帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
53 | 手習 |
53 | 1 | 117 | 80 | 第一章 浮舟の物語 浮舟、入水未遂、横川僧都らに助けられる |
53 | 1.1 | 118 | 81 | 第一段 横川僧都の母、初瀬詣での帰途に急病 |
53 | 1.1.1 | 119 | 82 |
そのころ、横川に、なにがし僧都とか言ひて、いと尊き人住みけり。八十余りの母、五十ばかりの妹ありけり。古き願ありて、初瀬に詣でたりけり。 |
そのころ、よかはに、なにがしそうづとかいひて、いとたふときひとすみけり。やそぢあまりのはは、いそぢばかりのいもうとありけり。ふるきがんありて、はつせにまうでたりけり。 |
53 | 1.1.2 | 120 | 83 |
睦ましうやむごとなく思ふ弟子の阿闍梨を添へて、仏経供養ずること行ひけり。事ども多くして帰る道に、奈良坂と言ふ山越えけるほどより、この母の尼君、心地悪しうしければ、「かくては、いかでか残りの道をもおはし着かむ」ともて騷ぎて、宇治のわたりに知りたりける人の家ありけるに、とどめて、今日ばかり休めたてまつるに、なほいたうわづらへば、横川に消息したり。 |
むつましうやんごとなくおもふでしのあざりをそへて、ほとけきゃうくやうずることおこなひけり。ことどもおほくしてかへるみちに、ならさかといふやまこえけるほどより、このははのあまぎみ、ここちあしうしければ、"かくては、いかでかのこりのみちをもおはしつかん。"ともてさわぎて、うぢのわたりにしりたりけるひとのいへありけるに、とどめて、けふばかりやすめたてまつるに、なほいたうわづらへば、よかはにせうそこしたり。 |
53 | 1.1.3 | 121 | 84 |
山籠もりの本意深く、今年は出でじと思ひけれど、「限りのさまなる親の、道の空にて亡くやならむ」と驚きて、急ぎものしたまへり。惜しむべくもあらぬ人ざまを、みづからも、弟子の中にも験あるして、加持し騒ぐを、家主人聞きて、 |
やまごもりのほいふかく、ことしはいでじとおもひけれど、"かぎりのさまなるおやの、みちのそらにてなくやならん。"とおどろきて、いそぎものしたまへり。をしむべくもあらぬひとざまを、みづからも、でしのなかにもげんあるして、かぢしさわぐを、いへあるじききて、 |
53 | 1.1.4 | 122 | 85 |
「御獄精進しけるを、いたう老いたまへる人の、重く悩みたまふは、いかが」 |
"みたけさうじしけるを、いたうおいたまへるひとの、おもくなやみたまふは、いかが。" |
53 | 1.1.5 | 123 | 86 |
とうしろめたげに思ひて言ひければ、さも言ふべきことぞ、いとほしう思ひて、いと狭くむつかしうもあれば、やうやう率てたてまつるべきに、中神塞がりて、例住みたまふ方は忌むべかりければ、「故朱雀院の御領にて、宇治の院と言ひし所、このわたりならむ」と思ひ出でて、院守、僧都知りたまへりければ、「一、二日宿らむ」と言ひにやりたまへりければ、 |
とうしろめたげにおもひていひければ、さもいふべきことぞ、いとほしうおもひて、いとせばくむつかしうもあれば、やうやうゐてたてまつるべきに、なかがみふたがりて、れいすみたまふかたはいむべかりければ、"こすざくゐんのごりゃうにて、うぢのゐんといひしところ、このわたりならん。"とおもひいでて、ゐんもり、そうづしりたまへりければ、"ひとひ、ふつかやどらん。"といひにやりたまへりければ、 |
53 | 1.1.6 | 124 | 87 |
「初瀬になむ、昨日皆詣りにける」 |
"はつせになん、きのふみなまゐりにける。" |
53 | 1.1.7 | 125 | 88 |
とて、いとあやしき宿守の翁を呼びて率て来たり。 |
とて、いとあやしきやどもりのおきなをよびてゐてきたり。 |
53 | 1.1.8 | 126 | 89 |
「おはしまさば、はや。いたづらなる院の寝殿にこそはべるめれ。物詣での人は、常にぞ宿りたまふ」 |
"おはしまさば、はや。いたづらなるゐんのしんでんにこそはべるめれ。ものまうでのひとは、つねにぞやどりたまふ。" |
53 | 1.1.9 | 127 | 90 |
と言へば、 |
といへば、 |
53 | 1.1.10 | 128 | 91 |
「いとよかなり。公所なれど、人もなく心やすきを」 |
"いとよかなり。おほやけどころなれど、ひともなくこころやすきを。" |
53 | 1.1.11 | 129 | 92 |
とて、見せにやりたまふ。この翁、例もかく宿る人を見ならひたりければ、おろそかなるしつらひなどして来たり。 |
とて、みせにやりたまふ。このおきな、れいもかくやどるひとをみならひたりければ、おろそかなるしつらひなどしてきたり。 |
53 | 1.2 | 130 | 93 | 第二段 僧都、宇治の院の森で妖しい物に出会う |
53 | 1.2.1 | 131 | 94 |
まづ、僧都渡りたまふ。「いといたく荒れて、恐ろしげなる所かな」と見たまふ。 |
まづ、そうづわたりたまふ。"いといたくあれて、おそろしげなるところかな。"とみたまふ。 |
53 | 1.2.2 | 132 | 95 |
「大徳たち、経読め」 |
"だいとこたち、きゃうよめ。" |
53 | 1.2.3 | 133 | 96 |
などのたまふ。この初瀬に添ひたりし阿闍梨と同じやうなる、何事のあるにか、つきづきしきほどの下臈法師に、火ともさせて、人も寄らぬうしろの方に行きたり。森かと見ゆる木の下を、「疎ましげのわたりや」と見入れたるに、白き物の広ごりたるぞ見ゆる。 |
などのたまふ。このはつせにそひたりしあじゃりとおなじやうなる、なにごとのあるにか、つきづきしきほどのげらふほふしに、ひともさせて、ひともよらぬうしろのかたにいきたり。もりかとみゆるこのしたを、"うとましげのわたりや。"とみいれたるに、しろきもののひろごりたるぞみゆる。 |
53 | 1.2.4 | 134 | 97 |
「かれは、何ぞ」 |
"かれは、なにぞ。" |
53 | 1.2.5 | 135 | 98 |
と、立ち止まりて、火を明くなして見れば、物の居たる姿なり。 |
と、たちとまりて、ひをあかくなしてみれば、もののゐたるすがたなり。 |
53 | 1.2.6 | 136 | 99 |
「狐の変化したる。憎し。見現はさむ」 |
"きつねのへんげしたる。にくし。みあらはさん。" |
53 | 1.2.7 | 137 | 100 |
とて、一人は今すこし歩み寄る。今一人は、 |
とて、ひとりはいますこしあゆみよる。いまひとりは、 |
53 | 1.2.8 | 138 | 101 |
「あな、用な。よからぬ物ならむ」 |
"あな、ような。よからぬものならん。" |
53 | 1.2.9 | 139 | 102 |
と言ひて、さやうの物退くべき印を作りつつ、さすがになほまもる。頭の髪あらば太りぬべき心地するに、この火ともしたる大徳、憚りもなく、奥なきさまにて、近く寄りてそのさまを見れば、髪は長くつやつやとして、大きなる木のいと荒々しきに寄りゐて、いみじう泣く。 |
といひて、さやうのものしりぞくべきいんをつくりつつ、さすがになほまもる。かしらのかみあらばふとりぬべきここちするに、このひともしたるだいとこ、はばかりもなく、あうなきさまにて、ちかくよりてそのさまをみれば、かみはながくつやつやとして、おほきなるきのいとあらあらしきによりゐて、いみじうなく。 |
53 | 1.2.10 | 140 | 103 |
「珍しきことにもはべるかな。僧都の御坊に御覧ぜさせたてまつらばや」 |
"めづらしきことにもはべるかな。そうづのごばうにごらんぜさせたてまつらばや。" |
53 | 1.2.11 | 141 | 104 |
と言へば、 |
といへば、 |
53 | 1.2.12 | 142 | 105 |
「げに、妖しき事なり」 |
"げに、あやしきことなり。" |
53 | 1.2.13 | 143 | 106 |
とて、一人はまうでて、「かかることなむ」と申す。 |
とて、ひとりはまうでて、"かかることなん。"とまうす。 |
53 | 1.2.14 | 144 | 107 |
「狐の人に変化するとは昔より聞けど、まだ見ぬものなり」 |
"きつねのひとにへんげするとはむかしよりきけど、まだみぬものなり。" |
53 | 1.2.15 | 145 | 108 |
とて、わざと下りておはす。 |
とて、わざとおりておはす。 |
53 | 1.2.16 | 146 | 109 |
かの渡りたまはむとすることによりて、下衆ども、皆はかばかしきは、御厨子所など、あるべかしきことどもを、かかるわたりには急ぐものなりければ、ゐ静まりなどしたるに、ただ四、五人して、ここなる物を見るに、変はることもなし。 |
かのわたりたまはんとすることによりて、げすども、みなはかばかしきは、みづしどころなど、あるべかしきことどもを、かかるわたりにはいそぐものなりければ、ゐしづまりなどしたるに、ただし、ごにんして、ここなるものをみるに、かはることもなし。 |
53 | 1.2.17 | 147 | 110 |
あやしうて、時の移るまで見る。「疾く夜も明け果てなむ。人か何ぞと、見現はさむ」と、心にさるべき真言を読み、印を作りて試みるに、しるくや思ふらむ、 |
あやしうて、ときのうつるまでみる。"とくよもあけはてなん。ひとかなにぞと、みあらはさん。"と、こころにさるべきしんごんをよみ、いんをつくりてこころみるに、しるくやおもふらん、 |
53 | 1.2.18 | 148 | 111 |
「これは、人なり。さらに非常のけしからぬ物にあらず。寄りて問へ。亡くなりたる人にはあらぬにこそあめれ。もし死にたりける人を捨てたりけるが、蘇りたるか」 |
"これは、ひとなり。さらにひざうのけしからぬものにあらず。よりてとへ。なくなりたるひとにはあらぬにこそあめれ。もししにたりけるひとをすてたりけるが、よみがへりたるか。" |
53 | 1.2.19 | 149 | 112 |
と言ふ。 |
といふ。 |
53 | 1.2.20 | 150 | 113 |
「何の、さる人をか、この院の内に捨てはべらむ。たとひ、真に人なりとも、狐、木霊やうの物の、欺きて取りもて来たるにこそはべらめと、不便にもはべりけるかな。穢らひあるべき所にこそはべめれ」 |
"なにの、さるひとをか、このゐんのうちにすてはべらん。たとひ、まことにひとなりとも、きつね、こだまやうのものの、あざむきてとりもてきたるにこそはべらめと、ふびんにもはべりけるかな。けがらひあるべきところにこそはべめれ。" |
53 | 1.2.21 | 151 | 114 |
と言ひて、ありつる宿守の男を呼ぶ。山彦の答ふるも、いと恐ろし。 |
といひて、ありつるやどもりのをのこをよぶ。やまびこのこたふるも、いとおそろし。 |
53 | 1.3 | 152 | 115 | 第三段 若い女であることを確認し、救出する |
53 | 1.3.1 | 153 | 116 |
妖しのさまに、額おし上げて出で来たり。 |
あやしのさまに、ひたひおしあげていできたり。 |
53 | 1.3.2 | 154 | 117 |
「ここには、若き女などや住みたまふ。かかることなむある」 |
"ここには、わかきをんななどやすみたまふ。かかることなんある。" |
53 | 1.3.3 | 155 | 118 |
とて見すれば、 |
とてみすれば、 |
53 | 1.3.4 | 156 | 119 |
「狐の仕うまつるなり。この木のもとになむ、時々妖しきわざなむしはべる。一昨年の秋も、ここにはべる人の子の、二つばかりにはべしを、取りてまうで来たりしかど、見驚かずはべりき」 |
"きつねのつかうまつるなり。このきのもとになん、ときどきあやしきわざなんしはべる。をととしのあきも、ここにはべるひとのこの、ふたつばかりにはべしを、とりてまうできたりしかど、みおどろかずはべりき。" |
53 | 1.3.5 | 157 | 120 |
「さて、その稚児は死にやしにし」 |
"さて、そのちごはしにやしにし。" |
53 | 1.3.6 | 158 | 121 |
と言へば、 |
といへば、 |
53 | 1.3.7 | 159 | 122 |
「生きてはべり。狐は、さこそは人を脅かせど、ことにもあらぬ奴」 |
"いきてはべり。きつねは、さこそはひとをおびやかせど、ことにもあらぬやつ。" |
53 | 1.3.8 | 160 | 123 |
と言ふさま、いと馴れたり。かの夜深き参りものの所に、心を寄せたるなるべし。僧都、 |
といふさま、いとなれたり。かのよぶかきまゐりもののところに、こころをよせたるなるべし。そうづ、 |
53 | 1.3.9 | 161 | 124 |
「さらば、さやうの物のしたるわざか。なほ、よく見よ」 |
"さらば、さやうのもののしたるわざか。なほ、よくみよ。" |
53 | 1.3.10 | 162 | 125 |
とて、このもの懼ぢせぬ法師を寄せたれば、 |
とて、このものおぢせぬほふしをよせたれば、 |
53 | 1.3.11 | 163 | 127 |
「鬼か神か狐か木霊か。かばかりの天の下の験者のおはしますには、え隠れたてまつらじ。名のりたまへ。名のりたまへ」 |
"おにかかみかきつねかこだまか。かばかりのあめのしたのげんざのおはしますには、えかくれたてまつらじ。なのりたまへ。なのりたまへ。" |
53 | 1.3.12 | 164 | 128 |
と、衣を取りて引けば、顔をひき入れていよいよ泣く。 |
と、きぬをとりてひけば、かほをひきいれていよいよなく。 |
53 | 1.3.13 | 165 | 129 |
「いで、あな、さがなの木霊の鬼や。まさに隠れなむや」 |
"いで、あな、さがなのこだまのおにや。まさにかくれなんや。" |
53 | 1.3.14 | 166 | 130 |
と言ひつつ、顔を見むとするに、「昔ありけむ目も鼻もなかりける女鬼にやあらむ」と、むくつけきを、頼もしういかきさまを人に見せむと思ひて、衣を引き脱がせむとすれば、うつ臥して声立つばかり泣く。 |
といひつつ、かほをみんとするに、"むかしありけんめもはなもなかりけるめおににやあらん。"と、むくつけきを、たのもしういかきさまをひとにみせんとおもひて、きぬをひきぬがせんとすれば、うつぶしてこゑたつばかりなく。 |
53 | 1.3.15 | 167 | 131 |
「何にまれ、かく妖しきこと、なべて、世にあらじ」 |
"なににまれ、かくあやしきこと、なべて、よにあらじ。" |
53 | 1.3.16 | 168 | 132 |
とて、見果てむと思ふに、 |
とて、みはてんとおもふに、 |
53 | 1.3.17 | 169 | 133 |
「雨いたく降りぬべし。かくて置いたらば、死に果てはべりぬべし。垣の下にこそ出ださめ」 |
"あめいたくふりぬべし。かくておいたらば、しにはてはべりぬべし。かきのもとにこそいださめ。" |
53 | 1.3.18 | 170 | 134 |
と言ふ。僧都、 |
といふ。そうづ、 |
53 | 1.3.19 | 171 | 135 |
「まことの人の形なり。その命絶えぬを見る見る捨てむこと、いといみじきことなり。池に泳ぐ魚、山に鳴く鹿をだに、人に捕へられて死なむとするを見て、助けざらむは、いと悲しかるべし。人の命久しかるまじきものなれど、残りの命、一、二日をも惜しまずはあるべからず。鬼にも神にも、領ぜられ、人に逐はれ、人に謀りごたれても、これ横様の死にをすべきものにこそあんめれ、仏のかならず救ひたまふべき際なり。 |
"まことのひとのかたちなり。そのいのちたえぬをみるみるすてんこと、いといみじきことなり。いけにおよぐいを、やまになくしかをだに、ひとにとらへられてしなんとするをみて、たすけざらんは、いとかなしかるべし。ひとのいのちひさしかるまじきものなれど、のこりのいのち、ひとひ、ふつかをもをしまずはあるべからず。おににもかみにも、りゃうぜられ、ひとにおはれ、ひとにはかりごたれても、これよこざまのしにをすべきものにこそあんめれ、ほとけのかならずすくひたまふべききはなり。 |
53 | 1.3.20 | 172 | 136 |
なほ、試みに、しばし湯を飲ませなどして、助け試みむ。つひに、死なば、言ふ限りにあらず」 |
なほ、こころみに、しばしゆをのませなどして、たすけこころみん。つひに、しなば、いふかぎりにあらず。" |
53 | 1.3.21 | 173 | 137 |
とのたまひて、この大徳して抱き入れさせたまふを、弟子ども、 |
とのたまひて、このだいとこしていだきいれさせたまふを、でしども、 |
53 | 1.3.22 | 174 | 138 |
「たいだいしきわざかな。いたうわづらひたまふ人の御あたりに、よからぬ物を取り入れて、穢らひかならず出で来なむとす」 |
"たいだいしきわざかな。いたうわづらひたまふひとのおほんあたりに、よからぬものをとりいれて、けがらひかならずいできなんとす。" |
53 | 1.3.23 | 175 | 139 |
と、もどくもあり。また、 |
と、もどくもあり。また、 |
53 | 1.3.24 | 176 | 140 |
「物の変化にもあれ、目に見す見す、生ける人を、かかる雨にうち失はせむは、いみじきことなれば」 |
"もののへんげにもあれ、めにみすみす、いけるひとを、かかるあめにうちうしなはせんは、いみじきことなれば。" |
53 | 1.3.25 | 177 | 141 |
など、心々に言ふ。下衆などは、いと騒がしく、物をうたて言ひなすものなれば、人騒がしからぬ隠れの方になむ臥せたりける。 |
など、こころごころにいふ。げすなどは、いとさわがしく、ものをうたていひなすものなれば、ひとさわがしからぬかくれのかたになんふせたりける。 |
53 | 1.4 | 178 | 142 | 第四段 妹尼、若い女を介抱す |
53 | 1.4.1 | 179 | 143 |
御車寄せて降りたまふほど、いたう苦しがりたまふとて、ののしる。すこし静まりて、僧都、 |
みくるまよせておりたまふほど、いたうくるしがりたまふとて、ののしる。すこししづまりて、そうづ、 |
53 | 1.4.2 | 180 | 144 |
「ありつる人、いかがなりぬる」 |
"ありつるひと、いかがなりぬる。" |
53 | 1.4.3 | 181 | 145 |
と問ひたまふ。 |
ととひたまふ。 |
53 | 1.4.4 | 182 | 146 |
「なよなよとしてもの言はず、息もしはべらず。何か、物にけどられにける人にこそ」 |
"なよなよとしてものいはず、いきもしはべらず。なにか、ものにけどられにけるひとにこそ。" |
53 | 1.4.5 | 183 | 147 |
と言ふを、妹の尼君聞きたまひて、 |
といふを、いもうとのあまぎみききたまひて、 |
53 | 1.4.6 | 184 | 148 |
「何事ぞ」 |
"なにごとぞ。" |
53 | 1.4.7 | 185 | 149 |
と問ふ。 |
ととふ。 |
53 | 1.4.8 | 186 | 150 |
「しかしかのことなむ、六十に余る年、珍かなるものを見たまへつる」 |
"しかしかのことなん、ろくじふにあまるとし、めづらかなるものをみたまへつる。" |
53 | 1.4.9 | 187 | 151 |
とのたまふ。うち聞くままに、 |
とのたまふ。うちきくままに、 |
53 | 1.4.10 | 188 | 152 |
「おのが寺にて見し夢ありき。いかやうなる人ぞ。まづそのさま見む」 |
"おのがてらにてみしゆめありき。いかやうなるひとぞ。まづそのさまみん。" |
53 | 1.4.11 | 189 | 153 |
と泣きてのたまふ。 |
となきてのたまふ。 |
53 | 1.4.12 | 190 | 154 |
「ただこの東の遣戸になむはべる。はや御覧ぜよ」 |
"ただこのひんがしのやりどになんはべる。はやごらんぜよ。" |
53 | 1.4.13 | 191 | 155 |
と言へば、急ぎ行きて見るに、人も寄りつかでぞ、捨て置きたりける。いと若ううつくしげなる女の、白き綾の衣一襲、紅の袴ぞ着たる。香はいみじう香うばしくて、あてなるけはひ限りなし。 |
といへば、いそぎゆきてみるに、ひともよりつかでぞ、すておきたりける。いとわかううつくしげなるをんなの、しろきあやのきぬひとかさね、くれなゐのはかまぞきたる。かはいみじうかうばしくて、あてなるけはひかぎりなし。 |
53 | 1.4.14 | 192 | 156 |
「ただ、わが恋ひ悲しむ娘の、帰りおはしたるなめり」 |
"ただ、わがこひかなしむむすめの、かへりおはしたるなめり。" |
53 | 1.4.15 | 193 | 157 |
とて、泣く泣く御達を出だして、抱き入れさす。いかなりつらむとも、ありさま見ぬ人は、恐ろしがらで抱き入れつ。生けるやうにもあらで、さすがに目をほのかに見開けたるに、 |
とて、なくなくごたちをいだして、いだきいれさす。いかなりつらんとも、ありさまみぬひとは、おそろしがらでいだきいれつ。いけるやうにもあらで、さすがにめをほのかにみあけたるに、 |
53 | 1.4.16 | 194 | 158 |
「もののたまへや。いかなる人か、かくては、ものしたまへる」 |
"もののたまへや。いかなるひとか、かくては、ものしたまへる。" |
53 | 1.4.17 | 195 | 159 |
と言へど、ものおぼえぬさまなり。湯取りて、手づからすくひ入れなどするに、ただ弱りに絶え入るやうなりければ、 |
といへど、ものおぼえぬさまなり。ゆとりて、てづからすくひいれなどするに、ただよわりにたえいるやうなりければ、 |
53 | 1.4.18 | 196 | 160 |
「なかなかいみじきわざかな」とて、「この人亡くなりぬべし。加持したまへ」 |
"なかなかいみじきわざかな。"とて、"このひとなくなりぬべし。かぢしたまへ。" |
53 | 1.4.19 | 197 | 161 |
と、験者の阿闍梨に言ふ。 |
と、げんざのあざりにいふ。 |
53 | 1.4.20 | 198 | 162 |
「さればこそ。あやしき御もの扱ひ」 |
"さればこそ。あやしきおほんものあつかひ。" |
53 | 1.4.21 | 199 | 163 |
とは言へど、神などのために経読みつつ祈る。 |
とはいへど、かみなどのためにきゃうよみつついのる。 |
53 | 1.5 | 200 | 164 | 第五段 若い女生き返るが、死を望む |
53 | 1.5.1 | 201 | 165 |
僧都もさしのぞきて、 |
そうづもさしのぞきて、 |
53 | 1.5.2 | 202 | 166 |
「いかにぞ。何のしわざぞと、よく調じて問へ」 |
"いかにぞ。なにのしわざぞと、よくてうじてとへ。" |
53 | 1.5.3 | 203 | 167 |
とのたまへど、いと弱げに消えもていくやうなれば、 |
とのたまへど、いとよわげにきえもていくやうなれば、 |
53 | 1.5.4 | 204 | 168 |
「え生きはべらじ。すぞろなる穢らひに籠もりて、わづらふべきこと」 |
"えいきはべらじ。すぞろなるけがらひにこもりて、わづらふべきこと。" |
53 | 1.5.5 | 205 | 169 |
「さすがに、いとやむごとなき人にこそはべるめれ。死に果つとも、ただにやは捨てさせたまはむ。見苦しきわざかな」 |
"さすがに、いとやんごとなきひとにこそはべるめれ。しにはつとも、ただにやはすてさせたまはん。みぐるしきわざかな。" |
53 | 1.5.6 | 206 | 170 |
と言ひあへり。 |
といひあへり。 |
53 | 1.5.7 | 207 | 171 |
「あなかま。人に聞かすな。わづらはしきこともぞある」 |
"あなかま。ひとにきかすな。わづらはしきこともぞある。" |
53 | 1.5.8 | 208 | 172 |
など口固めつつ、尼君は、親のわづらひたまふよりも、この人を生け果てて見まほしう惜しみて、うちつけに添ひゐたり。知らぬ人なれど、みめのこよなうをかしげなれば、いたづらになさじと、見る限り扱ひ騷ぎけり。さすがに、時々、目見開けなどしつつ、涙の尽きせず流るるを、 |
などくちがためつつ、あまぎみは、おやのわづらひたまふよりも、このひとをいけはててみまほしうをしみて、うちつけにそひゐたり。しらぬひとなれど、みめのこよなうをかしげなれば、いたづらになさじと、みるかぎりあつかひさわぎけり。さすがに、ときどき、めみあけなどしつつ、なみだのつきせずながるるを、 |
53 | 1.5.9 | 209 | 173 |
「あな、心憂や。いみじく悲しと思ふ人の代はりに、仏の導きたまへると思ひきこゆるを。かひなくなりたまはば、なかなかなることをや思はむ。さるべき契りにてこそ、かく見たてまつらめ。なほ、いささかもののたまへ」 |
"あな、こころうや。いみじくかなしとおもふひとのかはりに、ほとけのみちびきたまへるとおもひきこゆるを。かひなくなりたまはば、なかなかなることをやおもはん。さるべきちぎりにてこそ、かくみたてまつらめ。なほ、いささかもののたまへ。" |
53 | 1.5.10 | 210 | 174 |
と言ひ続くれど、からうして、 |
といひつづくれど、からうして、 |
53 | 1.5.11 | 211 | 175 |
「生き出でたりとも、あやしき不用の人なり。人に見せで、夜この川に落とし入れたまひてよ」 |
"いきいでたりとも、あやしきふようのひとなり。ひとにみせで、よるこのかはにおとしいれたまひてよ。" |
53 | 1.5.12 | 212 | 176 |
と、息の下に言ふ。 |
と、いきのしたにいふ。 |
53 | 1.5.13 | 213 | 177 |
「まれまれ物のたまふをうれしと思ふに、あな、いみじや。いかなれば、かくはのたまふぞ。いかにして、さる所にはおはしつるぞ」 |
"まれまれもののたまふをうれしとおもふに、あな、いみじや。いかなれば、かくはのたまふぞ。いかにして、さるところにはおはしつるぞ。" |
53 | 1.5.14 | 214 | 178 |
と問へども、物も言はずなりぬ。「身にもし傷などやあらむ」とて見れど、ここはと見ゆるところなくうつくしければ、あさましく悲しく、「まことに、人の心惑はさむとて出で来たる仮のものにや」と疑ふ。 |
ととへども、ものもいはずなりぬ。"みにもしきずなどやあらん。"とてみれど、ここはとみゆるところなくうつくしければ、あさましくかなしく、"まことに、ひとのこころまどはさんとていできたるかりのものにや。"とうたがふ。 |
