帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
52 | 蜻蛉 |
52 | 1 | 116 | 75 | 第一章 浮舟の物語 浮舟失踪後の人びとの動転 |
52 | 1.1 | 117 | 76 | 第一段 宇治の浮舟失踪 |
52 | 1.1.1 | 118 | 77 |
かしこには、人びと、おはせぬを求め騒げど、かひなし。物語の姫君の、人に盗まれたらむ明日のやうなれば、詳しくも言ひ続けず。京より、ありし使の帰らずなりにしかば、おぼつかなしとて、また人おこせたり。 |
かしこには、ひとびと、おはせぬをもとめさわげど、かひなし。ものがたりのひめぎみの、ひとにぬすまれたらんあしたのやうなれば、くはしくもいひつづけず。きゃうより、ありしつかひのかへらずなりにしかば、おぼつかなしとて、またひとおこせたり。 |
52 | 1.1.2 | 119 | 78 |
「まだ、鶏の鳴くになむ、出だし立てさせたまへる」 |
"まだ、とりのなくになん、いだしたてさせたまへる。" |
52 | 1.1.3 | 120 | 79 |
と使の言ふに、いかに聞こえむと、乳母よりはじめて、あわて惑ふこと限りなし。思ひやる方なくて、ただ騷ぎ合へるを、かの心知れるどちなむ、いみじくものを思ひたまへりしさまを思ひ出づるに、「身を投げたまへるか」とは思ひ寄りける。 |
とつかひのいふに、いかにきこえんと、めのとよりはじめて、あわてまどふことかぎりなし。おもひやるかたなくて、たださわぎあへるを、かのこころしれるどちなん、いみじくものをおもひたまへりしさまをおもひいづるに、"みをなげたまへるか。"とはおもひよりける。 |
52 | 1.1.4 | 121 | 80 |
泣く泣くこの文を開けたれば、 |
なくなくこのふみをあけたれば、 |
52 | 1.1.5 | 122 | 81 |
「いとおぼつかなさに、まどろまれはべらぬけにや、今宵は夢にだにうちとけても見えず。物に襲はれつつ、心地も例ならずうたてはべるを。なほいと恐ろしく、ものへ渡らせたまはむことは近くなれど、そのほど、ここに迎へたてまつりてむ。今日は雨降りはべりぬべければ」 |
"いとおぼつかなさに、まどろまれはべらぬけにや、こよひはゆめにだにうちとけてもみえず。ものにおそはれつつ、ここちもれいならずうたてはべるを。なほいとおそろしく、ものへわたらせたまはんことはちかくなれど、そのほど、ここにむかへたてまつりてん。けふはあめふりはべりぬべければ。" |
52 | 1.1.6 | 123 | 82 |
などあり。昨夜の御返りをも開けて見て、右近いみじう泣く。 |
などあり。よべのおほんかへりをもあけてみて、うこんいみじうなく。 |
52 | 1.1.7 | 124 | 83 |
「さればよ。心細きことは聞こえたまひけり。我に、などかいささかのたまふことのなかりけむ。幼かりしほどより、つゆ心置かれたてまつることなく、塵ばかり隔てなくてならひたるに、今は限りの道にしも、我を後らかし、けしきをだに見せたまはざりけるがつらきこと」 |
"さればよ。こころぼそきことはきこえたまひけり。われに、などかいささかのたまふことのなかりけん。をさなかりしほどより、つゆこころおかれたてまつることなく、ちりばかりへだてなくてならひたるに、いまはかぎりのみちにしも、われをおくらかし、けしきをだにみせたまはざりけるがつらきこと。" |
52 | 1.1.8 | 125 | 84 |
と思ふに、足摺りといふことをして泣くさま、若き子どものやうなり。いみじく思したる御けしきは、見たてまつりわたれど、かけても、かくなべてならずおどろおどろしきこと、思し寄らむものとは見えざりつる人の御心ざまを、「なほ、いかにしつることにか」とおぼつかなくいみじ。 |
とおもふに、あしずりといふことをしてなくさま、わかきこどものやうなり。いみじくおぼしたるみけしきは、みたてまつりわたれど、かけても、かくなべてならずおどろおどろしきこと、おぼしよらんものとはみえざりつるひとのみこころざまを、"なほ、いかにしつることにか。"とおぼつかなくいみじ。 |
52 | 1.1.9 | 126 | 85 |
乳母は、なかなかものもおぼえで、ただ、「いかさまにせむ。いかさまにせむ」とぞ言はれける。 |
めのとは、なかなかものもおぼえで、ただ、"いかさまにせん。いかさまにせん。"とぞいはれける。 |
52 | 1.2 | 127 | 86 | 第二段 匂宮から宇治へ使者派遣 |
52 | 1.2.1 | 128 | 87 |
宮にも、いと例ならぬけしきありし御返り、「いかに思ふならむ。我を、さすがにあひ思ひたるさまながら、あだなる心なりとのみ、深く疑ひたれば、他へ行き隠れむとにやあらむ」と思し騷ぎ、御使あり。 |
みやにも、いとれいならぬけしきありしおほんかへり、"いかにおもふならん。われを、さすがにあひおもひたるさまながら、あだなるこころなりとのみ、ふかくうたがひたれば、ほかへいきかくれんとにやあらん。"とおぼしさわぎ、おほんつかひあり。 |
52 | 1.2.2 | 129 | 88 |
ある限り泣き惑ふほどに来て、御文もえたてまつらず。 |
あるかぎりなきまどふほどにきて、おほんふみもえたてまつらず。 |
52 | 1.2.3 | 130 | 89 |
「いかなるぞ」 |
"いかなるぞ。" |
52 | 1.2.4 | 131 | 90 |
と下衆女に問へば、 |
とげすをんなにとへば、 |
52 | 1.2.5 | 132 | 91 |
「上の、今宵、にはかに亡せたまひにければ、ものもおぼえたまはず。頼もしき人もおはしまさぬ折なれば、さぶらひたまふ人びとは、ただものに当たりてなむ惑ひたまふ」 |
"うへの、こよひ、にはかにうせたまひにければ、ものもおぼえたまはず。たのもしきひともおはしまさぬをりなれば、さぶらひたまふひとびとは、ただものにあたりてなんまどひたまふ。" |
52 | 1.2.6 | 133 | 92 |
と言ふ。心も深く知らぬ男にて、詳しう問はで参りぬ。 |
といふ。こころもふかくしらぬをのこにて、くはしうとはでまゐりぬ。 |
52 | 1.2.7 | 134 | 93 |
「かくなむ」と申させたるに、夢とおぼえて、 |
"かくなん。"とまうさせたるに、ゆめとおぼえて、 |
52 | 1.2.8 | 135 | 94 |
「いとあやし。いたくわづらふとも聞かず。日ごろ、悩ましとのみありしかど、昨日の返り事はさりげもなくて、常よりもをかしげなりしものを」 |
"いとあやし。いたくわづらふともきかず。ひごろ、なやましとのみありしかど、きのふのかへりごとはさりげもなくて、つねよりもをかしげなりしものを。" |
52 | 1.2.9 | 136 | 95 |
と、思しやる方なければ、 |
と、おぼしやるかたなければ、 |
52 | 1.2.10 | 137 | 96 |
「時方、行きてけしき見、たしかなること問ひ聞け」 |
"ときかた、いきてけしきみ、たしかなることとひきけ。" |
52 | 1.2.11 | 138 | 97 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
52 | 1.2.12 | 139 | 98 |
「かの大将殿、いかなることか、聞きたまふことはべりけむ、宿直する者おろかなり、など戒め仰せらるるとて、下人のまかり出づるをも、見とがめ問ひはべるなれば、ことづくることなくて、時方まかりたらむを、ものの聞こえはべらば、思し合はすることなどやはべらむ。さて、にはかに人の亡せたまへらむ所は、論なう騒がしう、人しげくはべらむを」と聞こゆ。 |
"かのだいしゃうどの、いかなることか、ききたまふことはべりけん、とのゐするものおろかなり、などいましめおほせらるるとて、しもびとのまかりいづるをも、みとがめとひはべるなれば、ことづくることなくて、ときかたまかりたらんを、もののきこえはべらば、おぼしあはすることなどやはべらん。さて、にはかにひとのうせたまへらんところは、ろんなうさわがしう、ひとしげくはべらんを。"ときこゆ。 |
52 | 1.2.13 | 140 | 99 |
「さりとては、いとおぼつかなくてやあらむ。なほ、とかくさるべきさまに構へて、例の、心知れる侍従などに会ひて、いかなることをかく言ふぞ、と案内せよ。下衆はひがことも言ふなり」 |
"さりとては、いとおぼつかなくてやあらん。なほ、とかくさるべきさまにかまへて、れいの、こころしれるじじうなどにあひて、いかなることをかくいふぞ、とあないせよ。げすはひがこともいふなり。" |
52 | 1.2.14 | 141 | 100 |
とのたまへば、いとほしき御けしきもかたじけなくて、夕つ方行く。 |
とのたまへば、いとほしきみけしきもかたじけなくて、ゆふつかたゆく。 |
52 | 1.3 | 142 | 101 | 第三段 時方、宇治に到着 |
52 | 1.3.1 | 143 | 102 |
かやすき人は、疾く行き着きぬ。雨少し降り止みたれど、わりなき道にやつれて、下衆のさまにて来たれば、人多く立ち騷ぎて、 |
かやすきひとは、とくいきつきぬ。あめすこしふりやみたれど、わりなきみちにやつれて、げすのさまにてきたれば、ひとおほくたちさわぎて、 |
52 | 1.3.2 | 144 | 103 |
「今宵、やがてをさめたてまつるなり」 |
"こよひ、やがてをさめたてまつるなり。" |
52 | 1.3.3 | 145 | 104 |
など言ふを聞く心地も、あさましくおぼゆ。右近に消息したれども、え会はず、 |
などいふをきくここちも、あさましくおぼゆ。うこんにせうそこしたれども、えあはず、 |
52 | 1.3.4 | 146 | 105 |
「ただ今、ものおぼえず。起き上がらむ心地もせでなむ。さるは、今宵ばかりこそ、かくも立ち寄りたまはめ、え聞こえぬこと」 |
"ただいま、ものおぼえず。おきあがらんここちもせでなん。さるは、こよひばかりこそ、かくもたちよりたまはめ、えきこえぬこと。" |
52 | 1.3.5 | 147 | 106 |
と言はせたり。 |
といはせたり。 |
52 | 1.3.6 | 148 | 107 |
「さりとて、かくおぼつかなくては、いかが帰り参りはべらむ。今一所だに」 |
"さりとて、かくおぼつかなくては、いかがかへりまゐりはべらん。いまひとところだに。" |
52 | 1.3.7 | 149 | 108 |
と切に言ひたれば、侍従ぞ会ひたりける。 |
とせちにいひたれば、じじゅうぞあひたりける。 |
52 | 1.3.8 | 150 | 109 |
「いとあさまし。思しもあへぬさまにて亡せたまひにたれば、いみじと言ふにも飽かず、夢のやうにて、誰も誰も惑ひはべるよしを申させたまへ。すこしも心地のどめはべりてなむ、日ごろも、もの思したりつるさま、一夜、いと心苦しと思ひきこえさせたまへりしありさまなども、聞こえさせはべるべき。この穢らひなど、人の忌みはべるほど過ぐして、今一度立ち寄りたまへ」 |
"いとあさまし。おぼしもあへぬさまにてうせたまひにたれば、いみじといふにもあかず、ゆめのやうにて、たれもたれもまどひはべるよしをまうさせたまへ。すこしもここちのどめはべりてなん、ひごろも、ものおぼしたりつるさま、ひとよ、いとこころぐるしとおもひきこえさせたまへりしありさまなども、きこえさせはべるべき。このけがらひなど、ひとのいみはべるほどすぐして、いまひとたびたちよりたまへ。" |
52 | 1.3.9 | 151 | 110 |
と言ひて、泣くこといといみじ。 |
といひて、なくこといといみじ。 |
52 | 1.4 | 152 | 111 | 第四段 乳母、悲嘆に暮れる |
52 | 1.4.1 | 153 | 112 |
内にも泣く声々のみして、乳母なるべし、 |
うちにもなくこゑごゑのみして、めのとなるべし、 |
52 | 1.4.2 | 154 | 113 |
「あが君や、いづ方にかおはしましぬる。帰りたまへ。むなしき骸をだに見たてまつらぬが、かひなく悲しくもあるかな。明け暮れ見たてまつりても飽かずおぼえたまひ、いつしかかひある御さまを見たてまつらむと、朝夕に頼みきこえつるにこそ、命も延びはべりつれ。うち捨てたまひて、かく行方も知らせたまはぬこと。 |
"あがきみや、いづかたにかおはしましぬる。かへりたまへ。むなしきからをだにみたてまつらぬが、かひなくかなしくもあるかな。あけくれみたてまつりてもあかずおぼえたまひ、いつしかかひあるおほんさまをみたてまつらんと、あしたゆふべにたのみきこえつるにこそ、いのちものびはべりつれ。うちすてたまひて、かくゆくへもしらせたまはぬこと。 |
52 | 1.4.3 | 155 | 114 |
鬼神も、あが君をばえ領じたてまつらじ。人のいみじく惜しむ人をば、帝釈も返したまふなり。あが君を取りたてまつりたらむ、人にまれ鬼にまれ、返したてまつれ。亡き御骸をも見たてまつらむ」 |
おにがみも、あがきみをばえりゃうじたてまつらじ。ひとのいみじくをしむひとをば、たいしゃくもかへしたまふなり。あがきみをとりたてまつりたらん、ひとにまれおににまれ、かへしたてまつれ。なきおほんからをもみたてまつらん。" |
52 | 1.4.4 | 156 | 115 |
と言ひ続くるが、心得ぬことども混じるを、あやしと思ひて、 |
といひつづくるが、こころえぬことどもまじるを、あやしとおもひて、 |
52 | 1.4.5 | 157 | 116 |
「なほ、のたまへ。もし、人の隠しきこえたまへるか。たしかに聞こし召さむと、御身の代はりに出だし立てさせたまへる御使なり。今は、とてもかくてもかひなきことなれど、後にも聞こし召し合はすることのはべらむに、違ふこと混じらば、参りたらむ御使の罪なるべし。 |
"なほ、のたまへ。もし、ひとのかくしきこえたまへるか。たしかにきこしめさんと、おほんみのかはりにいだしたてさせたまへるおほんつかひなり。いまは、とてもかくてもかひなきことなれど、のちにもきこしめしあはすることのはべらんに、たがふことまじらば、まゐりたらんおほんつかひのつみなるべし。 |
52 | 1.4.6 | 158 | 117 |
また、さりともと頼ませたまひて、『君たちに対面せよ』と仰せられつる御心ばへも、かたじけなしとは思されずや。女の道に惑ひたまふことは、人の朝廷にも、古き例どもありけれど、またかかること、この世にはあらじ、となむ見たてまつる」 |
また、さりともとたのませたまひて、'きみたちにたいめんせよ。'とおほせられつるみこころばへも、かたじけなしとはおぼされずや。をんなのみちにまどひたまふことは、ひとのみかどにも、ふるきためしどもありけれど、またかかること、このよにはあらじ、となんみたてまつる。" |
52 | 1.4.7 | 159 | 118 |
と言ふに、「げに、いとあはれなる御使にこそあれ。隠すとすとも、かくて例ならぬことのさま、おのづから聞こえなむ」と思ひて、 |
といふに、"げに、いとあはれなるおほんつかひにこそあれ。かくすとすとも、かくてれいならぬことのさま、おのづからきこえなん。"とおもひて、 |
52 | 1.4.8 | 160 | 119 |
「などか、いささかにても、人や隠いたてまつりたまふらむ、と思ひ寄るべきことあらむには、かくしもある限り惑ひはべらむ。日ごろ、いといみじくものを思し入るめりしかば、かの殿の、わづらはしげに、ほのめかし聞こえたまふことなどもありき。 |
"などか、いささかにても、ひとやかくいたてまつりたまふらん、とおもひよるべきことあらんには、かくしもあるかぎりまどひはべらん。ひごろ、いといみじくものをおぼしいるめりしかば、かのとのの、わづらはしげに、ほのめかしきこえたまふことなどもありき。 |
52 | 1.4.9 | 161 | 120 |
御母にものしたまふ人も、かくののしる乳母なども、初めより知りそめたりし方に渡りたまはむ、となむいそぎ立ちて、この御ことをば、人知れぬさまにのみ、かたじけなくあはれと思ひきこえさせたまへりしに、御心乱れけるなるべし。あさましう、心と身を亡くなしたまへるやうなれば、かく心の惑ひに、ひがひがしく言ひ続けらるるなめり」 |
おほんははにものしたまふひとも、かくののしるめのとなども、はじめよりしりそめたりしかたにわたりたまはん、となんいそぎたちて、このおほんことをば、ひとしれぬさまにのみ、かたじけなくあはれとおもひきこえさせたまへりしに、みこころみだれけるなるべし。あさましう、こころとみをなくなしたまへるやうなれば、かくこころのまどひに、ひがひがしくいひつづけらるるなめり。" |
52 | 1.4.10 | 162 | 122 |
と、さすがに、まほならずほのめかす。心得がたくおぼえて、 |
と、さすがに、まほならずほのめかす。こころえがたくおぼえて、 |
52 | 1.4.11 | 163 | 123 |
「さらば、のどかに参らむ。立ちながらはべるも、いとことそぎたるやうなり。今、御みづからもおはしましなむ」 |
"さらば、のどかにまゐらん。たちながらはべるも、いとことそぎたるやうなり。いま、おほんみづからもおはしましなん。" |
52 | 1.4.12 | 164 | 124 |
と言へば、 |
といへば、 |
52 | 1.4.13 | 165 | 125 |
「あな、かたじけな。今さら、人の知りきこえさせむも、亡き御ためは、なかなかめでたき御宿世見ゆべきことなれど、忍びたまひしことなれば、また漏らさせたまはで、止ませたまはむなむ、御心ざしにはべるべき」 |
"あな、かたじけな。いまさら、ひとのしりきこえさせんも、なきおほんためは、なかなかめでたきおほんすくせみゆべきことなれど、しのびたまひしことなれば、またもらさせたまはで、やませたまはんなん、みこころざしにはべるべき。" |
52 | 1.4.14 | 166 | 126 |
ここには、かく世づかず亡せたまへるよしを、人に聞かせじと、よろづに紛らはすを、「自然にことどものけしきもこそ見ゆれ」と思へば、かくそそのかしやりつ。 |
ここには、かくよづかずうせたまへるよしを、ひとにきかせじと、よろづにまぎらはすを、"じねんにことどものけしきもこそみゆれ。"とおもへば、かくそそのかしやりつ。 |
52 | 1.5 | 167 | 127 | 第五段 浮舟の母、宇治に到着 |
52 | 1.5.1 | 168 | 128 |
雨のいみじかりつる紛れに、母君も渡りたまへり。さらに言はむ方もなく、 |
あめのいみじかりつるまぎれに、ははぎみもわたりたまへり。さらにいはんかたもなく、 |
52 | 1.5.2 | 169 | 129 |
「目の前に亡くなしたらむ悲しさは、いみじうとも、世の常にて、たぐひあることなり。これは、いかにしつることぞ」 |
"めのまへになくなしたらんかなしさは、いみじうとも、よのつねにて、たぐひあることなり。これは、いかにしつることぞ。" |
52 | 1.5.3 | 170 | 130 |
と惑ふ。かかることどもの紛れありて、いみじうもの思ひたまふらむとも知らねば、身を投げたまへらむとも思ひも寄らず、 |
とまどふ。かかることどものまぎれありて、いみじうものおもひたまふらんともしらねば、みをなげたまへらんともおもひもよらず、 |
52 | 1.5.4 | 171 | 131 |
「鬼や食ひつらむ。狐めくものや取りもて去ぬらむ。いと昔物語のあやしきもののことのたとひにか、さやうなることも言ふなりし」 |
"おにやくひつらん。きつねめくものやとりもていぬらん。いとむかしものがたりのあやしきもののことのたとひにか、さやうなることもいふなりし。" |
52 | 1.5.5 | 172 | 132 |
と思ひ出づ。 |
とおもひいづ。 |
52 | 1.5.6 | 173 | 133 |
「さては、かの恐ろしと思ひきこゆるあたりに、心など悪しき御乳母やうの者や、かう迎へたまふべしと聞きて、めざましがりて、たばかりたる人もやあらむ」 |
"さては、かのおそろしとおもひきこゆるあたりに、こころなどあしきおほんめのとやうのものや、かうむかへたまふべしとききて、めざましがりて、たばかりたるひともやあらん。" |
52 | 1.5.7 | 174 | 134 |
と、下衆などを疑ひ、 |
と、げすなどをうたがひ、 |
52 | 1.5.8 | 175 | 135 |
「今参りの、心知らぬやある」 |
"いままゐりの、こころしらぬやある。" |
52 | 1.5.9 | 176 | 136 |
と問へば、 |
ととへば、 |
52 | 1.5.10 | 177 | 137 |
「いと世離れたりとて、ありならはぬ人は、ここにてはかなきこともえせず、今とく参らむ、と言ひてなむ、皆、そのいそぐべきものどもなど取り具しつつ、帰り出ではべりにし」 |
"いとよばなれたりとて、ありならはぬひとは、ここにてはかなきこともえせず、いまとくまゐらん、といひてなん、みな、そのいそぐべきものどもなどとりぐしつつ、かへりいではべりにし。" |
52 | 1.5.11 | 178 | 138 |
とて、もとよりある人だに、片へはなくて、いと人少ななる折になむありける。 |
とて、もとよりあるひとだに、かたへはなくて、いとひとずくななるをりになんありける。 |
52 | 1.6 | 179 | 139 | 第六段 侍従ら浮舟の葬儀を営む |
52 | 1.6.1 | 180 | 140 |
侍従などこそ、日ごろの御けしき思ひ出で、「身を失ひてばや」など、泣き入りたまひし折々のありさま、書き置きたまへる文をも見るに、「亡き影に」と書きすさびたまへるものの、硯の下にありけるを見つけて、川の方を見やりつつ、響きののしる水の音を聞くにも、疎ましく悲しと思ひつつ、 |
