設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | ||
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第三十五帖 若菜下 光る源氏の准太上天皇時代四十一歳三月から四十七歳十二月までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
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第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後 |
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第一段 六条院の競射 |
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1.1.1 | もっともだとは思うけれども、 |
小侍従が書いて来たことは道理に違いないが |
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1.1.2 | 「いまいましい言い方だな。 いや、しかし、なんでこのような通り一遍の返事だけを慰めとしては、どうして過ごせようか。 このような人を介してではなく、一言でも直接おっしゃってくださり、また申し上げたりする時があるだろうか」 |
また露骨なひどい言葉だとも |
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1.1.3 | と思うにつけても、普通の関係では、もったいなく立派な方だとお思い申し上げる院の御為には、けしからぬ心が生じたのであろうか。 |
と苦しんでいた。限りない尊敬の念を持っている六条院に |
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1.1.4 | 晦日には、人々が大勢参上なさった。 何やら気が進まず、落ち着かないけれども、「あのお方のいらっしゃる辺りの桜の花を見れば気持ちが慰むだろうか」と思って参上なさる。 |
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1.1.5 | 殿上の賭弓は、二月とあったが過ぎて、三月もまた御忌月なので、残念に人々は思っているところに、この院で、このような集まりがある予定と伝え聞いて、いつものようにお集まりになる。 左右の大将は、お身内という間柄で参上なさるので、中将たちなども互いに競争しあって、小弓とおっしゃったが、歩弓の勝れた名人たちもいたので、お呼び出しになって射させなさる。 |
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1.1.6 | 殿上人たちも、相応しい人は、すべて前方と後方との、交互に組分けをして、日が暮れてゆくにつれて、今日が最後の春の霞の感じも気ぜわしくて、吹き乱れる夕風に、花の蔭はますます立ち去りにくく、人々はひどく酔い過ごしなさって、 |
殿上役人でも弓の芸のできる者は皆左右に分かれて勝ちを争いながら夕べに至った。春が終わる日の |
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1.1.7 | 「しゃれた賭物の数々は、あちらこちらの御婦人方のご趣味のほどが窺えようというものを。 柳の葉を百発百中できそうな舎人たちが、わがもの顔をして射取るのは、面白くないことだ。 少しおっとりした手並みの人たちこそ、競争させよう」 |
「奥のかたがたからお出しになった懸賞品が皆平凡な品でないのを、技術の専門家にだけ取らせてしまうのはよろしくない。少し純真な |
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1.1.8 | といって、大将たちをはじめとして、お下りになると、衛門督、他の人より目立って物思いに耽っていらっしゃるので、あの少々は事情をご存知の方のお目には止まって、 |
などと言って庭へ |
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1.1.9 | 「やはり、様子が変だ。 厄介な事が引き起こるのだろうか」 |
困ったことである。不祥事が起こってくるのではないか |
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1.1.10 | と、自分までが悩みに取りつかれたような心地がする。 この君たち、お仲が大変に良い。 従兄弟同士という中でも、気心が通じ合って親密なので、ちょっとした事でも、物思いに悩んで屈託しているところがあろうものなら、お気の毒にお思いになる。 |
と不安を感じだし、自分までも一つの物思いのできた気がした。この二人は非常に仲がよいのである。大将のために衛門督が妻の兄であるというばかりでなく、古くからの友情が互いにあって |
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1.1.11 | 自分でも、大殿を拝見すると、何やら恐ろしく目を伏せたくなるようで、 |
衛門督自身も院のお顔を見ては恐怖に似たものを感じて、恥ずかしくなり、 |
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1.1.12 | 「このような考えを持ってよいものだろうか。 どうでもよいことでさえ、不行き届きで、人から非難されるような振る舞いはすまいと思うものを。 まして身のほどを弁えぬ大それたことを」 |
誤った考えにとらわれていることはわが心ながら許すべきことでない、少しのことにも人を不快にさせ、人から批難を受けることはすまいと決心している自分ではないか、ましてこれほどおそれおおいことはないではないか |
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1.1.13 | と |
と思い悩んだ末に、 |
と心を |
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1.1.14 | 「あの先日の猫でも、せめて手に入れたい。 思い悩んでいる気持ちを打ち明ける相手にはできないが、独り寝の寂しい慰めを紛らすよすがにも、手なづけてみよう」 |
せめてあの時に見た猫でも自分は得たい、人間の心の悩みが告げられる相手ではないが、寂しい自分はせめてその猫を |
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1.1.15 | と |
と思うと、気違いじみて、「どうしたら盗み出せようか」と思うが、それさえ難しいことだったのである。 |
とこんな気持ちになった衛門督は、気違いじみた熱を持って、どうかしてその猫を盗み出したいと思うのであるが、それすらも困難なことではあった。 |
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第二段 柏木、女三の宮の猫を預る |
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1.2.1 | いと かかる |
弘徽殿女御の御方に参上して、お話などを申し上げて心を紛らわそうとしてみる。 たいそう嗜み深く、気恥ずかしくなるようなご応対ぶりなので、直にお姿をお見せになることはない。 このような姉弟の間柄でさえ、隔てを置いてきたのに、「思いがけず垣間見したのは、不思議なことであった」とは、さすがに思われるが、並々ならず思い込んだ気持ちゆえ、軽率だとは思われない。 |
衛門督は妹の |
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1.2.2 | 東宮に参上なさって、「当然似ていらっしゃるところがあるだろう」と、目を止めて拝すると、輝くほどのお美しさのご容貌ではないが、これくらいのご身分の方は、また格別で、上品で優雅でいらっしゃる。 |
衛門督は東宮へ伺候して、むろん御兄弟でいらせられるのであるから似ておいでになるに違いないと思って、お顔を熱心にお見上げするのであったが、東宮ははなやかな |
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1.2.3 | 内裏の御猫が、たくさん引き連れていた仔猫たちの兄弟が、あちこちに貰われて行って、こちらの宮にも来ているのが、とてもかわいらしく動き回るのを見ると、何よりも思い出されるので、 |
帝のお飼いになる猫の幾 |
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1.2.4 | 「六条院の姫宮の御方におります猫は、たいそう見たこともないような顔をしていて、かわいらしうございました。 ほんのちょっと拝見しました」 |
「六条院の姫宮の御殿におりますのはよい猫でございます。珍しい顔でして感じがよろしいのでございます。私はちょっと拝見することができました」 |
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1.2.5 | と申し上げなさると、猫を特におかわいがりあそばすご性分なので、詳しくお尋ねあそばす。 |
こんなことを申し上げた。東宮は猫が非常にお好きであらせられるために、くわしくお尋ねになった。 |
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1.2.6 | 「唐猫で、こちらのとは違った恰好をしてございました。 同じようなものですが、性質がかわいらしく人なつっこいのは、妙にかわいいものでございます」 |
「 |
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1.2.7 | など、ゆかしく |
などと、興味をお持ちになるように、特にお話し申し上げなさる。 |
こんなふうに宮がお心をお動かしになるようにばかり衛門督は申すのであった。 |
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1.2.8 | 「げに、いとうつくしげなる |
お耳にお止めあそばして、桐壷の御方を介してご所望なさったので、差し上げなさった。 「なるほど、たいそうかわいらしげな猫だ」と、人々が面白がるので、衛門督は、「手に入れようとお思いであった」と、お顔色で察していたので、数日して参上なさった。 |
あとで東宮は |
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1.2.9 | 子供であったころから、朱雀院が特別におかわいがりになってお召し使いあそばしていたので、御入山されて後は、やはりこの東宮にも親しく参上し、お心寄せ申し上げていた。 お琴などをお教え申し上げなさるついでに、 |
まだ子供であった時から |
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1.2.10 | 「御猫たちがたくさん集まっていますね。 どうしたかな、 |
「お猫がまたたくさんまいりましたね。どれでしょう、私の知人は」 |
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1.2.11 | と いとらうたくおぼえて、かき |
と探してお見つけになった。 とてもかわいらしく思われて、撫でていた。 東宮も、 |
と言いながらその猫を見つけた。非常に愛らしく思われて衛門督は手でなでていた。宮は、 |
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1.2.12 | 「なるほど、かわいい恰好をしているね。 性質が、まだなつかないのは、人見知りをするのだろうか。 ここにいる猫たちも、大して負けないがね」 |
「実際 |
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1.2.13 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
とこの猫のことを仰せられた。 |
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1.2.14 | 「猫というものは、そのような人見知りは、普通しないものでございますが、その中でも賢い猫は、自然と性根がございますのでしょう」などとお答え申し上げて、「これより勝れている猫が何匹もございますようですから、これは暫くお預かり申しましょう」 |
「猫は人を好ききらいなどあまりせぬものでございますが、しかし賢い猫にはそんな知恵があるかもしれません」などと衛門督は申して、また、「これ以上のがおそばに幾つもいるのでございましたら、これはしばらく私にお預からせください」 |
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1.2.15 | と申し上げなさる。 心の中では、何とも馬鹿げた事だと、一方ではお考えになるが、この猫を手に入れて、夜もお側近くにお置きなさる。 |
こんなお願いをした。心の中では愚かしい行為をするものであるという気もしているのである。結局 |
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1.2.16 | いといたく |
夜が明ければ、猫の世話をして、撫でて食事をさせなさる。 人になつかなかった性質も、とてもよく馴れて、ともすれば、衣服の裾にまつわりついて、側に寝そべって甘えるのを、心からかわいいと思う。 とてもひどく物思いに耽って、端近くに寄り臥していらっしゃると、やって来て、「ねよう、ねよう」と、とてもかわいらしげに鳴くので、撫でて、「いやに、積極的だな」と、思わず苦笑される。 |
夜が明けると猫を |
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1.2.17 | 「恋いわびている人のよすがと思ってかわいがっていると どういうつもりでそんな鳴き声を立てるのか |
「恋ひわぶる人の形見と手ならせば |
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1.2.18 | これも前世からの縁であろうか」 |
これも前生の約束なんだろうか」 |
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1.2.19 | と、 |
と、顔を見ながらおっしゃると、ますますかわいらしく鳴くので、懐に入れて物思いに耽っていらっしゃる。 御達などは、 |
顔を見ながらこう言うと、いよいよ猫は愛らしく鳴くのを |
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1.2.20 | 「奇妙に、急に猫を寵愛なさるようになったこと。 このようなものはお好きでなかったご性分なのに」 |
「おかしいことですね。にわかに猫を御 |
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1.2.21 | と、とがめけり。 |
と、不審がるのだった。 宮から返すようにとご催促があってもお返し申さず、独り占めして、この猫を話相手にしていらっしゃる。 |
と不審がってささやくのであった。東宮からお取りもどしの仰せがあって、衛門督はお返しをしないのである。お預かりのものを取り込んで自身の友にしていた。 |
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第三段 柏木、真木柱姫君には無関心 |
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1.3.1 | 左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、右大将の君を、やはり昔のままに、親しくお思い申し上げていらっしゃった。 気立てに才気があって、親しみやすくいらっしゃる方なので、お会いなさる時々にも、親身に他人行儀になるところはなくお振る舞いになるので、右大将も、淑景舎などが、他人行儀で近づきがたいお扱いであるので、一風変わったお親しさで、お付き合いしていらっしゃった。 |
左大将夫人の |
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1.3.2 | この |
夫君は、今では以前にもまして、あの前の北の方とすっかり縁が切れてしまって、並ぶ者がないほど大切にしていらっしゃる。 このお方の腹には、男のお子たちばかりなので、物足りないと思って、あの真木柱の姫君を引き取って、大切にお世話申したいとお思いになるが、祖父宮などは、どうしてもお許しにならず、 |
左大将は月日に添えて玉鬘を重んじていった。もう前夫人は断然離別してしまって尚侍が唯一の夫人であった。この夫人から生まれたのは男の子ばかりであるため、左大将はそれだけを物足らず思い、 |
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1.3.3 | 「せめてこの姫君だけでも、物笑いにならないように世話しよう」 |
「せめてこの姫君にだけは人から |
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1.3.4 | と |
とお思いになり、おっしゃりもしている。 |
と言っておいでになる。 |
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1.3.5 | おほかたも |
親王のご声望はたいそう高く、帝におかせられても、この宮への御信頼は、並々ならぬものがあって、こうと奏上なさることはお断りになることができず、お気づかい申していらっしゃる。 だいたいのお人柄も現代的でいらっしゃる宮で、こちらの院、大殿にお次ぎ申して、人々もお仕え申し、世間の人々も重々しく申し上げているのであった。 |
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1.3.6 | 左大将も、将来の国家の重鎮とおなりになるはずの有力者であるから、姫君のご評判、どうして軽いことがあろうか。 求婚する人々、何かにつけて大勢いるが、ご決定なさらない。 衛門督を、「そのような、態度を見せたら」とお思いのようだが、猫ほどにはお思いにならないのであろうか、まったく考えもしないのは、残念なことであった。 |
左大将も第一人者たる将来が約束されている人であったから、式部卿の宮の御孫 |
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1.3.7 | 母君が、どうしたことか、今だに変な方で、普通のお暮らしぶりでなく、廃人同様になっていらっしゃるのを、残念にお思いになって、継母のお側を、いつも心にかけて憧れて、現代的なご気性でいらっしゃっるのだった。 |
左大将の前夫人は今も病的な、陰気な暮らしを続けて、若い貴女のために朗らかな |
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第四段 真木柱、兵部卿宮と結婚 |
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1.4.1 | 蛍兵部卿宮は、やはり独身生活でいらっしゃって、熱心にお望みになった方々は、皆うまくいかなくて、世の中が面白くなく、世間の物笑いに思われると、「このまま甘んじていられない」とお思いになって、この宮に気持ちをお漏らしになったところ、式部卿大宮は、 |
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1.4.2 | 「いや何。 大切に世話しようと思う娘なら、帝に差し上げる次には、親王たちにめあわせ申すのがよい。 臣下の、真面目で、無難な人だけを、今の世の人が有り難がるのは、品のない考え方だ」 |
「私はそう信じているのだ。大事に思う娘は宮仕えに出すことを第一として、続いては宮たちと結婚させることがいいとね。普通の官吏と結婚させるのを頼もしいことのように思って親たちが娘の幸福のためにそれを願うのは卑しい態度だ」 |
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1.4.3 | とのたまひて、いたくも |
とおっしゃって、そう大してお焦らし申されることなく、ご承諾なさった。 |
とお言いになって、あまり求婚期間の悩みもおさせにならずに御同意になった。 |
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1.4.4 | 蛍親王は、あまりに口説きがいのないのを、物足りないとお思いになるが、大体が軽んじ難い家柄なので、言い逃れもおできになれず、お通いになるようになった。 たいそうまたとなく大事にお世話申し上げなさる。 |
兵部卿の宮はこの無造作な決まり方を物足らぬようにもお思いになったが、 |
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1.4.5 | 式部卿大宮は、女の子がたくさんいらっしゃって、 |
式部卿の宮はこの婿の宮を大事にあそばすのであった。宮は幾人もの |
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1.4.6 | 「さまざまもの |
「いろいろと何かにつけ嘆きの種が多いので、懲り懲りしたと思いたいところだが、やはりこの君のことが放っておけなく思えてね。 母君は、奇妙な変人に年とともになって行かれる。 大将は大将で、自分の言う通りにしないからと言って、いい加減に見放ちなされたようだから、まことに気の毒である」 |
その宮仕え、結婚の結果によって苦労をされることの多かったのに懲りておいでになるはずであるが、最愛の御孫女のためにまたこうした婿かしずきをお始めになったのである。「母親は時がたつにしたがって病的な女になるし、父親はそちらの意志には従わない子だと言ってそまつに見ている姫君だからかわいそうでならぬ」 |
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1.4.7 | とて、 |
と言って、お部屋の飾り付けも、立ったり座ったり、ご自身でお世話なさり、すべてにもったいなくも熱心でいらっしゃった。 |
などとお言いになって、新夫婦の居間の装飾まで御自身で手を下してなされたり、またお |
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第五段 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活 |
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1.5.1 | 宮は、お亡くなりになった北の方を、それ以来ずっと恋い慕い申し上げなさって、「ただ、亡くなった北の方の面影にお似申し上げたような方と結婚しよう」とお思いになっていたが、「悪くはないが、違った感じでいらっしゃる」とお思いになると、残念であったのか、お通いになる様子は、まこと億劫そうである。 |
兵部卿の宮はお |
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1.5.2 | 式部卿大宮は、「まったく心外なことだ」とお嘆きになっていた。 母君も、あれほど変わっていらっしゃったが、正気に返る時は、「口惜しい嫌な世の中だ」と、すっかり思いきりなさる。 |
式部卿の宮は失望あそばした。病人である母君も気分の常態になっている時にはこの娘の思うようでない結婚を |
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1.5.3 | 左大将の君も、「やはりそうであったか。 ひどく浮気っぽい親王だから」と、はじめからご自身お認めにならなかったことだからであろうか、面白からぬお思いでいらっしゃった。 |
父親の左大将もこの話を聞いて、自分のあやぶんだとおりの結果になったではないか、多情者の宮様であるからと思って、初めから自分が賛成しなかった婿であったから困ったことであると歎いていた。 |
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1.5.4 | 尚侍の君も、このように頼りがいのないご様子を、身近にお聞きになるにつけ、「そのような方と結婚をしたのだったら、こちらにもあちらにも、どんなにお思いになり御覧になっただろう」などと、少々おかしくも、また懐かしくもお思い出しになるのだった。 |
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1.5.5 | 「そのかみも、 ただ、 |
「あの当時も、結婚しようとは、考えてもいなかったのだ。 ただ、いかにも優しく、情愛深くお言葉をかけ続けてくださったのに、張り合いなく軽率なように、お見下しになったであろうか」と、とても恥ずかしく、今までもお思い続けていらっしゃることなので、「あのような近いところで、わたしの噂をお聞きになることも、気をつかわねばならない」などとお思いになる。 |
ただあれだけの情熱を運んでくだすった方が、左大将と平凡な夫婦になってしまったことを |
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1.5.6 | これよりも、さるべきことは せうとの |
こちらからも、しかるべき事柄はしてお上げになる。 兄弟の公達などを差し向けて、このようなご夫婦仲も知らない顔をして、親しげにお側に伺わせたりなどするので、気の毒になって、お見捨てになる気持ちはないが、大北の方という性悪な人が、いつも悪口を申し上げなさる。 |
前夫人がどう恨んでいるかというようなことは知らぬふうにして、長男、次男を中にして好意を寄せる |
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1.5.7 | 「親王たちは、おとなしく浮気をせず、せめて愛して下さるのが、華やかさがない代わりには思えるのだが」 |
「親王がたというものは一人だけの奥さんを大事になさるということで、 |
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1.5.8 | とぶつぶつおっしゃるのを、宮も漏れお聞きなさっては、「まったく変な話だ。 昔、とてもいとしく思っていた人を差し置いても、やはり、ちょっとした浮気はいつもしていたが、こう厳しい恨み言は、なかったものを」 |
と |
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1.5.9 | と、気にくわなく、ますます故人をお慕いなさりながら、自邸に物思いに耽りがちでいらっしゃる。 そうは言いながらも、二年ほどになったので、こうした事にも馴れて、ただ、そのような夫婦仲としてお過ごしになっていらっしゃる。 |
とお思いになって、いっそう |
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第二章 光る源氏の物語 住吉参詣 |
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第一段 冷泉帝の退位 |
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2.1.1 | これという事もなくて、年月が過ぎて行き、今上の帝、御即位なさってから十八年におなりあそばした。 |
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2.1.2 | 「後を嗣いで次の帝におなりになる皇子がいらっしゃらず、物寂しい上に、寿命がいつまで続くか分からない気がするので、気楽に、会いたい人たちと会い、私人として思うままに振る舞って、のんびりと過ごしたい」 |
「将来の天子になる子のないことで自分には人生が寂しい。せめて気楽な身の上になって自分の愛する人たちと始終出逢うこともできるようにして、私人として楽しい生活がしてみたい」 |
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2.1.3 | と、 |
と、長年お思いになりおっしゃりもしていたが、最近たいそう重くお悩みあそばすことがあって、急に御退位あそばした。 世間の人は、「惜しい盛りのお年を、このようにお退きになること」と惜しみ嘆いたが、東宮もご成人あそばしているので、お嗣ぎになって、世の中の政治など、特別に変わることもなかった。 |
以前からよくこう帝は仰せられたのであったが、重く御病気をあそばされた時ににわかに譲位を行なわせられた。世人は盛りの |
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2.1.4 | 太政大臣は致仕の表を奉って、ご引退なさった。 |
太政大臣は関白職の辞表を出して自邸を出なかった。 |
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2.1.5 | 「世間の無常によって、恐れ多い帝の君も、御位をお下りになったのに、年老いた自分が冠を掛けるのは、何の惜しいことがあろうか」 |
「人生の頼みがたさから賢明な帝王さえ |
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2.1.6 | と |
とお考えになりおっしゃって、左大将が、右大臣におなりになって、政務をお勤めになったのであった。 承香殿女御の君は、このような御世にお会いにならず、お亡くなりになったので、規定のご称号を奉られたが、光の当たらない感じがして、何にもならなかった。 |
と言っていたに違いない。左大将が右大臣になって関白の仕事もした。御母君の |
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2.1.7 | 六条院の女御腹の一の宮、東宮におつきになった。 当然のこととは以前から思っていたが、実現して見るとやはり素晴らしく、目を見張るようなことであった。 右大将の君、大納言におなりになった。 ますます理想的なお間柄である。 |
六条の女御のお生みした今上第一の皇子が東宮におなりになった。そうなるはずのことはだれも知っていたが、目前にそれが現われてみればまた一家の幸福さに驚きもされるのであった。右大将が大納言を兼ねて順序のままに左大将に移り、この人も幸福に見えた。 |
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2.1.8 | 六条院は、御退位あそばした冷泉院が、御後嗣がいらっしゃらないのを、残念なこととご心中ひそかにお思いになる。 同じ自分の血統であるが、御煩悶なさることなくて、無事にお過ごしなっただけに、罪は現れなかったが、子孫まで皇位を伝えることができなかった御運命を、口惜しく物足りなくお思いになるが、人と話し合えないことなので、気持ちが晴れない。 |
