薫君の中納言時代二十五歳春の物語
第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活
[第二段 中君、阿闍梨に返事を書く]
大事と思って詠み出したのだろう、とお思いになると、歌の気持ちもまことにしみじみとして、いい加減で、そうたいしてお思いでないように見える言葉を、素晴らしく好ましそうにお書き尽くしなさる方のお手紙よりも、この上なく目が止まって、涙も自然とこぼれてくるので、返事を、お書かせになる。
「今年の春は誰にお見せしましょうか
亡きお方の形見として摘んだ峰の早蕨を」
使者に禄を与えさせなさる。
まことに盛りではなやいでいらっしゃる方で、いろいろなお悲しみに、少し面痩せしていらっしゃるのが、とても上品で優美な感じがまさって、故人にも似ていらっしゃった。お揃いでいらっしゃったときは、それぞれ素晴らしく、全然似ていらっしゃるとも見えなかったが、ふと忘れては、その人かと思われるまで似ていらっしゃるのを、
「中納言殿が亡骸だけでも残って拝見できるものであったらと、朝夕にお慕い申し上げていらっしゃるようだが、同じことなら、結ばれなさるご運命でなかったことよ」
と、拝する女房たちは残念がっている。
あの御あたりの人が通って来る便りに、ご様子は常にお互いにお聞きなさっていたのであった。いつまでもぼうっとしていらして、「新年になっても相変わらず、悲しそうな涙顔に、なっていらっしゃる」とお聞きになっても、「なるほど、一時の浮ついたお心ではいらっしゃらなかったのだ」と、ますます今となって愛情も深かったのだと、思い知られる。
宮は、お越しになることがまことに自由に振る舞えず機会がないので、「京にお移し申そう」とご決意なさっていた。
[第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問]
内宴など、何かと忙しい時期を過ごして、中納言の君が、「心におさめかねていることを、また他に誰に話せようか」とお思い余って、兵部卿宮の御方に参上なさった。
しんみりとした夕暮なので、宮は物思いに耽っておいでになって、端近くにいらっしゃった。箏のお琴を掻き鳴らしながら、いつものように、お気に入りの梅の香を賞美しておいでになる、その下枝を手折って参上なさったが、匂いがたいそう優雅で素晴らしいのを、折柄興あることにお思いになって、
「折る人の心に通っている花なのだろうか
表には現さないで内に匂いを含んでいる」
とおっしゃるので、
「見る人に言いがかりをつけられる花の枝は
注意して折るべきでした
迷惑なことです」
と冗談を言い交わしなさっているが、実にも仲好いお二方である。
こまごまとしたお話になってからは、あの山里の御事を、まずはどうしているかと、宮はお尋ね申し上げなさる。中納言も、亡くなった方のことが諦めようもなく悲しいことを、その当時から今日までの思いの断ち切れないことを、四季折々につけて、悲しいことや風流なことを、悲喜こもごもとか言うように、申し上げなさると、それ以上にあれほど色っぽく涙もろいご性癖は、人のお身の上のことでさえ、袖をしぼるほどになって、話しがいがあるようにお答えなさっているようである。
[第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う]
空の様子もまた、なるほど心を知っているかのように霞わたっていた。夜になって烈しく吹き出した風の様子、まだ冬らしくてまこと寒そうで、大殿油も消え消えし、闇は梅の香を隠せず匂っているが、互いにそのままお話をやめることもなさらず、尽きないお話を心ゆくまでお話しきれないで、夜もたいそう更けてしまった。
世にも稀な二人の仲のよさを、「さあ、そうはいっても、とてもそんなばかりではなかったでしょう」と、隠しているものがあるようにお尋ねになるのは、理不尽なご性癖のせいである。そうは言っても、物事をよくお分かりになって、悲しい心の中を晴れるように、一方では慰めもし、また悲しみを忘れさせ、いろいろとお語らいになる、そのご様子の魅力にお引かれ申して、なるほど、心に余るほどに鬱積していたことがらを、少しずつお話し申し上げなさるのは、この上なく心が晴れ晴れする気がなさる。
宮も、あの方を近々お移し申そうとすることについて、ご相談申し上げなさるのを、
