設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
光る源氏 | ひかるげんじ | 光る源氏 中将 君 客人(まらうと) |
十七歳;近衛中将 |
頭中将 | とうのちゅうじょう | 宮腹の中将 中将 頭の君 君 |
主人公の義兄;妻葵の上の同母兄 |
左馬頭 | さまのかみ | 左馬頭 馬頭 |
左馬寮の長官 |
藤式部丞 | とうしきぶのじょう | 藤式部丞 式部 |
藤原の某;式部省の三等官 |
内気な女 | うちきなおんな | 常夏 |
のちの夕顔;頭中将との間に娘(玉鬘)をもうける |
紀伊守 | きいのかみ | 紀伊守 主人 守 朝臣 |
伊予介の子;空蝉の継子 |
空蝉 | うつせみ | 姉なる人 姉君 いもうと 女君 女 継母 |
紀伊守の継母;小君の姉;伊予介の後妻;故中納言兼衛門督の娘 |
小君 | こぎみ | 中納言の子 小君 |
故中納言兼衛門督の子;空蝉の弟 |
第一帖 桐壺 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 光る源氏前史の物語 |
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第一段 父帝と母桐壺更衣の物語 |
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1.1.1 | どの帝の御代であったか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていたなかに、たいして高貴な身分ではない方で、きわだって御寵愛をあつめていらっしゃる方があった。 |
どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。 |
【いづれの御時にか】- 「御」は「おほむ」と読む。「御 オヽム オホム」(色葉字類抄〔院政期〕)。「御時」は、ご治世の意味。「帝の」の意が省略されている。係助詞「か」(疑問の意、自問のニュアンス)は下に「ありけむ」などの語句が省略された形。 【女御、更衣】- この物語では、「女御(にようご)」は大臣(従二位)や親王の娘が、「更衣(かうい)」には大納言(正三位)以下の殿上人(昇殿を許された五位及び六位蔵人)以上の娘がなる。皇后または中宮について触れられていないことは、まだそれが空位であることをほのめかす。 【さぶらひたまひけるなかに】- 「さぶらふ」は「あり」の謙譲語。お仕えする。伺候する。尊敬の補助動詞「たまふ」(四段)は「女御」にあわせて付けられたもの。 【いとやむごとなき際にはあらぬが】- 「いと---ぬ」(打消の助動詞)は、「たいして--ではない」の意になる。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。「が」(格助詞)は主格の意で、以下の「時めきたまふ」の主語となるので、その間に「方」などの語が省略された形。文脈上、「--で」と同格のようになる。 【時めきたまふありけり】- 「たまふ」(連体形)の下には、「方」などの語が省略されている。『新大系』は「「ありけり」は竹取物語や伊勢物語の冒頭部にも見え、「おったという」あるいは「今にありきたる」と、人物の登場を示す言い回し。桐壺更衣の紹介である」と注す。「けり」(過去の助動詞)は、同じく過去の助動詞「き」がその事象が過去にあったことまたはその人にとって過去に体験されたことなどを表すことに重点があるのに対して、過去の事象や記憶というものを現在に呼び起こし、それをそうと認識するとともにまた他人の前にそれをそうと提示しようとする意識の反映があることに重点のある表現である。「寵愛を蒙っていらっしゃる人がいたのである」というニュアンス。そして、以下の文章は、「けり」の付かない、いわゆる現在時制で語られていくというしくみである。 |
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1.1.2 | 最初から自分こそはと気位い高くいらっしゃった女御方は、不愉快な者だと見くだしたり嫉んだりなさる。 同じ程度の更衣や、その方より下の更衣たちは、いっそう心穏やかでない。 |
最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に恃む所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった。 |
【はじめより】- 入内当初から。 【思ひ上がりたまへる御方がた】- 「思ひ上がる」は「古くは、自惚れる、つけ上がるの意はなく、誇りを高く持って、低俗なるものを排し、より高貴であろうとする意欲を持つ意に用いられた」(小学館古語大辞典)。「御方がた」は女御たちをさす。 【めざましきものにおとしめ嫉みたまふ】- 目的語は「いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふ」方を。以下、助動詞「けり」を伴わない文が続き、一気に物語の渦中に入る。 【同じほど、それより下臈の更衣たち】- この物語の女主人公は中臈以上の更衣と知られる。 【まして】- 「やすからず」の度合についていう。女御たち以上に心穏やかでない。女御たちのような寵愛を期待できないからである。 |
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1.1.3 | 朝晩のお側仕えにつけても、他の妃方の気持ちを不愉快ばかりにさせ、嫉妬を受けることが積もり積もったせいであろうか、とても病気がちになってゆき、何となく心細げに里に下がっていることが多いのを、ますますこの上なく不憫な方とおぼし召されて、誰の非難に対してもおさし控えあそばすことがおできになれず、後世の語り草にもなってしまいそうなお扱いぶりである。 |
夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて口惜しがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がっていがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子で、人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。御聖徳を伝える歴史の上にも暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった。 |
【朝夕の宮仕へにつけても】- 「明ければ退下、暮れればまた参上とお側仕へをするにつけても」(今泉忠義訳)。帝の寝所に侍ること。「入内」(宮中に入ること、すなわち結婚)を「宮仕へ」といった。 【恨みを負ふ積もり】- 「負ふ」(連体形)+「積もり」(名詞)。「恨みを負うことが、積もり積もった」という意。『休聞抄』は「あしかれと思はぬ山の峰にだにおふなる物を人の嘆きは」(悪いやつだと思ってもいない山の峰にさえ人の嘆き(=木)は生えると言いうのに)(詞花集雑上 三三二 和泉式部)を指摘したが、別本の陽明文庫本には「うらみ」に対して「なけき」という異文があり、それならばことばが一致する。 【にやありけむ】- 「に」(断定の助動詞)、「や」(係助詞、疑問)、「けむ」(過去推量の助動詞)、「積もり積もったのであろうか」の推量する人は、語り手。前の「恨みを負う」までが、物語の伝承的事実。「にやありけむ」は、この物語筆記編集者の物語世界に対する推量。読点で区切って文意の相違を示した。 【篤しく】- 衰弱がひどいさま。明融臨模本は「異例也」という注記と「つ」の左下に後世の筆になる濁点を表す二つの丸印が付いている。『岩波古語辞典』では、「金剛般若経集験記」の平安初期訓「アツシ」の他に院政期の「三蔵法師伝点」と『名義抄』の訓点「アヅシ」を掲載し、「その頃、アヅシの形もあった」と指摘。『小学館古語大辞典』でも「当時第二音節は濁音であったようだ」と記す。『集成』『古典セレクション』では「あつしく」と清音で読むが、『新大系』では「あづしく」と濁音で読む。 【いよいよあかずあはれなるものに思ほして】- 主語は帝。 【え憚らせたまはず】- 副詞「え」は下に打消の語を伴って、不可能の意を表す。「せたまはず」は帝に対して用いられた最高敬語。 【なりぬべき】- 「ぬ」(完了の助動詞、確述)+「べし」(推量の助動詞、推量)、「きっとなってしまいそうな」の意。予想される結果や事態が無作為的・自然的に起こるニュアンス。 |
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1.1.4 | 上達部や殿上人なども、人ごとながら目をそらしそらしして、「とても眩しいほどの御寵愛である。 |
高官たちも殿上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。 |
【上達部、上人】- 「上達部(かんだちめ)」は大臣・大中納言・参議および三位以上の人。「上人(うへびと)」は殿上人のことで、清涼殿の殿上の間に上がることを許された人。さらに院の御所・春宮御所に上がることを許された人をもいう。普通、上達部以外の四位・五位の者の一部、六位の蔵人をいう。 【あいなく目を側めつつ】- 「あいなく」(本来何の関係もないのに、の意)は、この物語筆記編集者の感想が交えられた表現。『異本紫明抄』は「目を側め」の表現に「京師長吏為之側目」<京師の長吏之が為に目を側む>(白氏文集巻第十二 長恨歌伝 陳鴻)を指摘。「そばめ」は、横目で睨む意と視線を逸らす意とがある。ここでは横目でちらりと注視したり、あるいは目を逸らしたり、という両義があろう。 【いとまばゆき】- 以下「悪しかりけれ」まで、上達部や殿上人の噂。 【人の御おぼえなり】- 「御おぼえの人なり」と同じだが、特に「御おほえ」を強調させた表現。 |
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1.1.5 | 唐国でも、このようなことが原因となって、国も乱れ、悪くなったのだ」と、しだいに国中でも困ったことの、人々のもてあましの種となって、楊貴妃の例までも引き合いに出されそうになってゆくので、たいそういたたまれないことが数多くなっていくが、もったいない御愛情の類のないのを頼みとして宮仕え生活をしていらっしゃる。 |
唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸されたなどと蔭ではいわれる。今やこの女性が一天下の煩いだとされるに至った。馬嵬の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。 |
【唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ】- 『源氏釈』は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃との故事を指摘。青表紙本の「あしかりけれ」は、やや不安定な感じを残す表現である。別本の御物本は「あしかりけれは」、陽明文庫本は「あしきこともいてきけれともてなやむほとに」、国冬本は「あしくはなりけれと」とある。「出で来」または「なる」などの語があると落ち着く。『源氏釈』所引「源氏物語」本文でも「もろこしにもかゝることにこそよはみたれあしきこともいてくれ」(冷泉家本)、「もろこしにもかゝることにてこそ世はみたれあしき事はいてきけれ」(前田家本)などとある。 【楊貴妃の例】- 先に「唐土(もろこし)にも」とあったが、ここで初めて「楊貴妃」の名を明かす。 【引き出でつべく】- 「つ」(完了の助動詞、確述)+「べし」(推量の助動詞、推量)、「きっと引き合いに出されそうな」の意。予想される結果や事態が作為的・人為的に起こるニュアンス。 【かたじけなき御心ばへのたぐひなきを】- 「かたじけなき御心ばへ」と「たぐひなき(御心ばへ)を」は同格の構文。 【まじらひたまふ】- 宮仕え生活。帝の妃としての朝晩のお側仕え、他の女御更衣たちや廷臣たちとの社交生活をさす。 |
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1.1.6 | 父親の大納言は亡くなって、母親の北の方が古い家柄の人の教養ある人なので、両親とも揃っていて、今現在の世間の評判が勢い盛んな方々にもたいしてひけをとらず、どのような事柄の儀式にも対処なさっていたが、これといったしっかりとした後見人がいないので、こと改まった儀式の行われるときには、やはり頼りとする人がなく心細い様子である。 |
父の大納言はもう故人であった。母の未亡人が生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢カのある派手な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者を持たぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。 |
【父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて】- 桐壺更衣の家系は、父親が大納言。大臣に次ぐ、太政官の次官。正三位相当。しかし既に没している。母親は、由緒ある旧家の出で、教養のある人。兄弟について語られていないのは、はかばかしい人がいなかったことによる。「にしへの人のよしあるにて」は「にしへの人のよしある(人)にて」の文脈で「にしへの人」と「よしある(人)」は同格の構文。「にて」連語(断定の助動詞「なり」の連用形「に」+接続助詞「て」)なので、の意。『新大系』は「何氏か不明。大納言で亡くなったことは没落を暗示するか。のちに出る紫上の故母の父も亡き大納言である点が類型的である」と注す。 【いたう劣らず】- 「いたく」副詞。下に打消、または禁止の語を伴って、それほど、たいして、の意を表す。「いたく」は平安時代から鎌倉時代にかけての和文に用いられた(小学館古語大辞典)。 【後見しなければ】- 副助詞「し」強調の意。形容詞「なけれ」已然形+接続助詞「ば」は順接の確定条件を表す。後見人がいないので。 |
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第二段 御子誕生(一歳) |
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1.2.1 | 前世でも御宿縁が深かったのであろうか、この世にまたとなく美しい玉のような男の御子までがお生まれになった。 早く早くとじれったくおぼし召されて、急いで参内させて御覧あそばすと、たぐい稀な嬰児のお顔だちである。 |
前生の縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。寵姫を母とした御子を早く御覧になりたい思召しから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子を宮中へお招きになった。小皇子はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。 |
【先の世にも御契りや深かりけむ】- 「や」(係助詞、疑問)、「けむ」(過去推量の助動詞)、疑問の主体者は語り手。語り手の物語登場人物たちへの推測が挿入されている。 【玉の男御子さへ生まれたまひぬ】- 「さへ」(副助詞)、語り手の驚嘆が言い込められた表現。「玉」は当時の最高の美的形容。また「魂」とも通じて呪術的な霊力をもった意味もこめられている。 【いつしかと心もとながらせたまひて】- 主語は帝。「いつしか」(連語、代名詞「いつ」+副助詞「し」強調の意+係助詞「か」疑問の意)は、これから起こることを待ち望む気持ち、を表す。「せたまひて」は帝に対して用いられた最高敬語。 【めづらかなる稚児の御容貌なり】- 「めづらかなる御容貌の稚児なり」の語順を変えて、「御容貌」を強調した表現。 |
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1.2.2 | 第一皇子は、右大臣の娘の女御がお生みになった方なので、後見がしっかりしていて、正真正銘の皇太子になられる君だと、世間でも大切にお扱い申し上げるが、この御子の輝く美しさにはお並びになりようもなかったので、一通りの大切なお気持ちであって、この若君の方を、自分の思いのままにおかわいがりあそばされることはこの上ない。 |
帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子として非常に大事がっておいでになった。 |
【一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて】- 第一親王は、右大臣の娘の弘徽殿女御がお産みになった、の意。この物語の主人公の兄。三歳年長(若菜下)。 【寄せ重く】- 「寄せ」は心を寄せること、望みを託すこと。後見、支持の意。「重し」は行き届いて十分であるさま。右大臣の娘ということで後見がしっかりしていて、それゆえ世間の信望も厚い、という状況。 【疑ひなき儲の君と】- この時点では、まだ皇太子は決定していない。「正真正銘の皇太子として」の意。帝も即位してまだ歳月の浅いことが想像される。 【おほかたのやむごとなき御思ひにて】- 主語は帝。第一皇子に対する思い。 |
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1.2.3 | おぼえいとやむごとなく、 ある |
最初から女房並みの帝のお側用をお勤めなさらねばならない身分ではなかった。 評判もとても高く、上流人の風格があったが、むやみにお側近くにお召しあそばされ過ぎて、しかるべき管弦の御遊の折々や、どのような催事でも雅趣ある催しがあるたびごとに、まっさきに参上させなさる。 ある時にはお寝過ごしなされて、そのまま伺候させておきなさるなど、むやみに御前から離さずに御待遇あそばされたうちに、自然と身分の低い女房のようにも見えたが、この御子がお生まれになって後は、たいそう格別にお考えおきあそばされるようになっていたので、「東宮坊にも、ひょっとすると、この御子がおなりになるかもしれない」と、第一皇子の母女御はお疑いになっていた。 誰よりも先に御入内なされて、大切にお考えあそばされることは一通りでなく、皇女たちなども生まれていらっしゃるので、この御方の御諌めだけは、さすがにやはりうるさいことだが無視できないことだとお思い申し上げあそばされるのであった。 |
更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった。ただお愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女と言ってよいほどのりっぱな女ではあったが、始終おそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催し事をあそばす際には、だれよりもまず先にこの人を常の御殿へお呼びになり、またある時はお引き留めになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができずそのまま昼も侍しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生まれになって以後目に立って重々しくお扱いになったから、東宮にもどうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子の御生母の女御は疑いを持っていた。この人は帝の最もお若い時に入内した最初の女御であった。この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へ済まないという気も十分に持っておいでになった。 |
【初めよりおしなべての上宮仕へ】- 主語は第二御子の母更衣。「上宮仕へ」は帝のお側近くに仕えて日常の身の回りの世話を勤める女房の仕事。妃たちにはそれぞれ妃付きの女房がいる。 【したまふべき際にはあらざりき】- この前後の文脈は、いわゆる現在形や断定の助動詞「なり」で文末が結ばれているように、語り手の直接体験談または見聞談的な表現になって、臨場感を盛り上げている。ここの過去の助動詞「き」もそのような一つである。以下の文章にも、「き」が多用される。 【おぼえいとやむごとなく】- 宮廷人からの評判である。帝からの場合には「御」がつく。前に「まばゆき人の御おぼえなり」とあったのと区別される。 【さるべき御遊びの折々】- 「長恨歌」に「承歓侍寝無閑暇春従春遊夜専夜」<歓を承け寝に侍して閑かなる暇無し春は春の遊びに従ひ夜は夜を専らにす>(白氏文集巻第十二、感傷、五九六)とあるのを踏まえる。 【大殿籠もり過ぐして】- 「春宵苦短日高起従此君王不早朝」<春の宵苦短くして日高けて起く此より君王早朝したまはず>を踏まえる。 【坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり】- 弘徽殿女御の心中。「べき」(推量の助動詞、推量)、「な(る)」(断定の助動詞)、「めり」(推量の助動詞、視界内推量)、見ている目の前でそれが実現しそうな推量のニュアンス。 【やむごとなき御思ひ】- 帝の弘徽殿女御に対する待遇。 【思ひきこえさせたまひける】- 過去の助動詞「けり」を使って、弘徽殿女御と帝との話題を切り上げる。 |
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1.2.4 | もったいない御庇護をお頼り申してはいるものの、軽蔑したり落度を探したりなさる方々は多く、ご自身はか弱く何となく頼りない状態で、なまじ御寵愛を得たばっかりにしなくてもよい物思いをなさる。 |
帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無カな家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。 |
【かしこき御蔭をば頼みきこえながら】- 話題は更衣の方に転じる。 【疵を求めたまふ人】- 『紫明抄』は「なほき木に曲がれる枝もあるものを毛をふき疵を言ふがわりなさ」(まっすぐな木にも曲がった枝があるものなのに、髪の毛を吹いてまで疵を探し出すとはこまったこと)(後撰集、雑二、一一五六、高津内親王)と「有司吹毛求疵」<有司毛を吹きて疵を求む>(漢書、中山靖王伝)を指摘。漢籍では他にも『韓非子』大体に「不吹毛而求小疵」<毛を吹きて小疵を求めず>、『白氏文集』巻十三に「吹毛遂得疵」<毛を吹きて遂に疵を得たり>などとある。わが国では、和歌に詠まれるほど、広く知られたことわざ。 |
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1.2.5 | あまたの またある |
お局は桐壺である。 おおぜいのお妃方の前をお素通りあそばされて、そのひっきりなしのお素通りあそばしに、お妃方がお気をもめ尽くしになるのも、なるほどごもっともであると見えた。 参上なさるにつけても、あまり度重なる時々には、打橋や、渡殿のあちこちの通路に、けしからぬことをたびたびして、送り迎えの女房の着物の裾が、がまんできないような、とんでもないことがある。 またある時には、どうしても通らなければならない馬道の戸を鎖して閉じ籠め、こちら側とあちら側とで示し合わせて、進むも退くもならないように困らせなさることも多かった。 |
住んでいる御殿は御所の中の東北の隅のような桐壼であった。幾つかの女御や更衣たちの御殿の廊を通い路にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直をする更衣が上がり下がりして行く桐壼であったから、始終ながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量んでいくのも道理と言わねばならない。召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾が一度でいたんでしまうようなことがあったりする。またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壼の更衣の通り路をなくして辱しめるようなことなどもしばしばあった。 |