六条院は御譲位になった |
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2.1.9 | 東宮の母女御は、御子たちが大勢いらっしゃって、ますます御寵愛は並ぶ者がいない。 源氏が、引き続いて皇后におなりになることを、世間の人は不満に思っているのにつけても、冷泉院の皇后は、格別の理由もないのに、強引にこのようにして下さったお気持ちをお思いになると、ますます六条院の御事を、年月と共に、この上なく有り難くお思い申し上げになっていらっしゃった。 |
東宮の御母女御は皇子たちが多くお生まれになって |
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2.1.10 | 院の帝は、お考えになっていたように、御幸も、気軽にお出かけなさったりして、御退位後はかえって、確かに素晴らしく申し分ない御生活である。 |
冷泉院の帝は御期待あそばされたとおりに、御窮屈なお思いもなしに |
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第二段 六条院の女方の動静 |
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2.2.1 | おほかたの |
姫宮の御事は、帝が、御配慮になってお気をつけて差し上げなさる。 世間の人々からも、広く重んじられていらっしゃるが、対の上のご威勢には、勝ることがおできになれない。 年月がたつにつれて、ご夫婦仲は互いにたいそうしっくりと睦まじくいらして、少しも不満なところなく、よそよそしさもお見えでないが、 |
帝は六条院においでになる御妹の姫宮に深い関心をお持ちになったし、世間がその方に払う尊敬も大きいのであるが、なお紫夫人以上の夫人として六条院の御寵を受けておいでになるのではなかった。年月のたつにしたがって女王と宮の御中にこまやかな友情が生じて、六条院の中は理想的な穏やかな空気に満たされているが、紫夫人は、 |
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2.2.2 | 「今は、このような普通の生活ではなく、のんびりと仏道生活に入りたい、と思います。 この世はこれまでと、すっかり見終えた気がする年齢にもなってしまいました。 そのようにお許し下さいませ」 |
「もう私はこうした出入りの多い |
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2.2.3 | と、真剣に申し上げなさることが度々あるが、 |
と、時々まじめに院へお話しするのであるが、 |
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2.2.4 | 「あるまじく、つらき みづから、 つひにそのこと |
「とんでもない、酷いおっしゃりようです。 わたし自身、強く希望するところですが、後に残って寂しいお気持ちがなさり、今までと違ったようにおなりになるのが、気がかりなばかりに、生き永らえているのです。 とうとう出家した後に、どうなりとお考え通りになさるがよい」 |
「もってのほかですよ。そんな恨めしいことをあなたは思うのですか。それは私自身が実行したいことなのだが、あなたがあとに残って寂しく思ったり、私といっしょにいる時と違った世間の態度を悲しく感じたりすることになってはという気がかりがあるために現状のままでいるだけなのですよ。それでもいつか私の実行の日が来るでしょう、あなたはそのあとのことになさい」 |
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2.2.5 | などのみ、 |
などとばかり、ご制止申し上げなさる。 |
などとばかり院はお言いになって、夫人の志を妨げておいでになった。 |
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2.2.6 | 女御の君、ひたすらこちらを、本当の母親のようにお仕え申し上げなさって、御方は蔭のお世話役として、謙遜していらっしゃるのが、かえって、将来頼もしげで、立派な感じであった。 |
女御は今も女王を真実の母として敬愛していて、明石夫人は隠れた女御の後見をするだけの人になって |
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2.2.7 | 尼君も、ややもすれば感激に堪えない喜びの涙、ともすれば、落とし落としして、目まで拭い爛れさせて、長生きした、幸福者の例になっていらっしゃる。 |
尼君もうれし泣きの涙を流す日が多くて、目もふきただれて幸福な老婆の見本になっていた。 |
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第三段 源氏、住吉に参詣 |
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2.3.1 | 住吉の神に懸けた御願、そろそろ果たそうとなさって、春宮の女御の御祈願に参詣なさろうとして、あの箱を開けて御覧になると、いろいろな盛大な願文が多かった。 |
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2.3.2 | ただ |
毎年の春秋に奏する神楽に、必ず子孫の永遠の繁栄を祈願した願文類が、なるほど、このようなご威勢でなければ果たすことがおできになれないように考えていたのであった。 ただ走り書きしたような文面で、学識が見え論旨も通り、仏神もお聞き入れになるはずの文意が明瞭である。 |
年々の春秋の |
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2.3.3 | 「どうしてあのような山伏の聖心で、このような事柄を思いついたのだろう」と、感服し分を過ぎたことだと御覧になる。 「前世の因縁で、ほんの少しの間、仮に身を変えた前世の修行者であったのだろうか」などとお考えめぐらすと、ますます軽んじることはできなかった。 |
どうしてそんな世捨て人の心にこんな望みの楼閣が建てられたのであろうと、子孫への愛の深さが思われもし、神や仏に済まぬ気もされた。並みの人ではなくてしばらく自分の祖父になってこの世へ姿を現わしただけの、功徳を積んだ昔の聖僧ではなかったかなどと思われ、女御に |
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2.3.4 | このたびは、この いみじくことども |
今回は、この趣旨は表にお立てにならず、ただ、院の物詣でとしてご出立なさる。 浦から浦へと流離した事変の当時の数多くの御願は、すっかりお果たしなさったが、やはりこの世にこうお栄えになっていらっしゃって、このようないろいろな栄華を御覧になるにつけても、神の御加護は忘れることができず、対の上もご一緒申し上げなさって、ご参詣あそばす、その評判、大変なものである。 たいそう儀式を簡略にして、世間に迷惑があってはならないように、と省略なさるが、仕来りがあることゆえ、またとない立派さであった。 |
今度はまだ女御の行なうことにはせずに、六条院の参詣におつれになる形式で京を立ったのであった。 |
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第四段 住吉参詣の一行 |
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2.4.1 | 上達部も、大臣お二方をお除き申しては、皆お供奉申し上げなさる。 舞人は、近衛府の中将たちで器量が良くて、背丈の同じ者ばかりをお選びあそばす。 この選に漏れたことを恥として、悲しみ嘆いている芸熱心の者たちもいるのだった。 |
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2.4.2 | 陪従も、岩清水、賀茂の臨時の祭などに召す人々で、諸道に殊に勝れた者ばかりをお揃えになっていらっしゃった。 それに加わった二人も、近衛府の世間に名高い者ばかりをお召しになっているのだった。 |
奏楽者も |
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2.4.3 | 御神楽の方には、たいそう数多くの人々がお供申していた。 帝、東宮、院の殿上人、それぞれに分かれて、進んで御用をお勤めになる。 その数も知れず、いろいろと善美を尽くした上達部の御馬、鞍、馬添、随身、小舎人童、それ以下の舎人などまで、飾り揃えた見事さは、またとないほどである。 |
また神楽のほうを受け持つ人も多数に行った。宮中、院、東宮の殿上役人が皆御命令によって |
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2.4.4 | さるは、 |
女御殿と、対の上は、同じお車にお乗りになっていた。 次のお車には、明石の御方と、尼君がこっそりと乗っていらっしゃった。 女御の御乳母、事情を知る者として乗っていた。 それぞれお供の車は、対の上の御方のが五台、女御殿のが五台、明石のご一族のが三台、目も眩むほど美しく飾り立てた衣装、様子は、言うまでもない。 一方では、 |
院の |
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2.4.5 | 「尼君をば、どうせなら、老の波の皺が延びるように、立派に仕立てて参詣させよう」 |
「今度の参詣に尼君を優遇して同伴しよう。老人の心に満足ができるほどにして」 |
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2.4.6 | と、 |
と、院はおっしゃったが、 |
と院がお言い出しになったのであって、はじめ明石夫人は、 |
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2.4.7 | 「今回は、このような世を挙げての参詣に加わるのも憚られます。 もし希望通りの世まで生き永らえていましたら」 |
「今度は院と女王様が主になっての御参詣なんですから、あなたなどが混じっておいでになっては私の立場も苦しくなりますからね、女御さんがもう一段御出世をなすったあとで、その時に私たちだけでお参りをいたしましょう」 |
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2.4.8 | と、 さるべきにて、もとよりかく |
と、御方はお抑えなさったが、余命が心配で、もう一方では見たくて、付いていらっしゃったのであった。 前世からの因縁で、もともとこのようにお栄えになるお身の上の方々よりも、まことに素晴らしい幸運が、はっきり分かるご様子の方である。 |
と言って、尼君をとどめていたのであるが、老人はそれまで長命で生きておられる自信もなく心細がってそっと一行に加わって来たのである。運命の |
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第五段 住吉社頭の東遊び |
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2.5.1 | ことことしき |
十月の二十日なので、社の玉垣に這う葛も色が変わって、松の下紅葉などは、風の音にだけ秋を聞き知っているのではないというふうである。 仰々しい高麗、唐土の楽よりも、東遊の耳馴れているのは、親しみやすく美しく、波風の音に響き合って、あの木高い松風に吹き立てる笛の音も、他で聞く調べに変わって身にしみて感じられ、お琴に合わせた拍子も、鼓を用いないで調子をうまく合わせた趣が、大げさなところがないのも、優美でぞっとするほど面白く、場所が場所だけに、いっそう素晴らしく聞こえるのであった。 |
十月の |
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2.5.2 | 山藍で摺り出した竹の模様の衣装は、松の緑に見間違えて、插頭の色とりどりなのは、秋の草と見境がつかず、どれもこれも目先がちらつくばかりである。 |
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2.5.3 | 「求子」が終わった後に、若い上達部は、肩脱ぎしてお下りになる。 光沢のない黒の袍衣から、蘇芳襲で、葡萄染の袖を急に引き出したところ、紅の濃い袙の袂が、はらはらと降りかかる時雨にちょっとばかり濡れたのは、松原であることを忘れて、紅葉が散ったのかと思われる。 |
「 |
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2.5.4 | 皆見栄えのする容姿で、たいそう白く枯れた荻を、高々と插頭に挿して、ただ一さし舞って入ってしまったのは、実に面白くもっといつまでも見ていたい気がするのであった。 |
その |
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第六段 源氏、往時を回想 |
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2.6.1 | 大殿、昔の事が思い出されて、ひところご辛労なさった当時の有様も、目の前のように思い出されなさるが、その当時の事、遠慮なく語り合える相手もいないので、致仕の大臣を、恋しくお思い申し上げなさるのであった。 |
院は昔を追憶しておいでになった。中途で不幸な日のあったことも目の前のことのように思われて、それについては語る人もお持ちにならぬ院は、関白を退いた太政大臣を恋しく |
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2.6.2 | お入りになって、二の車に目立たないように、 |
車へお帰りになった院は第二の車へ、 |
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2.6.3 | 「わたしの外に誰がまた昔の事情を知って住吉の 神代からの松に話しかけたりしましょうか」 |
たれかまた心を知りて 神代を経たる松にこと問ふ |
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2.6.4 | かかる |
御畳紙にお書きになっていた。 尼君、 感涙にむせぶ。このような時世を見るにつけても、あの明石の浦で、これが最後とお別れになった時の事、女御の君が御方のお腹に中にいらっしゃった時の様子などを思い出すにつけても、まことにもったいない運 勢の程を思う。出家なさった方も恋しく、あれこれと物悲しく思われるので、一方では涙は縁起でもないと思い直して |
という歌を |
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2.6.5 | 「住吉の浜を生きていた甲斐がある渚だと 年とった尼も今日知ることでしょう」 |
年ふるあまも今日や知るらん |
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2.6.6 | 遅くなっては不都合だろうと、ただ思い浮かんだままにお返ししたのであった。 |
と書いた。お返事がおそくなっては見苦しいと思い、感じたままの歌をもってしたのである。 |
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2.6.7 | 「昔の事が何よりも忘れられない 住吉の神の霊験を目の当たりにするにつけても」 |
昔こそ 神のしるしを見るにつけても |
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2.6.8 | と |
とひとり口ずさむのであった。 |
とまた |
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第七段 終夜、神楽を奏す |
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2.7.1 | 一晩中神楽を奏して夜をお明かしなさる。 二十日の月が遥かかなたに澄み照らして、海面が美しく見えわたっているところに、霜がたいそう白く置いて、松原も同じ色に見えて、何もかもが寒気をおぼえる素晴らしさで、風情や情趣の深さも一入に感じられる。 |
一行は終夜を歌舞に明かしたのである。 |
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2.7.2 | 対の上は、いつものお邸の内にいらしたまま、季節季節につけて、興趣ある朝夕の遊びに、耳慣れ目馴れていらっしゃったが、御門から外の見物を、めったになさらず、ましてこのような都の外へお出になることは、まだご経験がないので、物珍しく興味深く思わずにはいらっしゃれない。 |
自邸での遊びには |
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2.7.3 | 「住吉の浜の松に夜深く置く霜は 神様が掛けた木綿鬘でしょうか」 |
住の江の松に夜深く置く霜は 神の |
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2.7.4 | 篁朝臣が、「比良の山さえ」と言った雪の朝をお思いやりになると、ご奉納の志をお受けになった証だろうかと、ますます頼もしかった。 女御の君、 |
紫夫人の作である。 |
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2.7.5 | 「神主が手に持った榊の葉に 木綿を掛け添えた深い夜の霜ですこと」 |
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2.7.6 | 中務の君、 |
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2.7.7 | 「神に仕える人々の木綿鬘と見間違えるほどに置く霜は 仰せのとおり神の御霊験の証でございましょう」 |
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2.7.8 | 次々と数え切れないほど多かったのだが、どうして覚えていられようか。 このような時の歌は、いつもの上手でいらっしゃるような殿方たちも、かえって出来映えがぱっとしないで、松の千歳を祝う決まり文句以外に、目新しい歌はないので、煩わしくて省略した。 |
そのほかの人々からも多くの歌は |
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第八段 明石一族の幸い |
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2.8.1 | ほのぼのと |
夜がほのぼのと明けて行くと、霜はいよいよ深く、本方と末方とがその分担もはっきりしなくなるほど、酔い過ぎた神楽面が、自分の顔がどんなになっているか知らないで、面白いことに夢中になって、庭燎も消えかかっているのに、依然として、「万歳、万歳」と、榊の葉を取り直し取り直して、お祝い申し上げる御末々の栄えを、想像するだけでもいよいよめでたい限りである。 |
朝の光がさし上るころにいよいよ霜は深くなって、夜通し飲んだ酒のために |
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2.8.2 | 万事が尽きせず面白いまま、千夜の長さをこの一夜の長さにしたいほどの今夜も、何という事もなく明けてしまったので、返る波と先を争って帰るのも残念なことと、若い人々は思う。 |
非常におもしろくて千夜の時のあれと望まれた一夜がむぞうさに明けていったのを見て、若い人たちは |
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2.8.3 | 松原に、遥か遠くまで立て続けた幾台ものお車が、風に靡く下簾の間々も、常磐の松の蔭に、花の錦を引き並べたように見えるが、袍の色々な色が位階の相違を見せて、趣きのある懸盤を取って、次々と食事を一同に差し上げるのを、下人などは目を見張って、立派だと思っている。 |
はるばると長い列になって置かれた車の、 |
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2.8.4 | 尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表を付けて、精進料理を差し上げるという事で、「驚くほどの女性のご運勢だ」と、それぞれ陰口を言ったのであった。 |
明石の尼君の分も浅香の |
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2.8.5 | 御参詣なさった道中は、ものものしいことで、もてあますほどの奉納品が、いろいろと窮屈げにあったが、帰りはさまざまな物見遊山の限りをお尽くしになる。 それを語り続けるのも煩わしく、厄介な事柄なので。 |
おいでになった時は神前へささげられる、持ち運びの面倒な物を守る人数も多くて、途中の見物も十分におできにならなかったのであったが、帰途は自由なおもしろい旅をされた。この楽しい旅行に山へはいりきりになった入道を |
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2.8.6 | かかる よろづのことにつけて、めであさみ、 かの |
このようなご様子をも、あの入道が、聞こえないまた見えない山奥に離れ去ってしまわれたことだけが、不満に思われた。 それも難しいことだろう、出てくるのは見苦しいことであろうよ。 世の中の人は、これを例として、高望みがはやりそうな時勢のようである。 万事につけて、誉め驚き、世間話の種として、「明石の尼君」と、幸福な人の例に言ったのであった。 あの致仕の大殿の近江の君は、双六を打つ時の言葉にも、「明石の尼君、明石の尼君」と言って、賽を祈ったのである。 |
実際老入道がこの一行に加わっているとしたら見苦しいことでなかったであろうか。その人の思い上がった空想がことごとく実現されたのであるから、だれも心は高く持つべきであると教訓をされたようである。いろいろな話題になって明石の人たちがうらやまれ、幸福な人のことを明石の尼君という言葉もはやった。太政大臣家の |
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第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画 |
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第一段 女三の宮と紫の上 |
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3.1.1 | いよいよはなやかに |
入道の帝は、仏道に御専心あそばして、内裏の御政道にはいっさいお口をお出しにならない。 春秋の朝覲の行幸には、昔の事をお思い出しになることもあった。 姫宮の御事だけを、今でも御心配でいらして、こちらの六条院を、やはり表向きのお世話役としてお思い申し上げなさって、内々の御配慮を下さるべく帝にもお願い申し上げていらっしゃる。 二品におなりになって、御封なども増える。 ますます華やかにご威勢も増す。 |
法皇は仏勤めに精進あそばされて、政治のことなどには何の干渉もあそばさない。春秋の |
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3.1.2 | 対の上は、このように年月とともに何かにつけてまさって行かれるご声望に比べて、 |
紫夫人は一方の夫人の宮がこんなふうに年月に添えて勢力の増大していくのに対して、 |
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3.1.3 | 「自分自身はただ一人が大事にして下さるお蔭で、他の人には負けないが、あまりに年を取り過ぎたら、そのご愛情もしまいには衰えよう。 そのような時にならない前に、自分から世を捨てたい」 |
自分はただ院の御愛情だけを力にして今の所は |
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3.1.4 | と、たゆみなく |
と、ずっと思い続けていらっしゃるが、生意気なようにお思いになるだろうと遠慮されて、はっきりとはお申し上げになることができない。 今上帝までが、御配慮を特別にして上げていらっしゃるので、疎略なと、お耳にあそばすことがあったらお気の毒なので、お通いになることがだんだんと同等になってなって行く。 |
とは常に思っていることであったが、あまりに賢がるふうに思われてはという遠慮をして口へたびたびは出さないのである。院は法皇だけでなく帝までが関心をお持ちになるということがおそれおおく思召されて、冷淡にする |
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3.1.5 | さるべきこと、ことわりとは その いづれも |
無理もないこと、当然なこととは思いながらも、やはりそうであったのかとばかり、面白からずお思いになるが、やはり素知らぬふうに同じ様にして過ごしていらっしゃる。 春宮のすぐお下の女一の宮を、こちらに引き取って大切にお世話申し上げていらっしゃる。 そのご養育に、所在ない殿のいらっしゃらない夜々を気をお紛らしていらっしゃるのだった。 どちらの宮も区別せず、かわいくいとしいとお思い申し上げていらっしゃった。 |
道理なこととは思いながらもかねて思ったとおりの寂しい日の来始めたことに |
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第二段 花散里と玉鬘 |
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3.2.1 | いとをかしげにて、 |
夏の御方は、このようなあれこれのお孫たちのお世話を羨んで、大将の君の典侍腹のお子を、ぜひにと引き取ってお世話なさる。 とてもかわいらしげで、気立ても、年のわりには利発でしっかりしているので、大殿の君もおかわいがりになる。 数少ないお子だとお思いであったが、孫は大勢できて、あちらこちらに数多くおなりになったので、今はただ、これらをかわいがり世話なさることで、退屈さを紛らしていらっしゃるのであった。 |
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3.2.2 | 右の大殿が参上してお仕えなさることは、昔以上に親密になって、今では北の方もすっかり落ち着いたお年となって、あの昔の色めかしい事は思い諦めたのであろうか、適当な機会にはよくお越しになる。 対の上ともお会いになって、申し分ない交際をなさっているのであった。 |
右大臣が院を尊敬して親しくお仕えすることは昔以上で、 |
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3.2.3 | 姫宮だけが、同じように若々しくおっとりしていらっしゃる。 女御の君は、今は主上にすべてお任せ申し上げなさって、この姫宮をたいそう心に懸けて、幼い娘のように思ってお世話申し上げていらっしゃる。 |
姫宮だけは今日もなお |
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第三段 朱雀院の五十の賀の計画 |
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3.3.1 | 朱雀院が、 |
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3.3.2 | 「今はすっかり死期が近づいた心地がして、何やら心細いが、決してこの世のことは気に懸けまいと思い捨てたが、もう一度だけお会いしたく思うが、もし未練でも残ったら大変だから、大げさにではなくお越しになるように」 |
もう御命数も少なくなったように心細くばかり思召されるのであるが、この世のことなどはもう顧みないことにしたいとお考えになりながらも、女三の宮にだけはもう一度お逢いあそばされたかった。このまま |
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3.3.3 | と、お便り申し上げなさったので、大殿も、 |
をお言いやりになった。院も、 |
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3.3.4 | 「なるほど、仰せの通りだ。 このような御内意が仮になくてさえ、こちらから進んで参上なさるべきことだ。 なおさらのこと、このようにお待ちになっていらっしゃるとは、おいたわしいことだ」 |
「ごもっともなことですよ。こんな仰せがなくともこちらから進んでお伺いをなさらなければならないのに、ましてこうまでお待ちになっておられるのだから、実行しないではお気の毒ですよ」 |
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3.3.5 | と、 |
と、ご訪問なさるべきことをご準備なさる。 |
とお言いになり、機会をどんなふうにして作ろうかと考えておいでになった。 |
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3.3.6 | 「何のきっかけもなく、取り立てた趣向もなくては、どうして簡単にお出かけになれようか。 どのようなことをして、御覧に入れたらよかろうか」 |
何でもなくそっと伺候をするようなことはみすぼらしくてよろしくない。 |
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3.3.7 | と、 |
と、ご思案なさる。 |
法皇をお喜ばせかたがた外見の整ったことがさせたいとお思いになるのである。 |
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3.3.8 | 「来年ちょうどにお達しになる年に、若菜などを調進してお祝い申し上げようか」と、お考えになって、いろいろな御法服のこと、精進料理のご準備、何やかやと勝手が違うことなので、ご夫人方のお智恵も取り入れてお考えになる。 |
来年法皇は五十におなりになるのであったから、若菜の賀を姫宮から奉らせようかと院はお思いつきになって、それに付帯した |
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3.3.9 | いにしへも、 |
御出家以前にも、音楽の方面には御関心がおありでいらっしゃったので、舞人、楽人などを、特別に選考し、勝れた人たちだけをお揃えあそばす。 右の大殿のお子たち二人、大将のお子は、典侍腹の子を加えて三人、まだ小さい七歳以上の子は、皆童殿上させなさる。 兵部卿宮の童孫王、すべてしかるべき宮家のお子たちや、良家のお子たち、皆お選び出しになる。 |
昔から音楽がことにお好きな方であったから、舞の人、楽の人にすぐれたのを選定しようとしておいでになった。右大臣家の下の二人の子、大将の子を典侍腹のも加えて三人、そのほかの御孫も七歳以上の皆殿上勤めをさせておいでになった。それらと、 |