「まことに嬉しいことでございますね。不本意ながら、わたしの過失と存じておりました諦め切れない故人の縁者を、また他に訪ねるべき人もございませんので、後見一般としては、どのようなことでも、お世話申し上げるべき人と存じておりますが、もし不都合なこととお思いになりましょうか」
と言って、あの、「他人とお思いくださるな」と、お譲りになったお心向けをも、少しお話し申し上げなさるが、岩瀬の森の呼子鳥めいた夜のことは、話さずにいたのであった。心の中では、「このように慰めがたい形見にも、なるほど、おっしゃったように、このようにお世話申し上げるべきであった」と、悔しさがだんだんと高じてゆくが、今では甲斐のないゆえに、「常にこのようにばかり思っていたら、とんでもない料簡が出て来るかもしれない。誰にとってもつまらなく、馬鹿らしいことだろう」と思い諦める。「それにしても、お移りになるにしても、ほんとうにご後見申し上げる人は、わたし以外に誰がいようか」とお思いになるので、お引越しの準備を用意おさせになる。
[第五段 中君、姉大君の服喪が明ける]
あちらでも、器量の良い若い女房や童女などを雇って、女房たちは満足げに準備しているが、今を最後とこの伏見ならぬ宇治を荒らしてしまうのも、たいそう心細いので、お嘆きになること尽きないが、だからといって、また気負い立って強情を張って、閉じ籠もっていてもどうしようもなく、「浅くない縁が、絶え果ててしまいそうなお住まいなのに、どういうおつもりですか」とばかり、お恨み申し上げなさるのも、少しは道理なので、どうしたらよいだろう、と思案なさっていた。
二月の上旬頃にというので、間近になるにつれて、花の木の蕾みがふくらんでくるのもその後が気になって、「峰に霞が立つのを見捨てて行くことも、自分の常住の住まいでさえない旅寝のようで、どんなに体裁悪く物笑いになっては」などと、万事に気がひけて、一人思案に暮れて過ごしていらっしゃる。
御服喪も、期限があることなので、脱ぎ捨てなさるのに、禊も浅い気がする。母親は、お顔を存じ上げていないので、恋しいとも思われない。そのお代わりにも、今回の喪服の色を濃く染めようと、心にお思いになりおっしゃりもしたが、はやり、そのような理由もないことなので、物足りなく悲しいことは限りがない。
中納言殿から、お車や、御前の供人や、博士などを差し向けなさった。
「早いものですね、霞の衣を作ったばかりなのに
もう花が綻ぶ季節となりました」
なるほど、色とりどりにたいそう美しくして差し上げなさった。お引越しの時のお心づけなど、仰々しくない物で、それぞれの身分に応じていろいろと考えて、とても多かった。
「何かにつけて、忘れず気のつくご好意をありがたく、兄弟などでさえ、とてもこうまではいらっしゃらないことだ」
などと、女房たちはお教え申し上げる。ぱっとしない老女房連中の考えとしては、このような点を身にしみて申し上げる。若い女房は、時々拝見し馴れているので、今を限りに縁遠くおなりになるのを、物足りなく、「どんなに恋しくお思いなされるでしょう」とお噂し合っていた。
[第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問]
ご自身は、お移りになることが明日という日の、まだ早朝においでになった。いつものように、客人席にお通りになるにつけても、今は、だんだん何にも馴れて、「自分こそ、誰よりも先に、このように思っていたのだ」などと、生前のご様子や、おっしゃったお気持ちをお思い出しになって、「それでも、よそよそしく、思いの外になどとは、おあしらいなさらなかったが、自分のほうから、妙に他人で終わることになってしまったな」と、胸痛くお思い続けなさる。
垣間見した襖障子の穴も思い出されるので、近寄って御覧になるが、部屋の中が閉めきってあるので、何にもならない。
部屋の中でも、女房たちはお思い出し申し上げながら涙ぐんでいた。中の宮は、女房たち以上に、催される涙の川で、明日の引っ越しもお考えになれず、茫然として物思いに沈んで臥せっておいでになるので、
「幾月ものご無沙汰の間に積もりましたお話も、何ということございませんが、鬱々としておりましたので、少しでもお晴らし申し上げて、気を紛らわせたく存じます。いつものように、きまり悪く他人行儀なさらないでください。ますます知らない世界に来た気が致します」
と申し上げなさると、
「体裁が悪いとお思い申されようとは思いませんが、それでも、気分もいつものようでなく、心も乱れ乱れて、ますますはきはきしない失礼を申し上げてはと、気がひけまして」
