設定 番号 本文 渋谷栄一訳 与謝野晶子訳 挿絵 ルビ 罫線 帖見出し 章見出し 段見出し 列見出し
% % % px

第四帖 夕顔

光る源氏の十七歳夏から立冬の日までの物語

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳

第一章 夕顔の物語 夏の物語


第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う

1.1.1 六条辺りのお忍び通いのころ、内裏からご退出なさる休息所に、大弍の乳母がひどく病んで尼になっていたのを、見舞おうとして、五条にある家を尋ねていらっしゃった。
源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへ通う途中で、だいぶ重い病気をし尼になった大弐の乳母を訪ねようとして、五条辺のその家へ来た。
1.1.2 お車が入るべき正門は施錠してあったので、供人に惟光を呼ばせて、お待ちあそばす間、むさ苦しげな大路の様子を見渡していらっしゃると、この家の隣に、桧垣という板垣を新しく作って、上方は半蔀を四、五間ほどずらりと吊り上げて、簾などもとても白く涼しそうなところに、美しい額つきをした簾の透き影が、たくさん見えてこちらを覗いている。
乗ったままで車を入れる大門がしめてあったので、従者に呼び出させた乳母の息子の惟光の来るまで、源氏はりっぱでないその辺の町を車からながめていた。惟光の家の隣に、新しい檜垣を外囲いにして、建物の前のほうは上げ格子を四、五間ずっと上げ渡した高窓式になっていて、新しく白い簾を掛け、そこからは若いきれいな感じのする額を並べて、何人かの女が外をのぞいている家があった。
1.1.3 立ち動き回っているらしい下半身を想像すると、やたらに背丈の高い感じがする。
どのような者が集まっているのだろうと、一風変わった様子にお思いになる。
高い窓に顔が当たっているその人たちは非常に背の高いもののように思われてならない。どんな身分の者の集まっている所だろう。風変わりな家だと源氏には思われた。
1.1.4 お車もひどく地味になさり、先払いもおさせにならず、誰と分かろうかと気をお許しなさって、少し顔を出して御覧になっていると、門は蔀のようなのを押し上げてあって、その奥行きもなく、ささやかな住まいを、しみじみと、「どの家を終生の宿とできようか」とお考えになってみると、立派な御殿も同じことである。
今日は車も簡素なのにして目だたせない用意がしてあって、前駆の者にも人払いの声を立てさせなかったから、源氏は自分のだれであるかに町の人も気はつくまいという気楽な心持ちで、その家を少し深くのぞこうとした。門の戸も蔀風になっていて上げられてある下から家の全部が見えるほどの簡単なものである。哀れに思ったが、ただ仮の世の相であるから宮も藁屋も同じことという歌が思われて、われわれの住居だって一所だとも思えた。
1.1.5 切懸の板塀みたいな物に、とても青々とした蔓草が気持ちよさそうに這いまつわっているところに、白い花が、自分ひとり微笑んで咲いている。
端隠しのような物に青々とした蔓草が勢いよくかかっていて、それの白い花だけがその辺で見る何よりもうれしそうな顔で笑っていた。
1.1.6 「遠方の人にお尋ねする」
そこに白く咲いているのは何の花かという歌を口ずさんでいると、
1.1.7 と独り言をおっしゃると、御随身がひざまずいて、
中将の源氏につけられた近衛の随身が車の前に膝をかがめて言った。
1.1.8
かの(しろ)()けるをなむ夕顔(ゆふがほ)(まう)しはべる。
(はな)()(ひと)めきてかうあやしき垣根(かきね)になむ()きはべりける
「あの白く咲いている花を、夕顔と申します。
花の名は人並のようでいて、このような賤しい垣根に咲くのでございます」
「あの白い花を夕顔と申します。人間のような名でございまして、こうした卑しい家の垣根に咲くものでございます」
1.1.9
(まう)す。
げにいと小家(こいへ)がちにむつかしげなるわたりのこのもかのもあやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ(のき)のつまなどに()ひまつはれたるを、
と申し上げる。
なるほどとても小さい家が多くて、むさ苦しそうな界隈で、この家もかの家も、見苦しくちょっと傾いて、頼りなさそうな軒の端などに這いまつわっているのを、
その言葉どおりで、貧しげな小家がちのこの通りのあちら、こちら、あるものは倒れそうになった家の軒などにもこの花が咲いていた。
1.1.10 「気の毒な花の運命よ。
一房手折ってまいれ」
「気の毒な運命の花だね。一枝折ってこい」
1.1.11
とのたまへば、この()()げたる(かど)()りて()
とおっしゃるので、この押し上げてある門から入って折る。
と源氏が言うと、蔀風の門のある中へはいって随身は花を折った。
1.1.12
さすがに、されたる遣戸口(やりどぐち)に、()なる生絹(すずし)単袴(ひとへばかま)(なが)()なしたる(わらは)をかしげなる()()て、うち(まね)
(しろ)(あふぎ)いたうこがしたるを、
そうは言うものの、しゃれた遣戸口に、黄色い生絹の単重袴を、長く着こなした女童で、かわいらしげな子が出て来て、ちょっと招く。
白い扇でたいそう香を薫きしめたのを、
ちょっとしゃれた作りになっている横戸の口に、黄色の生絹の袴を長めにはいた愛らしい童女が出て来て随身を招いて、白い扇を色のつくほど薫物で燻らしたのを渡した。
1.1.13 「これに載せて差し上げなさいね。
枝も風情なさそうな花ですもの」
「これへ載せておあげなさいまし。手で提げては不恰好な花ですもの」
1.1.14
とて()らせたれば門開(かどあ)けて惟光朝臣出(これみつのあそんい)()たるして(たてまつ)らす。
と言って与えたところ、門を開けて惟光朝臣が出て来たのを取り次がせて、差し上げさせる。
随身は、夕顔の花をちょうどこの時門をあけさせて出て来た惟光の手から源氏へ渡してもらった。
1.1.15
(かぎ)()きまどはしはべりていと不便(ふびん)なるわざなりや
もののあやめ()たまへ()くべき(ひと)もはべらぬわたりなれど、らうがはしき大路(おほぢ)()ちおはしまして」とかしこまり(まう)す。
「鍵を置き忘れまして、大変にご迷惑をお掛けいたしました。
どなた様と分別申し上げられる者もおりませぬ辺りですが、ごみどみした大路にお立ちあそばして」とお詫び申し上げる。
「鍵の置き所がわかりませんでして、たいへん失礼をいたしました。よいも悪いも見分けられない人の住む界わいではございましても、見苦しい通りにお待たせいたしまして」
 と惟光は恐縮していた。
1.1.16
()()れて、()りたまふ
惟光(これみつ)(あに)阿闍梨(あざり)婿(むこ)三河守(みかはのかみ)(むすめ)など(わた)(つど)ひたるほどに、かくおはしましたる(よろこ)びを、またなきことにかしこまる。
車を引き入れて、お下りになる。
惟光の兄の阿闍梨や、娘婿の三河守、娘などが、寄り集まっているところに、このようにお越しあそばされたお礼を、この上ないことと恐縮して申し上げる。
車を引き入れさせて源氏の乳母の家へ下りた。惟光の兄の阿闍梨、乳母の婿の三河守、娘などが皆このごろはここに来ていて、こんなふうに源氏自身で見舞いに来てくれたことを非常にありがたがっていた。
1.1.17 尼君も起き上がって、
尼も起き上がっていた。
1.1.18
()しげなき()なれど()てがたく(おも)うたまへつることは、ただ、かく御前(おまへ)にさぶらひ御覧(ごらん)ぜらるること(かは)りはべりなむこと口惜(くちを)しく(おも)ひたまへ、たゆたひしかど、()むことのしるしによみがへりてなむかく(わた)りおはしますを、()たまへはべりぬれば(いま)なむ阿弥陀仏(あみだぶつ)御光(おほんひかり)も、心清(こころきよ)()たれはべるべき
「惜しくもない身の上ですが、出家しがたく存じておりましたことは、ただ、このようにお目にかかり、御覧に入れる姿が変わってしまいますことを残念に存じて、ためらっておりましたが、受戒の効果があって生き返って、このようにお越しあそばされましたのを、お目にかかれましたので、今は、阿弥陀様のご来迎も、心残りなく待つことができましょう」
「もう私は死んでもよいと見られる人間なんでございますが、少しこの世に未練を持っておりましたのはこうしてあなた様にお目にかかるということがあの世ではできませんからでございます。尼になりました功徳で病気が楽になりまして、こうしてあなた様の御前へも出られたのですから、もうこれで阿弥陀様のお迎えも快くお待ちすることができるでしょう」
1.1.19
など()こえて、(よわ)げに()く。
などと申し上げて、弱々しく泣く。
などと言って弱々しく泣いた。
1.1.20
()ごろ、おこたりがたくものせらるるを(やす)からず(なげ)きわたりつるにかく、()(はな)るるさまにものしたまへば、いとあはれに口惜(くちを)しうなむ
命長(いのちなが)くて、なほ位高(くらゐたか)くなど()なしたまへ。
さてこそ九品(ここのしな)(かみ)にも(さは)りなく()まれたまはめ。
この()にすこし(うら)(のこ)るは、()ろきわざとなむ()く」など、(なみだ)ぐみてのたまふ。
「いく日も、思わしくなくおられるのを、案じて心痛めていましたが、このように、世を捨てた尼姿でいらっしゃると、まことに悲しく残念です。
長生きをして、さらにわたしの位が高くなるのなども御覧下さい。
そうしてから、九品浄土の最上位にも、差し障りなくお生まれ変わりなさいさい。
この世に少しでも執着が残るのは、悪いことと聞いております」などと、涙ぐんでおっしゃる。
「長い間恢復しないあなたの病気を心配しているうちに、こんなふうに尼になってしまわれたから残念です。長生きをして私の出世する時を見てください。そのあとで死ねば九品蓮台の最上位にだって生まれることができるでしょう。この世に少しでも飽き足りない心を残すのはよくないということだから」
 源氏は涙ぐんで言っていた。
1.1.21
かたほなるをだに乳母(めのと)やうの(おも)ふべき(ひと)は、あさましうまほに()なすものを、まして、いと面立(おもだ)たしうなづさひ(つか)うまつりけむ()も、いたはしうかたじけなく(おも)ほゆべかめればすずろに(なみだ)がちなり。
不出来な子でさえも、乳母のようなかわいがるはずの人には、あきれるくらいに完全無欠に思い込むものを、まして、まことに光栄にも、親しくお世話申し上げたわが身も、大切にもったいなく思われるようなので、わけもなく涙に濡れるのである。
欠点のある人でも、乳母というような関係でその人を愛している者には、それが非常にりっぱな完全なものに見えるのであるから、まして養君がこの世のだれよりもすぐれた源氏の君であっては、自身までも普通の者でないような誇りを覚えている彼女であったから、源氏からこんな言葉を聞いてはただうれし泣きをするばかりであった。
1.1.22
()どもはいと見苦(みぐる)しと(おも)ひて、(そむ)きぬる()()りがたきやうに、みづからひそみ御覧(ごらん)ぜられたまふ」と、つきしろひ()くはす。
子供たちは、とてもみっともないと思って、「捨てたこの世に未練があるようで、ご自身から泣き顔をお目にかけていなさる」と言って、突き合い目配せし合う。
息子や娘は母の態度を飽き足りない歯がゆいもののように思って、尼になっていながらこの世への未練をお見せするようなものである、俗縁のあった方に惜しんで泣いていただくのはともかくもだがというような意味を、肱を突いたり、目くばせをしたりして兄弟どうしで示し合っていた。
1.1.23 源氏の君は、とてもしみじみと感じられて、
源氏は乳母を憐んでいた。
1.1.24
いはけなかりけるほどに(おも)ふべき(ひと)びとのうち()ててものしたまひにけるなごり、(はぐく)(ひと)あまたあるやうなりしかど(した)しく(おも)(むつ)ぶる(すぢ)は、またなくなむ(おも)ほえし
(ひと)となりて(のち)は、(かぎ)りあれば朝夕(あさゆふ)にしもえ()たてまつらず(こころ)のままに(とぶ)らひ(まう)づることはなけれど、なほ(ひさ)しう対面(たいめん)せぬ(とき)は、心細(こころぼそ)くおぼゆるを、さらぬ(わか)れはなくもがな』」
「幼かったころに、かわいがってくれるはずの方々が亡くなってしまわれた後は、養育してくれる人々はたくさんいたようでしたが、親しく甘えられる人は、他にいなく思われました。
成人して後は、きまりがあるので、朝に夕にというようにもお目にかかれず、思い通りにお訪ね申すことはなかったが、やはり久しくお会いしていない時は、心細く思われましたが、『避けられない別れなどはあってほしくないものだ』と思われます」
「母や担母を早く失くした私のために、世話する役人などは多数にあっても、私の最も親しく思われた人はあなただったのだ。大人になってからは少年時代のように、いつもいっしょにいることができず、思い立つ時にすぐに訪ねて来るようなこともできないのですが、今でもまだあなたと長く逢わないでいると心細い気がするほどなんだから、生死の別れというものがなければよいと昔の人が言ったようなことを私も思う」
1.1.25
となむ、こまやかに(かた)らひたまひて、おし(のご)ひたまへる(そで)のにほひも、いと所狭(ところせ)きまで(かを)()ちたるに、げに、よに(おも)へばおしなべたらぬ(ひと)御宿世(みすくせ)ぞかしと、尼君(あまぎみ)をもどかしと()つる()ども、(みな)うちしほたれけり。
と、懇ろにお話なさって、お拭いになった袖の匂いも、とても辺り狭しと薫り満ちているので、なるほど、ほんとうに考えてみれば、並々の人でないご運命であったと、尼君を非難がましく見ていた子供たちも、皆涙ぐんだ。
しみじみと話して、袖で涙を拭いている美しい源氏を見ては、この方の乳母でありえたわが母もよい前生の縁を持った人に違いないという気がして、さっきから批難がましくしていた兄弟たちも、しんみりとした同情を母へ持つようになった。
1.1.26
修法(すほふ)など、またまた(はじ)むべきことなど(おき)てのたまはせて、()でたまふとて、惟光(これみつ)紙燭召(しそくめ)して、ありつる御覧(あふぎごらん)ずれば、もて()らしたる(うつ)()いと()(ふか)うなつかしくて、をかしうすさみ()きたり
修法などを、再び重ねて始めるべき事などをお命じあそばして、お立ちになろうとして、惟光に紙燭を持って来させて、先程の扇を御覧になると、使い慣らした主人の移り香が、とても深く染み込んで慕わしくて、美しく書き流してある。
源氏が引き受けて、もっと祈祷を頼むことなどを命じてから、帰ろうとする時に惟光に蝋燭を点させて、さっき夕顔の花の載せられて来た扇を見た。よく使い込んであって、よい薫物の香のする扇に、きれいな字で歌が書かれてある。
1.1.27 「当て推量に貴方さまでしょうかと思います
白露の光を加えて美しい夕顔の花は」
心あてにそれかとぞ見る白露の
光添へたる夕顔の花
1.1.28
そこはかとなく()(まぎ)らはしたるも、あてはかにゆゑづきたればいと(おも)ひのほかに、をかしうおぼえたまふ。
惟光(これみつ)に、
誰とも分からないように書き紛らわしているのも、上品に教養が見えるので、とても意外に、興味を惹かれなさる。
惟光に、
散らし書きの字が上品に見えた。少し意外だった源氏は、風流遊戯をしかけた女性に好感を覚えた。惟光に、
1.1.29 「この家の西にある家にはどんな者が住んでいるのか。
尋ね聞いているか」
「この隣の家にはだれが住んでいるのか、聞いたことがあるか」
1.1.30
とのたまへば、(れい)のうるさき御心(みこころ)とは(おも)へども、えさは(まう)さで
とお尋ねになると、いつもの厄介なお癖とは思うが、そうは申し上げず、
と言うと、惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。
1.1.31
この()六日(ろくにち)ここにはべれど、病者(ばうざ)のことを(おも)うたまへ(あつか)ひはべるほどに、(となり)のことはえ()きはべらず」
「この五、六日この家におりますが、病人のことを心配して看護しております時なので、隣のことは聞けません」
「この五、六日母の家におりますが、病人の世話をしておりますので、隣のことはまだ聞いておりません」
1.1.32
など、はしたなやかに()こゆれば、
などと、無愛想に申し上げるので、
惟光が冷淡に答えると、源氏は、
1.1.33
(にく)しとこそ(おも)ひたれな
されど、この(あふぎ)(たづ)ぬべきゆゑありて()ゆるを
なほ、このわたりの心知(こころし)れらむ(もの)()して()へ」
「気に入らないと思っているな。
けれど、この扇について、尋ねなければならない理由がありそうに思われるのですよ。
やはり、この界隈の事情を知っていそうな者を呼んで尋ねよ」
「こんなことを聞いたのでおもしろく思わないんだね。でもこの扇が私の興昧をひくのだ。この辺のことに詳しい人を呼んで聞いてごらん」
1.1.34
とのたまへば、()りてこの宿守(やどもり)なる(をのこ)()びて()()く。
とおっしゃるので、入って行って、この家の管理人の男を呼んで尋ねる。
と言った。はいって行って隣の番人と逢って来た惟光は、
1.1.35
揚名介(やうめいのすけ)なる(ひと)(いへ)になむはべりける。
(をとこ)田舎(ゐなか)にまかりて()なむ(わか)事好(ことこの)みて、はらからなど宮仕人(みやづかへびと)にて来通(きかよ)ふ、(まう)す。
(くは)しきことは、下人(しもびと)()りはべらぬにやあらむ」と()こゆ。
「揚名介である人の家だそうでございました。
男は地方に下向して、妻は若く派手好きで、その姉妹などが宮仕え人として行き来している、と申します。
詳しいことは、下人にはよく分からないのでございましょう」と申し上げる。
「地方庁の介の名だけをいただいている人の家でございました。主人は田舎へ行っているそうで、若い風流好きな細君がいて、女房勤めをしているその姉妹たちがよく出入りすると申します。詳しいことは下人で、よくわからないのでございましょう」
 と報告した。
1.1.36
さらば、その宮仕人(みやづかへびと)ななり
したり(がほ)にもの()れて()へるかな」と、めざましかるべき(きは)にやあらむ」と(おぼ)せど、さして()こえかかれる(こころ)の、(にく)からず()ぐしがたきぞ、(れい)この(かた)には(おも)からぬ御心(みこころ)なめるかし。
御畳紙(おほんたたうがみ)にいたうあらぬさまに()()たまひて、
「それでは、その宮仕人のようだ。
得意顔になれなれしく詠みかけてきたものよ」と、「きっと興覚めしそうな身分ではなかろうか」とお思いになるが、名指して詠みかけてきた気持ちが、憎からず見過ごしがたいのが、例によって、こういった方面には、重々しくないご性分なのであろう。
御畳紙にすっかり別筆にお書きになって、
ではその女房をしているという女たちなのであろうと源氏は解釈して、いい気になって、物馴れた戯れをしかけたものだと思い、下の品であろうが、自分を光源氏と見て詠んだ歌をよこされたのに対して、何か言わねばならぬという気がした。というのは女性にはほだされやすい性格だからである。懐紙に、別人のような字体で書いた。
1.1.37 「もっと近寄って誰ともはっきり見たらどうでしょう
黄昏時にぼんやりと見えた花の夕顔を」
寄りてこそそれかとも見め黄昏れに
ほのぼの見つる花の夕顔
1.1.38 先程の御随身をお遣わしになる。
花を折りに行った随身に持たせてやった。
1.1.39
まだ()(おほん)さまなりけれど、いとしるく(おも)ひあてられたまへる御側目(おほんそばめ)見過(みす)ぐさでさしおどろかしけるを、(いら)へたまはでほど()ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、「いかに()こえむ」など()ひしろふべかめれどめざましと(おも)ひて、随身(ずいじん)(まゐ)りぬ。
まだ見たことのないお姿であったが、まことにはっきりと推察されなさるおん横顔を見過ごさないで、さっそく詠みかけたのに、返歌を下さらないで時間が過ぎたので、何となく体裁悪く思っていたところに、このようにわざわざ来たというふうだったので、いい気になって、「何と申し上げよう」などと言い合っているようだが、生意気なと思って、随身は帰参した。
夕顔の花の家の人は源氏を知らなかったが、隣の家の主人筋らしい貴人はそれらしく思われて贈った歌に、返事のないのにきまり悪さを感じていたところへ、わざわざ使いに返歌を持たせてよこされたので、またこれに対して何か言わねばならぬなどと皆で言い合ったであろうが、身分をわきまえないしかただと反感を持っていた随身は、渡す物を渡しただけですぐに帰って来た。
1.1.40
御前駆(おほんさき)松明(まつ)ほのかにていと(しの)びて()でたまふ
半蔀(はじとみ)()ろしてけり
隙々(ひまひま)より()ゆる()(ひかり)(ほたる)よりけにほのかにあはれなり。
御前駆の松明を弱く照らして、とてもひっそりとお出になる。
半蔀は既に下ろされていた。
隙間隙間から見える灯火の明りは、蛍よりもさらに微かでしみじみとした思いである。
前駆の者が馬上で掲げて行く松明の明りがほのかにしか光らないで源氏の車は行った。高窓はもう戸がおろしてあった。その隙間から蛍以上にかすかな灯の光が見えた。
1.1.41
御心(みこころ)ざしの(ところ)には、木立前栽(こだちせんさい)など、なべての(ところ)()ず、いとのどかに(こころ)にくく()みなしたまへり。
うちとけぬ(おほん)ありさまなどの、気色(けしき)ことなるに、ありつる垣根(かきねおも)ほし()でらるべくもあらずかし
お目当ての所では、木立や前栽などが、世間一般の所とは違い、とてもゆったりと奥ゆかしく住んでいらっしゃる。
気の置けるご様子などが、他の人とは格別なので、先程の垣根の女などはお思い出されるはずもない。
源氏の恋人の六条貴女の邸は大きかった。広い美しい庭があって、家の中は気高く上手に住み馴らしてあった。まだまったく源氏の物とも思わせない、打ち解けぬ貴女を扱うのに心を奪われて、もう源氏は夕顔の花を思い出す余裕を持っていなかったのである。
1.1.42
翌朝(つとめて)すこし寝過(ねす)ぐしたまひて()さし()づるほどに()でたまふ。
朝明(あさけ)姿(すがた)は、げに(ひと)のめできこえむも、ことわりなる(おほん)さまなりけり。
翌朝、少しお寝過ごしなさって、日が差し出るころにお帰りになる。
朝帰りの姿は、なるほど世間の人がお褒め申し上げるようなのも、ごもっともなお美しさであった。
早朝の帰りが少しおくれて、日のさしそめたころに出かける源氏の姿には、世間から大騒ぎされるだけの美は十分に備わっていた。
1.1.43 今日もこの半蔀の前をお通り過ぎになる。
今までにも通り過ぎなさった辺りであるが、わずかちょっとしたことでお気持ちを惹かれて、「どのような女が住んでいる家なのだろうか」と思っては、行き帰りにお目が止まるのであった。
今朝も五条の蔀風の門の前を通った。以前からの通り路ではあるが、あのちょっとしたことに興味を持ってからは、行き来のたびにその家が源氏の目についた。