53 | 1.6 | 215 | 179 | 第六段 宇治の里人、僧都に葬送のことを語る |
53 | 1.6.1 | 216 | 180 |
二日ばかり籠もりゐて、二人の人を祈り加持する声絶えず、あやしきことを思ひ騒ぐ。そのわたりの下衆などの、僧都に仕まつりける、かくておはしますなりとて、とぶらひ出で来るも、物語などして言ふを聞けば、 |
ふつかばかりこもりゐて、ふたりのひとをいのりかぢするこゑたえず、あやしきことをおもひさわぐ。そのわたりのげすなどの、そうづにつかまつりける、かくておはしますなりとて、とぶらひいでくるも、ものがたりなどしていふをきけば、 |
53 | 1.6.2 | 217 | 181 |
「故八の宮の御女、右大将殿の通ひたまひし、ことに悩みたまふこともなくて、にはかに隠れたまへりとて、騷ぎはべる。その御葬送の雑事ども仕うまつりはべりとて、昨日はえ参りはべらざりし」 |
"こはちのみやのおほんむすめ、うだいしゃうどののかよひたまひし、ことになやみたまふこともなくて、にはかにかくれたまへりとて、さわぎはべる。そのおほんさうそうのざふじどもつかうまつりはべりとて、きのふはえまゐりはべらざりし。" |
53 | 1.6.3 | 218 | 182 |
と言ふ。「さやうの人の魂を、鬼の取りもて来たるにや」と思ふにも、かつ見る見る、「あるものともおぼえず、危ふく恐ろし」と思す。人びと、 |
といふ。"さやうのひとのたましひを、おにのとりもてきたるにや。"とおもふにも、かつみるみる、"あるものともおぼえず、あやふくおそろし。"とおぼす。ひとびと、 |
53 | 1.6.4 | 219 | 183 |
「昨夜見やられし火は、しかことことしきけしきも見えざりしを」 |
"よべみやられしひは、しかことことしきけしきもみえざりしを。" |
53 | 1.6.5 | 220 | 184 |
と言ふ。 |
といふ。 |
53 | 1.6.6 | 221 | 185 |
「ことさら事削ぎて、いかめしうもはべらざりし」 |
"ことさらことそぎて、いかめしうもはべらざりし。" |
53 | 1.6.7 | 222 | 186 |
と言ふ。穢らひたる人とて、立ちながら追ひ返しつ。 |
といふ。けがらひたるひととて、たちながらおひかへしつ。 |
53 | 1.6.8 | 223 | 187 |
「大将殿は、宮の御女持ちたまへりしは、亡せたまひて、年ごろになりぬるものを、誰れを言ふにかあらむ。姫宮をおきたてまつりたまひて、よに異心おはせじ」 |
"だいしゃうどのは、みやのおほんむすめもちたまへりしは、うせたまひて、としごろになりぬるものを、たれをいふにかあらん。ひめみやをおきたてまつりたまひて、よにことごころおはせじ。" |
53 | 1.6.9 | 224 | 188 |
など言ふ。 |
などいふ。 |
53 | 1.7 | 225 | 189 | 第七段 尼君ら一行、小野に帰る |
53 | 1.7.1 | 226 | 190 |
尼君よろしくなりたまひぬ。方も開きぬれば、「かくうたてある所に久しうおはせむも便なし」とて帰る。 |
あまぎみよろしくなりたまひぬ。かたもあきぬれば、"かくうたてあるところにひさしうおはせんもびんなし。"とてかへる。 |
53 | 1.7.2 | 227 | 191 |
「この人は、なほいと弱げなり。道のほどもいかがものしたまはむと、心苦しきこと」 |
"このひとは、なほいとよわげなり。みちのほどもいかがものしたまはんと、こころぐるしきこと。" |
53 | 1.7.3 | 228 | 192 |
と言ひ合へり。車二つして、老い人乗りたまへるには、仕うまつる尼二人、次のにはこの人を臥せて、かたはらにいま一人乗り添ひて、道すがら行きもやらず、車止めて湯参りなどしたまふ。 |
といひあへり。くるまふたつして、おいびとのりたまへるには、つかうまつるあまふたり、つぎのにはこのひとをふせて、かたはらにいまひとりのりそひて、みちすがらゆきもやらず、くるまとめてゆまゐりなどしたまふ。 |
53 | 1.7.4 | 229 | 193 |
比叡坂本に、小野といふ所にぞ住みたまひける。そこにおはし着くほど、いと遠し。 |
ひえさかもとに、をのといふところにぞすみたまひける。そこにおはしつくほど、いととほし。 |
53 | 1.7.5 | 230 | 194 |
「中宿りを設くべかりける」 |
"なかやどりをまうくべかりける。" |
53 | 1.7.6 | 231 | 195 |
など言ひて、夜更けておはし着きぬ。 |
などいひて、よふけておはしつきぬ。 |
53 | 1.7.7 | 232 | 196 |
僧都は、親を扱ひ、娘の尼君は、この知らぬ人をはぐくみて、皆抱き降ろしつつ休む。老いの病のいつともなきが、苦しと思ひたまへし遠道の名残こそ、しばしわづらひたまひけれ、やうやうよろしうなりたまひにければ、僧都は登りたまひぬ。 |
そうづは、おやをあつかひ、むすめのあまぎみは、このしらぬひとをはぐくみて、みないだきおろしつつやすむ。おいのやまひのいつともなきが、くるしとおもひたまへしとほみちのなごりこそ、しばしわづらひたまひけれ、やうやうよろしうなりたまひにければ、そうづはのぼりたまひぬ。 |
53 | 1.7.8 | 233 | 197 |
「かかる人なむ率て来たる」など、法師のあたりにはよからぬことなれば、見ざりし人にはまねばず。尼君も、皆口固めさせつつ、「もし尋ね来る人もやある」と思ふも、静心なし。「いかで、さる田舎人の住むあたりに、かかる人落ちあふれけむ。物詣でなどしたりける人の、心地などわづらひけむを、継母などやうの人の、たばかりて置かせたるにや」などぞ思ひ寄りける。 |
"かかるひとなんゐてきたる。"など、ほふしのあたりにはよからぬことなれば、みざりしひとにはまねばず。あまぎみも、みなくちがためさせつつ、"もしたづねくるひともやある。"とおもふも、しづごころなし。"いかで、さるゐなかびとのすむあたりに、かかるひとおちあふれけん。ものまうでなどしたりけるひとの、ここちなどわづらひけんを、ままははなどやうのひとの、たばかりておかせたるにや。"などぞおもひよりける。 |
53 | 1.7.9 | 234 | 198 |
「川に流してよ」と言ひし一言より他に、ものもさらにのたまはねば、いとおぼつかなく思ひて、「いつしか人にもなしてみむ」と思ふに、つくづくとして起き上がる世もなく、いとあやしうのみものしたまへば、「つひに生くまじき人にや」と思ひながら、うち捨てむもいとほしういみじ。夢語りもし出でて、初めより祈らせし阿闍梨にも、忍びやかに芥子焼くことせさせたまふ。 |
"かはにながしてよ。"といひしひとことよりほかに、ものもさらにのたまはねば、いとおぼつかなくおもひて、"いつしかひとにもなしてみん。"とおもふに、つくづくとしておきあがるよもなく、いとあやしうのみものしたまへば、"つひにいくまじきひとにや。"とおもひながら、うちすてんもいとほしういみじ。ゆめがたりもしいでて、はじめよりいのらせしあじゃりにも、しのびやかにけしやくことせさせたまふ。 |
53 | 2 | 235 | 199 | 第二章 浮舟の物語 浮舟の小野山荘での生活 |
53 | 2.1 | 236 | 200 | 第一段 僧都、小野山荘へ下山 |
53 | 2.1.1 | 237 | 201 |
うちはへかく扱ふほどに、四、五月も過ぎぬ。いとわびしうかひなきことを思ひわびて、僧都の御もとに、 |
うちはへかくあつかふほどに、し、ごがちもすぎぬ。いとわびしうかひなきことをおもひわびて、そうづのおほんもとに、 |
53 | 2.1.2 | 238 | 202 |
「なほ下りたまへ。この人、助けたまへ。さすがに今日までもあるは、死ぬまじかりける人を、憑きしみ領じたるものの、去らぬにこそあめれ。あが仏、京に出でたまはばこそはあらめ、ここまではあへなむ」 |
"なほおりたまへ。このひと、たすけたまへ。さすがにけふまでもあるは、しぬまじかりけるひとを、つきしみりゃうじたるものの、さらぬにこそあめれ。あがほとけ、きゃうにいでたまはばこそはあらめ、ここまではあへなん。" |
53 | 2.1.3 | 239 | 203 |
など、いみじきことを書き続けて、奉りたまへれば、 |
など、いみじきことをかきつづけて、たてまつりたまへれば、 |
53 | 2.1.4 | 240 | 204 |
「いとあやしきことかな。かくまでもありける人の命を、やがてとり捨ててましかば。さるべき契りありてこそは、我しも見つけけめ。試みに助け果てむかし。それに止まらずは、業尽きにけりと思はむ」 |
"いとあやしきことかな。かくまでもありけるひとのいのちを、やがてとりすててましかば。さるべきちぎりありてこそは、われしもみつけけめ。こころみにたすけはてんかし。それにとどまらずは、ごうつきにけりとおもはん。" |
53 | 2.1.5 | 241 | 205 |
とて、下りたまひけり。 |
とて、おりたまひけり。 |
53 | 2.1.6 | 242 | 206 |
よろこび拝みて、月ごろのありさまを語る。 |
よろこびをがみて、つきごろのありさまをかたる。 |
53 | 2.1.7 | 243 | 207 |
「かく久しうわづらふ人は、むつかしきこと、おのづからあるべきを、いささか衰へず、いときよげに、ねぢけたるところなくのみものしたまひて、限りと見えながらも、かくて生きたるわざなりけり」 |
"かくひさしうわづらふひとは、むつかしきこと、おのづからあるべきを、いささかおとろへず、いときよげに、ねぢけたるところなくのみものしたまひて、かぎりとみえながらも、かくていきたるわざなりけり。" |
53 | 2.1.8 | 244 | 208 |
など、おほなおほな泣く泣くのたまへば、 |
など、おほなおほななくなくのたまへば、 |
53 | 2.1.9 | 245 | 209 |
「見つけしより、珍かなる人のみありさまかな。いで」 |
"みつけしより、めづらかなるひとのみありさまかな。いで。" |
53 | 2.1.10 | 246 | 210 |
とて、さしのぞきて見たまひて、 |
とて、さしのぞきてみたまひて、 |
53 | 2.1.11 | 247 | 211 |
「げに、いと警策なりける人の御容面かな。功徳の報いにこそ、かかる容貌にも生ひ出でたまひけめ。いかなる違ひめにて、損はれたまひけむ。もし、さにや、と聞き合はせらるることもなしや」 |
"げに、いときゃうざくなりけるひとのおほんようめいかな。くどくのむくいにこそ、かかるかたちにもおひいでたまひけめ。いかなるたがひめにて、そこなはれたまひけん。もし、さにや、とききあはせらるることもなしや。" |
53 | 2.1.12 | 248 | 212 |
と問ひたまふ。 |
ととひたまふ。 |
53 | 2.1.13 | 249 | 213 |
「さらに聞こゆることもなし。何か、初瀬の観音の賜へる人なり」 |
"さらにきこゆることもなし。なにか、はつせのかのんのたまへるひとなり。" |
53 | 2.1.14 | 250 | 214 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 2.1.15 | 251 | 215 |
「何か。それ縁に従ひてこそ導きたまはめ。種なきことはいかでか」 |
"なにか。それえんにしたがひてこそみちびきたまはめ。たねなきことはいかでか。" |
53 | 2.1.16 | 252 | 216 |
など、のたまふが、あやしがりたまひて、修法始めたり。 |
など、のたまふが、あやしがりたまひて、すほふはじめたり。 |
53 | 2.2 | 253 | 217 | 第二段 もののけ出現 |
53 | 2.2.1 | 254 | 218 |
「朝廷の召しにだに従はず、深く籠もりたる山を出でたまひて、すぞろにかかる人のためになむ行ひ騷ぎたまふと、ものの聞こえあらむ、いと聞きにくかるべし」と思し、弟子どもも言ひて、「人に聞かせじ」と隠す。僧都、 |
"おほやけのめしにだにしたがはず、ふかくこもりたるやまをいでたまひて、すぞろにかかるひとのためになんおこなひさわぎたまふと、もののきこえあらん、いとききにくかるべし。"とおぼし、でしどももいひて、"ひとにきかせじ。"とかくす。そうづ、 |
53 | 2.2.2 | 255 | 219 |
「いで、あなかま。大徳たち。われ無慚の法師にて、忌むことの中に、破る戒は多からめど、女の筋につけて、まだ誹りとらず、過つことなし。六十に余りて、今さらに人のもどき負はむは、さるべきにこそはあらめ」 |
"いで、あなかま。だいとこたち。われむざんのほふしにて、いむことのなかに、やぶるかいはおほからめど、をんなのすぢにつけて、まだそしりとらず、あやまつことなし。ろくじふにあまりて、いまさらにひとのもどきおはんは、さるべきにこそはあらめ。" |
53 | 2.2.3 | 256 | 220 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 2.2.4 | 257 | 221 |
「よからぬ人の、ものを便なく言ひなしはべる時には、仏法の瑕となりはべることなり」 |
"よからぬひとの、ものをびんなくいひなしはべるときには、ぶっぽふのきずとなりはべることなり。" |
53 | 2.2.5 | 258 | 222 |
と、心よからず思ひて言ふ。 |
と、こころよからずおもひていふ。 |
53 | 2.2.6 | 259 | 223 |
「この修法のほどにしるし見えずは」 |
"このすほふのほどにしるしみえずは。" |
53 | 2.2.7 | 260 | 224 |
と、いみじきことどもを誓ひたまひて、夜一夜加持したまへる暁に、人に駆り移して、「何やうのもの、かく人を惑はしたるぞ」と、ありさまばかり言はせまほしうて、弟子の阿闍梨、とりどりに加持したまふ。月ごろ、いささかも現はれざりつるもののけ、調ぜられて、 |
と、いみじきことどもをちかひたまひて、よひとよかぢしたまへるあかつきに、ひとにかりうつして、"なにやうのもの、かくひとをまどはしたるぞ。"と、ありさまばかりいはせまほしうて、でしのあじゃり、とりどりにかぢしたまふ。つきごろ、いささかもあらはれざりつるもののけ、てうぜられて、 |
53 | 2.2.8 | 261 | 225 |
「おのれは、ここまで参うで来て、かく調ぜられたてまつるべき身にもあらず。昔は行ひせし法師の、いささかなる世に恨みをとどめて、漂ひありきしほどに、よき女のあまた住みたまひし所に住みつきて、かたへは失ひてしに、この人は、心と世を恨みたまひて、我いかで死なむ、と言ふことを、夜昼のたまひしにたよりを得て、いと暗き夜、独りものしたまひしを取りてしなり。されど、観音とざまかうざまにはぐくみたまひければ、この僧都に負けたてまつりぬ。今は、まかりなむ」 |
"おのれは、ここまでまうできて、かくてうぜられたてまつるべきみにもあらず。むかしはおこなひせしほふしの、いささかなるよにうらみをとどめて、ただよひありきしほどに、よきをんなのあまたすみたまひしところにすみつきて、かたへはうしなひてしに、このひとは、こころとよをうらみたまひて、われいかでしなん、といふことを、よるひるのたまひしにたよりをえて、いとくらきよ、ひとりものしたまひしをとりてしなり。されど、かのんとざまかうざまにはぐくみたまひければ、このそうづにまけたてまつりぬ。いまは、まかりなん。" |
53 | 2.2.9 | 262 | 226 |
とののしる。 |
とののしる。 |
53 | 2.2.10 | 263 | 227 |
「かく言ふは、何ぞ」 |
"かくいふは、なにぞ。" |
53 | 2.2.11 | 264 | 228 |
と問へば、憑きたる人、ものはかなきけにや、はかばかしうも言はず。 |
ととへば、つきたるひと、ものはかなきけにや、はかばかしうもいはず。 |
53 | 2.3 | 265 | 229 | 第三段 浮舟、意識を回復 |
53 | 2.3.1 | 266 | 230 |
正身の心地はさはやかに、いささかものおぼえて見回したれば、一人見し人の顔はなくて、皆、老法師、ゆがみ衰へたる者のみ多かれば、知らぬ国に来にける心地して、いと悲し。 |
さうじみのここちはさはやかに、いささかものおぼえてみまはしたれば、ひとりみしひとのかほはなくて、みな、おいほふし、ゆがみおとろへたるもののみおほかれば、しらぬくににきにけるここちして、いとかなし。 |
53 | 2.3.2 | 267 | 231 |
ありし世のこと思ひ出づれど、住みけむ所、誰れと言ひし人とだに、たしかにはかばかしうもおぼえず。ただ、 |
ありしよのことおもひいづれど、すみけんところ、たれといひしひととだに、たしかにはかばかしうもおぼえず。ただ、 |
53 | 2.3.3 | 268 | 232 |
「我は、限りとて身を投げし人ぞかし。いづくに来にたるにか」とせめて思ひ出づれば、 |
"われは、かぎりとてみをなげしひとぞかし。いづくにきにたるにか。"とせめておもひいづれば、 |
53 | 2.3.4 | 269 | 233 |
「いといみじと、ものを思ひ嘆きて、皆人の寝たりしに、妻戸を放ちて出でたりしに、風は烈しう、川波も荒う聞こえしを、独りもの恐ろしかりしかば、来し方行く先もおぼえで、簀子の端に足をさし下ろしながら、行くべき方も惑はれて、帰り入らむも中空にて、心強くこの世に亡せなむと思ひ立ちしを、『をこがましうて人に見つけられむよりは、鬼も何も食ひ失へ』と言ひつつ、つくづくと居たりしを、いときよげなる男の寄り来て、『いざ、たまへ。おのがもとへ』と言ひて、抱く心地のせしを、宮と聞こえし人のしたまふ、とおぼえしほどより、心地惑ひにけるなめり。知らぬ所に据ゑ置きて、この男は消え失せぬ、と見しを、つひにかく本意のこともせずなりぬる、と思ひつつ、いみじう泣く、と思ひしほどに、その後のことは絶えて、いかにもいかにもおぼえず。 |
"いといみじと、ものをおもひなげきて、みなひとのねたりしに、つまどをはなちていでたりしに、かぜははげしう、かはなみもあらうきこえしを、ひとりものおそろしかりしかば、きしかたゆくさきもおぼえで、すのこのはしにあしをさしおろしながら、ゆくべきかたもまどはれて、かへりいらんもなかぞらにて、こころづよくこのよにうせなんとおもひたちしを、'をこがましうてひとにみつけられんよりは、おにもなにもくひうしなへ。'といひつつ、つくづくとゐたりしを、いときよげなるをとこのよりきて、'いざ、たまへ。おのがもとへ。'といひて、いだくここちのせしを、みやときこえしひとのしたまふ、とおぼえしほどより、ここちまどひにけるなめり。しらぬところにすゑおきて、このをとこはきえうせぬ、とみしを、つひにかくほいのこともせずなりぬる、とおもひつつ、いみじうなく、とおもひしほどに、そののちのことはたえて、いかにもいかにもおぼえず。 |
53 | 2.3.5 | 270 | 234 |
人の言ふを聞けば、多くの日ごろも経にけり。いかに憂きさまを、知らぬ人に扱はれ見えつらむ、と恥づかしう、つひにかくて生き返りぬるか」 |
ひとのいふをきけば、おほくのひごろもへにけり。いかにうきさまを、しらぬひとにあつかはれみえつらん、とはづかしう、つひにかくていきかへりぬるか。" |
53 | 2.3.6 | 271 | 235 |
と思ふも口惜しければ、いみじうおぼえて、なかなか、沈みたまひつる日ごろは、うつし心もなきさまにて、ものいささか参る事もありつるを、つゆばかりの湯をだに参らず。 |
とおもふもくちをしければ、いみじうおぼえて、なかなか、しづみたまひつるひごろは、うつしごころもなきさまにて、ものいささかまゐることもありつるを、つゆばかりのゆをだにまゐらず。 |
53 | 2.4 | 272 | 236 | 第四段 浮舟、五戒を受く |
53 | 2.4.1 | 273 | 237 |
「いかなれば、かく頼もしげなくのみはおはするぞ。うちはへぬるみなどしたまへることは冷めたまひて、さはやかに見えたまへば、うれしう思ひきこゆるを」 |
"いかなれば、かくたのもしげなくのみはおはするぞ。うちはへぬるみなどしたまへることはさめたまひて、さはやかにみえたまへば、うれしうおもひきこゆるを。" |
53 | 2.4.2 | 274 | 238 |
と、泣く泣く、たゆむ折なく添ひゐて扱ひきこえたまふ。ある人びとも、あたらしき御さま容貌を見れば、心を尽くしてぞ惜しみまもりける。心には、「なほいかで死なむ」とぞ思ひわたりたまへど、さばかりにて、生き止まりたる人の命なれば、いと執念くて、やうやう頭もたげたまへば、もの参りなどしたまふにぞ、なかなか面痩せもていく。いつしかとうれしう思ひきこゆるに、 |
と、なくなく、たゆむをりなくそひゐてあつかひきこえたまふ。あるひとびとも、あたらしきおほんさまかたちをみれば、こころをつくしてぞをしみまもりける。こころには、"なほいかでしなん。"とぞおもひわたりたまへど、さばかりにて、いきとまりたるひとのいのちなれば、いとしふねくて、やうやうかしらもたげたまへば、ものまゐりなどしたまふにぞ、なかなかおもやせもていく。いつしかとうれしうおもひきこゆるに、 |
53 | 2.4.3 | 275 | 239 |
「尼になしたまひてよ。さてのみなむ生くやうもあるべき」 |
"あまになしたまひてよ。さてのみなんいくやうもあるべき。" |
53 | 2.4.4 | 276 | 240 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 2.4.5 | 277 | 241 |
「いとほしげなる御さまを。いかでか、さはなしたてまつらむ」 |
"いとほしげなるおほんさまを。いかでか、さはなしたてまつらん。" |
53 | 2.4.6 | 278 | 242 |
とて、ただ頂ばかりを削ぎ、五戒ばかりを受けさせたてまつる。心もとなけれど、もとよりおれおれしき人の心にて、えさかしく強ひてものたまはず。僧都は、 |
とて、ただいただきばかりをそぎ、ごかいばかりをうけさせたてまつる。こころもとなけれど、もとよりおれおれしきひとのこころにて、えさかしくしひてものたまはず。そうづは、 |
53 | 2.4.7 | 279 | 243 |
「今は、かばかりにて、いたはり止めたてまつりたまへ」 |
"いまは、かばかりにて、いたはりやめたてまつりたまへ。" |
53 | 2.4.8 | 280 | 244 |
と言ひ置きて、登りたまひぬ。 |
といひおきて、のぼりたまひぬ。 |
53 | 2.5 | 281 | 245 | 第五段 浮舟、素性を隠す |
53 | 2.5.1 | 282 | 246 |
「夢のやうなる人を見たてまつるかな」と尼君は喜びて、せめて起こし据ゑつつ、御髪手づから削りたまふ。さばかりあさましう、ひき結ひてうちやりたりつれど、いたうも乱れず、解き果てたれば、つやつやとけうらなり。一年足らぬ九十九髪多かる所にて、目もあやに、いみじき天人の天降れるを見たらむやうに思ふも、危ふき心地すれど、 |
"ゆめのやうなるひとをみたてまつるかな。"とあまぎみはよろこびて、せめておこしすゑつつ、みぐしてづからけづりたまふ。さばかりあさましう、ひきゆひてうちやりたりつれど、いたうもみだれず、ときはてたれば、つやつやとけうらなり。ひととせたらぬつくもがみおほかるところにて、めもあやに、いみじきてんにんのあまくだれるをみたらんやうにおもふも、あやふきここちすれど、 |
53 | 2.5.2 | 283 | 247 |
「などか、いと心憂く、かばかりいみじく思ひきこゆるに、御心を立てては見えたまふ。いづくに誰れと聞こえし人の、さる所にはいかでおはせしぞ」 |
"などか、いとこころうく、かばかりいみじくおもひきこゆるに、みこころをたててはみえたまふ。いづくにたれときこえしひとの、さるところにはいかでおはせしぞ。" |
53 | 2.5.3 | 284 | 248 |
と、せめて問ふを、いと恥づかしと思ひて、 |
と、せめてとふを、いとはづかしとおもひて、 |
53 | 2.5.4 | 285 | 249 |
「あやしかりしほどに、皆忘れたるにやあらむ、ありけむさまなどもさらにおぼえはべらず。ただ、ほのかに思ひ出づることとては、ただ、いかでこの世にあらじと思ひつつ、夕暮ごとに端近くて眺めしほどに、前近く大きなる木のありし下より、人の出で来て、率て行く心地なむせし。それより他のことは、我ながら、誰れともえ思ひ出でられはべらず」 |
"あやしかりしほどに、みなわすれたるにやあらん、ありけんさまなどもさらにおぼえはべらず。ただ、ほのかにおもひいづることとては、ただ、いかでこのよにあらじとおもひつつ、ゆふぐれごとにはしちかくてながめしほどに、まへちかくおほきなるきのありししたより、ひとのいできて、ゐていくここちなんせし。それよりほかのことは、われながら、たれともえおもひいでられはべらず。" |
53 | 2.5.5 | 286 | 250 |
と、いとらうたげに言ひなして、 |
と、いとらうたげにいひなして、 |
53 | 2.5.6 | 287 | 251 |
「世の中に、なほありけりと、いかで人に知られじ。聞きつくる人もあらば、いといみじくこそ」 |
"よのなかに、なほありけりと、いかでひとにしられじ。ききつくるひともあらば、いといみじくこそ。" |
53 | 2.5.7 | 288 | 252 |
とて泣いたまふ。あまり問ふをば、苦しと思したれば、え問はず。かぐや姫を見つけたりけむ竹取の翁よりも、珍しき心地するに、「いかなるものの隙に消え失せむとすらむ」と、静心なくぞ思しける。 |
とてないたまふ。あまりとふをば、くるしとおぼしたれば、えとはず。かぐやひめをみつけたりけんたけとりのおきなよりも、めづらしきここちするに、"いかなるもののひまにきえうせんとすらん。"と、しづごころなくぞおぼしける。 |
53 | 2.6 | 289 | 253 | 第六段 小野山荘の風情 |
53 | 2.6.1 | 290 | 254 |
この主人もあてなる人なりけり。娘の尼君は、上達部の北の方にてありけるが、その人亡くなりたまひてのち、娘ただ一人をいみじくかしづきて、よき君達を婿にして思ひ扱ひけるを、その娘の君の亡くなりにければ、心憂し、いみじ、と思ひ入りて、形をも変へ、かかる山里には住み始めたりけるなり。 |
このあるじもあてなるひとなりけり。むすめのあまぎみは、かんだちめのきたのかたにてありけるが、そのひとなくなりたまひてのち、むすめただひとりをいみじくかしづきて、よききんだちをむこにしておもひあつかひけるを、そのむすめのきみのなくなりにければ、こころうし、いみじ、とおもひいりて、かたちをもかへ、かかるやまざとにはすみはじめたりけるなり。 |
