First updated 9/20/1996(ver.1-1)
Last updated 9/6/2009(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)

  

花散里

光る源氏の二十五歳夏、近衛大将時代の物語

 花散里の物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---大将殿、二十五歳 参議兼近衛右大将
 花散里<はなちるさと>
呼称---三の君、麗景殿女御の妹 源氏の恋人
 麗景殿女御<れいけいでんのにょうご>
呼称---麗景殿・女御、故桐壺院の女御
 惟光<これみつ>
呼称---惟光、源氏の乳母子

  1. 花散里訪問を決意---人知れぬ、御心づからのもの思はしさは
  2. 中川の女と和歌を贈答---何ばかりの御よそひなく、うちやつして
  3. 姉麗景殿女御と昔を語る---かの本意の所は、思しやりつるもしるく
  4. 花散里を訪問---西面には、わざとなく

【出典】
【校訂】

 

花散里の物語

 [第一段 花散里訪問を決意]

 人知れぬ、御心づからのもの思はしさは、いつとなきことなめれどかくおほかたの世につけてさへ、わづらはしう思し乱るることのみまされば、もの心細く、世の中なべて厭はしう思しならるるに、さすがなること多かり。

 麗景殿と聞こえしは、宮たちもおはせず、院隠れさせたまひて後、いよいよあはれなる御ありさまを、ただこの大将殿の御心にもて隠されて、過ぐしたまふなるべし。

 御おとうとの三の君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例の御心なれば、さすがに忘れも果てたまはず、わざとももてなしたまはぬに、人の御心をのみ尽くし果てたまふべかめるをも、このごろ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには、思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ。

 [第二段 中川の女と和歌を贈答]

 何ばかりの御よそひなく、うちやつして、御前などもなく、忍びて、中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立などよしばめるに、よく鳴る琴を、あづまに調べて、掻き合はせ、にぎははしく弾きなすなり。

 御耳とまりて、門近なる所なれば、すこしさし出でて見入れたまへば、大きなる桂の木の追ひ風に、祭のころ思し出でられて、そこはかとなくけはひをかしきを、「ただ一目見たまひし宿りなり」と見たまふ。ただならず、「ほど経にける、おぼめかしくや」と、つつましけれど、過ぎがてにすらひたまふ、折しも、ほととぎす鳴きて渡る。もよほしきこえ顔なれば、御車おし返させて、例の、惟光入れたまふ。

 「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす
  ほの語らひし宿の垣根に」

 寝殿とおぼしき屋の西の妻に人びとゐたり。先々も聞きし声なれば、声づくりけしきとりて、御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもして、おぼめくなるべし。

 「ほととぎす言問ふ声はそれなれど
  あなおぼつかな五月雨の空」

 ことさらたどると見れば、
 「よしよし、植ゑし垣根も
 とて出づるを、人知れぬ心には、ねたうもあはれにも思ひけり。
 「さも、つつむべきことぞかし。ことわりにもあれば、さすがなり。かやうの際に、筑紫の五節が、らうたげなりしはや」
 と、まづ思し出づ。

 いかなるにつけても、御心の暇なく苦しげなり。年月を経ても、なほかやうに、見しあたり、情け過ぐしたまはぬにしも、なかなか、あまたの人のもの思ひぐさなり。

 [第三段 姉麗景殿女御と昔を語る]

 かの本意の所は、思しやりつるもしるく、人目なく、静かにておはするありさまを見たまふも、いとあはれなり。まづ、女御の御方にて、昔の御物語など聞こえたまふに、夜更けにけり。
 二十日の月さし出づるほどに、いとど木高き蔭ども木暗く見えわたりて、近き橘の薫りなつかしく匂ひて、女御の御けはひ、ねびにたれど、あくまで用意あり、あてにらうたげなり。

 「すぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりしかど、むつましうなつかしき方には思したりしものを」
 など、思ひ出できこえたまふにつけても、昔のことかきつらね思されて、うち泣きたまふ。

 ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。「慕ひ来にけるよ」と、思さるるほども、艶なりかし。「いかに知りてかなど、忍びやかにうち誦んじたまふ。

 「橘の香をなつかしみほととぎす
  花散る里をたづねてぞとふ

 い

にしへの忘れがたき慰めには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、紛るることも、数添ふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人少なうなりゆくを、まして、つれづれも紛れなく思さるらむ」

 と聞こえたまふに、いとさらなる世なれど、ものをいとあはれに思し続けたる御けしきの浅からぬも、人の御さまからにや、多くあはれぞ添ひにける。

 「人目なく荒れたる宿は橘の
  花こそ軒のつまとなりけれ」

 とばかりのたまへる、「さはいへど、人にはいとことなりけり」と、思し比べらる。

 [第四段 花散里を訪問]

 西面には、わざとなく、忍びやかにうち振る舞ひたまひて、覗きたまへるも、めづらしきに添へて、世に目なれぬ御さまなれば、つらさも忘れぬべし。何やかやと、例の、なつかしく語らひたまふも、思さぬことにあらざるべし。

 かりにも見たまふかぎりは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしと思さるるはなければにや、憎げなく、我も人も情けを交はしつつ、過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるも、「ことわりの、世のさが」と、思ひなしたまふ。ありつる垣根も、さやうにて、ありさま変はりにたるあたりなりけり。

 【出典】
出典1 夜や暗き道や惑へるほととぎす我が宿をしも過ぎがてに鳴く(古今集夏-一五四 紀友則)(戻)
出典2 囲はねど蓬の籬夏来れば植ゑし垣根も茂りあひけり(出典未詳-源氏釈所引)(戻)
出典3 いにしへのこと語らへばほととぎすいかに知りてか古声のする(古今六帖五-二八〇四)(戻)
出典4 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今集夏-一三九 読人しらず)橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き(万葉集巻八-一四七七 大伴旅人)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ重ね--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 なめれど--な(な/+め)れと(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
定家自筆本
大島本
自筆本奥入