[参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第一巻「校異篇」一九五六年 中央公論社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第五巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第二巻 一九九四年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第三巻 一九八四年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第三巻 一九七八年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第二巻 一九七二年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第三巻 一九六五年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第二巻 一九五九年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第二巻 一九四九年 朝日新聞社
伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院
第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語
【伊予介といひしは故院崩れさせたまひてまたの年常陸になりて下りしかばかの帚木もいざなはれにけり】-桐壺院の崩御は「賢木」巻の源氏二十三歳の年。その翌年、朧月夜の君は尚侍になり、朝顔の姫君は齋院となり、藤壺宮は出家した。「帚木」という呼称は巻名に因んで呼ばれたもの。作者の命名。読者は「空蝉」と呼称する。
【よすがだになくて】-大島本は「なくて」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「なく」と「て」を削除する。
【筑波嶺の山を吹き越す風も】-「甲斐が嶺を嶺越し山越し吹く風を人にもがもや言づてやらむ」(古今集東歌、一〇九八)を踏まえ、「甲斐が嶺」を「筑波嶺」と言い換えた。
【いささかかの伝へ】-大島本は「いささかかの」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「いささかの」と「か」を削除する。
【限れることもなかりし御旅居なれど】-源氏の須磨・明石退去をさす。「御旅居」と敬語表現。
【京に帰り住みたまひてまたの年の秋ぞ常陸は上りける】-『完訳』は「国守任命後、足かけ五年目に辞任、六年目(源氏帰京の翌年)に上京。澪標巻後半に相当」と注す。
【関入る日しもこの殿石山に御願果しに詣でたまひけり】-常陸介一行が逢坂関を通る日に、源氏は石山寺にお礼参りに逢坂関にさしかかる。
【打出の浜来るほどに殿は粟田山越えたまひぬとて】-「打出の浜」は大津の浜。「粟田山」は京山科との間の山。
【道もさりあへず来込みぬれば】-『集成』は「梓弓春の山辺を越え来れば道もさりあへず花ぞちりける」(古今集春下、一一五、貫之)の言葉を借りた表現であることを指摘。
【木隠れに居かしこまりて】-木蔭に隠れるように座って、源氏の一行の通り過ぎるのを待つ。
【車など】-以下、常陸介一行の車をいう。敬語がついていない。
【先に立てなどしたれど】-『集成』は「〔一部は〕前日に出発させたりしたが」と注す。
【車十ばかりぞ】-係助詞「ぞ」は「見えたる」連体形に係るが、連体中止で、読点で下文に続き、その主格となる。
【思し出でらる】-主語は源氏。「思す」という敬語表現による。
【九月晦日なれば紅葉の色々こきまぜ霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに関屋よりさとくづれ出たる旅姿どもの】-大島本は「くつれいてたる」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「はづれ出でたる」と校訂する。晩秋九月の晦、山道に紅葉、霜枯れの草々、源氏一行の人々の動きを活写。
【今右衛門佐】-大島本は「いま右衛門のすけ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「今は衛門佐」と「は」を補訂し「右」を削除する。従五位上相当官。
【今日の御関迎へはえ思ひ捨てたまはじ】-源氏の詞。「御関迎へ」は自分を逢坂関で出迎えることをいう。「思ひ捨てたまはじ」の主語は空蝉。冗談を交えた物の言い方。『完訳』は「私の逢坂の関での出迎えを空蝉は無視なさるまい、の意。偶然の再会を、「関迎へ」と言いなした」と注す。
