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第一帖 桐壺

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳

第一章 光る源氏前史の物語


第一段 父帝と母桐壺更衣の物語

1.1.1 どの帝の御代であったか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていたなかに、たいして高貴な身分ではない方で、きわだって御寵愛をあつめていらっしゃる方があった。
どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。
1.1.2 最初から自分こそはと気位い高くいらっしゃった女御方は、不愉快な者だと見くだしたり嫉んだりなさる。
同じ程度の更衣や、その方より下の更衣たちは、いっそう心穏やかでない。
最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に恃む所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった。
1.1.3
朝夕(あさゆふ)宮仕(みやづか)へにつけても(ひと)(こころ)をのみ(うご)かし、(うら)みを()()もりにやありけむいと(あづ)しくなりゆき、もの心細(こころぼそ)げに(さと)がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに(おも)ほして(ひと)のそしりをも(はばか)らせたまはず()のためしにもなりぬべき(おほん)もてなしなり。
朝晩のお側仕えにつけても、他の妃方の気持ちを不愉快ばかりにさせ、嫉妬を受けることが積もり積もったせいであろうか、とても病気がちになってゆき、何となく心細げに里に下がっていることが多いのを、ますますこの上なく不憫な方とおぼし召されて、誰の非難に対してもおさし控えあそばすことがおできになれず、後世の語り草にもなってしまいそうなお扱いぶりである。
夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて口惜しがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がっていがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子で、人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。御聖徳を伝える歴史の上にも暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった。
1.1.4 上達部や殿上人なども、人ごとながら目をそらしそらしして、「とても眩しいほどの御寵愛である。
高官たちも殿上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。
1.1.5
唐土(もろこし)にも、かかる(こと)()こりにこそ、()(みだ)れ、()しかりけれ」と、やうやう(あめ)(した)にもあぢきなう、(ひと)のもてなやみぐさになりて、楊貴妃(やうきひ)(ためし)()()でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと(おほ)かれど、かたじけなき御心(みこころ)ばへのたぐひなきを(たの)みにてまじらひたまふ
唐国でも、このようなことが原因となって、国も乱れ、悪くなったのだ」と、しだいに国中でも困ったことの、人々のもてあましの種となって、楊貴妃の例までも引き合いに出されそうになってゆくので、たいそういたたまれないことが数多くなっていくが、もったいない御愛情の類のないのを頼みとして宮仕え生活をしていらっしゃる。
唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸されたなどと蔭ではいわれる。今やこの女性が一天下の煩いだとされるに至った。馬嵬の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。
1.1.6
(ちち)大納言(だいなごん)()くなりて、母北(ははきた)(かた)なむいにしへの(ひと)のよしあるにて(おや)うち()し、さしあたりて()のおぼえはなやかなる御方(おほんかた)がたにもいたう(おと)らずなにごとの儀式(ぎしき)をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見(うしろみ)しなければ(こと)ある(とき)は、なほ()(どころ)なく心細(こころぼそ)げなり。
父親の大納言は亡くなって、母親の北の方が古い家柄の人の教養ある人なので、両親とも揃っていて、今現在の世間の評判が勢い盛んな方々にもたいしてひけをとらず、どのような事柄の儀式にも対処なさっていたが、これといったしっかりとした後見人がいないので、こと改まった儀式の行われるときには、やはり頼りとする人がなく心細い様子である。
父の大納言はもう故人であった。母の未亡人が生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢カのある派手な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者を持たぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。

第二段 御子誕生(一歳)

1.2.1 前世でも御宿縁が深かったのであろうか、この世にまたとなく美しい玉のような男の御子までがお生まれになった。
早く早くとじれったくおぼし召されて、急いで参内させて御覧あそばすと、たぐい稀な嬰児のお顔だちである。
前生の縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。寵姫を母とした御子を早く御覧になりたい思召しから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子を宮中へお招きになった。小皇子はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。
1.2.2
(いち)皇子(みこ)は、右大臣(うだいじん)女御(にょうご)御腹(おほんはら)にて()(おも)(うたが)ひなき(まうけ)(きみ)()にもてかしづききこゆれど、この(おほん)にほひには(なら)びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思(おほんおも)ひにてこの(きみ)をば、私物(わたくしもの)(おも)ほしかしづきたまふこと(かぎ)りなし。
第一皇子は、右大臣の娘の女御がお生みになった方なので、後見がしっかりしていて、正真正銘の皇太子になられる君だと、世間でも大切にお扱い申し上げるが、この御子の輝く美しさにはお並びになりようもなかったので、一通りの大切なお気持ちであって、この若君の方を、自分の思いのままにおかわいがりあそばされることはこの上ない。
帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子として非常に大事がっておいでになった。
1.2.3
(はじ)めよりおしなべての上宮仕(うへみやづか)したまふべき(きは)にはあらざりき
おぼえいとやむごとなく上衆(じゃうず)めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊(おほんあそ)びの折々(をりをり)何事(なにごと)にもゆゑある(こと)のふしぶしには、まづ()(のぼ)らせたまふ。
ある(とき)には大殿籠(おほとのご)もり()ぐしてやがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去(おまへさ)らずもてなさせたまひしほどに、おのづから(かろ)(かた)にも()えしを、この御子生(みこう)まれたまひて(のち)は、いと(こころ)ことに(おも)ほしおきてたれば、(ばう)にも、ようせずは、この御子(みこ)()たまふべきなめり」と、(いち)皇子(みこ)女御(にょうご)(おぼ)(うたが)へり。
(ひと)より(さき)(まゐ)りたまひて、やむごとなき御思(おほんおも)なべてならず、皇女(みこ)たちなどもおはしませば、この御方(おほんかた)御諌(おほんいさ)めをのみぞ、なほわづらはしう心苦(こころぐる)しう(おも)ひきこえさせたまひける
最初から女房並みの帝のお側用をお勤めなさらねばならない身分ではなかった。
評判もとても高く、上流人の風格があったが、むやみにお側近くにお召しあそばされ過ぎて、しかるべき管弦の御遊の折々や、どのような催事でも雅趣ある催しがあるたびごとに、まっさきに参上させなさる。
ある時にはお寝過ごしなされて、そのまま伺候させておきなさるなど、むやみに御前から離さずに御待遇あそばされたうちに、自然と身分の低い女房のようにも見えたが、この御子がお生まれになって後は、たいそう格別にお考えおきあそばされるようになっていたので、「東宮坊にも、ひょっとすると、この御子がおなりになるかもしれない」と、第一皇子の母女御はお疑いになっていた。
誰よりも先に御入内なされて、大切にお考えあそばされることは一通りでなく、皇女たちなども生まれていらっしゃるので、この御方の御諌めだけは、さすがにやはりうるさいことだが無視できないことだとお思い申し上げあそばされるのであった。
更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった。ただお愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女と言ってよいほどのりっぱな女ではあったが、始終おそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催し事をあそばす際には、だれよりもまず先にこの人を常の御殿へお呼びになり、またある時はお引き留めになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができずそのまま昼も侍しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生まれになって以後目に立って重々しくお扱いになったから、東宮にもどうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子の御生母の女御は疑いを持っていた。この人は帝の最もお若い時に入内した最初の女御であった。この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へ済まないという気も十分に持っておいでになった。
1.2.4
かしこき御蔭(みかげ)をば(たの)みきこえながら()としめ(きず)(もと)めたまふ(ひと)(おほ)く、わが()はか(よわ)くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの(おも)ひをぞしたまふ。
もったいない御庇護をお頼り申してはいるものの、軽蔑したり落度を探したりなさる方々は多く、ご自身はか弱く何となく頼りない状態で、なまじ御寵愛を得たばっかりにしなくてもよい物思いをなさる。
帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無カな家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。
1.2.5
御局(みつぼね)桐壺(きりつぼ)なり
あまたの御方(おほんかた)がたを()ぎさせたまひて、ひまなき御前渡(おまへわた)りに(ひと)御心(みこころ)()くしたまふも、げにことわりと()えたり
()(のぼ)りたまふにもあまりうちしきる折々(をりをり)は、打橋(うちはし)渡殿(わたどの)のここかしこの(みち)に、あやしきわざをしつつ、御送(おほんおく)(むか)への(ひと)(きぬ)(すそ)()へがたく、まさなきこともあり。
またある(とき)には、()らぬ馬道(めだう)()()しこめ、こなたかなた(こころ)()はせて、はしたなめわづらはせたまふ(とき)(おほ)かり。
お局は桐壺である。
おおぜいのお妃方の前をお素通りあそばされて、そのひっきりなしのお素通りあそばしに、お妃方がお気をもめ尽くしになるのも、なるほどごもっともであると見えた。
参上なさるにつけても、あまり度重なる時々には、打橋や、渡殿のあちこちの通路に、けしからぬことをたびたびして、送り迎えの女房の着物の裾が、がまんできないような、とんでもないことがある。
またある時には、どうしても通らなければならない馬道の戸を鎖して閉じ籠め、こちら側とあちら側とで示し合わせて、進むも退くもならないように困らせなさることも多かった。
住んでいる御殿は御所の中の東北の隅のような桐壼であった。幾つかの女御や更衣たちの御殿の廊を通い路にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直をする更衣が上がり下がりして行く桐壼であったから、始終ながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量んでいくのも道理と言わねばならない。召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾が一度でいたんでしまうようなことがあったりする。またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壼の更衣の通り路をなくして辱しめるようなことなどもしばしばあった。
1.2.6
(こと)にふれて数知(かずし)らず(くる)しきことのみまされば、いといたう(おも)ひわびたるを、いとどあはれと御覧(ごらん)じて、後涼殿(こうらうでん)にもとよりさぶらひたまふ更衣(かうい)曹司(ざうし)(ほか)(うつ)させたまひて、上局(うへつぼね)(たま)はす。
その(うら)みましてやらむ(かた)なし。
何かにつけて数知れないほど辛いことばかりが増えていくので、たいそうひどく思い悩んでいるのを、ますますお気の毒におぼし召されて、後凉殿に以前から伺候していらっしゃった更衣の部屋を他に移させなさって、上局として御下賜あそばす。
その方の恨みはなおいっそうに晴らしようがない。
数え切れぬほどの苦しみを受けて、更衣が心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそう憐れを多くお加えになって、清涼殿に続いた後涼殿に住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壼の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった。

第三段 若宮の御袴着(三歳)

1.3.1
この御子三(みこみ)つになりたまふ(とし)御袴着(おほんはかまぎ)のこと(いち)(みや)のたてまつりしに(おと)らず内蔵寮(くらづかさ)納殿(をさめどの)(もの)()くして、いみじうせさせたまふ
それにつけても、()(そし)りのみ(おほ)かれど、この御子(みこ)およすげもておはする御容貌心(おほんかたちこころ)ばへありがたくめづらしきまで()えたまふを(そね)みあへたまはず
ものの心知(こころし)りたまふ(ひと)は、かかる(ひと)()()でおはするものなりけり」と、あさましきまで()をおどろかしたまふ。
この御子が三歳におなりの年に、御袴着の儀式を一宮がお召しになったのに劣らず、内蔵寮や納殿の御物をふんだんに使って、大変に盛大におさせあそばす。
そのことにつけても、世人の非難ばかりが多かったが、この御子が成長なさって行かれるお顔だちやご性質が世間に類なく素晴らしいまでにお見えになるので、お憎みきれになれない。
ものごとの情理がお分かりになる方は、「このような方もこの末世にお生まれになるものであったよ」と、驚きあきれる思いで目を見張っていらっしゃる。
第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着の式が行なわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手な準傭の費用が宮廷から支出された。それにつけても世問はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聡明さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生まれてくるものかと皆驚いていた。

