままに、きちゃうのしたよりてをとらふれば、いとうるさくおもひならるれど、"いかさまにして、かかるこころをやめて、なだらかにあらん。"とおもへば、このちかきひとのおもはんことのあいなくて、さりげなくもてなしたまへり。 |
49 | 6.4 | 544 | 520 | 第四段 中君、異母妹の浮舟を語る |
49 | 6.4.1 | 545 | 521 |
「年ごろは、世にやあらむとも知らざりつる人の、この夏ごろ、遠き所よりものして尋ね出でたりしを、疎くは思ふまじけれど、またうちつけに、さしも何かは睦び思はむ、と思ひはべりしを、さいつころ来たりしこそ、あやしきまで、昔人の御けはひにかよひたりしかば、あはれにおぼえなりにしか。 |
"としごろは、よにやあらんともしらざりつるひとの、このなつごろ、とほきところよりものしてたづねいでたりしを、うとくはおもふまじけれど、またうちつけに、さしもなにかはむつびおもはん、とおもひはべりしを、さいつころきたりしこそ、あやしきまで、むかしびとのおほんけはひにかよひたりしかば、あはれにおぼえなりにしか。 |
49 | 6.4.2 | 546 | 522 |
形見など、かう思しのたまふめるは、なかなか何事も、あさましくもて離れたりとなむ、見る人びとも言ひはべりしを、いとさしもあるまじき人の、いかでかは、さはありけむ」 |
かたみなど、かうおぼしのたまふめるは、なかなかなにごとも、あさましくもてはなれたりとなん、みるひとびともいひはべりしを、いとさしもあるまじきひとの、いかでかは、さはありけん。" |
49 | 6.4.3 | 547 | 523 |
とのたまふを、夢語りか、とまで聞く。 |
とのたまふを、ゆめがたりか、とまできく。 |
49 | 6.4.4 | 548 | 524 |
「さるべきゆゑあればこそは、さやうにも睦びきこえらるらめ。などか今まで、かくもかすめさせたまはざらむ」 |
"さるべきゆゑあればこそは、さやうにもむつびきこえらるらめ。などかいままで、かくもかすめさせたまはざらん。" |
49 | 6.4.5 | 549 | 525 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 6.4.6 | 550 | 526 |
「いさや、そのゆゑも、いかなりけむこととも思ひ分かれはべらず。ものはかなきありさまどもにて、世に落ちとまりさすらへむとすらむこと、とのみ、うしろめたげに思したりしことどもを、ただ一人かき集めて思ひ知られはべるに、またあいなきことをさへうち添へて、人も聞き伝へむこそ、いといとほしかるべけれ」 |
"いさや、そのゆゑも、いかなりけんことともおもひわかれはべらず。ものはかなきありさまどもにて、よにおちとまりさすらへんとすらんこと、とのみ、うしろめたげにおぼしたりしことどもを、ただひとりかきあつめておもひしられはべるに、またあいなきことをさへうちそへて、ひともききつたへんこそ、いといとほしかるべけれ。" |
49 | 6.4.7 | 551 | 527 |
とのたまふけしき見るに、「宮の忍びてものなどのたまひけむ人の、忍草摘みおきたりけるなるべし」と見知りぬ。 |
とのたまふけしきみるに、"みやのしのびてものなどのたまひけんひとの、しのぶぐさつみおきたりけるなるべし。"とみしりぬ。 |
49 | 6.4.8 | 552 | 528 |
似たりとのたまふゆかりに耳とまりて、 |
にたりとのたまふゆかりにみみとまりて、 |
49 | 6.4.9 | 553 | 529 |
「かばかりにては。同じくは言ひ果てさせたまうてよ」 |
"かばかりにては。おなじくはいひはてさせたまうてよ。" |
49 | 6.4.10 | 554 | 530 |
と、いぶかしがりたまへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにも聞こえたまはず。 |
と、いぶかしがりたまへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにもきこえたまはず。 |
49 | 6.4.11 | 555 | 531 |
「尋ねむと思す心あらば、そのわたりとは聞こえつべけれど、詳しくしもえ知らずや。また、あまり言はば、心劣りもしぬべきことになむ」 |
"たづねんとおぼすこころあらば、そのわたりとはきこえつべけれど、くはしくしもえしらずや。また、あまりいはば、こころおとりもしぬべきことになん。" |
49 | 6.4.12 | 556 | 532 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 6.4.13 | 557 | 533 |
「世を、海中にも、魂のありか尋ねには、心の限り進みぬべきを、いとさまで思ふべきにはあらざなれど、いとかく慰めむ方なきよりはと、思ひ寄りはべる人形の願ひばかりには、などかは、山里の本尊にも思ひはべらざらむ。なほ、確かにのたまはせよ」 |
"よを、うみなかにも、たまのありかたづねには、こころのかぎりすすみぬべきを、いとさまでおもふべきにはあらざなれど、いとかくなぐさめんかたなきよりはと、おもひよりはべるひとがたのねがひばかりには、などかは、やまざとのほんぞんにもおもひはべらざらん。なほ、たしかにのたまはせよ。" |
49 | 6.4.14 | 558 | 534 |
と、うちつけに責めきこえたまふ。 |
と、うちつけにせめきこえたまふ。 |
49 | 6.4.15 | 559 | 535 |
「いさや、いにしへの御ゆるしもなかりしことを、かくまで漏らしきこゆるも、いと口軽けれど、変化の工求めたまふいとほしさにこそ、かくも」とて、「いと遠き所に年ごろ経にけるを、母なる人のうれはしきことに思ひて、あながちに尋ね寄りしを、はしたなくもえいらへではべりしに、ものしたりしなり。ほのかなりしかばにや、何事も思ひしほどよりは見苦しからずなむ見えし。これをいかさまにもてなさむ、と嘆くめりしに、仏にならむは、いとこよなきことにこそはあらめ、さまではいかでかは」 |
"いさや、いにしへのおほんゆるしもなかりしことを、かくまでもらしきこゆるも、いとくちかるけれど、へんげのたくみもとめたまふいとほしさにこそ、かくも。"とて、"いととほきところにとしごろへにけるを、ははなるひとのうれはしきことにおもひて、あながちにたづねよりしを、はしたなくもえいらへではべりしに、ものしたりしなり。ほのかなりしかばにや、なにごともおもひしほどよりはみぐるしからずなんみえし。これをいかさまにもてなさん、となげくめりしに、ほとけにならんは、いとこよなきことにこそはあらめ、さまではいかでかは。" |
49 | 6.4.16 | 560 | 536 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
49 | 6.5 | 561 | 537 | 第五段 薫、なお中君を恋慕す |
49 | 6.5.1 | 562 | 538 |
「さりげなくて、かくうるさき心をいかで言ひ放つわざもがな、と思ひたまへる」と見るはつらけれど、さすがにあはれなり。「あるまじきこととは深く思ひたまへるものから、顕証にはしたなきさまには、えもてなしたまはぬも、見知りたまへるにこそは」と思ふ心ときめきに、夜もいたく更けゆくを、内には人目いとかたはらいたくおぼえたまひて、うちたゆめて入りたまひぬれば、男君、ことわりとは返す返す思へど、なほいと恨めしく口惜しきに、思ひ静めむ方もなき心地して、涙のこぼるるも人悪ろければ、よろづに思ひ乱るれど、ひたぶるにあさはかならむもてなしはた、なほいとうたて、わがためもあいなかるべければ、念じ返して、常よりも嘆きがちにて出でたまひぬ。 |
"さりげなくて、かくうるさきこころをいかでいひはなつわざもがな、とおもひたまへる。"とみるはつらけれど、さすがにあはれなり。"あるまじきこととはふかくおもひたまへるものから、けせうにはしたなきさまには、えもてなしたまはぬも、みしりたまへるにこそは。"とおもふこころときめきに、よもいたくふけゆくを、うちにはひとめいとかたはらいたくおぼえたまひて、うちたゆめていりたまひぬれば、をとこぎみ、ことわりとはかへすがへすおもへど、なほいとうらめしくくちをしきに、おもひしづめんかたもなきここちして、なみだのこぼるるもひとわろければ、よろづにおもひみだるれど、ひたぶるにあさはかならんもてなしはた、なほいとうたて、わがためもあいなかるべければ、ねんじかへして、つねよりもなげきがちにていでたまひぬ。 |
49 | 6.5.2 | 563 | 539 |
「かくのみ思ひては、いかがすべからむ。苦しくもあるべきかな。いかにしてかは、おほかたの世にはもどきあるまじきさまにて、さすがに思ふ心の叶ふわざをすべからむ」 |
"かくのみおもひては、いかがすべからん。くるしくもあるべきかな。いかにしてかは、おほかたのよにはもどきあるまじきさまにて、さすがにおもふこころのかなふわざをすべからん。" |
49 | 6.5.3 | 564 | 540 |
など、おりたちて練じたる心ならねばにや、わがため人のためも、心やすかるまじきことを、わりなく思し明かすに、「似たりとのたまひつる人も、いかでかは真かとは見るべき。さばかりの際なれば、思ひ寄らむに、難くはあらずとも、人の本意にもあらずは、うるさくこそあるべけれ」など、なほそなたざまには心も立たず。 |
など、おりたちてれんじたるこころならねばにや、わがためひとのためも、こころやすかるまじきことを、わりなくおぼしあかすに、"にたりとのたまひつるひとも、いかでかはまことかとはみるべき。さばかりのきはなれば、おもひよらんに、かたくはあらずとも、ひとのほいにもあらずは、うるさくこそあるべけれ。"など、なほそなたざまにはこころもたたず。 |
49 | 7 | 565 | 541 | 第七章 薫の物語 宇治を訪問して弁の尼から浮舟の詳細について聞く |
49 | 7.1 | 566 | 542 | 第一段 九月二十日過ぎ、薫、宇治を訪れる |
49 | 7.1.1 | 567 | 543 |
宇治の宮を久しく見たまはぬ時は、いとど昔遠くなる心地して、すずろに心細ければ、九月二十余日ばかりにおはしたり。 |
うぢのみやをひさしくみたまはぬときは、いとどむかしとほくなるここちして、すずろにこころぼそければ、くがちにじふよにちばかりにおはしたり。 |
49 | 7.1.2 | 568 | 544 |
いとどしく風のみ吹き払ひて、心すごく荒ましげなる水の音のみ宿守にて、人影もことに見えず。見るには、まづかきくらし、悲しきことぞ限りなき。弁の尼召し出でたれば、障子口に、青鈍の几帳さし出でて参れり。 |
いとどしくかぜのみふきはらひて、こころすごくあらましげなるみづのおとのみやどもりにて、ひとかげもことにみえず。みるには、まづかきくらし、かなしきことぞかぎりなき。べんのあまめしいでたれば、さうじぐちに、あをにびのきちゃうさしいでてまゐれり。 |
49 | 7.1.3 | 569 | 545 |
「いとかしこけれど、ましていと恐ろしげにはべれば、つつましくてなむ」 |
"いとかしこけれど、ましていとおそろしげにはべれば、つつましくてなん。" |
49 | 7.1.4 | 570 | 546 |
と、まほには出で来ず。 |
と、まほにはいでこず。 |
49 | 7.1.5 | 571 | 547 |
「いかに眺めたまふらむと思ひやるに、同じ心なる人もなき物語も聞こえむとてなむ。はかなくも積もる年月かな」 |
"いかにながめたまふらんとおもひやるに、おなじこころなるひともなきものがたりもきこえんとてなん。はかなくもつもるとしつきかな。" |
49 | 7.1.6 | 572 | 548 |
とて、涙を一目浮けておはするに、老い人はいとどさらにせきあへず。 |
とて、なみだをひとめうけておはするに、おいびとはいとどさらにせきあへず。 |
49 | 7.1.7 | 573 | 549 |
「人の上にて、あいなくものを思すめりしころの空ぞかし、と思ひたまへ出づるに、いつとはべらぬなるにも、秋の風は身にしみてつらくおぼえはべりて、げにかの嘆かせたまふめりしもしるき世の中の御ありさまを、ほのかに承るも、さまざまになむ」 |
"ひとのうへにて、あいなくものをおぼすめりしころのそらぞかし、とおもひたまへいづるに、いつとはべらぬなるにも、あきのかぜはみにしみてつらくおぼえはべりて、げにかのなげかせたまふめりしもしるきよのなかのおほんありさまを、ほのかにうけたまはるも、さまざまになん。" |
49 | 7.1.8 | 574 | 550 |
と聞こゆれば、 |
ときこゆれば、 |
49 | 7.1.9 | 575 | 551 |
「とあることもかかることも、ながらふれば、直るやうもあるを、あぢきなく思ししみけむこそ、わが過ちのやうに、なほ悲しけれ。このころの御ありさまは、何か、それこそ世の常なれ。されど、うしろめたげには見えきこえざめり。言ひても言ひても、むなしき空に昇りぬる煙のみこそ、誰も逃れぬことながら、後れ先だつほどは、なほいと言ふかひなかりけり」 |
"とあることもかかることも、ながらふれば、なほるやうもあるを、あぢきなくおぼししみけんこそ、わがあやまちのやうに、なほかなしけれ。このころのおほんありさまは、なにか、それこそよのつねなれ。されど、うしろめたげにはみえきこえざめり。いひてもいひても、むなしきそらにのぼりぬるけぶりのみこそ、たれものがれぬことながら、おくれさきだつほどは、なほいといふかひなかりけり。" |