第二段 数日後、夕顔の宿の報告

1.2.1
惟光(これみつ)日頃(ひごろ)ありて(まゐ)れり。
惟光が、数日して参上した。
幾日かして惟光が出て来た。
1.2.2
わづらひはべる(ひと)なほ(よわ)げにはべれば、とかく()たまへあつかひてなむ
「患っております者が、依然として弱そうでございましたので、いろいろと看病いたしておりまして」
「病人がまだひどく衰弱しているものでございますから、どうしてもそのほうの手が離せませんで、失礼いたしました」
1.2.3 などと、ご挨拶申し上げて、近くに上って申し上げる。
こんな挨拶をしたあとで、少し源氏の君の近くへ膝を進めて惟光朝臣は言った。
1.2.4
(おほ)せられしのちなむ(となり)のこと()りてはべる(もの)()びて()はせはべりしかど、はかばかしくも(まう)しはべらず。
いと(しの)びて五月(さつき)のころほひよりものしたまふ(ひと)なむあるべけれどその(ひと)とは、さらに(いへ)(うち)(ひと)にだに()らせずとなむ(まう)
「仰せ言のございました後に、隣のことを知っております者を、呼んで尋ねさせましたが、はっきりとは申しません。
『ごく内密に、五月のころからおいでの方があるようですが、誰それとは、全然その家の内の人にさえ知らせません』と申します。
「お話がございましたあとで、隣のことによく通じております者を呼び寄せまして、聞かせたのでございますが、よくは話さないのでございます。この五月ごろからそっと来て同居している人があるようですが、どなたなのか、家の者にもわからせないようにしていますと申すのです。
1.2.5 時々、中垣から覗き見いたしますと、なるほど、若い女たちの透き影が見えます。
褶めいた物を、申しわけ程度にひっかけているので、仕えている主人がいるようでございます。
時々私の家との間の垣根から私はのぞいて見るのですが、いかにもあの家には若い女の人たちがいるらしい影が簾から見えます。主人がいなければつけない裳を言いわけほどにでも女たちがつけておりますから、主人である女が一人いるに違いございません。
1.2.6
昨日(きのふ)夕日(ゆふひ)のなごりなくさし()りてはべりしに文書(ふみか)くとてゐてはべりし(ひと)の、(かほ)こそいとよくはべりしか
もの(おも)へるけはひして、ある(ひと)びとも(しの)びてうち()さまなどなむ、しるく()えはべる
昨日、夕日がいっぱいに射し込んでいました時に、手紙を書こうとして座っていました女人の顔が、とてもようございました。
憂えに沈んでいるような感じがして、側にいる女房たちも涙を隠して泣いている様子などが、はっきりと見えました」
昨日夕日がすっかり家の中へさし込んでいました時に、すわって手紙を書いている女の顔が非常にきれいでした。物思いがあるふうでございましたよ。女房の中には泣いている者も確かにおりました」
1.2.7
()こゆ。
(きみ)うち()みたまひて、()らばや」と(おも)ほしたり
と申し上げる。
源氏の君はにっこりなさって、「知りたいものだ」とお思いになった。
源氏はほほえんでいたが、もっと詳しく知りたいと思うふうである。
1.2.8 ご声望こそ重々しいはずのご身分であるが、ご年齢のほど、女性たちがお慕いしお褒め申し上げている様子などを考えると、興味をお感じにならないのも、風情がなくきっと物足りない気がするだろうが、世間の人が承知しない身分でさえ、やはり、しかるべき身分の人には、興味をそそられるものだから、と思っている。
自重をなさらなければならない身分は身分でも、この若さと、この美の備わった方が、恋愛に興味をお持ちにならないでは、第三者が見ていても物足らないことである。恋愛をする資格がないように思われているわれわれでさえもずいぶん女のことでは好奇心が動くのであるからと惟光は主人をながめていた。
1.2.9 「もしや、何か発見いたすこともありましょうかと、ちょっとした機会を作って、恋文などを出してみました。
書きなれている筆跡で、素早く返事など寄こしました。
たいして悪くはない若い女房たちがいるようでございます」
「そんなことから隣の家の内の秘密がわからないものでもないと思いまして、ちょっとした機会をとらえて隣の女へ手紙をやってみました。するとすぐに書き馴れた達者な字で返事がまいりました、相当によい若い女房もいるらしいのです」
1.2.10
()こゆれば、
と申し上げると、
1.2.11
なほ()()
(たづ)()らでは、さうざうしかりなむ」とのたまふ。
「さらに近づけ。
突き止めないでは、きっと物足りない気がしよう」とおっしゃる。
「おまえは、なおどしどし恋の手紙を送ってやるのだね。それがよい。その人の正体が知れないではなんだか安心ができない」
 と源氏が言った。
1.2.12 あの、下層の最下層だと、人が見下した住まいであるが、その中にも、意外に結構なのを見つけたらばと、心惹かれてお思いになるのであった。
家は下の下に属するものと品定めの人たちに言われるはずの所でも、そんな所から意外な趣のある女を見つけ出すことがあればうれしいに違いないと源氏は思うのである。

第二章 空蝉の物語


第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す

2.1.1
さて、かの空蝉(うつせみ)あさましくつれなきをこの()(ひと)には(たが)ひて(おぼ)すにおいらかならましかば心苦(こころぐる)しき(あやま)ちにてやみぬべきをいとねたく、()けてやみなむを、(こころ)にかからぬ(をり)なし。
かやうの並々(なみなみ)までは(おも)ほしかからざりつるを、ありし「雨夜(あまよ)品定(しなさだ)」の(のち)いぶかしく(おも)ほしなる品々(しなじな)あるに、いとど(くま)なくなりぬる御心(みこころ)なめりかし
ところで、あの空蝉のあきれるほど冷淡だったのを、今の世間一般の女性とは違っているとお思いになると、素直であったならば、気の毒な過ちをしたと思ってやめられようが、まことに悔しく、振られて終わってしまいそうなのが、気にならない時がない。
このような並々の女性までは、お思いにならなかったのだが、先日の「雨夜の品定め」の後は、興味をお持ちになった階層階層があることによって、ますます残る隈なくご関心をお持ちになったようであるよ。
源氏は空蝉の極端な冷淡さをこの世の女の心とは思われないと考えると、あの女が言うままになる女であったなら、気の毒な過失をさせたということだけで、もう過去へ葬ってしまったかもしれないが、強い態度を取り続けられるために、負けたくないと反抗心が起こるのであるとこんなふうに思われて、その人を忘れている時は少ないのである。これまでは空爆階級の女が源氏の心を引くようなこともなかったが、あの雨夜の品定めを聞いて以来好奇心はあらゆるものに動いて行った。
2.1.2 疑いもせずにお待ち申しているもう一人の女を、いじらしいとお思いにならないわけではないが、何くわぬ顔で聞いていたろうことが恥ずかしいので、「まずは、この女の気持ちを見定めてから」とお思いになっているうちに、伊予介が上京してきた。
何の疑いも持たずに一夜の男を思っているもう一人の女を憐まないのではないが、冷静にしている空蝉にそれが知れるのを、恥ずかしく思って、いよいよ望みのないことのわかる日まではと思ってそれきりにしてあるのであったが、そこへ伊予介が上京して来た。
2.1.3
まづ(いそ)(まゐ)れり
舟路(ふなみち)のしわざとて、すこし(くろ)みやつれたる旅姿(たびすがた)いとふつつかに(こころ)づきなし
されど、(ひと)もいやしからぬ(すぢ)容貌(かたち)などねびたれど、きよげにて、ただならず、気色(けしき)よしづきてなどぞありける
まっさきに急いで参上した。
船路のせいで、少し黒く日焼けしている旅姿は、とてもぶこつで気に入らない。
けれど、人品も相当な血筋で、容貌などは年はとっているが、小綺麗で、普通の人とは違って、風雅のたしなみなどがそなわっているのであった。
そして真先に源氏の所へ伺候した。長い旅をして来たせいで、色が黒くなりやつれた伊予の長官は見栄も何もなかった。しかし家柄もいいものであったし、顔だちなどに老いてもなお整ったところがあって、どこか上品なところのある地方官とは見えた。
2.1.4 任国の話などを申すので、「伊予の湯の湯桁はいくつあるか」と、お尋ねしたくお思いになるが、わけもなく正視できなくて、お心の中に思い出されることもさまざまである。
任地の話などをしだすので、湯の郡の温泉話も聞きたい気はあったが、何ゆえとなしにこの人を見るときまりが悪くなって、源氏の心に浮かんでくることは数々の罪の思い出であった。
2.1.5
ものまめやかなる大人(おとな)かく(おも)ふもげにをこがましく、うしろめたきわざなりや。
げに、これぞ、なのめならぬ(かた)はなべかりける」と、馬頭(むまのかみ)(いさ)(おぼ)()でて、いとほしきにつれなき(こころ)はねたけれど、(ひと)のためは、あはれ」と(おぼ)しなさる。
「実直な年配者を、このように思うのも、いかにも馬鹿らしく後ろ暗いことであるよ。
いかにも、これが、尋常ならざる不埒なことだった」と、左馬頭の忠告をお思い出しになって、気の毒なので、「冷淡な気持ちは憎いが、夫のためには、立派だ」とお考え直しになる。
まじめな生一本の男と対っていて、やましい暗い心を抱くとはけしからぬことである。人妻に恋をして三角関係を作る男の愚かさを左馬頭の言ったのは真理であると思うと、源氏は自分に対して空蝉の冷淡なのは恨めしいが、この良人のためには尊敬すべき態度であると思うようになった。
2.1.6
(むすめ)をばさるべき(ひと)(あづ)けて(きた)(かた)をば()(くだ)りぬべし」と、()きたまふに、ひとかたならず(こころ)あわたたしくて、今一度(いまひとたび)はえあるまじきことにや」と、小君(こぎみ)(かた)らひたまへど、(ひと)(こころ)(あは)せたらむことにてだに(かろ)らかにえしも(まぎ)れたまふまじきを、まして、()げなきこと(おも)ひて、(いま)さらに見苦(みぐる)しかるべし(おも)(はな)れたり。
「娘を適当な人に縁づけて、北の方を連れて下るつもりだ」と、お聞きになると、あれやこれやと気持ちが落ち着かなくて、「もう一度逢うことができないものだろうか」と、小君に相談なさるが、相手が同意したようなことでさえ、軽々とお忍びになるのは難しいのに、まして、相応しくない関係と思って、今さら見苦しかろうと、思い絶っていた。
伊予介が娘を結婚させて、今度は細君を同伴して行くという噂は、二つとも源氏が無関心で聞いていられないことだった。恋人が遠国へつれられて行くと聞いては、再会を気長に待っていられなくなって、もう一度だけ逢うことはできぬかと、小君を味方にして空蝉に接近する策を講じたが、そんな機会を作るということは相手の女も同じ目的を持っている場合だっても困難なのであるのに、空蝉のほうでは源氏と恋をすることの不似合いを、思い過ぎるほどに思っていたのであるから、この上罪を重ねようとはしないのであって、とうてい源氏の思うようにはならないのである。
2.1.7
さすがに()えて(おも)ほし(わす)れなむことも、いと()ふかひなく、()かるべきことに(おも)ひて、さるべき折々(をりをり)御答(おほんいら)へなど、なつかしく()こえつつ、なげの(ふで)づかひにつけたる(こと)()あやしくらうたげに、()とまるべきふし(くは)へなどして、あはれと(おぼ)しぬべき(ひと)のけはひなれば、つれなくねたきものの、(わす)れがたきに(おぼ)
そうは言っても、すっかりお忘れになられることも、まことにつまらなく、嫌にちがいないことと思って、しかるべき折々のお返事など、親しく度々差し上げては、何気ない書きぶりに詠み込まれた返歌は、不思議とかわいらしげに、お目に止まるようなことを書き加えなどして、恋しく思わずにはいられない人の様子なので、冷淡で癪な女と思うものの、忘れがたい人とお思いになっている。
空蝉はそれでも自分が全然源氏から忘れられるのも非常に悲しいことだと思って、おりおりの手紙の返事などに優しい心を見せていた。なんでもなく書く簡単な文字の中に可憐な心が混じっていたり、芸術的な文章を書いたりして源氏の心を惹くものがあったから、冷淡な恨めしい人であって、しかも忘れられない女になっていた。
2.1.8 もう一人は、たとえ夫が決まったとしても、変わらず心を許しそうに見えたのを当てにして、いろいろとお聞きになるが、お心も動かさないのであった。
もう一人の女は他人と結婚をしても思いどおりに動かしうる女だと思っていたから、いろいろな噂を聞いても源氏は何とも思わなかった。

第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語


第一段 霧深き朝帰りの物語

3.1.1 秋にもなった。
誰のせいからでもなく、自ら求めて物思いに心を尽くされることどもがあって、大殿邸には、と絶えがちなので、恨めしくばかりお思い申し上げていらっしゃった。
秋になった。このごろの源氏はある発展を遂げた初恋のその続きの苦悶の中にいて、自然左大臣家へ通うことも途絶えがちになって恨めしがられていた。
3.1.2
六条(ろくでう)わたりにもとけがたかりし御気色(みけしき)おもむけ()こえたまひて(のち)ひき(かへ)し、なのめならむはいとほしかし
されど、よそなりし御心惑(みこころまど)ひのやうに、あながちなる(こと)はなきも、いかなることにかと()えたり
六条辺りの御方にも、気の置けたころのご様子をお靡かせ申し上げてから後は、うって変わって、通り一遍なお扱いのようなのは気の毒である。
けれど、他人でいたころのご執心のように、無理無体なことがないのも、どうしたことかと思われた。
六条の貴女との関係も、その恋を得る以前ほどの熱をまた持つことのできない悩みがあった。自分の態度によって女の名誉が傷つくことになってはならないと思うが、夢中になるほどその人の恋しかった心と今の心とは、多少懸隔のあるものだった。
3.1.3
(をんな)は、いとものをあまりなるまで、(おぼ)ししめたる御心(みこころ)ざまにて(よはひ)のほども()げなく(ひと)()()かむにいとどかくつらき御夜(おほんよ)がれの寝覚(ねざ)寝覚(ねざ)め、(おぼ)ししをるること、いとさまざまなり。
この女性は、たいそうものごとを度を越すほどに、深くお思い詰めなさるご性格なので、年齢も釣り合わず、人が漏れ聞いたら、ますますこのような辛い君のお越しにならない夜な夜なの寝覚めを、お悩み悲しまれることが、とてもあれこれと多いのである。
六条の貴女はあまりにものを思い込む性質だった。源氏よりは八歳上の二十五であったから、不似合いな相手と恋に墜ちて、すぐにまた愛されぬ物思いに沈む運命なのだろうかと、待ち明かしてしまう夜などには煩悶することが多かった。
3.1.4
(きり)のいと(ふか)(あした)いたくそそのかされたまひてねぶたげなる気色(けしき)に、うち(なげ)きつつ()でたまふを、中将(ちゅうじゃう)のおもと御格子一間上(みかうしひとまあ)げて、()たてまつり(おく)りたまへとおぼしく御几帳引(みきちゃうひ)きやりたれば、御頭(みぐし)もたげて見出(みい)だしたまへり
霧のたいそう深い朝、ひどくせかされなさって、眠そうな様子で、溜息をつきながらお出になるのを、中将のおもとが、御格子を一間上げて、お見送りなさいませ、という心遣いらしく、御几帳を引き開けたので、御頭をもち上げて外の方へ目をお向けになっていらっしゃる。
霧の濃くおりた朝、帰りをそそのかされて、睡むそうなふうで歎息をしながら源氏が出て行くのを、貴女の女房の中将が格子を一間だけ上げて、女主人に見送らせるために几帳を横へ引いてしまった。それで貴女は頭を上げて外をながめていた。
3.1.5
前栽(せんさい)色々(いろいろみだ)れたるを、()ぎがてにやすらひたまへるさまげにたぐひなし。
(らう)(かた)へおはするに中将(ちゅうじゃう)(きみ)御供(おほんとも)(まゐ)る。
紫苑色(しをにろ)(をり)にあひたる、(うすもの)()(あざ)やかに()()ひたる(こし)つき、たをやかになまめきたり
前栽の花が色とりどりに咲き乱れているのを、見過ごしにくそうにためらっていらっしゃる姿が、評判どおり二人といない。
渡廊の方へいらっしゃるので、中将の君が、お供申し上げる。
紫苑色で季節に適った、薄絹の裳、それをくっきりと結んだ腰つきは、しなやかで優美である。
いろいろに咲いた植え込みの花に心が引かれるようで、立ち止まりがちに源氏は歩いて行く。非常に美しい。廊のほうへ行くのに中将が供をして行った。この時節にふさわしい淡紫の薄物の裳をきれいに結びつけた中将の腰つきが艶であった。
3.1.6 振り返りなさって、隅の間の高欄に、少しの間、お座らせになった。
きちんとした態度、黒髪のかかり具合、見事なものよ、と御覧になる。
源氏は振り返って曲がり角の高欄の所へしばらく中将を引き据えた。なお主従の礼をくずさない態度も額髪のかかりぎわのあざやかさもすぐれて優美な中将だった。
3.1.7 「咲いている花に心を移したという風評は憚られますが
やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花です
「咲く花に移るてふ名はつつめども
折らで過ぎうき今朝の朝顔
3.1.8 どうしよう」
どうすればいい」
3.1.9 と言って、手を捉えなさると、まことに馴れたふうに素早く、
こう言って源氏は女の手を取った。物馴れたふうで、すぐに、
3.1.10 「朝霧の晴れる間も待たないでお帰りになるご様子なので
朝顔の花に心を止めていないものと思われます」
朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて
花に心をとめぬとぞ見る
3.1.11 と、主人のことにしてお返事申し上げる。
と言う。
 源氏の焦点をはずして主人の侍女としての挨拶をしたのである。
3.1.12
をかしげなる侍童(さぶらひわらは)姿(すがた)このましう、ことさらめきたる指貫(さしぬき)(すそ)(つゆ)けげに、(はな)(なか)(まじ)りて、朝顔折(あさがほを)りて(まゐ)るほどなど、()()かまほしげなり
かわいらしい男童で、姿が目安く、格別の格好をしているのが、指貫の裾を、露っぽく濡らし、花の中に入り混じって、朝顔を手折って差し上げるところなど、絵に描きたいほどである。
美しい童侍の恰好のよい姿をした子が、指貫の袴を露で濡らしながら、草花の中へはいって行って朝顔の花を持って来たりもするのである、この秋の庭は絵にしたいほどの趣があった。
3.1.13
大方(おほかた)うち()たてまつる(ひと)だに(こころ)とめたてまつらぬはなし。
(もの)(なさ)()らぬ(やま)がつも、(はな)(かげ)にはなほやすらはまほしきにやこの御光(おほんひかり)()たてまつるあたりは、ほどほどにつけて、()がかなしと(おも)(むすめ)を、(つか)うまつらせばやと(ねが)ひ、もしは、口惜(くちを)しからずと(おも)(いもうと)など()たる(ひと)は、(いや)しきにても、なほ、この(おほん)あたりにさぶらはせむと、(おも)()らぬはなかりけり。
通り一遍に、ちょっと拝見する人でさえ、心を止め申さない者はない。
物の情趣を解さない山人も、花の下では、やはり休息したいものではないか、このお美しさを拝する人々は、身分身分に応じて、自分のかわいいと思う娘を、ご奉公に差し上げたいと願い、あるいは、恥ずかしくないと思う姉妹などを持っている人は、下仕えであっても、やはり、このお方の側にご奉公させたいと、思わない者はいなかった。
源氏を遠くから知っているほどの人でもその美を敬愛しない者はない、情趣を解しない山の男でも、休み場所には桜の蔭を選ぶようなわけで、その身分身分によって愛している娘を源氏の女房にさせたいと思ったり、相当な女であると思う妹を持った兄が、ぜひ源氏の出入りする家の召使にさせたいとか皆思った。
3.1.14
まして、さりぬべきついでの御言(おほんこと)()も、なつかしき御気色(みけしき)()たてまつる(ひと)すこし(もの)心思(こころおも)()るは、いかがはおろかに(おも)ひきこえむ
()()れうちとけてしもおはせぬを(こころ)もとなきことに(おも)ふべかめり
まして、何かの折のお言葉でも、優しいお姿を拝する人で、少し物の情趣を解せる人は、どうしていい加減にお思い申し上げよう。
一日中くつろいだご様子でおいでにならないのを、物足りなく不満なことと思うようである。
まして何かの場合には優しい言葉を源氏からかけられる女房、この中将のような女はおろそかにこの幸福を思っていない。情人になろうなどとは思いも寄らぬことで、女主人の所へ毎日おいでになればどんなにうれしいであろうと思っているのであった。