【御局は桐壺なり】- 局の名を端的に表現した。「桐壷」とは中庭に桐が植えられていたこに因む呼称。正式名称は淑景舎という。帝の御殿である清涼殿からは最も遠い東北の隅にあった。 【ひまなき御前渡りに】- 挿入句。主語は帝。文意は直前の「過ぎさせたまひて」と同じだが、さらに追い討ちをかけるように「ひっきりなしのお素通りに」と畳み重ねた表現をしている。 【げにことわりと見えたり】- 登場人物たちと語り手が一体化した評言である。萩原広道『源氏物語評釈』は「作者の自評なり」と指摘した。 【参う上りたまふにも】- 主語は桐壺更衣。帝のもとに参上するというので、尊敬の補助動詞「たまふ」が使われている。帝のお側や寝所に伺候するために参上する。 【御送り迎への人】- 桐壺更衣は彼女付きの女房たちを従えて帝のもとに参上し退下した。 【はしたなめわづらはせたまふ】- 「わづらふ」は自動詞。「わづらふ」人は桐壺更衣であるが、下に「せ」という使役の助動詞と尊敬の補助動詞「たまふ」が付いているので、女御たちが桐壺更衣を「わづらはせたまふ」ということである。実際は女御付きの女房たちをしていじわるをさせたのである。 |
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1.2.6 | 何かにつけて数知れないほど辛いことばかりが増えていくので、たいそうひどく思い悩んでいるのを、ますますお気の毒におぼし召されて、後凉殿に以前から伺候していらっしゃった更衣の部屋を他に移させなさって、上局として御下賜あそばす。 その方の恨みはなおいっそうに晴らしようがない。 |
数え切れぬほどの苦しみを受けて、更衣が心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそう憐れを多くお加えになって、清涼殿に続いた後涼殿に住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壼の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった。 |
【事にふれて】- 以下、視点は、桐壺更衣の様子から、帝の態度へと変じてゆき、上局の部屋を他に変えさせられた別の更衣の恨みが語られる。 |
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第三段 若宮の御袴着(三歳) |
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1.3.1 | この それにつけても、 ものの |
この御子が三歳におなりの年に、御袴着の儀式を一宮がお召しになったのに劣らず、内蔵寮や納殿の御物をふんだんに使って、大変に盛大におさせあそばす。 そのことにつけても、世人の非難ばかりが多かったが、この御子が成長なさって行かれるお顔だちやご性質が世間に類なく素晴らしいまでにお見えになるので、お憎みきれになれない。 ものごとの情理がお分かりになる方は、「このような方もこの末世にお生まれになるものであったよ」と、驚きあきれる思いで目を見張っていらっしゃる。 |
第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着の式が行なわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手な準傭の費用が宮廷から支出された。それにつけても世問はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聡明さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生まれてくるものかと皆驚いていた。 |
【この御子三つになりたまふ年】- その後二年が経過し、御子三歳の物語が語られる。 【一の宮のたてまつりしに劣らず】- 以下、さまざまな儀式が兄一宮と比較されながら語られていく。「たてまつる」は「着る」の尊敬語。 【いみじうせさせたまふ】- 帝主催の袴着の儀式である。「せさせたまふ」は最高敬語。実際には官人をしてさせたもの。 【およすげ】- 「耆 オヨス」(類聚名義抄)。「およす」に様子や気配などの意を表す「気」(け、「げ」にも転じる)が付いた語。活用語尾の清濁は不明。『河海抄』には濁付がある。『集成』『古典セレクション』は「およすけ」とし、『新大系』は「およすげ」とする。 【御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを】- 赤児から三歳(幼児)に成長した容貌や性質の類まれな素晴らしさが語られる。「を」を接続助詞の確定条件「ので」と見る説(今泉忠義・古典セレクション)と格助詞の目的格「を」と見る説(待井新一)とがある。 【え嫉みあへたまはず】- 「え--ず」(打消の助動詞)、「敢へ」は、「すっかり~する」の意。それに、不可能の意が加わる。尊敬語「たまふ」があるので、主語は三位以上の高貴な男性貴族や女御たちである。 【かかる人も世に出でおはするものなりけり】- 「なり」(断定の助動詞)、「けり」(過去の助動詞、詠嘆)。物の情理が分かる人の、詞とも心とも考えらる。いずれにしても直接引用、直接話法的な一文である。 |
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第四段 母御息所の死去 |
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1.4.1 | その年の夏、御息所が、頼りない感じに落ち入って、退出しようとなさるのを、お暇を少しもお許しあそばさない。 |
その年の夏のことである。御息所-皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである-はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが帝はお許しにならなかった。 |
【その年の夏】- 御子の袴着の儀式が行われた年、すなわち、御子三歳の夏。物語は、初めて季節を背景として語られ出す。意識の中に、御子の袴着の儀式が春に盛大に催されたことが遡源され、その折の一情景が再現される。 【御息所】- 「みやすみどころ」の撥音便「みやすんどころ」が撥音便が無表記化され「みやすどころ」と表記される。読みは「みやすンどころ」か「みやすどころ」か不明。両用可か。桐壺更衣。帝の御子を出産したので、こう呼ばれる。 【はかなき心地にわづらひて】- 病気の様子を夏を季節背景にして語ることは、この物語の常套手段の一つで、主題と季節との類同的発想である。 【まかでなむとしたまふを】- 主語は桐壺更衣。「まかづ」は退出する、意。謙譲の意を含む語。「な」(完了の助動詞、確述)「む」(推量の助動詞、意志)は、きっと退出しようというニュアンス。 【暇さらに許させたまはず】- 主語は帝。「せたまはず」最高敬語。冒頭には「もの心細げに里がちなるを」(第一章第一段)とあった。御子出産後は里への退出も許さなくなった。 |
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1.4.2 | ここ数年来、いつもの病状になっていらっしゃるので、お見慣れになって、「このまましばらく様子を見よ」とばかり仰せられるているうちに、日々に重くおなりになって、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、母君が涙ながらに奏上して、退出させ申し上げなさる。 |
どこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、 「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」 と言っておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五、六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇を願って帰宅させることにした。 |
【常の篤しさ】- 『新大系』は「あづしさ」と濁音で読む。『集成』『古典セレクション』は「あつしさ」と清音で読む。 【まかでさせたてまつりたまふ】- 「まかで」(謙譲語、宮中、帝に対する敬意)、「させ」(使役の助動詞、母北の方が更衣をして)、「たてまつり」(謙譲の補助動詞、母北の方が更衣にして差し上げる)、「たまふ」(尊敬の補助動詞、母北の方に対する敬意)。「母北の方が、娘の更衣を宮中からお下がらせ申し上げなさる」という意。母親が自分の娘に対して敬語を用いるのは、今日では奇異な感じがするが、娘とは言え、今や帝の御妻である。そうした敬意がはたらいている。 |
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1.4.3 | このような時にも、あってはならない失態を演じてはならないと配慮して、御子はお残し申して、人目につかないようにして退出なさる。 |
こんな場合にはまたどんな呪詛が行なわれるかもしれない、皇子にまで禍いを及ぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目だたぬように御息所だけが退出するのであった。 |
【かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて】- この後に「あれ」(已然形)などが省略された形。「もこそ(あれ)」は将来良くないことが起こることへの危惧の気持ちを表す。『集成』は「病気退出という折にも、(行列などに嫌がらせををされ)とんでもない恥を受けるかもしれないと用心して。御子が同行していれば、その体面がつけられる」、また『新大系』も「退出の行列が妨害されるようなことか」と解する。しかし、帝秘蔵っ子の御子が同行していれば、更衣の退出に対してかえっていじわるや妨害というのは仕掛けにくいのではないか。『古典セレクション』は「神聖な宮中を更衣の死で穢すような不面目があっては大変」と解する。病気重態による退出時に、あってはならない失態--すなわち、宮中を死で穢すこと--を冒すまい、という母北の方の考えである。宮中のみならず、退出中に御子にも死の穢れが及ぶかも知れないことを危惧して宮中に残してきたのだろう。 |
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1.4.4 | いとにほひやかにうつくしげなる |
決まりがあるので、お気持ちのままにお留めあそばすこともできず、お見送りさえままならない心もとなさを、言いようもなく無念におぼし召される。 たいそう照り映えるように美しくかわいらしい人が、ひどく顔がやつれて、まことにしみじみと物思うことがありながらも、言葉には出して申し上げることもできずに、生き死にもわからないほどに息も絶えだえでいらっしゃるのを御覧になると、あとさきもお考えあそばされず、すべてのことを泣きながらお約束あそばされるが、お返事を申し上げることもおできになれず、まなざしなどもとてもだるそうで、常よりいっそう弱々しくて、意識もないような状態で臥せっていたので、どうしたらよいものかとお惑乱あそばされる。 輦車の宣旨などを仰せ出されても、再びお入りあそばしては、どうしてもお許しあさばされることができない。 |
この上留めることは不可能であると帝は思召して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬ御尊貴の御身の物足りなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。 はなやかな顔だちの美人が非常に痩せてしまって、心の中には帝とお別れして行く無限の悲しみがあったがロヘは何も出して言うことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのを御覧になると帝は過去も未来も真暗になった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろな頼もしい将来の約束をあそばされても更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心を襲うた。更衣が宮中から輦車で出てよい御許可の宣旨を役人へお下しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると今行くということをお許しにならない。 |
【限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず】- 「限り」は宮中における掟。病状が篤い場合には死の穢れを憚って退出させるのが決まり。以下、帝の更衣に対する執心を語る。似たような表現は後に、「限りあれば例の作法にをさめたてまつるを」(第一章第五段)と出てくる。 【いとにほひやかに】- 以下の長文「ものしたまふを」までは、語り手の視点から桐壺更衣の容態について語る。そして「御覧ずるに」以下は帝の視点へと自然と移り変わってゆく叙述の仕方である。 【言に出でても聞こえやらず】- 「言に出でても」は歌語。「言に出でて言はばゆゆしみ朝顔のほには咲きでて恋をするかな」(古今六帖第五「人知れぬ」二六七〇、万葉集巻十 二二七九)、「言に出でて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心は塞きあへにけり」(古今六帖第五「いはで思ふ」二六五二、万葉集巻十一 二四三六、柿本集 一八四)陰「言に出でて言はぬばかりぞ水無瀬川下に通ひて恋しきものを」(古今集恋二 六〇七 友則、古今六帖第五「いはで思ふ」二六五一 友則、友則集 四八)などの和歌がある。 【御覧ずるに】- 主語は帝。語り手の視点が移る。 【輦車の宣旨】- 勅許によって親王、大臣、女御、僧侶などが輦車で宮城門内を通ることが許される。桐壺更衣は更衣の身分であるにもかかわらず、それらの人と同等の破格の待遇を受けた。 【また入らせたまひて】- 桐壺更衣の臥せっている部屋に。上局か。 |
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1.4.5 | 「死出の旅路にも、後れたり先立ったりするまいと、お約束あそばしたものを。 いくらそうだとしても、おいてけぼりにしては、行ききれまい」 |
「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」 |
【限りあらむ道にも、後れ先立たじ】- 以下「え行きやらじ」まで、帝の詞。「それぞれに寿命の定められた人生であっても、あなたに先立たれ残されたり、また自分が先立ったりすることは、お互いにするまい、死ぬ時は一緒にと、お約束なさったのに。いくら何でも、わたし独りを残しては逝かすまい」の意。偕老同穴を契った。なお、『新大系』は「契らせたまひけるを」までを地の文と解する。 【契らせたまひけるを】- 「せたまひ」最高敬語。桐壺更衣の行為に対して使用。最高敬語は会話文の場合には帝以外の人(女房どうしの場合でも)に対しても使用される。なお『新大系』では地の文として、帝の行為に対する敬語とする。「を」について、接続助詞、順接の意(約束してをられたのだから)と解する説(今泉忠義・待井新一・新大系)、逆接の意(お約束なさったのに)と解する説(集成)、間投助詞、詠嘆の意(お約束なさったのだもの)と解する説(玉上琢弥・古典セレクション)等がある。会話文中の「を」なので、間投助詞、詠嘆の意が最も適切であろう。 【さりとも】- 接続詞。「さ」は更衣の重体をさす。 【え行きやらじ】- 「え」(副詞)--「じ」(打消の助動詞、意志)で不可能の意を表す。「やる」は補助動詞、その動作を最後までやり終える意を表す。下に打消の語を伴うと、最後まで--しきれない、完全に--できない、の意を表す。「行(ゆ)く」には、「里へ行く」意と、「逝く」意とが重ねられている。明融臨模本「えゆきやらし」とある。「えいきやらし」だと「行き」に「生き」を響かすことになってしまう。 |
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1.4.6 | と仰せになるのを、女もたいそう悲しいと、お顔を拝し上げて、 |
と、帝がお言いになると、そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、 |
【女も】- 桐壺更衣を「女」と表現した。この物語では、身分を超越した男と女との恋の場面に、「男」「女」という呼称が使用される。 |
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1.4.7 | 「人の命には限りがあるものと、 今、別れ路に立ち、悲しい気持 |
「限りとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり |
【限りとて別るる道の悲しきに--いかまほしきは命なりけり】- 更衣の歌。「限りとて」は、帝の詞「限りあらむ道」に応えたもの。「人の寿命は定めがあるものと諦めてはみても」。「別るる道の」は、「里下がりのために別れる道」と「死出の道」との両意を掛ける。辞世の歌である。格助詞「の」は、同時に二つの機能をはたす。主格を表して、「別路が悲しいこと」。連体格を表して、「別路の悲しさ」。そして、第二句と第三句とを結び付けてゆく働きをもする。「悲しきに」の接続助詞「に」は、前者の文脈では、原因・理由の意を含んだ順接の働きをして、「別路が悲しいことなので」の意。後者の文脈では、逆接の働きをして、「別路の悲しさがあるけれども」の意となる。助詞の「の」や「に」の機能は、最後まで読まないと判断できない。上の句までの段階では、どちらとも判断できない。したがって、両意を合わせて読んでいくのが正しい読み方である。さて、両意の文脈を呼び込みながら、下句へと繋がっていくと、第四句「行(い)かまほしきは」の「行く」は、「行(い)く」と、「生(い)く」との両意を掛ける。明融臨模本「いかまほしき」とある。ここは「ゆかまほしき」ではない。「まほし」は希望・願望の助動詞。「わたしが生きて行きたいと思うのは」。第一句第二句で既に、この別れが永遠の別れになることを悟っている更衣が、再びここで「いかまほし」というのは、限りない生への願望と執着が表されている。したがって、上句と下句は、逆接の文脈と考えられる。「悲しいけれど、それはわかっているが、やはり、わたしの生きて行きたいと思う道は」となる。第五句「いのちなりけり」は、「寿命であることよ」「最期であることよ」「運命であることよ」等、さまざまな意がこめられている。一つのことばで表現してしまったら、この句がもっている豊かな表現性が削がれてしまう。「生きて行きたいのは、生の道なのでございます」、「生きて行きたいのは、生の道なのですが、それも叶わぬ寿命なのでございます」等。『全集』は「別れ路はこれや限りの旅ならむさらにいくべき心地こそせね」<別れはこれが最期の死出の旅路の別れとなろう、まったく生きていけそうな気がしません>(新古今集、離別、八七二、道命法師)を指摘する。 |
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1.4.8 | ほんとうにこのようにと存じておりましたならば」 |
死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」 |
【いとかく思ひたまへましかば」--と】- 「いとかく」について、「ほんとにこんなことになろうと存じておりましたならば。(もっと申しあげておくことがたくさんございましたのに。)」「かく」は歌の意味(死別すること)をさす」(待井新一・今泉忠義・玉上琢弥・集成)、「ここでは初めからこうなることが分っていたら、なまじ帝のご寵愛をいただかなければよかったろうに、の意か。」(古典セレクション)などあるが、「まことにこのように(右の歌のごとくに)考えさせていただいてよいのであったら--。「かく」は歌の中の生きたいという思いを指す。生きる希望を満たされるのらうれしかろうに、そうでないのは悲しく無念だ、と万感を言いさす」(新大系)とあるように、「かく思ひたまへ」は右の歌の主旨をさし、「いかまほしきは命なりけり」がその直接的内容である。「ましか」は反実仮想の助動詞。「--ならば」。この後に、「--すべきであった」という内容の述語が省略されている。なお、青表紙本の肖柏本は、「ましかばと」の「と」がナシ、大島本は「と」を補入している。「ほんとうに、生きていたいと存じておりましたならば、もっと、気持ちを強く持ち、そして帝の御愛情にお応えすべきであったのに。それもできずにまことに無念です」というような内容である。 |
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1.4.9 | と、 |
と、息も絶えだえに、申し上げたそうなことはありそうな様子であるが、たいそう苦しげに気力もなさそうなので、このままの状態で、最期となってしまうようなこともお見届けしたいと、お考えあそばされるが、「今日始める予定の祈祷などを、しかるべき僧たちの承っておりますのが、今宵から始めます」と言って、おせき立て申し上げるので、やむを得なくお思いあそばしながら退出させなさる。 |
これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、まったく気カはなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思召しながらお帰しになった。 |
【かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと】- 「かく」は、更衣を宮中に置いたままの状態をさす。「ともかくもならむ」とは、最悪の状況を想定している。宮中は死穢を忌む場所である。その死の禁忌も憚らない帝の悲壮な気持ちが窺える。帝の心と地の文が融合した形。 【今日始むべき】- 以下「今宵より」まで、更衣の里邸からの使者の伝言。詞の語順が整っていなところに、緊迫感が表出されている。 【まかでさせたまふ】- 「させ」使役の助動詞。帝が桐壺更衣を退出おさせになる。 |
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1.4.10 | お胸がひしと塞がって、少しもうとうとなされず、夜を明かしかねあそばす。 勅使が行き来する間もないうちに、しきりに気がかりなお気持ちをこの上なくお漏らしあそばしていらしたところ、「夜半少し過ぎたころに、お亡くなりになりました」と言って泣き騒ぐので、勅使もたいそうがっかりして帰参した。 お耳にあそばす御心の転倒、どのような御分別をも失われて、引き籠もっておいであそばす。 |
帝はお胸が悲しみでいっぱいになってお眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へお出しになる尋ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ち遠しいであろうと仰せられた帝であるのに、お使いは、 「夜半過ぎにお卒去になりました」 と言って、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引きこもっておいでになった。 |
【御胸つとふたがりて】- 以下、後に残された帝の様子。「御使の行き交ふ」とあるから、最初に遣わされた使者が帰って来るのが待ちきれずにまた次の使者を発するというように、次々と使者が派遣されたことがわかる。明融臨模本には「御むねのみ」とあるが、「のみ」は後人の補入で、明融臨模本本来の本文ではない。大島本にも「のみ」は無い。『集成』『新大系』は「御胸つと」と校訂する。『古典セレクション』は後人の補入語を採用して「御胸のみつと」としている。校訂付記には掲載せず。 【夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる】- 更衣の里邸の人々の詞。更衣の死去を告げる。 |
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1.4.11 | 御子は、それでもとても御覧になっていたいが、このような折に宮中に伺候していらっしゃるのは、先例のないことなので、退出なさろうとする。 何事があったのだろうかともお分かりにならず、お仕えする人々が泣き惑い、父主上もお涙が絶えずおこぼれあそばしているのを、変だなと拝し上げなさっているのを、普通の場合でさえ、このような別れの悲しくないことはない次第なのを、いっそうに悲しく何とも言いようがない。 |
その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服中の皇子が、穢れのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけを不思議にお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心持ちほどお気の毒なものはなかった。 |