じじゅうなどこそ、ひごろのみけしきおもひいで、"みをうしなひてばや。"など、なきいりたまひしをりをりのありさま、かきおきたまへるふみをもみるに、"なきかげに。"とかきすさびたまへるものの、すずりのしたにありけるをみつけて、かはのかたをみやりつつ、ひびきののしるみづのおとをきくにも、うとましくかなしとおもひつつ、 |
52 | 1.6.2 | 181 | 141 |
「さて、亡せたまひけむ人を、とかく言ひ騷ぎて、いづくにもいづくにも、いかなる方になりたまひにけむ、と思し疑はむも、いとほしきこと」 |
"さて、うせたまひけんひとを、とかくいひさわぎて、いづくにもいづくにも、いかなるかたになりたまひにけん、とおぼしうたがはんも、いとほしきこと。" |
52 | 1.6.3 | 182 | 142 |
と言ひ合はせて、 |
といひさはせて、 |
52 | 1.6.4 | 183 | 143 |
「忍びたる事とても、御心より起こりてありしことならず。親にて、亡き後に聞きたまへりとも、いとやさしきほどならぬを、ありのままに聞こえて、かくいみじくおぼつかなきことどもをさへ、かたがた思ひ惑ひたまふさまは、すこし明らめさせたてまつらむ。亡くなりたまへる人とても、骸を置きてもて扱ふこそ、世の常なれ、世づかぬけしきにて日ごろも経ば、さらに隠れあらじ。なほ、聞こえて、今は世の聞こえをだにつくろはむ」 |
"しのびたることとても、みこころよりおこりてありしことならず。おやにて、なきのちにききたまへりとも、いとやさしきほどならぬを、ありのままにきこえて、かくいみじくおぼつかなきことどもをさへ、かたがたおもひまどひたまふさまは、すこしあきらめさせたてまつらん。なくなりたまへるひととても、からをおきてもてあつかふこそ、よのつねなれ、よづかぬけしきにてひごろもへば、さらにかくれあらじ。なほ、きこえて、いまはよのきこえをだにつくろはん。" |
52 | 1.6.5 | 184 | 144 |
と語らひて、忍びてありしさまを聞こゆるに、言ふ人も消え入り、え言ひやらず、聞く心地も惑ひつつ、「さは、このいと荒ましと思ふ川に、流れ亡せたまひにけり」と思ふに、いとど我も落ち入りぬべき心地して、 |
とかたらひて、しのびてありしさまをきこゆるに、いふひともきえいり、えいひやらず、きくここちもまどひつつ、"さは、このいとあらましとおもふかはに、ながれうせたまひにけり。"とおもふに、いとどわれもおちいりぬべきここちして、 |
52 | 1.6.6 | 185 | 145 |
「おはしましにけむ方を尋ねて、骸をだにはかばかしくをさめむ」 |
"おはしましにけんかたをたづねて、からをだにはかばかしくをさめん。" |
52 | 1.6.7 | 186 | 146 |
とのたまへど、 |
とのたまへど、 |
52 | 1.6.8 | 187 | 147 |
「さらに何のかひはべらじ。行方も知らぬ大海の原にこそおはしましにけめ。さるものから、人の言ひ伝へむことは、いと聞きにくし」 |
"さらになにのかひはべらじ。ゆくへもしらぬおほうみのはらにこそおはしましにけめ。さるものから、ひとのいひつたへんことは、いとききにくし。" |
52 | 1.6.9 | 188 | 148 |
と聞こゆれば、とざまかくざまに思ふに、胸のせきのぼる心地して、いかにもいかにもすべき方もおぼえたまはぬを、この人びと二人して、車寄せさせて、御座ども、気近う使ひたまひし御調度ども、皆ながら脱ぎ置きたまへる御衾などやうのものを取り入れて、乳母子の大徳、それが叔父の阿闍梨、その弟子の睦ましきなど、もとより知りたる老法師など、御忌に籠もるべき限りして、人の亡くなりたるけはひにまねびて、出だし立つるを、乳母、母君は、いといみじくゆゆしと臥しまろぶ。 |
ときこゆれば、とざまかくざまにおもふに、むねのせきのぼるここちして、いかにもいかにもすべきかたもおぼえたまはぬを、このひとびとふたりして、くるまよせさせて、おましども、けぢかうつかひたまひしみてうどども、みなながらぬぎおきたまへるおほんふすまなどやうのものをとりいれて、めのとごのだいとく、それがをぢのあざり、そのでしのむつましきなど、もとよりしりたるおいほふしなど、おほんいみにこもるべきかぎりして、ひとのなくなりたるけはひにまねびて、いだしたつるを、めのと、ははぎみは、いといみじくゆゆしとふしまろぶ。 |
52 | 1.7 | 189 | 149 | 第七段 侍従ら真相を隠す |
52 | 1.7.1 | 190 | 150 |
大夫、内舎人など、脅しきこえし者どもも参りて、 |
たいふ、うどねりなど、おどしきこえしものどももまゐりて、 |
52 | 1.7.2 | 191 | 151 |
「御葬送の事は、殿に事のよしも申させたまひて、日定められ、いかめしうこそ仕うまつらめ」 |
"おほんさうそうのことは、とのにことのよしもまうさせたまひて、ひさだめられ、いかめしうこそつかうまつらめ。" |
52 | 1.7.3 | 192 | 152 |
など言ひけれど、 |
などいひけれど、 |
52 | 1.7.4 | 193 | 153 |
「ことさら、今宵過ぐすまじ。いと忍びてと思ふやうあればなむ」 |
"ことさら、こよひすぐすまじ。いとしのびてとおもふやうあればなん。" |
52 | 1.7.5 | 194 | 154 |
とて、この車を、向かひの山の前なる原にやりて、人も近うも寄せず、この案内知りたる法師の限りして焼かす。いとはかなくて、煙は果てぬ。田舎人どもは、なかなか、かかることをことことしくしなし、言忌みなど深くするものなりければ、 |
とて、このくるまを、むかひのやまのまへなるはらにやりて、ひともちかうもよせず、このあないしりたるほふしのかぎりしてやかす。いとはかなくて、けぶりははてぬ。ゐなかびとどもは、なかなか、かかることをことことしくしなし、こといみなどふかくするものなりければ、 |
52 | 1.7.6 | 195 | 155 |
「いとあやしう。例の作法など、あることども知らず、下衆下衆しく、あへなくてせられぬることかな」 |
"いとあやしう。れいのさほふなど、あることどもしらず、げすげすしく、あへなくてせられぬることかな。" |
52 | 1.7.7 | 196 | 156 |
と誹りければ、 |
とそしりければ、 |
52 | 1.7.8 | 197 | 157 |
「片へおはする人は、ことさらにかくなむ、京の人はしたまふ」 |
"かたへおはするひとは、ことさらにかくなん、きゃうのひとはしたまふ。" |
52 | 1.7.9 | 198 | 158 |
などぞ、さまざまになむやすからず言ひける。 |
などぞ、さまざまになんやすからずいひける。 |
52 | 1.7.10 | 199 | 159 |
「かかる人どもの言ひ思ふことだに慎ましきを、まして、ものの聞こえ隠れなき世の中に、大将殿わたりに、骸もなく亡せたまひにけり、と聞かせたまはば、かならず思ほし疑ふこともあらむを、宮はた、同じ御仲らひにて、さる人のおはしおはせず、しばしこそ忍ぶとも思さめ、つひには隠れあらじ。 |
"かかるひとどものいひおもふことだにつつましきを、まして、もののきこえかくれなきよのなかに、だいしゃうどのわたりに、からもなくうせたまひにけり、ときかせたまはば、かならずおもほしうたがふこともあらんを、みやはた、おなじおほんなからひにて、さるひとのおはしおはせず、しばしこそしのぶともおぼさめ、つひにはかくれあらじ。 |
52 | 1.7.11 | 200 | 160 |
また、定めて宮をしも疑ひきこえたまはじ。いかなる人か率て隠しけむなどぞ、思し寄せむかし。生きたまひての御宿世は、いと気高くおはせし人の、げに亡き影に、いみじきことをや疑はれたまはむ」 |
また、さだめてみやをしもうたがひきこえたまはじ。いかなるひとかゐてかくしけんなどぞ、おぼしよせんかし。いきたまひてのおほんすくせは、いとけだかくおはせしひとの、げになきかげに、いみじきことをやうたがはれたまはん。" |
52 | 1.7.12 | 201 | 161 |
と思へば、ここの内なる下人どもにも、今朝のあわたたしかりつる惑ひに、「けしきも見聞きつるには口かため、案内知らぬには聞かせじ」などぞたばかりける。 |
とおもへば、ここのうちなるしもびとどもにも、けさのあわたたしかりつるまどひに、"けしきもみききつるにはくちかため、あないしらぬにはきかせじ。"などぞたばかりける。 |
52 | 1.7.13 | 202 | 162 |
「ながらへては、誰にも、静やかに、ありしさまをも聞こえてむ。ただ今は、悲しさ覚めぬべきこと、ふと人伝てに聞こし召さむは、なほいといとほしかるべきことなるべし」 |
"ながらへては、たれにも、しづやかに、ありしさまをもきこえてん。ただいまは、かなしささめぬべきこと、ふとひとづてにきこしめさんは、なほいといとほしかるべきことなるべし。" |
52 | 1.7.14 | 203 | 163 |
と、この人二人ぞ、深く心の鬼添ひたれば、もて隠しける。 |
と、このひとふたりぞ、ふかくこころのおにそひたれば、もてかくしける。 |
52 | 2 | 204 | 164 | 第二章 浮舟の物語 浮舟失踪と薫、匂宮 |
52 | 2.1 | 205 | 165 | 第一段 薫、石山寺で浮舟失踪の報に接す |
52 | 2.1.1 | 206 | 166 |
大将殿は、入道の宮の悩みたまひければ、石山に籠もりたまひて、騷ぎたまふころなりけり。さて、いとどかしこをおぼつかなう思しけれど、はかばかしう、「さなむ」と言ふ人はなかりければ、かかるいみじきことにも、まづ御使のなきを、人目も心憂しと思ふに、御荘の人なむ参りて、「しかしか」と申させければ、あさましき心地したまひて、御使、そのまたの日、まだつとめて参りたり。 |
だいしゃうどのは、にふだうのみやのなやみたまひければ、いしやまにこもりたまひて、さわぎたまふころなりけり。さて、いとどかしこをおぼつかなうおぼしけれど、はかばかしう、"さなん。"といふひとはなかりければ、かかるいみじきことにも、まづおほんつかひのなきを、ひとめもこころうしとおもふに、みさうのひとなんまゐりて、"しかしか。"とまうさせければ、あさましきここちしたまひて、おほんつかひ、そのまたのひ、まだつとめてまゐりたり。 |
52 | 2.1.2 | 207 | 167 |
「いみじきことは、聞くままにみづからもすべきに、かく悩みたまふ御ことにより、慎みて、かかる所に日を限りて籠もりたればなむ。昨夜のことは、などか、ここに消息して、日を延べてもさることはするものを、いと軽らかなるさまにて、急ぎせられにける。とてもかくても、同じ言ふかひなさなれど、とぢめのことをしも、山賤の誹りをさへ負ふなむ、ここのためもからき」 |
"いみじきことは、きくままにみづからもすべきに、かくなやみたまふおほんことにより、つつしみて、かかるところにひをかぎりてこもりたればなん。よべのことは、などか、ここにせうそこして、ひをのべてもさることはするものを、いとかろらかなるさまにて、いそぎせられにける。とてもかくても、おなじいふかひなさなれど、とぢめのことをしも、やまがつのそしりをさへおふなん、ここのためもからき。" |
52 | 2.1.3 | 208 | 168 |
など、かの睦ましき大蔵大輔してのたまへり。御使の来たるにつけても、いとどいみじきに、聞こえむ方なきことどもなれば、ただ涙におぼほれたるばかりをかことにて、はかばかしうもいらへやらずなりぬ。 |
など、かのむつましきおほくらのたいふしてのたまへり。おほんつかひのきたるにつけても、いとどいみじきに、きこえんかたなきことどもなれば、ただなみだにおぼほれたるばかりをかことにて、はかばかしうもいらへやらずなりぬ。 |
52 | 2.2 | 209 | 169 | 第二段 薫の後悔 |
52 | 2.2.1 | 210 | 170 |
殿は、なほ、いとあへなくいみじと聞きたまふにも、 |
とのは、なほ、いとあへなくいみじとききたまふにも、 |
52 | 2.2.2 | 211 | 171 |
「心憂かりける所かな。鬼などや住むらむ。などて、今までさる所に据ゑたりつらむ。思はずなる筋の紛れあるやうなりしも、かく放ち置きたるに、心やすくて、人も言ひ犯したまふなりけむかし」 |
"こころうかりけるところかな。おになどやすむらん。などて、いままでさるところにすゑたりつらん。おもはずなるすぢのまぎれあるやうなりしも、かくはなちおきたるに、こころやすくて、ひともいひをかしたまふなりけんかし。" |
52 | 2.2.3 | 212 | 172 |
と思ふにも、わがたゆく世づかぬ心のみ悔しく、御胸痛くおぼえたまふ。悩ませたまふあたりに、かかること思し乱るるもうたてあれば、京におはしぬ。 |
とおもふにも、わがたゆくよづかぬこころのみくやしく、おほんむねいたくおぼえたまふ。なやませたまふあたりに、かかることおぼしみだるるもうたてあれば、きゃうにおはしぬ。 |
52 | 2.2.4 | 213 | 173 |
宮の御方にも渡りたまはず、 |
みやのおほんかたにもわたりたまはず、 |
52 | 2.2.5 | 214 | 174 |
「ことことしきほどにもはべらねど、ゆゆしきことを近う聞きつれば、心の乱れはべるほども忌ま忌ましうて」 |
"ことことしきほどにもはべらねど、ゆゆしきことをちかうききつれば、こころのみだれはべるほどもいまいましうて。" |
52 | 2.2.6 | 215 | 175 |
など聞こえたまひて、尽きせずはかなくいみじき世を嘆きたまふ。ありしさま容貌、いと愛敬づき、をかしかりしけはひなどの、いみじく恋しく悲しければ、 |
などきこえたまひて、つきせずはかなくいみじきよをなげきたまふ。ありしさまかたち、いとあいぎゃうづき、をかしかりしけはひなどの、いみじくこひしくかなしければ、 |
52 | 2.2.7 | 216 | 176 |
「うつつの世には、などかくしも思ひ晴れず、のどかにて過ぐしけむ。ただ今は、さらに思ひ静めむ方なきままに、悔しきことの数知らず。かかることの筋につけて、いみじうものすべき宿世なりけり。さま異に心ざしたりし身の、思ひの外に、かく例の人にてながらふるを、仏などの憎しと見たまふにや。人の心を起こさせむとて、仏のしたまふ方便は、慈悲をも隠して、かやうにこそはあなれ」 |
"うつつのよには、などかくしもおもひはれず、のどかにてすぐしけん。ただいまは、さらにおもひしづめんかたなきままに、くやしきことのかずしらず。かかることのすぢにつけて、いみじうものすべきすくせなりけり。さまことにこころざしたりしみの、おもひのほかに、かくれいのひとにてながらふるを、ほとけなどのにくしとみたまふにや。ひとのこころをおこさせんとて、ほとけのしたまふはうべんは、じひをもかくして、かやうにこそはあなれ。" |
52 | 2.2.8 | 217 | 177 |
と思ひ続けたまひつつ、行ひをのみしたまふ。 |
とおもひつづけたまひつつ、おこなひをのみしたまふ。 |
52 | 2.3 | 218 | 178 | 第三段 匂宮悲しみに籠もる |
52 | 2.3.1 | 219 | 179 |
かの宮はた、まして、二、三日はものもおぼえたまはず、うつし心もなきさまにて、「いかなる御もののけならむ」など騒ぐに、やうやう涙尽くしたまひて、思し静まるにしもぞ、ありしさまは恋しういみじく思ひ出でられたまひける。人には、ただ御病の重きさまをのみ見せて、「かくすぞろなるいやめのけしき知らせじ」と、かしこくもて隠すと思しけれど、おのづからいとしるかりければ、 |
かのみやはた、まして、に、さんにちはものもおぼえたまはず、うつしごころもなきさまにて、"いかなるおほんもののけならん。"などさわぐに、やうやうなみだつくしたまひて、おぼししづまるにしもぞ、ありしさまはこひしういみじくおもひいでられたまひける。ひとには、ただおほんやまひのおもきさまをのみみせて、"かくすぞろなるいやめのけしきしらせじ。"と、かしこくもてかくすとおぼしけれど、おのづからいとしるかりければ、 |
52 | 2.3.2 | 220 | 180 |
「いかなることにかく思し惑ひ、御命も危ふきまで沈みたまふらむ」 |
"いかなることにかくおぼしまどひ、おほんいのちもあやふきまでしづみたまふらん。" |
52 | 2.3.3 | 221 | 181 |
と、言ふ人もありければ、かの殿にも、いとよくこの御けしきを聞きたまふに、「さればよ。なほ、よその文通はしのみにはあらぬなりけり。見たまひては、かならずさ思しぬべかりし人ぞかし。ながらへましかば、ただなるよりぞ、わがためにをこなることも出で来なまし」と思すになむ、焦がるる胸もすこし冷むる心地したまひける。 |
と、いふひともありければ、かのとのにも、いとよくこのみけしきをききたまふに、"さればよ。なほ、よそのふみかよはしのみにはあらぬなりけり。みたまひては、かならずさおぼしぬべかりしひとぞかし。ながらへましかば、ただなるよりぞ、わがためにをこなることもいできなまし。"とおぼすになん、こがるるむねもすこしさむるここちしたまひける。 |
52 | 2.4 | 222 | 182 | 第四段 薫、匂宮を訪問 |
52 | 2.4.1 | 223 | 183 |
宮の御訪らひに、日々に参りたまはぬ人なく、世の騷ぎとなれるころ、「ことことしき際ならぬ思ひに籠もりゐて、参らざらむもひがみたるべし」と思して参りたまふ。 |
みやのおほんとぶらひに、ひびにまゐりたまはぬひとなく、よのさわぎとなれるころ、"ことことしききはならぬおもひにこもりゐて、まゐらざらんもひがみたるべし。"とおぼしてまゐりたまふ。 |
52 | 2.4.2 | 224 | 184 |
そのころ、式部卿宮と聞こゆるも亡せたまひにければ、御叔父の服にて薄鈍なるも、心のうちにあはれに思ひよそへられて、つきづきしく見ゆ。すこし面痩せて、いとどなまめかしきことまさりたまへり。人びとまかり出でて、しめやかなる夕暮なり。 |
そのころ、しきぶきゃうのみやときこゆるもうせたまひにければ、おほんをぢのぶくにてうすにびなるも、こころのうちにあはれにおもひよそへられて、つきづきしくみゆ。すこしおもやせて、いとどなまめかしきことまさりたまへり。ひとびとまかりいでて、しめやかなるゆふぐれなり。 |
52 | 2.4.3 | 225 | 185 |
宮、臥し沈みてはなき御心地なれば、疎き人にこそ会ひたまはね、御簾の内にも例入りたまふ人には、対面したまはずもあらず。見えたまはむもあいなくつつまし。見たまふにつけても、いとど涙のまづせきがたさを思せど、思ひ静めて、 |
みや、ふししづみてはなきみここちなれば、うときひとにこそあひたまはね、みすのうちにもれいいりたまふひとには、たいめんしたまはずもあらず。みえたまはんもあいなくつつまし。みたまふにつけても、いとどなみだのまづせきがたさをおぼせど、おもひしづめて、 |
52 | 2.4.4 | 226 | 186 |
「おどろおどろしき心地にもはべらぬを、皆人、慎むべき病のさまなり、とのみものすれば、内裏にも宮にも思し騒ぐがいと苦しく、げに、世の中の常なきをも、心細く思ひはべる」 |
"おどろおどろしきここちにもはべらぬを、みなひと、つつしむべきやまひのさまなり、とのみものすれば、うちにもみやにもおぼしさわぐがいとくるしく、げに、よのなかのつねなきをも、こころぼそくおもひはべる。" |
52 | 2.4.5 | 227 | 187 |
とのたまひて、おし拭ひ紛らはしたまふと思す涙の、やがてとどこほらずふり落つれば、いとはしたなけれど、「かならずしもいかでか心得む。ただめめしく心弱きとや見ゆらむ」と思すも、「さりや。ただこのことをのみ思すなりけり。いつよりなりけむ。我をいかにをかしと、もの笑ひしたまふ心地に、月ごろ思しわたりつらむ」 |
とのたまひて、おしのごひまぎらはしたまふとおぼすなみだの、やがてとどこほらずふりおつれば、いとはしたなけれど、"かならずしもいかでかこころえん。ただめめしくこころよわきとやみゆらん。"とおぼすも、"さりや。ただこのことをのみおぼすなりけり。いつよりなりけん。われをいかにをかしと、ものわらひしたまふここちに、つきごろおぼしわたりつらん。" |
52 | 2.4.6 | 228 | 188 |
と思ふに、この君は、悲しさは忘れたまへるを、 |
とおもふに、このきみは、かなしさはわすれたまへるを、 |
52 | 2.4.7 | 229 | 189 |
「こよなくも、おろかなるかな。ものの切におぼゆる時は、いとかからぬことにつけてだに、空飛ぶ鳥の鳴き渡るにも、もよほされてこそ悲しけれ。わがかくすぞろに心弱きにつけても、もし心得たらむに、さ言ふばかり、もののあはれも知らぬ人にもあらず。世の中の常なきこと惜しみて思へる人しもつれなき」 |
"こよなくも、おろかなるかな。もののせちにおぼゆるときは、いとかからぬことにつけてだに、そらとぶとりのなきわたるにも、もよほされてこそかなしけれ。わがかくすぞろにこころよわきにつけても、もしこころえたらんに、さいふばかり、もののあはれもしらぬひとにもあらず。よのなかのつねなきことをしみておもへるひとしもつれなき。" |
52 | 2.4.8 | 230 | 190 |
と、うらやましくも心にくくも思さるるものから、真木柱はあはれなり。これに向かひたらむさまも思しやるに、「形見ぞかし」とも、うちまもりたまふ。 |
と、うらやましくもこころにくくもおぼさるるものから、まきばしらはあはれなり。これにむかひたらんさまもおぼしやるに、"かたみぞかし。"とも、うちまもりたまふ。 |
