光る源氏の太政大臣時代三十九歳一月から二月までの物語
[主要登場人物]
第一章 光る源氏の物語 薫物合せ
御裳着のこと、思しいそぐ御心おきて、世の常ならず。春宮も同じ二月に、御かうぶりのことあるべければ、やがて御参りもうち続くべきにや。
正月の晦日なれば、公私のどやかなるころほひに、薫物合はせたまふ。大弐の奉れる香ども御覧ずるに、「なほ、いにしへのには劣りてやあらむ」と思して、二条院の御倉開けさせたまひて、唐の物ども取り渡させたまひて、御覧じ比ぶるに、
「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」
とて、近き御しつらひの、物の覆ひ、敷物、茵などの端どもに、故院の御世の初めつ方、高麗人のたてまつれりける綾、緋金錦どもなど、今の世のものに似ず、なほさまざま御覧じあてつつせさせたまひて、このたびの綾、羅などは、人びとに賜はす。
香どもは、昔今の、取り並べさせたまひて、御方々に配りたてまつらせたまふ。
「二種づつ合はせさせたまへ」
と、聞こえさせたまへり。贈り物、上達部の禄など、世になきさまに、内にも外にも、ことしげくいとなみたまふに添へて、方々に選りととのへて、鉄臼の音耳かしかましきころなり。
大臣は、寝殿に離れおはしまして、承和の御いましめの二つの方を、いかでか御耳には伝へたまひけむ、心にしめて合はせたまふ。
上は、東の中の放出に、御しつらひことに深うしなさせたまひて、八条の式部卿の御方を伝へて、かたみに挑み合はせたまふほど、いみじう秘したまへば、
「匂ひの深さ浅さも、勝ち負けの定めあるべし」
いづ方にも、御前にさぶらふ人あまたならず。御調度どもも、そこらのきよらを尽くしたまへるなかにも、香壺の御筥どものやう、壺の姿、火取りの心ばへも、目馴れぬさまに、今めかしう、やう変へさせたまへるに、所々の心を尽くしたまへらむ匂ひどもの、すぐれたらむどもを、かぎあはせて入れむと思すなりけり。
二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに、色も香も似るものなきほどに、兵部卿宮渡りたまへり。御いそぎの今日明日になりにけることども、訪らひきこえたまふ。昔より取り分きたる御仲なれば、隔てなく、そのことかのこと、と聞こえあはせたまひて、花をめでつつおはするほどに、前斎院よりとて、散りすきたる梅の枝につけたる御文持て参れり。宮、聞こしめすこともあれば、
「いかなる御消息のすすみ参れるにか」
とて、をかしと思したれば、ほほ笑みて、
「いと馴れ馴れしきこと聞こえつけたりしを、まめやかに急ぎものしたまへるなめり」
とて、御文は引き隠したまひつ。
沈の筥に、瑠璃の坏二つ据ゑて、大きにまろがしつつ入れたまへり。心葉、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を選りて、同じくひき結びたる糸のさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。
「艶あるもののさまかな」
とて、御目止めたまへるに、
「花の香は散りにし枝にとまらねど
うつらむ袖に浅くしまめや」
ほのかなるを御覧じつけて、宮はことことしう誦じたまふ。
宰相中将、御使尋ねとどめさせたまひて、いたう酔はしたまふ。紅梅襲の唐の細長添へたる女の装束かづけたまふ。御返りもその色の紙にて、御前の花を折らせてつけさせたまふ。
宮、
「うちのこと思ひやらるる御文かな。何ごとの隠ろへあるにか、深く隠したまふ」
と恨みて、いとゆかしと思したり。
「何ごとかはべらむ。隈々しく思したるこそ、苦しけれ」
とて、御硯のついでに、
「花の枝にいとど心をしむるかな
人のとがめむ香をばつつめど」
とやありつらむ。
「まめやかには、好き好きしきやうなれど、またもなかめる人の上にて、これこそはことわりのいとなみなめれと、思ひたまへなしてなむ。いと醜ければ、疎き人はかたはらいたさに、中宮まかでさせたてまつりてと思ひたまふる。親しきほどに馴れきこえかよへど、恥づかしきところの深うおはする宮なれば、何ごとも世の常にて見せたてまつらむ、かたじけなくてなむ」
など、聞こえたまふ。
「あえものも、げに、かならず思し寄るべきことなりけり」
と、ことわり申したまふ。
このついでに、御方々の合はせたまふども、おのおの御使して、
「この夕暮れのしめりにこころみむ」
と聞こえたまへれば、さまざまをかしうしなして奉りたまへり。
と聞こえたまひて、御火取りども召して、こころみさせたまふ。
「知る人にもあらずや」
と卑下したまへど、言ひ知らぬ匂ひどもの、進み遅れたる香一種などが、いささかの咎を分きて、あながちに劣りまさりのけぢめをおきたまふ。かのわが御二種のは、今ぞ取う出させたまふ。
右近の陣の御溝水のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出づる汀近う埋ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛尉、堀りて参れり。宰相中将、取りて伝へ参らせたまふ。宮、
「いと苦しき判者にも当たりてはべるかな。いと煙たしや」
と、悩みたまふ。同じうこそは、いづくにも散りつつ広ごるべかめるを、人びとの心々に合はせたまへる、深さ浅さを、かぎあはせたまへるに、いと興あること多かり。
さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方、さいへども、心にくくしづやかなる匂ひ、ことなり。侍従は、大臣の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。
対の上の御は、三種ある中に、梅花、はなやかに今めかしう、すこしはやき心しつらひを添へて、めづらしき薫り加はれり。
「このころの風にたぐへむには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」
とめでたまふ。
夏の御方には、人びとの、かう心々に挑みたまふなる中に、数々にも立ち出でずやと、煙をさへ思ひ消えたまへる御心にて、ただ荷葉を一種合はせたまへり。さま変はりしめやかなる香して、あはれになつかし。
冬の御方にも、時々によれる匂ひの定まれるに消たれむもあいなしと思して、薫衣香の方のすぐれたるは、前の朱雀院のをうつさせたまひて、公忠朝臣の、ことに選び仕うまつれりし百歩の方など思ひ得て、世に似ずなまめかしさを取り集めたる、心おきてすぐれたりと、いづれをも無徳ならず定めたまふを、
「心ぎたなき判者なめり」
と聞こえたまふ。
月さし出でぬれば、大御酒など参りて、昔の御物語などしたまふ。霞める月の影心にくきを、雨の名残の風すこし吹きて、花の香なつかしきに、御殿のあたり言ひ知らず匂ひ満ちて、人の御心地いと艶あり。
蔵人所の方にも、明日の御遊びのうちならしに、御琴どもの装束などして、殿上人などあまた参りて、をかしき笛の音ども聞こゆ。
内の大殿の頭中将、弁少将なども、見参ばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴ども召す。
宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴参りて、頭中将、和琴賜はりて、はなやかに掻きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。宰相中将、横笛吹きたまふ。折にあひたる調子、雲居とほるばかり吹きたてたり。弁少将、拍子取りて、「梅が枝」出だしたるほど、いとをかし。童にて、韻塞ぎの折、「高砂」謡ひし君なり。宮も大臣もさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしき夜の御遊びなり。
御土器参るに、宮、
「鴬の声にやいとどあくがれむ
心しめつる花のあたりに
千代も経ぬべし」
と聞こえたまへば、
「色も香もうつるばかりにこの春は
花咲く宿をかれずもあらなむ」
頭中将に賜へば、取りて、宰相中将にさす。
「鴬のねぐらの枝もなびくまで
なほ吹きとほせ夜半の笛竹」
宰相中将、
「心ありて風の避くめる花の木に
とりあへぬまで吹きや寄るべき
情けなく」
と、皆うち笑ひたまふ。弁少将、
「霞だに月と花とを隔てずは
ねぐらの鳥もほころびなまし」
まことに、明け方になりてぞ、宮帰りたまふ。御贈り物に、みづからの御料の御直衣の御よそひ一領、手触れたまはぬ薫物二壺添へて、御車にたてまつらせたまふ。宮、
「花の香をえならぬ袖にうつしもて
ことあやまりと妹やとがめむ」
とあれば、
「いと屈したりや」
「めづらしと故里人も待ちぞ見む
花の錦を着て帰る君
またなきことと思さるらむ」
とあれば、いといたうからがりたまふ。次々の君達にも、ことことしからぬさまに、細長、小袿などかづけたまふ。
かくて、西の御殿に、戌の時に渡りたまふ。宮のおはします西の放出をしつらひて、御髪上の内侍なども、やがてこなたに参れり。上も、このついでに、中宮に御対面あり。御方々の女房、押しあはせたる、数しらず見えたり。
子の時に御裳たてまつる。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたしと、宮は見たてまつれたまふ。大臣、
「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられはべるなり。後の世のためしにやと、心狭く忍び思ひたまふる」
など聞こえたまふ。宮、
「いかなるべきこととも思うたまへ分きはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか心おかれぬべく」
と、のたまひ消つほどの御けはひ、いと若く愛敬づきたるに、大臣も、思すさまにをかしき御けはひどもの、さし集ひたまへるを、あはひめでたく思さる。母君の、かかる折だにえ見たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参う上らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて、過ぐしたまひつ。
かかる所の儀式は、よろしきにだに、いとこと多くうるさきを、片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かず。
春宮の御元服は、二十余日のほどになむありける。いと大人しくおはしませば、人の女ども競ひ参らすべきことを、心ざし思すなれど、この殿の思しきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてや交じらはむと、左の大臣なども、思しとどまるなるを聞こしめして、