【かくても】- 「かくても」「かかるほど」は御子の母桐壺更衣の死とその服喪期間中をさす。 【例なきことなれば】- 延喜七年以後、七歳以下の子供は親の喪に服すに及ばないということになった。したがって、この物語は延喜七年以前を時代設定していることになる。 【まかでたまひなむとす】- 主語は御子。使役の助動詞「させ」はない。視点を帝から御子に移して叙述する。 【主上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを】- 「見たてまつる」という御子の視点と語り手の地の文とが融合した叙述で語られる。この前後の「流れおはしますを」や「わざなるを」とともに「を」は目的格を表す格助詞。これら三つの文章が語り手の評言「ましてあはれに言ふかひなし」に収束される。 【よろしきことにだに】- 「普通の親子の死別の場合でさえ」の意。以下に「まして」と呼応する。三歳の幼児ゆえ、母親の死去した意味を理解せず、いっそう悲しく何とも言いようがない、という、語り手の感情移入の込められた叙述。 【ましてあはれに言ふかひなし】- 「まして」は母を亡くした悲しみがわかれば、それなりに悲しいと言うこともできように、その悲しみさえわからないがゆえに、いっそう痛々しくも気の毒で、何とも言いようがない、という意。 |
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第五段 故御息所の葬送 |
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1.5.1 | 「むなしき |
しきたりがあるので、先例の葬法どおりにお営み申すのを、母北の方は、娘と同じく煙となって死んでしまいたいと、泣きこがれなさって、御葬送の女房の車に後を追ってお乗りになって、愛宕という所でたいそう厳かにその葬儀を執り行っているところに、お着きになったお気持ちは、どんなであったであろうか。 「お亡骸を見ながら、なおも生きていらっしゃるものと思われるのが、たいして何にもならないので、遺灰におなりになるのを拝見して、今はもう死んだ人なのだと、きっぱりと思い諦めよう」と、分別あるようにおっしゃっていたが、車から落ちてしまいそうなほどにお取り乱しなさるので、やはり思ったとおりだと、女房たちも手をお焼き申す。 |
どんなに惜しい人でも遺骸は遺骸として扱われねばならぬ、葬儀が行なわれることになって、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣きこがれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕の野にいかめしく設けられた式場へ着いた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。 「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷いをさますために行く必要があります」 と賢そうに言っていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。 |
【限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを】- 「限り」について、「いくら惜しんでもゐても限りもないので」(今泉忠義・町井新一)と解する説と「葬儀の定まった作法があるので。特別にあつく葬ろうとしてもできない」(古典セレクション)また「遺骸をいつまでもとどめておきたいのだが、という気持ち」(集成)などと解する説がある。「限りあれば」は多義性をもった表現である。「例の作法」とは、火葬に収めること。場所は、愛宕の火葬場である。 【御送り】- 野辺送りの葬送。夕刻から始まる。 【慕ひ乗りたまひて】- 「慕ふ」は後を追う、意。普通、女親は火葬場に行かなかった。男親や夫、兄弟たちが行った。 【愛宕といふ所】- 当時の火葬場のあった所。京都市東山区鳥辺野付近とも左京区修学院白河一帯ともいう。『新大系』は「今の東山区轆轤町あたり珍皇寺のことらしい」と注す。「愛宕 於多木」(和名抄)。『集成』『新大系』は「おたぎ」と振り仮名を付ける。『古典セレクション』は「をたぎ」と振り仮名を付けるが適切でない。 【おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ】- 「いかばかりかは」「けむ」(過去推量の助動詞)。『湖月抄』は「草子地に察していへり」と指摘。この過去推量は語り手が母北の方の心中を推測したものである。 【灰になりたまはむを】- 『紫明抄』は「燃え果てて灰となりなむ時にこそ人を思ひのやまむ期にせめ」(すっかり焼ききって灰となった時に死んだ人と諦める時としよう)(拾遺集、恋五、九二九 、読人しらず)を指摘。 【まろび】- 「転 マロブ」(名義抄)。なお、青表紙本系の明融臨模本、池田本、大島本、河内本系諸本、別本の御物本は、「まろび」(転げる)とある。青表紙本系のまた一方の横山本、肖柏本、三条西家本、書陵部本と別本の陽明文庫本、国冬本、麦生本は「まどひ」(惑乱する)ある。 【さは思ひつかし】- 女房の心。「つ」(完了の助動詞)、火葬場に出かける以前に思ったこと。 |
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1.5.2 | これにつけても もの さま なくてぞとは、かかる |
内裏からお勅使が参る。 従三位の位を追贈なさる旨を、勅使が到着してその宣命を読み上げるのが、悲しいことであった。 せめて女御とだけでも呼ばせずに終わったのが、心残りで無念に思し召されたので、せめてもう一段上の位階だけでもと、御追贈あそばすのであった。 このことにつけても非難なさる方々が多かった。 人の情理をお分かりになる方は、姿態や容貌などが素晴しかったことや、気立てがおだやかで欠点がなく、憎み難い人であったことなどを、今となってお思い出しになる。 見苦しいまでの御寵愛ゆえに、冷たくお妬みなさったのだが、性格がしみじみと情愛こまやかでいらっしゃったご性質を、主上づきの女房たちも互いに恋い偲びあっていた。 亡くなってから人はと言うことは、このような時のことかと思われた。 |
宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位を贈られたのである。勅使がその宣命を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位階である。生きていた日に女御とも言わせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位を賜わったのである。こんなことででも後宮のある人々は反感を持った。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壼の更衣の真価を思い出していた。あまりにひどい御殊寵ぶりであったからその当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。優しい同情深い女性であったのを、帝付きの女官たちは皆恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とはこうした場合のことであろうと見えた。 |
【三位の位】- 明融臨模本は「三位」に「ミツ」という訓点あり。また河内本系諸本に「みつのくらゐ」とある。正四位上であった更衣に従三位の位を追贈した。 【女御とだに】- 以下「贈らせたまふなりけり」まで、従三位の位を追贈した帝の胸中を補足説明した語り手の文章である。『弄花抄』は「そのいはれを釈したる詞也」と指摘し、『紹巴抄』は「双地の注也」と指摘。「后(皇后・中宮)どころか、女御とさえよばせないでしまったことが。「だに」は、軽いものをあげて重いものを言外に類推させる語で、「--さえ」の意」(待井新一)。 【様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしこと】- 「--こと」「--こと」という並列の構文。桐壺更衣の美点である。姿形の美しさ、気立てのよさを挙げる。 【さま悪しき】- 以下「御心を」まで、主上付きの女房の詞と見ることも可能である。「こそ」--「しか」(過去助動詞)の係結びがあり、見聞者たちの発言のニュアンスである。ただ、末尾の「を」は詠嘆の終助詞であるとともに、以下の文がうける格助詞でもあり、地の文になるという構造である。 【なくてぞとは】- 『源氏釈』は「ある時は有りのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しかりける」(生きていた時は生きているというだけで憎らしかったが、死んでみると恋しく思い出されるものだ)(出典未詳、源氏釈所引)を指摘。明融臨模本は付箋でこの引歌を指摘する。類歌に「ある時は有りのすさびに語らはで恋しきものと別れてぞ知る」(生きていた時はいいかげんに親しくしなかったが恋しい人だと別れてから知った)(古今六帖第五、物語、二八〇五)というのがある。以下「見えたり」まで、『岷江入楚』は「前を釈しめして物語の作者の評したる詞歟」と指摘する。「見えたり」と判断するのは語り手である。 |
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第二章 父帝悲秋の物語 |
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第一段 父帝悲しみの日々 |
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2.1.1 | いつのまにか日数は過ぎて、後の法要などの折にも情愛こまやかにお見舞いをお遣わしあそばす。 時が過ぎて行くにしたがって、どうしようもなく悲しく思われなさるので、女御更衣がたの夜の御伺候などもすっかりお命じにならず、ただ涙に濡れて日をお送りあそばされているので、拝し上げる人までが露っぽくなる秋である。 「亡くなった後まで、人の心を晴ればれさせなかった御寵愛の方だこと」と、弘徽殿女御などにおかれては今もなお容赦なくおっしゃるのであった。 一の宮を拝し上げあそばされるにつけても、若宮の恋しさだけがお思い出されお思い出されして、親しく仕える女房や御乳母などをたびたびお遣わしになっては、ご様子をお尋ねあそばされる。 |
時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて七日七日の仏事が次々に行なわれる、そのたびに帝からはお弔いの品々が下された。 愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがってどうしようもない寂しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中の御朝タであって、拝見する人までがしめっぽい心になる秋であった。 「死んでからまでも人の気を悪くさせる御寵愛ぶりね」 などと言って、右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子を御覧になっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、御自身のお乳母などをその家へおつかわしになって若宮の様子を報告させておいでになった。 |
【後のわざ】- 七日ごとの法事。四十九日忌まで続く。 【涙にひちて】- 「漬 ヒタス ヒチテ」(図書寮本類聚名義抄)。清音で読む。涙に濡れて。 【露けき秋なり】- 「露」は「秋」の縁語。「露」は涙を暗示する。帝の悲しみを秋を背景にして語る。 【亡きあとまで】- 以下「御おぼえかな」まで、弘徽殿女御の詞と後からわかる。「御」があることによって、帝の寵愛、という意。 【弘徽殿】- 「弘徽殿 コウクヰテン」(色葉字類抄)。明融臨模本の傍注に「コウ」とあるので「こうきでん」と読む。 【若宮の御恋しさ】- 前には「御子」とあった。「一の宮」に対して「若宮」と呼称される。 |
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第二段 靫負命婦の弔問 |
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2.2.1 | かうやうの |
野分めいて、急に肌寒くなった夕暮どき、いつもよりもお思い出しになることが多くて、靫負命婦という者をお遣わしになる。 夕月夜の美しい時刻に出立させなさって、そのまま物思いに耽ってておいであそばす。 このような折には、管弦の御遊などをお催しあそばされたが、とりわけ優れた琴の音を掻き鳴らし、ついちょっと申し上げる言葉も、人とは格別であった雰囲気や顔かたちが、面影となってひたとわが身に添うように思し召されるにつけても、闇の中の現実にはやはり及ばないのであった。 |
野分ふうに風が出て肌寒の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人がお思われになって、靫負の命婦という人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びが行なわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。 |
【野分立ちて】- 「野分たちて」と清音で読む説(大系・新大系)と読む説と「野分だちて」(講話、全書、対訳、対校、評釈、全集、集成、完訳、古典セレクション)と濁音で読む説がある。明融臨模本は後人の朱筆で「た」の左下に濁点符号と「清濁両説」とある。大島本では「達也野分ノヤウナル風也」とある。意味は同じく、野分めいて吹く風、の意。「風立つ」「気色立つ」などと同じく、様子が現れる、意。「野分」と「立つ」の連語であるから濁音で読む。季節は「野分」のころ。古来「野分の章段」の叙情的文章として名高い。 【夕月夜のをかしきほどに】- 夕月は、七日ころから十日の月までの夜半には沈む月。時刻の推移は月の位置で表現されている。 【御遊びなどせさせたまひしに】- 過去の助動詞「し」が使用されていることに注意。以下にも出てくる。前の「かやうの折は」以下「なほ劣りけり」までの文章は、語り手の客観的な地の文ではない。帝の直接体験、追懐の気持ちが織り混ぜられた表現で、帝の心中に即した表現となっている。 【ことなりしけはひ容貌】- ここにも、過去の助動詞「し」が使用されている。帝が実感や体験に即したニュアンスである。 【闇の現にはなほ劣りけり】- 『源氏釈』は「むば玉の闇のうつつは定かなる夢にいくらもまさらざりけり」(真っ暗闇の中での逢瀬ははっきりと見た夢にいくらもまさっていなかった)(古今集恋三、六四七 、読人しらず)を指摘。明融臨模本は付箋でこの引歌を指摘。更衣の幻影は、その真っ暗闇の中の現し身にはやはり劣った、夢同様にはかなかったの意。 |
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2.2.2 | 命婦は、あちらに参着して、門を潜り入るなり、しみじみと哀れ深い。 未亡人暮らしであるが、娘一人を大切にお世話するために、あれこれと手入れをきちんとして、見苦しくないようにしてお暮らしになっていたが、亡き子を思う悲しみに暮れて臥せっていらっしゃったうちに、雑草も高くなり、野分のためにいっそう荒れたような感じがして、月の光だけが八重葎にも遮られずに差し込んでいた。 寝殿の南面で車から下ろして、母君も、すぐにはご挨拶できない。 |
命婦は故大納言家に着いて車が門から中へ引き入れられた刹那からもう言いようのない寂しさが味わわれた。末亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁を保って暮らしていたのであるが、子を失った女主人の無明の日が続くようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさし込んだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人はすぐにもものが言えないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。 |
【参で】- 青表紙本系の池田本は「う」を補入、横山本は「か」を補入、肖柏本と三条西家本は書陵部本は「まかて」、大島本は「まて」。河内本系諸本と別本諸本は「まうて」とある。「参うづ」と「罷かづ」との相違。「参うで着く」といえば、参上し到着するの意。更衣の邸を敬った表現。「罷かで着く」といえば、宮中を退出して目的地に到着するの意。宮中を敬った表現になる。 【門引き入るるより】- 「より」(格助詞)は、「門を入るやいなや」の意を添える。 【闇に暮れて】- 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(子を持つ親心は暗闇ではないが、わが子のことを思うとどうしてよいかわからなくなる)(後撰集雑一、一一〇二、兼輔朝臣)を指摘。藤原兼輔は紫式部の曾祖父に当る人。『源氏物語』中の引歌として最も多く引用される和歌である。 【八重葎にも障はらず】- 『源氏釈』は「八重葎茂れる宿の寂しきに人こそ見えね秋は来にけり」(拾遺集秋、一四〇、恵慶法師)を指摘。『奥入』は「訪ふ人もなき宿なれどくる春は八重葎にもさはらざりけり」(古今六帖二、宿、一三〇六)を指摘。『異本紫明抄』は「今更に訪ふべき人も思ほえず八重葎してかどさせりてへ」(古今集雑下、九七五、読人しらず)を指摘。 【南面に下ろして】- 普通の人は中門で下車するが、帝の使者なので、寝殿の正面の階段のもとに車を着けて下車した。寝殿の南廂間に迎え入れる。 |
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2.2.3 | 「今まで生きながらえておりましたのがとても情けないのに、このようなお勅使が草深い宿の露を分けてお訪ね下さるにつけても、とても恥ずかしうございます」 |
「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いが荒ら屋へおいでくださるとまたいっそう自分が恥ずかしくてなりません」 |
【今までとまりはべるが】- 以下「いと恥づかしうなむ」まで、母北の方の挨拶。「はべる」は丁寧語。会話文中に使用される。「なむ」の下には「侍る」また「思ひたまふる」などの語句が省略。言いさした形である。以下の母北の方の会話にも、言いさした形が多く見られる。 【蓬生の露分け入りたまふにつけても】- 『河海抄』は「いかでかは尋ね来つらむ蓬生の人も通はぬわが宿の道」(拾遺集、雑賀、一二〇三、読人しらず)を指摘。「露」は「蓬生」の縁語。 |
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2.2.4 | とて、げにえ |
と言って、ほんとうに身を持ちこらえられないくらいにお泣きになる。 |
と言って、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。 |
【げにえ堪ふまじく泣いたまふ】- 「げに」(なるほど)という語には、語り手の感想が交えられた表現で、直接見てきて語っているような印象を与える。『湖月抄』は「草子地ともいふべき歟」と指摘した。 |
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2.2.5 | 「『お訪ねいたしたところ、ひとしおお気の毒で、心も魂も消え入るようでした』と、典侍が奏上なさったが、物の情趣を理解いたさぬ者でも、なるほどまことに忍びがとうございます」 |
「こちらへ上がりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍は陛下へ申し上げていらっしゃいましたが、私のようなあさはかな人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」 |
【参りては】- 以下「尽くるやうになむ」まで、典侍の詞を引用。「忍びがたうはべりけれ」まで命婦の詞。今までに帝の使者として、典侍が弔問に訪れたことがあったことが明かされる。 【尽くるやうになむ】- 下に「はべりき」「思ひたまへき」などの語句が省略された形。 【典侍】- 内侍司の次官、定員四名。長官は「尚侍」で、定員二名。 【奏したまひし】- 「奏す」は天皇に奏上する。後の「し」(過去の助動詞)は、命婦は典侍が帝に奏上した場面に立ち会っていた、というニュアンスである。 【もの思うたまへ知らぬ心地にも】- 命婦自身をいう。明融臨模本「おもふ(ふ$ひ<朱>)たまへ」とある。大島本も「おもふたまへ」とある。語法としては連用形「たまひ」+「たまへ」(下二段活用)であるが、ここは会話文中の用例であるから、ウ音便化した「思うたまへ」とする。 |
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2.2.6 | と言って、少し気持ちを落ち着かせてから、仰せ言をお伝え申し上げる。 |
と言ってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。 |
【ややためらひて】- 帝の伝言を伝える前に悲しみに乱れる心を落ち着かせた。 【仰せ言】- 帝からのお言伝て。 |
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2.2.7 | 「『しばしは |
「『しばらくの間は夢かとばかり思い辿られずにはいられなかったが、だんだんと心が静まるにつれてかえって、覚めるはずもなく堪えがたいのは、どのようにしたらよいものかとも、相談できる相手さえいないので、人目につかないようにして参内なさらぬか。 若宮がたいそう気がかりで、湿っぽい所でお過ごしになっているのも、おいたわしくお思いあそばされますから、早く参内なさい』などと、はきはきとは最後まで仰せられず、涙に咽ばされながら、また一方では人びともお気弱なと拝されるだろうと、お憚りあそばされないわけではない御様子がおいたわしくて、最後まで承らないようなかっこうで、退出いたして参りました」 |
「当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやく落ち着くとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですがそれもありません。目だたぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい」 「こういうお言葉ですが、涙にむせ返っておいでになって、しかも人に弱さを見せまいと御遠慮をなさらないでもない御様子がお気の毒で、ただおおよそだけを承っただけでまいりました」 |
【しばしは】- 以下「とく参りたまへ」まで帝の仰せ言。命婦の詞は、「まかではべりぬる」まで。「たどられしを」の「し」(過去の助動詞)は、帝の直接体験を表す。 【人だになきを】- 「を」は原因・理由を表す順接の接続助詞。 【忍びては参りたまひなむや】- 帝は母北の方にこっそりと参内なさらないかと促した。「たまひ」は、帝の母北の方に対する敬意。「な」(完了の助動詞、確述)、「む」(推量の助動詞、勧誘)、「や」(終助詞、呼び掛け)、親しく呼び掛けたニュアンス。 【心苦しう思さるるを】- 帝が自分の「思う」ことを尊敬語で表現した形になっているが、伝言文であるために、命婦の帝に対する敬意がこのような形で現れ出たもの。「を」は原因・理由を表す順接の接続助詞。 【とく参りたまへ】- 帝の母北の方への命令のようだが、まだ喪中であるので、やや実現性の困難な話である。 【など】- 以下「まかではべりぬる」まで、命婦はその時の帝の状況を故桐壺更衣の母北の方に語る。 【人も心弱く見たてまつるらむ】- 帝の気持ちを代弁したような文章。帝が自分を「見奉るらむ」というのもおかしな敬語表現になるので、命婦の帝に対する敬意が現れ出た表現。 【承り果てぬやうに】- 明融臨模本には「うけたまり(り+も<朱>)はてぬやうに」とあるが、「も」は後人の補入で、明融臨模本本来の本文ではない。大島本にも「も」は無い。『集成』『新大系』は「うけたまはり」と校訂する。『古典セレクション』は「うけたまはりも」と後人の補入を採用して校訂する。 |
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2.2.8 | とて、 |
と言って、お手紙を差し上げる。 |
と言って、また帝のお言づてのほかの御消息を渡した。 |
【御文奉る】- 帝のお手紙を北の方に差し上げる。命婦の動作行為には敬語は使われていない。 |
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2.2.9 | 「目も見えませんが、このような畏れ多いお言葉を光といたしまして」と言って、御覧になる。 |
「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分なかたじけない仰せを光明にいたしまして」 未亡人はお文を拝見するのであった。 |