49 | 7.1.10 | 576 | 552 |
とても、また泣きたまひぬ。 |
とても、またなきたまひぬ。 |
49 | 7.2 | 577 | 553 | 第二段 薫、宇治の阿闍梨と面談す |
49 | 7.2.1 | 578 | 554 |
阿闍梨召して、例の、かの忌日の経仏などのことのたまふ。 |
あざりめして、れいの、かのきにちのきゃうほとけなどのことのたまふ。 |
49 | 7.2.2 | 579 | 555 |
「さて、ここに時々ものするにつけても、かひなきことのやすからずおぼゆるが、いと益なきを、この寝殿こぼちて、かの山寺のかたはらに堂建てむ、となむ思ふを、同じくは疾く始めてむ」 |
"さて、ここにときどきものするにつけても、かひなきことのやすからずおぼゆるが、いとやくなきを、このしんでんこぼちて、かのやまでらのかたはらにだうたてん、となんおもふを、おなじくはとくはじめてん。" |
49 | 7.2.3 | 580 | 556 |
とのたまひて、堂いくつ、廊ども、僧房など、あるべきことども、書き出でのたまはせさせたまふを、 |
とのたまひて、だういくつ、らうども、そうばうなど、あるべきことども、かきいでのたまはせさせたまふを、 |
49 | 7.2.4 | 581 | 557 |
「いと尊きこと」 |
"いとたふときこと。" |
49 | 7.2.5 | 582 | 558 |
と聞こえ知らす。 |
ときこえしらす。 |
49 | 7.2.6 | 583 | 559 |
「昔の人の、ゆゑある御住まひに占め造りたまひけむ所を、ひきこぼたむ、情けなきやうなれど、その御心ざしも功徳の方には進みぬべく思しけむを、とまりたまはむ人びと思しやりて、えさはおきてたまはざりけるにや。 |
"むかしのひとの、ゆゑあるおほんすまひにしめつくりたまひけんところを、ひきこぼたん、なさけなきやうなれど、そのみこころざしもくどくのかたにはすすみぬべくおぼしけんを、とまりたまはんひとびとおぼしやりて、えさはおきてたまはざりけるにや。 |
49 | 7.2.7 | 584 | 560 |
今は、兵部卿宮の北の方こそは、知りたまふべければ、かの宮の御料とも言ひつべくなりにたり。されば、ここながら寺になさむことは、便なかるべし。心にまかせてさもえせじ。所のさまもあまり川づら近く、顕証にもあれば、なほ寝殿を失ひて、異ざまにも造り変へむの心にてなむ」 |
いまは、ひゃうぶきゃうのみやのきたのかたこそは、しりたまふべければ、かのみやのごれうともいひつべくなりにたり。されば、ここながらてらになさんことは、びんなかるべし。こころにまかせてさもえせじ。ところのさまもあまりかはづらちかく、けせうにもあれば、なほしんでんをうしなひて、ことざまにもつくりかへんのこころにてなん。" |
49 | 7.2.8 | 585 | 561 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 7.2.9 | 586 | 562 |
「とざまかうざまに、いともかしこく尊き御心なり。昔、別れを悲しびて、屍を包みてあまたの年首に掛けてはべりける人も、仏の御方便にてなむ、かの屍の袋を捨てて、つひに聖の道にも入りはべりにける。この寝殿を御覧ずるにつけて、御心動きおはしますらむ、一つにはたいだいしきことなり。また、後の世の勧めともなるべきことにはべりけり。急ぎ仕うまつるべし。暦の博士はからひ申してはべらむ日を承りて、もののゆゑ知りたらむ工、二、三人を賜はりて、こまかなることどもは、仏の御教へのままに仕うまつらせはべらむ」 |
"とざまかうざまに、いともかしこくたふときみこころなり。むかし、わかれをかなしびて、かばねをつつみてあまたのとしくびにかけてはべりけるひとも、ほとけのおほんはうべんにてなん、かのかばねのふくろをすてて、つひにひじりのみちにもいりはべりにける。このしんでんをごらんずるにつけて、みこころうごきおはしますらん、ひとつにはたいだいしきことなり。また、のちのよのすすめともなるべきことにはべりけり。いそぎつかうまつるべし。こよみのはかせはからひまうしてはべらんひをうけたまはりて、もののゆゑしりたらんたくみ、ふたり、みたりをたまはりて、こまかなることどもは、ほとけのおほんをしへのままにつかうまつらせはべらん。" |
49 | 7.2.10 | 587 | 563 |
と申す。とかくのたまひ定めて、御荘の人ども召して、このほどのことども、阿闍梨の言はむままにすべきよしなど仰せたまふ。はかなく暮れぬれば、その夜はとどまりたまひぬ。 |
とまうす。とかくのたまひさだめて、みさうのひとどもめして、このほどのことども、あざりのいはんままにすべきよしなどおほせたまふ。はかなくくれぬれば、そのよはとどまりたまひぬ。 |
49 | 7.3 | 588 | 564 | 第三段 薫、弁の尼と語る |
49 | 7.3.1 | 589 | 565 |
「このたびばかりこそ見め」と思して、立ちめぐりつつ見たまへば、仏も皆かの寺に移してければ、尼君の行なひの具のみあり。いとはかなげに住まひたるを、あはれに、「いかにして過ぐすらむ」と見たまふ。 |
"このたびばかりこそみめ。"とおぼして、たちめぐりつつみたまへば、ほとけもみなかのてらにうつしてければ、あまぎみのおこなひのぐのみあり。いとはかなげにすまひたるを、あはれに、"いかにしてすぐすらん。"とみたまふ。 |
49 | 7.3.2 | 590 | 566 |
「この寝殿は、変へて造るべきやうあり。造り出でむほどは、かの廊にものしたまへ。京の宮にとり渡さるべきものなどあらば、荘の人召して、あるべからむやうにものしたまへ」 |
"このしんでんは、かへてつくるべきやうあり。つくりいでんほどは、かのらうにものしたまへ。きゃうのみやにとりわたさるべきものなどあらば、さうのひとめして、あるべからんやうにものしたまへ。" |
49 | 7.3.3 | 591 | 567 |
など、まめやかなることどもを語らひたまふ。他にては、かばかりにさだ過ぎなむ人を、何かと見入れたまふべきにもあらねど、夜も近く臥せて、昔物語などせさせたまふ。故権大納言の君の御ありさまも、聞く人なきに心やすくて、いとこまやかに聞こゆ。 |
など、まめやかなることどもをかたらひたまふ。ほかにては、かばかりにさだすぎなんひとを、なにかとみいれたまふべきにもあらねど、よるもちかくふせて、むかしものがたりなどせさせたまふ。こごんだいなごんのきみのおほんありさまも、きくひとなきにこころやすくて、いとこまやかにきこゆ。 |
49 | 7.3.4 | 592 | 568 |
「今はとなりたまひしほどに、めづらしくおはしますらむ御ありさまを、いぶかしきものに思ひきこえさせたまふめりし御けしきなどの思ひたまへ出でらるるに、かく思ひかけはべらぬ世の末に、かくて見たてまつりはべるなむ、かの御世に睦ましく仕うまつりおきし験のおのづからはべりけると、うれしくも悲しくも思ひたまへられはべる。心憂き命のほどにて、さまざまのことを見たまへ過ぐし、思ひたまへ知りはべるなむ、いと恥づかしく心憂くはべる。 |
"いまはとなりたまひしほどに、めづらしくおはしますらんおほんありさまを、いぶかしきものにおもひきこえさせたまふめりしみけしきなどのおもひたまへいでらるるに、かくおもひかけはべらぬよのすゑに、かくてみたてまつりはべるなん、かのみよにむつましくつかうまつりおきししるしのおのづからはべりけると、うれしくもかなしくもおもひたまへられはべる。こころうきいのちのほどにて、さまざまのことをみたまへすぐし、おもひたまへしりはべるなん、いとはづかしくこころうくはべる。 |
49 | 7.3.5 | 593 | 569 |
宮よりも、時々は参りて見たてまつれ、おぼつかなく絶え籠もり果てぬるは、こよなく思ひ隔てけるなめりなど、のたまはする折々はべれど、ゆゆしき身にてなむ、阿弥陀仏より他には、見たてまつらまほしき人もなくなりてはべる」 |
みやよりも、ときどきはまゐりてみたてまつれ、おぼつかなくたえこもりはてぬるは、こよなくおもひへだてけるなめりなど、のたまはするをりをりはべれど、ゆゆしきみにてなん、あみだぶつよりほかには、みたてまつらまほしきひともなくなりてはべる。" |
49 | 7.3.6 | 594 | 570 |
など聞こゆ。故姫君の御ことども、はた尽きせず、年ごろの御ありさまなど語りて、何の折何とのたまひし、花紅葉の色を見ても、はかなく詠みたまひける歌語りなどを、つきなからず、うちわななきたれど、こめかしく言少ななるものから、をかしかりける人の御心ばへかなとのみ、いとど聞き添へたまふ。 |
などきこゆ。こひめぎみのおほんことども、はたつきせず、としごろのおほんありさまなどかたりて、なにのをりなにとのたまひし、はなもみぢのいろをみても、はかなくよみたまひけるうたがたりなどを、つきなからず、うちわななきたれど、こめかしくことずくななるものから、をかしかりけるひとのみこころばへかなとのみ、いとどききそへたまふ。 |
49 | 7.3.7 | 595 | 571 |
「宮の御方は、今すこし今めかしきものから、心許さざらむ人のためには、はしたなくもてなしたまひつべくこそものしたまふめるを、我にはいと心深く情け情けしとは見えて、いかで過ごしてむ、とこそ思ひたまへれ」 |
"みやのおほんかたは、いますこしいまめかしきものから、こころゆるさざらんひとのためには、はしたなくもてなしたまひつべくこそものしたまふめるを、われにはいとこころぶかくなさけなさけしとはみえて、いかですごしてん、とこそおもひたまへれ。" |
49 | 7.3.8 | 596 | 572 |
など、心のうちに思ひ比べたまふ。 |
など、こころのうちにおもひくらべたまふ。 |
49 | 7.4 | 597 | 573 | 第四段 薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる |
49 | 7.4.1 | 598 | 574 |
さて、もののついでに、かの形代のことを言ひ出でたまへり。 |
さて、もののついでに、かのかたしろのことをいひいでたまへり。 |
49 | 7.4.2 | 599 | 575 |
「京に、このころ、はべらむとはえ知りはべらず。人伝てに承りしことの筋ななり。故宮の、まだかかる山里住みもしたまはず、故北の方の亡せたまへりけるほど近かりけるころ、中将の君とてさぶらひける上臈の、心ばせなどもけしうはあらざりけるを、いと忍びて、はかなきほどにもののたまはせける、知る人もはべらざりけるに、女子をなむ産みてはべりけるを、さもやあらむ、と思すことのありけるからに、あいなくわづらはしくものしきやうに思しなりて、またとも御覧じ入るることもなかりけり。 |
"きゃうに、このころ、はべらんとはえしりはべらず。ひとづてにうけたまはりしことのすぢななり。こみやの、まだかかるやまざとずみもしたまはず、こきたのかたのうせたまへりけるほどちかかりけるころ、ちうじゃうのきみとてさぶらひけるじゃうらふの、こころばせなどもけしうはあらざりけるを、いとしのびて、はかなきほどにもののたまはせける、しるひともはべらざりけるに、をんなごをなんうみてはべりけるを、さもやあらん、とおぼすことのありけるからに、あいなくわづらはしくものしきやうにおぼしなりて、またともごらんじいるることもなかりけり。 |
49 | 7.4.3 | 600 | 576 |
あいなくそのことに思し懲りて、やがておほかた聖にならせたまひにけるを、はしたなく思ひて、えさぶらはずなりにけるが、陸奥国の守の妻になりたりけるを、一年上りて、その君平らかにものしたまふよし、このわたりにもほのめかし申したりけるを、聞こしめしつけて、さらにかかる消息あるべきことにもあらずと、のたまはせ放ちければ、かひなくてなむ嘆きはべりける。 |
あいなくそのことにおぼしこりて、やがておほかたひじりにならせたまひにけるを、はしたなくおもひて、えさぶらはずなりにけるが、みちのくにのかみのめになりたりけるを、ひととせのぼりて、そのきみたひらかにものしたまふよし、このわたりにもほのめかしまうしたりけるを、きこしめしつけて、さらにかかるせうそこあるべきことにもあらずと、のたまはせはなちければ、かひなくてなんなげきはべりける。 |
49 | 7.4.4 | 601 | 577 |
さてまた、常陸になりて下りはべりにけるが、この年ごろ、音にも聞こえたまはざりつるが、この春上りて、かの宮には尋ね参りたりけるとなむ、ほのかに聞きはべりし。 |
さてまた、ひたちになりてくだりはべりにけるが、このとしごろ、おとにもきこえたまはざりつるが、このはるのぼりて、かのみやにはたづねまゐりたりけるとなん、ほのかにききはべりし。 |
49 | 7.4.5 | 602 | 578 |
かの君の年は、二十ばかりになりたまひぬらむかし。いとうつくしく生ひ出でたまふがかなしきなどこそ、中ごろは、文にさへ書き続けてはべめりしか」 |
かのきみのとしは、はたちばかりになりたまひぬらんかし。いとうつくしくおひいでたまふがかなしきなどこそ、なかごろは、ふみにさへかきつづけてはべめりしか。" |
49 | 7.4.6 | 603 | 579 |
と聞こゆ。 |
ときこゆ。 |
49 | 7.4.7 | 604 | 580 |
詳しく聞きあきらめたまひて、「さらば、まことにてもあらむかし。見ばや」と思ふ心出で来ぬ。 |
