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渋谷栄一校訂(C)

  

常夏

光る源氏の太政大臣時代三十六歳の盛夏の物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---大臣・太政大臣、三十六歳
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---中将・中将の君、光る源氏の長男
 紫の上<むらさきのうえ>
呼称---春の上、源氏の正妻
 玉鬘<たまかづら>
呼称---対の姫君・西の対・姫君・撫子・今姫君・君、内大臣の娘
 内大臣<ないだいじん>
呼称---内の大臣・内の大殿・大臣・大臣の君
 蛍兵部卿宮<ほたるひょうぶきょうのみや>
呼称---兵部卿宮・宮・親王
 柏木<かしわぎ>
呼称---右中将・中将の朝臣・中将
 明石御方<あかしのおほんかた>
呼称---明石のおもと
 明石姫君<あかしのひめぎみ>
呼称---后がねの姫君・君
 鬚黒大将<ひげくろだいしょう>
呼称---大将
 近江の君<おうみのきみ>
呼称---今の御女・北の対の今姫君・御方・女、内大臣の娘
 弘徽殿女御<こきでんのにょうご>
呼称---女御の御方・女御の君・女御殿・女御・御方

第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語

  1. 六条院釣殿の納涼---いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて
  2. 近江君の噂---「いかで聞きしことぞや、大臣のほか腹の娘
  3. 源氏、玉鬘を訪う---夕つけゆく風、いと涼しくて
  4. 源氏、玉鬘と和琴について語る---月もなきころなれば、燈籠に
  5. 源氏、玉鬘と和歌を唱和---人々近くさぶらへば、例の戯れごとも
  6. 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩---渡りたまふことも、あまりうちしきり
  7. 玉鬘の噂---内の大殿は、この今の御女のことを
  8. 内大臣、雲井雁を訪う---とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく
第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語
  1. 内大臣、近江君の処遇に苦慮---大臣、この北の対の今姫君を
  2. 内大臣、近江君を訪う---やがて、この御方のたよりに、たたずみおはして
  3. 近江君の性情---「舌の本性にこそははべらめ
  4. 近江君、血筋を誇りに思う---よき四位五位たちの、いつききこえて
  5. 近江君の手紙---「さて、女御殿に参れとのたまひつるを
  6. 女御の返事---樋洗童しも、いと馴れてきよげなる

【出典】
【校訂】

 

第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語

 [第一段 六条院釣殿の納涼]

 いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。例の大殿の君達、中将の御あたり尋ねて参りたまへり。

 「さうざうしくねぶたかりつる、折よくものしたまへるかな」

 とて、大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。

 風はいとよく吹けども、日のどかに曇りなき空の、西日になるほど、蝉の声などもいと苦しげにこゆれば、

 「水の上無徳なる今日の暑かはしさかな。無礼の罪は許されなむや」

 とて、寄り臥したまへり。

 「いとかかるころは、遊びなどもすさまじく、さすがに、暮らしがたきこそ苦しけれ。宮仕へする若き人びと堪へがたからむな。帯も解かぬほどよ。ここにてだにうち乱れ、このころ世にあらむことの、すこし珍しく、ねぶたさ覚めぬべからむ、語りて聞かせたまへ。何となく翁びたる心地して、世間のこともおぼつかなしや」

 などのたまへど、珍しきこととて、うち出で聞こえむ物語もおぼえねば、かしこまりたるやうにて、皆いと涼しき高欄に、背中押しつつさぶらひたまふ。

 [第二段 近江君の噂]

 「いかで聞きしことぞや、大臣のほか腹の娘尋ね出でてかしづきたまふなるとまねぶ人ありしかば、まことにや」

 と、弁少将に問ひたまへば、

 「ことことしく、さまで言ひなすべきことにもはべらざりけるを。この春のころほひ、夢語りしたまひけるを、ほの聞き伝へはべりける女の、『われなむかこつべきことある』と、名のり出ではべりけるを、中将の朝臣なむ聞きつけて、『まことにさやうに触ればひぬべきしるしやある』と、尋ねとぶらひはべりける。詳しきさまは、え知りはべらず。げに、このころ珍しき世語りになむ、人びともしはべるなる。かやうのことにぞ、人のため、おのづから家損なるわざにはべりけれ」