【目も見えはべらぬに】- 以下「光にてなむ」まで北の方の詞。「目も見えはべらぬ」(子を亡くした心の闇で)といったのに関連して、「光にて」といった。縁語表現である。以下に「見侍る」などの語句が省略されている。 |
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2.2.10 | 「ほど いはけなき |
「時がたてば少しは気持ちの紛れることもあろうかと、心待ちに過す月日がたつにつれて、たいそうがまんができなくなるのはどうにもならないことである。 幼い人をどうしているかと案じながら、一緒にお育てしていない気がかりさよ。 今は、やはり故人の形見と思って、参内なされよ」 |
時がたてば少しは寂しさも紛れるであろうかと、そんなことを頼みにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思いやっている小児も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子の代わりとして面倒を見てやってくれることを頼む。 |
【おぼつかなさを】- 「を」は間投助詞、詠嘆の意。また格助詞「を」目的格の意とし、「かたみになずらへて」に係るとも。例えば、「一緒に育てない不安さを(残念に思っているから)」(待井新一)。また接続助詞、順接の意とする説がある。例えば「二人で育てたいのだが、それができないのが気がかりだから」(今泉忠義)。 【昔のかたみになずらへて】- わたし(帝)を故人の縁者と思って、の意。また「若宮を亡き更衣の形見と見なす」(待井新一)。さらに母君を形見と見なす説。例えば「娘の身代りに立つつもりになって」(今泉忠義)などがある。 |
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2.2.11 | など、こまやかに |
などと、心こまやかにお書きあそばされていた。 |
などこまごまと書いておありになった。 | |||||||||||||||||||||
2.2.12 | 「宮中の萩に野分が吹いて露を結ばせたり散らそうとする風の音を聞くにつけ、 幼子の身が思いやられる |
宮城野の露吹き結ぶ風の音に 小萩が上を思ひこそやれ |
【宮城野の露吹きむすぶ風の音に--小萩がもとを思ひこそやれ】- 帝の歌。我が子の身を案じる意の歌。「宮城野」は歌枕。宮城県仙台市東部の野、萩の名所として名高い。ここは宮中の意。「露吹きむすぶ風」は、野分が吹いて急に寒くなり萩に露が置くようになり、また風が吹いてはその露を散らそうとする気掛かりなさま。「小萩」は歌語。子供を暗喩する。「結ぶ」は「露」の縁語。「露」は涙を暗喩する。「嵐吹く風はいかにと宮城野の小萩が上を人の問へかし」(激しい風が吹いているがいかがですかと宮中の小萩の身の上を見舞いなさい)(新古今集雑下、一八一九、赤染衛門)、「宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て」(宮中の根本もまばらな小萩は露が重いので風を待つようにあなたを待っています)(古今集恋四、六九四、読人しらず)。 |
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2.2.13 | とあれど、え |
とあるが、最後までお読みきれになれない。 |
という御歌もあったが、未亡人はわき出す涙が妨げて明らかには拝見することができなかった。 | |||||||||||||||||||||
2.2.14 | 「 かしこき |
「長生きが、とても辛いことだと存じられますうえに、高砂の松がどう思うかさえも、恥ずかしう存じられますので、内裏にお出入りいたしますことは、さらにとても遠慮いたしたい気持ちでいっぱいです。 畏れ多い仰せ言をたびたび承りながらも、わたし自身はとても思い立つことができません。 |
「長生きをするからこうした悲しい目にもあうのだと、それが世間の人の前に私をきまり悪くさせることなのでございますから、まして御所へ時々上がることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せを伺っているのですが、私が伺候いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。 |
【命長さの】- 以下「かたじけなく」まで、北の方の詞。 『紫明抄』は「寿則多辱」(荘子、外篇、天地第十二)を指摘。 【思うたまへ】- 明融臨模本「思給へ」送り仮名無し。大島本「思ふたまへ」と表記する。「ふ」はウ音便形の誤表記と見て、「思うたまへ」と校訂する。 【松の思はむことだに、恥づかしう】- 「松」は長寿で名高い高砂の松。『源氏釈』は「いかでなほありと知らせじ高砂の松の思はむことも恥ずかし」(何とかして今でも生きていると知らせまい、長寿で有名な高砂の松にまだ生きているのかと思われるのも恥ずかしいから)(古今六帖五、名を惜しむ、三〇五七)を指摘。『源氏物語新釈』は「いたづらに世にふる物と高砂の松も我をや友と見るらむ」(無為に生きている者だと高砂の松もわたしのことを友達と思うことだろうか)(拾遺集雑上、四六三 、紀貫之)を指摘する。 【思うたまへはべれば】- 明融臨模本「思給へ侍れは」、大島本「おもふたまへ侍れは」。語法的には「おもひたまへ」であるが、明融臨模本は送り仮名、無し。大島本では「おもふ」と仮名遣いを誤った表記(正しくはウ音便形「う」)である。会話文中の用例であるので、「思う」と校訂する。「たまへ」(謙譲の補助動詞)、「はべれ」(丁寧の補助動詞)、「恥ずかしく存じられますので」の意。 【百敷に行きかひはべらむことは】- 「百敷」は歌語。「はべら」(丁寧の補助動詞)は謙譲の意と考える。「む」(推量の助動詞、婉曲)。 【かしこき仰せ言をたびたび承りながら】- 今回の命婦の訪問以前にも、北の方に対して帝からの度々の参内の勧誘があったことがわかる。 |
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2.2.15 | 若宮は、どのようにお考えなさっているのか、参内なさることばかりお急ぎになるようなので、ごもっともだと悲しく拝見しておりますなどと、ひそかに存じております由をご奏上なさってください。 不吉な身でございますので、こうして若宮がおいでになるのも、忌まわしくもあり畏れ多いことでございます」 |
若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたい御様子をお見せになりますから、私はごもっともだとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申し上げてくださいませ。良人も早く亡くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私が御いっしょにおりますことは、若宮のために縁起のよろしくないことと恐れ入っております」 |
【急ぐめれば】- 「めり」(推量の助動詞、視界内推量)は北の方が若宮の態度を直接見て推量するニュアンス。接続助詞「ば」の受ける文脈がないので、文はここで切ってもよい。 【ことわりに悲しう】- 若宮の参内を急ぐ気持ちは、北の方からみれば「いかに思ほし知るにか」であるが、この「ことわり(道理)」は若宮の父親(帝)を恋しがる全般的な態度をさして「ことわりに悲しう」(もっともなことだと、悲しく)といっているのである。 【思うたまふる】- 明融臨模本には「思たまふ(ふ$へ<朱>)る」とあり、後人の朱筆で「ふ」を「へ」と訂正する。本来の本文は「たまふる」。一方、大島本は「おもふたまへる」とある。大島本「桐壺」帖は、他の飛鳥井雅康筆の帖とは違って、後写の道増筆であるので、明融臨模本の訂正後の本文に従ったものか。なお他の定家本系の池田本は「思たまふる」とあり、明融臨模本の表記と同じ。定家本系の本来の本文。その他の定家本系では、横山本は大島本と同じく「おもふたまへる」とある。肖柏本も「思ひたまへる」。三条西家本と書陵部本は「思給へる」と表記する。定家本の校訂過程の反映(第二次本)と想像する。その他に「思」の送り仮名の有無と「ふ」のウ音便形の誤表記の異同の問題があるが、会話文中の用例なので「思う」と校訂する。なお、河内本系諸本と別本諸本は「思たまふる」とある。ここは、「たまふる」(謙譲の補助動詞、連体形)かまたは「たまへる」(謙譲の補助動詞+完了の助動詞、存続の意)かの相違がある。後者には母北の方が以前から思っていたというニュアンスが出てくる。 【ゆゆしき身】- 娘に先立たれた逆縁の不吉な身の上。 【かくておはしますも】- 主語は若宮。敬語の存在によってわかる。 |
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2.2.16 | とおっしゃる。 若宮はもうお寝みになっていた。 |
などと言った。そのうち若宮ももうお寝みになった。 |
【宮は大殿籠もりにけり】- 「に」(完了の助動詞)「けり」(過去の助動詞)。訪問が長時間に及んだため、若宮はすでにお寝みになってしまわれていた、というニュアンス。 |
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2.2.17 | 「拝見して、詳しくご様子も奏上いたしたいのですが、帝がお待ちあそばされていることでしょうし、夜も更けてしまいましょう」と言って急ぐ。 |
「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしく御様子も陛下へ御報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それではあまりおそくなるでございましょう」 と言って命婦は帰りを急いだ。 |
【見たてまつりて、くはしう】- 以下「夜ふけ侍ぬへし」まで命婦の詞。命婦が若宮を。 【御ありさま】- 明融臨模本「御」の傍注に「ミ」とある。「みありさま」と読む。 【待ちおはしますらむに】- 青表紙本系の明融臨模本、池田本、横山本、大島本は「まちおはしますらんに」。肖柏本、三条西家本、書陵部本は「まちおはしますらんを」。河内本系諸本、別本諸本は「まちおはしますらんに」。「らむ」は、推量の助動詞、視界外推量。帝が宮中で待っているだろうことを、命婦の推測するニュアンス。「に」は接続助詞、順接の意、「お待ちあそばしていることであろうから」。しかし、順接といっても下に直接受ける語句はない。並列の構文。 【夜更けはべりぬべし】- 「ぬ」(完了の助動詞、確述)「べし」(推量の助動詞、推量)、「夜が更けてしまいましょう」の意で、夜が更けてしまったのではない。 【とて急ぐ】- 「急ぐ」には、せく、急ぐ、意と、準備する意とがある。「といひながら帰り支度を始める」(今泉忠義)。 |
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2.2.18 | 「 |
「子を思う親心の悲しみの堪えがたいその一部だけでも、晴らすほどに申し上げとうございますので、個人的にでもゆっくりとお出くださいませ。 数年来、おめでたく晴れがましい時にお立ち寄りくださいましたのに、このようなお悔やみのお使いとしてお目にかかるとは、返す返すも情けない運命でございますこと。 |
「子をなくしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公のお使いでなく、気楽なお気持ちでお休みがてらまたお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとは何ということでしょう。返す返す運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。 |
【暮れまどふ心の闇も】- 以下「心の闇になむ」まで、北の方の詞。冒頭の「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだにはるくばかりに」は五七五七七の和歌の形式である。会話の中に和歌がひっそりと織り込められている。『源氏釈』は「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を指摘。「闇」は「暮れ」の縁語。古歌の語を引用して親心のぐちを語る。その中に更衣の宮仕えの理由も語られる。 【聞こえまほしうはべるを】- 北の方が命婦に。「まほし」(希望の助動詞)「はべる」(丁寧の補助動詞)「を」(接続助詞、順接)、「申し上げとうございますので」の意。 【うれしく面だたしきついで】- 若宮誕生、若宮御袴着の祝いなどの折をさす。 【立ち寄りたまひしものを】- 「し」(過去助動詞)、過去の体験が北の方にとって思い出される。「を」は、接続助詞の逆接とも、終助詞の詠嘆とも、特定できにくい。 |
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2.2.19 | これもわりなき |
生まれた時から、心中に期待するところのあった人で、亡き夫大納言が、臨終の際となるまで、『ともかく、わが娘の宮仕えの宿願を、きっと実現させ申しなさい。 わたしが亡くなったからといって、落胆して挫けてはならぬ』と、繰り返し戒め遺かれましたので、これといった後見人のない宮仕え生活は、かえってしないほうがましだと存じながらも、ただあの遺言に背くまいとばかりに、出仕させましたところ、身に余るほどのお情けが、いろいろともったいないので、人にあるまじき恥を隠し隠ししては、宮仕え生活をしていられたようでしたが、人の嫉みが深く積もり重なり、心痛むことが多く身に添わってまいりましたところ、横死のようなありさまで、とうとうこのようなことになってしまいましたので、かえって辛いことだと、その畏れ多いお情けを存じております。 このような愚痴も理屈では割りきれない親心の迷いです」 |
故人のことを申せば、生まれました時から親たちに輝かしい未来の望みを持たせました子で、父の大納言はいよいよ危篤になりますまで、この人を宮中へ差し上げようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、確かな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましてはただ遺言を守りたいばかりに陛下へ差し上げましたが、過分な御寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、皆さんの御嫉妬の積もっていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深い御愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」 |
【生まれし時より】- 以下、更衣の宮仕えの理由を語る。 【思ふ心ありし人にて】- 望みをかけていた娘で、の意。具体的に当時における娘をもった親の望みといえば、宮中に入内させて、寵愛をうけて御子をもうけ、帝や皇室との関係をいっそう深め、家門一族の繁栄につながることを願うこと。 【故大納言】- この巻では、「大納言」としか呼称されていない。後の「須磨」巻で、明石入道の口から叔父の「按察使大納言」という紹介がなされる。大納言の兄は、大臣であったという。この巻を読むかぎりでは、大納言の娘として入内すれば、更衣から始まって、女御、さらにあわよくば、父が健在で大臣の地位にまで上れば、中宮という可能性も開けてこよう、という家柄。 【ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな】- 故大納言の北の方に対する遺言の内容。副詞「ただ」は命令や意志を表す語句と呼応して、「何でもいいから」「ともかく」の意を表す。『集成』『新大系』は「ただ」以下を故大納言の遺言とする。一方『古典セレクション』では「ただ」を「と返す返す諌めおかれはべりしかば」に係る語と解して「この人の」以下を故大納言の遺言とする。入内(結婚)を「宮仕え」という。「この人の宮仕えの本意」とは、娘自身の意志ではなく、父大納言の意志、宿願である。「させ」(使役の助動詞、娘をして)「たてまつれ」(謙譲の補助動詞、命令形)。 【後見思ふ人】- 明融臨模本の本行本文には「ゝしろみ思へき人」とあり、「へき」をやや細めの斜線二本で上からミセケチにする。後人のミセケチと考えられる他のミセケチが文字の左側に「ヒ」とあるのとは方法を異にする。大島本には「うしろみ思ふ人」とある。よって、ここは明融臨模本の親本(定家本)の書本には「へき」があったのだが、定家はそれをミセケチにしたものと推測する。明融臨模本では定家の校訂跡をそのままに書承したものと判断し、「へき」を削除する。 【横様なるやうにて】- 「横 ヨコサマ」(北野本日本書紀・最勝王経古点)。清音で読む。横死のようなかたちで、寿命を全うすることなく、の意。 |
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2.2.20 | と、 |
と、最後まで言えないで涙に咽んでいらっしゃるうちに、夜も更けてしまった。 |
こんな話をまだ全部も言わないで未亡人は涙でむせ返ってしまったりしているうちにますます深更になった。 | |||||||||||||||||||||
2.2.21 | 「主上様もご同様でございまして。 『御自分のお心ながら、強引に周囲の人が目を見張るほど御寵愛なさったのも、長くは続きそうにない運命だったからなのだなあと、今となってはかえって辛い人との宿縁であった。 決して少しも人の心を傷つけたようなことはあるまいと思うのに、ただこの人との縁が原因で、たくさんの恨みを負うなずのない人の恨みをもかったあげくには、このように先立たれて、心静めるすべもないところに、ますます体裁悪く愚か者になってしまったのも、前世がどんなであったのかと知りたい』と何度も仰せられては、いつもお涙がちばかりでいらっしゃいます」と話しても尽きない。 泣く泣く、「夜がたいそう更けてしまったので、今夜のうちに、ご報告を奏上しよう」と急いで帰参する。 |
「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながらあまりに穏やかでないほどの愛しようをしたのも前生の約束で長くはいっしょにおられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁でつながれていたのだ、自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信を持っていたが、あの人によって負ってならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって湿っぽい御様子ばかりをお見せになっています」 どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、 「もう非常に遅いようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」 と言って、帰る仕度をした。 |
【主上もしかなむ】- 以下「おはします」まで、命婦の詞。命婦は帝のことを「主上(うへ)」と呼称する。副詞「しか」は、北の方の「かへりてはつらく」を受けて、「なむ」の下に省略された「ある」などの語にかかる。北の方と同じようにある、という意。 【我が御心ながら】- 以下「前の世ゆかしうなむ」まで、帝の詞を引用。ただし「我が御心」という言い方は、命婦が帝の言葉を伝えるにあたって帝に対する敬意が混じり込んだ表現である。体言の下に続く接続助詞「ながら」は逆接の意。 【思されしも】- 「思す」は「思う」の尊敬表現。ここも命婦の帝に対する敬意が紛れ込んだもの。「れ」(自発の助動詞)「し」(過去の助動詞)、帝が自らの体験に基づいて語っている。 【長かるまじきなりけり】- 「まじき」(打消し推量の助動詞、連体形)と「なり」(断定の助動詞)の間に「契り」「宿世」などの語が省略。「けり」過去の助動詞、詠嘆の意。 【つらかりける人の契りになむ】- 「人の契り」で一語。「人」は桐壺更衣をさすが特に意味はなく「契り」に意味がある。「因縁」「約束事」の意。 【世にいささかも】- 「世に」副詞は下の否定語「あらじ」に係る。決して--ない、少しも--ない、の意を表す。 【さるまじき人の恨み】- 連語「さるまじき」の「さ」は「恨みを負う」をさす。 【前の世ゆかしうなむ】- 現世のことはすべて前世からの因縁によるとする仏教思想。係助詞「なむ」の下に「おぼゆる」(連体形)などの語が省略。 【語りて尽きせず。泣く泣く】- 命婦の会話の途中に地の文が挿入されているので、ナレーターの文章のなような印象を与える。 【夜いたう更けぬれば】- 以下「御返り奏せむ」まで命婦の詞の続き。 【急ぎ参る】- 「急いで帰参する」とあっても、すぐに場面が変わるわけでない。物語は、その辞去の場面を以下に詳細に語るのである。 |
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2.2.22 | 月は入り方で、空が清く澄みわたっているうえに、風がとても涼しくなって、草むらの虫の声ごえが涙を誘わせるようなのも、まことに立ち去りがたい庭の風情である。 |
落ちぎわに近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人の悲しみを促すような虫の声がするのであるから帰りにくい。 |
【月は入り方の、空清う澄みわたれるに】- 「月は入り方」の格助詞「の」は、同格を表し、ここで一呼吸おいて読むのが正しいのだろうが、最初音読した折には「入り方の空」というような連続した文章の印象を与えることも無視できない。ここの「の」には同格と時間の意の二重の表現性がある。接続助詞「に」は添加の意。なお大島本「月はいりかたに」とある。独自異文である。「夕月夜のをかしき程に」「夜更けぬべし」「夜も更けぬ」そして「月は入り方の」というように時間の経過が語られている。 【虫の声ごゑもよほし顔なるも】- 擬人法である。「もよほす」の目的語は「涙」を。 |
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2.2.23 | 「鈴虫が声をせいいっぱい鳴き振るわせても 長い秋の夜を尽きることなく流れる涙でございますこと」 |
鈴虫の声の限りを尽くしても 長き夜飽かず降る涙かな |
【鈴虫の声の限りを尽くしても--長き夜あかずふる涙かな】- 命婦の歌。「ふる」は「振る」と「降る」との掛詞。「振る」は「鈴虫」の「鈴」と縁語。なお、「鈴虫」は今の「松虫」。虫の声そのものよりも、「ふる(涙を流しながらずっと暮して来た)」という語句を呼び起こすために、その縁語である「鈴」すなわち「鈴虫」が出てくる、という小道具の使われ方なのである。 |
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2.2.24 | お車に乗りかねている。 |
車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。 |
【えも乗りやらず】- 副詞「え」は否定語「ず」(打消し助動詞)と呼応して不可能の意を表す。補助動詞「やる」は下に否定語を伴って、「--しきれない」の意を表す。 |
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2.2.25 | 「ただでさえ虫の音のように泣き暮らしておりました荒れ宿に さらに涙をもたらします内裏からのお使い人よ |
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に 露置き添ふる雲の上人 |
【いとどしく虫の音しげき浅茅生に--露置き添ふる雲の上人】- 北の方の返歌。相手の歌の語の「鈴虫」を「虫」、「声」を「音」、「涙」を「露」と言い替えて詠み返す。「雲の上人」とは命婦をいう。『紫明抄』は「五月雨に濡れし袖にいとどしく露置き添ふる秋のわびしさ」(後撰集秋中、二七七 、近衛更衣)を指摘。『全集』は「わが宿や雲の中にも思ふらむ雨も涙もふりにこそ降れ」(伊勢集)も指摘する。 |
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2.2.26 | かごとも |
恨み言もつい申し上げてしまいそうで」 |
かえって御訪問が恨めしいと申し上げたいほどです」 |
【かごと】- 「カコト [Cacoto] カゴト [Cagoto]」(日葡辞書)「カゴト [Cagoto] 仮初ノ事」(日葡辞書補遺)。「かごと」(古典セレクション等)「かこと」(集成・新大系等)両方ある。恨み言、愚痴の意。 |