【のたまふ】-『集成』は下文の「御心のうち」に続ける。『完訳』は句点で文を切る。
【行くと来とせき止めがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ】-空蝉の独詠歌。「塞き止め難き」に「(逢坂の)関」を掛ける。「清水」は歌枕「関の清水」。『完訳』は「源氏にも理解されない孤心を形象」と注す。
【え知りたまはじかし】-空蝉の心中。「知りたまはじ」の主語は源氏。
【いとかひなし】-前に源氏に対して「おほぞうにてかひなし」とあった。「女も」「いとかひなし」という文脈。
【石山より出でたまふ御迎へに右衛門佐参りてぞ】-大島本は「右衛門のすけまいりてそ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「衛門佐参れり。一日」と校訂する。源氏が石山寺参詣を終えて、そのお迎え。
【まかり過ぎしかしこまり】-『新大系』は「先日(逢坂の関で、源氏のお供もせず)通り過ぎたことのお詫び」と注す。
【紀伊守といひしも今は河内守に】-紀伊国は上国、河内国は大国。
【などてすこしも】-以下「つかひけむ」まで、人々の心中。世におもねったことを誤悔。
【御消息あり】-源氏から空蝉への手紙。
【今は】-以下「おはする」まで、右衛門佐の心中。源氏の空蝉を思い続ける変わらぬ愛情に感心する。
【一日は】-大島本は「つる(へる&つる、=一日イ<朱>)は」とある。すなわち初め「つ」とあったのを「へ」となぞり書き訂正し、その右傍らに朱筆で「一日イ」と傍記する。『新大系』『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「一日は」と校訂する。以下「めざましかりしかな」まで、源氏の空蝉への手紙文。
【わくらばに行き逢ふ道を頼みしもなほかひなしや潮ならぬ海】-源氏から空蝉への贈歌。「逢ふ道」に「近江路」、「効」に「貝」を掛ける。「潮ならぬ海」だから「海布松(見る目)」が生えてなく、「貝(効)」がない、という。『集成』は「潮満たぬ海と聞けばや世とともにみるめなくして年の経ぬらむ」(後撰集恋一、五二六、貫之)を指摘。
【関守の】-「逢坂の関」の縁語で「関守」という。恋路を妨げる空蝉の夫常陸介という気持ち。
【年ごろの】-以下「いとど憎まれむや」まで、源氏の詞。右衛門佐に手紙を託す折の詞。
【なほ聞こえたまへ】-以下「罪ゆるされぬべし」まで、右衛門佐の空蝉への詞。
【女にては負けきこえたまへらむに罪ゆるされぬべし】-『完訳』は「女の身としては、相手の説得に負けて応答したところで誰の避難も受けまい。「罪」は夫以外の男に通じる罪。それを楽観的に言う。不義の仲を取り持とうとするのは、権勢家への追従心によろう」と注す。右衛門佐の成長が感じられる。
【めづらしきにやえ忍ばれざりけむ】-「にや」連語(断定の助動詞「に」係助詞「や」)、「けむ」過去推量の助動詞。語り手の感情移入を伴った登場人物の心中を推測した表現。
【逢坂の関やいかなる関なればしげき嘆きの仲を分くらむ】-空蝉の返歌。歌中の「近江路」「潮ならぬ海」は用いず、歌に添えた「関守」の語句を受けて、「逢坂の関」に「(人に)逢ふ」の意を掛け、また「嘆き」に「(投げ)木」を響かす。「仲を分くらむ」と、源氏の意を迎えた歌を返す。
【夢のやうになむ】-歌に添えた詞。
【よろづのことただこの御心に】-以下「仕うまつれ」まで、常陸介の遺言。万事空蝉の心に従って、自分の生前と同様に仕えなさい、という主旨。
【心憂き宿世ありて】-以下「惑ふべきにかあらむ」まで、空蝉の心中。地の文から心中文に自然と流れていく形で、その始まりは判然としない。
【思ひ嘆きたまふを見るに】-「思い嘆く」空蝉には敬語がつき、「見る」常陸介にはつかない。
【命の限り】-以下「心も知らぬを」まで、常陸介の心中。
【わが子どもの心も知らぬを】-『集成』は「わが子とはいえ気心も知れないのに」と訳す。「を」間投助詞、詠嘆の意。
【うはべこそあれ】-「こそ」係助詞、「あれ」已然形、逆接用法で下文に続く。
【世のことわりなれば】-『完訳』は「継子が継母を疎略にすることをいう」と注す。
【昔より好き心ありて】-前に「紀伊守、好き心に、この継母のありさまを、あたらしきものに思ひて」(「帚木」巻)とあった。
【憂き宿世ある身にて】-以下「聞き添ふるかな」まで、空蝉の心中。
【おのれを】-以下「過ぐしたまふべき」まで、河内守の心中また詞。
【あいなのさかしらやなどぞはべるめる】-『集成』は「つまらぬおせっかいだ、などと人は申しているようです。世間の評判を伝える語り手の言葉。草子地」。『完訳』は「現身を不憫がる河内守への、世人の批評」と注す。
源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入