第四段 母御息所の死去

1.4.1 その年の夏、御息所が、頼りない感じに落ち入って、退出しようとなさるのを、お暇を少しもお許しあそばさない。
その年の夏のことである。御息所-皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである-はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが帝はお許しにならなかった。
1.4.2
(とし)ごろ、(つね)(あづ)しさになりたまへれば、御目馴(おほんめな)れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々(ひび)(おも)りたまひて、ただ五、六日(いつかむいか)のほどにいと(よわ)うなれば、母君泣(ははぎみな)()(そう)して、まかでさせたてまつりたまふ
ここ数年来、いつもの病状になっていらっしゃるので、お見慣れになって、「このまましばらく様子を見よ」とばかり仰せられるているうちに、日々に重くおなりになって、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、母君が涙ながらに奏上して、退出させ申し上げなさる。
どこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、
 「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」
 と言っておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五、六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇を願って帰宅させることにした。
1.4.3 このような時にも、あってはならない失態を演じてはならないと配慮して、御子はお残し申して、人目につかないようにして退出なさる。
こんな場合にはまたどんな呪詛が行なわれるかもしれない、皇子にまで禍いを及ぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目だたぬように御息所だけが退出するのであった。
1.4.4
(かぎ)りあれば、さのみもえ(とど)めさせたまはず御覧(ごらん)じだに(おく)らぬおぼつかなさを、()(かた)なく(おも)ほさる。
いとにほひやかにうつくしげなる(ひと)の、いたう面痩(おもや)せて、いとあはれとものを(おも)ひしみながら、(こと)()でても()こえやらずあるかなきかに()()りつつものしたまふを御覧(ごらん)ずるに()方行(かたゆ)末思(すゑおぼ)()されず、よろづのことを()()(ちぎ)りのたまはすれど、(おほん)いらへもえ()こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、(われ)かの気色(けしき)にて()したれば、いかさまにと(おぼ)()しまどはる。
輦車(てぐるま)宣旨(せんじ)などのたまはせても、また()らせたまひてさらにえ(ゆる)させたまはず。
決まりがあるので、お気持ちのままにお留めあそばすこともできず、お見送りさえままならない心もとなさを、言いようもなく無念におぼし召される。
たいそう照り映えるように美しくかわいらしい人が、ひどく顔がやつれて、まことにしみじみと物思うことがありながらも、言葉には出して申し上げることもできずに、生き死にもわからないほどに息も絶えだえでいらっしゃるのを御覧になると、あとさきもお考えあそばされず、すべてのことを泣きながらお約束あそばされるが、お返事を申し上げることもおできになれず、まなざしなどもとてもだるそうで、常よりいっそう弱々しくて、意識もないような状態で臥せっていたので、どうしたらよいものかとお惑乱あそばされる。
輦車の宣旨などを仰せ出されても、再びお入りあそばしては、どうしてもお許しあさばされることができない。
この上留めることは不可能であると帝は思召して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬ御尊貴の御身の物足りなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。
 はなやかな顔だちの美人が非常に痩せてしまって、心の中には帝とお別れして行く無限の悲しみがあったがロヘは何も出して言うことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのを御覧になると帝は過去も未来も真暗になった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろな頼もしい将来の約束をあそばされても更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心を襲うた。更衣が宮中から輦車で出てよい御許可の宣旨を役人へお下しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると今行くということをお許しにならない。
1.4.5 「死出の旅路にも、後れたり先立ったりするまいと、お約束あそばしたものを。
いくらそうだとしても、おいてけぼりにしては、行ききれまい」
「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」
1.4.6
とのたまはするを、(をんな)いといみじと、()たてまつりて、
と仰せになるのを、女もたいそう悲しいと、お顔を拝し上げて、
と、帝がお言いになると、そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、
1.4.7 「人の命には限りがあるものと、
今、別れ路に立ち、悲しい気持
「限りとて別るる道の悲しきに
いかまほしきは命なりけり
1.4.8 ほんとうにこのようにと存じておりましたならば」
死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」
1.4.9
(いき)()えつつ、()こえまほしげなることはありげなれど、いと(くる)しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧(ごらん)じはてむと(おぼ)()すに、今日始(けふはじ)むべき(いの)りども、さるべき(ひと)びとうけたまはれる、今宵(こよひ)より」と、()こえ(いそ)がせば、わりなく(おも)ほしながらまかでさせたまふ
と、息も絶えだえに、申し上げたそうなことはありそうな様子であるが、たいそう苦しげに気力もなさそうなので、このままの状態で、最期となってしまうようなこともお見届けしたいと、お考えあそばされるが、「今日始める予定の祈祷などを、しかるべき僧たちの承っておりますのが、今宵から始めます」と言って、おせき立て申し上げるので、やむを得なくお思いあそばしながら退出させなさる。
これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、まったく気カはなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思召しながらお帰しになった。
1.4.10
御胸(おほんむね)つとふたがりてつゆまどろまれず、()かしかねさせたまふ。
御使(おほんつかひ)()()ふほどもなきに、なほいぶせさを(かぎ)りなくのたまはせつるを、夜半(よなか)うち()ぐるほどになむ、()えはてたまひぬる」とて()(さわ)げば、御使(おほんつかひ)もいとあへなくて(かへ)(まゐ)りぬ。
()こし()御心(みこころ)まどひ、(なに)ごとも(おぼ)()しわかれず、()もりおはします。
お胸がひしと塞がって、少しもうとうとなされず、夜を明かしかねあそばす。
勅使が行き来する間もないうちに、しきりに気がかりなお気持ちをこの上なくお漏らしあそばしていらしたところ、「夜半少し過ぎたころに、お亡くなりになりました」と言って泣き騒ぐので、勅使もたいそうがっかりして帰参した。
お耳にあそばす御心の転倒、どのような御分別をも失われて、引き籠もっておいであそばす。
帝はお胸が悲しみでいっぱいになってお眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へお出しになる尋ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ち遠しいであろうと仰せられた帝であるのに、お使いは、
 「夜半過ぎにお卒去になりました」
 と言って、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。
 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引きこもっておいでになった。
1.4.11
御子(みこ)は、かくてもいと御覧(ごらん)ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、(れい)なきことなればまかでたまひなむとす
何事(なにごと)かあらむとも(おぼ)したらず、さぶらふ(ひと)びとの()きまどひ、主上(うへ)御涙(おほんなみだ)のひまなく(なが)れおはしますを、あやしと()たてまつりたまへるをよろしきことにだにかかる(わか)れの(かな)しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに()ふかひなし
御子は、それでもとても御覧になっていたいが、このような折に宮中に伺候していらっしゃるのは、先例のないことなので、退出なさろうとする。
何事があったのだろうかともお分かりにならず、お仕えする人々が泣き惑い、父主上もお涙が絶えずおこぼれあそばしているのを、変だなと拝し上げなさっているのを、普通の場合でさえ、このような別れの悲しくないことはない次第なのを、いっそうに悲しく何とも言いようがない。
その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服中の皇子が、穢れのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけを不思議にお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心持ちほどお気の毒なものはなかった。

第五段 故御息所の葬送

1.5.1
(かぎ)りあれば、(れい)作法(さほふ)にをさめたてまつるを母北(ははきた)(かた)(おな)(けぶり)にのぼりなむと、()きこがれたまひて、御送(おほんおく)女房(にょうばう)(くるま)(した)()りたまひて愛宕(おたぎ)といふ(ところ)にいといかめしうその作法(さほふ)したるに、おはし()きたる心地(ここち)いかばかりかはありけむ
「むなしき御骸(おほんから)()()る、なほおはするものと(おも)ふが、いとかひなければ、(はひ)になりたまはむを()たてまつりて、(いま)()(ひと)と、ひたぶるに(おも)ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、(くるま)よりも()ちぬべうまろびたまへば、さは(おも)ひつかしと、(ひと)びともてわづらひきこゆ。
しきたりがあるので、先例の葬法どおりにお営み申すのを、母北の方は、娘と同じく煙となって死んでしまいたいと、泣きこがれなさって、御葬送の女房の車に後を追ってお乗りになって、愛宕という所でたいそう厳かにその葬儀を執り行っているところに、お着きになったお気持ちは、どんなであったであろうか。
「お亡骸を見ながら、なおも生きていらっしゃるものと思われるのが、たいして何にもならないので、遺灰におなりになるのを拝見して、今はもう死んだ人なのだと、きっぱりと思い諦めよう」と、分別あるようにおっしゃっていたが、車から落ちてしまいそうなほどにお取り乱しなさるので、やはり思ったとおりだと、女房たちも手をお焼き申す。
どんなに惜しい人でも遺骸は遺骸として扱われねばならぬ、葬儀が行なわれることになって、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣きこがれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕の野にいかめしく設けられた式場へ着いた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。
 「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷いをさますために行く必要があります」
 と賢そうに言っていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。
1.5.2
内裏(うち)より御使(おほんつかひ)あり。
三位(みつ)(くらゐおく)りたまふよし、勅使来(ちょくしき)てその宣命読(せんみゃうよ)むなむ、(かな)しきことなりける。
女御(にょうご)とだに()はせずなりぬるが、あかず口惜(くちを)しう(おぼ)さるれば、いま一階(ひときざみ)(くらゐ)をだにと、(おく)らせたまふなりけり。
これにつけても(にく)みたまふ(ひと)びと(おほ)かり。
もの(おも)()りたまふは、(さま)容貌(かたち)などのめでたかりしこと、(こころ)ばせのなだらかにめやすく、(にく)みがたかりしことなど、(いま)(おぼ)()づる。
さま()しき(おほん)もてなしゆゑこそ、すげなう(そね)みたまひしか、人柄(ひとがら)のあはれに(なさ)けありし御心(みこころ)を、主上(うへ)女房(にょうばう)なども()ひしのびあへり。
なくてぞとはかかる(をり)にやと()えたり。
内裏からお勅使が参る。
従三位の位を追贈なさる旨を、勅使が到着してその宣命を読み上げるのが、悲しいことであった。
せめて女御とだけでも呼ばせずに終わったのが、心残りで無念に思し召されたので、せめてもう一段上の位階だけでもと、御追贈あそばすのであった。
このことにつけても非難なさる方々が多かった。
人の情理をお分かりになる方は、姿態や容貌などが素晴しかったことや、気立てがおだやかで欠点がなく、憎み難い人であったことなどを、今となってお思い出しになる。
見苦しいまでの御寵愛ゆえに、冷たくお妬みなさったのだが、性格がしみじみと情愛こまやかでいらっしゃったご性質を、主上づきの女房たちも互いに恋い偲びあっていた。
亡くなってから人はと言うことは、このような時のことかと思われた。
宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位を贈られたのである。勅使がその宣命を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位階である。生きていた日に女御とも言わせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位を賜わったのである。こんなことででも後宮のある人々は反感を持った。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壼の更衣の真価を思い出していた。あまりにひどい御殊寵ぶりであったからその当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。優しい同情深い女性であったのを、帝付きの女官たちは皆恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とはこうした場合のことであろうと見えた。