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2.2.27 | と言わせなさる。 趣きのあるような御贈物などあらねばならない時でもないので、ただ亡き更衣のお形見にと、このような入用もあろうかとお残しになった御衣装一揃いに、御髪上げの調度のような物をお添えになる。 |
と未亡人は女房に言わせた。意匠を凝らせた贈り物などする場合でなかったから、故人の形見ということにして、唐衣と裳の一揃えに、髪上げの用具のはいった箱を添えて贈った。 |
【言はせたまふ】- 「せ」(使役の助動詞)、北の方が女房をして、「言わせなさる」意。使者は帰参のため座をたち車の方に移動しかけている。 【御髪上げ】- 明融臨模本の傍注に「ミ」とあるので「みぐしあげ」と読む。 【調度めく物添へたまふ】- 「調度」は「てうど」(古典セレクション・新大系等)、「でうど」(集成)。「古くは「でうど」、色葉字類抄の雑物類に「調」「度」ともに濁点があり「畳字」の部には「調」に清、「度」に濁の点があって清濁は定まらない。あるいは呉音デウから漢音テウへの推移という一般的傾向を反映した現象(漢音読みのときの「度」は連濁)かと思われるが定かでない」(小学館古語大辞典)。命婦は形見の品を受け取って、ここで辞去した。 |
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2.2.28 | 若い女房たちは、悲しいことは言うまでもない、内裏の生活を朝な夕なと馴れ親しんでいるので、たいそう物足りなく、主上のご様子などをお思い出し申し上げると、早く参内なさるようにとお勧め申し上げるが、「このように忌まわしい身が付き随って参内申すようなのも、まことに世間の聞こえが悪いであろうし、また、しばしも拝さずにいることも、気がかりに」お思い申し上げなさって、気分よくさっぱりとは参内させなさることがおできになれないのであった。 |
若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住まいをしなれていて、寂しく物足らず思われることが多く、お優しい帝の御様子を思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにと促すのであるが、不幸な自分がごいっしょに上がっていることも、また世間に批難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、結局若宮の宮中入りは実行性に乏しかった。 |
【若き人びと、悲しきことは】- 視点は命婦が辞去した後の若い女房たちの素直で率直な気持ちを語り、また一方で、そうとも決断できない北の方の複雑な心境を語る。 【そそのかしきこゆれど】- 主語は若宮付きの若い女房たち。 【かく忌ま忌ましき身の】- 以下「いとうしろめたう」まで北の方の心内文が後半は地の文に融合している。「人聞き憂かるべし」は北の方の憂慮。「後ろめたう思ひきこえて」というように地の文の「思う」を連用修飾した表現になっている。 【添ひたてまつらむも】- 我身が若宮にお付き添い申しての意。 【見たてまつらで】- 北の方が若宮を。 【すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり】- 「すがすが(清清)と」(副詞)は心境的に迷いやためらいを捨てたすっきりした状態」(小学館古語大辞典)。若宮を今回はもちろんんのこと暫く先まで参内させなかったというニュアンスである。以上で、更衣の邸を舞台とした物語は切り上げられる。 |
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第三段 命婦帰参 |
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2.3.1 | 命婦は、「まだお寝みあそばされなかったのだわ」と、しみじみと拝し上げる。 御前にある壺前栽がたいそう美しい盛りに咲いているのを御覧あそばされるようにして、しめやかにおくゆかしい女房ばかり四、五人を伺候させなさって、お話をさせておいであそばすのであった。 |
御所へ帰った命婦は、まだ宵のままで御寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして凡庸でない女房四、五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。 |
【命婦は、「まだ大殿籠もらせたまはざりける」と】- 場面は宮中の清涼殿に変わる。「まだ」以下「ざりける」まで、命婦の心内文、驚きの意。主語は帝。 【御前の壺前栽】- 清涼殿と後凉殿との間にある前栽。 【御物語せさせたまふなりけり】- 「させ」(尊敬の助動詞)と解し「お話をしていらっしゃのであった」(古典セレクション等)、「させ」(使役の助動詞)と解し「お話しをさせていらっしゃることだ」(新大系)。帝は主に聞き役に回っている場面であろう。 |
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2.3.2 | このごろ、 いとこまやかにありさま あはれなりつること |
最近、毎日御覧なさる「長恨歌」の御絵、それは亭子院がお描きあそばされて、伊勢や貫之に和歌を詠ませなさったものだが、わが国の和歌や唐土の漢詩などをも、ひたすらその方面の事柄を、日常の話題にあそばされている。 たいそう詳しく里の様子をお尋ねあそばす。 しみじみとした趣きをひそかに奏上する。 お返事を御覧になると、 |
このごろ始終帝の御覧になるものは、玄宗皇帝と楊貴妃の恋を題材にした白楽天の長恨歌を、亭子院が絵にあそばして、伊勢や貫之に歌をお詠ませになった巻き物で、そのほか日本文学でも、支那のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家の様子をお聞きになった。身にしむ思いを得て来たことを命婦は外へ声をはばかりながら申し上げた。未亡人の御返事を帝は御覧になる。 |
【このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵】- 以下「枕言にせさせたまふ」までは帝の最近の日常生活を語った文章が挿入されている。「長恨歌の御絵」は、『白氏文集』巻十二「長恨歌」の内容を屏風絵に描いたもの。 【亭子院の描かせたまひて】- 以下「伊勢、貫之に詠ませたまへる」まで「長恨歌の御絵」に対する説明を挿入。亭子院は宇多天皇(八八七年~八九七年まで在位)。「せ」(尊敬の助動詞)「たまふ」(尊敬の補助動詞)、最高敬語。実際は宇多天皇が絵師に命じて描かせたものでもこのように表現する。 【伊勢、貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも】- 伊勢は宇多天皇の皇后付きの女房、著名な歌人。『源氏物語』でも伊勢の名前とその引歌は女流歌人の中で最も多く出てくる。作者が意識していた歌人である。紀貫之は『古今和歌集』の撰者としても有名な歌人。貫之の歌も『源氏物語』に男性歌人中最も多く出てくる。「大和言の葉」は和歌のこと。「唐土の詩」は漢詩のこと。 【その筋】- 長恨歌の玄宗皇帝が愛妃楊貴妃に死別したような愛する人に先立たれた悲しい話題。 【いとこまやかに】- 以下再び物語の現時点に戻って語る。 |
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2.3.3 | 「たいへんに畏れ多いお手紙を頂戴いたしましてはどうしてよいか分かりません。 このような仰せ言を拝見いたしましても、心の中はまっくら闇に思い乱れておりまして。 |
もったいなさをどう始末いたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せを承りましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。 |
【いともかしこきは】- 以下和歌の「静心なき」まで北の方の文。「かしこき」の下に「御手紙を賜りて」のような語句が省略されているとみてよい。 【かかる仰せ言】- 前に「ほど経ばすこしうち紛るることもやと」から「小萩がもとを思ひこそやれ」とあった帝の手紙の文と和歌に示された、北の方に参内せよという言葉と若君を心配している内容をさす。 |
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2.3.4 | 荒い風を防いでいた木が枯れてからは 小萩の身の上が気がかりでなりません」 |
荒き風防ぎし蔭の枯れしより 小萩が上ぞしづ心無き |
【荒き風ふせぎし蔭の枯れしより--小萩がうへぞ静心なき】- 北の方の返歌。帝の和歌にあった「風」「小萩」を詠み込んで返す。「蔭」は母桐壺更衣、「小萩」は若宮をさす。「ふせぎし蔭の枯れしより」とは母更衣の死をさすが、それ以後「静心なき」とは、父帝の存在を軽んじたと非難されかねない詠み方である。「静心」は連語なので「しづごころ」と濁音で読む。『集成』『新大系』は清音「いづこころ」と読む。 |
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2.3.5 | などやうに いとかうしも |
などと言うようにやや不謹慎なのを、気持ちが静まらない時だからとお見逃しになるのであろう。 決してこう取り乱した姿を見せまいと、お静めなさるが、まったく堪えることがおできあそばされず、初めてお召しあそばした年月のことまであれこれと思い出され、何から何まで自然とお思い続けられて、「片時の間も離れてはいられなかったのに、よくこうも月日を過せたものだ」と、あきれてお思いあそばされる。 |
というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのために落ち着かない心で詠んでいるのであるからと寛大に御覧になった。帝はある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それが御困難であるらしい。はじめて桐壼の更衣の上がって来たころのことなどまでがお心の表面に浮かび上がってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。 |
【などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし】- 『一葉集』は「乱りがはしきを」からを「草子のことは也」と指摘。『湖月抄』は「などやうに」からを「草子地」と指摘する。「などやうに」という引用要約のしかたや「乱りがはし」という批評批判、そして「許すべし」という推量表現には、語り手の口調と意見が言い込められている。 【いとかうしも見えじと】- 「かう」は取り乱した姿をさす。 【さらにえ忍びあへさせたまはず】- 副詞「さらに」は否定語「ず」と呼応して、「全然、決して、少しも--ない」の意を表す。副詞「え」は可能の意を表す。 【思し続けられて】- 「られ」自発の助動詞。自然と思い浮かんできて、の意。 【時の間も】- 以下「月日は経にけり」まで帝の心。「時の間」は片時の間、「おぼつかなかりし」は気掛かりであった、の意で、その間に「見ずには」などの語句が省略されている。過去助動詞「し」(連体形)は帝の過去の体験、過去の助動詞「けり」は詠嘆の意。 【かくても】- 更衣が亡くなった後をさす。 |
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2.3.6 | 「 「かくても、おのづから |
「故大納言の遺言に背かず、宮仕えの宿願をよく果たしたお礼には、その甲斐があったようにと思い続けていたが。 詮ないことだ」とふと仰せになって、たいそう気の毒にと思いを馳せられる。 「そうではあるが、いずれ若宮がご成長されたならば、しかるべき機会がきっとあろう。 長生きをしてそれまでじっと辛抱するがよい」 |
「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人への酬いは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかも皆夢になった」 とお言いになって、未亡人に限りない同情をしておいでになった。 「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日が来れば、故人に后の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」 |
【故大納言の遺言】- 以下「言ふかひなしや」まで帝の詞。入内することも「宮仕え」といった。「よろこび」はお礼を言うこと、お礼の気持ちを表すこと、の意。 【かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ】- 入内した甲斐。女御への引き立て。ずっとそう考え続けていたという。明融臨模本「思わたりつれ」の「わたり」は本文と一筆の補入。大島本には「思ひわたりつれ」とある。 【かくても】- 以下「思ひ念ぜめ」まで帝の詞。命婦を前にして述べた詞であるが、北の方に対して述べたような内容になっている。したがって、この内容は再び北の方にも伝えられたものであろう。「かくて」は更衣が亡くなったことをさす。 【さるべきついで】- 更衣の出仕に報いるしかるべき機会、具体的にどのようなことか不明。もし立坊ということであれば、まず第一皇子に譲位をして、同時にその春宮にこの第二皇子の若宮を就けることになろう。右大臣の娘弘徽殿女御腹の第一皇子を飛び越えて、後見のない更衣腹の第二皇子を春宮に立たせることは不可能である。 【命長くとこそ思ひ念ぜめ】- 係助詞「こそ」「め」(推量の助動詞、已然形)係結び。強調のニュアンス。「思ひ念ず」は心でじっとこらえる、がまんする、意。推量の助動詞「め」(已然形)は適当の意。--するのがよい、の意。 |
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2.3.7 | などと仰せになる。 あの贈物を帝のお目に入れる。 「亡くなった人の住処を探し当てたという証拠の釵であったならば」とお思いあそばしてもまったく甲斐がない。 |
などという仰せがあった。命婦は贈られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に逢って得て来た玉の簪であったらと、帝はかいないこともお思いになった。 |
【かの贈り物御覧ぜさす】- 命婦が帝のお目にかける。「さす」は使役の助動詞。主上の女房をして。「をかしき御贈り物」をさす。 【亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば】- 『白氏文集』「長恨歌」の方術士が楊貴妃の霊魂のありかを探し当てて、その証拠に金釵鈿合を持って帰ったという故事をふまえる。「ましか」反実仮想の助動詞。 【いとかひなし】- 副詞「いと」は下に打消しの語を伴って「全然--ない」の意を表す。 |
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2.3.8 | 「亡き更衣を探し行ける幻術士がいてくれればよいのだがな、 人づてにでも魂のありかをどこそこと知ることが |
尋ね行くまぼろしもがなつてにても 魂のありかをそこと知るべく |
【尋ねゆく幻もがなつてにても--魂のありかをそこと知るべく】- 帝の独詠歌。「幻」は幻術士、『長恨歌』の原文には「方士」とある。終助詞「もがな」願望の意を表す。「知るべく」の推量の助動詞「べく」(連用形、可能の意)は倒置法で「尋ねゆく幻もがな」に係る。 |
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2.3.9 | 絵に描いてある楊貴妃の容貌は、上手な絵師と言っても、筆力には限界があったのでまったく生気が少ない。 「大液の芙蓉、未央の柳」の句にも、なるほど似ていた容貌だが、唐風の装いをした姿は端麗ではあったろうが、慕わしさがあって愛らしかったのをお思い出しになると、花や鳥の色や音にも喩えようがない。 |
絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現は限りがあって、それほどのすぐれた顔も持っていない。太液の池の蓮花にも、未央宮の柳の趣にもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣の持った柔らかい美、艶な姿態をそれに思い比べて御覧になると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。 |
【絵に描ける】- 以下「よそふべき方ぞなき」まで帝の心内文と地の文とが融合したような性格の文章である。したがって、過去の助動詞「し」が二度使用されている。ここに示される感想や価値判断は帝の眼を通して語られたものである。 【大液芙蓉未央柳も】- 「長恨歌」に「大液芙蓉未央柳対此如何不涙垂」<大液の芙蓉未央の柳此に対ひて如何にしてか涙垂れざらむ>とあるのをふまえる。なお、『原中最秘抄』に「未央柳」について、藤原行成自筆本にはミセケチになっているという指摘がある。青表紙本系諸本にはすべて存在するが、河内本系諸本、別本の御物本、陽明文庫本、国冬本は「未央柳」の句がない。また『源氏釈』の一伝本の「源氏或抄物」所引の源氏物語の本文にもその句がない。 【げに通ひたりし容貌を】- 過去の助動詞「し」は、帝が「長恨歌」の屏風絵の楊貴妃の顔形を見て、それが詩に「大液芙蓉未央柳」と歌われていたのによく似ていたというニュアンス。「を」は逆接の接続助詞。 【唐めいたる】- 以下「ありけめ」までを挿入句とみて、「通ひたりし容貌」は「なつかしう」以下に続くとみる説(完訳)もある。 【うるはしうこそありけめ】- 過去推量の助動詞「けめ」は、実際の楊貴妃の姿を想像して「端麗であったろう」というのである。文脈は、楊貴妃の容貌から桐壺更衣の人柄へと比較され転じていくのであるから、逆接的な流れであるが、終止形とみてもよいだろう。【ありけめ】-明融臨模本「ありけめありけめ」とあり、後出の「ありけめ」を細い斜線三本でその上からミセケチにする。親本に存在した訂正跡をそのまま書承したものと判断する。同様の訂正跡「思へき」に見られる。明らかな衍字の訂正。 【なつかしうらうたげなりしを】- 以下桐壺更衣を思い出し比較する。過去の助動詞「し」は、帝が生前の桐壺更衣を思い出している。河内本系諸本には、「らうたけなりし」の下に「ありさまはをみなへしの風になひきたるよりもなよひてなてしこの露にぬれたるよりもらうたくなつかしかりしかたちけはひを」とあり、別本の陽明文庫本、国冬本も、同様の文章がある(若干の異同を含む)。 |
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2.3.10 | 朝夕の口癖に、「比翼の鳥となり、連理の枝となろう」とお約束あそばしていたのに、思うようにならなかった人の運命が、永遠に尽きることなく恨めしかった。 |
お二人の間はいつも、天に在っては比翼の鳥、地に生まれれば連理の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。 |
【朝夕の言種に】- 帝の日常生活の様子が挿入されて語られる。 【翼をならべ、枝を交はさむ」と】- 「長恨歌」に「在天願作比翼鳥在地願為連理枝」<天に在らば願はくは比翼の鳥作らむ地に在らば願はくは連理の枝為らむ>とあるのをふまえる。ここから「尽きせず恨めしき」までも帝の心内文。「言種」とあるのでむしろ詞文に近い。それと地の文が融合したような文章である。視点は帝の心と語り手の地の文とを融通無碍に行き来し、心境も一体化している。 【尽きせず恨めしき】- 「長恨歌」に「此恨綿綿無絶期」<此の恨み綿綿として絶ゆる期無けむ>とあるのをふまえる。 |
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2.3.11 | いとすさまじう、ものしと このごろの いとおし |
風の音や、虫の音を聞くにつけて、何とはなく一途に悲しく思われなさるが、弘徽殿女御におかれては、久しく上の御局にもお上がりにならず、月が美しいので、夜が更けるまで管弦の遊びをなさっているようである。 実に興ざめで、不愉快だとお聞きあそばす。 最近のご様子を拝する殿上人や女房などは、はらはらする思いで聞いていた。 たいへんに気が強くてとげとげしい性質をお持ちの方なので、何ともお思いなさらず無視して振る舞っていらっしゃるのであろう。 月も沈んでしまった。 |
秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになる時、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿の宿直にもお上がりせずにいて、今夜の月明に更けるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このころの帝のお心持ちをよく知っている殿上役人や帝付きの女房なども皆弘徽殿の楽音に反感を持った。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。 月も落ちてしまった。 |
【風の音、虫の音につけて】- 物語は再び現在にもどる。 【上の御局】- 清涼殿の夜の御殿のすぐ北隣にある弘徽殿の上局の間。 【遊びをぞしたまふなる】- 「なる」は伝聞推定の助動詞。帝の耳に入ってくるのである。 【いとおし立ち】- 以下「なるべし」まで、『首書源氏物語』は「地」と草子地であることを指摘。『岷江入楚』は「ことにもあらず」以下を「草子地なり」と指摘する。弘徽殿女御の強い性格を語る。 【ことにもあらず思し消ちて】- 主語は弘徽殿女御。桐壺更衣の死や帝の悲嘆を。問題にもせず無視する、意。 【もてなしたまふなるべし】- 「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)の主体者は語り手である。 【月も入りぬ】- 前に「夕月夜のをかしきほどに」とあった。十日頃までの月が沈んだ。時刻は夜半を回った。 |
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2.3.12 | 「雲の上の宮中までも涙に曇って見える秋の月だ ましてやどうして澄んで見えようか、 |
雲の上も涙にくるる秋の月 いかですむらん浅茅生の宿 |
【雲の上も涙にくるる秋の月--いかですむらむ浅茅生の宿】- 帝の独詠歌。「雲の上」は宮中をさす。「月」と縁語。「すむ」は「住む」と「澄む」の掛詞。「らむ」(推量の助動詞、視界外推量)は、帝が遠く離れて思いを馳せているニュアンス。「浅茅生の宿」は若宮のいる里邸をさす。 |
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2.3.13 | お思いやりになりながら、灯芯をかき立てて油の尽きるまで起きておいであそばす。 右近衛府の官人の宿直申しの声が聞こえるのは、丑の刻になったのであろう。 人目をお考えになって、夜の御殿にお入りあそばしても、うとうととまどろみあそばすことも難しい。 |
命婦が御報告した故人の家のことをなお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。 右近衛府の士官が宿直者の名を披露するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになって御寝室へおはいりになってからも安眠を得たもうことはできなかった。 |
【灯火をかかげ尽くして】- 「長恨歌」に「秋燈挑尽未能眠」<秋の燈挑げ尽して未だ眠ること能はず>とあるのをふまえる。 【右近の司の宿直奏の声】- 宮中の夜警は近衛府が勤める。まず、左近衛府が亥の一刻(午後九時)から子の四刻(午前一時)まで勤め、次いで、右近衛府が丑一刻(午前一時)から寅四刻(午前五時)まで勤める。なお、子の刻は午前〇時を中心にした前後二時間。一刻はそれを四等分した三十分である。したがって、子の四刻は午前〇時三十分から午前一時まで、丑一刻は午前一時から午前一時三十まで。 【丑になりぬるなるべし】- 丑の刻は午前二時を中心にした前後二時間。「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)、物語中の人物と語り手が一体化した推量。 【まどろませたまふことかたし】- 「長恨歌」に「秋燈挑尽未能眠」<秋の燈挑げ尽して未だ眠ること能はず>とあるのをふまえる。 |
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2.3.14 | 朝になってお起きあそばそうとしても、「夜の明けるのも分からないで」とお思い出しになられるにつけても、やはり政治をお執りになることは怠りがちになってしまいそうである。 |
朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔の御追憶がお心を占めて、寵姫の在った日も亡いのちも朝の政務はお怠りになることになる。 |
【朝に起きさせたまふとても】- 帝の日常生活を語る。 【明くるも知らで」と】- 『源氏釈』は「玉簾明くるも知らで寝しものを夢にも見じと思ひけるかな」<夜が明けたことも知らずに寝ていたが、夢の中にさえ逢えなくなろうとは思ってもみなかったのに>(伊勢集)を指摘。更衣在世中は、夜の明けるのも知らずに一緒に寝ていたのにの意。さらに、夢の中でさえ逢えなくなったという意も含むか。 【怠らせたまひぬべかめり】- 「ぬ」(完了の助動詞、確述)「べか」(推量の助動詞、連体形「べかる」の「る」が撥音便化して無表記化した形)「めり」(推量の助動詞、視界内推量)、物語中の人物と語り手が一体化した推量。語り手の位置は、帝に非常に近いところにいる。 |
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2.3.15 | ものなども すべて、 「さるべき そこらの |
お食物などもお召し上がりにならず、朝餉には形だけお箸をおつけになって、大床子の御膳などは、まったくお心に入らぬかのように手をおつけあそばさないので、お給仕の人たちは皆、おいたわしいご様子を拝して嘆く。 総じて、お側近くお仕えする人たちは、男も女も、「たいそう困ったことですね」とお互いに言い合っては溜息をつく。 「こうなるはずの前世からの宿縁がおありあそばしたのでしょう。 大勢の人びとの非難や嫉妬をもお憚りあそばさず、あの方の事に関しては、御分別をお失いあそばされ、今は今で、このように政治をお執りになることも、お捨てになったようになって行くのは、たいへんに困ったことである」と、唐土の朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと嘆息するのであった。 |
お食欲もない。簡単な御朝食はしるしだけお取りになるが、帝王の御朝餐として用意される大床子のお料理などは召し上がらないものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人は皆この状態を歎いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。よくよく深い前生の御縁で、その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、その人に関することだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない、国家のためによろしくないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。 |
【朝餉】- 朝餉(あさがれい)の間で女房の配膳によって食べる簡単な食事。 【大床子の御膳】- 昼の御座で殿上人の配膳によって食べる正式な食事。 【いとわりなきわざかな】- 帝の身辺にお仕えする男女の詞。 【さるべき契りこそ】- 以下「いとたいだいしきわざなり」まで帝の身辺にお仕えする男女の詞。複数の人びとの詞であるが、対話というより噂の引用であるから、全体を一つの詞としておく。 【人の朝廷の例まで引き出で】- 先に「楊貴妃の例も引き出でつべうなりゆく」と、そこでは「つべくなりゆく」(--しそうになってゆく)という未来形で、地の文で語られていたが、ここでは物語中の人びとが、はっきり異国の朝廷の例、すなわち玄宗皇帝が楊貴妃に溺れて政治を顧みなくなったことを口に出して噂しているということで、それが現実のものとなったことをいう。 【ささめき嘆きけり】- 以上で、更衣の亡くなった年の秋の野分ころのある一夜を中心とした帝の日常生活を語った野分の章段が終わる。 |
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第三章 光る源氏の物語 |
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第一段 若宮参内(四歳) |
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3.1.1 | 月日がたって、若宮が参内なさった。 ますますこの世の人とは思われず美しくご成長なさっているので、たいへん不吉なまでにお感じになった。 |
幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さい時ですらこの世のものとはお見えにならぬ御美貌の備わった方であったが、今はまたいっそう輝くほどのものに見えた。 |
【月日経て、若宮参りたまひぬ】- その年の冬ころか。 【およすげ】- 「およすけ」と読む説(集成、古典セレクション等)と「およすげ」と読む説(完訳、新大系)がある(第一章第三節、参照)。 |
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3.1.2 | 翌年の春に、東宮がお決まりになる折にも、とても第一皇子を超えさせたく思し召されたが、ご後見すべき人もなく、また世間が承知するはずもないことだったので、かえって危険であるとお差し控えになって、顔色にもお出しあそばされずに終わったので、「あれほどおかわいがっていらっしゃったが、限界があったのだなあ」と、世間の人びともお噂申し上げ、弘徽殿女御もお心を落ち着けなさった。 |
その翌年立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、まただれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、御心中をだれにもお洩らしにならなかった。東宮におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間も言い、弘徽殿の女御も安心した。 |
【明くる年の春、坊定まりたまふにも】- 若宮の母更衣が亡くなった翌年の春、源氏四歳。 【いと引き越さまほしう思せど】- 帝は第一皇子を超えて第二皇子の若宮を春宮(皇太子)に立てたく思った、という地の文。 【さばかり思したれど、限りこそありけれ】- 世間の人びとの声。過去の助動詞「けれ」詠嘆の意。 【世人】- 明融臨模本に「の口伝」とあり、大島本には「のもしをそへてよむ也 世人後宇多御諱」とある。後宇多天皇は、諱は世仁、亀山天皇の第二子、在位1284~87年。天皇の諱を避けて「よのひと」と読んでいた。明融臨模本及び大島本の書入注記の時代が窺える。 【女御も御心落ちゐたまひぬ】- 弘徽殿女御は自分の生んだ第一皇子が春宮に決まったので、安堵した。 |
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3.1.3 | かの |
あの祖母北の方は、悲しみを晴らすすべもなく沈んでいらっしゃって、せめて死んだ娘のいらっしゃる所にでも尋ねて行きたいと願っていらっしゃった現れか、とうとうお亡くなりになってしまったので、またこのことを悲しく思し召されることこの上もない。 御子は六歳におなりのお年なので、今度はお分かりになって恋い慕ってお泣きになる。 長年お親しみ申し上げなさってきたのに、後に残して先立つ悲しみを、繰り返し繰り返しおっしゃっていたのであった。 |
その時から宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って一心に御仏の来迎を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。これは皇子が六歳の時のことであるから、今度は母の更衣の死に逢った時とは違い、皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今まで始終お世話を申していた宮とお別れするのが悲しいということばかりを未亡人は言って死んだ。 |
【かの御祖母北の方、慰む方なく思し沈みて】- 桐壺更衣の母北の方。娘の死以来気持ちの晴れることなく沈みこんで、の意。孫の若宮が東宮につけなかったことを悲観するような思慮の浅い人ではない。 【おはすらむ所にだに尋ね行かむ】- 推量の助動詞「らむ」(連体形、視界外推量の意)副助詞「だに」(最小限を挙げて実現を願う意)せめて娘のいらっしゃるところにだけでも行きたい、すなわち死にたい、の意。 【願ひたまひししるしにや】- 「し」(過去の助動詞)、「に」(断定の助動詞)「や」(係助詞、疑問)、北の方の身近で見ていた語り手の推測というニュアンス。 【またこれを悲しび思す】- 帝が北の方の死をお悲しみになること。 【御子六つになりたまふ年なれば】- 若宮の六歳の年、祖母北の方死去する。 【このたびは思し知りて】- 母親の死去した折は、まだ幼くて理解できなかったが、祖母の死去は六歳になっていたので、死の悲しみを理解した。 【年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを、見たてまつり置く悲しびをなむ、返す返すのたまひける】- 「たまひつるを」の「を」は接続助詞、逆接の意。謙譲の補助動詞「きこえ」と「たてまつり」は祖母が孫の若宮に対する敬意。祖母北の方が孫の若宮に「長年お親しみ申し上げていらしたのに、後にお残し申す悲しみを、繰り返し繰り返しおっしゃるのであった」という意。 |
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第二段 読書始め(七歳) |
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3.2.1 | 今は内裏にばかりお暮らしになっている。 七歳におなりになったので、読書始めなどをおさせになったところ、この世に類を知らないくらい聡明で賢くいらっしゃるので、空恐ろしいまでにお思いあそばされる。 |
それから若宮はもう宮中にばかりおいでになることになった。七歳の時に書初めの式が行なわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない聡明さに帝はお驚きになることが多かった。 |
【今は内裏にのみさぶらひたまふ】- 主語は若宮。 【七つになりたまへば】- 若宮七歳。祖母の死から一年を経過する。学問を始める年齢である。 【読書始め】- 読書始(ふみはじ)めの儀式。「せさせたまひて」の「させ」(使役の助動詞)「たまひ」(尊敬の補助動詞)、帝が若宮にさせなさる意。 |
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3.2.2 | 「 いみじき |
「今はどなたもどなたもお憎みなされまい。 母君がいないということだけでもおかわいがりください」と仰せになって、弘徽殿などにもお渡りあそばすお供としては、そのまま御簾の内側にお入れ申し上げなさる。 恐ろしい武士や仇敵であっても、見るとつい微笑まずにはいられない様子でいらっしゃるので、放っておくこともおできになれない。 姫皇女たちがお二方、この御方にはいらっしゃったが、お並びになりようもないのであった。 他の女御がたもお隠れにならずに、今から優美で立派でいらっしゃるので、たいそう趣きがある一方で気のおける遊び相手だと、どなたもどなたもお思い申し上げていらっしゃった。 |
「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけででもかわいがっておやりなさい」 と帝は些言いになって、弘徽殿へ昼間おいでになる時もいっしょにおつれになったりしてそのまま御簾の中にまでもお入れになった。どんな強さ一方の武士だっても仇敵だってもこの人を見ては笑みが自然にわくであろうと思われる美しい少童でおありになったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫宮をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子のほうがおきれいであった。姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。 |
【今は】- 以下「らうたうしたまへ」まで帝の詞。 【やがて御簾の内に入れたてまつりたまふ】- 謙譲の補助動詞「たてまつり」は帝の若宮に対する敬意。「帝が若宮をそのまま妃方の部屋の中にお入れ申し上げなさる」。異例のかわいがりようである。 【いみじき武士、仇敵なりとも】- 若宮の愛くるしい美貌を語る。 【えさし放ちたまはず】- 弘徽殿女御も若宮を放っておくことができない。 【女皇女たち二ところ、この御腹に】- 弘徽殿女御には二人の姫宮がいる。 【なずらひたまふべきだにぞなかりける】- 比肩することさえできなかった。若宮の女御子以上に愛くるしく美しいさま。 【御方々も隠れたまはず】- 「その他の妃方も姿をお隠しにならない」。普通は、姿を隠し顔は見せないのだが、若宮が幼少なのでお側近くでお相手している。 【うちとけぬ遊び種】- 「ぬ」(打消の助動詞)、気づまり、気のおける遊び相手。幼少ではあるが成人同様に気のおける相手だというもの。 |
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3.2.3 | 本格的な御学問はもとよりのこと、琴や笛の才能でも宮中の人びとを驚かせ、すべて一つ一つ数え上げていったら、仰々しく嫌になってしまうくらい、優れた才能のお方なのであった。 |
学問はもとより音楽の才も豊かであった。言えぼ不自然に聞こえるほどの天才児であった。 |
【わざとの御学問】- 正式の御学問。漢籍をさす。「学門 ガクモン」(色葉字類抄)、「学文 ガクモン」(文明本節用集)。 【琴笛の音】- 管弦の遊びの芸事。貴族にとって必要な嗜み。 【雲居を響かし】- 「雲居」は天空と宮中の両意をひびかす。 【すべて言ひ続けば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける】- 『首書源氏物語』は「すべて」以下を「地也」と草子地であることを指摘。『紹巴抄』は「人の御さま」以下を「双地と見るべし」と指摘する。「すべて」と総括し、「言い続け」ると、「ことごとし」く「うたて」き感じがする、というのは、側で見ていた語り手の口吻がそのまま語られているのであるが、それは若宮があまりにも優れすぎていることとともに、そのような人もこの世にいたのだと、人物の現実性、存在感を確かなものとする。 |
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第三段 高麗人の観相、源姓賜わる |
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3.3.1 | そのころ、 |
その当時、高麗人が来朝していた中に、優れた人相見がいたのをお聞きあそばして、内裏の内に召し入れることは宇多帝の御遺誡があるので、たいそう人目を忍んで、この御子を鴻臚館にお遣わしになった。 後見役のようにしてお仕えする右大弁の子供のように思わせてお連れ申し上げると、人相見は目を見張って、何度も首を傾け不思議がる。 |
その時分に高麗人が来朝した中に、上手な人相見の者が混じっていた。帝はそれをお聞きになったが、宮中へお呼びになることは亭子院のお誡めがあっておできにならず、だれにも秘密にして皇子のお世話役のようになっている右大弁の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鴻臚館へおやりになった。 相人は不審そうに頭をたびたび傾けた。 |
【そのころ】- 若宮七歳、学問を始めたころ。 【高麗人】- 高麗人(こまうど)。実際は渤海国の使節。 【聞こし召して】- 帝が「お耳にあそばして」。 【宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡めあれば】- 『寛平御遺誡』に「外蕃之人、必可召見、在簾中見之、不可直対耳」<外蕃の人は、必ず召見すべきときは、簾中に在りて之を見よ、直対すべからざるのみ>とあるのをさす。正しくは、「宮の内」に召すことを禁じたのではなく、御簾を隔てず直接対面することを禁じたのである。 【鴻臚館】- 外国使節の宿泊施設。七条朱雀にある。 【御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに】- 「御後見だちて仕うまつる」は「右大弁」を修飾する。「御子の御後見役としてお仕えしている右大弁」の意。右大弁は、太政官の三等官、従四位上相当。漢学に秀で実務にたけた者がなる。そのような右大弁が若宮の実質的後見役に任じられている。高麗人には、その右大弁の子供のように思わせての意。もちろん、高麗人は右大弁が御子の御後見役であることは知らない。物語の文章は、享受者には予め知らせておき、いっぽう物語中の人物は知らないでいることを並行して語ろうとする時、ままこのような表現をとることになる。 |
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3.3.2 | 「国の親となって、帝王の最高の地位につくはずの相をお持ちでいらっしゃる方で、そういう人として占うと、国が乱れ民の憂えることが起こるかも知れません。 朝廷の重鎮となって、政治を補佐する人として占うと、またその相ではないようです」と言う。 |
「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の輔佐をする人として見てもまた違うようです」 と言った。 |
【国の親となりて】- 以下「またその相違ふべし」まで、相人の占い。「国の親」は国の元首、日本国の場合、天皇をさす。「帝王の上なき位」の「の」は同格。「帝王としてこれ以上ない上の位」。「べき」(推量の助動詞、当然)、「きっと上るはずの相」。「おはします人の」の「の」も同格。「--でいらっしゃる方で」。「そなたにて見れば」の「そなた」は今まで見てきた「国の親となりて帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人」をさす。「見れば」は順接の確定条件を表わす。「占ってみると」。 【乱れ憂ふることやあらむ】- 「乱れ憂ふること」は、若宮の一身上に起こる乱れ憂え事とする説(対校、大系)と国家が乱れ人民が苦しむこととする説(講話、集成、完訳)がある。 【朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方にて見れば】- 朝廷の柱石となって国政を補佐する人とは、臣下の重鎮の人。皇族は補佐される側の人である。「見れば」は順接の既定条件。「またその相違ふべし」の「また」は「前者同様に」の意。「その相」とは「朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方」の相、「べし」(推量の助動詞、当然)、「きっと--であろう」。結局、相人は二通り観相したが、両方とも違うと否定した。 |
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3.3.3 | 右大弁も、たいそう優れた学識人なので、語り合った事柄は、たいへんに興味深いものであった。 漢詩文などを作り交わして、今日明日のうちにも帰国する時に、このようにめったにない人に対面した喜びや、かえって悲しい思いがするにちがいないという気持ちを趣き深く作ったのに対して、御子もたいそう心を打つ詩句をお作りになったので、この上なくお褒め申して、素晴らしいいくつもの贈物を差し上げる。 朝廷からもたくさんの贈物を御下賜なさる。 |
弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答にはおもしろいものがあった。詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終わろうとする期に臨んで珍しい高貴の相を持つ人に逢ったことは、今さらにこの国を離れがたくすることであるというような意味の作をした。若宮も送別の意味を詩にお作りになったが、その詩を非常にほめていろいろなその国の贈り物をしたりした。 朝廷からも高麗の相人へ多くの下賜品があった。 |
【博士】- 学識のある人。大学寮に諸道の博士がいるが、ここは普通名詞的に使われたもの。 【文など】- 漢詩文をさす。 【かくありがたき人】- 若宮をさす。 【かへりては】- 「却って」に「帰りて」をひびかす。お会いできてうれしかっただけに、かえって悲しい、の意。 |
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3.3.4 | 自然と噂が広がって、お漏らしあそばさないが、東宮の祖父大臣などは、どのようなわけでかとお疑いになっているのであった。 |
その評判から東宮の外戚の右大臣などは第二の皇子と高麗の相人との関係に疑いを持った。好遇された点が腑に落ちないのである。 |
【春宮の祖父大臣】- 一の親王の祖父。右大臣。弘徽殿女御の父親。 【思し疑ひてなむありける】- 以上で高麗人の相人の予言の段は終了。文末は「なむありける」で閉じられる。 |
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3.3.5 | わが |
帝は、畏れ多い考えから、倭相をお命じになって、既にお考えになっていたところなので、今までこの若君を親王にもなさらなかったが、「相人はほんとうに優れていた」とお思いになって、「無品の親王で外戚の後見のない状態で彷徨わすまい。 わが御代もいつまで続くか分からないものだから、臣下として朝廷のご補佐役をするのが、将来も頼もしそうに思われることだ」とお決めになって、ますます諸道の学問を習わせなさる。 |
聡明な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。それでほとんど同じことを占った相人に価値をお認めになったのである。四品以下の無品親王などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ終わるかしれぬのであるから、将来に最も頼もしい位置をこの子に設けて置いてやらねばならぬ、臣下の列に入れて国家の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉強をおさせになった。 |
【倭相を仰せて】- 「帝が日本流の観相をしかるべき人にお命じになって」。具体的にどのようなものか不明。「思しよりにける筋なれば」というように、帝は高麗人の観相以前に既に日本流の観相を行って考えを決めていた。 【この君を親王にも】- ここの「みこ」は親王をさす。今までの「みこ」は御子である。 【なさせたまはざりけるを】- 「を」接続助詞、順接の意。 【相人はまことにかしこかりけり】- 帝の心、高麗人の相人に対する感想。 【無品の親王の外戚の寄せなきにては】- 以下「頼もしげなめること」まで帝の心。親王の位は一品から四品まであり、それに叙せられない親王を「無品親王」という。母親の身分によって決まる。「外戚」は母方の親戚。 【わが御世もいと定めなきを】- 「を」接続助詞、順接、原因理由の意。わが治世もいつまで続くかわからないので。 【ただ人にて朝廷の御後見をする】- 「臣下として朝廷の御補佐をする」。「ただ人」は皇族以外の人、すなわち源氏に降籍することをさす。 |
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3.3.6 | 才能は格別聡明なので、臣下とするにはたいそう惜しいけれど、親王とおなりになったら、世間の人から立坊の疑いを持たれるにちがいなさそうにいらっしゃるので、宿曜道の優れた人に占わせなさっても、同様に申すので、源氏にして上げるのがよいとお決めになっていた。 |
大きな天才らしい点の現われてくるのを御覧になると人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子に変わろうとする野心を持つような疑いを当然受けそうにお思われになった。上手な運命占いをする者にお尋ねになっても同じような答申をするので、元服後は源姓を賜わって源氏の某としようとお決めになった。 |
【際ことに賢くて】- 主語は若宮。 【世の疑ひ負ひたまひぬべく】- 親王は皇位継承の資格があるので、皇太子になるのではとの疑いを抱かれる。 【宿曜の賢き道の人に勘へさせたまふにも】- 占星術の専門家に占わせる。 【同じさま】- 高麗人の相人、倭相の占いと同様。 【源氏になしたてまつるべく思しおきてたり】- 「たてまつる」(謙譲の補助動詞)は、本来語り手の若宮に対する敬意であるのが、帝が若宮を処遇することなので、帝の若宮に対する敬意の表れのようになったものであろう。源氏は臣下であり、皇族から見れば下ることである。帝がそのような地位に下すことを「--して上げる」とはおかしな言い方である。語り手の地位から見れば、源氏も皇族圏の人なので、--して上げる」といってもおかしくない。「思しおきて」は「思し掟つ」(他タ下二、連用形)。「帝は若宮を源氏にして差し上げるのが良いとお決めになっていた」。源氏降籍が決定した。 |