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3.3.10 | 殿上の君たちも、器量が良く、同じ舞姿と言っても、また格別な人を選んで、多くの舞の準備をおさせになる。 大層なこの度の催しとあって、誰も皆懸命に練習に励んでいらっしゃる。 その道々の師匠、名人が、大忙しのこのごろである。 |
殿上人たちの舞い手も |
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第四段 女三の宮に琴を伝授 |
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3.4.1 | 姫宮は、もともと琴の御琴をお習いであったが、とても小さい時に父院にお別れ申されたので、気がかりにお思いになって、 |
女三の宮は琴の稽古を御父の院のお手もとでしておいでになったのであるが、まだ少女時代に六条院へお移りになったために、どんなふうにその芸はなったかと法皇は不安に思召して、 |
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3.4.2 | 「お越しになる機会に、あの御琴の音をぜひ聞きたいものだ。 いくら何でも琴だけは物になさったことだろう」 |
「こちらへ来られた時に宮の琴の音が聞きたい。あの芸だけは仕上げたことと思うが」 |
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3.4.3 | と、陰で申されなさったのを、帝におかせられてもお耳にあそばして、 |
と言っておいでになることが宮中へも聞こえて、 |
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3.4.4 | 「仰せの通り、何と言っても、格別のご上達でしょう。 院の御前で、奥義をお弾きなさる機会に、参上して聞きたいものだ」 |
「そう言われるのは決して平凡なお手並みでない芸に違いない。一所懸命に法皇の所へ来てお |
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3.4.5 | などのたまはせけるを、 |
などと仰せになったのを、大殿の君は伝え聞きなさって、 |
などと仰せられたということがまた六条院へ伝わって来た。院は、 |
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3.4.6 | 「 |
「今までに適当な機会があるたびに、お教え申したことはあるが、その腕前は、確かに上達なさったが、まだお聞かせできるような深みのある技術には達していないのを、何の準備もなくて参上した機会に、お聞きあそばしたいと強くお望みあそばしたら、とてもきっときまり悪い思いをすることになりはせぬか」 |
「今までも何かの場合に自分からも教えているが、質はすぐれているがまだたいした芸になっていないのを、何心なくお伺いされた時に、ぜひ弾けと仰せになった場合に、恥ずかしい結果を生むことになってはならない」 |
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3.4.7 | と、いとほしく |
と、気の毒にお思いになって、ここのところご熱心にお教え申し上げなさる。 |
とお言いになって、それから女三の宮に熱心な琴の教授をお始めになった。 |
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3.4.8 | 珍しい曲目、二つ三つ、面白い大曲類で、四季につれて変化するはずの響き、空気の寒さ温かさをその音色によって調え出して、高度な技術のいる曲目ばかりを、特別にお教え申し上げになるが、気がかりなようでいらっしゃるが、だんだんと習得なさるにつれて、大変上手におなりになる。 |
変わったものを二、三曲、また大曲の長いのが四季の気候によって変わる音、寒い時と空気の暖かい時によっての弾き方を変えねばならぬことなどの特別な奥義をお教えになるのであったが、初めはたよりないふうであったものの、お心によくはいってきて |
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3.4.9 | 「昼間は、たいそう人の出入りが多く、やはり絃を一度揺すって音をうねらせる間も、気ぜわしいので、夜な夜なに、静かに奏法の勘所をじっくりとお教え申し上げよう」 |
昼は人の出入りの物音の多さに妨げられて、 |
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3.4.10 | とて、 |
と言って、対の上にも、そのころはお暇申されて、朝から晩までお教え申し上げなさる。 |
とお言いになって、 |
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第五段 明石女御、懐妊して里下り |
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3.5.1 | 女御の君にも、対の上にも、琴の琴はお習わせ申されなかったので、この機会に、めったに耳にすることのない曲目をお弾きになっていらっしゃるらしいのを、聞きたいとお思いになって、女御も、特別にめったにないお暇を、ただ少しばかりお願い申し上げなさって御退出なさっていた。 |
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3.5.2 | お子様がお二方いらっしゃるが、再びご懐妊なさって、五か月ほどにおなりだったので、神事にかこつけてお里下がりしていらっしゃるのであった。 十一日が過ぎたら、参内なさるようにとのお手紙がしきりにあるが、このような機会に、このように面白い毎夜の音楽の遊びが羨ましくて、「どうしてわたしにはご伝授して下さらなかったのだろう」と、恨めしくお思い申し上げなさる。 |
もう皇子を二人お持ちしているのであるが、また妊娠して五月ほどになっていたから、神事の多い季節は御遠慮したいと言ってお暇を願って来たのである。十一月が過ぎるともどるようにと宮中からの御催促が急であるのもさしおいて、このごろの楽の |
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3.5.3 | 冬の夜の月は、人とは違ってご賞美なさるご性分なので、美しい雪の夜の光に、季節に合った曲目類をお弾きになりながら、伺候する女房たちも、少しはこの方面に心得のある者に、お琴類をそれぞれ弾かせて、管弦の遊びをなさる。 |
普通と変わって冬の月を最もお好みになる院は、雪のある月夜にふさわしい琴の曲をお弾きになって、女房の中の楽才のあるのに他に楽器で合奏をさせたりして楽しんでおいでになった。 |
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3.5.4 | 年の暮れ方は、対の上などは忙しく、あちらこちらのご準備で、自然とお指図なさる事柄があるので、 |
年末などはことに対の女王が忙しくていっさいの |
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3.5.5 | 「春のうららかな夕方などに、ぜひにこのお琴の音色を聞きたい」 |
「春ののどかな気分になった夕方などにこの琴の音をよくお聞きしたい」 |
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3.5.6 | とおっしゃり続けているうちに、年が改まった。 |
などと言っていたが年も変わった。 |
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第六段 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定 |
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3.6.1 | 朱雀院の五十の御賀は、まず今上の帝のあそばすことがたいそう盛大であろうから、それに重なっては不都合だとお思いになって、少し日を遅らせなさる。 二月十日過ぎとお決めになって、楽人や、舞人などが参上しては、合奏が続く。 |
年の初めにまず |
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3.6.2 | 「こちらの対の上が、いつも聞きたがっているお琴の音色を、ぜひとも他の方々の箏の琴や、琵琶の音色も合わせて、女楽を試みてみたい。 ただ最近の音楽の名人たちは、この院の御方々のお嗜みのほどにはかないませんね。 |
「対の女王がいつもお聞きしたがっているあなたの琴と、その人たちの十三 |
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3.6.3 | はかばかしく |
きちんと伝授を受けたことは、ほとんどありませんが、どのようなことでも、何とかして知らないことがないようにと、子供の時に思ったので、世間にいる道々の師匠は全部、また高貴な家々の、しかるべき人の伝えをも残さず受けてみた中で、とても造詣が深くてこちらが恥じ入るように思われた人はいませんでした。 |
私はたいした音楽者ではないが、すべての芸に通じておきたいと思って、少年の時から世間の専門家を師にしてつきもしたし、また貴族の中の音楽の大家たちにも教えを |
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3.6.4 | その当時から、また最近の若い人々が、風流で気取り過ぎているので、全く浅薄になったのでしょう。 琴の琴は、琴の琴で、他の楽器以上に全然稽古する人がなくなってしまったとか。 あなたの御琴の音色ほどにさえも習い伝えている人は、ほとんどありますまい」 |
その時代よりもまた現在では音楽をやる人の素質が悪くなって、芸が浅薄になっていると思う。琴などはまして稽古をする者がなくなったということですからあなただけ弾ける人はあまりないでしょう」 |
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3.6.5 | とおっしゃると、無邪気にほほ笑んで、嬉しくなって、「このようにお認めになるほどになったのか」とお思いになる。 |
と院がお言いになると、宮は無邪気に |
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3.6.6 | 二十一、二歳ほどにおなりになりだが、まだとても幼げで、未熟な感じがして、ほっそりと弱々しく、ただかわいらしくばかりお見えになる。 |
もう二十一、二でおありになるのであるが、幼稚な所が抜けないで、そして見たお姿だけは美しかった。 |
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3.6.7 | 「院にもお目にかかりなさらないで、何年にもなったが、ご成人なさったと御覧いただけるように、一段と気をつけてお会い申し上げなさい」 |
「長くお目にかからないでおいでになるのだから、大人になってりっぱになったと認めていただけるようにしてお目にかからなければいけませんよ」 |
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3.6.8 | と、ことに |
と、何かの機会につけてお教え申し上げなさる。 |
と事に触れて院は教えておいでになるのであった。 |
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3.6.9 | 「なるほど、このようなご後見役がいなくては、まして幼そうにいらっしゃいますご様子、隠れようもなかろう」 |
実際こうした |
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3.6.10 | と、 |
と、女房たちも拝見する。 |
と女房たちは思っていた。 |
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第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽 |
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第一段 六条院の女楽 |
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4.1.1 | 正月二十日ほどなので、空模様もうららかで、風がなま温かく吹いて、御前の梅の花も盛りになって行く。 たいていの花の木も、みな蕾がふくらんで、一面に霞んでいた。 |
一月の二十日過ぎにはもうよほど春めいてぬるい |
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4.1.2 | 「来月になったら、ご準備が近づいて、何かと騒がしかろうから、合奏なさる琴の音色も、試楽のように人が噂するだろうから、今の静かなころに合奏なさってごらんなさい」 |
「二月になってからでは賀宴の |
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4.1.3 | とて、 |
とおっしゃって、寝殿にお迎え申し上げなさる。 |
と院はお言いになって女王を寝殿のほうへお誘いになった。 |
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4.1.4 | お供に、わたしもわたしもと、合奏を聞きたく参上したがるが、音楽の方面に疎い者は、残させなさって、すこし年は取っていても、心得のある者だけを選んで伺候させなさる。 |
供をしたいという希望者は多かったが、寝殿の人と知り合いになっている以外の人は残された。少し年はいっている人たちであるがりっぱな女房たちだけが夫人に添って行った。 |
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4.1.5 | 女童は、器量の良い四人、赤色の表着に桜襲の汗衫、薄紫色の織紋様の袙、浮紋の上の袴に、紅の打ってある衣装で、容姿、態度などのすぐれている者たちだけをお召しになっていた。 女御の御方にも、お部屋の飾り付けなど、常より一層に改めたころの明るさなので、それぞれ競争し合って、華美を尽くしている衣装、鮮やかなこと、またとない。 |
童女は顔のいい子が四人ついて行った。朱色の上に桜の色の |
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4.1.6 | 童は、青色の表着に蘇芳の汗衫、唐綾の表袴、袙は山吹色の唐の綺を、お揃いで着ていた。 明石の御方のは、仰々しくならず、紅梅襲が二人、桜襲が二人、いずれも青磁色ばかりで、袙は濃紫や薄紫、打目の模様が何とも言えず素晴らしいのを着せていらっしゃった。 |
童女は |
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4.1.7 | 宮の御方でも、このようにお集まりになるとお聞きになって、女童の容姿だけは特別に整えさせていらっしゃった。 青丹の表着に柳襲の汗衫、葡萄染の袙など、格別趣向を凝らして目新しい様子ではないが、全体の雰囲気が、立派で気品があることまでが、まことに並ぶものがない。 |
姫宮のほうでも女御や夫人たちの集まる日であったから、童女の服装はことによくさせてお置きになった。 |
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第二段 孫君たちと夕霧を召す |
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4.2.1 | 廂の中の御障子を取り外して、あちらとこちらと御几帳だけを境にして、中の間には、院がお座りになるための御座所を設けてあった。 今日の拍子合わせの役には、子供を召そうとして、右の大殿の三郎君、尚侍の君の御腹の兄君、笙の笛、左大将の御太郎君、横笛と吹かせて、簀子に伺候させなさる。 |
縁側に近い座敷の |
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4.2.2 | 内側には御褥をいくつも並べて、お琴を御方々に差し上げる。 秘蔵の御琴類を、いくつもの立派な紺地の袋に入れてあるのを取り出して、明石の御方に琵琶、紫の上に和琴、女御の君に箏のお琴、宮には、このような仰々しい琴はまだお弾きになれないかと、心配なので、いつもの手馴れていらっしゃる琴を調絃して差し上げなさる。 |
演奏者の |
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4.2.3 | 「 よくその なほ、 この |
「箏のお琴は、弛むというわけではないが、やはり、このように合奏する時の調子によって、琴柱の位置がずれるものだ。 よくその点を考慮すべきだが、女性の力ではしっかりと張ることはできまい。 やはり、大将を呼んだ方がよさそうだ。 この笛吹く人たちも、まだ幼いようで、拍子を合わせるには頼りにならない」 |
「 |
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4.2.4 | と |
とお笑いになって、 |
とお笑いになりながら、 |
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4.2.5 | 「大将、こちらに」 |
「大将にこちらへ」 |
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4.2.6 | と |
とお呼びになるので、御方々はきまり悪く思って、緊張していらっしゃる。 明石の君を除いては、どなたも皆捨てがたいお弟子たちなので、お気を遣われて、大将がお聞きになるので、難点がないようにとお思いになる。 |
とお呼び出しになるのを聞いて、夫人たちは恥ずかしく思っていた。明石夫人以外は皆院の御弟子なのであるから、院も大将が聞いて難のないようにとできばえを祈っておいでになった。 |
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4.2.7 | 「 |
「女御は、ふだん主上がお聞きあそばすにも、楽器に合わせながら弾き馴れていらっしゃるので、安心だが、和琴は、たいして変化のない音色なのだが、奏法に決まった型がなくて、かえって女性は弾き方にまごつくに違いないのだ。 春の琴の音色は、おおよそ合奏して聞くものであるから、他の楽器と合わないところが出て来ようかしら」 |
女御は平生から陛下の前で他の人と合奏も仕 |
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4.2.8 | と、なまいとほしく |
と、何となく気がかりにお思いになる。 |
とも損な弾き手に同情もしておいでになった。 |
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第三段 夕霧、箏を調絃す |
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4.3.1 | 大将は、とてもたいそう緊張して、御前での大がかりな、改まった御試楽以上に、今日の気づかいは、格別に勝って思われなさったので、鮮やかなお直衣に、香のしみたいく重ものお召し物で、袖に特に香をたきしめて、化粧して参上なさるころ、日はすっかり暮れてしまった。 |
左大将は晴れがましくて、音楽会のいかなる場合に立ち合うよりも気のつかわれるふうで、きれいな |
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4.3.2 | ゆゑあるたそかれ ゆるるかにうち |
趣深い夕暮の空に、花は去年の古雪を思い出されて、枝も撓むほどに咲き乱れている。 緩やかに吹く風に、何とも言えず素晴らしく匂っている御簾の内側の薫りも一緒に漂って、鴬を誘い出すしるべにできそうな、たいそう素晴らしい御殿近辺の匂いである。 御簾の下から箏のお琴の裾、少しさし出して、 |
感じのよい早春の |
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4.3.3 | 「失礼なようですが、この絃を調節して、みてやって下さい。 ここには他の親しくない人を入れることはできないものですから」 |
「失礼だがこの |
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4.3.4 | とおっしゃると、礼儀正しくお受け取りになる態度、心づかいも行き届いていて立派で、「壱越調」の音に発の緒を合わせて、すぐには弾き始めずに控えていらっしゃるので、 |
とお言いになると、大将はうやうやしく琴を受け取って、 |
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4.3.5 | 「やはり、調子合わせの曲ぐらいは、一曲、興をそがない程度に」 |
「調子をつけるだけの一弾きは気どらずにすべきだよ」 |
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4.3.6 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と院がお言いになった。 |
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4.3.7 | 「まったく、今日の演奏会のお相手に、仲間入りできるような腕前では、ございませんから」 |
「今日の会に私がいささかでも音を混ぜますようなだいそれた自信は持っておりません」 |
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4.3.8 | と、けしきばみたまふ。 |
と、思わせぶりな態度をなさる。 |
大将は遠慮してこう言う。 |
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4.3.9 | 「もっともな言い方だが、女楽の相手もできずに逃げ出したと、噂される方が不名誉だぞ」 |
「もっともだけれども、女だけの音楽に引きさがった、逃げたと言われるのは不名誉だろう」 |
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4.3.10 | とて |
と言ってお笑いになる。 |
院はお笑いになった。 |
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4.3.11 | 調絃を終わって、興をそそる程度に調子合わせだけを弾いて、差し上げなさった。 このお孫の君たちが、とてもかわいらしい宿直姿で、笛を吹き合わせている音色は、まだ幼い感じだが、将来性があって、素晴らしく聞こえる。 |
で大将は調子をかき合わせて、それだけで |
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第四段 女四人による合奏 |
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4.4.1 | それぞれのお琴の調絃が終わって、合奏なさる時、どれも皆優劣つけがたい中で、琵琶は特別上手という感じで、神々しい感じの弾き方、音色が澄みきって美しく聞こえる。 |
かき合わせが済んでいよいよ合奏になったが、どれもおもしろく思われた中に、 |
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4.4.2 | 和琴に、大将も耳を留めていらっしゃるが、やさしく魅力的な爪弾きに、掻き返した音色が、珍しく当世風で、まったくこの頃名の通った名人たちが、ものものしく掻き立てた曲や調子に負けず、華やかで、「大和琴にもこのような弾き方があったのか」と感嘆される。 深いお嗜みのほどがはっきりと分かって、素晴らしいので、大殿はご安心なさって、またとない方だとお思い申し上げなさる。 |
大将は和琴に特別な関心を持っていたが、それはなつかしい、柔らかな、 |
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4.4.3 | 箏のお琴は、他の楽器の音色の合間合間に、頼りなげに時々聞こえて来るといった性質の音色のものなので、可憐で優美一筋に聞こえる。 |
十三絃の琴は他の楽器の音の合い間合い間に繊細な響きをもたらすのが特色であって、女御の |
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4.4.4 | 琴の琴は、やはり未熟ではあるが、習っていらっしゃる最中なので、あぶなげなく、たいそう良く他の楽器の音色に響き合って、「随分と上手になったお琴の音色だな」と、大将はお聞きになる。 拍子をとって唱歌なさる。 院も、時々扇を打ち鳴らして、一緒に唱歌なさるお声、昔よりもはるかに美しく、少し声が太く堂々とした感じが加わって聞こえる。 大将も、声はたいそう勝れていらっしゃる方で、夜が静かになって行くにつれて、何とも言いようのない優雅な夜の音楽会である。 |
琴は他に比べては洗練の足らぬ芸と思われたが、お若い |
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第五段 女四人を花に喩える |
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4.5.1 | 月の出が遅いころなので、灯籠をあちらこちらに懸けて、明かりを調度良い具合に灯させていらっしゃった。 |
月がややおそく出るころであったから、 |
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4.5.2 | 宮の御方をお覗きになると、他の誰よりも一段と小さくかわいらしげで、ただお召し物だけがあるという感じがする。 つややかな美しさは劣るが、ただとても上品に美しく、二月の二十日頃の青柳が、ようやく枝垂れ始めたような感じがして、鴬の羽風にも乱れてしまいそうなくらい、弱々しい感じにお見えになる。 |
院が宮の席をおのぞきになると、人よりも小柄なお姿は衣服だけが美しく重なっているように見えた。はなやかなお顔ではなくて、ただ貴族らしいお美しさが備わり、二月二十日ごろの柳の枝がわずかな芽の緑を見せているようで、 |
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4.5.3 | 桜襲の細長に、御髪は左右からこぼれかかって、柳の糸のようであった。 |
桜の色の細長を着ておいでになるのであるが、髪は右からも左からもこぼれかかってそれも柳の糸のようである。 |
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4.5.4 | 「これこそは、 |
「この方こそは、この上ないご身分の方のご様子というものだろう」と見えるが、女御の君は、同じような優美なお姿で、もう少し生彩があって、態度や雰囲気が奥ゆかしく、風情のあるご様子でいらっしゃって、美しく咲きこぼれている藤の花が、夏に咲きかかって、他に並ぶ花がない、朝日に輝いているような感じでいらっしゃった。 |
これこそ最上の女の姿というものであろうと院はおながめになるのであったが、女御には同じような |
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4.5.5 | さるは、いとふくらかなるほどになりたまひて、 ささやかになよびかかりたまへるに、 |
とは言え、とてもふっくらとしたころにおなりになって、ご気分もすぐれない時期でいらっしゃったので、お琴も押しやって、脇息に寄りかかっていらっしゃった。 小柄なお身体でなよなよとしていらっしゃるが、ご脇息は並の大きさなので、無理に背伸びしている感じで、特別に小さく作って上げたいと見えるのが、とてもおかわいらしげにお見えになるのであった。 |
この人は身ごもっていて、それがもうかなりに月が重なって悩ましいころであったから、済んだあとでは琴を前へ押しやって苦しそうに |
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4.5.6 | 紅梅襲のお召物に、お髪がかかってさらさらと美しくて、灯台の光に映し出されたお姿、またとなくかわいらしげだが、紫の上は、葡萄染であろうか、色の濃い小袿に、薄蘇芳襲の細長で、お髪がたまっている様子、たっぷりとゆるやかで、背丈などちょうど良いぐらいで、姿形は申し分なく、辺り一面に美しさが満ちあふれている感じがして、花と言ったら桜に喩えても、やはり衆に抜ん出た様子、格別の風情でいらっしゃる。 |
これは紅紫かと思われる濃い色の |
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4.5.7 | このような方々の中で、明石は圧倒されてしまうところだが、まったくそのようなことはなく、態度なども意味ありげにこちらが恥ずかしくなるくらいで、心の底を覗いてみたいほどの深い様子で、どことなく上品で優雅に見える。 |
こんな人たちの中に混じって明石夫人は当然見劣りするはずであるが、そうとも思われぬだけの美容のある人で、 |
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4.5.8 | 柳の織物の細長に、萌黄であろうか、小袿を着て、羅の裳の目立たないのを付けて、特に卑下していたが、その様子、そうと思うせいもあって、立派で軽んじられない。 |
柳の色の厚織物の細長に下へ |
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4.5.9 | 高麗の青地の錦で縁どりした敷物に、まともに座らず、琵琶をちょっと置いて、ほんの心持ばかり弾きかけて、しなやかに使いこなした撥の扱いよう、音色を聞くやいなや、また比類なく親しみやすい感じがして、五月待つ花橘の、花も実もともに折り取った薫りのように思われる。 |
青地の |
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第六段 夕霧の感想 |
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4.6.1 | この方もあの方も、とりすましたご様子を見たり聞いたりなさると、大将も、まことに中を御覧になりたくお思いになる。 対の上が、昔見た時よりも、ずっと美しくなっていっらっしゃるだろう様子が見たいので、心が落ち着かない。 |
いずれもつつましくしているらしい内のものの |
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4.6.2 | 「 |
「宮を、もう少し運勢があったなら、自分の妻としてお世話申し上げられたであろうに。 まことにゆったり構えていたのが悔やまれるよ。 院は、度々そのように水を向けられ、蔭でおっしゃっていられたものを」と、残念に思うが、少し軽率なようにお見えになるご様子に、軽くお思い申すと言うのではないが、それほど心は動かなかったのである。 |