第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語


第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う

4.1.1
まことやかの惟光(これみつ)(あづ)かりのかいま()いとよく案内見(あないみ)とりて(まう)す。
それはそうと、あの惟光が受け持ちの偵察は、とても詳しく事情を探ってご報告する。
それから、あの惟光の受け持ちの五条の女の家を探る件、それについて惟光はいろいろな材料を得てきた。
4.1.2
その(ひと)とはさらに(おも)ひえはべらず
(ひと)にいみじく(かく)(しの)ぶる気色(けしき)なむ()えはべるをつれづれなるままに、(みなみ)半蔀(はじとみ)ある長屋(ながや)にわたり()つつ(くるま)(おと)すれば、(わか)(もの)どもの(のぞ)きなどすべかめるにこの(しゅう)とおぼしきも、はひわたる(とき)はべかめる
容貌(かたち)なむ、ほのかなれど、いとらうたげにはべる
「誰であるかは、まったく分かりません。
世間にひどく隠れ潜んでいる様子に見えますが、暇にまかせて、南側の半蔀のある長屋に移って来ては、牛車の音がすると、若い女房たちが覗き見などをするようですが、この主人と思われる女も、来る時があるようでございまして。
容貌は、ぼんやりとではありますが、とてもかわいらしげでございます。
「まだだれであるかは私にわからない人でございます。隠れていることの知れないようにとずいぶん苦心する様子です。閑暇なものですから、南のほうの高い窓のある建物のほうへ行って、車の音がすると若い女房などは外をのぞくようですが、その主人らしい人も時にはそちらへ行っていることがございます。その人は、よくは見ませんがずいぶん美人らしゅうございます。
4.1.3
一日(ひとひ)前駆追(さきお)ひて(わた)(くるま)のはべりしを(のぞ)きて、童女(わらはべ)(いそ)ぎて右近(うこん)(きみ)こそまづ物見(ものみ)たまへ。
中将殿(ちゅうじゃうどの)こそこれより(わた)りたまひぬれ』と()へば、また、よろしき大人出(おとない)()て、あなかま』と、()かくものから、いかでさは()るぞ、いで、()』とて、はひ(わた)
先日、先払いをして通る牛車がございましたのを、覗き見て、女童が急いで、『右近の君さん、早く御覧なさい。
中将殿が、ここをお通り過ぎになってしまいます』と言うと、もう一人、見苦しくない女房が出て来て、『お静かに』と、手で制しながらも、『どうしてそうと分かりますか、どれ、見てみよう』と言って、渡って来ます。
この間先払いの声を立てさせて通る車がございましたが、それをのぞいて女の童が後ろの建物のほうへ来て、『右近さん、早くのぞいてごらんなさい、中将さんが通りをいらっしゃいます』と言いますと相当な女房が出て来まして、『まあ静かになさいよ』と手でおさえるようにしながら、『まあどうしてそれがわかったの、私がのぞいて見ましょう』と言って前の家のほうへ行くのですね、
4.1.4
打橋(うちはし)だつものを(みち)にてなむ(かよ)ひはべる
(いそ)()るものは(きぬ)(すそ)(もの)()きかけて、よろぼひ(たふ)れて、(はし)よりも()ちぬべければ、いで、この葛城(かづらき)(かみ)こそさがしうしおきたれ』と、むつかりて、物覗(もののぞ)きの(こころ)()めぬめりき
打橋のようなものを通路にして、
行き来するのでございます。急いで来ると、なんとまあ大変、衣の裾を何かに引っ掛けて、よろよろと倒れて、橋から落ちてしまいそうになったので、『まあ、この葛城の神は、危なっかしく拵えたこと』と、文句を言って、覗き見の興味も
細い渡り板が通路なんですから、急いで行く人は着物の裾を引っかけて倒れたりして、橋から落ちそうになって、『まあいやだ』などと大騒ぎで、もうのぞきに出る気もなくなりそうなんですね。
4.1.5
(きみ)は、御直衣姿(おほんなほしすがた)にて御随身(みずいじん)どももありし
なにがし、くれがし』と(かず)へしは、頭中将(とうのちゅうじゃう)随身(ずいじん)その小舎人童(こどねりわらは)なむ、しるしに()ひはべりし」など()こゆれば、
『頭の君は、直衣姿で、御随身たちもいましたが。
あの人は誰、この人は誰』と数えたのは、頭中将の随身や、その小舎人童を、証拠に言っていたのです」などと申し上げると、
車の人は直衣姿で、随身たちもおりました。だれだれも、だれだれもと数えている名は頭中将の随身や少年侍の名でございました」
 などと言った。
4.1.6 「確かにその車を見たのならよかったのに」
「確かにその車の主が知りたいものだ」
4.1.7 とおっしゃって、「もしや、あの頭中将が愛しく忘れ難かった女であろうか」と、思いつかれるにつけても、とても知りたげなご様子を見て、
もしかすればそれは頭中将が忘られないように話した常夏の歌の女ではないかと思った源氏の、も少しよく探りたいらしい顔色を見た惟光は、
4.1.8
(わたくし)懸想(けさう)いとよくしおきて、案内(あない)(のこ)るところなく()たまへおきながらただ、()れどちと()らせて(もの)など()(わか)きおもとのはべるをそらおぼれしてなむ(かく)れまかり(あり)く。
いとよく(かく)したりと(おも)ひて、(ちひ)さき()どもなどのはべるが言誤(ことあやま)りしつべきも、()(まぎ)らはしてまた(ひと)なきさまを()ひてつくりはべるなど、(かた)りて(わら)
「わたくし自身の懸想も首尾よく致して、家の内情もすっかり存じておりますが、相手の女は、ただ、同じ同輩どうしの女がいるだけだと思わせて、話しかけてくる若い近習がございますので、わたしも空とぼけたふりして、隠れて通っています。
とてもうまく隠していると思って、小さい子供などのございますのが言い間違いそうになるのも、ごまかして、別に主人のいない様子を無理に装っております」などと、話して笑う。
「われわれ仲間の恋と見せかけておきまして、実はその上に御主人のいらっしゃることもこちらは承知しているのですが、女房相手の安価な恋の奴になりすましております。向こうでは上手に隠せていると思いまして私が訪ねて行ってる時などに、女の童などがうっかり言葉をすべらしたりいたしますと、いろいろに言い紛らしまして、自分たちだけだというふうを作ろうといたします」
 と言って笑った。
4.1.9
尼君(あまぎみ)(とぶら)ひにものせむついでにかいま()せさせよ」とのたまひけり。
「尼君のお見舞いに伺った折に、垣間見させよ」とおっしゃるのであった。
「おまえの所へ尼さんを見舞いに行った時に隣をのぞかせてくれ」
 と源氏は言っていた。
4.1.10
かりにても、宿(やど)れる(すま)ひのほどを(おも)ふに、これこそかの(ひと)(さだ)め、あなづりし(しも)(しな)ならめ
その(なか)に、(おも)ひの(ほか)をかしきこともあらば」など、(おぼ)すなりけり
一時的にせよ、住んでいる家の程度を思うと、「これこそ、あの左馬頭が判定して、貶んだ下の品であろう。
その中に予想外におもしろい事があったら」などと、お思いになるのであった。
たとえ仮住まいであってもあの五条の家にいる人なのだから、下の品の女であろうが、そうした中におもしろい女が発見できればと思うのである。
4.1.11 惟光は、どんな些細なことでも君のお心に違うまいと思うが、自分も抜けめない好色人なので、大変に策を労しあちこち段取りをつけ、しゃにむにお通わし始めたのであった。
この辺の事情は、こまごまと煩わしくなるので、例によって省略した。
源氏の機嫌を取ろうと一所懸命の惟光であったし、彼自身も好色者で他の恋愛にさえも興味を持つほうであったから、いろいろと苦心をした末に源氏を隣の女の所へ通わせるようにした。
4.1.12 女を、はっきり誰とお確かめになれないので、ご自分も名乗りをなさらず、ひどくむやみに粗末な身なりをなさっては、いつもと違って直接に身を入れてお通いになるのは、並々ならぬご執心なのであろう、と考えると、自分の馬を差し上げて、お供して走りまわる。
女のだれであるかをぜひ知ろうともしないとともに、源氏は自身の名もあらわさずに、思いきり質素なふうをして多くは車にも乗らずに通った。深く愛しておらねばできぬことだと惟光は解釈して、自身の乗る馬に源氏を乗せて、自身は徒歩で供をした。
4.1.13
懸想人(けさうびと)いとものげなき(あし)もとを、()つけられてはべらむ(とき)からくもあるべきかな」とわぶれど、(ひと)()らせたまはぬままに、かの夕顔(ゆふがほ)のしるべせし随身(ずいじん)ばかり、さては、(かほ)むげに()るまじき童一人(わらはひとり)ばかりぞ、()ておはしける。
もし(おも)ひよる気色(けしき)もや」とて、(となり)中宿(なかやどり)をだにしたまはず
「懸想人のひどく人げない徒ち歩き姿を、見つけられましては、辛いものですね」とこぼすが、誰にもお知らせなさらないことにして、あの夕顔の案内をした随身だけ、その他には、顔をまったく知られてないはずの童一人だけを、連れていらっしゃるのであった。
「万一思い当たる気配もあろうか」と慮って、隣に中休みをさえなさらない。
「私から申し込みを受けたあすこの女はこの態を見たら驚くでしょう」
 などとこぼしてみせたりしたが、このほかには最初タ顔の花を折りに行った随身と、それから源氏の召使であるともあまり顔を知られていない小侍だけを供にして行った。それから知れることになってはとの気づかいから、隣の家へ寄るようなこともしない。
4.1.14
(をんな)も、いとあやしく心得(こころえ)心地(ここち)のみして、御使(おほんつかひ)(ひと)()(あかつき)(みち)をうかがはせ御在処見(おほんありかみ)せむと(たづ)ぬれど、そこはかとなくまどはしつつさすがに、あはれに()ではえあるまじくこの(ひと)御心(みこころ)にかかりたれば便(びん)なく軽々(かろがろ)しきことと、(おも)ほし(かへ)しわびつついとしばしばおはします。
女方も、とても不審に合点のゆかない気ばかりがして、お文使いに跡を付けさせたり、払暁の道を尾行させ、お住まいを現すだろうと追跡するが、どこと分からなく晦まし晦ましして、そうは言っても、かわいく逢わないではいられず、この女がお心に掛かっているので、不都合で軽々しい行為だと、反省してはお困りながらも、とても頻繁にお通いになる。
女のほうでも不思議でならない気がした。手紙の使いが来るとそっと人をつけてやったり、男の夜明けの帰りに道を窺わせたりしても、先方は心得ていてそれらをはぐらかしてしまった。しかも源氏の心は十分に惹かれて、一時的な関係にとどめられる気はしなかった。これを不名誉だと思う自尊心に悩みながらしばしば五条通いをした。
4.1.15 このような方面では、実直な人も乱れる時があるものだが、とても見苦しくなく自重なさって、人が非難申し上げるような振る舞いはなさらなかったが、不思議なまでに、今朝の間、昼間の逢わないでいる間も、逢いたく気が気でないなどと、お思い悩みになるので、他方では、ひどく気違いじみており、それほど熱中するに相応しいことではないと、つとめて熱をお冷ましになるが、女の感じは、とても驚くほど従順でおっとりとしていて、物事に思慮深く慎重な方面は少なくて、一途に子供っぽいようでいながら、男女の仲を知らないでもない。
たいして高い身分ではあるまい、どこにひどくこうまで心惹かれるのだろうか、と繰り返しお思いになる。
恋愛問題ではまじめな人も過失をしがちなものであるが、この人だけはこれまで女のことで世間の批難を招くようなことをしなかったのに、夕顔の花に傾倒してしまった心だけは別だった。別れ行く間も昼の間もその人をかたわらに見がたい苦痛を強く感じた。源氏は自身で、気違いじみたことだ、それほどの価値がどこにある恋人かなどと反省もしてみるのである。驚くほど柔らかでおおような性質で、深味のあるような人でもない。若々しい一方の女であるが、処女であったわけでもない。貴婦人ではないようである。どこがそんなに自分を惹きつけるのであろうと不思議でならなかった。
4.1.16
いとことさらめきて御装束(おほんさうぞく)をもやつれたる(かり)御衣(おほんぞ)をたてまつりさまを()へ、(かほ)をもほの()せたまはず夜深(よぶか)きほどに、(ひと)をしづめて()()りなどしたまへば、(むかし)ありけむものの変化(へんげ)めきてうたて(おも)(なげ)かるれど(ひと)(おほん)けはひ、はた、()さぐりもしるべきわざなりければ()ればかりにかはあらむ
なほこの()(もの)()でつるわざなめり」と、大夫(たいふ)(うたが)ひながらせめてつれなく()らず(がほ)にてかけて(おも)ひよらぬさまにたゆまずあざれありけば、いかなることにかと心得(こころえ)がたく、女方(をんながた)もあやしうやう(たが)ひたるもの(おも)ひをなむしける
とてもわざとらしくして、ご装束も粗末な狩衣をお召しになり、姿を変え、顔も少しもお見せにならず、深夜ごろに、人の寝静まるのを待ってお出入りなどなさるので、昔あったという変化の者じみて、気味悪く嘆息されるが、男性のご様子は、そうは言うものの、手触りでも分かることができたので、「いったい、どなたであろうか。
やはりこの好色人が手引きして始まったことらしい」と、大夫を疑ってみるが、つとめて何くわぬ顔を装って、まったく知らない様子に、せっせと色恋に励んでいるので、どのようなことかとわけが分からず、女の方も不思議な一風変わった物思いをするのであった。
わざわざ平生の源氏に用のない狩衣などを着て変装した源氏は顔なども全然見せない。ずっと更けてから、人の寝静まったあとで行ったり、夜のうちに帰ったりするのであるから、女のほうでは昔の三輪の神の話のような気がして気味悪く思われないではなかった。しかしどんな人であるかは手の触覚からでもわかるものであるから、若い風流男以外な者に源氏を観察していない。やはり好色な隣の五位が導いて来た人に違いないと惟光を疑っているが、その人はまったく気がつかぬふうで相変わらず女房の所へ手紙を送って来たり、訪ねて来たりするので、どうしたことかと女のほうでも普通の恋の物思いとは違った煩悶をしていた。

第二段 八月十五夜の逢瀬

4.2.1
(きみ)も、かくうらなくたゆめてはひ(かく)れなば、いづこをはかりとか、(われ)(たづ)ねむ
かりそめの(かく)()と、はた()ゆめれば、いづ(かた)にもいづ(かた)にも、(うつ)ろひゆかむ()を、いつとも()らじ」と(おぼ)すに()ひまどはしてなのめに(おも)ひなしつべくはただかばかりのすさびにても()ぎぬべきことをさらにさて()ぐしてむ(おぼ)されず。
源氏の君も、「このように無心なように油断させてそっと隠れてしまったなら、どこを目当てにしてか、わたしも尋ねられよう。
一時の隠れ家と、また一方では思われるので、どこへともどこへとも、移って行くような日を、いつとも分からないだろう」とお思いになると、跡を追っているうちに見失って、どうでもよく諦めがつくものなら、ただこのような遊び事で終わっても済まされることなのに、まったくそうして過そうとはお思いになれない。
源氏もこんなに真実を隠し続ければ、自分も女のだれであるかを知りようがない、今の家が仮の住居であることは間違いのないことらしいから、どこかへ移って行ってしまった時に、自分は呆然とするばかりであろう。行くえを失ってもあきらめがすぐつくものならよいが、それは断然不可能である。
4.2.2
人目(ひとめ)(おぼ)して、(へだ)ておきたまふ()()ななどは、いと(しの)びがたく(くる)しきまでおぼえたまへばなほ()れとなくて二条院(にでうのゐん)(むか)へてむ
もし()こえありて便(びん)なかるべきことなりとも、さるべきにこそは
()(こころ)ながら、いとかく(ひと)にしむことはなきをいかなる(ちぎ)りにかはありけむ」など(おも)ほしよる
人目をお憚りになって、お途絶えになる夜な夜ななどは、とても我慢ができず、苦しいまでに思われなさるので、「やはり誰とも知らせずに二条院に迎えてしまおう。
もし世間に評判になって不都合なことであっても、そうなるはずの運命なのだ。
我ながら、ひどくこう女に惹かれることはなかったのに、どのような宿縁であったのだろうか」などとお思いつきになる。
世間をはばかって間を空ける夜などは堪えられない苦痛を覚えるのだと源氏は思って、世間へはだれとも知らせないで二条の院へ迎えよう、それを悪く言われても自分はそうなる前生の因縁だと思うほかはない、自分ながらもこれほど女に心を惹かれた経験が過去にないことを思うと、どうしても約束事と解釈するのが至当である、こんなふうに源氏は思って、
4.2.3 「さあ、とても気楽な所で、のんびりとお話し申そう」
「あなたもその気におなりなさい。私は気楽な家へあなたをつれて行って夫婦生活がしたい」
4.2.4
など、(かた)らひたまへば、
などと、お誘いになると、
こんなことを女に言い出した。
4.2.5
なほ、あやしう
かくのたまへど、()づかぬ(おほん)もてなしなれば、もの(おそ)ろしくこそあれ
「やはり、変でございすわ。
そうおっしゃいますが、普通とは違ったお持てなしなので、何となく空恐ろしい気がしますわ」
「でもまだあなたは私を普通には取り扱っていらっしゃらない方なんですから不安で」
4.2.6 と、とても子供っぽく言うので、「なるほど」と、思わずにっこりなさって、
若々しく夕顔が言う。源氏は微笑された。
4.2.7 「なるほど、どちらが狐でしょうかね。
ただ、化かされなさいな」
「そう、どちらかが狐なんだろうね。でも欺されていらっしゃればいいじゃない」
4.2.8
と、なつかしげにのたまへば、(をんな)もいみじくなびきて、さもありぬべく(おも)ひたり
()になくかたはなることなりとも、ひたぶるに(したが)(こころ)は、いとあはれげなる(ひと)」と()たまふに、なほ、かの頭中将(とうのちゅうじゃう)常夏疑(とこなつうたが)はしく(かた)りし(こころ)ざままづ(おも)()でられたまへど(しの)ぶるやうこそは」と、あながちにも()()でたまはず。
と、優しそうにおっしゃると、女もすっかりその気になって、そうであってもいいと思っている。
「世間に例のない、不都合なことであっても、一途に従順な心は、実にかわいい女だ」と、ご覧になると、やはり、あの頭中将の常夏の女かと疑われて、話された性質、それをまっさきにお思い出さずにはいらっしゃれないが、「きっと隠すような事情があるのだろう」と、むやみにお聞き出しなさらない。
なつかしいふうに源氏が言うと、女はその気になっていく。どんな欠点があるにしても、これほど純な女を愛せずにはいられないではないかと思った時、源氏は初めからその疑いを持っていたが、頭中将の常夏の女はいよいよこの人らしいという考えが浮かんだ。しかし隠しているのはわけのあることであろうからと思って、しいて聞く気にはなれなかった。
4.2.9 表情に現して、不意に逃げ隠れするような性質などはないので、「離れ離れに、絶え間を置いたような折には、そのように気を変えることもあろうが、女のほうから、少し浮気することがあったほうが愛情も増さるであろう」とまで、お思いになった。
感情を害した時などに突然そむいて行ってしまうような性格はなさそうである、自分が途絶えがちになったりした時には、あるいはそんな態度に出るかもしれぬが、自分ながら少し今の情熱が緩和された時にかえって女のよさがわかるのではないかと、それを望んでもできないのだから途絶えの起こってくるわけはない、したがって女の気持ちを不安に思う必要はないのだと知っていた。
4.2.10
八月十五夜(はちがちじふごや)(くま)なき月影(つきかげ)隙多(ひまおほ)かる板屋(いたや)(のこ)りなく()()て、見慣(みな)らひたまはぬ()まひのさまも(めづら)しきに暁近(あかつきちか)くなりにけるなるべし(となり)家々(いへいへ)あやしき(しづ)()声々(こゑごゑ)目覚(めさ)まして、
八月十五日夜、満月の光が、隙間の多い板葺きの家に、すっかり射し込んで来て、ご経験のない住居の様子も珍しいが、払暁近くなったのであろう、隣の家々から、賤しい男たちの声々が、目を覚まして、
八月の十五夜であった。明るい月光が板屋根の隙間だらけの家の中へさし込んで、狭い家の中の物が源氏の目に珍しく見えた。もう夜明けに近い時刻なのであろう。近所の家々で貧しい男たちが目をさまして高声で話すのが聞こえた。
4.2.11 「ああ、ひどく貧しいことよ」
「ああ寒い。
4.2.12
今年(ことし)こそなりはひにも(たの)むところすくなく、田舎(ゐなか)(かよ)ひも(おも)ひかけねばいと心細(こころぼそ)けれ。
北殿(きたどの)こそ()きたまふや」
「今年は、商売も当てになる所も少なく、田舎への行き来も望めないから、ひどく心細いなあ。
北隣さん、お聞きなさるか」
今年こそもう商売のうまくいく自信が持てなくなった。地方廻りもできそうでないんだから心細いものだ。北隣さん、まあお聞きなさい」
4.2.13
など、()()はすも()こゆ。
などと、言い交わしているのも聞こえる。
などと言っているのである。
4.2.14
いとあはれなるおのがじしの(いとな)みに()()でて、そそめき(さわ)ぐもほどなきを、(をんな)いと()づかしく(おも)ひたり
まことにほそぼそとした各自の生計のために起き出して、ざわめいているのも間近なのを、女はとても恥ずかしく思っている。
哀れなその日その日の仕事のために起き出して、そろそろ労働を始める音なども近い所でするのを女は恥ずかしがっていた。
4.2.15
(えん)だち気色(けしき)ばまむ(ひと)()えも()りぬべき()まひのさまなめりかし
されど、のどかに、つらきも()きもかたはらいたきことも、(おも)()れたるさまならで()がもてなしありさまはいとあてはかにこめかしくて、またなくらうがはしき(となり)用意(ようい)なさを、いかなる(こと)とも()()りたるさまならねばなかなか、()ぢかかやかむよりは、罪許(つみゆる)されてぞ()えける
風流ぶって気取りたがるような人は、消え入りたいほどの住居の様子のようである。
けれども、のんびりと、辛いことも嫌なことも気恥ずかしいことも、苦にしている様子でなく、自身の態度や様子は、とても上品でおっとりして、またとないくらい下品な隣家のぶしつけさを、どのようなこととも知っている様子でないので、かえって恥ずかしがり赤くなるよりは、罪がないように思われるのであった。
気どった女であれば死ぬほどきまりの悪さを感じる場所に違いない。でも夕顔はおおようにしていた。人の恨めしさも、自分の悲しさも、体面の保たれぬきまり悪さも、できるだけ思ったとは見せまいとするふうで、自分自身は貴族の子らしく、娘らしくて、ひどい近所の会話の内容もわからぬようであるのが、恥じ入られたりするよりも感じがよかった。
4.2.16
ごほごほと()(かみ)よりもおどろおどろしく、()(とどろ)かす唐臼(からうす)(おと)枕上(まくらがみ)とおぼゆる
あな、(みみ)かしかまし」と、これにぞ(おぼ)さるる。
(なに)(ひび)きとも()()れたまはず、いとあやしうめざましき(おと)なひとのみ()きたまふ。
くだくだしきことのみ(おほ)かり
ごろごろと鳴る雷よりも騒がしく、踏み轟かす唐臼の音も枕元のように聞こえる。
「ああ、やかましい」と、これには閉口されなさる。
何の響きともお分りにならず、とても不思議で耳障りな音だとばかりお聞きになる。
ごたごたしたことばかり多かった。
ごほごほと雷以上の恐い音をさせる唐臼なども、すぐ寝床のそばで鳴るように聞こえた。源氏もやかましいとこれは思った。けれどもこの貴公子も何から起こる音とは知らないのである。大きなたまらぬ音響のする何かだと思っていた。そのほかにもまだ多くの騒がしい雑音が聞こえた。
4.2.17
白妙(しろたへ)(ころも)うつ(きぬた)(おと)も、かすかにこなたかなた()きわたされ、空飛(そらと)(かり)(こゑ)()(あつ)めて、(しの)びがたきこと(おほ)かり
端近(はしちか)御座所(おましどころ)なりければ、遣戸(やりど)()()けて、もろともに見出(みい)だしたまふ。
ほどなき(には)に、されたる呉竹(くれたけ)前栽(せんさい)(つゆ)は、なほかかる(ところ)(おな)じごときらめきたり
(むし)声々乱(こゑごゑみだ)りがはしく、(かべ)のなかの蟋蟀(きりぎりす)だに間遠(まどほ)()()らひたまへる御耳(おほんみみ)に、さし()てたるやうに()(みだ)るるを、なかなかさまかへて(おぼ)さるるも、御心(みこころ)ざし(ひと)つの(あさ)からぬに、よろづの罪許(つみゆる)さるるなめりかし
衣を打つ砧の音も、かすかにあちらこちらからと聞こえて来て、空を飛ぶ雁の声も、一緒になって、堪えきれない情趣が多い。
端近いご座所だったので、遣戸を引き開けて、一緒に外を御覧になる。
広くもない庭に、しゃれた呉竹や、前栽の露は、やはりこのような所も同じように光っていた。
虫の声々が入り乱れ、壁の内側のこおろぎでさえ、時たまお聞きになっているお耳に、じかに押し付けたように鳴き乱れているのを、かえって違った感じにお思いなさるのも、お気持ちの深さゆえに、すべての欠点が許されるのであろうよ。
白い麻布を打つ砧のかすかな音もあちこちにした。空を行く雁の声もした。秋の悲哀がしみじみと感じられる。庭に近い室であったから、横の引き戸を開けて二人で外をながめるのであった。小さい庭にしゃれた姿の竹が立っていて、草の上の露はこんなところのも二条の院の前栽のに変わらずきらきらと光っている。虫もたくさん鳴いていた。壁の中で鳴くといわれて人間の居場所に最も近く鳴くものになっている蟋蟀でさえも源氏は遠くの声だけしか聞いていたかったが、ここではどの虫も耳のそばへとまって鳴くような風変わりな情趣だと源氏が思うのも、夕顔を深く愛する心が何事も悪くは思わせないのであろう。
4.2.18
(しろ)(あはせ)薄色(うすいろ)なよよかなるを(かさ)ねて、はなやかならぬ姿(すがた)いとらうたげにあえかなる心地(ここち)して、そこと()()ててすぐれたることもなけれど、(ほそ)やかにたをたをとして、ものうち()ひたるけはひ、あな、心苦(こころぐる)」と、ただいとらうたく()ゆ。
(こころ)ばみたる(かた)をすこし()へたらば()たまひながら、なほうちとけて()まほしく(おぼ)さるれば
白い袷、薄紫色の柔らかい衣を重ね着て、地味な姿態は、とてもかわいらしげに華奢な感じがして、どこそこと取り立てて優れた所はないが、か細くしなやかな感じがして、何かちょっと言った感じは、「ああ、いじらしい」と、ただもうかわいく思われる。
気取ったところをもう少し加えたらと、御覧になりながら、なおもくつろいで逢いたく思われなさるので、
白い袷に柔らかい淡紫を重ねたはなやかな姿ではない、ほっそりとした人で、どこかきわだって非常によいというところはないが繊細な感じのする美人で、ものを言う様子に弱々しい可憐さが十分にあった。才気らしいものを少しこの人に添えたらと源氏は批評的に見ながらも、もっと深くこの人を知りたい気がして、
4.2.19
いざ、ただこのわたり(ちか)(ところ)心安(こころやす)くて()かさむ。
かくてのみは、いと(くる)しかりけり」とのたまへば、
「さあ、ちょっとこの辺の近い所で、気楽に夜を明かそう。
こうしてばかりいては、とても辛いなあ」とおっしゃると、
「さあ出かけましょう。この近くのある家へ行って、気楽に明日まで話しましょう。こんなふうでいつも暗い間に別れていかなければならないのは苦しいから」
 と言うと、
4.2.20 「とてもそんな。
急でしょう」
「どうしてそんなに急なことをお言い出しになりますの」
4.2.21
と、いとおいらかに()ひてゐたり
この()のみならぬ(ちぎ)りなどまで(たの)めたまふにうちとくる(こころ)ばへなど、あやしくやう()はりて、世馴(よな)れたる(ひと)ともおぼえねば、(ひと)(おも)はむ(ところ)(はばか)りたまはで右近(うこん)()()でて随身(ずいじん)()させたまひて御車引(みくるまひ)()れさせたまふ
このある(ひと)びともかかる御心(みこころ)ざしのおろかならぬを見知(みし)れば、おぼめかしながら(たの)みかけきこえたり。
と、とてもおっとりと言ってじっとしている。
この世だけでない来世の約束などまで相手に期待させていらっしゃるので、気を許す心根などが、不思議に普通と違って、世慣れた女とも思われないので、他人がどう思うかを慮ることもおできになれず、右近を召し出して、随身を呼ばせなさって、お車を引き入れさせなさる。
この家の女房たちも、このようなお気持ちが並大抵でないのが分かるので、不安に思いながらも、期待をかけ申していた。
おおように夕顔は言っていた。変わらぬ恋を死後の世界にまで続けようと源氏の誓うのを見ると何の疑念もはさまずに信じてよろこぶ様子などのうぶさは、一度結婚した経験のある女とは思えないほど可憐であった。源氏はもうだれの思わくもはばかる気がなくなって、右近に随身を呼ばせて、車を庭へ入れることを命じた。夕顔の女房たちも、この通う男が女主人を深く愛していることを知っていたから、だれともわからずにいながら相当に信頼していた。
4.2.22
()(がた)(ちか)うなりにけり。
(とり)(こゑ)などは()こえで、御嶽精進(みたけさうじ)にやあらむただ(おきな)びたる(こゑ)ぬかづくぞ()こゆる
()()のけはひ、()へがたげに(おこな)ふ。
いとあはれに、(あした)(つゆ)(こと)ならぬ()を、(なに)(むさぼ)()(いの)りにか」と、()きたまふ。
南無当来導師(なんたうらいだうし)とぞ(おが)むなる
夜明けも近くなってしまった。
鶏の声などは聞こえないで、御嶽精進であろうか、ただ老人めいた声で礼拝するのが聞こえる。
立ったり座ったりの様子、難儀そうに勤行する。
たいそうしみじみと、「朝の露と違わないはかないこの世を、何を欲張りわが身の利益を祈るのだろうか」と、お聞きになる。
「南無当来導師、
ずっと明け方近くなってきた。この家に鶏の声は聞こえないで、現世利益の御岳教の信心なのか、老人らしい声で、起ったりすわったりして、とても忙しく苦しそうにして祈る声が聞かれた。源氏は身にしむように思って、朝露と同じように短い命を持つ人間が、この世に何の慾を持って祈祷などをするのだろうと聞いているうちに、
 「南無当来の導師」
 と阿弥陀如来を呼びかけた。
4.2.23
かれ、()きたまへ
この()とのみは(おも)はざりけり」と、あはれがりたまひて
「あれを、お聞きなさい。
この世だけとは思っていないのだね」と、しみじみと感じられて、
「そら聞いてごらん。現世利益だけが目的じゃなかった」
 とほめて、
4.2.24 「優婆塞が勤行しているのを道しるべにして
来世にも深い約束に背かないで下さい」
優婆塞が行なふ道をしるべにて
来ん世も深き契りたがふな
4.2.25 長生殿の昔の例は縁起が悪いので、翼を交そうとは言わずに、弥勒菩薩が出現する未来までの愛を約束なさる。
そのような長いお約束とは、まことに大げさである。
とも言った。玄宗と楊貴妃の七月七日の長生殿の誓いは実現されない空想であったが、五十六億七千万年後の弥勒菩薩出現の世までも変わらぬ誓いを源氏はしたのである。
4.2.26 「前世の宿縁の拙さが身につまされるので
来世まではとても頼りかねます」
前の世の契り知らるる身のうさに
行く末かけて頼みがたさよ
4.2.27 このような返歌のし方なども、実のところ、心細いようである。
と女は言った。歌を詠む才なども豊富であろうとは思われない。

