設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | ||
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第三十二帖 梅枝 光る源氏の太政大臣時代三十九歳一月から二月までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
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第一章 光る源氏の物語 薫物合せ |
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第一段 六条院の薫物合せの準備 |
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1.1.1 | 御裳着の儀式、ご準備なさるお心づかい、並々ではない。 春宮も同じ二月に、御元服の儀式がある予定なので、そのまま御入内も続くのであろうか。 |
源氏が十一歳の姫君の |
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1.1.2 | 正月の月末なので、公私ともにのんびりとした頃に、薫物合わせをなさる。 大宰大弐が献上したいくつもの香を御覧になると、「やはり、昔の香には劣っていようか」とお思いになって、二条院の御倉を開けさせなさって、唐の品々を取り寄せなさって、ご比較なさると、 |
一月の末のことで、公私とも |
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1.1.3 | 「錦、綾なども、やはり古い物が好ましく上品であった」 |
「織物などもやはり古い物のほうに芸術的なものが多い」 |
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1.1.4 | とて、 |
とおっしゃって、身近な調度類の、物の覆いや、敷物、座蒲団などの端々に、故院の御代の初め頃、高麗人が献上した綾や、緋金錦類など、今の世の物には比べ物にならず、さらにいろいろとご鑑定なさっては、今回の綾、羅などは、女房たちにご下賜なさる。 |
といって、式場用の物の |
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1.1.5 | 数々の香は、昔のと今のを、取り揃えさせなさって、ご夫人方にお配り申し上げさせなさる。 |
香の原料に昔のと今のとを両方取り混ぜて六条院内の夫人たちと、源氏の尊敬する女友だちに送って、 |
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1.1.6 | 「二種類づつ調合なさって下さい」 |
二種類ずつの薫香を作られたい |
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1.1.7 | と、お願い申し上げさせなさった。 贈物や、上達部への禄など、世にまたとないほどに、内にも外にも、お忙しくお作りなさるに加えて、それぞれに材料を選び準備して、鉄臼の音が喧しく聞こえる頃である。 |
と告げた。裳着の式日の贈り物、高官たちへの |
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1.1.8 | 大臣は、寝殿に離れていらっしゃって、承和の帝の御秘伝の二つの調合法を、どのようにしてお耳にお伝えなさったのであろうか、熱心にお作りになる。 |
源氏は南の町の寝殿へ、夫人の所から離れてこもりながら、どうして習得したのか承和の |
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1.1.9 | 紫の上は、東の対の中の放出に、御設備を特別に厳重におさせになって、八条の式部卿の御調合法を伝えて、互いに競争して調合なさっている間に、たいそう秘密にしていらっしゃるので、 |
夫人は東の |
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1.1.10 | 「匂いの深さ浅さも、勝負けの判定にしよう」 |
こうして夫婦の中にも、秘密をうかがわれまいと苦心する香の優劣を勝負にしよう |
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1.1.11 | と大臣がおっしゃる。 子を持つ親御らしくない競争心である。 |
と言っていた。姫君の親である人たちらしくない競争である。 |
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1.1.12 | いづ |
どちらにも、御前に伺候する女房は多くいない。 御調度類も、多く善美を尽くしていらっしゃる中でも、いくつもの香壷の御箱の作り具合、壷の恰好、香炉の意匠も、見慣れない物で、当世風に、趣向を変えさせていらっしゃるのが、あちらこちらで一生懸命にお作りになったような香の中で、優れた幾種かを、匂いを比べた上で入れようとお考えなのである。 |
どの夫人の所にもこの調合の室に侍している女房は選ばれた少数の者であった。式用の小道具を精巧をきわめて製作させた中でも、特に香合の箱の形、 |
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第二段 二月十日、薫物合せ |
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1.2.1 | 二月の十日、雨が少し降って、御前近くの紅梅の盛りに、色も香も他に似る物がない頃に、兵部卿宮がお越しになった。 御裳着の支度が今日明日に迫ってお忙しいことについて、ご訪問なさる。 昔から特別にお仲が好いので、隠し隔てなく、あの事この事、とご相談なさって、紅梅の花を賞美なさっていらっしゃるところに、前斎院からと言って、散って薄くなった梅の枝に結び付けられているお手紙を持ってまいった。 宮、お聞きになっていたこともあるので、 |
二月の十日であった。雨が少し降って、前の庭の紅梅が色も香もすぐれた名木ぶりを発揮している時に、 |
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1.2.2 | 「どのようなお手紙があちらから参ったのでしょうか」 |
「どんなおたよりがあちらから来たのでしょう」 |
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1.2.3 | とて、をかしと |
とおっしゃって、興味をお持ちになっているので、にっこりして、 |
とお言いになって、好奇心を起こしておいでになるふうの見えるのを、源氏はただ、 |
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1.2.4 | 「たいそう無遠慮なことをお願い申し上げたところ、几帳面に急いでお作りになったのでしょう」 |
「失礼なお願いを私がしましたのを、すぐにその香を作ってくだすったのです」 |
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1.2.5 | とて、 |
とおっしゃって、お手紙はお隠しになった。 |
こう言って、お手紙は隠してしまった。 |
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1.2.6 | 沈の箱に、瑠璃の香壷を二つ置いて、大きく丸めてお入れになってある。 心葉は、紺瑠璃のには五葉の枝を、白いのには白梅を彫って、同じように結んである糸の様子も、優美で女性的にお作りになってある。 |
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1.2.7 | 「優雅な感じのする出来ばえですね」 |
「 |
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1.2.8 | とて、 |
とおっしゃって、お目を止めなさると、 |
と宮は言って、ながめておいでになったが、 |