 と聞こゆ。「まことなりけり」と思して、

 「いと多かめる列に、離れたらむ後るる雁を、強ひて尋ねたまふが、ふくつけきぞ。いとともしきに、さやうならむもののくさはひ、見出でほしけれど、名のりももの憂き際とや思ふらむ、さらにこそ聞こえね。さても、もて離れたることにはあらじ。らうがはしくとかく紛れたまふめりしほどに、底清く澄まぬ水にやどる月は、曇りなきやうのいかでかあらむ」

 と、ほほ笑みてのたまふ。中将の君も、詳しく聞きたまふことなれば、えしもまめだたず。少将と藤侍従とは、いとからしと思ひたり。

 「朝臣や、さやうの落葉をだに拾へ。人悪ろき名の後の世に残らむよりは、同じかざしにてめむに、なでふことかあらむ」

 と、弄じたまふやうなり。かやうのことにてぞ、うはべはいとよき御仲の、昔よりさすがに隙ありける。まいて、中将をいたくはしたなめて、わびさせたまふつらさを思しあまりて、「なまねたしとも、漏り聞きたまへかし」と思すなりけり。

 かく聞きたまふにつけても、
 「対の姫君を見せたらむ時、またあなづらはしからぬ方にもてなされなむはや。いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる人にて、善し悪しきけぢめも、けざやかにもてはやし、またもて消ち軽むることも、人に異なる大臣なれば、いかにものしと思ふらむ。おぼえぬさまにて、この君をさし出でたらむに、え軽くは思さじ。いときびしくもてなしてむ」など思す。

 [第三段 源氏、玉鬘を訪う]

 夕つけゆく風、いと涼しくて、帰り憂く若き人びとは思ひたり。

 「心やすくうち休み涼まむや。やうやうかやうの中に、厭はれぬべき齢にもりにけりや」

 とて、西の対に渡りたまへば、君達、皆御送りに参りたまふ。

 たそかれ時のおぼおぼしきに、同じ直衣どもれば、何ともわきまへられぬに、大臣、姫君を、

 「すこし外出でたまへ」

 とて、忍びて、

 「少将、侍従など率てまうで来たり。いと翔けり来まほしげに思へるを、中将の、いと実法の人にて率て来ぬ、無心なめりかし。

 この人びとは、皆思ふ心なきならじ。なほなほしき際をだに、窓の内なるほど、ほどに従ひて、ゆかしく思ふべかめるわざなれば、この家のおぼえ、うちうちのくだくだしきほどよりは、いと世に過ぎて、ことことしくなむ言ひ思ひなすべかめる。かたがたものすめれど、さすがに人の好きごと言ひ寄らむにつきなしかし。

 かくてものしたまふは、いかでさやうならむ人のけしきの、深さ浅さをも見むなど、さうざうしきままに願ひ思ひしを、本意なむ叶ふ心地しける」

 など、ささめきつつ聞こえたまふ。

 御前に、乱れがはしき前栽なども植ゑさせたまはず、撫子の色をととのへたる、唐の、大和の、籬いとなつかしく結ひなして、咲き乱れたる夕ばえ、いみじく見ゆ。皆、立ち寄りて、心のままにも折り取らぬを、飽かず思ひつつやすらふ。

 「有職どもなりな。心もちゐなども、とりどりにつけてこそめやすけれ。右の中将は、ましてすこし静まりて、心恥づかしき気まさりたり。いかにぞやおとづれ聞こゆや。はしたなくも、なさし放ちたまひそ」

 などのたまふ。
 中将の君は、かくよきなかに、すぐれてをかしげになまめきたまへり。

 「中将を厭ひたまふこそ、大臣は本意なけれ。交じりものなく、きらきらしかめるなかに、大君だつ筋にて、かたくななりとにや」

 とのたまへば、

 「来まさばといふ人もはべりけるを」

 と聞こえたまふ。

 「いで、その御肴もてはやされむさまは願はしからず。ただ、幼きどちの結びおきけむ心も解けず、年月、隔てたまふ心むけのつらきなり。まだ下臈なり、世の聞き耳軽しと思はれば、知らず顔にて、ここに任せたまへらむに、うしろめたくはありなましや」

 など、うめきたまふ。「さは、かかる御心の隔てある御仲なりけり」と聞きたまふにも、親に知られたてまつらむことのいつとなきは、あはれにいぶせく思す。

 [第四段 源氏、玉鬘と和琴について語る]