くはしくききあきらめたまひて、"さらば、まことにてもあらんかし。みばや。"とおもふこころいできぬ。 |
49 | 7.4.8 | 605 | 581 |
「昔の御けはひに、かけても触れたらむ人は、知らぬ国までも尋ね知らまほしき心あるを、数まへたまはざりけれど、近き人にこそはあなれ。わざとはなくとも、このわたりにおとなふ折あらむついでに、かくなむ言ひし、と伝へたまへ」 |
"むかしのおほんけはひに、かけてもふれたらんひとは、しらぬくにまでもたづねしらまほしきこころあるを、かずまへたまはざりけれど、ちかきひとにこそはあなれ。わざとはなくとも、このわたりにおとなふをりあらんついでに、かくなんいひし、とつたへたまへ。" |
49 | 7.4.9 | 606 | 582 |
などばかりのたまひおく。 |
などばかりのたまひおく。 |
49 | 7.4.10 | 607 | 583 |
「母君は、故北の方の御姪なり。弁も離れぬ仲らひにはべるべきを、そのかみは他々にはべりて、詳しくも見たまへ馴れざりき。 |
"ははぎみは、こきたのかたのおほんめひなり。べんもはなれぬなからひにはべるべきを、そのかみはほかほかにはべりて、くはしくもみたまへなれざりき。 |
49 | 7.4.11 | 608 | 584 |
さいつころ、京より、大輔がもとより申したりしは、かの君なむ、いかでかの御墓にだに参らむと、のたまふなる、さる心せよ、などはべりしかど、まだここに、さしはへてはおとなはずはべめり。今、さらば、さやのついでに、かかる仰せなど伝へはべらむ」 |
さいつころ、きゃうより、たいふがもとよりまうしたりしは、かのきみなん、いかでかのみはかにだにまゐらんと、のたまふなる、さるこころせよ、などはべりしかど、まだここに、さしはへてはおとなはずはべめり。いま、さらば、さやのついでに、かかるおほせなどつたへはべらん。" |
49 | 7.4.12 | 609 | 585 |
と聞こゆ。 |
ときこゆ。 |
49 | 7.5 | 610 | 586 | 第五段 薫、二条院の中君に宇治訪問の報告 |
49 | 7.5.1 | 611 | 587 |
明けぬれば帰りたまはむとて、昨夜、後れて持て参れる絹綿などやうのもの、阿闍梨に贈らせたまふ。尼君にも賜ふ。法師ばら、尼君の下衆どもの料にとて、布などいふものをさへ、召して賜ぶ。心細き住まひなれど、かかる御訪らひたゆまざりければ、身のほどにはめやすく、しめやかにてなむ行なひける。 |
あけぬればかへりたまはんとて、よべ、おくれてもてまゐれるきぬわたなどやうのもの、あざりにおくらせたまふ。あまぎみにもたまふ。ほふしばら、あまぎみのげすどものれうにとて、ぬのなどいふものをさへ、めしてたぶ。こころぼそきすまひなれど、かかるおほんとぶらひたゆまざりければ、みのほどにはめやすく、しめやかにてなんおこなひける。 |
49 | 7.5.2 | 612 | 589 |
木枯しの堪へがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく散り敷きたる紅葉を、踏み分けける跡も見えぬを見渡して、とみにもえ出でたまはず。いとけしきある深山木に宿りたる蔦の色ぞまだ残りたる。こだになどすこし引き取らせたまひて、宮へと思しくて、持たせたまふ。 |
こがらしのたへがたきまでふきとほしたるに、のこるこずゑもなくちりしきたるもみぢを、ふみわけけるあともみえぬをみわたして、とみにもえいでたまはず。いとけしきあるみやまぎにやどりたるつたのいろぞまだのこりたる。こだになどすこしひきとらせたまひて、みやへとおぼしくて、もたせたまふ。 |
49 | 7.5.3 | 613 | 590 |
「宿り木と思ひ出でずは木のもとの<BR/>旅寝もいかにさびしからまし」 |
"〔やどりぎとおもひいでずはこのもとの<BR/>たびねもいかにさびしからまし〕 |
49 | 7.5.4 | 614 | 591 |
と独りごちたまふを聞きて、尼君、 |
とひとりごちたまふをききて、あまぎみ、 |
49 | 7.5.5 | 615 | 592 |
「荒れ果つる朽木のもとを宿りきと<BR/>思ひおきけるほどの悲しさ」 |
"〔あれはつるくちきのもとをやどりきと<BR/>おもひおきけるほどのかなしさ〕 |
49 | 7.5.6 | 616 | 593 |
あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞ、いささかの慰めには思しける。 |
あくまでふるめきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞ、いささかのなぐさめにはおぼしける。 |
49 | 7.5.7 | 617 | 594 |
宮に紅葉たてまつれたまへれば、男宮おはしましけるほどなりけり。 |
みやにもみぢたてまつれたまへれば、をとこみやおはしましけるほどなりけり。 |
49 | 7.5.8 | 618 | 595 |
「南の宮より」 |
"みなみのみやより。" |
49 | 7.5.9 | 619 | 596 |
とて、何心もなく持て参りたるを、女君、「例のむつかしきこともこそ」と苦しく思せど、取り隠さむやは。宮、 |
とて、なにごころもなくもてまゐりたるを、をんなぎみ、"れいのむつかしきこともこそ。"とくるしくおぼせど、とりかくさんやは。みや、 |
49 | 7.5.10 | 620 | 597 |
「をかしき蔦かな」 |
"をかしきつたかな。" |
49 | 7.5.11 | 621 | 598 |
と、ただならずのたまひて、召し寄せて見たまふ。御文には、 |
と、ただならずのたまひて、めしよせてみたまふ。おほんふみには、 |
49 | 7.5.12 | 622 | 599 |
「日ごろ、何事かおはしますらむ。山里にものしはべりて、いとど峰の朝霧に惑ひはべりつる御物語も、みづからなむ。かしこの寝殿、堂になすべきこと、阿闍梨に言ひつけはべりにき。御許しはべりてこそは、他に移すこともものしはべらめ。弁の尼に、さるべき仰せ言はつかはせ」 |
"ひごろ、なにごとかおはしますらん。やまざとにものしはべりて、いとどみねのあさぎりにまどひはべりつるおほんものがたりも、みづからなん。かしこのしんでん、だうになすべきこと、あざりにいひつけはべりにき。おほんゆるしはべりてこそは、ほかにうつすこともものしはべらめ。べんのあまに、さるべきおほせごとはつかはせ。" |
49 | 7.5.13 | 623 | 600 |
などぞある。 |
などぞある。 |
49 | 7.5.14 | 624 | 601 |
「よくも、つれなく書きたまへる文かな。まろありとぞ聞きつらむ」 |
"よくも、つれなくかきたまへるふみかな。まろありとぞききつらん。" |
49 | 7.5.15 | 625 | 602 |
とのたまふも、すこしは、げにさやありつらむ。女君は、ことなきをうれしと思ひたまふに、あながちにかくのたまふを、わりなしと思して、うち怨じてゐたまへる御さま、よろづの罪許しつべくをかし。 |
とのたまふも、すこしは、げにさやありつらん。をんなぎみは、ことなきをうれしとおもひたまふに、あながちにかくのたまふを、わりなしとおぼして、うちゑんじてゐたまへるおほんさま、よろづのつみゆるしつべくをかし。 |
49 | 7.5.16 | 626 | 603 |
「返り事書きたまへ。見じや」 |
"かへりごとかきたまへ。みじや。" |
49 | 7.5.17 | 627 | 604 |
とて、他ざまに向きたまへり。あまえて書かざらむもあやしければ、 |
とて、ほかざまにむきたまへり。あまえてかかざらんもあやしければ、 |
49 | 7.5.18 | 628 | 605 |
「山里の御ありきのうらやましくもはべるかな。かしこは、げにさやにてこそよく、と思ひたまへしを、ことさらにまた巌の中求めむよりは、荒らし果つまじく思ひはべるを、いかにもさるべきさまになさせたまはば、おろかならずなむ」 |
"やまざとのおほんありきのうらやましくもはべるかな。かしこは、げにさやにてこそよく、とおもひたまへしを、ことさらにまたいはほのなかもとめんよりは、あらしはつまじくおもひはべるを、いかにもさるべきさまになさせたまはば、おろかならずなん。" |
49 | 7.5.19 | 629 | 606 |
と聞こえたまふ。「かく憎きけしきもなき御睦びなめり」と見たまひながら、わが御心ならひに、ただならじと思すが、やすからぬなるべし。 |
ときこえたまふ。"かくにくきけしきもなきおほんむつびなめり。"とみたまひながら、わがみこころならひに、ただならじとおぼすが、やすからぬなるべし。 |
49 | 7.6 | 630 | 607 | 第六段 匂宮、中君の前で琵琶を弾く |
49 | 7.6.1 | 631 | 608 |
枯れ枯れなる前栽の中に、尾花の、ものよりことにて手をさし出で招くがをかしく見ゆるに、まだ穂に出でさしたるも、露を貫きとむる玉の緒、はかなげにうちなびきたるなど、例のことなれど、夕風なほあはれなるころなりかし。 |
かれがれなるせんさいのなかに、をばなの、ものよりことにててをさしいでまねくがをかしくみゆるに、まだほにいでさしたるも、つゆをつらぬきとむるたまのを、はかなげにうちなびきたるなど、れいのことなれど、ゆふかぜなほあはれなるころなりかし。 |
49 | 7.6.2 | 632 | 609 |
「穂に出でぬもの思ふらし篠薄<BR/>招く袂の露しげくして」 |
"〔ほにいでぬものおもふらししのすすき<BR/>まねくたもとのつゆしげくして〕 |
49 | 7.6.3 | 633 | 610 |
なつかしきほどの御衣どもに、直衣ばかり着たまひて、琵琶を弾きゐたまへり。黄鐘調の掻き合はせを、いとあはれに弾きなしたまへば、女君も心に入りたまへることにて、もの怨じもえし果てたまはず、小さき御几帳のつまより、脇息に寄りかかりて、ほのかにさし出でたまへる、いと見まほしくらうたげなり。 |
なつかしきほどのおほんぞどもに、なほしばかりきたまひて、びわをひきゐたまへり。わうしきでうのかきあはせを、いとあはれにひきなしたまへば、をんなぎみもこころにいりたまへることにて、ものゑんじもえしはてたまはず、ちひさきみきちゃうのつまより、けふそくによりかかりて、ほのかにさしいでたまへる、いとみまほしくらうたげなり。 |
49 | 7.6.4 | 634 | 611 |
「秋果つる野辺のけしきも篠薄<BR/>ほのめく風につけてこそ知れ |
"〔あきはつるのべのけしきもしのすすき<BR/>ほのめくかぜにつけてこそしれ |
49 | 7.6.5 | 635 | 612 |
わが身一つの」 |
わがみひとつの。" |
49 | 7.6.6 | 636 | 613 |
とて涙ぐまるるが、さすがに恥づかしければ、扇を紛らはしておはする御心の内も、らうたく推し量らるれど、「かかるにこそ、人もえ思ひ放たざらめ」と、疑はしきがただならで、恨めしきなめり。 |
とてなみだぐまるるが、さすがにはづかしければ、あふぎをまぎらはしておはするみこころのうちも、らうたくおしはからるれど、"かかるにこそ、ひともえおもひはなたざらめ。"と、うたがはしきがただならで、うらめしきなめり。 |
49 | 7.6.7 | 637 | 614 |
菊の、まだよく移ろひ果てで、わざとつくろひたてさせたまへるは、なかなか遅きに、いかなる一本にかあらむ、いと見所ありて移ろひたるを、取り分きて折らせたまひて、 |
きくの、まだよくうつろひはてで、わざとつくろひたてさせたまへるは、なかなかおそきに、いかなるひともとにかあらん、いとみどころありてうつろひたるを、とりわきてをらせたまひて、 |
49 | 7.6.8 | 638 | 615 |
「花の中に偏に」 |
"〔はなのなかにひとへに〕 |
49 | 7.6.9 | 639 | 616 |
と誦じたまひて、 |
とずじたまひて、 |
49 | 7.6.10 | 640 | 617 |
「なにがしの皇子の、花めでたる夕べぞかし。いにしへ、天人の翔りて、琵琶の手教へけるは。何事も浅くなりにたる世は、もの憂しや」 |
"なにがしのみこの、はなめでたるゆふべぞかし。いにしへ、てんにんのかけりて、びわのてをしへけるは。なにごともあさくなりにたるよは、ものうしや。" |
49 | 7.6.11 | 641 | 618 |
とて、御琴さし置きたまふを、口惜しと思して、 |
とて、おほんことさしおきたまふを、くちをしとおぼして、 |
49 | 7.6.12 | 642 | 619 |
「心こそ浅くもあらめ、昔を伝へたらむことさへは、などてかさしも」 |
"こころこそあさくもあらめ、むかしをつたへたらんことさへは、などてかさしも。" |
49 | 7.6.13 | 643 | 620 |
とて、おぼつかなき手などをゆかしげに思したれば、 |
とて、おぼつかなきてなどをゆかしげにおぼしたれば、 |
49 | 7.6.14 | 644 | 621 |
「さらば、独り琴はさうざうしきに、さしいらへしたまへかし」 |
"さらば、ひとりごとはさうざうしきに、さしいらへしたまへかし。" |
49 | 7.6.15 | 645 | 622 |
とて、人召して、箏の御琴とり寄せさせて、弾かせたてまつりたまへど、 |
とて、ひとめして、さうのおほんこととりよせさせて、ひかせたてまつりたまへど、 |
49 | 7.6.16 | 646 | 623 |
