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第三十二帖 梅枝

光る源氏の太政大臣時代三十九歳一月から二月までの物語

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳

第一章 光る源氏の物語 薫物合せ


第一段 六条院の薫物合せの準備

1.1.1 御裳着の儀式、ご準備なさるお心づかい、並々ではない。
春宮も同じ二月に、御元服の儀式がある予定なので、そのまま御入内も続くのであろうか。
源氏が十一歳の姫君の裳着(もぎ)の式をあげるために設けていたことは並み並みの仕度(したく)でなかった。東宮も同じ二月に御元服があることになっていたが、姫君の東宮へはいることもまた続いて行なわれて行くことらしい。
1.1.2
正月(しゃうがつ)晦日(つごもり)なれば公私(おほやけわたくし)のどやかなるころほひに、薫物合(たきものあ)はせたまふ。
大弐(だいに)(たてまつ)れる(かう)ども御覧(ごらん)ずるになほ、いにしへのには(おと)りてやあらむ」と(おぼ)して、二条院(にでうのゐん)御倉開(みくらあ)けさせたまひて、(から)(もの)ども()(わた)させたまひて、御覧(ごらん)(くら)ぶるに、
正月の月末なので、公私ともにのんびりとした頃に、薫物合わせをなさる。
大宰大弐が献上したいくつもの香を御覧になると、「やはり、昔の香には劣っていようか」とお思いになって、二条院の御倉を開けさせなさって、唐の品々を取り寄せなさって、ご比較なさると、
一月の末のことで、公私とも閑暇(ひま)な季節に、源氏は薫香(くんこう)の調合を思い立った。大弐(だいに)から贈られてあった原料の香木類を出させてみたが、これよりも以前に渡って来た物のほうがあるいはよいかもしれぬという疑問が生じて、二条の院の倉をあけさせて、支那(しな)から来た物を皆六条院へ持って来させたのであったが、源氏はそれらと新しい物とを比較してみた。
1.1.3 「錦、綾なども、やはり古い物が好ましく上品であった」
「織物などもやはり古い物のほうに芸術的なものが多い」
1.1.4
とて、(ちか)(おほん)しつらひの、(もの)(おほ)ひ、敷物(しきもの)(しとね)などの(はし)どもに、故院(こゐん)御世(みよ)(はじ)めつ(かた)高麗人(こまうど)のたてまつれりける(あや)緋金錦(ひごんき)どもなど、(いま)()のものに()ず、なほさまざま御覧(ごらん)じあてつつせさせたまひて、このたびの(あや)(うすもの)などは(ひと)びとに(たま)はす。
とおっしゃって、身近な調度類の、物の覆いや、敷物、座蒲団などの端々に、故院の御代の初め頃、高麗人が献上した綾や、緋金錦類など、今の世の物には比べ物にならず、さらにいろいろとご鑑定なさっては、今回の綾、羅などは、女房たちにご下賜なさる。
といって、式場用の物の(おおい)、敷き物、(しとね)などの端を付けさせるものなどに、故院の御代(みよ)の初めに朝鮮人が(ささ)げた(あや)とか、緋金錦(ひごんき)とかいう織物で、近代の物よりもすぐれた味わいを持った切れ地のそれぞれの使い場所を決めたりした。今度大弐のほうから来た綾や薄物は他へ分けて贈った。
1.1.5
(かう)どもは、昔今(むかしいま)の、()(なら)べさせたまひて、御方々(おほんかたがた)(くば)りたてまつらせたまふ。
数々の香は、昔のと今のを、取り揃えさせなさって、ご夫人方にお配り申し上げさせなさる。
香の原料に昔のと今のとを両方取り混ぜて六条院内の夫人たちと、源氏の尊敬する女友だちに送って、
1.1.6 「二種類づつ調合なさって下さい」
二種類ずつの薫香を作られたい
1.1.7
と、()こえさせたまへり
(おく)(もの)上達部(かんだちめ)(ろく)など、()になきさまに、(うち)にも()にもことしげくいとなみたまふに()へて、方々(かたがた)()りととのへて、鉄臼(かなうす)音耳(おとみみ)かしかましきころなり。
と、お願い申し上げさせなさった。
贈物や、上達部への禄など、世にまたとないほどに、内にも外にも、お忙しくお作りなさるに加えて、それぞれに材料を選び準備して、鉄臼の音が喧しく聞こえる頃である。
と告げた。裳着の式日の贈り物、高官たちへの纏頭(てんとう)の衣服類の製作を手分けして各夫人の所でしているかたわらで、またそれぞれ(えら)び出した香の原料の鉄臼(かなうす)でひかれる音も立って忙しい気のされるころであった。
1.1.8
大臣(おとど)は、寝殿(しんでん)(はな)れおはしまして、承和(じょうわ)(おほん)いましめの(ふた)つの(はう)いかでか御耳(おほんみみ)には(つた)へたまひけむ(こころ)にしめて()はせたまふ。
大臣は、寝殿に離れていらっしゃって、承和の帝の御秘伝の二つの調合法を、どのようにしてお耳にお伝えなさったのであろうか、熱心にお作りになる。
源氏は南の町の寝殿へ、夫人の所から離れてこもりながら、どうして習得したのか承和の(みかど)の秘法といわれる二つの合わせ方で熱心に薫香を作っていた。
1.1.9 紫の上は、東の対の中の放出に、御設備を特別に厳重におさせになって、八条の式部卿の御調合法を伝えて、互いに競争して調合なさっている間に、たいそう秘密にしていらっしゃるので、
夫人は東の(たい)のうちの離れへ人を避ける設備をして、そこで八条の式部卿(しきぶきょう)の宮の秘伝の法で香を作っていた。
1.1.10 「匂いの深さ浅さも、勝負けの判定にしよう」
こうして夫婦の中にも、秘密をうかがわれまいと苦心する香の優劣を勝負にしよう
1.1.11 と大臣がおっしゃる。
子を持つ親御らしくない競争心である。
と言っていた。姫君の親である人たちらしくない競争である。
1.1.12
いづ(かた)にも、御前(おまへ)にさぶらふ(ひと)あまたならず。
調度(おほんてうど)どもも、そこらのきよらを()くしたまへるなかにも、香壺(かうご)御筥(おほんはこ)どものやう、(つぼ)姿(すがた)火取(ひと)りの(こころ)ばへも、目馴(めな)れぬさまに、(いま)めかしう、やう()へさせたまへるに、所々(ところどころ)(こころ)()くしたまへらむ(にほ)ひどもの、すぐれたらむどもを、かぎあはせて()れむと(おぼ)すなりけり。
どちらにも、御前に伺候する女房は多くいない。
御調度類も、多く善美を尽くしていらっしゃる中でも、いくつもの香壷の御箱の作り具合、壷の恰好、香炉の意匠も、見慣れない物で、当世風に、趣向を変えさせていらっしゃるのが、あちらこちらで一生懸命にお作りになったような香の中で、優れた幾種かを、匂いを比べた上で入れようとお考えなのである。
どの夫人の所にもこの調合の室に侍している女房は選ばれた少数の者であった。式用の小道具を精巧をきわめて製作させた中でも、特に香合の箱の形、(つぼ)、火入れの作り方に源氏は意匠を()らさせていたが、その壺へ諸所でできた中のすぐれた薫香を、試みた上で入れようと思っているのであった。

第二段 二月十日、薫物合せ

1.2.1 二月の十日、雨が少し降って、御前近くの紅梅の盛りに、色も香も他に似る物がない頃に、兵部卿宮がお越しになった。
御裳着の支度が今日明日に迫ってお忙しいことについて、ご訪問なさる。
昔から特別にお仲が好いので、隠し隔てなく、あの事この事、とご相談なさって、紅梅の花を賞美なさっていらっしゃるところに、前斎院からと言って、散って薄くなった梅の枝に結び付けられているお手紙を持ってまいった。
宮、お聞きになっていたこともあるので、
二月の十日であった。雨が少し降って、前の庭の紅梅が色も香もすぐれた名木ぶりを発揮している時に、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮が訪問しておいでになった。裳着の式が今日明日のことになっているために、心づかいをしている源氏に見舞いをお述べになった。昔からことに仲のよい御兄弟であったから、いろいろな御相談をしながら花を愛していた時に、前斎院からといって、半分ほど花の散った梅の枝に付けた手紙がこの席へ持って来られた。宮は源氏と前斎院との間に以前あった(うわさ)も知っておいでになったので、
1.2.2 「どのようなお手紙があちらから参ったのでしょうか」
「どんなおたよりがあちらから来たのでしょう」
1.2.3
とて、をかしと(おぼ)したれば、ほほ()みて、
とおっしゃって、興味をお持ちになっているので、にっこりして、
とお言いになって、好奇心を起こしておいでになるふうの見えるのを、源氏はただ、
1.2.4
いと()()れしきこと()こえつけたりしを、まめやかに(いそ)ぎものしたまへるなめり」
「たいそう無遠慮なことをお願い申し上げたところ、几帳面に急いでお作りになったのでしょう」
「失礼なお願いを私がしましたのを、すぐにその香を作ってくだすったのです」
1.2.5
とて、御文(おほんふみ)()(かく)したまひつ。
とおっしゃって、お手紙はお隠しになった。
こう言って、お手紙は隠してしまった。
1.2.6
(ぢん)(はこ)に、瑠璃(るり)坏二(つきふた)()ゑて(おほ)きにまろがしつつ()れたまへり。
心葉(こころば)紺瑠璃(こんるり)には五葉(ごえふ)(えだ)(しろ)きには(むめ)()りて(おな)じくひき(むす)びたる(いと)のさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。
沈の箱に、瑠璃の香壷を二つ置いて、大きく丸めてお入れになってある。
心葉は、紺瑠璃のには五葉の枝を、白いのには白梅を彫って、同じように結んである糸の様子も、優美で女性的にお作りになってある。
(じん)の木の箱に瑠璃(るり)(あし)付きの(はち)を二つ置いて、薫香はやや大きく粒に丸めて入れてあった。贈り物としての飾りは紺瑠璃(こんるり)のほうには五葉の枝、白い瑠璃のほうには梅の花を添えて、結んである糸も皆優美であった。
1.2.7 「優雅な感じのする出来ばえですね」
(えん)にできていますね」
1.2.8 とおっしゃって、お目を止めなさると、
と宮は言って、ながめておいでになったが、
1.2.9 「花の香りは散ってしまった枝には残っていませんが、
香を焚きしめた袖には深く残るでしょう
花の香は散りにし(そで)にとまらねど
うつらん袖に浅くしまめや
1.2.10
ほのかなるを御覧(ごらん)じつけて、(みや)はことことしう()じたまふ。
薄墨のほんのりとした筆跡を御覧になって、宮は仰々しく口ずさみなさる。
という歌が小さく書かれてあるのにお目がついて、わざとらしくお読み上げになった。
1.2.11 宰相中将、お使いの者を捜し出して引き止めさせなさって、たいそう酔わせなさる。
紅梅襲の唐の細長を添えた女装束をお与えになる。
お返事も同じ紙の色で、御前の花を折らせてお付けになる。
宰相の中将が来た使いを捜させ饗応(きょうおう)した。紅梅(がさね)支那(しな)の切れ地でできた細長を添えた女の装束が纏頭(てんとう)に授けられた。返事も紅梅の色の紙に書いて、前の庭の紅梅を切って枝に付けた。
1.2.12
(みや)
宮、