第二章 父帝悲秋の物語


第一段 父帝悲しみの日々

2.1.1
はかなく()ごろ()ぎて、(のち)のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。
ほど()るままに、せむ(かた)なう(かな)しう(おぼ)さるるに、御方(おほんかた)がたの御宿直(おほんとのゐ)なども()えてしたまはず、ただ(なみだ)にひちて()かし()らさせたまへば、()たてまつる(ひと)さへ(つゆ)けき(あき)なり
()きあとまで(ひと)(むね)あくまじかりける(ひと)(おほん)おぼえかな」とぞ、弘徽殿(こうきでん)などにはなほ(ゆる)しなうのたまひける。
(いち)(みや)()たてまつらせたまふにも、若宮(わかみや)御恋(おほんこひ)しさのみ(おも)ほし()でつつ、(した)しき女房(にょうばう)御乳母(おほんめのと)などを(つか)はしつつ、ありさまを()こし()す。
いつのまにか日数は過ぎて、後の法要などの折にも情愛こまやかにお見舞いをお遣わしあそばす。
時が過ぎて行くにしたがって、どうしようもなく悲しく思われなさるので、女御更衣がたの夜の御伺候などもすっかりお命じにならず、ただ涙に濡れて日をお送りあそばされているので、拝し上げる人までが露っぽくなる秋である。
「亡くなった後まで、人の心を晴ればれさせなかった御寵愛の方だこと」と、弘徽殿女御などにおかれては今もなお容赦なくおっしゃるのであった。
一の宮を拝し上げあそばされるにつけても、若宮の恋しさだけがお思い出されお思い出されして、親しく仕える女房や御乳母などをたびたびお遣わしになっては、ご様子をお尋ねあそばされる。
時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて七日七日の仏事が次々に行なわれる、そのたびに帝からはお弔いの品々が下された。
 愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがってどうしようもない寂しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中の御朝タであって、拝見する人までがしめっぽい心になる秋であった。
 「死んでからまでも人の気を悪くさせる御寵愛ぶりね」
 などと言って、右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子を御覧になっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、御自身のお乳母などをその家へおつかわしになって若宮の様子を報告させておいでになった。

第二段 靫負命婦の弔問

2.2.1
野分立(のわきだ)ちてにはかに肌寒(はださむ)夕暮(ゆふぐれ)のほど、(つね)よりも(おぼ)()づること(おほ)くて、靫負命婦(ゆげひのみゃうぶ)といふを(つか)はす。
夕月夜(ゆふづくよ)のをかしきほどに()だし()てさせたまひて、やがて(なが)めおはします。
かうやうの(をり)は、御遊(おほんあそ)びなどせさせたまひしに(こころ)ことなる(もの)()()()らし、はかなく()こえ()づる(こと)()も、(ひと)よりはことなりしけはひ容貌(かたち)の、面影(おもかげ)につと()ひて(おぼ)さるるにも、(やみ)(うつつ)にはなほ(おと)りけり
野分めいて、急に肌寒くなった夕暮どき、いつもよりもお思い出しになることが多くて、靫負命婦という者をお遣わしになる。
夕月夜の美しい時刻に出立させなさって、そのまま物思いに耽ってておいであそばす。
このような折には、管弦の御遊などをお催しあそばされたが、とりわけ優れた琴の音を掻き鳴らし、ついちょっと申し上げる言葉も、人とは格別であった雰囲気や顔かたちが、面影となってひたとわが身に添うように思し召されるにつけても、闇の中の現実にはやはり及ばないのであった。
野分ふうに風が出て肌寒の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人がお思われになって、靫負の命婦という人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びが行なわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。
2.2.2
命婦(みゃうぶ)かしこに()()きて、門引(かどひ)()るるよりけはひあはれなり。
やもめ()みなれど、人一人(ひとひとり)(おほん)かしづきに、とかくつくろひ()てて、めやすきほどにて()ぐしたまひつる、(やみ)()れて()(しづ)みたまへるほどに、(くさ)(たか)くなり、野分(のわき)にいとど()れたる心地(ここち)して、月影(つきかげ)ばかりぞ八重葎(やへむぐら)にも()はらず()()りたる。
南面(みなみおもて)()ろして母君(ははぎみ)も、とみにえものものたまはず。
命婦は、あちらに参着して、門を潜り入るなり、しみじみと哀れ深い。
未亡人暮らしであるが、娘一人を大切にお世話するために、あれこれと手入れをきちんとして、見苦しくないようにしてお暮らしになっていたが、亡き子を思う悲しみに暮れて臥せっていらっしゃったうちに、雑草も高くなり、野分のためにいっそう荒れたような感じがして、月の光だけが八重葎にも遮られずに差し込んでいた。
寝殿の南面で車から下ろして、母君も、すぐにはご挨拶できない。
命婦は故大納言家に着いて車が門から中へ引き入れられた刹那からもう言いようのない寂しさが味わわれた。末亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁を保って暮らしていたのであるが、子を失った女主人の無明の日が続くようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさし込んだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人はすぐにもものが言えないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。
2.2.3
(いま)までとまりはべるがいと()きを、かかる御使(おほんつかひ)蓬生(よもぎふ)露分(つゆわ)()りたまふにつけてもいと()づかしうなむ」
「今まで生きながらえておりましたのがとても情けないのに、このようなお勅使が草深い宿の露を分けてお訪ね下さるにつけても、とても恥ずかしうございます」
「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いが荒ら屋へおいでくださるとまたいっそう自分が恥ずかしくてなりません」
2.2.4 と言って、ほんとうに身を持ちこらえられないくらいにお泣きになる。
と言って、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。
2.2.5
「『(まゐ)りてはいとど心苦(こころぐる)しう、心肝(こころぎ)(もつ)くるやうになむ』と、典侍(ないしのすけ)(そう)したまひしを、もの(おも)うたまへ()らぬ心地(ここち)にもげにこそいと(しの)びがたうはべりけれ」
「『お訪ねいたしたところ、ひとしおお気の毒で、心も魂も消え入るようでした』と、典侍が奏上なさったが、物の情趣を理解いたさぬ者でも、なるほどまことに忍びがとうございます」
「こちらへ上がりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍は陛下へ申し上げていらっしゃいましたが、私のようなあさはかな人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」
2.2.6
とて、ややためらひて(おほ)(ごとつた)へきこゆ。
と言って、少し気持ちを落ち着かせてから、仰せ言をお伝え申し上げる。
と言ってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。
2.2.7
「『しばしは(ゆめ)かとのみたどられしを、やうやう(おも)(しづ)まるにしも、()むべき(かた)なく()へがたきは、いかにすべきわざにかとも、()ひあはすべき(ひと)だになきを(しの)びては(まゐ)りたまひなむや
若宮(わかみや)のいとおぼつかなく、(つゆ)けき(なか)()ぐしたまふも、心苦(こころぐる)しう(おぼ)さるるをとく(まゐ)りたまへなどはかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは(ひと)心弱(こころよわ)()たてまつるらむと、(おぼ)しつつまぬにしもあらぬ御気色(みけしき)心苦(こころぐる)しさに、(うけたまは)()てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」
「『しばらくの間は夢かとばかり思い辿られずにはいられなかったが、だんだんと心が静まるにつれてかえって、覚めるはずもなく堪えがたいのは、どのようにしたらよいものかとも、相談できる相手さえいないので、人目につかないようにして参内なさらぬか。
若宮がたいそう気がかりで、湿っぽい所でお過ごしになっているのも、おいたわしくお思いあそばされますから、早く参内なさい』などと、はきはきとは最後まで仰せられず、涙に咽ばされながら、また一方では人びともお気弱なと拝されるだろうと、お憚りあそばされないわけではない御様子がおいたわしくて、最後まで承らないようなかっこうで、退出いたして参りました」
「当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやく落ち着くとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですがそれもありません。目だたぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい」
 「こういうお言葉ですが、涙にむせ返っておいでになって、しかも人に弱さを見せまいと御遠慮をなさらないでもない御様子がお気の毒で、ただおおよそだけを承っただけでまいりました」
2.2.8 と言って、お手紙を差し上げる。
と言って、また帝のお言づてのほかの御消息を渡した。
2.2.9
()()えはべらぬにかくかしこき(おほ)(ごと)(ひかり)にてなむ」とて、()たまふ。
「目も見えませんが、このような畏れ多いお言葉を光といたしまして」と言って、御覧になる。
「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分なかたじけない仰せを光明にいたしまして」
 未亡人はお文を拝見するのであった。
2.2.10
「ほど()ばすこしうち(まぎ)るることもやと、()()ぐす月日(つきひ)()へて、いと(しの)びがたきはわりなきわざになむ。
いはけなき(ひと)をいかにと(おも)ひやりつつ、もろともに(はぐく)まぬおぼつかなさを
(いま)は、なほ(むかし)のかたみになずらへてものしたまへ」
「時がたてば少しは気持ちの紛れることもあろうかと、心待ちに過す月日がたつにつれて、たいそうがまんができなくなるのはどうにもならないことである。
幼い人をどうしているかと案じながら、一緒にお育てしていない気がかりさよ。
今は、やはり故人の形見と思って、参内なされよ」
時がたてば少しは寂しさも紛れるであろうかと、そんなことを頼みにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思いやっている小児も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子の代わりとして面倒を見てやってくれることを頼む。
2.2.11
など、こまやかに()かせたまへり。
などと、心こまやかにお書きあそばされていた。
などこまごまと書いておありになった。
2.2.12 「宮中の萩に野分が吹いて露を結ばせたり散らそうとする風の音を聞くにつけ、
幼子の身が思いやられる
宮城野の露吹き結ぶ風の音に
小萩が上を思ひこそやれ
2.2.13
とあれど、()たまひ()てず。
とあるが、最後までお読みきれになれない。
という御歌もあったが、未亡人はわき出す涙が妨げて明らかには拝見することができなかった。
2.2.14 「長生きが、とても辛いことだと存じられますうえに、高砂の松がどう思うかさえも、恥ずかしう存じられますので、内裏にお出入りいたしますことは、さらにとても遠慮いたしたい気持ちでいっぱいです。
畏れ多い仰せ言をたびたび承りながらも、わたし自身はとても思い立つことができません。
「長生きをするからこうした悲しい目にもあうのだと、それが世間の人の前に私をきまり悪くさせることなのでございますから、まして御所へ時々上がることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せを伺っているのですが、私が伺候いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。