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第四段 先帝の四宮(藤壺)入内 |
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3.4.1 | 「 |
年月がたつにつれて、御息所のことをお忘れになる折がない。 「心慰めることができようか」と、しかるべき婦人方をお召しになるが、「せめて準ずる程に思われなさる人さえめったにいない世の中だ」と、厭わしいばかりに万事が思し召されていたところ、先帝の四の宮で、ご容貌が優れておいでであるという評判が高くいらっしゃる方で、母后がまたとなく大切にお世話申されていられる方を、主上にお仕えする典侍は、先帝の御代からの人で、あちらの宮にも親しく参って馴染んでいたので、ご幼少でいらっしゃった時から拝見し、今でもちらっと拝見して、 |
年月がたっても帝は桐壼の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。そうしたころ、先帝-帝の従兄あるいは叔父君-の第四の内親王でお美しいことをだれも言う方で、母君のお后が大事にしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典侍は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王の御幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。 |
【年月に添へて】- 再び帝の故桐壺更衣思慕の物語が語られる。帝にとって桐壺更衣は「年月に添へて御息所の御ことを思し忘るる折なし」という故人である。 【慰む】- 気が紛れる。忘れられない気持ちを忘れさせること。 【さるべき人びと】- 帝の気持ちを紛らす適当な姫君たち。 【なずらひに思さるるだにいとかたき世かな】- 帝の心。「故御息所に比肩できそうな人さえめったにいない世の中だな」。 【先帝の四の宮の】- 明融臨模本「帝」の傍注に朱書で「タイ」とあり、さらに墨筆で濁点符号があるので、「せんだい」と読む。大島本の傍注には「光孝」とある。三番目の「の」は格助詞、同格を表す。「四の宮で」の意。下の「御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします」と「母后世になくかしづききこえたまふ」は並列の構文。先帝と桐壺の帝との系譜は不明。「先帝」は桐壺の帝の直前の帝という意ではない。「先帝」という呼称に先の世の優れた帝、というニュアンスが込められている。 【かしづききこえたまふを】- 「を」格助詞、目的格を表す。前の並列の構文を受ける。「--方で、--方を」の意。 |
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3.4.2 | 「 ありがたき |
「お亡くなりになった御息所のご容貌に似ていらっしゃる方を、三代の帝にわたって宮仕えいたしてまいりまして、一人も拝見できませんでしたが、后の宮の姫宮さまは、たいそうよく似てご成長あそばしていますわ。 世にもまれなご器量よしのお方でございます」と奏上したところ、「ほんとうにか」と、お心が止まって、丁重に礼を尽くしてお申し込みあそばしたのであった。 |
「お亡れになりました御息所の御容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきました。非常にお美しい方でございます」 もしそんなことがあったらと大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮の御入内のことを懇切にお申し入れになった。 |
【亡せたまひにし御息所の御容貌に】- 以下「御容貌人になむ」まで、典侍の帝への奏上の詞。桐壺更衣との容貌の酷似をいう。 【三代の宮仕へに】- 典侍は先帝の時に任命された(集成)。桐壺の帝との間にもう一人の帝がいたことになる。『古典セレクション』では、先々代の時に任命された、とする。 【伝はりぬるに】- 「に」接続助詞、順接の意。 【え見たてまつりつけぬを】- 「を」接続助詞、逆接の意。 【まことにや】- 「本当かしら」。帝は、最初気持ちを紛らしてくれる人を求めていたが、今や故桐壺更衣に生き写しだという人に関心を寄せている。 【ねむごろに聞こえさせたまひけり】- 「丁重に礼儀を尽くして入内を申し入れあそばすのであった」。正式な入内の要請である。 |
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3.4.3 | 母后は、「まあ怖いこと。 東宮の母女御がたいそう意地が悪くて、桐壺の更衣が、露骨に亡きものにされてしまった例も不吉で」と、おためらいなさって、すらすらとご決心もつかなかったうちに、母后もお亡くなりになってしまった。 |
お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並みはずれな強い性格で、桐壷の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお崩れになった。 |
【あな恐ろしや】- 以下「例もゆゆしう」まで、母后の詞。 【春宮の女御】- 弘徽殿の女御は今は東宮の母なので、母后は「春宮の女御」呼称する。「いとさがなくて」という評判を聞いている。 【桐壺の更衣】- 母后は、故桐壺更衣のことを「桐壺の更衣」と呼称している。これが当時の一般的な呼称のしかたであった。「あらはにはかなくもてなされし例」というように聞いている。 |
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3.4.4 | さぶらふ |
心細い有様でいらっしゃるので、「ただ、わが姫皇女たちと同列にお思い申そう」と、たいそう丁重に礼を尽くしてお申し上げあそばす。 お仕えする女房たちや、御後見人たち、ご兄弟の兵部卿の親王などは、「こうして心細くおいでになるよりは、内裏でお暮らしあそばして、きっとお心が慰むように」などとお考えになって、参内させ申し上げなさった。 |
姫宮がお一人で暮らしておいでになるのを帝はお聞きになって、 「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」 となおも熱心に入内をお勧めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っておいでになるよりは、宮中の御生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、お付きの女房やお世話係の者が言い、兄君の兵部卿親王もその説に御賛成になって、それで先帝の第四の内親王は当帝の女御におなりになった。 |
【心細きさまにて】- 先帝は既に崩御されており、今母后も崩じられた。 【ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ】- 皇女同様に後見の心配はいらない、帝がすべて世話しようの主旨。実質的な入内要請。 【兵部卿の親王】- 『源氏物語』では、蛍兵部卿親王、匂兵部卿親王等、風流な親王が兵部卿になっている。 【かく心細くておはしまさむよりは】- 以下「御心も慰むべく」まで、四の宮の周囲の人びとの考え。地の文と融合して語られている。「べく」の下に「奉らむ」などの語句が省略されている。 |
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3.4.5 | 藤壺と申し上げる。 なるほど、ご容貌や姿は不思議なまでによく似ていらっしゃった。 この方は、ご身分も一段と高いので、そう思って見るせいか素晴らしくて、お妃方もお貶み申すこともおできになれないので、誰に憚ることなく何も不足ない。 |
御殿は藤壼である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしも不思議なまで、桐壼の更衣に似ておいでになった。この方は御身分に批の打ち所がない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶める言葉を知らなかった。 |
【藤壺と聞こゆ】- 「藤壺と申し上げる」。この前に「御局は」などの語句が省略されているのであろう。先帝の四の宮をただ「藤壺」と呼ぶのはおかしい。他では「宮」が付けられて呼称されている。藤壺は飛香舎、清涼殿の北側、弘徽殿の西側にある。『源氏物語』では、この先帝の四の宮(後の藤壺中宮)、その異腹の妹(藤壺女御)など、先帝の四の宮ゆかりの王族の女御が住む。 【げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえたまへる】- 「げに」(なるほど)とは帝の感想と語り手の感想が一致した表現である。桐壺の桐は薄紫の花をつける。また藤壺の藤も紫色の花をつける。後の紫の上も、その名のとおり「紫」である。なお葵の上との結婚の折の和歌にも「紫」の語句が出てくる。「紫」(高貴な色であるとともに褪せやすい色でもある)が隠された主題となっている。 【これは、人の御際まさりて】- 藤壺をさす。後に「かれは人の許しきこえざりしに」と対比して語る。語り手の両者批評の文章である。 |
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3.4.6 | あの方は、周囲の人がお許し申さなかったところに、御寵愛が憎らしいと思われるほど深かったのである。 ご愛情が紛れるというのではないが、自然とお心が移って行かれて、格段にお慰みになるようなのも、人情の性というものであった。 |
桐壼の更衣は身分と御愛寵とに比例の取れぬところがあった。お傷手が新女御の宮で癒されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しい御生活がかえってきた。あれほどのこともやはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。 |
【かれは、人の許しきこえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし】- 『岷江入楚』所引の三光院説に「草子地批判也」と指摘。「あやにくなり」「し」(過去の助動詞)「ぞ」「かし」という批評の言は語り手の意見である。しかし、草子地と指摘するなら、「これは」から以下をそうと指摘すべきである。 【思し紛るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり】- 『紹巴抄』は「双地なるへし」と指摘。帝の故桐壺更衣を愛情が薄らいでいくのを人間の自然の心のなせるわざとする、語り手の諦観がある。作者の言葉を選んだ微妙な表現である。「思し」「紛る」(自動詞)であって、「紛らす」(他動詞)とはない。更衣を思う気持ち、愛情が紛れる。「とはなけれど」、帝自身もちろん、周囲の人の目からもそのように見えるが。「おのづから」、自然と。「御心」「移ろひて」、元の人(故桐壺更衣)に対する御愛情が薄れて他の新しい人(藤壺)に移ってゆくようになって、「こよなく」は、以前の「慰むやとさるべき人びとを参らせたまへど」と比較して格段にの意。「思し」「慰む」、悲しみの気持ちが紛れる、また愛情が紛れる。「あはれなる」「わざ」「なりけり」、人情の自然というものであった、いかんともしがたい人間の心であるよ、という作者の気持ち。このような人間把握が人間の行動の底流に見据えられて物語は展開していく。 |
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第五段 源氏、藤壺を思慕 |
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3.5.1 | いづれの |
源氏の君は、お側をお離れにならないので、誰より頻繁にお渡りあそばす御方は、恥ずかしがってばかりいらっしゃれない。 どのお妃方も自分が人より劣っていると思っていらっしゃる人があろうか、それぞれにとても素晴らしいが、お年を召しておいでになるのに対して、とても若くかわいらしい様子で、頻りにお姿をお隠しなさるが、自然と漏れ拝見する。 |
源氏の君-まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く。-はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へも従って行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壼であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壼である。宮もお馴れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、皆それぞれの美を備えた人たちであったが、もう皆だいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壼の宮が出現されてその方は非常に恥ずかしがってなるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見ることになる場合もあった。 |
【源氏の君は】- 臣下に降ったので「源氏」という呼称で呼ばれる。 【御あたり】- 帝のお側。 【しげく渡らせたまふ御方】- 帝が頻繁にお渡りになるお方、すなわち藤壺。 【われ人に劣らむと思いたるやはある】- 挿入句。語り手の意見感想を間に入れて、後宮の妃方がいずれも気位い高く自負していらっしゃる方々であることを強調。 【うち大人びたまへる】- 他の妃方は既に年をめしている。 【いと若ううつくしげにて】- 藤壺は若々しくかわいらしげである。 【おのづから漏り見たてまつる】- 主語は源氏。自然と漏れ拝見する。先にも「おのづから御心移ろひて」とあったように、ここでも「おのづから」と語られている。父桐壺帝や子の光源氏の心の動きを、人情の自然、という趣旨で語っている。 |
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3.5.2 | 母御息所は、顔かたちすらご記憶でないのを、「大変によく似ていらっしゃる」と、典侍が申し上げたのを、幼心にとても慕わしいとお思い申し上げなさって、いつもお側に参りたく、「親しく拝見したい」と思われなさる。 |
母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍が言ったので、子供心に母に似た人として恋しく、いつも藤壼へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。 |
【影だにおぼえたまはぬを】- 母桐壺更衣が亡くなったのは、源氏三歳(数え年)の夏。「影」「だに」(副助詞)と強調されている。母の死去を理解できなかったことが、六歳の折の祖母死去の折に語られていた。 【いとよう似たまへり】- 典侍の詞には、容貌がとはないが、前後の文脈からそのように読める表現。 【いとあはれ】- 源氏の心。なつかしい、慕わしい、といったニュアンスが込められる。 【常に参らまほしく、「なづさひ見たてまつらばや】- 源氏の心。地の文から心内文に自然変化した文章表現。客観描写から主観描写へと心の高まりを感じさせる。 |
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3.5.3 | あやしくよそへきこえつべき なめしと つらつき、まみなどは、いとよう こよなう |
主上もこの上なくおかわいがりのお二方なので、「お疎みなさいますな。 不思議と若君の母君となぞらえ申してもよいような気持ちがする。 失礼だとお思いなさらず、いとおしみなさい。 顔だちや、目もとなど、大変によく似ているため、母君のようにお見えになるのも、母子として似つかわしくなくはない」などとお頼み申し上げなさっているので、幼心にも、ちょっとした花や紅葉にことつけても、お気持ちを表し申す。 この上なく好意をお寄せ申していらっしゃるので、弘徽殿の女御は、またこの宮ともお仲が好ろしくないので、それに加えて、もとからの憎しみももり返して、不愉快だとお思いになっていた。 |
帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。 「彼を愛しておやりなさい。不思議なほどあなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」 など帝がおとりなしになると、子供心にも花や紅葉の美しい枝は、まずこの宮へ差し上げたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壼の宮であったからそちらへ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨も再燃して憎しみを持つことになった。 |
【主上も】- 帝を「うへ」と呼称する。 【御思ひどちにて】- 帝にとってもこの上なく大切なお二人なので。 【な疎みたまひそ】- 以下「似げなからずなむ」まで帝の藤壺への詞。 【よそへきこえつべき】- 「あなたを若君の母君にお見立てしてよいような気がする」。藤壺にはこの言葉を聞いただけでは何のことか事情がわからないだろう。 【なめしと思さで】- 帝の唐突な発言を、また源氏が母君のようにお慕い申すことを、前後の文脈に掛かる両意を含んだ「なめし」であろう。 【つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ】- 「似」「たり」「し」(過去の助動詞)は帝の実感を伝える。敬語のないことに注意すべきである。桐壺更衣が藤壺に似ている、という意である。若君と更衣はよくにているので(集成)、とする説もある。 【かよひて見えたまふも】- 若君にとってあなたが母親のようにお見えになるのも。 【似げなからずなむ】- 母子の関係として見ても不似合いではない、意。 【こよなう心寄せきこえたまへれば】- 源氏が藤壺に。 |
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3.5.4 | 世の中にまたとないお方だと拝見なさり、評判高くおいでになる宮のご容貌に対しても、やはり照り映える美しさにおいては比較できないほど美しそうなので、世の中の人は、「光る君」とお呼び申し上げる。 藤壺もお並びになって、御寵愛がそれぞれに厚いので、「輝く日の宮」とお呼び申し上げる。 |
女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内親王方の美を遠くこえた源氏の美貌を世間の人は言い現わすために光の君と言った。女御として藤壼の宮の御寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝く日の宮と一方を申していた。 |
【見たてまつりたまひ】- 帝が藤壺を拝見なさる。『古典セレクション』では弘徽殿女御が東宮をとする。また『新大系』では源氏が藤壺をとする。 【名高うおはする宮の】- 藤壺の宮、評判高くおいでになる宮。「にも」は「に対しても」。藤壺と源氏の容貌の美しさが対比して語られる。 【なほ匂はしさは】- 「なほ」と「は」があることに注意。やはり、源氏の生き生きとした美しさは。 【世の人、「光る君」と聞こゆ】- 世の中の人びとは「光る君」と申し上げる。後に「光る君といふ名は高麗人のめできこえてつけたてまつりける」とも語られる。 【かかやく日の宮」と聞こゆ】- 「かかやく」は近世初期まで清音(日本霊異記、訓釈・新撰字鏡・日葡辞書)。「かかやく日の宮」。こうして、この物語のヒーロー、ヒロインが並び揃う。 |
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第六段 源氏元服(十二歳) |
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3.6.1 | この君の御童子姿を、とても変えたくなくお思いであるが、十二歳で御元服をなさる。 御自身お世話を焼かれて、作法どおりの上にさらにできるだけの事をお加えあそばす。 |
源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。その式の準備も何も帝御自身でお指図になった。 |
【十二にて御元服したまふ】- 源氏十二歳で元服する。当時の一般的年齢である。明融臨模本「御」の右傍に「ン」とあるので「おほんげんぷく」と読む。 【居起ち思しいとなみて】- 帝御自身で。 |
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3.6.2 | 先年の東宮の御元服が、紫宸殿で執り行われた儀式が、いかめしく立派であった世の評判にひけをおとらせにならない。 各所での饗宴などにも、内蔵寮や穀倉院など、規定どおり奉仕するのでは、行き届かないことがあってはいけないと、特別に勅命があって、善美を尽くしてお勤め申した。 |
前に東宮の御元服の式を紫宸殿であげられた時の派手やかさに落とさず、その日官人たちが各階級別々にさずかる饗宴の仕度を内蔵寮、穀倉院などでするのはつまり公式の仕度で、それでは十分でないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。 |
【一年の春宮の御元服、南殿にてありし儀式】- 「一年(ひととせ)」は先年、或る年の意。東宮の御元服の儀式が南殿(紫宸殿)で行われた様子は語られない。【儀式】-『古典セレクション』では「儀式の」と校訂するが、明融臨模本・大島本「きしき」とあり格助詞「の」はナシ。 【所々の饗など】- 宮中の諸所の殿舎で賜るごちそう。 【内蔵寮、穀倉院など】- この前後、地の文からやがて心内文に移る。 【おろそかなることもぞ】- 連語「もぞ」(係助詞「も」+係助詞「ぞ」)は将来起こる事態に対する危惧の意を表す。「行き届かないことがあってはいけない」、帝の心の表出である。 |
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3.6.3 | おいでになる清涼殿の東廂の間に、東向きに椅子を立てて、元服なさる君のお席と加冠役の大臣のお席とが、御前に設けられている。 儀式は申の時で、その時刻に源氏が参上なさる。 角髪に結っていらっしゃる顔つきや、童顔の色つやは、髪形をお変えになるのは惜しい感じである。 大蔵卿が理髪役を奉仕する。 たいへん美しい御髪を削ぐ時、いたいたしそうなのを、主上は、「亡き母の御息所が見たならば」と、お思い出しになると、涙が抑えがたいのを、思い返してじっとお堪えあそばす。 |
清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子がすえられ、元服される皇子の席、加冠役の大臣の席がそのお前にできていた。午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて耳の所で輸にした童形の礼髪を結った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた。理髪の役は大蔵卿である。美しい髪を短く切るのを惜しく思うふうであった。帝は御息所がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。 |
【おはします殿の東の廂、東向きに椅子立てて】- 帝が常時おいでになるお常御殿、すなわち清涼殿。東向きの殿である。その東廂の間に東向きに帝が座る御椅子を据えて。 【冠者の御座】- 冠者のお席、すなわち源氏の席。 【引入の大臣の御座】- 加冠役の大臣のお席。 【御前にあり】- 帝の御前に冠者の席と加冠役の大臣の席とがあるという配置。 【申の時にて】- 儀式は申の時で、の意。午後四時ころ。 【大蔵卿、蔵人仕うまつる】- 大蔵卿が理髪係をお勤めする。「蔵人」は、ここでは官職名ではなく、帝の理髪係を勤めるので、こう呼んだもの。 【御息所の見ましかば】- 帝の心。故桐壺の更衣が生きていて、この儀式を見たならばどんなに嬉しく思ったことであろうに、の意。「ましかば」は反実仮想。 |
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3.6.4 | かうぶりしたまひて、 いとかうきびはなるほどは、あげ |