53 | 2.6.2 | 291 | 255 |
「世とともに恋ひわたる人の形見にも、思ひよそへつべからむ人をだに見出でてしがな」、つれづれも心細きままに思ひ嘆きけるを、かく、おぼえぬ人の、容貌けはひもまさりざまなるを得たれば、うつつのことともおぼえず、あやしき心地しながら、うれしと思ふ。ねびにたれど、いときよげによしありて、ありさまもあてはかなり。 |
"よとともにこひわたるひとのかたみにも、おもひよそへつべからんひとをだにみいでてしがな。"、つれづれもこころぼそきままにおもひなげきけるを、かく、おぼえぬひとの、かたちけはひもまさりざまなるをえたれば、うつつのことともおぼえず、あやしきここちしながら、うれしとおもふ。ねびにたれど、いときよげによしありて、ありさまもあてはかなり。 |
53 | 2.6.3 | 292 | 257 |
昔の山里よりは、水の音もなごやかなり。造りざま、ゆゑある所、木立おもしろく、前栽もをかしく、ゆゑを尽くしたり。秋になりゆけば、空のけしきもあはれなり。門田の稲刈るとて、所につけたるものまねびしつつ、若き女どもは、歌うたひ興じあへり。引板ひき鳴らす音もをかしく、見し東路のことなども思ひ出でられて。 |
むかしのやまざとよりは、みづのおともなごやかなり。つくりざま、ゆゑあるところ、こだちおもしろく、せんさいもをかしく、ゆゑをつくしたり。あきになりゆけば、そらのけしきもあはれなり。かどたのいねかるとて、ところにつけたるものまねびしつつ、わかきをんなどもは、うたうたひきょうじあへり。ひたひきならすおともをかしく、みしあづまぢのことなどもおもひいでられて。 |
53 | 2.6.4 | 293 | 258 |
かの夕霧の御息所のおはせし山里よりは、今すこし入りて、山に片かけたる家なれば、松蔭茂く、風の音もいと心細きに、つれづれに行ひをのみしつつ、いつとなくしめやかなり。 |
かのゆふぎりのみやすんどころのおはせしやまざとよりは、いますこしいりて、やまにかたかけたるいへなれば、まつかげしげく、かぜのおともいとこころぼそきに、つれづれにおこなひをのみしつつ、いつとなくしめやかなり。 |
53 | 2.7 | 294 | 259 | 第七段 浮舟、手習して述懐 |
53 | 2.7.1 | 295 | 260 |
尼君ぞ、月など明き夜は、琴など弾きたまふ。少将の尼君などいふ人は、琵琶弾きなどしつつ遊ぶ。 |
あまぎみぞ、つきなどあかきよは、きんなどひきたまふ。せうしゃうのあまぎみなどいふひとは、びはひきなどしつつあそぶ。 |
53 | 2.7.2 | 296 | 261 |
「かかるわざはしたまふや。つれづれなるに」 |
"かかるわざはしたまふや。つれづれなるに。" |
53 | 2.7.3 | 297 | 262 |
など言ふ。昔も、あやしかりける身にて、心のどかに、「さやうのことすべきほどもなかりしかば、いささかをかしきさまならずも生ひ出でにけるかな」と、かくさだ過ぎにける人の、心をやるめる折々につけては、思ひ出づるを、「あさましくものはかなかりける」と、我ながら口惜しければ、手習に、 |
などいふ。むかしも、あやしかりけるみにて、こころのどかに、"さやうのことすべきほどもなかりしかば、いささかをかしきさまならずもおひいでにけるかな。"と、かくさだすぎにけるひとの、こころをやるめるをりをりにつけては、おもひいづるを、"あさましくものはかなかりける。"と、われながらくちをしければ、てならひに、 |
53 | 2.7.4 | 298 | 263 |
「身を投げし涙の川の早き瀬を<BR/>しがらみかけて誰れか止めし」 |
"〔みをなげしなみだのかはのはやきせを<BR/>しがらみかけてたれかとどめし〕 |
53 | 2.7.5 | 299 | 264 |
思ひの外に心憂ければ、行く末もうしろめたく、疎ましきまで思ひやらる。 |
おもひのほかにこころうければ、ゆくすゑもうしろめたく、うとましきまでおもひやらる。 |
53 | 2.7.6 | 300 | 265 |
月の明かき夜な夜な、老い人どもは艶に歌詠み、いにしへ思ひ出でつつ、さまざま物語などするに、いらふべきかたもなければ、つくづくとうち眺めて、 |
つきのあかきよなよな、おいびとどもはえんにうたよみ、いにしへおもひいでつつ、さまざまものがたりなどするに、いらふべきかたもなければ、つくづくとうちながめて、 |
53 | 2.7.7 | 301 | 266 |
「我かくて憂き世の中にめぐるとも<BR/>誰れかは知らむ月の都に」 |
"〔われかくてうきよのなかにめぐるとも<BR/>たれかはしらんつきのみやこに〕 |
53 | 2.7.8 | 302 | 267 |
今は限りと思ひしほどは、恋しき人多かりしかど、こと人びとはさしも思ひ出でられず、ただ、 |
いまはかぎりとおもひしほどは、こひしきひとおほかりしかど、ことひとびとはさしもおもひいでられず、ただ、 |
53 | 2.7.9 | 303 | 268 |
「親いかに惑ひたまひけむ。乳母、よろづに、いかで人なみなみになさむと思ひ焦られしを、いかにあへなき心地しけむ。いづくにあらむ。我、世にあるものとはいかでか知らむ」 |
"おやいかにまどひたまひけん。めのと、よろづに、いかでひとなみなみになさんとおもひいられしを、いかにあへなきここちしけん。いづくにあらん。われ、よにあるものとはいかでかしらん。" |
53 | 2.7.10 | 304 | 269 |
同じ心なる人もなかりしままに、よろづ隔つることなく語らひ見馴れたりし右近なども、折々は思ひ出でらる。 |
おなじこころなるひともなかりしままに、よろづへだつることなくかたらひみなれたりしうこんなども、をりをりはおもひいでらる。 |
53 | 2.8 | 305 | 270 | 第八段 浮舟の日常生活 |
53 | 2.8.1 | 306 | 271 |
若き人の、かかる山里に、今はと思ひ絶え籠もるは、難きわざなりければ、ただいたく年経にける尼、七、八人ぞ、常の人にてはありける。それらが娘孫やうの者ども、京に宮仕へするも、異ざまにてあるも、時々ぞ来通ひける。 |
わかきひとの、かかるやまざとに、いまはとおもひたえこもるは、かたきわざなりければ、ただいたくとしへにけるあま、しち、はちにんぞ、つねのひとにてはありける。それらがむすめまごやうのものども、きゃうにみやづかへするも、ことざまにてあるも、ときどきぞきかよひける。 |
53 | 2.8.2 | 307 | 272 |
「かやうの人につけて、見しわたりに行き通ひ、おのづから、世にありけりと誰れにも誰れにも聞かれたてまつらむこと、いみじく恥づかしかるべし。いかなるさまにてさすらへけむ」 |
"かやうのひとにつけて、みしわたりにいきかよひ、おのづから、よにありけりとたれにもたれにもきかれたてまつらんこと、いみじくはづかしかるべし。いかなるさまにてさすらへけん。" |
53 | 2.8.3 | 308 | 273 |
など、思ひやり世づかずあやしかるべきを思へば、かかる人びとに、かけても見えず。ただ侍従、こもきとて、尼君のわが人にしたりける二人をのみぞ、この御方に言ひ分けたりける。みめも心ざまも、昔見し都鳥に似たるはなし。何事につけても、「世の中にあらぬ所はこれにや」とぞ、かつは思ひなされける。 |
など、おもひやりよづかずあやしかるべきをおもへば、かかるひとびとに、かけてもみえず。ただじじゅう、こもきとて、あまぎみのわがひとにしたりけるふたりをのみぞ、このおほんかたにいひわけたりける。みめもこころざまも、むかしみしみやこどりににたるはなし。なにごとにつけても、"よのなかにあらぬところはこれにや。"とぞ、かつはおもひなされける。 |
53 | 2.8.4 | 309 | 274 |
かくのみ、人に知られじと忍びたまへば、「まことにわづらはしかるべきゆゑある人にもものしたまふらむ」とて、詳しきこと、ある人びとにも知らせず。 |
かくのみ、ひとにしられじとしのびたまへば、"まことにわづらはしかるべきゆゑあるひとにもものしたまふらん。"とて、くはしきこと、あるひとびとにもしらせず。 |
53 | 3 | 310 | 275 | 第三章 浮舟の物語 中将、浮舟に和歌を贈る |
53 | 3.1 | 311 | 276 | 第一段 尼君の亡き娘の婿君、山荘を訪問 |
53 | 3.1.1 | 312 | 277 |
尼君の昔の婿の君、今は中将にてものしたまひける、弟の禅師の君、僧都の御もとにものしたまひける、山籠もりしたるを訪らひに、兄弟の君たち常に登りけり。 |
あまぎみのむかしのむこのきみ、いまはちうじゃうにてものしたまひける、おとうとのぜんじのきみ、そうづのおほんもとにものしたまひける、やまごもりしたるをとぶらひに、はらからのきみたちつねにのぼりけり。 |
53 | 3.1.2 | 313 | 278 |
横川に通ふ道のたよりに寄せて、中将ここにおはしたり。前駆うち追ひて、あてやかなる男の入り来るを見出だして、忍びやかにおはせし人の御さまけはひぞ、さやかに思ひ出でらるる。 |
よかはにかよふみちのたよりによせて、ちうじゃうここにおはしたり。さきうちおひて、あてやかなるをとこのいりくるをみいだして、しのびやかにおはせしひとのおほんさまけはひぞ、さやかにおもひいでらるる。 |
53 | 3.1.3 | 314 | 279 |
これもいと心細き住まひのつれづれなれど、住みつきたる人びとは、ものきよげにをかしうしなして、垣ほに植ゑたる撫子もおもしろく、女郎花、桔梗など咲き始めたるに、色々の狩衣姿の男どもの若きあまたして、君も同じ装束にて、南面に呼び据ゑたれば、うち眺めてゐたり。年二十七、八のほどにて、ねびととのひ、心地なからぬさまもてつけたり。 |
これもいとこころぼそきすまひのつれづれなれど、すみつきたるひとびとは、ものきよげにをかしうしなして、かきほにうゑたるなでしこもおもしろく、をみなへし、ききゃうなどさきはじめたるに、いろいろのかりぎぬすがたのをのこどものわかきあまたして、きみもおなじさうぞくにて、みなみおもてによびすゑたれば、うちながめてゐたり。としにじふしち、はちのほどにて、ねびととのひ、ここちなからぬさまもてつけたり。 |
53 | 3.1.4 | 315 | 280 |
尼君、障子口に几帳立てて、対面したまふ。まづうち泣きて、 |
あまぎみ、さうじぐちにきちゃうたてて、たいめんしたまふ。まづうちなきて、 |
53 | 3.1.5 | 316 | 281 |
「年ごろの積もるには、過ぎにし方いとど気遠くのみなむはべるを、山里の光になほ待ちきこえさすることの、うち忘れず止みはべらぬを、かつはあやしく思ひたまふる」 |
"としごろのつもるには、すぎにしかたいとどけどほくのみなんはべるを、やまざとのひかりになほまちきこえさすることの、うちわすれずやみはべらぬを、かつはあやしくおもひたまふる。" |
53 | 3.1.6 | 317 | 282 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 3.1.7 | 318 | 283 |
「心のうちあはれに、過ぎにし方のことども、思ひたまへられぬ折なきを、あながちに住み離れ顔なる御ありさまに、おこたりつつなむ。山籠もりもうらやましう、常に出で立ちはべるを、同じくはなど、慕ひまとはさるる人びとに、妨げらるるやうにはべりてなむ。今日は、皆はぶき捨ててものしたまへる」 |
"こころのうちあはれに、すぎにしかたのことども、おもひたまへられぬをりなきを、あながちにすみはなれがほなるおほんありさまに、おこたりつつなん。やまごもりもうらやましう、つねにいでたちはべるを、おなじくはなど、したひまとはさるるひとびとに、さまたげらるるやうにはべりてなん。けふは、みなはぶきすててものしたまへる。" |
53 | 3.1.8 | 319 | 284 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
53 | 3.1.9 | 320 | 285 |
「山籠もりの御うらやみは、なかなか今様だちたる御ものまねびになむ。昔を思し忘れぬ御心ばへも、世に靡かせたまはざりけると、おろかならず思ひたまへらるる折多く」 |
"やまごもりのおほんうらやみは、なかなかいまようだちたるおほんものまねびになん。むかしをおぼしわすれぬみこころばへも、よになびかせたまはざりけると、おろかならずおもひたまへらるるをりおほく。" |
53 | 3.1.10 | 321 | 286 |
など言ふ。 |
などいふ。 |
53 | 3.2 | 322 | 287 | 第二段 浮舟の思い |
53 | 3.2.1 | 323 | 288 |
人びとに水飯などやうの物食はせ、君にも蓮の実などやうのもの出だしたれば、馴れにしあたりにて、さやうのこともつつみなき心地して、村雨の降り出づるに止められて、物語しめやかにしたまふ。 |
ひとびとにすいはんなどやうのものくはせ、きみにもはすのみなどやうのものいだしたれば、なれにしあたりにて、さやうのこともつつみなきここちして、むらさめのふりいづるにとめられて、ものがたりしめやかにしたまふ。 |
53 | 3.2.2 | 324 | 289 |
「言ふかひなくなりにし人よりも、この君の御心ばへなどの、いと思ふやうなりしを、よそのものに思ひなしたるなむ、いと悲しき。など、忘れ形見をだに留めたまはずなりにけむ」 |
"いふかひなくなりにしひとよりも、このきみのみこころばへなどの、いとおもふやうなりしを、よそのものにおもひなしたるなん、いとかなしき。など、わすれがたみをだにとどめたまはずなりにけん。" |
53 | 3.2.3 | 325 | 290 |
と、恋ひ偲ぶ心なりければ、たまさかにかくものしたまへるにつけても、珍しくあはれにおぼゆべかめる問はず語りもし出でつべし。 |
と、こひしのぶこころなりければ、たまさかにかくものしたまへるにつけても、めづらしくあはれにおぼゆべかめるとはずがたりもしいでつべし。 |
53 | 3.2.4 | 326 | 291 |
姫君は、我は我と、思ひ出づる方多くて、眺め出だしたまへるさま、いとうつくし。白き単衣の、いと情けなくあざやぎたるに、袴も桧皮色にならひたるにや、光も見えず黒きを着せたてまつりたれば、「かかることどもも、見しには変はりてあやしうもあるかな」と思ひつつ、こはごはしういららぎたるものども着たまへるしも、いとをかしき姿なり。御前なる人びと、 |
ひめぎみは、われはわれと、おもひいづるかたおほくて、ながめいだしたまへるさま、いとうつくし。しろきひとへの、いとなさけなくあざやぎたるに、はかまもひはだいろにならひたるにや、ひかりもみえずくろきをきせたてまつりたれば、"かかることどもも、みしにはかはりてあやしうもあるかな。"とおもひつつ、こはごはしういららぎたるものどもきたまへるしも、いとをかしきすがたなり。おまへなるひとびと、 |
53 | 3.2.5 | 327 | 292 |
「故姫君のおはしたる心地のみしはべりつるに、中将殿をさへ見たてまつれば、いとあはれにこそ。同じくは、昔のさまにておはしまさせばや。いとよき御あはひならむかし」 |
"こひめぎみのおはしたるここちのみしはべりつるに、ちうじゃうどのをさへみたてまつれば、いとあはれにこそ。おなじくは、むかしのさまにておはしまさせばや。いとよきおほんあはひならんかし。" |
53 | 3.2.6 | 328 | 293 |
と言ひ合へるを、 |
といひあへるを、 |
53 | 3.2.7 | 329 | 294 |
「あな、いみじや。世にありて、いかにもいかにも、人に見えむこそ。それにつけてぞ昔のこと思ひ出でらるべき。さやうの筋は、思ひ絶えて忘れなむ」と思ふ。 |
"あな、いみじや。よにありて、いかにもいかにも、ひとにみえんこそ。それにつけてぞむかしのことおもひいでらるべき。さやうのすぢは、おもひたえてわすれなん。"とおもふ。 |
53 | 3.3 | 330 | 295 | 第三段 中将、浮舟を垣間見る |
53 | 3.3.1 | 331 | 296 |
尼君入りたまへる間に、客人、雨のけしきを見わづらひて、少将と言ひし人の声を聞き知りて、呼び寄せたまへり。 |
あまぎみいりたまへるまに、まらうと、あめのけしきをみわづらひて、せうしゃうといひしひとのこゑをききしりて、よびよせたまへり。 |
53 | 3.3.2 | 332 | 297 |
「昔見し人びとは、皆ここにものせらるらむや、と思ひながらも、かう参り来ることも難くなりにたるを、心浅きにや、誰れも誰れも見なしたまふらむ」 |
"むかしみしひとびとは、みなここにものせらるらんや、とおもひながらも、かうまゐりくることもかたくなりにたるを、こころあさきにや、たれもたれもみなしたまふらん。" |
53 | 3.3.3 | 333 | 298 |
などのたまふ。仕うまつり馴れにし人にて、あはれなりし昔のことどもも思ひ出でたるついでに、 |
などのたまふ。つかうまつりなれにしひとにて、あはれなりしむかしのことどももおもひいでたるついでに、 |
53 | 3.3.4 | 334 | 299 |
「かの廊のつま入りつるほど、風の騒がしかりつる紛れに、簾の隙より、なべてのさまにはあるまじかりつる人の、うち垂れ髪の見えつるは、世を背きたまへるあたりに、誰れぞとなむ見おどろかれつる」 |
"かのらうのつまいりつるほど、かぜのさわがしかりつるまぎれに、すだれのひまより、なべてのさまにはあるまじかりつるひとの、うちたれがみのみえつるは、よをそむきたまへるあたりに、たれぞとなんみおどろかれつる。" |
53 | 3.3.5 | 335 | 300 |
とのたまふ。「姫君の立ち出でたまへるうしろでを、見たまへりけるなめり」と思ひ出でて、「ましてこまかに見せたらば、心止まりたまひなむかし。昔人は、いとこよなう劣りたまへりしをだに、まだ忘れがたくしたまふめるを」と、心一つに思ひて、 |
とのたまふ。"ひめぎみのたちいでたまへるうしろでを、みたまへりけるなめり。"とおもひいでて、"ましてこまかにみせたらば、こころとまりたまひなんかし。むかしびとは、いとこよなうおとりたまへりしをだに、まだわすれがたくしたまふめるを。"と、こころひとつにおもひて、 |
53 | 3.3.6 | 336 | 301 |
「過ぎにし御ことを忘れがたく、慰めかねたまふめりしほどに、おぼえぬ人を得たてまつりたまひて、明け暮れの見物に思ひきこえたまふめるを、うちとけたまへる御ありさまを、いかで御覧じつらむ」 |
"すぎにしおほんことをわすれがたく、なぐさめかねたまふめりしほどに、おぼえぬひとをえたてまつりたまひて、あけくれのみものにおもひきこえたまふめるを、うちとけたまへるおほんありさまを、いかでごらんじつらん。" |
53 | 3.3.7 | 337 | 302 |
と言ふ。「かかることこそはありけれ」とをかしくて、「何人ならむ。げに、いとをかしかりつ」と、ほのかなりつるを、なかなか思ひ出づ。こまかに問へど、そのままにも言はず、 |
といふ。"かかることこそはありけれ。"とをかしくて、"なにびとならん。げに、いとをかしかりつ。"と、ほのかなりつるを、なかなかおもひいづ。こまかにとへど、そのままにもいはず、 |
53 | 3.3.8 | 338 | 303 |
「おのづから聞こし召してむ」 |
"おのづからきこしめしてん。" |
53 | 3.3.9 | 339 | 304 |
とのみ言へば、うちつけに問ひ尋ねむも、さま悪しき心地して、 |
とのみいへば、うちつけにとひたづねんも、さまあしきここちして、 |
53 | 3.3.10 | 340 | 305 |
「雨も止みぬ。日も暮れぬべし」 |
"あめもやみぬ。ひもくれぬべし。" |
53 | 3.3.11 | 341 | 306 |
と言ふにそそのかされて、出でたまふ。 |
といふにそそのかされて、いでたまふ。 |
53 | 3.4 | 342 | 307 | 第四段 中将、横川の僧都と語る |
53 | 3.4.1 | 343 | 308 |
前近き女郎花を折りて、「何匂ふらむ」と口ずさびて、独りごち立てり。 |
まへちかきをみなへしををりて、"なににほふらん。"とくちずさびて、ひとりごちたてり。 |
53 | 3.4.2 | 344 | 309 |
「人のもの言ひを、さすがに思しとがむるこそ」 |
"ひとのものいひを、さすがにおぼしとがむるこそ。" |
53 | 3.4.3 | 345 | 310 |
など、古代の人どもは、ものめでをしあへり。 |
など、こたいのひとどもは、ものめでをしあへり。 |
53 | 3.4.4 | 346 | 311 |
「いときよげに、あらまほしくもねびまさりたまひにけるかな。同じくは、昔のやうにても見たてまつらばや」とて、 |
"いときよげに、あらまほしくもねびまさりたまひにけるかな。おなじくは、むかしのやうにてもみたてまつらばや。"とて、 |
53 | 3.4.5 | 347 | 312 |
「藤中納言の御あたりには、絶えず通ひたまふやうなれど、心も止めたまはず、親の殿がちになむものしたまふ、とこそ言ふなれ」 |
"とうちうなごんのおほんあたりには、たえずかよひたまふやうなれど、こころもとどめたまはず、おやのとのがちになんものしたまふ、とこそいふなれ。" |
53 | 3.4.6 | 348 | 313 |
と、尼君ものたまひて、 |
と、あまぎみものたまひて、 |
53 | 3.4.7 | 349 | 314 |
「心憂く、ものをのみ思し隔てたるなむ、いとつらき。今は、なほ、さるべきなめりと思しなして、晴れ晴れしくもてなしたまへ。この五年、六年、時の間も忘れず、恋しく悲しと思ひつる人の上も、かく見たてまつりて後よりは、こよなく思ひ忘られにてはべる。思ひきこえたまふべき人びと世におはすとも、今は世に亡きものにこそ、やうやう思しなりぬらめ。よろづのこと、さし当たりたるやうには、えしもあらぬわざになむ」 |
"こころうく、ものをのみおぼしへだてたるなん、いとつらき。いまは、なほ、さるべきなめりとおぼしなして、はればれしくもてなしたまへ。このいつとせ、むとせ、ときのまもわすれず、こひしくかなしとおもひつるひとのうへも、かくみたてまつりてのちよりは、こよなくおもひわすられにてはべる。おもひきこえたまふべきひとびとよにおはすとも、いまはよになきものにこそ、やうやうおぼしなりぬらめ。よろづのこと、さしあたりたるやうには、えしもあらぬわざになん。" |
53 | 3.4.8 | 350 | 315 |
と言ふにつけても、いとど涙ぐみて、 |
といふにつけても、いとどなみだぐみて、 |
53 | 3.4.9 | 351 | 316 |
「隔てきこゆる心は、はべらねど、あやしくて生き返りけるほどに、よろづのこと夢の世にたどられて。あらぬ世に生れたらむ人は、かかる心地やすらむ、とおぼえはべれば、今は、知るべき人世にあらむとも思ひ出でず。ひたみちにこそ、睦ましく思ひきこゆれ」 |
"へだてきこゆるこころは、はべらねど、あやしくていきかへりけるほどに、よろづのことゆめのよにたどられて。あらぬよにむまれたらんひとは、かかるここちやすらん、とおぼえはべれば、いまは、しるべきひとよにあらんともおもひいでず。ひたみちにこそ、むつましくおもひきこゆれ。" |
53 | 3.4.10 | 352 | 317 |
とのたまふさまも、げに、何心なくうつくしく、うち笑みてぞまもりゐたまへる。 |
とのたまふさまも、げに、なにごころなくうつくしく、うちゑみてぞまもりゐたまへる。 |
53 | 3.4.11 | 353 | 318 |
中将は、山におはし着きて、僧都も珍しがりて、世の中の物語したまふ。その夜は泊りて、声尊き人に経など読ませて、夜一夜、遊びたまふ。禅師の君、こまかなる物語などするついでに、 |
ちうじゃうは、やまにおはしつきて、そうづもめづらしがりて、よのなかのものがたりしたまふ。そのよはとまりて、こゑたふときひとにきゃうなどよませて、よひとよ、あそびたまふ。ぜんじのきみ、こまかなるものがたりなどするついでに、 |
53 | 3.4.12 | 354 | 319 |
「小野に立ち寄りて、ものあはれにもありしかな。世を捨てたれど、なほさばかりの心ばせある人は、難うこそ」 |
"をのにたちよりて、ものあはれにもありしかな。よをすてたれど、なほさばかりのこころばせあるひとは、かたうこそ。" |
53 | 3.4.13 | 355 | 320 |
などあるついでに、 |
などあるついでに、 |
53 | 3.4.14 | 356 | 321 |
「風の吹き開けたりつる隙より、髪いと長くをかしげなる人こそ見えつれ。あらはなりとや思ひつらむ、立ちてあなたに入りつるうしろで、なべての人とは見えざりつ。さやうの所に、よき女は置きたるまじきものにこそあめれ。明け暮れ見るものは法師なり。おのづから目馴れておぼゆらむ。不便なることぞかし」 |
"かぜのふきあけたりつるひまより、かみいとながくをかしげなるひとこそみえつれ。あらはなりとやおもひつらん、たちてあなたにいりつるうしろで、なべてのひととはみえざりつ。さやうのところに、よきをんなはおきたるまじきものにこそあめれ。あけくれみるものはほふしなり。おのづからめなれておぼゆらん。ふびんなることぞかし。" |
53 | 3.4.15 | 357 | 322 |
とのたまふ。禅師の君、 |
とのたまふ。ぜんじのきみ、 |
53 | 3.4.16 | 358 | 323 |
「この春、初瀬に詣でて、あやしくて見出でたる人となむ、聞きはべりし」 |
"このはる、はつせにまうでて、あやしくてみいでたるひととなん、ききはべりし。" |
53 | 3.4.17 | 359 | 324 |
とて、見ぬことなれば、こまかには言はず。 |
とて、みぬことなれば、こまかにはいはず。 |
53 | 3.4.18 | 360 | 325 |
「あはれなりけることかな。いかなる人にかあらむ。世の中を憂しとてぞ、さる所には隠れゐけむかし。昔物語の心地もするかな」 |
"あはれなりけることかな。いかなるひとにかあらん。よのなかをうしとてぞ、さるところにはかくれゐけんかし。むかしものがたりのここちもするかな。" |
53 | 3.4.19 | 361 | 326 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
53 | 3.5 | 362 | 327 | 第五段 中将、帰途に浮舟に和歌を贈る |
53 | 3.5.1 | 363 | 328 |