 月もなきころなれば、燈籠に御殿油参れり。

 「なほ、気近くて暑かはしや。篝火こそよけれ」

 とて、人召して、

 「篝火の台一つ、こなたに」

 と召す。をかしげなる和琴のある、引き寄せたまひて、掻き鳴らしたまへば、律にいとよく調べられたり。音もいとよく鳴れば、すこし弾きたまひて、

 「かやうのことは御心に入らぬ筋にやと、月ごろ思ひおとしきこえけるかな。秋の夜の月影涼しきほど、いと奥深くはあらで、虫の声に掻き鳴らし合はせたるほど、気近く今めかしきものの音なり。ことことしき調べ、もてなししどけなしや。

 このものよ、さながら多くの遊び物の音、拍子を調へとりたるなむいとかしこき。大和琴とはかなく見せて、際もなくしおきたることなり。広く異国のことを知らぬ女のためとなむおぼゆる。

 同じくは、心とどめて物などに掻き合はせて習ひたまへ。深き心とて、何ばかりもあらずながら、またまことに弾き得ることはかたきにやあらむ、ただ今は、この内大臣になずらふ人なしかし。

 ただはかなき同じ菅掻きの音に、よろづのものの音、籠もり通ひて、いふかたもなくこそ、響きのぼれ」

 と語りたまへば、ほのぼの心得て、いかでと思すことなれば、いとどいぶかしくて、

 「このわたりにて、さりぬべき御遊びの折など、聞きはべりなむや。あやしき山賤などのなかにも、まねぶものあまたはべるなることなれば、おしなべて心やすくやとこそ思ひたまへつれ。さは、すぐれたるは、さまことにやはべらむ」

 と、ゆかしげに、切に心に入れて思ひたまへれば、

 「さかし。あづまとぞ名も立ち下りたるやうなれど、御前の御遊びにも、まづ書司を召すは、人の国は知らず、ここにはこれをものの親としたるにこそあめれ。

 そのなかにも、親としつべき御手より弾き取りたまへらむは、心ことなりなむかし。ここになども、さるべからむ折にはものしたまひなむを、この琴に、手惜しまずなど、あきらかに掻き鳴らしたまはむことやかたからむ。ものの上手は、いづれの道も心やすからずのみぞあめる。
 さりとも、つひには聞きたまひてむかし」

 とて、調べすこし弾きたまふ。ことつひいと二なく今めかしくをかし。「これにもまされる音や出づらむ」と、親の御ゆかしさたち添ひて、このことにてさへ、「いかならむ世に、さてうちとけ弾きたまはむを聞かむ」など、思ひゐたまへり。

 「貫河の瀬々のやはらたと、いとなつかしく謡ひたまふ。「親避くるつま」は、すこしうち笑ひつつ、わざともなく掻きなしたまひたる菅掻きのほど、いひ知らずおもしろく聞こゆ。

 「いで、弾きたまへ。才は人になむ恥ぢぬ。「想夫恋」ばかりこそ、心のうちに思ひて、紛らはす人もありけめ、おもなくて、かれこれに合はせつるなむよき」

 と、切に聞こえたまへど、さる田舎の隈にて、ほのかに京人と名のりける、古大君女教へきこえければ、ひがことにもやとつつましくて、手触れたまはず。

 「しばしも弾きたまはなむ。聞き取ることもや」と心もとなきに、この御琴によりぞ、近くゐざり寄りて、

 「いかなる風の吹き添ひて、かくは響きはべるぞとよ」

 とて、うち傾きたまへるさま、火影にいとうつくしげなり。笑ひたまひて、

 「耳固からぬ人のためには、身にしむ風も吹き添ふかし」

 とて、押しやりたまふ。いと心やまし。

 [第五段 源氏、玉鬘と和歌を唱和]

 人びと近くさぶらへば、例の戯れごともえ聞こえたまはで、

 「撫子を飽かでも、この人びとの立ち去りぬるかな。いかで、大臣にも、この花園見せたてまつらむ。世もいと常なきをと思ふに、いにしへも、もののついでに語り出でたまへりしも、ただ今のこととぞおぼゆる」