52 | 2.5 | 231 | 191 | 第五段 薫、匂宮と語り合う |
52 | 2.5.1 | 232 | 192 |
やうやう世の物語聞こえたまふに、「いと籠めてしもはあらじ」と思して、 |
やうやうよのものがたりきこえたまふに、"いとこめてしもはあらじ。"とおぼして、 |
52 | 2.5.2 | 233 | 193 |
「昔より、心に籠めてしばしも聞こえさせぬこと残しはべる限りは、いといぶせくのみ思ひたまへられしを、今は、なかなか上臈になりにてはべり。まして、御暇なき御ありさまにて、心のどかにおはします折もはべらねば、宿直などに、そのこととなくてはえさぶらはず、そこはかとなくて過ぐしはべるをなむ。 |
"むかしより、こころにこめてしばしもきこえさせぬことのこしはべるかぎりは、いといぶせくのみおもひたまへられしを、いまは、なかなかじゃうらふになりにてはべり。まして、おほんいとまなきおほんありさまにて、こころのどかにおはしますをりもはべらねば、とのゐなどに、そのこととなくてはえさぶらはず、そこはかとなくてすぐしはべるをなん。 |
52 | 2.5.3 | 234 | 194 |
昔、御覧ぜし山里に、はかなくて亡せはべりにし人の、同じゆかりなる人、おぼえぬ所にはべりと聞きつけはべりて、時々さて見つべくや、と思ひたまへしに、あいなく人の誹りもはべりぬべかりし折なりしかば、このあやしき所に置きてはべりしを、をさをさまかりて見ることもなく、また、かれも、なにがし一人をあひ頼む心もことになくてやありけむ、とは見たまひつれど、やむごとなくものものしき筋に思ひたまへばこそあらめ、見るにはた、ことなる咎もはべらずなどして、心やすくらうたしと思ひたまへつる人の、いとはかなくて亡くなりはべりにける。なべて世のありさまを思ひたまへ続けはべるに、悲しくなむ。聞こし召すやうもはべらむかし」 |
むかし、ごらんぜしやまざとに、はかなくてうせはべりにしひとの、おなじゆかりなるひと、おぼえぬところにはべりとききつけはべりて、ときどきさてみつべくや、とおもひたまへしに、あいなくひとのそしりもはべりぬべかりしをりなりしかば、このあやしきところにおきてはべりしを、をさをさまかりてみることもなく、また、かれも、なにがしひとりをあひたのむこころもことになくてやありけん、とはみたまひつれど、やんごとなくものものしきすぢにおもひたまへばこそあらめ、みるにはた、ことなるとがもはべらずなどして、こころやすくらうたしとおもひたまへつるひとの、いとはかなくてなくなりはべりにける。なべてよのありさまをおもひたまへつづけはべるに、かなしくなん。きこしめすやうもはべらんかし。" |
52 | 2.5.4 | 235 | 195 |
とて、今ぞ泣きたまふ。 |
とて、いまぞなきたまふ。 |
52 | 2.5.5 | 236 | 196 |
これも、「いとかうは見えたてまつらじ。をこなり」と思ひつれど、こぼれそめてはいと止めがたし。けしきのいささか乱り顔なるを、「あやしく、いとほし」と思せど、つれなくて、 |
これも、"いとかうはみえたてまつらじ。をこなり。"とおもひつれど、こぼれそめてはいととめがたし。けしきのいささかみだりがほなるを、"あやしく、いとほし。"とおぼせど、つれなくて、 |
52 | 2.5.6 | 237 | 197 |
「いとあはれなることにこそ。昨日ほのかに聞きはべりき。いかにとも聞こゆべく思ひはべりながら、わざと人に聞かせたまはぬこと、と聞きはべりしかばなむ」 |
"いとあはれなることにこそ。きのふほのかにききはべりき。いかにともきこゆべくおもひはべりながら、わざとひとにきかせたまはぬこと、とききはべりしかばなん。" |
52 | 2.5.7 | 238 | 198 |
と、つれなくのたまへど、いと堪へがたければ、言少なにておはします。 |
と、つれなくのたまへど、いとたへがたければ、ことずくなにておはします。 |
52 | 2.5.8 | 239 | 199 |
「さる方にても御覧ぜさせばや、と思ひたまへりし人になむ。おのづからさもやはべりけむ、宮にも参り通ふべきゆゑはべりしかば」 |
"さるかたにてもごらんぜさせばや、とおもひたまへりしひとになん。おのづからさもやはべりけん、みやにもまゐりかよふべきゆゑはべりしかば。" |
52 | 2.5.9 | 240 | 200 |
など、すこしづつけしきばみて、 |
など、すこしづつけしきばみて、 |
52 | 2.5.10 | 241 | 201 |
「御心地例ならぬほどは、すぞろなる世のこと聞こし召し入れ、御耳おどろくも、あいなきことになむ。よく慎ませおはしませ」 |
"みここちれいならぬほどは、すぞろなるよのこときこしめしいれ、おほんみみおどろくも、あいなきことになん。よくつつしませおはしませ。" |
52 | 2.5.11 | 242 | 202 |
など、聞こえ置きて、出でたまひぬ。 |
など、きこえおきて、いでたまひぬ。 |
52 | 2.6 | 243 | 203 | 第六段 人は非情の者に非ず |
52 | 2.6.1 | 244 | 204 |
「いみじくも思したりつるかな。いとはかなかりけれど、さすがに高き人の宿世なりけり。当時の帝、后の、さばかりかしづきたてまつりたまふ親王、顔容貌よりはじめて、ただ今の世にはたぐひおはせざめり。見たまふ人とても、なのめならず、さまざまにつけて、限りなき人をおきて、これに御心を尽くし、世の人立ち騷ぎて、修法、読経、祭、祓と、道々に騒ぐは、この人を思すゆかりの、御心地のあやまりにこそはありけれ。 |
"いみじくもおぼしたりつるかな。いとはかなかりけれど、さすがにたかきひとのすくせなりけり。たうじのみかど、きさきの、さばかりかしづきたてまつりたまふみこ、かほかたちよりはじめて、ただいまのよにはたぐひおはせざめり。みたまふひととても、なのめならず、さまざまにつけて、かぎりなきひとをおきて、これにみこころをつくし、よのひとたちさわぎて、すほふ、どきゃう、まつり、はらへと、みちみちにさわぐは、このひとをおぼすゆかりの、みここちのあやまりにこそはありけれ。 |
52 | 2.6.2 | 245 | 205 |
我も、かばかりの身にて、時の帝の御女を持ちたてまつりながら、この人のらうたくおぼゆる方は、劣りやはしつる。まして、今はとおぼゆるには、心をのどめむ方なくもあるかな。さるは、をこなり、かからじ」 |
われも、かばかりのみにて、ときのみかどのおほんむすめをもちたてまつりながら、このひとのらうたくおぼゆるかたは、おとりやはしつる。まして、いまはとおぼゆるには、こころをのどめんかたなくもあるかな。さるは、をこなり、かからじ。" |
52 | 2.6.3 | 246 | 206 |
と思ひ忍ぶれど、さまざまに思ひ乱れて、 |
とおもひしのぶれど、さまざまにおもひみだれて、 |
52 | 2.6.4 | 247 | 207 |
「人木石に非ざれば皆情けあり」 |
"ひとぼくせきにあらざればみななさけあり。" |
52 | 2.6.5 | 248 | 208 |
と、うち誦じて臥したまへり。 |
と、うちずじてふしたまへり。 |
52 | 2.6.6 | 249 | 209 |
後のしたためなども、いとはかなくしてけるを、「宮にもいかが聞きたまふらむ」と、いとほしくあへなく、「母のなほなほしくて、兄弟あるはなど、さやうの人は言ふことあんなるを思ひて、こと削ぐなりけむかし」など、心づきなく思す。 |
のちのしたためなども、いとはかなくしてけるを、"みやにもいかがききたまふらん。"と、いとほしくあへなく、"ははのなほなほしくて、はらからあるはなど、さやうのひとはいふことあんなるをおもひて、ことそぐなりけんかし。"など、こころづきなくおぼす。 |
52 | 2.6.7 | 250 | 210 |
おぼつかなさも限りなきを、ありけむさまもみづから聞かまほしと思せど、「長籠もりしたまはむも便なし。行きと行きて立ち帰らむも心苦し」など、思しわづらふ。 |
おぼつかなさもかぎりなきを、ありけんさまもみづからきかまほしとおぼせど、"ながごもりしたまはんもびんなし。いきといきてたちかへらんもこころぐるし。"など、おぼしわづらふ。 |
52 | 3 | 251 | 211 | 第三章 匂宮の物語 匂宮、侍従を迎えて語り合う |
52 | 3.1 | 252 | 212 | 第一段 四月、薫と匂宮、和歌を贈答 |
52 | 3.1.1 | 253 | 213 |
月たちて、「今日ぞ渡らまし」と思し出でたまふ日の夕暮、いとものあはれなり。御前近き橘の香のなつかしきに、ほととぎすの二声ばかり鳴きて渡る。「宿に通はば」と独りごちたまふも飽かねば、北の宮に、ここに渡りたまふ日なりければ、橘を折らせて聞こえたまふ。 |
つきたちて、"けふぞわたらまし。"とおぼしいでたまふひのゆふぐれ、いとものあはれなり。おまへちかきたちばなのかのなつかしきに、ほととぎすのふたこゑばかりなきてわたる。"やどにかよはば。"とひとりごちたまふもあかねば、きたのみやに、ここにわたりたまふひなりければ、たちばなををらせてきこえたまふ。 |
52 | 3.1.2 | 254 | 215 |
「忍び音や君も泣くらむかひもなき<BR/>死出の田長に心通はば」 |
"〔しのびねやきみもなくらんかひもなき<BR/>しでのたをさにこころかよはば〕 |
52 | 3.1.3 | 255 | 216 |
宮は、女君の御さまのいとよく似たるを、あはれと思して、二所眺めたまふ折なりけり。「けしきある文かな」と見たまひて、 |
みやは、をんなぎみのおほんさまのいとよくにたるを、あはれとおぼして、ふたところながめたまふをりなりけり。"けしきあるふみかな。"とみたまひて、 |
52 | 3.1.4 | 256 | 217 |
「橘の薫るあたりはほととぎす<BR/>心してこそ鳴くべかりけれ |
"〔たちばなのかをるあたりはほととぎす<BR/>こころしてこそなくべかりけれ |
52 | 3.1.5 | 257 | 218 |
わづらはし」 |
わづらはし。" |
52 | 3.1.6 | 258 | 219 |
と書きたまふ。 |
とかきたまふ。 |
52 | 3.1.7 | 259 | 220 |
女君、このことのけしきは、皆見知りたまひてけり。「あはれにあさましきはかなさの、さまざまにつけて心深きなかに、我一人もの思ひ知らねば、今までながらふるにや。それもいつまで」と心細く思す。宮も、隠れなきものから、隔てたまふもいと心苦しければ、ありしさまなど、すこしはとり直しつつ語りきこえたまふ。 |
をんなぎみ、このことのけしきは、みなみしりたまひてけり。"あはれにあさましきはかなさの、さまざまにつけてこころふかきなかに、われひとりものおもひしらねば、いままでながらふるにや。それもいつまで。"とこころぼそくおぼす。みやも、かくれなきものから、へだてたまふもいとこころぐるしければ、ありしさまなど、すこしはとりなほしつつかたりきこえたまふ。 |
52 | 3.1.8 | 260 | 221 |
「隠したまひしがつらかりし」 |
"かくしたまひしがつらかりし。" |
52 | 3.1.9 | 261 | 222 |
など、泣きみ笑ひみ聞こえたまふにも、異人よりは睦ましくあはれなり。ことことしくうるはしくて、例ならぬ御ことのさまも、おどろき惑ひたまふ所にては、御訪らひの人しげく、父大臣、兄の君たち隙なきも、いとうるさきに、ここはいと心やすくて、なつかしくぞ思されける。 |
など、なきみわらひみきこえたまふにも、ことびとよりはむつましくあはれなり。ことことしくうるはしくて、れいならぬおほんことのさまも、おどろきまどひたまふところにては、おほんとぶらひのひとしげく、ちちおとど、せうとのきみたちひまなきも、いとうるさきに、ここはいとこころやすくて、なつかしくぞおぼされける。 |
52 | 3.2 | 262 | 223 | 第二段 匂宮、右近を迎えに時方派遣 |
52 | 3.2.1 | 263 | 224 |
いと夢のやうにのみ、なほ、「いかで、いとにはかなりけることにかは」とのみいぶせければ、例の人びと召して、右近を迎へに遣はす。母君も、さらにこの水の音けはひを聞くに、我もまろび入りぬべく、悲しく心憂きことのどまるべくもあらねば、いとわびしうて帰りたまひにけり。 |
いとゆめのやうにのみ、なほ、"いかで、いとにはかなりけることにかは。"とのみいぶせければ、れいのひとびとめして、うこんをむかへにつかはす。ははぎみも、さらにこのみづのおとけはひをきくに、われもまろびいりぬべく、かなしくこころうきことのどまるべくもあらねば、いとわびしうてかへりたまひにけり。 |
52 | 3.2.2 | 264 | 225 |
念仏の僧どもを頼もしき者にて、いとかすかなるに入り来たれば、ことことしく、にはかに立ちめぐりし宿直人どもも、見とがめず。「あやにくに、限りのたびしも入れたてまつらずなりにしよ」と、思ひ出づるもいとほし。 |
ねんぶつのそうどもをたのもしきものにて、いとかすかなるにいりきたれば、ことことしく、にはかにたちめぐりしとのゐびとどもも、みとがめず。"あやにくに、かぎりのたびしもいれたてまつらずなりにしよ。"と、おもひいづるもいとほし。 |
52 | 3.2.3 | 265 | 226 |
「さるまじきことを思ほし焦がるること」と、見苦しく見たてまつれど、ここに来ては、おはしましし夜な夜なのありさま、抱かれたてまつりたまひて、舟に乗りたまひしけはひの、あてにうつくしかりしことなどを思ひ出づるに、心強き人なくあはれなり。右近会ひて、いみじう泣くもことわりなり。 |
"さるまじきことをおもほしこがるること。"と、みぐるしくみたてまつれど、ここにきては、おはしまししよなよなのありさま、いだかれたてまつりたまひて、ふねにのりたまひしけはひの、あてにうつくしかりしことなどをおもひいづるに、こころづよきひとなくあはれなり。うこんあひて、いみじうなくもことわりなり。 |
52 | 3.2.4 | 266 | 227 |
「かくのたまはせて、御使になむ参りつる」 |
"かくのたまはせて、おほんつかひになんまゐりつる。" |
52 | 3.2.5 | 267 | 228 |
と言へば、 |
といへば、 |
52 | 3.2.6 | 268 | 229 |
「今さらに、人もあやしと言ひ思はむも慎ましく、参りても、はかばかしく聞こし召し明らむばかり、もの聞こえさすべき心地もしはべらず。この御忌果てて、あからさまにもなむ、と人に言ひなさむも、すこし似つかはしかりぬべきほどになしてこそ、心より外の命はべらば、いささか思ひ静まらむ折になむ、仰せ言なくとも参りて、げにいと夢のやうなりしことどもも、語りきこえまほしき」 |
"いまさらに、ひともあやしといひおもはんもつつましく、まゐりても、はかばかしくきこしめしあきらむばかり、ものきこえさすべきここちもしはべらず。このおほんいみはてて、あからさまにもなん、とひとにいひなさんも、すこしにつかはしかりぬべきほどになしてこそ、こころよりほかのいのちはべらば、いささかおもひしづまらんをりになん、おほせごとなくともまゐりて、げにいとゆめのやうなりしことどもも、かたりきこえまほしき。" |
52 | 3.2.7 | 269 | 230 |
と言ひて、今日は動くべくもあらず。 |
といひて、けふはうごくべくもあらず。 |
52 | 3.3 | 270 | 231 | 第三段 時方、侍従と語る |
52 | 3.3.1 | 271 | 232 |
大夫も泣きて、 |
たいふもなきて、 |
52 | 3.3.2 | 272 | 233 |
「さらに、この御仲のこと、こまかに知りきこえさせはべらず。物の心知りはべらずながら、たぐひなき御心ざしを見たてまつりはべりしかば、君たちをも、何かは急ぎてしも聞こえ承らむ。つひには仕うまつるべきあたりにこそ、と思ひたまへしを、言ふかひなく悲しき御ことの後は、私の御心ざしも、なかなか深さまさりてなむ」 |
"さらに、このおほんなかのこと、こまかにしりきこえさせはべらず。もののこころしりはべらずながら、たぐひなきみこころざしをみたてまつりはべりしかば、きみたちをも、なにかはいそぎてしもきこえうけたまはらん。つひにはつかうまつるべきあたりにこそ、とおもひたまへしを、いふかひなくかなしきおほんことののちは、わたくしのみこころざしも、なかなかふかさまさりてなん。" |
52 | 3.3.3 | 273 | 234 |
と語らふ。 |
とかたらふ。 |
52 | 3.3.4 | 274 | 235 |
「わざと御車など思しめぐらして、奉れたまへるを、空しくては、いといとほしうなむ。今一所にても参りたまへ」 |
"わざとみくるまなどおぼしめぐらして、たてまつれたまへるを、むなしくては、いといとほしうなん。いまひとところにてもまゐりたまへ。" |
52 | 3.3.5 | 275 | 236 |
と言へば、侍従の君呼び出でて、 |
といへば、じじゅうのきみよびいでて、 |
52 | 3.3.6 | 276 | 237 |
「さは、参りたまへ」 |
"さは、まゐりたまへ。" |
52 | 3.3.7 | 277 | 238 |
と言へば、 |
といへば、 |
52 | 3.3.8 | 278 | 239 |
「まして何事をかは聞こえさせむ。さても、なほ、この御忌のほどにはいかでか。忌ませたまはぬか」 |
"ましてなにごとをかはきこえさせん。さても、なほ、このおほんいみのほどにはいかでか。いませたまはぬか。" |
52 | 3.3.9 | 279 | 240 |
と言へば、 |
といへば、 |
52 | 3.3.10 | 280 | 241 |
「悩ませたまふ御響きに、さまざまの御慎みどもはべめれど、忌みあへさせたまふまじき御けしきになむ。また、かく深き御契りにては、籠もらせたまひてもこそおはしまさめ。残りの日いくばくならず。なほ一所参りたまへ」 |
"なやませたまふおほんひびきに、さまざまのおほんつつしみどもはべめれど、いみあへさせたまふまじきみけしきになん。また、かくふかきおほんちぎりにては、こもらせたまひてもこそおはしまさめ。のこりのひいくばくならず。なほひとところまゐりたまへ。" |
52 | 3.3.11 | 281 | 242 |
と責むれば、侍従ぞ、ありし御さまもいと恋しう思ひきこゆるに、「いかならむ世にかは見たてまつらむ、かかる折に」と思ひなして参りける。 |
とせむれば、じじゅうぞ、ありしおほんさまもいとこひしうおもひきこゆるに、"いかならんよにかはみたてまつらん、かかるをりに。"とおもひなしてまゐりける。 |
52 | 3.4 | 282 | 243 | 第四段 侍従、京の匂宮邸へ |
52 | 3.4.1 | 283 | 244 |
黒き衣ども着て、引きつくろひたる容貌もいときよげなり。裳は、ただ今我より上なる人なきにうちたゆみて、色も変へざりければ、薄色なるを持たせて参る。 |
くろききぬどもきて、ひきつくろひたるかたちもいときよげなり。もは、ただいまわれよりうへなるひとなきにうちたゆみて、いろもかへざりければ、うすいろなるをもたせてまゐる。 |
52 | 3.4.2 | 284 | 245 |
「おはせましかば、この道にぞ忍びて出でたまはまし。人知れず心寄せきこえしものを」など思ふにもあはれなり。道すがら泣く泣くなむ来ける。 |
"おはせましかば、このみちにぞしのびていでたまはまし。ひとしれずこころよせきこえしものを。"などおもふにもあはれなり。みちすがらなくなくなんきける。 |
52 | 3.4.3 | 285 | 246 |
宮は、この人参れり、と聞こし召すもあはれなり。女君には、あまりうたてあれば、聞こえたまはず。寝殿におはしまして、渡殿に降ろしたまへり。ありけむさまなど詳しう問はせたまふに、日ごろ思し嘆きしさま、その夜泣きたまひしさま、 |
みやは、このひとまゐれり、ときこしめすもあはれなり。をんなぎみには、あまりうたてあれば、きこえたまはず。しんでんにおはしまして、わたどのにおろしたまへり。ありけんさまなどくはしうとはせたまふに、ひごろおぼしなげきしさま、そのよなきたまひしさま、 |
52 | 3.4.4 | 286 | 247 |
「あやしきまで言少なに、おぼおぼとのみものしたまひて、いみじと思すことをも、人にうち出でたまふことは難く、ものづつみをのみしたまひしけにや、のたまひ置くこともはべらず。夢にも、かく心強きさまに思しかくらむとは、思ひたまへずなむはべりし」 |
"あやしきまでことずくなに、おぼおぼとのみものしたまひて、いみじとおぼすことをも、ひとにうちいでたまふことはかたく、ものづつみをのみしたまひしけにや、のたまひおくこともはべらず。ゆめにも、かくこころづよきさまにおぼしかくらんとは、おもひたまへずなんはべりし。" |
52 | 3.4.5 | 287 | 248 |
など、詳しう聞こゆれば、ましていといみじう、「さるべきにても、ともかくもあらましよりも、いかばかりものを思ひ立ちて、さる水に溺れけむ」と思しやるに、「これを見つけて堰きとめたらましかば」と、湧きかへる心地したまへど、かひなし。 |
など、くはしうきこゆれば、ましていといみじう、"さるべきにても、ともかくもあらましよりも、いかばかりものをおもひたちて、さるみづにおぼれけん。"とおぼしやるに、"これをみつけてせきとめたらましかば。"と、わきかへるここちしたまへど、かひなし。 |
52 | 3.4.6 | 288 | 249 |
「御文を焼き失ひたまひしなどに、などて目を立てはべらざりけむ」 |