「昔こそ、まねぶ人もものしたまひしか、はかばかしく弾きもとめずなりにしものを」 |
"むかしこそ、まねぶひともものしたまひしか、はかばかしくひきもとめずなりにしものを。" |
49 | 7.6.17 | 647 | 624 |
と、つつましげにて手も触れたまはねば、 |
と、つつましげにててもふれたまはねば、 |
49 | 7.6.18 | 648 | 625 |
「かばかりのことも、隔てたまへるこそ心憂けれ。このころ、見るわたり、まだいと心解くべきほどにもあらねど、かたなりなる初事をも隠さずこそあれ。すべて女は、やはらかに心うつくしきなむよきこととこそ、その中納言も定むめりしか。かの君に、はた、かくもつつみたまはじ。こよなき御仲なめれば」 |
"かばかりのことも、へだてたまへるこそこころうけれ。このころ、みるわたり、まだいとこころとくべきほどにもあらねど、かたなりなるうひごとをもかくさずこそあれ。すべてをんなは、やはらかにこころうつくしきなんよきこととこそ、そのちうなごんもさだむめりしか。かのきみに、はた、かくもつつみたまはじ。こよなきおほんなかなめれば。" |
49 | 7.6.19 | 649 | 626 |
など、まめやかに怨みられてぞ、うち嘆きてすこし調べたまふ。ゆるびたりければ、盤渉調に合はせたまふ。掻き合はせなど、爪音けをかしげに聞こゆ。「伊勢の海」謡ひたまふ御声のあてにをかしきを、女房も、物のうしろに近づき参りて、笑み広ごりてゐたり。 |
など、まめやかにうらみられてぞ、うちなげきてすこししらべたまふ。ゆるびたりければ、ばんしきでうにあはせたまふ。かきあはせなど、つまおとけをかしげにきこゆ。〔いせのうみ〕うたひたまふおほんこゑのあてにをかしきを、にょうばうも、もののうしろにちかづきまゐりて、ゑみひろごりてゐたり。 |
49 | 7.6.20 | 650 | 627 |
「二心おはしますはつらけれど、それもことわりなれば、なほわが御前をば、幸ひ人とこそは申さめ。かかる御ありさまに交じらひたまふべくもあらざりし所の御住まひを、また帰りなまほしげに思して、のたまはするこそ、いと心憂けれ」 |
"ふたごころおはしますはつらけれど、それもことわりなれば、なほわがおまへをば、さいはひびととこそはまうさめ。かかるおほんありさまにまじらひたまふべくもあらざりしところのおほんすまひを、またかへりなまほしげにおぼして、のたまはするこそ、いとこころうけれ。" |
49 | 7.6.21 | 651 | 628 |
など、ただ言ひに言へば、若き人びとは、 |
など、ただいひにいへば、わかきひとびとは、 |
49 | 7.6.22 | 652 | 629 |
「あなかまや」 |
"あなかまや。" |
49 | 7.6.23 | 653 | 630 |
など制す。 |
などせいす。 |
49 | 7.7 | 654 | 631 | 第七段 夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る |
49 | 7.7.1 | 655 | 632 |
御琴ども教へたてまつりなどして、三、四日籠もりおはして、御物忌などことつけたまふを、かの殿には恨めしく思して、大臣、内裏より出でたまひけるままに、ここに参りたまへれば、宮、 |
おほんことどもをしへたてまつりなどして、みか、よかこもりおはして、おほんものいみなどことつけたまふを、かのとのにはうらめしくおぼして、おとど、うちよりいでたまひけるままに、ここにまゐりたまへれば、みや、 |
49 | 7.7.2 | 656 | 633 |
「ことことしげなるさまして、何しにいましつるぞとよ」 |
"ことことしげなるさまして、なにしにいましつるぞとよ。" |
49 | 7.7.3 | 657 | 634 |
と、むつかりたまへど、あなたに渡りたまひて、対面したまふ。 |
と、むつかりたまへど、あなたにわたりたまひて、たいめんしたまふ。 |
49 | 7.7.4 | 658 | 635 |
「ことなることなきほどは、この院を見で久しくなりはべるも、あはれにこそ」 |
"ことなることなきほどは、このゐんをみでひさしくなりはべるも、あはれにこそ。" |
49 | 7.7.5 | 659 | 636 |
など、昔の御物語どもすこし聞こえたまひて、やがて引き連れきこえたまひて出でたまひぬ。御子どもの殿ばら、さらぬ上達部、殿上人なども、いと多くひき続きたまへる勢ひ、こちたきを見るに、並ぶべくもあらぬぞ、屈しいたかりける。人びと覗きて見たてまつりて、 |
など、むかしのおほんものがたりどもすこしきこえたまひて、やがてひきつれきこえたまひていでたまひぬ。みこどものとのばら、さらぬかんだちめ、てんじゃうびとなども、いとおほくひきつづきたまへるいきほひ、こちたきをみるに、ならぶべくもあらぬぞ、くしいたかりける。ひとびとのぞきてみたてまつりて、 |
49 | 7.7.6 | 660 | 637 |
「さもきよらにおはしける大臣かな。さばかり、いづれとなく、若く盛りにてきよげにおはさうずる御子どもの、似たまふべきもなかりけり。あな、めでたや」 |
"さもきよらにおはしけるおとどかな。さばかり、いづれとなく、わかくさかりにてきよげにおはさうずるみこどもの、にたまふべきもなかりけり。あな、めでたや。" |
49 | 7.7.7 | 661 | 638 |
と言ふもあり。また、 |
といふもあり。また、 |
49 | 7.7.8 | 662 | 639 |
「さばかりやむごとなげなる御さまにて、わざと迎へに参りたまへるこそ憎けれ。やすげなの世の中や」 |
"さばかりやんごとなげなるおほんさまにて、わざとむかへにまゐりたまへるこそにくけれ。やすげなのよのなかや。" |
49 | 7.7.9 | 663 | 640 |
など、うち嘆くもあるべし。御みづからも、来し方を思ひ出づるよりはじめ、かのはなやかなる御仲らひに立ちまじるべくもあらず、かすかなる身のおぼえをと、いよいよ心細ければ、「なほ心やすく籠もりゐなむのみこそ目やすからめ」など、いとどおぼえたまふ。はかなくて年も暮れぬ。 |
など、うちなげくもあるべし。おほんみづからも、きしかたをおもひいづるよりはじめ、かのはなやかなるおほんなからひにたちまじるべくもあらず、かすかなるみのおぼえをと、いよいよこころぼそければ、"なほこころやすくこもりゐなんのみこそめやすからめ。"など、いとどおぼえたまふ。はかなくてとしもくれぬ。 |
49 | 8 | 664 | 641 | 第八章 薫の物語 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁 |
49 | 8.1 | 665 | 642 | 第一段 新年、薫権大納言兼右大将に昇進 |
49 | 8.1.1 | 666 | 643 |
正月晦日方より、例ならぬさまに悩みたまふを、宮、まだ御覧じ知らぬことにて、いかならむと、思し嘆きて、御修法など、所々にてあまたせさせたまふに、またまた始め添へさせたまふ。いといたくわづらひたまへば、后の宮よりも御訪らひあり。 |
しゃうがちつごもりがたより、れいならぬさまになやみたまふを、みや、まだごらんじしらぬことにて、いかならんと、おぼしなげきて、みすほふなど、ところどころにてあまたせさせたまふに、またまたはじめそへさせたまふ。いといたくわづらひたまへば、きさいのみやよりもおほんとぶらひあり。 |
49 | 8.1.2 | 667 | 644 |
かくて三年になりぬれど、一所の御心ざしこそおろかならね、おほかたの世には、ものものしくももてなしきこえたまはざりつるを、この折ぞ、いづこにもいづこにも聞こしめしおどろきて、御訪ぶらひども聞こえたまひける。 |
かくてみとせになりぬれど、ひとところのみこころざしこそおろかならね、おほかたのよには、ものものしくももてなしきこえたまはざりつるを、このをりぞ、いづこにもいづこにもきこしめしおどろきて、おほんとぶらひどもきこえたまひける。 |
49 | 8.1.3 | 668 | 645 |
中納言の君は、宮の思し騒ぐに劣らず、いかにおはせむと嘆きて、心苦しくうしろめたく思さるれど、限りある御訪らひばかりこそあれ、あまりもえ参うでたまはで、忍びてぞ御祈りなどもせさせたまひける。 |
ちうなごんのきみは、みやのおぼしさわぐにおとらず、いかにおはせんとなげきて、こころぐるしくうしろめたくおぼさるれど、かぎりあるおほんとぶらひばかりこそあれ、あまりもえまうでたまはで、しのびてぞおほんいのりなどもせさせたまひける。 |
49 | 8.1.4 | 669 | 646 |
さるは、女二の宮の御裳着、ただこのころになりて、世の中響きいとなみののしる。よろづのこと、帝の御心一つなるやうに思し急げば、御後見なきしもぞ、なかなかめでたげに見えける。 |
さるは、をんなにのみやのおほんもぎ、ただこのころになりて、よのなかひびきいとなみののしる。よろづのこと、みかどのみこころひとつなるやうにおぼしいそげば、おほんうしろみなきしもぞ、なかなかめでたげにみえける。 |
49 | 8.1.5 | 670 | 647 |
女御のしおきたまへることをばさるものにて、作物所、さるべき受領どもなど、とりどりに仕うまつることども、いと限りなしや。 |
にょうごのしおきたまへることをばさるものにて、つくもどころ、さるべきずりゃうどもなど、とりどりにつかうまつることども、いとかぎりなしや。 |
49 | 8.1.6 | 671 | 648 |
やがてそのほどに、参りそめたまふべきやうにありければ、男方も心づかひしたまふころなれど、例のことなれば、そなたざまには心も入らで、この御事のみいとほしく嘆かる。 |
やがてそのほどに、まゐりそめたまふべきやうにありければ、をとこがたもこころづかひしたまふころなれど、れいのことなれば、そなたざまにはこころもいらで、このおほんことのみいとほしくなげかる。 |
49 | 8.1.7 | 672 | 649 |
如月の朔日ごろに、直物とかいふことに、権大納言になりたまひて、右大将かけたまひつ。右の大殿、左にておはしけるが、辞したまへる所なりけり。 |
きさらぎのついたちごろに、なほしものとかいふことに、ごんだいなごんになりたまひて、うだいしゃうかけたまひつ。みぎのおほいどの、ひだりにておはしけるが、じしたまへるところなりけり。 |
49 | 8.1.8 | 673 | 650 |
喜びに所々ありきたまひて、この宮にも参りたまへり。いと苦しくしたまへば、こなたにおはしますほどなりければ、やがて参りたまへり。僧などさぶらひて便なき方に、とおどろきたまひて、あざやかなる御直衣、御下襲などたてまつり、ひきつくろひたまひて、下りて答の拝したまふ御さまどもとりどりにいとめでたく、 |
よろこびにところどころありきたまひて、このみやにもまゐりたまへり。いとくるしくしたまへば、こなたにおはしますほどなりければ、やがてまゐりたまへり。そうなどさぶらひてびんなきかたに、とおどろきたまひて、あざやかなるおほんなほし、おほんしたがさねなどたてまつり、ひきつくろひたまひて、おりてたふのはいしたまふおほんさまどもとりどりにいとめでたく、 |
49 | 8.1.9 | 674 | 651 |
「やがて、官の禄賜ふ饗の所に」 |
"やがて、つかさのろくたまふあるじのところに。" |
49 | 8.1.10 | 675 | 652 |
と、請じたてまつりたまふを、悩みたまふ人によりてぞ、思したゆたひたまふめる。右大臣殿のしたまひけるままにとて、六条の院にてなむありける。 |
と、さうじたてまつりたまふを、なやみたまふひとによりてぞ、おぼしたゆたひたまふめる。うだいじんどののしたまひけるままにとて、ろくでうのゐんにてなんありける。 |
49 | 8.1.11 | 676 | 653 |
垣下の親王たち上達部、大饗に劣らず、あまり騒がしきまでなむ集ひたまひける。この宮も渡りたまひて、静心なければ、まだ事果てぬに急ぎ帰りたまひぬるを、大殿の御方には、 |
ゑんがのみこたちかんだちめ、だいきゃうにおとらず、あまりさわがしきまでなんつどひたまひける。このみやもわたりたまひて、しづこころなければ、まだことはてぬにいそぎかへりたまひぬるを、おほとののおほんかたには、 |
49 | 8.1.12 | 677 | 654 |
「いと飽かずめざまし」 |
"いとあかずめざまし。" |
49 | 8.1.13 | 678 | 655 |
とのたまふ。劣るべくもあらぬ御ほどなるを、ただ今のおぼえのはなやかさに思しおごりて、おしたちもてなしたまへるなめりかし。 |
とのたまふ。おとるべくもあらぬおほんほどなるを、ただいまのおぼえのはなやかさにおぼしおごりて、おしたちもてなしたまへるなめりかし。 |
49 | 8.2 | 679 | 656 | 第二段 中君に男子誕生 |
49 | 8.2.1 | 680 | 657 |
からうして、その暁、男にて生まれたまへるを、宮もいとかひありてうれしく思したり。大将殿も、喜びに添へて、うれしく思す。昨夜おはしましたりしかしこまりに、やがて、この御喜びもうち添へて、立ちながら参りたまへり。かく籠もりおはしませば、参りたまはぬ人なし。 |
からうして、そのあかつき、をとこにてむまれたまへるを、みやもいとかひありてうれしくおぼしたり。だいしゃうどのも、よろこびにそへて、うれしくおぼす。よべおはしましたりしかしこまりに、やがて、このおほんよろこびもうちそへて、たちながらまゐりたまへり。かくこもりおはしませば、まゐりたまはぬひとなし。 |