1.2.13
うちのこと(おも)ひやらるる御文(おほんふみ)かな。
(なに)ごとの(かく)ろへあるにか、(ふか)(かく)したまふ」
「どんな内容か気になるお手紙ですね。
どのような秘密があるのか、深くお隠しになさるな」
「何だか内容の知りたくなるお手紙ですが、なぜそんなに秘密になさるのだろう」
1.2.14
(うら)みて、いとゆかしと(おぼ)したり。
と恨んで、ひどく見たがっていらっしゃった。
と言って、宮は見たがっておいでになる。
1.2.15
(なに)ごとかはべらむ
隈々(くまぐま)しく(おぼ)したるこそ、(くる)しけれ」
「何でもありません。
秘密があるようにお思いになるのが、かえって迷惑です」
「何があるものですか、そんなふうによけいな想像をなさるから困るのです」
1.2.16
とて、御硯(おほんすずり)のついでに、
とおっしゃって、御筆のついでに、
と言って、斎院へ今書いた歌をまた紙にしたためて宮へお見せした。
1.2.17 「花の枝にますます心を惹かれることよ
人が咎めるだろうと隠しているが」
花の()にいとど心をしむるかな
人のとがむる香をばつつめど
1.2.18 とでもあったのであろうか。
というのであるらしい。
1.2.19
まめやかには、()()きしきやうなれどまたもなかめる(ひと)(うへ)にてこれこそはことわりのいとなみなめれと、(おも)ひたまへなしてなむ
いと(みにく)ければ(うと)(ひと)はかたはらいたさに、中宮(ちゅうぐう)まかでさせたてまつりて(おも)ひたまふる
(した)しきほどに()れきこえかよへど、()づかしきところの(ふか)うおはする(みや)なれば、(なに)ごとも()(つね)にて()せたてまつらむ、かたじけなくてなむ
「実のところ、物好きなようですが、二人といない娘のことですから、こうするのが当然の催しであろうと、存じましてね。
たいそう不器量ですから、疎遠な方にはきまりが悪いので、中宮を御退出おさせ申し上げてと存じております。
親しい間柄でお慣れ申し上げているが、気の置ける点が深くおありの宮なので、何事も世間一般の有様でお見せ申しては、恐れ多いことですから」
「少し物好きなようですが、一人娘の成年式だからやむをえないと自分では()めまして、こうした騒ぎをしているのですが、ほめたことではありませんから、ほかの方を頼むことはやめまして、中宮(ちゅうぐう)を御所から退出していただいて腰()いをお願いしようと思っています。一家の方になっていらっしゃっても、晴れがましい気のする人格を持っておられますから、並み並みの儀式にしておいてはもったいない気がするのです」
1.2.20
など、()こえたまふ。
などと、申し上げなさる。
などと源氏は言っていた。
1.2.21 「あやかるためにも、おっしゃるとおり、きっとお考えになるはずのことなのでしたね」
「そうですね。あやかる人は選ばねばなりませんね。それにはこの上もない方ですよ」
1.2.22
と、ことわり(まう)したまふ。
と、ご判断申し上げなさる。
と宮は源氏の計らいの当を得ていることをお言いになった。

第三段 御方々の薫物

1.3.1
このついでに、御方々(おほんかたがた)()はせたまふども、おのおの御使(おほんつかひ)して、
この機会に、ご夫人方がご調合なさった薫物を、それぞれお使いを出して、
前斎院から香の届けられたことと、宮のおいでになったのを機会にして、夫人らの調製した薫香(くんこう)も取り寄せる使いが出された。
1.3.2 「今日の夕方の雨じめりに試してみよう」
「湿りけのある今日の空気が香の試験に適していると思いますから」
1.3.3
()こえたまへれば、さまざまをかしうしなして(たてまつ)りたまへり
とお話申し上げなさっていたので、それぞれに趣向を凝らして差し上げなさった。
と言いやられたのである。夫人たちからは、いろいろに作られた香が、いろいろに飾られて来た。
1.3.4 「これらをご判定ください。
あなたでなくて誰に出来ましょう」
「これを審判してください。あなたのほかに頼む人はない」
1.3.5
()こえたまひて、御火取(おほんひと)りども()して、こころみさせたまふ。
と申し上げなさって、いくつもの御香炉を召して、お試しになる。
こう源氏は言って、火入れなどを取り寄せて香をたき試みた。
1.3.6 「知る人というほどの者ではありませんが」
「知る人(君ならでたれにか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る)でもないのですがね」
1.3.7
卑下(ひげ)したまへど、()()らぬ(にほ)ひどもの、(すす)(おく)れたる香一種(かうひとくさ)などが、いささかの(とが)()きて、あながちに(おと)りまさりのけぢめをおきたまふ。
かのわが御二種(おほんふたくさ)のは(いま)()()させたまふ。
と謙遜なさるが、何とも言えない匂いの中で、香りの強い物や弱い物の一つなどが、わずかの欠点を識別して、強いて優劣の区別をお付けになる。
あのご自分の二種の香は、今お取り出させになる。
と宮は謙遜(けんそん)しておいでになったが、においの繊細なよさ悪さを()ぎ分けて、微瑕(びか)も許さないふうに詮索(せんさく)され、等級をおつけになろうとするのであった。源氏の二種の香はこの時になってはじめて取り寄せられた。
1.3.8
右近(うこん)(ぢん)御溝水(みかはみづ)のほとりになずらへて西(にし)渡殿(わたどの)(した)より()づる汀近(みぎはちか)(うづ)ませたまへるを、惟光(これみつ)宰相(さいしゃう)()兵衛尉(ひゃうゑのじょう)()りて(まゐ)れり。
宰相中将(さいしゃうのちゅうじゃう)()りて(つた)(まゐ)らせたまふ。
(みや)
右近の陣の御溝水の辺に埋める例に倣って、西の渡殿の下から湧き出る遣水の近くに埋めさせなさっていたのを、惟光の宰相の子の兵衛尉が、掘り出して参上した。
宰相中将が、受け取って差し上げさせなさる。
宮、
右近衛府(うこんえふ)溝川(みぞかわ)のあたりにうずめるということに代えて、西の渡殿(わたどの)の下から流れて出る園の川の(みぎわ)にうずめてあったのを、惟光(これみつ)宰相の子の兵衛尉(ひょうえのじょう)が掘って持って来たのである。それを宰相中将が受け取って座へ運んで来た。
1.3.9 「とても難しい判者に任命されたものですね。
とても煙たくて閉口しますよ」
「苦しい審判者になったものですよ。第一けむい」
1.3.10
と、(なや)みたまふ。
(おな)じうこそはいづくにも()りつつ(ひろ)ごるべかめるを、(ひと)びとの心々(こころごころ)()はせたまへる、(ふか)(あさ)さを、かぎあはせたまへるに、いと(きょう)あること(おほ)かり。
と、お困りになる。
同じのは、どこにでも伝わって広がっているようだが、それぞれの好みで調合なさった、深さ浅さを、聞き分けて御覧になると、とても興味深いものが数多かった。
と宮は苦しそうに言っておいでになった。同じ法が広く伝えられていても、個人個人の趣味がそれに加わってでき上がった薫香のよさ悪さを比較して()ぐことは興味の多いものであった。
1.3.11
さらにいづれともなき(なか)に、斎院(さいゐん)御黒方(おほんくろばう)さいへども(こころ)にくくしづやかなる(にほ)ひ、ことなり。
侍従(じじゅう)は、大臣(おとど)(おほん)は、すぐれてなまめかしうなつかしき()なり(さだ)めたまふ。
まったくどれと言えない香の中で、斎院の御黒方、そうは言っても、奥ゆかしく落ち着いた匂い、格別である。
侍従の香は、大臣のその御香は、優れて優美でやさしい香りである、とご判定になさる。
どれが第一の物とも決められない中にも斎院のお作りになった黒方香(くろぼうこう)は心憎い静かな趣がすぐれていた。侍従香では源氏の製作がすぐれて(えん)で優美であると宮はお言いになった。
1.3.12
(たい)(うへ)(おほん)は、三種(みくさ)ある(なか)梅花(ばいか)はなやかに(いま)めかしう、すこしはやき(こころ)しつらひを()へて、めづらしき(かを)(くは)はれり。
対の上の御香は、三種ある中で、梅花の香が、ぱっと明るくて当世風で、少し鋭く匂い立つように工夫を加えて、珍しい香りが加わっていた。
紫の女王(にょおう)のは三種あった中で、梅花香ははなやかで若々しく、その上珍しく()えた気の添っているものであった。
1.3.13 「今頃の風に薫らせるには、まったくこれに優る匂いはあるまい」
「このごろの微風(そよかぜ)()き混ぜる物としてはこれに越したにおいはないでしょう」
1.3.14
とめでたまふ。
と賞美なさる。
と宮はおほめになる。
1.3.15
(なつ)御方(おほんかた)には(ひと)びとの、かう心々(こころごころ)(いど)みたまふなる(なか)に、数々(かずかず)にも()()でずやと、(けぶり)をさへ(おも)()たまへる御心(おほんこころ)にて、ただ荷葉(かえふ)一種(ひとくさあ)はせたまへり。
さま()はりしめやかなる()して、あはれになつかし。
夏の御方におかれては、このようにご夫人方が思い思いに競争なさっている中で、人並みにもなるまいと、煙にさえお考えにならないご気性で、ただ荷葉の香を一種調合なさった。
一風変わって、しっとりした香りで、しみじみと心惹かれる。
花散里(はなちるさと)夫人は皆の競争している中へはいることなどは無理であると、こんなことにまで遺憾なく内気さを見せて、荷葉香(かようこう)を一種だけ作って来た。変わった気分のするなつかしいにおいがそれからは()がれた。
1.3.16 冬の御方におかれても、季節季節に基づいた香が決まっているから、負けるのもつまらないとお考えになって、薫衣香の調合法の素晴らしいのは、前の朱雀院のをお学びなさって、源公忠朝臣が、特別にお選び申した百歩の方などを思いついて、世間にない優美さを調合した、その考えが素晴らしいと、どれも悪い所がないように判定なさるのを、
冬の夫人である明石(あかし)の君は、四季を代表する香は決まったものになっているのであるから、冬だけを卑下させておくのもよろしくないと思って、薫衣香(くんえこう)の製法の中にも、すぐれた物とされている以前の朱雀(すざく)院の法を原則にして公忠朝臣(きんただあそん)が精製したといわれる百歩(はくぶ)の処方などを参考として作った物は、製作に払われた苦心の効果の十分に表われた、優美な香を豊かに持たせたものであると、どれにも同情のある批評を宮があそばされるのを、
1.3.17 「当たりさわりのない判者ですね」
「八方美人の審判者だ」
1.3.18
()こえたまふ。
と申し上げなさる。
と言って源氏は笑っていた。