またの日、帰りたまふにも、「過ぎがたくなむ」とておはしたり。さるべき心づかひしたりければ、昔思ひ出でたる御まかなひの少将の尼なども、袖口さま異なれども、をかし。いとどいや目に、尼君はものしたまふ。物語のついでに、 |
またのひ、かへりたまふにも、"すぎがたくなん。"とておはしたり。さるべきこころづかひしたりければ、むかしおもひいでたるおほんまかなひのせうしゃうのあまなども、そでぐちさまことなれども、をかし。いとどいやめに、あまぎみはものしたまふ。ものがたりのついでに、 |
53 | 3.5.2 | 364 | 329 |
「忍びたるさまにものしたまふらむは、誰れにか」 |
"しのびたるさまにものしたまふらんは、たれにか。" |
53 | 3.5.3 | 365 | 330 |
と問ひたまふ。わづらはしけれど、ほのかにも見つけてけるを、隠し顔ならむもあやしとて、 |
ととひたまふ。わづらはしけれど、ほのかにもみつけてけるを、かくしがほならんもあやしとて、 |
53 | 3.5.4 | 366 | 331 |
「忘れわびはべりて、いとど罪深うのみおぼえはべりつる慰めに、この月ごろ見たまふる人になむ。いかなるにか、いともの思ひしげきさまにて、世にありと人に知られむことを、苦しげに思ひてものせらるれば、かかる谷の底には誰れかは尋ね聞かむ、と思ひつつはべるを、いかでかは聞きあらはさせたまへらむ」 |
"わすれわびはべりて、いとどつみふかうのみおぼえはべりつるなぐさめに、このつきごろみたまふるひとになん。いかなるにか、いとものおもひしげきさまにて、よにありとひとにしられんことを、くるしげにおもひてものせらるれば、かかるたにのそこにはたれかはたづねきかん、とおもひつつはべるを、いかでかはききあらはさせたまへらん。" |
53 | 3.5.5 | 367 | 332 |
といらふ。 |
といらふ。 |
53 | 3.5.6 | 368 | 333 |
「うちつけ心ありて参り来むにだに、山深き道のかことは聞こえつべし。まして、思しよそふらむ方につけては、ことことに隔てたまふまじきことにこそは。いかなる筋に世を恨みたまふ人にか。慰めきこえばや」 |
"うちつけごころありてまゐりこんにだに、やまふかきみちのかことはきこえつべし。まして、おぼしよそふらんかたにつけては、ことことにへだてたまふまじきことにこそは。いかなるすぢによをうらみたまふひとにか。なぐさめきこえばや。" |
53 | 3.5.7 | 369 | 334 |
など、ゆかしげにのたまふ。 |
など、ゆかしげにのたまふ。 |
53 | 3.5.8 | 370 | 335 |
出でたまふとて、畳紙に、 |
いでたまふとて、たたうがみに、 |
53 | 3.5.9 | 371 | 336 |
「あだし野の風になびくな女郎花<BR/>我しめ結はむ道遠くとも」 |
"〔あだしののかぜになびくなをみなへし<BR/>われしめゆはんみちとほくとも〕 |
53 | 3.5.10 | 372 | 337 |
と書きて、少将の尼して入れたり。尼君も見たまひて、 |
とかきて、せうしゃうのあましていれたり。あまぎみもみたまひて、 |
53 | 3.5.11 | 373 | 338 |
「この御返り書かせたまへ。いと心にくきけつきたまへる人なれば、うしろめたくもあらじ」 |
"このおほんかへりかかせたまへ。いとこころにくきけつきたまへるひとなれば、うしろめたくもあらじ。" |
53 | 3.5.12 | 374 | 339 |
とそそのかせば、 |
とそそのかせば、 |
53 | 3.5.13 | 375 | 340 |
「いとあやしき手をば、いかでか」 |
"いとあやしきてをば、いかでか。" |
53 | 3.5.14 | 376 | 341 |
とて、さらに聞きたまはねば、 |
とて、さらにききたまはねば、 |
53 | 3.5.15 | 377 | 342 |
「はしたなきことなり」 |
"はしたなきことなり。" |
53 | 3.5.16 | 378 | 343 |
とて、尼君、 |
とて、あまぎみ、 |
53 | 3.5.17 | 379 | 344 |
「聞こえさせつるやうに、世づかず、人に似ぬ人にてなむ。 |
"きこえさせつるやうに、よづかず、ひとににぬひとにてなん。 |
53 | 3.5.18 | 380 | 345 |
移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花<BR/>憂き世を背く草の庵に」 |
うつしうゑておもひみだれぬをみなへし<BR/>うきよをそむくくさのいほりに〕 |
53 | 3.5.19 | 381 | 346 |
とあり。「こたみは、さもありぬべし」と、思ひ許して帰りぬ。 |
とあり。"こたみは、さもありぬべし。"と、おもひゆるしてかへりぬ。 |
53 | 3.6 | 382 | 347 | 第六段 中将、三度山荘を訪問 |
53 | 3.6.1 | 383 | 348 |
文などわざとやらむは、さすがにうひうひしう、ほのかに見しさまは忘れず、もの思ふらむ筋、何ごとと知らねど、あはれなれば、八月十余日のほどに、小鷹狩のついでにおはしたり。例の、尼呼び出でて、 |
ふみなどわざとやらんは、さすがにうひうひしう、ほのかにみしさまはわすれず、ものおもふらんすぢ、なにごととしらねど、あはれなれば、はちがちじふよにちのほどに、こたかがりのついでにおはしたり。れいの、あまよびいでて、 |
53 | 3.6.2 | 384 | 350 |
「一目見しより、静心なくてなむ」 |
"ひとめみしより、しづごころなくてなん。" |
53 | 3.6.3 | 385 | 351 |
とのたまへり。いらへたまふべくもあらねば、尼君、 |
とのたまへり。いらへたまふべくもあらねば、あまぎみ、 |
53 | 3.6.4 | 386 | 352 |
「待乳の山、となむ見たまふる」 |
"まつちのやま、となんみたまふる。" |
53 | 3.6.5 | 387 | 353 |
と言ひ出だしたまふ。対面したまへるにも、 |
といひいだしたまふ。たいめんしたまへるにも、 |
53 | 3.6.6 | 388 | 354 |
「心苦しきさまにてものしたまふと聞きはべりし人の御上なむ、残りゆかしくはべりつる。何事も心にかなはぬ心地のみしはべれば、山住みもしはべらまほしき心ありながら、許いたまふまじき人びとに思ひ障りてなむ過ぐしはべる。世に心地よげなる人の上は、かく屈じたる人の心からにや、ふさはしからずなむ。もの思ひたまふらむ人に、思ふことを聞こえばや」 |
"こころぐるしきさまにてものしたまふとききはべりしひとのおほんうへなん、のこりゆかしくはべりつる。なにごともこころにかなはぬここちのみしはべれば、やまずみもしはべらまほしきこころありながら、ゆるいたまふまじきひとびとにおもひさはりてなんすぐしはべる。よにここちよげなるひとのうへは、かくくんじたるひとのこころからにや、ふさはしからずなん。ものおもひたまふらんひとに、おもふことをきこえばや。" |
53 | 3.6.7 | 389 | 355 |
など、いと心とどめたるさまに語らひたまふ。 |
など、いとこころとどめたるさまにかたらひたまふ。 |
53 | 3.6.8 | 390 | 356 |
「心地よげならぬ御願ひは、聞こえ交はしたまはむに、つきなからぬさまになむ見えはべれど、例の人にてはあらじと、いとうたたあるまで世を恨みたまふめれば。残りすくなき齢どもだに、今はと背きはべる時は、いともの心細くおぼえはべりしものを。世をこめたる盛りには、つひにいかがとなむ、見たまへはべる」 |
"ここちよげならぬおほんねがひは、きこえかはしたまはんに、つきなからぬさまになんみえはべれど、れいのひとにてはあらじと、いとうたたあるまでよをうらみたまふめれば。のこりすくなきよはひどもだに、いまはとそむきはべるときは、いとものこころぼそくおぼえはべりしものを。よをこめたるさかりには、つひにいかがとなん、みたまへはべる。" |
53 | 3.6.9 | 391 | 357 |
と、親がりて言ふ。入りても、 |
と、おやがりていふ。いりても、 |
53 | 3.6.10 | 392 | 358 |
「情けなし。なほ、いささかにても聞こえたまへ。かかる御住まひは、すずろなることも、あはれ知るこそ世の常のことなれ」 |
"なさけなし。なほ、いささかにてもきこえたまへ。かかるおほんすまひは、すずろなることも、あはれしるこそよのつねのことなれ。" |
53 | 3.6.11 | 393 | 359 |
など、こしらへても言へど、 |
など、こしらへてもいへど、 |
53 | 3.6.12 | 394 | 360 |
「人にもの聞こゆらむ方も知らず、何事もいふかひなくのみこそ」 |
"ひとにものきこゆらんかたもしらず、なにごともいふかひなくのみこそ。" |
53 | 3.6.13 | 395 | 361 |
と、いとつれなくて臥したまへり。 |
と、いとつれなくてふしたまへり。 |
53 | 3.6.14 | 396 | 362 |
客人は、 |
まらうとは、 |
53 | 3.6.15 | 397 | 363 |
「いづら。あな、心憂。秋を契れるは、すかしたまふにこそありけれ」 |
"いづら。あな、こころう。あきをちぎれるは、すかしたまふにこそありけれ。" |
53 | 3.6.16 | 398 | 364 |
など、恨みつつ、 |
など、うらみつつ、 |
53 | 3.6.17 | 399 | 365 |
「松虫の声を訪ねて来つれども<BR/>また萩原の露に惑ひぬ」 |
"〔まつむしのこゑをたづねてきつれども<BR/>またはぎはらのつゆにまどひぬ〕 |
53 | 3.6.18 | 400 | 366 |
「あな、いとほし。これをだに」 |
"あな、いとほし。これをだに。" |
53 | 3.6.19 | 401 | 367 |
など責むれば、さやうに世づいたらむこと言ひ出でむもいと心憂く、また、言ひそめては、かやうの折々に責められむも、むつかしうおぼゆれば、いらへをだにしたまはねば、あまりいふかひなく思ひあへり。尼君、早うは今めきたる人にぞありける名残なるべし。 |
などせむれば、さやうによづいたらんこといひいでんもいとこころうく、また、いひそめては、かやうのをりをりにせめられんも、むつかしうおぼゆれば、いらへをだにしたまはねば、あまりいふかひなくおもひあへり。あまぎみ、はやうはいまめきたるひとにぞありけるなごりなるべし。 |
53 | 3.6.20 | 402 | 368 |
「秋の野の露分け来たる狩衣<BR/>葎茂れる宿にかこつな |
"〔あきのののつゆわけきたるかりごろも<BR/>むぐらしげれるやどにかこつな |
53 | 3.6.21 | 403 | 369 |
となむ、わづらはしがりきこえたまふめる」 |
となん、わづらはしがりきこえたまふめる。" |
53 | 3.6.22 | 404 | 370 |
と言ふを、内にも、なほ「かく心より外に世にありと知られ始むるを、いと苦し」と思す心のうちをば知らで、男君をも飽かず思ひ出でつつ、恋ひわたる人びとなれば、 |
といふを、うちにも、なほ"かくこころよりほかによにありとしられはじむるを、いとくるし。"とおぼすこころのうちをばしらで、をとこぎみをもあかずおもひいでつつ、こひわたるひとびとなれば、 |
53 | 3.6.23 | 405 | 371 |
「かく、はかなきついでにも、うち語らひきこえたまはむに、心より外に、よにうしろめたくは見えたまはぬものを。世の常なる筋には思しかけずとも、情けなからぬほどに、御いらへばかりは聞こえたまへかし」 |
"かく、はかなきついでにも、うちかたらひきこえたまはんに、こころよりほかに、よにうしろめたくはみえたまはぬものを。よのつねなるすぢにはおぼしかけずとも、なさけなからぬほどに、おほんいらへばかりはきこえたまへかし。" |
53 | 3.6.24 | 406 | 372 |
など、ひき動かしつべく言ふ。 |
など、ひきうごかしつべくいふ。 |
53 | 3.7 | 407 | 373 | 第七段 尼君、中将を引き留める |
53 | 3.7.1 | 408 | 374 |
さすがに、かかる古代の心どもにはありつかず、今めきつつ、腰折れ歌好ましげに、若やぐけしきどもは、いとうしろめたうおぼゆ。 |
さすがに、かかるこたいのこころどもにはありつかず、いまめきつつ、こしをれうたこのましげに、わかやぐけしきどもは、いとうしろめたうおぼゆ。 |
53 | 3.7.2 | 409 | 375 |
「限りなく憂き身なりけり、と見果ててし命さへ、あさましう長くて、いかなるさまにさすらふべきならむ。ひたぶるに亡き者と人に見聞き捨てられてもやみなばや」 |
"かぎりなくうきみなりけり、とみはててしいのちさへ、あさましうながくて、いかなるさまにさすらふべきならん。ひたぶるになきものとひとにみききすてられてもやみなばや。" |
53 | 3.7.3 | 410 | 376 |
と思ひ臥したまへるに、中将は、おほかたもの思はしきことのあるにや。いといたううち嘆き、忍びやかに笛を吹き鳴らして、 |
とおもひふしたまへるに、ちうじゃうは、おほかたものおもはしきことのあるにや。いといたううちなげき、しのびやかにふえをふきならして、 |
53 | 3.7.4 | 411 | 377 |
「鹿の鳴く音に」 |
"しかのなくねに。" |
53 | 3.7.5 | 412 | 378 |
など独りごつけはひ、まことに心地なくはあるまじ。 |
などひとりごつけはひ、まことにここちなくはあるまじ。 |
53 | 3.7.6 | 413 | 379 |
「過ぎにし方の思ひ出でらるるにも、なかなか心尽くしに、今はじめてあはれと思すべき人はた、難げなれば、見えぬ山路にもえ思ひなすまじうなむ」 |
"すぎにしかたのおもひいでらるるにも、なかなかこころづくしに、いまはじめてあはれとおぼすべきひとはた、かたげなれば、みえぬやまぢにもえおもひなすまじうなん。" |
53 | 3.7.7 | 414 | 380 |
と、恨めしげにて出でなむとするに、尼君、 |
と、うらめしげにていでなんとするに、あまぎみ、 |
53 | 3.7.8 | 415 | 381 |
「など、あたら夜を御覧じさしつる」 |
"など、あたらよをごらんじさしつる。" |
53 | 3.7.9 | 416 | 382 |
とて、ゐざり出でたまへり。 |
とて、ゐざりいでたまへり。 |
53 | 3.7.10 | 417 | 383 |
「何か。遠方なる里も、試みはべれば」 |
"なにか。をちなるさとも、こころみはべれば。" |
53 | 3.7.11 | 418 | 384 |
など言ひすさみて、「いたう好きがましからむも、さすがに便なし。いとほのかに見えしさまの、目止まりしばかり、つれづれなる心慰めに思ひ出づるを、あまりもて離れ、奥深なるけはひも所のさまにあはずすさまじ」と思へば、帰りなむとするを、笛の音さへ飽かず、いとどおぼえて、 |
などいひすさみて、"いたうすきがましからんも、さすがにびんなし。いとほのかにみえしさまの、めとまりしばかり、つれづれなるこころなぐさめにおもひいづるを、あまりもてはなれ、おくぶかなるけはひもところのさまにあはずすさまじ。"とおもへば、かへりなんとするを、ふえのねさへあかず、いとどおぼえて、 |
53 | 3.7.12 | 419 | 385 |
「深き夜の月をあはれと見ぬ人や<BR/>山の端近き宿に泊らぬ」 |
"〔ふかきよのつきをあはれとみぬひとや<BR/>やまのはちかきやどにとまらぬ〕 |
53 | 3.7.13 | 420 | 386 |
と、なまかたはなることを、 |
と、なまかたはなることを、 |
53 | 3.7.14 | 421 | 387 |
「かくなむ、聞こえたまふ」 |
"かくなん、きこえたまふ。" |
53 | 3.7.15 | 422 | 388 |
と言ふに、心ときめきして、 |
といふに、こころときめきして、 |
53 | 3.7.16 | 423 | 389 |
「山の端に入るまで月を眺め見む<BR/>閨の板間もしるしありやと」 |
"〔やまのはにいるまでつきをながめみん<BR/>ねやのいたまもしるしありやと〕 |
53 | 3.7.17 | 424 | 390 |
など言ふに、この大尼君、笛の音をほのかに聞きつけたりければ、さすがにめでて出で来たり。 |
などいふに、このおほあまぎみ、ふえのねをほのかにききつけたりければ、さすがにめでていできたり。 |
53 | 3.7.18 | 425 | 391 |
ここかしこうちしはぶき、あさましきわななき声にて、なかなか昔のことなどもかけて言はず。誰れとも思ひ分かぬなるべし。 |
ここかしこうちしはぶき、あさましきわななきごゑにて、なかなかむかしのことなどもかけていはず。たれともおもひわかぬなるべし。 |
53 | 3.7.19 | 426 | 392 |
「いで、その琴の琴弾きたまへ。横笛は、月にはいとをかしきものぞかし。いづら、御達。琴とりて参れ」 |
"いで、そのきんのことひきたまへ。よこぶえは、つきにはいとをかしきものぞかし。いづら、ごたち。こととりてまゐれ。" |
53 | 3.7.20 | 427 | 393 |
と言ふに、それなめりと、推し量りに聞けど、「いかなる所に、かかる人、いかで籠もりゐたらむ。定めなき世ぞ」、これにつけてあはれなる。盤渉調をいとをかしう吹きて、 |
といふに、それなめりと、おしはかりにきけど、"いかなるところに、かかるひと、いかでこもりゐたらん。さだめなきよぞ"、これにつけてあはれなる。ばんしきでうをいとをかしうふきて、 |
53 | 3.7.21 | 428 | 394 |
「いづら、さらば」 |
"いづら、さらば。" |
53 | 3.7.22 | 429 | 395 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
53 | 3.7.23 | 430 | 396 |
娘尼君、これもよきほどの好き者にて、 |
むすめあまぎみ、これもよきほどのすきものにて、 |
53 | 3.7.24 | 431 | 397 |
「昔聞きはべりしよりも、こよなくおぼえはべるは、山風をのみ聞き馴れはべりにける耳からにや」とて、「いでや、これもひがことになりてはべらむ」 |
"むかしききはべりしよりも、こよなくおぼえはべるは、やまかぜをのみききなれはべりにけるみみからにや。"とて、"いでや、これもひがことになりてはべらん。" |
53 | 3.7.25 | 432 | 398 |
と言ひながら弾く。今様は、をさをさなべての人の、今は好まずなりゆくものなれば、なかなか珍しくあはれに聞こゆ。松風もいとよくもてはやす。吹きて合はせたる笛の音に、月もかよひて澄める心地すれば、いよいよめでられて、宵惑ひもせず、起き居たり。 |
といひながらひく。いまやうは、をさをさなべてのひとの、いまはこのまずなりゆくものなれば、なかなかめづらしくあはれにきこゆ。まつかぜもいとよくもてはやす。ふきてあはせたるふえのねに、つきもかよひてすめるここちすれば、いよいよめでられて、よひまどひもせず、おきゐたり。 |
53 | 3.8 | 433 | 399 | 第八段 母尼君、琴を弾く |
53 | 3.8.1 | 434 | 400 |
「女は、昔は、東琴をこそは、こともなく弾きはべりしかど、今の世には、変はりにたるにやあらむ。この僧都の、『聞きにくし。念仏より他のあだわざなせそ』とはしたなめられしかば、何かは、とて弾きはべらぬなり。さるは、いとよく鳴る琴もはべり」 |
"をんなは、むかしは、あづまごとをこそは、こともなくひきはべりしかど、いまのよには、かはりにたるにやあらん。このそうづの、'ききにくし。ねんぶつよりほかのあだわざなせそ。'とはしたなめられしかば、なにかは、とてひきはべらぬなり。さるは、いとよくなることもはべり。" |
53 | 3.8.2 | 435 | 401 |
と言ひ続けて、いと弾かまほしと思ひたれば、いと忍びやかにうち笑ひて、 |
といひつづけて、いとひかまほしとおもひたれば、いとしのびやかにうちわらひて、 |
53 | 3.8.3 | 436 | 402 |
「いとあやしきことをも制しきこえたまひける僧都かな。極楽といふなる所には、菩薩なども皆かかることをして、天人なども舞ひ遊ぶこそ尊かなれ。行ひ紛れ、罪得べきことかは。今宵聞きはべらばや」 |
"いとあやしきことをもせいしきこえたまひけるそうづかな。ごくらくといふなるところには、ぼさつなどもみなかかることをして、てんにんなどもまひあそぶこそたふとかなれ。おこなひまぎれ、つみうべきことかは。こよひききはべらばや。" |
53 | 3.8.4 | 437 | 403 |
とすかせば、「いとよし」と思ひて、 |
とすかせば、"いとよし。"とおもひて、 |
53 | 3.8.5 | 438 | 404 |
「いで、主殿のくそ、東取りて」 |
"いで、とのもりのくそ、あづまとりて。" |
53 | 3.8.6 | 439 | 405 |
と言ふにも、しはぶきは絶えず。人びとは、見苦しと思へど、僧都をさへ、恨めしげにうれへて言ひ聞かすれば、いとほしくてまかせたり。取り寄せて、ただ今の笛の音をも訪ねず、ただおのが心をやりて、東の調べを爪さはやかに調ぶ。皆異ものは声を止めつるを、「これをのみめでたる」と思ひて、 |
といふにも、しはぶきはたえず。ひとびとは、みぐるしとおもへど、そうづをさへ、うらめしげにうれへていひきかすれば、いとほしくてまかせたり。とりよせて、ただいまのふえのねをもたづねず、ただおのがこころをやりて、あづまのしらべをつまさはやかにしらぶ。みなことものはこゑをやめつるを、"これをのみめでたる。"とおもひて、 |
53 | 3.8.7 | 440 | 406 |
「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」 |
"たけふ、ちちりちちり、たりたんな" |
53 | 3.8.8 | 441 | 407 |
など、掻き返し、はやりかに弾きたる、言葉ども、わりなく古めきたり。 |
など、かきかへし、はやりかにひきたる、ことばども、わりなくふるめきたり。 |
53 | 3.8.9 | 442 | 408 |
「いとをかしう、今の世に聞こえぬ言葉こそは、弾きたまひけれ」 |
"いとをかしう、いまのよにきこえぬことばこそは、ひきたまひけれ。" |
53 | 3.8.10 | 443 | 409 |
と褒むれば、耳ほのぼのしく、かたはらなる人に問ひ聞きて、 |
とほむれば、みみほのぼのしく、かたはらなるひとにとひききて、 |
53 | 3.8.11 | 444 | 410 |
「今様の若き人は、かやうなることをぞ好まれざりける。ここに月ごろものしたまふめる姫君、容貌いとけうらにものしたまふめれど、もはら、かやうなるあだわざなどしたまはず、埋れてなむ、ものしたまふめる」 |
"いまやうのわかきひとは、かやうなることをぞこのまれざりける。ここにつきごろものしたまふめるひめぎみ、かたちいとけうらにものしたまふめれど、もはら、かやうなるあだわざなどしたまはず、うもれてなん、ものしたまふめる。" |
53 | 3.8.12 | 445 | 411 |
と、我かしこにうちあざ笑ひて語るを、尼君などは、かたはらいたしと思す。 |
と、われかしこにうちあざわらひてかたるを、あまぎみなどは、かたはらいたしとおぼす。 |
53 | 3.9 | 446 | 412 | 第九段 翌朝、中将から和歌が贈られる |
53 | 3.9.1 | 447 | 413 |
これに事皆醒めて、帰りたまふほども、山おろし吹きて、聞こえ来る笛の音、いとをかしう聞こえて、起き明かしたる翌朝、 |
これにことみなさめて、かへりたまふほども、やまおろしふきて、きこえくるふえのね、いとをかしうきこえて、おきあかしたるつとめて、 |
53 | 3.9.2 | 448 | 414 |
「昨夜は、かたがた心乱れはべりしかば、急ぎまかではべりし。 |
"よべは、かたがたこころみだれはべりしかば、いそぎまかではべりし。 |
53 | 3.9.3 | 449 | 415 |
忘られぬ昔のことも笛竹の<BR/>つらきふしにも音ぞ泣かれける |
わすられぬむかしのこともふえたけの<BR/>つらきふしにもねぞなかれける |
53 | 3.9.4 | 450 | 416 |
なほ、すこし思し知るばかり教へなさせたまへ。忍ばれぬべくは、好き好きしきまでも、何かは」 |
なほ、すこしおぼししるばかりをしへなさせたまへ。しのばれぬべくは、すきずきしきまでも、なにかは。" |
53 | 3.9.5 | 451 | 417 |
とあるを、いとどわびたるは、涙とどめがたげなるけしきにて、書きたまふ。 |
とあるを、いとどわびたるは、なみだとどめがたげなるけしきにて、かきたまふ。 |
53 | 3.9.6 | 452 | 418 |
「笛の音に昔のことも偲ばれて<BR/>帰りしほども袖ぞ濡れにし |
"〔ふえのねにむかしのこともしのばれて<BR/>かへりしほどもそでぞぬれにし |
53 | 3.9.7 | 453 | 419 |
あやしう、もの思ひ知らぬにや、とまで見はべるありさまは、老い人の問はず語りに、聞こし召しけむかし」 |
あやしう、ものおもひしらぬにや、とまでみはべるありさまは、おいびとのとはずがたりに、きこしめしけんかし。" |
53 | 3.9.8 | 454 | 420 |
とあり。珍しからぬも見所なき心地して、うち置かれけむ。 |
とあり。めづらしからぬもみどころなきここちして、うちおかれけん。 |
53 | 3.9.9 | 455 | 421 |
荻の葉に劣らぬほどほどに訪れわたる、「いとむつかしうもあるかな。人の心はあながちなるものなりけり」と見知りにし折々も、やうやう思ひ出づるままに、 |
をぎのはにおとらぬほどほどにおとづれわたる、"いとむつかしうもあるかな。ひとのこころはあながちなるものなりけり。"とみしりにしをりをりも、やうやうおもひいづるままに、 |
53 | 3.9.10 | 456 | 422 |
「なほ、かかる筋のこと、人にも思ひ放たすべきさまに、疾くなしたまひてよ」 |
"なほ、かかるすぢのこと、ひとにもおもひはなたすべきさまに、とくなしたまひてよ。" |
53 | 3.9.11 | 457 | 423 |
とて、経習ひて読みたまふ。心の内にも念じたまへり。かくよろづにつけて世の中を思ひ捨つれば、「若き人とてをかしやかなることもことになく、結ぼほれたる本性なめり」と思ふ。容貌の見るかひあり、うつくしきに、よろづの咎見許して、明け暮れの見物にしたり。すこしうち笑ひたまふ折は、珍しくめでたきものに思へり。 |