49 | 8.2.2 | 681 | 658 |
御産養、三日は、例のただ宮の御私事にて、五日の夜、大将殿より屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは、世の常のやうにて、子持ちの御前の衝重三十、稚児の御衣五重襲にて、御襁褓などぞ、ことことしからず、忍びやかにしなしたまへれど、こまかに見れば、わざと目馴れぬ心ばへなど見えける。 |
おほんうぶやしなひ、みかは、れいのただみやのおほんわたくしごとにて、いつかのよ、だいしゃうどのよりとんじきごじふぐ、ごてのぜに、わうばんなどは、よのつねのやうにて、こもちのおまへのついがさねさんじふ、ちごのおほんぞいつへがさねにて、おほんむつきなどぞ、ことことしからず、しのびやかにしなしたまへれど、こまかにみれば、わざとめなれぬこころばへなどみえける。 |
49 | 8.2.3 | 682 | 660 |
宮の御前にも浅香の折敷、高坏どもにて、粉熟参らせたまへり。女房の御前には、衝重をばさるものにて、桧破籠三十、さまざまし尽くしたることどもあり。人目にことことしくは、ことさらにしなしたまはず。 |
みやのおまへにもせんかうのをしき、たかつきどもにて、ふずくまゐらせたまへり。にょうばうのおまへには、ついがさねをばさるものにて、ひわりごさんじふ、さまざましつくしたることどもあり。ひとめにことことしくは、ことさらにしなしたまはず。 |
49 | 8.2.4 | 683 | 661 |
七日の夜は、后の宮の御産養なれば、参りたまふ人びといと多かり。宮の大夫をはじめて、殿上人、上達部、数知らず参りたまへり。内裏にも聞こし召して、 |
しちにちのよは、きさいのみやのおほんうぶやしなひなれば、まゐりたまふひとびといとおほかり。みやのだいぶをはじめて、てんじゃうびと、かんだちめ、かずしらずまゐりたまへり。うちにもきこしめして、 |
49 | 8.2.5 | 684 | 662 |
「宮のはじめて大人びたまふなるには、いかでか」 |
"みやのはじめておとなびたまふなるには、いかでか。" |
49 | 8.2.6 | 685 | 663 |
とのたまはせて、御佩刀奉らせたまへり。 |
とのたまはせて、みはかしたてまつらせたまへり。 |
49 | 8.2.7 | 686 | 664 |
九日も、大殿より仕うまつらせたまへり。よろしからず思すあたりなれど、宮の思さむところあれば、御子の公達など参りたまひて、すべていと思ふことなげにめでたければ、御みづからも、月ごろもの思はしく心地の悩ましきにつけても、心細く思したりつるに、かくおもだたしく今めかしきことどもの多かれば、すこし慰みもやしたまふらむ。 |
ここぬかも、おほいどのよりつかうまつらせたまへり。よろしからずおぼすあたりなれど、みやのおぼさんところあれば、みこのきんだちなどまゐりたまひて、すべていとおもふことなげにめでたければ、おほんみづからも、つきごろものおもはしくここちのなやましきにつけても、こころぼそくおぼしたりつるに、かくおもだたしくいまめかしきことどものおほかれば、すこしなやみもやしたまふらん。 |
49 | 8.2.8 | 687 | 665 |
大将殿は、「かくさへ大人び果てたまふめれば、いとどわが方ざまは気遠くやならむ。また、宮の御心ざしもいとおろかならじ」と思ふは口惜しけれど、また、初めよりの心おきてを思ふには、いとうれしくもあり。 |
だいしゃうどのは、"かくさへおとなびはてたまふめれば、いとどわがかたざまはけどほくやならん。また、みやのみこころざしもいとおろかならじ。"とおもふはくちをしけれど、また、はじめよりのこころおきてをおもふには、いとうれしくもあり。 |
49 | 8.3 | 688 | 666 | 第三段 二月二十日過ぎ、女二の宮、薫に降嫁す |
49 | 8.3.1 | 689 | 667 |
かくて、その月の二十日あまりにぞ、藤壺の宮の御裳着の事ありて、またの日なむ、大将参りたまひける。夜のことは忍びたるさまなり。天の下響きていつくしう見えつる御かしづきに、ただ人の具したてまつりたまふぞ、なほ飽かず心苦しく見ゆる。 |
かくて、そのつきのはつかあまりにぞ、ふぢつぼのみやのおほんもぎのことありて、またのひなん、だいしゃうまゐりたまひける。よのことはしのびたるさまなり。あめのしたひびきていつくしうみえつるおほんかしづきに、ただうどのぐしたてまつりたまふぞ、なほあかずこころぐるしくみゆる。 |
49 | 8.3.2 | 690 | 668 |
「さる御許しはありながらも、ただ今、かく急がせたまふまじきことぞかし」 |
"さるおほんゆるしはありながらも、ただいま、かくいそがせたまふまじきことぞかし。" |
49 | 8.3.3 | 691 | 669 |
と、そしらはしげに思ひのたまふ人もありけれど、思し立ちぬること、すがすがしくおはします御心にて、来し方ためしなきまで、同じくはもてなさむと、思しおきつるなめり。帝の御婿になる人は、昔も今も多かれど、かく盛りの御世に、ただ人のやうに、婿取り急がせたまへるたぐひは、すくなくやありけむ。右の大臣も、 |
と、そしらはしげにおもひのたまふひともありけれど、おぼしたちぬること、すがすがしくおはしますみこころにて、きしかたためしなきまで、おなじくはもてなさんと、おぼしおきつるなめり。みかどのおほんむこになるひとは、むかしもいまもおほかれど、かくさかりのみよに、ただうどのやうに、むこどりいそがせたまへるたぐひは、すくなくやありけん。みぎのおとども、 |
49 | 8.3.4 | 692 | 670 |
「めづらしかりける人の御おぼえ、宿世なり。故院だに、朱雀院の御末にならせたまひて、今はとやつしたまひし際にこそ、かの母宮を得たてまつりたまひしか。我はまして、人も許さぬものを拾ひたりしや」 |
"めづらしかりけるひとのおほんおぼえ、すくせなり。こゐんだに、すざくゐんのおほんすゑにならせたまひて、いまはとやつしたまひしきはにこそ、かのははみやをえたてまつりたまひしか。われはまして、ひともゆるさぬものをひろひたりしや。" |
49 | 8.3.5 | 693 | 671 |
とのたまひ出づれば、宮は、げにと思すに、恥づかしくて御いらへもえしたまはず。 |
とのたまひいづれば、みやは、げにとおぼすに、はづかしくておほんいらへもえしたまはず。 |
49 | 8.3.6 | 694 | 672 |
三日の夜は、大蔵卿よりはじめて、かの御方の心寄せになさせたまへる人びと、家司に仰せ言賜ひて、忍びやかなれど、かの御前、随身、車副、舎人まで禄賜はす。そのほどの事どもは、私事のやうにぞありける。 |
みかのよは、おほくらきゃうよりはじめて、かのおほんかたのこころよせになさせたまへるひとびと、けいしにおほせごとたまひて、しのびやかなれど、かのごぜん、ずいじん、くるまぞひ、とねりまでろくたまはす。そのほどのことどもは、わたくしごとのやうにぞありける。 |
49 | 8.3.7 | 695 | 673 |
かくて後は、忍び忍びに参りたまふ。心の内には、なほ忘れがたきいにしへざまのみおぼえて、昼は里に起き臥し眺め暮らして、暮るれば心より外に急ぎ参りたまふをも、ならはぬ心地に、いともの憂く苦しくて、「まかでさせたてまつらむ」とぞ思しおきてける。 |
かくてのちは、しのびしのびにまゐりたまふ。こころのうちには、なほわすれがたきいにしへざまのみおぼえて、ひるはさとにおきふしながめくらして、くるればこころよりほかにいそぎまゐりたまふをも、ならはぬここちに、いとものうくくるしくて、"まかでさせたてまつらん。"とぞおぼしおきてける。 |
49 | 8.3.8 | 696 | 674 |
母宮は、いとうれしきことに思したり。おはします寝殿譲りきこゆべくのたまへど、 |
ははみやは、いとうれしきことにおぼしたり。おはしますしんでんゆづりきこゆべくのたまへど、 |
49 | 8.3.9 | 697 | 675 |
「いとかたじけなからむ」 |
"いとかたじけなからん。" |
49 | 8.3.10 | 698 | 676 |
とて、御念誦堂のあはひに、廊を続けて造らせたまふ。西面に移ろひたまふべきなめり。東の対どもなども、焼けて後、うるはしく新しくあらまほしきを、いよいよ磨き添へつつ、こまかにしつらはせたまふ。 |
とて、おほんねんずだうのあはひに、らうをつづけてつくらせたまふ。にしおもてにうつろひたまふべきなめり。ひんがしのたいどもなども、やけてのち、うるはしくあたらしくあらまほしきを、いよいよみがきそへつつ、こまかにしつらはせたまふ。 |
49 | 8.3.11 | 699 | 677 |
かかる御心づかひを、内裏にも聞かせたまひて、ほどなくうちとけ移ろひたまはむを、いかがと思したり。帝と聞こゆれど、心の闇は同じごとなむおはしましける。 |
かかるみこころづかひを、うちにもきかせたまひて、ほどなくうちとけうつろひたまはんを、いかがとおぼしたり。みかどときこゆれど、こころのやみはおなじごとなんおはしましける。 |
49 | 8.3.12 | 700 | 678 |
母宮の御もとに、御使ありける御文にも、ただこのことをなむ聞こえさせたまひける。故朱雀院の、取り分きて、この尼宮の御事をば聞こえ置かせたまひしかば、かく世を背きたまへれど、衰へず、何事も元のままにて、奏せさせたまふことなどは、かならず聞こしめし入れ、御用意深かりけり。 |
ははみやのおほんもとに、おほんつかひありけるおほんふみにも、ただこのことをなんきこえさせたまひける。こすざくゐんの、とりわきて、このあまみやのおほんことをばきこえおかせたまひしかば、かくよをそむきたまへれど、おとろへず、なにごとももとのままにて、そうせさせたまふことなどは、かならずきこしめしいれ、おほんよういふかかりけり。 |
49 | 8.3.13 | 701 | 679 |
かく、やむごとなき御心どもに、かたみに限りもなくもてかしづき騒がれたまふおもだたしさも、いかなるにかあらむ、心の内にはことにうれしくもおぼえず、なほ、ともすればうち眺めつつ、宇治の寺造ることを急がせたまふ。 |
かく、やんごとなきみこころどもに、かたみにかぎりもなくもてかしづきさわがれたまふおもだたしさも、いかなるにかあらん、こころのうちにはことにうれしくもおぼえず、なほ、ともすればうちながめつつ、うぢのてらつくることをいそがせたまふ。 |
49 | 8.4 | 702 | 680 | 第四段 中君の男御子、五十日の祝い |
49 | 8.4.1 | 703 | 681 |
宮の若君の五十日になりたまふ日数へ取りて、その餅の急ぎを心に入れて、籠物、桧破籠などまで見入れたまひつつ、世の常のなべてにはあらずと思し心ざして、沈、紫檀、銀、黄金など、道々の細工どもいと多く召しさぶらはせたまへば、我劣らじと、さまざまのことどもをし出づめり。 |
みやのわかぎみのいかになりたまふひかぞへとりて、そのもちひのいそぎをこころにいれて、こもの、ひわりごなどまでみいれたまひつつ、よのつねのなべてにはあらずとおぼしこころざして、ぢん、したん、しろかね、こがねなど、みちみちのさいくどもいとおほくめしさぶらはせたまへば、われおとらじと、さまざまのことどもをしいづめり。 |
49 | 8.4.2 | 704 | 682 |
みづからも、例の、宮のおはしまさぬ隙におはしたり。心のなしにやあらむ、今すこし重々しくやむごとなげなるけしきさへ添ひにけりと見ゆ。「今は、さりとも、むつかしかりしすずろごとなどは紛れたまひにたらむ」と思ふに、心やすくて、対面したまへり。されど、ありしながらのけしきに、まづ涙ぐみて、 |
みづからも、れいの、みやのおはしまさぬひまにおはしたり。こころのなしにやあらん、いますこしおもおもしくやんごとなげなるけしきさへそひにけりとみゆ。"いまは、さりとも、むつかしかりしすずろごとなどはまぎれたまひにたらん。"とおもふに、こころやすくて、たいめんしたまへり。されど、ありしながらのけしきに、まづなみだぐみて、 |
49 | 8.4.3 | 705 | 683 |
「心にもあらぬまじらひ、いと思ひの外なるものにこそと、世を思ひたまへ乱るることなむ、まさりにたる」 |
"こころにもあらぬまじらひ、いとおもひのほかなるものにこそと、よをおもひたまへみだるることなん、まさりにたる。" |
49 | 8.4.4 | 706 | 684 |
と、あいだちなくぞ愁へたまふ。 |
と、あいだちなくぞうれへたまふ。 |
49 | 8.4.5 | 707 | 685 |
「いとあさましき御ことかな。人もこそおのづからほのかにも漏り聞きはべれ」 |
"いとあさましきおほんことかな。ひともこそおのづからほのかにももりききはべれ。" |
49 | 8.4.6 | 708 | 686 |
などはのたまへど、かばかりめでたげなることどもにも慰まず、「忘れがたく思ひたまふらむ心深さよ」とあはれに思ひきこえたまふに、おろかにもあらず思ひ知られたまふ。「おはせましかば」と、口惜しく思ひ出できこえたまへど、「それも、わがありさまのやうに、うらやみなく身を恨むべかりけるかし。何事も数ならでは、世の人めかしきこともあるまじかりけり」とおぼゆるにぞ、いとど、かの、うちとけ果てでやみなむと思ひたまへりし心おきては、なほ、いと重々しく思ひ出でられたまふ。 |