第四段 薫物合せ後の饗宴

1.4.1 月が出たので、御酒などをお召し上がりになって、昔のお話などをなさる。
霞んでいる月の光が奥ゆかしいところに、雨上がりの風が少し吹いて、梅の花の香りが優しく薫り、御殿の辺りに何とも言いようもなく匂い満ちて、皆のお気持ちはとてもうっとりしている。
月が出てきたので酒が座に運ばれて、宮と源氏は昔の話を始めておいでになった。うるんだ月の光の(えん)な夜に、雨ののちの風が少し吹いて、花の香があたりを囲んでいた。だれも皆艶な気持ちに酔っていった。
1.4.2
蔵人所(くらうどどころ)(かた)にも明日(あす)御遊(おほんあそ)びのうちならしに、御琴(おほんこと)どもの装束(さうぞく)などして、殿上人(てんじゃうびと)などあまた(まゐ)りて、をかしき(ふゑ)()ども()こゆ。
蔵人所の方にも、明日の管弦の御遊の試演に、お琴類の準備などをして、殿上人などが大勢参上して、美しい幾種もの笛の音が聞こえて来る。
侍所(さむらいどころ)のほうでは明日ある音楽の合奏のために、下ならしに楽器を出して、たくさん集まっていた殿上役人などが鳴らしてみたり、おもしろい笛の()をたてたりしていた。
1.4.3
(うち)大殿(おほいどの)頭中将(とうのちゅうじゃう)弁少将(べんのせうしゃう)なども見参(げんざん)ばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴(おほんこと)ども()す。
内の大殿の頭中将、弁少将なども、挨拶だけで退出するのを、お止めさせになって、いくつも御琴をお取り寄せになる。
内大臣の子の(とうの)中将や(べん)の少将なども伺候の挨拶(あいさつ)だけをしに来て帰ろうとしたのを、源氏はとめて、そして楽器を侍にこちらへ運ばせた。
1.4.4
(みや)御前(おまへ)琵琶(びは)大臣(おとど)(さう)御琴参(おほんことまゐ)りて、頭中将(とうのちゅうじゃう)和琴賜(わごんたま)はりて、はなやかに()きたてたるほど、いとおもしろく()こゆ。
宰相中将(さいしゃうのちゅうじゃう)横笛吹(よこぶえふ)きたまふ。
(をり)にあひたる調子(てうし)雲居(くもゐ)とほるばかり()きたてたり。
弁少将(べんのせうしゃう)拍子取(ひゃうしと)りて、(むめ)()()だしたるほどいとをかし。
(わらは)にて、韻塞(ゐんふた)ぎの(をり)高砂(たかさご)(うた)ひし(きみ)なり
(みや)大臣(おとど)もさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしき()御遊(おほんあそ)びなり。
宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴を差し上げて、頭中将は、和琴を賜って、賑やかに合奏なさっているのは、たいそう興趣深く聞こえる。
宰相中将、横笛をお吹きになる。
季節にあった調べを、雲居に響くほど吹き立てた。
弁少将は拍子を取って、「梅が枝」を謡い出したところ、たいそう興味深い。
子供の時、韻塞ぎの折に、「高砂」を謡った君である。
宮も大臣も一緒にお謡いになって、仰々しくはないが、趣のある夜の管弦の催しである。
頭中将は和琴(わごん)の役を命ぜられて、はなやかに()き立てて合奏はおもしろいものになった。源宰相中将は横笛を受け持った。春の調子が空までも通るほどに吹き立てた。弁の少将が拍子を取って、美しい声で梅が枝を歌い出した。この人は子供の時韻塞(いんふたぎ)に父と来て高砂(たかさご)を歌った公子である。宮も源氏も時々歌を助けて、たいそうな音楽ではないが、おもしろい音楽の夜ではあった。
1.4.5
御土器参(おほんかはらけまゐ)るに、(みや)
お杯をお勧めになる時に、宮が、
酒杯がさされた時に、宮は、
1.4.6 「鴬の声にますます魂が抜け出しそうです
心を惹かれた花の所では、
「うぐひすの声にやいとどあくがれん
心しめつる花のあたりに
1.4.7 千年も過ごしてしまいそうです」
千年もいたくなってます」
1.4.8
()こえたまへば、
とお詠み申し上げなさると、
と源氏へお言いになった。
1.4.9 「色艶も香りも移り染まるほどに、
今年の春は花の咲くわたしの家を絶えず訪
色も香もうつるばかりにこの春は
花咲く宿をかれずもあらなん
1.4.10
頭中将(とうのちゅうじゃう)(たま)へば、()りて、宰相中将(さいしゃうのちゅうじゃう)にさす。
頭中将におさずけになると、受けて、宰相中将に廻す。
と源氏は歌ってから、杯を頭の中将へさした。中将は杯を受けたあとで宰相の中将へ杯をまわした。
1.4.11 「鴬のねぐらの枝もたわむほど
夜通し笛の音を吹き澄まして下さい」
うぐひすのねぐらの枝も(なび)くまで
なほ吹き通せ夜半(よは)の笛竹
1.4.12
宰相中将(さいしゃうのちゅうじゃう)
宰相中将は、
と頭の中将は歌ったのである。
1.4.13 「気づかって風が避けて吹くらしい梅の花の木に
むやみに近づいて笛を吹いてよいものでしょうか
「心ありて風のよぐめる花の木に
とりあへぬまで吹きやよるべき
1.4.14 無風流ですね」
少しひどいでしょうね」
1.4.15
と、(みな)うち(わら)ひたまふ。
弁少将(べんのせうしゃう)
と言うと、
皆お笑いに
と宰相中将が言うと皆笑った。弁の少将が、
1.4.16 「霞でさえ月と花とを隔てなければ
ねぐらに帰る鳥も鳴き出すことでしょう」
かすみだに月と花とを隔てずば
ねぐらの鳥もほころびなまし
1.4.17
まことに、()(がた)になりてぞ、宮帰(みやかへ)りたまふ。
御贈(おほんおく)(もの)に、みづからの御料(ごれう)御直衣(おほんなほし)(おほん)よそひ一領(ひとくだり)手触(てふ)れたまはぬ薫物二壺添(たきものふたつぼそ)へて、御車(おほんくるま)にたてまつらせたまふ
(みや)
ほんとうに、明け方になって、宮はお帰りになる。
御贈物に、ご自身の御料の御直衣のご装束一揃い、手をおつけになっていない薫物を二壷添えて、お車までお届けになる。
宮は、
と言った。長居のしたくなる所であるとお言いになったとおりに、宮は明け方になってお帰りになるのであった。源氏は贈り物に、自身のために作られてあった直衣(のうし)一領と、手の触れない薫香(くんこう)二壺(ふたつぼ)を宮のお車へ載せさせた。
1.4.18 「この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら
女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう」
花の香をえならぬ(そで)に移しても
ことあやまりと(いも)(とが)めん
1.4.19
とあれば、
と言うので、
宮がこうお歌いになったと聞いて、
1.4.20 「たいそう弱気ですな」
「何と言いわけをしようと御心配なのだね」
1.4.21
(わら)ひたまふ。
御車(おほんくるま)かくるほどに()ひて、
と言ってお笑いになる。
お車に牛を繋ぐところに、追いついて、
と源氏は笑った。お車はもう走り出そうとしていたのであったが、使いを追いつかせて、
1.4.22 「珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう
この花の錦を着て帰るあなたを
「めづらしとふるさと人も待ちぞ見ん
花の錦を着て帰る君
1.4.23 めったにないこととお思いになるでしょう」
この上ないことだと御満足なさるでしょう」
1.4.24
とあれば、いといたうからがりたまふ
次々(つぎつぎ)君達(きみたち)にも、ことことしからぬさまに、細長(ほそなが)小袿(こうちき)などかづけたまふ。
とおっしゃるので、とてもつらがりなさる。
以下の公達にも、大げさにならないようにして、細長、小袿などをお与えになる。
と源氏がお伝えさせると宮は苦笑をあそばされた。頭中将や弁の少将などにも目だつほどの纏頭(てんとう)でなく、細長とか小袿(こうちぎ)とかを源氏は贈ったのであった。