とて、きゃうならひてよみたまふ。こころのうちにもねんじたまへり。かくよろづにつけてよのなかをおもひすつれば、"わかきひととてをかしやかなることもことになく、むすぼほれたるほんじゃうなめり。"とおもふ。かたちのみるかひあり、うつくしきに、よろづのとがみゆるして、あけくれのみものにしたり。すこしうちわらひたまふをりは、めづらしくめでたきものにおもへり。 |
53 | 4 | 458 | 424 | 第四章 浮舟の物語 浮舟、尼君留守中に出家す |
53 | 4.1 | 459 | 425 | 第一段 九月、尼君、再度初瀬に詣でる |
53 | 4.1.1 | 460 | 426 |
九月になりて、この尼君、初瀬に詣づ。年ごろいと心細き身に、恋しき人の上も思ひやまれざりしを、かくあらぬ人ともおぼえたまはぬ慰めを得たれば、観音の御験うれしとて、返り申しだちて、詣でたまふなりけり。 |
くがちになりて、このあまぎみ、はつせにまうづ。としごろいとこころぼそきみに、こひしきひとのうへもおもひやまれざりしを、かくあらぬひとともおぼえたまはぬなぐさめをえたれば、かのんのおほんしるしうれしとて、かへりまうしだちて、まうでたまふなりけり。 |
53 | 4.1.2 | 461 | 427 |
「いざ、たまへ。人やは知らむとする。同じ仏なれど、さやうの所に行ひたるなむ、験ありてよき例多かる」 |
"いざ、たまへ。ひとやはしらんとする。おなじほとけなれど、さやうのところにおこなひたるなん、しるしありてよきためしおほかる。" |
53 | 4.1.3 | 462 | 428 |
と言ひて、そそのかしたつれど、「昔、母君、乳母などの、かやうに言ひ知らせつつ、たびたび詣でさせしを、かひなきにこそあめれ。命さへ心にかなはず、たぐひなきいみじきめを見るは」と、いと心憂きうちにも、「知らぬ人に具して、さる道のありきをしたらむよ」と、そら恐ろしくおぼゆ。 |
といひて、そそのかしたつれど、"むかし、ははぎみ、めのとなどの、かやうにいひしらせつつ、たびたびまうでさせしを、かひなきにこそあめれ。いのちさへこころにかなはず、たぐひなきいみじきめをみるは。"と、いとこころうきうちにも、"しらぬひとにぐして、さるみちのありきをしたらんよ。"と、そらおそろしくおぼゆ。 |
53 | 4.1.4 | 463 | 429 |
心ごはきさまには言ひもなさで、 |
こころごはきさまにはいひもなさで、 |
53 | 4.1.5 | 464 | 430 |
「心地のいと悪しうのみはべれば、さやうならむ道のほどにもいかがなど、つつましうなむ」 |
"ここちのいとあしうのみはべれば、さやうならんみちのほどにもいかがなど、つつましうなん。" |
53 | 4.1.6 | 465 | 431 |
とのたまふ。「物懼ぢはさもしたまふべき人ぞかし」と思ひて、しひても誘はず。 |
とのたまふ。"ものおぢはさもしたまふべきひとぞかし。"とおもひて、しひてもいざなはず。 |
53 | 4.1.7 | 466 | 432 |
「はかなくて世に古川の憂き瀬には<BR/>尋ねも行かじ二本の杉」 |
"〔はかなくてよにふるかはのうきせには<BR/>たづねもゆかじふたもとのすぎ〕" |
53 | 4.1.8 | 467 | 433 |
と手習に混じりたるを、尼君見つけて、 |
とてならひにまじりたるを、あまぎみみつけて、 |
53 | 4.1.9 | 468 | 434 |
「二本は、またも逢ひきこえむと思ひたまふ人あるべし」 |
"ふたもとは、またもあひきこえんとおもひたまふひとあるべし。" |
53 | 4.1.10 | 469 | 435 |
と、戯れごとを言ひ当てたるに、胸つぶれて、面赤めたまへる、いと愛敬づきうつくしげなり。 |
と、たはぶれごとをいひあてたるに、むねつぶれて、おもてあかめたまへる、いとあいぎゃうづきうつくしげなり。 |
53 | 4.1.11 | 470 | 436 |
「古川の杉のもとだち知らねども<BR/>過ぎにし人によそへてぞ見る」 |
"〔ふるかはのすぎのもとだちしらねども<BR/>すぎにしひとによそへてぞみる〕 |
53 | 4.1.12 | 471 | 437 |
ことなることなきいらへを口疾く言ふ。忍びて、と言へど、皆人慕ひつつ、ここには人少なにておはせむを心苦しがりて、心ばせある少将の尼、左衛門とてある大人しき人、童ばかりぞ留めたりける。 |
ことなることなきいらへをくちとくいふ。しのびて、といへど、みなひとしたひつつ、ここにはひとずくなにておはせんをこころぐるしがりて、こころばせあるせうしゃうのあま、さゑもんとてあるおとなしきひと、わらはばかりぞとどめたりける。 |
53 | 4.2 | 472 | 438 | 第二段 浮舟、少将の尼と碁を打つ |
53 | 4.2.1 | 473 | 439 |
皆出で立ちけるを眺め出でて、あさましきことを思ひながらも、「今はいかがせむ」と、「頼もし人に思ふ人一人ものしたまはぬは、心細くもあるかな」と、いとつれづれなるに、中将の御文あり。 |
みないでたちけるをながめいでて、あさましきことをおもひながらも、"いまはいかがせん。"と、"たのもしびとにおもふひとひとりものしたまはぬは、こころぼそくもあるかな。"と、いとつれづれなるに、ちうじゃうのおほんふみあり。 |
53 | 4.2.2 | 474 | 440 |
「御覧ぜよ」と言へど、聞きも入れたまはず。いとど人も見えず、つれづれと来し方行く先を思ひ屈じたまふ。 |
"ごらんぜよ。"といへど、ききもいれたまはず。いとどひともみえず、つれづれときしかたゆくさきをおもひくんじたまふ。 |
53 | 4.2.3 | 475 | 441 |
「苦しきまでも眺めさせたまふかな。御碁を打たせたまへ」 |
"くるしきまでもながめさせたまふかな。おほんごをうたせたまへ。" |
53 | 4.2.4 | 476 | 442 |
と言ふ。 |
といふ。 |
53 | 4.2.5 | 477 | 443 |
「いとあやしうこそはありしか」 |
"いとあやしうこそはありしか。" |
53 | 4.2.6 | 478 | 444 |
とはのたまへど、打たむと思したれば、盤取りにやりて、我はと思ひて先ぜさせたてまつりたるに、いとこよなければ、また手直して打つ。 |
とはのたまへど、うたんとおぼしたれば、ばんとりにやりて、われはとおもひてせんぜさせたてまつりたるに、いとこよなければ、またてなほしてうつ。 |
53 | 4.2.7 | 479 | 445 |
「尼上疾う帰らせたまはなむ。この御碁見せたてまつらむ。かの御碁ぞ、いと強かりし。僧都の君、早うよりいみじう好ませたまひて、けしうはあらずと思したりしを、いと棋聖大徳になりて、『さし出でてこそ打たざらめ、御碁には負けじかし』と聞こえたまひしに、つひに僧都なむ二つ負けたまひし。棋聖が碁には勝らせたまふべきなめり。あな、いみじ」 |
"あまうへとうかへらせたまはなん。このおほんごみせたてまつらん。かのおほんごぞ、いとつよかりし。そうづのきみ、はやうよりいみじうこのませたまひて、けしうはあらずとおぼしたりしを、いときせいだいとこになりて、'さしいでてこそうたざらめ、おほんごにはまけじかし。'ときこえたまひしに、つひにそうづなんふたつまけたまひし。きせいがごにはまさらせたまふべきなめり。あな、いみじ。" |
53 | 4.2.8 | 480 | 446 |
と興ずれば、さだ過ぎたる尼額の見つかぬに、もの好みするに、「むつかしきこともしそめてけるかな」と思ひて、「心地悪し」とて臥したまひぬ。 |
ときょうずれば、さだすぎたるあまびたひのみつかぬに、ものごのみするに、"むつかしきこともしそめてけるかな。"とおもひて、"ここちあし。"とてふしたまひぬ。 |
53 | 4.2.9 | 481 | 447 |
「時々、晴れ晴れしうもてなしておはしませ。あたら御身を。いみじう沈みてもてなさせたまふこそ口惜しう、玉に瑕あらむ心地しはべれ」 |
"ときどき、はればれしうもてなしておはしませ。あたらおほんみを。いみじうしづみてもてなさせたまふこそくちをしう、たまにきじあらんここちしはべれ。" |
53 | 4.2.10 | 482 | 448 |
と言ふ。夕暮の風の音もあはれなるに、思ひ出づることも多くて、 |
といふ。ゆふぐれのかぜのおともあはれなるに、おもひいづることもおほくて、 |
53 | 4.2.11 | 483 | 449 |
「心には秋の夕べを分かねども<BR/>眺むる袖に露ぞ乱るる」 |
"〔こころにはあきのゆふべをわかねども<BR/>ながむるそでにつゆぞみだるる〕 |
53 | 4.3 | 484 | 450 | 第三段 中将来訪、浮舟別室に逃げ込む |
53 | 4.3.1 | 485 | 451 |
月さし出でてをかしきほどに、昼文ありつる中将おはしたり。「あな、うたて。こは、なにぞ」とおぼえたまへば、奥深く入りたまふを、 |
つきさしいでてをかしきほどに、ひるふみありつるちうじゃうおはしたり。"あな、うたて。こは、なにぞ。"とおぼえたまへば、おくふかくいりたまふを、 |
53 | 4.3.2 | 486 | 453 |
「さも、あまりにもおはしますものかな。御心ざしのほども、あはれまさる折にこそはべるめれ。ほのかにも、聞こえたまはむことも聞かせたまへ。しみつかむことのやうに思し召したるこそ」 |
"さも、あまりにもおはしますものかな。みこころざしのほども、あはれまさるをりにこそはべるめれ。ほのかにも、きこえたまはんこともきかせたまへ。しみつかんことのやうにおぼしめしたるこそ。" |
53 | 4.3.3 | 487 | 454 |
など言ふに、いとはしたなくおぼゆ。おはせぬよしを言へど、昼の使の、一所など問ひ聞きたるなるべし、いと言多く怨みて、 |
などいふに、いとはしたなくおぼゆ。おはせぬよしをいへど、ひるのつかひの、ひとところなどとひききたるなるべし、いとことおほくうらみて、 |
53 | 4.3.4 | 488 | 455 |
「御声も聞きはべらじ。ただ、気近くて聞こえむことを、聞きにくしともいかにとも、思しことわれ」 |
"おほんこゑもききはべらじ。ただ、けぢかくてきこえんことを、ききにくしともいかにとも、おぼしことわれ。" |
53 | 4.3.5 | 489 | 456 |
と、よろづに言ひわびて、 |
と、よろづにいひわびて、 |
53 | 4.3.6 | 490 | 457 |
「いと心憂く。所につけてこそ、もののあはれもまされ。あまりかかるは」 |
"いとこころうく。ところにつけてこそ、もののあはれもまされ。あまりかかるは。" |
53 | 4.3.7 | 491 | 458 |
など、あはめつつ、 |
など、あはめつつ、 |
53 | 4.3.8 | 492 | 459 |
「山里の秋の夜深きあはれをも<BR/>もの思ふ人は思ひこそ知れ |
"〔やまざとのあきのよぶかきあはれをも<BR/>ものおもふひとはおもひこそしれ |
53 | 4.3.9 | 493 | 460 |
おのづから御心も通ひぬべきを」 |
おのづからみこころもかよひぬべきを。" |
53 | 4.3.10 | 494 | 461 |
などあれば、 |
などあれば、 |
53 | 4.3.11 | 495 | 462 |
「尼君おはせで、紛らはしきこゆべき人もはべらず。いと世づかぬやうならむ」 |
"あまぎみおはせで、まぎらはしきこゆべきひともはべらず。いとよづかぬやうならん。" |
53 | 4.3.12 | 496 | 463 |
と責むれば、 |
とせむれば、 |
53 | 4.3.13 | 497 | 464 |
「憂きものと思ひも知らで過ぐす身を<BR/>もの思ふ人と人は知りけり」 |
"〔うきものとおもひもしらですぐすみを<BR/>ものおもふひととひとはしりけり〕 |
53 | 4.3.14 | 498 | 465 |
わざといらへともなきを、聞きて伝へきこゆれば、いとあはれと思ひて、 |
わざといらへともなきを、ききてつたへきこゆれば、いとあはれとおもひて、 |
53 | 4.3.15 | 499 | 466 |
「なほ、ただいささか出でたまへ、と聞こえ動かせ」 |
"なほ、ただいささかいでたまへ、ときこえうごかせ。" |
53 | 4.3.16 | 500 | 467 |
と、この人びとをわりなきまで恨みたまふ。 |
と、このひとびとをわりなきまでうらみたまふ。 |
53 | 4.3.17 | 501 | 468 |
「あやしきまで、つれなくぞ見えたまふや」 |
"あやしきまで、つれなくぞみえたまふや。" |
53 | 4.3.18 | 502 | 469 |
とて、入りて見れば、例はかりそめにもさしのぞきたまはぬ老い人の御方に入りたまひにけり。あさましう思ひて、「かくなむ」と聞こゆれば、 |
とて、いりてみれば、れいはかりそめにもさしのぞきたまはぬおいびとのおほんかたにいりたまひにけり。あさましうおもひて、"かくなん。"ときこゆれば、 |
53 | 4.3.19 | 503 | 470 |
「かかる所に眺めたまふらむ心の内のあはれに、おほかたのありさまなども、情けなかるまじき人の、いとあまり思ひ知らぬ人よりも、けにもてなしたまふめるこそ。それ物懲りしたまへるか。なほ、いかなるさまに世を恨みて、いつまでおはすべき人ぞ」 |
"かかるところにながめたまふらんこころのうちのあはれに、おほかたのありさまなども、なさけなかるまじきひとの、いとあまりおもひしらぬひとよりも、けにもてなしたまふめるこそ。それものごりしたまへるか。なほ、いかなるさまによをうらみて、いつまでおはすべきひとぞ。" |
53 | 4.3.20 | 504 | 471 |
など、ありさま問ひて、いとゆかしげにのみ思いたれど、こまかなることは、いかでかは言ひ聞かせむ。ただ、 |
など、ありさまとひて、いとゆかしげにのみおぼいたれど、こまかなることは、いかでかはいひきかせん。ただ、 |
53 | 4.3.21 | 505 | 472 |
「知りきこえたまふべき人の、年ごろは、疎々しきやうにて過ぐしたまひしを、初瀬に詣であひたまひて、尋ねきこえたまひつる」 |
"しりきこえたまふべきひとの、としごろは、うとうとしきやうにてすぐしたまひしを、はつせにまうであひたまひて、たづねきこえたまひつる。" |
53 | 4.3.22 | 506 | 473 |
とぞ言ふ。 |
とぞいふ。 |
53 | 4.4 | 507 | 474 | 第四段 老尼君たちのいびき |
53 | 4.4.1 | 508 | 475 |
姫君は、「いとむつかし」とのみ聞く老い人のあたりにうつぶし臥して、寝も寝られず。宵惑ひは、えもいはずおどろおどろしきいびきしつつ、前にも、うちすがひたる尼ども二人して、劣らじといびき合はせたり。いと恐ろしう、「今宵、この人びとにや食はれなむ」と思ふも、惜しからぬ身なれど、例の心弱さは、一つ橋危ふがりて帰り来たりけむ者のやうに、わびしくおぼゆ。 |
ひめぎみは、"いとむつかし。"とのみきくおいびとのあたりにうつぶしふして、いもなられず。よひまどひは、えもいはずおどろおどろしきいびきしつつ、まへにも、うちすがひたるあまどもふたりして、おとらじといびきあはせたり。いとおそろしう、"こよひ、このひとびとにやくはれなん。"とおもふも、をしからぬみなれど、れいのこころよわさは、ひとつばしあやふがりてかへりきたりけんもののやうに、わびしくおぼゆ。 |
53 | 4.4.2 | 509 | 476 |
こもき、供に率ておはしつれど、色めきて、このめづらしき男の艶だちゐたる方に帰り去にけり。「今や来る、今や来る」と待ちゐたまへれど、いとはかなき頼もし人なりや。中将、言ひわづらひて帰りにければ、 |
こもき、ともにゐておはしつれど、いろめきて、このめづらしきをとこのえんだちゐたるかたにかへりいにけり。"いまやくる、いまやくる。"とまちゐたまへれど、いとはかなきたのもしびとなりや。ちうじゃう、いひわづらひてかへりにければ、 |
53 | 4.4.3 | 510 | 477 |
「いと情けなく、埋れてもおはしますかな。あたら御容貌を」 |
"いとなさけなく、むもれてもおはしますかな。あたらおほんかたちを。" |
53 | 4.4.4 | 511 | 478 |
などそしりて、皆一所に寝ぬ。 |
などそしりて、みなひとところにねぬ。 |
53 | 4.4.5 | 512 | 479 |
「夜中ばかりにやなりぬらむ」と思ふほどに、尼君しはぶきおぼほれて起きにたり。火影に、頭つきはいと白きに、黒きものをかづきて、この君の臥したまへる、あやしがりて、鼬とかいふなるものが、さるわざする、額に手を当てて、 |
"よなかばかりにやなりぬらん。"とおもふほどに、あまぎみしはぶきおぼほれておきにたり。ほかげに、かしらつきはいとしろきに、くろきものをかづきて、このきみのふしたまへる、あやしがりて、いたちとかいふなるものが、さるわざする、ひたひにてをあてて、 |
53 | 4.4.6 | 513 | 480 |
「あやし。これは、誰れぞ」 |
"あやし。これは、たれぞ。" |
53 | 4.4.7 | 514 | 481 |
と、執念げなる声にて見おこせたる、さらに、「ただ今食ひてむとする」とぞおぼゆる。鬼の取りもて来けむほどは、物のおぼえざりければ、なかなか心やすし。「いかさまにせむ」とおぼゆるむつかしさにも、「いみじきさまにて生き返り、人になりて、またありしいろいろの憂きことを思ひ乱れ、むつかしとも恐ろしとも、ものを思ふよ。死なましかば、これよりも恐ろしげなる者の中にこそはあらましか」と思ひやらる。 |
と、しふねげなるこゑにてみおこせたる、さらに、"ただいまくひてんとする。"とぞおぼゆる。おにのとりもてきけんほどは、もののおぼえざりければ、なかなかこころやすし。"いかさまにせん。"とおぼゆるむつかしさにも、"いみじきさまにていきかへり、ひとになりて、またありしいろいろのうきことをおもひみだれ、むつかしともおそろしとも、ものをおもふよ。しなましかば、これよりもおそろしげなるもののなかにこそはあらましか。"とおもひやらる。 |
53 | 4.5 | 515 | 482 | 第五段 浮舟、悲運のわが身を思う |
53 | 4.5.1 | 516 | 483 |
昔よりのことを、まどろまれぬままに、常よりも思ひ続くるに、 |
むかしよりのことを、まどろまれぬままに、つねよりもおもひつづくるに、 |
53 | 4.5.2 | 517 | 484 |
「いと心憂く、親と聞こえけむ人の御容貌も見たてまつらず、遥かなる東を返る返る年月をゆきて、たまさかに尋ね寄りて、うれし頼もしと思ひきこえし姉妹の御あたりをも、思はずにて絶え過ぎ、さる方に思ひ定めたまひし人につけて、やうやう身の憂さをも慰めつべききはめに、あさましうもてそこなひたる身を思ひもてゆけば、宮を、すこしもあはれと思ひきこえけむ心ぞ、いとけしからぬ。ただ、この人の御ゆかりにさすらへぬるぞ」 |
"いとこころうく、おやときこえけんひとのおほんかたちもみたてまつらず、はるかなるあづまをかへるがへるとしつきをゆきて、たまさかにたづねよりて、うれしたのもしとおもひきこえしはらからのおほんあたりをも、おもはずにてたえすぎ、さるかたにおもひさだめたまひしひとにつけて、やうやうみのうさをもなぐさめつべききはめに、あさましうもてそこなひたるみをおもひもてゆけば、みやを、すこしもあはれとおもひきこえけんこころぞ、いとけしからぬ。ただ、このひとのおほんゆかりにさすらへぬるぞ。" |
53 | 4.5.3 | 518 | 485 |
と思へば、「小島の色をためしに契りたまひしを、などてをかしと思ひきこえけむ」と、こよなく飽きにたる心地す。初めより、薄きながらものどやかにものしたまひし人は、この折かの折など、思ひ出づるぞこよなかりける。「かくてこそありけれ」と、聞きつけられたてまつらむ恥づかしさは、人よりまさりぬべし。さすがに、「この世には、ありし御さまを、よそながらだにいつか見むずる、とうち思ふ、なほ、悪ろの心や。かくだに思はじ」など、心一つをかへさふ。 |
とおもへば、"こじまのいろをためしにちぎりたまひしを、などてをかしとおもひきこえけん。"と、こよなくあきにたるここちす。はじめより、うすきながらものどやかにものしたまひしひとは、このをりかのをりなど、おもひいづるぞこよなかりける。"かくてこそありけれ。"と、ききつけられたてまつらんはづかしさは、ひとよりまさりぬべし。さすがに、"このよには、ありしおほんさまを、よそながらだにいつかみんずる、とうちおもふ、なほ、わろのこころや。かくだにおもはじ。"など、こころひとつをかへさふ。 |
53 | 4.5.4 | 519 | 486 |
からうして鶏の鳴くを聞きて、いとうれし。「母の御声を聞きたらむは、ましていかならむ」と思ひ明かして、心地もいと悪し。供にて渡るべき人もとみに来ねば、なほ臥したまへるに、いびきの人は、いと疾く起きて、粥などむつかしきことどもをもてはやして、 |
からうしてとりのなくをききて、いとうれし。"ははのおほんこゑをききたらんは、ましていかならん。"とおもひあかして、ここちもいとあし。ともにてわたるべきひともとみにこねば、なほふしたまへるに、いびきのひとは、いととくおきて、かゆなどむつかしきことどもをもてはやして、 |
53 | 4.5.5 | 520 | 487 |
「御前に、疾く聞こし召せ」 |
"おまへに、とくきこしめせ。" |
53 | 4.5.6 | 521 | 488 |
など寄り来て言へど、まかなひもいとど心づきなく、うたて見知らぬ心地して、 |
などよりきていへど、まかなひもいとどこころづきなく、うたてみしらぬここちして、 |
53 | 4.5.7 | 522 | 489 |
「悩ましくなむ」 |
"なやましくなん。" |
53 | 4.5.8 | 523 | 490 |
と、ことなしびたまふを、しひて言ふもいとこちなし。 |
と、ことなしびたまふを、しひていふもいとこちなし。 |
53 | 4.6 | 524 | 491 | 第六段 僧都、宮中へ行く途中に立ち寄る |
53 | 4.6.1 | 525 | 492 |
下衆下衆しき法師ばらなどあまた来て、 |
げすげすしきほふしばらなどあまたきて、 |
53 | 4.6.2 | 526 | 493 |
「僧都、今日下りさせたまふべし」 |
"そうづ、けふおりさせたまふべし。" |
53 | 4.6.3 | 527 | 494 |
「などにはかには」 |
"などにはかには。" |
53 | 4.6.4 | 528 | 495 |
と問ふなれば、 |
ととふなれば、 |
53 | 4.6.5 | 529 | 496 |
「一品の宮の、御もののけに悩ませたまひける、山の座主、御修法仕まつらせたまへど、なほ、僧都参らせたまはでは験なしとて、昨日、二度なむ召しはべりし。右大臣殿の四位少将、昨夜、夜更けてなむ登りおはしまして、后の宮の御文などはべりければ、下りさせたまふなり」 |
"いっぽんのみやの、おほんもののけになやませたまひける、やまのざす、みすほふつかうまつらせたまへど、なほ、そうづまゐらせたまはではしるしなしとて、きのふ、ふたたびなんめしはべりし。うだいじんどののしゐのせうしゃう、よべ、よふけてなんのぼりおはしまして、きさいのみやのおほんふみなどはべりければ、おりさせたまふなり。" |
53 | 4.6.6 | 530 | 497 |
など、いとはなやかに言ひなす。「恥づかしうとも、会ひて、尼になしたまひてよ、と言はむ。さかしら人少なくて、よき折にこそ」と思へば、起きて、 |
など、いとはなやかにいひなす。"はづかしうとも、あひて、あまになしたまひてよ、といはん。さかしらびとすくなくて、よきをりにこそ。"とおもへば、おきて、 |
53 | 4.6.7 | 531 | 498 |
「心地のいと悪しうのみはべるを、僧都の下りさせたまへらむに、忌むこと受けはべらむとなむ思ひはべるを、さやうに聞こえたまへ」 |
"ここちのいとあしうのみはべるを、そうづのおりさせたまへらんに、いむことうけはべらんとなんおもひはべるを、さやうにきこえたまへ。" |
53 | 4.6.8 | 532 | 499 |
と語らひたまへば、ほけほけしう、うちうなづく。 |
とかたらひたまへば、ほけほけしう、うちうなづく。 |
53 | 4.6.9 | 533 | 500 |
例の方におはして、髪は尼君のみ削りたまふを、異人に手触れさせむもうたておぼゆるに、手づからはた、えせぬことなれば、ただすこし解き下して、親に今一度かうながらのさまを見えずなりなむこそ、人やりならず、いと悲しけれ。いたうわづらひしけにや、髪もすこし落ち細りたる心地すれど、何ばかりも衰へず、いと多くて、六尺ばかりなる末などぞ、いとうつくしかりける。筋なども、いとこまかにうつくしげなり。 |
れいのかたにおはして、かみはあまぎみのみけづりたまふを、ことびとにてふれさせんもうたておぼゆるに、てづからはた、えせぬことなれば、ただすこしときくだして、おやにいまひとたびかうながらのさまをみえずなりなんこそ、ひとやりならず、いとかなしけれ。いたうわづらひしけにや、かみもすこしおちほそりたるここちすれど、なにばかりもおとろへず、いとおほくて、ろくしゃくばかりなるすゑなどぞ、いとうつくしかりける。すぢなども、いとこまかにうつくしげなり。 |
53 | 4.6.10 | 534 | 501 |
「かかれとてしも」 |
"かかれとてしも。" |
53 | 4.6.11 | 535 | 502 |
と、独りごちゐたまへり。 |
と、ひとりごちゐたまへり。 |
53 | 4.6.12 | 536 | 503 |
暮れ方に、僧都ものしたまへり。南面払ひしつらひて、まろなる頭つき、行きちがひ騷ぎたるも、例に変はりて、いと恐ろしき心地す。母の御方に参りたまひて、 |
くれかたに、そうづものしたまへり。みなみおもてはらひしつらひて、まろなるかしらつき、ゆきちがひさわぎたるも、れいにかはりて、いとおそろしきここちす。ははのおほんかたにまゐりたまひて、 |
53 | 4.6.13 | 537 | 504 |
「いかにぞ、月ごろは」 |
"いかにぞ、つきごろは。" |
53 | 4.6.14 | 538 | 505 |
など言ふ。 |
などいふ。 |
53 | 4.6.15 | 539 | 506 |
「東の御方は物詣でしたまひにきとか。このおはせし人は、なほものしたまふや」 |
"ひんがしのおほんかたはものまうでしたまひにきとか。このおはせしひとは、なほものしたまふや。" |