などはのたまへど、かばかりめでたげなることどもにもなぐさまず、"わすれがたくおもひたまふらんこころふかさよ。"とあはれにおもひきこえたまふに、おろかにもあらずおもひしられたまふ。"おはせましかば。"と、くちをしくおもひいできこえたまへど、"それも、わがありさまのやうに、うらやみなくみをうらむべかりけるかし。なにごともかずならでは、よのひとめかしきこともあるまじかりけり。"とおぼゆるにぞ、いとど、かの、うちとけはてでやみなんとおもひたまへりしこころおきては、なほ、いとおもおもしくおもひいでられたまふ。 |
49 | 8.5 | 709 | 687 | 第五段 薫、中君の若君を見る |
49 | 8.5.1 | 710 | 688 |
若君を切にゆかしがりきこえたまへば、恥づかしけれど、「何かは隔て顔にもあらむ、わりなきこと一つにつけて恨みらるるよりほかには、いかでこの人の御心に違はじ」と思へば、みづからはともかくもいらへきこえたまはで、乳母してさし出でさせたまへり。 |
わかぎみをせちにゆかしがりきこえたまへば、はづかしけれど、"なにかはへだてがほにもあらん、わりなきことひとつにつけてうらみらるるよりほかには、いかでこのひとのみこころにたがはじ。"とおもへば、みづからはともかくもいらへきこえたまはで、めのとしてさしいでさせたまへり。 |
49 | 8.5.2 | 711 | 689 |
さらなることなれば、憎げならむやは。ゆゆしきまで白くうつくしくて、たかやかに物語し、うち笑ひなどしたまふ顔を見るに、わがものにて見まほしくうらやましきも、世の思ひ離れがたくなりぬるにやあらむ。されど、「言ふかひなくなりたまひにし人の、世の常のありさまにて、かやうならむ人をもとどめ置きたまへらましかば」とのみおぼえて、このころおもだたしげなる御あたりに、いつしかなどは思ひ寄られぬこそ、あまりすべなき君の御心なめれ。かく女々しくねぢけて、まねびなすこそいとほしけれ。 |
さらなることなれば、にくげならんやは。ゆゆしきまでしろくうつくしくて、たかやかにものがたりし、うちわらひなどしたまふかほをみるに、わがものにてみまほしくうらやましきも、よのおもひはなれがたくなりぬるにやあらん。されど、"いふかひなくなりたまひにしひとの、よのつねのありさまにて、かやうならんひとをもとどめおきたまへらましかば。"とのみおぼえて、このころおもだたしげなるおほんあたりに、いつしかなどはおもひよられぬこそ、あまりすべなききみのみこころなめれ。かくめめしくねぢけて、まねびなすこそいとほしけれ。 |
49 | 8.5.3 | 712 | 690 |
しか悪ろびかたほならむ人を、帝の取り分き切に近づけて、睦びたまふべきにもあらじものを、「まことしき方ざまの御心おきてなどこそは、めやすくものしたまひけめ」とぞ推し量るべき。 |
しかわろびかたほならんひとを、みかどのとりわきせちにちかづけて、むつびたまふべきにもあらじものを、"まことしきかたざまのみこころおきてなどこそは、めやすくものしたまひけめ。"とぞおしはかるべき。 |
49 | 8.5.4 | 713 | 691 |
げに、いとかく幼きほどを見せたまへるもあはれなれば、例よりは物語などこまやかに聞こえたまふほどに、暮れぬれば、心やすく夜をだに更かすまじきを、苦しうおぼゆれば、嘆く嘆く出でたまひぬ。 |
げに、いとかくをさなきほどをみせたまへるもあはれなれば、れいよりはものがたりなどこまやかにきこえたまふほどに、くれぬれば、こころやすくよるをだにふかすまじきを、くるしうおぼゆれば、なげくなげくいでたまひぬ。 |
49 | 8.5.5 | 714 | 692 |
「をかしの人の御匂ひや。折りつれば、とかや言ふやうに、鴬も尋ね来ぬべかめり」 |
"をかしのひとのおほんにほひや。をりつれば、とかやいふやうに、うぐひすもたづねきぬべかめり。" |
49 | 8.5.6 | 715 | 693 |
など、わづらはしがる若き人もあり。 |
など、わづらはしがるわかきひともあり。 |
49 | 8.6 | 716 | 694 | 第六段 藤壺にて藤の花の宴催される |
49 | 8.6.1 | 717 | 695 |
「夏にならば、三条の宮塞がる方になりぬべし」と定めて、四月朔日ごろ、節分とかいふこと、まだしき先に渡したてまつりたまふ。 |
"なつにならば、さんでうのみやふたがるかたになりぬべし。"とさだめて、うづきついたちごろ、せちぶんとかいふこと、まだしきさきにわたしたてまつりたまふ。 |
49 | 8.6.2 | 718 | 696 |
明日とての日、藤壺に主上渡らせたまひて、藤の花の宴せさせたまふ。南の廂の御簾上げて、椅子立てたり。公わざにて、主人の宮の仕うまつりたまふにはあらず。上達部、殿上人の饗など、内蔵寮より仕うまつれり。 |
あすとてのひ、ふぢつぼにうへわたらせたまひて、ふぢのはなのえんせさせたまふ。みなみのひさしのみすあげて、いしたてたり。おほやけわざにて、あるじのみやのつかうまつりたまふにはあらず。かんだちめ、てんじゃうびとのきゃうなど、くらづかさよりつかうまつれり。 |
49 | 8.6.3 | 719 | 697 |
右の大臣、按察使大納言、藤中納言、左兵衛督。親王たちは、三の宮、常陸宮などさぶらひたまふ。南の庭の藤の花のもとに、殿上人の座はしたり。後涼殿の東に、楽所の人びと召して、暮れ行くほどに、双調に吹きて、上の御遊びに、宮の御方より、御琴ども笛など出ださせたまへば、大臣をはじめたてまつりて、御前に取りつつ参りたまふ。 |
みぎのおとど、あぜちのだいなごん、とうちうなごん、さひゃうゑのかみ。みこたちは、さんのみや、ひたちのみやなどさぶらひたまふ。みなみのにはのふぢのはなのもとに、てんじゃうびとのざはしたり。こうらうでんのひんがしに、がくそのひとびとめして、くれゆくほどに、そうでうにふきて、うへのおほんあそびに、みやのおほんかたより、おほんことどもふえなどいださせたまへば、おとどをはじめたてまつりて、おまへにとりつつまゐりたまふ。 |
49 | 8.6.4 | 720 | 698 |
故六条の院の御手づから書きたまひて、入道の宮にたてまつらせたまひし琴の譜二巻、五葉の枝に付けたるを、大臣取りたまひて奏したまふ。 |
ころくでうのゐんのおほんてづからかきたまひて、にふだうのみやにたてまつらせたまひしきんのふふたまき、ごえふのえだにつけたるを、おとどとりたまひてそうしたまふ。 |
49 | 8.6.5 | 721 | 699 |
次々に、箏の御琴、琵琶、和琴など、朱雀院の物どもなりけり。笛は、かの夢に伝へしいにしへの形見のを、「またなき物の音なり」と賞でさせたまひければ、「この折のきよらより、またはいつかは映え映えしきついでのあらむ」と思して、取う出でたまへるなめり。 |
つぎつぎに、さうのおほんこと、びわ、わごんなど、すじゃくゐんのものどもなりけり。ふえは、かのゆめにつたへしいにしへのかたみのを、"またなきもののねなり。"とめでさせたまひければ、"このをりのきよらより、またはいつかははえばえしきついでのあらん。"とおぼして、とういでたまへるなめり。 |
49 | 8.6.6 | 722 | 700 |
大臣和琴、三の宮琵琶など、とりどりに賜ふ。大将の御笛は、今日ぞ、世になき音の限りは吹き立てたまひける。殿上人の中にも、唱歌につきなからぬどもは、召し出でて、おもしろく遊ぶ。 |
おとどわごん、さんのみやびわなど、とりどりにたまふ。だいしゃうのおほんふえは、けふぞ、よになきねのかぎりはふきたてたまひける。てんじゃうびとのなかにも、しゃうがにつきなからぬどもは、めしいでて、おもしろくあそぶ。 |
49 | 8.6.7 | 723 | 701 |
宮の御方より、粉熟参らせたまへり。沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝縫ひたり。銀の様器、瑠璃の御盃、瓶子は紺瑠璃なり。兵衛督、御まかなひ仕うまつりたまふ。 |
みやのおほんかたより、ふずくまゐらせたまへり。ぢんのをしきよつ、したんのたかつき、ふぢのむらごのうちしきに、をりえだぬひたり。しろかねのやうき、るりのおほんさかづき、へいしはこんるりなり。ひゃうゑのかみ、おほんまかなひつかうまつりたまふ。 |
49 | 8.6.8 | 724 | 702 |
御盃参りたまふに、大臣、しきりては便なかるべし、宮たちの御中にはた、さるべきもおはせねば、大将に譲りきこえたまふを、憚り申したまへど、御けしきもいかがありけむ、御盃ささげて、「をし」とのたまへる声づかひもてなしさへ、例の公事なれど、人に似ず見ゆるも、今日はいとど見なしさへ添ふにやあらむ。さし返し賜はりて、下りて舞踏したまへるほど、いとたぐひなし。 |
おほんさかづきまゐりたまふに、おとど、しきりてはびんなかるべし、みやたちのおほんなかにはた、さるべきもおはせねば、だいしゃうにゆづりきこえたまふを、はばかりまうしたまへど、みけしきもいかがありけん、おほんさかづきささげて、"をし。"とのたまへるこわづかひもてなしさへ、れいのおほやけごとなれど、ひとににずみゆるも、けふはいとどみなしさへそふにやあらん。さしかへしたまはりて、おりてぶたふしたまへるほど、いとたぐひなし。 |
49 | 8.6.9 | 725 | 703 |
上臈の親王たち、大臣などの賜はりたまふだにめでたきことなるを、これはまして御婿にてもてはやされたてまつりたまへる、御おぼえ、おろかならずめづらしきに、限りあれば、下りたる座に帰り着きたまへるほど、心苦しきまでぞ見えける。 |
じゃうらふのみこたち、だいじんなどのたまはりたまふだにめでたきことなるを、これはましておほんむこにてもてはやされたてまつりたまへる、おほんおぼえ、おろかならずめづらしきに、かぎりあれば、くだりたるざにかへりつきたまへるほど、こころぐるしきまでぞみえける。 |
49 | 8.7 | 726 | 704 | 第七段 女二の宮、三条宮邸に渡御す |
49 | 8.7.1 | 727 | 705 |
按察使大納言は、「我こそかかる目も見むと思ひしか、ねたのわざや」と思ひたまへり。この宮の御母女御をぞ、昔、心かけきこえたまへりけるを、参りたまひて後も、なほ思ひ離れぬさまに聞こえ通ひたまひて、果ては宮を得たてまつらむの心つきたりければ、御後見望むけしきも漏らし申しけれど、聞こし召しだに伝へずなりにければ、いと心やましと思ひて、 |
あぜちのだいなごんは、"われこそかかるめもみんとおもひしか、ねたのわざや。"とおもひたまへり。このみやのおほんははにょうごをぞ、むかし、こころかけきこえたまへりけるを、まゐりたまひてのちも、なほおもひはなれぬさまにきこえかよひたまひて、はてはみやをえたてまつらんのこころつきたりければ、おほんうしろみのぞむけしきももらしまうしけれど、きこしめしだにつたへずなりにければ、いとこころやましとおもひて、 |
49 | 8.7.2 | 728 | 706 |
「人柄は、げに契りことなめれど、なぞ、時の帝のことことしきまで婿かしづきたまふべき。またあらじかし。九重のうちに、おはします殿近きほどにて、ただ人のうちとけ訪らひて、果ては宴や何やともて騒がるることは」 |
"ひとがらは、げにちぎりことなめれど、なぞ、ときのみかどのことことしきまでむこかしづきたまふべき。またあらじかし。ここのへのうちに、おはしますとのちかきほどにて、ただうどのうちとけとぶらひて、はてはえんやなにやともてさわがるることは。" |
49 | 8.7.3 | 729 | 707 |
など、いみじく誹りつぶやき申したまひけれど、さすがゆかしければ、参りて、心の内にぞ腹立ちゐたまへりける。 |
など、いみじくそしりつぶやきまうしたまひけれど、さすがゆかしければ、まゐりて、こころのうちにぞはらだちゐたまへりける。 |
49 | 8.7.4 | 730 | 709 |
紙燭さして歌どもたてまつる。文台のもとに寄りつつ置くほどのけしきは、おのおのしたり顔なりけれど、例の、「いかにあやしげに古めきたりけむ」と思ひやれば、あながちに皆もたづね書かず。上の町も、上臈とて、御口つきどもは、異なること見えざめれど、しるしばかりとて、一つ、二つぞ問ひ聞きたりし。これは、大将の君の、下りて御かざし折りて参りたまへりけるとか。 |
しそくさしてうたどもたてまつる。ぶんだいのもとによりつつおくほどのけしきは、おのおのしたりがほなりけれど、れいの、"いかにあやしげにふるめきたりけん。"とおもひやれば、あながちにみなもたづねかかず。かみのまちも、じゃうらふとて、おほんくちつきどもは、ことなることみえざめれど、しるしばかりとて、ひとつ、ふたつぞとひききたりし。これは、だいしゃうのきみの、おりておほんかざしをりてまゐりたまへりけるとか。 |
49 | 8.7.5 | 731 | 710 |
「すべらきのかざしに折ると藤の花<BR/>及ばぬ枝に袖かけてけり」 |
"〔すべらきのかざしにをるとふぢのはな<BR/>およばぬえだにそでかけてけり〕 |
49 | 8.7.6 | 732 | 711 |
うけばりたるぞ、憎きや。 |
うけばりたるぞ、にくきや。 |
49 | 8.7.7 | 733 | 712 |
「よろづ世をかけて匂はむ花なれば<BR/>今日をも飽かぬ色とこそ見れ」 |
"〔よろづよをかけてにほはんはななれば<BR/>けふをもあかぬいろとこそみれ〕 |
49 | 8.7.8 | 734 | 713 |
「君がため折れるかざしは紫の<BR/>雲に劣らぬ花のけしきか」 |
"〔きみがためをれるかざしはむらさきの<BR/>くもにおとらぬはなのけしきか〕 |