第三段 なにがしの院に移る

4.3.1
いさよふ(つき)ゆくりなくあくがれむことを、(をんな)(おも)ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲隠(くもがく)れて、()()(そら)いとをかし
はしたなきほどにならぬ(さき)にと、(れい)(いそ)()でたまひて(かろ)らかにうち()せたまへれば右近(うこん)()りぬる
ためらっている月のように、出し抜けに行く先も分からず出かけることを、女は躊躇し、いろいろと説得なさるうちに、急に雲に隠れて、明け行く空は実に美しい。
体裁の悪くなる前にと、いつものように急いでお出になって、軽々とお乗せになったので、右近が乗った。
月夜に出れば月に誘惑されて行って帰らないことがあるということを思って出かけるのを躊躇する夕顔に、源氏はいろいろに言って同行を勧めているうちに月もはいってしまって東の空の白む秋のしののめが始まってきた。
 人目を引かぬ間にと思って源氏は出かけるのを急いだ。女のからだを源氏が軽々と抱いて車に乗せ右近が同乗したのであった。
4.3.2
そのわたり(ちか)きなにがしの(ゐん)おはしまし()きて、(あづか)()()づるほど、()れたる(かど)(しの)草茂(ぐさしげ)りて見上(みあ)げられたるたとしへなく木暗(こぐら)し。
(きり)(ふか)く、(つゆ)けきに(すだれ)をさへ()げたまへれば、御袖(おほんそで)もいたく()れにけり
その辺りに近い某院にお着きあそばして、管理人をお呼び出しになる間、荒れた門の忍草が生い茂っていて見上げられるのが、譬えようなく木暗い。
霧も深く、露っぽいところに、簾までを上げていらっしゃるので、お袖もひどく濡れてしまった。
五条に近い帝室の後院である某院へ着いた。呼び出した院の預かり役の出て来るまで留めてある車から、忍ぶ草の生い茂った門の廂が見上げられた。たくさんにある大木が暗さを作っているのである。霧も深く降っていて空気の湿っぽいのに車の簾を上げさせてあったから源氏の袖もそのうちべったりと濡れてしまった。
4.3.3 「まだこのようなことを経験しなかったが、いろいろと気をもむことであるなあ。
「私にははじめての経験だが妙に不安なものだ。
4.3.4 昔の人もこのように恋の道に迷ったのだろうか
わたしには経験したことのない明け方の道だ
いにしへもかくやは人の惑ひけん
わがまだしらぬしののめの道
4.3.5 ご経験なさいましたか」
前にこんなことがありましたか」
4.3.6 とおっしゃる。
女は、恥ずかしがって、
と聞かれて女は恥ずかしそうだった。
4.3.7 「山の端をどこと知らないで随って行く月は
途中で光が消えてしまうのではないでしょうか
「山の端の心も知らず行く月は
上の空にて影や消えなん
4.3.8 心細くて」
心細うございます、私は」
4.3.9
とて、もの(おそ)ろしうすごげに(おも)ひたれば、かのさし(つど)ひたる()まひの()らひならむ」と、をかしく(おぼ)す。
と言って、何となく怖がって気味悪そうに思っているので、「あの建て込んでいる小家に住み慣れているからだろう」と、おもしろくお思いになる。
凄さに女がおびえてもいるように見えるのを、源氏はあの小さい家におおぜい住んでいた人なのだから道理であると思っておかしかった。
4.3.10 お車を入れさせて、西の対にご座所などを準備する間、高欄に轅を掛けて待っていらっしゃる。
右近は、心浮き立つ優美な心地がして、過去のことなども、一人思い出すのであった。
管理人が一生懸命奔走している様子から、このご様子をすっかり知った。
門内へ車を入れさせて、西の対に仕度をさせている間、高欄に車の柄を引っかけて源氏らは庭にいた。右近は艶な情趣を味わいながら女主人の過去の恋愛時代のある場面なども思い出されるのであった。預かり役がみずから出てする客人の扱いが丁寧きわまるものであることから、右近にはこの風流男の何者であるかがわかった。
4.3.11 ほのかに物が見えるころに、お下りになったようである。
仮ごしらえだが、こざっぱりと設けてある。
物の形がほのぼの見えるころに家へはいった。
にわかな仕度ではあったが体裁よく座敷がこしらえてあった。
4.3.12
御供(おほんとも)(ひと)さぶらはざりけり
不便(ふびん)なるわざかな」とて、むつましき下家司(しもげいし)にて、殿(との)にも(つか)うまつる(もの)なりければ、(まゐ)りよりてさるべき人召(ひとめ)すべきにや」など、(まう)さすれど
「お供にどなたもお仕えいたしておりませんな。
不都合なことですな」と言って、親しい下家司で、大殿にも仕えている者だったので、参り寄って、「適当な人を、お呼びなさるべきではありませんか」などと、申し上げさせるが、
「だれというほどの人がお供しておらないなどとは、どうもいやはや」 などといって預かり役は始終出入りする源氏の下家司でもあったから、座敷の近くへ来て右近に、
 「御家司をどなたかお呼び寄せしたものでございましょうか」
 と取り次がせた。
4.3.13
ことさらに人来(ひとく)まじき(かく)家求(がもと)めたるなり。
さらに(こころ)よりほかに()らすな」と(くち)がためさせたまふ
「特に人の来ないような隠れ家を求めたのだ。
決して他人には言うな」と口封じさせなさる。
「わざわざだれにもわからない場所にここを選んだのだから、おまえ以外の者にはすべて秘密にしておいてくれ」
 と源氏は口留めをした。
4.3.14
御粥(おほんかゆ)など(いそ)(まゐ)らせたれど、()()(おほん)まかなひうち()はず。
まだ()らぬことなる御旅寝(おほんたびね)に、息長川(おきながかは)」と(ちぎ)りたまふことよりほかのことなし。
お粥などを準備して差し上げたが、取り次ぐお給仕が揃わない。
まだ経験のないご外泊に、「鳰鳥の息長川」よりもいついつまでもとお約束なさること以外ない。
さっそくに調えられた粥などが出た。給仕も食器も間に合わせを忍ぶよりほかはない。こんな経験を持たぬ源氏は、一切を切り放して気にかけぬこととして、恋人とはばからず語り合う愉楽に酔おうとした。
4.3.15
()たくるほどに()きたまひて格子手(かうして)づから()げたまふ。
いといたく()れて人目(ひとめ)もなくはるばると見渡(みわた)されて、木立(こだち)いとうとましくものふりたり。
(ぢか)草木(くさき)などは、ことに見所(みどころ)なく、みな(あき)()らにて(いけ)水草(みくさ)(うづ)もれたれば、いとけうとげになりにける(ところ)かな
別納(べちなふ)(かた)にぞ曹司(ざうし)などして、人住(ひとす)むべかめれどこなたは(はな)れたり。
日が高くなったころにお起きになって、格子を自らお上げになる。
とてもひどく荒れて、人影もなく広々と見渡されて、木立がとても気味悪く鬱蒼と古びている。
側近くの草木などは、格別見所もなく、すっかり秋の野原となって、池も水草に埋もれているので、まことに恐ろしくなってしまった所であるよ。
別納の方に、部屋などを設えて、人が住んでいるようだが、こちらは離れている。
源氏は昼ごろに起きて格子を自身で上げた。非常に荒れていて、人影などは見えずにはるばると遠くまでが見渡される。向こうのほうの木立ちは気味悪く古い大木に皆なっていた。近い値え込みの草や灌木などには美しい姿もない。秋の荒野の景色になっている。池も水草でうずめられた凄いものである。別れた棟のほうに部屋などを持って預かり役は住むらしいが、そことこことはよほど離れている。
4.3.16 「気味悪そうになってしまった所だね。
いくら何でも、鬼などもわたしならきっと見逃すだろう」とおっしゃる。
「気味悪い家になっている。でも鬼なんかだって私だけはどうともしなかろう」
と源氏は言った。
4.3.17
(かほ)はなほ(かく)したまへれど(をんな)のいとつらしと(おも)へれば、げに、かばかりにて(へだ)てあらむも、ことのさまに(たが)ひたり」と(おぼ)して、
お顔は依然として隠していらっしゃるが、女がとても辛いと思っているので、「なるほど、これ程深い仲になって隠しているようなのも、男女のあるべきさまと違っている」とお思いになって、
まだこの時までは顔を隠していたが、この態度を女が恨めしがっているのを知って、何たる錯誤だ、不都合なのは自分である、こんなに愛していながらと気がついた、
4.3.18 「夕べの露を待って花開いて顔をお見せするのは
道で出逢った縁からなのですよ
「夕露にひもとく花は玉鉾の
たよりに見えし縁こそありけれ
4.3.19 露の光はどうですか」
あなたの心あてにそれかと思うと言った時の人の顔を近くに見て幻滅が起こりませんか」
4.3.20 とおっしゃると、流し目に見やって、
と言う源氏の君を後目に女は見上げて、
4.3.21 「光輝いていると見ました夕顔の上露は
たそがれ時の見間違いでした」
光ありと見し夕顔のうは露は
黄昏時のそら目なりけり
4.3.22
とほのかに()ふ。
をかしと(おぼ)しなす
げに、うちとけたまへるさま、()になく、(ところ)からまいてゆゆしきまで()えたまふ
とかすかに言う。
おもしろいとお思いになる。
なるほど、うちとけていらっしゃるご様子は、またとなく、場所が場所ゆえ、いっそう不吉なまでにお美しくお見えになる。
と言った。冗談までも言う気になったのが源氏にはうれしかった。打ち解けた瞬間から源氏の美はあたりに放散した。古くさく荒れた家との対照はまして魅惑的だった。
4.3.23
()きせず(へだ)てたまへるつらさにあらはさじと(おも)ひつるものを
(いま)だに()のりしたまへ。
いとむくつけし」
「いつまでも隠していらっしゃる辛さに、顕すまいと思っていたが。
せめて今からでもお名乗り下さい。
とても気味が悪い」
「いつまでも真実のことを打ちあけてくれないのが恨めしくって、私もだれであるかを隠し通したのだが、負けた。もういいでしょう、名を言ってください、人間離れがあまりしすぎます」
4.3.24 とおっしゃるが、「海人の子なので」と言って、依然としてうちとけない態度は、とても甘え過ぎている。
と源氏が言っても、
 「家も何もない女ですもの」
 と言ってそこまではまだ打ち解けぬ様子も美しく感ぜられた。
4.3.25 「それでは、これも『われから』のようだ」と、怨みまた一方では睦まじく語り合いながら、一日お過ごしになる。
「しかたがない。私が悪いのだから」
 と怨んでみたり、永久の恋の誓いをし合ったりして時を送った。
4.3.26
惟光(これみつ)(たづ)ねきこえて、(おほん)くだものなど(まゐ)らす
右近(うこん)()はむこと、さすがにいとほしければ、(ちか)くもえさぶらひ()らず
かくまでたどり(あり)きたまふをかしう、さもありぬべきありさまにこそは」と()(はか)るにも、()がいとよく(おも)()りぬべかりしことを、(ゆづ)りきこえて、(こころ)ひろさよ」など、めざましう(おも)ひをる
惟光が、お探し申して、お菓子などを差し上げさせる。
右近が文句言うことは、やはり気の毒なので、お側に伺候することもできない。
「こんなにまでご執心でいられるのは、魅力的で、きっとそうに違いない様子なのだろう」と推量するにつけても、「自分がうまく言い寄ろうと思えばできたのを、お譲り申して、なんと寛大なことよ」などと、失敬なことを考えている。
惟光が源氏の居所を突きとめてきて、用意してきた菓子などを座敷へ持たせてよこした。これまで白ばくれていた態度を右近に恨まれるのがつらくて、近い所へは顔を見せない。惟光は源氏が人騒がせに居所を不明にして、一日を犠牲にするまで熱心になりうる相手の女は、それに価する者であるらしいと想像をして、当然自己のものになしうるはずの人を主君にゆずった自分は広量なものだと嫉妬に似た心で自嘲もし、羨望もしていた。
4.3.27
たとしへなく(しづ)かなる(ゆふ)べの(そら)(なが)めたまひて、(おく)(かた)(くら)うものむつかしと、(をんな)(おも)ひたれば、(はし)(すだれ)()げて、()()したまへり。
夕映(ゆふば)えを見交(みか)はして、(をんな)も、かかるありさまを、(おも)ひのほかにあやしき心地(ここち)はしながら、よろづの(なげ)(わす)れて、すこしうちとけゆく気色(けしき)いとらうたし。
つと(おほん)かたはらに()()らして、(もの)をいと(おそ)ろしと(おも)ひたるさま、(わか)心苦(こころぐる)し。
格子(かうし)とく()ろしたまひて、大殿油参(おほとなぶらまゐ)らせて、名残(なご)りなくなりにたる(おほん)ありさまにて、なほ(こころ)のうちの(へだ)(のこ)したまへるなむつらき」と、(うら)みたまふ。
譬えようもなく静かな夕方の空をお眺めになって、奥の方は暗く何となく気味が悪いと、女は思っているので、端の簾を上げて、添い臥していらっしゃる。
夕映えのお顔を互いに見交わして、女も、このような出来事を、意外に不思議な気持ちがする一方で、すべての嘆きを忘れて、少しずつ打ち解けていく様子は、実にかわいい。
ぴったりとお側に一日中添ったままで、何かをとても怖がっている様子は、子供っぽくいじらしい。
格子を早くお下ろしになって、大殿油を点灯させて、「すっかり深い仲となったご様子でいて、依然として心の中に隠し事をなさっているのが辛い」と、お恨みになる。
静かな静かな夕方の空をながめていて、奥のほうは暗くて気味が悪いと夕顔が思うふうなので、縁の簾を上げて夕映えの雲をいっしょに見て、女も源氏とただ二人で暮らしえた一日に、まだまったく落ち着かぬ恋の境地とはいえ、過去に知らない満足が得られたらしく、少しずつ打ち解けた様子が可憐であった。じっと源氏のそばへ寄って、この場所がこわくてならぬふうであるのがいかにも若々しい。格子を早くおろして灯をつけさせてからも、
 「私のほうにはもう何も秘密が残っていないのに、あなたはまだそうでないのだからいけない」
 などと源氏は恨みを言っていた。
4.3.28
内裏(うち)に、いかに(もと)めさせたまふらむをいづこに(たづ)ぬらむ」と、(おぼ)しやりて、かつは、「あやしの(こころ)
六条(ろくでう)わたりにもいかに(おも)(みだ)れたまふらむ
(うら)みられむに(くる)しう、ことわりなり」と、いとほしき(すぢ)は、まづ(おも)ひきこえたまふ。
何心(なにごころ)もなきさしむかひを、あはれと(おぼ)すままに、あまり心深(こころふか)()(ひと)(くる)しき(おほん)ありさまを、すこし()()てばや」と、(おも)(くら)べられたまひける
「主上には、どんなにかお探しあそばしているだろうから、人々はどこを探しているだろうか」と、思いをおはせになって、また一方では、「不思議な気持ちだ。
六条辺りでも、どんなにお思い悩んでいらっしゃることだろう。
怨まれることも、辛いことだし、もっともなことだ」と、おいたわしい方としては、まっさきにお思い出し申し上げなさる。
無心に向かい合って座っているのを、かわいいとお思いになるにつれて、「あまり思慮深く、対座する者までが息が詰るようなご様子を、少し取り除きたいものだ」と、ついご比較されるのであった。
陛下はきっと今日も自分をお召しになったに違いないが、捜す人たちはどう見当をつけてどこへ行っているだろう、などと想像をしながらも、これほどまでにこの女を溺愛している自分を源氏は不思議に思った。六条の貴女もどんなに煩悶をしていることだろう、恨まれるのは苦しいが恨むのは道理であると、恋人のことはこんな時にもまず気にかかった。無邪気に男を信じていっしょにいる女に愛を感じるとともに、あまりにまで高い自尊心にみずから煩わされている六条の貴女が思われて、少しその点を取り捨てたならと、眼前の人に比べて源氏は思うのであった。