 とて、すこしのたまひ出でたるにも、いとあはれなり。

 「撫子のとこなつかしき色を見ば
  もとの垣根を人や尋ねむ

 このことのわづらはしさにこそ、繭ごもりも心苦しうひきこゆれ」

 とのたまふ。君、うち泣きて、

 「山賤の垣ほに生ひし撫子の
  もとの根ざしを誰れか尋ねむ」

 はかなげに聞こえないたまへるさま、げにいとなつかしく若やかなり。

 「来ざらましかば」

 とうち誦じたまひて、いとどしき御心は、苦しきまで、なほえ忍び果つまじく思さる。

 [第六段 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩]

 渡りたまふことも、あまりうちしきり、人の見たてまつり咎むべきほどは、心の鬼に思しとどめて、さるべきことをし出でて、御文の通はぬ折なし。ただこの御ことのみ、明け暮れ御心にはかかりたり。

 「なぞ、かくあいなきわざをして、やすからぬもの思ひをすらむ。さ思はじとて、心のままにもあらば、世の人のそしり言はむことの軽々しさ、わがためをばさるものにて、この人の御ためいとほしかるべし。限りなき心ざしといふとも、春の上の御おぼえに並ぶばかりは、わが心ながらえあるまじく」思し知りたり。「さて、その劣りの列にては、何ばかりかはあらむ。わが身ひとつこそ、人よりは異なれ、見む人のあまたが中に、かかづらはむ末にては、何のおぼえかはたけからむ。異なることなき納言の際の、二心なくて思はむには、劣りぬべきことぞ」

 と、みづから思し知るに、いといとほしくて、「宮、大将などにや許してまし。さてもて離れ、いざなひ取りては、思ひも絶えなむや。いふかひなきにて、さもしてむ」と思す折もあり。

 されど、渡りたまひて、御容貌を見たまひ、今は御琴教へたてまつりたまふにさへことづけて、近やかに馴れ寄りたまふ。

 姫君も、初めこそむくつけく、うたてとも思ひたまひしか、「かくても、なだらかに、うしろめたき御心はあらざりけり」と、やうやう目馴れて、いとしも疎みきこえたまはず、さるべき御応へも、馴れ馴れしからぬほどに聞こえかはしなどして、見るままにいと愛敬づき、薫りまさりたまへれば、なほさてもえ過ぐしやるまじく思し返す。

 「さはまた、さて、ここながらかしづき据ゑて、さるべき折々に、はかなくうち忍び、ものをも聞こえて慰みなむや。かくまだ世馴れぬほどの、わづらはしさにこそ、心苦しくはありけれ、おのづから関守強くともものの心知りそめ、いとほしき思ひなくて、わが心も思ひ入りなばしげくとも障はらじかし」と思し寄る、いとけしからぬことなりや。

 いよいよ心やすからず、思ひわたらむ苦しからむ。なのめに思ひ過ぐさむことの、とざまかくざまにもかたきぞ、世づかずむつかしき御語らひなりける。

 [第七段 玉鬘の噂]

 内の大殿は、この今の御女のことを、「殿の人も許さず、軽み言ひ、世にもほきたることと誹りきこゆ」と、聞きたまふに、少将の、ことのついでに、太政大臣の「さることや」とぶらひたまひしこと、語りきこゆれば、

 「さかし。そこにそは、年ごろ、音にも聞こえぬ山賤の子迎へ取りて、ものめかしたつれ。をさをさ人の上もどきたまはぬ大臣の、このわたりのことは、耳とどめてぞおとしめたまふや。これぞ、おぼえある心地しける」

 とのたまふ。少将の、

 「かの西の対に据ゑたまへる人は、いとこともなきけはひ見ゆるわたりになむはべるなる。兵部卿宮など、いたう心とどめてのたまひわづらふとか。おぼろけにはあらじとなむ、人びと推し量りはべめる」

 と申したまへば、

 「いで、それは、かの大臣の御女と思ふばかりのおぼえのいといみじきぞ。人の心、皆さこそある世なめれ。かならずさしもすぐれじ。人びとしきほどならば、年ごろ聞こえなまし。