49 | 8.7.9 | 735 | 714 |
「世の常の色とも見えず雲居まで<BR/>たち昇りたる藤波の花」 |
"〔よのつねのいろともみえずくもゐまで<BR/>たちのぼりたるふぢなみのはな〕" |
49 | 8.7.10 | 736 | 715 |
「これやこの腹立つ大納言のなりけむ」と見ゆれ。かたへは、ひがことにもやありけむ。かやうに、ことなるをかしきふしもなくのみぞあなりし。 |
"これやこのはらだつだいなごんのなりけん。"とみゆれ。かたへは、ひがことにもやありけん。かやうに、ことなるをかしきふしもなくのみぞあなりし。 |
49 | 8.7.11 | 737 | 716 |
夜更くるままに、御遊びいとおもしろし。大将の君、「安名尊」謡ひたまへる声ぞ、限りなくめでたかりける。按察使も、昔すぐれたまへりし御声の名残なれば、今もいとものものしくて、うち合はせたまへり。右の大殿の御七郎、童にて笙の笛吹く。いとうつくしかりければ、御衣賜はす。大臣下りて舞踏したまふ。 |
よふくるままに、おほんあそびいとおもしろし。だいしゃうのきみ、〔あなたふと〕うたひたまへるこゑぞ、かぎりなくめでたかりける。あぜちも、むかしすぐれたまへりしおほんこゑのなごりなれば、いまもいとものものしくて、うちあはせたまへり。みぎのおほとののおほんしちろう、わらはにてさうのふえふく。いとうつくしかりければ、おほんぞたまはす。おとどおりてぶたふしたまふ。 |
49 | 8.7.12 | 738 | 717 |
暁近うなりてぞ帰らせたまひける。禄ども、上達部、親王たちには、主上より賜はす。殿上人、楽所の人びとには、宮の御方より品々に賜ひけり。 |
あかつきちかうなりてぞかへらせたまひける。ろくども、かんだちめ、みこたちには、うへよりたまはす。てんじゃうびと、がくそのひとびとには、みやのおほんかたよりしなじなにたまひけり。 |
49 | 8.7.13 | 739 | 718 |
その夜ふさりなむ、宮まかでさせたてまつりたまひける。儀式いと心ことなり。主上の女房さながら御送り仕うまつらせたまひける。庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふに、また御迎への出車どもに、本所の人びと乗せてなむありける。御送りの上達部、殿上人、六位など、言ふ限りなききよらを尽くさせたまへり。 |
そのよふさりなん、みやまかでさせたてまつりたまひける。ぎしきいとこころことなり。うへのにょうばうさながらおほんおくりつかうまつらせたまひける。ひさしのおほんくるまにて、ひさしなきいとげみつ、こがねづくりむつ、ただのびらうげにじふ、あじろふたつ、わらは、しもづかへはちにんづつさぶらふに、またおほんむかへのいだしぐるまどもに、ほんじょのひとびとのせてなんありける。おほんおくりのかんだちめ、てんじゃうびと、ろくゐなど、いふかぎりなききよらをつくさせたまへり。 |
49 | 8.7.14 | 740 | 719 |
かくて、心やすくうちとけて見たてまつりたまふに、いとをかしげにおはす。ささやかにしめやかにて、ここはと見ゆるところなくおはすれば、「宿世のほど口惜しからざりけり」と、心おごりせらるるものから、過ぎにし方の忘らればこそはあらめ、なほ紛るる折なく、もののみ恋しくおぼゆれば、 |
かくて、こころやすくうちとけてみたてまつりたまふに、いとをかしげにおはす。ささやかにしめやかにて、ここはとみゆるところなくおはすれば、"すくせのほどくちをしからざりけり。"と、こころおごりせらるるものから、すぎにしかたのわすらればこそはあらめ、なほまぎるるをりなく、もののみこひしくおぼゆれば、 |
49 | 8.7.15 | 741 | 720 |
「この世にては慰めかねつべきわざなめり。仏になりてこそは、あやしくつらかりける契りのほどを、何の報いと諦めて思ひ離れめ」 |
"このよにてはなぐさめかねつべきわざなめり。ほとけになりてこそは、あやしくつらかりけるちぎりのほどを、なにのむくいとあきらめておもひはなれめ。" |
49 | 8.7.16 | 742 | 721 |
と思ひつつ、寺の急ぎにのみ心を入れたまへり。 |
とおもひつつ、てらのいそぎにのみこころをいれたまへり。 |
49 | 9 | 743 | 722 | 第九章 薫の物語 宇治で浮舟に出逢う |
49 | 9.1 | 744 | 723 | 第一段 四月二十日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅 |
49 | 9.1.1 | 745 | 724 |
賀茂の祭など、騒がしきほど過ぐして、二十日あまりのほどに、例の、宇治へおはしたり。 |
かものまつりなど、さわがしきほどすぐして、はつかあまりのほどに、れいの、うぢへおはしたり。 |
49 | 9.1.2 | 746 | 725 |
造らせたまふ御堂見たまひて、すべきことどもおきてのたまひ、さて、例の、朽木のもとを見たまへ過ぎむが、なほあはれなれば、そなたざまにおはするに、女車のことことしきさまにはあらぬ一つ、荒らましき東男の、腰に物負へる、あまた具して、下人も数多く頼もしげなるけしきにて、橋より今渡り来る見ゆ。 |
つくらせたまふみだうみたまひて、すべきことどもおきてのたまひ、さて、れいの、くちきのもとをみたまへすぎんが、なほあはれなれば、そなたざまにおはするに、をんなぐるまのことことしきさまにはあらぬひとつ、あらましきあづまをとこの、こしにものおへる、あまたぐして、しもびともかずおほくたのもしげなるけしきにて、はしよりいまわたりくるみゆ。 |
49 | 9.1.3 | 747 | 727 |
「田舎びたる者かな」と見たまひつつ、殿はまづ入りたまひて、御前どもは、まだ立ち騷ぎたるほどに、「この車もこの宮をさして来るなりけり」と見ゆ。御随身どもも、かやかやと言ふを制したまひて、 |
"ゐなかびたるものかな。"とみたまひつつ、とのはまづいりたまひて、ごぜんどもは、まだたちさわぎたるほどに、"このくるまもこのみやをさしてくるなりけり。"とみゆ。みずいじんどもも、かやかやといふをせいしたまひて、 |
49 | 9.1.4 | 748 | 728 |
「何人ぞ」 |
"なにびとぞ。" |
49 | 9.1.5 | 749 | 729 |
と問はせたまへば、声うちゆがみたる者、 |
ととはせたまへば、こゑうちゆがみたるもの、 |
49 | 9.1.6 | 750 | 730 |
「常陸の前司殿の姫君の、初瀬の御寺に詣でて戻りたまへるなり。初めもここになむ宿りたまへし」 |
"ひたちのぜんじどののひめぎみの、はつせのみてらにまうでてもどりたまへるなり。はじめもここになんやどりたまへし。" |
49 | 9.1.7 | 751 | 731 |
と申すに、 |
とまうすに、 |
49 | 9.1.8 | 752 | 732 |
「おいや、聞きし人ななり」 |
"おいや。ききしひとななり。" |
49 | 9.1.9 | 753 | 733 |
と思し出でて、人びとを異方に隠したまひて、 |
とおぼしいでて、ひとびとをばことかたにかくしたまひて、 |
49 | 9.1.10 | 754 | 734 |
「はや、御車入れよ。ここに、また人宿りたまへど、北面になむ」 |
"はや、みくるまいれよ。ここに、またひとやどりたまへど、きたおもてになん。" |
49 | 9.1.11 | 755 | 735 |
と言はせたまふ。 |
といはせたまふ。 |
49 | 9.1.12 | 756 | 736 |
御供の人も、皆狩衣姿にて、ことことしからぬ姿どもなれど、なほけはひやしるからむ、わづらはしげに思ひて、馬ども引きさけなどしつつ、かしこまりつつぞをる。車は入れて、廊の西のつまにぞ寄する。この寝殿はまだあらはにて、簾もかけず。下ろし籠めたる中の二間に立て隔てたる障子の穴より覗きたまふ。 |
おほんとものひとも、みなかりぎぬすがたにて、ことことしからぬすがたどもなれど、なほけはひやしるからん、わづらはしげにおもひて、むまどもひきさけなどしつつ、かしこまりつつぞをる。くるまはいれて、らうのにしのつまにぞよする。このしんでんはまだあらはにて、すだれもかけず。おろしこめたるなかのふたまにたてへだてたるさうじのあなよりのぞきたまふ。 |
49 | 9.1.13 | 757 | 737 |
御衣の鳴れば、脱ぎおきて、直衣指貫の限りを着てぞおはする。とみにも降りで、尼君に消息して、かくやむごとなげなる人のおはするを、「誰れぞ」など案内するなるべし。君は、車をそれと聞きたまひつるより、 |
おほんぞのなれば、ぬぎおきて、なほしさしぬきのかぎりをきてぞおはする。とみにもおりで、あまぎみにせうそこして、かくやんごとなげなるひとのおはするを、"たれぞ。"などあないするなるべし。きみは、くるまをそれとききたまひつるより、 |
49 | 9.1.14 | 758 | 738 |
「ゆめ、その人にまろありとのたまふな」 |
"ゆめ、そのひとにまろありとのたまふな。" |
49 | 9.1.15 | 759 | 739 |
と、まづ口かためさせたまひてければ、皆さ心得て、 |
と、まづくちかためさせたまひてければ、みなさこころえて、 |
49 | 9.1.16 | 760 | 740 |
「早う降りさせたまへ。客人はものしたまへど、異方になむ」 |
"はやうおりさせたまへ。まらうとはものしたまへど、ことかたになん。" |
49 | 9.1.17 | 761 | 741 |
と言ひ出だしたり。 |
といひいだしたり。 |
49 | 9.2 | 762 | 742 | 第二段 薫、浮舟を垣間見る |
49 | 9.2.1 | 763 | 743 |
若き人のある、まづ降りて、簾うち上ぐめり。御前のさまよりは、このおもと馴れてめやすし。また、大人びたる人いま一人降りて、「早う」と言ふに、 |
わかきひとのある、まづおりて、すだれうちあぐめり。ごぜんのさまよりは、このおもとなれてめやすし。また、おとなびたるひといまひとりおりて、"はやう。"といふに、 |
49 | 9.2.2 | 764 | 744 |
「あやしくあらはなる心地こそすれ」 |
"あやしくあらはなるここちこそすれ。" |
49 | 9.2.3 | 765 | 745 |
と言ふ声、ほのかなれどあてやかに聞こゆ。 |
といふこゑ、ほのかなれどあてやかにきこゆ。 |
49 | 9.2.4 | 766 | 746 |
「例の御事。こなたは、さきざきも下ろし籠めてのみこそははべれ。さては、またいづこのあらはなるべきぞ」 |
"れいのおほんこと。こなたは、さきざきもおろしこめてのみこそははべれ。さては、またいづこのあらはなるべきぞ。" |
49 | 9.2.5 | 767 | 747 |
と、心をやりて言ふ。つつましげに降るるを見れば、まづ、頭つき、様体、細やかにあてなるほどは、いとよくもの思ひ出でられぬべし。扇子をつとさし隠したれば、顔は見えぬほど心もとなくて、胸うちつぶれつつ見たまふ。 |
と、こころをやりていふ。つつましげにおるるをみれば、まづ、かしらつき、やうだい、ほそやかにあてなるほどは、いとよくものおもひいでられぬべし。あふぎをつとさしかくしたれば、かほはみえぬほどこころもとなくて、むねうちつぶれつつみたまふ。 |
49 | 9.2.6 | 768 | 748 |
車は高く、降るる所は下りたるを、この人びとはやすらかに降りなしつれど、いと苦しげにややみて、ひさしく降りて、ゐざり入る。濃き袿に、撫子とおぼしき細長、若苗色の小袿着たり。 |
くるまはたかく、おるるところはくだりたるを、このひとびとはやすらかにおりなしつれど、いとくるしげにややみて、ひさしくおりて、ゐざりいる。こきうちきに、なでしことおぼしきほそなが、わかなへいろのこうちききたり。 |
49 | 9.2.7 | 769 | 749 |
四尺の屏風を、この障子に添へて立てたるが、上より見ゆる穴なれば、残るところなし。こなたをばうしろめたげに思ひて、あなたざまに向きてぞ、添ひ臥しぬる。 |
ししゃくのびゃうぶを、このさうじにそへてたてたるが、かみよりみゆるあななれば、のこるところなし。こなたをばうしろめたげにおもひて、あなたざまにむきてぞ、そひふしぬる。 |
49 | 9.2.8 | 770 | 750 |
「さも、苦しげに思したりつるかな。泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ。この如月には、水のすくなかりしかばよかりしなりけり」 |
"さも、くるしげにおぼしたりつるかな。いづみがはのふなわたりも、まことに、けふはいとおそろしくこそありつれ。このきさらぎには、みづのすくなかりしかばよかりしなりけり。" |
49 | 9.2.9 | 771 | 751 |
「いでや、歩くは、東路思へば、いづこか恐ろしからむ」 |
"いでや、ありくは、あづまぢおもへば、いづこかおそろしからん。" |
49 | 9.2.10 | 772 | 752 |
など、二人して苦しとも思ひたらず言ひゐたるに、主は音もせでひれ臥したり。腕をさし出でたるが、まろらかにをかしげなるほども、常陸殿などいふべくは見えず、まことにあてなり。 |
など、ふたりしてくるしともおもひたらずいひゐたるに、しゅうはおともせでひれふしたり。かひなをさしいでたるが、まろらかにをかしげなるほども、ひたちどのなどいふべくはみえず、まことにあてなり。 |