「いとたいだいしきことなり。宮仕への筋は、あまたあるなかに、すこしのけぢめを挑まむこそ本意ならめ。そこらの警策の姫君たち、引き籠められなば、世に映えあらじ」
とのたまひて、御参り延びぬ。次々にもとしづめたまひけるを、かかるよし所々に聞きたまひて、左大臣殿の三の君参りたまひぬ。麗景殿と聞こゆ。
この御方は、昔の御宿直所、淑景舎を改めしつらひて、御参り延びぬるを、宮にも心もとながらせたまへば、四月にと定めさせたまふ。御調度どもも、もとあるよりもととのへて、御みづからも、ものの下形、絵様などをも御覧じ入れつつ、すぐれたる道々の上手どもを召し集めて、こまかに磨きととのへさせたまふ。
草子の筥に入るべき草子どもの、やがて本にもしたまふべきを選らせたまふ。いにしへの上なき際の御手どもの、世に名を残したまへるたぐひのも、いと多くさぶらふ。
「よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなむ、今の世はいと際なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心ゆたかならず、一筋に通ひてなむありける。
妙にをかしきことは、外よりてこそ書き出づる人びとありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集へたりしなかに、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書いたまへりし一行ばかり、わざとならぬを得て、際ことにおぼえしはや。
さて、あるまじき御名も立てきこえしぞかし。悔しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。宮にかく後見仕うまつることを、心深うおはせしかば、亡き御影にも見直したまふらむ。
宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらむ」
と、うちささめきて聞こえたまふ。
「故入道宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞすくなかりし。
院の尚侍こそ、今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは、書きたまはめ」
と、聴しきこえたまへば、
「この数には、まばゆくや」
と聞こえたまへば、
「いたうな過ぐしたまひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真名のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそ混じるめれ」
とて、まだ書かぬ草子ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせたまふ。
「兵部卿宮、左衛門督などにものせむ。みづから一具は書くべし。けしきばみいますがりとも、え書き並べじや」
と、われぼめをしたまふ。
墨、筆、並びなく選り出でて、例の所々に、ただならぬ御消息あれば、人びと、難きことに思して、返さひ申したまふもあれば、まめやかに聞こえたまふ。高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしきを、
「この、もの好みする若き人びと、試みむ」
とて、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、
「葦手、歌絵を、思ひ思ひに書け」
とのたまへば、皆心々に挑むべかめり。
例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。花ざかり過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古き言どもなど思ひすましたまひて、御心のゆく限り、草のも、ただのも、女手も、いみじう書き尽くしたまふ。
御前に人しげからず、女房二、三人ばかり、墨など擦らせたまひて、ゆゑある古き集の歌など、いかにぞやなど選り出でたまふに、口惜しからぬ限りさぶらふ。
御簾上げわたして、脇息の上に草子うち置き、端近くうち乱れて、筆の尻くはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なくめでたし。白き赤きなど、掲焉なる枚は、筆とり直し、用意したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御ありさまなり。
「兵部卿宮渡りたまふ」と聞こゆれば、おどろきて、御直衣たてまつり、御茵参り添へさせたまひて、やがて待ち取り、入れたてまつりたまふ。この宮もいときよげにて、御階さまよく歩み昇りたまふほど、内にも人びとのぞきて見たてまつる。うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。
「つれづれに籠もりはべるも、苦しきまで思うたまへらるる心ののどけさに、折よく渡らせたまへる」