第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着


第一段 明石の姫君の裳着

2.1.1
かくて、西(にし)御殿(おとど)(いぬ)(とき)(わた)りたまふ
(みや)のおはします西(にし)放出(はなちいで)をしつらひて、御髪上(みぐしあげ)内侍(ないし)なども、やがてこなたに(まゐ)れり
(うへ)も、このついでに、中宮(ちゅうぐう)御対面(おほんたいめん)あり
御方々(おほんかたがた)女房(にょうばう)()しあはせたる、(かず)しらず()えたり。
こうして、西の御殿に、戌の刻にお渡りになる。
中宮のいらっしゃる西の放出を整備して、御髪上の内侍なども、そのままこちらに参上した。
紫の上も、この機会に、中宮にご対面なさる。
お二方の女房たちが、一緒に来合わせているのが、数えきれないほど見えた。
裳着(もぎ)の式を行なう西の町へ源氏夫婦と姫君は午後八時に行った。中宮のおいでになる御殿の西の離れに式の設けがされてあって、姫君のお髪上(ぐしあ)げ役の(正装の場合には前髪を少しくくるのである)内侍などもこちらへ来たのである。紫夫人もこのついでに中宮へお目にかかった。中宮付き、夫人付き、姫君付きの盛装した女房のすわっているのが数も知れぬほどに見えた。
2.1.2
()(とき)御裳(おほんも)たてまつる
大殿油(おほとなぶら)ほのかなれど、(おほん)けはひいとめでたしと、(みや)()たてまつれたまふ。
大臣(おとど)
子の刻に御裳をお召しになる。
大殿油は微かであるが、御器量がまことに素晴らしいと、中宮はご拝見あそばす。
大臣は、
裳を付ける式は十二時に始まったのである。ほのかな()の光で御覧になったのであるが、姫君を美しく中宮は思召(おぼしめ)した。
2.1.3
(おぼ)()つまじきを(たの)みにてなめげなる姿(すがた)(すす)御覧(ごらん)ぜられはべるなり。
(のち)()のためしにやと心狭(こころせば)(しの)(おも)ひたまふる」
「お見捨てになるまいと期待して、失礼な姿を、進んでお目にかけたのでございます。
後世の前例になろうかと、狭い料簡から密かに考えております」
「お愛しくださいますことを頼みにいたしまして、失礼な姿も御前へ出させましたのです。尊貴なあなた様がかようなお世話をくださいますことなどは例もないことであろうと感激に堪えません」
2.1.4
など()こえたまふ。
(みや)
などと申し上げなさる。
中宮、
と源氏は申し上げていた。
2.1.5
いかなるべきこととも(おも)うたまへ()きはべらざりつるをかうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか(こころ)おかれぬべく」
「どのようなこととも判断せず致したことを、このように大層におっしゃって戴きますと、かえって気が引けてしまいます」
「経験の少ない私が何もわからずにいたしておりますことに、そんな御挨拶(あいさつ)をしてくださいましてはかえって困ります」
2.1.6
と、のたまひ()つほどの(おほん)けはひいと(わか)愛敬(あいぎゃう)づきたるに、大臣(おとど)も、(おぼ)すさまにをかしき(おほん)けはひどもの、さし(つど)ひたまへるを、あはひめでたく(おぼ)さる。
母君(ははぎみ)の、かかる(をり)だにえ()たてまつらぬをいみじと(おも)へりしも心苦(こころぐる)しうて、()(のぼ)らせやせまし(おぼ)せど、(ひと)のもの()ひをつつみて、()ぐしたまひつ。
と、否定しておっしゃる御様子、とても若々しく愛嬌があるので、大臣も、理想通りに立派なご様子の婦人方が、集まっていらっしゃるのを、お互いの間柄も素晴らしいとお思いになる。
母君が、このような機会でさえお目にかかれないのを、たいそう辛い事と思っているのも気の毒なので、参列させようかしらと、お考えになるが、世間の悪口を慮って、見送った。
と御謙遜(けんそん)して仰せられる中宮の御様子は若々しくて愛嬌(あいきょう)に富んでおいでになるのを見て、この美しい人たちは皆自身の一家族であるという幸福を源氏は感じた。明石(あかし)(かげ)にいてこの晴れの式も見ることのできないことを悲しむふうであったのを哀れに思って、こちらへ呼ぼうかとも源氏は思ったのであるが、やはり外聞をはばかって実行はしなかった。
2.1.7
かかる(ところ)儀式(ぎしき)よろしきにだに、いとこと(おほ)くうるさきを、片端(かたはし)ばかり、(れい)のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに()かず。
このような邸での儀式は、まあまあのものでさえ、とても煩雑で面倒なのだが、一部分だけでも、例によってまとまりなくお伝えするのも、かえってどうかと思い、詳細には書かない。
こうした式についての記事は名文で書かれていてもうるさいものであるのを、自分などがだらしなく書いていっては、かえってきれいなりっぱなことをこわしてしまう結果になるのを恐れて、細かにはしるさない。

第二段 明石の姫君の入内準備

2.2.1
春宮(とうぐう)御元服(おほんげんぷく)は、二十余日(にじふよひ)のほどになむありける
いと大人(おとな)しくおはしませば、(ひと)(むすめ)ども(きほ)(まゐ)らすべきことを、(こころ)ざし(おぼ)すなれどこの殿(との)(おぼ)しきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてや()じらはむと、(ひだり)大臣(おとど)なども(おぼ)しとどまるなるを()こしめして、
春宮の御元服は、二十日過ぎの頃に行われたのであった。
たいそう大人でおいであそばすので、人々が娘たちを競争して入内させることを、希望していらっしゃるというが、この殿がご希望していらっしゃる様子が、まことに格別なので、かえって中途半端な宮仕えはしないほうがましだと、左大臣なども、お思い留まりになっているということをお耳になさって、
東宮の御元服は二十幾日にあった。もうりっぱな大人のようでいらせられたから、だれも令嬢たちを後宮へ入れたい志望を持ったが、源氏がある自信を持って、姫君を東宮へ奉ろうとしているのを知っては、強大な競争者のあるこの宮仕えはかえって娘を不幸にすることではなかろうかと、左大臣、左大将などもまた躊躇(ちゅうちょ)していることを源氏は聞いて、
2.2.2
いとたいだいしきことなり
宮仕(みやづか)への(すぢ)は、あまたあるなかに、すこしのけぢめを(いど)まむこそ本意(ほい)ならめ
そこらの警策(きゃうざく)姫君(ひめぎみ)たち、()()められなば、()()えあらじ」
「じつにもってのほかのことだ。
宮仕えの趣旨は、大勢いる中で、僅かの優劣の差を競うのが本当だろう。
たくさんの優れた姫君たちが、家に引き籠められたならば、何ともおもしろくないだろう」
「それではお(かみ)へ済まないことになる。宮仕えは多数のうちで、ただ少しの御愛寵(あいちょう)の差を競うのに意義があるのだ。貴族がたのりっぱな姫君がお出にならないではこちらも張り合いのないことになる」
2.2.3
とのたまひて、御参(おほんまゐ)()びぬ
次々(つぎつぎ)にもとしづめたまひけるを、かかるよし所々(ところどころ)()きたまひて、左大臣殿(さだいじんどの)(さん)君参(きみまゐ)りたまひぬ。
麗景殿(れいけいでん)()こゆ
とおっしゃって、御入内が延期になった。
その次々にもと差し控えていらっしゃったが、このようなことをあちこちでお聞きになって、左大臣の三の君がご入内なさった。
麗景殿女御と申し上げる。
と言って、姫君の宮仕えの時期を延ばした。たとえ娘を出すにしてもあとのことにしようとしていた人たちはそれを聞いて、最初に左大臣が三女を東宮へ入れた。麗景殿(れいげいでん)と呼ばれることになった。
2.2.4
この御方(おほんかた)は、(むかし)御宿直所(おほんとのゐどころ)淑景舎(しげいさ)(あらた)めしつらひて御参(おほんまゐ)()びぬるを、(みや)にも(こころ)もとながらせたまへば四月(うづき)にと(さだ)めさせたまふ
御調度(おほんてうど)どもも、もとあるよりもととのへて、(おほん)みづからも、ものの下形(したかた)絵様(ゑやう)などをも御覧(ごらん)()れつつ、すぐれたる道々(みちみち)上手(じゃうず)どもを()(あつ)めて、こまかに(みが)きととのへさせたまふ。
こちらの御方は、昔の御宿直所の、淑景舎を改装して、ご入内が延期になったのを、春宮におかれても待ち遠しくお思いあそばすので、四月にとお決めあそばす。
ご調度類も、もとからあったのを整えて、御自身でも、道具類の雛形や図案などを御覧になりながら、優れた諸道の専門家たちを呼び集めて、こまかに磨きお作らせになる。
源氏のほうは昔の宿直所(とのいどころ)桐壺(きりつぼ)の室内装飾などを直させることなどで時日が延びているのを、東宮は待ち遠しく思召す御様子であったから、四月に参ることに定めた。姫君の手道具類なども、もとからあるのにまた新しく作り添えて、源氏自身が型を考えたり、図案をこしらえたりしては専門家の名人を集めて、美術的な製作を命じていた。
2.2.5
草子(さうし)(はこ)()るべき草子(さうし)どもの、やがて(ほん)にもしたまふべきを()らせたまふ。
いにしへの(かみ)なき(きは)御手(おほんて)どもの、()()(のこ)したまへるたぐひのも、いと(おほ)くさぶらふ。
冊子の箱に入れるべき冊子類を、そのまま手本になさることのできるのを選ばせなさる。
昔のこの上もない名筆家たちが、後世にお残しになった筆跡類も、たいそうたくさんある。
草紙の箱というような物に入れる草紙で、いずれは製本もさせて書物になるようなものを源氏は選んでいた。故人で、書道のほうの大家と言われている人たちの書いた物も源氏のところにはたくさんあった。