第四段 夜半、もののけ現われる

4.4.1
宵過(よひす)ぐるほどすこし寝入(ねい)りたまへるに御枕上(おほんまくらがみ)に、いとをかしげなる(をんな)ゐて、
宵を過ぎるころ、少し寝入りなさった頃に、おん枕上に、とても美しそうな女が座って、
十時過ぎに少し寝入った源氏は枕の所に美しい女がすわっているのを見た。
4.4.2
(おの)がいとめでたしと()たてまつるをば、(たづ)(おも)ほさでかく、ことなることなき(ひと)()ておはして、(とき)めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
「わたしがあなたをとても素晴らしいとお慕い申し上げているそのわたしには、お訪ねもなさらず、このような、特に優れたところもない女を連れていらっしゃって、おかわいがりになさるのは、まことに癪にさわり辛い」
「私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、私を愛さないで、こんな平凡な人をつれていらっしって愛撫なさるのはあまりにひどい。恨めしい方」
4.4.3
とて、この(おほん)かたはらの(ひと)をかき()こさむとす、()たまふ
と言って、自分のお側の人を引き起こそうとしているる、と御覧になる。
と言って横にいる女に手をかけて起こそうとする。こんな光景を見た。
4.4.4
(もの)(おそ)はるる心地(ここち)して、おどろきたまへれば()()えにけり
うたて(おぼ)さるれば太刀(たち)()()きてうち()きたまひて、右近(うこん)()こしたまふ。
これも(おそ)ろしと(おも)ひたるさまにて、(まゐ)()れり
魔物に襲われる気持ちがして、目をお覚ましになると、火も消えていた。
気持ち悪くお思いになるので、太刀を引き抜いて、そっとお置きになって、右近をお起こしになる。
この人も怖がっている様子で、参り寄った。
苦しい襲われた気持ちになって、すぐ起きると、その時に灯が消えた。不気味なので、太刀を引き抜いて枕もとに置いて、それから右近を起こした。右近も恐ろしくてならぬというふうで近くへ出て来た。
4.4.5
渡殿(わたどの)なる宿直人起(とのゐびとお)こして、紙燭(しそく)さして(まゐ)れ』と()へ」とのたまへば、
「渡殿にいる宿直人を起こして、『紙燭をつけて参れ』と言いなさい」とおっしゃると、
「渡殿にいる宿直の人を起こして、蝋燭をつけて来るように言うがいい」
4.4.6 「どうして行けましょうか。
暗くて」と言うので、
「どうしてそんな所へまで参れるものでございますか、暗うて」
4.4.7
あな、若々(わかわか)」と、うち(わら)ひたまひて、()をたたきたまへば山彦(やまびこ)(こた)ふる(こゑ)いとうとまし。
(ひと)()きつけで(まゐ)らぬにこの女君(をんなぎみ)いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと(おも)へり
(あせ)もしとどになりて、(われ)かの気色(けしき)なり。
「ああ、子供みたいな」と、ちょっとお笑いになって、手をお叩きになると、こだまが応える音、まことに気味が悪い。
誰も聞きつけないで参上しないので、この女君は、ひどくふるえ脅えて、どうしてよいか分からなく思っている。
汗もびっしょりになって、正気を失った様子である。
「子供らしいじゃないか」
 笑って源氏が手をたたくとそれが反響になった。限りない気味悪さである。しかもその音を聞きつけて来る者はだれもない。夕顔は非常にこわがってふるえていて、どうすればいいだろうと思うふうである。汗をずっぷりとかいて、意識のありなしも疑わしい。
4.4.8
物怖(ものお)ぢをなむわりなくせさせたまふ本性(ほんじゃう)にて、いかに(おぼ)さるるにか」と、右近(うこん)()こゆ。
いとか(よわ)くて(ひる)(そら)をのみ()つるものをいとほし」と(おぼ)して、
「むやみにお怖がりあそばすご性質ですから、どんなにかお怖がりのことでしょうか」と、右近も申し上げる。
「ほんとうにか弱くて、昼も空ばかり見ていたものだな、気の毒に」とお思いになって、
「非常に物恐れをなさいます御性質ですから、どんなお気持ちがなさるのでございましょうか」
 と右近も言った。弱々しい人で今日の昼間も部屋の中を見まわすことができずに空をばかりながめていたのであるからと思うと、源氏はかわいそうでならなかった。
4.4.9
(われ)(ひと)()こさむ
()たたけば、山彦(やまびこ)(こた)ふるいとうるさし。
ここに、しばし、(ちか)く」
「わたしが、誰かを起こそう。
手を叩くと、こだまが応える、まことにうるさい。
こちらに、しばらくは、近くへ」
「私が行って人を起こそう。手をたたくと山彦がしてうるさくてならない。しばらくの間ここへ寄っていてくれ」
4.4.10
とて、右近(うこん)()()せたまひて、西(にし)妻戸(つまど)()でて()()()けたまへれば渡殿(わたどの)()()えにけり。
と言って、右近を引き寄せなさって、西の妻戸に出て、戸を押し開けなさると、渡殿の火も既に消えていた。
と言って、右近を寝床のほうへ引き寄せておいて、両側の妻戸のロヘ出て、戸を押しあけたのと同時に渡殿についていた灯も消えた。
4.4.11 風がわずかに吹いているうえに、人気も少なくて、仕えている者は皆寝ていた。
この院の管理人の子供で、親しくお使いになる若い男、それから殿上童一人と、いつもの随身だけがいるのであった。
お呼び寄せになると、お返事して起きたので、
風が少し吹いている。こんな夜に侍者は少なくて、しかもありたけの人は寝てしまっていた。院の預かり役の息子で、平生源氏が手もとで使っていた若い男、それから侍童が一人、例の随身、それだけが宿直をしていたのである。源氏が呼ぶと返辞をして起きて来た。
4.4.12
紙燭(しそく)さして(まゐ)
随身(ずいじん)も、弦打(つるうち)して、()えず(こわ)づくれ』と(おほ)せよ。
人離(ひとはな)れたる(ところ)に、(こころ)とけて()ぬるものか
惟光朝臣(これみつのあそん)()たりつらむは」と、()はせたまへば
「紙燭を点けて持って参れ。
『随身にも、弦打ちをして、絶えず音を立てていよ』と命じよ。
人気のない所に、気を許して寝ている者があるか。
惟光朝臣が来ていたようなのは」と、お尋ねあそばすと、
「蝋燭をつけて参れ。随身に弓の絃打ちをして絶えず声を出して魔性に備えるように命じてくれ。こんな寂しい所で安心をして寝ていていいわけはない。先刻惟光が来たと言っていたが、どうしたか」
4.4.13
さぶらひつれど(おほ)(ごと)もなし。
(あかつき)御迎(おほんむか)へに(まゐ)るべきよし(まう)してなむ、まかではべりぬる」と()こゆ。
この、かう(まう)(もの)は、滝口(たきぐち)なりければ弓弦(ゆづる)いとつきづきしくうち()らして()あやふし」と()()ふ、(あづか)りが曹司(ざうし)(かた)()ぬなり
内裏(うち)(おぼ)しやりて名対面(なだいめん)()ぎぬらむ、滝口(たきぐち)宿直奏(とのゐまう)(いま)こそ」と、()(はか)りたまふは、まだ、いたう()けぬにこそは
「控えていましたが、ご命令もない。
早暁にお迎えに参上すべき旨申して、帰ってしまいました」と申し上げる。
この、こう申す者は滝口の武士であったので、弓の弦をまことに手馴れた様子に打ち鳴らして、「火の用心」と言いながら、管理人の部屋の方角へ行ったようだ。
内裏をお思いやりになって、「名対面は過ぎたろう、滝口の宿直奏しは、ちょうど今ごろか」と、ご推量になるのは、まだ、さほど夜も更けていないのでは。
「参っておりましたが、御用事もないから、夜明けにお迎えに参ると申して帰りましてございます」
 こう源氏と問答をしたのは、御所の滝口に勤めている男であったから、専門家的に弓絃を鳴らして、
 「火危し、火危し」
 と言いながら、父である預かり役の住居のほうへ行った。源氏はこの時刻の御所を思った。殿上の宿直役人が姓名を奏上する名対面はもう終わっているだろう、滝口の武士の宿直の奏上があるころであると、こんなことを思ったところをみると、まだそう深更でなかったに違いない。
4.4.14
(かへ)()りて(さぐ)りたまへば、女君(をんなぎみ)はさながら()して、右近(うこん)はかたはらにうつぶし()したり。
戻って入って、お確かめになると、女君はそのままに臥していて、右近は傍らにうつ伏していた。
寝室へ帰って、暗がりの中を手で探ると夕顔はもとのままの姿で寝ていて、右近がそのそばで、うつ伏せになっていた。
4.4.15
こはなぞ
あな、もの(ぐる)ほしの物怖(ものお)ぢや
()れたる(ところ)は、(きつね)などやうのものの、(ひと)(おび)やかさむとて(おそ)ろしう(おも)はするならむ
まろあればさやうのものには(おど)されじ」とて、()()こしたまふ
「これはどうしたことか。
何と、
気違いじみた怖がりようだ。荒れた所には、狐などのようなものが、人を脅かそうと
して、怖がらせるのだろう。わたしがいるからには、そのようなものからは脅されない」と
「どうしたのだ。気違いじみたこわがりようだ。こんな荒れた家などというものは、狐などが人をおどしてこわがらせるのだよ。私がおればそんなものにおどかされはしないよ」
 と言って、源氏は右近を引き起こした。
4.4.16
いとうたて(みだ)心地(ごこち)()しうはべればうつぶし()してはべるや。
御前(おまへ)にこそわりなく(おぼ)さるらめ」と()へば、
「とても気味悪くて、取り乱している気分も悪うございますので、うつ伏しているのでございますよ。
ご主人さまこそ、
「とても気持ちが悪うございますので下を向いておりました。奥様はどんなお気持ちでいらっしゃいますことでしょう」
4.4.17
そよ。
などかうは」とて、かい(さぐ)りたまふに、(いき)もせず。
()(うご)かしたまへど、なよなよとして、(われ)にもあらぬさまなれば、いといたく(わか)びたる(ひと)にて、(もの)にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地(ここち)したまふ。
「そうだ。
どうしてこんなに」と言って、探って御覧になると、息もしていない。
揺すって御覧になるが、ぐったりとして、正体もない様子なので、「ほんとうにひどく子供じみた人なので、魔性のものに魅入られてしまったらしい」と、なすべき方法もない気がなさる。
「そうだ、なぜこんなにばかりして」
 と言って、手で探ると夕顔は息もしていない。動かしてみてもなよなよとして気を失っているふうであったから、若々しい弱い人であったから、何かの物怪にこうされているのであろうと思うと、源氏は歎息されるばかりであった。
4.4.18
紙燭持(しそくも)(まゐ)れり
右近(うこん)(うご)くべきさまにもあらねば(ちか)御几帳(みきちゃう)()()せて、
紙燭を持って参った。
右近も動ける状態でないので、近くの御几帳を引き寄せて、
蝋燭の明りが来た。右近には立って行くだけの力がありそうもないので、閨に近い几帳を引き寄せてから、
4.4.19 「もっと近くに持って参れ」
「もっとこちらへ持って来い」
4.4.20
とのたまふ。
(れい)ならぬことにて御前近(おまへちか)くもえ(まゐ)らぬ、つつましさに、長押(なげし)にもえ(のぼ)らず
とおっしゃる。
いつもと違ったことなので、御前近くに参上できず、ためらっていて、長押にも上がれない。
と源氏は言った。主君の寝室の中へはいるというまったくそんな不謹慎な行動をしたことがない滝口は座敷の上段になった所へもよう来ない。
4.4.21 「もっと近くに持って来なさい。場所によるぞ」
「もっと近くへ持って来ないか。どんなことも場所によることだ」
4.4.22 と言って、召し寄せて御覧になると、ちょうどこの枕上に、夢に現れた姿をしている女が、幻影のように現れて、ふっと消え失せた。
灯を近くへ取って見ると、この閨の枕の近くに源氏が夢で見たとおりの容貌をした女が見えて、そしてすっと消えてしまった。
4.4.23
(むかし)物語(ものがたり)などにこそかかることは()」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「この(ひと)いかになりぬるぞ」と(おも)ほす心騒(こころさわ)ぎに、()(うへ)()られたまはず()()して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ()えに()()りて、(いき)()()()てにけり。
()はむかたなし。
(たの)もしく、いかにと()()れたまふべき(ひと)もなし。
法師(ほふし)などをこそは、かかる(かた)(たの)もしきものには(おぼ)すべけれど
さこそ(つよ)がりたまへど(わか)御心(みこころ)にて、いふかひなくなりぬるを()たまふに、やるかたなくて、つと(いだ)きて、
「昔の物語などに、このようなことは聞くけれど」と、まことに珍しく気味悪いが、まず、「この女はどのようになったのか」とお思いになる不安に、わが身の上の危険もお顧みにならず、添い臥して、「もし、もし」と、お起こしになるが、すっかりもう冷たくなっていて、息はとっくにこと切れてしまっていたのであった。
どうすることもできない。
頼りになる、どうしたらよいかとご相談できるような方もいない。
法師などは、このような時の頼みになる人とはお思いになるが。
それほどお強がりになるが、お若い考えで、空しく死んでしまったのを御覧になると、どうしようもなくて、ひしと抱いて、
昔の小説などにはこんなことも書いてあるが、実際にあるとはと思うと源氏は恐ろしくてならないが、恋人はどうなったかという不安が先に立って、自身がどうされるだろうかという恐れはそれほどなくて横へ寝て、
 「ちょいと」
 と言って不気味な眠りからさまさせようとするが、夕顔のからだは冷えはてていて、息はまったく絶えているのである。頼りにできる相談相手もない。坊様などはこんな時のカになるものであるがそんな人もむろんここにはいない。右近に対して強がって何かと言った源氏であったが、若いこの人は、恋人の死んだのを見ると分別も何もなくなって、じっと抱いて、
4.4.24
あが(きみ)()()でたまへ。
いといみじき()()せたまひそ
「おまえさま、生き返っておくれ。
とても悲しい目に遭わせないでおくれ」
「あなた。生きてください。悲しい目を私に見せないで」
4.4.25 とおっしゃるが、冷たくなっていたので、感じも気味悪くなって行く。
と言っていたが、恋人のからだはますます冷たくて、すでに人ではなく遺骸であるという感じが強くなっていく。
4.4.26
右近(うこん)は、ただ「あな、むつかし」と(おも)ひける心地(ここち)みな()めて、()(まど)ふさまいといみじ。
右近は、ただ「ああ、気味悪い」と思っていた気持ちもすっかり冷めて、泣いて取り乱す様子はまことに大変である。
右近はもう恐怖心も消えて夕顔の死を知って非常に泣く。
4.4.27 南殿の鬼が、某大臣を脅かした例をお思い出しになって、気強く、
紫宸殿に出て来た鬼は貞信公を威嚇したが、その人の威に押されて逃げた例などを思い出して、源氏はしいて強くなろうとした。
4.4.28
さりともいたづらになり()てたまはじ
(よる)(こゑ)はおどろおどろし。
あなかま
「いくら何でも、死にはなさるまい。
夜の声は大げさだ。
静かに」
「それでもこのまま死んでしまうことはないだろう。夜というものは声を大きく響かせるから、そんなに泣かないで」
4.4.29
(いさ)めたまひていとあわたたしきにあきれたる心地(ここち)したまふ。
とお諌めになって、まったく突然の事なので、茫然とした気持ちでいらっしゃる。
と源氏は右近に注意しながらも、恋人との歓会がたちまちにこうなったことを思うと呆然となるばかりであった。
4.4.30 先ほどの男を呼び寄せて、
滝口を呼んで、
4.4.31
ここに、いとあやしう(もの)(おそ)はれたる(ひと)のなやましげなるをただ(いま)惟光朝臣(これみつのあそん)宿(やど)(ところ)にまかりて(いそ)(まゐ)るべきよし()へ、(おほ)せよ
なにがし阿闍梨(あざり)そこにものするほどならば、ここに()べきよし、(しの)びて()へ。
かの尼君(あまぎみ)などの()かむにおどろおどろしく()ふな。
かかる(あり)(ゆる)さぬ(ひと)なり」
「ここに、まことに不思議に、魔性のものに魅入られた人が苦しそうなので、今すぐに、惟光朝臣の泊まっている家に行って、急いで参上するように言え、と命じなさい。
某阿闍梨が、そこに居合わせていたら、ここに来るよう、こっそりと言いなさい。
あの尼君などが聞こうから、大げさに言うな。
このような忍び歩きは許さない人だ」
「ここに、急に何かに襲われた人があって、苦しんでいるから、すぐに惟光朝臣の泊まっている家に行って、早く来るように言えとだれかに命じてくれ。兄の阿闍梨がそこに来ているのだったら、それもいっしょに来るようにと惟光に言わせるのだ。母親の尼さんなどが聞いて気にかけるから、たいそうには言わせないように。あれは私の忍び歩きなどをやかましく言って止める人だ」
4.4.32
など、(もの)のたまふやうなれど、胸塞(むねふた)がりてこの(ひと)(むな)しくしなしてむことのいみじく(おぼ)さるるに()へて大方(おほかた)のむくむくしさ、たとへむ(かた)なし。
などと、用件をおっしゃるようだが、胸が一杯で、この人を死なせてしまったらどうまるのかがたまらなくお思いになるのに加えて、辺りの不気味さは、譬えようもない。
こんなふうに順序を立ててものを言いながらも、胸は詰まるようで、恋人を死なせることの悲しさがたまらないものに思われるのといっしょに、あたりの不気味さがひしひしと感ぜられるのであった。
4.4.33
夜中(よなか)()ぎにけむかし(かぜ)のやや荒々(あらあら)しう()きたるは。
まして、(まつ)(ひび)木深(こぶか)()こえて、気色(けしき)ある(とり)のから(ごゑ)()きたるも、(ふくろふ)」はこれにやとおぼゆ。
うち(おも)ひめぐらすにこなたかなた、けどほく(うと)ましきに人声(ひとごゑ)はせずなどて、かくはかなき宿(やど)りは()りつるぞ」と、(くや)しさもやらむ(かた)なし。
夜中も過ぎたのだろうよ、風がやや荒々しく吹いているのは。
その上に、松風の響きが、木深く聞こえて、異様な鳥がしわがれ声で鳴いているのも、「梟」と言う鳥はこのことかと思われる。
あれこれと考え廻らすと、あちらこちらと、何となく遠く気味悪いうえに、人声はせず、「どうして、このような心細い外泊をしてしまったのだろう」と、後悔してもしようがない。
もう夜中過ぎになっているらしい。風がさっきより強くなってきて、それに鳴る松の枝の音は、それらの大木に深く囲まれた寂しく古い院であることを思わせ、一風変わった鳥がかれ声で鳴き出すのを、梟とはこれであろうかと思われた。考えてみるとどこへも遠く離れて人声もしないこんな寂しい所へなぜ自分は泊まりに来たのであろうと、源氏は後悔の念もしきりに起こる。
4.4.34
右近(うこん)は、(もの)もおぼえず、(きみ)につと()ひたてまつりて、わななき()ぬべし
また、これもいかならむ」と、(こころ)そらにて(とら)へたまへり。
我一人(われひとり)さかしき(ひと)にて、(おぼ)しやる(かた)ぞなきや
右近は、何も考えられず、源氏の君にぴったりと寄り添い申して、震え死にそうである。
「また、この人もどうなるのだろうか」と、気も上の空で掴まえていらっしゃる。
自分一人がしっかりした人で、途方に暮れていらっしゃるのであったよ。
右近は夢中になって夕顔のそばへ寄り、このまま慄え死にをするのでないかと思われた。それがまた心配で、源氏は一所懸命に右近をつかまえていた。一人は死に、一人はこうした正体もないふうで、自身一人だけが普通の人間なのであると思うと源氏はたまらない気がした。
4.4.35
()はほのかにまたたきて、母屋(もや)(きは)()てたる屏風(びゃうぶ)(かみ)ここかしこの隈々(くまぐま)しくおぼえたまふに(もの)足音(あしおと)ひしひしと()()らしつつ、(うし)ろより()()心地(ここち)す。
惟光(これみつ)とく(まゐ)らなむ」と(おぼ)す。
ありか(さだ)めぬ(もの)にてここかしこ(たづ)ねけるほどに、()()くるほどの(ひさ)しさは、千夜(ちよ)()ぐさむ心地(ここち)したまふ。
灯火は微かにちらちらとして、母屋の境に立ててある屏風の上が、あちらこちらと陰って見えなさるうえに、魔性の物の足音が、みしみしと踏み鳴らしながら、後方から近寄って来る気がする。
「惟光よ、早く来て欲しい」とお思いになる。
居場所が定まらぬ者なので、あちこち探したうちに、夜の明けるまでの待ち遠しさは、千夜を過すような気がなさる。
灯はほのかに瞬いて、中央の室との仕切りの所に立てた屏風の上とか、室の中の隅々とか、暗いところの見えるここへ、後ろからひしひしと足音をさせて何かが寄って来る気がしてならない、惟光が早く来てくれればよいとばかり源氏は思った。彼は泊まり歩く家を幾軒も持った男であったから、使いはあちらこちらと尋ねまわっているうちに夜がぼつぼつ明けてきた。この間の長さは千夜にもあたるように源氏には思われたのである。
4.4.36
からうして(とり)(こゑ)はるかに()こゆるに、(いのち)をかけて(なに)(ちぎ)りに、かかる()()るらむ
()(こころ)ながら、かかる(すぢ)に、おほけなくあるまじき(こころ)(むく)いにかく、()方行(かたゆ)(さき)(ためし)なりぬべきことはあるなめり
(しの)ぶとも、()にあること(かく)れなくて、内裏(うち)()こし()さむをはじめて、(ひと)(おも)()はむこと、よからぬ(わらは)べの(くち)ずさびになるべきなめり
ありありて、をこがましき()をとるべきかな」と、(おぼ)しめぐらす。
ようやくのことで、鶏の声が遠くで聞こえるにつけ、「危険を冒して、何の因縁で、このような辛い目に遭うのだあろう。
我ながら、このようなことで、大それたあってはならない恋心の報復として、このような、後にも先にも語り草となってしまいそうなことが起こったのだろう。
隠していても、実際に起こった事は隠しきれず、主上のお耳に入るだろうことを始めとして、世人が推量し噂するだろうことは、良くない京童べの噂になりそうだ。
あげくのはて、馬鹿者の評判を立てられるにちがいないなあ」と、ご思案される。
やっとはるかな所で鳴く鶏の声がしてきたのを聞いて、ほっとした源氏は、こんな危険な目にどうして自分はあうのだろう、自分の心ではあるが恋愛についてはもったいない、思うべからざる人を思った報いに、こんな後にも前にもない例となるようなみじめな目にあうのであろう、隠してもあった事実はすぐに噂になるであろう、陛下の思召しをはじめとして人が何と批評することだろう、世間の嘲笑が自分の上に集まることであろう、とうとうついにこんなことで自分は名誉を傷つけるのだなと源氏は思っていた。

第五段 源氏、二条院に帰る

4.5.1
からうして惟光朝臣参(これみつのあそんまゐ)れり。
夜中(よなか)(あかつき)といはず、御心(みこころ)(したが)へる(もの)今宵(こよひ)しもさぶらはで、()しにさへおこたりつるを(にく)しと(おぼ)すものから()()れて、のたまひ()でむことのあへなきに、ふとも物言(ものい)はれたまはず
右近(うこん)大夫(たいふ)のけはひ()くに(はじ)めよりのこと、うち(おも)()でられて()くを(きみ)もえ()へたまはで我一人(われひとり)さかしがり(いだ)()たまへりけるにこの(ひと)(いき)をのべたまひてぞ(かな)しきことも(おぼ)されける、とばかり、いといたく、えもとどめず()きたまふ
ようやくのことで、惟光朝臣が参上した。
夜中、早朝の区別なく、御意のままに従う者が、今夜に限って控えていなくて、お呼び出しにまで遅れて参ったのを、憎らしいとお思いになるものの、呼び入れて、おっしゃろうとする内容があっけないので、すぐには何もおっしゃれない。
右近は、大夫の様子を聞くと、初めからのことが、つい思い出されて泣くと、源氏の君も我慢がおできになれず、自分一人気丈夫に抱いていらっしゃったところ、この人を見てほっとなさって、悲しい気持ちにおなりになるのであったが、しばらくは、まことに大変にとめどもなくお泣きになる。
やっと惟光が出て来た。夜中でも暁でも源氏の意のままに従って歩いた男が、今夜に限ってそばにおらず、呼びにやってもすぐの間に合わず、時間のおくれたことを源氏は憎みながらも寝室へ呼んだ。孤独の悲しみを救う手は惟光にだけあることを源氏は知っている。惟光をそばへ呼んだが、自分が今言わねばならぬことがあまりにも悲しいものであることを思うと、急には言葉が出ない。右近は隣家の惟光が来た気配に、亡き夫人と源氏との交渉の最初の時から今日までが連続的に思い出されて泣いていた。源氏も今までは自身一人が強い人になって右近を抱きかかえていたのであったが、惟光の来たのにほっとすると同時に、はじめて心の底から大きい悲しみが湧き上がってきた。非常に泣いたのちに源氏は躊躇しながら言い出した。
4.5.2
ややためらひて、ここに、いとあやしきことのあるを、あさましと()ふにもあまりてなむある。
かかるとみの(こと)には、誦経(ずきゃう)などをこそはすなれとてその(こと)どももせさせむ
(がん)なども()てさせむとて、阿闍梨(あざり)ものせよ、()ひつるは」とのたまふに、
やっと気持ちを落ち着けて、「ここで、まことに奇妙な事件が起こったが、驚くと言っても言いようのないほどだ。
このような危急のことには、誦経などをすると言うので、その手配をさせよう。
願文なども立てさせようと思って、阿闍梨に来るようにと、言ってやったのは」とおっしゃると、
「奇怪なことが起こったのだ。驚くという言葉では現わせないような驚きをさせられた。人のからだにこんな急変があったりする時には、僧家へ物を贈って読経をしてもらうものだそうだから、それをさせよう、願を立てさせようと思って阿闍梨も来てくれと言ってやったのだが、どうした」
4.5.3 「昨日、帰山してしまいました。
それにしても、
まことに奇
「昨日叡山へ帰りましたのでございます。まあ何ということでございましょう、奇怪なことでございます。前から少しはおからだが悪かったのでございますか」
4.5.4
さることもなかりつ」とて、()きたまふさま、いとをかしげにらうたく、()たてまつる(ひと)いと(かな)しくて、おのれもよよと()きぬ
「そのようなこともなかった」と言って、お泣きになる様子、とても優美でいたわしく、拝見する人もほんとうに悲しくて、自分もおいおいと泣いた。
「そんなこともなかった」
 と言って泣く源氏の様子に、惟光も感動させられて、この人までが声を立てて泣き出した。
4.5.5
さいへど(とし)うちねび()(なか)のとあることと、しほじみぬる(ひと)こそ、もののをりふしは(たの)もしかりけれいづれもいづれも(わか)きどちにて、()はむ(かた)もなけれど、
そうは言っても、年も相当とり、世の中のあれやこれやと、経験を積んだ人は、非常の時には頼もしいのであるが、どちらもどちらも若者同士で、どうしようもないが、
老人はめんどうなものとされているが、こんな場合には、年を取っていて世の中のいろいろな経験を持っている人が頼もしいのである。源氏も右近も惟光も皆若かった。どう処置をしていいのか手が出ないのであったが、やっと惟光が、
4.5.6
この院守(ゐんもり)などに()かせむことはいと便(びん)なかるべし。
この人一人(ひとひとり)こそ(むつま)しくもあらめ、おのづから(ものい)()らしつべき眷属(けんぞく)()ちまじりたらむ。
まづ、この(ゐん)()でおはしましね」と()ふ。
「この院の管理人などに聞かせるようなことは、まことに不都合なことでしょう。
この管理人一人は親密であっても、自然と口をすべらしてしまう身内も中にはいることでしょう。
まずは、この院をお出なさいましね」と言う。
「この院の留守役などに真相を知らせることはよくございません。当人だけは信用ができましても、秘密の洩れやすい家族を持っていましょうから。ともかくもここを出ていらっしゃいませ」
 と言った。
4.5.7
さて、これより人少(ひとずく)ななる(ところ)いかでかあらむ」とのたまふ。
「ところで、ここより人少なな所がどうしてあろうか」とおっしゃる。
「でもここ以上に人の少ない場所はほかにないじゃないか」
4.5.8
げに、さぞはべらむ
かの故里(ふるさと)女房(にょうばう)などの、(かな)しびに()へず、()(まど)ひはべらむに(となり)しげく、とがむる里人多(さとびとおほ)くはべらむに、おのづから()こえはべらむを山寺(やまでら)こそ、なほかやうのこと、おのづから()きまじり、物紛(ものまぎ)るることはべらめ」と、(おも)ひまはして、
「なるほど、そうでございましょう。
あの元の家は、女房などが、悲しみに耐えられず、泣き取り乱すでしょうし、隣家が多く、見咎める住人も多くございましょうから、自然と噂が立ちましょうが、山寺は、何と言ってもこのようなことも、自然ありがちで、目立たないことでございましょう」と言って、思案して、
「それはそうでございます。あの五条の家は女房などが悲しがって大騒ぎをするでしょう、多い小家の近所隣へそんな声が聞こえますとたちまち世間へ知れてしまいます、山寺と申すものはこうした死人などを取り扱い馴れておりましょうから、人目を紛らすのには都合がよいように思われます」
 考えるふうだった惟光は、
4.5.9
(むかし)()たまへし女房(にょうばう)(あま)にてはべる東山(ひんがしやま)(あたり)に、(うつ)したてまつらむ。
惟光(これみつ)(ちち)朝臣(あそん)乳母(めのと)にはべりし(もの)みづはぐみて()みはべるなり
(あた)りは、(ひと)しげきやうにはべれど、いとかごかにはべり
「昔、親しくしておりました女房で、尼になって住んでおります東山の辺に、お移し申し上げましょう。
惟光めの父朝臣の乳母でございました者が、年老いて住んでいるのです。
周囲は、人が多いようでございますが、とても閑静でございます」
「昔知っております女房が尼になって住んでいる家が東山にございますから、そこへお移しいたしましょう。私の父の乳母をしておりまして、今は老人になっている者の家でございます。東山ですから人がたくさん行く所のようではございますが、そこだけは閑静です」
4.5.10
()こえて、()けはなるるほどの(まぎ)れに御車寄(みくるまよ)す。
と申し上げて、夜がすっかり明けるころの騒がしさに紛れて、お車を寄せる。
と言って、夜と朝の入り替わる時刻の明暗の紛れに車を縁側へ寄せさせた。
4.5.11
この(ひと)(いだ)きたまふまじければ上蓆(うはむしろ)におしくくみて惟光乗(これみつの)せたてまつる。
いとささやかにて、(うと)ましげもなく、らうたげなり。
したたかにしもえせねば(かみ)はこぼれ()でたるも、()くれ(まど)ひて、あさましう(かな)(おぼ)せば、なり()てむさまを()(おぼ)せど、
この女をお抱きになれそうもないので、上筵に包んで、惟光がお乗せ申す。
とても小柄で、気味悪くもなく、かわいらしげである。
しっかりとしたさまにもくるめないので、髪の毛がこぼれ出ているのを見るにつけ、目の前が真っ暗になって、何とも悲しい、とお思いになると、最後の様子を見届けたい、とお思いになるが、
源氏自身が遺骸を車へ載せることは無理らしかったから、茣蓙に巻いて惟光が車へ載せた。小柄な人の死骸からは悪感は受けないできわめて美しいものに思われた。残酷に思われるような扱い方を遠慮して、確かにも巻かなんだから、茣蓙の横から髪が少しこぼれていた。それを見た源氏は目がくらむような悲しみを覚えて煙になる最後までも自分がついていたいという気になったのであるが、
4.5.12
はや、御馬(おほんむま)にて二条院(にでうのゐん)おはしまさむ
人騒(ひとさわ)がしくなりはべらぬほどに」
「早く、お馬で、二条院へお帰りあそばすのがよいでしょう。
人騒がしくなりませぬうちに」
「あなた様はさっそく二条の院へお帰りなさいませ。世間の者が起き出しませんうちに」
4.5.13 と言って、右近を添えて乗せると、徒歩で、源氏の君に馬はお譲り申して、裾を括り上げなどをして、かつ一方では、とても変で、奇妙な野辺送りだが、君のお悲しみの深いことを拝見すると、自分のことは考えずに行くが、源氏の君は何もお考えになれず、茫然自失の態で、お帰りになった。
と惟光は言って、遺骸には右近を添えて乗せた。自身の馬を源氏に提供して、自身は徒歩で、袴のくくりを上げたりして出かけたのであった。ずいぶん迷惑な役のようにも思われたが、悲しんでいる源氏を見ては、自分のことなどはどうでもよいという気に惟光はなったのである。
 源氏は無我夢中で二条の院へ着いた。
4.5.14
(ひと)びといづこより、おはしますにか
なやましげに()えさせたまふ」など()へど、御帳(みちゃう)(うち)()りたまひて、(むね)をおさへて(おも)ふにいといみじければ、などて()()ひて()かざりつらむ
()(かへ)りたらむ(とき)いかなる心地(ここち)せむ
見捨(みす)てて()きあかれにけりと、つらくや(おも)はむ」と、心惑(こころまど)ひのなかにも、(おも)ほすに、御胸(おほんむね)せきあぐる心地(ここち)したまふ。
御頭(みぐし)(いた)く、()(あつ)心地(ここち)して、いと(くる)しく、(まど)はれたまへばかくはかなくて(われ)もいたづらになりぬるなめり」と(おぼ)す。
女房たちは、「どこから、お帰りあそばしましたのか。
ご気分が悪そうにお見えあそばします」などと言うが、御帳台の内側にお入りになって、胸を押さえて思うと、まことに悲しいので、「どうして、一緒に乗って行かなかったのだろうか。
もし生き返った場合、どのような気がするだろう。
見捨てて行ってしまったと、辛く思うであろうか」と、気が動転しているうちにも、お思いやると、お胸のせき上げてくる気がなさる。
お頭も痛く、身体も熱っぽい感じがして、とても苦しく、どうしてよいやら分からない気がなさるので、「こう元気がなくて、自分も死んでしまうのかも知れない」とお思いになる。
女房たちが、
 「どちらからのお帰りなんでしょう。御気分がお悪いようですよ」
 などと言っているのを知っていたが、そのまま寝室へはいって、そして胸をおさえて考えてみると自身が今経験していることは非常な悲しいことであるということがわかった。なぜ自分はあの車に乗って行かなかったのだろう、もし蘇生することがあったらあの人はどう思うだろう、見捨てて行ってしまったと恨めしく思わないだろうか、こんなことを思うと胸がせき上がってくるようで、頭も痛く、からだには発熱も感ぜられて苦しい。こうして自分も死んでしまうのであろうと思われるのである。
4.5.15
日高(ひたか)くなれど、()()がりたまはねば、(ひと)びとあやしがりて、御粥(おほんかゆ)などそそのかしきこゆれど、(くる)しくて、いと心細(こころぼそ)(おぼ)さるるに内裏(うち)より御使(おほんつかひ)あり。
昨日(きのふ)(たづ)()でたてまつらざりしよりおぼつかながらせたまふ
大殿(おほとの)君達参(きんだちまゐ)りたまへど、頭中将(とうのちゅうじゃう)ばかりを、()ちながら、こなたに()りたまへ」とのたまひて、御簾(みす)(うち)ながらのたまふ。
日は高くなったが、起き上がりなさらないので、女房たちは不思議に思って、お粥などをお勧め申し上げるが、気分が悪くて、とても気弱くお思いになっているところに、内裏からお使者が来る。
昨日、お探し申し上げられなかったことで、御心配あそばしていらっしゃる。
大殿の公達が参上なさったが、頭中将だけを、「立ったままで、ここにお入り下さい」とおっしゃって、御簾の内側のままでお話しなさる。
八時ごろになっても源氏が起きぬので、女房たちは心配をしだして、朝の食事を寝室の主人へ勧めてみたが無駄だった。源氏は苦しくて、そして生命の危険が迫ってくるような心細さを覚えていると、宮中のお使いが来た。帝は昨日もお召しになった源氏を御覧になれなかったことで御心配をあそばされるのであった。左大臣家の子息たちも訪問して来たがそのうちの頭中将にだけ、
 「お立ちになったままでちょっとこちらへ」
 と言わせて、源氏は招いた友と御簾を隔てて対した。
4.5.16
乳母(めのと)にてはべる(もの)この五月(ごがち)のころほひより、(おも)わづらひはべりしが頭剃(かしらそ)()むこと()けなどして、そのしるしにや、よみがへりたりしを、このごろまたおこりて、(よわ)くなむなりにたる今一度(いまひとたび)とぶらひ()よ』と(まう)したりしかばいときなきよりなづさひし(もの)の、(いま)はのきざみに、つらしとや(おも)はむ、(おも)うたまへてまかれりしに
「乳母でございます者で、この五月のころから、重く患っておりました者が、髪を切り受戒などをして、その甲斐があってか、生き返っていましたが、最近、再発して、弱くなっていますのが、『今一度、見舞ってくれ』と申していたので、幼いころから馴染んだ人が、今はの際に、薄情なと思うだろうと、存じて参っていたところ、
「私の乳母の、この五月ごろから大病をしていました者が、尼になったりなどしたものですから、その効験でか一時快くなっていましたが、またこのごろ悪くなりまして、生前にもう一度だけ訪問をしてくれなどと言ってきているので、小さい時から世話になった者に、最後に恨めしく思わせるのは残酷だと思って、訪問しました
4.5.17 その家にいた下人で、病気していた者が、急に暇をとる間もなく亡くなってしまったのを、恐れ遠慮して、日が暮れてから運び出したのを、聞きつけましたので、神事のあるころで、まことに不都合なこと、と存じ謹慎して、参内できないのです。
この早朝から、風邪でしょうか、頭がとても痛くて苦しうございますので、大変失礼したまま申し上げます次第」
ところがその家の召使の男が前から病気をしていて、私のいるうちに亡くなったのです。恐縮して私に隠して夜になってからそっと遺骸を外へ運び出したということを私は気がついたのです。御所では神事に関した御用の多い時期ですから、そうした穢れに触れた者は御遠慮すべきであると思って謹慎をしているのです。それに今朝方からなんだか風邪にかかったのですか、頭痛がして苦しいものですからこんなふうで失礼します」
4.5.18
などのたまふ。
中将(ちゅうじゃう)
などとおっしゃる。
頭中将は、
などと源氏は言うのであった。中将は、
4.5.19 「それでは、そのような旨を奏上しましょう。
昨夜も、管弦の御遊の折に、畏れ多くもお探し申しあそばされて、御機嫌お悪うございました」と申し上げなさって、また引き返して、「どのような穢れにご遭遇あそばしたのですか。
ご説明なされたことは、本当とは存じられません」
「ではそのように奏上しておきましょう。昨夜も音楽のありました時に、御自身でお指図をなさいましてあちこちとあなたをお捜させになったのですが、おいでにならなかったので、御機嫌がよろしくありませんでした」
4.5.20 と言うので、胸がどきりとなさって、
と言って、帰ろうとしたがまた帰って来て、
4.5.21
かく、こまかにはあらでただ、おぼえぬ(けが)らひに()れたるよしを、(そう)したまへ。
いとこそたいだいしくはべれ
「このように、詳しくではなく、ただ、思いがけない穢れに触れた由を、奏上なさって下さい。
まったく不都合なことでございます」
「ねえ、どんな穢れにおあいになったのですか、さっきから伺ったのはどうもほんとうとは思われない」
4.5.22
と、つれなくのたまへど、(こころ)のうちには、()ふかひなく(かな)しきことを(おぼ)すに、御心地(みここち)(なや)ましければ、(ひと)()見合(みあは)せたまはず。
蔵人弁(くらうどのべん)()()せて、まめやかにかかるよし(そう)せさせたまふ
大殿(おほとの)などにもかかることありて、(まゐ)らぬ御消息(おほんせうそこ)など()こえたまふ。
と、さりげなくおっしゃるが、心中は、どうしようもなく悲しい事とお思いになるにつけ、ご気分もすぐれないので、誰ともお顔を合わせなさらない。
蔵人の弁を呼び寄せて、きまじめにその旨を奏上させなさる。
大殿などにも、これこれの事情があって、参上できないお手紙などを差し上げなさる。
と、頭中将から言われた源氏ははっとした。
 「今お話ししたようにこまかにではなく、ただ思いがけぬ穢れにあいましたと申し上げてください。こんなので今日は失礼します」
 素知らず顔には言っていても、心にはまた愛人の死が浮かんできて、源氏は気分も非常に悪くなった。だれの顔も見るのが物憂かった。お使いの蔵人の弁を呼んで、またこまごまと頭中将に語ったような行触れの事情を帝へ取り次いでもらった。左大臣家のほうへもそんなことで行かれぬという手紙が行ったのである。