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1.2.9 | 「花の香りは散ってしまった枝には残っていませんが、 香を焚きしめた袖には深く残るでしょう |
花の香は散りにし うつらん袖に浅くしまめや |
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1.2.10 | 薄墨のほんのりとした筆跡を御覧になって、宮は仰々しく口ずさみなさる。 |
という歌が小さく書かれてあるのにお目がついて、わざとらしくお読み上げになった。 |
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1.2.11 | 宰相中将、お使いの者を捜し出して引き止めさせなさって、たいそう酔わせなさる。 紅梅襲の唐の細長を添えた女装束をお与えになる。 お返事も同じ紙の色で、御前の花を折らせてお付けになる。 |
宰相の中将が来た使いを捜させ |
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1.2.12 | 宮、 |
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1.2.13 | 「どんな内容か気になるお手紙ですね。 どのような秘密があるのか、深くお隠しになさるな」 |
「何だか内容の知りたくなるお手紙ですが、なぜそんなに秘密になさるのだろう」 |
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1.2.14 | と |
と恨んで、ひどく見たがっていらっしゃった。 |
と言って、宮は見たがっておいでになる。 |
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1.2.15 | 「何でもありません。 秘密があるようにお思いになるのが、かえって迷惑です」 |
「何があるものですか、そんなふうによけいな想像をなさるから困るのです」 |
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1.2.16 | とて、 |
とおっしゃって、御筆のついでに、 |
と言って、斎院へ今書いた歌をまた紙にしたためて宮へお見せした。 |
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1.2.17 | 「花の枝にますます心を惹かれることよ 人が咎めるだろうと隠しているが」 |
花の 人のとがむる香をばつつめど |
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1.2.18 | とでもあったのであろうか。 |
というのであるらしい。 |
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1.2.19 | 「まめやかには、 いと |
「実のところ、物好きなようですが、二人といない娘のことですから、こうするのが当然の催しであろうと、存じましてね。 たいそう不器量ですから、疎遠な方にはきまりが悪いので、中宮を御退出おさせ申し上げてと存じております。 親しい間柄でお慣れ申し上げているが、気の置ける点が深くおありの宮なので、何事も世間一般の有様でお見せ申しては、恐れ多いことですから」 |
「少し物好きなようですが、一人娘の成年式だからやむをえないと自分では |
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1.2.20 | など、 |
などと、申し上げなさる。 |
などと源氏は言っていた。 |
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1.2.21 | 「あやかるためにも、おっしゃるとおり、きっとお考えになるはずのことなのでしたね」 |
「そうですね。あやかる人は選ばねばなりませんね。それにはこの上もない方ですよ」 |
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1.2.22 | と、ことわり |
と、ご判断申し上げなさる。 |
と宮は源氏の計らいの当を得ていることをお言いになった。 |
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第三段 御方々の薫物 |
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1.3.1 | このついでに、 |
この機会に、ご夫人方がご調合なさった薫物を、それぞれお使いを出して、 |
前斎院から香の届けられたことと、宮のおいでになったのを機会にして、夫人らの調製した |
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1.3.2 | 「今日の夕方の雨じめりに試してみよう」 |
「湿りけのある今日の空気が香の試験に適していると思いますから」 |
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1.3.3 | とお話申し上げなさっていたので、それぞれに趣向を凝らして差し上げなさった。 |
と言いやられたのである。夫人たちからは、いろいろに作られた香が、いろいろに飾られて来た。 |
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1.3.4 | 「これらをご判定ください。 あなたでなくて誰に出来ましょう」 |
「これを審判してください。あなたのほかに頼む人はない」 |
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1.3.5 | と |
と申し上げなさって、いくつもの御香炉を召して、お試しになる。 |
こう源氏は言って、火入れなどを取り寄せて香をたき試みた。 |
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1.3.6 | 「知る人というほどの者ではありませんが」 |
「知る人(君ならでたれにか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る)でもないのですがね」 |
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1.3.7 | と謙遜なさるが、何とも言えない匂いの中で、香りの強い物や弱い物の一つなどが、わずかの欠点を識別して、強いて優劣の区別をお付けになる。 あのご自分の二種の香は、今お取り出させになる。 |
と宮は |
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1.3.8 | 右近の陣の御溝水の辺に埋める例に倣って、西の渡殿の下から湧き出る遣水の近くに埋めさせなさっていたのを、惟光の宰相の子の兵衛尉が、掘り出して参上した。 宰相中将が、受け取って差し上げさせなさる。 宮、 |
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1.3.9 | 「とても難しい判者に任命されたものですね。 とても煙たくて閉口しますよ」 |
「苦しい審判者になったものですよ。第一けむい」 |
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1.3.10 | と、お困りになる。 同じのは、どこにでも伝わって広がっているようだが、それぞれの好みで調合なさった、深さ浅さを、聞き分けて御覧になると、とても興味深いものが数多かった。 |
と宮は苦しそうに言っておいでになった。同じ法が広く伝えられていても、個人個人の趣味がそれに加わってでき上がった薫香のよさ悪さを比較して |
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1.3.11 | まったくどれと言えない香の中で、斎院の御黒方、そうは言っても、奥ゆかしく落ち着いた匂い、格別である。 侍従の香は、大臣のその御香は、優れて優美でやさしい香りである、とご判定になさる。 |