2.2.15
若宮(わかみや)は、いかに(おも)ほし()るにか、(まゐ)りたまはむことをのみなむ(おぼ)(いそ)ぐめればことわりに(かな)しう()たてまつりはべるなど、うちうちに(おも)うたまふるさまを(そう)したまへ。
ゆゆしき()にはべれば、かくておはしますも()()ましうかたじけなくなむ」
若宮は、どのようにお考えなさっているのか、参内なさることばかりお急ぎになるようなので、ごもっともだと悲しく拝見しておりますなどと、ひそかに存じております由をご奏上なさってください。
不吉な身でございますので、こうして若宮がおいでになるのも、忌まわしくもあり畏れ多いことでございます」
若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたい御様子をお見せになりますから、私はごもっともだとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申し上げてくださいませ。良人も早く亡くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私が御いっしょにおりますことは、若宮のために縁起のよろしくないことと恐れ入っております」
2.2.16 とおっしゃる。
若宮はもうお寝みになっていた。
などと言った。そのうち若宮ももうお寝みになった。
2.2.17 「拝見して、詳しくご様子も奏上いたしたいのですが、帝がお待ちあそばされていることでしょうし、夜も更けてしまいましょう」と言って急ぐ。
「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしく御様子も陛下へ御報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それではあまりおそくなるでございましょう」
 と言って命婦は帰りを急いだ。
2.2.18
()れまどふ(こころ)(やみ)()へがたき片端(かたはし)をだに、はるくばかりに()こえまほしうはべるを(わたくし)にも(こころ)のどかにまかでたまへ。
(とし)ごろ、うれしく(おも)だたしきついでにて()()りたまひしものをかかる御消息(おほんせうそこ)にて()たてまつる、(かへ)(がへ)すつれなき(いのち)にもはべるかな。
「子を思う親心の悲しみの堪えがたいその一部だけでも、晴らすほどに申し上げとうございますので、個人的にでもゆっくりとお出くださいませ。
数年来、おめでたく晴れがましい時にお立ち寄りくださいましたのに、このようなお悔やみのお使いとしてお目にかかるとは、返す返すも情けない運命でございますこと。
「子をなくしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公のお使いでなく、気楽なお気持ちでお休みがてらまたお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとは何ということでしょう。返す返す運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。
2.2.19
()まれし(とき)より(おも)(こころ)ありし(ひと)にて故大納言(こだいなごん)いまはとなるまで、ただ、この(ひと)宮仕(みやづか)への本意(ほい)かならず()げさせたてまつれ。
()()くなりぬとて、口惜(くちを)しう(おも)ひくづほるな』と、(かへ)(がへ)(いさ)めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思(うしろみおも)(ひと)もなき()じらひは、なかなかなるべきことと(おも)ひたまへながら、ただかの遺言(ゆいごん)(たが)へじとばかりに、()だし()てはべりしを、()(あま)るまでの御心(みこころ)ざしの、よろづにかたじけなきに、(ひと)げなき(はぢ)(かく)しつつ、()じらひたまふめりつるを、(ひと)(そね)(ふか)()もり、(やす)からぬこと(おほ)くなり()ひはべりつるに、横様(よこさま)なるやうにてつひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心(みこころ)ざしを(おも)ひたまへられはべる。
これもわりなき(こころ)(やみ)になむ」
生まれた時から、心中に期待するところのあった人で、亡き夫大納言が、臨終の際となるまで、『ともかく、わが娘の宮仕えの宿願を、きっと実現させ申しなさい。
わたしが亡くなったからといって、落胆して挫けてはならぬ』と、繰り返し戒め遺かれましたので、これといった後見人のない宮仕え生活は、かえってしないほうがましだと存じながらも、ただあの遺言に背くまいとばかりに、出仕させましたところ、身に余るほどのお情けが、いろいろともったいないので、人にあるまじき恥を隠し隠ししては、宮仕え生活をしていられたようでしたが、人の嫉みが深く積もり重なり、心痛むことが多く身に添わってまいりましたところ、横死のようなありさまで、とうとうこのようなことになってしまいましたので、かえって辛いことだと、その畏れ多いお情けを存じております。
このような愚痴も理屈では割りきれない親心の迷いです」
故人のことを申せば、生まれました時から親たちに輝かしい未来の望みを持たせました子で、父の大納言はいよいよ危篤になりますまで、この人を宮中へ差し上げようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、確かな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましてはただ遺言を守りたいばかりに陛下へ差し上げましたが、過分な御寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、皆さんの御嫉妬の積もっていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深い御愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」
2.2.20
と、()ひもやらずむせかへりたまふほどに、()()けぬ。
と、最後まで言えないで涙に咽んでいらっしゃるうちに、夜も更けてしまった。
こんな話をまだ全部も言わないで未亡人は涙でむせ返ってしまったりしているうちにますます深更になった。
2.2.21
主上(うへ)もしかなむ
()御心(みこころ)ながらあながちに人目(ひとめ)おどろくばかり(おぼ)されしも(なが)かるまじきなりけりと、(いま)つらかりける(ひと)(ちぎ)りになむ
()にいささかも(ひと)(こころ)()げたることはあらじと(おも)ふを、ただこの(ひと)のゆゑにて、あまたさるまじき(ひと)(うら)()ひし()()ては、かううち()てられて、(こころ)をさめむ(かた)なきに、いとど人悪(ひとわ)ろうかたくなになり()つるも、(さき)()ゆかしうなむ』とうち(かへ)しつつ、(おほん)しほたれがちにのみおはします」と(かた)りて()きせず。
()()()いたう()けぬれば今宵過(こよひす)ぐさず、御返(おほんかへ)(そう)せむ」と(いそ)(まゐ)
「主上様もご同様でございまして。
『御自分のお心ながら、強引に周囲の人が目を見張るほど御寵愛なさったのも、長くは続きそうにない運命だったからなのだなあと、今となってはかえって辛い人との宿縁であった。
決して少しも人の心を傷つけたようなことはあるまいと思うのに、ただこの人との縁が原因で、たくさんの恨みを負うなずのない人の恨みをもかったあげくには、このように先立たれて、心静めるすべもないところに、ますます体裁悪く愚か者になってしまったのも、前世がどんなであったのかと知りたい』と何度も仰せられては、いつもお涙がちばかりでいらっしゃいます」と話しても尽きない。
泣く泣く、「夜がたいそう更けてしまったので、今夜のうちに、ご報告を奏上しよう」と急いで帰参する。
「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながらあまりに穏やかでないほどの愛しようをしたのも前生の約束で長くはいっしょにおられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁でつながれていたのだ、自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信を持っていたが、あの人によって負ってならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって湿っぽい御様子ばかりをお見せになっています」
 どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、
 「もう非常に遅いようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」
 と言って、帰る仕度をした。
2.2.22
(つき)()(がた)の、空清(そらきよ)()みわたれるに(かぜ)いと(すず)しくなりて、(くさ)むらの(むし)(こゑ)ごゑもよほし(がほ)なるもいと()(はな)れにくき(くさ)のもとなり。
月は入り方で、空が清く澄みわたっているうえに、風がとても涼しくなって、草むらの虫の声ごえが涙を誘わせるようなのも、まことに立ち去りがたい庭の風情である。
落ちぎわに近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人の悲しみを促すような虫の声がするのであるから帰りにくい。
2.2.23 「鈴虫が声をせいいっぱい鳴き振るわせても
長い秋の夜を尽きることなく流れる涙でございますこと」
鈴虫の声の限りを尽くしても
長き夜飽かず降る涙かな
2.2.24 お車に乗りかねている。
車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。
2.2.25 「ただでさえ虫の音のように泣き暮らしておりました荒れ宿に
さらに涙をもたらします内裏からのお使い人よ
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に
露置き添ふる雲の上人
2.2.26
かごと()こえつべくなむ」
恨み言もつい申し上げてしまいそうで」
かえって御訪問が恨めしいと申し上げたいほどです」
2.2.27
()はせたまふ
をかしき御贈(おほんおく)(もの)などあるべき(をり)にもあらねば、ただかの御形見(おほんかたみ)にとて、かかる(よう)もやと(のこ)したまへりける御装束一領(おほんさうぞくひとくだり)御髪上(みぐしあ)調度(てうど)めく物添(ものそ)へたまふ
と言わせなさる。
趣きのあるような御贈物などあらねばならない時でもないので、ただ亡き更衣のお形見にと、このような入用もあろうかとお残しになった御衣装一揃いに、御髪上げの調度のような物をお添えになる。
と未亡人は女房に言わせた。意匠を凝らせた贈り物などする場合でなかったから、故人の形見ということにして、唐衣と裳の一揃えに、髪上げの用具のはいった箱を添えて贈った。
2.2.28
(わか)(ひと)びと、(かな)しきことはさらにも()はず、内裏(うち)わたりを朝夕(あさゆふ)にならひて、いとさうざうしく、主上(うへ)(おほん)ありさまなど(おも)()できこゆれば、とく(まゐ)りたまはむことをそそのかしきこゆれどかく()()ましき()()ひたてまつらむもいと人聞(ひとぎ)()かるべし、また、()たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」(おも)ひきこえたまひて、すがすがともえ(まゐ)らせたてまつりたまはぬなりけり
若い女房たちは、悲しいことは言うまでもない、内裏の生活を朝な夕なと馴れ親しんでいるので、たいそう物足りなく、主上のご様子などをお思い出し申し上げると、早く参内なさるようにとお勧め申し上げるが、「このように忌まわしい身が付き随って参内申すようなのも、まことに世間の聞こえが悪いであろうし、また、しばしも拝さずにいることも、気がかりに」お思い申し上げなさって、気分よくさっぱりとは参内させなさることがおできになれないのであった。
若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住まいをしなれていて、寂しく物足らず思われることが多く、お優しい帝の御様子を思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにと促すのであるが、不幸な自分がごいっしょに上がっていることも、また世間に批難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、結局若宮の宮中入りは実行性に乏しかった。