第六段 十七日夜、夕顔の葬送

4.6.1 日が暮れて、惟光が参上した。
これこれの穢れがあるとおっしゃったので、お見舞いの人々も、皆立ったままで退出するので、人目は多くない。
呼び寄せて、
日が暮れてから惟光が来た。行触れの件を発表したので、二条の院への来訪者は皆庭から取り次ぎをもって用事を申し入れて帰って行くので、めんどうな人はだれも源氏の居間にいなかった。惟光を見て源氏は、
4.6.2 「どうであったか。
もうだめだと見えてしまったか」
「どうだった、だめだったか」
4.6.3
のたまふままに(そで)御顔(おほんかほ)()しあてて()きたまふ。
惟光(これみつ)()()く、
とおっしゃると同時に、袖をお顔に押し当ててお泣きになる。
惟光も泣きながら、
と言うと同時に袖を顔へ当てて泣いた。惟光も泣く泣く言う、
4.6.4 「もはやご最期のようでいらっしゃいます。
いつまでも一緒に籠っておりますのも不都合なので、明日は、日柄がよろしうございますので、あれこれ葬儀のことを、大変に尊い老僧で、知っております者に、連絡をつけました」と申し上げる。
「もう確かにお亡れになったのでございます。いつまでお置きしてもよくないことでございますから、それにちょうど明日は葬式によい日でしたから、式のことなどを私の尊敬する老僧がありまして、それとよく相談をして頼んでまいりました」
4.6.5 「付き添っていた女はどうしたか」とおっしゃると、
「いっしょに行った女は」
4.6.6 「その者も、同様に、生きられそうにございませんようです。
自分も死にたいと取り乱しまして、今朝は谷に飛び込みそうになったのを拝見しました。
『あの前に住んでいた家の人に知らせよう』と申しますが、『今しばらく、落ち着きなさい、と。
事情をよく考えてからに』と、宥めておきました」
「それがまたあまりに悲しがりまして、生きていられないというふうなので、今朝は渓へ飛び込むのでないかと心配されました。五条の家へ使いを出すというのですが、よく落ち着いてからにしなければいけないと申して、とにかく止めてまいりました」
4.6.7 と、ご報告申すにつれて、とても悲しくお思いになって、
惟光の報告を聞いているうちに、源氏は前よりもいっそう悲しくなった。
4.6.8 「わたしも、とても気分が悪くて、どうなってしまうのであろうかと思われる」とおっしゃる。
「私も病気になったようで、死ぬのじゃないかと思う」
 と言った。
4.6.9 「何を、この上くよくよお考えあそばしますか。
そうなる運命に、万事決まっていたのでございましょう。
誰にも聞かせまいと存じますので、惟光めが身を入れて、万事始末いたします」などと申す。
「そんなふうにまでお悲しみになるのでございますか、よろしくございません。皆運命でございます。どうかして秘密のうちに処置をしたいと思いまして、私も自身でどんなこともしているのでございますよ」
4.6.10 「そうだ。
そのように何事も思ってはみるが、いい加減な遊び心から、人を死なせてしまった非難を受けねばならないのが、まことに辛いのだ。
少将命婦などにも聞かせるな。
尼君はましてこのようなことなど、お叱りになるから、恥ずかしい気がしよう」と、口封じなさる。
「そうだ、運命に違いない。私もそう思うが軽率な恋愛漁りから、人を死なせてしまったという責任を感じるのだ。君の妹の少将の命婦などにも言うなよ。尼君なんかはまたいつもああいったふうのことをよくないよくないと小言に言うほうだから、聞かれては恥ずかしくてならない」
4.6.11 「その他の法師たちなどにも、すべて、説明は別々にしてございます」
「山の坊さんたちにもまるで話を変えてしてございます」
4.6.12 と申し上げるので、頼りになさっている。
と惟光が言うので源氏は安心したようである。
4.6.13
ほの()女房(にょうばう)などあやしく(なに)ごとならむ、(けが)らひのよしのたまひて、内裏(うち)にも(まゐ)りたまはず、また、かくささめき(なげ)きたまふ」と、ほのぼのあやしがる。
わずかに会話を聞く女房などは、「変だわ、何事だろうか、穢れに触れた旨をおっしゃって、宮中へも参内なさらず、また、このようにひそひそと話して嘆いていらっしゃる」と、ぼんやり不思議がる。
主従がひそひそ話をしているのを見た女房などは、
 「どうも不思議ですね、行触れだとお言いになって参内もなさらないし、また何か悲しいことがあるようにあんなふうにして話していらっしゃる」
 腑に落ちぬらしく言っていた。
4.6.14 「重ねて無難に取り計らえ」と、葬式の作法をおっしゃるが、
「葬儀はあまり簡単な見苦しいものにしないほうがよい」
 と源氏が惟光に言った。
4.6.15 「いやいや、大げさにする必要もございません」
「そうでもございません。これは大層にいたしてよいことではございません」
4.6.16 と言って立つのが、とても悲しく思わずにはいらっしゃれないので、
と否定してから、惟光が立って行こうとするのを見ると、急にまた源氏は悲しくなった。
4.6.17 「きっと不都合なことと思うだろうが、今一度、あの亡骸を見ないのが、とても心残りだから、馬で行ってみたい」
「よくないことだとおまえは思うだろうが、私はもう一度遺骸を見たいのだ。それをしないではいつまでも憂鬱が続くように思われるから、馬ででも行こうと思うが」
4.6.18 とおっしゃるので、とんでもない事だとは思うが、
主人の望みを、とんでもない軽率なことであると思いながらも惟光は止めることができなかった。
4.6.19 「そのようにお思いになるならば、仕方ございません。
早く、お出かけあそばして、夜が更けない前にお帰りあそばしませ」
「そんなに思召すのならしかたがございません。では早くいらっしゃいまして、夜の更けぬうちにお帰りなさいませ」
4.6.20
(まう)せば、このごろの(おほん)やつれにまうけたまへる、(かり)御装束着替(おほんさうぞくきか)へなどして()でたまふ。
と申し上げるので、最近のお忍び用にお作りになった、狩衣のご衣装に着替えなどしてお出かけになる。
と惟光は言った。五条通いの変装のために作らせた狩衣に着更えなどして源氏は出かけたのである。
4.6.21
御心地(みここち)かきくらし、いみじく()へがたければ、かくあやしき(みち)()()ちても(あやふ)かりし物懲(ものご)りにいかにせむと(おぼ)しわづらへど、なほ(かな)しさのやる(かた)なく、ただ(いま)(から)()ではまたいつの()にかありし容貌(かたち)をも()」と、(おぼ)(ねん)じて、(れい)大夫(たいふ)随身(ずいじん)()して()でたまふ。
お心はまっ暗闇で、大変に堪らないので、このような変な道に出かけようとするにつけても、危なかった懲り事のために、どうしようかとお悩みになるが、やはり悲しみの晴らしようがなく、「現在の亡骸を見ないでは、再び来世で生前の姿を見られようか」と、悲しみを堪えなさって、いつものように惟光大夫、随身を連れてお出掛けになる。
病苦が朝よりも加わったこともわかっていて源氏は、軽はずみにそうした所へ出かけて、そこでまたどんな危険が命をおびやかすかもしれない、やめたほうがいいのではないかとも思ったが、やはり死んだ夕顔に引かれる心が強くて、この世での顔を遺骸で見ておかなければ今後の世界でそれは見られないのであるという思いが心細さをおさえて、例の惟光と随身を従えて出た。
4.6.22
道遠(みちとほ)くおぼゆ
十七日(じふしちにち)(つき)さし()でて、河原(かはら)のほど御前駆(おほんさき)()もほのかなるに鳥辺野(とりべの)(かた)など()やりたるほどなど、ものむつかしきも(なに)ともおぼえたまはず、かき(みだ)心地(ここち)したまひて、おはし()きぬ。
道中が遠く感じられる。
十七日の月がさし昇って、河原の辺りでは、御前駆の松明も仄かであるし、鳥辺野の方角などを見やった時など、何となく気味悪いのも、何ともお感じにならず、心乱れなさって、お着きになった。
非常に路のはかがゆかぬ気がした。十七日の月が出てきて、加茂川の河原を通るころ、前駆の者の持つ松明の淡い明りに鳥辺野のほうが見えるというこんな不気味な景色にも源氏の恐怖心はもう麻痺してしまっていた。ただ悲しみに胸が掻き乱されたふうで目的地に着いた。
4.6.23
(あた)りさへすごきに板屋(いたや)のかたはらに堂建(だうた)てて(おこな)へる(あま)()まひ、いとあはれなり。
御燈明(みあかし)(かげ)ほのかに()きて()ゆ。
その()には、女一人泣(をんなひとりな)(こゑ)のみして、()(かた)に、法師(ほふし)ばら()三人物語(さんにんものがたり)しつつわざとの声立(こゑた)てぬ念仏(ねんぶつ)ぞする。
寺々(てらでら)初夜(そや)も、みな(おこな)()てていとしめやかなり。
清水(きよみづ)(かた)ぞ、光多(ひかりおほ)()え、(ひと)のけはひもしげかりける。
この尼君(あまぎみ)()なる大徳(だいとこ)声尊(こゑたふと)くて、(きゃう)うち()みたるに(なみだ)(のこ)りなく(おぼ)さる。
周囲一帯までがぞっとする所だが、板屋の隣に堂を建ててお勤めしている尼の家は、まことにもの寂しい感じである。
御燈明の光が、微かに隙間から見える。
その家には、女一人の泣く声ばかりして、外の方に、法師たち二、三人が話をしいしい、特に声を立てない念仏を唱えている。
寺々の初夜も、皆、お勤めが終わって、とても静かである。
清水寺の方角は、光が多く見え、人の気配がたくさんあるのであった。
この尼君の子である大徳が尊い声で、経を読んでいるので、涙も涸れんばかりに思わずにはいらっしゃれない。
凄い気のする所である。そんな所に住居の板屋があって、横に御堂が続いているのである。仏前の燈明の影がほのかに戸からすいて見えた。部屋の中には一人の女の泣き声がして、その室の外と思われる所では、僧の二、三人が話しながら声を多く立てぬ念仏をしていた。近くにある東山の寺々の初夜の勤行も終わったころで静かだった。清水の方角にだけ灯がたくさんに見えて多くの参詣人の気配も聞かれるのである。主人の尼の息子の僧が尊い声で経を読むのが聞こえてきた時に、源氏はからだじゅうの涙がことごとく流れて出る気もした。
4.6.24
()りたまへれば、火取(ひと)(そむ)けて、右近(うこん)屏風隔(びゃうぶへだ)てて()したり。
いかにわびしからむと、()たまふ。
(おそ)ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか(かは)りたるところなし。
()をとらへて、
お入りになると、灯火を遺骸から背けて、右近は屏風を隔てて臥していた。
どんなに侘しく思っているだろう、と御覧になる。
気味悪さも感じられず、とてもかわいらしい様子をして、まだ少しも変わった所がない。
手を握って、
中へはいって見ると、灯をあちら向きに置いて、遺骸との間に立てた屏風のこちらに右近は横になっていた。どんなに佗しい気のすることだろうと源氏は同情して見た。遺骸はまだ恐ろしいという気のしない物であった。美しい顔をしていて、まだ生きていた時の可憐さと少しも変わっていなかった。
4.6.25 「わたしに、もう一度、声だけでもお聞かせ下さい。
どのような前世からの因縁があったのだろうか、少しの間に、心の限りを尽くして愛しいと思ったのに、残して逝って、途方に暮れさせなさるのが、あまりのこと」
「私にもう一度、せめて声だけでも聞かせてください。どんな前生の縁だったかわずかな間の関係であったが、私はあなたに傾倒した。それだのに私をこの世に捨てて置いて、こんな悲しい目をあなたは見せる」
4.6.26
と、(こゑ)()しまず()きたまふこと、(かぎ)りなし。
と、声も惜しまず、お泣きになること、際限がない。
もう泣き声も惜しまずはばからぬ源氏だった。
4.6.27
大徳(だいとこ)たちも、(たれ)とは()らぬにあやしと(おも)ひて、(みな)涙落(なみだお)としけり。
大徳たちも、この方たちを誰とは知らないが、子細があると思って、皆、涙を落としたのだった。
僧たちもだれとはわからぬながら、死者に断ちがたい愛着を持つらしい男の出現を見て、皆涙をこぼした。
4.6.28
右近(うこん)を、いざ、二条(にでう)」とのたまへど、
右近に、「さあ、二条へ」とおっしゃるが、
源氏は右近に、
 「あなたは二条の院へ来なければならない」
 と言ったのであるが、
4.6.29 「長年、幼うございました時から、片時もお離れ申さず、馴れ親しみ申し上げてきた方に、急にお別れ申して、どこに帰ったらよいのでございましょう。
どのようにおなりになったと、皆に申せましょう。
悲しいことはさておいて、皆にとやかく言われましょうことが、辛いことで」と言って、泣き崩れて、「煙と一緒になって、後をお慕い申し上げましょう」と言う。
「長い間、それは小さい時から片時もお離れしませんでお世話になりました御主人ににわかにお別れいたしまして、私は生きて帰ろうと思う所がございません。奥様がどうおなりになったかということを、どうほかの人に話ができましょう。奥様をお亡くししましたほかに、私はまた皆にどう言われるかということも悲しゅうございます」
 こう言って右近は泣きやまない。
 私も奥様の煙といっしょにあの世へ参りとうございます」
4.6.30
道理(ことわり)なれどさなむ()(なか)はある
(わか)れと()ふもの、(かな)しからぬはなし。
とあるもかかるも(おな)(いのち)(かぎ)りあるものになむある。
(おも)(なぐさ)めて、(われ)(たの)め」と、のたまひこしらへてかく()()()こそは()きとまるまじき心地(ここち)すれ」
「ごもっともだが、世の中はそのようなものである。
別れというもので、悲しくないものはない。
先立つのも残されるのも、同じく寿命で定まったものである。
気を取り直して、わたしを頼れ」と、お慰めになりながらも、「このように言う我が身こそが、生きながらえられそうにない気がする」
「もっともだがしかし、人世とはこんなものだ。別れというものに悲しくないものはないのだ。どんなことがあっても寿命のある間には死ねないのだよ。気を静めて私を信頼してくれ」
 と言う源氏が、また、
 「しかしそういう私も、この悲しみでどうなってしまうかわからない」
4.6.31 とおっしゃるのも、頼りない話であるよ。
と言うのであるから心細い。
4.6.32 惟光が、「夜は、明け方になってしまいましょう。
早くお帰りあそばしますように」
「もう明け方に近いころだと思われます。早くお帰りにならなければいけません」
4.6.33
()こゆれば、(かへ)りみのみせられて(むね)もつと(ふた)がりて()でたまふ。
と申し上げるので、振り返り振り返りばかりされて、胸をひしと締め付けられた思いでお出になる。
惟光がこう促すので、源氏は顧みばかりがされて、胸も悲しみにふさがらせたまま帰途についた。
4.6.34
(みち)いと(つゆ)けきに、いとどしき朝霧(あさぎり)いづこともなく(まど)心地(ここち)したまふ。
ありしながらうち()したりつるさま、うち()はしたまへりしが()御紅(おほんくれなゐ)御衣(おほんぞ)()られたりつるなどいかなりけむ(ちぎ)りにか(みち)すがら(おぼ)さる
御馬(おほんむま)にも、はかばかしく()りたまふまじき(おほん)さまなれば、また、惟光添(これみつそ)(たす)けておはしまさするに(つつみ)のほどにて御馬(おほんむま)よりすべり()りていみじく御心地惑(みここちまど)ひければ、
道中とても露っぽいところに、更に大変な朝霧で、どこだか分からないような気がなさる。
生前の姿のままで横たわっていた様子、互いにお掛け合いになって寝たのや、その自分の紅のご衣装がそのまま着せ掛けてあったことなどが、どのような前世の因縁であったのかと、道すがらお思いにならずにはいらっしゃれない。
お馬にも、しっかりとお乗りになることができそうにないご様子なので、再び、惟光が介添えしてお連れしていくと、堤の辺りで、馬からすべり下りて、ひどくご惑乱なさったので、
露の多い路に厚い朝霧が立っていて、このままこの世でない国へ行くような寂しさが味わわれた。某院の閨にいたままのふうで夕顔が寝ていたこと、その夜上に掛けて寝た源氏自身の紅の単衣にまだ巻かれていたこと、などを思って、全体あの人と自分はどんな前生の因縁があったのであろうと、こんなことを途々源氏は思った。馬をはかばかしく御して行けるふうでもなかったから、惟光が横に添って行った。加茂川堤に来てとうとう源氏は落馬したのである。失心したふうで、
4.6.35 「こんな道端で、野垂れ死んでしまうのだろうか。
まったく、帰り着けそうにない気がする」
「家の中でもないこんな所で自分は死ぬ運命なんだろう。二条の院まではとうてい行けない気がする」
4.6.36
とのたまふに、惟光心地惑(これみつここちまど)ひて、()がはかばかしくはさのたまふともかかる(みち)()()でたてまつるべきかは」と(おも)ふに、いと(こころ)あわたたしければ、(かは)(みづ)()(あら)ひて、清水(きよみづ)観音(かんおん)(ねん)じたてまつりても、すべなく(おも)(まど)ふ。
とおっしゃるので、惟光も困惑して、「自分がしっかりしていたら、あのようにおっしゃっても、このような所にお連れ出し申し上げるべきではなかった」と反省すると、とても気ぜわしく落ち着いていられないので、鴨川の水で手を洗い清めて、清水の観音をお拝み申しても、どうしようもなく途方に暮れる。
と言った。惟光の頭も混乱状態にならざるをえない。自分が確とした人間だったら、あんなことを源氏がお言いになっても、軽率にこんな案内はしなかったはずだと思うと悲しかった。川の水で手を洗って清水の観音を拝みながらも、どんな処置をとるべきだろうと煩悶した。
4.6.37
(きみ)も、しひて御心(みこころ)()こして(こころ)のうちに(ほとけ)(ねん)じたまひて、また、とかく(たす)けられたまひてなむ二条院(にでうのゐん)(かへ)りたまひける。
源氏の君も、無理に気を取り直して、心中に仏を拝みなさって、再び、あれこれ助けられなさって、二条院へお帰りになるのであった。
源氏もしいて自身を励まして、心の中で御仏を念じ、そして惟光たちの助けも借りて二条の院へ行き着いた。
4.6.38 奇妙な深夜のお忍び歩きを、女房たちは、「みっともないこと。
近ごろ、いつもより落ち着きのないお忍び歩きが、うち続く中でも、昨日のご様子が、とても苦しそうでいらっしゃいましたが。
どうしてこのように、ふらふらお出歩きなさるのでしょう」と、嘆き合っていた。
毎夜続いて不規則な時間の出入りを女房たちが、
 「見苦しいことですね、近ごろは平生よりもよく微行をなさる中でも昨日はたいへんお加減が悪いふうだったでしょう。そんなでおありになってまたお出かけになったりなさるのですから、困ったことですね」
 こんなふうに歎息をしていた。
4.6.39
まことに、()したまひぬるままに、いといたく(くる)しがりたまひて、()三日(さんにち)になりぬるにむげに(よわ)るやうにしたまふ。
内裏(うち)にも、()こしめし、(なげ)くこと(かぎ)りなし。
御祈(おほんいの)り、方々(かたがた)(ひま)なくののしる。
(まつり)(はらへ)修法(すほふ)など、()()くすべくもあらず。
()にたぐひなくゆゆしき(おほん)ありさまなれば、()(なが)くおはしますまじきにやと、(あめ)(した)(ひと)(さわ)ぎなり。
ほんとうに、お臥せりになったままで、とてもひどくお苦しみになって、二、三日にもなったので、すっかり衰弱のようでいらっしゃる。
帝におかせられても、お耳にあそばされ、嘆かれることはこの上ない。
御祈祷を、方々の寺々にひっきりなしに大騒ぎする。
祭り、祓い、修法など、数え上げたらきりがない。
この世にまたとなく美しいご様子なので、長生きあそばされないのではないかと、国中の人々の騷ぎである。
源氏白身が予言をしたとおりに、それきり床について煩ったのである。重い容体が二、三日続いたあとはまた甚しい衰弱が見えた。源氏の病気を聞こし召した帝も非常に御心痛あそばされてあちらでもこちらでも間断なく祈祷が行なわれた。特別な神の祭り、祓い、修法などである。何にもすぐれた源氏のような人はあるいは短命で終わるのではないかといって、一天下の人がこの病気に関心を持つようにさえなった。
4.6.40
(くる)しき御心地(みここち)にも、かの右近(うこん)()()せて(つぼね)など(ちか)くたまひて、さぶらはせたまふ
惟光(これみつ)心地(ここち)(さわ)(まど)へど、(おも)ひのどめてこの(ひと)のたづきなしと(おも)ひたるをもてなし(たす)けつつさぶらはす。
苦しいご気分ながらも、あの右近を呼び寄せて、部屋などを近くにお与えになって、お仕えさせなさる。
惟光は、気が気でなくどうしてよいかわからないでいるが、気を落ち着けて、この右近が主人を亡くして悲しんでいるのを、支え助けてやりながら仕えさせる。
病床にいながら源氏は右近を二条の院へ伴わせて、部屋なども近い所へ与えて、手もとで使う女房の一人にした。惟光は源氏の病の重いことに顛倒するほどの心配をしながら、じっとその気持ちをおさえて、馴染のない女房たちの中へはいった右近のたよりなさそうなのに同情してよく世話をしてやった。
4.6.41
(きみ)は、いささか(ひま)ありて(おぼ)さるる(とき)は、()()でて使(つか)ひなどすればほどなく()じらひつきたり。
(ぶく)いと(くろ)くして容貌(かたち)などよからねど、かたはに見苦(みぐる)しからぬ若人(わかうど)なり。
源氏の君は、少し気分のよろしく思われる時は、呼び寄せてご用を言いつけたりなどなさるので、まもなく馴染んだ。
喪服は、とても黒いのを着て、器量など良くはないが、不器量で見苦しいというほどでもない若い女性である。
源氏の病の少し楽に感ぜられる時などには、右近を呼び出して居まの用などをさせていたから、右近はそのうち二条の院の生活に馴れてきた。濃い色の喪服を着た右近は、容貌などはよくもないが、見苦しくも思われぬ若い女房の一人と見られた。
4.6.42 「不思議に短かったご宿縁に引かれて、わたしもこの世に生きていられないような気がする。
長年の主人を亡くして、心細く思っていましょう慰めにも、もし生きながらえたら、いろいろと面倒を見たいと思ったが、まもなく自分も後を追ってしまいそうなのが、残念なことだなあ」
「運命があの人に授けた短い夫婦の縁から、その片割れの私ももう長くは生きていないのだろう。長い間たよりにしてきた主人に別れたおまえが、さぞ心細いだろうと思うと、せめて私に命があれば、あの人の代わりの世話をしたいと思ったこともあったが、私もあの人のあとを追うらしいので、おまえには気の毒だね」
4.6.43
と、(しの)びやかにのたまひて、(よわ)げに()きたまへば()ふかひなきことをばおきて「いみじく()し」と(おも)ひきこゆ
と、ひっそりとおっしゃって、弱々しくお泣きになるので、今さら言ってもしかたないことはさて措いても、「はなはだもったいないことだ」とお思い申し上げる。
と、ほかの者へは聞かせぬ声で言って、弱々しく泣く源氏を見る右近は、女主人に別れた悲しみは別として、源氏にもしまたそんなことがあれば悲しいことだろうと思った。
4.6.44
殿(との)のうちの(ひと)(あし)(そら)にて(おも)(まど)ふ。
内裏(うち)より、御使(おほんつかひ)(あめ)(あし)よりもけにしげし
(おぼ)(なげ)きおはしますを()きたまふにいとかたじけなくて、せめて(つよ)(おぼ)しなる
大殿(おほとの)経営(けいめい)したまひて大臣(おとど)日々(ひび)(わた)りたまひつつさまざまのことせさせたまふ、しるしにや二十余日(にじふよにち)いと(おも)わづらひたまひつれどことなる名残(なごり)のこらず、おこたるさまに()えたまふ。
お邸の人々は、足も地に着かないほどどうしてよいか分からないでいる。
内裏から、御勅使が、雨脚よりも格段に頻繁にある。
ご心配あそばされていらっしゃるのをお聞きになると、まことに恐れ多くて、無理に気を強くお持ちになる。
大殿邸でも懸命にお世話なさって、左大臣が、毎日お越しになっては、さまざまな加持祈祷をおさせなさる、その効果があってか、二十余日間、ひどく重く患っていらしゃったが、格別の余病もなく、回復された様子にお見えになる。
二条の院の男女はだれも静かな心を失って主人の病を悲しんでいるのである。御所のお使いは雨の脚よりもしげく参入した。帝の御心痛が非常なものであることを聞く源氏は、もったいなくて、そのことによって病から脱しようとみずから励むようになった。左大臣も徹底的に世話をした、大臣自身が二条の院を見舞わない日もないのである。そしていろいろな医療や祈祷をしたせいでか、二十日ほど重態だったあとに余病も起こらないで、源氏の病気は次第に回復していくように見えた。
4.6.45
(けが)らひ()みたまひしも、(ひと)つに()ちぬる()なればおぼつかながらせたまふ御心(みこころ)わりなくて内裏(うち)御宿直所(おほんとのゐどころ)(まゐ)りたまひなどす。
大殿(おほとの)()御車(みくるま)にて(むか)へたてまつりたまひて御物忌(おほんものいみ)なにやと、むつかしう(つつし)ませたてまつりたまふ
(われ)にもあらず、あらぬ()によみがへりたるやうに、しばしはおぼえたまふ。
死穢によって籠っていらっしゃった忌中明けの日が、病気回復の床上げの日と同日の夜になったので、御心配あそばされていらっしゃるお気持ちが、どうにも恐れ多いので、宮中のご宿直所に参内などなさる。
大殿は、ご自分のお車でお迎え申し上げなさって、御物忌みや何やかやと、うるさくお慎みさせ申し上げなさる。
ぼんやりとして、別世界にでも生き返ったように、暫くの間はお感じになっていた。
行触れの遠慮の正規の日数もこの日で終わる夜であったから、源氏は逢いたく思召す帝の御心中を察して、御所の宿直所にまで出かけた。退出の時は左大臣が自身の車へ乗せて邸へ伴った。病後の人の謹慎のしかたなども大臣がきびしく監督したのである。この世界でない所へ蘇生した人間のように当分源氏は思った。