などと、つらそうにお思いになっているが、「お気の毒です」などと、あれこれ女房が申し上げるので、中の襖障子口でお会いなさった。
たいそうこちらが気恥ずかしくなるほど優美で、また「今度は、一段と立派におなりになった」と、目も驚くほどはなやかに美しく、「誰にも似ない心ばせなど、何とも、素晴らしい方だ」とばかりお見えになるのを、姫宮は、面影の離れない方の御事までお思い出し申し上げなさると、まことにしみじみとお会い申し上げなさる。
「つきないお話なども、今日は言忌みしましょうね」
などと言いさして、
「お移りになるはずの所の近くに、もう幾日かして移ることになっていますので、夜中も早朝もと、親しい間柄の人が言いますように、どのような機会にも、親しくお考えくださりおっしゃっていただければ、この世に生きております限りは、申し上げもし承りもして過ごしとうございますが、どのようにお考えでしょうか。人の考えはいろいろでございます世の中なので、かえって迷惑かなどと、独り決めもしかねるのです」
と申し上げなさると、
「邸を離れまいと思う考えは強うございますが、近くに、などとおっしゃって下さるにつけても、いろいろと思い乱れまして、お返事の申し上げようもなくて」
などと、言葉とぎれとぎれに言って、ひどく心に感じ入っていらっしゃる様子など、ひどくよく似ていらっしゃるのを、「自分から他人の妻にしてしまった」と思うと、とても悔しく思っていらっしゃるが、言っても効ないので、あの夜のことは何も言わず、忘れてしまったのかと見えるまで、きれいさっぱりと振る舞っていらっしゃった。
[第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す]
お庭前近い紅梅が、花も香もなつかしいので、鴬でさえ見過ごしがたそうに鳴いて飛び移るようなので、まして、「春や昔の」と心を惑わしなさるどうしのお話に、折からしみじみと心を打つのである。風がさっと吹いて入ってくると、花の香も客人のお匂いも、橘ではないが、昔が思い出されるよすがである。「所在ない気の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、
「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、嵐に吹き乱れる山里に
昔を思い出させる花の香が匂って来ます」
言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、
「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが
根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」
止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉数多くもなく、
「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」
などと、申し上げおいてお立ちになった。
お引越しに必要な支度を、人びとにお指図おきなさる。この邸の留守番役として、あの鬚がちの宿直人などが仕えることになっているので、この近辺の御荘園の者どもなどに、そのことをお命じになるなど、生活面の事まで定めおきなさる。
[第八段 薫、弁の尼と対面]
弁は、
「このようなお供にも、思いもかけず長生きがつらく思われますが、人も不吉に見たり思ったりするにちがいないでしょうから、今は世に生きている者とも人に知られますまい」
と言って、出家をしていたのを、しいて召し出して、まことにしみじみと御覧になる。いつものように、昔の思い出話などをおさせになって、
「ここには、やはり、時々参りましょうが、まことに頼りなく心細いので、こうしてお残りになるのは、まことにしみじみとありがたく嬉しいことです」
などと、最後まで言い終わらずにお泣きになる。
「厭わしく思えば思うほど長生きをする寿命がつらく、またどう生きよといって、先に逝っておしまいになったのか、と恨めしく、この世のすべてを情けなく思っておりますので、罪もどんなにか深い事でございましょう」
と、思っていたことをお訴え申し上げるのも、愚痴っぽいが、とてもよく言い慰めなさる。
たいそう年をとっているが、昔、美しかった名残の黒髪を削ぎ落としたので、額の具合、変わった感じに少し若くなって、その方面の身としては優美である。