53 | 4.6.16 | 540 | 507 |
など問ひたまふ。 |
などとひたまふ。 |
53 | 4.6.17 | 541 | 508 |
「しか。ここにとまりてなむ。心地悪しとこそものしたまひて、忌むこと受けたてまつらむ、とのたまひつる」 |
"しか。ここにとまりてなん。ここちあしとこそものしたまひて、いむことうけたてまつらん、とのたまひつる。" |
53 | 4.6.18 | 542 | 509 |
と語る。 |
とかたる。 |
53 | 4.7 | 543 | 510 | 第七段 浮舟、僧都に出家を懇願 |
53 | 4.7.1 | 544 | 511 |
立ちてこなたにいまして、「ここにや、おはします」とて、几帳のもとについゐたまへば、つつましけれど、ゐざり寄りて、いらへしたまふ。 |
たちてこなたにいまして、"ここにや、おはします。"とて、きちゃうのもとについゐたまへば、つつましけれど、ゐざりよりて、いらへしたまふ。 |
53 | 4.7.2 | 545 | 512 |
「不意にて見たてまつりそめてしも、さるべき昔の契りありけるにこそ、と思ひたまへて。御祈りなども、ねむごろに仕うまつりしを、法師は、そのこととなくて、御文聞こえ受けたまはむも便なければ、自然になむおろかなるやうになりはべりぬる。いとあやしきさまに、世を背きたまへる人の御あたり、いかでおはしますらむ」 |
"ふいにてみたてまつりそめてしも、さるべきむかしのちぎりありけるにこそ、とおもひたまへて。おほんいのりなども、ねんごろにつかうまつりしを、ほふしは、そのこととなくて、おほんふみきこえうけたまはんもびんなければ、じねんになんおろかなるやうになりはべりぬる。いとあやしきさまに、よをそむきたまへるひとのおほんあたり、いかでおはしますらん。" |
53 | 4.7.3 | 546 | 513 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
53 | 4.7.4 | 547 | 514 |
「世の中にはべらじと思ひ立ちはべりし身の、いとあやしくて今まではべりつるを、心憂しと思ひはべるものから、よろづにせさせたまひける御心ばへをなむ、いふかひなき心地にも、思ひたまへ知らるるを、なほ、世づかずのみ、つひにえ止まるまじく思ひたまへらるるを、尼になさせたまひてよ。世の中にはべるとも、例の人にてながらふべくもはべらぬ身になむ」 |
"よのなかにはべらじとおもひたちはべりしみの、いとあやしくていままではべりつるを、こころうしとおもひはべるものから、よろづにせさせたまひけるみこころばへをなん、いふかひなきここちにも、おもひたまへしらるるを、なほ、よづかずのみ、つひにえとまるまじくおもひたまへらるるを、あまになさせたまひてよ。よのなかにはべるとも、れいのひとにてながらふべくもはべらぬみになん。" |
53 | 4.7.5 | 548 | 515 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
53 | 4.7.6 | 549 | 516 |
「まだ、いと行く先遠げなる御ほどに、いかでかひたみちにしかば、思し立たむ。かへりて罪あることなり。思ひ立ちて、心を起こしたまふほどは強く思せど、年月経れば、女の御身といふもの、いとたいだいしきものになむ」 |
"まだ、いとゆくさきとほげなるおほんほどに、いかでかひたみちにしかば、おぼしたたん。かへりてつみあることなり。おもひたちて、こころをおこしたまふほどはつよくおぼせど、としつきふれば、をんなのみといふもの、いとたいだいしきものになん。" |
53 | 4.7.7 | 550 | 517 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 4.7.8 | 551 | 518 |
「幼くはべりしほどより、ものをのみ思ふべきありさまにて、親なども、尼になしてや見まし、などなむ思ひのたまひし。まして、すこしもの思ひ知りて後は、例の人ざまならで、後の世をだに、と思ふ心深かりしを、亡くなるべきほどのやうやう近くなりはべるにや、心地のいと弱くのみなりはべるを、なほ、いかで」 |
"をさなくはべりしほどより、ものをのみおもふべきありさまにて、おやなども、あまになしてやみまし、などなんおもひのたまひし。まして、すこしものおもひしりてのちは、れいのひとざまならで、のちのよをだに、とおもふこころふかかりしを、なくなるべきほどのやうやうちかくなりはべるにや、ここちのいとよわくのみなりはべるを、なほ、いかで。" |
53 | 4.7.9 | 552 | 519 |
とて、うち泣きつつのたまふ。 |
とて、うちなきつつのたまふ。 |
53 | 4.8 | 553 | 520 | 第八段 浮舟、出家す |
53 | 4.8.1 | 554 | 521 |
「あやしく、かかる容貌ありさまを、などて身をいとはしく思ひはじめたまひけむ。もののけもさこそ言ふなりしか」と思ひ合はするに、「さるやうこそはあらめ。今までも生きたるべき人かは。悪しきものの見つけそめたるに、いと恐ろしく危ふきことなり」と思して、 |
"あやしく、かかるかたちありさまを、などてみをいとはしくおもひはじめたまひけん。もののけもさこそいふなりしか。"とおもひあはするに、"さるやうこそはあらめ。いままでもいきたるべきひとかは。あしきもののみつけそめたるに、いとおそろしくあやふきことなり。"とおぼして、 |
53 | 4.8.2 | 555 | 522 |
「とまれ、かくまれ、思し立ちてのたまふを、三宝のいとかしこく誉めたまふことなり。法師にて聞こえ返すべきことにあらず。御忌むことは、いとやすく授けたてまつるべきを、急なることにまかんでたれば、今宵、かの宮に参るべくはべり。明日よりや、御修法始まるべくはべらむ。七日果ててまかでむに、仕まつらむ」 |
"とまれ、かくまれ、おぼしたちてのたまふを、さんぽうのいとかしこくほめたまふことなり。ほふしにてきこえかへすべきことにあらず。おほんいむことは、いとやすくさずけたてまつるべきを、きふなることにまかんでたれば、こよひ、かのみやにまゐるべくはべり。あすよりや、みすほふはじまるべくはべらん。なぬかはててまかでんに、つかまつらん。" |
53 | 4.8.3 | 556 | 523 |
とのたまへば、「かの尼君おはしなば、かならず言ひ妨げてむ」と、いと口惜しくて、 |
とのたまへば、"かのあまぎみおはしなば、かならずいひさまたげてん。"と、いとくちをしくて、 |
53 | 4.8.4 | 557 | 524 |
「乱り心地の悪しかりしほどに見たるやうにて、いと苦しうはべれば、重くならば、忌むことかひなくやはべらむ。なほ、今日はうれしき折とこそ思ひはべれ」 |
"みだりごこちのあしかりしほどにみたるやうにて、いとくるしうはべれば、おもくならば、いむことかひなくやはべらん。なほ、けふはうれしきをりとこそおもひはべれ。" |
53 | 4.8.5 | 558 | 525 |
とて、いみじう泣きたまへば、聖心にいといとほしく思ひて、 |
とて、いみじうなきたまへば、ひじりごころにいといとほしくおもひて、 |
53 | 4.8.6 | 559 | 526 |
「夜や更けはべりぬらむ。山より下りはべること、昔はことともおぼえたまはざりしを、年の生ふるままには、堪へがたくはべりければ、うち休みて内裏には参らむ、と思ひはべるを、しか思し急ぐことなれば、今日仕うまつりてむ」 |
"よやふけはべりぬらん。やまよりおりはべること、むかしはことともおぼえたまはざりしを、としのおふるままには、たへがたくはべりければ、うちやすみてうちにはまゐらん、とおもひはべるを、しかおぼしいそぐことなれば、けふつかうまつりてん。" |
53 | 4.8.7 | 560 | 527 |
とのたまふに、いとうれしくなりぬ。 |
とのたまふに、いとうれしくなりぬ。 |
53 | 4.8.8 | 561 | 528 |
鋏取りて、櫛の筥の蓋さし出でたれば、 |
はさみとりて、くしのはこのふたさしいでたれば、 |
53 | 4.8.9 | 562 | 529 |
「いづら、大徳たち。ここに」 |
"いづら、だいとこたち。ここに。" |
53 | 4.8.10 | 563 | 530 |
と呼ぶ。初め見つけたてまつりし二人ながら供にありければ、呼び入れて、 |
とよぶ。はじめみつけたてまつりしふたりながらともにありければ、よびいれて、 |
53 | 4.8.11 | 564 | 531 |
「御髪下ろしたてまつれ」 |
"みぐしおろしたてまつれ。" |
53 | 4.8.12 | 565 | 532 |
と言ふ。げに、いみじかりし人の御ありさまなれば、「うつし人にては、世におはせむもうたてこそあらめ」と、この阿闍梨もことわりに思ふに、几帳の帷子のほころびより、御髪をかき出だしたまひつるが、いとあたらしくをかしげなるになむ、しばし、鋏をもてやすらひける。 |
といふ。げに、いみじかりしひとのおほんありさまなれば、"うつしびとにては、よにおはせんもうたてこそあらめ。"と、このあざりもことわりにおもふに、きちゃうのかたびらのほころびより、おほんかみをかきいだしたまひつるが、いとあたらしくをかしげなるになん、しばし、はさみをもてやすらひける。 |
53 | 5 | 566 | 533 | 第五章 浮舟の物語 浮舟、出家後の物語 |
53 | 5.1 | 567 | 534 | 第一段 少将の尼、浮舟の出家に気も動転 |
53 | 5.1.1 | 568 | 535 |
かかるほど、少将の尼は、兄の阿闍梨の来たるに会ひて、下にゐたり。左衛門は、この私の知りたる人にあひしらふとて、かかる所にとりては、皆とりどりに、心寄せの人びとめづらしうて出で来たるに、はかなきことしける、見入れなどしけるほどに、こもき一人して、「かかることなむ」と少将の尼に告げたりければ、惑ひて来て見るに、わが御上の衣、袈裟などを、ことさらばかりとて着せたてまつりて、 |
かかるほど、せうしゃうのあまは、せうとのあじゃりのきたるにあひて、しもにゐたり。さゑもんは、このわたくしのしりたるひとにあひしらふとて、かかるところにとりては、みなとりどりに、こころよせのひとびとめづらしうていできたるに、はかなきことしける、みいれなどしけるほどに、こもきひとりして、"かかることなん。"とせうしゃうのあまにつげたりければ、まどひてきてみるに、わがおほんうへのきぬ、けさなどを、ことさらばかりとてきせたてまつりて、 |
53 | 5.1.2 | 569 | 537 |
「親の御方拝みたてまつりたまへ」 |
"おやのおほんかたをがみたてまつりたまへ。" |
53 | 5.1.3 | 570 | 538 |
と言ふに、いづ方とも知らぬほどなむ、え忍びあへたまはで、泣きたまひにける。 |
といふに、いづかたともしらぬほどなん、えしのびあへたまはで、なきたまひにける。 |
53 | 5.1.4 | 571 | 539 |
「あな、あさましや。など、かく奥なきわざはせさせたまふ。上、帰りおはしては、いかなることをのたまはせむ」 |
"あな、あさましや。など、かくあうなきわざはせさせたまふ。うへ、かへりおはしては、いかなることをのたまはせん。" |
53 | 5.1.5 | 572 | 540 |
と言へど、かばかりにしそめつるを、言ひ乱るもものしと思ひて、僧都諌めたまへば、寄りてもえ妨げず。 |
といへど、かばかりにしそめつるを、いひみだるもものしとおもひて、そうづいさめたまへば、よりてもえさまたげず。 |
53 | 5.1.6 | 573 | 541 |
「流転三界中」 |
"るてんさんがいちう。" |
53 | 5.1.7 | 574 | 542 |
など言ふにも、「断ち果ててしものを」と思ひ出づるも、さすがなりけり。御髪も削ぎわづらひて、 |
などいふにも、"たちはててしものを。"とおもひいづるも、さすがなりけり。みぐしもそぎわづらひて、 |
53 | 5.1.8 | 575 | 543 |
「のどやかに、尼君たちして、直させたまへ」 |
"のどやかに、あまぎみたちして、なほさせたまへ。" |
53 | 5.1.9 | 576 | 544 |
と言ふ。額は僧都ぞ削ぎたまふ。 |
といふ。ひたひはそうづぞそぎたまふ。 |
53 | 5.1.10 | 577 | 545 |
「かかる御容貌やつしたまひて、悔いたまふな」 |
"かかるおほんかたちやつしたまひて、くいたまふな。" |
53 | 5.1.11 | 578 | 546 |
など、尊きことども説き聞かせたまふ。「とみにせさすべくもあらず、皆言ひ知らせたまへることを、うれしくもしつるかな」と、これのみぞ仏は生けるしるしありてとおぼえたまひける。 |
など、たふときことどもとききかせたまふ。"とみにせさすべくもあらず、みないひしらせたまへることを、うれしくもしつるかな。"と、これのみぞほとけはいけるしるしありてとおぼえたまひける。 |
53 | 5.2 | 579 | 547 | 第二段 浮舟、手習に心を託す |
53 | 5.2.1 | 580 | 548 |
皆人びと出で静まりぬ。夜の風の音に、この人びとは、 |
みなひとびといでしづまりぬ。よるのかぜのおとに、このひとびとは、 |
53 | 5.2.2 | 581 | 549 |
「心細き御住まひも、しばしのことぞ。今いとめでたくなりたまひなむ、と頼みきこえつる御身を、かくしなさせたまひて、残り多かる御世の末を、いかにせさせたまはむとするぞ。老い衰へたる人だに、今は限りと思ひ果てられて、いと悲しきわざにはべる」 |
"こころぼそきおほんすまひも、しばしのことぞ。いまいとめでたくなりたまひなん、とたのみきこえつるおほんみを、かくしなさせたまひて、のこりおほかるみよのすゑを、いかにせさせたまはんとするぞ。おいおとろへたるひとだに、いまはかぎりとおもひはてられて、いとかなしきわざにはべる。" |
53 | 5.2.3 | 582 | 550 |
と言ひ知らすれど、「なほ、ただ今は、心やすくうれし。世に経べきものとは、思ひかけずなりぬるこそは、いとめでたきことなれ」と、胸のあきたる心地ぞしたまひける。 |
といひしらすれど、"なほ、ただいまは、こころやすくうれし。よにふべきものとは、おもひかけずなりぬるこそは、いとめでたきことなれ。"と、むねのあきたるここちぞしたまひける。 |
53 | 5.2.4 | 583 | 551 |
翌朝は、さすがに人の許さぬことなれば、変はりたらむさま見えむもいと恥づかしく、髪の裾の、にはかにおぼとれたるやうに、しどけなくさへ削がれたるを、「むつかしきことども言はで、つくろはむ人もがな」と、何事につけても、つつましくて、暗うしなしておはす。思ふことを人に言ひ続けむ言の葉は、もとよりだにはかばかしからぬ身を、まいてなつかしうことわるべき人さへなければ、ただ硯に向かひて、思ひあまる折には、手習をのみ、たけきこととは、書きつけたまふ。 |
つとめては、さすがにひとのゆるさぬことなれば、かはりたらんさまみえんもいとはづかしく、かみのすその、にはかにおぼとれたるやうに、しどけなくさへそがれたるを、"むつかしきことどもいはで、つくろはんひともがな。"と、なにごとにつけても、つつましくて、くらうしなしておはす。おもふことをひとにいひつづけんことのはは、もとよりだにはかばかしからぬみを、まいてなつかしうことわるべきひとさへなければ、ただすずりにむかひて、おもひあまるをりには、てならひをのみ、たけきこととは、かきつけたまふ。 |
53 | 5.2.5 | 584 | 552 |
「なきものに身をも人をも思ひつつ<BR/>捨ててし世をぞさらに捨てつる |
"〔なきものにみをもひとをもおもひつつ<BR/>すててしよをぞさらにすてつる |
53 | 5.2.6 | 585 | 553 |
今は、かくて限りつるぞかし」 |
いまは、かくてかぎりつるぞかし。" |
53 | 5.2.7 | 586 | 554 |
と書きても、なほ、みづからいとあはれと見たまふ。 |
とかきても、なほ、みづからいとあはれとみたまふ。 |
53 | 5.2.8 | 587 | 555 |
「限りぞと思ひなりにし世の中を<BR/>返す返すも背きぬるかな」 |
"〔かぎりぞとおもひなりにしよのなかを<BR/>かへすがへすもそむきぬるかな〕 |
53 | 5.3 | 588 | 556 | 第三段 中将からの和歌に返歌す |
53 | 5.3.1 | 589 | 557 |
同じ筋のことを、とかく書きすさびゐたまへるに、中将の御文あり。もの騒がしう呆れたる心地しあへるほどにて、「かかること」など言ひてけり。いとあへなしと思ひて、 |
おなじすぢのことを、とかくかきすさびゐたまへるに、ちうじゃうのおほんふみあり。ものさわがしうあきれたるここちしあへるほどにて、"かかること"などいひてけり。いとあへなしとおもひて、 |
53 | 5.3.2 | 590 | 558 |
「かかる心の深くありける人なりければ、はかなきいらへをもしそめじと、思ひ離るるなりけり。さてもあへなきわざかな。いとをかしく見えし髪のほどを、たしかに見せよと、一夜も語らひしかば、さるべからむ折に、と言ひしものを」 |
"かかるこころのふかくありけるひとなりければ、はかなきいらへをもしそめじと、おもひはなるるなりけり。さてもあへなきわざかな。いとをかしくみえしかみのほどを、たしかにみせよと、ひとよもかたらひしかば、さるべからんをりに、といひしものを。" |
53 | 5.3.3 | 591 | 559 |
と、いと口惜しうて、立ち返り、 |
と、いとくちをしうて、たちかへり、 |
53 | 5.3.4 | 592 | 560 |
「聞こえむ方なきは、 |
"きこえんかたなきは、 |
53 | 5.3.5 | 593 | 561 |
岸遠く漕ぎ離るらむ海人舟に<BR/>乗り遅れじと急がるるかな」 |
きしとほくこぎはなるらんあまぶねに<BR/>のりおくれじといそがるるかな〕 |
53 | 5.3.6 | 594 | 562 |
例ならず取りて見たまふ。もののあはれなる折に、今はと思ふもあはれなるものから、いかが思さるらむ、いとはかなきものの端に、 |
れいならずとりてみたまふ。もののあはれなるをりに、いまはとおもふもあはれなるものから、いかがおぼさるらん、いとはかなきもののはしに、 |
53 | 5.3.7 | 595 | 563 |
「心こそ憂き世の岸を離るれど<BR/>行方も知らぬ海人の浮木を」 |
"〔こころこそうきよのきしをはなるれど<BR/>ゆくへもしらぬあまのうきぎを〕 |
53 | 5.3.8 | 596 | 564 |
と、例の、手習にしたまへるを、包みてたてまつる。 |
と、れいの、てならひにしたまへるを、つつみてたてまつる。 |
53 | 5.3.9 | 597 | 565 |
「書き写してだにこそ」 |
"かきうつしてだにこそ。" |
53 | 5.3.10 | 598 | 566 |
とのたまへど、 |
とのたまへど、 |
53 | 5.3.11 | 599 | 567 |
「なかなか書きそこなひはべりなむ」 |
"なかなかかきそこなひはべりなん。" |
53 | 5.3.12 | 600 | 568 |
とてやりつ。めづらしきにも、言ふ方なく悲しうなむおぼえける。 |
とてやりつ。めづらしきにも、いふかたなくかなしうなんおぼえける。 |
53 | 5.3.13 | 601 | 569 |
物詣での人帰りたまひて、思ひ騒ぎたまふこと、限りなし。 |
ものまうでのひとかへりたまひて、おもひさわぎたまふこと、かぎりなし。 |
53 | 5.3.14 | 602 | 570 |
「かかる身にては、勧めきこえむこそは、と思ひなしはべれど、残り多かる御身を、いかで経たまはむとすらむ。おのれは、世にはべらむこと、今日、明日とも知りがたきに、いかでうしろやすく見たてまつらむと、よろづに思ひたまへてこそ、仏にも祈りきこえつれ」 |
"かかるみにては、すすめきこえんこそは、とおもひなしはべれど、のこりおほかるおほんみを、いかでへたまはんとすらん。おのれは、よにはべらんこと、けふ、あすともしりがたきに、いかでうしろやすくみたてまつらんと、よろづにおもひたまへてこそ、ほとけにもいのりきこえつれ。" |
53 | 5.3.15 | 603 | 571 |
と、伏しまろびつつ、いといみじげに思ひたまへるに、まことの親の、やがて骸もなきものと、思ひ惑ひたまひけむほど推し量るるぞ、まづいと悲しかりける。例の、いらへもせで背きゐたまへるさま、いと若くうつくしげなれば、「いとものはかなくぞおはしける御心なれ」と、泣く泣く御衣のことなど急ぎたまふ。 |
と、ふしまろびつつ、いといみじげにおもひたまへるに、まことのおやの、やがてからもなきものと、おもひまどひたまひけんほどおしはからるるぞ、まづいとかなしかりける。れいの、いらへもせでそむきゐたまへるさま、いとわかくうつくしげなれば、"いとものはかなくぞおはしけるみこころなれ。"と、なくなくおほんぞのことなどいそぎたまふ。 |
53 | 5.3.16 | 604 | 572 |
鈍色は手馴れにしことなれば、小袿、袈裟などしたり。ある人びとも、かかる色を縫ひ着せたてまつるにつけても、「いとおぼえず、うれしき山里の光と、明け暮れ見たてまつりつるものを、口惜しきわざかな」 |
にびいろはてなれにしことなれば、こうちき、けさなどしたり。あるひとびとも、かかるいろをぬひきせたてまつるにつけても、"いとおぼえず、うれしきやまざとのひかりと、あけくれみたてまつりつるものを、くちをしきわざかな。" |
53 | 5.3.17 | 605 | 573 |
と、あたらしがりつつ、僧都を恨み誹りけり。 |
と、あたらしがりつつ、そうづをうらみそしりけり。 |
53 | 5.4 | 606 | 574 | 第四段 僧都、女一宮に伺候 |
53 | 5.4.1 | 607 | 575 |
一品の宮の御悩み、げに、かの弟子の言ひしもしるく、いちじるきことどもありて、おこたらせたまひにければ、いよいよいと尊きものに言ひののしる。名残も恐ろしとて、御修法延べさせたまへば、とみにもえ帰り入らでさぶらひたまふに、雨など降りてしめやかなる夜、召して、夜居にさぶらはせたまふ。 |
いっぽんのみやのおほんなやみ、げに、かのでしのいひしもしるく、いちじるきことどもありて、おこたらせたまひにければ、いよいよいとたふときものにいひののしる。なごりもおそろしとて、みすほふのべさせたまへば、とみにもえかへりいらでさぶらひたまふに、あめなどふりてしめやかなるよ、めして、よゐにさぶらはせたまふ。 |
53 | 5.4.2 | 608 | 576 |
日ごろいたうさぶらひ極じたる人は、皆休みなどして、御前に人少なにて、近く起きたる人少なき折に、同じ御帳におはしまして、 |
ひごろいたうさぶらひごうじたるひとは、みなやすみなどして、おまへにひとずくなにて、ちかくおきたるひとすくなきをりに、おなじみちゃうにおはしまして、 |
53 | 5.4.3 | 609 | 577 |
「昔より頼ませたまふなかにも、このたびなむ、いよいよ、後の世もかくこそはと、頼もしきことまさりぬる」 |
"むかしよりたのませたまふなかにも、このたびなん、いよいよ、のちのよもかくこそはと、たのもしきことまさりぬる。" |
53 | 5.4.4 | 610 | 578 |
などのたまはす。 |
などのたまはす。 |
53 | 5.4.5 | 611 | 579 |
「世の中に久しうはべるまじきさまに、仏なども教へたまへることどもはべるうちに、今年、来年、過ぐしがたきやうになむはべれば、仏を紛れなく念じつとめはべらむとて、深く籠もりはべるを、かかる仰せ言にて、まかり出ではべりにし」 |
"よのなかにひさしうはべるまじきさまに、ほとけなどもをしへたまへることどもはべるうちに、ことし、らいねん、すぐしがたきやうになんはべれば、ほとけをまぎれなくねんじつとめはべらんとて、ふかくこもりはべるを、かかるおほせごとにて、まかりいではべりにし。" |
53 | 5.4.6 | 612 | 580 |
など啓したまふ。 |
などけいしたまふ。 |
53 | 5.5 | 613 | 581 | 第五段 僧都、女一宮に宇治の出来事を語る |
53 | 5.5.1 | 614 | 582 |
御もののけの執念きことを、さまざまに名のるが恐ろしきことなどのたまふついでに、 |
おほんもののけのしふねきことを、さまざまになのるがおそろしきことなどのたまふついでに、 |
53 | 5.5.2 | 615 | 583 |
「いとあやしう、希有のことをなむ見たまへし。この三月に、年老いてはべる母の、願ありて初瀬に詣でてはべりし、帰さの中宿りに、宇治の院と言ひはべる所にまかり宿りしを、かくのごと、人住まで年経ぬる大きなる所は、よからぬものかならず通ひ住みて、重き病者のため悪しきことども、と思ひたまへしも、しるく」 |
"いとあやしう、けうのことをなんみたまへし。このさんがちに、としおいてはべるははの、がんありてはつせにまうでてはべりし、かへさのなかやどりに、うぢのゐんといひはべるところにまかりやどりしを、かくのごと、ひとすまでとしへぬるおほきなるところは、よからぬものかならずかよひすみて、おもきびゃうじゃのためあしきことども、とおもひたまへしも、しるく。" |
53 | 5.5.3 | 616 | 584 |
とて、かの見つけたりしことどもを語りきこえたまふ。 |
とて、かのみつけたりしことどもをかたりきこえたまふ。 |
53 | 5.5.4 | 617 | 585 |
「げに、いとめづらかなることかな」 |
"げに、いとめづらかなることかな。" |
53 | 5.5.5 | 618 | 586 |
とて、近くさぶらふ人びと皆寝入りたるを、恐ろしく思されて、おどろかさせたまふ。大将の語らひたまふ宰相の君しも、このことを聞きけり。おどろかさせたまふ人びとは、何とも聞かず。僧都、懼ぢさせたまへる御けしきを、「心もなきこと啓してけり」と思ひて、詳しくもそのほどのことをば言ひさしつ。 |
とて、ちかくさぶらふひとびとみなねいりたるを、おそろしくおぼされて、おどろかさせたまふ。だいしゃうのかたらひたまふさいしゃうのきみしも、このことをききけり。おどろかさせたまふひとびとは、なにともきかず。そうづ、おぢさせたまへるみけしきを、"こころもなきことけいしてけり。"とおもひて、くはしくもそのほどのことをばいひさしつ。 |
53 | 5.5.6 | 619 | 587 |