第七段 忌み明ける

4.7.1
九月二十日(くがちはつか)のほどにぞおこたり()てたまひて、いといたく面痩(おもや)せたまへれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ()きたまふ。
()たてまつりとがむる(ひと)もありて、御物(おほんもの)()なめり」など()ふもあり。
九月二十日のころに、病状がすっかりご回復なさって、とてもひどく面やつれしていらっしゃるが、かえって、たいそう優美で、物思いに沈みがちに、声を立てて泣いてばかりいらっしゃる。
拝見して怪しむ女房もいて、「お物の怪がお憑きのようだわ」などと言う者もいる。
九月の二十日ごろに源氏はまったく回復して、痩せるには痩せたがかえって艶な趣の添った源氏は、今も思いをよくして、またよく泣いた。その様子に不審を抱く人もあって、物怪が憑いているのであろうとも言っていた。
4.7.2
右近(うこん)()()でてのどやかなる夕暮(ゆふぐれ)に、物語(ものがたり)などしたまひて、
右近を呼び出して、気分もゆったりとした夕暮に、お話などなさって、
源氏は右近を呼び出して、ひまな静かな日の夕方に話をして、
4.7.3 「やはり、とても不思議だ。
どうして誰とも知られまいと、お隠しになっていたのか。
本当に賤しい身分であったとしても、あれほど愛しているのを知らず、隠していらっしゃったので、辛かった」とおっしゃると、
「今でも私にはわからぬ。なぜだれの娘であるということをどこまでも私に隠したのだろう。たとえどんな身分でも、私があれほどの熱情で思っていたのだから、打ち明けてくれていいわけだと思って恨めしかった」
 とも言った。
4.7.4
などてか(ふか)(かく)しきこえたまふことははべらむ。
いつのほどにてかは(なに)ならぬ御名(おほんな)のりを()こえたまはむ
(はじ)めより、あやしうおぼえぬさまなりし(おほん)ことなれば、(うつつ)ともおぼえずなむある』とのたまひて、御名隠(おほんながく)しも、さばかりにこそは』と()こえたまひながらなほざりにこそ(まぎ)らはしたまふらめ』となむ、()きことに(おぼ)したりし」と()こゆれば、
「どうして、深くお隠し申し上げなさる必要がございましょう。
いつの折にか、たいした名でもないお名前を申し上げなさることができましょう。
初めから、不思議な思いもかけなかったご関係なので、『現実の事とは思えない』とおっしゃって、『お名前を隠していらしたのも、あなた様でいらっしゃるからでしょう』と存じ上げておられながら、『いい加減な遊び事として、お名前を隠していらっしゃるのだろう』と辛いことに、お思いになっていました」と申し上げるので、
「そんなにどこまでも隠そうなどとあそばすわけはございません。そうしたお話をなさいます機会がなかったのじゃございませんか。最初があんなふうでございましたから、現実の関係のように思われないとお言いになって、それでもまじめな方ならいつまでもこのふうで進んで行くものでもないから、自分は一時的な対象にされているにすぎないのだとお言いになっては寂しがっていらっしゃいました」
 右近がこう言う。
4.7.5
あいなかりける心比(こころくら)べどもかな
(われ)は、しか(へだ)つる(こころ)もなかりき
ただ、かやうに(ひと)(ゆる)されぬ()()ひをなむ、まだ()らはぬことなる
内裏(うち)(いさ)めのたまはするをはじめつつむこと(おほ)かる()にて、はかなく(ひと)にたはぶれごとを()ふも所狭(ところせ)う、()りなしうるさき()のありさまになむあるをはかなかりし(ゆふ)べよりあやしう(こころ)にかかりて、あながちに()たてまつりしもかかるべき(ちぎ)りこそはものしたまひけめ(おも)ふも、あはれになむ
またうち(かへ)し、つらうおぼゆる。
「つまらない意地の張り合いであったな。
自分は、そのように隠しておく気はなかった。
ただ、このように人から許されない忍び歩きを、まだ経験ないことなのだ。
主上が御注意あそばすことを始め、憚ることの多い身分で、ちょっと人に冗談を言っても、窮屈で、取り沙汰が大げさな身の上の有様なので、ふとした夕方の事から、妙に心に掛かって、無理算段してお通い申したのも、このような運命がおありだったのだろうと思うにつけても、お気の毒で。
また反対に、恨めしく思われてならない。
「つまらない隠し合いをしたものだ。私の本心ではそんなにまで隠そうとは思っていなかった。ああいった関係は私に経験のないことだったから、ばかに世間がこわかったのだ。御所の御注意もあるし、そのほかいろんな所に遠慮があってね。ちょっとした恋をしても、それを大問題のように扱われるうるさい私が、あの夕顔の花の白かった日の夕方から、むやみに私の心はあの人へ惹かれていくようになって、無理な関係を作るようになったのもしばらくしかない二人の縁だったからだと思われる。しかしまた恨めしくも思うよ。
4.7.6 こう長くはない宿縁であったれば、どうして、あれほど心底から愛しく思われなさったのだろう。
もう少し詳しく話せ。
今はもう、何を隠す必要があろう。
七日毎に仏画を描かせても、誰のためと、心中にも祈ろうか」とおっしゃると、
こんなに短い縁よりないのなら、あれほどにも私の心を惹いてくれなければよかったとね。まあ今でもよいから詳しく話してくれ、何も隠す必要はなかろう。七日七日に仏像を描かせて寺へ納めても、名を知らないではね。それを表に出さないでも、せめて心の中でだれの菩提のためにと思いたいじゃないか」
 と源氏が言った。
4.7.7 「どうして、お隠し申し上げましょう。
ご自身が、お隠し続けていらしたことを、お亡くなりになった後に、口軽く言い洩らしてはいかがなものか、と存じおりますばかりです。
「お隠しなど決してしようとは思っておりません。ただ御自分のお口からお言いにならなかったことを、お亡れになってからおしゃべりするのは済まないような気がしただけでございます。
4.7.8
(おや)たちは、はや()せたまひにき。
三位中将(さんゐのちゅうじゃう)となむ()こえし。
いとらうたきものに(おも)ひきこえたまへりしかど()()のほどの(こころ)もとなさを(おぼ)すめりしに(いのち)さへ()へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭中将(とうのちゅうじゃう)なむ、まだ少将(せうしゃう)にものしたまひし(とき)見初(みそ)めたてまつらせたまひて三年(みとせ)ばかりは、(こころざし)あるさまに(かよ)ひたまひしを、
ご両親は、早くお亡くなりになりました。
三位中将と申しました。
とてもかわいい娘とお思い申し上げられていましたが、ご自分の出世が思うにまかせぬのをお嘆きのようでしたが、お命までままならず亡くなってしまわれた後、ふとした縁で、頭中将殿が、まだ少将でいらした時に、お通い申し上げあそばすようになって、三年ほどの間は、ご誠意をもってお通いになりましたが、
御両親はずっと前にお亡くなりになったのでございます。殿様は三位中将でいらっしゃいました。非常にかわいがっていらっしゃいまして、それにつけても御自身の不遇をもどかしく思召したでしょうが、その上寿命にも恵まれていらっしゃいませんで、お若くてお亡くなりになりましたあとで、ちょっとしたことが初めで頭中将がまだ少将でいらっしったころに通っておいでになるようになったのでございます。三年間ほどは御愛情があるふうで御関係が続いていましたが、
4.7.9 去年の秋ごろ、あの右大臣家から、とても恐ろしい事を言って寄こしたので、ものをむやみに怖がるご性質ゆえに、どうしてよいか分からなくお怖がりになって、西の京に、御乳母が住んでおります所に、こっそりとお隠れなさいました。
そこもとてもむさ苦しい所ゆえ、お住まいになりにくくて、山里に移ってしまおうと、お思いになっていたところ、今年からは方塞がりの方角でございましたので、方違えしようと思って、賤しい家においでになっていたところを、お見つけ申されてしまった事と、お嘆きのようでした。
昨年の秋ごろに、あの方の奥様のお父様の右大臣の所からおどすようなことを言ってまいりましたのを、気の弱い方でございましたから、むやみに恐ろしがっておしまいになりまして、西の右京のほうに奥様の乳母が住んでおりました家へ隠れて行っていらっしゃいましたが、その家もかなりひどい家でございましたからお困りになって、郊外へ移ろうとお思いになりましたが、今年は方角が悪いので、方角避けにあの五条の小さい家へ行っておいでになりましたことから、あなた様がおいでになるようなことになりまして、あの家があの家でございますから侘しがっておいでになったようでございます。
4.7.10
()(ひと)()ず、ものづつみをしたまひて(ひと)物思(ものおも)気色(けしき)()えむを()づかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして、御覧(ごらん)ぜられたてまつりたまふめりしか
世間の人と違って、引っ込み思案をなさって、他人から物思いしている様子を見られるのを、恥ずかしいこととお思いなさって、さりげないふうを装って、お目にかかっていらっしゃるようでございました」
普通の人とはまるで違うほど内気で、物思いをしていると人から見られるだけでも恥ずかしくてならないようにお思いになりまして、どんな苦しいことも寂しいことも心に納めていらしったようでございます」
4.7.11
と、(かた)()づるにさればよ」と、(おぼ)しあはせて、いよいよあはれまさりぬ。
と、話し出すと、「そうであったのか」と、お思い合わせになって、ますます不憫さが増した。
右近のこの話で源氏は自身の想像が当たったことで満足ができたとともに、その優しい人がますます恋しく思われた。
4.7.12 「幼い子を行く方知れずにしたと、頭中将が残念がっていたのは、そのような子でもいたのか」とお尋ねになる。
「小さい子を一人行方不明にしたと言って中将が憂鬱になっていたが、そんな小さい人があったのか」
 と問うてみた。
4.7.13 「さようでございます。
一昨年の春に、お生まれになりました。
女の子で、とてもかわいらしくて」と話す。
「さようでございます。一昨年の春お生まれになりました。お嬢様で、とてもおかわいらしい方でございます」
4.7.14
さて、いづこにぞ
(ひと)にさとは()らせで、(われ)()させよ。
あとはかなく、いみじと(おも)御形見(おほんかたみ)に、いとうれしかるべくなむ」とのたまふ。
かの中将(ちゅうじゃう)にも(つた)ふべけれど()ふかひなきかこと()ひなむ
とざまかうざまにつけて、(はぐく)まむに(とが)あるまじきを
そのあらむ乳母(めのと)などにも、ことざまに()ひなして、ものせよかし」など(かた)らひたまふ。
「それで、どこに。
誰にもそうとは知らせないで、わたしに下さい。
あっけなくて、悲しいと思っている人のお形見として、どんなにか嬉しいことだろう」とおっしゃる。
「あの中将にも伝えるべきだが、言っても始まらない恨み言を言われるだろう。
あれこれにつけて、お育てするに不都合はあるまいからね。
その一緒にいる乳母などにも違ったふうに言い繕って、連れて来てくれ」などと相談をもちかけなさる。
「で、その子はどこにいるの、人には私が引き取ったと知らせないようにして私にその子をくれないか。形見も何もなくて寂しくばかり思われるのだから、それが実現できたらいいね」
 源氏はこう言って、また、
 「頭中将にもいずれは話をするが、あの人をああした所で死なせてしまったのが私だから、当分は恨みを言われるのがつらい。私の従兄の中将の子である点からいっても、私の恋人だった人の子である点からいっても、私の養女にして育てていいわけだから、その西の京の乳母にも何かほかのことにして、お嬢さんを私の所へつれて来てくれないか」
 と言った。
4.7.15 「それならば、
とても嬉しいことでございましょう。あの西の京でご成
育なさるのは、不憫でございまして。これといった後見人もいないという
「そうなりましたらどんなに結構なことでございましょう。あの西の京でお育ちになってはあまりにお気の毒でございます。私ども若い者ばかりでしたから、行き届いたお世話ができないということであっちへお預けになったのでございます」
 と右近は言っていた。
4.7.16 夕暮の静かなころに、空の様子はとてもしみじみと感じられ、お庭先の前栽は枯れ枯れになり、虫の音も鳴き弱りはてて、紅葉がだんだん色づいて行くところが、絵に描いたように美しいのを見渡して、思いがけず結構な宮仕えをすることになったと、あの夕顔の宿を思い出すのも恥ずかしい。
竹薮の中に家鳩という鳥が、太い声で鳴くのをお聞きになって、あの先日の院でこの鳥が鳴いたのを、とても怖いと思っていた様子が、まぶたにかわいらしくお思い出されるので、
静かな夕方の空の色も身にしむ九月だった。庭の植え込みの草などがうら枯れて、もう虫の声もかすかにしかしなかった。そしてもう少しずつ紅葉の色づいた絵のような景色を右近はながめながら、思いもよらぬ貴族の家の女房になっていることを感じた。五条のタ顔の花の咲きかかった家は思い出すだけでも恥ずかしいのである。竹の中で家鳩という鳥が調子はずれに鳴くのを聞いて源氏は、あの某院でこの鳥の鳴いた時に夕顔のこわがった顔が今も可憐に思い出されてならない。
4.7.17
(とし)はいくつにかものしたまひし
あやしく()(ひと)()ず、あえかに()えたまひしも、かく(なが)かるまじくてなりけり」とのたまふ。
「年はいくつにおなりだったか。
不思議に普通の人と違って、か弱くお見えであったのも、このように長生きできなかったからなのだね」とおっしゃる。
「年は幾つだったの、なんだか普通の若い人よりもずっと若いようなふうに見えたのも短命の人だったからだね」
4.7.18 「十九歳におなりだったでしょうか。
右近めは、亡くなった乳母があとに残して逝きましたので、三位の君様がわたしをかわいがって下さって、お側離れず一緒に、お育て下さいましたのを思い出しますと、どうして生きておられましょう。
「たしか十九におなりになったのでございましょう。私は奥様のもう一人のほうの乳母の忘れ形見でございましたので、三位様がかわいがってくださいまして、お嬢様といっしょに育ててくださいましたものでございます。
4.7.19
いとしも(ひと)にと(くや)しくなむ
ものはかなげにものしたまひし(ひと)御心(みこころ)を、(たの)もしき(ひと)にて、(とし)ごろならひはべりけること」と()こゆ。
どうしてこう深く親しんだのだろうと、悔やまれて。
気弱そうでいらっしゃいました女君のお気持ちを、頼むお方として、長年仕えてまいりましたことでございます」と申し上げる。
そんなことを思いますと、あの方のお亡くなりになりましたあとで、平気でよくも生きているものだと恥ずかしくなるのでございます。弱々しいあの方をただ一人のたよりになる御主人と思って右近は参りました」
4.7.20
はかなびたるこそはらうたけれ。
かしこく(ひと)になびかぬ、いと(こころ)づきなきわざなり。
(みづか)らはかばかしくすくよかならぬ(こころ)ならひに(をんな)はただやはらかに、とりはづして(ひと)(あざむ)かれぬべきがさすがにものづつみし、()(ひと)(こころ)には(したが)はむなむあはれにて、()(こころ)のままにとり(なほ)して()むに、なつかしくおぼゆべき」などのたまへば、
「頼りなげな人こそ、女はかわいらしいのだ。
利口で我の強い人は、とても好きになれないものだ。
自分自身がてきぱきとしっかりしていない性情だから、女はただ素直で、うっかりすると男に欺かれてしまいそうなのが、そのくせ引っ込み思案で、男の心にはついていくのが、愛しくて、自分の思いのままに育てて一緒に暮らしたら、慕わしく思われることだろう」などと、おっしゃると、
「弱々しい女が私はいちばん好きだ。自分が賢くないせいか、あまり聡明で、人の感情に動かされないような女はいやなものだ。どうかすれば人の誘惑にもかかりそうな人でありながら、さすがに慎ましくて恋人になった男に全生命を任せているというような人が私は好きで、おとなしいそうした人を自分の思うように教えて成長させていげればよいと思う」
 源氏がこう言うと、
4.7.21 「こちらのお好みには、きっとお似合いだったでしょうと、存じられますにつけても、残念なことでございますわ」と言って泣く。
「そのお好みには遠いように思われません方の、お亡れになったことが残念で」と右近は言いながら泣いていた。
4.7.22 空が少し曇って、風も冷たく感じられる折柄、とても感慨深く物思いに沈んで、
空は曇って冷ややかな風が通っていた。寂しそうに見えた源氏は、
4.7.23 「契った人の火葬の煙をあの雲かと思って見ると
この夕方の空も親しく思われるよ」
見し人の煙を雲とながむれば
夕の空もむつまじきかな
4.7.24
(ひと)りごちたまへど、えさし(いら)へも()こえず
かやうにて、おはせましかば(おも)ふにも、胸塞(むねふた)がりておぼゆ。
(みみ)かしかましかりし(きぬた)(おと)(おぼ)()づるさへ(こひ)しくて(まさ)(なが)()」とうち(ずん)じて、()したまへり。
と独り詠じられたが、ご返歌も申し上げられない。
このように、生きていらしたならば、と思うにつけても、胸が一杯になる。
耳障りであった砧の音を、お思い出しになるのまでが、恋しくて、「八月九月正に長き夜」と口ずさんで、お臥せりになった。
と独言のように言っていても、返しの歌は言い出されないで、右近は、こんな時に二人そろっておいでになったらという思いで胸の詰まる気がした。源氏はうるさかった砧の音を思い出してもその夜が恋しくて、「八月九月正長夜、千声万声無止時」と歌っていた。