「思いあぐねた果てに、どうしてこのような尼姿にして差し上げなかったのだろう。それによって寿命が延びるようなこともあったろうに。そうして、どんなに親密に語らい申し上げられたろうに」
などと、一方ならず思われなさると、この人までが羨ましいので、隠れている几帳を少し引いて、こまやかに語らいなさる。なるほど、すっかり悲しみに暮れている様子だが、何か言う態度、心づかいは、並々でなく、嗜みのあった女房の面影が残っていると見えた。
「先に立つ涙の川に身を投げたら
死に後れしなかったでしょうに」
と、泣き顔になって申し上げる。
「それもとても罪深いことです。彼岸に辿り着くことは、どうしてできようか。それ以外のことであってさえも、深い悲しみの底に沈んで生きてゆくのもつまらない。すべて、皆無常だと悟るべき世の中なのです」
などとおっしゃる。
「身を投げるという涙の川に沈んでも
恋しい折々を忘れることはできまい
いつになったら、少しは思いが慰むことがあろうか」
と、終わりのない気がなさる。
帰る気にもなれず物思いに沈んで、日も暮れてしまったが、わけもなく外泊するのも、人が咎めることであろうかと、仕方ないので、お帰りになった。
[第九段 弁の尼、中君と語る]
お悲しみなっておっしゃっていたご様子を話して、弁は、ますます慰めがたく悲しみに暮れていた。女房たちは満足そうな様子で、衣類を縫い用意しながら、年老いた容貌も気にせず、身づくろいにうろうろしている中で、ますます質素にして、
「人びとは皆準備に忙しく繕い物をしているようですが
一人藻塩を垂れて涙に暮れている尼の私です」
と訴え申し上げると、
「藻塩を垂れて涙に暮れるあなたと同じです
浮いた波に涙を流しているわたしは
結婚生活に入ることも、とてもできそうにないことと思われるので、事情によっては、ここを荒れはてさせまいと思うが、そうしたらお会いすることもありましょうが、暫くの間も、心細くお残りになるのを見ていると、ますます気が進みません。このような尼姿の人も、必ずしも引き籠もってばかりいないもののようですので、やはり世間一般の人のように考えて、時々会いに来てください」
などと、とてもやさしくお話しになる。亡き姉君がお使いになったしかるべきご調度類などは、みなこの尼にお残しになって、
「このように、誰よりも深く悲しんでおいでなのを見ると、前世からも、特別の約束がおありだっただろうかと思うのまでが、慕わしくしみじみ思われます」
とおっしゃると、ますます子供が親を慕って泣くように、気持ちを抑えることができず涙に沈んでいた。
[第二段 中君、京の二条院に到着]
宵が少し過ぎてお着きになった。見たこともない様子で、光り輝くような殿造りで、三棟四棟と建ち並んだ邸内にお車を引き入れて、宮は、早く早くとお待ちになっていたので、お車の側に、ご自身お寄りあそばしてお下ろし申し上げなさる。
お部屋飾りなども、善美を尽くして、女房の部屋部屋まで、お心配りなさっていらしたことがはっきりと窺えて、まことに理想的である。どの程度の待遇を受けるのかとお考えになっていたご様子が、急にこのようにお定まりになったので、「並々ならないご愛情なのだろう」と、世間の人びともどのような人かと驚いているのであった。
中納言は、三条宮邸に、今月の二十日過ぎにお移りになろうとして、最近は毎日いらっしゃっては御覧になっているが、この院が近い距離なので、様子も聞こうとして、夜の更けるまでいらっしゃったが、差し向けなさっていた御前の人々が帰参して、有様などをお話し申し上げる。
ひどくお気に召して大切にしていらっしゃるというのをお聞きになるにつけても、一方では嬉しく思われるが、やはり、自分の考えながら馬鹿らしく、胸がどきどきして、「取り返したいものだ」と、繰り返し独り言が出てきて、
「しなてる琵琶湖の湖に漕ぐ舟のように
まともではないが一夜会ったこともあったのに」
とけちをつけたくもなる。
[第三段 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す]
右の大殿は、六の君を宮に差し上げなさることを、今月にとお決めになっていたのに、このように意外な人を、婚儀より先にと言わんばかりに大事にお迎えになって、寄りつかずにいらっしゃるので、「たいそうご不快でおいでだ」とお聞きになるのも、お気の毒なので、お手紙は時々差し上げなさる。
