First updated 09/20/1996(ver.1-1)
Last updated 11/23/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)

  

空 蝉


 [主要登場人物]
 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---君、十七歳 近衛中将
 空蝉<うつせみ>
呼称---いもうとの君・女・姉君、故中納言兼衛門督の娘、伊予介の後妻
 軒端荻<のきばのおぎ>
呼称---西の御方・紀伊守の妹・碁打ちつる君・西の君、伊予介の娘、紀伊守と兄妹
 小君<こぎみ>
呼称---若君・小さき上人、故中納言兼衛門督の子、空蝉の弟
 光る源氏十七歳夏の物語
 
  1. 空蝉の物語---寝られたまはぬままに、
  2. 源氏、再度、紀伊守邸へ---幼き心地に、いかならむをりと待ちわたるに、
  3. 空蝉と軒端荻、碁を打つ---灯近うともしたり。
  4. 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る---女は、さこそ忘れたまふを
  5. 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る---小君、御車の後にて、二条院に
【出典】
【校訂】

 

光る源氏十七歳夏の物語

 [第一段 空蝉の物語]

 寝られたまはぬままには、「我は、かく人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ、初めて憂しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくて、ながらふまじうこそ、思ひなりぬれ」などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも、思ひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどり寄らむも、人悪ろかるべく、まめやかにめざましと思し明かしつつ、例のやうにものたまひまつはさず。夜深う出でたまへば、この子は、いといとほしく、さうざうしと思ふ。

 女も、並々ならずかたはらいたしと思ふに、御消息もえてなし。思し懲りにけると思ふにも、「やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし。しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどに、かくて閉ぢめてむ」と思ふものから、ただならず、ながめがちなり。

 君は、心づきなしと思しながら、かくてはえ止むまじう御心にかかり、人悪ろく思ほしわびて、小君に、「いとつらうも、うれたうもおぼゆるに、しひて思ひ返せど、心にしも従はず苦しきを。さりぬべきをり見て、対面べくたばかれ」とのたまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。

 [第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ]
 幼き心地に、いかならむ折と待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなるれに、わが車にて率てたてまつる。

 この子も幼きを、いかならむと思せど、さのみもえ思しのどむまじければ、さりげなき姿にて、門など鎖さぬ先にと、急ぎおはす。

 人見ぬ方より引き入れて、降ろしたてまつる。童なれば、宿直人などもことに見入れ追従せず、心やすし。

 東の妻戸に、立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子叩きののしりて入りぬ。御達、

 「あらはなり」と言ふなり。

 「なぞ、かう暑きに、この格子は下ろされたる」と問へば、

 「昼より、西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言ふ。

 さて向かひゐたらむを見ばや、と思ひて、やをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。

 この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙見ゆるに、寄りて西ざまに見通したまへば、この際に立てたる屏風、端の方おし畳まれたるに、紛るべき几帳なども、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見入れらる。

 [第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ]

 火近う灯したり。母屋の中柱に側める人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単衣襲なめり。何にかあらむ表に着て、頭つき細やかに小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは、差し向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたうひき隠しためり。

 いま一人は、東向きにて、残るところなく見ゆ。白き羅の単衣襲、二藍の小袿だつもの、ないがしろに着なして、紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ口つき、いと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなる人と見えたり。

 むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。心地ぞ、なほ静かなる気を添へばやと、ふと見ゆる。かどなきにはあるまじ。碁打ち果てて、結さすわたり、心とげに見えて、きはぎはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、

 「待ちたまへや。そこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」など言へど、

 「いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで」と指をかがめて、「十、二十三十、四十」などかぞふるま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじうゆ。すこし品おくれたり。

 たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、目をしつけたまへれば、おのづから側目もゆ。目すこし腫れたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。言ひ立つれば、悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。

 にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さる方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとは思しながら、まめならぬ御心は、これもえ思し放つまじかりけり。

 見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ、かくうちとけたる人のありさまかいま見などは、まだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはほしきに、小君出で来る心地すれば、やをら出でたまひぬ。

 渡殿の戸口に寄りゐたまへり。いとかたじけなしと思ひて、

 「例ならぬ人はべりて、え近うも寄りはべらず」

 「さて、今宵もや帰してむとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」とのたまへば、

 「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなむ」と聞こゆ。

 「さもなびかしつべき気色にこそはあらめ。童なれど、ものの心ばへ、人の気色見つべくしづまれるを」と、思すなりけり。

 碁打ち果てつるにやあらむ、うちそよめく心地して、人びとあかるるけはひなどすなり。

 「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子は鎖してむ」とて、鳴らすなり。

 「静まりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」とのたまふ。

 この子も、いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば、言ひあはせむ方なくて、人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり。

 「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」とのたまへど、

 「いかでか、さははべらむ。格子には几帳添へてはべり」と聞こゆ。

 さかし、されどもをかしく思せど、「見つとは知らせじ、いとほし」と思して、夜更くることの心もとなさをのたまふ。

 こたみは妻戸を叩きて入る。皆人びと静まり寝にけり。

 「この障子口に、まろは寝たらむ。風吹きとほせ」とて、畳広げて臥す。御達、東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放ちつるそなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、灯明かき方に屏風を広げて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。