49 | 9.2.11 | 773 | 753 |
やうやう腰痛きまで立ちすくみたまへど、人のけはひせじとて、なほ動かで見たまふに、若き人、 |
やうやうこしいたきまでたちすくみたまへど、ひとのけはひせじとて、なほうごかでみたまふに、わかきひと、 |
49 | 9.2.12 | 774 | 754 |
「あな、香ばしや。いみじき香の香こそすれ。尼君の焚きたまふにやあらむ」 |
"あな、かうばしや。いみじきかうのかこそすれ。あまぎみのたきたまふにやあらん。" |
49 | 9.2.13 | 775 | 755 |
老い人、 |
おいびと、 |
49 | 9.2.14 | 776 | 756 |
「まことにあなめでたの物の香や。京人は、なほいとこそ雅びかに今めかしけれ。天下にいみじきことと思したりしかど、東にてかかる薫物の香は、え合はせ出でたまはざりきかし。この尼君は、住まひかくかすかにおはすれど、装束のあらまほしく、鈍色青色といへど、いときよらにぞあるや」 |
"まことにあなめでたのもののかや。きゃうびとは、なほいとこそみやびかにいまめかしけれ。てんかにいみじきこととおぼしたりしかど、あづまにてかかるたきもののかは、えあはせいでたまはざりきかし。このあまぎみは、すまひかくかすかにおはすれど、さうぞくのあらまほしく、にびいろあをいろといへど、いときよらにぞあるや。" |
49 | 9.2.15 | 777 | 757 |
など、ほめゐたり。あなたの簀子より童来て、 |
など、ほめゐたり。あなたのすのこよりわらはきて、 |
49 | 9.2.16 | 778 | 758 |
「御湯など参らせたまへ」 |
"おほんゆなどまゐらせたまへ。" |
49 | 9.2.17 | 779 | 759 |
とて、折敷どもも取り続きてさし入る。果物取り寄せなどして、 |
とて、をしきどももとりつづきてさしいる。くだものとりよせなどして、 |
49 | 9.2.18 | 780 | 760 |
「ものけたまはる。これ」 |
"ものけたまはる。これ。" |
49 | 9.2.19 | 781 | 761 |
など起こせど、起きねば、二人して、栗やなどやうのものにや、ほろほろと食ふも、聞き知らぬ心地には、かたはらいたくてしぞきたまへど、またゆかしくなりつつ、なほ立ち寄り立ち寄り見たまふ。 |
などおこせど、おきねば、ふたりして、くりやなどやうのものにや、ほろほろとくふも、ききしらぬここちには、かたはらいたくてしぞきたまへど、またゆかしくなりつつ、なほたちよりたちよりみたまふ。 |
49 | 9.2.20 | 782 | 762 |
これよりまさる際の人びとを、后の宮をはじめて、ここかしこに、容貌よきも心あてなるも、ここら飽くまで見集めたまへど、おぼろけならでは、目も心もとまらず、あまり人にもどかるるまでものしたまふ心地に、ただ今は、何ばかりすぐれて見ゆることもなき人なれど、かく立ち去りがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしき心なり。 |
これよりまさるきはのひとびとを、きさいのみやをはじめて、ここかしこに、かたちよきもこころあてなるも、ここらあくまでみあつめたまへど、おぼろけならでは、めもこころもとまらず、あまりひとにもどかるるまでものしたまふここちに、ただいまは、なにばかりすぐれてみゆることもなきひとなれど、かくたちさりがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしきこころなり。 |
49 | 9.3 | 783 | 763 | 第三段 浮舟、弁の尼と対面 |
49 | 9.3.1 | 784 | 764 |
尼君は、この殿の御方にも、御消息聞こえ出だしたりけれど、 |
あまぎみは、このとののおほんかたにも、おほんせうそこきこえいだしたりけれど、 |
49 | 9.3.2 | 785 | 765 |
「御心地悩ましとて、今のほどうちやすませたまへるなり」 |
"みここちなやましとて、いまのほどうちやすませたまへるなり。" |
49 | 9.3.3 | 786 | 766 |
と、御供の人びと心しらひて言ひたりければ、「この君を尋ねまほしげにのたまひしかば、かかるついでにもの言ひ触れむと思ほすによりて、日暮らしたまふにや」と思ひて、かく覗きたまふらむとは知らず。 |
と、おほんとものひとびとこころしらひていひたりければ、"このきみをたづねまほしげにのたまひしかば、かかるついでにものいひふれんとおもほすによりて、ひくらしたまふにや。"とおもひて、かくのぞきたまふらんとはしらず。 |
49 | 9.3.4 | 787 | 767 |
例の、御荘の預りどもの参れる、破籠や何やと、こなたにも入れたるを、東人どもにも食はせなど、事ども行なひおきて、うち化粧じて、客人の方に来たり。ほめつる装束、げにいとかはらかにて、みめもなほよしよししくきよげにぞある。 |
れいの、みさうのあづかりどものまゐれる、わりごやなにやと、こなたにもいれたるを、あづまびとどもにもくはせなど、ことどもおこなひおきて、うちけさうじて、まらうとのかたにきたり。ほめつるさうぞく、げにいとかはらかにて、みめもなほよしよししくきよげにぞある。 |
49 | 9.3.5 | 788 | 768 |
「昨日おはし着きなむと待ちきこえさせしを、などか、今日も日たけては」 |
"きのふおはしつきなんとまちきこえさせしを、などか、けふもひたけては。" |
49 | 9.3.6 | 789 | 769 |
と言ふめれば、この老い人、 |
といふめれば、このおいびと、 |
49 | 9.3.7 | 790 | 770 |
「いとあやしく苦しげにのみせさせたまへば、昨日はこの泉川のわたりにて、今朝も無期に御心地ためらひてなむ」 |
"いとあやしくくるしげにのみせさせたまへば、きのふはこのいづみがはのわたりにて、けさしもむごにみここちためらひてなん。" |
49 | 9.3.8 | 791 | 771 |
といらひて、起こせば、今ぞ起きゐたる。尼君を恥ぢらひて、そばみたるかたはらめ、これよりはいとよく見ゆ。まことにいとよしあるまみのほど、髪ざしのわたり、かれをも、詳しくつくづくとしも見たまはざりし御顔なれど、これを見るにつけて、ただそれと思ひ出でらるるに、例の、涙落ちぬ。 |
といらひて、おこせば、いまぞおきゐたる。あまぎみをはぢらひて、そばみたるかたはらめ、これよりはいとよくみゆ。まことにいとよしあるまみのほど、かんざしのわたり、かれをも、くはしくつくづくとしもみたまはざりしおほんかほなれど、これをみるにつけて、ただそれとおもひいでらるるに、れいの、なみだおちぬ。 |
49 | 9.3.9 | 792 | 772 |
尼君のいらへうちする声、けはひ、宮の御方にもいとよく似たりと聞こゆ。 |
あまぎみのいらへうちするこゑ、けはひ、みやのおほんかたにもいとよくにたりときこゆ。 |
49 | 9.3.10 | 793 | 773 |
「あはれなりける人かな。かかりけるものを、今まで尋ねも知らで過ぐしけることよ。これより口惜しからむ際の品ならむゆかりなどにてだに、かばかりかよひきこえたらむ人を得ては、おろかに思ふまじき心地するに、まして、これは、知られたてまつらざりけれど、まことに故宮の御子にこそはありけれ」 |
"あはれなりけるひとかな。かかりけるものを、いままでたづねもしらですぐしけることよ。これよりくちをしからんきはのしなならんゆかりなどにてだに、かばかりかよひきこえたらんひとをえては、おろかにおもふまじきここちするに、まして、これは、しられたてまつらざりけれど、まことにこみやのみこにこそはありけれ。" |
49 | 9.3.11 | 794 | 774 |
と見なしたまひては、限りなくあはれにうれしくおぼえたまふ。「ただ今も、はひ寄りて、世の中におはしけるものを」と言ひ慰めまほし。蓬莱まで尋ねて、釵の限りを伝へて見たまひけむ帝は、なほ、いぶせかりけむ。「これは異人なれど、慰め所ありぬべきさまなり」とおぼゆるは、この人に契りのおはしけるにやあらむ。 |
とみなしたまひては、かぎりなくあはれにうれしくおぼえたまふ。"ただいまも、はひよりて、よのなかにおはしけるものを。"といひなぐさめまほし。ほうらいまでたづねて、かんざしのかぎりをつたへてみたまひけんみかどは、なほ、いぶせかりけん。"これはことびとなれど、なぐさめどころありぬべきさまなり。"とおぼゆるは、このひとにちぎりのおはしけるにやあらん。 |
49 | 9.3.12 | 795 | 775 |
尼君は、物語すこしして、とく入りぬ。人のとがめつる薫りを、「近く覗きたまふなめり」と心得てければ、うちとけごとも語らはずなりぬるなるべし。 |
あまぎみは、ものがたりすこしして、とくいりぬ。ひとのとがめつるかをりを、"ちかくのぞきたまふなめり。"とこころえてければ、うちとけごともかたらはずなりぬるなるべし。 |
49 | 9.4 | 796 | 776 | 第四段 薫、弁の尼に仲立を依頼 |
49 | 9.4.1 | 797 | 777 |
日暮れもていけば、君もやをら出でて、御衣など着たまひてぞ、例召し出づる障子の口に、尼君呼びて、ありさまなど問ひたまふ。 |
ひくれもていけば、きみもやをらいでて、おほんぞなどきたまひてぞ、れいめしいづるさうじのくちに、あまぎみよびて、ありさまなどとひたまふ。 |
49 | 9.4.2 | 798 | 778 |
「折しもうれしく参で逢ひたるを。いかにぞ、かの聞こえしことは」 |
"をりしもうれしくまであひたるを。いかにぞ、かのきこえしことは。" |
49 | 9.4.3 | 799 | 779 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 9.4.4 | 800 | 780 |
「しか、仰せ言はべりし後は、さるべきついではべらば、と待ちはべりしに、去年は過ぎて、この二月になむ、初瀬詣でのたよりに対面してはべりし。 |
"しか、おほせごとはべりしのちは、さるべきついではべらば、とまちはべりしに、こぞはすぎて、このにがちになん、はつせまうでのたよりにたいめんしてはべりし。 |
49 | 9.4.5 | 801 | 781 |
かの母君に、思し召したるさまは、ほのめかしはべりしかば、いとかたはらいたく、かたじけなき御よそへにこそははべるなれ、などなむはべりしかど、そのころほひは、のどやかにもおはしまさずと承りし、折便なく思ひたまへつつみて、かくなむ、とも聞こえさせはべらざりしを、またこの月にも詣でて、今日帰りたまふなめり。 |
かのははぎみに、おぼしめしたるさまは、ほのめかしはべりしかば、いとかたはらいたく、かたじけなきおほんよそへにこそははべるなれ、などなんはべりしかど、そのころほひは、のどやかにもおはしまさずとうけたまはりし、をりびんなくおもひたまへつつみて、かくなん、ともきこえさせはべらざりしを、またこのつきにもまうでて、けふかへりたまふなめり。 |
49 | 9.4.6 | 802 | 782 |
行き帰りの中宿りには、かく睦びらるるも、ただ過ぎにし御けはひを尋ねきこゆるゆゑになむはべめる。かの母君も、障ることありて、このたびは、独りものしたまふめれば、かくおはしますとも、何かは、ものしはべらむとて」 |
ゆきかへりのなかやどりには、かくむつびらるるも、ただすぎにしおほんけはひをたづねきこゆるゆゑになんはべめる。かのははぎみも、さはることありて、このたびは、ひとりものしたまふめれば、かくおはしますとも、なにかは、ものしはべらんとて。" |
49 | 9.4.7 | 803 | 783 |
と聞こゆ。 |
ときこゆ。 |
49 | 9.4.8 | 804 | 784 |
「田舎びたる人どもに、忍びやつれたるありきも見えじとて、口固めつれど、いかがあらむ。下衆どもは隠れあらじかし。さて、いかがすべき。独りものすらむこそ、なかなか心やすかなれ。かく契り深くてなむ、参り来あひたる、と伝へたまへかし」 |
"ゐなかびたるひとどもに、しのびやつれたるありきもみえじとて、くちがためつれど、いかがあらん。げすどもはかくれあらじかし。さて、いかがすべき。ひとりものすらんこそ、なかなかこころやすかなれ。かくちぎりふかくてなん、まゐりきあひたる、とつたへたまへかし。" |
49 | 9.4.9 | 805 | 785 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
49 | 9.4.10 | 806 | 786 |
「うちつけに、いつのほどなる御契りにかは」 |
"うちつけに、いつのほどなるおほんちぎりにかは。" |
49 | 9.4.11 | 807 | 787 |
と、うち笑ひて、 |
と、うちわらひて、 |
49 | 9.4.12 | 808 | 788 |
「さらば、しか伝へはべらむ」 |
"さらば、しかつたへはべらん。" |
49 | 9.4.13 | 809 | 789 |
とて、入るに、 |
とて、いるに、 |
49 | 9.4.14 | 810 | 790 |
「貌鳥の声も聞きしにかよふやと<BR/>茂みを分けて今日ぞ尋ぬる」 |
"〔かほどりのこゑもききしにかよふやと<BR/>しげみをわけてけふぞたづぬる〕 |
49 | 9.4.15 | 811 | 791 |
ただ口ずさみのやうにのたまふを、入りて語りけり。 |
ただくちずさみのやうにのたまふを、いりてかたりけり。 |