第三段 源氏の仮名論議

2.3.1
よろづのこと(むかし)には(おと)りざまに、(あさ)くなりゆく()(すゑ)なれど、仮名(かんな)のみなむ、(いま)()はいと(きは)なくなりたる。
(ふる)(あと)は、(さだ)まれるやうにはあれど、(ひろ)(こころ)ゆたかならず、一筋(ひとすぢ)(かよ)ひてなむありける
「すべての事が、昔に比べて劣って、浅くなって行く末世だが、仮名だけは、現代は際限もなく発達したものだ。
昔の字は、筆跡が定まっているようではあるが、ゆったりした感じがあまりなくて、一様に似通った書法であった。
「すべてのことは昔より悪くなっていく末世ではあっても、仮名の字だけは、どこまでおもしろくなっていくかと思われるほど、近ごろのほうがよくなった。昔の仮名は正確ではあるが、融通がきかないで、変化の妙がなく単調だ。
2.3.2
(たへ)にをかしきことは、()よりてこそ()()づる(ひと)びとありけれど、女手(をんなで)(こころ)()れて(なら)ひし(さか)りに、こともなき手本多(てほんおほ)(つど)へたりしなかに、中宮(ちゅうぐう)母御息所(ははみやすんどころ)(こころ)にも()れず(はし)()いたまへりし一行(ひとくだり)ばかり、わざとならぬを()て、(きは)ことにおぼえしはや。
見事で上手なものは、近頃になって書ける人が出て来たが、平仮名を熱心に習っていた最中に、特に難点のない手本を数多く集めていた中で、中宮の母御息所が何気なくさらさらとお書きになった一行ほどの、無造作な筆跡を手に入れて、格段に優れていると感じたものです。
巧妙な仮名を書く人は近代になってふえたが、私も仮名を習うのに熱心だったころ、無難な仮名字を手本にいろいろ集めたものだが、中宮の母君の御息所(みやすどころ)が何ともなしに書かれた一行か二行の字が手にはいって、最上の仮名字はこれだと心酔してしまったものです。
2.3.3
さて、あるまじき御名(おほんな)()てきこえしぞかし
(くや)しきことに(おも)ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり
(みや)にかく後見仕(うしろみつか)うまつることを、心深(こころふか)うおはせしかば、()御影(おほんかげ)にも見直(みなほ)したまふらむ。
そういうことで、
とんでもない浮名までもお流し申してしまったことよ。残念なことと思い込ん
でいらっしゃったが、それほど薄情ではなかったのだ。中宮にこのように御後見申し上げていることを、思慮深くいらっしゃっ
それがもとになって浮き名を立てることになり、私との関係をにがい経験だったように思って、くやしがったままで()くなられたが、必ずしもそうではなかったのだ。今は中宮をお(たす)けしていることで、聡明(そうめい)な人だったから、あの世ででも私の誠意を認めておいでになることだろう。
2.3.4
(みや)御手(おほんて)こまかにをかしげなれど、かどや(おく)れたらむ」
中宮の御筆跡は、こまやかで趣はあるが、才気は少ないようだ」
中宮のお字はきれいなようだけれど才気が少ない」
2.3.5
と、うちささめきて()こえたまふ。
と、ひそひそと申し上げなさる。
と源氏は夫人にささやいていた。
2.3.6
故入道宮(こにふだうのみや)御手(おほんて)いとけしき(ふか)うなまめきたる(すぢ)はありしかど、(よわ)きところありて、にほひぞすくなかりし。
「故入道宮の御筆跡は、たいそう深味もあり優美な手の筋はおありだったが、なよなよした点があって、はなやかさが少なかった。
「入道の中宮様は最上の貴婦人らしい品のある字をお書きになったが、弱い所があって、はなやかな気分はない。
2.3.7
(ゐん)尚侍(かんのきみ)こそ(いま)()上手(じゃうず)におはすれど、あまりそぼれて(くせ)()ひためる。
さはありとも、かの(きみ)と、前斎院(さきのさいゐん)と、ここにとこそは、()きたまはめ
朱雀院の尚侍は、当代の名人でいらっしゃるが、あまりにしゃれすぎて欠点があるよだ。
そうは言っても、あの尚侍君と、前斎院と、あなたは、上手な方だと思う」
院の尚侍(ないしのかみ)は現代の最もすぐれた書き手だが、奔放すぎて癖が出てくる。しかし、ともかくも院の尚侍と前斎院と、あなたをこの草紙の書き手に擬していますよ」
2.3.8
と、(ゆる)しきこえたまへば、
と、お認め申し上げなさるので、
源氏から認められたことで、夫人は、
2.3.9 「この方々に仲間入りするのは、恥ずかしいですわ」
「そんな方たちといっしょになすっては恥ずかしくてなりませんよ」
2.3.10
()こえたまへば、
と申し上げなさると、
と言っていた。
2.3.11 「ひどく謙遜なさってはいけません。
柔和という点の好ましさは、格別なものですよ。
漢字が上手になってくると、仮名は整わない文字が交るようですがね」
謙遜(けんそん)をしすぎますよ。柔らかな調子のとてもいい所がある。漢字は上手(じょうず)に書けますが、仮名には時々力の抜けた字の混じる欠点はありますね」
2.3.12
とて、まだ()かぬ草子(さうし)ども(つく)(くは)へて、表紙(へうし)(ひも)などいみじうせさせたまふ。
とおっしゃって、まだ書写してない冊子類を作り加えて、表紙や、紐など、たいへん立派にお作らせになる。
などとも源氏は言っていて、書かない無地の草紙もまた何帳か新しく()じさせた。表紙や(ひも)などを細かく精選したことは言うまでもない。
2.3.13
兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)左衛門督(さゑもんのかみ)などにものせむ
みづから一具(ひとよろひ)()くべし。
けしきばみいますがりとも、()(なら)べじや」
「兵部卿宮、左衛門督などに書いてもらおう。
わたし自身も二帖は書こう。
いくら自信がおありでも、並ばないことはあるまい」
兵部卿(ひょうぶきょう)の宮とか左衛門督(さえもんのかみ)とかにもお頼みしよう。私も一冊書く。気どっておられても私といっしょに書くことは晴れがましいだろう」
2.3.14
と、われぼめをしたまふ。
と、自賛なさる。
と源氏は自讃(じさん)していた。

第四段 草子執筆の依頼

2.4.1
(すみ)(ふで)(なら)びなく()()でて、(れい)所々(ところどころ)に、ただならぬ御消息(おほんせうそこ)あれば、(ひと)びと、(かた)きことに(おぼ)して、(かへ)さひ(まう)したまふもあれば、まめやかに()こえたまふ。
高麗(こま)(かみ)薄様(うすやう)だちたるが、せめてなまめかしきを、
墨、筆、最上の物を選び出して、いつもの方々に、特別のご依頼のお手紙があると、方々は、難しいこととお思いになって、ご辞退申し上げなさる方もあるので、懇ろにご依頼申し上げなさる。
高麗の紙の薄様風なのが、はなはだ優美なのを、
墨も筆も選んだのを添えて、いつもそうした交渉のある所々へ執筆を源氏は頼んだのであったが、だれもこの委嘱に応じるのを困難なことに思って、その中には辞退してくる人もあったが、そんな時に源氏は再三懇切な言葉で執筆を望んだ。朝鮮紙の薄様(うすよう)風な非常に(えん)な感じのする紙の()じられた帳を源氏は見て、
2.4.2 「あの、風流好みの若い人たちを、試してみよう」
「風流好きな青年たちにこれを書かせてみよう」
2.4.3
とて、宰相中将(さいしゃうのちゅうじゃう)式部卿宮(しきぶきゃうのみや)兵衛督(ひゃうゑのかみ)(うち)大殿(おほいどの)頭中将(とうのちゅうじゃう)などに、
とおっしゃって、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、
と言った。宰相中将、式部卿(しきぶきょう)の宮の兵衛督(ひょうえのかみ)、内大臣家の(とうの)中将などに、
2.4.4 「葦手、歌絵を、各自思い通りに書きなさい」
蘆手(あしで)とか、歌絵とか、何でも思い思いに書くように
2.4.5
とのたまへば、皆心々(みなこころごころ)(いど)むべかめり。
とおっしゃると、皆それぞれ工夫して競争しているようである。
と源氏は言ったのであった。若い人たちは競って製作にかかった。
2.4.6 いつもの寝殿に独り離れていらっしゃってお書きになる。
花盛りは過ぎて、浅緑色の空がうららかなので、いろいろ古歌などを心静かに考えなさって、ご満足のゆくまで、草仮名も、普通の仮名も、女手も、たいそう見事にこの上なくお書きになる。
いつもこんな時にするように、源氏は寝殿のほうへ行っていて書いた。花の盛りが過ぎて淡い緑色がかった空のうららかな日に、源氏は古い詩歌を静かに選びながら、みずから満足のできるだけの字を書こうと、漢字のも仮名のも熱心に書いていた。
2.4.7
御前(おまへ)(ひと)しげからず、女房二(にょうばうふたり)三人(みたり)ばかり、(すみ)など()らせたまひて、ゆゑある(ふる)(しふ)(うた)など、いかにぞやなど()()でたまふに、口惜(くちを)しからぬ(かぎ)りさぶらふ。
御前に人は多くいず、女房が二、三人ほどで、墨などをお擦らせになって、由緒ある古い歌集の歌など、どんなものだろうかなどと、選び出しなさるので、相談相手になれる人だけが伺候している。
その部屋(へや)には女房も多くは置かずにただ二、三人、墨をすらせたり、古い歌集の歌を命ぜられたとおりに捜し出したりするのに役にたつような者を呼んであった。
2.4.8
御簾上(みすあ)げわたして、脇息(けふそく)(うへ)草子(さうし)うち()き、端近(はしちか)くうち(みだ)れて、(ふで)(しり)くはへて、(おも)ひめぐらしたまへるさま、()()なくめでたし
(しろ)(あか)きなど、掲焉(けちえん)なる(ひら)は、(ふで)とり(なほ)し、用意(ようい)したまへるさまさへ、見知(みし)らむ(ひと)は、げにめでぬべき(おほん)ありさまなり
御簾を上げ渡して、脇息の上に冊子をちょっと置いて、端近くに寛いだ姿で、筆の尻をくわえて、考えめぐらしていらっしゃる様子、いつまでも見飽きない美しさである。
白や赤などの、はっきりした色の紙は、筆を取り直して、注意してお書きになっていらっしゃる様子までが、情趣を解せる人は、なるほど感心せずにはいられないご様子である。
部屋の御簾(みす)は皆上げて、脇息(きょうそく)の上に帳を置いて、縁に近い所でゆるやかな姿で、筆の柄を口にくわえて思案する源氏はどこまでも美しかった。白とか赤とかきわだった(ひら)は、筆を取り直して特に注意して書いたりする態度なども、心のある者は敬意を払わずにいられないことであった。