 「いかにぞ、をこがましきこともこそ」と思すに、いとつつましけれど、導くままに、母屋の几帳の帷子引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、皆静まれる夜の、御衣のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。

 [第四段 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る]

 女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るる折なきころにて、心とけたる寝だに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木の芽も、いとなく嘆かしきに、碁打ちつる君、「今宵は、こなたに」と、今めかしくうち語らひて、寝にけり。

 若き人は、何心なくいとようまどろみたるべし。かかるけはひの、いと香ばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、単衣うち掛けたる几帳の隙間に、暗けれど、うち身じろき寄るけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹なる単衣を一つ着て、すべり出でにけり。

 君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすく思す。床の下に二人ばかりぞ臥したる。衣を押しやりて寄りたまへるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、思ほしうも寄らずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「人違へとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と思す。かのをかしかりつる灯影ならば、いかがはせむに思しなるも、悪ろき御心浅さなめりかし。

 やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、さればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。我とも知らせじと思ほせど、いかにしてかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事にもあらねど、あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。

 憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思す。「いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ。かく執念き人はありがたきものを」と思すしも、あやにくに、紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人の、なま心なく、若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ。

 「人知りたることよりも、かやうなるは、あはれも添ふこととなむ、昔人も言ひける。あひ思ひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなむありける。また、さるべき人びとも許されじかしと、かねて胸いたくなむ。忘れで待ちたまへよ」など、なほなほしく語らひたまふ。

 「人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ、え聞こえさすまじき」とうらもなく言ふ。

 「なべて、人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝へて聞こえむ。気色なくもてなしたまへ」

 など言ひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ。

 小君近う臥したるを起こしたまへば、うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御達の声にて、

 「あれは誰そ」

 とおどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、

 「まろぞ」と答ふ。

 「夜中に、こは、なぞ外歩かせたまふ」

 とさかしがりて、外ざまへ来。いと憎くて、

 「あらず。ここもとへ出づるぞ」

 とて、君を押し出でたてまつるに、暁近き月、隈なくさし出でて、ふと人の影見えければ、

 「またおはするは、誰そ」と問ふ。

 「民部のおもとなめり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」

 と言ふ。丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人、これを連ねて歩きけると思ひて、

 「今、ただ今立ちならびたまひなむ」

 と言ふ言ふ、我もこの戸より出でて来。わびしければ、えはた押し返さで、渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば、このおもとさし寄りて、

 「おもとは、今宵は、上にやさぶらひたまひつる。一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下にはべりつるを、人少ななりとて召ししかば、昨夜参う上りしかど、なほえ堪ふじくなむ」

 と、憂ふ。答へも聞かで、

 「あな、腹々。今聞こえむ」とて過ぎぬるに、からうして出でたまふ。なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと、いよいよ思し懲りぬべし。

 [第五段 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る]

 小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ。ありさまのたまひて、「幼かりけり」とあはめたまひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ。いとほしうて、ものもえ聞こえず。

 「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などか、よそにても、なつかしき答へばかりはしたまふまじき。伊予介に劣りける身こそ」

 など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつる小袿を、さすがに、御衣の下に引き入れて、大殿籠もれり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは、語らひたまふ。

 「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ」

 とまめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。

 しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ。

 「空蝉の身をかへてける木のもとに
  なほ人がらのなつかしきかな」

 と書きたまへるを、懐に引き入れて持たり。かの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。

 小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。

 「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらむ」

 とて、恥づかしめたまふ。左右に苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに、取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに、伊勢をの海人のしほなれてやなど思ふもただならず、いとよろづに乱れて。

 西の君も、もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。

 つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、取り返すものならねど忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、

 「空蝉の羽に置く露の木隠れて
  忍び忍びに濡るる袖かな」

 【出典】
出典1 夕闇は道たどたどし月待ちて帰れわが背子そのまにも見む(古今六帖一-三七一 大宅娘女)(戻)
出典2 伊予の湯の 湯桁はいくつ いさ知らず や 算へず よまず やれ そよや なよや 君ぞ知るらうや(風俗歌-伊予湯)(戻)
出典3 鈴鹿山伊勢をの海人の捨て衣しほなれたりと人や見るらむ(後撰集恋三-七一八 藤原伊尹)(戻)
出典4 取り返すものにもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ(出典未詳)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文--* 朱筆--<朱>
校訂1 御消息も--御消息(息/+も)(戻)
校訂2 対面--た(た/+い)めむ(戻)
校訂3 二十--はたち(ち/$<朱>)(戻)
校訂4 かぞふる--*かさふる(戻)
校訂5 側目も--そはめも(も/=にイ<朱>)(戻)
校訂6 見たまは--みたまふ(ふ/$は)(戻)
校訂7 童--わら(ら/+は)へ(戻)
校訂8 え堪ふ--え(え/+た)ふ(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
大島本
自筆本奥入