と、よろこびきこえたまふ。かの御草子待たせて渡りたまへるなりけり。やがて御覧ずれば、すぐれてしもあらぬ御手を、ただかたかどに、いといたう筆澄みたるけしきありて書きなしたまへり。歌も、ことさらめき、そばみたる古言どもを選りて、ただ三行ばかりに、文字少なに好ましくぞ書きたまへる。大臣、御覧じ驚きぬ。
「かうまでは思ひたまへずこそありつれ。さらに筆投げ捨てつべしや」
と、ねたがりたまふ。
「かかる御中に面なくくだす筆のほど、さりともとなむ思うたまふる」
など、戯れたまふ。
書きたまへる草子どもも、隠したまふべきならねば、取う出たまひて、かたみに御覧ず。
唐の紙の、いとすくみたるに、草書きたまへる、すぐれてめでたしと見たまふに、高麗の紙の、肌こまかに和うなつかしきが、色などははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめて書きたまへる、たとふべきかたなし。
見たまふ人の涙さへ、水茎に流れ添ふ心地して、飽く世あるまじきに、また、ここの紙屋の色紙の、色あひはなやかなるに、乱れたる草の歌を、筆にまかせて乱れ書きたまへる、見所限りなし。しどろもどろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見やりたまはず。
左衛門督は、ことことしうかしこげなる筋をのみ好みて書きたれど、筆の掟て澄まぬ心地して、いたはり加へたるけしきなり。歌なども、ことさらめきて、選り書きたり。
女の御は、まほにも取り出でたまはず。斎院のなどは、まして取う出たまはざりけり。葦手の草子どもぞ、心々にはかなうをかしき。
宰相中将のは、水の勢ひ豊に書きなし、そそけたる葦の生ひざまなど、難波の浦に通ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう澄みたるところあり。また、いといかめしう、ひきかへて、文字やう、石などのたたずまひ、好み書きたまへる枚もあめり。
「目も及ばず。これは暇いりぬべきものかな」
と、興じめでたまふ。何事ももの好みし、艶がりおはする親王にて、いといみじうめできこえたまふ。
今日はまた、手のことどものたまひ暮らし、さまざまの継紙の本ども、選り出でさせたまへるついでに、御子の侍従して、宮にさぶらふ本ども取りに遣はす。
嵯峨の帝の、『古万葉集』を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、
「尽きせぬものかな。このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ」
など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。
「女子などを持てはべらましにだに、をさをさ見はやすまじきには伝ふまじきを、まして、朽ちぬべきを」
など聞こえてたてまつれたまふ。侍従に、唐の本などのいとわざとがましき、沈の筥に入れて、いみじき高麗笛添へて、奉れたまふ。
またこのころは、ただ仮名の定めをしたまひて、世の中に手書くとおぼえたる、上中下の人びとにも、さるべきものども思しはからひて、尋ねつつ書かせたまふ。この御筥には、立ち下れるをば混ぜたまはず、わざと、人のほど、品分かせたまひつつ、草子、巻物、皆書かせたてまつりたまふ。
よろづにめづらかなる御宝物ども、人の朝廷までありがたげなる中に、この本どもなむ、ゆかしと心動きたまふ若人、世に多かりける。御絵どもととのへさせたまふ中に、かの『須磨の日記』は、末にも伝へ知らせむと思せど、「今すこし世をも思し知りなむに」と思し返して、まだ取り出でたまはず。
内の大臣は、この御いそぎを、人の上にて聞きたまふも、いみじう心もとなく、さうざうしと思す。姫君の御ありさま、盛りにととのひて、あたらしううつくしげなり。つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき御嘆きぐさなるに、かの人の御けしき、はた、同じやうになだらかなれば、「心弱く進み寄らむも、人笑はれに、人のねむごろなりしきざみに、なびきなましかば」など、人知れず思し嘆きて、一方に罪をもおほせたまはず。
かくすこしたわみたまへる御けしきを、宰相の君は聞きたまへど、しばしつらかりし御心を憂しと思へば、つれなくもてなし、しづめて、さすがに他ざまの心はつくべくもおぼえず、心づから戯れにくき折多かれど、「浅緑」聞こえごちし御乳母どもに、納言に昇りて見えむの御心深かるべし。
大臣は、「あやしう浮きたるさまかな」と、思し悩みて、
「かのわたりのこと、思ひ絶えにたらば、右大臣、中務宮などの、けしきばみ言はせたまふめるを、いづくも思ひ定められよ」
とのたまへど、ものも聞こえたまはず、かしこまりたる御さまにてさぶらひたまふ。
「かやうのことは、かしこき御教へにだに従ふべくもおぼえざりしかば、言まぜま憂けれど、今思ひあはするには、かの御教へこそ、長き例にはありけれ。
つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきことにありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。
いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけなくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。
位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。
さるまじきことに心をつけて、人の名をも立て、みづからも恨みを負ふなむ、つひのほだしとなりける。とりあやまりつつ見む人の、わが心にかなはず、忍ばむこと難き節ありとも、なほ思ひ返さむ心をならひて、もしは親の心にゆづり、もしは親なくて世の中かたほにありとも、人柄心苦しうなどあらむ人をば、それを片かどに寄せても見たまへ。わがため、人のため、つひによかるべき心ぞ深うあるべき」
など、のどやかにつれづれなる折は、かかる御心づかひをのみ教へたまふ。
かやうなる御諌めにつきて、戯れにても他ざまの心を思ひかかるは、あはれに、人やりならずおぼえたまふ。女も、常よりことに、大臣の思ひ嘆きたまへる御けしきに、恥づかしう、憂き身と思し沈めど、上はつれなくおほどかにて、眺め過ぐしたまふ。
御文は、思ひあまりたまふ折々、あはれに心深きさまに聞こえたまふ。「誰がまことをか」と思ひながら、世馴れたる人こそ、あながちに人の心をも疑ふなれ、あはれと見たまふふし多かり。
「中務宮なむ、大殿にも御けしき賜はりて、さもやと、思し交はしたなる」
と人の聞こえければ、大臣は、ひき返し御胸ふたがるべし。忍びて、
「さることをこそ聞きしか。情けなき人の御心にもありけるかな。大臣の、口入れたまひしに、執念かりきとて、引き違へたまふなるべし。心弱くなびきても、人笑へならましこと」
など、涙を浮けてのたまへば、姫君、いと恥づかしきにも、そこはかとなく涙のこぼるれば、はしたなくて背きたまへる、らうたげさ限りなし。
「いかにせまし。なほや進み出でて、けしきをとらまし」
など、思し乱れて立ちたまひぬる名残も、やがて端近う眺めたまふ。
「あやしく、心おくれても進み出でつる涙かな。いかに思しつらむ」
など、よろづに思ひゐたまへるほどに、御文あり。さすがにぞ見たまふ。こまやかにて、
「つれなさは憂き世の常になりゆくを
忘れぬ人や人にことなる」
とあり。「けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ」と、思ひ続けたまふは憂けれど、
「限りとて忘れがたきを忘るるも
こや世になびく心なるらむ」
とあるを、「あやし」と、うち置かれず、傾きつつ見ゐたまへり。
【出典】
出典1 梅の花立ち寄るばかりありしより人の咎むる香にぞ染みぬる(古今集春上-三五 読人しらず)(戻)
出典2 君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(古今集春上-三八 紀友則)(戻)
出典3 花の香を風の便りにたぐへてぞ鴬誘ふしるべにはやる(古今集春上-一三 紀友則)(戻)
出典4 梅が枝に 来居る鴬 や 春かけて はれ 春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ あはれ そこよしや 雪は降りつつ(催馬楽-梅が枝)(戻)
出典5 いつまでか野辺に心のあくがれむ花し散らずは千代も経ぬべし(古今集春下-九六 素性法師)(戻)
出典6 亡き人の書きとどめけむ水茎はうち見るよりぞ流れそめける(歌仙家集本伊勢集-三八五)亡き人の影だに見えぬ遣水の底は涙に流してぞ来し(後撰集哀傷-一四〇二 伊勢)(戻)
出典7 まめなれど良き名も立たず刈萱のいざ乱れなむしどろもどろに(古今六帖六-三七八五)(戻)
出典8 ありぬやと心見がてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧-一〇二五 読人しらず)(戻)
出典9 葦根這ふ憂きは上こそつれなけれ下はえならず思ふ心を(拾遺集恋四-八九三 読人しらず)(戻)
出典10 偽りと思ふものから今さらに誰が真をか我は頼まむ(古今集恋四-七一三 読人しらず)(戻)
【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 承和--そうわう(そうわう/$承和)(戻)
校訂2 御あらそひ--御あらひ(ひ/$<朱>)そひ(戻)
校訂3 かのこと、と--かの(の/+ことゝ<朱>)(戻)
校訂4 たまふる--給(給/+る<朱>)頼(頼/$<朱>)(戻)
校訂5 埋ませ--うつさ(さ/$ま)せ(戻)
校訂6 御は--御(御/+は)(戻)
校訂7 箏の--さう(う/+の)(戻)
校訂8 いと--(/+いと<朱>)(戻)
校訂9 追ひて--せ(せ/$を)いて(戻)
校訂10 左大臣殿の--*左大臣殿(戻)
校訂11 聞こゆ--*きこゆる(戻)
校訂12 兵部卿宮--兵部卿の宮の(の/$)(戻)
校訂13 浅緑--あさみとか(か/$り<朱>)(戻)
校訂14 げに--(/+けに)(戻)
校訂15 たまふる--たも(も/$ま)ふる(戻)
校訂16 いと--(/+いと<朱>)(戻)
校訂17 心に--(/=心に)(戻)
校訂18 ものせ--(/=物)せ(戻)
源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
大島本
自筆本奥入