 あたら、大臣の、塵もつかず、この世には過ぎたまへる御身のおぼえありさまに、おもだたしき腹に、女かしづきて、げに疵なからむと、思ひやりめでたきがものしたまはぬは。

 おほかたの、子の少なくて、心もとなきなめりかし。劣り腹なれど、明石の御許の産み出でたるはしも、さる世になき宿世にて、あるやうあらむとおぼゆかし。

 その今姫君は、ようせずは、実の御子にもあらじかし。さすがにいとけしきあるところつきたまへる人にて、もてないたまふならむ」

 と、言ひおとしたまふ。

 「さて、いかが定めらるなる。親王こそまつはし得たまはむ。もとより取り分きて御仲よし、人柄も警策なる御あはひどもならむかし」

 などのたまひては、なほ、姫君の御こと、飽かず口惜し。「かやうに、心にくくもてなして、いかにしなさむなど、やすからずいぶかしがらせましものを」とねたければ、位さばかりと見ざらむ限りは、許しがたく思すなりけり。

 大臣なども、ねむごろに口入れかへさひたまはむにこそは、負くるやうにてもなびかめと思すに、男方は、さらに焦られきこえたまはず、心やましくなむ。

 [第八段 内大臣、雲井雁を訪う]

 とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく軽らかにはひ渡りたまへり。少将も御供に参りたまふ。

 姫君は、昼寝したまへるほどなり。羅の単衣を着たまひて臥したまへるさま、暑かはしくは見えず、いとらうたげにささやかなり。透きたまへる肌つきなど、いとうつくしげなる手つきして、扇を持たまへりけるながら、かひなを枕にて、うちやられたる御髪のほど、いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末つきなり。

 人びとものの後に寄り臥しつつうち休みたれば、ふともおどろいたまはず。扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへるまみ、らうたげにて、つらつき赤めるも、親の御目にはうつくしくのみ見ゆ。

 「うたた寝はいさめこゆるものを。などか、いとものはかなきさまにては大殿籠もりける。人びとも近くさぶらはで、あやしや。

 女は、身を常に心づかひして守りたらむなむよかるべき。心やすくうち捨てざまにもてなしたる、品なきことなり。

 さりとて、いとさかしく身かためて、不動の陀羅尼誦みて、印つくりてゐたらむも憎し。うつつの人にもあまり気遠く、もの隔てがましきなど、気高きやうとても、人にくく、心うつくしくはあらぬわざなり。

 太政大臣の、后がねの姫君ならはしたまふなる教へは、よろづのことに通はしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめくこともあらじと、ぬるらかにこそ掟てたまふなれ。

 げに、さもあることなれど、人として、心にもするわざにも、立ててなびく方は方とあるものなれば、生ひ出でたまふさまあらむかし。この君の人となり、宮仕へに出だし立てたまはむ世のけしきこそ、いとゆかしけれ」

 などのたまひて、

 「思ふやうに見たてまつらむと思ひし筋は、難うなりにたる御身なれど、いかで人笑はれならずしなしたてまつらむとなむ、人の上のさまざまなるを聞くごとに、思ひ乱れはべる。

 試み事にねむごろがらむ人のねぎごとに、なしばしなびきたまひそ。思ふさまはべり」

 など、いとらうたしと思ひつつ聞こえたまふ。

 「昔は、何ごとも深くも思ひ知らで、なかなか、さしあたりていとほしかりしことの騒ぎにも、おもなくて見えたてまつりけるよ」と、今ぞ思ひ出づるに、胸ふたがりて、いみじく恥づかしき。

 大宮よりも、常におぼつかなきことを恨みきこえたまへど、かくのたまふるがつつましくて、え渡り見たてまつりたまはず。

 

第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語

 [第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮]

 大臣、この北の対の今姫君を、

 「いかにせむ。さかしらに迎へ率て来て。人かく誹るとて、返し送らむも、いと軽々しく、もの狂ほしきやうなり。かくて籠めおきたれば、まことにかしづくべき心あるかと、人の言ひなすなるもねたし。女御の御方などに交じらはせて、さるをこのものにしないてむ。人のいとかたはなるものに言ひおとすなる容貌、はた、いとさ言ふばかりにやはある」

 など思して、女御の君に、

 「かの人参らせむ。見苦しからむことなどは、老いしらへる女房などして、つつまず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ。若き人びとの言種には、な笑はせさせたまひそうたてあはつけきやうなり」

 と、笑ひつつ聞こえたまふ。

 「などか、いとさことのほかにははべらむ。中将などの、いと二なく思ひはべりけむかね言に足らずといふばかりにこそははべらめ。かくのたまひ騒ぐを、はしたなう思はるるにも、かたへはかかやかしきにや」