どれが第一の物とも決められない中にも斎院のお作りになった |
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1.3.12 | 対の上の御香は、三種ある中で、梅花の香が、ぱっと明るくて当世風で、少し鋭く匂い立つように工夫を加えて、珍しい香りが加わっていた。 |
紫の |
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1.3.13 | 「今頃の風に薫らせるには、まったくこれに優る匂いはあるまい」 |
「このごろの |
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1.3.14 | とめでたまふ。 |
と賞美なさる。 |
と宮はおほめになる。 |
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1.3.15 | 夏の御方におかれては、このようにご夫人方が思い思いに競争なさっている中で、人並みにもなるまいと、煙にさえお考えにならないご気性で、ただ荷葉の香を一種調合なさった。 一風変わって、しっとりした香りで、しみじみと心惹かれる。 |
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1.3.16 | 冬の御方におかれても、季節季節に基づいた香が決まっているから、負けるのもつまらないとお考えになって、薫衣香の調合法の素晴らしいのは、前の朱雀院のをお学びなさって、源公忠朝臣が、特別にお選び申した百歩の方などを思いついて、世間にない優美さを調合した、その考えが素晴らしいと、どれも悪い所がないように判定なさるのを、 |
冬の夫人である |
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1.3.17 | 「当たりさわりのない判者ですね」 |
「八方美人の審判者だ」 |
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1.3.18 | と |
と申し上げなさる。 |
と言って源氏は笑っていた。 |
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第四段 薫物合せ後の饗宴 |
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1.4.1 | 月が出たので、御酒などをお召し上がりになって、昔のお話などをなさる。 霞んでいる月の光が奥ゆかしいところに、雨上がりの風が少し吹いて、梅の花の香りが優しく薫り、御殿の辺りに何とも言いようもなく匂い満ちて、皆のお気持ちはとてもうっとりしている。 |
月が出てきたので酒が座に運ばれて、宮と源氏は昔の話を始めておいでになった。うるんだ月の光の |
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1.4.2 | 蔵人所の方にも、明日の管弦の御遊の試演に、お琴類の準備などをして、殿上人などが大勢参上して、美しい幾種もの笛の音が聞こえて来る。 |
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1.4.3 | 内の大殿の頭中将、弁少将なども、挨拶だけで退出するのを、お止めさせになって、いくつも御琴をお取り寄せになる。 |
内大臣の子の |
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1.4.4 | 宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴を差し上げて、頭中将は、和琴を賜って、賑やかに合奏なさっているのは、たいそう興趣深く聞こえる。 宰相中将、横笛をお吹きになる。 季節にあった調べを、雲居に響くほど吹き立てた。 弁少将は拍子を取って、「梅が枝」を謡い出したところ、たいそう興味深い。 子供の時、韻塞ぎの折に、「高砂」を謡った君である。 宮も大臣も一緒にお謡いになって、仰々しくはないが、趣のある夜の管弦の催しである。 |
頭中将は |
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1.4.5 | お杯をお勧めになる時に、宮が、 |
酒杯がさされた時に、宮は、 |
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1.4.6 | 「鴬の声にますます魂が抜け出しそうです 心を惹かれた花の所では、 |
「うぐひすの声にやいとどあくがれん 心しめつる花のあたりに |
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1.4.7 | 千年も過ごしてしまいそうです」 |
千年もいたくなってます」 |
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1.4.8 | と |
とお詠み申し上げなさると、 |
と源氏へお言いになった。 |
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1.4.9 | 「色艶も香りも移り染まるほどに、 今年の春は花の咲くわたしの家を絶えず訪 |
色も香もうつるばかりにこの春は 花咲く宿をかれずもあらなん |
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1.4.10 | 頭中将におさずけになると、受けて、宰相中将に廻す。 |
と源氏は歌ってから、杯を頭の中将へさした。中将は杯を受けたあとで宰相の中将へ杯をまわした。 |
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1.4.11 | 「鴬のねぐらの枝もたわむほど 夜通し笛の音を吹き澄まして下さい」 |
うぐひすのねぐらの枝も なほ吹き通せ |
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1.4.12 | 宰相中将は、 |
と頭の中将は歌ったのである。 |
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1.4.13 | 「気づかって風が避けて吹くらしい梅の花の木に むやみに近づいて笛を吹いてよいものでしょうか |
「心ありて風のよぐめる花の木に とりあへぬまで吹きやよるべき |
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1.4.14 | 無風流ですね」 |
少しひどいでしょうね」 |
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1.4.15 | と、 |
と言うと、 皆お笑いに |
と宰相中将が言うと皆笑った。弁の少将が、 |
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1.4.16 | 「霞でさえ月と花とを隔てなければ ねぐらに帰る鳥も鳴き出すことでしょう」 |
かすみだに月と花とを隔てずば ねぐらの鳥もほころびなまし |
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1.4.17 | ほんとうに、明け方になって、宮はお帰りになる。 御贈物に、ご自身の御料の御直衣のご装束一揃い、手をおつけになっていない薫物を二壷添えて、お車までお届けになる。 宮は、 |
と言った。長居のしたくなる所であるとお言いになったとおりに、宮は明け方になってお帰りになるのであった。源氏は贈り物に、自身のために作られてあった |
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1.4.18 | 「この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら 女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう」 |
花の香をえならぬ ことあやまりと |