「その女人、このたびまかり出ではべりつるたよりに、小野にはべりつる尼どもあひ訪ひはべらむとて、まかり寄りたりしに、泣く泣く、出家の志し深きよし、ねむごろに語らひはべりしかば、頭下ろしはべりにき。 |
"そのにょにん、このたびまかりいではべりつるたよりに、をのにはべりつるあまどもあひとひはべらんとて、まかりよりたりしに、なくなく、しゅっけのこころざしふかきよし、ねんごろにかたらひはべりしかば、かしらおろしはべりにき。 |
53 | 5.5.7 | 620 | 588 |
なにがしが妹、故衛門督の妻にはべりし尼なむ、亡せにし女子の代りにと、思ひ喜びはべりて、随分に労りかしづきはべりけるを、かくなりたれば、恨みはべるなり。げにぞ、容貌はいとうるはしくけうらにて、行ひやつれむもいとほしげになむはべりし。何人にかはべりけむ」 |
なにがしがいもうと、こゑもんのかみのめにはべりしあまなん、うせにしをんなごのかはりにと、おもひよろこびはべりて、ずいぶんにいたはりかしづきはべりけるを、かくなりたれば、うらみはべるなり。げにぞ、かたちはいとうるはしくけうらにて、おこなひやつれんもいとほしげになんはべりし。なにびとにかはべりけん。" |
53 | 5.5.8 | 621 | 589 |
と、ものよく言ふ僧都にて、語り続け申したまへば、 |
と、ものよくいふそうづにて、かたりつづけまうしたまへば、 |
53 | 5.5.9 | 622 | 590 |
「いかで、さる所に、よき人をしも取りもて行きけむ。さりとも、今は知られぬらむ」 |
"いかで、さるところに、よきひとをしもとりもていきけん。さりとも、いまはしられぬらん。" |
53 | 5.5.10 | 623 | 591 |
など、この宰相の君ぞ問ふ。 |
など、このさいしゃうのきみぞとふ。 |
53 | 5.5.11 | 624 | 592 |
「知らず。さもや、語らひたまふらむ。まことにやむごとなき人ならば、何か、隠れもはべらじをや。田舎人の娘も、さるさましたるこそははべらめ。龍の中より、仏生まれたまはずはこそはべらめ。ただ人にては、いと罪軽きさまの人になむはべりける」 |
"しらず。さもや、かたらひたまふらん。まことにやんごとなきひとならば、なにか、かくれもはべらじをや。ゐなかびとのむすめも、さるさましたるこそははべらめ。りゅうのなかより、ほとけむまれたまはずはこそはべらめ。ただうどにては、いとつみかろきさまのひとになんはべりける。" |
53 | 5.5.12 | 625 | 593 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
53 | 5.5.13 | 626 | 594 |
そのころ、かのわたりに消え失せにけむ人を思し出づ。この御前なる人も、姉の君の伝へに、あやしくて亡せたる人とは聞きおきたれば、「それにやあらむ」とは思ひけれど、定めなきことなり。僧都も、 |
そのころ、かのわたりにきえうせにけんひとをおぼしいづ。このおまへなるひとも、あねのきみのつたへに、あやしくてうせたるひととはききおきたれば、"それにやあらん。"とはおもひけれど、さだめなきことなり。そうづも、 |
53 | 5.5.14 | 627 | 595 |
「かかる人、世にあるものとも知られじと、よくもあらぬ敵だちたる人もあるやうにおもむけて、隠し忍びはべるを、事のさまのあやしければ、啓しはべるなり」 |
"かかるひと、よにあるものともしられじと、よくもあらぬかたきだちたるひともあるやうにおもむけて、かくししのびはべるを、ことのさまのあやしければ、けいしはべるなり。" |
53 | 5.5.15 | 628 | 596 |
と、なま隠すけしきなれば、人にも語らず。宮は、 |
と、なまかくすけしきなれば、ひとにもかたらず。みやは、 |
53 | 5.5.16 | 629 | 597 |
「それにもこそあれ。大将に聞かせばや」 |
"それにもこそあれ。だいしゃうにきかせばや。" |
53 | 5.5.17 | 630 | 598 |
と、この人にぞのたまはすれど、いづ方にも隠すべきことを、定めてさならむとも知らずながら、恥づかしげなる人に、うち出でのたまはせむもつつましく思して、やみにけり。 |
と、このひとにぞのたまはすれど、いづかたにもかくすべきことを、さだめてさならんともしらずながら、はづかしげなるひとに、うちいでのたまはせんもつつましくおぼして、やみにけり。 |
53 | 5.6 | 631 | 599 | 第六段 僧都、山荘に立ち寄り山へ帰る |
53 | 5.6.1 | 632 | 600 |
姫宮おこたり果てさせたまひて、僧都も登りぬ。かしこに寄りたまへれば、いみじう恨みて、 |
ひめみやおこたりはてさせたまひて、そうづものぼりぬ。かしこによりたまへれば、いみじううらみて、 |
53 | 5.6.2 | 633 | 601 |
「なかなか、かかる御ありさまにて、罪も得ぬべきことを、のたまひもあはせずなりにけることをなむ、いとあやしき」 |
"なかなか、かかるおほんありさまにて、つみもえぬべきことを、のたまひもあはせずなりにけることをなん、いとあやしき。" |
53 | 5.6.3 | 634 | 602 |
などのたまへど、かひもなし。 |
などのたまへど、かひもなし。 |
53 | 5.6.4 | 635 | 603 |
「今は、ただ御行ひをしたまへ。老いたる、若き、定めなき世なり。はかなきものに思しとりたるも、ことわりなる御身をや」 |
"いまは、ただおほんおこなひをしたまへ。おいたる、わかき、さだめなきよなり。はかなきものにおぼしとりたるも、ことわりなるおほんみをや。" |
53 | 5.6.5 | 636 | 604 |
とのたまふにも、いと恥づかしうなむおぼえける。 |
とのたまふにも、いとはづかしうなんおぼえける。 |
53 | 5.6.6 | 637 | 605 |
「御法服新しくしたまへ」 |
"おほんほふぶくあたらしくしたまへ。" |
53 | 5.6.7 | 638 | 606 |
とて、綾、羅、絹などいふもの、たてまつりおきたまふ。 |
とて、あや、うすもの、きぬなどいふもの、たてまつりおきたまふ。 |
53 | 5.6.8 | 639 | 607 |
「なにがしがはべらむ限りは、仕うまつりなむ。なにか思しわづらふべき。常の世に生ひ出でて、世間の栄華に願ひまつはるる限りなむ、所狭く捨てがたく、我も人も思すべかめることなめる。かかる林の中に行ひ勤めたまはむ身は、何事かは恨めしくも恥づかしくも思すべき。このあらむ命は、葉の薄きがごとし」 |
"なにがしがはべらんかぎりは、つかうまつりなん。なにかおぼしわづらふべき。つねのよにおひいでて、せけんのえいがにねがひまつはるるかぎりなん、ところせくすてがたく、われもひともおぼすべかめることなめる。かかるはやしのなかにおこなひつとめたまはんみは、なにごとかはうらめしくもはづかしくもおぼすべき。このあらんいのちは、はのうすきがごとし。" |
53 | 5.6.9 | 640 | 608 |
と言ひ知らせて、 |
といひしらせて、 |
53 | 5.6.10 | 641 | 609 |
「松門に暁到りて月徘徊す」 |
"せうもんにあかつきいたりてつきはいかいす。" |
53 | 5.6.11 | 642 | 610 |
と、法師なれど、いとよしよししく恥づかしげなるさまにてのたまふことどもを、「思ふやうにも言ひ聞かせたまふかな」と聞きゐたり。 |
と、ほふしなれど、いとよしよししくはづかしげなるさまにてのたまふことどもを、"おもふやうにもいひきかせたまふかな。"とききゐたり。 |
53 | 5.7 | 643 | 611 | 第七段 中将、小野山荘に来訪 |
53 | 5.7.1 | 644 | 612 |
今日は、ひねもすに吹く風の音もいと心細きに、おはしたる人も、 |
けふは、ひねもすにふくかぜのおともいとこころぼそきに、おはしたるひとも、 |
53 | 5.7.2 | 645 | 613 |
「あはれ、山伏は、かかる日にぞ、音は泣かるなるかし」 |
"あはれ、やまぶしは、かかるひにぞ、ねはなかるなるかし。" |
53 | 5.7.3 | 646 | 614 |
と言ふを聞きて、「我も今は山伏ぞかし。ことわりに止まらぬ涙なりけり」と思ひつつ、端の方に立ち出でて見れば、遥かなる軒端より、狩衣姿色々に立ち混じりて見ゆ。山へ登る人なりとても、こなたの道には、通ふ人もいとたまさかなり。黒谷とかいふ方よりありく法師の跡のみ、まれまれは見ゆるを、例の姿見つけたるは、あいなくめづらしきに、この恨みわびし中将なりけり。 |
といふをききて、"われもいまはやまぶしぞかし。ことわりにとまらぬなみだなりけり。"とおもひつつ、はしのかたにたちいでてみれば、はるかなるのきばより、かりぎぬすがたいろいろにたちまじりてみゆ。やまへのぼるひとなりとても、こなたのみちには、かよふひともいとたまさかなり。くろたにとかいふかたよりありくほふしのあとのみ、まれまれはみゆるを、れいのすがたみつけたるは、あいなくめづらしきに、このうらみわびしちうじゃうなりけり。 |
53 | 5.7.4 | 647 | 615 |
かひなきことも言はむとてものしたりけるを、紅葉のいとおもしろく、他の紅に染めましたる色々なれば、入り来るよりぞものあはれなりける。「ここに、いと心地よげなる人を見つけたらば、あやしくぞおぼゆべき」など思ひて、 |
かひなきこともいはんとてものしたりけるを、もみぢのいとおもしろく、ほかのくれなゐにそめましたるいろいろなれば、いりくるよりぞものあはれなりける。"ここに、いとここちよげなるひとをみつけたらば、あやしくぞおぼゆべき。"などおもひて、 |
53 | 5.7.5 | 648 | 616 |
「暇ありて、つれづれなる心地しはべるに、紅葉もいかにと思ひたまへてなむ。なほ、立ち返りて旅寝もしつべき木の下にこそ」 |
"いとまありて、つれづれなるここちしはべるに、もみぢもいかにとおもひたまへてなん。なほ、たちかへりてたびねもしつべきこのもとにこそ。" |
53 | 5.7.6 | 649 | 617 |
とて、見出だしたまへり。尼君、例の、涙もろにて、 |
とて、みいだしたまへり。あまぎみ、れいの、なみだもろにて、 |
53 | 5.7.7 | 650 | 618 |
「木枯らしの吹きにし山の麓には<BR/>立ち隠すべき蔭だにぞなき」 |
"〔こがらしのふきにしやまのふもとには<BR/>たちかくすべきかげだにぞなき〕 |
53 | 5.7.8 | 651 | 619 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 5.7.9 | 652 | 620 |
「待つ人もあらじと思ふ山里の<BR/>梢を見つつなほぞ過ぎ憂き」 |
"〔まつひともあらじとおもふやまざとの<BR/>こずゑをみつつなほぞすぎうき〕 |
53 | 5.7.10 | 653 | 621 |
言ふかひなき人の御ことを、なほ尽きせずのたまひて、 |
いふかひなきひとのおほんことを、なほつきせずのたまひて、 |
53 | 5.7.11 | 654 | 622 |
「さま変はりたまへらむさまを、いささか見せよ」 |
"さまかはりたまへらんさまを、いささかみせよ。" |
53 | 5.7.12 | 655 | 623 |
と、少将の尼にのたまふ。 |
と、せうしゃうのあまにのたまふ。 |
53 | 5.7.13 | 656 | 624 |
「それをだに、契りししるしにせよ」 |
"それをだに、ちぎりししるしにせよ。" |
53 | 5.7.14 | 657 | 625 |
と責めたまへば、入りて見るに、ことさら人にも見せまほしきさましてぞおはする。薄き鈍色の綾、中に萱草など、澄みたる色を着て、いとささやかに、様体をかしく、今めきたる容貌に、髪は五重の扇を広げたるやうに、こちたき末つきなり。 |
とせめたまへば、いりてみるに、ことさらひとにもみせまほしきさましてぞおはする。うすきにびいろのあや、なかにかんざうなど、すみたるいろをきて、いとささやかに、やうだいをかしく、いまめきたるかたちに、かみはいつへのあふぎをひろげたるやうに、こちたきすゑつきなり。 |
53 | 5.7.15 | 658 | 626 |
こまかにうつくしき面様の、化粧をいみじくしたらむやうに、赤く匂ひたり。行ひなどをしたまふも、なほ数珠は近き几帳にうち懸けて、経に心を入れて読みたまへるさま、絵にも描かまほし。 |
こまかにうつくしきおもやうの、けさうをいみじくしたらんやうに、あかくにほひたり。おこなひなどをしたまふも、なほずずはちかききちゃうにうちかけて、きゃうにこころをいれてよみたまへるさま、ゑにもかかまほし。 |
53 | 5.7.16 | 659 | 627 |
うち見るごとに涙の止めがたき心地するを、「まいて心かけたまはむ男は、いかに見たてまつりたまはむ」と思ひて、さるべき折にやありけむ、障子の掛金のもとに開きたる穴を教へて、紛るべき几帳など押しやりたり。 |
うちみるごとになみだのとめがたきここちするを、"まいてこころかけたまはんをとこは、いかにみたてまつりたまはん。"とおもひて、さるべきをりにやありけん、さうじのかけがねのもとにあきたるあなををしへて、まぎるべききちゃうなどおしやりたり。 |
53 | 5.7.17 | 660 | 628 |
「いとかくは思はずこそありしか。いみじく思ふさまなりける人を」と、我がしたらむ過ちのやうに、惜しく悔しう悲しければ、つつみもあへず、もの狂はしきまで、けはひも聞こえぬべければ、退きぬ。 |
"いとかくはおもはずこそありしか。いみじくおもふさまなりけるひとを。"と、わがしたらんあやまちのやうに、をしくくやしうかなしければ、つつみもあへず、ものぐるはしきまで、けはひもきこえぬべければ、のきぬ。 |
53 | 5.8 | 661 | 629 | 第八段 中将、浮舟に和歌を贈って帰る |
53 | 5.8.1 | 662 | 630 |
「かばかりのさましたる人を失ひて、尋ねぬ人ありけむや。また、その人かの人の娘なむ、行方も知らず隠れにたる、もしはもの怨じして、世を背きにけるなど、おのづから隠れなかるべきを」など、あやしう返す返す思ふ。 |
"かばかりのさましたるひとをうしなひて、たづねぬひとありけんや。また、そのひとかのひとのむすめなん、ゆくへもしらずかくれにたる、もしはものえんじして、よをそむきにけるなど、おのづからかくれなかるべきを。"など、あやしうかへすがへすおもふ。 |
53 | 5.8.2 | 663 | 631 |
「尼なりとも、かかるさましたらむ人はうたてもおぼえじ」など、「なかなか見所まさりて心苦しかるべきを、忍びたるさまに、なほ語らひとりてむ」と思へば、まめやかに語らふ。 |
"あまなりとも、かかるさましたらんひとはうたてもおぼえじ。"など、"なかなかみどころまさりてこころぐるしかるべきを、しのびたるさまに、なほかたらひとりてん。"とおもへば、まめやかにかたらふ。 |
53 | 5.8.3 | 664 | 632 |
「世の常のさまには思し憚ることもありけむを、かかるさまになりたまひにたるなむ、心やすう聞こえつべくはべる。さやうに教へきこえたまへ。来し方の忘れがたくて、かやうに参り来るに、また、今一つ心ざしを添へてこそ」 |
"よのつねのさまにはおぼしはばかることもありけんを、かかるさまになりたまひにたるなん、こころやすうきこえつべくはべる。さやうにをしへきこえたまへ。きしかたのわすれがたくて、かやうにまゐりくるに、また、いまひとつこころざしをそへてこそ。" |
53 | 5.8.4 | 665 | 633 |
などのたまふ。 |
などのたまふ。 |
53 | 5.8.5 | 666 | 634 |
「いと行く末心細く、うしろめたきありさまにはべるに、まめやかなるさまに思し忘れず訪はせたまはむ、いとうれしうこそ、思ひたまへおかめ。はべらざらむ後なむ、あはれに思ひたまへらるべき」 |
"いとゆくすゑこころぼそく、うしろめたきありさまにはべるに、まめやかなるさまにおぼしわすれずとはせたまはん、いとうれしうこそ、おもひたまへおかめ。はべらざらんのちなん、あはれにおもひたまへらるべき。" |
53 | 5.8.6 | 667 | 635 |
とて、泣きたまふに、「この尼君も離れぬ人なるべし。誰れならむ」と心得がたし。 |
とて、なきたまふに、"このあまぎみもはなれぬひとなるべし。たれならん。"とこころえがたし。 |
53 | 5.8.7 | 668 | 636 |
「行く末の御後見は、命も知りがたく頼もしげなき身なれど、さ聞こえそめはべるなれば、さらに変はりはべらじ。尋ねきこえたまふべき人は、まことにものしたまはぬか。さやうのことのおぼつかなきになむ、憚るべきことにははべらねど、なほ隔てある心地しはべるべき」 |
"ゆくすゑのおほんうしろみは、いのちもしりがたくたのもしげなきみなれど、さきこえそめはべるなれば、さらにかはりはべらじ。たづねきこえたまふべきひとは、まことにものしたまはぬか。さやうのことのおぼつかなきになん、はばかるべきことにははべらねど、なほへだてあるここちしはべるべき。" |
53 | 5.8.8 | 669 | 637 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 5.8.9 | 670 | 638 |
「人に知らるべきさまにて、世に経たまはば、さもや尋ね出づる人もはべらむ。今は、かかる方に、思ひきりつるありさまになむ。心のおもむけも、さのみ見えはべりつるを」 |
"ひとにしらるべきさまにて、よにへたまはば、さもやたづねいづるひともはべらん。いまは、かかるかたに、おもひきりつるありさまになん。こころのおもむけも、さのみみえはべりつるを。" |
53 | 5.8.10 | 671 | 639 |
など語らひたまふ。 |
などかたらひたまふ。 |
53 | 5.8.11 | 672 | 640 |
こなたにも消息したまへり。 |
こなたにもせうそこしたまへり。 |
53 | 5.8.12 | 673 | 641 |
「おほかたの世を背きける君なれど<BR/>厭ふによせて身こそつらけれ」 |
"〔おほかたのよをそむきけるきみなれど<BR/>いとふによせてみこそつらけれ〕 |
53 | 5.8.13 | 674 | 642 |
ねむごろに深く聞こえたまふことなど、言ひ伝ふ。 |
ねんごろにふかくきこえたまふことなど、いひつたふ。 |
53 | 5.8.14 | 675 | 643 |
「兄妹と思しなせ。はかなき世の物語なども聞こえて、慰めむ」 |
"はらからとおぼしなせ。はかなきよのものがたりなどもきこえて、なぐさめん。" |
53 | 5.8.15 | 676 | 644 |
など言ひ続く。 |
などいひつづく。 |
53 | 5.8.16 | 677 | 645 |
「心深からむ御物語など、聞き分くべくもあらぬこそ口惜しけれ」 |
"こころふかからんおほんものがたりなど、ききわくべくもあらぬこそくちをしけれ。" |
53 | 5.8.17 | 678 | 646 |
といらへて、この厭ふにつけたるいらへはしたまはず。「思ひよらずあさましきこともありし身なれば、いとうとまし。すべて朽木などのやうにて、人に見捨てられて止みなむ」ともてなしたまふ。 |
といらへて、このいとふにつけたるいらへはしたまはず。"おもひよらずあさましきこともありしみなれば、いとうとまし。すべてくちきなどのやうにて、ひとにみすてられてやみなん。"ともてなしたまふ。 |
53 | 5.8.18 | 679 | 647 |
されば、月ごろたゆみなく結ぼほれ、ものをのみ思したりしも、この本意のことしたまひてより、後すこし晴れ晴れしうなりて、尼君とはかなく戯れもし交はし、碁打ちなどしてぞ、明かし暮らしたまふ。行ひもいとよくして、法華経はさらなり。異法文なども、いと多く読みたまふ。雪深く降り積み、人目絶えたるころぞ、げに思ひやる方なかりける。 |
されば、つきごろたゆみなくむすぼほれ、ものをのみおぼしたりしも、このほいのことしたまひてより、のちすこしはればれしうなりて、あまぎみとはかなくたはぶれもしかはし、ごうちなどしてぞ、あかしくらしたまふ。おこなひもいとよくして、ほけきゃうはさらなり。ことほふもんなども、いとおほくよみたまふ。ゆきふかくふりつみ、ひとめたえたるころぞ、げにおもひやるかたなかりける。 |
53 | 6 | 680 | 648 | 第六章 浮舟の物語 薫、浮舟生存を聞き知る |
53 | 6.1 | 681 | 649 | 第一段 新年、浮舟と尼君、和歌を詠み交す |
53 | 6.1.1 | 682 | 650 |
年も返りぬ。春のしるしも見えず、凍りわたれる水の音せぬさへ心細くて、「君にぞ惑ふ」とのたまひし人は、心憂しと思ひ果てにたれど、なほその折などのことは忘れず。 |
としもかへりぬ。はるのしるしもみえず、こほりわたれるみづのおとせぬさへこころぼそくて、"きみにぞまどふ"とのたまひしひとは、こころうしとおもひはてにたれど、なほそのをりなどのことはわすれず。 |
53 | 6.1.2 | 683 | 651 |
「かきくらす野山の雪を眺めても<BR/>降りにしことぞ今日も悲しき」 |
"〔かきくらすのやまのゆきをながめても<BR/>ふりにしことぞけふもかなしき〕 |
53 | 6.1.3 | 684 | 652 |
など、例の、慰めの手習を、行ひの隙にはしたまふ。「我世になくて年隔たりぬるを、思ひ出づる人もあらむかし」など、思ひ出づる時も多かり。若菜をおろそかなる籠に入れて、人の持て来たりけるを、尼君見て、 |
など、れいの、なぐさめのてならひを、おこなひのひまにはしたまふ。"われよになくてとしへだたりぬるを、おもひいづるひともあらんかし。"など、おもひいづるときもおほかり。わかなをおろそかなるこにいれて、ひとのもてきたりけるを、あまぎみみて、 |
53 | 6.1.4 | 685 | 653 |
「山里の雪間の若菜摘みはやし<BR/>なほ生ひ先の頼まるるかな」 |
"〔やまざとのゆきまのわかなつみはやし<BR/>なほおひさきのたのまるるかな〕 |
53 | 6.1.5 | 686 | 654 |
とて、こなたにたてまつれたまへりければ、 |
とて、こなたにたてまつれたまへりければ、 |
53 | 6.1.6 | 687 | 655 |
「雪深き野辺の若菜も今よりは<BR/>君がためにぞ年も摘むべき」 |
"〔ゆきふかきのべのわかなもいまよりは<BR/>きみがためにぞとしもつむべき〕 |
53 | 6.1.7 | 688 | 656 |
とあるを、「さぞ思すらむ」とあはれなるにも、「見るかひあるべき御さまと思はましかば」と、まめやかにうち泣いたまふ。 |
とあるを、"さぞおぼすらん。"とあはれなるにも。"みるかひあるべきおほんさまとおもはましかば。"と、まめやかにうちないたまふ。 |
53 | 6.1.8 | 689 | 658 |
閨のつま近き紅梅の色も香も変はらぬを、「春や昔の」と、異花よりもこれに心寄せのあるは、飽かざりし匂ひのしみにけるにや。後夜に閼伽奉らせたまふ。下臈の尼のすこし若きがある、召し出でて花折らすれば、かことがましく散るに、いとど匂ひ来れば、 |
ねやのつまちかきこうばいのいろもかもかはらぬを、"はるやむかしの"と、ことはなよりもこれにこころよせのあるは、あかざりしにほひのしみにけるにや。ごやにあかたてまつらせたまふ。げらふのあまのすこしわかきがある、めしいでてはなをらすれば、かことがましくちるに、いとどにほひくれば、 |
53 | 6.1.9 | 690 | 659 |
「袖触れし人こそ見えね花の香の<BR/>それかと匂ふ春のあけぼの」 |
"〔そでふれしひとこそみえねはなのかの<BR/>それかとにほふはるのあけぼの〕 |
53 | 6.2 | 691 | 660 | 第二段 大尼君の孫、紀伊守、山荘に来訪 |
53 | 6.2.1 | 692 | 661 |
大尼君の孫の紀伊守なりける、このころ上りて来たり。三十ばかりにて、容貌きよげに誇りかなるさましたり。 |
おほあまぎみのむまごのきいのかみなりける、このころのぼりてきたり。さんじふばかりにて、かたちきよげにほこりかなるさましたり。 |
53 | 6.2.2 | 693 | 662 |
「何ごとか、去年、一昨年」 |
"なにごとか、こぞ、おととし。" |
53 | 6.2.3 | 694 | 663 |
など問ふに、ほけほけしきさまなれば、こなたに来て、 |
などとふに、ほけほけしきさまなれば、こなたにきて、 |
53 | 6.2.4 | 695 | 664 |
「いとこよなくこそ、ひがみたまひにけれ。あはれにもはべるかな。残りなき御さまを、見たてまつること難くて、遠きほどに年月を過ぐしはべるよ。親たちものしたまはで後は、一所をこそ、御代はりに思ひきこえはべりつれ。常陸の北の方は、訪れきこえたまふや」 |
"いとこよなくこそ、ひがみたまひにけれ。あはれにもはべるかな。のこりなきおほんさまを、みたてまつることかたくて、とほきほどにとしつきをすぐしはべるよ。おやたちものしたまはでのちは、ひとところをこそ、おほんかはりにおもひきこえはべりつれ。ひたちのきたのかたは、おとづれきこえたまふや。" |
53 | 6.2.5 | 696 | 665 |
と言ふは、いもうとなるべし。 |
といふは、いもうとなるべし。 |
53 | 6.2.6 | 697 | 666 |
「年月に添へては、つれづれにあはれなることのみまさりてなむ。常陸は、久しう訪れきこえたまはざめり。え待ちつけたまふまじきさまになむ見えたまふ」 |
"としつきにそへては、つれづれにあはれなることのみまさりてなん。ひたちは、ひさしうおとづれきこえたまはざめり。えまちつけたまふまじきさまになんみえたまふ。" |
53 | 6.2.7 | 698 | 667 |
とのたまふに、「わが親の名」と、あいなく耳止まれるに、また言ふやう、 |
とのたまふに、"わがおやのな。"と、あいなくみみとまれるに、またいふやう、 |
53 | 6.2.8 | 699 | 668 |
「まかり上りて日ごろになりはべりぬるを、公事のいとしげく、むつかしうのみはべるにかかづらひてなむ。昨日もさぶらはむと思ひたまへしを、右大将殿の宇治におはせし御供に仕うまつりて、故八の宮の住みたまひし所におはして、日暮らしたまひし。 |
"まかりのぼりてひごろになりはべりぬるを、おほやけごとのいとしげく、むつかしうのみはべるにかかづらひてなん。きのふもさぶらはんとおもひたまへしを、うだいしゃうどののうぢにおはせしおほんともにつかうまつりて、こはちのみやのすみたまひしところにおはして、ひくらしたまひし。 |