第三段 命婦帰参

2.3.1
命婦(みゃうぶ)は、「まだ大殿籠(おほとのご)もらせたまはざりける」とあはれに()たてまつる。
御前(おまへ)壺前栽(つぼせんざい)のいとおもしろき(さか)りなるを御覧(ごらん)ずるやうにて、(しの)びやかに(こころ)にくき(かぎ)りの女房四、五人(にょうばうしごにん)さぶらはせたまひて、御物語(おほんものがたり)せさせたまふなりけり
命婦は、「まだお寝みあそばされなかったのだわ」と、しみじみと拝し上げる。
御前にある壺前栽がたいそう美しい盛りに咲いているのを御覧あそばされるようにして、しめやかにおくゆかしい女房ばかり四、五人を伺候させなさって、お話をさせておいであそばすのであった。
御所へ帰った命婦は、まだ宵のままで御寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして凡庸でない女房四、五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。
2.3.2 最近、毎日御覧なさる「長恨歌」の御絵、それは亭子院がお描きあそばされて、伊勢や貫之に和歌を詠ませなさったものだが、わが国の和歌や唐土の漢詩などをも、ひたすらその方面の事柄を、日常の話題にあそばされている。
たいそう詳しく里の様子をお尋ねあそばす。
しみじみとした趣きをひそかに奏上する。
お返事を御覧になると、
このごろ始終帝の御覧になるものは、玄宗皇帝と楊貴妃の恋を題材にした白楽天の長恨歌を、亭子院が絵にあそばして、伊勢や貫之に歌をお詠ませになった巻き物で、そのほか日本文学でも、支那のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家の様子をお聞きになった。身にしむ思いを得て来たことを命婦は外へ声をはばかりながら申し上げた。未亡人の御返事を帝は御覧になる。
2.3.3
いともかしこきは()(どころ)もはべらず。
かかる(おほ)(ごと)につけても、かきくらす(みだ)心地(ごこち)になむ。
「たいへんに畏れ多いお手紙を頂戴いたしましてはどうしてよいか分かりません。
このような仰せ言を拝見いたしましても、心の中はまっくら闇に思い乱れておりまして。
もったいなさをどう始末いたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せを承りましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。
2.3.4 荒い風を防いでいた木が枯れてからは
小萩の身の上が気がかりでなりません」
荒き風防ぎし蔭の枯れしより
小萩が上ぞしづ心無き
2.3.5
などやうに(みだ)りがはしきを、(こころ)をさめざりけるほどと御覧(ごらん)(ゆる)すべし
いとかうしも()えじと(おぼ)(しづ)むれど、さらにえ(しの)びあへさせたまはず御覧(ごらん)(はじ)めし年月(としつき)のことさへかき(あつ)め、よろづに(おぼ)(つづ)けられて(とき)()おぼつかなかりしを、かくても月日(つきひ)()にけり」と、あさましう(おぼ)()さる。
などと言うようにやや不謹慎なのを、気持ちが静まらない時だからとお見逃しになるのであろう。
決してこう取り乱した姿を見せまいと、お静めなさるが、まったく堪えることがおできあそばされず、初めてお召しあそばした年月のことまであれこれと思い出され、何から何まで自然とお思い続けられて、「片時の間も離れてはいられなかったのに、よくこうも月日を過せたものだ」と、あきれてお思いあそばされる。
というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのために落ち着かない心で詠んでいるのであるからと寛大に御覧になった。帝はある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それが御困難であるらしい。はじめて桐壼の更衣の上がって来たころのことなどまでがお心の表面に浮かび上がってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。
2.3.6
故大納言(こだいなごん)遺言(ゆいごん)あやまたず、宮仕(みやづか)への本意深(ほいふか)くものしたりしよろこびは、かひあるさまにとこそ(おも)ひわたりつれ
()ふかひなしや」とうちのたまはせて、いとあはれに(おぼ)しやる。
かくてもおのづから若宮(わかみや)など()()でたまはば、さるべきついでもありなむ。
命長(いのちなが)くとこそ(おも)(ねん)ぜめ
「故大納言の遺言に背かず、宮仕えの宿願をよく果たしたお礼には、その甲斐があったようにと思い続けていたが。
詮ないことだ」とふと仰せになって、たいそう気の毒にと思いを馳せられる。
「そうではあるが、いずれ若宮がご成長されたならば、しかるべき機会がきっとあろう。
長生きをしてそれまでじっと辛抱するがよい」
「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人への酬いは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかも皆夢になった」
 とお言いになって、未亡人に限りない同情をしておいでになった。
 「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日が来れば、故人に后の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
2.3.7 などと仰せになる。
あの贈物を帝のお目に入れる。
「亡くなった人の住処を探し当てたという証拠の釵であったならば」とお思いあそばしてもまったく甲斐がない。
などという仰せがあった。命婦は贈られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に逢って得て来た玉の簪であったらと、帝はかいないこともお思いになった。
2.3.8 「亡き更衣を探し行ける幻術士がいてくれればよいのだがな、
人づてにでも魂のありかをどこそこと知ることが
尋ね行くまぼろしもがなつてにても
魂のありかをそこと知るべく
2.3.9
()()ける楊貴妃(やうきひ)容貌(かたち)は、いみじき絵師(ゑし)といへども、筆限(ふでかぎ)りありければいとにほひ(すく)なし。
大液芙蓉未央柳(たいえきのふようびやうのやなぎ)げに(かよ)ひたりし容貌(かたち)(から)めいたる(よそ)ひはうるはしうこそありけめなつかしうらうたげなりしを(おぼ)()づるに、花鳥(はなとり)(いろ)にも()にもよそふべき(かた)ぞなき。
絵に描いてある楊貴妃の容貌は、上手な絵師と言っても、筆力には限界があったのでまったく生気が少ない。
「大液の芙蓉、未央の柳」の句にも、なるほど似ていた容貌だが、唐風の装いをした姿は端麗ではあったろうが、慕わしさがあって愛らしかったのをお思い出しになると、花や鳥の色や音にも喩えようがない。
絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現は限りがあって、それほどのすぐれた顔も持っていない。太液の池の蓮花にも、未央宮の柳の趣にもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣の持った柔らかい美、艶な姿態をそれに思い比べて御覧になると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。
2.3.10 朝夕の口癖に、「比翼の鳥となり、連理の枝となろう」とお約束あそばしていたのに、思うようにならなかった人の運命が、永遠に尽きることなく恨めしかった。
お二人の間はいつも、天に在っては比翼の鳥、地に生まれれば連理の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。
2.3.11
(かぜ)(おと)(むし)()につけてもののみ(かな)しう(おぼ)さるるに、弘徽殿(こうきでん)には、(ひさ)しく(うへ)御局(みつぼね)にも()(のぼ)りたまはず、(つき)のおもしろきに、夜更(よふ)くるまで(あそ)びをぞしたまふなる
いとすさまじう、ものしと()こし()す。
このごろの御気色(みけしき)()たてまつる上人(うへびと)女房(にょうばう)などは、かたはらいたしと()きけり。
いとおし()かどかどしきところものしたまふ御方(おほんかた)にて、ことにもあらず(おぼ)()ちてもてなしたまふなるべし
(つき)()りぬ
風の音や、虫の音を聞くにつけて、何とはなく一途に悲しく思われなさるが、弘徽殿女御におかれては、久しく上の御局にもお上がりにならず、月が美しいので、夜が更けるまで管弦の遊びをなさっているようである。
実に興ざめで、不愉快だとお聞きあそばす。
最近のご様子を拝する殿上人や女房などは、はらはらする思いで聞いていた。
たいへんに気が強くてとげとげしい性質をお持ちの方なので、何ともお思いなさらず無視して振る舞っていらっしゃるのであろう。
月も沈んでしまった。
秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになる時、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿の宿直にもお上がりせずにいて、今夜の月明に更けるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このころの帝のお心持ちをよく知っている殿上役人や帝付きの女房なども皆弘徽殿の楽音に反感を持った。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。
 月も落ちてしまった。
2.3.12 「雲の上の宮中までも涙に曇って見える秋の月だ
ましてやどうして澄んで見えようか、
雲の上も涙にくるる秋の月
いかですむらん浅茅生の宿
2.3.13
(おぼ)()しやりつつ、灯火(ともしび)をかかげ()くして()きおはします。
右近(うこん)(つかさ)宿直奏(とのゐまうし)(こゑき)こゆるは、(うし)になりぬるなるべし
人目(ひとめ)(おぼ)して、(よる)御殿(おとど)()らせたまひても、まどろませたまふことかたし
お思いやりになりながら、灯芯をかき立てて油の尽きるまで起きておいであそばす。
右近衛府の官人の宿直申しの声が聞こえるのは、丑の刻になったのであろう。
人目をお考えになって、夜の御殿にお入りあそばしても、うとうととまどろみあそばすことも難しい。
命婦が御報告した故人の家のことをなお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
 右近衛府の士官が宿直者の名を披露するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになって御寝室へおはいりになってからも安眠を得たもうことはできなかった。
2.3.14 朝になってお起きあそばそうとしても、「夜の明けるのも分からないで」とお思い出しになられるにつけても、やはり政治をお執りになることは怠りがちになってしまいそうである。
朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔の御追憶がお心を占めて、寵姫の在った日も亡いのちも朝の政務はお怠りになることになる。
2.3.15
ものなども()こし()さず、朝餉(あさがれひ)のけしきばかり()れさせたまひて、大床子(だいしゃうじ)御膳(おもの)などは、いと(はる)かに(おぼ)()したれば、陪膳(はいぜん)にさぶらふ(かぎ)りは、心苦(こころぐる)しき御気色(みけしき)()たてまつり(なげ)く。
すべて、(ちか)うさぶらふ(かぎ)りは、男女(をとこをんな)いとわりなきわざかな」と()()はせつつ(なげ)く。
さるべき(ちぎ)りこそはおはしましけめ。
そこらの(ひと)(そし)り、(うら)みをも(はばか)らせたまはず、この(おほん)ことに()れたることをば、道理(だうり)をも(うしな)はせたまひ、(いま)はた、かく()(なか)のことをも、(おも)ほし()てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」と、(ひと)朝廷(みかど)(ためし)まで()()ささめき(なげ)きけり
お食物などもお召し上がりにならず、朝餉には形だけお箸をおつけになって、大床子の御膳などは、まったくお心に入らぬかのように手をおつけあそばさないので、お給仕の人たちは皆、おいたわしいご様子を拝して嘆く。
総じて、お側近くお仕えする人たちは、男も女も、「たいそう困ったことですね」とお互いに言い合っては溜息をつく。
「こうなるはずの前世からの宿縁がおありあそばしたのでしょう。
大勢の人びとの非難や嫉妬をもお憚りあそばさず、あの方の事に関しては、御分別をお失いあそばされ、今は今で、このように政治をお執りになることも、お捨てになったようになって行くのは、たいへんに困ったことである」と、唐土の朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと嘆息するのであった。
お食欲もない。簡単な御朝食はしるしだけお取りになるが、帝王の御朝餐として用意される大床子のお料理などは召し上がらないものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人は皆この状態を歎いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。よくよく深い前生の御縁で、その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、その人に関することだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない、国家のためによろしくないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。

第三章 光る源氏の物語


第一段 若宮参内(四歳)

3.1.1
月日経(つきひへ)て、若宮参(わかみやまゐ)りたまひぬ
いとどこの()のものならず(きよ)らにおよすげたまへれば、いとゆゆしう(おぼ)したり。
月日がたって、若宮が参内なさった。
ますますこの世の人とは思われず美しくご成長なさっているので、たいへん不吉なまでにお感じになった。
幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さい時ですらこの世のものとはお見えにならぬ御美貌の備わった方であったが、今はまたいっそう輝くほどのものに見えた。
3.1.2
()くる(とし)(はる)坊定(ばうさだ)まりたまふにもいと()()さまほしう(おぼ)せど御後見(おほんうしろみ)すべき(ひと)もなく、また()のうけひくまじきことなりければ、なかなか(あやふ)(おぼ)(はばか)りて、(いろ)にも()ださせたまはずなりぬるを、さばかり(おぼ)したれど、(かぎ)りこそありけれ」と、世人(よひと)()こえ、女御(にょうご)御心落(みこころお)ちゐたまひぬ
翌年の春に、東宮がお決まりになる折にも、とても第一皇子を超えさせたく思し召されたが、ご後見すべき人もなく、また世間が承知するはずもないことだったので、かえって危険であるとお差し控えになって、顔色にもお出しあそばされずに終わったので、「あれほどおかわいがっていらっしゃったが、限界があったのだなあ」と、世間の人びともお噂申し上げ、弘徽殿女御もお心を落ち着けなさった。
その翌年立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、まただれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、御心中をだれにもお洩らしにならなかった。東宮におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間も言い、弘徽殿の女御も安心した。
3.1.3 あの祖母北の方は、悲しみを晴らすすべもなく沈んでいらっしゃって、せめて死んだ娘のいらっしゃる所にでも尋ねて行きたいと願っていらっしゃった現れか、とうとうお亡くなりになってしまったので、またこのことを悲しく思し召されることこの上もない。
御子は六歳におなりのお年なので、今度はお分かりになって恋い慕ってお泣きになる。
長年お親しみ申し上げなさってきたのに、後に残して先立つ悲しみを、繰り返し繰り返しおっしゃっていたのであった。
その時から宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って一心に御仏の来迎を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。これは皇子が六歳の時のことであるから、今度は母の更衣の死に逢った時とは違い、皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今まで始終お世話を申していた宮とお別れするのが悲しいということばかりを未亡人は言って死んだ。

第二段 読書始め(七歳)

3.2.1
(いま)内裏(うち)にのみさぶらひたまふ
(なな)つになりたまへば読書始(ふみはじ)などせさせたまひて、()()らず(さと)(かしこ)くおはすれば、あまり(おそ)ろしきまで御覧(ごらん)ず。
今は内裏にばかりお暮らしになっている。
七歳におなりになったので、読書始めなどをおさせになったところ、この世に類を知らないくらい聡明で賢くいらっしゃるので、空恐ろしいまでにお思いあそばされる。
それから若宮はもう宮中にばかりおいでになることになった。七歳の時に書初めの式が行なわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない聡明さに帝はお驚きになることが多かった。
3.2.2
(いま)()れも()れもえ(にく)みたまはじ。
母君(ははぎみ)なくてだにらうたうしたまへ」とて、弘徽殿(こうきでん)などにも(わた)らせたまふ御供(おほんとも)には、やがて御簾(みす)(うち)()れたてまつりたまふ
いみじき武士(もののふ)仇敵(あたかたき)なりとも()てはうち()まれぬべきさまのしたまへれば、えさし(はな)ちたまはず
女皇女(をんなみこ)たち(ふた)ところ、この御腹(おほんはら)おはしませど、なずらひたまふべきだにぞなかりける
御方々(おほんかたがた)(かく)れたまはず(いま)よりなまめかしう()づかしげにおはすれば、いとをかしううちとけぬ(あそ)(ぐさ)に、()れも()れも(おも)ひきこえたまへり。
「今はどなたもどなたもお憎みなされまい。
母君がいないということだけでもおかわいがりください」と仰せになって、弘徽殿などにもお渡りあそばすお供としては、そのまま御簾の内側にお入れ申し上げなさる。
恐ろしい武士や仇敵であっても、見るとつい微笑まずにはいられない様子でいらっしゃるので、放っておくこともおできになれない。
姫皇女たちがお二方、この御方にはいらっしゃったが、お並びになりようもないのであった。
他の女御がたもお隠れにならずに、今から優美で立派でいらっしゃるので、たいそう趣きがある一方で気のおける遊び相手だと、どなたもどなたもお思い申し上げていらっしゃった。
「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけででもかわいがっておやりなさい」
 と帝は些言いになって、弘徽殿へ昼間おいでになる時もいっしょにおつれになったりしてそのまま御簾の中にまでもお入れになった。どんな強さ一方の武士だっても仇敵だってもこの人を見ては笑みが自然にわくであろうと思われる美しい少童でおありになったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫宮をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子のほうがおきれいであった。姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。
3.2.3 本格的な御学問はもとよりのこと、琴や笛の才能でも宮中の人びとを驚かせ、すべて一つ一つ数え上げていったら、仰々しく嫌になってしまうくらい、優れた才能のお方なのであった。
学問はもとより音楽の才も豊かであった。言えぼ不自然に聞こえるほどの天才児であった。