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1.4.19 | とあれば、 |
と言うので、 |
宮がこうお歌いになったと聞いて、 |
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1.4.20 | 「いと |
「たいそう弱気ですな」 |
「何と言いわけをしようと御心配なのだね」 |
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1.4.21 | と言ってお笑いになる。 お車に牛を繋ぐところに、追いついて、 |
と源氏は笑った。お車はもう走り出そうとしていたのであったが、使いを追いつかせて、 |
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1.4.22 | 「珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう この花の錦を着て帰るあなたを |
「めづらしとふるさと人も待ちぞ見ん 花の錦を着て帰る君 |
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1.4.23 | めったにないこととお思いになるでしょう」 |
この上ないことだと御満足なさるでしょう」 |
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1.4.24 | とおっしゃるので、とてもつらがりなさる。 以下の公達にも、大げさにならないようにして、細長、小袿などをお与えになる。 |
と源氏がお伝えさせると宮は苦笑をあそばされた。頭中将や弁の少将などにも目だつほどの |
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第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着 |
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第一段 明石の姫君の裳着 |
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2.1.1 | こうして、西の御殿に、戌の刻にお渡りになる。 中宮のいらっしゃる西の放出を整備して、御髪上の内侍なども、そのままこちらに参上した。 紫の上も、この機会に、中宮にご対面なさる。 お二方の女房たちが、一緒に来合わせているのが、数えきれないほど見えた。 |
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2.1.2 | 子の刻に御裳をお召しになる。 大殿油は微かであるが、御器量がまことに素晴らしいと、中宮はご拝見あそばす。 大臣は、 |
裳を付ける式は十二時に始まったのである。ほのかな |
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2.1.3 | 「お見捨てになるまいと期待して、失礼な姿を、進んでお目にかけたのでございます。 後世の前例になろうかと、狭い料簡から密かに考えております」 |
「お愛しくださいますことを頼みにいたしまして、失礼な姿も御前へ出させましたのです。尊貴なあなた様がかようなお世話をくださいますことなどは例もないことであろうと感激に堪えません」 |
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2.1.4 | など |
などと申し上げなさる。 中宮、 |
と源氏は申し上げていた。 |
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2.1.5 | 「どのようなこととも判断せず致したことを、このように大層におっしゃって戴きますと、かえって気が引けてしまいます」 |
「経験の少ない私が何もわからずにいたしておりますことに、そんな御 |
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2.1.6 | と、のたまひ |
と、否定しておっしゃる御様子、とても若々しく愛嬌があるので、大臣も、理想通りに立派なご様子の婦人方が、集まっていらっしゃるのを、お互いの間柄も素晴らしいとお思いになる。 母君が、このような機会でさえお目にかかれないのを、たいそう辛い事と思っているのも気の毒なので、参列させようかしらと、お考えになるが、世間の悪口を慮って、見送った。 |
と御 |
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2.1.7 | このような邸での儀式は、まあまあのものでさえ、とても煩雑で面倒なのだが、一部分だけでも、例によってまとまりなくお伝えするのも、かえってどうかと思い、詳細には書かない。 |
こうした式についての記事は名文で書かれていてもうるさいものであるのを、自分などがだらしなく書いていっては、かえってきれいなりっぱなことをこわしてしまう結果になるのを恐れて、細かにはしるさない。 |
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第二段 明石の姫君の入内準備 |
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2.2.1 | いと |
春宮の御元服は、二十日過ぎの頃に行われたのであった。 たいそう大人でおいであそばすので、人々が娘たちを競争して入内させることを、希望していらっしゃるというが、この殿がご希望していらっしゃる様子が、まことに格別なので、かえって中途半端な宮仕えはしないほうがましだと、左大臣なども、お思い留まりになっているということをお耳になさって、 |
東宮の御元服は二十幾日にあった。もうりっぱな大人のようでいらせられたから、だれも令嬢たちを後宮へ入れたい志望を持ったが、源氏がある自信を持って、姫君を東宮へ奉ろうとしているのを知っては、強大な競争者のあるこの宮仕えはかえって娘を不幸にすることではなかろうかと、左大臣、左大将などもまた |
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2.2.2 | 「じつにもってのほかのことだ。 宮仕えの趣旨は、大勢いる中で、僅かの優劣の差を競うのが本当だろう。 たくさんの優れた姫君たちが、家に引き籠められたならば、何ともおもしろくないだろう」 |
「それではお |
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2.2.3 | とおっしゃって、御入内が延期になった。 その次々にもと差し控えていらっしゃったが、このようなことをあちこちでお聞きになって、左大臣の三の君がご入内なさった。 麗景殿女御と申し上げる。 |
と言って、姫君の宮仕えの時期を延ばした。たとえ娘を出すにしてもあとのことにしようとしていた人たちはそれを聞いて、最初に左大臣が三女を東宮へ入れた。 |
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2.2.4 | この |
こちらの御方は、昔の御宿直所の、淑景舎を改装して、ご入内が延期になったのを、春宮におかれても待ち遠しくお思いあそばすので、四月にとお決めあそばす。 ご調度類も、もとからあったのを整えて、御自身でも、道具類の雛形や図案などを御覧になりながら、優れた諸道の専門家たちを呼び集めて、こまかに磨きお作らせになる。 |
源氏のほうは昔の |
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2.2.5 | いにしへの |
冊子の箱に入れるべき冊子類を、そのまま手本になさることのできるのを選ばせなさる。 昔のこの上もない名筆家たちが、後世にお残しになった筆跡類も、たいそうたくさんある。 |
草紙の箱というような物に入れる草紙で、いずれは製本もさせて書物になるようなものを源氏は選んでいた。故人で、書道のほうの大家と言われている人たちの書いた物も源氏のところにはたくさんあった。 |