第五段 兵部卿宮、草子を持参

2.5.1
兵部卿宮渡(ひゃうぶきゃうのみやわた)りたまふ」と()こゆれば、おどろきて、御直衣(おほんなほし)たてまつり、御茵参(おほんしとねまゐ)()へさせたまひて、やがて()()り、()れたてまつりたまふ。
この(みや)もいときよげにて、御階(みはし)さまよく(あゆ)(のぼ)りたまふほど、(うち)にも(ひと)びとのぞきて()たてまつる。
うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。
「兵部卿宮がお越しになりました」と申し上げたので、驚いて御直衣をお召しになって、御敷物を持って来させなさって、そのまま待ち受けて、お入れ申し上げなさる。
この宮もたいそう美しくて、御階を体裁よく歩いて上がっていらっしゃるところを、御簾の中からも女房たちが覗いて拝見する。
丁重に挨拶して、お互いに威儀を正していらっしゃるのも、たいそう美しい。
兵部卿の宮がおいでになったということを聞いて源氏は驚いて上に直衣(のうし)を着たり、座敷へさらに(しとね)を取り寄せたりしてお迎えした。この宮もきれいなお姿で、階段を(えん)に上っておいでになるのを、女房たちは御簾(みす)からのぞいていた。互いに正しい礼儀で御挨拶(あいさつ)がかわされた。
2.5.2
つれづれに()もりはべるも、(くる)しきまで(おも)うたまへらるる(こころ)ののどけさに(をり)よく(わた)らせたまへる」
「することもなく邸に籠もっておりますのも、辛く存じられますこの頃ののんびりとした折に、ちょうどよくお越し下さいました」
「引きこもっていますのが苦しいほど退屈なおりからでしたよ。よくおいでくださいました」
2.5.3 と、歓迎申し上げなさる。
あの御依頼の冊子を持たせてお越しになったのであった。
その場で御覧になると、たいして上手でもないご筆跡を、ただ一本調子に、たいそう垢抜けした感じにお書きになってある。
和歌も、技巧を凝らして、風変わりな古歌を選んで、わずか三行ほどに、文字を少なくして好ましく書いていらっしゃった。
大臣、御覧になって驚いた。
と源氏は言っていた。お頼まれになった書き物を宮は持っておいでになったのである。すぐこの席で源氏は拝見した。非常に巧妙な字というのではないが、一部分に澄み切った芸術味の見えるものだった。歌も常識的なものは避けて、変わったものが選ばれてあって、ただ三行ほどに字数を少なく感じよく書かれてあった。源氏は予想に越えたおできばえに驚いた。
2.5.4
かうまでは(おも)ひたまへずこそありつれ。
さらに筆投(ふでな)()てつべしや」
「こんなにまで上手にお書きになるとは存じませんでした。
まったく筆を投げ出してしまいたいほどですね」
「これほどにもとは思いませんでした。自分の書くことなどはいやになるほどです」
2.5.5
と、ねたがりたまふ。
と、悔しがりなさる。
とも言っていた。
2.5.6
かかる御中(おほんなか)(おも)なくくだす(ふで)のほど、さりともとなむ(おも)うたまふる」
「このような名手の中で臆面もなく書く筆跡の具合は、いくら何でもさほどまずくはないと存じます」
「大家たちの中へ混じって書く自信だけはえらいものだと思っていますよ」
2.5.7
など、(たはぶ)れたまふ。
などと、冗談をおっしゃる。
と宮は戯談(じょうだん)を言っておいでになる。
2.5.8
()きたまへる草子(さうし)どもも、(かく)したまふべきならねば、()()たまひて、かたみに御覧(ごらん)ず。
お書きになった冊子類を、お隠しすべきものでもないので、お取り出しになって、お互いに御覧になる。
すでにできた源氏の帳などもお隠しすべきでないから出して宮の御覧に入れた。
2.5.9 唐の紙で、たいそう堅い材質に、草仮名をお書きになっている、まことに結構であると、御覧になると、高麗の紙で、きめが細かで柔らかく優しい感じで、色彩などは派手でなく、優美な感じのする紙に、おっとりした女手で、整然と心を配って、お書きになっている、喩えようもない。
支那(しな)の紙のじみな色をしたのへ、漢字を草書で書かれたのがすぐれて美しいと宮は見ておいでになったが、またそのあとで、朝鮮紙の地のきめの細かい柔らかな感じのする、色などは派手(はで)でない(えん)なのへ、仮名文字が、しかも正しく熱の見える字で書かれてある絶妙な物をお見つけになった。
2.5.10
()たまふ(ひと)(なみだ)さへ、水茎(みづぐき)(なが)()心地(ここち)して、()()あるまじきに、また、ここの紙屋(かみゃ)色紙(しきし)の、(いろ)あひはなやかなるに(みだ)れたる(さう)(うた)を、(ふで)にまかせて(みだ)()きたまへる、見所限(みどころかぎ)りなし。
しどろもどろに愛敬(あいぎゃう)づき、()まほしければ、さらに(のこ)りどもに()()やりたまはず。
御覧になる方の涙までが、筆跡に沿って流れるような感じがして、見飽きることのなさそうなところへ、さらに、わが国の紙屋院の色紙の、色合いが派手なのに、乱れ書きの草仮名の和歌を、筆にまかせて散らし書きになさったのは、見るべき点が尽きないほどである。
型にとらわれず自在に愛嬌があって、ずっと見ていたい気がしたので、他の物にはまったく目もおやりにならない。
それは見る人の感動した涙も添って流れる気のする墨蹟(ぼくせき)で、いつまでも目をお放しになることができないのであったが、また日本製の紙屋紙(かんやがみ)の色紙の、はなやかな色をしたのへ奔放に散らし書きをした物には無限のおもしろさがあるようにもお思われになって、乱れ書きにした端々にまで人を酔わせるような愛嬌がこもっているこの(ひら)以外の物はもう見ようともされないのであった。

第六段 他の人々持参の草子

2.6.1
左衛門督(さゑもんのかみ)は、ことことしうかしこげなる(すぢ)をのみ(この)みて()きたれど、(ふで)(おき)()まぬ心地(ここち)して、いたはり(くは)へたるけしきなり。
(うた)なども、ことさらめきて、()()きたり。
左衛門督は、仰々しくえらそうな書風ばかりを好んで書いているが、筆法の垢抜けしない感じで、技巧を凝らした感じである。
和歌なども、わざとらしい選び方をして書いていた。
左衛門督(さえもんのかみ)の字は本格的に書いてあるのであるが、俗気(ぞくけ)が抜け切らずに、技巧が技巧として目についた。歌などもわざとらしいものが選ばれてある。
2.6.2
(をんな)(おほん)まほにも()()でたまはず。
斎院(さいゐん)のなどは、まして()()たまはざりけり。
葦手(あしで)草子(さうし)どもぞ、心々(こころごころ)はかなうをかしき
女君たちのは、そっくりお見せにならない。
斎院のなどは、言うまでもなく取り出しなさらないのであった。
葦手の冊子類が、それぞれに何となく趣があった。
女の手になったほうの帳は少しよりお見せしなかった。ことに斎院のなどはまったく隠してお出ししない源氏であった。青年たちによって蘆手(あしで)の書かれた幾冊かの帳はとりどりにおもしろかった。
2.6.3
宰相中将(さいしゃうのちゅうじゃう)のは、(みづ)(いきほ)(ゆたか)()きなし、そそけたる(あし)()ひざまなど、難波(なには)(うら)(かよ)ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう()みたるところあり。
また、いといかめしう、ひきかへて、文字(もじ)やう、(いし)などのたたずまひ、(この)()きたまへる(ひら)もあめり。
宰相中将のは、水の勢いを豊富に書いて、乱れ生えている葦の様子など、難波の浦に似ていて、あちこちに入り混じって、たいそうすっきりした所がある。
また、たいそう大仰に趣を変えて、字体、石などの様子、風流にお書きになった紙もあるようだ。
源中将のは水を豊かに描いて、そそけた蘆のはえた景色(けしき)浪速(なにわ)の浦が思われるのへ、そちらへあちらへ美しい歌の字が配られているような、澄んだ調子のものがあるかと思うと、また全然変わった奇岩の立った風景に相応した雄健な仮名の書かれてある(ひら)もあるというような蘆手であった。
2.6.4 「目も及ばぬ素晴らしさだ。
これは手間のかかったにちがいない代物だね」
「驚いたものですね。これは見るのに時間を要するものですね」
2.6.5
と、(きょう)じめでたまふ。
何事(なにごと)ももの(ごの)みし、(えん)がりおはする親王(みこ)にて、いといみじうめできこえたまふ。
と、興味深くお誉めになる。
どのようなことにも趣味を持って、風流がりなさる親王なので、とてもたいそうお誉め申し上げなさる。
と宮はおもしろがっておいでになった。芸術家風の風流気に富んだ方であったから、お気にいったものはどこまでもおほめになるのである。