第三段 高麗人の観相、源姓賜わる

3.3.1
そのころ高麗人(こまうど)(まゐ)れる(なか)に、かしこき相人(さうにん)ありけるを()こし()して(みや)(うち)()さむことは、宇多(うだ)(みかど)御誡(おほんいまし)めあればいみじう(しの)びて、この御子(みこ)鴻臚館(こうろかん)(つか)はしたり。
御後見(おほんうしろみ)だちて(つか)うまつる右大弁(うだいべん)()のやうに(おも)はせて()てたてまつるに、相人驚(さうにんおどろ)きて、あまたたび(かたぶ)きあやしぶ。
その当時、高麗人が来朝していた中に、優れた人相見がいたのをお聞きあそばして、内裏の内に召し入れることは宇多帝の御遺誡があるので、たいそう人目を忍んで、この御子を鴻臚館にお遣わしになった。
後見役のようにしてお仕えする右大弁の子供のように思わせてお連れ申し上げると、人相見は目を見張って、何度も首を傾け不思議がる。
その時分に高麗人が来朝した中に、上手な人相見の者が混じっていた。帝はそれをお聞きになったが、宮中へお呼びになることは亭子院のお誡めがあっておできにならず、だれにも秘密にして皇子のお世話役のようになっている右大弁の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鴻臚館へおやりになった。
 相人は不審そうに頭をたびたび傾けた。
3.3.2
(くに)(おや)となりて帝王(ていわう)(かみ)なき(くらゐ)(のぼ)るべき(さう)おはします(ひと)の、そなたにて()れば、(みだ)(うれ)ふることやあらむ
朝廷(おほやけ)重鎮(かため)となりて、(あめ)(した)(たす)くる(かた)にて()ればまたその相違(さうたが)ふべし」と()ふ。
「国の親となって、帝王の最高の地位につくはずの相をお持ちでいらっしゃる方で、そういう人として占うと、国が乱れ民の憂えることが起こるかも知れません。
朝廷の重鎮となって、政治を補佐する人として占うと、またその相ではないようです」と言う。
「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の輔佐をする人として見てもまた違うようです」
 と言った。
3.3.3
(べん)も、いと(ざえ)かしこき博士(はかせ)にて、()()はしたることどもなむ、いと(きょう)ありける。
(ふみ)など(つく)()はして、今日明日帰(けふあすかへ)()りなむとするに、かくありがたき(ひと)対面(たいめん)したるよろこび、かへりては(かな)しかるべき(こころ)ばへをおもしろく(つく)りたるに、御子(みこ)もいとあはれなる()(つく)りたまへるを、(かぎ)りなうめでたてまつりて、いみじき(おく)(もの)どもを(ささ)げたてまつる。
朝廷(おほやけ)よりも(おほ)くの物賜(ものたま)はす。
右大弁も、たいそう優れた学識人なので、語り合った事柄は、たいへんに興味深いものであった。
漢詩文などを作り交わして、今日明日のうちにも帰国する時に、このようにめったにない人に対面した喜びや、かえって悲しい思いがするにちがいないという気持ちを趣き深く作ったのに対して、御子もたいそう心を打つ詩句をお作りになったので、この上なくお褒め申して、素晴らしいいくつもの贈物を差し上げる。
朝廷からもたくさんの贈物を御下賜なさる。
弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答にはおもしろいものがあった。詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終わろうとする期に臨んで珍しい高貴の相を持つ人に逢ったことは、今さらにこの国を離れがたくすることであるというような意味の作をした。若宮も送別の意味を詩にお作りになったが、その詩を非常にほめていろいろなその国の贈り物をしたりした。
 朝廷からも高麗の相人へ多くの下賜品があった。
3.3.4
おのづから事広(ことひろ)ごりて、()らさせたまはねど、春宮(とうぐう)祖父大臣(おほぢおとど)など、いかなることにかと(おぼ)(うたが)ひてなむありける
自然と噂が広がって、お漏らしあそばさないが、東宮の祖父大臣などは、どのようなわけでかとお疑いになっているのであった。
その評判から東宮の外戚の右大臣などは第二の皇子と高麗の相人との関係に疑いを持った。好遇された点が腑に落ちないのである。
3.3.5
(みかど)、かしこき御心(みこころ)に、倭相(やまとさう)(おほ)せて(おぼ)しよりにける(すぢ)なれば、(いま)までこの(きみ)親王(みこ)にもなさせたまはざりけるを相人(さうにん)はまことにかしこかりけり」と(おぼ)して、無品(むほん)親王(しんわう)外戚(げしゃく)()せなきにては(ただよ)はさじ。
わが御世(みよ)もいと(さだ)めなきをただ(うど)にて朝廷(おほやけ)御後見(おほんうしろみ)をするなむ、()(さき)(たの)もしげなめること」と(おぼ)(さだ)めて、いよいよ道々(みちみち)(ざえ)(なら)はさせたまふ。
帝は、畏れ多い考えから、倭相をお命じになって、既にお考えになっていたところなので、今までこの若君を親王にもなさらなかったが、「相人はほんとうに優れていた」とお思いになって、「無品の親王で外戚の後見のない状態で彷徨わすまい。
わが御代もいつまで続くか分からないものだから、臣下として朝廷のご補佐役をするのが、将来も頼もしそうに思われることだ」とお決めになって、ますます諸道の学問を習わせなさる。
聡明な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。それでほとんど同じことを占った相人に価値をお認めになったのである。四品以下の無品親王などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ終わるかしれぬのであるから、将来に最も頼もしい位置をこの子に設けて置いてやらねばならぬ、臣下の列に入れて国家の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉強をおさせになった。
3.3.6 才能は格別聡明なので、臣下とするにはたいそう惜しいけれど、親王とおなりになったら、世間の人から立坊の疑いを持たれるにちがいなさそうにいらっしゃるので、宿曜道の優れた人に占わせなさっても、同様に申すので、源氏にして上げるのがよいとお決めになっていた。
大きな天才らしい点の現われてくるのを御覧になると人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子に変わろうとする野心を持つような疑いを当然受けそうにお思われになった。上手な運命占いをする者にお尋ねになっても同じような答申をするので、元服後は源姓を賜わって源氏の某としようとお決めになった。

第四段 先帝の四宮(藤壺)入内

3.4.1
年月(としつき)()へて御息所(みやすんどころ)(おほん)ことを(おぼ)(わす)るる(をり)なし。
(なぐさ)や」と、さるべき(ひと)びと(まゐ)らせたまへど、なずらひに(おぼ)さるるだにいとかたき()かな」と、(うと)ましうのみよろづに(おぼ)しなりぬるに、先帝(せんだい)()(みや)御容貌(おほんかたち)すぐれたまへる()こえ(たか)くおはします、母后世(ははぎさきよ)になくかしづききこえたまふを主上(うへ)にさぶらふ典侍(ないしのすけ)は、先帝(せんだい)御時(おほんとき)(ひと)にて、かの(みや)にも(した)しう(まゐ)()れたりければ、いはけなくおはしましし(とき)より()たてまつり、(いま)もほの()たてまつりて、
年月がたつにつれて、御息所のことをお忘れになる折がない。
「心慰めることができようか」と、しかるべき婦人方をお召しになるが、「せめて準ずる程に思われなさる人さえめったにいない世の中だ」と、厭わしいばかりに万事が思し召されていたところ、先帝の四の宮で、ご容貌が優れておいでであるという評判が高くいらっしゃる方で、母后がまたとなく大切にお世話申されていられる方を、主上にお仕えする典侍は、先帝の御代からの人で、あちらの宮にも親しく参って馴染んでいたので、ご幼少でいらっしゃった時から拝見し、今でもちらっと拝見して、
年月がたっても帝は桐壼の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。そうしたころ、先帝-帝の従兄あるいは叔父君-の第四の内親王でお美しいことをだれも言う方で、母君のお后が大事にしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典侍は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王の御幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。
3.4.2
()せたまひにし御息所(みやすんどころ)御容貌(おほんかたち)()たまへる(ひと)を、三代(さんだい)宮仕(みやづか)へに(つた)はりぬるに()たてまつりつけぬを(きさい)(みや)姫宮(ひめみや)こそ、いとようおぼえて()()でさせたまへりけれ。
ありがたき御容貌人(おほんかたちびと)になむ」と(そう)しけるに、まことにや」と、御心(みこころ)とまりて、ねむごろに()こえさせたまひけり
「お亡くなりになった御息所のご容貌に似ていらっしゃる方を、三代の帝にわたって宮仕えいたしてまいりまして、一人も拝見できませんでしたが、后の宮の姫宮さまは、たいそうよく似てご成長あそばしていますわ。
世にもまれなご器量よしのお方でございます」と奏上したところ、「ほんとうにか」と、お心が止まって、丁重に礼を尽くしてお申し込みあそばしたのであった。
「お亡れになりました御息所の御容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきました。非常にお美しい方でございます」
 もしそんなことがあったらと大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮の御入内のことを懇切にお申し入れになった。
3.4.3
母后(ははぎさき)あな(おそ)ろしや
春宮(とうぐう)女御(にょうご)のいとさがなくて、桐壺(きりつぼ)更衣(かうい)の、あらはにはかなくもてなされにし(ためし)もゆゆしう」と、(おぼ)しつつみて、すがすがしうも(おぼ)()たざりけるほどに、(きさき)()せたまひぬ。
母后は、「まあ怖いこと。
東宮の母女御がたいそう意地が悪くて、桐壺の更衣が、露骨に亡きものにされてしまった例も不吉で」と、おためらいなさって、すらすらとご決心もつかなかったうちに、母后もお亡くなりになってしまった。
お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並みはずれな強い性格で、桐壷の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお崩れになった。
3.4.4
心細(こころぼそ)きさまにておはしますに、ただ、わが女皇女(をんなみこ)たちの(おな)(つら)(おも)ひきこえむ」と、いとねむごろに()こえさせたまふ。
さぶらふ(ひと)びと、御後見(おほんうしろみ)たち、御兄(おほんせうと)兵部卿(ひゃうぶきゃう)親王(みこ)など、かく心細(こころぼそ)くておはしまさむよりは内裏住(うちず)みせさせたまひて、御心(みこころ)(なぐさ)むべく」など(おぼ)しなりて、(まゐ)らせたてまつりたまへり。
心細い有様でいらっしゃるので、「ただ、わが姫皇女たちと同列にお思い申そう」と、たいそう丁重に礼を尽くしてお申し上げあそばす。
お仕えする女房たちや、御後見人たち、ご兄弟の兵部卿の親王などは、「こうして心細くおいでになるよりは、内裏でお暮らしあそばして、きっとお心が慰むように」などとお考えになって、参内させ申し上げなさった。
姫宮がお一人で暮らしておいでになるのを帝はお聞きになって、
 「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」
 となおも熱心に入内をお勧めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っておいでになるよりは、宮中の御生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、お付きの女房やお世話係の者が言い、兄君の兵部卿親王もその説に御賛成になって、それで先帝の第四の内親王は当帝の女御におなりになった。
3.4.5
藤壺(ふぢつぼ)()こゆ
げに、御容貌(おほんかたち)ありさま、あやしきまでぞおぼえたまへる
これは、(ひと)御際(おほんきは)まさりて(おも)ひなしめでたく、(ひと)もえおとしめきこえたまはねば、うけばりて()かぬことなし。
藤壺と申し上げる。
なるほど、ご容貌や姿は不思議なまでによく似ていらっしゃった。
この方は、ご身分も一段と高いので、そう思って見るせいか素晴らしくて、お妃方もお貶み申すこともおできになれないので、誰に憚ることなく何も不足ない。
御殿は藤壼である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしも不思議なまで、桐壼の更衣に似ておいでになった。この方は御身分に批の打ち所がない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶める言葉を知らなかった。
3.4.6 あの方は、周囲の人がお許し申さなかったところに、御寵愛が憎らしいと思われるほど深かったのである。
ご愛情が紛れるというのではないが、自然とお心が移って行かれて、格段にお慰みになるようなのも、人情の性というものであった。
桐壼の更衣は身分と御愛寵とに比例の取れぬところがあった。お傷手が新女御の宮で癒されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しい御生活がかえってきた。あれほどのこともやはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。