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4.6.3 | こちらの御方を、何事につけても手の届くすべなく、高嶺の花として、長年過ごして来たので、「ただ何とかして、義理の親子の関係として、好意をお寄せ申している気持ちをお見せ申し上げたい」とだけ、残念に嘆かわしいのであった。 むやみに、あってはならない大それた考えなどは、まったくおありではなく、実に立派に振る舞っていらっしゃった。 |
女王とはだれも想像ができぬほど遠い間隔のある所に置かれている大将は、その忘れがたい感情などは別として、せめて自分の持つ好意だけでも紫の女王に認めてもらうだけを望んでできないのを考えては |
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第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論 |
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第一段 音楽の春秋論 |
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5.1.1 | 夜が更けて行く様子、冷え冷えとした感じがする。 臥待の月がわずかに顔を出したのを、 |
夜がふけてゆくらしい冷ややかさが風に感ぜられて |
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5.1.2 | 「おぼつかない光だね、春の朧月夜は。 秋の情趣は、やはりまた、このような楽器の音色に、虫の声を合わせたのが、何とも言えず、この上ない響きが深まるような気がするものだ」 |
「たよりない春の |
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5.1.3 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、大将の君、 |
と院は大将に向かってお言いになった。 |
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5.1.4 | 「秋の夜の曇りない月には、すべてのものがくっきりと見え、琴や笛の音色も、すっきりと澄んだ気は致しますが、やはり特別に作り出したような空模様や、草花の露も、いろいろと目移りし気が散って、限界がございます。 |
「秋の明るい月夜には、音楽でも何の響きでも澄み通って聞こえますが、あまりきれいに作り合わせたような空とか、草花の露の色とかは、専念に深く音楽を味わわせなくなる気もいたします。 |
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5.1.5 | 春の空のたどたどしい霞の間から、朧に霞んだ月の光に、静かに笛を吹き合わせたようなのには、どうして秋が及びましょうか。 笛の音色なども、優艶に澄みきることはないのです。 |
やはり春のたよりない雲の間から朧な月が出ますほどの夜に、静かな笛の音などの上ってゆくのを聞きますほうが、音楽そのものを楽しむのにはよいかと思われます。 |
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5.1.6 | 女性は春をあわれぶと、昔の人が言っておりました。 なるほど、そのようでございます。 やさしく音色が調和する点では、春の夕暮が格別でございます」 |
女は春を |
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5.1.7 | と |
と申し上げなさると、 |
と大将が言うと、 |
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5.1.8 | 「いや、この議論だがね。 昔から皆が判断しかねた事を、末の世の劣った者には、決定しがたいことであろう。 楽器の調べや、曲目などは、なるほど律を二の次にしているが、そのようなことであろう」 |
「それは断定的には言えないことだ。古人でさえ決めかねたことなのだから、末世のわれわれの力で正しい批判のできるわけもない。ただ音楽のほうでは秋の律の曲を、春の |
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5.1.9 | などのたまひて、 |
などとおっしゃって、 |
院はこう仰せられた。また、 |
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5.1.10 | 「どんなものであろう。 現在、演奏上手の評判の高い、その人あの人を、帝の御前などで、度々試みさせあそばすと、勝れた者は、数少なくなったようだが、その一流と思われる名人たちも、どれほども習得し得ていないのではなかろうか。 このような何でもないご婦人方の中で一緒に弾いたとしても、格別に勝れているようには思われない。 |
「どう思うかね。現在の優秀な音楽家とされている人たちの、宮中などのお催しなどの場合に演奏を命ぜられる人のを |
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5.1.11 | あやしく、 その、 |
何年もこのように引き籠もって過ごしていると、鑑賞力も少し変になったのだろうか、残念なことだ。 妙に、人々の才能は、ちょっと習い覚えた芸事でも、見栄えがして他より勝れているところである。 あの、御前の管弦の御遊などに、一流の名手として選ばれた人々の、誰それと比較したらどうであろうか」 |
しかしそれは近年の私がどこへも行かずに一所に引きこもっていて、鑑識が悪く偏してしまったのかもしれないが、とにかく感激を覚えさせられる音楽者のいないのは残念だ。どんな芸事も演ぜられる場所によっては平生と違ったできばえを見せるものであるが、最も晴れの場所の宮中でのこのごろの音楽の遊びに選び出される人たちに、この女性たちのを比べて劣っていると思う点があるかね」 |
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5.1.12 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、大将は、 |
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5.1.13 | 「それをなむ、とり |
「その事を、申し上げようと思っておりましたが、よくも弁えぬくせに、偉そうに言うのもどうかと存じまして。 古い昔の勝れた時代を聞き比べておりませんからでしょうか、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などは、最近の珍しく勝れた例に引くようでございます。 |
「それを申し上げたいと思ったのでございますが、しかし頭の悪い私はでたらめを申すことになるかもしれません。今の世間の者は昔の音楽の盛んな時を知らないからでもありますか |
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5.1.14 | げに、かたはらなきを、 なほ、かくわざともあらぬ |
なるほど、又とない演奏者ですが、今夜お聞き致しました楽の音色は、皆同じように耳を驚かしました。 やはり、このように特別のことでもない御催しと、かねがね思って油断しておりました気持ちが不意をつかれて騒ぐのでしょう。 唱歌など、とてもお付き合いしにくうございました。 |
私どもも妙技とはしておりますが、今晩の皆様の御演奏には |
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5.1.15 | 和琴は、あの太政大臣だけが、このように臨機応変に、巧みに操った音色などを、思いのままに掻き立てていらっしゃるのは、とても格別上手でいらっしゃったが、なかなか飛び抜けて上手には弾けないものでございますのに、まことに勝れて調子が整ってございました」 |
和琴は太政大臣によってだけすべての楽音を率いるような巧妙な音のたつものと思っておりまして、その境地へは一歩も他の者がはいれないものと思われるむずかしい芸でございますが、今晩のはまた特別なものでございました。結構でした」 |
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5.1.16 | と、めできこえたまふ。 |
と、お誉め申し上げなさる。 |
大将はほめた。 |
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5.1.17 | 「いや、それほど大した弾き方ではないが、特別に立派なようにお誉めになるね」 |
「そんな最大級な言葉でほめられるほどのものではないのだが」 |
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5.1.18 | とて、したり |
とおっしゃって、得意顔に微笑んでいらっしゃる。 |
得意な御微笑が院のお顔に現われた。 |
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5.1.19 | 「げに、けしうはあらぬ おぼえぬ |
「なるほど、悪くはない弟子たちである。 琵琶は、わたしが口出しするようなことは何もないが、そうは言っても、どことなく違うはずだ。 思いがけない所で初めて聞いた時、珍しい楽の音色だと思われたが、その時からは、又格段上達しているからな」 |
「私にはまずできそこねの弟子はないようだね。琵琶だけは私に骨を折らせた |
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5.1.20 | と、強引に自分の手柄のように自慢なさるので、女房たちは、そっとつつきあう。 |
こうして皆御自身の功にしてお言いになるのを聞いていて、女房たちなどは |
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第二段 琴の論 |
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5.2.1 | 「何事も、その道その道の稽古をすれば、才能というもの、どれも際限ないとだんだんと思われてくるもので、自分の気持ちに満足する限度はなく、習得することは実に難しいことだが、いや、どうして、その奥義を究めた人が、今の世に少しもいないので、一部分だけでも無難に習得したような人は、その一面で満足してもよいのだが、琴の琴は、やはり面倒で、手の触れにくいものである。 |
「すべての芸というものは習い始めると奥の深さがわかって、自分で満足のできるだけを習得することはとうていできないものなのだが、しかしそれだけの熱を芸に持つ人が今は少ないから、少しでも |
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5.2.2 | この |
この琴は、ほんとうに奏法どおりに習得した昔の人は、天地を揺るがし、鬼神の心を柔らげ、すべての楽器の音がこれに従って、悲しみの深い者も喜びに変わり、賎しく貧しい者も高貴な身となり、財宝を得て、世に認められるといった人が多かったのであった。 |
この芸をきわめれば天地も動かすことができ、鬼神の心も柔らげ、悲境にいた者も楽しみを受け、貧しい人も出世ができて、富貴な身の上になり、世の中の尊敬を受けるようなことも例のあることなのだ。 |
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5.2.3 | この げにはた、 |
わが国に弾き伝える初めまで、深くこの事を理解している人は、長年見知らぬ国で過ごし、生命を投げうって、この琴を習得しようとさまよってすら、習得し得るのは難しいことであった。 なるほど確かに、明らかに空の月や星を動かしたり、時節でない霜や雪を降らせたり、雲や雷を騒がしたりした例は、遠い昔の世にはあったことだ。 |
この芸の伝わった初めの間は、これを学ぶ人は皆長く外国へ行っていて、あらゆる困難に打ち勝って、上達しようとしたものだが、そうまでして成功したものの数はわずかだったのだ。実際すぐれた琴の音は月や星の座を変えさせることもあったし、その時季でなしに霜や雪を降らせたり、黒雲が |
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5.2.4 | かく されど、なほ、かの いと |
このように限りない楽器で、その伝法どおりに習得する人がめったになく、末世だからであろうか、どこにその当時の一部分が伝わっているのだろうか。 けれども、やはり、あの鬼神が耳を止め、傾聴した始まりの事のある琴だからであろうか、なまじ稽古して、思いどおりにならなかったという例があってから後は、これを弾く人、禍があるとか言う難癖をつけて、面倒なままに、今ではめったに弾き伝える人がいないとか。 実に残念なことである。 |
だれも音楽のうちの最高のものと知っていても、完全にその芸を習いおおせるものが少なかったし、末世にはなるし、今残っているのは昔のほんとうのものの断片だけの価値のものかとも思われる。それでもまだ鬼神が耳をとどめるものになっている琴の |
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5.2.5 | げに、よろづのこと |
琴の音以外では、どの絃楽器をもって音律を調える基準とできようか。 なるほど、すべての事が衰えて行く様子は、たやすくなって行く世の中で、一人故国を離れて、志を立てて、唐土、高麗と、この世をさまよい歩き、親子と別れることは、世の中の変わり者となってしまうことだろう。 |
琴がなくては世の中の音楽が根本の音を持たないものになるのだからね。すべての物は衰えかけると早い速力で退化する一方なんだから、そんな中で一人の人間だけが熱心にその芸に志して、 |
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5.2.6 | などか、なのめにて、なほこの いはむや、 まして、この |
どうして、それほどまでせずとも、やはりこの道をだいたい知る程度の一端だけでも、知らないでいられようか。 一つの調べを弾きこなす事さえ、量り知れない難しいものであるという。 いわんや、多くの調べ、面倒な曲目が多いので、熱中していた盛りには、この世にあらん限りの、わが国に伝わっている楽譜という楽譜のすべてを広く見比べて、しまいには、師匠とすべき人もなくなるまで、好んで習得したが、やはり昔の名人には、かないそうにない。 まして、これから後というと、伝授すべき子孫がいないのが、何とも心寂しいことだ」 |
それほどはしないでも、この芸がどんなものであるかを知りうるだけのことを私はしたいと思って、一曲でも十分に習いうることは困難なものとしても、これにはむずかしい無数の曲目のあるものなのだから、若くて音楽熱の盛んな年ごろの私は世の中にあるだけの琴の譜を調べたり、あちらから来ているものは皆手もとへ取り寄せて、それによって研究をしたが、しまいには私以上の力のある先生というものもなくなって不便だったものの、独学で勉強をしたが、それでも古人の芸に及ぶものでは少しもなかったのだからね。ましてこれからは心細いものになるだろうとこの芸について私は悲しんでいる」 |
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5.2.7 | などのたまへば、 |
などとおっしゃるので、大将は、なるほどまことに残念にも恥ずかしいとお思いになる。 |
などと院のお語りになるのを聞いていて大将は自身をふがいなく恥ずかしく思った。 |
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5.2.8 | 「この |
「この御子たちの中で、望みどおりにご成人なさる方がおいでなら、その方が大きくなった時に、その時まで生きていることがあったら、いかほどでもないわたしの技にしても、すべてご伝授申し上げよう。 三の宮は、今からその才能がありそうにお見えになるから」 |
「 |
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5.2.9 | などのたまへば、 |
などとおっしゃると、明石の君は、たいそう面目に思って、涙ぐんで聞いていらっしゃった。 |
このお言葉を |
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第三段 源氏、葛城を謡う |
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5.3.1 | 「 はなやかにおもしろし。 |
女御の君は、箏の御琴を、紫の上にお譲り申し上げて、寄りかかりなさったので、和琴を大殿の御前に差し上げて、寛いだ音楽の遊びになった。 「葛城」を演奏なさる。 明るくおもしろい。 大殿が繰り返しお謡いになるお声は、何にも喩えようがなく情がこもっていて素晴らしい。 |
女御は |
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5.3.2 | 月がだんだんと高く上って行くにつれて、花の色も香も一段と引き立てられて、いかにも優雅な趣である。 箏の琴は、女御のお爪音は、とてもかわいらしげにやさしく、母君のご奏法の感じが加わって、揺の音が深く、たいそう澄んで聞こえたのを、こちらのご奏法は、また様子が違って、緩やかに美しく、聞く人が感に堪えず、気もそぞろになるくらい魅力的で、輪の手など、すべていかにも、たいそう才気あふれたお琴の音色である。 |
月の高く上る時間になり、梅花の美もあざやかになってきた。十三 |
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5.3.3 | さらにかたほならず、いとよく |
返り声に、すべて調子が変わって、律の合奏の数々が、親しみやすく華やかな中にも、琴の琴は、五箇の調べを、たくさんある弾き方の中で、注意して必ずお弾きにならなければならない五、六の発刺を、たいそう見事に澄んでお弾きになる。 まったくおかしなところはなく、たいそうよく澄んで聞こえる。 |
合奏の末段になって |
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5.3.4 | 春秋どの季節の物にも調和する調べなので、それぞれに相応しくお弾きになる。 そのお心配りは、お教え申し上げたものと違わず、たいそうよく会得していらっしゃるのを、たいそういじらしく、晴れがましくお思い申し上げになる。 |
春と秋その他のあらゆる場合に変化させねばならぬ弾法の使いこなしようを院がお教えになったのを誤たずによく会得して弾いておいでになるのに、院は誇りをお覚えになった。 |
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第四段 女楽終了、禄を賜う |
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5.4.1 | この若君たちが、とてもかわいらしく笛を吹き立てて、一生懸命になっているのを、おかわいがりになって、 |
小さい御孫たちが熱心に笛の役を勤めたのをかわいく院は |
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5.4.2 | 「ねぶたくなりにたらむに。 とどめがたき |
「眠たくなっているだろうに。 今夜の音楽の遊びは、長くはしないで、ほんの少しのところでと思っていたが。 やめるのには惜しい楽の音色が、甲乙をつけがたいのを、聞き分けるほどに耳がよくないので愚図愚図しているうちに、たいそう夜が更けてしまった。 気のつかないことであった」 |
「眠くなっただろうのに、今晩の合奏はそう長くしないはずでわずかな予定だったのがつい感興にまかせて長く続けていて、それも楽音で時間を知るほどの敏感がなく、思わずおそくなって、思いやりのないことをした」 |
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5.4.3 | と言って、笙の笛を吹く君に、杯をお差しになって、お召物を脱いでお与えになる。 横笛の君には、こちらから、織物の細長に、袴などの仰々しくないふうに、形ばかりにして、大将の君には、宮の御方から、杯を差し出して、宮のご装束を一領をお与え申し上げなさるのを、大殿は、 |
とお言いになり、 |
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5.4.4 | 「妙なことだね。 師匠のわたしにこそ、さっそくご褒美を下さってよいものなのに。 情ないことだ」 |
「変ですね。まず先生に御 |
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5.4.5 | とのたまふに、 うち いみじき すこし |
とおっしゃるので、宮のおいであそばす御几帳の側から、御笛を差し上げる。 微笑みなさってお取りになる。 たいそう見事な高麗笛である。 少し吹き鳴らしなさると、皆お返りになるところであったが、大将が立ち止まりなさって、ご子息の持っておいでの笛を取って、たいそう素晴らしく吹き鳴らしなさったのが、実に見事に聞こえたので、どなたもどなたも、皆ご奏法を受け継がれたお手並みが、実に又となくばかりあるので、ご自分の音楽の才能が、めったにないほどだと思われなさるのであった。 |
院がこう |
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第五段 夕霧、わが妻を比較して思う |
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5.5.1 | 大将殿は、若君たちをお車に乗せて、月の澄んだ中をご退出なさる。 道中、箏の琴が普通とは違ってたいそう素晴らしかった音色が、耳について恋しくお思い出されなさる。 |
大将は子供をいっしょに車へ乗せて月夜の道を帰って行ったが、いつまでも第二回のおりの箏の音が耳についていて、 |
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5.5.2 | わが さすがに、 |
ご自分の北の方は、亡き大宮がお教え申し上げなさったが、熱心にお習いなさらなかったうちに、お引き離されておしまいになったので、ゆっくりとも習得なさらず、夫君の前では、恥ずかしがって全然お弾きにならない。 何ごともただあっさりと、おっとりとした物腰で、子供の世話に、休む暇もなく次々となさるので、風情もなくお思いになる。 そうはいっても、機嫌を悪くして、嫉妬するところは、愛嬌があってかわいらしい人柄でいらっしゃるようである。 |
この人の妻は祖母の宮のお教えを受けていたといっても、まだよくも心にはいらぬうちに父の家へ引き取られ、十三絃もはんぱな |
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第六章 紫の上の物語 出家願望と発病 |
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第一段 源氏、紫の上と語る |
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6.1.1 | 院は、対へお渡りになった。 紫の上は、お残りになって、宮にお話など申し上げなさって、暁方にお帰りになった。 日が高くなるまでお寝みになった。 |
院は対のほうへお帰りになり、紫夫人はあとに残って女三の宮とお話などをして、明け方に去ったが、昼近くなるまで寝室を出なかった。 |
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6.1.2 | 「宮のお琴の音色は、たいそう上手になったものだな。 どのようにお聞きなさいましたか」 |
「宮は |
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6.1.3 | と |
とお尋ねなさるので、 |
と院は夫人へお話しかけになった。 |
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6.1.4 | 「初めの方は、あちらでちらっと聞いた時には、どんなものかしらと思いましたが、とてもこの上なく上手になりましたわ。 どうして、あのように専心してお教え申し上げになったのですから」 |
「初めごろ、あちらでなさいますのを、聞いておりました時は、まだそうおできになるとは伺いませんでしたが、非常に御上達なさいましたね。ごもっともですわね、先生がそればかりに没頭していらっしゃったのですものね」 |
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6.1.5 | といらへきこえたまふ。 |
とお答えなさる。 |
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6.1.6 | 「さかし。 これかれにも、うるさくわづらはしくて、 |
「そうなのだ。 手を取り取りの、たいした師匠なんだよ。 他のどなたにも、厄介で、面倒なことなので、お教え申さないが、院にも帝にも、琴の琴はいくらなんでもお教え申しているだろうとおっしゃると、耳にするのがおいたわしくて、そうは言っても、せめてその程度のことだけはと、このように特別なご後見にとお預けになった甲斐にはと、思い立ってね」 |
「そうですね、手を取りながら教えるのだからこんな確かな教授法はなかったわけですね。あなたにも教えるつもりでいたが、あれは面倒で時間のかかる稽古ですからね、つい実行ができなかったのだが、院の陛下も琴だけの稽古はさせているだろうと言っておられるということを聞くと、お気の毒で、せめてそれくらいのことは保護者に選ばれたものの義務としてしなければならないかという気になって、やり始めた先生なのですよ」 |
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6.1.7 | など |
などと申し上げなさるついでにも、 |
などと仰せられるついでに、 |
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6.1.8 | 「昔、まだ幼かったころ、お世話したものだが、当時は暇がなくて、ゆっくりと特別にお教え申し上げることなどもなく、近頃になっても、何となく次から次へと、とり紛れては日を送り、聞いて上げなかったお琴の音色が、素晴らしい出来映えだったのも、晴れがましいことで、大将が、たいそう耳を傾け感嘆していた様子も、思いどおりで嬉しいことであった」 |
「小さかったころのあなたを手もとへ置いて、理想的に育て上げたいとは思ったものの、そのころの私にはひまな時間が少なくて、特別なものの先生になってあげることもできなかったし、近年はまたいろいろなことが次から次へと私を駆使して、よく世話もしてあげなかった琴のできのよかったことで私は光栄を感じましたよ。大将が非常に感心しているのを見たこともうれしくてなりませんでしたよ」 |
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6.1.9 | など |
などと申し上げなさる。 |
ともおほめになった。 |
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第二段 紫の上、三十七歳の厄年 |
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6.2.1 | かやうの |
こういった音楽の方面のことも、今はまた年輩者らしく、若宮たちのお世話などを、引き受けなさっている様子も、至らないところなく、すべて何事につけても、非難されるような行き届かないところなく、世にもまれなご様子の方なので、まことにこのように何から何までそなわっていらっしゃる方は、長生きしない例もあるというのでと、不吉なまでにお思い申し上げなさる。 |
そうした芸術的な能力も豊かである上に、今は一方で祖母の義務を御孫の宮たちのために忠実に尽くしていて、家庭の実務をとることにも力の不足は少しも見せない夫人であることを院はお思いになり、こうまで完全な人というものは短命に終わるようなこともあるのであると、そんな不安をお覚えになった。 |
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6.2.2 | さまざまなる |
いろいろな人の有様を多く御覧になっているために、何から何まで揃っている点では、本当に例があるまいと心底からお思い申し上げていらっしゃった。 今年は、 三十七歳におなりである。一緒にお暮らし申されてからの年月のことなどを、しみじみとお思 |
多くの女性を御覧になった院が、これほどにも物の整った人は断じてほかにないときめておいでになる紫の女王であった。夫人は今年が三十七であった。 |
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6.2.3 | 「さるべき もの おほかたにてうち |
「しかるべきご祈祷など、いつもの年よりも特別にして、今年はご用心なさい。 何かと忙しくばかりあって、考えつかないことがあるだろうから、やはり、あれこれとお思いめぐらしになって、大がかりな仏事を催しなさるなら、わたしの方でさせていただこう。 僧都が亡くなってしまわれたことが、たいそう残念なことだ。 一通りのお願いをするのにつけても、たいそう立派な方であったのに」 |
「 |
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6.2.4 | などのたまひ |
などとおっしゃる。 |
ともお言いになった。また、 |
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第三段 源氏、半生を語る |
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6.3.1 | 「わたしは、幼い時から、人とは違ったふうに、大層な育ち方をして来て、現在の世の評判や有様、過去にも類例が少ないものであった。 けれども、また一方で、大変に悲しいめに遭ったことでも、人並み以上であったことです。 |
「私は生まれた初めからすでにたいそうに扱われる運命を持っていたし、今日になって得ている名誉も物質的のしあわせも珍しいほどの人間ともいってよいが、 |
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6.3.2 | まづは、 |
まず第一に、愛する方々に次々と先立たれ、とり残された晩年になっても、意に満たず悲しいと思う事が多く、不本意にも感心しないことにかかわったにつけても、妙に物思いが絶えず、心に満足のゆかず思われる事が身につきまとって過ごして来てしまったので、その代わりとででもいうのか、思っていたわりに、今まで生き永らえているのだろうと、思わずにはいられません。 |