53 | 6.2.9 | 700 | 669 |
故宮の御女に通ひたまひしを、まづ一所は一年亡せたまひにき。その御おとうと、また忍びて据ゑたてまつりたまへりけるを、去年の春また亡せたまひにければ、その御果てのわざせさせたまはむこと、かの寺の律師になむ、さるべきことのたまはせて、なにがしも、かの女の装束一領、調じはべるべきを、せさせたまひてむや。織らすべきものは、急ぎせさせはべりなむ」 |
こみやのおほんむすめにかよひたまひしを、まづひとところはひととせうせたまひにき。そのおほんおとうと、またしのびてすゑたてまつりたまへりけるを、こぞのはるまたうせたまひにければ、そのおほんはてのわざせさせたまはんこと、かのてらのりしになん、さるべきことのたまはせて、なにがしも、かのをんなのさうぞくひとくだり、てうじはべるべきを、せさせたまひてんや。おらすべきものは、いそぎせさせはべりなん。" |
53 | 6.2.10 | 701 | 670 |
と言ふを聞くに、いかでかあはれならざらむ。「人やあやしと見む」とつつましうて、奥に向ひてゐたまへり。尼君、 |
といふをきくに、いかでかあはれならざらん。"ひとやあやしとみん。"とつつましうて、おくにむかひてゐたまへり。あまぎみ、 |
53 | 6.2.11 | 702 | 671 |
「かの聖の親王の御女は、二人と聞きしを、兵部卿宮の北の方は、いづれぞ」 |
"かのひじりのみこのおほんむすめは、ふたりとききしを、ひゃうぶきゃうのみやのきたのかたは、いづれぞ。" |
53 | 6.2.12 | 703 | 672 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 6.2.13 | 704 | 673 |
「この大将殿の御後のは、劣り腹なるべし。ことことしうももてなしたまはざりけるを、いみじう悲しびたまふなり。初めのはた、いみじかりき。ほとほと出家もしたまひつべかりきかし」 |
"このだいしゃうどののおほんのちのは、おとりばらなるべし。ことことしうももてなしたまはざりけるを、いみじうかなしびたまふなり。はじめのはた、いみじかりき。ほとほとすけもしたまひつべかりきかし。" |
53 | 6.2.14 | 705 | 674 |
など語る。 |
などかたる。 |
53 | 6.3 | 706 | 675 | 第三段 浮舟、薫の噂など漏れ聞く |
53 | 6.3.1 | 707 | 676 |
「かのわたりの親しき人なりけり」と見るにも、さすが恐ろし。 |
"かのわたりのしたしきひとなりけり。"とみるにも、さすがおそろし。 |
53 | 6.3.2 | 708 | 677 |
「あやしく、やうのものと、かしこにてしも亡せたまひけること。昨日も、いと不便にはべりしかな。川近き所にて、水をのぞきたまひて、いみじう泣きたまひき。上にのぼりたまひて、柱に書きつけたまひし、 |
"あやしく、やうのものと、かしこにてしもうせたまひけること。きのふも、いとふびんにはべりしかな。かはちかきところにて、みづをのぞきたまひて、いみじうなきたまひき。うへにのぼりたまひて、はしらにかきつけたまひし、 |
53 | 6.3.3 | 709 | 678 |
見し人は影も止まらぬ水の上に<BR/>落ち添ふ涙いとどせきあへず |
みしひとはかげもとまらぬみづのうへに<BR/>おちそふなみだいとどせきあへず |
53 | 6.3.4 | 710 | 679 |
となむはべりし。言に表はしてのたまふことは少なけれど、ただ、けしきには、いとあはれなる御さまになむ見えたまひし。女は、いみじくめでたてまつりぬべくなむ。若くはべりし時より、優におはしますと見たてまつりしみにしかば、世の中の一の所も、何とも思ひはべらず、ただ、この殿を頼みきこえてなむ、過ぐしはべりぬる」 |
となんはべりし。ことにあらはしてのたまふことはすくなけれど、ただ、けしきには、いとあはれなるおほんさまになんみえたまひし。をんなは、いみじくめでたてまつりぬべくなん。わかくはべりしときより、いうにおはしますとみたてまつりしみにしかば、よのなかのいちのところも、なにともおもひはべらず、ただ、このとのをたのみきこえてなん、すぐしはべりぬる。" |
53 | 6.3.5 | 711 | 680 |
と語るに、「ことに深き心もなげなるかやうの人だに、御ありさまは見知りにけり」と思ふ。尼君、 |
とかたるに、"ことにふかきこころもなげなるかやうのひとだに、おほんありさまはみしりにけり。"とおもふ。あまぎみ、 |
53 | 6.3.6 | 712 | 681 |
「光君と聞こえけむ故院の御ありさまには、並びたまはじとおぼゆるを、ただ今の世に、この御族ぞめでられたまふなる。右の大殿と」 |
"ひかるきみときこえけんこゐんのおほんありさまには、ならびたまはじとおぼゆるを、ただいまのよに、このおほんぞうぞめでられたまふなる。みぎのおほとのと。" |
53 | 6.3.7 | 713 | 682 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 6.3.8 | 714 | 683 |
「それは、容貌もいとうるはしうけうらに、宿徳にて、際ことなるさまぞしたまへる。兵部卿宮ぞ、いといみじうおはするや。女にて馴れ仕うまつらばや、となむおぼえはべる」 |
"それは、かたちもいとうるはしうけうらに、すうとくにて、きはことなるさまぞしたまへる。ひゃうぶきゃうのみやぞ、いといみじうおはするや。をんなにてなれつかうまつらばや、となんおぼえはべる。" |
53 | 6.3.9 | 715 | 684 |
など、教へたらむやうに言ひ続く。あはれにもをかしくも聞くに、身の上もこの世のことともおぼえず。とどこほることなく語りおきて出でぬ。 |
など、をしへたらんやうにいひつづく。あはれにもをかしくもきくに、みのうへもこのよのことともおぼえず。とどこほることなくかたりおきていでぬ。 |
53 | 6.4 | 716 | 685 | 第四段 浮舟、尼君と語り交す |
53 | 6.4.1 | 717 | 686 |
「忘れたまはぬにこそは」とあはれに思ふにも、いとど母君の御心のうち推し量らるれど、なかなか言ふかひなきさまを見え聞こえたてまつらむは、なほつつましくぞありける。かの人の言ひつけしことどもを、染め急ぐを見るにつけても、あやしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず。裁ち縫ひなどするを、 |
"わすれたまはぬにこそは。"とあはれにおもふにも、いとどははぎみのみこころのうちおしはからるれど、なかなかいふかひなきさまをみえきこえたてまつらんは、なほつつましくぞありける。かのひとのいひつけしことどもを、そめいそぐをみるにつけても、あやしうめづらかなるここちすれど、かけてもいひいでられず。たちぬひなどするを、 |
53 | 6.4.2 | 718 | 687 |
「これ御覧じ入れよ。ものをいとうつくしうひねらせたまへば」 |
"これごらんじいれよ。ものをいとうつくしうひねらせたまへば。" |
53 | 6.4.3 | 719 | 688 |
とて、小袿の単衣たてまつるを、うたておぼゆれば、「心地悪し」とて、手も触れず臥したまへり。尼君、急ぐことをうち捨てて、「いかが思さるる」など思ひ乱れたまふ。紅に桜の織物の袿重ねて、 |
とて、こうちきのひとへたてまつるを、うたておぼゆれば、"ここちあし。"とて、てもふれずふしたまへり。あまぎみ、いそぐことをうちすてて、"いかがおぼさるる。"などおもひみだれたまふ。くれなゐにさくらのおりもののうちきかさねて、 |
53 | 6.4.4 | 720 | 689 |
「御前には、かかるをこそ奉らすべけれ。あさましき墨染なりや」 |
"おまへには、かかるをこそたてまつらすべけれ。あさましきすみぞめなりや。" |
53 | 6.4.5 | 721 | 690 |
と言ふ人あり。 |
といふひとあり。 |
53 | 6.4.6 | 722 | 691 |
「尼衣変はれる身にやありし世の<BR/>形見に袖をかけて偲ばむ」 |
"〔あまごろもかはれるみにやありしよの<BR/>かたみにそでをかけてしのばん〕 |
53 | 6.4.7 | 723 | 692 |
と書きて、「いとほしく、亡くもなりなむ後に、物の隠れなき世なりければ、聞きあはせなどして、疎ましきまでに隠しけるなどや思はむ」など、さまざま思ひつつ、 |
とかきて、"いとほしく、なくもなりなんのちに、もののかくれなきよなりければ、ききあはせなどして、うとましきまでにかくしけるなどやおもはん。"など、さまざまおもひつつ、 |
53 | 6.4.8 | 724 | 693 |
「過ぎにし方のことは、絶えて忘れはべりにしを、かやうなることを思し急ぐにつけてこそ、ほのかにあはれなれ」 |
"すぎにしかたのことは、たえてわすれはべりにしを、かやうなることをおぼしいそぐにつけてこそ、ほのかにあはれなれ。" |
53 | 6.4.9 | 725 | 694 |
とおほどかにのたまふ。 |
とおほどかにのたまふ。 |
53 | 6.4.10 | 726 | 695 |
「さりとも、思し出づることは多からむを、尽きせず隔てたまふこそ心憂けれ。身には、かかる世の常の色あひなど、久しく忘れにければ、なほなほしくはべるにつけても、昔の人あらましかば、など思ひ出ではべる。しか扱ひきこえたまひけむ人、世におはすらむ。やがて、亡くなして見はべりしだに、なほいづこにあらむ、そことだに尋ね聞かまほしくおぼえはべるを、行方知らで、思ひきこえたまふ人びとはべるらむかし」 |
"さりとも、おぼしいづることはおほからんを、つきせずへだてたまふこそこころうけれ。みには、かかるよのつねのいろあひなど、ひさしくわすれにければ、なほなほしくはべるにつけても、むかしのひとあらましかば、などおもひいではべる。しかあつかひきこえたまひけんひと、よにおはすらん。やがて、なくなしてみはべりしだに、なほいづこにあらん、そことだにたづねきかまほしくおぼえはべるを、ゆくへしらで、おもひきこえたまふひとびとはべるらんかし。" |
53 | 6.4.11 | 727 | 696 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 6.4.12 | 728 | 697 |
「見しほどまでは、一人はものしたまひき。この月ごろ亡せやしたまひぬらむ」 |
"みしほどまでは、ひとりはものしたまひき。このつきごろうせやしたまひぬらん。" |
53 | 6.4.13 | 729 | 698 |
とて、涙の落つるを紛らはして、 |
とて、なみだのおつるをまぎらはして、 |
53 | 6.4.14 | 730 | 699 |
「なかなか思ひ出づるにつけて、うたてはべればこそ、え聞こえ出でね。隔ては何ごとにか残しはべらむ」 |
"なかなかおもひいづるにつけて、うたてはべればこそ、えきこえいでね。へだてはなにごとにかのこしはべらん。" |
53 | 6.4.15 | 731 | 700 |
と、言少なにのたまひなしつ。 |
と、ことずくなにのたまひなしつ。 |
53 | 6.5 | 732 | 701 | 第五段 薫、明石中宮のもとに参上 |
53 | 6.5.1 | 733 | 702 |
大将は、この果てのわざなどせさせたまひて、「はかなくて、止みぬるかな」とあはれに思す。かの常陸の子どもは、かうぶりしたりしは、蔵人になして、わが御司の将監になしなど、労りたまひけり。「童なるが、中にきよげなるをば、近く使ひ馴らさむ」とぞ思したりける。 |
だいしゃうは、このはてのわざなどせさせたまひて、"はかなくて、やみぬるかな。"とあはれにおぼす。かのひたちのこどもは、かうぶりしたりしは、くらうどになして、わがおほんつかさのぞうになしなど、いたはりたまひけり。"わらはなるが、なかにきよげなるをば、ちかくつかひならさん。"とぞおぼしたりける。 |
53 | 6.5.2 | 734 | 703 |
雨など降りてしめやかなる夜、后の宮に参りたまへり。御前のどやかなる日にて、御物語など聞こえたまふついでに、 |
あめなどふりてしめやかなるよる、きさいのみやにまゐりたまへり。おまへのどやかなるひにて、おほんものがたりなどきこえたまふついでに、 |
53 | 6.5.3 | 735 | 704 |
「あやしき山里に、年ごろまかり通ひ見たまへしを、人の誹りはべりしも、さるべきにこそはあらめ。誰れも心の寄る方のことは、さなむある、と思ひたまへなしつつ、なほ時々見たまへしを、所のさがにやと、心憂く思ひたまへなりにし後は、道も遥けき心地しはべりて、久しうものしはべらぬを、先つころ、もののたよりにまかりて、はかなき世のありさまとり重ねて思ひたまへしに、ことさら道心起こすべく造りおきたりける、聖の住処となむおぼえはべりし」 |
"あやしきやまざとに、としごろまかりかよひみたまへしを、ひとのそしりはべりしも、さるべきにこそはあらめ。たれもこころのよるかたのことは、さなんある、とおもひたまへなしつつ、なほときどきみたまへしを、ところのさがにやと、こころうくおもひたまへなりにしのちは、みちもはるけきここちしはべりて、ひさしうものしはべらぬを、さいつころ、もののたよりにまかりて、はかなきよのありさまとりかさねておもひたまへしに、ことさらだうしんおこすべくつくりおきたりける、ひじりのすみかとなんおぼえはべりし。" |
53 | 6.5.4 | 736 | 705 |
と啓したまふに、かのこと思し出でて、いといとほしければ、 |
とけいしたまふに、かのことおぼしいでて、いといとほしければ、 |
53 | 6.5.5 | 737 | 706 |
「そこには、恐ろしき物や住むらむ。いかやうにてか、かの人は亡くなりにし」 |
"そこには、おそろしきものやすむらん。いかやうにてか、かのひとはなくなりにし。" |
53 | 6.5.6 | 738 | 707 |
と問はせたまふを、「なほ、続きを思し寄る方」と思ひて、 |
ととはせたまふを、"なほ、つづきをおぼしよるかた。"とおもひて、 |
53 | 6.5.7 | 739 | 708 |
「さもはべらむ。さやうの人離れたる所は、よからぬものなむかならず住みつきはべるを。亡せはべりにしさまもなむ、いとあやしくはべる」 |
"さもはべらん。さやうのひとはなれたるところは、よからぬものなんかならずすみつきはべるを。うせはべりにしさまもなん、いとあやしくはべる。" |
53 | 6.5.8 | 740 | 709 |
とて、詳しくは聞こえたまはず。「なほ、かく忍ぶる筋を、聞きあらはしけり」と思ひたまはむが、いとほしく思され、宮の、ものをのみ思して、そのころは病になりたまひしを、思し合はするにも、さすがに心苦しうて、「かたがたに口入れにくき人の上」と思し止めつ。 |
とて、くはしくはきこえたまはず。"なほ、かくしのぶるすぢを、ききあらはしけり。"とおもひたまはんが、いとほしくおぼされ、みやの、ものをのみおぼして、そのころはやまひになりたまひしを、おぼしあはするにも、さすがにこころぐるしうて、"かたがたにくちいれにくきひとのうへ。"とおぼしとどめつ。 |
53 | 6.5.9 | 741 | 710 |
小宰相に、忍びて、 |
こさいしゃうに、しのびて、 |
53 | 6.5.10 | 742 | 711 |
「大将、かの人のことを、いとあはれと思ひてのたまひしに、いとほしうて、うち出でつべかりしかど、それにもあらざらむものゆゑと、つつましうてなむ。君ぞ、ことごと聞き合はせける。かたはならむことはとり隠して、さることなむありけると、おほかたの物語のついでに、僧都の言ひしことを語れ」 |
"だいしゃう、かのひとのことを、いとあはれとおもひてのたまひしに、いとほしうて、うちいでつべかりしかど、それにもあらざらんものゆゑと、つつましうてなん。きみぞ、ことごとききあはせける。かたはならんことはとりかくして、さることなんありけると、おほかたのものがたりのついでに、そうづのいひしことをかたれ。" |
53 | 6.5.11 | 743 | 712 |
とのたまはす。 |
とのたまはす。 |
53 | 6.5.12 | 744 | 713 |
「御前にだにつつませたまはむことを、まして、異人はいかでか」 |
"おまへにだにつつませたまはんことを、まして、ことびとはいかでか。" |
53 | 6.5.13 | 745 | 714 |
と聞こえさすれど、 |
ときこえさすれど、 |
53 | 6.5.14 | 746 | 715 |
「さまざまなることにこそ。また、まろはいとほしきことぞあるや」 |
"さまざまなることにこそ。また、まろはいとほしきことぞあるや。" |
53 | 6.5.15 | 747 | 716 |
とのたまはするも、心得て、をかしと見たてまつる。 |
とのたまはするも、こころえて、をかしとみたてまつる。 |
53 | 6.6 | 748 | 717 | 第六段 小宰相、薫に僧都の話を語る |
53 | 6.6.1 | 749 | 718 |
立ち寄りて物語などしたまふついでに、言ひ出でたり。珍かにあやしと、いかでか驚かれたまはざらむ。「宮の問はせたまひしも、かかることを、ほの思し寄りてなりけり。などか、のたまはせ果つまじき」とつらけれど、 |
たちよりてものがたりなどしたまふついでに、いひいでたり。めづらかにあやしと、いかでかおどろかれたまはざらん。"みやのとはせたまひしも、かかることを、ほのおぼしよりてなりけり。などか、のたまはせはつまじき。"とつらけれど、 |
53 | 6.6.2 | 750 | 719 |
「我もまた初めよりありしさまのこと聞こえそめざりしかば、聞きて後も、なほをこがましき心地して、人にすべて漏らさぬを、なかなか他には聞こゆることもあらむかし。うつつの人びとのなかに忍ぶることだに、隠れある世の中かは」 |
"われもまたはじめよりありしさまのこときこえそめざりしかば、ききてのちも、なほをこがましきここちして、ひとにすべてもらさぬを、なかなかほかにはきこゆることもあらんかし。うつつのひとびとのなかにしのぶることだに、かくれあるよのなかかは。" |
53 | 6.6.3 | 751 | 720 |
など思ひ入りて、「この人にも、さなむありし」など、明かしたまはむことは、なほ口重き心地して、 |
などおもひいりて、"このひとにも、さなんありし。"など、あかしたまはんことは、なほくちおもきここちして、 |
53 | 6.6.4 | 752 | 721 |
「なほ、あやしと思ひし人のことに、似てもありける人のありさまかな。さて、その人は、なほあらむや」 |
"なほ、あやしとおもひしひとのことに、にてもありけるひとのありさまかな。さて、そのひとは、なほあらんや。" |
53 | 6.6.5 | 753 | 722 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
53 | 6.6.6 | 754 | 723 |
「かの僧都の山より出でし日なむ、尼になしつる。いみじうわづらひしほどにも、見る人惜しみてせさせざりしを、正身の本意深きよしを言ひてなりぬる、とこそはべるなりしか」 |
"かのそうづのやまよりいでしひなん、あまになしつる。いみじうわづらひしほどにも、みるひとをしみてせさせざりしを、さうじみのほいふかきよしをいひてなりぬる、とこそはべるなりしか。" |
53 | 6.6.7 | 755 | 724 |
と言ふ。所も変はらず、そのころのありさまと思ひあはするに、違ふふしなければ、 |
といふ。ところもかはらず、そのころのありさまとおもひあはするに、たがふふしなければ、 |
53 | 6.6.8 | 756 | 725 |
「まことにそれと尋ね出でたらむ、いとあさましき心地もすべきかな。いかでかは、たしかに聞くべき。下り立ちて尋ねありかむも、かたくなしなどや人言ひなさむ。また、かの宮も聞きつけたまへらむには、かならず思し出でて、思ひ入りにけむ道も妨げたまひてむかし。 |
"まことにそれとたづねいでたらん、いとあさましきここちもすべきかな。いかでかは、たしかにきくべき。おりたちてたづねありかんも、かたくなしなどやひといひなさん。また、かのみやもききつけたまへらんには、かならずおぼしいでて、おもひいりにけんみちもさまたげたまひてんかし。 |
53 | 6.6.9 | 757 | 726 |
さて、『さなのたまひそ』など、聞こえおきたまひければや、我には、さることなむ聞きしと、さる珍しきことを聞こし召しながら、のたまはせぬにやありけむ。宮もかかづらひたまふにては、いみじうあはれと思ひながらも、さらに、やがて亡せにしものと思ひなしてを止みなむ。 |
さて、'さなのたまひそ。'など、きこえおきたまひければや、われには、さることなんききしと、さるめづらしきことをきこしめしながら、のたまはせぬにやありけん。みやもかかづらひたまふにては、いみじうあはれとおもひながらも、さらに、やがてうせにしものとおもひなしてをやみなん。 |
53 | 6.6.10 | 758 | 727 |
うつし人になりて、末の世には、黄なる泉のほとりばかりを、おのづから語らひ寄る風の紛れもありなむ。我がものに取り返し見むの心地、また使はじ」 |
うつしびとになりて、すゑのよには、きなるいづみのほとりばかりを、おのづからかたらひよるかぜのまぎれもありなん。わがものにとりかへしみんのここち、またつかはじ。" |
53 | 6.6.11 | 759 | 728 |
など思ひ乱れて、「なほ、のたまはずやあらむ」とおぼゆれど、御けしきのゆかしければ、大宮に、さるべきついで作り出だしてぞ、啓したまふ。 |
などおもひみだれて、"なほ、のたまはずやあらん。"とおぼゆれど、みけしきのゆかしければ、おほみやに、さるべきついでつくりいだしてぞ、けいしたまふ。 |
53 | 6.7 | 760 | 729 | 第七段 薫、明石中宮に対面し、横川に赴く |
53 | 6.7.1 | 761 | 730 |
「あさましうて、失ひはべりぬと思ひたまへし人、世に落ちあぶれてあるやうに、人のまねびはべりしかな。いかでか、さることははべらむ、と思ひたまふれど、心とおどろおどろしう、もて離るることははべらずや、と思ひわたりはべる人のありさまにはべれば、人の語りはべしやうにては、さるやうもやはべらむと、似つかはしく思ひたまへらるる」 |
"あさましうて、うしなひはべりぬとおもひたまへしひと、よにおちあぶれてあるやうに、ひとのまねびはべりしかな。いかでか、さることははべらん、とおもひたまふれど、こころとおどろおどろしう、もてはなるることははべらずや、とおもひわたりはべるひとのありさまにはべれば、ひとのかたりはべしやうにては、さるやうもやはべらんと、につかはしくおもひたまへらるる。" |
53 | 6.7.2 | 762 | 731 |
とて、今すこし聞こえ出でたまふ。宮の御ことを、いと恥づかしげに、さすがに恨みたるさまには言ひなしたまはで、 |
とて、いますこしきこえいでたまふ。みやのおほんことを、いとはづかしげに、さすがにうらみたるさまにはいひなしたまはで、 |
53 | 6.7.3 | 763 | 732 |
「かのこと、またさなむと聞きつけたまへらば、かたくなに好き好きしうも思されぬべし。さらに、さてありけりとも、知らず顔にて過ぐしはべりなむ」 |
"かのこと、またさなんとききつけたまへらば、かたくなにすきずきしうもおぼされぬべし。さらに、さてありけりとも、しらずがほにてすぐしはべりなん。" |
53 | 6.7.4 | 764 | 733 |
と啓したまへば、 |
とけいしたまへば、 |
53 | 6.7.5 | 765 | 734 |
「僧都の語りしに、いともの恐ろしかりし夜のことにて、耳も止めざりしことにこそ。宮は、いかでか聞きたまはむ。聞こえむ方なかりける御心のほどかな、と聞けば、まして聞きつけたまはむこそ、いと苦しかるべけれ。かかる筋につけて、いと軽く憂きものにのみ、世に知られたまひぬめれば、心憂く」 |
"そうづのかたりしに、いとものおそろしかりしよのことにて、みみもとどめざりしことにこそ。みやは、いかでかききたまはん。きこえんかたなかりけるみこころのほどかな、ときけば、ましてききつけたまはんこそ、いとくるしかるべけれ。かかるすぢにつけて、いとかろくうきものにのみ、よにしられたまひぬめれば、こころうく。" |
53 | 6.7.6 | 766 | 735 |
などのたまはす。「いと重き御心なれば、かならずしも、うちとけ世語りにても、人の忍びて啓しけむことを、漏らさせたまはじ」など思す。 |
などのたまはす。"いとおもきみこころなれば、かならずしも、うちとけよがたりにても、ひとのしのびてけいしけんことを、もらさせたまはじ。"などおぼす。 |
53 | 6.7.7 | 767 | 736 |
「住むらむ山里はいづこにかはあらむ。いかにして、さま悪しからず尋ね寄らむ。僧都に会ひてこそは、たしかなるありさまも聞き合はせなどして、ともかくも問ふべかめれ」など、ただ、このことを起き臥し思す。 |
"すむらんやまざとはいづこにかはあらん。いかにして、さまあしからずたづねよらん。そうづにあひてこそは、たしかなるありさまもききあはせなどして、ともかくもとふべかめれ。"など、ただ、このことをおきふしおぼす。 |
53 | 6.7.8 | 768 | 737 |
月ごとの八日は、かならず尊きわざせさせたまへば、薬師仏に寄せたてまつるにもてなしたまへるたよりに、中堂に、時々参りたまひけり。それよりやがて横川におはせむと思して、かのせうとの童なる、率ておはす。「その人びとには、とみに知らせじ。ありさまにぞ従はむ」と思せど、うち見む夢の心地にも、あはれをも加へむとにやありけむ。さすがに、「その人とは見つけながら、あやしきさまに、形異なる人の中にて、憂きことを聞きつけたらむこそ、いみじかるべけれ」と、よろづに道すがら思し乱れけるにや。 |
つきごとのやうかは、かならずたふときわざせさせたまへば、やくしぼとけによせたてまつるにもてなしたまへるたよりに、ちうだうに、ときどきまゐりたまひけり。それよりやがてよかはにおはせんとおぼして、かのせうとのわらはなる、ゐておはす。"そのひとびとには、とみにしらせじ。ありさまにぞしたがはん。"とおぼせど、うちみんゆめのここちにも、あはれをもくはへんとにやありけん。さすがに、"そのひととはみつけながら、あやしきさまに、かたちことなるひとのなかにて、うきことをききつけたらんこそ、いみじかるべけれ。"と、よろづにみちすがらおぼしみだれけるにや。 |