第五段 源氏、藤壺を思慕

3.5.1
源氏(げんじ)(きみ)(おほん)あたり()りたまはぬを、ましてしげく(わた)らせたまふ御方(おほんかた)は、()ぢあへたまはず。
いづれの御方(おほんかた)も、われ(ひと)(おと)らむと(おぼ)いたるやはあるとりどりにいとめでたけれど、うち大人(おとな)びたまへるに、いと(わか)ううつくしげにて(せち)(かく)れたまへど、おのづから()()たてまつる
源氏の君は、お側をお離れにならないので、誰より頻繁にお渡りあそばす御方は、恥ずかしがってばかりいらっしゃれない。
どのお妃方も自分が人より劣っていると思っていらっしゃる人があろうか、それぞれにとても素晴らしいが、お年を召しておいでになるのに対して、とても若くかわいらしい様子で、頻りにお姿をお隠しなさるが、自然と漏れ拝見する。
源氏の君-まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く。-はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へも従って行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壼であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壼である。宮もお馴れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、皆それぞれの美を備えた人たちであったが、もう皆だいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壼の宮が出現されてその方は非常に恥ずかしがってなるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見ることになる場合もあった。
3.5.2
母御息所(ははみやすんどころ)も、(かげ)だにおぼえたまはぬをいとよう()たまへり」と、典侍(ないしのすけ)()こえけるを、(わか)御心地(みここち)いとあはれ(おも)ひきこえたまひて、(つね)(まゐ)らまほしく、「なづさひ()たてまつらばや」とおぼえたまふ。
母御息所は、顔かたちすらご記憶でないのを、「大変によく似ていらっしゃる」と、典侍が申し上げたのを、幼心にとても慕わしいとお思い申し上げなさって、いつもお側に参りたく、「親しく拝見したい」と思われなさる。
母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍が言ったので、子供心に母に似た人として恋しく、いつも藤壼へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。
3.5.3
主上(うへ)(かぎ)りなき御思(おほんおも)ひどちにて(うと)みたまひそ
あやしくよそへきこえつべき心地(ここち)なむする。
なめしと(おぼ)さでらうたくしたまへ。
つらつき、まみなどは、いとよう()たりしゆゑかよひて()えたまふも()げなからずなむ」など()こえつけたまへれば、幼心地(をさなごこち)にも、はかなき花紅葉(はなもみぢ)につけても(こころ)ざしを()えたてまつる。
こよなう心寄(こころよ)せきこえたまへれば弘徽殿(こうきでん)女御(にょうご)またこの(みや)とも御仲(おほんなか)そばそばしきゆゑ、うち()へて、もとよりの(にく)さも()()でて、ものしと(おぼ)したり。
主上もこの上なくおかわいがりのお二方なので、「お疎みなさいますな。
不思議と若君の母君となぞらえ申してもよいような気持ちがする。
失礼だとお思いなさらず、いとおしみなさい。
顔だちや、目もとなど、大変によく似ているため、母君のようにお見えになるのも、母子として似つかわしくなくはない」などとお頼み申し上げなさっているので、幼心にも、ちょっとした花や紅葉にことつけても、お気持ちを表し申す。
この上なく好意をお寄せ申していらっしゃるので、弘徽殿の女御は、またこの宮ともお仲が好ろしくないので、それに加えて、もとからの憎しみももり返して、不愉快だとお思いになっていた。
帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。
 「彼を愛しておやりなさい。不思議なほどあなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」
 など帝がおとりなしになると、子供心にも花や紅葉の美しい枝は、まずこの宮へ差し上げたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壼の宮であったからそちらへ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨も再燃して憎しみを持つことになった。
3.5.4
()にたぐひなしと()たてまつりたまひ名高(なだか)うおはする(みや)御容貌(おほんかたち)にも、なほ(にほ)はしさはたとへむ(かた)なく、うつくしげなるを、()(ひと)(ひか)(きみ)」と()こゆ
藤壺(ふぢつぼ)ならびたまひて、(おほん)おぼえもとりどりなれば、かかやく()(みや)」と()こゆ
世の中にまたとないお方だと拝見なさり、評判高くおいでになる宮のご容貌に対しても、やはり照り映える美しさにおいては比較できないほど美しそうなので、世の中の人は、「光る君」とお呼び申し上げる。
藤壺もお並びになって、御寵愛がそれぞれに厚いので、「輝く日の宮」とお呼び申し上げる。
女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内親王方の美を遠くこえた源氏の美貌を世間の人は言い現わすために光の君と言った。女御として藤壼の宮の御寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝く日の宮と一方を申していた。

第六段 源氏元服(十二歳)

3.6.1
この(きみ)御童姿(おほんわらはすがた)いと()へまうく(おぼ)せど、十二(じふに)にて御元服(おほんげんぷく)したまふ
居起(ゐた)(おぼ)しいとなみて(かぎ)りある(こと)(こと)()へさせたまふ。
この君の御童子姿を、とても変えたくなくお思いであるが、十二歳で御元服をなさる。
御自身お世話を焼かれて、作法どおりの上にさらにできるだけの事をお加えあそばす。
源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。その式の準備も何も帝御自身でお指図になった。
3.6.2
一年(ひととせ)春宮(とうぐう)御元服(おほんげんぷく)南殿(なでん)にてありし儀式(ぎしき)よそほしかりし御響(おほんひび)きに()とさせたまはず。
所々(ところどころ)(きゃう)など内蔵寮(くらづかさ)穀倉院(こくさうゐん)など公事(おほやけごと)(つか)うまつれる、おろそかなることもぞと、とりわき(おほ)(ごと)ありて、(きよ)らを()くして(つか)うまつれり。
先年の東宮の御元服が、紫宸殿で執り行われた儀式が、いかめしく立派であった世の評判にひけをおとらせにならない。
各所での饗宴などにも、内蔵寮や穀倉院など、規定どおり奉仕するのでは、行き届かないことがあってはいけないと、特別に勅命があって、善美を尽くしてお勤め申した。
前に東宮の御元服の式を紫宸殿であげられた時の派手やかさに落とさず、その日官人たちが各階級別々にさずかる饗宴の仕度を内蔵寮、穀倉院などでするのはつまり公式の仕度で、それでは十分でないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。
3.6.3
おはします殿(でん)(ひんがし)(ひさし)東向(ひんがしむ)きに椅子立(いした)てて冠者(かんざ)御座(ござ)引入(ひきいれ)大臣(おとど)御座(ござ)御前(おまへ)にあり
(さる)(とき)にて源氏参(げんじまゐ)りたまふ。
角髪結(みづらゆ)ひたまへるつらつき、(かほ)のにほひ、さま()へたまはむこと()しげなり。
大蔵卿(おほくらきゃう)蔵人仕(くらびとつか)うまつる
いと(きよ)らなる御髪(みぐし)()ぐほど、心苦(こころぐる)しげなるを、主上(うへ)は、御息所(みやすんどころ)()ましかば」と、(おぼ)()づるに、()へがたきを、心強(こころづよ)(ねん)じかへさせたまふ。
おいでになる清涼殿の東廂の間に、東向きに椅子を立てて、元服なさる君のお席と加冠役の大臣のお席とが、御前に設けられている。
儀式は申の時で、その時刻に源氏が参上なさる。
角髪に結っていらっしゃる顔つきや、童顔の色つやは、髪形をお変えになるのは惜しい感じである。
大蔵卿が理髪役を奉仕する。
たいへん美しい御髪を削ぐ時、いたいたしそうなのを、主上は、「亡き母の御息所が見たならば」と、お思い出しになると、涙が抑えがたいのを、思い返してじっとお堪えあそばす。
清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子がすえられ、元服される皇子の席、加冠役の大臣の席がそのお前にできていた。午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて耳の所で輸にした童形の礼髪を結った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた。理髪の役は大蔵卿である。美しい髪を短く切るのを惜しく思うふうであった。帝は御息所がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。
3.6.4
かうぶりしたまひて、御休所(おほんやすみどころ)にまかでたまひて、御衣奉(おほんぞたてまつ)()へて()りて(はい)したてまつりたまふさまに、皆人涙落(みなひとなみだお)としたまふ。
(みかど)はた、ましてえ(しの)びあへたまはず、(おぼ)(まぎ)るる(をり)もありつる(むかし)のこととりかへし(かな)しく(おぼ)さる
いとかうきびはなるほどは、あげ(おと)りやと(うたが)はしく(おぼ)されつるを、あさましううつくしげさ()ひたまへり。
加冠なさって、御休息所にお下がりになって、ご装束をお召し替えなさって、東庭に下りて拝舞なさる様子に、一同涙を落としなさる。
帝は帝で、誰にもまして堪えきれなされず、お悲しみの紛れる時もあった一時のことを、立ち返って悲しく思われなさる。
たいそうこのように幼い年ごろでは、髪上げして見劣りをするのではないかと御心配なさっていたが、驚くほどかわいらしさも加わっていらっしゃった。
加冠が終わって、いったん休息所に下がり、そこで源氏は服を変えて庭上の拝をした。参列の諸員は皆小さい大宮人の美に感激の涙をこぼしていた。帝はまして御自制なされがたい御感情があった。藤壼の宮をお得になって以来、紛れておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へかえって来たのである。まだ小さくて大人の頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかという御懸念もおありになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。
3.6.5 加冠役の大臣が皇女でいらっしゃる方との間に儲けた一人娘で大切に育てていらっしゃる姫君を、東宮からも御所望があったのを、ご躊躇なさることがあったのは、この君に差し上げようとのお考えからなのであった。
加冠の大臣には夫人の内親王との間に生まれた令嬢があった。東宮から後宮にとお望みになったのをお受けせずにお返辞を躊躇していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬していたからである。
3.6.6 帝からの御内意を頂戴させていただいたところ、「それでは、元服の後の後見する人がいないようなので、その添い臥しにでも」とお促しあそばされたので、そのようにお考えになっていた。
大臣は帝の御意向をも伺った。
 「それでは元服したのちの彼を世話する人もいることであるから、その人をいっしょにさせればよい」
 という仰せであったから、大臣はその実現を期していた。
3.6.7
さぶらひにまかでたまひて、(ひと)びと大御酒(おほみき)など(まゐ)ほど、親王(みこ)たちの御座(おほんざ)(すゑ)源氏着(げんじつ)きたまへり。
大臣気色(おとどけしき)ばみきこえたまふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひきこえたまはず。
御休息所に退出なさって、参会者たちが御酒などをお召し上がりになる時に、親王方のお席の末席に源氏はお座りになった。
大臣がそれとなく仄めかし申し上げなさることがあるが、気恥ずかしい年ごろなので、どちらともはっきりお答え申し上げなさらない。
今日の侍所になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏は着いた。娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏は何とも返辞をすることができないのであった。
3.6.8
御前(おまへ)より、内侍(ないし)宣旨(せんじ)うけたまはり(つた)へて、大臣参(おとどまゐ)りたまふべき()しあれば、(まゐ)りたまふ。
御禄(おほんろく)(もの)主上(うへ)命婦取(みゃうぶと)りて(たま)ふ。
(しろ)大袿(おほうちき)御衣一領(おほんぞひとくだり)(れい)のことなり。
御前から掌侍が宣旨を承り伝えて、大臣に御前に参られるようにとのお召しがあるので、参上なさる。
御禄の品物を、主上づきの命婦が取りついで賜わる。
白い大袿に御衣装一領、例のとおりである。
帝のお居間のほうから仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。加冠役としての下賜品はおそばの命婦が取り次いだ。白い大袿に帝のお召し料のお服が一襲で、これは昔から定まった品である。
3.6.9 お盃を賜る折に、
酒杯を賜わる時に、次の歌を仰せられた。
3.6.10 「幼子の元服の折、
末永い仲をそなたの姫との間に結ぶ約束は
いときなき初元結ひに長き世を
契る心は結びこめつや
3.6.11
御心(みこころ)ばへありて、おどろかさせたまふ
お心づかいを示されて、はっとさせなさる。
大臣の女との結婚にまでお言い及ぼしになった御製は大臣を驚かした。
3.6.12 「元服の折、
約束した心も深いものとなりましょう
結びつる心も深き元結ひに
濃き紫の色しあせずば
3.6.13
(そう)して、長橋(ながはし)より()りて舞踏(ぶたふ)したまふ。
と奏上して、長橋から下りて拝舞なさる。
と返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段を下がって拝礼をした。
3.6.14
左馬寮(ひだりのつかさ)御馬(おほんむま)蔵人所(くらうどどころ)鷹据(たかす)ゑて(たま)はりたまふ
御階(みはし)のもとに親王(みこ)たち上達部(かんだちめ)つらねて、(ろく)ども品々(しなじな)(たま)はりたまふ。
左馬寮の御馬、蔵人所の鷹を留まり木に据えて頂戴なさる。
御階のもとに親王方や上達部が立ち並んで、禄をそれぞれの身分に応じて頂戴なさる。
左馬寮の御馬と蔵人所の鷹をその時に賜わった。そのあとで諸員が階前に出て、官等に従ってそれぞれの下賜品を得た。
3.6.15
その()御前(おまへ)折櫃物(をりびつもの)籠物(こもの)など、右大弁(うだいべん)なむ(うけたまは)りて(つか)うまつらせける
屯食(とんじき)(ろく)唐櫃(からびつ)どもなど、ところせきまで、春宮(とうぐう)御元服(おほんげんぷく)(をり)にも(かず)まされり。
なかなか(かぎ)りもなくいかめしうなむ
その日の御前の折櫃物や、籠物などは、右大弁が仰せを承って調えさせたのであった。
屯食や禄用の唐櫃類など、置き場もないくらいで、東宮の御元服の時よりも数多く勝っていた。
かえっていろいろな制限がなくて盛大であった。
この日の御饗宴の席の折り詰めのお料理、籠詰めの菓子などは皆右大弁が御命令によって作った物であった。一般の官吏に賜う弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮の御元服の時以上であった。