また一方ではだれよりも多くの悲しみを見て来た人とも言えるのです。母や祖母と早く別れたことに始まって、いろいろな悲しいことが私のまわりにはありましたよ。それが罪業を軽くしたことになって、こうして思いのほか長生きもできるのだと思いますよ。 |
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6.3.3 | あなたご自身には、あの一件での離別のほかは、その前にも後にも、心配して、心をお痛めになるようなことはあるまいと思う。 后と言っても、ましてそれより下の方々は、身分が高いからと言っても、皆必ず物思いの種が付き纏うものなのです。 |
あなたは私とあの別居時代のにがい経験をしてからはもう物思いも |
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6.3.4 | 高いお付き合いをするにつけても、気苦労があり、人と争う思いが絶えないのも、楽なことではないから、親のもとでの深窓生活同然に暮らしていらっしゃるような気楽さはありません。 その点では、人並み以上の運勢だとお分かりでしょうか。 |
親の家にいるままのようにして今日まで来たあなたのような気楽はだれにもないものなのですよ。この点だけではあなたがだれよりも幸福だったということがわかりますか。 |
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6.3.5 | ものの |
思いもかけず、この宮がこのようにお輿入れなさったのは、何やら辛くお思いでしょうが、それにつけては、いっそう勝る愛情を、ご自分の身の上のことですから、あるいはお気づきでないかも知れません。 物のわけをよくお分りのようですから、きっとお分りだろうと思います」 |
思いがけなく姫宮をこちらへお迎えしなければならないことになってからは、少しの不愉快はあるでしょうがね、それによって私の愛はいっそう深まっているのだが、あなたは自身のことだからわかっていないかもしれない。しかし物わかりのいい人だから理解していてくれるかもしれないと頼みにしていますよ」 |
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6.3.6 | と |
と申し上げなさると、 |
と院がお言いになると、 |
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6.3.7 | 「おっしゃるように、ふつつかな身の上には、過ぎた事と世間の目には見えましょうが、心に堪えない物思いばかりがつきまとうのは、それがわたし自身のご祈祷となっているのでした」 |
「お言葉のように、ほかから見ますれば私としては過分な身の上になっているのですが、心には悲しみばかりがふえてまいります。それを少なくしていただきたいと神仏にはただそれを私は祈っているのですよ」 |
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6.3.8 | とて、 |
と言って、多く言い残したような様子は、奥ゆかしそうである。 |
言いたいことをおさえてこれだけを言った女王に貴女らしい美しさが見えた。 |
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6.3.9 | 「ほんとうのことを申しますと、もうとても先も長くないような心地がするのですが、今年もこのように知らない顔をして過ごすのは、とても不安なことです。 先々にも申し上げたこと、何とかお許しがあれば」 |
「ほんとうは私はもう長く生きていられない気がしているのでございますよ。この |
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6.3.10 | と |
と申し上げなさる。 |
とも夫人は言った。 |
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6.3.11 | 「それはしも、あるまじきことになむ。 さて、かけ ただかく なほ |
「それは、とんでもないことだ。 そうして、離れておしまいになった後に残ったわたしは、何の生き甲斐があろう。 ただこのように何ということもなく過ぎて行く月日だが、朝に晩に顔を合わせる嬉しさだけで、これ以上の事はないと思われるのです。 やはりあなたを人とは違って思う気持ちがどれほど深いものであるか最後まで見届けてください」 |
「それはもってのほかのことですよ。あなたが尼になってしまったあとの私の人生はどんなにつまらないものになるだろう。平凡に暮らしてはいるようなものの、あなたと |
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6.3.12 | とばかり申し上げなさるのを、いつものことと胸が痛んで、涙ぐんでいらっしゃる様子を、たいそういとしいと拝見なさって、いろいろとお慰め申し上げなさる。 |
院がこうお言いになるのを、またもいつもの慰め言葉で自分の信仰にはいる道をおはばみになると聞いて、夫人の涙ぐんでいるのを院は |
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第四段 源氏、関わった女方を語る |
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6.4.1 | 「多くは知らないが、人柄が、それぞれにとりえのないものはないと分かって行くにつれて、ほんとうの気立てがおおらかで落ち着いているのは、なかなかいないものであると、思うようになりました。 |
「そうおおぜいではありませんが、私の接触した比較的優秀な女性について言ってみると、女は何よりも性質が善良で落ち着いた考えのある人が一等だと思われるが、それがなかなか望んで見いだせないものなのですよ。 |
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6.4.2 | 大将の母君を、若いころにはじめて妻として、大事にしなければならない方とは思ったが、いつも夫婦仲が好くなく、うちとけぬ気持ちのまま終わってしまったのが、今思うと、気の毒で残念である。 |
大将の母とは少年時代に結婚をして、尊重すべき妻だとは思っていましたが、仲をよくすることができずに、隔てのあるままで終わったのを、今思うと気の毒で堪えられないし、残念なことをしたと後悔もしていながら、 |
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6.4.3 | また、わが うるはしく ただ、いとあまり |
しかしまた、わたし一人の罪ばかりではなかったのだと、自分の胸一つに思い出される。 きちんとして重々しくて、どの点が不満だと思われることもなかった。 ただ、あまりにくつろいだところがなく、几帳面すぎて、少しできすぎた人であったと言うべきであろうかと、離れて思うには信頼が置けて、一緒に生活するには面倒な人柄であった。 |
また自分だけが悪いのでもなかったと一方では考えられもするのですよ。りっぱな貴婦人であったことは間違いのないことで、なんらの欠点はなかったが、ただあまりに整然とととのったのが堅い感じを受けさせてね。少し賢過ぎるといっていいような人で、話で聞けば頼もしいが、妻にしては面倒な気のするというような女性でしたよ。 |
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6.4.4 | 中宮の御母君の御息所は、人並すぐれてたしなみ深く優雅な人の例としては、まず第一に思い出されるが、逢うのに気がおけて、こちらが気苦労するような方でした。 恨むことも、なるほど無理もないことと思われる点を、そのままいつまでも思い詰めて、深く怨まれたのは、まことに辛いことであった。 |
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6.4.5 | 緊張のし通しで気づまりで、自分も相手もゆっくりとして、朝夕睦まじく語らうには、とても気の引けるところがあったので、気を許しては軽蔑されるのではないかなどと、あまりに体裁をつくろっていたうちに、そのまま疎遠になった仲なのです。 |
自己を高く評価させないではおかないという自尊心が年じゅう付きまつわっているような気がして、そんな場合に自分は気に入らない男になるかもしれないと、あまりに見栄を張り過ぎるような私になって、そして自然に遠のいて縁が絶えたのですよ。 |
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6.4.6 | いとあるまじき |
たいそうとんでもない浮名を立て、ご身分に相応しくなくなってしまった嘆きを、たいそう思い詰めていらっしゃったのがお気の毒で、なるほど人柄を考えても、自分に罪がある心地がして終わってしまったその罪滅ぼしに、中宮をこのようにそうなるべき前世からのご因縁とは言いながら、取り立てて、世の非難、人の嫉妬も意に介さず、お世話申し上げているのを、あの世からであっても考え直して下さったろう。 今も昔も、いいかげんな気まぐれから、気の毒な事や後悔する事が多いのです」 |
私が無二無三に進み寄ってあるまじい名の立つ結果を引き起こしたその人の真価を知っているだけなお捨ててしまったのが済まないことに思われて、せめて中宮にはよくお尽くししたいと、それも前生の約束だったのでしょうが、こうして子にしてお世話を申していることで、あの世からも私を見直しているでしょうよ。今も昔も浮わついた心から人のために気の毒な結果を生むことの多い私ですよ」 |
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6.4.7 | と、 |
と、亡くなったご夫人方について少しずつおっしゃり出して、 |
なお |
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6.4.8 | 「 うはべは |
「今上の御方のご後見は、大した身分の人でないと、最初から軽く見て、気楽な相手だと思っていたが、やはり心の底が見えず、際限もなく深いところのある人でした。 表面は従順で、おっとりして見えるながら、しっかりしたところが下にあって、どことなく気の置けるところがある人です」 |
「 |
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6.4.9 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と院がお言いになると、 |
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6.4.10 | 「 |
「他の方は会ったことがないので知りませんが、この方は、はっきりとではないが、自然と様子を見る機会も何度かあったので、とても馴れ馴れしくできず、気の置ける嗜みがはっきりと分かりますにつけても、とても途方もない単純なわたしを、どのように御覧になっているだろうと、気の引けるところですが、女御は、自然と大目に見て下さるだろうとばかり思っています」 |
「ほかの方は見ないのですからわかりませんけれど、あの方にはおりおりお目にかかっていますが、 |
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6.4.11 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
夫人にとってはねたましく思われた人であった |
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6.4.12 | あれほど目障りな人だと心を置いていらっしゃった人を、今ではこのように顔を合わせたりなどなさるのも、女御の御ためを思う真心の結果なのだとお思いになると、普通にはとても出来ないことなので、 |
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6.4.13 | 「あなたこそは、それでもやはり心底に思わないこともないではないが、人によって、事によって、とても上手に心を使い分けていらっしゃいますね。 全く多くの女たちに接して来たが、あなたのご様子に似ている人はいませんでした。 とても態度は格別でいらっしゃいます」 |
「あなたは恨む心もある人だが思いやりもあるから私をそう困らせませんね。たくさんな女の中であなたの |
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6.4.14 | と、ほほ |
と、ほほ笑んで申し上げなさる。 |
微笑して院はこうお言いになる。夕方になってから、 |
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6.4.15 | 「宮に、とても琴の琴を上手にお弾きになったお祝いを申し上げよう」 |
「宮がよくお |
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6.4.16 | とて、 |
と言って、夕方お渡りになった。 自分に気兼ねする人があろうかともお考えにもならず、とてもたいそう若々しくて、一途に御琴に熱中していらっしゃる。 |
と言って、院は寝殿へお出かけになった。自分があるために苦しんでいる人がほかにあることなどは念頭になくて、お若々しく宮は琴の |
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6.4.17 | 「もう、お暇を下さって休ませていただきたいものです。 師匠は満足させてこそです。 とても辛かった日頃の成果があって、安心出来るほどお上手になりになりました」 |
「もう琴は休ませておやりなさい。それに先生をよく歓待なさらなければならないでしょう。苦しい骨折りのかいがあって安心してよいできでしたよ」 |
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6.4.18 | とて、 |
と言って、お琴類は押しやって、お寝みになった。 |
と院はお言いになって、楽器は押しやって寝ておしまいになった。 |
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第五段 紫の上、発病す |
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6.5.1 | 対の上のもとでは、いつものようにいらっしゃらない夜は、遅くまで起きていらして、女房たちに物語などを読ませてお聞きになる。 |
対のほうでは寝殿泊まりのこうした晩の |
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6.5.2 | 「かく、 あやしく、 げに、のたまひつるやうに、 あぢきなくもあるかな」 |
「このように、世間で例に引き集めた昔語りにも、不誠実な男、色好み、二心ある男に関係した女、このようなことを語り集めた中にも、結局は頼る男に落ち着くようだ。 どうしたことか、浮いたまま過してきたことだわ。 確かにおっしゃったように、人並み勝れた運勢であったわが身の上だが、世間の人が我慢できず満足ゆかないこととする悩みが身にまといついて終わろうとするのだろうか。 つまらない事よ」 |
人生を写した小説の中にも多情な男、幾人も恋人を作る人を相手に持って、絶えず |
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6.5.3 | など |
などと思い続けて、夜が更けてお寝みになった、その明け方から、お胸をお病みになる。 女房たちがご看病申し上げて、 |
などと思い続けて、夫人は夜がふけてから寝室へはいったのであるが、夜明け方から病になって、はなはだしく胸が痛んだ。女房が心配して |
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6.5.4 | 「お知らせ申し上げましょう」 |
院へ申し上げよう |
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6.5.5 | と |
と申し上げるが、 |
と言っているのを、 |
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6.5.6 | 「いと |
「とても不都合なことです」 |
「そんなことをしては済みませんよ」 |
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6.5.7 | とお制しなさって、苦しいのを我慢して夜を明かしなさった。 お身体も熱があって、ご気分もとても悪いが、院がすぐにお帰りにならない間、これこれとも申し上げない。 |
と夫人はとめて、非常な苦痛を忍んで朝を待った。発熱までもして夫人の容体は悪いのであるが、院が早くお帰りにならないのをお促しすることもなしにいるうち、 |
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第六段 朱雀院の五十賀、延期される |
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6.6.1 | 女御の御方からお便りがあったので、 |
女御のほうから夫人へ手紙を持たせて来た使いに、 |
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6.6.2 | 「これこれと気分が悪くていらっしゃいます」 |
病気のことを |
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6.6.3 | と申し上げなさると、びっくりして、そちらから申し上げなさったので、胸がどきりとして、急いでお帰りになると、とても苦しそうにしていらっしゃる。 |
女房が伝えたために、驚いた女御から院へお知らせをしたために、胸を騒がせながら院が帰っておいでになると、夫人は苦しそうなふうで寝ていた。 |
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6.6.4 | 「いかなる |
「どのようなご気分ですか」 |
「どんな気持ちですか」 |
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6.6.5 | とて |
と手をさし入れなさると、とても熱っぽくいらっしゃるので、昨日申し上げなさったご用心のことなどをお考え合わせになって、とても恐ろしく思わずにはいらっしゃれない。 |
とお言いになり、手を夜着の下に入れてごらんになると非常に夫人の |
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6.6.6 | 御粥などをこちらで差し上げたが、御覧にもならず、一日中付き添っていらして、いろいろと介抱なさりお心を痛めなさる。 ちょっとしたお果物でさえ、とても億劫になさって、起き上がりなさることはまったくなくなって、数日が過ぎてしまった。 |
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6.6.7 | どうなるのだろうとご心配になって、御祈祷などを、数限りなく始めさせなさる。 僧侶を召して、御加持などをおさせになる。 どこということもなく、たいそうお苦しみになって、胸は時々発作が起こってお苦しみになる様子は、我慢できないほど苦しげである。 |
どうなることかと院は御心配になって |
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6.6.8 | さまざまの かの |
さまざまのご謹慎は数限りないが、効験も現れない。 重態と見えても、自然と快方に向かう兆しが見えれば期待できるが、たいそう心細く悲しいと見守っていらっしゃると、他の事はお考えになれないので、御賀の騷ぎも静まってしまった。 あちらの院からも、このようにご病気である由をお聞きあそばして、お見舞いを非常に御丁重に、度々申し上げなさる。 |
いろいろな |
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第七段 紫の上、二条院に転地療養 |
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6.7.1 | 同じような状態で、二月も過ぎた。 言いようもない程にお嘆きになって、ためしに場所をお変えなさろうとして、二条院にお移し申し上げなさった。 院の中は上を下への大騒ぎで、嘆き悲しむ者が多かった。 |
夫人の病気は同じ状態のままで二月も終わった。院は言い尽くせぬほどの心痛をしておいでになって、試みに場所を変えさせたらとお考えになって、二条の院へ病女王をお移しになった。六条院の人々は皆大 |
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6.7.2 | 冷泉院にもお聞きあそばして悲しまれる。 この方がお亡くなりになったら、院もきっと出家のご素志をお遂げになるだろうと、大将の君なども、真心をこめてお世話申し上げなさる。 |
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6.7.3 | 御修法などは、普通に行うものはもとより、特別に選んでおさせになる。 少しでも意識がはっきりしている時には、 |
院が仰せられる |
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6.7.4 | 「お願い申し上げていることを、お許しなく情けなくて」 |
「お願いしていますことをあなたはお |
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6.7.5 | とだけお恨み申し上げなさるが、寿命が尽きてお別れなさるよりも、目の前でご自分の意志で出家なさるご様子を見ては、まったく少しの間でも耐えられず、惜しく悲しい気がしないではいられないので、 |
と、院をお恨みした。力の及ばぬ死別にあうことよりも、生きながら自分から遠く離れて行かせるようなことを見ては、片時も生きるに堪えない気があそばされる院は、 |
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6.7.6 | 「昔から、自分自身こそこのような出家の本願は深かったのだが、残されて物寂しくお思いなさる気の毒さに心引かれ引かれして過しているのに、逆にわたしを捨てて出家なさろうとお思いなのですか」 |
「昔から私のほうが出家のあこがれを多く持っていながら、あなたが取り残されて寂しく暮らすことを思うのは、堪えられないことなので、こうしてまだ俗世界に残っているのに、逆にあなたが私を捨てようと思うのですか」 |
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6.7.7 | とのみ、 |
とばかり、惜しみ申し上げなさるが、本当にとても頼りなさそうに弱々しく、もうこれきりかとお見えになる時々が多かったが、どのようにしようとお迷いになっては、宮のお部屋には、ちょっとの間もお出掛けにならない。 御琴類にも興が乗らず、みなしまいこまれて、院の内の人々は、すっかりみな二条院にお集まりになって、こちらの院では、火を消したようになって、ただ女君たちばかりがおいでになって、お一方の御威勢であったかと見える。 |
こんなにばかりお言いになって御同意をあそばされないのが悪いのか、夫人の病体は頼み少なく衰弱していった。もう臨終かと思われることも多いためにまた尼にさせようかとも院はお惑いになるのであった。こんなことで |
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第八段 明石女御、看護のため里下り |
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6.8.1 | 女御の君もお渡りになって、ご一緒にご看病申し上げなさる。 |
女御も二条の院のほうへ来て御父子で看護をされた。 |
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6.8.2 | 「普通のお身体でもいらっしゃらないので、物の怪などがとても恐ろしいから、早くお帰りあそばせ」 |
「あなたは普通のお |
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6.8.3 | と、苦しいご気分ながらも申し上げなさる。 若宮が、とてもかわいらしくていらっしゃるのを拝見なさっても、ひどくお泣きになって、 |
と、病苦の中でも夫人は心配して言うのであった。若宮のおかわいらしいのを見ても夫人は非常に泣くのであった。 |
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6.8.4 | 「大きくおなりになるのを、見ることができずになりましょうこと。 きっとお忘れになってしまうでしょうね」 |
「大きくおなりになるのを拝見できないのが悲しい。お忘れになるでしょう」 |
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6.8.5 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、女御は、涙を堪えきれず悲しくお思いでいらっしゃった。 |
などと言うのを聞く女御も悲しかった。 |
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6.8.6 | 「ゆゆしく、かくな さりともけしうはものしたまはじ。 おきて |
「縁起でもない、そのようにお考えなさいますな。 いくら何でも悪いことにはおなりになるまい。 気持ちの持ちようで、人はどのようにでもなるものです。 心の広い人には、幸いもそれに従って多く、狭い心の人には、そうなる運命によって、高貴な身分に生まれても、ゆったりゆとりのある点では劣り、性急な人は、長く持続することはできず、心穏やかでおっとりとした人は、寿命の長い例が多かったものです」 |
「そんな縁起でもないことを思ってはいけませんよ。悪いようでもそんなことにはならないだろうと思う自身の性格で運命も支配していくことになりますからね。狭い心を持つ者は出世をしても寛大な気持ちでいられないものだから失敗する。善良な、おおような人は自然に長命を得ることになる例もたくさんあるのだから、あなたなどにそんな悲しいことは起こってきませんよ」 |
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6.8.7 | などと、仏神にも、この方のご性質が又とないほど立派で、罪障の軽い事を詳しくご説明申し上げなさる。 |
などと院はお慰めになるのであった。神仏にも夫人の善良さ、罪の軽さを告げて目に見えぬ加護を祈らせておいでになるのである。 |
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6.8.8 | すこしよろしきさまに よかるまじき |
御修法の阿闍梨たち、夜居などでも、お側近く伺候する高僧たちは皆、たいそうこんなにまで途方に暮れていらっしゃるご様子を聞くと、何ともおいたわしいので、心を奮い起こしてお祈り申し上げる。 少しよろしいようにお見えになる日が五、六日続いては、再び重くお悩みになること、いつまでということなく続いて、月日をお過ごしになるので、「やはり、どのようにおなりになるのだろうか。 治らないご病気なのかしら」と、お悲しみになる。 |
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6.8.9 | 御物の怪などと言って出て来るものもない。 お悩みになるご様子は、どこということも見えず、ただ日がたつにつれて、お弱りになるようにばかりお見えになるので、とてもとても悲しく辛い事とお思いになると、お心の休まる暇もなさそうである。 |
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第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語 |
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第一段 柏木、女二の宮と結婚 |
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7.1.1 | まことや、 |
そうであったよ、衛門督は、中納言になったのだ。 今上の御治世では、たいそう御信任厚くて、今を時めく人である。 わが身の声望が高まるにつけても、思いが叶わない悲しさを嘆いて、この宮の御姉君の二の宮を御降嫁頂いたのであった。 身分の低い更衣腹でいらっしゃったので、多少軽んじる気持ちもまじってお思い申し上げていらっしゃった。 |
あの |
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7.1.2 | 人柄も、普通の人に比較すれば、感じはこの上なくよくていらっしゃるが、はじめから思い込んでいた方がやはり深かったのであろう、慰められない姨捨で、人に見咎められない程度に、お世話申し上げていらっしゃった。 |
普通の人に比べてはすぐれた女性ではおありになったが初めから心に |
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7.1.3 | なほ、かの その |
今なお、あの内心の思いを忘れることができず、小侍従という相談相手は、宮の御侍従の乳母の娘だった。 その乳母の姉があの衛門督の君の御乳母だったので、早くから親しくご様子を伺っていて、まだ宮が幼くいらっしゃった時から、とてもお美しくいらっしゃるとか、帝が大事にしていらっしゃるご様子など、お聞き申していて、このような思いもついたのであった。 |
今も以前の恋の続きにその方のことを聞き出す道具に使っている女三の宮の小侍従という女は、宮の侍従の |
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第二段 柏木、小侍従を語らう |
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7.2.1 | こうして、院も離れていらっしゃる時、人目が少なくひっそりした時を推量して、小侍従を度々迎えては、懸命に相談をもちかける。 |
六条院が病夫人と二条の院へお移りになっていて、ひまであろうことを思って小侍従を衛門督は自邸へ迎えて、熱心に話すのはまたそのことについてであった。 |
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7.2.2 | 「昔から、このように寿命も縮むほどに思っていることを、このような親しい手づるがあって、ご様子を伝え聞いて、抑え切れない気持ちをお聞き頂いて、心丈夫にしているのに、全然その甲斐がないので、ひどく辛い。 |
「昔から命にもかかわるほどの恋をしていて、しかも都合のよいあなたという |