第七段 古万葉集と古今和歌集

2.7.1
今日(けふ)はまた、()のことどものたまひ()らし、さまざまの継紙(つぎかみ)(ほん)ども、()()でさせたまへるついでに、御子(みこ)侍従(じじゅう)して、(みや)にさぶらふ(ほん)ども()りに(つか)はす。
今日はまた、書のことなどを一日中お話しになって、いろいろな継紙をした手本を、何巻かお選び出しになった機会に、御子息の侍従をして、宮邸に所蔵の手本類を取りにおやりになる。
この日はまた書の話ばかりをしておいでになって、色紙の継いだ巻き物が幾本となく席上へ現われるのであったが、宮は子息の侍従を(やしき)へおやりになって、御蔵品もお取り寄せになった。
2.7.2
嵯峨(さが)(みかど)の、古万葉集(こまんえふしふ)』を(えら)()かせたまへる四巻(よまき)延喜(えんぎ)(みかど)の、古今和歌集(こきんわかしふ)』を、(から)浅縹(あさはなだ)(かみ)()ぎて、(おな)(いろ)()(もん)()表紙(へうし)(おな)じき(たま)(じく)(だん)唐組(からくみ)(ひも)など、なまめかしうて、(まき)ごとに御手(おほんて)(すぢ)()へつつ、いみじう()()くさせたまへる、大殿油短(おほとなぶらみじか)(まゐ)りて御覧(ごらん)ずるに、
嵯峨の帝が、『古万葉集』を選んでお書かせあそばした四巻。延喜の帝が、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継いで、同じ色の濃い紋様の綺の表紙、同じ玉の軸、だんだら染に組んだ唐風の組紐など、優美で、巻ごとに御筆跡の書風を変えながら、あらん限りの書の美をお書き尽くしあそばしたのを、大殿油を低い台に燈して御覧になると、
嵯峨(さが)帝が古万葉集から(えら)んでお置きになった四巻、延喜(えんぎ)(みかど)が古今集を支那(しな)薄藍(うすあい)色の色紙を継いだ、同じ色の濃く模様の出た唐紙(とうし)の表紙、同じ色の宝石の軸の巻き物へ、巻ごとに書風を変えてお書きになったものなどがそれであった。台を短くした()を置いて二人で見ておいでになったが、
2.7.3
()きせぬものかな
このころの(ひと)は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ」
「いつまで見ていても見飽きないものだ。
最近の人は、ただ部分的に趣向を凝らしているだけにすぎない」
「よくこんなにいろいろなふうにお書きになれたものですね。近ごろの人はほんのこの一部分の仕事をするのに骨を折っているという形ですね」
2.7.4
など、めでたまふ。
やがてこれはとどめたてまつりたまふ。
などと、お誉めになる。
そのままこれらはこちらに献上なさる。
などと源氏はおほめしていた。この二種の物は宮から源氏へ御寄贈になった。
2.7.5 「女の子などを持っていましたにしても、たいして見る目を持たない者には、伝えたくないのですが、まして、埋もれてしまいますから」
「女の子を持っていたとしましても、たいしてこうした物の価値のわからないような子には残してやりたくない気のする物ですからね。それに私には娘もありませんから、お手もとへ置いていただいたほうがよい」
2.7.6
など()こえてたてまつれたまふ。
侍従(じじゅう)に、(から)(ほん)などのいとわざとがましき、(ぢん)(はこ)()れて、いみじき高麗笛添(こまぶえそ)へて、(たてまつ)れたまふ。
などと申し上げて差し上げなさる。
侍従に、唐の手本などの特に念入りに書いてあるのを、沈の箱に入れて、立派な高麗笛を添えて、差し上げなさる。
などと宮はお言いになったのである。源氏は侍従へ唐本のりっぱなのを(じん)の木の箱に入れたものへ高麗(こま)笛を添えて贈った。
2.7.7
またこのころは、ただ仮名(かんな)(さだ)めをしたまひて()(なか)手書(てか)くとおぼえたる、上中下(かみなかしも)(ひと)びとにも、さるべきものども(おぼ)しはからひて、(たづ)ねつつ()かせたまふ
この御筥(おほんはこ)には、()(くだ)れるをば()ぜたまはず、わざと、(ひと)のほど、品分(しなわ)かせたまひつつ、草子(さうし)巻物(まきもの)皆書(みなか)かせたてまつりたまふ。
またこの頃は、ひたすら仮名の論評をなさって、世間で能書家だと聞こえた、上中下の人々にも、ふさわしい内容のものを見計らって、探し出してお書かせになる。
この御箱には、身分の低い者のはお入れにならず、特別に、その人の家柄や、地位を区別なさりなさり、冊子、巻物、すべてお書かせ申し上げなさる。
近ごろの源氏は書道といってもことに仮名の字を鑑賞することに熱中して、よい字を書くと言われる人は上中下の階級にわたってそれぞれの物を選んで書を頼んでいた。源氏の書いた帳のはいる箱には、高い階級に属した人たちの手になった書だけを、帳も巻き物も珍しい装幀(そうてい)を加えて納めることにしていた。
2.7.8
よろづにめづらかなる御宝物(おほんたからもの)ども、(ひと)朝廷(みかど)までありがたげなる(なか)に、この(ほん)どもなむ、ゆかしと心動(こころうご)きたまふ若人(わかうど)()(おほ)かりける。
御絵(おほんゑ)どもととのへさせたまふ(なか)に、かの『須磨(すま)日記(にき)』は、(すゑ)にも(つた)()らせむと(おぼ)せど、(いま)すこし()をも(おぼ)()りなむに」と(おぼ)(かへ)してまだ()()でたまはず。
何もかも珍しい御宝物類、外国の朝廷でさえめったにないような物の中で、この何冊かの本を見たいと心を動かしなさる若い人たちが、世間に多いことであった。
御絵画類をご準備なさる中で、あの『須磨の日記』は、子孫代々に伝えたいとお思いになるが、「もう少し世間がお分りになったら」とお思い返しなさって、まだお取り出しなさらない。
他の国の宮廷にもないと思われる華奢(かしゃ)を尽くした姫君の他の調度品よりも、この墨蹟(ぼくせき)の箱を若い人たちはうかがいたく思った。源氏は絵なども整理して姫君に与えるのであったが、須磨(すま)で日記のようにして書いた絵巻は姫君へ伝えたいとは思っていたが、もう少し複雑な人生がわかるまではそれをしないほうがよいという見解をもってその中へは加えなかった。

第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語


第一段 内大臣家の近況

3.1.1
(うち)大臣(おとど)は、この(おほん)いそぎを、(ひと)(うへ)にて()きたまふも、いみじう(こころ)もとなく、さうざうしと(おぼ)す。
姫君(ひめぎみ)(おほん)ありさま、(さか)りにととのひてあたらしううつくしげなり。
つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき御嘆(おほんなげ)きぐさなるに、かの(ひと)()けしき、はた、(おな)じやうになだらかなれば、心弱(こころよわ)(すす)()らむも人笑(ひとわら)はれに、(ひと)のねむごろなりしきざみに、なびきなましかば」など、人知(ひとし)れず(おぼ)(なげ)きて、一方(ひとかた)(つみ)をもおほせたまはず
内大臣は、この入内の御準備を、他人事としてお聞きになるが、たいそう気が気でなく、つまらないとお思いになる。
姫君のご様子、女盛りに成長して、もったいないほどにかわいらしい。
所在なげに塞ぎ込んでいらっしゃる様子は、たいへんなお嘆きの種であるが、あの方のご様子は、どうかといえば、いつも変わらず平気なので、「弱気になってこちらから歩み寄るようなのも、体裁が悪いし、相手が夢中だった時に、言うことを聞いていたら」などと、一人お嘆きになって、一途に悪いと責めることもおできになれない。
内大臣は宮廷へはいる大がかりな仕度(したく)を、自家のことでなく源氏の姫君のこととして(うわさ)に聞くのを、非常に物足らず寂しく思っていた。妙齢に達した雲井(くもい)(かり)の姫君は美しくなっていた。結婚もせず結婚談もなくて引きこもっているこの娘が内大臣には苦労の種であった。宰相中将は少しも焦燥(しょうそう)するふうを見せずに、冷静な態度を取り続けているのであったから、こちらから、結婚談をしかけることも世間体の悪いことと思われて、熱心に彼が娘を思っていた時に許せばよかったなどと人知れず後悔もしていて、宰相中将の態度ばかりが悪いとも内大臣は思えないのであった。
3.1.2
かくすこしたわみたまへる()けしきを、宰相(さいしゃう)(きみ)()きたまへど、しばしつらかりし御心(みこころ)()しと(おも)へば、つれなくもてなし、しづめて、さすがに(ほか)ざまの(こころ)はつくべくもおぼえず、(こころ)づから(たはぶ)れにくき(をりおほ)かれど、浅緑(あさみどり)()こえごちし御乳母(おほんめのと)どもに、納言(なふごん)(のぼ)りて()えむの御心深(みこころふか)かるべし。
このように少し弱気になられたご様子を、宰相の君はお聞きになるが、ひところ冷たかったお心を酷いと思うと、平気を装い、落ち着いた態度で、そうはいっても他の女をという考えお持ちにならず、自分から求めてやるせない思いをする時は多いが、「浅緑の六位」と申して馬鹿にした御乳母どもに、中納言に昇進した姿を見せてやろうとのお気持ちが強いのであろう。
こんなふうに少し気の折れてきたことも宰相中将は聞いているのであったが、まだしばらく恨めしい記憶のなくなるまでは落ち着いていないではならないと思って、内大臣に求めることをしなかった。しかも他の恋の対象を作ろうとするような気もしなかった。自身ながらもこうした窮屈な考え方に反感を持つこともあったが、宰相中将は六位であったことを(そし)った雲井の雁の乳母(めのと)たちに対して納言(なごん)の地位に上ることが先決問題だと信じていた。