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第三段 源氏の仮名論議 |
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2.3.1 | 「すべての事が、昔に比べて劣って、浅くなって行く末世だが、仮名だけは、現代は際限もなく発達したものだ。 昔の字は、筆跡が定まっているようではあるが、ゆったりした感じがあまりなくて、一様に似通った書法であった。 |
「すべてのことは昔より悪くなっていく末世ではあっても、仮名の字だけは、どこまでおもしろくなっていくかと思われるほど、近ごろのほうがよくなった。昔の仮名は正確ではあるが、融通がきかないで、変化の妙がなく単調だ。 |
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2.3.2 | 見事で上手なものは、近頃になって書ける人が出て来たが、平仮名を熱心に習っていた最中に、特に難点のない手本を数多く集めていた中で、中宮の母御息所が何気なくさらさらとお書きになった一行ほどの、無造作な筆跡を手に入れて、格段に優れていると感じたものです。 |
巧妙な仮名を書く人は近代になってふえたが、私も仮名を習うのに熱心だったころ、無難な仮名字を手本にいろいろ集めたものだが、中宮の母君の |
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2.3.3 | そういうことで、 とんでもない浮名までもお流し申してしまったことよ。残念なことと思い込ん でいらっしゃったが、それほど薄情ではなかったのだ。中宮にこのように御後見申し上げていることを、思慮深くいらっしゃっ |
それがもとになって浮き名を立てることになり、私との関係をにがい経験だったように思って、くやしがったままで |
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2.3.4 | 中宮の御筆跡は、こまやかで趣はあるが、才気は少ないようだ」 |
中宮のお字はきれいなようだけれど才気が少ない」 |
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2.3.5 | と、うちささめきて |
と、ひそひそと申し上げなさる。 |
と源氏は夫人にささやいていた。 |
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2.3.6 | 「故入道宮の御筆跡は、たいそう深味もあり優美な手の筋はおありだったが、なよなよした点があって、はなやかさが少なかった。 |
「入道の中宮様は最上の貴婦人らしい品のある字をお書きになったが、弱い所があって、はなやかな気分はない。 |
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2.3.7 | 朱雀院の尚侍は、当代の名人でいらっしゃるが、あまりにしゃれすぎて欠点があるよだ。 そうは言っても、あの尚侍君と、前斎院と、あなたは、上手な方だと思う」 |
院の |
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2.3.8 | と、 |
と、お認め申し上げなさるので、 |
源氏から認められたことで、夫人は、 |
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2.3.9 | 「この方々に仲間入りするのは、恥ずかしいですわ」 |
「そんな方たちといっしょになすっては恥ずかしくてなりませんよ」 |
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2.3.10 | と |
と申し上げなさると、 |
と言っていた。 |
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2.3.11 | 「ひどく謙遜なさってはいけません。 柔和という点の好ましさは、格別なものですよ。 漢字が上手になってくると、仮名は整わない文字が交るようですがね」 |
「 |
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2.3.12 | とて、まだ |
とおっしゃって、まだ書写してない冊子類を作り加えて、表紙や、紐など、たいへん立派にお作らせになる。 |
などとも源氏は言っていて、書かない無地の草紙もまた何帳か新しく |
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2.3.13 | 「兵部卿宮、左衛門督などに書いてもらおう。 わたし自身も二帖は書こう。 いくら自信がおありでも、並ばないことはあるまい」 |
「 |
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2.3.14 | と、われぼめをしたまふ。 |
と、自賛なさる。 |
と源氏は |
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第四段 草子執筆の依頼 |
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2.4.1 | 墨、筆、最上の物を選び出して、いつもの方々に、特別のご依頼のお手紙があると、方々は、難しいこととお思いになって、ご辞退申し上げなさる方もあるので、懇ろにご依頼申し上げなさる。 高麗の紙の薄様風なのが、はなはだ優美なのを、 |
墨も筆も選んだのを添えて、いつもそうした交渉のある所々へ執筆を源氏は頼んだのであったが、だれもこの委嘱に応じるのを困難なことに思って、その中には辞退してくる人もあったが、そんな時に源氏は再三懇切な言葉で執筆を望んだ。朝鮮紙の |
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2.4.2 | 「あの、風流好みの若い人たちを、試してみよう」 |
「風流好きな青年たちにこれを書かせてみよう」 |
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2.4.3 | とて、 |
とおっしゃって、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、 |
と言った。宰相中将、 |
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2.4.4 | 「葦手、歌絵を、各自思い通りに書きなさい」 |
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2.4.5 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、皆それぞれ工夫して競争しているようである。 |
と源氏は言ったのであった。若い人たちは競って製作にかかった。 |
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2.4.6 | いつもの寝殿に独り離れていらっしゃってお書きになる。 花盛りは過ぎて、浅緑色の空がうららかなので、いろいろ古歌などを心静かに考えなさって、ご満足のゆくまで、草仮名も、普通の仮名も、女手も、たいそう見事にこの上なくお書きになる。 |
いつもこんな時にするように、源氏は寝殿のほうへ行っていて書いた。花の盛りが過ぎて淡い緑色がかった空のうららかな日に、源氏は古い詩歌を静かに選びながら、みずから満足のできるだけの字を書こうと、漢字のも仮名のも熱心に書いていた。 |
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2.4.7 | 御前に人は多くいず、女房が二、三人ほどで、墨などをお擦らせになって、由緒ある古い歌集の歌など、どんなものだろうかなどと、選び出しなさるので、相談相手になれる人だけが伺候している。 |
その |