"おほんふみをやきうしなひたまひしなどに、などてめをたてはべらざりけん。" |
52 | 3.4.7 | 289 | 250 |
など、夜一夜語らひたまふに、聞こえ明かす。かの巻数に書きつけたまへりし、母君の返り事などを聞こゆ。 |
など、よひとよかたらひたまふに、きこえあかす。かのかんずにかきつけたまへりし、ははぎみのかへりごとなどをきこゆ。 |
52 | 3.5 | 290 | 251 | 第五段 侍従、宇治へ帰る |
52 | 3.5.1 | 291 | 252 |
何ばかりのものとも御覧ぜざりし人も、睦ましくあはれに思さるれば、 |
なにばかりのものともごらんぜざりしひとも、むつましくあはれにおぼさるれば、 |
52 | 3.5.2 | 292 | 253 |
「わがもとにあれかし。あなたももて離るべくやは」 |
"わがもとにあれかし。あなたももてはなるべくやは。" |
52 | 3.5.3 | 293 | 254 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
52 | 3.5.4 | 294 | 255 |
「さて、さぶらはむにつけても、もののみ悲しからむを思ひたまへれば、今この御果てなど過ぐして」 |
"さて、さぶらはんにつけても、もののみかなしからんをおもひたまへれば、いまこのおほんはてなどすぐして。" |
52 | 3.5.5 | 295 | 256 |
と聞こゆ。「またも参れ」など、この人をさへ、飽かず思す。 |
ときこゆ。"またもまゐれ。"など、このひとをさへ、あかずおぼす。 |
52 | 3.5.6 | 296 | 257 |
暁帰るに、かの御料にとてまうけさせたまひける櫛の筥一具、衣筥一具、贈物にせさせたまふ。さまざまにせさせたまふことは多かりけれど、おどろおどろしかりぬべければ、ただこの人に仰せたるほどなりけり。 |
あかつきかへるに、かのごれうにとてまうけさせたまひけるくしのはこひとよろひ、ころもばこひとよろひ、おくりものにせさせたまふ。さまざまにせさせたまふことはおほかりけれど、おどろおどろしかりぬべければ、ただこのひとにおほせたるほどなりけり。 |
52 | 3.5.7 | 297 | 258 |
「なに心もなく参りて、かかることどものあるを、人はいかが見む。すずろにむつかしきわざかな」 |
"なにごころもなくまゐりて、かかることどものあるを、ひとはいかがみん。すずろにむつかしきわざかな。" |
52 | 3.5.8 | 298 | 259 |
と思ひわぶれど、いかがは聞こえ返さむ。 |
とおもひわぶれど、いかがはきこえかへさん。 |
52 | 3.5.9 | 299 | 260 |
右近と二人、忍びて見つつ、つれづれなるままに、こまかに今めかしうし集めたることどもを見ても、いみじう泣く。装束もいとうるはしうし集めたるものどもなれば、 |
うこんとふたり、しのびてみつつ、つれづれなるままに、こまかにいまめかしうしあつめたることどもをみても、いみじうなく。さうぞくもいとうるはしうしあつめたるものどもなれば、 |
52 | 3.5.10 | 300 | 261 |
「かかる御服に、これをばいかでか隠さむ」 |
"かかるおほんぶくに、これをばいかでかかくさん。" |
52 | 3.5.11 | 301 | 262 |
など、もてわづらひける。 |
など、もてわづらひける。 |
52 | 4 | 302 | 263 | 第四章 薫の物語 薫、浮舟の法事を営む |
52 | 4.1 | 303 | 264 | 第一段 薫、宇治を訪問 |
52 | 4.1.1 | 304 | 265 |
大将殿も、なほ、いとおぼつかなきに、思し余りておはしたり。道のほどより、昔の事どもかき集めつつ、 |
だいしゃうどのも、なほ、いとおぼつかなきに、おぼしあまりておはしたり。みちのほどより、むかしのことどもかきあつめつつ、 |
52 | 4.1.2 | 305 | 266 |
「いかなる契りにて、この父親王の御もとに来そめけむ。かかる思ひかけぬ果てまで思ひあつかひ、このゆかりにつけては、ものをのみ思ふよ。いと尊くおはせしあたりに、仏をしるべにて、後の世をのみ契りしに、心きたなき末の違ひめに、思ひ知らするなめり」 |
"いかなるちぎりにて、このちちみこのおほんもとにきそめけん。かかるおもひかけぬはてまでおもひあつかひ、このゆかりにつけては、ものをのみおもふよ。いとたふとくおはせしあたりに、ほとけをしるべにて、のちのよをのみちぎりしに、こころきたなきすゑのたがひめに、おもひしらするなめり。" |
52 | 4.1.3 | 306 | 267 |
とぞおぼゆる。右近召し出でて、 |
とぞおぼゆる。うこんめしいでて、 |
52 | 4.1.4 | 307 | 268 |
「ありけむさまもはかばかしう聞かず、なほ、尽きせずあさましう、はかなければ、忌の残りもすくなくなりぬ。過ぐして、と思ひつれど、静めあへずものしつるなり。いかなる心地にてか、はかなくなりたまひにし」 |
"ありけんさまもはかばかしうきかず、なほ、つきせずあさましう、はかなければ、いみののこりもすくなくなりぬ。すぐして、とおもひつれど、しづめあへずものしつるなり。いかなるここちにてか、はかなくなりたまひにし。" |
52 | 4.1.5 | 308 | 269 |
と問ひたまふに、「尼君なども、けしきは見てければ、つひに聞きあはせたまはむを、なかなか隠しても、こと違ひて聞こえむに、そこなはれぬべし。あやしきことの筋にこそ、虚言も思ひめぐらしつつならひしか。かくまめやかなる御けしきにさし向かひきこえては、かねて、と言はむ、かく言はむと、まうけし言葉をも忘れ、わづらはしう」おぼえければ、ありしさまのことどもを聞こえつ。 |
ととひたまふに、"あまぎみなども、けしきはみてければ、つひにききあはせたまはんを、なかなかかくしても、ことたがひてきこえんに、そこなはれぬべし。あやしきことのすぢにこそ、そらごともおもひめぐらしつつならひしか。かくまめやかなるみけしきにさしむかひきこえては、かねて、といはん、かくいはんと、まうけしことばをもわすれ、わづらはしう。"おぼえければ、ありしさまのことどもをきこえつ。 |
52 | 4.2 | 309 | 270 | 第二段 薫、真相を聞きただす |
52 | 4.2.1 | 310 | 271 |
あさましう、思しかけぬ筋なるに、物もとばかりのたまはず。 |
あさましう、おぼしかけぬすぢなるに、ものもとばかりのたまはず。 |
52 | 4.2.2 | 311 | 272 |
「さらにあらじとおぼゆるかな。なべての人の思ひ言ふことをも、こよなく言少なに、おほどかなりし人は、いかでかさるおどろおどろしきことは思ひ立つべきぞ。いかなるさまに、この人びと、もてなして言ふにか」 |
"さらにあらじとおぼゆるかな。なべてのひとのおもひいふことをも、こよなくことずくなに、おほどかなりしひとは、いかでかさるおどろおどろしきことはおもひたつべきぞ。いかなるさまに、このひとびと、もてなしていふにか。" |
52 | 4.2.3 | 312 | 273 |
と御心も乱れまさりたまへど、「宮も思し嘆きたるけしき、いとしるし、事のありさまも、しかつれなしづくりたらむけはひは、おのづから見えぬべきを、かくおはしましたるにつけても、悲しくいみじきことを、上下の人集ひて泣き騒ぐを」と、聞きたまへば、 |
とみこころもみだれまさりたまへど、"みやもおぼしなげきたるけしき、いとしるし、ことのありさまも、しかつれなしづくりたらんけはひは、おのづからみえぬべきを、かくおはしましたるにつけても、かなしくいみじきことを、かみしものひとつどひてなきさわぐを。"と、ききたまへば、 |
52 | 4.2.4 | 313 | 274 |
「御供に具して失せたる人やある。なほ、ありけむさまをたしかに言へ。我をおろかに思ひて背きたまふことは、よもあらじとなむ思ふ。いかやうなる、たちまちに、言ひ知らぬことありてか、さるわざはしたまはむ。我なむえ信ずまじき」 |
"おほんともにぐしてうせたるひとやある。なほ、ありけんさまをたしかにいへ。われをおろかにおもひてそむきたまふことは、よもあらじとなんおもふ。いかやうなる、たちまちに、いひしらぬことありてか、さるわざはしたまはん。われなんえしんずまじき。" |
52 | 4.2.5 | 314 | 275 |
とのたまへば、「いとどしく、さればよ」とわづらはしくて、 |
とのたまへば、"いとどしく、さればよ。"とわづらはしくて、 |
52 | 4.2.6 | 315 | 276 |
「おのづから聞こし召しけむ。もとより思すさまならで生ひ出でたまへりし人の、世離れたる御住まひの後は、いつとなくものをのみ思すめりしかど、たまさかにもかく渡りおはしますを、待ちきこえさせたまふに、もとよりの御身の嘆きをさへ慰めたまひつつ、心のどかなるさまにて、時々も見たてまつらせたまふべきやうには、いつしかとのみ、言に出でてはのたまはねど、思しわたるめりしを、その御本意かなふべきさまに承ることどもはべりしに、かくてさぶらふ人どもも、うれしきことに思ひたまへいそぎ、かの筑波山も、からうして心ゆきたるけしきにて、渡らせたまはむことをいとなみ思ひたまへしに、心得ぬ御消息はべりけるに、この宿直仕うまつる者どもも、女房たちらうがはしかなり、など、戒め仰せらるることなど申して、ものの心得ず荒々しきは田舎人どもの、あやしきさまにとりなしきこゆることどもはべりしを、その後、久しう御消息などもはべらざりしに、心憂き身なりとのみ、いはけなかりしほどより思ひ知るを、人数にいかで見なさむとのみ、よろづに思ひ扱ひたまふ母君の、なかなかなることの、人笑はれになりては、いかに思ひ嘆かむ、などおもむけてなむ、常に嘆きたまひし。 |
"おのづからきこしめしけん。もとよりおぼすさまならでおひいでたまへりしひとの、よばなれたるおほんすまひののちは、いつとなくものをのみおぼすめりしかど、たまさかにもかくわたりおはしますを、まちきこえさせたまふに、もとよりのおほんみのなげきをさへなぐさめたまひつつ、こころのどかなるさまにて、ときどきもみたてまつらせたまふべきやうには、いつしかとのみ、ことにいでてはのたまはねど、おぼしわたるめりしを、そのおほんほいかなふべきさまにうけたまはることどもはべりしに、かくてさぶらふひとどもも、うれしきことにおもひたまへいそぎ、かのつくばやまも、からうしてこころゆきたるけしきにて、わたらせたまはんことをいとなみおもひたまへしに、こころえぬおほんせうそこはべりけるに、このとのゐつかうまつるものどもも、にょうばうたちらうがはしかなり、など、いましめおほせらるることなどまうして、もののこころえずあらあらしきはゐなかびとどもの、あやしきさまにとりなしきこゆることどもはべりしを、そののち、ひさしうおほんせうそこなどもはべらざりしに、こころうきみなりとのみ、いはけなかりしほどよりおもひしるを、ひとかずにいかでみなさんとのみ、よろづにおもひあつかひたまふははぎみの、なかなかなることの、ひとわらはれになりては、いかにおもひなげかん、などおもむけてなん、つねになげきたまひし。 |
52 | 4.2.7 | 316 | 277 |
その筋よりほかに、何事をかと、思ひたまへ寄るに、堪へはべらずなむ。鬼などの隠しきこゆとも、いささか残る所もはべるなるものを」 |
そのすぢよりほかに、なにごとをかと、おもひたまへよるに、たへはべらずなん。おになどのかくしきこゆとも、いささかのこるところもはべるなるものを。" |
52 | 4.2.8 | 317 | 278 |
とて、泣くさまもいみじければ、「いかなることにか」と紛れつる御心も失せて、せきあへたまはず。 |
とて、なくさまもいみじければ、"いかなることにか。"とまぎれつるみこころもうせて、せきあへたまはず。 |
52 | 4.3 | 318 | 279 | 第三段 薫、匂宮と浮舟の関係を知る |
52 | 4.3.1 | 319 | 280 |
「我は心に身をもまかせず、顕証なるさまにもてなされたるありさまなれば、おぼつかなしと思ふ折も、今近くて、人の心置くまじく、目やすきさまにもてなして、行く末長くを、と思ひのどめつつ過ぐしつるを、おろかに見なしたまひつらむこそ、なかなか分くる方ありける、とおぼゆれ。 |
"われはこころにみをもまかせず、けんしょうなるさまにもてなされたるありさまなれば、おぼつかなしとおもふをりも、いまちかくて、ひとのこころおくまじく、めやすきさまにもてなして、ゆくすゑながくを、とおもひのどめつつすぐしつるを、おろかにみなしたまひつらんこそ、なかなかわくるかたありける、とおぼゆれ。 |
52 | 4.3.2 | 320 | 281 |
今は、かくだに言はじと思へど、また人の聞かばこそあらめ。宮の御ことよ。いつよりありそめけむ。さやうなるにつけてや、いとかたはに、人の心を惑はしたまふ宮なれば、常にあひ見たてまつらぬ嘆きに、身をも失ひたまへる、となむ思ふ。なほ、言へ。我には、さらにな隠しそ」 |
いまは、かくだにいはじとおもへど、またひとのきかばこそあらめ。みやのおほんことよ。いつよりありそめけん。さやうなるにつけてや、いとかたはに、ひとのこころをまどはしたまふみやなれば、つねにあひみたてまつらぬなげきに、みをもうしなひたまへる、となんおもふ。なほ、いへ。われには、さらになかくしそ。" |
52 | 4.3.3 | 321 | 282 |
とのたまへば、「たしかにこそは聞きたまひてけれ」と、いといとほしくて、 |
とのたまへば、"たしかにこそはききたまひてけれ。"と、いといとほしくて、 |
52 | 4.3.4 | 322 | 283 |
「いと心憂きことを聞こし召しけるにこそははべるなれ。右近もさぶらはぬ折ははべらぬものを」 |
"いとこころうきことをきこしめしけるにこそははべるなれ。うこんもさぶらはぬをりははべらぬものを。" |
52 | 4.3.5 | 323 | 284 |
と眺めやすらひて、 |
とながめやすらひて、 |
52 | 4.3.6 | 324 | 285 |
「おのづから聞こし召しけむ。この宮の上の御方に、忍びて渡らせたまへりしを、あさましく思ひかけぬほどに、入りおはしたりしかど、いみじきことを聞こえさせはべりて、出でさせたまひにき。それに懼ぢたまひて、かのあやしくはべりし所には渡らせたまへりしなり。 |
"おのづからきこしめしけん。このみやのうへのおほんかたに、しのびてわたらせたまへりしを、あさましくおもひかけぬほどに、いりおはしたりしかど、いみじきことをきこえさせはべりて、いでさせたまひにき。それにおぢたまひて、かのあやしくはべりしところにはわたらせたまへりしなり。 |
52 | 4.3.7 | 325 | 286 |
その後、音にも聞こえじ、と思してやみにしを、いかでか聞かせたまひけむ。ただ、この如月ばかりより、訪れきこえたまふべし。御文は、いとたびたびはべりしかど、御覧じ入るることもはべらざりき。いとかたじけなく、うたてあるやうになどぞ、右近など聞こえさせしかば、一度二度や聞こえさせたまひけむ。それより他のことは見たまへず」 |
そののち、おとにもきこえじ、とおぼしてやみにしを、いかでかきかせたまひけん。ただ、このきさらぎばかりより、おとづれきこえたまふべし。おほんふみは、いとたびたびはべりしかど、ごらんじいるることもはべらざりき。いとかたじけなく、うたてあるやうになどぞ、うこんなどきこえさせしかば、ひとたびふたたびやきこえさせたまひけん。それよりほかのことはみたまへず。" |
52 | 4.3.8 | 326 | 287 |
と聞こえさす。 |
ときこえさす。 |
52 | 4.3.9 | 327 | 288 |
「かうぞ言はむかし。しひて問はむもいとほしく」て、つくづくとうち眺めつつ、 |
"かうぞいはんかし。しひてとはんもいとほしく。"て、つくづくとうちながめつつ、 |
52 | 4.3.10 | 328 | 289 |
「宮をめづらしくあはれと思ひきこえても、わが方をさすがにおろかに思はざりけるほどに、いと明らむるところなく、はかなげなりし心にて、この水の近きをたよりにて、思ひ寄るなりけむかし。わがここにさし放ち据ゑざらましかば、いみじく憂き世に経とも、いかでか、かならず深き谷をも求め出でまし」 |
"みやをめづらしくあはれとおもひきこえても、わがかたをさすがにおろかにおもはざりけるほどに、いとあきらむるところなく、はかなげなりしこころにて、このみづのちかきをたよりにて、おもひよるなりけんかし。わがここにさしはなちすゑざらましかば、いみじくうきよにふとも、いかでか、かならずふかきたにをももとめいでまし。" |
52 | 4.3.11 | 329 | 290 |
と、「いみじう憂き水の契りかな」と、この川の疎ましう思さるること、いと深し。年ごろ、あはれと思ひそめたりし方にて、荒き山路を行き帰りしも、今は、また心憂くて、この里の名をだにえ聞くまじき心地したまふ。 |
と、"いみじううきみづのちぎりかな。"と、このかはのうとましうおぼさるること、いとふかし。としごろ、あはれとおもひそめたりしかたにて、あらきやまぢをゆきかへりしも、いまは、またこころうくて、このさとのなをだにえきくまじきここちしたまふ。 |
52 | 4.4 | 330 | 291 | 第四段 薫、宇治の過去を追懐す |
52 | 4.4.1 | 331 | 292 |
「宮の上の、のたまひ始めし、人形とつけそめたりしさへゆゆしう、ただ、わが過ちに失ひつる人なり」と思ひもてゆくには、「母のなほ軽びたるほどにて、後の後見もいとあやしく、ことそぎてしなしけるなめり」と心ゆかず思ひつるを、詳しう聞きたまふになむ、 |
"みやのうへの、のたまひはじめし、ひとかたとつけそめたりしさへゆゆしう、ただ、わがあやまちにうしなひつるひとなり。"とおもひもてゆくには、"ははのなほかろびたるほどにて、のちのうしろみもいとあやしく、ことそぎてしなしけるなめり。"とこころゆかずおもひつるを、くはしうききたまふになん、 |
52 | 4.4.2 | 332 | 293 |
「いかに思ふらむ。さばかりの人の子にては、いとめでたかりし人を、忍びたることはかならずしもえ知らで、わがゆかりにいかなることのありけるならむ、とぞ思ふなるらむかし」 |
"いかにおもふらん。さばかりのひとのこにては、いとめでたかりしひとを、しのびたることはかならずしもえしらで、わがゆかりにいかなることのありけるならん、とぞおもふなるらんかし。" |
52 | 4.4.3 | 333 | 294 |
など、よろづにいとほしく思す。穢らひといふことはあるまじけれど、御供の人目もあれば、昇りたまはで、御車の榻を召して、妻戸の前にぞゐたまひけるも、見苦しければ、いと茂き木の下に、苔を御座にて、とばかり居たまへり。「今はここを来て見むことも心憂かるべし」とのみ、見めぐらしたまひて、 |
など、よろづにいとほしくおぼす。けがらひといふことはあるまじけれど、おほんとものひとめもあれば、のぼりたまはで、みくるまのしぢをめして、つまどのまへにぞゐたまひけるも、みぐるしければ、いとしげきこのしたに、こけをおましにて、とばかりゐたまへり。"いまはここをきてみんこともこころうかるべし。"とのみ、みめぐらしたまひて、 |
52 | 4.4.4 | 334 | 296 |
「我もまた憂き古里を荒れはてば<BR/>誰れ宿り木の蔭をしのばむ」 |
"〔われもまたうきふるさとをあれはてば<BR/>たれやどりぎのかげをしのばん〕 |
52 | 4.4.5 | 335 | 297 |
阿闍梨、今は律師なりけり。召して、この法事のことおきてさせたまふ。念仏僧の数添へなどせさせたまふ。「罪いと深かなるわざ」と思せば、軽むべきことをぞすべき、七日七日に経仏供養ずべきよしなど、こまかにのたまひて、いと暗うなりぬるに帰りたまふも、「あらましかば、今宵帰らましやは」とのみなむ。 |
あじゃり、いまはりしなりけり。めして、このほふじのことおきてさせたまふ。ねんぶつそうのかずそへなどせさせたまふ。"つみいとふかかなるわざ。"とおぼせば、かろむべきことをぞすべき、なぬかなぬかにきゃうほとけくやうずべきよしなど、こまかにのたまひて、いとくらうなりぬるにかへりたまふも、"あらましかば、こよひかへらましやは。"とのみなん。 |
52 | 4.4.6 | 336 | 298 |
尼君に消息せさせたまへれど、 |
あまぎみにせうそこせさせたまへれど、 |
52 | 4.4.7 | 337 | 299 |
「いともいともゆゆしき身をのみ思ひたまへ沈みて、いとどものも思ひたまへられず、ほれはべりてなむ、うつぶし臥してはべる」 |
"いともいともゆゆしきみをのみおもひたまへしづみて、いとどものもおもひたまへられず、ほれはべりてなん、うつぶしふしてはべる。" |
52 | 4.4.8 | 338 | 300 |
と聞こえて、出で来ねば、しひても立ち寄りたまはず。 |
ときこえて、いでこねば、しひてもたちよりたまはず。 |
52 | 4.4.9 | 339 | 301 |
道すがら、とく迎へ取りたまはずなりにけること悔しう、水の音の聞こゆる限りは、心のみ騷ぎたまひて、「骸をだに尋ねず、あさましくてもやみぬるかな。いかなるさまにて、いづれの底のうつせに混じりけむ」など、やる方なく思す。 |
みちすがら、とくむかへとりたまはずなりにけることくやしう、みづのおとのきこゆるかぎりは、こころのみさわぎたまひて、"からをだにたづねず、あさましくてもやみぬるかな。いかなるさまにて、いづれのそこのうつせにまじりけん。"など、やるかたなくおぼす。 |