第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓

3.2.1
大臣(おとど)あやしう()きたるさまかな」と、(おぼ)(なや)みて、
大臣は、「妙に身の固まらないことだ」と、ご心配になって、
源氏はどっちつかずに宙に浮いたふうで中将が結婚もしないでいることを見かねて、
3.2.2
かのわたりのこと(おも)()えにたらば、右大臣(みぎのおとど)中務宮(なかつかさのみや)などの、けしきばみ()はせたまふめるを、いづくも(おも)(さだ)められよ」
「あちらの姫君のこと、思い切ってしまったら、右大臣、中務宮などが娘を縁づけたいご意向であるらしいから、どちらなりともお決めなさい」
「あちらとの話をあきらめているのなら、左大臣とか、中務(なかつかさ)の宮とかからのお話が来ているのだから、だれと結婚をするか決めてしまうとよい」
3.2.3
とのたまへど、ものも()こえたまはず、かしこまりたる(おほん)さまにてさぶらひたまふ
とおっしゃるが、何ともお返事申し上げず、恐縮したご様子で伺候していらっしゃる。
とも言うのであったが、宰相中将は黙って恐縮したふうを見せているだけであった。
3.2.4
かやうのことはかしこき御教(おほんをし)へにだに(したが)ふべくもおぼえざりしかば、(こと)まぜま()けれど、今思(いまおも)ひあはするには、かの御教(おほんをし)へこそ、(なが)(ためし)にはありけれ。
「このようなことは、恐れ多い父帝の御教訓でさえ従おうという気にもならなかったのだから、口をさしはさみにくいが、今考えてみると、あの御教訓こそは、今にも通じるものであった。
「こんな問題ではお(かみ)の御忠告にも昔の私はお服しすることができなかったのだから、口を出したくはないのだが、今になって考えると、その時の御教訓は永久の真理だったとよくわかる。
3.2.5
つれづれとものすれば、(おも)ふところあるにやと、世人(よひと)()(はか)るらむを、宿世(すくせ)()(かた)にて、なほなほしきことにありありてなびく、いと(しり)びに、人悪(ひとわ)ろきことぞや。
所在なく独身でいると、何か考えがあるのかと、世間の人も推量するであろうから、運命の導くままに、平凡な身分の女との結婚に結局落ち着くことになるのは、たいそう尻すぼまりで、みっともないことだ。
長く独身でいれば、実現されない幻を描いているかのように人も見るだろうし、それが宿命であるかはしらないが、ついには何の価値もない女といっしょになってしまうような結果を生むことにもなっては、初めよし、(のち)わろしになってしまう。
3.2.6
いみじう(おも)ひのぼれど、(こころ)にしもかなはず、(かぎ)りのあるものから()()きしき(こころ)つかはるな。
いはけなくより、(みや)(うち)()()でて()(こころ)にまかせず、所狭(ところせ)く、いささかの(こと)のあやまりもあらば、軽々(かろがろ)しきそしりをや()はむと、つつみしだに、なほ()()きしき(とが)()ひて、()にはしたなめられき。
ひどく高望みしても、思うようにならず、限界があることから、浮気心を起こされるな。
幼い時から宮中で成人して、思い通りに動けず、窮屈に、ちょっとした過ちもあったら、軽率の非難を受けようかと、慎重にしていたのでさえ、それでもやはり好色がましい非難を受けて、世間から非難されたものだ。
思い上がっていても若い間はほかから誘惑があるからね、多情な行為におちやすいものだが、堕落をしないように心がけねばならない。宮中に育って、自由らしいことは何一つできずに、ただ過失らしいことが一つあるだけでも世間はやかましく批難するだろうと戦々兢々(せんせんきょうきょう)としていた青年の私でも、やはり恋愛をあさる男のように言われて悪く思われたものなのだ。
3.2.7
位浅(くらゐあさ)く、(なに)となき()のほど、うちとけ、(こころ)のままなる()()ひなどものせらるな。
(こころ)おのづからおごりぬれば、(おも)ひしづむべきくさはひなき(とき)(をんな)のことにてなむ、かしこき(ひと)(むかし)(みだ)るる(ためし)ありける。
位階が低く、気楽な身分だからと、油断して、思いのままの行動などなさるな。
心が自然と思い上がってしまうと、好色心を抑えるべき妻子がいない時、女性関係のことで、賢明な人が、昔も失敗した例があったのだ。
身分が低くて注目するものがないなどと思って放縦なことをしてはいけないよ。驕慢(きょうまん)の心の盛んな時に、女の問題で賢い人が失敗するようなことは歴史の上にもあることだからね。
3.2.8
さるまじきことに(こころ)をつけて、(ひと)()をも()みづからも(うら)みを()ふなむ、つひのほだしとなりける。
とりあやまりつつ()(ひと)の、わが(こころ)にかなはず、(しの)ばむこと(かた)(ふし)ありとも、なほ(おも)(かへ)さむ(こころ)をならひて、もしは(おや)(こころ)にゆづり、もしは(おや)なくて()(なか)かたほにありとも、人柄心苦(ひとがらこころぐる)しうなどあらむ(ひと)をば、それを(かた)かどに()せても()たまへ。
わがため、(ひと)のため、つひによかるべき(こころ)(ふか)うあるべき」
けしからぬことに熱中して、相手の浮名を立て、自分も恨まれるのは、後世の妨げとなるのだ。
結婚に失敗したと思いながら共に暮らしている相手が、自分の理想通りでなく、我慢することのできない点があっても、やはり思い直す気を持って、もしくは女の親の心に免じて、もしくは親がいなくなって生活が不十分であっても、人柄がいじらしく思われるような人は、その人柄一つを取柄としてお暮らしなさい。
自分のため、相手のため、末長く添い遂げるような思慮が深くあって欲しいものだ」
思ってならない人を思って、女の名も立て自身も人の恨みを負うようなことをしては一生の心の負担になる。不運な結婚をして、女の欠点ばかりが目について苦しいようなことがあっても、そうした時に忍耐をして万人を愛する人道的な心を習得するようにつとめるとか、もしくは娘の親たちの好意を思うことで足りないことを補うとか、また親のない人と結婚した場合にも、不足な境遇も妻が価値のある女であればそれで補うに足ると認識すべきだよ。そうした同情を持つことは自身のためにも妻のためにも将来大きな幸福を得る過程になるのだ」
3.2.9
など、のどやかにつれづれなる(をり)は、かかる御心(みこころ)づかひをのみ(をし)へたまふ。
などと、のんびりとした所在のない時は、このような心づかいをしきりにお教えになる。
こんなことも言って閑暇(ひま)のある時にはよく宰相中将を教える源氏であった。

第三段 夕霧と雲居の雁の仲

3.3.1
かやうなる御諌(おほんいさ)めにつきて、(たわぶ)れにても(ほか)ざまの(こころ)(おも)ひかかるは、あはれに、(ひと)やりならずおぼえたまふ。
(をんな)も、(つね)よりことに、大臣(おとど)(おも)(なげ)きたまへる(おほん)けしきに、()づかしう、()()(おぼ)(しづ)めど(うへ)はつれなくおほどかにて(なが)()ぐしたまふ。
このようなご教訓に従って、冗談にも他の女に心を移すようなことは、かわいそうなことだと、自分からお思いになっている。
女も、いつもより格別に、大臣が思い嘆いていらっしゃるご様子に、顔向けのできない思いで、つらい身の上と悲観していらっしゃるが、表面はさりげなくおっとりとして、物思いに沈んでお過ごしになっている。
この教訓の精神から言っても、仮にも初恋の人を忘れて他の女を思うようなことはできないように中将は思っていた。雲井の雁も近ごろになってことさら父が愁色を見せることを知って恥ずかしく思い、自分は不幸な女であると深く思われるのであったが、表面は素知らぬふうを見せて、おおように物思いをしていた。
3.3.2 お手紙は、我慢しきれない時々に、しみじみと深い思いをこめて書いて差し上げなさる。
「誰の誠実を信じたらよいのか」と思いながら、男を知っている女ならば、むやみに男の心を疑うであろうが、しみじみと御覧になる文句が多いのであった。
宰相中将は思い余る時々にだけ情熱のこもった手紙を雲井の雁へ書いた。だが誠をか(偽りと思ふものから今さらにたが誠をかわれは頼まん)と心に思っても、世ずれた人のようにむやみに人を疑うことのない純真な雲井の雁は、中将の手紙に()んで読まれるところが多いように思われた。
3.3.3
中務宮(なかつかさのみや)なむ大殿(おほとの)にも()けしき(たま)はりて、さもやと、(おぼ)()はしたなる」
「中務宮が、大殿のご内意をも伺って、そのようにもと、お約束なさっているそうです」
中務(なかつかさ)の宮がお嬢さんと宰相中将との縁組みを太政大臣へお申し込みになって大臣も賛成されたようです」
3.3.4
(ひと)()こえければ、大臣(おとど)は、ひき(かへ)御胸(おほんむね)ふたがるべし
(しの)びて、
と女房が申し上げたので、大臣は、改めてお胸がつぶれることであろう。
こっそりと、
とこんな(うわさ)を内大臣に伝えた者のあった時に、内大臣の心は(うれ)いにふさがれた。大臣はそうした噂の耳にはいったことを雲井の雁にそっと告げた。
3.3.5 「こういうことを聞いた。
薄情なお心の方であったな。
大臣が、口添えなさったのに、強情だというので、他へ持って行かれたのだろう。
気弱になって降参しても、人に笑われることだろうし」
「あの人がほかの結婚をしてもよいという気になるとはひどい。太政大臣も口をお入れになったことがあるのに、それでも私が強硬だったものだから、今になって大臣はそんなふうに勧められるのだろう。しかしその場合に私が先方の言いなりに結婚を許しても体面上恥ずかしいことだったのだから」
3.3.6
など、(なみだ)()けてのたまへば、姫君(ひめぎみ)、いと()づかしきにも、そこはかとなく(なみだ)のこぼるれば、はしたなくて(そむ)きたまへる、らうたげさ(かぎ)りなし。
などと、涙を浮かべておっしゃるので、姫君、とても顔も向けられない思いでいるにも、何とはなしに涙がこぼれるので、体裁悪く思って後ろを向いていらっしゃる、そのかわいらしさ、この上もない。
などと、目に涙を()けて父が言うのを、雲井の雁は恥ずかしく思って聞きながらも、一方では何とはなしに涙が流れ出してくるのをきまり悪く思って、顔をそむけているのが可憐(かれん)であった。
3.3.7 「どうしよう。
やはりこちらから申し出て、先方の意向を聞いてみようか」
どうすればいいだろう。やはりこちらから折れて出るべきであろうか
3.3.8
など、(おぼ)(みだ)れて()ちたまひぬる名残(なごり)も、やがて端近(はしちか)(なが)めたまふ。
などと、お気持ちも迷ってお立ちになった後も、そのまま端近くに物思いに沈んでいらっしゃる。
などと煩悶(はんもん)をしながら大臣の去ったあとまでも雲井の雁は庭をながめて物思いを続けていた。
3.3.9 「妙に、思いがけず流れ出てしまった涙だこと。
どのようにお思いになったかしら」
これはなんという愚かな涙であろう、どう父は思ったであろう
3.3.10
など、よろづに(おも)ひゐたまへるほどに、御文(おほんふみ)あり。
さすがにぞ()たまふ
こまやかにて、
などと、あれこれと思案なさっているところに、お手紙がある。
それでもやはり御覧になる。
愛情のこもったお手紙で、
などと心を悩ましている所へ、宰相中将の手紙が届いた。恨めしく今まで思っていた人ではあるが、さすがに手紙はすぐあけて読んだ。情のこもった手紙であった。
3.3.11 「あなたの冷たいお心は、
つらいこの世の習性となって行きますがそれでも忘れないわた
つれなさは浮き世の常になり行くを
忘れぬ人や人にことなる
3.3.12
とあり。
けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ」と、(おも)(つづ)けたまふは()けれど、
とある。
「そぶりにも仄めかさない、冷たいお方だわ」と、思い続けなさるのはつらいけれども、
とも書いてある。父がした話のことなどは少しも書いてないことを雲井の雁は恨めしく思ったが返事を書いた。
3.3.13 「もうこれまでだと、
忘れないとおっしゃるわたしのことを忘れるのは
限りとて忘れがたきを忘るるも
こや世に(なび)く心なるらん
3.3.14
とあるを、あやし」と、うち()かれず、(かたぶ)きつつ()ゐたまへり。
とあるのを、「妙だな」と、下にも置かれず、首をかしげながらじっと座ったまま手紙を御覧になっていた。
この歌の意味が()に落ちないで宰相中将はいつまでも首を傾けていたということである。
著作権
底本 大島本
校訂 Last updated 9/21/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
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ローマ字版 Last updated 2/27/2010 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
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挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 10/7/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
鈴木厚司(青空文庫)
2003年9月3日
渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経
2008年3月22日

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