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7.2.3 | 院の上でさえ、『あのように大勢の方々と関わっていらっしゃって、他人に負けておいでのようで、独りでお寝みになる夜々が多く、寂しく過ごしていらっしゃるそうです』などと、人が奏上した時にも、少し後悔なさっている御様子で、 |
あなたが恨めしくなるよ。法皇様さえも、宮様が幾人もの妻の中の一人におなりになって、第一の愛妻はほかの方であるというわけで、一人お |
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7.2.4 | 『同じ降嫁させるなら、臣下で安心な後見を決めるには、誠実にお仕えするような人を決めるべきであった』と、仰せになって、『女二の宮が、かえって安心で、将来長く幸福にお暮らしなさるようだ』 |
結婚をさせるのであったら普通人の忠実な |
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7.2.5 | と、のたまはせけるを いとほしくも、 |
と、仰せになったのを伝え聞いたが。 お気の毒にも、残念にも、どんなに思い悩んだことだろうか。 |
と仰せられたということを私は聞いて、お気の毒にも、残念にも思って煩悶しないではいられないではないか。 |
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7.2.6 | なるほど、同じご姉妹を頂戴したが、それはそれで別のことに思えるのだ」 |
私の宮さんも御 |
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7.2.7 | と、うちうめきたまへば、 |
と、思わず溜息をお漏らしになるので、小侍従は、 |
と |
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7.2.8 | 「まあ、何と、大それたことを。 その方を別事とお置き申し上げなさって、さらにまた、なんと途方もないお考えをお持ちなのでしょう」 |
「まあもったいない。それはそれとしてお置きになって、また何をどうしようというのでしょう」 |
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7.2.9 | と |
と言うと、ちょっとほほ笑んで、 |
ととがめた。衛門督は微笑を見せて、 |
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7.2.10 | 「さこそはありけれ。 などてかは、さてもさぶらはざらましとなむ、ことのついでにはのたまはせける。 いでや、ただ、 |
「そうではあった。 宮に恐れ多くも求婚申し上げたことは、院にも帝にもお耳にあそばしていらっしゃるのだ。 どうして、そうとして相応しからぬことがあろうと、何かの機会に仰せになったのだ。 いやなに、 |
「まあ世の中のことは皆そうしたもので、表も裏もあるものなのだよ。私が三の宮さんの熱心な求婚者であったことは、法皇様も陛下もよく御承知で、陛下はその時代に十分見込みはありそうだよ、とも仰せられたものなのだが、もう少しの御好意が不足していたわけだと私は思っている」 |
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7.2.11 | など |
などと言うと、 |
などと言う。 |
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7.2.12 | 「いと このころこそ、すこしものものしく、 |
「とてもお難しいことですわ。 ご宿運とか言うことがございますのに、それが本となって、あの院が言葉に出して丁重に求婚申し上げなさったのに、同じように張り合ってお妨げ申し上げることがおできになるほどのご威勢であったとお思いでしたか。 最近は、少し貫祿もつき、ご衣装の色も濃くおなりになりましたが」 |
「それはだめですよ。むずかしいことですよ。運命もありますし、六条院様が求婚者になって現われておいでになっては、どの競争者だって勝ち味はないと思いますけれど、あなただけはたいへんな御自信があったのですね。近ごろになりましてこそ御官服の色が濃くおなりになったようでございますがね」 |
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7.2.13 | と |
と言うので、言いようもなく遠慮のない口達者さに、最後までおっしゃり切れないで、 |
こんなふうにまくし立てる小侍従の攻撃にはかなわないことを衛門督は思った。 |
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7.2.14 | 「今はもうよい。 過ぎたことは申し上げまい。 ただ、このようにめったにない人目のない機会に、お側近くで、わたしの心の中に思っていることを、少しでも申し上げられるようにとり計らって下さい。 大それた考えは、まったく、まあ見て下さい、たいそう恐ろしいので、思ってもおりません」 |
「もう昔のことは言わないよ。ただね、このごろのようなまたとない好機会にせめてお居間の近くへまで行って、私の苦しんでいる心を少しだけお話しさせてくれることを計らってくれないか。もったいない |
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7.2.15 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
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7.2.16 | 「これ以上大それた考えは、他に考えられますか。 何とも恐ろしいことをお考えになったことですよ。 どうして伺ったのでしょう」 |
「それ以上のもったいない欲心がありますかしら。恐ろしい望みをお起こしになったものですね、私は出てまいらなければよかった」 |
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7.2.17 | と、はちふく。 |
と、口を尖らせる。 |
強硬に小侍従は拒む。 |
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第三段 小侍従、手引きを承諾 |
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7.3.1 | 「いで、あな、 あまりこちたくものをこそ まして、その |
「まあ、何と、聞きにくいことを。 あまり大げさな物の言い方をなさるというものだ。 男女の縁は分からないものだから、女御、后と申しても、事情がって、情を交わすことがないわけではあるまい。 まして、その宮のご様子よ。 思えば、たいそう又となく立派であるが、内情は面白くないことが多くあることだろう。 |
「ひどいことを言うものではないよ。たいそうらしく何を言うのだ。后といっても恋愛問題をかつてお起こしになった人もないわけではないよ。まして宮中のことではなしさ、ほかからは結構なお身の上に見られておいでになっても、 |
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7.3.2 | いとよく |
院が、大勢のお子様方の中で、他に肩を並べる者がないほど大切にお育て申し上げておいででしたのに、さほど同列とは思えないご夫人方の中にたち混じって、失礼に思うようなことがあるに違いない。 何もかも知っておりますよ。 世の中は無常なものですから、一概に決めつけて、取り付く島もなく、ぶっきらぼうにおっしゃるものではないよ」 |
法皇様からはどのお子様よりも大事がられて御成人なすって、今は同じだけの御身分でない方と同等の一人の夫人で、しかも最愛の方としてはお扱われにならないというくわしいことを私は知っているのだよ。人は無常の世界にいるのだから、君が宮の御幸福をこうして守ろうとしていることが皆むだなことになるかもしれないからね。私に冷酷なことを言っておかないほうがいいよ」 |
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7.3.3 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
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7.3.4 | 「 これは ただ、 あいなき |
「他の人から負かされていらっしゃるご境遇だからと言って、今さら別の結構な縁組をなさるというわけにも行きますまい。 このご結婚は世間一般の結婚ではございませんでしょう。 ただ、ご後見がなくて頼りなくお暮らしになるよりは、親代わりになって頂こう、というお譲り申し上げなさったご結婚なので、お互いにそのように思い合っていらっしゃるようです。 つまらない悪口をおっしゃるものです」 |
「人ほど大事がられない奥様だとお言いになって、それをあなたの力でよくしていただけるというのですか。六条院様と宮様は普通の夫婦というのでもありませんよ。保護者もなく一人でおいでになりますよりはという |
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7.3.5 | と、 |
と、しまいには腹を立てるが、いろいろと言いなだめて、 |
ついには腹をたててしまった小侍従の |
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7.3.6 | 「まことは、さばかり ただ |
「本当は、そのように世に又とないご様子を日頃拝見していらっしゃるお方に、人数でもない見すぼらしい姿を、気を許して御覧に入れようとは、まったく考えていないことです。 ただ一言、物越しに申し上げたいだけで、どれほどのご迷惑になることがありましょう。 神仏にも思っていることを申し上げるのは、罪になることでしょうか」 |
「ほんとうのことを言えば、あのまれな |
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7.3.7 | と、大変な誓言を繰り返しおっしゃるので、暫くの間は、まったくとんでもないことだと断っていたが、思慮の足りない若い女は、男がこのように命に代えてたいそう熱心にお頼みになるので、断り切れずに、 |
こう言って衛門督は絶対に不浄なことは行なわないという誓いまでも立てて、ひそかに御訪問をするだけの手引きを頼むのを、初めのうちは強硬にあるまじいことであると小侍従は突きはねていたが、もともとあさはかな若い女房であるから、こうまでも思い込むものかと、熱心な頼みに動かされて、 |
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7.3.8 | 「もし、適当な機会があったら、手立ていたしましょう。 院がいらっしゃらない夜は、御帳台の回りに女房が大勢仕えていて、お寝みになる所には、しかるべき人が必ず伺候していらっしゃるので、どのような機会に、隙を見つけたらよいのだろう」 |
「もしそんなことによいような |
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7.3.9 | と、わびつつ |
と、困りながら帰参した。 |
と困ったように言いながら小侍従は帰って行った。 |
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第四段 小侍従、柏木を導き入れる |
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7.4.1 | どうなのか、どうなのかと、毎日催促され困って、適当な機会を見つけ出して、手紙をよこした。 喜びながら、ひどく粗末で目立たない姿でいらっしゃった。 |
どうだろう、どうだろうと毎日のように衛門督から責めて来られる小侍従は困りながらしまいにある |
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7.4.2 | 本当に、自分ながらまことに善くないことなので、お側近くに参って、かえって煩悶が勝ることまでは、考えもしないで、ただ、 |
衛門督自身もこの行動の正しくないことは知っているのであるが、物越しの御様子に触れては物思いがいっそうつのるはずの明日までは考えずに、ただ |
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7.4.3 | 「いとほのかに |
「ほんの微かにお召し物の端だけを拝見した春の夕方が、いつまでも思い出されなさるご様子を、もう少しお側近くで拝見し、思っている気持ちをもお聞かせ申し上げたら、ほんの一くだりほどのお返事だけでも下さりはしまいか、かわいそういと思っては下さらないだろうか」 |
ほのかに宮のお召し物の |
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7.4.4 | とぞ |
と思うのであった。 |
というはかない希望をいだいている衛門督でしかなかった。 |
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7.4.5 | 四月十日過ぎのことである。 御禊が明日だと言って、斎院に差し上げなさる女房を十二人、特別に上臈ではない若い女房、女の童など、それぞれ裁縫をしたり、化粧などをしいしい、見物をしようと準備するのも、それぞれに忙しそうで、御前の方がひっそりとして、人が多くない時であった。 |
これは四月十幾日のことである。明日は |
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7.4.6 | よき さまでもあるべきことなりやは。 |
側近くに仕えている按察の君も、時々通って来る源中将が、無理やり呼び出させたので、下がっている間に、ただこの小侍従だけが、お側近くには伺候しているのであった。 ちょうど良い機会だと思って、そっと御帳台の東面の御座所の端に座らせた。 そんなにまですべきことであろうか。 |
おそばにいるはずの |
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第五段 柏木、女三の宮をかき抱く |
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7.5.1 | 宮は、無心にお寝みになっていらっしゃったが、近くに男性の感じがするので、院がいらっしゃったとお思いになったが、かしこまった態度で、浜床の下に抱いてお下ろし申したので、魔物に襲われたのかと、やっとの思いで目を見開きなさると、違う人なのであった。 |
宮は何心もなく寝ておいでになったのであるが、男が近づいて来た |
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7.5.2 | あやしく あさましくむくつけくなりて、 わななきたまふさま、 |
妙なわけも分からないことを申し上げるではないか。 驚いて恐ろしくなって、女房を呼ぶが、近くに控えていないので、聞きつけて参上する者もいない。 震えていらっしゃる様子、水のように汗が流れて、何もお考えになれない様子、とてもいじらしく可憐な感じである。 |
これまで聞いたこともおありにならぬような話を、その男はくどくどと語った。宮は気味悪くお思いになって、女房をお呼びになったが、お居間にはだれもいなかったからお声を聞きつけて寄って来る者もない。宮はお |
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7.5.3 | 「人数の者ではありませんが、まことにこんなにまでも軽蔑されるべき身の上ではないと、存ぜずにはいられません。 |
「私はつまらぬ者ですが、それほどお憎まれするのが至当だとは思われません。 |
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7.5.4 | 昔から身分不相応の思いがございましたが、一途に秘めたままにしておきましたら、心の中に朽ちて過ぎてしまったでしょうが、かえって、少し願いを申し上げさせていただいたところ、院におかせられても御承知おきあそばされましたが、まったく問題にならないように仰せにはならなかったので、望みを繋ぎ始めまして、身分が一段劣っていたがために、誰よりも深くお慕いしていた気持ちを無駄なものにしてしまったことと、残念に思うようになりました気持ちが、すべて今では取り返しのつかないことと思い返しはいたしますが、どれほど深く取りついてしまったことなのか、年月と共に、残念にも、辛いとも、気味悪くも、悲しくも、いろいろと深く思いがつのることに、堪えかねて、このように大それた振る舞いをお目にかけてしまいましたのも、一方では、まことに思慮浅く恥ずかしいので、これ以上大それた罪を重ねようという気持ちはまったくございません」 |
昔からもったいない恋を私はいだいておりましたが、結局そのままにしておけば |
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7.5.5 | と |
と言い続けるうちに、この人だったのだとお分りになると、まことに失礼な恐ろしいことに思われて、何もお返事なさらない。 |
こんな言葉をお聞きになることによって、宮は |
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7.5.6 | 「まことにごもっともなことですが、世間に例のないことではございませんのに、又とないほどな無情なご仕打ちならば、まことに残念で、かえって向こう見ずな気持ちも起こりましょうから、せめて不憫な者よとだけでもおっしゃって下されば、その言葉を承って退出しましょう」 |
「あなた様がこうした冷ややかなお扱いをなさいますのはごもっともですが、しかしこんなことは世間に例のないことではないのでございますよ。あまりに御同情の欠けたふうをお見せになれば、私は情けなさに取り乱してどんなことをするかもしれません。かわいそうだとだけ言ってください。そのお言葉を聞いて私は立ち去ります」 |
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7.5.7 | と、よろづに |
と、さまざまに申し上げなさる。 |
とも、手を変え品を変え宮のお心を動かそうとして説く衛門督であった。 |
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第六段 柏木、猫の夢を見る |
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7.6.1 | よその |
はたから想像すると威厳があって、馴れ馴れしくお逢い申し上げるのもこちらが気が引けるように思われるようなお方なので、「ただこのように思い詰めているほんの一部を申し上げて、なまじ色めいた振る舞いはしないでおこう」と思っていたが、実際それほど気品高く恥ずかしくなるような様子ではなくて、やさしくかわいらしくて、どこまでももの柔らかな感じにお見えになるご様子で、上品で素晴らしく思えることは、誰とも違う感じでいらっしゃるのであった。 |
想像しただけでは非常な尊厳さが御身を包んでいて、目前で恋の言葉などは申し上げられないもののように思われ、熱情の一端だけをお知らせし、その他の無礼を犯すことなどは思いも寄らぬことにしていた督であったにかかわらず、それほど高貴な女性とも思われない、たぐいもない柔らかさと |
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7.6.2 | 賢明に自制していた分別も消えて、「どこへなりとも連れて行ってお隠し申して、自分もこの世を捨てて、姿を隠してしまいたい」とまで思い乱れた。 |
どこへでも宮を盗み出して行って夫婦になり、自分もそれとともに世間を捨てよう、世間から捨てられてもよいと思うようになった。 |
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7.6.3 | ただいささかまどろむともなき |
ただちょっとまどろんだとも思われない夢の中に、あの手なずけた猫がとてもかわいらしく鳴いてやって来たのを、この宮にお返し申し上げようとして、自分が連れて来たように思われたが、どうしてお返し申し上げようとしたのだろうと思っているうちに、目が覚めて、どうしてあんな夢を見たのだろう、と思う。 |
少し眠ったかと思うと衛門督は夢に自分の愛している |
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7.6.4 | 宮は、あまりにも意外なことで、現実のことともお思いになれないので、胸がふさがる思いで、途方に暮れていらっしゃるのを、 |
が宮はあさましい過失をして罪に |
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7.6.5 | 「やはり、このように逃れられないご宿縁が、浅くなかったのだとお思い下さい。 自分ながらも、分別心をなくしたように、思われます」 |
「こうなりましたことによりましても、前生の縁がどんなに深かったかを悟ってくださいませ。私の犯した罪ですが、私自身も知らぬ力がさせたのです」 |
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7.6.6 | かのおぼえなかりし |
あの身に覚えのなかった御簾の端を、猫の綱が引いた夕方のこともお話し申し上げた。 |
不意に猫が端を引き上げた |
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7.6.7 | 「なるほど、そうであったことなのか」 |
そんなことがこの悲しい罪に |
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7.6.8 | と、 「 |
と、残念に、前世からの宿縁が辛い御身の上なのであった。 「院にも、今はどうしてお目にかかることができようか」と、悲しく心細くて、まるで子供のようにお泣きになるのを、まことに恐れ多く、いとしく拝見して、相手のお涙までを拭う袖は、ますます露けさがまさるばかりである。 |
と |
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第七段 きぬぎぬの別れ |
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7.7.1 | 夜が明けてゆく様子であるが、帰って行く気にもなれず、かえって逢わないほうがましであったほどである。 |
夜が明けていきそうなのであるが、帰って行けそうにも男は思われない。 |
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7.7.2 | 「いったい、 どうしたらよいのでしょう。ひどくお憎みになっていらっしゃるので、再びお話し申し上げることも難しいでしょうが、ただ一言だけで |
「どうすればよいのでしょう。私を非常にお憎みになっていますから、もうこれきり |
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7.7.3 | と、よろづに |
と、さまざまに申し上げて困らせるのも、煩わしく情けなくて、何もまったくおしゃれないので、 |
宮はいろいろとこの男からお言われになるのもうるさく、苦しくて、ものなどは言おうとしてもお口へ出ない。 |
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7.7.4 | 「しまいには、薄気味悪くさえなってしまいました。 他に、 |
「何だか気味が悪くさえなりましたよ。こんな間柄というものがあるでしょうか」 |
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7.7.5 | と、いと |
と、まことに辛いとお思い申し上げて、 |
男は恨めしいふうである。 |
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7.7.6 | 「さらば いと つゆにても |
「それでは生きていても無用のようですね。 いっそ死んでしまいましょう。 生きていたいからこそ、こうしてお逢いもしたのです。 今晩限りの命と思うとたいそう辛うございます。 少しでもお心を開いて下さるならば、それを引き換えにして命を捨てもしましょうが」 |
「私のお願いすることはだめなのでしょう。私は自殺してもいい気にもとからなっているのですが、やはりあなたに心が残って生きていましたものの、もうこれで今夜限りで死ぬ命になったかと思いますと、多少の悲しみはございますよ。少しでも私を愛してくださるお心ができましたら、これに命を代えるのだと満足して死ねます」 |
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7.7.7 | と言って、抱いて外へ出るので、しまいにはどうするのだろうと、呆然としていらっしゃる。 |
と言って、衛門督は宮をお抱きして帳台を出た。 |
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7.7.8 | 隅の間の屏風を広げて、妻戸を押し開けると、渡殿の南の戸の、昨夜入った所がまだ開いたままになっているが、まだ夜明け前の暗いころなのであろう、ちらっと拝見しようとの気があるので、格子を静かに引き上げて、 |
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7.7.9 | 「このように、まことに辛い無情なお仕打ちなので、正気も消え失せてしまいました。 少しでも気持ちを落ち着けるようにとお思いならば、せめて一言かわいそうにとおっしゃって下さい」 |
「あまりにあなたが冷淡でいらっしゃるために、私の常識というものはすっかりなくされてしまいました。少し落ち着かせてやろうと思召すのでしたら、かわいそうだとだけのお言葉をかけてください」 |
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7.7.10 | と、脅して申し上げると、とんでもないとお思いになって、何かおっしゃろうとなさったが、震えるばかりで、ほんとうに子供っぽいご様子である。 |
衛門督が |
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7.7.11 | ただ |
ただ夜が明けて行くので、とても気が急かれて、 |
ずんずん明るくなっていく。あわただしい気になっていながら、男は、 |
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7.7.12 | 「しみじみとした夢語りも申し上げたいのですが、このようにお憎みになっていらっしゃるので。 そうは言っても、やがてお思い当たりなさることもございましょう」 |
「理由のありそうな夢の話も申し上げたかったのですけれど、あくまで私をお憎みになりますのもお恨めしくてよしますが、どんなに深い因縁のある二人であるかをお悟りになることもあなたにあるでしょう」 |
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7.7.13 | と言って、気ぜわしく出て行く明けぐれ、秋の空よりも物思いをさせるのである。 |
と言って出て行こうとする男の気持ちに、この初夏の朝も秋のもの悲しさに過ぎたものが覚えられた。 |
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7.7.14 | 「起きて帰って行く先も分からない明けぐれに どこから露がかかって袖が濡れるのでしょう」 |
おきて行く空も知られぬ明けぐれに いづくの露のかかる |
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7.7.15 | と、ひき |
と、袖を引き出して訴え申し上げるので、帰って行くのだろうと、少しほっとなさって、 |
宮のお袖を引いて |
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7.7.16 | 「明けぐれの空にこの身は消えてしまいたいものです 夢であったと思って済まされるように」 |
あけぐれの空にうき身は消えななん 夢なりけりと見てもやむべく |
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7.7.17 | と、力弱くおっしゃる声が、若々しくかわいらしいのを、聞きも果てないようにして出てしまった魂は、ほんとうに身を離れて後に残った気がする。 |
とはかなそうにお言いになる声も、若々しく美しいのを聞きさしたままのようにして、出て行く男は魂だけ離れてあとに残るもののような気がした。 |
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第八段 柏木と女三の宮の罪の恐れ |
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7.8.1 | 女宮のお側にもお帰りにならないで、大殿へこっそりとおいでになった。 横にはなったが目も合わず、あの見た夢が当たるかどうか難しいことを思うと、あの夢の中の猫の様子が、とても恋しく思い出さずにはいられない。 |
夫人の宮の所へは行かずに、父の太政大臣家へそっと |
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7.8.2 | 「それにしても大変な過ちを犯したものだな。 この世に生きて行くことさえ、できなくなってしまった」 |
大きな過失を自分はしてしまったものである。生きていることがまぶしく思われる自分になった |
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7.8.3 | と、恐ろしく何となく身もすくむ思いがして、外歩きなどもなさらない。 女のお身の上は言うまでもなく、自分を考えてもまことにけしからぬ事という中でも、恐ろしく思われるので、気ままに出歩くことはとてもできない。 |
と恐ろしく、恥ずかしく思って、督はずっとそのまま家に引きこもっていた。恋人の宮のためにも済まないことであるし、自身としてもやましい罪人になってしまったことは取り返しのつかぬことであると思うと、自由に外へ出て行ってよい自分とは思われなかったのである。 |
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7.8.4 | しか、いちじるき |
帝のお妃との間に間違いを起こして、それが評判になったような時に、これほど苦しい思いをするなら、そのために死ぬことも、苦しくないことだろう。 それほど、ひどい罪に当たらなくても、この院に睨まれ申すことは、まことに恐ろしく目も合わせられない気がする。 |
陛下の |
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7.8.5 | いと |