52 | 4.5 | 340 | 302 | 第五段 薫、浮舟の母に手紙す |
52 | 4.5.1 | 341 | 303 |
かの母君は、京に子産むべき娘のことにより、慎み騒げば、例の家にもえ行かず、すずろなる旅居のみして、思ひ慰む折もなきに、「また、これもいかならむ」と思へど、平らかに産みてけり。ゆゆしければ、え寄らず、残りの人びとの上もおぼえず、ほれ惑ひて過ぐすに、大将殿より御使忍びてあり。ものおぼえぬ心地にも、いとうれしくあはれなり。 |
かのははぎみは、きゃうにこうむべきむすめのことにより、つつしみさわげば、れいのいへにもえいかず、すずろなるたびゐのみして、おもひなぐさむをりもなきに、"また、これもいかならん。"とおもへど、たひらかにうみてけり。ゆゆしければ、えよらず、のこりのひとびとのうへもおぼえず、ほれまどひてすぐすに、だいしゃうどのよりおほんつかひしのびてあり。ものおぼえぬここちにも、いとうれしくあはれなり。 |
52 | 4.5.2 | 342 | 304 |
「あさましきことは、まづ聞こえむと思ひたまへしを、心ものどまらず、目もくらき心地して、まいていかなる闇にか惑はれたまふらむと、そのほどを過ぐしつるに、はかなくて日ごろも経にけることをなむ。世の常なさも、いとど思ひのどめむ方なくのみはべるを、思ひの外にもながらへば、過ぎにし名残とは、かならずさるべきことにも尋ねたまへ」 |
"あさましきことは、まづきこえんとおもひたまへしを、こころものどまらず、めもくらきここちして、まいていかなるやみにかまどはれたまふらんと、そのほどをすぐしつるに、はかなくてひごろもへにけることをなん。よのつねなさも、いとどおもひのどめんかたなくのみはべるを、おもひのほかにもながらへば、すぎにしなごりとは、かならずさるべきことにもたづねたまへ。" |
52 | 4.5.3 | 343 | 305 |
など、こまかに書きたまひて、御使には、かの大蔵大輔をぞ賜へりける。 |
など、こまかにかきたまひて、おほんつかひには、かのおほくらのちふをぞたまへりける。 |
52 | 4.5.4 | 344 | 306 |
「心のどかによろづを思ひつつ、年ごろにさへなりにけるほど、かならずしも心ざしあるやうには見たまはざりけむ。されど、今より後、何ごとにつけても、かならず忘れきこえじ。また、さやうにを人知れず思ひ置きたまへ。幼き人どももあなるを、朝廷に仕うまつらむにも、かならず後見思ふべくなむ」 |
"こころのどかによろづをおもひつつ、としごろにさへなりにけるほど、かならずしもこころざしあるやうにはみたまはざりけん。されど、いまよりのち、なにごとにつけても、かならずわすれきこえじ。また、さやうにをひとしれずおもひおきたまへ。をさなきひとどももあなるを、おほやけにつかうまつらんにも、かならずうしろみおもふべくなん。" |
52 | 4.5.5 | 345 | 307 |
など、言葉にものたまへり。 |
など、ことばにものたまへり。 |
52 | 4.6 | 346 | 308 | 第六段 浮舟の母からの返書 |
52 | 4.6.1 | 347 | 309 |
いたくしも忌むまじき穢らひなれば、「深うしも触れはべらず」など言ひなして、せめて呼び据ゑたり。御返り、泣く泣く書く。 |
いたくしもいむまじきけがらひなれば、"ふかうしもふれはべらず。"などいひなして、せめてよびすゑたり。おほんかへり、なくなくかく。 |
52 | 4.6.2 | 348 | 310 |
「いみじきことに死なれはべらぬ命を、心憂く思うたまへ嘆きはべるに、かかる仰せ言見はべるべかりけるにや、となむ。 |
"いみじきことにしなれはべらぬいのちを、こころうくおもうたまへなげきはべるに、かかるおほせごとみはべるべかりけるにや、となん。 |
52 | 4.6.3 | 349 | 311 |
年ごろは、心細きありさまを見たまへながら、それは数ならぬ身のおこたりに思ひたまへなしつつ、かたじけなき御一言を、行く末長く頼みきこえはべりしに、いふかひなく見たまへ果てては、里の契りもいと心憂く悲しくなむ。 |
としごろは、こころぼそきありさまをみたまへながら、それはかずならぬみのおこたりにおもひたまへなしつつ、かたじけなきおほんひとことを、ゆくすゑながくたのみきこえはべりしに、いふかひなくみたまへはてては、さとのちぎりもいとこころうくかなしくなん。 |
52 | 4.6.4 | 350 | 312 |
さまざまにうれしき仰せ言に、命延びはべりて、今しばしながらへはべらば、なほ、頼みきこえはべるべきにこそ、と思ひたまふるにつけても、目の前の涙にくれて、え聞こえさせやらずなむ」 |
さまざまにうれしきおほせごとに、いのちのびはべりて、いましばしながらへはべらば、なほ、たのみきこえはべるべきにこそ、とおもひたまふるにつけても、めのまへのなみだにくれて、えきこえさせやらずなん。" |
52 | 4.6.5 | 351 | 313 |
など書きたり。御使に、なべての禄などは見苦しきほどなり。飽かぬ心地もすべければ、かの君にたてまつらむと心ざして持たりける、よき班犀の帯、太刀のをかしきなど、袋に入れて、車に乗るほど、 |
などかきたり。おほんつかひに、なべてのろくなどはみぐるしきほどなり。あかぬここちもすべければ、かのきみにたてまつらんとこころざしてもたりける、よきはんさいのおび、たちのをかしきなど、ふくろにいれて、くるまにのるほど、 |
52 | 4.6.6 | 352 | 314 |
「これは昔の人の御心ざしなり」 |
"これはむかしのひとのみこころざしなり。" |
52 | 4.6.7 | 353 | 315 |
とて、贈らせてけり。 |
とて、おくらせてけり。 |
52 | 4.6.8 | 354 | 316 |
殿に御覧ぜさすれば、 |
とのにごらんぜさすれば、 |
52 | 4.6.9 | 355 | 317 |
「いとすぞろなるわざかな」 |
"いとすぞろなるわざかな。" |
52 | 4.6.10 | 356 | 318 |
とのたまふ。言葉には、 |
とのたまふ。ことばには、 |
52 | 4.6.11 | 357 | 319 |
「みづから会ひはべりたうびて、いみじく泣く泣くよろづのことのたまひて、幼き者どものことまで仰せられたるが、いともかしこきに、また数ならぬほどは、なかなかいと恥づかしう、人に何ゆゑなどは知らせはべらで、あやしきさまどもをも皆参らせはべりて、さぶらはせむ、となむものしはべりつる」 |
"みづからあひはべりたうびて、いみじくなくなくよろづのことのたまひて、をさなきものどものことまでおほせられたるが、いともかしこきに、またかずならぬほどは、なかなかいとはづかしう、ひとになにゆゑなどはしらせはべらで、あやしきさまどもをもみなまゐらせはべりて、さぶらはせん、となんものしはべりつる。" |
52 | 4.6.12 | 358 | 320 |
と聞こゆ。 |
ときこゆ。 |
52 | 4.6.13 | 359 | 321 |
「げに、ことなることなきゆかり睦びにぞあるべけれど、帝にも、さばかりの人の娘たてまつらずやはある。それに、さるべきにて、時めかし思さむは、人の誹るべきことかは。ただ人、はた、あやしき女、世に古りにたるなどを持ちゐるたぐひ多かり。 |
"げに、ことなることなきゆかりむつびにぞあるべけれど、みかどにも、さばかりのひとのむすめたてまつらずやはある。それに、さるべきにて、ときめかしおぼさんは、ひとのそしるべきことかは。ただうど、はた、あやしきをんな、よにふりにたるなどをもちゐるたぐひおほかり。 |
52 | 4.6.14 | 360 | 322 |
かの守の娘なりけりと、人の言ひなさむにも、わがもてなしの、それに穢るべくありそめたらばこそあらめ、一人の子をいたづらになして思ふらむ親の心に、なほこのゆかりこそおもだたしかりけれ、と思ひ知るばかり、用意はかならず見すべきこと」と思す。 |
かのかみのむすめなりけりと、ひとのいひなさんにも、わがもてなしの、それにけがるべくありそめたらばこそあらめ、ひとりのこをいたづらになしておもふらんおやのこころに、なほこのゆかりこそおもだたしかりけれ、とおもひしるばかり、よういはかならずみすべきこと。"とおぼす。 |
52 | 4.7 | 361 | 323 | 第七段 常陸介、浮舟の死を悼む |
52 | 4.7.1 | 362 | 324 |
かしこには、常陸守、立ちながら来て、「折しも、かくてゐたまへることなむ」と腹立つ。年ごろ、いづくになむおはするなど、ありのままにも知らせざりければ、「はかなきさまにておはすらむ」と思ひ言ひけるを、「京になど迎へたまひて後、面目ありて、など知らせむ」と思ひけるほどに、かかれば、今は隠さむもあいなくて、ありしさま泣く泣く語る。 |
かしこには、ひたちのかみ、たちながらきて、"をりしも、かくてゐたまへることなん。"とはらだつ。としごろ、いづくになんおはするなど、ありのままにもしらせざりければ、"はかなきさまにておはすらん。"とおもひいひけるを、"きゃうになどむかへたまひてのち、めんぼくありて、などしらせん。"とおもひけるほどに、かかれば、いまはかくさんもあいなくて、ありしさまなくなくかたる。 |
52 | 4.7.2 | 363 | 325 |
大将殿の御文もとり出でて見すれば、よき人かしこくして、鄙び、ものめでする人にて、おどろき臆して、うち返しうち返し、 |
だいしゃうどののおほんふみもとりいでてみすれば、よきひとかしこくして、ひなび、ものめでするひとにて、おどろきおくして、うちかへしうちかへし、 |
52 | 4.7.3 | 364 | 326 |
「いとめでたき御幸ひを捨てて亡せたまひにける人かな。おのれも殿人にて、参り仕うまつれども、近く召し使ふこともなく、いと気高く思はする殿なり。若き者どものこと仰せられたるは、頼もしきことになむ」 |
"いとめでたきおほんさいはひをすててうせたまひにけるひとかな。おのれもとのびとにて、まゐりつかうまつれども、ちかくめしつかふこともなく、いとけだかくおもはするとのなり。わかきものどものことおほせられたるは、たのもしきことになん。" |
52 | 4.7.4 | 365 | 327 |
など、喜ぶを見るにも、「まして、おはせましかば」と思ふに、臥しまろびて泣かる。 |
など、よろこぶをみるにも、"まして、おはせましかば。"とおもふに、ふしまろびてなかる。 |
52 | 4.7.5 | 366 | 328 |
守も今なむうち泣きける。さるは、おはせし世には、なかなか、かかるたぐひの人しも、尋ねたまふべきにしもあらずかし。「わが過ちにて失ひつるもいとほし。慰めむ」と思すよりなむ、「人の誹り、ねむごろに尋ねじ」と思しける。 |
かみもいまなんうちなきける。さるは、おはせしよには、なかなか、かかるたぐひのひとしも、たづねたまふべきにしもあらずかし。"わがあやまちにてうしなひつるもいとほし。なぐさめん。"とおぼすよりなん、"ひとのそしり、ねんごろにたづねじ。"とおぼしける。 |
52 | 4.8 | 367 | 329 | 第八段 浮舟四十九日忌の法事 |
52 | 4.8.1 | 368 | 330 |
四十九日のわざなどせさせたまふにも、「いかなりけむことにかは」と思せば、とてもかくても罪得まじきことなれば、いと忍びて、かの律師の寺にてせさせたまひける。六十僧の布施など、大きにおきてられたり。母君も来ゐて、事ども添へたり。 |
しじふくにちのわざなどせさせたまふにも、"いかなりけんことにかは。"とおぼせば、とてもかくてもつみうまじきことなれば、いとしのびて、かのりしのてらにてせさせたまひける。ろくじふそうのふせなど、おほきにおきてられたり。ははぎみもきゐて、ことどもそへたり。 |
52 | 4.8.2 | 369 | 331 |
宮よりは、右近がもとに、白銀の壺に黄金入れて賜へり。人見とがむばかり大きなるわざは、えしたまはず、右近が心ざしにてしたりければ、心知らぬ人は、「いかで、かくなむ」など言ひける。殿の人ども、睦ましき限りあまた賜へり。 |
みやよりは、うこんがもとに、しろかねのつぼにこがねいれてたまへり。ひとみとがむばかりおほきなるわざは、えしたまはず、うこんがこころざしにてしたりければ、こころしらぬひとは、"いかで、かくなん。"などいひける。とののひとども、むつましきかぎりあまたたまへり。 |
52 | 4.8.3 | 370 | 332 |
「あやしく。音もせざりつる人の果てを、かく扱はせたまふ。誰れならむ」 |
"あやしく。おともせざりつるひとのはてを、かくあつかはせたまふ。たれならん。" |
52 | 4.8.4 | 371 | 333 |
と、今おどろく人のみ多かるに、常陸守来て、主人がり居るなむ、あやしと人びと見ける。少将の子産ませて、いかめしきことせさせむとまどひ、家の内になきものはすくなく、唐土新羅の飾りをもしつべきに、限りあれば、いとあやしかりけり。この御法事の、忍びたるやうに思したれど、けはひこよなきを見るに、「生きたらましかば、わが身を並ぶべくもあらぬ人の御宿世なりけり」と思ふ。 |
と、いまおどろくひとのみおほかるに、ひたちのかみきて、あるじがりをるなん、あやしとひとびとみける。せうしゃうのこうませて、いかめしきことせさせんとまどひ、いへのうちになきものはすくなく、もろこししらぎのかざりをもしつべきに、かぎりあれば、いとあやしかりけり。このおほんほふじの、しのびたるやうにおぼしたれど、けはひこよなきをみるに、"いきたらましかば、わがみをならぶべくもあらぬひとのおほんすくせなりけり。"とおもふ。 |
52 | 4.8.5 | 372 | 334 |
宮の上も誦経したまひ、七僧の前のことせさせたまひけり。今なむ、「かかる人持たまへりけり」と、帝までも聞こし召して、おろかにもあらざりける人を、宮にかしこまりきこえて、隠し置きたまひたりける、いとほしと思しける。 |
みやのうへもずきゃうしたまひ、しちそうのまへのことせさせたまひけり。いまなん、"かかるひともたまへりけり。"と、みかどまでもきこしめして、おろかにもあらざりけるひとを、みやにかしこまりきこえて、かくしおきたまひたりける、いとほしとおぼしける。 |
52 | 4.8.6 | 373 | 335 |
二人の人の御心のうち、古りず悲しく、あやにくなりし御思ひの盛りにかき絶えては、いといみじければ、あだなる御心は、慰むやなど、こころみたまふこともやうやうありけり。 |
ふたりのひとのみこころのうち、ふりずかなしく、あやにくなりしおほんおもひのさかりにかきたえては、いといみじければ、あだなるみこころは、なぐさむやなど、こころみたまふこともやうやうありけり。 |
52 | 4.8.7 | 374 | 336 |
かの殿は、かくとりもちて、何やかやと思して、残りの人を育ませたまひても、なほ、いふかひなきことを、忘れがたく思す。 |
かのとのは、かくとりもちて、なにやかやとおぼして、のこりのひとをはぐくませたまひても、なほ、いふかひなきことを、わすれがたくおぼす。 |
52 | 5 | 375 | 337 | 第五章 薫の物語 明石中宮の女宮たち |
52 | 5.1 | 376 | 338 | 第一段 薫と小宰相の君の関係 |
52 | 5.1.1 | 377 | 339 |
后の宮の、御軽服のほどは、なほかくておはしますに、二の宮なむ式部卿になりたまひにける。重々しうて、常にしも参りたまはず。この宮は、さうざうしくものあはれなるままに、一品の宮の御方を慰め所にしたまふ。よき人の容貌をも、えまほに見たまはぬ、残り多かり。 |
きさきのみやの、おほんきゃうぶくのほどは、なほかくておはしますに、にのみやなんしきぶきゃうになりたまひにける。おもおもしうて、つねにしもまゐりたまはず。このみやは、さうざうしくものあはれなるままに、いっぽんのみやのおほんかたをなぐさめどころにしたまふ。よきひとのかたちをも、えまほにみたまはぬ、のこりおほかり。 |
52 | 5.1.2 | 378 | 340 |
大将殿の、からうして、いと忍びて語らはせたまふ小宰相の君といふ人の、容貌などもきよげなり、心ばせある方の人と思されたり。同じ琴を掻きならす、爪音、撥音も、人にはまさり、文を書き、ものうち言ひたるも、よしあるふしをなむ添へたりける。 |
だいしゃうどのの、からうして、いとしのびてかたらはせたまふこさいしゃうのきみといふひとの、かたちなどもきよげなり、こころばせあるかたのひととおぼされたり。おなじことをかきならす、つまおと、ばちおとも、ひとにはまさり、ふみをかき、ものうちいひたるも、よしあるふしをなんそへたりける。 |
52 | 5.1.3 | 379 | 341 |
この宮も、年ごろ、いといたきものにしたまひて、例の、言ひ破りたまへど、「などか、さしもめづらしげなくはあらむ」と、心強くねたきさまなるを、まめ人は、「すこし人よりことなり」と思すになむありける。かくもの思したるも見知りければ、忍びあまりて聞こえたり。 |
このみやも、としごろ、いといたきものにしたまひて、れいの、いひやぶりたまへど、"などか、さしもめづらしげなくはあらん。"と、こころづよくねたきさまなるを、まめびとは、"すこしひとよりことなり。"とおぼすになんありける。かくものおぼしたるもみしりければ、しのびあまりてきこえたり。 |
52 | 5.1.4 | 380 | 342 |
「あはれ知る心は人におくれねど<BR/>数ならぬ身に消えつつぞ経る |
"〔あはれしるこころはひとにおくれねど<BR/>かずならぬみにきえつつぞふる |
52 | 5.1.5 | 381 | 343 |
代へたらば」 |
かへたらば。" |
52 | 5.1.6 | 382 | 344 |
と、ゆゑある紙に書きたり。ものあはれなる夕暮、しめやかなるほどを、いとよく推し量りて言ひたるも、憎からず。 |
と、ゆゑあるかみにかきたり。ものあはれなるゆふぐれ、しめやかなるほどを、いとよくおしはかりていひたるも、にくからず。 |
52 | 5.1.7 | 383 | 345 |
「常なしとここら世を見る憂き身だに<BR/>人の知るまで嘆きやはする |
"〔つねなしとここらよをみるうきみだに<BR/>ひとのしるまでなげきやはする |
52 | 5.1.8 | 384 | 346 |
このよろこび、あはれなりし折からも、いとどなむ」 |
このよろこび、あはれなりしをりからも、いとどなん。" |
52 | 5.1.9 | 385 | 347 |
など言ひに立ち寄りたまへり。いと恥づかしげにものものしげにて、なべてかやうになどもならしたまはぬ、人柄もやむごとなきに、いとものはかなき住まひなりかし。局などいひて、狭くほどなき遣戸口に寄りゐたまへる、かたはらいたくおぼゆれど、さすがにあまり卑下してもあらで、いとよきほどにものなども聞こゆ。 |
などいひにたちよりたまへり。いとはづかしげにものものしげにて、なべてかやうになどもならしたまはぬ、ひとがらもやんごとなきに、いとものはかなきすまひなりかし。つぼねなどいひて、せばくほどなきやりどぐちによりゐたまへる、かたはらいたくおぼゆれど、さすがにあまりひげしてもあらで、いとよきほどにものなどもきこゆ。 |
52 | 5.1.10 | 386 | 348 |
「見し人よりも、これは心にくきけ添ひてもあるかな。などて、かく出で立ちけむ。さるものにて、我も置いたらましものを」 |
"みしひとよりも、これはこころにくきけそひてもあるかな。などて、かくいでたちけん。さるものにて、われもおいたらましものを。" |
52 | 5.1.11 | 387 | 349 |
と思す。人知れぬ筋は、かけても見せたまはず。 |
とおぼす。ひとしれぬすぢは、かけてもみせたまはず。 |
52 | 5.2 | 388 | 350 | 第二段 六条院の法華八講 |
52 | 5.2.1 | 389 | 351 |
蓮の花の盛りに、御八講せらる。六条の院の御ため、紫の上など、皆思し分けつつ、御経仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく、尊くなむありける。五巻の日などは、いみじき見物なりければ、こなたかなた、女房につきて参りて、物見る人多かりけり。 |
はちすのはなのさかりに、みはかうせらる。ろくでうのゐんのおほんため、むらさきのうへなど、みなおぼしわけつつ、おほんきゃうほとけなどくやうぜさせたまひて、いかめしく、たふとくなんありける。ごかんのひなどは、いみじきみものなりければ、こなたかなた、にょうばうにつきてまゐりて、ものみるひとおほかりけり。 |
52 | 5.2.2 | 390 | 352 |
五日といふ朝座に果てて、御堂の飾り取りさけ、御しつらひ改むるに、北の廂も、障子ども放ちたりしかば、皆入り立ちてつくろふほど、西の渡殿に姫宮おはしましけり。もの聞き極じて、女房もおのおの局にありつつ、御前はいと人少ななる夕暮に、大将殿、直衣着替へて、今日まかづる僧の中に、かならずのたまふべきことあるにより、釣殿の方におはしたるに、皆まかでぬれば、池の方に涼みたまひて、人少ななるに、かくいふ宰相の君など、かりそめに几帳などばかり立てて、うちやすむ上局にしたり。 |
いつかといふあさざにはてて、みだうのかざりとりさけ、おほんしつらひあらたむるに、きたのひさしも、さうじどもはなちたりしかば、みないりたちてつくろふほど、にしのわたどのにひめみやおはしましけり。ものききこうじて、にょうばうもおのおのつぼねにありつつ、おまへはいとひとずくななるゆふぐれに、だいしゃうどの、なほしきかへて、けふまかづるそうのなかに、かならずのたまふべきことあるにより、つりどののかたにおはしたるに、みなまかでぬれば、いけのかたにすずみたまひて、ひとずくななるに、かくいふさいしゃうのきみなど、かりそめにきちゃうなどばかりたてて、うちやすむうへつぼねにしたり。 |