 と、いと恥づかしげにて聞こえさせたまふ。この御ありさまは、こまかにをかしげさはなくて、いとあてに澄みたるものの、なつかしきさま添ひて、おもしろき梅の花の開けしたる朝ぼらけおぼえて、残り多かりげにほほ笑みたまへるぞ、人に異なりける、と見たてまつりたまふ。

 「中将の、いとさ言へど、心若きたどり少なさに」

 など申したまふも、いとほしげなる人の御おぼえかな。

 [第二段 内大臣、近江君を訪う]

 やがて、この御方のたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、簾高くおし張りて、五節の君とて、されたる若人のあると、双六をぞ打ちたまふ。手をいと切におしもみて、

 「せうさい、せうさい」

 とこふ声ぞ、いと舌疾きや。「あな、うたて」と思して、御供の人の前駆追ふをも手かき制したまうて、なほ、妻戸の細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。

 この従姉妹も、はた、けしきはやれる、

 「御返しや、御返しや」

 と、筒をひねりて、とみに打ち出でず。中に思ひはりやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。

 容貌はひちちかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとにそこなはれたるなめり。取りたててよしとはなけれど、異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし。

 「かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。ことしげくのみありて、訪らひまうでずや」

 とのたまへば、例の、いと舌疾にて、

 「かくてさぶらふは、何のもの思ひかはべらむ。年ごろ、おぼつかなく、ゆかしく思ひきこえさせし御顔、常にえ見たてまつらぬばかりこそ、手打たぬ心地しはべれ」

 と聞こえたまふ。

 「げに、身に近く使ふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならしたてまつらむと、かねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづから立ち交らひて、人の耳をも目をも、かならずしもとどめぬものなれば、心やすかべかめれ。それだに、その人の女、かの人の子と知らるる際になれば、親兄弟の面伏せなる類ひ多かめり。まして」

 とのたまひさしつる、御けしきの恥づかしきも知らず、

 「何か、そは、ことことしく思ひたまひて交らひはべらばこそ、所狭からめ。大御大壺取りにも、仕うまつりなむ」

 と聞こえたまへば、え念じたまはで、うち笑ひたまひて、

 「似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに会へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声を、すこしのどめて聞かせたまへ。さらば、命も延びなむかし」

 と、をこめいたまへる大臣にて、ほほ笑みてのたまふ

 [第三段 近江君の性情]

 「舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、故母の常に苦しがり教へはべりし。妙法寺の別当大徳の、産屋にはべりける、あえものとなむ嘆きはべりたうびし。いかでこの舌疾さやめはべらむ」

 と思ひ騒ぎたるも、いと孝養の心深く、あはれなりと見たまふ。

 「その、気近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の報いななり。唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪にも、数へたるかし」

 とのたまひて、「子ながら恥づかしくおはする御さまに、見えたてまつらむこそ恥づかしけれ。いかに定めて、かくあやしきけはひも尋ねず迎へ寄せけむ」と思し、「人びともあまた見つぎ、言ひ散らさむこと」と、思ひ返したまふものから、

 「女御里にものしたまふ時々、渡り参りて、人のありさまなども見ならひたまへかし。ことなることなき人も、おのづから人に交じらひ、さる方になれば、さてもありぬかし。さる心して、見えたてまつりたまひなむや」

 とのたまへば、

 「いとうれしきことにこそはべるなれ。ただ、いかでもいかでも、御方々に数まへしろしめされむことをなむ、寝ても覚めても、年ごろ何ごとを思ひたまへつるにもあらず。御許しだにはべらば、水を汲みいただきても、仕うまつりなむ」

 と、いとよげに、今すこしさへづれば、いふかひなしと思して、

 「いとしか、おりたちて薪拾ひたまはずとも参りたまひなむ。ただかのあえものにしけむ法の師だに遠くは」

 と、をこごとにのたまひなすをも知らず、同じき大臣と聞こゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、おぼろけの人見えにくき御けしきをも見知らず、

 「さて、いつか女御殿には参りはべらむずる」

 と聞こゆれば、

 「よろしき日などやいふべからむ。よし、ことことしくは何かは。さ思はれば、今日にても」

 とのたまひ捨てて渡りたまひぬ。

 [第四段 近江君、血筋を誇りに思う]