この上ない高貴な身分の女性とは申し上げても、少し夫婦馴れした所もあって、表面は優雅でおっとりしていても、心中はそうでもない所があるのは、あれやこれやの男の言葉に靡いて、情けをお交わしなさる例もあるのだが、この方は深い思慮もおありでないが、ひたすら恐がりなさるご性質なので、もう今にも誰かが見つけたり聞きつけたりしたかのように、目も上げられず、後ろめたくお思いなさるので、明るい所へいざり出なさることさえおできになれない。 まことに情けないわが身の上だと、自分自身お分りになるのであろう。 |
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7.8.6 | ご気分がすぐれない、とあったので、大殿はお聞きになって、たいそうお心をお尽くしになるご看病に加えて、またどうしたことかとお驚きあそばして、お渡りになった。 |
宮が御病気のようであるという知らせをお受けになって、六条院は、はなはだしく悲しんでおいでになる夫人の病気のほかに、またそうした心痛すべきことが起こったかと驚いて見舞いにおいでになった |
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7.8.7 | そこはかと |
どこそこと苦しそうな事もお見えにならず、とてもひどく恥ずかしがり沈み込んで、まともにお顔をお合わせ申されないのを、「長くなった絶え間を恨めしくお思いになっていらっしゃるのか」と、お気の毒に思って、あちらのご病状などをお話し申し上げなさって、 |
が、宮は別にどこがお悪いというふうにも見えなかった。ただ非常に恥ずかしそうにして、そしてめいっておいでになった。院のお目を避けるようにばかりして、下を向いておいでになるのを、久しく |
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7.8.8 | 「 いはけなかりしほどより おのづから、このほど |
「もう最期かも知れません。 今になって薄情な態度だと思われまいと思いましてね。 幼いころからお世話して来て、放って置けないので、このように幾月も何もかもうち忘れて看病して来たのですよ。 いつか、この時期が過ぎたら、きっとお見直し頂けるでしょう」 |
「もうだめになるのでしょう。最後になって冷淡に思わせてやりたくないと考えるものですから付いていっているのですよ。少女時代から始終そばに置いて世話をした妻ですから、捨てておけない気もして、こんなに幾月もほかのことは |
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7.8.9 | などと申し上げなさる。 このようにお気づきでないのも、お気の毒にも心苦しくもお思いになって、宮は人知れずつい涙が込み上げてくる。 |
などとお言いになるのを、宮は聞いておいでになって、あの罪は |
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第九段 柏木と女二の宮の夫婦仲 |
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7.9.1 | 督の君は、宮以上に、かえって苦しさがまさって、寝ても起きても明けても暮れても日を暮らしかねていらっしゃる。 祭の日などは、見物に先を争って行く公達が連れ立って誘うが、悩ましそうにして物思いに沈んで横になっていらっしゃった。 |
衛門督の恋はあのことがあって以来、ますますつのるばかりで、はげしい |
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7.9.2 | 女宮を、丁重にお扱い申しているが、親しくお逢い申されることもほとんどなさらず、ご自分の部屋に離れて、とても所在なさそうに心細く物思いに耽っていらっしゃるところに、女童が持っている葵を御覧になって、 |
夫人の |
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7.9.3 | 「悔しい事に罪を犯してしまったことよ 神が許した仲ではないのに」 |
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7.9.4 | と |
と思うにつけても、まことになまじ逢わないほうがましな思いである。 |
神の許せる こんな歌が口ずさまれた。後悔とともに恋の炎はますます立ちぼるようなわけである。 |
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7.9.5 | 世間のにぎやかな車の音などを、他人事のように聞いて、我から招いた物思いに、一日が長く思われる。 |
町々から聞こえてくる見物車の音も遠い世界のことのように聞きながら、退屈に苦しんでもいるのであった。 |
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7.9.6 | 女宮も、このような様子のつまらなさそうなのがお分かりになるので、どのような事情とはお分かりにならないが、気が引け心外なと思われるにつけ、面白くない思いでいられるのであった。 |
女二の宮も |
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7.9.7 | 女房などは、見物に皆出かけて、人少なでのんびりしているので、物思いに耽って、箏の琴をやさしく弾くともなしに弾いていらっしゃるご様子も、内親王だけあって高貴で優雅であるが、「同じ皇女を頂くなら、もう一段及ばなかった運命よ」と、今なお思われる。 |
女房などは皆祭りの見物に出て人少なな昼に、寂しそうな表情をあそばして十三 |
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7.9.8 | 「劣った落葉のような方をどうして娶ったのだろう 同じ院のご姉妹ではあるが」 |
もろかづら落ち葉を何に拾ひけん 名は |
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7.9.9 | と遊び半分に書いているのは、まこと失礼な蔭口である。 |
こんな歌をむだ書きにしていた。もったいないことである。 |
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第八章 紫の上の物語 死と蘇生 |
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第一段 紫の上、絶命す |
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8.1.1 | 大殿の君は、たまたまお渡りになって、すぐにはお帰りになることもできず、落ち着いていらっしゃれないところに、 |
院はまれにお |
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8.1.2 | 「 |
「息をお引きとりになりました」 |
急に息が絶えたと知らせた。 |
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8.1.3 | とて、 |
と言って、使者が参上したので、まったく何を考えることもおできになれず、お心も真暗になってお帰りになる。 その道中気が気でないところ、なるほどあちらの院は、周囲の大路まで人が騷ぎ立っていた。 邸の中の泣きわめいている様子、まことに不吉である。 無我夢中で中にお入りになると、 |
院はいっさいの世界が暗くなったようなお気持ちで二条の院へ帰ってお行きになるのであったが、車の速度さえもどかしく思っておいでになると、二条の院に近い大路はもう立ち騒ぐ人で満たされていた。邸内からは泣き声が多く聞こえて、大きな不祥事のあることは |
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8.1.4 | 「ここのところ数日は、少しよろしいようにお見えになったのですが、急に、このようにおなりになりました」 |
「この二、三日は少しお快いようでございましたのに、にわかに絶息をあそばしたのでございます」 |
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8.1.5 | とて、さぶらふ |
と言って、控えている女房たちは皆、自分も後を追おうと、うろうろしている者たちが、数限りない。 いく壇もの御修法の壇を壊して、僧たちも残るべき人は残っているが、ばらばらと立ち騒ぐのを御覧になると、「それではもう最期なのだ」とお思い切りなさるその情けなさに、他にどのような比べるものがあろうか。 |
こんな報告をした女房らが、自分たちも、いっしょに死なせてほしいと泣きむせぶ様子も悲しかった。もう |
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8.1.6 | 「そうは言っても、物の怪のすることであろう。 まことに、 |
「しかしこれは |
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8.1.7 | と すぐれたる |
と皆をお静めになって、ますます大層ないくつもの願をお立て加えさせなさる。 すぐれた験者たちをすべて召し集めて、 |
と院は泣く女房たちを制して、またまた幾つかの大願をお立てになった。そしてすぐれた修験の僧をお集めになり、 |
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8.1.8 | 「有限なご寿命であるから、この世でのご寿命が終わったとしても、ただ、もう暫く延ばして下さい。 不動尊の御本の誓いがあります。 せめてその日数だけでも、この世にお引き止め申して下さい」 |
「これが |
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8.1.9 | と、 |
と、頭から本当に黒い煙を立てて、大変な熱心さでご加持申し上げる。 院も、 |
こう僧たちは言って、頭から黒煙を立てると言われるとおりの熱誠をこめて祈っていた。院も |
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8.1.10 | 「ただ、もう一度目と目を見合わせて下さい。 まったくあっけなく臨終の時をさえ、会わずじまいであったことが、悔しく悲しいのですよ」 |
互いにただ一目だけ見合わす瞬間が与えられたい、最後の時に見合わせることのできなかった |
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8.1.11 | と いみじき |
と取り乱している様子は、生き残っていらっしゃることができそうにないのを、拝見する心地は、ただ想像できよう。 大変なご悲痛を、仏も御照覧申されたのであろうか、このいく月もまったく現れなかった物の怪が小さい童に乗り移って、大声でわめくうちに、だんだんと生き返っていらっしゃって、嬉しくも不吉にもお心が騒がずにはいらっしゃれない。 |
残念さ悲しさから長く救われたいと言ってお |
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第二段 六条御息所の死霊出現 |
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8.2.1 | いみじく |
ひどく調伏されて、 |
物怪は僧たちにおさえられながら言う、 |
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8.2.2 | 「 おのれを さらに |
「他の人は皆去りなさい。 院お一人方のお耳に申し上げたい。 自分をこのいく月も調伏し困らせなさるのが薄情で辛いので、同じことならお知らせしようと思ったが、そうは言っても命が耐えられないほど、身を粉にして悲嘆に暮れていらっしゃるご様子を拝見すると、今でこそ、このようなあさましい姿に変わっているが、昔の愛執が残っていればこそ、このように参上したので、お気の毒な様子を放って置くことができなくて、とうとう現れ出てしまったのです。 決して知られまいと思っていたのに」 |
「皆ここから遠慮をするがよい。院お一人のお耳へ申し上げたいことがある。私の霊を長く法力で苦しめておいでになったのが無情な恨めしいことですから、懲らしめを見せようと思いましたが、さすがに御自身の命も危険なことになるまで悲しまれるのを見ては、今こそ私は物怪であっても、昔の恋が残っているために出て来る私なのですから、あなたの悲しみは見過ごせないで姿を現わしました。私は姿など見せたくなかったのだけれど」 |
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8.2.3 | とて、 あさましく、むくつけしと、 |
と言って、髪を振り掛けて泣く様子は、まったく昔御覧になった物の怪の恰好と見えた。 こんなことがこの世にあろうか、恐ろしいことだと、心底お思い込みになったことが相変わらず忌まわしいことなので、この童女の手を捉えて、じっとさせて、体裁の悪いようにはおさせにならない。 |
と物怪は叫んだ。髪を顔に振りかけて泣く様子は、昔一度御覧になった覚えのある物怪であった。その当時と同じ無気味さがお心に |
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8.2.4 | 「本当にあなたか。 良くない狐などと言うもので、気の狂ったのが、亡くなった人の不名誉になることを言い出すということもあると言うから、はっきりと名乗りをせよ。 また誰も知らないようなことで、心にはっきりと思い出されるようなことを言いなさい。 そうすれば、少しは信じもしよう」 |
「ほんとうにその人なのか。悪い |
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8.2.5 | とのたまへば、ほろほろといたく |
とおっしゃると、ぽろぽろとひどく泣いて、 |
院がこうお言いになると、物怪はほろほろと涙を流しながら、悲しそうに泣いた。 |
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8.2.6 | 「わたしはこんな変わりはてた身の上となってしまったが 知らないふりをするあなたは昔のままですね |
「わが身こそあらぬさまなれそれながら 空おぼれする君は君なり |
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8.2.7 | とてもひどい方だわ、とてもひどい方だわ」 |
恨めしい、恨めしい」 |
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8.2.8 | と泣き叫ぶ一方で、そうはいっても恥ずかしがっている様子、昔に変わらず、かえってまことに疎ましい気がし、情けないので、何も言わせまいとお思いになる。 |
と泣き叫びながらもさすがに |
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8.2.9 | 「中宮の御事につけても、大変に嬉しく有り難いことだと、魂が天翔りながら拝見していますが、明幽境を異にしてしまったので、子の身の上までも深く思われないのでしょうか、やはり、自分自身がひどい方だとお思い申し上げた方への愛執が残るのでした。 |
「 |
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8.2.10 | その |
その中でも、生きているうちに、人より軽いお扱いをなさってお見捨てになったことよりも、お親しい者どうしのお話の時に、性格が善くない扱いにくい女であったとおっしゃったのが、まことに恨めしくて。 今はもう亡くなってしまったのだからとお許し下さって、他人が悪口を言うのでさえ、打ち消してかばって戴きたいと思うと、その思っただけで、このように恐ろしい身の上なので、このように大変なことになったのです。 |
その恨みの中でも、生きていますころにほかの人よりも軽くお扱いになったことよりも、夫婦のお話の中で私を悪くお言いになったことが私をくやしくさせました。もう私は死んでいるのですから、私が悪くってもあなたはよくとりなして言ってくだすっていいではありませんか。そうお恨みしただけで、こんな身になっていますと |
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8.2.11 | この方を、心底憎いと思い申すことはないが、あなたの神仏の加護が強くて、とてもご身辺は遠い感じがして、近づき参ることができず、お声さえもかすかに聞くだけでおります。 |
奥様を深く恨んでいませんが、法の |
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8.2.12 | よし、 |
よし、今はもう、この罪障を軽めることをなさって下さい。 修法や読経の大声を立てることも、わが身には苦しく情けない炎となってまつわりつくばかりで、まったく尊いお経の声も聞こえないので、まことに悲しい気がします。 |
私の罪の軽くなるような方法を講じてください。修法、 |
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8.2.13 | ゆめ いと |
中宮にも、この旨をお伝え申し上げて下さい。 決して御宮仕え中に、他人と争ったり嫉妬したりする気をお持ちになってなりません。 斎宮でいらっしゃったころのご罪障を軽くするような功徳のことを、必ずなさるように。 ほんとうに残念なことでしたよ」 |
中宮にもこのことをお話しくださいませ。後宮の生活をするうちに人を |
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8.2.14 | など、 |
などと、言い続けるが、物の怪に向かってお話なさることも、気が引けることなので、物の怪を封じ込めて、紫の上を、別の部屋に、こっそりお移し申し上げなさる。 |
などと言うが、物怪に向かってお話しになることもきまり悪くお思いになって、物怪がまた出ぬように法の力で封じこめておいて、病夫人を他の室へお移しになった。 |
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第三段 紫の上、死去の噂流れる |
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8.3.1 | このようにお亡くなりになったという噂が、世間に広がって、ご弔問に参上なさる方々がいるのを、まことに縁起でもなくお思いになる。 今日の祭の翌日の行列の見物にお出かけになった上達部などは、お帰りになる道すがら、このように人が申すので、 |
紫夫人が死んだという |
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8.3.2 | 「大変な事になったな。 この世の生甲斐を満喫した幸福な方が、光を失う日なので、雨がしょぼしょぼ降るのだな」 |
「たいへんなことだ。生きがいのあった幸福な女性が光を隠される日だから小雨も降り出したのだ」 |
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8.3.3 | と、うちつけ また、 |
と、思いつきの発言をなさる方もいる。 また、 |
などと解釈を下す人もあった。また、 |
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8.3.4 | 「かく 『 かかる いとほしげに |
「このようにすべてに満ち足りた方は、必ず寿命も長くはないことです。 『何を桜に』と言う古歌もあることよ。 このような方が、ますます世に長生きをして、この世の楽しみの限りを尽くしたら、はたの人が迷惑するだろう。 これでやっと、二品の宮は、本来のご寵愛をお受けになられることだろう。 お気の毒に圧倒されていたご寵愛であったから」 |
「あまりに何もかもそろった人というものは短命なものなのだ。『何をさくらに』(待てといふに散らでしとまるものならば何を桜に思ひまさまし)という歌のように、そうした人が長生きしておれば、一方で不幸に甘んじていなければならぬ人も多くできるわけだ。二品の宮が院の御 |
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8.3.5 | など、うちささめきけり。 |
などと、ひそひそ噂するのであった。 |
などとも言う人があった。 |
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8.3.6 | 衛門督は、昨日一日とても過ごしにくかったことを思って、今日は、弟の方々の、左大弁、藤宰相など、車の奥の方に乗せて見物なさった。 このように噂しあっているのを聞くにつけても、胸がどきっとして、 |
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8.3.7 | 「 |
「どうして嫌な世の中に長生きしようか」 |
「散ればこそいとど桜はめでたけれ」(何か浮き世に久しかるべき) |
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8.3.8 | と、うち たしかならぬことなればゆゆしくや、とて、ただおほかたの |
と、独り口ずさんで、あちらの院に皆で参上なさる。 不確かなことなので縁起でもないことを言っては、と思って、ただ普通のお見舞いの形で参上したところ、このように人が泣き叫んでいるので、本当だったのだなと、驚きなさった。 |
などとも口ずさみながら同車の人々とともに二条の院へ参った。まだ確かでないことであるから、形式を病気見舞いにして行ったのであるが、女房の泣き騒いでいる時であったから、真実であったかとさらに驚かれた。 |
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8.3.9 | 式部卿宮もお越しになって、とてもひどくご悲嘆なさった様子でお入りになる。 一般の方々のご弔問も、お伝え申し上げることがおできになれない。 大将の君が、涙を拭って出ていらっしゃったので、 |
ちょうど式部卿の宮がお |
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8.3.10 | 「いかがですか、 いかがですか。縁起でもないふうに皆が申しましたので、信じが たいことです。ただ長い間のご病気と承って嘆いて参 |
「どんなふうでいらっしゃるのですか。不吉なことを言う人があるのを私たちは信じることができないで伺ったのです。ただ長い御疾患を御心配申し上げて参ったのです」 |
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8.3.11 | などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 |
などと衛門督は言った。 |
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8.3.12 | 「いと やうやう |
「大変に重態になって、月日を送っていらっしゃったが、今日の夜明け方から息絶えてしまわれましたが、物の怪の仕業でした。 だんだんと息を吹き返しなさったふうに聞きまして、今ちょうど皆安心したようですが、まだとても気がかりでなりません。 おいたわしい限りです」 |
「重態のままで長く病んでおられたのですが、今朝の夜明けに絶息されたのは、それは |
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8.3.13 | と言って、本当にひどくお泣きになるご様子である。 目も少し腫れている。 衛門督は、自分のけしからぬ気持ちに照らしてか、『この君が、大して親しい関係でもない継母のご病気を、ひどく悲嘆していらっしゃるな』と、目を止める。 |
と言う大将には実際今まで泣き続けていたという様子が残っていた。目も少しは |
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8.3.14 | かく、これかれ |
このように、いろいろな方々がお見舞いに参上なさった旨をお聞きになって、 |
こんなふうに高官らも見舞いに集まって来たことをお聞きになって、院からの御挨拶が伝えられた。 |
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8.3.15 | 「 ことさらになむ、かくものしたまへるよろこびは |
「重病人が、急に息を引き取ったふうになったのですが、女房たちは、冷静さを失って、取り乱して騷ぎましたが、自分自身も落ちつきをなくして、取り乱しております。 後日改めて、このお見舞いにはお礼申し上げます」 |
「重い病人に急変が来たように見えましたために女房らが泣き騒ぎをいたしましたので、私自身もつい心の平静をなくしているおりからですから、またほかの日に改めて御好意に対するお礼を申しましょう」 |
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8.3.16 | とおっしゃった。 督の君は胸がどきっとして、このようなのっぴきならぬ事情がなければ参上できそうになく、何がなし恐ろしい気がするのも、心中後ろめたいところがあるからなのであった。 |
院のお言葉というだけで、もう |
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第四段 紫の上、蘇生後に五戒を受く |
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8.4.1 | かく |
このように生き返りなさった後は、恐ろしくお思いになって、再度、大変ないくつもの修法のあらん限りを追加して行わせなさる。 |
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8.4.2 | うつし |
生きていた時の人でさえ、嫌な気がしたご様子の方が、まして死後に、異形のものに姿を変えていらっしゃるのだろうことをご想像なさると、まことに気味が悪いので、中宮をお世話申し上げなさることまでが、この際は億劫になり、せんじつめれば、女性の身は、皆同様に罪障の深いものだと、すべての男女関係が嫌になって、あの、他人は聞かなかったお二人の睦言に、少しお話し出しになったことを言い出したので、確かにそうだとお思い出しになると、まことに厄介なことに思わずにはいらっしゃれない。 |
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8.4.3 | 御髪を下ろしたいと切望なさっているので、持戒による功徳もあろうかと考えて、頭の頂を形式的に挟みを入れて、五戒だけをお受けさせ申し上げなさる。 御戒の師が、持戒のすぐれている旨を仏に申すにつけても、しみじみと尊い文句が混じっていて、体裁が悪いまでお側にお付きなさって、涙をお拭いになりながら、仏を一緒にお念じ申し上げなさる様子は、この世に又となく立派でいらっしゃる方も、まことにこのようにご心痛になる非常時に当たっては、冷静ではいらっしゃれないものなのであった。 |
ぜひ尼になりたいと夫人が望むので、頭の頂の髪を少し取って、五戒だけをお受けさせになった。戒師が完全に仏の戒めを守る誓いを、仏前で尊い言葉で述べる時に、院は体面もお忘れになり、夫人に寄り添って涙を |
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8.4.4 | どのような手立てをしてでも、この方をお救い申しこの世に引き止めておこうとばかり、昼夜お嘆きになっているので、ぼうっとするほどになって、お顔も少しお痩せになっていた。 |
どんな方法を講じて夫人の病を救い、長く |
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第五段 紫の上、小康を得る |
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8.5.1 | 五月などは、これまで以上に、s晴々しくない空模様で、すっきりした気分におなりになれないが、以前よりは少し良い状態である。 けれども、 |
五月などはまして気候が悪くて病夫人の容体がさわやいでいくとも見えなかったが、以前よりは少しいいようであった。しかもまだ苦しい日々が時々夫人にあった。 |
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8.5.2 | もののけの |
物の怪の罪障を救えるような仏事として、毎日法華経を一部ずつ供養させなさる。 毎日何やかやと尊い供養をおさせになる。 御枕元近くでも、不断の御読経を、声の尊い人だけを選んでおさせになる。 物の怪が正体を現すようになってからは、時々悲しげなことを言うが、まったくこの物の怪がすっかり消え去ったというわけではない。 |
院は物怪の罪を救うために、日ごとに |
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8.5.3 | ますます暑いころは、息も絶え絶えになって、ますますご衰弱なさるので、何とも言いようがないほどお嘆きになった。 意識もないようなご病状の中でも、このようなご様子をお気の毒に拝見なさって、 |
暑い夏の日になっていよいよ病夫人の衰弱ははげしくなるばかりであるのを院は歎き続けておいでになった。病に弱っていながらも院のこの御様子を夫人は心苦しく思い、 |
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8.5.4 | 「この世から亡くなっても、わたしには少しも残念だと思われることはないが、これほどご心痛のようなので、自分の亡骸をお目にかけるのも、いかにも思いやりのないことだから」 |
自分の死ぬことは何でもないがこんなにお悲しみになるのを知りながら死んでしまうのは思いやりのないことであろうから、その点で自分はまだ生きるように努めねばならぬ |
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8.5.5 | と、気力を奮い起こして、お薬湯などを少し召し上がったせいか、六月になってからは、時々頭を枕からお上げになった。 珍しいことと拝見なさるにつけても、やはり、とても危なそうなので、六条院にはわずかの間でもお出向きになることができない。 |
と、こんな気が起こったころから、 |
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第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見 |
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第一段 女三の宮懐妊す |
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9.1.1 | 姫宮は、わけの分からなかった出来事をお嘆きになって以来、そのまま普通のお具合ではいらっしゃらず、苦しそうにしておいでであったが、そうひどい状態でもなく、先月から、食べ物をお召し上がりにならず、ひどく蒼ざめてやつれていらっしゃる。 |