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2.4.8 | 御簾を上げ渡して、脇息の上に冊子をちょっと置いて、端近くに寛いだ姿で、筆の尻をくわえて、考えめぐらしていらっしゃる様子、いつまでも見飽きない美しさである。 白や赤などの、はっきりした色の紙は、筆を取り直して、注意してお書きになっていらっしゃる様子までが、情趣を解せる人は、なるほど感心せずにはいられないご様子である。 |
部屋の |
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第五段 兵部卿宮、草子を持参 |
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2.5.1 | 「 この うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。 |
「兵部卿宮がお越しになりました」と申し上げたので、驚いて御直衣をお召しになって、御敷物を持って来させなさって、そのまま待ち受けて、お入れ申し上げなさる。 この宮もたいそう美しくて、御階を体裁よく歩いて上がっていらっしゃるところを、御簾の中からも女房たちが覗いて拝見する。 丁重に挨拶して、お互いに威儀を正していらっしゃるのも、たいそう美しい。 |
兵部卿の宮がおいでになったということを聞いて源氏は驚いて上に |
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2.5.2 | 「することもなく邸に籠もっておりますのも、辛く存じられますこの頃ののんびりとした折に、ちょうどよくお越し下さいました」 |
「引きこもっていますのが苦しいほど退屈なおりからでしたよ。よくおいでくださいました」 |
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2.5.3 | と、よろこびきこえたまふ。 かの やがて |
と、歓迎申し上げなさる。 あの御依頼の冊子を持たせてお越しになったのであった。 その場で御覧になると、たいして上手でもないご筆跡を、ただ一本調子に、たいそう垢抜けした感じにお書きになってある。 和歌も、技巧を凝らして、風変わりな古歌を選んで、わずか三行ほどに、文字を少なくして好ましく書いていらっしゃった。 大臣、御覧になって驚いた。 |
と源氏は言っていた。お頼まれになった書き物を宮は持っておいでになったのである。すぐこの席で源氏は拝見した。非常に巧妙な字というのではないが、一部分に澄み切った芸術味の見えるものだった。歌も常識的なものは避けて、変わったものが選ばれてあって、ただ三行ほどに字数を少なく感じよく書かれてあった。源氏は予想に越えたおできばえに驚いた。 |
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2.5.4 | 「こんなにまで上手にお書きになるとは存じませんでした。 まったく筆を投げ出してしまいたいほどですね」 |
「これほどにもとは思いませんでした。自分の書くことなどはいやになるほどです」 |
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2.5.5 | と、ねたがりたまふ。 |
と、悔しがりなさる。 |
とも言っていた。 |
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2.5.6 | 「このような名手の中で臆面もなく書く筆跡の具合は、いくら何でもさほどまずくはないと存じます」 |
「大家たちの中へ混じって書く自信だけはえらいものだと思っていますよ」 |
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2.5.7 | など、 |
などと、冗談をおっしゃる。 |
と宮は |
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2.5.8 | お書きになった冊子類を、お隠しすべきものでもないので、お取り出しになって、お互いに御覧になる。 |
すでにできた源氏の帳などもお隠しすべきでないから出して宮の御覧に入れた。 |
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2.5.9 | 唐の紙で、たいそう堅い材質に、草仮名をお書きになっている、まことに結構であると、御覧になると、高麗の紙で、きめが細かで柔らかく優しい感じで、色彩などは派手でなく、優美な感じのする紙に、おっとりした女手で、整然と心を配って、お書きになっている、喩えようもない。 |
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2.5.10 | しどろもどろに |
御覧になる方の涙までが、筆跡に沿って流れるような感じがして、見飽きることのなさそうなところへ、さらに、わが国の紙屋院の色紙の、色合いが派手なのに、乱れ書きの草仮名の和歌を、筆にまかせて散らし書きになさったのは、見るべき点が尽きないほどである。 型にとらわれず自在に愛嬌があって、ずっと見ていたい気がしたので、他の物にはまったく目もおやりにならない。 |
それは見る人の感動した涙も添って流れる気のする |
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第六段 他の人々持参の草子 |
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2.6.1 | 左衛門督は、仰々しくえらそうな書風ばかりを好んで書いているが、筆法の垢抜けしない感じで、技巧を凝らした感じである。 和歌なども、わざとらしい選び方をして書いていた。 |
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2.6.2 | 女君たちのは、そっくりお見せにならない。 斎院のなどは、言うまでもなく取り出しなさらないのであった。 葦手の冊子類が、それぞれに何となく趣があった。 |
女の手になったほうの帳は少しよりお見せしなかった。ことに斎院のなどはまったく隠してお出ししない源氏であった。青年たちによって |
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2.6.3 | 宰相中将のは、水の勢いを豊富に書いて、乱れ生えている葦の様子など、難波の浦に似ていて、あちこちに入り混じって、たいそうすっきりした所がある。 また、たいそう大仰に趣を変えて、字体、石などの様子、風流にお書きになった紙もあるようだ。 |
源中将のは水を豊かに描いて、そそけた蘆のはえた |
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2.6.4 | 「目も及ばぬ素晴らしさだ。 これは手間のかかったにちがいない代物だね」 |
「驚いたものですね。これは見るのに時間を要するものですね」 |
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2.6.5 | と、 |
と、興味深くお誉めになる。 どのようなことにも趣味を持って、風流がりなさる親王なので、とてもたいそうお誉め申し上げなさる。 |
と宮はおもしろがっておいでになった。芸術家風の風流気に富んだ方であったから、お気にいったものはどこまでもおほめになるのである。 |
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第七段 古万葉集と古今和歌集 |
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2.7.1 | 今日はまた、書のことなどを一日中お話しになって、いろいろな継紙をした手本を、何巻かお選び出しになった機会に、御子息の侍従をして、宮邸に所蔵の手本類を取りにおやりになる。 |
この日はまた書の話ばかりをしておいでになって、色紙の継いだ巻き物が幾本となく席上へ現われるのであったが、宮は子息の侍従を |
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2.7.2 | 嵯峨の帝が、『古万葉集』を選んでお書かせあそばした四巻。延喜の帝が、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継いで、同じ色の濃い紋様の綺の表紙、同じ玉の軸、だんだら染に組んだ唐風の組紐など、優美で、巻ごとに御筆跡の書風を変えながら、あらん限りの書の美をお書き尽くしあそばしたのを、大殿油を低い台に燈して御覧になると、 |