第五章 空蝉の物語(2)


第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答

5.1.1 あの、伊予介の家の小君は、参上する折はあるが、特別に以前のような伝言もなさらないので、嫌なとお見限りになられたのを、つらいと思っていた折柄、このようにご病気でいらっしゃるのを聞いて、やはり悲しい気がするのであった。
遠くへ下るのなどが、何といっても心細い気がするので、お忘れになってしまったかと、試しに、
今も伊予介の家の小君は時々源氏の所へ行ったが、以前のように源氏から手紙を託されて来るようなことがなかった。自分の冷淡さに懲りておしまいになったのかと思って、空蝉は心苦しかったが、源氏の病気をしていることを聞いた時にはさすがに歎かれた。それに良人の任国へ伴われる日が近づいてくるのも心細くて、自分を忘れておしまいになったかと試みる気で、
5.1.2
(うけたまは)り、(なや)むを(こと)()でては、えこそ
「承りまして、案じておりますが、口に出しては、とても、
このごろの御様子を承り、お案じ申し上げてはおりますが、それを私がどうしてお知らせすることができましょう。
5.1.3 お見舞いできませんことをなぜかとお尋ね下さらずに月日が経ましたが
わたしもどんなにか思い悩んでいます
問はぬをもなどかと問はで程ふるに
いかばかりかは思ひ乱るる
5.1.4 『益田の池の生きている甲斐ない』とは本当のことで」
苦しかるらん君よりもわれぞ益田のいける甲斐なきという歌が思われます。
5.1.5
()こえたり。
めづらしきにこれもあはれ(わす)れたまはず。
と申し上げた。
久しぶりにうれしいので、この女へも愛情はお忘れにならない。
こんな手紙を書いた。
 思いがけぬあちらからの手紙を見て源氏は珍しくもうれしくも思った。この人を思う熱情も決して醒めていたのではないのである。
5.1.6 「生きている甲斐がないとは、誰が言ったらよい言葉でしょうか。
生きがいがないとはだれが言いたい言葉でしょう。
5.1.7 あなたとのはかない仲は嫌なものと知ってしまったのに
またもあなたの言の葉に期待を掛けて生きていこうと思います
うつせみの世はうきものと知りにしを
また言の葉にかかる命よ
5.1.8 頼りないことよ」
はかないことです。
5.1.9
と、御手(おほんて)もうちわななかるるに(みだ)()きたまへる、いとどうつくしげなり。
なほ、かのもぬけを(わす)れたまはぬを、いとほしうもをかしうも(おも)ひけり。
と、お手も震えなさるので、乱れ書きなさっているのが、ますます美しそうである。
今だに、あの脱ぎ衣をお忘れにならないのを、気の毒にもおもしろくも思うのであった。
病後の慄えの見える手で乱れ書きをした消息は美しかった。蝉の脱殻が忘れずに歌われてあるのを、女は気の毒にも思い、うれしくも思えた。
5.1.10
かやうに(にく)からずは、()こえ()はせど、(ぢか)くとは(おも)ひよらず、さすがに、()ふかひなからずは()えたてまつりてやみなむ(おも)ふなりけり。
このように愛情がなくはなく、やりとりなさるが、身近にとは思ってもいないが、とはいえ、情趣を解さない女だと思われない格好で終わりにしたい、と思うのであった。
こんなふうに手紙などでは好意を見せながらも、これより深い交渉に進もうという意思は空蝉になかった。理解のある優しい女であったという思い出だけは源氏の心に留めておきたいと願っているのである。
5.1.11
かの(かた)(かた)蔵人少将(くらうどのせうしゃう)をなむ(かよ)はす()きたまふ。
あやしや。
いかに(おも)ふらむ」と、少将(せうしゃう)(こころ)のうちもいとほしく、また、かの(ひと)気色(けしき)ゆかしければ、小君(こぎみ)して、()(かへ)(おも)(こころ)は、()りたまへりや」と()(つか)はす。
あのもう一方は、蔵人少将を通わせていると、お聞きになる。
「おかしなことだ。
どう思っているだろう」と、少将の気持ちも同情し、また、あの女の様子も興味があるので、小君を使いにして、「死ぬほど思っている気持ちは、お分かりでしょうか」と言っておやりになる。
もう一人の女は蔵人少将と結婚したという噂を源氏は聞いた。それはおかしい、処女でない新妻を少将はどう思うだろうと、その良人に同情もされたし、またあの空蝉の継娘はどんな気持ちでいるのだろうと、それも知りたさに小君を使いにして手紙を送った。
 死ぬほど煩悶している私の心はわかりますか。
5.1.12 「一夜の逢瀬なりとも軒端の荻を結ぶ契りをしなかったら
わずかばかりの恨み言も何を理由に言えましょうか」
ほのかにも軒ばの荻をむすばずば
露のかごとを何にかけまし
5.1.13
(たか)やかなる(をぎ)()けて、(しの)びて」とのたまへれど、()(あやま)ちて少将(せうしゃう)()つけて、(われ)なりけりと(おも)ひあはせばさりとも、(つみ)ゆるしてむ」と(おも)ふ、御心(みこころ)おごりぞ、あいなかりける
丈高い荻に結び付けて、「こっそりと」とおっしゃっていたが、「間違って、少将が見つけて、わたしだったのだと分かってしまったら、それでも、許してくれよう」と思う、高慢なお気持ちは、困ったものである。
その手紙を枝の長い荻につけて、そっと見せるようにとは言ったが、源氏の内心では粗相して少将に見つかった時、妻の以前の情人の自分であることを知ったら、その人の気持ちは慰められるであろうという高ぶった考えもあった。
5.1.14
少将(せうしゃう)のなき(をり)()すれば、心憂(こころう)しと(おも)へどかく(おぼ)()でたるも、さすがにて御返(おほんかへ)り、(くち)ときばかりをかことにて()らす。
少将のいない時に見せると、嫌なことと思うが、このように思い出してくださったのも、やはり嬉しくて、お返事を、早いのだけを申し訳にして与える。
しかし小君は少将の来ていないひまをみて手紙の添った荻の枝を女に見せたのである。恨めしい人ではあるが自分を思い出して情人らしい手紙を送って来た点では憎くも女は思わなかった。悪い歌でも早いのが取柄であろうと書いて小君に返事を渡した。
5.1.15 「ほのめかされるお手紙を見るにつけても下荻のような
身分の賤しいわたしは、
ほのめかす風につけても下荻の
半は霜にむすぼほれつつ
5.1.16 筆跡は下手なのを、分からないようにしゃれて書いている様子は、品がない。
灯火で見た顔を、自然と思い出されなさる。
「気を許さず対座していたあの人は、今でも思い捨てることのできない様子をしていたな。
何の嗜みもありそうでなく、はしゃいで得意でいたことよ」とお思い出しになると、憎めなくなる。
相変わらず、「性懲りも無く、また浮き名が立ってしまいそうな」好色心のようである。
下手であるのを酒落れた書き方で紛らしてある字の品の悪いものだった。灯の前にいた夜の顔も連想されるのである。碁盤を中にして慎み深く向かい合ったほうの人の姿態にはどんなに悪い顔だちであるにもせよ、それによって男の恋の減じるものでないよさがあった。一方は何の深味もなく、自身の若い容貌に誇ったふうだったと源氏は思い出して、やはりそれにも心の惹かれるのを覚えた。まだ軒端の荻との情事は清算されたものではなさそうである。

第六章 夕顔の物語(3)


第一段 四十九日忌の法要

6.1.1
かの(ひと)四十九日(なななぬか)(しの)びて比叡(ひえ)法華堂(ほけだう)にて(こと)そがず、装束(さうぞく)よりはじめてさるべきものども、こまかに、誦経(ずきゃう)などせさせたまひぬ
(きゃう)(ほとけ)(かざ)りまでおろかならず、惟光(これみつ)(あに)阿闍梨(あざり)いと(たふと)(ひと)にて、()なうしけり。
あの人の四十九日忌を、人目を忍んで比叡山の法華堂において、略さずに、装束をはじめとして、お布施に必要な物どもを、心をこめて準備し、読経などをおさせになった。
経巻や、仏像の装飾まで簡略にせず、惟光の兄の阿闍梨が、大変に高徳の僧なので、見事に催したのであった。
源氏はタ顔の四十九日の法要をそっと叡山の法華堂で行なわせることにした。それはかなり大層なもので、上流の家の法会としてあるべきものは皆用意させたのである。寺へ納める故人の服も新調したし寄進のものも大きかった。書写の経巻にも、新しい仏像の装飾にも費用は惜しまれてなかった。惟光の兄の阿闍梨は人格者だといわれている僧で、その人が皆引き受けてしたのである。
6.1.2
御書(おほんふみ)()にて、(むつま)しく(おぼ)文章博士(もんじゃうはかせめ)して、願文作(がんもんつく)らせたまふ。
その(ひと)となくて、あはれと(おも)ひし(ひと)のはかなきさまになりにたるを阿弥陀仏(あみだぶつ)(ゆづ)りきこゆるよし、あはれげに()()でたまへれば
ご学問の師で、親しくしておられる文章博士を呼んで、願文を作らせなさる。
誰それと言わないで、愛しいと思っていた女性が亡くなってしまったのを、阿弥陀様にお譲り申す旨を、しみじみとお書き表しになったので、
源氏の詩文の師をしている親しい某文章博士を呼んで源氏は故人を仏に頼む願文を書かせた。普通の例と違って故人の名は現わさずに、死んだ愛人を阿弥陀仏にお託しするという意味を、愛のこもった文章で下書きをして源氏は見せた。
6.1.3 「まったくこのまま、何も書き加えることはございませんようです」と申し上げる。
「このままで結構でございます。これに筆を入れるところはございません」
 博士はこう言った。
6.1.4
(しの)びたまへど、御涙(おほんなみだ)もこぼれて、いみじく(おぼ)したれば
堪えていらっしゃったが、お涙もこぼれて、ひどくお悲しみでいるので、
激情はおさえているがやはり源氏の目からは涙がこぼれ落ちて堪えがたいように見えた。その博士は、
6.1.5
何人(なにびと)ならむ
その(ひと)()こえもなくて、かう(おぼ)(なげ)かすばかりなりけむ宿世(すくせ)(たか)さ」
「どのような方なのでしょう。
誰それと噂にも上らないで、これほどにお嘆かせになるほどだった、宿運の高いこと」
「何という人なのだろう、そんな方のお亡くなりになったことなど話も聞かないほどの人だのに、源氏の君があんなに悲しまれるほど愛されていた人というのはよほど運のいい人だ」
6.1.6
()ひけり。
(しの)びて調(てう)ぜさせたまへりける装束(さうぞく)(はかま)()()せさせたまひて、
と言うのであった。
内々にお作らせになっていた布施の装束の袴をお取り寄させなさって、
とのちに言った。作らせた故人の衣裳を源氏は取り寄せて、袴の腰に、
6.1.7 「泣きながら今日はわたしが結ぶ袴の下紐を
いつの世にかまた再会して心打ち解けて下紐を解いて逢うことができようか」
泣く泣くも今日はわが結ふ下紐を
いづれの世にか解けて見るべき
6.1.8
このほどまでは(ただよ)ふなるをいづれの(みち)(さだ)まりて(おもむ)くらむ」と(おも)ほしやりつつ、念誦(ねんず)をいとあはれにしたまふ。
頭中将(とうのちゅうじゃう)()たまふにも、あいなく胸騒(むねさわ)ぎてかの撫子(なでしこ)()()つありさま、()かせまほしけれどかことに()ぢてうち()でたまはず。
「この日までは霊魂が中有に彷徨っているというが、どの道に定まって行くことのだろうか」とお思いやりになりながら、念誦をとても心こめてなさる。
頭中将とお会いになる時にも、むやみに胸がどきどきして、あの撫子が成長している有様を、聞かせてやりたいが、非難されるのを警戒して、お口にはお出しにならない。
と書いた。四十九日の間はなおこの世界にさまよっているという霊魂は、支配者によって未来のどの道へ赴かせられるのであろうと、こんなことをいろいろと想像しながら般若心経の章句を唱えることばかりを源氏はしていた。頭中将に逢うといつも胸騒ぎがして、あの故人が撫子にたとえたという子供の近ごろの様子などを知らせてやりたく思ったが、恋人を死なせた恨みを聞くのがつらくて打ちいでにくかった。
6.1.9
かの夕顔(ゆふがほ)宿(やど)りにはいづ(かた)にと(おも)(まど)へど、そのままにえ(たづ)ねきこえず
右近(うこん)だに(おとづ)れねばあやしと(おも)(なげ)きあへり。
(たし)かならねど、けはひをさばかりにやと、ささめきしかば惟光(これみつ)をかこちけれど、いとかけ(はな)気色(けしき)なく()ひなして、なほ(おな)じごと()(あり)きければ、いとど(ゆめ)心地(ここち)して、もし、受領(ずりゃう)()どもの()()きしきが、(とう)(きみ)()ぢきこえて、やがて、()(くだ)りにけるにや」とぞ、(おも)()りける。
あの夕顔の宿では、どこに行ってしまったのかと心配するが、そのままで尋ね当て申すことができない。
右近までもが音信ないので、不思議だと思い嘆き合っていた。
はっきりしないが、様子からそうではあるまいかと、ささめき合っていたので、惟光のせいにしたが、まるで問題にもせず、関係なく言い張って、相変わらず同じように通って来たので、ますます夢のような気がして、「もしや、受領の子息で好色な者が、頭の君に恐れ申して、そのまま、連れて下ってしまったのだろうか」と、想像するのだった。
あの五条の家では女主人の行くえが知れないのを捜す方法もなかった。右近までもそれきり便りをして来ないことを不思議に思いながら絶えず心配をしていた。確かなことではないが通って来る人は源氏の君ではないかといわれていたことから、惟光になんらかの消息を得ようともしたが、まったく知らぬふうで、続いて今も女房の所へ恋の手紙が送られるのであったから、人々は絶望を感じて、主人を奪われたことを夢のようにばかり思った。あるいは地方官の息子などの好色男が、頭中将を恐れて、身の上を隠したままで父の任地へでも伴って行ってしまったのではないかとついにはこんな想像をするようになった。
6.1.10
この家主人(いへあるじ)ぞ、西(にし)(きゃう)乳母(めのと)(むすめ)なりける
三人(みたり)その()はありて、右近(うこん)他人(ことびと)なりければ(おも)(へだ)てて(おほん)ありさまを()かせぬなりけり」と、()()ひけり。
右近(うこん)はた、かしかましく()(さわ)がむを(おも)ひて(きみ)(いま)さらに()らさじと(しの)びたまへば、若君(わかぎみ)(うへ)をだにえ()かずあさましく行方(ゆくへ)なくて()ぎゆく。
この家の主人は、西の京の乳母の娘なのであった。
三人乳母子がいたが、右近は他人だったので、「分け隔てして、ご様子を知らせないのだわ」と、泣き慕うのであった。
右近は右近で、口やかましく非難するだろうことを思って、源氏の君も今になって洩らすまいと、お隠しになっているので、若君の噂さえ聞けず、まるきり消息不明のまま過ぎて行く。
この家の持ち主は西の京の乳母の娘だった。乳母の娘は三人で、右近だけが他人であったから便りを聞かせる親切がないのだと恨んで、そして皆夫人を恋しがった。右近のほうでは夫人を頓死させた責任者のように言われるのをつらくも思っていたし、源氏も今になって故人の情人が自分であった秘密を人に知らせたくないと思うふうであったから、そんなことで小さいお嬢さんの消息も聞けないままになって不本意な月日が両方の間にたっていった。
6.1.11
(きみ)は、(ゆめ)をだに()ばや」と、(おぼ)しわたるにこの法事(ほふじ)したまひて、またの()ほのかに、かのありし(ゐん)ながら()ひたりし(をんな)のさま(おな)じやうにて()えければ、()れたりし(ところ)()みけむ(もの)(われ)見入(みい)れけむたよりに、かくなりぬること」と、(おぼ)()づるにもゆゆしくなむ
源氏の君は、「せめて夢にでも逢いたい」と、お思い続けていると、この法事をなさって、次の夜に、ぼんやりと、あの某院そのままに、枕上に現れた女の様子も同じようにして見えたので、「荒れ果てた邸に住んでいた魔物が、わたしに取りついたことで、こんなことになってしまったのだ」と、お思い出しになるにつけても、気味の悪いことである。
源氏はせめて夢にでも夕顔を見たいと、長く願っていたが比叡で法事をした次の晩、ほのかではあったが、やはりその人のいた場所は某の院で、源氏が枕もとにすわった姿を見た女もそこに添った夢を見た。このことで、荒廃した家などに住む妖怪が、美しい源氏に恋をしたがために、愛人を取り殺したのであると不思議が解決されたのである。源氏は自身もずいぶん危険だったことを知って恐ろしかった。

第七章 空蝉の物語(3)


第一段 空蝉、伊予国に下る

7.1.1
伊予介(いよのすけ)神無月(かんなづき)朔日(ついたち)ごろに(くだ)
女房(にょうばう)(くだ)らむにとてたむけ(こころ)ことにせさせたまふ
また、内々(うちうち)にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる(くし)扇多(あふぎおほ)くして、(ぬさ)などわざとがましくて、かの小袿(こうちき)(つか)はす。
伊予介は、神無月の朔日ころに下る。
女方が下って行くのでということで、餞別を格別に気を配っておさせになる。
別に、内々にも特別になさって、きめ細かな美しい格好の櫛や、扇を、たくさん用意して、幣帛などを特別に大げさにして、あの小袿もお返しになる。
伊予介が十月の初めに四国へ立つことになった。細君をつれて行くことになっていたから、普通の場合よりも多くの餞別品が源氏から贈られた。またそのほかにも秘密な贈り物があった。ついでに空蝉の脱殼と言った夏の薄衣も返してやった。
7.1.2 「再び逢う時までの形見の品ぐらいに思って持っていましたが
すっかり涙で朽ちるまでになってしまいました」
逢ふまでの形見ばかりと見しほどに
ひたすら袖の朽ちにけるかな
7.1.3 こまごまとした事柄があるが、煩雑になるので書かない。
細々しい手紙の内容は省略する。
7.1.4 お使いの者は、帰ったけれど、小君を使いにして、小袿のお礼だけは申し上げさせた。
贈り物の使いは帰ってしまったが、そのあとで空蝉は小君を使いにして小袿の返歌だけをした。
7.1.5 「蝉の羽の衣替えの終わった後の夏衣は
返してもらっても自然と泣かれるばかりです」
蝉の羽もたち変へてける夏ごろも
かへすを見ても音は泣かれけり
7.1.6
(おも)へど、あやしう(ひと)()心強(こころづよ)さにても、ふり(はな)れぬるかな」と(おも)(つづ)けたまふ。
今日(けふ)冬立(ふゆた)()なりけるも、しるく、うちしぐれて、(そら)気色(けしき)いとあはれなり。
(なが)()らしたまひて
「考えても、不思議に人並みはずれた意志の強さで、振り切って行ってしまったなあ」と思い続けていらっしゃる。
今日はちょうど立冬の日であったが、いかにもそれと、さっと時雨れて、空の様子もまことに物寂しい。
一日中物思いに過されて、
源氏は空蝉を思うと、普通の女性のとりえない態度をとり続けた女ともこれで別れてしまうのだと歎かれて、運命の冷たさというようなものが感ぜられた。
 今日から冬の季にはいる日は、いかにもそれらしく、時雨がこぼれたりして、空の色も身に沁んだ。終日源氏は物思いをしていて、
7.1.7 「亡くなった人も今日別れて行く人もそれぞれの道に
どこへ行くのか知れない秋の暮れだなあ」
過ぎにしも今日別るるも二みちに
行く方知らぬ秋の暮かな
7.1.8 やはり、このような秘密の恋は辛いものだと、お知りになったであろう。
このような煩わしいことは、努めてお隠しになっていらしたのもお気の毒なので、みな書かないでおいたのに、「どうして、帝の御子であるからといって、それを知っている人までが、欠点がなく何かと褒めてばかりいる」と、作り話のように受け取る方がいらっしゃったので。
あまりにも慎みのないおしゃべりの罪は、免れがたいことで。
などと思っていた。秘密な恋をする者の苦しさが源氏にわかったであろうと思われる。
 こうした空蝉とか夕顔とかいうようなはなやかでない女と源氏のした恋の話は、源氏自身が非常に隠していたことがあるからと思って、最初は書かなかったのであるが、帝王の子だからといって、その恋人までが皆完全に近い女性で、いいことばかりが書かれているではないかといって、仮作したもののように言う人があったから、これらを補って書いた。なんだか源氏に済まない気がする。
著作権
底本 大島本
校訂 Last updated 09/09/2010(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
オリジナル  修正版  比較
ローマ字版 Last updated 3/7/2009 (ver.2-1)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
オリジナル  修正版  比較
ルビ抽出
(ローマ字版から)
Powered by 再編集プログラム v4.05
ひらがな版  ルビ抽出
挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 11/21/2013
渋谷栄一訳(C)(ver.1-3-2)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経
2003年8月14日

関連ファイル
種類ファイル備考
XMLデータ genji04.xml このページに示した情報を保持するXML形式のデータファイルです。
このファイルは再編集プログラムによって2024年11月11日に出力されました。
源氏物語の世界 再編集プログラム Ver. 4.05: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経
ライセンスはGFDL(GNU Free Documentation License)に従うフリードキュメントとします。
ただし、著作権を表示した部分では、その著作権者のライセンスにも従うものとします。
XSLT genjiFrNN.html.xsl.xml
Copyrights.xsl.xml
このページを生成するためにXMLデータファイルと組み合わせて使用するXSLTファイルで、再編集プログラムを構成するコンポーネントの1つです。
再編集プログラムは GPL(GNU General Public License) に従うフリーソフトです。
源氏物語の世界 再編集プログラム Ver. 4.05: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経
このページは XMLデータファイルとXSLTファイルを使って、2024年11月11日に出力されました。
このファイルはGFDL(GNU Free Documentation License) に従うフリードキュメントとします。
ただし、著作権を表示した部分では、その著作権者のライセンスにも従うものとします。