52 | 5.2.3 | 391 | 353 |
「ここにやあらむ、人の衣の音す」と思して、馬道の方の障子の細く開きたるより、やをら見たまへば、例さやうの人のゐたるけはひには似ず、晴れ晴れしくしつらひたれば、なかなか、几帳どもの立て違へたるあはひより見通されて、あらはなり。 |
"ここにやあらん、ひとのきぬのおとす。"とおぼして、めだうのかたのさうじのほそくあきたるより、やをらみたまへば、れいさやうのひとのゐたるけはひにはにず、はればれしくしつらひたれば、なかなか、きちゃうどものたてちがへたるあはひよりみとほされて、あらはなり。 |
52 | 5.2.4 | 392 | 355 |
氷をものの蓋に置きて割るとて、もて騒ぐ人びと、大人三人ばかり、童と居たり。唐衣も汗衫も着ず、皆うちとけたれば、御前とは見たまはぬに、白き薄物の御衣着替へたまへる人の、手に氷を持ちながら、かく争ふを、すこし笑みたまへる御顔、言はむ方なくうつくしげなり。 |
ひをもののふたにおきてわるとて、もてさわぐひとびと、おとなみたりばかり、わらはとゐたり。からぎぬもかざみもきず、みなうちとけたれば、おまへとはみたまはぬに、しろきうすもののおほんぞきかへたまへるひとの、てにひをもちながら、かくあらそふを、すこしゑみたまへるおほんかほ、いはんかたなくうつくしげなり。 |
52 | 5.2.5 | 393 | 356 |
いと暑さの堪へがたき日なれば、こちたき御髪の、苦しう思さるるにやあらむ、すこしこなたに靡かして引かれたるほど、たとへむものなし。「ここらよき人を見集むれど、似るべくもあらざりけり」とおぼゆ。御前なる人は、まことに土などの心地ぞするを、思ひ静めて見れば、黄なる生絹の単衣、薄色なる裳着たる人の、扇うち使ひたるなど、「用意あらむはや」と、ふと見えて、 |
いとあつさのたへがたきひなれば、こちたきみぐしの、くるしうおぼさるるにやあらん、すこしこなたになびかしてひかれたるほど、たとへんものなし。"ここらよきひとをみあつむれど、にるべくもあらざりけり。"とおぼゆ。おまへなるひとは、まことにつちなどのここちぞするを、おもひしづめてみれば、きなるすずしのひとへ、うすいろなるもきたるひとの、あふぎうちつかひたるなど、"よういあらんはや。"と、ふとみえて、 |
52 | 5.2.6 | 394 | 357 |
「なかなか、もの扱ひに、いと苦しげなり。ただ、さながら見たまへかし」 |
"なかなか、ものあつかひに、いとくるしげなり。ただ、さながらみたまへかし。" |
52 | 5.2.7 | 395 | 358 |
とて、笑ひたるまみ、愛敬づきたり。声聞くにぞ、この心ざしの人とは知りぬる。 |
とて、わらひたるまみ、あいぎゃうづきたり。こゑきくにぞ、このこころざしのひととはしりぬる。 |
52 | 5.3 | 396 | 359 | 第三段 小宰相の君、氷を弄ぶ |
52 | 5.3.1 | 397 | 360 |
心強く割りて、手ごとに持たり。頭にうち置き、胸にさし当てなど、さま悪しうする人もあるべし。異人は、紙につつみて、御前にもかくて参らせたれど、いとうつくしき御手をさしやりたまひて、拭はせたまふ。 |
こころづよくわりて、てごとにもたり。かしらにうちおき、むねにさしあてなど、さまあしうするひともあるべし。ことびとは、かみにつつみて、おまへにもかくてまゐらせたれど、いとうつくしきみてをさしやりたまひて、のごはせたまふ。 |
52 | 5.3.2 | 398 | 361 |
「いな、持たらじ。雫むつかし」 |
"いな、もたらじ。しづくむつかし。" |
52 | 5.3.3 | 399 | 362 |
とのたまふ御声、いとほのかに聞くも、限りもなくうれし。「まだいと小さくおはしまししほどに、我も、ものの心も知らで見たてまつりし時、めでたの稚児の御さまや、と見たてまつりし。その後、たえてこの御けはひをだに聞かざりつるものを、いかなる神仏の、かかる折見せたまへるならむ。例の、やすからずもの思はせむとするにやあらむ」 |
とのたまふおほんこゑ、いとほのかにきくも、かぎりもなくうれし。"まだいとちひさくおはしまししほどに、われも、もののこころもしらでみたてまつりしとき、めでたのちごのおほんさまや、とみたてまつりし。そののち、たえてこのおほんけはひをだにきかざりつるものを、いかなるかみほとけの、かかるをりみせたまへるならん。れいの、やすからずものおもはせんとするにやあらん。" |
52 | 5.3.4 | 400 | 363 |
と、かつは静心なくて、まもり立ちたるほどに、こなたの対の北面に住みける下臈女房の、この障子は、とみのことにて、開けながら下りにけるを思ひ出でて、「人もこそ見つけて騒がるれ」と思ひければ、惑ひ入る。 |
と、かつはしづこころなくて、まもりたちたるほどに、こなたのたいのきたおもてにすみけるげらふにょうばうの、このさうじは、とみのことにて、あけながらおりにけるをおもひいでて、"ひともこそみつけてさわがるれ。"とおもひければ、まどひいる。 |
52 | 5.3.5 | 401 | 364 |
この直衣姿を見つくるに、「誰ならむ」と心騷ぎて、おのがさま見えむことも知らず、簀子よりただ来に来れば、ふと立ち去りて、「誰れとも見えじ。好き好きしきやうなり」と思ひて隠れたまひぬ。 |
このなほしすがたをみつくるに、"たれならん。"とこころさわぎて、おのがさまみえんこともしらず、すのこよりただきにくれば、ふとたちさりて、"たれともみえじ。すきずきしきやうなり。"とおもひてかくれたまひぬ。 |
52 | 5.3.6 | 402 | 365 |
この御許は、 |
このおもとは、 |
52 | 5.3.7 | 403 | 366 |
「いみじきわざかな。御几帳をさへあらはに引きなしてけるよ。右の大殿の君たちならむ。疎き人、はた、ここまで来べきにもあらず。ものの聞こえあらば、誰れか障子は開けたりしと、かならず出で来なむ。単衣も袴も、生絹なめりと見えつる人の御姿なれば、え人も聞きつけたまはぬならむかし」 |
"いみじきわざかな。みきちゃうをさへあらはにひきなしてけるよ。みぎのおほとののきみたちならん。うときひと、はた、ここまでくべきにもあらず。もののきこえあらば、たれかさうじはあけたりしと、かならずいできなん。ひとへもはかまも、すずしなめりとみえつるひとのおほんすがたなれば、えひともききつけたまはぬならんかし。" |
52 | 5.3.8 | 404 | 367 |
と思ひ極じてをり。 |
とおもひこうじてをり。 |
52 | 5.3.9 | 405 | 368 |
かの人は、「やうやう聖になりし心を、ひとふし違へそめて、さまざまなるもの思ふ人ともなるかな。そのかみ世を背きなましかば、今は深き山に住み果てて、かく心乱れましやは」など思し続くるも、やすからず。「などて、年ごろ、見たてまつらばやと思ひつらむ。なかなか苦しう、かひなかるべきわざにこそ」と思ふ。 |
かのひとは、"やうやうひじりになりしこころを、ひとふしたがへそめて、さまざまなるものおもふひとともなるかな。そのかみよをそむきなましかば、いまはふかきやまにすみはてて、かくこころみだれましやは。"などおぼしつづくるも、やすからず。"などて、としごろ、みたてまつらばやとおもひつらん。なかなかくるしう、かひなかるべきわざにこそ。"とおもふ。 |
52 | 5.4 | 406 | 369 | 第四段 薫と女二宮との夫婦仲 |
52 | 5.4.1 | 407 | 370 |
つとめて、起きたまへる女宮の御容貌、「いとをかしげなめるは、これよりかならずまさるべきことかは」と見えながら、「さらに似たまはずこそありけれ。あさましきまであてに、えも言はざりし御さまかな。かたへは思ひなしか、折からか」と思して、 |
つとめて、おきたまへるをんなみやのおほんかたち、"いとをかしげなめるは、これよりかならずまさるべきことかは。"とみえながら、"さらににたまはずこそありけれ。あさましきまであてに、えもいはざりしおほんさまかな。かたへはおもひなしか、をりからか。"とおぼして、 |
52 | 5.4.2 | 408 | 371 |
「いと暑しや。これより薄き御衣奉れ。女は、例ならぬ物着たるこそ、時々につけてをかしけれ」とて、「あなたに参りて、大弐に、薄物の単衣の御衣、縫ひて参れと言へ」 |
"いとあつしや。これよりうすきおほんぞたてまつれ。をんなは、れいならぬものきたるこそ、ときどきにつけてをかしけれ。"とて、"あなたにまゐりて、だいにに、うすもののひとへのおほんぞ、ぬひてまゐれといへ。" |
52 | 5.4.3 | 409 | 372 |
とのたまふ。御前なる人は、「この御容貌のいみじき盛りにおはしますを、もてはやしきこえたまふ」とをかしう思へり。 |
とのたまふ。おまへなるひとは、"このおほんかたちのいみじきさかりにおはしますを、もてはやしきこえたまふ。"とをかしうおもへり。 |
52 | 5.4.4 | 410 | 373 |
例の、念誦したまふわが御方におはしましなどして、昼つ方渡りたまへれば、のたまひつる御衣、御几帳にうち掛けたり。 |
れいの、ねんずしたまふわがおほんかたにおはしましなどして、ひるつかたわたりたまへれば、のたまひつるおほんぞ、みきちゃうにうちかけたり。 |
52 | 5.4.5 | 411 | 374 |
「なぞ、こは奉らぬ。人多く見る時なむ、透きたる物着るは、ばうぞくにおぼゆる。ただ今はあへはべりなむ」 |
"なぞ、こはたてまつらぬ。ひとおほくみるときなん、すきたるものきるは、ばうぞくにおぼゆる。ただいまはあへはべりなん。" |
52 | 5.4.6 | 412 | 375 |
とて、手づから着せ奉りたまふ。御袴も昨日の同じ紅なり。御髪の多さ、裾などは劣りたまはねど、なほさまざまなるにや、似るべくもあらず。氷召して、人びとに割らせたまふ。取りて一つ奉りなどしたまふ、心のうちもをかし。 |
とて、てづからきせたてまつりたまふ。おほんはかまもきのふのおなじくれなゐなり。みぐしのおほさ、すそなどはおとりたまはねど、なほさまざまなるにや、にるべくもあらず。ひめして、ひとびとにわらせたまふ。とりてひとつたてまつりなどしたまふ、こころのうちもをかし。 |
52 | 5.4.7 | 413 | 376 |
「絵に描きて、恋しき人見る人は、なくやはありける。ましてこれは、慰めむに似げなからぬ御ほどぞかしと思へど、昨日かやうにて、我混じりゐ、心にまかせて見たてまつらましかば」とおぼゆるに、心にもあらずうち嘆かれぬ。 |
"ゑにかきて、こひしきひとみるひとは、なくやはありける。ましてこれは、なぐさめんににげなからぬおほんほどぞかしとおもへど、きのふかやうにて、われまじりゐ、こころにまかせてみたてまつらましかば。"とおぼゆるに、こころにもあらずうちなげかれぬ。 |
52 | 5.4.8 | 414 | 377 |
「一品の宮に、御文は奉りたまふや」 |
"いっぽんのみやに、おほんふみはたてまつりたまふや。" |
52 | 5.4.9 | 415 | 378 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
52 | 5.4.10 | 416 | 379 |
「内裏にありし時、主上の、さのたまひしかば聞こえしかど、久しうさもあらず」 |
"うちにありしとき、うへの、さのたまひしかばきこえしかど、ひさしうさもあらず。" |
52 | 5.4.11 | 417 | 380 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
52 | 5.4.12 | 418 | 381 |
「ただ人にならせたまひにたりとて、かれよりも聞こえさせたまはぬにこそは、心憂かなれ。今、大宮の御前にて、恨みきこえさせたまふ、と啓せむ」 |
"ただうどにならせたまひにたりとて、かれよりもきこえさせたまはぬにこそは、こころうかなれ。いま、おほみやのおまへにて、うらみきこえさせたまふ、とけいせん。" |
52 | 5.4.13 | 419 | 382 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
52 | 5.4.14 | 420 | 383 |
「いかが恨みきこえむ。うたて」 |
"いかがうらみきこえん。うたて。" |
52 | 5.4.15 | 421 | 384 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
52 | 5.4.16 | 422 | 385 |
「下衆になりにたりとて、思し落とすなめり、と見れば、おどろかしきこえぬ、とこそは聞こえめ」 |
"げすになりにたりとて、おぼしおとすなめり、とみれば、おどろかしきこえぬ、とこそはきこえめ。" |
52 | 5.4.17 | 423 | 386 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
52 | 5.5 | 424 | 387 | 第五段 薫、明石中宮に対面 |
52 | 5.5.1 | 425 | 388 |
その日は暮らして、またの朝に大宮に参りたまふ。例の、宮もおはしけり。丁子に深く染めたる薄物の単衣を、こまやかなる直衣に着たまへる、いとこのましげなる女の御身なりのめでたかりしにも劣らず、白くきよらにて、なほありしよりは面痩せたまへる、いと見るかひあり。 |
そのひはくらして、またのあしたにおほみやにまゐりたまふ。れいの、みやもおはしけり。ちゃうじにふかくそめたるうすもののひとへを、こまやかなるなほしにきたまへる、いとこのましげなるをんなのおほんみなりのめでたかりしにもおとらず、しろくきよらにて、なほありしよりはおもやせたまへる、いとみるかひあり。 |
52 | 5.5.2 | 426 | 389 |
おぼえたまへりと見るにも、まづ恋しきを、いとあるまじきこと、と静むるぞ、ただなりしよりは苦しき。絵をいと多く持たせて参りたまへりける、女房して、あなたに参らせたまひて、渡らせたまひぬ。 |
おぼえたまへりとみるにも、まづこひしきを、いとあるまじきこと、としづむるぞ、ただなりしよりはくるしき。ゑをいとおほくもたせてまゐりたまへりける、にょうばうして、あなたにまゐらせたまひて、わたらせたまひぬ。 |
52 | 5.5.3 | 427 | 390 |
大将も近く参り寄りたまひて、御八講の尊くはべりしこと、いにしへの御こと、すこし聞こえつつ、残りたる絵見たまふついでに、 |
だいしゃうもちかくまゐりよりたまひて、みはかうのたふとくはべりしこと、いにしへのおほんこと、すこしきこえつつ、のこりたるゑみたまふついでに、 |
52 | 5.5.4 | 428 | 391 |
「この里にものしたまふ皇女の、雲の上離れて、思ひ屈したまへるこそ、いとほしう見たまふれ。姫宮の御方より、御消息もはべらぬを、かく品定まりたまへるに、思し捨てさせたまへるやうに思ひて、心ゆかぬけしきのみはべるを、かやうのもの、時々ものせさせたまはなむ。なにがしがおろして持てまからむ。はた、見るかひもはべらじかし」 |
"このさとにものしたまふみこの、くものうへはなれて、おもひくしたまへるこそ、いとほしうみたまふれ。ひめみやのおほんかたより、おほんせうそこもはべらぬを、かくしなさだまりたまへるに、おぼしすてさせたまへるやうにおもひて、こころゆかぬけしきのみはべるを、かやうのもの、ときどきものせさせたまはなん。なにがしがおろしてもてまからん。はた、みるかひもはべらじかし。" |
52 | 5.5.5 | 429 | 392 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
52 | 5.5.6 | 430 | 393 |
「あやしく。などてか捨てきこえたまはむ。内裏にては、近かりしにつきて、時々も聞こえたまふめりしを、所々になりたまひし折に、とだえたまへるにこそあらめ。今、そそのかしきこえむ。それよりもなどかは」 |
"あやしく。などてかすてきこえたまはん。うちにては、ちかかりしにつきて、ときどきもきこえたまふめりしを、ところどころになりたまひしをりに、とだえたまへるにこそあらめ。いま、そそのかしきこえん。それよりもなどかは。" |
52 | 5.5.7 | 431 | 394 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
52 | 5.5.8 | 432 | 395 |
「かれよりは、いかでかは。もとより数まへさせたまはざらむをも、かく親しくてさぶらふべきゆかりに寄せて、思し召し数まへさせたまはむをこそ、うれしくははべるべけれ。まして、さも聞こえ馴れたまひにけむを、今捨てさせたまはむは、からきことにはべり」 |
"かれよりは、いかでかは。もとよりかずまへさせたまはざらんをも、かくしたしくてさぶらふべきゆかりによせて、おぼしめしかずまへさせたまはんをこそ、うれしくははべるべけれ。まして、さもきこえなれたまひにけんを、いますてさせたまはんは、からきことにはべり。" |
52 | 5.5.9 | 433 | 396 |
と啓せさせたまふを、「好きばみたるけしきあるか」とは思しかけざりけり。 |
とけいせさせたまふを、"すきばみたるけしきあるか。"とはおぼしかけざりけり。 |
52 | 5.5.10 | 434 | 397 |
立ち出でて、「一夜の心ざしの人に会はむ。ありし渡殿も慰めに見むかし」と思して、御前を歩み渡りて、西ざまにおはするを、御簾の内の人は心ことに用意す。げに、いと様よく限りなきもてなしにて、渡殿の方は、左の大殿の君たちなど居て、物言ふけはひすれば、妻戸の前に居たまひて、 |
たちいでて、"ひとよのこころざしのひとにあはん。ありしわたどのもなぐさめにみんかし。"とおぼして、おまへをあゆみわたりて、にしざまにおはするを、みすのうちのひとはこころことによういす。げに、いとさまよくかぎりなきもてなしにて、わたどののかたは、ひだりのおほとののきみたちなどゐて、ものいふけはひすれば、つまどのまへにゐたまひて、 |
52 | 5.5.11 | 435 | 398 |
「おほかたには参りながら、この御方の見参に入ることの、難くはべれば、いとおぼえなく、翁び果てにたる心地しはべるを、今よりは、と思ひ起こしはべりてなむ。ありつかず、若き人どもぞ思ふらむかし」 |
"おほかたにはまゐりながら、このおほんかたのげんざんにいることの、かたくはべれば、いとおぼえなく、おきなびはてにたるここちしはべるを、いまよりは、とおもひおこしはべりてなん。ありつかず、わかきひとどもぞおもふらんかし。" |
52 | 5.5.12 | 436 | 399 |
と、甥の君たちの方を見やりたまふ。 |
と、をひのきみたちのかたをみやりたまふ。 |
52 | 5.5.13 | 437 | 400 |
「今よりならはせたまふこそ、げに若くならせたまふならめ」 |
"いまよりならはせたまふこそ、げにわかくならせたまふならめ。" |
52 | 5.5.14 | 438 | 401 |
など、はかなきことを言ふ人びとのけはひも、あやしうみやびかに、をかしき御方のありさまにぞある。そのこととなけれど、世の中の物語などしつつ、しめやかに、例よりは居たまへり。 |
など、はかなきことをいふひとびとのけはひも、あやしうみやびかに、をかしきおほんかたのありさまにぞある。そのこととなけれど、よのなかのものがたりなどしつつ、しめやかに、れいよりはゐたまへり。 |
52 | 5.6 | 439 | 402 | 第六段 明石中宮、薫と小宰相の君の関係を聞く |
52 | 5.6.1 | 440 | 403 |
姫宮は、あなたに渡らせたまひにけり。大宮、 |
ひめみやは、あなたにわたらせたまひにけり。おほみや、 |
52 | 5.6.2 | 441 | 404 |
「大将のそなたに参りつるは」 |
"だいしゃうのそなたにまゐりつるは。" |
52 | 5.6.3 | 442 | 405 |
と問ひたまふ。御供に参りたる大納言の君、 |
ととひたまふ。おほんともにまゐりたるだいなごんのきみ、 |
52 | 5.6.4 | 443 | 406 |
「小宰相の君に、もののたまはむとにこそは、はべめりつれ」 |
"こさいしゃうのきみに、もののたまはんとにこそは、はべめりつれ。" |
52 | 5.6.5 | 444 | 407 |
と聞こゆるに、 |
ときこゆるに、 |
52 | 5.6.6 | 445 | 408 |
「例、まめ人の、さすがに人に心とどめて物語するこそ、心地おくれたらむ人は苦しけれ。心のほども見ゆらむかし。小宰相などは、いとうしろやすし」 |
"れい、まめびとの、さすがにひとにこころとどめてものがたりするこそ、ここちおくれたらんひとはくるしけれ。こころのほどもみゆらんかし。こさいしゃうなどは、いとうしろやすし。" |
52 | 5.6.7 | 446 | 409 |
とのたまひて、御姉弟なれど、この君をば、なほ恥づかしく、「人も用意なくて見えざらむかし」と思いたり。 |
とのたまひて、おほんはらからなれど、このきみをば、なほはづかしく、"ひともよういなくてみえざらんかし。"とおぼいたり。 |
52 | 5.6.8 | 447 | 410 |