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2.7.3 | 「いつまで見ていても見飽きないものだ。 最近の人は、ただ部分的に趣向を凝らしているだけにすぎない」 |
「よくこんなにいろいろなふうにお書きになれたものですね。近ごろの人はほんのこの一部分の仕事をするのに骨を折っているという形ですね」 |
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2.7.4 | など、めでたまふ。 やがてこれはとどめたてまつりたまふ。 |
などと、お誉めになる。 そのままこれらはこちらに献上なさる。 |
などと源氏はおほめしていた。この二種の物は宮から源氏へ御寄贈になった。 |
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2.7.5 | 「女の子などを持っていましたにしても、たいして見る目を持たない者には、伝えたくないのですが、まして、埋もれてしまいますから」 |
「女の子を持っていたとしましても、たいしてこうした物の価値のわからないような子には残してやりたくない気のする物ですからね。それに私には娘もありませんから、お手もとへ置いていただいたほうがよい」 |
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2.7.6 | など |
などと申し上げて差し上げなさる。 侍従に、唐の手本などの特に念入りに書いてあるのを、沈の箱に入れて、立派な高麗笛を添えて、差し上げなさる。 |
などと宮はお言いになったのである。源氏は侍従へ唐本のりっぱなのを |
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2.7.7 | またこのころは、ただ この |
またこの頃は、ひたすら仮名の論評をなさって、世間で能書家だと聞こえた、上中下の人々にも、ふさわしい内容のものを見計らって、探し出してお書かせになる。 この御箱には、身分の低い者のはお入れにならず、特別に、その人の家柄や、地位を区別なさりなさり、冊子、巻物、すべてお書かせ申し上げなさる。 |
近ごろの源氏は書道といってもことに仮名の字を鑑賞することに熱中して、よい字を書くと言われる人は上中下の階級にわたってそれぞれの物を選んで書を頼んでいた。源氏の書いた帳のはいる箱には、高い階級に属した人たちの手になった書だけを、帳も巻き物も珍しい |
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2.7.8 | よろづにめづらかなる |
何もかも珍しい御宝物類、外国の朝廷でさえめったにないような物の中で、この何冊かの本を見たいと心を動かしなさる若い人たちが、世間に多いことであった。 御絵画類をご準備なさる中で、あの『須磨の日記』は、子孫代々に伝えたいとお思いになるが、「もう少し世間がお分りになったら」とお思い返しなさって、まだお取り出しなさらない。 |
他の国の宮廷にもないと思われる |
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第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語 |
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第一段 内大臣家の近況 |
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3.1.1 | つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき |
内大臣は、この入内の御準備を、他人事としてお聞きになるが、たいそう気が気でなく、つまらないとお思いになる。 姫君のご様子、女盛りに成長して、もったいないほどにかわいらしい。 所在なげに塞ぎ込んでいらっしゃる様子は、たいへんなお嘆きの種であるが、あの方のご様子は、どうかといえば、いつも変わらず平気なので、「弱気になってこちらから歩み寄るようなのも、体裁が悪いし、相手が夢中だった時に、言うことを聞いていたら」などと、一人お嘆きになって、一途に悪いと責めることもおできになれない。 |
内大臣は宮廷へはいる大がかりな |
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3.1.2 | このように少し弱気になられたご様子を、宰相の君はお聞きになるが、ひところ冷たかったお心を酷いと思うと、平気を装い、落ち着いた態度で、そうはいっても他の女をという考えお持ちにならず、自分から求めてやるせない思いをする時は多いが、「浅緑の六位」と申して馬鹿にした御乳母どもに、中納言に昇進した姿を見せてやろうとのお気持ちが強いのであろう。 |
こんなふうに少し気の折れてきたことも宰相中将は聞いているのであったが、まだしばらく恨めしい記憶のなくなるまでは落ち着いていないではならないと思って、内大臣に求めることをしなかった。しかも他の恋の対象を作ろうとするような気もしなかった。自身ながらもこうした窮屈な考え方に反感を持つこともあったが、宰相中将は六位であったことを |
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第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓 |
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3.2.1 | 大臣は、「妙に身の固まらないことだ」と、ご心配になって、 |
源氏はどっちつかずに宙に浮いたふうで中将が結婚もしないでいることを見かねて、 |
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3.2.2 | 「あちらの姫君のこと、思い切ってしまったら、右大臣、中務宮などが娘を縁づけたいご意向であるらしいから、どちらなりともお決めなさい」 |
「あちらとの話をあきらめているのなら、左大臣とか、 |
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3.2.3 | とおっしゃるが、何ともお返事申し上げず、恐縮したご様子で伺候していらっしゃる。 |
とも言うのであったが、宰相中将は黙って恐縮したふうを見せているだけであった。 |
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3.2.4 | 「このようなことは、恐れ多い父帝の御教訓でさえ従おうという気にもならなかったのだから、口をさしはさみにくいが、今考えてみると、あの御教訓こそは、今にも通じるものであった。 |
「こんな問題ではお |
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3.2.5 | つれづれとものすれば、 |
所在なく独身でいると、何か考えがあるのかと、世間の人も推量するであろうから、運命の導くままに、平凡な身分の女との結婚に結局落ち着くことになるのは、たいそう尻すぼまりで、みっともないことだ。 |
長く独身でいれば、実現されない幻を描いているかのように人も見るだろうし、それが宿命であるかはしらないが、ついには何の価値もない女といっしょになってしまうような結果を生むことにもなっては、初めよし、 |
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3.2.6 | いみじう いはけなくより、 |
ひどく高望みしても、思うようにならず、限界があることから、浮気心を起こされるな。 幼い時から宮中で成人して、思い通りに動けず、窮屈に、ちょっとした過ちもあったら、軽率の非難を受けようかと、慎重にしていたのでさえ、それでもやはり好色がましい非難を受けて、世間から非難されたものだ。 |