 よき四位五位たちの、いつききこえて、うち身じろきたまふにも、いといかめしき御勢ひなるを見送りきこえて、

 「いで、あな、めでたのわが親や。かかりける胤ながら、あやしき小家に生ひ出でけること」

 とのたまふ。五節、

 「あまりことことしく、恥づかしげにぞおはする。よろしき親の、思ひかしづかむにぞ、尋ね出でられたまはまし」

 と言ふも、わりなし。

 「例の君の、人の言ふこと破りたまひて、めざまし。今は、ひとつ口に言葉な交ぜられそ。あるやうあるべき身にこそあめれ」

 と、腹立ちたまふ顔やう、気近く、愛敬づきて、うちそぼれたるは、さる方にをかしく罪許されたり。

 ただ、いと鄙び、あやしき下人の中に生ひでたまへれば、もの言ふさまも知らず。ことなるゆゑなき言葉をも、声のどやかに押ししづめて言ひ出だしたるは、打ち聞き耳異におぼえ、をかしからぬ歌語りをするも、声づかひつきづきしくて、残り思はせ、本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは、深き筋思ひ得ぬほどの打ち聞きには、をかしかなりと、耳もとまるかし。

 いと心深くよしあることを言ひゐたりとも、よろしき心地あらむと聞こゆべくもあらず、あはつけき声ざまにのたまひ出づる言葉こはごはしく、言葉たみてわがままに誇りならひたる乳母の懐にならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。

 いといふかひなくはあらず、三十文字あまり、本末あはぬ歌、口疾くうち続けなどしたまふ。

 [第五段 近江君の手紙]

 「さて、女御殿に参れとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、ものしくもこそ思せ。夜さりまうでむ。大臣の君、天下に思すとも、この御方々のすげなくしたまはむには、殿のうちには立てりなむはや」

 とのたまふ。御おぼえのほど、いと軽らかなりや。
 まづ御文たてまつりたまふ。

 「葦垣のま近きどにはさぶらひながら、今まで影踏むばかりしるしもはべらぬは、勿来の関をや据ゑせたまへらむとなむ。知らねども、武蔵野といへばしこけれども。あなかしこや、あなかしこや」

 と、点がちにて、裏には、

 「まことや、暮にも参り来むと思うたまへ立つは、厭ふにはゆるや。いでや、いでや、あやしきは水無川を」

 とて、また端に、かくぞ、

 「草若み常陸の浦のいかが崎
  いかであひ見む田子の浦波
 大川水の

 と、青き色紙一重ねに、いと草がちに、いかれる手の、その筋とも見えず、ただよひたる書きざまも下長、わりなくゆゑばめり。行のほど、端ざまに筋交ひて、倒れぬべく見ゆるを、うち笑みつつ見て、さすがにいと細く小さく巻き結びて、撫子の花につけたり。

 [第六段 女御の返事]

 樋洗童も、いと馴れてきよげなる、今参りなりけり。女御の御方の台盤所に寄りて、

 「これ、参らせたまへ」

 と言ふ。下仕へ見知りて、

 「北の対にさぶらふ童なりけり」

 とて、御文取り入る。大輔の君といふ、持て参りて、引き解きて御覧ぜさす。
 女御、ほほ笑みてうち置かせたまへるを、中納言の君といふ、近くゐて、そばそば見けり。

 「いと今めかしき御文のけしきにもはべめるかな」

 と、ゆかしげに思ひたれば、

 「草の文字は、え見知らねばにやあらむ、本末なくも見ゆるかな」

 とて、賜へり。

 「返りこと、かくゆゑゆゑしく書かずは、悪ろしとや思ひおとされむ。やがて書きたまへ」

 と、譲りたまふ。もて出でてこそあらね、若き人は、ものをかしくて、皆うち笑ひぬ。御返り乞へば、

 「をかしきことの筋にのみまつはれてはべめれば、聞こえさせにくくこそ。宣旨書きめきては、いとほしからむ」

 とて、ただ、御文めきて書く。

 「近きしるしなき、おぼつかなさは、恨めしく、

  常陸なる駿河の海の須磨の浦に
  波立ち出でよ筥崎の松」

 と書きて、読みきこゆれば、

 「あな、うたて。まことにみづからのにもこそ言ひなせ」

 と、かたはらいたげに思したれど、

 「それは聞かむ人わきまへはべりなむ」

 とて、おし包みて出だしつ。

 御方見て、

 「をかしの御口つきや。待つとのたまへるを」

 とて、いとあまえたる薫物の香を、返す返す薫きしめゐたまへり。紅といふもの、いと赤らかにかいつけて、髪けづりつくろひたまへる、さる方ににぎははしく、愛敬づきたり。御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし。