「人よりは心寄せたまひて、局などに立ち寄りたまふべし。物語こまやかにしたまひて、夜更けて出でたまふ折々もはべれど、例の目馴れたる筋にははべらぬにや。宮をこそ、いと情けなくおはしますと思ひて、御いらへをだに聞こえずはべるめれ。かたじけなきこと」 |
"ひとよりはこころよせたまひて、つぼねなどにたちよりたまふべし。ものがたりこまやかにしたまひて、よふけていでたまふをりをりもはべれど、れいのめなれたるすぢにははべらぬにや。みやをこそ、いとなさけなくおはしますとおもひて、おほんいらへをだにきこえずはべるめれ。かたじけなきこと。" |
52 | 5.6.9 | 448 | 411 |
と言ひて笑へば、宮も笑はせたまひて、 |
といひてわらへば、みやもわらはせたまひて、 |
52 | 5.6.10 | 449 | 412 |
「いと見苦しき御さまを、思ひ知るこそをかしけれ。いかで、かかる御癖やめたてまつらむ。恥づかしや、この人びとも」 |
"いとみぐるしきおほんさまを、おもひしるこそをかしけれ。いかで、かかるおほんくせやめたてまつらん。はづかしや、このひとびとも。" |
52 | 5.6.11 | 450 | 413 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
52 | 5.7 | 451 | 414 | 第七段 明石中宮、薫の三角関係を知る |
52 | 5.7.1 | 452 | 415 |
「いとあやしきことをこそ聞きはべりしか。この大将の亡くなしたまひてし人は、宮の御二条の北の方の御おとうとなりけり。異腹なるべし。常陸の前の守なにがしが妻は、叔母とも母とも言ひはべるなるは、いかなるにか。その女君に、宮こそ、いと忍びておはしましけれ。 |
"いとあやしきことをこそききはべりしか。このだいしゃうのなくなしたまひてしひとは、みやのおほんにでうのきたのかたのおほんおとうとなりけり。ことばらなるべし。ひたちのさきのかみなにがしがめは、をばともははともいひはべるなるは、いかなるにか。そのをんなぎみに、みやこそ、いとしのびておはしましけれ。 |
52 | 5.7.2 | 453 | 416 |
大将殿や聞きつけたまひたりけむ。にはかに迎へたまはむとて、守り目添へなど、ことことしくしたまひけるほどに、宮も、いと忍びておはしましながら、え入らせたまはず、あやしきさまに、御馬ながら立たせたまひつつぞ、帰らせたまひける。 |
だいしゃうどのやききつけたまひたりけん。にはかにむかへたまはんとて、まもりめそへなど、ことことしくしたまひけるほどに、みやも、いとしのびておはしましながら、えいらせたまはず、あやしきさまに、おほんむまながらたたせたまひつつぞ、かへらせたまひける。 |
52 | 5.7.3 | 454 | 417 |
女も、宮を思ひきこえさせけるにや、にはかに消え失せにけるを、身投げたるなめりとてこそ、乳母などやうの人どもは、泣き惑ひはべりけれ」 |
をんなも、みやをおもひきこえさせけるにや、にはかにきえうせにけるを、みなげたるなめりとてこそ、めのとなどやうのひとどもは、なきまどひはべりけれ。" |
52 | 5.7.4 | 455 | 418 |
と聞こゆ。宮も、「いとあさまし」と思して、 |
ときこゆ。みやも、"いとあさまし。"とおぼして、 |
52 | 5.7.5 | 456 | 419 |
「誰れか、さることは言ふとよ。いとほしく心憂きことかな。さばかりめづらかならむことは、おのづから聞こえありぬべきを。大将もさやうには言はで、世の中のはかなくいみじきこと、かく宇治の宮の族の、命短かりけることをこそ、いみじう悲しと思ひてのたまひしか」 |
"たれか、さることはいふとよ。いとほしくこころうきことかな。さばかりめづらかならんことは、おのづからきこえありぬべきを。だいしゃうもさやうにはいはで、よのなかのはかなくいみじきこと、かくうぢのみやのぞうの、いのちみじかかりけることをこそ、いみじうかなしとおもひてのたまひしか。" |
52 | 5.7.6 | 457 | 420 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
52 | 5.7.7 | 458 | 421 |
「いさや、下衆は、たしかならぬことをも言ひはべるものを、と思ひはべれど、かしこにはべりける下童の、ただこのころ、宰相が里に出でまうできて、たしかなるやうにこそ言ひはべりけれ。かくあやしうて亡せたまへること、人に聞かせじ。おどろおどろしく、おぞきやうなりとて、いみじく隠しけることどもとて。さて、詳しくは聞かせたてまつらぬにやありけむ」 |
"いさや、げすは、たしかならぬことをもいひはべるものを、とおもひはべれど、かしこにはべりけるしもわらはの、ただこのころ、さいしゃうがさとにいでまうできて、たしかなるやうにこそいひはべりけれ。かくあやしうてうせたまへること、ひとにきかせじ。おどろおどろしく、おぞきやうなりとて、いみじくかくしけることどもとて。さて、くはしくはきかせたてまつらぬにやありけん。" |
52 | 5.7.8 | 459 | 422 |
と聞こゆれば、 |
ときこゆれば、 |
52 | 5.7.9 | 460 | 423 |
「さらに、かかること、またまねぶな、と言はせよ。かかる筋に、御身をももてそこなひ、人に軽く心づきなきものに思はれぬべきなめり」 |
"さらに、かかること、またまねぶな、といはせよ。かかるすぢに、おほんみをももてそこなひ、ひとにかるくこころづきなきものにおもはれぬべきなめり。" |
52 | 5.7.10 | 461 | 424 |
といみじう思いたり。 |
といみじうおぼいたり。 |
52 | 6 | 462 | 425 | 第六章 薫の物語 薫、断腸の秋の思い |
52 | 6.1 | 463 | 426 | 第一段 女一の宮から妹二の宮への手紙 |
52 | 6.1.1 | 464 | 427 |
その後、姫宮の御方より、二の宮に御消息ありけり。御手などの、いみじううつくしげなるを見るにも、いとうれしく、「かくてこそ、とく見るべかりけれ」と思す。 |
そののち、ひめみやのおほんかたより、にのみやにおほんせうそこありけり。おほんてなどの、いみじううつくしげなるをみるにも、いとうれしく、"かくてこそ、とくみるべかりけれ。"とおぼす。 |
52 | 6.1.2 | 465 | 428 |
あまたをかしき絵ども多く、大宮もたてまつらせたまへり。大将殿、うちまさりてをかしきども集めて、参らせたまふ。芹川の大将の遠君の、女一の宮思ひかけたる秋の夕暮に、思ひわびて出でて行きたる画、をかしう描きたるを、いとよく思ひ寄せらるかし。「かばかり思し靡く人のあらましかば」と思ふ身ぞ口惜しき。 |
あまたをかしきゑどもおほく、おほみやもたてまつらせたまへり。だいしゃうどの、うちまさりてをかしきどもあつめて、まゐらせたまふ。せりかはのだいしゃうのとほぎみの、をんないちのみやおもひかけたるあきのゆふぐれに、おもひわびていでていきたるかた、をかしうかきたるを、いとよくおもひよせらるかし。"かばかりおぼしなびくひとのあらましかば。"とおもふみぞくちをしき。 |
52 | 6.1.3 | 466 | 429 |
「荻の葉に露吹き結ぶ秋風も<BR/>夕べぞわきて身にはしみける」 |
"〔おぎのはにつゆふきむすぶあきかぜも<BR/>ゆふべぞわきてみにはしみける〕 |
52 | 6.1.4 | 467 | 430 |
と書きても添へまほしく思せど、 |
とかきてもそへまほしくおぼせど、 |
52 | 6.1.5 | 468 | 431 |
「さやうなるつゆばかりのけしきにても漏りたらば、いとわづらはしげなる世なれば、はかなきことも、えほのめかし出づまじ。かくよろづに何やかやと、ものを思ひの果ては、昔の人のものしたまはましかば、いかにもいかにも他ざまに心分けましや。 |
"さやうなるつゆばかりのけしきにてももりたらば、いとわづらはしげなるよなれば、はかなきことも、えほのめかしいづまじ。かくよろづになにやかやと、ものをおもひのはては、むかしのひとのものしたまはましかば、いかにもいかにもほかざまにこころわけましや。 |
52 | 6.1.6 | 469 | 432 |
時の帝の御女を賜ふとも、得たてまつらざらまし。また、さ思ふ人ありと聞こし召しながらは、かかることもなからましを、なほ心憂く、わが心乱りたまひける橋姫かな」 |
ときのみかどのおほんむすめをたまふとも、えたてまつらざらまし。また、さおもふひとありときこしめしながらは、かかることもなからましを、なほこころうく、わがこころみだりたまひけるはしひめかな。" |
52 | 6.1.7 | 470 | 433 |
と思ひあまりては、また宮の上にとりかかりて、恋しうもつらくも、わりなきことぞ、をこがましきまで悔しき。これに思ひわびて、さしつぎには、あさましくて亡せにし人の、いと心幼く、とどこほるところなかりける軽々しさをば思ひながら、さすがにいみじとものを、思ひ入りけむほど、わがけしき例ならずと、心の鬼に嘆き沈みてゐたりけむありさまを、聞きたまひしも思ひ出でられつつ、 |
とおもひあまりては、またみやのうへにとりかかりて、こひしうもつらくも、わりなきことぞ、をこがましきまでくやしき。これにおもひわびて、さしつぎには、あさましくてうせにしひとの、いとこころをさなく、とどこほるところなかりけるかろがろしさをばおもひながら、さすがにいみじとものを、おもひいりけんほど、わがけしきれいならずと、こころのおにになげきしづみてゐたりけんありさまを、ききたまひしもおもひいでられつつ、 |
52 | 6.1.8 | 471 | 434 |
「重りかなる方ならで、ただ心やすくらうたき語らひ人にてあらせむ、と思ひしには、いとらうたかりし人を。思ひもていけば、宮をも思ひきこえじ。女をも憂しと思はじ。ただわがありさまの世づかぬおこたりぞ」 |
"おもりかなるかたならで、ただこころやすくらうたきかたらひびとにてあらせん、とおもひしには、いとらうたかりしひとを。おもひもていけば、みやをもおもひきこえじ。をんなをもうしとおもはじ。ただわがありさまのよづかぬおこたりぞ。" |
52 | 6.1.9 | 472 | 435 |
など、眺め入りたまふ時々多かり。 |
など、ながめいりたまふときどきおほかり。 |
52 | 6.2 | 473 | 436 | 第二段 侍従、明石中宮に出仕す |
52 | 6.2.1 | 474 | 437 |
心のどかに、さまよくおはする人だに、かかる筋には、身も苦しきことおのづから混じるを、宮は、まして慰めかねつつ、かの形見に、飽かぬ悲しさをものたまひ出づべき人さへなきを、対の御方ばかりこそは、「あはれ」などのたまへど、深くも見馴れたまはざりける、うちつけの睦びなれば、いと深くしも、いかでかはあらむ。また、思すままに、「恋しや、いみじや」などのたまはむには、かたはらいたければ、かしこにありし侍従をぞ、例の、迎へさせたまひける。 |
こころのどかに、さまよくおはするひとだに、かかるすぢには、みもくるしきことおのづからまじるを、みやは、ましてなぐさめかねつつ、かのかたみに、あかぬかなしさをものたまひいづべきひとさへなきを、たいのおほんかたばかりこそは、"あはれ"などのたまへど、ふかくもみなれたまはざりける、うちつけのむつびなれば、いとふかくしも、いかでかはあらん。また、おぼすままに、"こひしや、いみじや。"などのたまはんには、かたはらいたければ、かしこにありしじじゅうをぞ、れいの、むかへさせたまひける。 |
52 | 6.2.2 | 475 | 438 |
皆人どもは行き散りて、乳母とこの人二人なむ、取り分きて思したりしも忘れがたくて、侍従はよそ人なれど、なほ語らひてあり経るに、世づかぬ川の音も、うれしき瀬もやある、と頼みしほどこそ慰めけれ、心憂くいみじくもの恐ろしくのみおぼえて、京になむ、あやしき所に、このころ来てゐたりける、尋ねたまひて、 |
みなひとどもはいきちりて、めのととこのひとふたりなん、とりわきておぼしたりしもわすれがたくて、じじゅうはよそびとなれど、なほかたらひてありふるに、よづかぬかはのおとも、うれしきせもやある、とたのみしほどこそなぐさめけれ、こころうくいみじくものおそろしくのみおぼえて、きゃうになん、あやしきところに、このころきてゐたりける、たづねたまひて、 |
52 | 6.2.3 | 476 | 439 |
「かくてさぶらへ」 |
"かくてさぶらへ。" |
52 | 6.2.4 | 477 | 440 |
とのたまへば、「御心はさるものにて、人びとの言はむことも、さる筋のこと混じりぬるあたりは、聞きにくきこともあらむ」と思へば、うけひききこえず。「后の宮に参らむ」となむおもむけたれば、 |
とのたまへば、"みこころはさるものにて、ひとびとのいはんことも、さるすぢのことまじりぬるあたりは、ききにくきこともあらん。"とおもへば、うけひききこえず。"きさいのみやにまゐらん。"となんおもむけたれば、 |
52 | 6.2.5 | 478 | 441 |
「いとよかなり。さて人知れず思し使はむ」 |
"いとよかなり。さてひとしれずおぼしつかはん。" |
52 | 6.2.6 | 479 | 442 |
とのたまはせけり。心細くよるべなきも慰むやとて、知るたより求め参りぬ。「きたなげなくてよろしき下臈なり」と許して、人もそしらず。大将殿も常に参りたまふを、見るたびごとに、もののみあはれなり。「いとやむごとなきものの姫君のみ、参り集ひたる宮」と人も言ふを、やうやう目とどめて見れど、「見たてまつりし人に似たるはなかりけり」と思ひありく。 |
とのたまはせけり。こころぼそくよるべなきもなぐさむやとて、しるたよりもとめまゐりぬ。"きたなげなくてよろしきげらふなり。"とゆるして、ひともそしらず。だいしゃうどのもつねにまゐりたまふを、みるたびごとに、もののみあはれなり。"いとやんごとなきもののひめぎみのみ、まゐりつどひたるみや。"とひともいふを、やうやうめとどめてみれど、"みたてまつりしひとににたるはなかりけり。"とおもひありく。 |
52 | 6.3 | 480 | 443 | 第三段 匂宮、宮の君を浮舟によそえて思う |
52 | 6.3.1 | 481 | 444 |
この春亡せたまひぬる式部卿宮の御女を、継母の北の方、ことにあひ思はで、兄の馬頭にて人柄もことなることなき、心懸けたるを、いとほしうなども思ひたらで、さるべきさまになむ契る、と聞こし召すたよりありて、 |
このはるうせたまひぬるしきぶきゃうのみやのおほんむすめを、ままははのきたのかた、ことにあひおもはで、せうとのむまのかみにてひとがらもことなることなき、こころかけたるを、いとほしうなどもおもひたらで、さるべきさまになんちぎる、ときこしめすたよりありて、 |
52 | 6.3.2 | 482 | 445 |
「いとほしう。父宮のいみじくかしづきたまひける女君を、いたづらなるやうにもてなさむこと」 |
"いとほしう。ちちみやのいみじくかしづきたまひけるをんなぎみを、いたづらなるやうにもてなさんこと。" |
52 | 6.3.3 | 483 | 446 |
などのたまはせければ、いと心細くのみ思ひ嘆きたまふありさまにて、 |
などのたまはせければ、いとこころぼそくのみおもひなげきたまふありさまにて、 |
52 | 6.3.4 | 484 | 447 |
「なつかしう、かく尋ねのたまはするを」 |
"なつかしう、かくたづねのたまはするを。" |
52 | 6.3.5 | 485 | 448 |
など、御兄の侍従も言ひて、このころ迎へ取らせたまひてけり。姫宮の御具にて、いとこよなからぬ御ほどの人なれば、やむごとなく心ことにてさぶらひたまふ。限りあれば、宮の君などうち言ひて、裳ばかりひきかけたまふぞ、いとあはれなりける。 |
など、おほんせうとのじじゅうもいひて、このころむかへとらせたまひてけり。ひめみやのおほんぐにて、いとこよなからぬおほんほどのひとなれば、やんごとなくこころことにてさぶらひたまふ。かぎりあれば、みやのきみなどうちいひて、もばかりひきかけたまふぞ、いとあはれなりける。 |
52 | 6.3.6 | 486 | 449 |
兵部卿宮、「この君ばかりや、恋しき人に思ひよそへつべきさましたらむ。父親王は兄弟ぞかし」など、例の御心は、人を恋ひたまふにつけても、人ゆかしき御癖やまで、いつしかと御心かけたまひてけり。 |
ひゃうぶきゃうのみや、"このきみばかりや、こひしきひとにおもひよそへつべきさましたらん。ちちみこははらからぞかし。"など、れいのみこころは、ひとをこひたまふにつけても、ひとゆかしきおほんくせやまで、いつしかとみこころかけたまひてけり。 |
52 | 6.3.7 | 487 | 450 |
大将、「もどかしきまでもあるわざかな。昨日今日といふばかり、春宮にやなど思し、我にもけしきばませたまひきかし。かくはかなき世の衰へを見るには、水の底に身を沈めても、もどかしからぬわざにこそ」など思ひつつ、人よりは心寄せきこえたまへり。 |
だいしゃう、"もどかしきまでもあるわざかな。きのふけふといふばかり、とうぐうにやなどおぼし、われにもけしきばませたまひきかし。かくはかなきよのおとろへをみるには、みづのそこにみをしづめても、もどかしからぬわざにこそ。"などおもひつつ、ひとよりはこころよせきこえたまへり。 |
52 | 6.3.8 | 488 | 451 |
この院におはしますをば、内裏よりも広くおもしろく住みよきものにして、常にしもさぶらはぬどもも、皆うちとけ住みつつ、はるばると多かる対ども、廊、渡殿に満ちたり。 |
このゐんにおはしますをば、うちよりもひろくおもしろくすみよきものにして、つねにしもさぶらはぬどもも、みなうちとけすみつつ、はるばるとおほかるたいども、らう、わたどのにみちたり。 |
52 | 6.3.9 | 489 | 452 |
左大臣殿、昔の御けはひにも劣らず、すべて限りもなく営み仕うまつりたまふ。いかめしうなりたる御族なれば、なかなかいにしへよりも、今めかしきことはまさりてさへなむありける。 |
さだいじんどの、むかしのおほんけはひにもおとらず、すべてかぎりもなくいとなみつかうまつりたまふ。いかめしうなりたるおほんぞうなれば、なかなかいにしへよりも、いまめかしきことはまさりてさへなんありける。 |
52 | 6.3.10 | 490 | 453 |
この宮、例の御心ならば、月ごろのほどに、いかなる好きごとどもをし出でたまはまし、こよなく静まりたまひて、人目に「すこし生ひ直りたまふかな」と見ゆるを、このころぞまた、宮の君に、本性現はれて、かかづらひありきたまひける。 |
このみや、れいのみこころならば、つきごろのほどに、いかなるすきごとどもをしいでたまはまし、こよなくしづまりたまひて、ひとめに"すこしおひなほりたまふかな。"とみゆるを、このころぞまた、みやのきみに、ほんじゃうあらはれて、かかづらひありきたまひける。 |
52 | 6.4 | 491 | 454 | 第四段 侍従、薫と匂宮を覗く |
52 | 6.4.1 | 492 | 455 |
涼しくなりぬとて、宮、内裏に参らせたまひなむとすれば、 |
すずしくなりぬとて、みや、うちにまゐらせたまひなんとすれば、 |
52 | 6.4.2 | 493 | 456 |
「秋の盛り、紅葉のころを見ざらむこそ」 |
"あきのさかり、もみぢのころをみざらんこそ。" |
52 | 6.4.3 | 494 | 457 |
など、若き人びとは口惜しがりて、皆参り集ひたるころなり。水に馴れ月をめでて、御遊び絶えず、常よりも今めかしければ、この宮ぞ、かかる筋はいとこよなくもてはやしたまふ。朝夕目馴れても、なほ今見む初花のさましたまへるに、大将の君は、いとさしも入り立ちなどしたまはぬほどにて、恥づかしう心ゆるびなきものに、皆思ひたり。 |
など、わかきひとびとはくちをしがりて、みなまゐりつどひたるころなり。みづになれつきをめでて、おほんあそびたえず、つねよりもいまめかしければ、このみやぞ、かかるすぢはいとこよなくもてはやしたまふ。あさゆふめなれても、なほいまみんはつはなのさましたまへるに、だいしゃうのきみは、いとさしもいりたちなどしたまはぬほどにて、はづかしうこころゆるびなきものに、みなおもひたり。 |
52 | 6.4.4 | 495 | 458 |
例の、二所参りたまひて、御前におはするほどに、かの侍従は、ものより覗きたてまつるに、 |
れいの、ふたところまゐりたまひて、おまへにおはするほどに、かのじじゅうは、ものよりのぞきたてまつるに、 |
52 | 6.4.5 | 496 | 459 |
「いづ方にもいづ方にもよりて、めでたき御宿世見えたるさまにて、世にぞおはせましかし。あさましくはかなく、心憂かりける御心かな」 |
"いづかたにもいづかたにもよりて、めでたきおほんすくせみえたるさまにて、よにぞおはせましかし。あさましくはかなく、こころうかりけるみこころかな。" |
52 | 6.4.6 | 497 | 460 |
など、人には、そのわたりのこと、かけて知り顔にも言はぬことなれば、心一つに飽かず胸いたく思ふ。宮は、内裏の御物語など、こまやかに聞こえさせたまへば、いま一所は立ち出でたまふ。「見つけられたてまつらじ。しばし、御果てをも過ぐさず心浅し、と見えたてまつらじ」と思へば、隠れぬ。 |
など、ひとには、そのわたりのこと、かけてしりがほにもいはぬことなれば、こころひとつにあかずむねいたくおもふ。みやは、うちのおほんものがたりなど、こまやかにきこえさせたまへば、いまひとところはたちいでたまふ。"みつけられたてまつらじ。しばし、おほんはてをもすぐさずこころあさし、とみえたてまつらじ。"とおもへば、かくれぬ。 |