加冠なさって、御休息所にお下がりになって、ご装束をお召し替えなさって、東庭に下りて拝舞なさる様子に、一同涙を落としなさる。 帝は帝で、誰にもまして堪えきれなされず、お悲しみの紛れる時もあった一時のことを、立ち返って悲しく思われなさる。 たいそうこのように幼い年ごろでは、髪上げして見劣りをするのではないかと御心配なさっていたが、驚くほどかわいらしさも加わっていらっしゃった。 |
加冠が終わって、いったん休息所に下がり、そこで源氏は服を変えて庭上の拝をした。参列の諸員は皆小さい大宮人の美に感激の涙をこぼしていた。帝はまして御自制なされがたい御感情があった。藤壼の宮をお得になって以来、紛れておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へかえって来たのである。まだ小さくて大人の頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかという御懸念もおありになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。 |
【御衣奉り替へて】- 「奉る」は動詞、「着る」の尊敬語。 【帝】- この物語では、帝の呼称が場面によって「帝(みかど)」「主上(うへ)」「内裏(うち)」などと呼称し分けられている。「帝」は公的イメージ。 【思し紛るる折もありつる昔のこと】- 先に「思し紛るとはなけれとおのづから御心移ろひてこよなく思し慰むやうなるもあはれなるわざなりけり」をさす。しばし藤壺寵愛によって桐壺更衣を失った悲しみを忘れていたこと。 【とりかへし悲しく思さる】- 帝は今再び昔に帰った気持ちになって悲しみを新たにする。と共に、みずからの「御心移ろひ」を認めるものでもある。 【いとかう】- 以下「あげ劣りや」まで帝の心。 |
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3.6.5 | 加冠役の大臣が皇女でいらっしゃる方との間に儲けた一人娘で大切に育てていらっしゃる姫君を、東宮からも御所望があったのを、ご躊躇なさることがあったのは、この君に差し上げようとのお考えからなのであった。 |
加冠の大臣には夫人の内親王との間に生まれた令嬢があった。東宮から後宮にとお望みになったのをお受けせずにお返辞を躊躇していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬していたからである。 |
【引入の大臣の】- 以下「御心なりけり」まで、地の文からやがて語り手が大臣の躊躇していた心境の理由説明する文に変わっている。物語の時間もここから「さ思したり」まで、過去に遡って語られる。 【皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女】- 大臣の北の方である皇女がお生みになった大切な一人娘。『源氏物語』では臣下に降嫁した例は、後に准太上天皇光源氏に朱雀院の皇女三の宮や太政大臣の嫡男柏木衛門督にその姉の女二の宮がいる。 【春宮よりも御けしきあるを】- 東宮からの入内の要請をさす。 【思しわづらふことありける】- 明融臨模本「おほしわつらふ事ありけるは」の「は」は後人の補入。大島本も「覚しわつらふ事ありける」とある。 |
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3.6.6 | 帝からの御内意を頂戴させていただいたところ、「それでは、元服の後の後見する人がいないようなので、その添い臥しにでも」とお促しあそばされたので、そのようにお考えになっていた。 |
大臣は帝の御意向をも伺った。 「それでは元服したのちの彼を世話する人もいることであるから、その人をいっしょにさせればよい」 という仰せであったから、大臣はその実現を期していた。 |
【御けしき賜はらせたまへりければ】- 「御けしき」は帝の御内意、「賜ら」(「与える」の尊敬語、また「もらう」の謙譲語、為手受手の立場によって変わる)、「せ」(尊敬の助動詞)「たまへ」(尊敬の補助動詞)は最高敬語で帝の行為に対して使われた表現であるが、ここは受手側からの申し出であるので、大臣の最高にへりくだった表現、「帝の御内意を頂戴させていただく」というニュアンス。「帝からも御内諾を左大臣にいただかせてお置きになったことなので」(今泉忠義訳)という、帝を主導者にした解釈もあるが、下文の「さらばこの折の後見なかめるを添臥にも」という繋がりが不自然である。「りければ」の完了の助動詞「り」完了の意、過去の助動詞「けり」で、左大臣は元服の儀式前に既に御内意を得ていた、の意味。 【さらば、この折の後見なかめるを、添ひ臥しにも】- 帝の引入の大臣に対する詞。「さらば」は大臣の源氏を婿にとの希望をさす。「添ひ臥にも」の下に「せよ」などの語句が省略されたかたち。 【もよほさせたまひければ】- 帝は、源氏と加冠役の大臣家の娘との結婚を表向きには「お促しあそばしたので」というかたちをとる。 |
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3.6.7 | 御休息所に退出なさって、参会者たちが御酒などをお召し上がりになる時に、親王方のお席の末席に源氏はお座りになった。 大臣がそれとなく仄めかし申し上げなさることがあるが、気恥ずかしい年ごろなので、どちらともはっきりお答え申し上げなさらない。 |
今日の侍所になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏は着いた。娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏は何とも返辞をすることができないのであった。 |
【大御酒など参る】- 「参る」は「呑む」の尊敬語。 【大臣気色ばみきこえたまふこと】- 「気色ばみ」は源氏に対してわが娘婿にと結婚をほのめかしたこと。 【もののつつましきほど】- 気恥ずかしい年頃。 |
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3.6.8 | 御前から掌侍が宣旨を承り伝えて、大臣に御前に参られるようにとのお召しがあるので、参上なさる。 御禄の品物を、主上づきの命婦が取りついで賜わる。 白い大袿に御衣装一領、例のとおりである。 |
帝のお居間のほうから仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。加冠役としての下賜品はおそばの命婦が取り次いだ。白い大袿に帝のお召し料のお服が一襲で、これは昔から定まった品である。 |
【内侍】- 掌侍(内侍司の三等官)をいう。 |
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3.6.9 | お盃を賜る折に、 |
酒杯を賜わる時に、次の歌を仰せられた。 |
【御盃のついでに】- 帝が左大臣に盃を廻す折に、和歌を一首詠んで廻す。 |
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3.6.10 | 「幼子の元服の折、 末永い仲をそなたの姫との間に結ぶ約束は |
いときなき初元結ひに長き世を 契る心は結びこめつや |
【いときなき初元結ひに長き世を--契る心は結びこめつや】- 帝から大臣への贈歌。「初元結ひ」は元服のこと。「初元結ひ」の縁語「結ぶ」に「髻を結ぶ」意と「契りを結ぶ」意とを掛ける。結婚の約束をなさったか、という問い掛け。 |
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3.6.11 | お心づかいを示されて、はっとさせなさる。 |
大臣の女との結婚にまでお言い及ぼしになった御製は大臣を驚かした。 |
【おどろかさせたまふ】- 大臣をはっとさせなさる、気づかせなさるということだが、つまり、念を押しなさるという意である。 |
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3.6.12 | 「元服の折、 約束した心も深いものとなりましょう |
結びつる心も深き元結ひに 濃き紫の色しあせずば |
【結びつる心も深き元結ひに--濃き紫の色し褪せずは】- 「ずは」連語、順接の仮定条件を表す。もしも、--ならば、の意。大臣の帝の歌に対する返歌。「濃き紫」に元結の紐の「紫」色と源氏の深い愛情の意をこめる。大臣は帝の「結びこめつや」という問い掛けに対して、第一句冒頭に「結びつる」と答えている。「色し褪せずは」(愛情が薄れなければ)は、そのようであってほしいと言葉に表した念願、言霊信仰とみてよいだろう。しかしまた、紫の色は褪色しやすい色、そのような親心の懸念は、物語の中で不吉な予言となってしまっている。 |
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3.6.13 | と奏上して、長橋から下りて拝舞なさる。 |
と返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段を下がって拝礼をした。 |
【長橋】- 明融臨模本「か」に濁点符号あり。長橋、紫宸殿と清涼殿をつなぐ渡殿。 |
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3.6.14 | 左馬寮の御馬、蔵人所の鷹を留まり木に据えて頂戴なさる。 御階のもとに親王方や上達部が立ち並んで、禄をそれぞれの身分に応じて頂戴なさる。 |
左馬寮の御馬と蔵人所の鷹をその時に賜わった。そのあとで諸員が階前に出て、官等に従ってそれぞれの下賜品を得た。 |
【賜はりたまふ】- 「鷹据ゑて」の「賜はり」は帝に対する敬語、「たまふ」は源氏に対する敬語。「品々に」の「賜はり」は帝に対する敬語、「たまふ」は親王たち上達部に対する敬語。 【御階】- 清涼殿の東庭に下りる階段。 |
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3.6.15 | その日の御前の折櫃物や、籠物などは、右大弁が仰せを承って調えさせたのであった。 屯食や禄用の唐櫃類など、置き場もないくらいで、東宮の御元服の時よりも数多く勝っていた。 かえっていろいろな制限がなくて盛大であった。 |
この日の御饗宴の席の折り詰めのお料理、籠詰めの菓子などは皆右大弁が御命令によって作った物であった。一般の官吏に賜う弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮の御元服の時以上であった。 |
【右大弁なむ承りて仕うまつらせける】- 先に「御後見だちて仕うまつる右大弁」とあった。「仕うまつら」「せ」(使役の助動詞)「ける」(過去の助動詞)、右大弁が帝の仰せを承って人々に整えさせたのであった、の意。 【なかなか限りもなくいかめしうなむ】- 下に「ありける」などの語句が省略されている。語り手の口吻が感じられる文章。 |
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第七段 源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚 |
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3.7.1 | その いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと |
その夜、大臣のお邸に源氏の君を退出させなさる。 婿取りの儀式は世に例がないほど立派におもてなし申し上げなさった。 とても若くおいでなのを、不吉なまでにかわいいとお思い申し上げなさった。 女君は少し年長でおいでなのに対して、婿君がたいそうお若くいらっしゃるので、似つかわしくなく恥ずかしいとお思いでいらっしゃった。 |
その夜源氏の君は左大臣家へ婿になって行った。この儀式にも善美は尽くされたのである。高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君のほうが少し年上であったから、年下の少年に配されたことを、不似合いに恥ずかしいことに思っていた。 |
【まかでさせたまふ】- 「させ」(使役の助動詞)「たまふ」(尊敬の補助動詞)、帝の行為に対して使われている。帝が源氏を大臣邸にご退出させなさる。現在形の文末表現。 【作法世にめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり】- 「作法」、「きこえ」(謙譲の補助動詞)「たまへ」(尊敬の補助動詞)「り」(完了の助動詞、存続)。大臣の源氏婿取りの作法は世に前例がないほど立派にお整え申し上げなさっていた。以下、その夜以後の内容を語るので、文末は「り」「たり」(完了の助動詞、存続)で語られる。 【すこし過ぐしたまへるほどに】- 女君の年齢が源氏よりも少し年長でいらしたのに対して。 【いと若うおはすれば】- 主語は源氏。挿入句。源氏がたいそうお若くいらっしゃるので、という理由。 【似げなく恥づかし】- 女君の心。年齢が合わず恥ずかしい。あまりに若い婿を迎えた成人女性の恥じらいの気持ち。 【思いたり】- 女君はお思いでいらっしゃった。以上、婿取りの夜の儀式からそれ以後、現在までの大臣や女君の思いを語った。完了の助動詞、存続形の文末表現。 |
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3.7.2 | この |
この大臣は帝のご信任が厚い上に、姫君の母宮が帝と同じ母后のお生まれでいらっしゃったので、どちらから言っても立派な上に、この君までがこのように婿君としてお加わりになったので、東宮の御祖父で、最後には天下を支配なさるはずの右大臣のご威勢も、敵ともなく圧倒されてしまった。 |
この大臣は大きい勢力を持った上に、姫君の母の夫人は帝の御同胞であったから、あくまでもはなやかな家である所へ、今度また帝の御愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の勢カは比較にならぬほど気押されていた。 |
【母宮、内裏の一つ后腹になむおはしければ】- 女君の母宮は帝と同腹の兄妹でいらしたので。 【いづ方につけても】- 大臣は帝の信任が厚く、また一方でその妻は帝の同腹の妹宮。 【いとはなやかなるに】- 「に」接続助詞、そのうえ、という意を表す。 【かくおはし添ひぬれば】- 帝の御子が婿として左大臣家にお加わりになったので。 【ものにもあらず圧されたまへり】- 完了の助動詞「り」(存続)は、源氏結婚後の帝と引入の左大臣家との結び付きが強まり、それ以後、一の親王の東宮を擁する右大臣家が圧倒されていることを語る。 |
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3.7.3 | ご子息たちが大勢それぞれの夫人方にいらっしゃる。 宮がお生みの方は、蔵人少将でたいそう若く美しい方なので、右大臣が、左大臣家とのお間柄はあまりよくないが、他人として放っておくこともおできになれず、大切になさっている四の君に婿取りなさっていた。 劣らず大切にお世話なさっているのは、両家とも理想的な婿舅の間柄である。 |
左大臣は何人かの妻妾から生まれた子供を幾人も持っていた。内親王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、大事にしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず右大臣から大事な婿君としてかしずかれていたのはよい一対のうるわしいことであった。 |
【御子どもあまた腹々にものしたまふ】- 主語は引入の大臣。その大臣の正妻北の方は帝と同腹の宮であるが、その他の夫人方との間にも大勢の子供たちがいるということを語る。現在形の文末表現。 【宮の御腹は、蔵人少将にて】- 先の「女君」の他に男子もいて、蔵人兼少将(正五位下相当)であった。源氏には従兄弟でもある。 【いと若うをかしきを】- 接続助詞「を」は、順接の確定条件、原因・理由を表す。--なので。 【右大臣の】- 格助詞「の」主格を表す。「御仲はいと好からねど」は挿入句。 【四の君】- 右大臣家の四の君に蔵人兼少将は婿取りされる。一の親王の母弘徽殿女御の妹君に当たる。 【劣らず】- 左大臣家の婿扱いに比較して劣らない。 【御あはひども】- 接尾語「ども」複数の意は、左大臣家と右大臣家をさす。 |
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3.7.4 | 源氏の君は、主上がいつもお召しになって放さないので、気楽に私邸で過すこともおできになれない。 心中では、ひたすら藤壺のご様子を、またといない方とお慕い申し上げて、「そのような女性こそ妻にしたいものだ。 似た方もいらっしゃらないな。 大殿の姫君は、たいそう興趣ありそうに大切に育てられている方だと思われるが、少しも心惹かれない」というように感じられて、幼心一つに思いつめて、とても苦しいまでに悩んでいらっしゃるのであった。 |
源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壼の宮の美が最上のものに思われてあのような人を自分も妻にしたい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢は大事にされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壼の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。 |
【さやうならむ人をこそ】- 以下「心にもつかず」まで源氏の心。「心にもつかず」の下にいずれの諸本にも引用の格助詞「と」がなく、「心にもつかず」が「おぼえたまひて」を修飾する構文になっている。源氏の心をわざと韜晦させたものだろうか。心中文の文末が地の文に融合した形になっている。 【いと苦しきまでぞおはしける】- 係助詞「ぞ」と「おはしける」の間に「悩み」などの語が省略されている。 |
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第八段 源氏、成人の後 |
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3.8.1 | 元服なさってから後は、かつてのように御簾の内側にもお入れにならない。 管弦の御遊の時々、琴と笛の音に心通わし合い、かすかに漏れてくるお声を慰めとして、内裏の生活ばかりを好ましく思っていらっしゃる。 五、六日は内裏に伺候なさって、大殿邸には二、三日程度、途切れ途切れに退出なさるが、まだ今はお若い年頃であるので、つとめて咎めだてすることなくお許しになって、婿君として大切にお世話申し上げなさる。 |
元服後の源氏はもう藤壼の御殿の御簾の中へは入れていただけなかった。琴や笛の音の中にその方がお弾きになる物の声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって宮中の宿直ばかりが好きだった。五、六日御所にいて、二、三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変わらず婿君のかしずき騒ぎをしていた。 |
【大人になりたまひて後は】- 以下の文末は現在形で語られる。 【ありしやうに御簾の内にも入れたまはず】- 帝は以前のように源氏を御簾の内側にお入れにならない。成人したからである。 【琴笛の音に聞こえかよひ】- 源氏の吹く笛の音色に御簾の内側から藤壺が琴の音を合わせて弾くことによって気持ちを通じ合わせている。音楽が源氏の心を通わす経路となっている。 【ほのかなる御声】- 藤壺のかすかなお声。 【罪なく思しなして】- 左大臣は咎めだてすることなくお許しになって、「なして」には無理してそうするというニュアンスがある。 |
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3.8.2 | お二方の女房たちは、世間から並々でない人たちをえりすぐってお仕えさせなさる。 お気に入りそうなお遊びをし、せいいっぱいにお世話していらっしゃる。 |
新夫婦付きの女房はことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催したり、一所懸命である。 |
【御方々の人びと】- 源氏と女君に仕える女房たち。 【さぶらはせたまふ】- 主語は左大臣。「せ」使役の助動詞。 【御心につくべき御遊び】- 源氏の気持ちに。 【おほなおほな思しいたつく】- 主語は左大臣。副詞「おほなおほな」は、我身を忘れて一生懸命に、の意。「いたつく(労)」は、古くは清音(日本書紀)、後世に濁音「いたづく」(日葡辞書)となる。 |
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3.8.3 | 内裏では、もとの淑景舎をお部屋にあてて、母御息所にお仕えしていた女房を退出して散り散りにさせずに引き続いてお仕えさせなさる。 |
御所では母の更衣のもとの桐壼を源氏の宿直所にお与えになって、御息所に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。 |
【内裏には、もとの淑景舎を御曹司にて】- 内裏では源氏にゆかりのある淑景舎(桐壺)をお部屋にあてて。 【まかで散らずさぶらはせたまふ】- 主語は帝である。以下、帝の指示によって「里の殿」の修繕などもなされる。 |
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3.8.4 | 実家のお邸は、修理職や内匠寮に宣旨が下って、またとなく立派にご改造させなさる。 もとからの木立や、築山の様子、趣きのある所であったが、池をことさら広く造って、大騷ぎして立派に造営する。 |
更衣の家のほうは修理の役所、内匠寮などへ帝がお命じになって、非常なりっぱなものに改築されたのである。もとから築山のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。 |
【里の殿】- 桐壺更衣の邸。後に「二条院」と呼ばれる。 【おもしろき所なりけるを】- 接続助詞「を」順接の意。--であったのをさらに、の文脈。 |
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3.8.5 | 「このような所に理想とするような女性を迎えて一緒に暮らしたい」とばかり、胸を痛めてお思い続けていらっしゃる。 |
源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮らすことができたらと思って始終歎息をしていた。 |
【かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや】- 源氏の心。「思うやうならむ人を据えて住まばや」という願望は、当時の政略的な婿取り結婚が一般的な世の中で清新でロマンチックな願望である。 【のみ、嘆かしう思しわたる】- 既に正妻がありながらそれとの夫婦仲がうまくゆかず、さらに理想的な女性を求めて彷徨してゆくこの物語の主人公像が語られている。文末は現在形で結ばれる。以上、語り手が語られてきた物語世界に対して恣意を交えずに客観的にたんたんと語ったという印象を残す。 |
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3.8.6 | 「光る君という名前は、高麗人がお褒め申してお付けしたものだ」と、言い伝えているとのことである。 |
光の君という名は前に鴻臚館へ来た高麗人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だとそのころ言われたそうである。 |
【光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつりける」とぞ、言ひ伝へたるとなむ】- 『万水一露』所引「宗碩説」は「光る君」以下を「注の詞也」と指摘し、また『岷江入楚』は「高麗人の」以下をいわゆる草子地と認め、『一葉抄』は「言ひ伝へたる」以下を、さらに『細流抄』は「となむ」だけを、いわゆる草子地と認めている。物語の主人公の名前の由来について、語り手は「高麗人のめできこえてつけたてまつりける」という別の伝承を「とぞ言い伝えたる」と紹介して、「となむ」と結ぶ。下に「ある」または「聞く」などの語が省略された形。この物語の筆記編集者である私(作者)は、そのように言い伝えていると聞くという体裁である。 |
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