第七段 源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚

3.7.1
その()大臣(おとど)御里(おほんさと)源氏(げんじ)(きみ)まかでさせたまふ
作法世(さほふよ)にめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり
いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと(おも)ひきこえたまへり。
女君(をんなぎみ)すこし()ぐしたまへるほどにいと(わか)うおはすれば()げなく()づかし(おぼ)いたり
その夜、大臣のお邸に源氏の君を退出させなさる。
婿取りの儀式は世に例がないほど立派におもてなし申し上げなさった。
とても若くおいでなのを、不吉なまでにかわいいとお思い申し上げなさった。
女君は少し年長でおいでなのに対して、婿君がたいそうお若くいらっしゃるので、似つかわしくなく恥ずかしいとお思いでいらっしゃった。
その夜源氏の君は左大臣家へ婿になって行った。この儀式にも善美は尽くされたのである。高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君のほうが少し年上であったから、年下の少年に配されたことを、不似合いに恥ずかしいことに思っていた。
3.7.2
この大臣(おとど)(おほん)おぼえいとやむごとなきに、母宮(ははみや)内裏(うち)(ひと)后腹(きさいばら)になむおはしければいづ(かた)につけてもいとはなやかなるにこの(きみ)さへかくおはし()ひぬれば春宮(とうぐう)御祖父(おほんおほぢ)にて、つひに()(なか)()りたまふべき右大臣(みぎのおとど)御勢(おほんいきほ)ひは、ものにもあらず()されたまへり
この大臣は帝のご信任が厚い上に、姫君の母宮が帝と同じ母后のお生まれでいらっしゃったので、どちらから言っても立派な上に、この君までがこのように婿君としてお加わりになったので、東宮の御祖父で、最後には天下を支配なさるはずの右大臣のご威勢も、敵ともなく圧倒されてしまった。
この大臣は大きい勢力を持った上に、姫君の母の夫人は帝の御同胞であったから、あくまでもはなやかな家である所へ、今度また帝の御愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の勢カは比較にならぬほど気押されていた。
3.7.3
御子(みこ)どもあまた腹々(はらばら)にものしたまふ
(みや)御腹(おほんはら)は、蔵人少将(くらうどのせうしゃう)にていと(わか)うをかしきを右大臣(みぎのおとど)御仲(おほんなか)はいと()からねど、見過(みす)ぐしたまはで、かしづきたまふ()(きみ)にあはせたまへり。
(おと)らずもてかしづきたるは、あらまほしき(おほん)あはひどもになむ。
ご子息たちが大勢それぞれの夫人方にいらっしゃる。
宮がお生みの方は、蔵人少将でたいそう若く美しい方なので、右大臣が、左大臣家とのお間柄はあまりよくないが、他人として放っておくこともおできになれず、大切になさっている四の君に婿取りなさっていた。
劣らず大切にお世話なさっているのは、両家とも理想的な婿舅の間柄である。
左大臣は何人かの妻妾から生まれた子供を幾人も持っていた。内親王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、大事にしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず右大臣から大事な婿君としてかしずかれていたのはよい一対のうるわしいことであった。
3.7.4
源氏(げんじ)(きみ)は、主上(うへ)(つね)()しまつはせば、心安(こころやす)里住(さとず)みもえしたまはず。
(こころ)のうちには、ただ藤壺(ふぢつぼ)(おほん)ありさまを、(たぐひ)なしと(おも)ひきこえて、さやうならむ(ひと)をこそ()め。
()(ひと)なくもおはしけるかな。
大殿(おほいどの)(きみ)いとをかしげにかしづかれたる(ひと)とは()ゆれど、(こころ)にもつかず」おぼえたまひて、(をさな)きほどの心一(こころひと)つにかかりて、いと(くる)しきまでぞおはしける
源氏の君は、主上がいつもお召しになって放さないので、気楽に私邸で過すこともおできになれない。
心中では、ひたすら藤壺のご様子を、またといない方とお慕い申し上げて、「そのような女性こそ妻にしたいものだ。
似た方もいらっしゃらないな。
大殿の姫君は、たいそう興趣ありそうに大切に育てられている方だと思われるが、少しも心惹かれない」というように感じられて、幼心一つに思いつめて、とても苦しいまでに悩んでいらっしゃるのであった。
源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壼の宮の美が最上のものに思われてあのような人を自分も妻にしたい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢は大事にされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壼の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。

第八段 源氏、成人の後

3.8.1
大人(おとな)になりたまひて(のち)ありしやうに御簾(みす)(うち)にも()れたまはず
御遊(おほんあそ)びの折々(をりをり)琴笛(ことふえ)()()こえかよひほのかなる御声(おほんこゑ)(なぐさ)めにて、内裏住(うちず)みのみ(この)ましうおぼえたまふ。
五、六日(いつかむいか)さぶらひたまひて、大殿(おほいどの)二、三日(ふつかみか)など、()()えにまかでたまへど、ただ(いま)(をさな)(おほん)ほどに、(つみ)なく(おぼ)しなしていとなみかしづききこえたまふ。
元服なさってから後は、かつてのように御簾の内側にもお入れにならない。
管弦の御遊の時々、琴と笛の音に心通わし合い、かすかに漏れてくるお声を慰めとして、内裏の生活ばかりを好ましく思っていらっしゃる。
五、六日は内裏に伺候なさって、大殿邸には二、三日程度、途切れ途切れに退出なさるが、まだ今はお若い年頃であるので、つとめて咎めだてすることなくお許しになって、婿君として大切にお世話申し上げなさる。
元服後の源氏はもう藤壼の御殿の御簾の中へは入れていただけなかった。琴や笛の音の中にその方がお弾きになる物の声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって宮中の宿直ばかりが好きだった。五、六日御所にいて、二、三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変わらず婿君のかしずき騒ぎをしていた。
3.8.2 お二方の女房たちは、世間から並々でない人たちをえりすぐってお仕えさせなさる。
お気に入りそうなお遊びをし、せいいっぱいにお世話していらっしゃる。
新夫婦付きの女房はことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催したり、一所懸命である。
3.8.3 内裏では、もとの淑景舎をお部屋にあてて、母御息所にお仕えしていた女房を退出して散り散りにさせずに引き続いてお仕えさせなさる。
御所では母の更衣のもとの桐壼を源氏の宿直所にお与えになって、御息所に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。
3.8.4
(さと)殿(との)は、修理職(すりしき)内匠寮(たくみづかさ)宣旨下(せんじくだ)りて、()なう(あらた)(つく)らせたまふ。
もとの木立(こだち)(やま)のたたずまひ、おもしろき(ところ)なりけるを(いけ)心広(こころひろ)くしなして、めでたく(つく)りののしる。
実家のお邸は、修理職や内匠寮に宣旨が下って、またとなく立派にご改造させなさる。
もとからの木立や、築山の様子、趣きのある所であったが、池をことさら広く造って、大騷ぎして立派に造営する。
更衣の家のほうは修理の役所、内匠寮などへ帝がお命じになって、非常なりっぱなものに改築されたのである。もとから築山のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。
3.8.5 「このような所に理想とするような女性を迎えて一緒に暮らしたい」とばかり、胸を痛めてお思い続けていらっしゃる。
源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮らすことができたらと思って始終歎息をしていた。
3.8.6 「光る君という名前は、高麗人がお褒め申してお付けしたものだ」と、言い伝えているとのことである。
光の君という名は前に鴻臚館へ来た高麗人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だとそのころ言われたそうである。
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底本 明融臨模本
校訂 Last updated 09/09/2010(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
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挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一訳(C)(ver.1-4-1)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経
2003年8月14日

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