 【出典】
出典1 かはむしは声も耐へぬに蝉の羽のいとうすき身も苦しげに鳴く(河海抄所引-花山院集)(戻)
出典2 わが宿と頼む吉野に君し入らば同じかざしをさしこそはせめ(後撰集恋四-八〇九 伊勢)(戻)
出典3 楊家有女初長成 養在深窓人未識(白氏文集巻十二-八九六 長恨歌)(戻)
出典4 我家は 帷帳も 垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴に 何よけむ 鮑さだをか 石陰子よけむ 鮑さだをか 石陰子よけむ(催馬楽-我家)(戻)
出典5 貫河の瀬々 のやはら手枕 やはらかに 寝る夜はなくて 親離くる夫 親離くる夫は ましてるはし しかさらば 矢矧の市に 沓買ひにかむ 沓買はば 線鞋の 細底を買へ さし履きて 表裳とり着て 宮路かよはむ(催馬楽-貫河)(戻)
出典6 たらちねの親のかふこの繭ごもりいぶせくもあるか妹に逢はずして(拾遺集恋四-八九五 柿本人麿)(戻)
出典7 人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ(古今集恋三-六三二 在原業平)(戻)
出典8 筑波山葉山繁山し茂けれど思ひ入るには障らざりけり(新古今集恋一-一〇一三 源重之)(戻)
出典9 たらちねの親の諌めしうたた寝は物思ふ時のわざにぞありける(拾遺集恋四-八九七 読人しらず)(戻)
出典10 匂はねどほほ笑む梅の花をこそ我もをかしと折りて眺むれ(好忠集-二六)(戻)
出典11 さざれ石の中の思ひはありながらうち出ることのさもかたくもあるかな(紫明抄所引-出典未詳)(戻)
出典12 法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し(拾遺集哀傷-一三一四 大僧正行基)(戻)
出典13 東にて養はれたる人の子は舌だみてこそ物は言ひけれ(拾遺集物名-四一三 読人しらず)(戻)
出典14 人知れぬ思ひやなぞと葦垣の間近けれども逢ふよしのなき(古今集恋一-五〇六 読人知らず)(戻)
出典15 立ち寄らば影踏むばかり近けれど誰か勿来の関を据ゑけむ(後撰集恋二-六八二 小八条御息所)(戻)
出典16 逢ひ見では面伏せにや思ふらむ勿来の関に生ひよ帚木(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典17 知らねども武蔵野と言へばかこたれぬよしやそこそは紫のゆゑ(古今六帖五-三五〇七)(戻)
出典18 あやしくも厭ふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき(後撰集恋二-六〇八 読人しらず)(戻)
出典19 悪しき手をなほ善きさまに水無瀬川底の水屑の数ならずとも(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典20 み吉野の大川野辺の藤浪のなみに思はばわが恋ひめやは(古今集恋四-六九九 読人しらず)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 尋ね出でて--たつね(ね/+い<朱>)てゝ(戻)
校訂2 見出で--*みて(戻)
校訂3 齢にも--よはひ(ひ/+にも)(戻)
校訂4 直衣ども--なをしの(の/$<朱>)とも(戻)
校訂5 いかにぞや--いかにそ(そ/+や<朱>)(戻)
校訂6 いと二なく--きひう(きひう/$いとになく<朱>)(戻)
校訂7 ことや」と--*ことや(戻)
校訂8 そこに--(/+そ)こゝ(ゝ/$<朱>)に(戻)
校訂9 たまひそ--*給ふそ(戻)
校訂10 追ふをも--ほふせ(せ/$を<朱>)も(戻)
校訂11 のたまふ--*のまふ(戻)
校訂12 例の--れ(れ/+い)の(戻)
校訂13 生ひ--おや(や/#)ひ(戻)
校訂14 打ち聞き--うちきく(く/=き<朱>)(戻)
校訂15 下長--しり(り/$も<朱>)なか(戻)
校訂16 樋洗童--ひすましわらはゝ(ゝ/$<朱>)(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
大島本
自筆本奥入