思い上がっていても若い間はほかから誘惑があるからね、多情な行為におちやすいものだが、堕落をしないように心がけねばならない。宮中に育って、自由らしいことは何一つできずに、ただ過失らしいことが一つあるだけでも世間はやかましく批難するだろうと |
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3.2.7 | 位階が低く、気楽な身分だからと、油断して、思いのままの行動などなさるな。 心が自然と思い上がってしまうと、好色心を抑えるべき妻子がいない時、女性関係のことで、賢明な人が、昔も失敗した例があったのだ。 |
身分が低くて注目するものがないなどと思って放縦なことをしてはいけないよ。 |
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3.2.8 | さるまじきことに とりあやまりつつ わがため、 |
けしからぬことに熱中して、相手の浮名を立て、自分も恨まれるのは、後世の妨げとなるのだ。 結婚に失敗したと思いながら共に暮らしている相手が、自分の理想通りでなく、我慢することのできない点があっても、やはり思い直す気を持って、もしくは女の親の心に免じて、もしくは親がいなくなって生活が不十分であっても、人柄がいじらしく思われるような人は、その人柄一つを取柄としてお暮らしなさい。 自分のため、相手のため、末長く添い遂げるような思慮が深くあって欲しいものだ」 |
思ってならない人を思って、女の名も立て自身も人の恨みを負うようなことをしては一生の心の負担になる。不運な結婚をして、女の欠点ばかりが目について苦しいようなことがあっても、そうした時に忍耐をして万人を愛する人道的な心を習得するようにつとめるとか、もしくは娘の親たちの好意を思うことで足りないことを補うとか、また親のない人と結婚した場合にも、不足な境遇も妻が価値のある女であればそれで補うに足ると認識すべきだよ。そうした同情を持つことは自身のためにも妻のためにも将来大きな幸福を得る過程になるのだ」 |
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3.2.9 | などと、のんびりとした所在のない時は、このような心づかいをしきりにお教えになる。 |
こんなことも言って |
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第三段 夕霧と雲居の雁の仲 |
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3.3.1 | かやうなる |
このようなご教訓に従って、冗談にも他の女に心を移すようなことは、かわいそうなことだと、自分からお思いになっている。 女も、いつもより格別に、大臣が思い嘆いていらっしゃるご様子に、顔向けのできない思いで、つらい身の上と悲観していらっしゃるが、表面はさりげなくおっとりとして、物思いに沈んでお過ごしになっている。 |
この教訓の精神から言っても、仮にも初恋の人を忘れて他の女を思うようなことはできないように中将は思っていた。雲井の雁も近ごろになってことさら父が愁色を見せることを知って恥ずかしく思い、自分は不幸な女であると深く思われるのであったが、表面は素知らぬふうを見せて、おおように物思いをしていた。 |
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3.3.2 | お手紙は、我慢しきれない時々に、しみじみと深い思いをこめて書いて差し上げなさる。 「誰の誠実を信じたらよいのか」と思いながら、男を知っている女ならば、むやみに男の心を疑うであろうが、しみじみと御覧になる文句が多いのであった。 |
宰相中将は思い余る時々にだけ情熱のこもった手紙を雲井の雁へ書いた。だが誠をか(偽りと思ふものから今さらにたが誠をかわれは頼まん)と心に思っても、世ずれた人のようにむやみに人を疑うことのない純真な雲井の雁は、中将の手紙に |
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3.3.3 | 「中務宮が、大殿のご内意をも伺って、そのようにもと、お約束なさっているそうです」 |
「 |
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3.3.4 | と女房が申し上げたので、大臣は、改めてお胸がつぶれることであろう。 こっそりと、 |
とこんな |
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3.3.5 | 「こういうことを聞いた。 薄情なお心の方であったな。 大臣が、口添えなさったのに、強情だというので、他へ持って行かれたのだろう。 気弱になって降参しても、人に笑われることだろうし」 |
「あの人がほかの結婚をしてもよいという気になるとはひどい。太政大臣も口をお入れになったことがあるのに、それでも私が強硬だったものだから、今になって大臣はそんなふうに勧められるのだろう。しかしその場合に私が先方の言いなりに結婚を許しても体面上恥ずかしいことだったのだから」 |
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3.3.6 | など、 |
などと、涙を浮かべておっしゃるので、姫君、とても顔も向けられない思いでいるにも、何とはなしに涙がこぼれるので、体裁悪く思って後ろを向いていらっしゃる、そのかわいらしさ、この上もない。 |
などと、目に涙を |
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3.3.7 | 「どうしよう。 やはりこちらから申し出て、先方の意向を聞いてみようか」 |
どうすればいいだろう。やはりこちらから折れて出るべきであろうか |
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3.3.8 | など、 |
などと、お気持ちも迷ってお立ちになった後も、そのまま端近くに物思いに沈んでいらっしゃる。 |
などと |
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3.3.9 | 「妙に、思いがけず流れ出てしまった涙だこと。 どのようにお思いになったかしら」 |
これはなんという愚かな涙であろう、どう父は思ったであろう |
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3.3.10 | などと、あれこれと思案なさっているところに、お手紙がある。 それでもやはり御覧になる。 愛情のこもったお手紙で、 |
などと心を悩ましている所へ、宰相中将の手紙が届いた。恨めしく今まで思っていた人ではあるが、さすがに手紙はすぐあけて読んだ。情のこもった手紙であった。 |
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3.3.11 | 「あなたの冷たいお心は、 つらいこの世の習性となって行きますがそれでも忘れないわた |
つれなさは浮き世の常になり行くを 忘れぬ人や人にことなる |
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3.3.12 | とある。 「そぶりにも仄めかさない、冷たいお方だわ」と、思い続けなさるのはつらいけれども、 |
とも書いてある。父がした話のことなどは少しも書いてないことを雲井の雁は恨めしく思ったが返事を書いた。 |
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3.3.13 | 「もうこれまでだと、 忘れないとおっしゃるわたしのことを忘れるのは |
限りとて忘れがたきを忘るるも こや世に |
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3.3.14 | とあるのを、「妙だな」と、下にも置かれず、首をかしげながらじっと座ったまま手紙を御覧になっていた。 |
この歌の意味が |
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