52 | 6.5 | 498 | 461 | 第五段 薫、弁の御許らと和歌を詠み合う |
52 | 6.5.1 | 499 | 462 |
東の渡殿に、開きあひたる戸口に、人びとあまたゐて、物語などする所におはして、 |
ひんがしのわたどのに、あきあひたるとぐちに、ひとびとあまたゐて、ものがたりなどするところにおはして、 |
52 | 6.5.2 | 500 | 463 |
「なにがしをぞ、女房は睦ましと思すべき。女だにかく心やすくはよもあらじかし。さすがにさるべからむこと、教へきこえぬべくもあり。やうやう見知りたまふべかめれば、いとなむうれしき」 |
"なにがしをぞ、にょうばうはむつましとおぼすべき。をんなだにかくこころやすくはよもあらじかし。さすがにさるべからんこと、をしへきこえぬべくもあり。やうやうみしりたまふべかめれば、いとなんうれしき。" |
52 | 6.5.3 | 501 | 464 |
とのたまへば、いといらへにくくのみ思ふ中に、弁の御許とて、馴れたる大人、 |
とのたまへば、いといらへにくくのみおもふなかに、べんのおもととて、なれたるおとな、 |
52 | 6.5.4 | 502 | 465 |
「そも睦ましく思ひきこゆべきゆゑなき人の、恥ぢきこえはべらぬにや。ものはさこそはなかなかはべるめれ。かならずそのゆゑ尋ねて、うちとけ御覧ぜらるるにしもはべらねど、かばかり面無くつくりそめてける身に負はさざらむも、かたはらいたくてなむ」 |
"そもむつましくおもひきこゆべきゆゑなきひとの、はぢきこえはべらぬにや。ものはさこそはなかなかはべるめれ。かならずそのゆゑたづねて、うちとけごらんぜらるるにしもはべらねど、かばかりおもなくつくりそめてけるみにおはさざらんも、かたはらいたくてなん。" |
52 | 6.5.5 | 503 | 466 |
と聞こゆれば、 |
ときこゆれば、 |
52 | 6.5.6 | 504 | 467 |
「恥づべきゆゑあらじ、と思ひ定めたまひてけるこそ、口惜しけれ」 |
"はづべきゆゑあらじ、とおもひさだめたまひてけるこそ、くちをしけれ。" |
52 | 6.5.7 | 505 | 468 |
など、のたまひつつ見れば、唐衣は脱ぎすべし押しやり、うちとけて手習しけるなるべし、硯の蓋に据ゑて、心もとなき花の末手折りて、弄びけり、と見ゆ。かたへは几帳のあるにすべり隠れ、あるはうち背き、押し開けたる戸の方に、紛らはしつつゐたる、頭つきどもも、をかしと見わたしたまひて、硯ひき寄せて、 |
など、のたまひつつみれば、からぎぬはぬぎすべしおしやり、うちとけててならひしけるなるべし、すずりのふたにすゑて、こころもとなきはなのすゑたをりて、もてあそびけり、とみゆ。かたへはきちゃうのあるにすべりかくれ、あるはうちそむき、おしあけたるとのかたに、まぎらはしつつゐたる、かしらつきどもも、をかしとみわたしたまひて、すずりひきよせて、 |
52 | 6.5.8 | 506 | 470 |
「女郎花乱るる野辺に混じるとも<BR/>露のあだ名を我にかけめや |
"〔をみなへしみだるるのべにまじるとも<BR/>つゆのあだなをわれにかけめや |
52 | 6.5.9 | 507 | 471 |
心やすくは思さで」 |
こころやすくはおぼさで。" |
52 | 6.5.10 | 508 | 472 |
と、ただこの障子にうしろしたる人に見せたまへば、うちみじろきなどもせず、のどやかに、いととく、 |
と、ただこのさうじにうしろしたるひとにみせたまへば、うちみじろきなどもせず、のどやかに、いととく、 |
52 | 6.5.11 | 509 | 473 |
「花といへば名こそあだなれ女郎花<BR/>なべての露に乱れやはする」 |
"〔はなといへばなこそあだなれをみなへし<BR/>なべてのつゆにみだれやはする〕 |
52 | 6.5.12 | 510 | 474 |
と書きたる手、ただかたそばなれど、よしづきて、おほかためやすければ、誰ならむ、と見たまふ。今参う上りける道に、塞げられてとどこほりゐたるなるべし、と見ゆ。弁の御許は、 |
とかきたるて、ただかたそばなれど、よしづきて、おほかためやすければ、たれならん、とみたまふ。いままうのぼりけるみちに、ふたげられてとどこほりゐたるなるべし、とみゆ。べんのおもとは、 |
52 | 6.5.13 | 511 | 475 |
「いとけざやかなる翁言、憎くはべり」とて、 |
"いとけざやかなるおきなごと、にくくはべり。"とて、 |
52 | 6.5.14 | 512 | 476 |
「旅寝してなほこころみよ女郎花<BR/>盛りの色に移り移らず |
"〔たびねしてなほこころみよをみなへし<BR/>さかりのいろにうつりうつらず |
52 | 6.5.15 | 513 | 477 |
さて後、定めきこえさせむ」 |
さてのち、さだめきこえさせん。" |
52 | 6.5.16 | 514 | 478 |
と言へば、 |
といへば、 |
52 | 6.5.17 | 515 | 479 |
「宿貸さば一夜は寝なむおほかたの<BR/>花に移らぬ心なりとも」 |
"〔やどかさばひとよはねなんおほかたの<BR/>はなにうつらぬこころなりとも〕 |
52 | 6.5.18 | 516 | 480 |
とあれば、 |
とあれば、 |
52 | 6.5.19 | 517 | 481 |
「何か、恥づかしめさせたまふ。おほかたの野辺のさかしらをこそ聞こえさすれ」 |
"なにか、はづかしめさせたまふ。おほかたののべのさかしらをこそきこえさすれ。" |
52 | 6.5.20 | 518 | 482 |
と言ふ。はかなきことをただすこしのたまふも、人は残り聞かまほしくのみ思ひきこえたり。 |
といふ。はかなきことをただすこしのたまふも、ひとはのこりきかまほしくのみおもひきこえたり。 |
52 | 6.5.21 | 519 | 483 |
「心なし。道開けはべりなむよ。分きても、かの御もの恥ぢのゆゑ、かならずありぬべき折にぞあめる」 |
"こころなし。みちあけはべりなんよ。わきても、かのおほんものはぢのゆゑ、かならずありぬべきをりにぞあめる。" |
52 | 6.5.22 | 520 | 484 |
とて、立ち出でたまへば、「おしなべてかく残りなからむ、と思ひやりたまふこそ心憂けれ」と思へる人もあり。 |
とて、たちいでたまへば、"おしなべてかくのこりなからん、とおもひやりたまふこそこころうけれ。"とおもへるひともあり。 |
52 | 6.6 | 521 | 485 | 第六段 薫、断腸の秋の思い |
52 | 6.6.1 | 522 | 486 |
東の高欄に押しかかりて、夕影になるままに、花の紐解く御前の草むらを見わたしたまふ。もののみあはれなるに、「中に就いて腸断ゆるは秋の天」といふことを、いと忍びやかに誦じつつゐたまへり。ありつる衣の音なひ、しるきけはひして、母屋の御障子より通りて、あなたに入るなり。宮の歩みおはして、 |
ひんがしのかうらんにおしかかりて、ゆふかげになるままに、はなのひもとくおまへのくさむらをみわたしたまふ。もののみあはれなるに、"なかについてはらわたたゆるはあきのてん"といふことを、いとしのびやかにずじつつゐたまへり。ありつるきぬのおとなひ、しるきけはひして、もやのみさうじよりとほりて、あなたにいるなり。みやのあゆみおはして、 |
52 | 6.6.2 | 523 | 487 |
「これよりあなたに参りつるは誰そ」 |
"これよりあなたにまゐりつるはたそ。" |
52 | 6.6.3 | 524 | 488 |
と問ひたまへば、 |
ととひたまへば、 |
52 | 6.6.4 | 525 | 489 |
「かの御方の中将の君」 |
"かのおほんかたのちうじゃうのきみ。" |
52 | 6.6.5 | 526 | 490 |
と聞こゆなり。 |
ときこゆなり。 |
52 | 6.6.6 | 527 | 491 |
「なほ、あやしのわざや。誰れにかと、かりそめにもうち思ふ人に、やがてかくゆかしげなく聞こゆる名ざしよ」と、いとほしく、この宮には、皆目馴れてのみおぼえたてまつるべかめるも口惜し。 |
"なほ、あやしのわざや。たれにかと、かりそめにもうちおもふひとに、やがてかくゆかしげなくきこゆるなざしよ。"と、いとほしく、このみやには、みなめなれてのみおぼえたてまつるべかめるもくちをし。 |
52 | 6.6.7 | 528 | 492 |
「おりたちてあながちなる御もてなしに、女はさもこそ負けたてまつらめ。わが、さも口惜しう、この御ゆかりには、ねたく心憂くのみあるかな。いかで、このわたりにも、めづらしからむ人の、例の心入れて騷ぎたまはむを語らひ取りて、わが思ひしやうに、やすからずとだにも思はせたてまつらむ。まことに心ばせあらむ人は、わが方にぞ寄るべきや。されど難いものかな。人の心は」 |
"おりたちてあながちなるおほんもてなしに、をんなはさもこそまけたてまつらめ。わが、さもくちをしう、このおほんゆかりには、ねたくこころうくのみあるかな。いかで、このわたりにも、めづらしからんひとの、れいのこころいれてさわぎたまはんをかたらひとりて、わがおもひしやうに、やすからずとだにもおもはせたてまつらん。まことにこころばせあらんひとは、わがかたにぞよるべきや。されどかたいものかな。ひとのこころは。" |
52 | 6.6.8 | 529 | 493 |
と思ふにつけて、対の御方の、かの御ありさまをば、ふさはしからぬものに思ひきこえて、いと便なき睦びになりゆくが、おほかたのおぼえをば、苦しと思ひながら、なほさし放ちがたきものに思し知りたるぞ、ありがたくあはれなりける。 |
とおもふにつけて、たいのおほんかたの、かのおほんありさまをば、ふさはしからぬものにおもひきこえて、いとびんなきむつびになりゆくが、おほかたのおぼえをば、くるしとおもひながら、なほさしはなちがたきものにおぼししりたるぞ、ありがたくあはれなりける。 |
52 | 6.6.9 | 530 | 494 |
「さやうなる心ばせある人、ここらの中にあらむや。入りたちて深く見ねば知らぬぞかし。寝覚がちにつれづれなるを、すこしは好きもならはばや」 |
"さやうなるこころばせあるひと、ここらのなかにあらんや。いりたちてふかくみねばしらぬぞかし。ねざめがちにつれづれなるを、すこしはすきもならはばや。" |
52 | 6.6.10 | 531 | 495 |
など思ふに、今はなほつきなし。 |
などおもふに、いまはなほつきなし。 |
52 | 6.7 | 532 | 496 | 第七段 薫と中将の御許、遊仙窟の問答 |
52 | 6.7.1 | 533 | 497 |
例の、西の渡殿を、ありしにならひて、わざとおはしたるもあやし。姫宮、夜はあなたに渡らせたまひければ、人びと月見るとて、この渡殿にうちとけて物語するほどなりけり。箏の琴いとなつかしう弾きすさむ爪音、をかしう聞こゆ。思ひかけぬに寄りおはして、 |
れいの、にしのわたどのを、ありしにならひて、わざとおはしたるもあやし。ひめみや、よるはあなたにわたらせたまひければ、ひとびとつきみるとて、このわたどのにうちとけてものがたりするほどなりけり。さうのこといとなつかしうひきすさむつまおと、をかしうきこゆ。おもひかけぬによりおはして、 |
52 | 6.7.2 | 534 | 498 |
「など、かくねたまし顔にかき鳴らしたまふ」 |
"など、かくねたましがほにかきならしたまふ。" |
52 | 6.7.3 | 535 | 499 |
とのたまふに、皆おどろかるべけれど、すこし上げたる簾うち下ろしなどもせず、起き上がりて、 |
とのたまふに、みなおどろかるべけれど、すこしあげたるすだれうちおろしなどもせず、おきあがりて、 |
52 | 6.7.4 | 536 | 500 |
「似るべき兄やは、はべるべき」 |
"にるべきこのかみやは、はべるべき。" |
52 | 6.7.5 | 537 | 501 |
といらふる声、中将の御許とか言ひつるなりけり。 |
といらふるこゑ、ちうじゃうのおもととかいひつるなりけり。 |
52 | 6.7.6 | 538 | 502 |
「まろこそ、御母方の叔父なれ」 |
"まろこそ、おほんははがたのをぢなれ。" |
52 | 6.7.7 | 539 | 503 |
と、はかなきことをのたまひて、 |
と、はかなきことをのたまひて、 |
52 | 6.7.8 | 540 | 504 |
「例の、あなたにおはしますべかめりな。何わざをか、この御里住みのほどにせさせたまふ」 |
"れいの、あなたにおはしますべかめりな。なにわざをか、このおほんさとずみのほどにせさせたまふ。" |
52 | 6.7.9 | 541 | 505 |
など、あぢきなく問ひたまふ。 |
など、あぢきなくとひたまふ。 |
52 | 6.7.10 | 542 | 506 |
「いづくにても、何事をかは。ただ、かやうにてこそは過ぐさせたまふめれ」 |
"いづくにても、なにごとをかは。ただ、かやうにてこそはすぐさせたまふめれ。" |
52 | 6.7.11 | 543 | 507 |
と言ふに、「をかしの御身のほどや、と思ふに、すずろなる嘆きの、うち忘れてしつるも、あやしと思ひ寄る人もこそ」と紛らはしに、さし出でたる和琴を、たださながら掻き鳴らしたまふ。律の調べは、あやしく折にあふと聞く声なれば、聞きにくくもあらねど、弾き果てたまはぬを、なかなかなりと、心入れたる人は、消えかへり思ふ。 |
といふに、"をかしのおほんみのほどや、とおもふに、すずろなるなげきの、うちわすれてしつるも、あやしとおもひよるひともこそ。"とまぎらはしに、さしいでたるわごんを、たださながらかきならしたまふ。りちのしらべは、あやしくをりにあふときくこゑなれば、ききにくくもあらねど、ひきはてたまはぬを、なかなかなりと、こころいれたるひとは、きえかへりおもふ。 |
52 | 6.7.12 | 544 | 508 |
「わが母宮も劣りたまふべき人かは。后腹と聞こゆばかりの隔てこそあれ、帝々の思しかしづきたるさま、異事ならざりけるを。なほ、この御あたりは、いとことなりけるこそあやしけれ。明石の浦は心にくかりける所かな」など思ひ続くることどもに、「わが宿世は、いとやむごとなしかし。まして、並べて持ちたてまつらば」と思ふぞ、いと難きや。 |
"わがははみやもおとりたまふべきひとかは。きさいばらときこゆばかりのへだてこそあれ、みかどみかどのおぼしかしづきたるさま、ことごとならざりけるを。なほ、このおほんあたりは、いとことなりけるこそあやしけれ。あかしのうらはこころにくかりけるところかな。"などおもひつづくることどもに、"わがすくせは、いとやんごとなしかし。まして、ならべてもちたてまつらば。"とおもふぞ、いとかたきや。 |
52 | 6.8 | 545 | 509 | 第八段 薫、宮の君を訪ねる |
52 | 6.8.1 | 546 | 510 |
宮の君は、この西の対にぞ御方したりける。若き人びとのけはひあまたして、月めであへり。 |
みやのきみは、このにしのたいにぞおほんかたしたりける。わかきひとびとのけはひあまたして、つきめであへり。 |
52 | 6.8.2 | 547 | 511 |
「いで、あはれ、これもまた同じ人ぞかし」 |
"いで、あはれ、これもまたおなじひとぞかし。" |
52 | 6.8.3 | 548 | 512 |
と思ひ出できこえて、「親王の、昔心寄せたまひしものを」と言ひなして、そなたへおはしぬ。童の、をかしき宿直姿にて、二、三人出でて歩きなどしけり。見つけて入るさまども、かかやかし。これぞ世の常と思ふ。 |
とおもひいできこえて、"みこの、むかしこころよせたまひしものを。"といひなして、そなたへおはしぬ。わらはの、をかしきとのゐすがたにて、に、さんにんいでてありきなどしけり。みつけているさまども、かかやかし。これぞよのつねとおもふ。 |
52 | 6.8.4 | 549 | 513 |
南面の隅の間に寄りて、うち声づくりたまへば、すこしおとなびたる人出で来たり。 |
みなみおもてのすみのまによりて、うちこわづくりたまへば、すこしおとなびたるひといできたり。 |
52 | 6.8.5 | 550 | 514 |
「人知れぬ心寄せなど聞こえさせはべれば、なかなか、皆人聞こえさせふるしつらむことを、うひうひしきさまにて、まねぶやうになりはべり。まめやかになむ、言より外を求められはべる」 |
"ひとしれぬこころよせなどきこえさせはべれば、なかなか、みなひときこえさせふるしつらんことを、うひうひしきさまにて、まねぶやうになりはべり。まめやかになん、ことよりほかをもとめられはべる。" |
52 | 6.8.6 | 551 | 515 |
とのたまへば、君にも言ひ伝へず、さかしだちて、 |
とのたまへば、きみにもいひつたへず、さかしだちて、 |
52 | 6.8.7 | 552 | 516 |
「いと思ほしかけざりし御ありさまにつけても、故宮の思ひきこえさせたまへりしことなど、思ひたまへ出でられてなむ。かくのみ、折々聞こえさせたまふなり。御後言をも、よろこびきこえたまふめる」 |
"いとおもほしかけざりしおほんありさまにつけても、こみやのおもひきこえさせたまへりしことなど、おもひたまへいでられてなん。かくのみ、をりをりきこえさせたまふなり。おほんしりうごとをも、よろこびきこえたまふめる。" |
52 | 6.8.8 | 553 | 517 |
と言ふ。 |
といふ。 |
52 | 6.9 | 554 | 518 | 第九段 薫、宇治の三姉妹の運命を思う |
52 | 6.9.1 | 555 | 519 |
「なみなみの人めきて、心地なのさまや」ともの憂ければ、 |
"なみなみのひとめきて、ここちなのさまや。"とものうければ、 |
52 | 6.9.2 | 556 | 520 |
「もとより思し捨つまじき筋よりも、今はまして、さるべきことにつけても、思ほし尋ねむなむうれしかるべき。疎々しう人伝てなどにてもてなさせたまはば、えこそ」 |
"もとよりおぼしすつまじきすぢよりも、いまはまして、さるべきことにつけても、おもほしたづねんなんうれしかるべき。うとうとしうひとづてなどにてもてなさせたまはば、えこそ。" |
52 | 6.9.3 | 557 | 521 |
とのたまふに、「げに」と、思ひ騷ぎて、君をひきゆるがすめれば、 |
とのたまふに、"げに。"と、おもひさわぎて、きみをひきゆるがすめれば、 |
52 | 6.9.4 | 558 | 522 |
「松も昔のとのみ、眺めらるるにも、もとよりなどのたまふ筋は、まめやかに頼もしうこそは」 |
"まつもむかしのとのみ、ながめらるるにも、もとよりなどのたまふすぢは、まめやかにたのもしうこそは。" |
52 | 6.9.5 | 559 | 523 |
と、人伝てともなく言ひなしたまへる声、いと若やかに愛敬づき、やさしきところ添ひたり。「ただなべてのかかる住処の人と思はば、いとをかしかるべきを、ただ今は、いかでかばかりも、人に声聞かすべきものとならひたまひけむ」と、なまうしろめたし。「容貌もいとなまめかしからむかし」と、見まほしきけはひのしたるを、「この人ぞ、また例の、かの御心乱るべきつまなめると、をかしうも、ありがたの世や」と思ひゐたまへり。 |
と、ひとづてともなくいひなしたまへるこゑ、いとわかやかにあいぎゃうづき、やさしきところそひたり。"ただなべてのかかるすみかのひととおもはば、いとをかしかるべきを、ただいあまは、いかでかばかりも、ひとにこゑきかすべきものとならひたまひけん。"と、なまうしろめたし。"かたちもいとなまめかしからんかし。"と、みまほしきけはひのしたるを、"このひとぞ、またれいの、かのみこころみだるべきつまなめると、をかしうも、ありがたのよや。"とおもひゐたまへり。 |
52 | 6.9.6 | 560 | 524 |
「これこそは、限りなき人のかしづき生ほしたてたまへる姫君。また、かばかりぞ多くはあるべき。あやしかりけることは、さる聖の御あたりに、山のふところより出で来たる人びとの、かたほなるはなかりけるこそ。この、はかなしや、軽々しや、など思ひなす人も、かやうのうち見るけしきは、いみじうこそをかしかりしか」 |
"これこそは、かぎりなきひとのかしづきおほしたてたまへるひめぎみ。また、かばかりぞおほくはあるべき。あやしかりけることは、さるひじりのおほんあたりに、やまのふところよりいできたるひとびとの、かたほなるはなかりけるこそ。この、はかなしや、かろがろしや、などおもひなすひとも、かやうのうちみるけしきは、いみじうこそをかしかりしか。" |
52 | 6.9.7 | 561 | 526 |
と、何事につけても、ただかの一つゆかりをぞ思ひ出でたまひける。あやしう、つらかりける契りどもを、つくづくと思ひ続け眺めたまふ夕暮、蜻蛉のものはかなげに飛びちがふを、 |
と、なにごとにつけても、ただかのひとつゆかりをぞおもひいでたまひける。あやしう、つらかりけるちぎりどもを、つくづくとおもひつづけながめたまふゆふぐれ、かげろふのものはかなげにとびちがふを、 |
52 | 6.9.8 | 562 | 527 |
「ありと見て手にはとられず見ればまた<BR/>行方も知らず消えし蜻蛉 |
"〔ありとみててにはとられずみればまた<BR/>ゆくへもしらずきえしかげろふ |
52 | 6.9.9 | 563 | 528 |
あるか、なきかの」 |
あるか、なきかの。" |
52 | 6.9.10 | 564 | 529 |
と、例の、独りごちたまふ、とかや。 |
と、れいの、ひとりごちたまふ、とかや。 |