御裳着の儀式を、世間の評判になるほど盛大に準備なさっているのを、延期なさるのも物笑いになるにちがいないので、二十日過ぎにお着せ申し上げなさる。
同じ一族で変わりばえがしないが、この中納言を他人に譲るのが残念なので、
「婿君としようか。長年人知れず恋い慕っていた人を亡くして、何となく心細く物思いに沈んでいらっしゃるというから」
などとお考えつきになって、しかるべき人を介して様子を窺わせなさったが、
「世の無常を目の前に見たので、まことに気が塞いで、身も不吉に思われますので、何としても何としても、そのようなことは気が進みません」
と、その気のない旨をお聞きになって、
「どうして、この君までが、真剣になって申し出る言葉を、気乗りしなくあしらってよいものか」
と恨みなさったが、親しいお間柄ながらも、人柄がたいそう気のおける方なので、無理にお勧め申し上げなさることができなかった。
[第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る]
花盛りのころ、二条院の桜を御覧になると、主人のいない山荘がさっそく思いやられなさるので、「気兼ねもなく散るのではないか」などと、独り口ずさみ思い余って、宮のお側に参上なさった。
こちらにばかりおいでになって、たいそうよく住みなれていらっしゃるので、「安心ことだ」と拝見するものの、例によって、どうかと思われる心が混じるのは、妙なことであるよ。けれども、本当のお気持ちは、とてもうれしく安心なことだとお思い申し上げなさるのであった。
何やかやとお話を申し上げなさって、夕方、宮は宮中へ参内なさろうして、お車の設えをさせて、お供の人びとが大勢集まって来たりなどしたので、お出になって、対の御方へ参上なさった。
山里の様子とは、うって変わって、御簾の中で奥ゆかしく暮らして、かわいらしい童女の、透影がちらっと見えた子を介して、ご挨拶申し上げなさると、お褥を差し出して、昔の事情を知っている人なのであろう、出て来てお返事を申し上げる。
「朝夕の区別もなくお訪ねできそうに存じられます近さですが、特に用事もなくてお邪魔いたすのも、かえってなれなれしいという非難を受けようかと、遠慮しておりましたところ、世の中が変わってしまった気ばかりがしますよ。お庭先の梢も霞を隔てて見えますので、胸の一杯になることが多いですね」
と申し上げて、物思いに耽っていらっしゃる様子、お気の毒なのを、
「おっしゃるとおり、生きていらしたら、何の気兼ねもなく行き来して、お互いに花の色や、鳥の声を、季節折々につけては、少し心をやって過すことができたのに」
などと、お思い出しなさるにつけて、一途に引き籠もって生活していらした心細さよりも、ひたすら悲しく、残念なことが、いっそうつのるのであった。
[第五段 匂宮、中君と薫に疑心を抱く]
女房たちも、
「世間一般の人のように、仰々しくお扱い申し上げなさいますな。この上ないご好意を、今こそ、拝見しご存知あそばしている様子を、お見せ申し上げる時です」
などと申し上げるが、人を介してではなく、直にお話し申し上げることは、やはり気が引けるので、ためらっていらっしゃるところに、宮が、お出かけになろうとして、お暇乞いの挨拶にお渡りになった。たいそう美しく身づくろいし化粧なさって、見栄えのするお姿である。
中納言はこちらに来ているのであった、と御覧になって、
「どうして、無愛想に遠ざけて、外にお座らせになっているのか。あなたには、あまりにどうかと思われるまでに、行き届いたお世話ぶりでしたのに。自分には愚かしいこともあろうか、と心配されますが、そうはいってもまったく他人行儀なのも、罰が当たろう。近い所で、昔話を語り合いなさい」
などと、申し上げなさるものの、
「そうはいっても、あまり気を許すのも、またどんなものかしら。疑わしい下心があるかもしれない」
と、言い直しなさるので、どちらの方に対しても厄介だけれども、自分の気持ちも、しみじみありがたく思われた方のお心を、今さらよそよそしくすべきことでもないので、「あの方が思いもしおっしゃりもするように、故姉君の身代わりとお思い申して、このように分かりましたと、お表し申し上げる機会があったら」とはお思いになるが、やはり、何やかやと、さまざまに心安からぬことを申し上げなさるので、つらく思われなさるのだった。
源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
注釈
大島本
自筆本奥入