姫宮はあの事件があってから |
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9.1.2 | かの |
あの人は、無性に我慢ができない時々には、夢のようにお逢い申し上げたが、宮は、どこまでも無体なことだとお思いになっていた。 院をひどくお恐がり申されるお気持ちから、態度も人品も、同等に見られようか、たいそう風流っぽく優美にしているので、一般の目には、普通の人以上に誉められるが、幼い時から、そのように類例のないご様子の方に馴れ親しんでいらっしゃるお心にとっては、心外な者とばかり見ていらっしゃるうちに、このようにずっとお悩みになることは、気の毒なご運命であった。 |
衛門督は思いあまる時々に夢のように忍んで来た。宮のお心には今も愛情が生じているのではおありにならないのである。罪をお恐れになるばかりでなく、 |
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9.1.3 | 御乳母たちは懐妊の様子に気がついて、院がお越しになることも実にたまにでしかないのを、ぶつぶつお恨み申し上げる。 |
気のついた |
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9.1.4 | かく もぬけたる |
このようにお苦しみでいらっしゃるとお聞きになってお出かけになる。 女君は、暑く苦しいと言って、御髪を洗って、少しさわやかにしていらっしゃった。 横になりながら髪を投げ出していらっしゃったので、すぐには乾かないが、少しもふくらんだり、乱れたりした毛もなくて、実に清らかにゆらゆらとたっぷりあって、蒼く痩せていらっしゃるのが、かえって青白くかわいらしげに見え、透き透ったように見えるお肌つきなどは、又とないほど可憐な感じである。 脱皮した虫の脱殻かのように、まだとても頼りない感じでいらっしゃる。 |
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9.1.5 | 長年お住みにならなかったので、多少荒れていた院の内、喩えようもないくらい手狭な感じにさえ見える。 昨日今日とこのように意識のおありの時に、特別に手入れをさせた遣水、前栽が、急にさわやかに感じられるのを御覧になっても、しみじみと、今まで過ごしてきたことをお思いになる。 |
しかも長く捨てて置かれた二条の院は |
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第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す |
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9.2.1 | 池はとても涼しそうで、蓮の花が一面に咲いているところに、葉はとても青々として、露がきらきらと玉のように一面に見えるのを、 |
池は涼しそうで |
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9.2.2 | 「あれを御覧なさい。 自分ひとりだけ涼しそうにしているね」 |
「あれを御覧なさい。自分だけが爽快がっている露のようじゃありませんか」 |
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9.2.3 | とのたまふに、 |
とおっしゃると、起き上がって外を御覧になるのも、実に珍しいことなので、 |
とお言いになるので、夫人は起き上がって、さらに庭を見た。こんな姿を見ることが珍しくて、 |
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9.2.4 | 「このように拝見するのさえ、夢のような気がします。 ひどく、自分自身までが終わりかと思われた時がありましたよ」 |
「こうしてあなたを見ることのできるのは夢のようだ。悲しくて私自身さえも今死ぬかと思われた時が何度となくあったのだから」 |
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9.2.5 | と、 |
と涙を浮かべておっしゃると、自分自身でも胸がいっぱいになって、 |
と、院が目に涙を浮かべてお言いになるのを聞くと、夫人も身にしむように思われて、 |
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9.2.6 | 「露が消え残っている間だけでも生きられましょうか たまたま蓮の露がこうしてあるほどの命ですから」 |
消え留まるほどやは |
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9.2.7 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
と言った。 |
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9.2.8 | 「お約束して置きましょう、 この世ばかりでなく来世に蓮の葉の上に玉と置く露のように |
契りおかんこの世ならでも蓮の葉に 玉ゐる露の心隔つな |
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9.2.9 | お出かけになる先は億劫であるが、帝におかれても院おかれても、お耳にあそばすこともあるので、ご病気と聞いてしばらくたっているので、目の前の病人に心を混乱させていた間、お目にかかることもほとんどなかったので、このような雲の晴れ間にまで引き籠もっていては、とお思い立ちになって、お出かけになった。 |
これは院のお歌である。六条院へはお気が進まないのであるが、宮中の聞こえと法皇への御同情から、宮の床についておられる知らせを受けていながら、いっしょに住むほうの妻の大病の気づかわしさから |
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第三段 源氏、女三の宮を見舞う |
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9.3.1 | 宮は、良心の呵責に苛まれて、お会いするのも恥ずかしく、気が引けてお思いになると、何かおっしゃるお言葉にも、お返事申し上げなさらないので、長い間会わずにいたことを、そうと言わないけれど辛くお思いになっているのだと、お気の毒なので、あれやこれやとお慰めになる。 年輩の女房を召して、ご気分の様子などをお尋ねになる。 |
宮は心の鬼に院の前へ出ておいでになることが恥ずかしく晴れがましくて、ものをお言いになる返辞もよくされないのを長い絶え間にこの子供らしい人もさすがに恨んでいるのであろうと院は心苦しくお思いになり、慰めることにかかっておいでになった。お世話役の女房をお呼び出しになり、宮の御不快の経過などを院がお聞きになると、それは妊娠の徴候があってのことであるという答えをした。 |
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9.3.2 | 「普通のお身体ではいらっしゃいません」 |
「今になって全く珍しいことが起こってきたね」 |
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9.3.3 | と、わづらひたまふ |
と、ご気分のすぐれないご様子を申し上げる。 |
とだけ院はお言いになったが、 |
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9.3.4 | 「妙だな。 今ごろになってご妊娠だとは」 |
お心の中では長くそばにいる人たちの中にもそうしたことはないのであるから、 |
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9.3.5 | とばかりのたまひて、 |
とだけおっしゃって、ご心中には、 |
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9.3.6 | 「長年連れ添った妻たちでさえそのようなことはなかったのに、不確かなことなので、どうなのか」 |
不祥なことがこちらで起こっているのではないかというような疑いをお覚えになりながら、 |
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9.3.7 | とお思いなさるので、特にあれこれとおっしゃらずに、ただ、お苦しみでいらっしゃる様子がとても痛々しげなのを、いたわしく拝見なさる。 |
それをくわしく聞こうとはされないで、ただ |
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9.3.8 | やっとのことでお思い立ちになってお越しになったので、すぐにはお帰りになることはできず、二、三日いらっしゃる間、「どうしているだろうか、どうしているだろうか」と気がかりにお思いになるので、お手紙ばかりをこまごまとお書きになる。 |
やっと思い立っておいでになったのであるから、すぐにお帰りになることもできず、二、三日おいでになる間にも、二条の院の女王の容体ばかりがお気づかわれになって、そのほうへ手紙ばかりを書き送っておいでになった。 |
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9.3.9 | 「いつの間にたくさんお言葉が溜るのでしょう。 まあ、何と、 |
「あんなにもしばらくの間にお言いになる感情がたまるのですかね。宮様をとうとうお気の毒な方様とお見上げする時が来ましたよ」 |
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9.3.10 | と、若君の御過ちを知らない女房は言う。 侍従だけは、このようなことにつけても胸騷ぎがするのであった。 |
などと宮の御過失などは知らぬ人たちが言う。秘密に携わっている小侍従は院の御滞留の間を無事に過ごしうるかと胸をとどろかせていた。 |
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9.3.11 | あの人も、このようにお越しになっていると聞くと、大それた考え違いを起こして、大層な訴え事を書き綴っておよこしになった。 対の屋にちょっとお渡りになっている間に、人少なであったので、こっそりとお見せ申し上げる。 |
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9.3.12 | 「厄介な物を見せるのは、とても辛いわ。 気分がますます悪くなりますから」 |
「いやなものを読めというのね。私はまた気分が悪くなってきているのに」 |
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9.3.13 | とて |
と言ってお臥せになっているので、 |
こう言って、宮はそのまま横におなりになった。 |
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9.3.14 | 「でも、ただ、このはしがきが、お気の毒な気がいたしますよ」 |
「この |
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9.3.15 | とて |
と言って、広げたところへ誰か参ったので、まこと困って、御几帳を引き寄せて出て行った。 |
小侍従は衛門督の手紙を |
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9.3.16 | ますます胸がどきどきしているところに、院がお入りになったので、上手にお隠しになることもできず、御褥の下にさし挟みなさった。 |
宮のお胸がいっそうとどろいている所へ院までも帰っておいでになったために、手紙をよくお隠しになる間がなくて、敷き物の下へはさんでお置きになった。 |
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第四段 源氏、女三の宮と和歌を唱和す |
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9.4.1 | 夜になってから、二条院にお帰りになろうとして、ご挨拶を申し上げなさる。 |
二条の院へ今夜になれば行こうと院はお思いになり、そのことを宮へお言いになるのであった。 |
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9.4.2 | 「こちらには、お具合は悪くないようにお見えですが、まだとても頼りなさそうなのを、放って置くように思われますのも、今さらお気の毒なので。 悪く申す者がありましても、決してお気になさいますな。 やがてきっとお分かりになりましょう」 |
「あなたはたいしたことがないようですから、あちらはまだあまりにたよりないようなのを見捨てておくように思われても、今さらかわいそうですから、また見に行ってやろうと思います。中傷する者があっても、あなたは私を信じておいでなさいよ。また忠実な |
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9.4.3 | とお慰めになる。 いつもは、子供っぽい冗談事などを、気楽に申し上げなさるのだが、ひどく沈み込んで、ちゃんと目をお合わせ申すこともなさらないのを、ただ側にいないのを恨んでいらっしゃるのだとお思いなさる。 |
これまではこんな時にも、子供めいた |
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9.4.4 | 昼の御座所に横におなりになって、お話など申し上げているうちに日が暮れてしまった。 少しお寝入りになってしまったが、ひぐらしが派手に鳴いたのに目をお覚ましになって、 |
昼の座敷でしばらくお寝入りになったかと思うと、 |
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9.4.5 | 「それでは、道が暗くならない間に」 |
「ではあまり暗くならぬうちに出かけよう」 |
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9.4.6 | とて、 |
と言って、お召し物などをお召し替えになる。 |
と言いながら院がお召しかえをしておいでになると、 |
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9.4.7 | 「月を待って、と言うそうですから」 |
「『月待ちて』(夕暮れは道たどたどし月待ちて |
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9.4.8 | と、若々しい様子でおっしゃるのはとてもいじらしい。 「その間でも、とお思いなのだろうか」と、いじらしくお思いになって、お立ち止まりになる。 |
若々しいふうで宮がこうお言いになるのが憎く思われるはずもない。せめて月が出るころまででもいてほしいとお思いになるのかと心苦しくて、院はそのまま |
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9.4.9 | 「夕露に袖を濡らせというつもりで、 ひぐらしが鳴くのを聞きながら起きて行 |
夕露に 鳴くを聞きつつ起きて行くらん |
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9.4.10 | 子供のようなあどけないままにおっしゃったのもかわいらしいので、膝をついて、 |
幼稚なお心の実感をそのままな歌もおかわいくて、院は |
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9.4.11 | 「あな、 |
「ああ、困りましたこと」 |
「苦しい私だ」 |
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9.4.12 | と、うち |
と、溜息をおつきになる。 |
と |
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9.4.13 | 「わたしを待っているほうでもどのように聞いているでしょうか それぞれに心を騒がすひぐらしの声ですね」 |
待つ里もいかが聞くらんかたがたに 心騒がすひぐらしの声 |
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9.4.14 | など |
などとご躊躇なさって、やはり無情に帰るのもお気の毒なので、お泊まりになった。 心は落ち着かず、そうは言っても物思いにお耽りになって、果物類だけを召し上がりなどなさって、お寝みになった。 |
などと |
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第五段 源氏、柏木の手紙を発見 |
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9.5.1 | まだ |
まだ朝の涼しいうちにお帰りになろうとして、早くお起きになる。 |
まだ |
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9.5.2 | 「昨夜の扇を落として、これでは風がなま温いな」 |
「昨日の扇をどこかへ失ってしまって、代わりのこれは風がぬるくていけない」 |
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9.5.3 | とて、 |
と言って、御桧扇をお置きになって、昨日うたた寝なさった御座所の近辺を、立ち止まってお探しになると、御褥の少し乱れている端から、浅緑の薄様の手紙で、押し巻いてある端が見えるのを、何気なく引き出して御覧になると、男性の筆跡である。 紙の香りなどはとても優美で、気取った書きぶりである。 二枚にこまごまと書いてあるのを御覧になると、「紛れようもなく、あの人の筆跡である」と御覧になった。 |
とお言いになりながら、昨日のうたた寝に扇をお置きになった場所へ行ってごらんになったが、立ち止まって目をお配りになると、敷き物のある一所の端が少し |
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9.5.4 | お鏡の蓋を開けて差し上げる女房は、やはり殿が御覧になるはずの手紙であろうと、事情を知らないが、小侍従はそれを見つけて、昨日の手紙と同じ色と見ると、まことにたいそう、胸がどきどき鳴る心地がする。 お粥などを差し上げる方には見向きもせず、 |
院のお座の所で鏡をあけてお見せしている女房は御自分の御用の手紙を見ておいでになるものと思っていたが、小侍従がそれを見た時、手紙が昨日の色であることに気がついた。胸がぶつぶつと鳴り出した。 |
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9.5.5 | 「いいえ、いくら何でも、それはあるまい。 本当に大変で、そのようなことがあろうか。 きっとお隠しになったことだろう」 |
まさかそうではあるまい、そんな運命の |
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9.5.6 | と |
としいて思い込む。 |
と小侍従は努めて思おうとしている。 |
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9.5.7 | 宮は、無心にまだお寝みになっていらっしゃった。 |
宮は何もお知りにならずになお眠っておいでになるのである。 |
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9.5.8 | 「何と、 幼いのだろう。このような物をお散ら かしになって。自分以外の人が |
こんな物を取り散らしておいて、それを自分でない他人が発見すればどうなることであろう |
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9.5.9 | と |
とお思いになるにつけても、見下される思いがして、 |
とお思いになると、その人が |
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9.5.10 | 「やはりそうであったか。 本当に奥ゆかしいところがないご様子を、不安であると思っていたのだ」 |
あさはかな性格はついに堕落を招くに至ったのである |
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9.5.11 | と |
とお思いになる。 |
と院は解釈された。 |
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第六段 小侍従、女三の宮を責める |
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9.6.1 | お帰りになったので、女房たちが少しばらばらになったので、侍従がお側に寄って、 |
お帰りになったので、女房たちがあらかた宮のお居間から去った時に、小侍従が来て、 |
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9.6.2 | 「昨日のお手紙は、どのようにあそばしましましたか。 今朝、院が御覧になっていた手紙の色が、似ておりましたが」 |
「昨日の物はどうなさいました。 |
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9.6.3 | と申し上げると、意外なことと驚きなさって、涙が止めどもなく出て来るので、お気の毒に思う一方で、「何とも言いようのない方だ」と拝し上げる。 |
と宮へ申し上げた。はっとお思いになって宮はただ涙だけが流れに流れる御様子である。おかわいそうではあるがふがいない方であると小侍従は見ていた。 |
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9.6.4 | 「いづくにかは、 |
「どこに、お置きあそばしましたか。 女房たちが参ったので、子細ありげに近くに控えておりまいと、ちょっとしたぐらいの用心でさえ、気が咎めますので慎重にしておりましたのに。 お入りあそばしました時には、少し間がございましたが、お隠しあそばただろうと、存じておりました」 |
「どこへお置きになったのでございますか。あの時だれかが参ったものですから、秘密がありそうに思われますまいと、それほどのことは何でもなかったのですが、よいことをしておりませんと心がとがめまして、私は |
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9.6.5 | と |
と申し上げると、 |
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9.6.6 | 「いいえ、それがね。 見ていた時にお入りになったので、すぐに起き上がることもできないで、褥に差し挟んで置いたのを、忘れてしまったの」 |
「それはね、私が読んでいた時にはいっていらっしゃったものだから、どこへしまうこともできずに下へはさんでおいたのをそのまま忘れたの」 |
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9.6.7 | とおっしゃるので、何ともまったく申し上げる言葉もない。 近寄って探すが、どこにもあろうはずがない。 |
こう伺った小侍従は、この場合の気持ちをどう表現すればよいかも知らなかった。そこへ行って見たが手紙のあるはずもない。 |
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9.6.8 | 「あな、いみじ。 かの ほどだに すべて、いはけなき |
「まあ、大変。 かの君も、とてもひどく恐れ憚って、素振りにもお聞かせ申されるようなことがあったら大変と、恐縮申していられたものを。 まだいくらもたたないのに、もうこのような事になってしまってよ。 全体、子供っぽいご様子でいらして、人にお姿をお見せあそばしたので、長年あれほどまで忘れることができず、ずっと恨み言を言い続けていらっしゃったが、こうまでなるとは存じませんでした事ですわ。 どちら様のためにも、お気の毒な事でございますわ」 |
「たいへんでございますね。あちらも非常に恐れておいでになりまして、毛筋ほどでも院のお耳にはいることがあったら申し訳がないと言っておいでになりましたのに、すぐもうこんなことができたではございませんか。全体御幼稚で、男性に対して何の警戒もあそばさなかったものですから、長い年月をかけた恋とは申しながら、こうまで進んだ関係になろうとはあちらも考えておいでにならなかったことでございますよ。だれのためにもお気の毒なことをなさいましたね」 |
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9.6.9 | と、遠慮もなく申し上げる。 気安く子供っぽくいらっしゃるので、ずけずけと申し上げたのであろう。 お答えもなさらず、ただ泣いてばかりいらっしゃる。 とても苦しそうで、まったく何もお召し上がりにならないので、 |
と無遠慮に小侍従は言う。お若い御主人を気安く思って礼儀なしになっているのであろう。宮はお返辞もあそばさないで泣き入っておいでになった。御気分がお悪いばかりのようでなく、少しも物を召し上がらないのを見て、 |
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9.6.10 | 「このようにお苦しみでいらっしゃるのを、放っていらっしゃって、今はもうすっかりお治りになったお方のお世話に、熱心でいらっしゃること」 |
「こんなにもお苦しそうでいらっしゃるのに、それを捨ててお置きになって、もうすっかり |
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9.6.11 | と、つらく |
と、薄情に思って言う。 |
と |
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第七段 源氏、手紙を読み返す |
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9.7.1 | 「さぶらふ |
大殿は、この手紙をやはり不審に思わずにはいらっしゃれないので、人の見ていない方で、繰り返し御覧になる。 「伺候している女房の中で、あの中納言の筆跡に似た書き方で書いたのだろうか」とまでお考えになったが、言葉遣いがはっきりしていて、本人に間違いないことがいろいろと書いてある。 |
院はお帰りになってから、まだ不審のお晴れにもならぬ今朝の手紙をよく調べて御覧になった。女房のうちであの中納言に似た字を書く女があるのではないかという疑いさえお持ちになったのであるが、言葉づかいは明らかに男性であって、他の者の書くはずのないことが内容になってもいた。 |
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9.7.2 | 「 あたら |
「長年慕い続けてきたことが、偶然に念願が叶って、心にかかってならないといった事を書き尽くした言葉は、まことに見所があって感心するが、本当に、こんなにまではっきりと書いてよいものだろうか。 惜しいことに、あれほどの人が、思慮もなく手紙を書いたものだ。 人目に触れることがあってはいけないと思ったので、昔、このようにこまごまと書きたい時も、言葉を簡略に簡略にして書き紛らわしたものだ。 人が用心するということは難しいことなのだ」 |
昔からの恋がようやく遂げられたのではあるが、なお苦しい思いに悩み続けていることが、文学的に見ておもしろく書かれてあって、同情は |
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9.7.3 | と、かの |
と、その人の心までお見下しなさった。 |
と、 |
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第八段 源氏、妻の密通を思う |
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9.8.1 | 「それにしても、 この宮をどのようにお扱いしたら良いものだろうか。おめでたい ことのご懐妊も、このようなこ とのせいだったのだ。ああ、何と、厭わしいことだ。このような、目の当たりに嫌な事を知りなが |
それにしても宮を今後どうお扱いすればよいであろうか、妊娠もそうした不純な恋の結果だったのである。情けないことである。人から言われたことでもなく、直接に証拠も見ながら、以前どおりにあの人を愛することは、自分のことながら不可能らしい。 |
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9.8.2 | と、わが |
と、自分のお心ながらも、とても思い直すことはできないとお思いになるが、 |
一時的の情人として初めから重くなどは思っていない相手さえ、 |
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9.8.3 | 「浮気の遊び事としても、初めから熱心でない女でさえ、また別の男に心を分けていると思うのは、気にくわなく疎んじられてしまうものなのに、ましてこの宮は、特別な方で、大それた男の考えであることよ。 |
ほかの愛人を持っていることを知っては不愉快でならぬものであるが、これはそうした相手でもない自分の妻である。無礼な男である。 |
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9.8.4 | 帝のお妃と過ちを生じる例は、昔もあったが、それはまた事情が違うのだ。 宮仕えと言って、自分も相手も同じ主君に親しくお仕えするうちに、自然と、そのような方面で、好意を持ち合うようになって、みそか事も多くなるというものだ。 |
お |
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9.8.5 | 女御、更衣と言っても、あれこれいろいろあって、どうかと思われる人もおり、嗜みが必ずしも深いとは言えない人も混じっていて、意外なことも起こるが、重大な確かな過ちと分からないうちは、そのままで宮仕えを続けて行くようなこともあるから、すぐには分からない過ちもきっとあることだろう。 |
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9.8.6 | このように、又となく大事にお扱い申し上げて、内心愛情を寄せている人よりも、大切な恐れ多い方と思ってお世話しているような自分をさしおいて、このような事を起こすとは、まったく例がない」 |
自分の宮に対する態度は第一の妻としてのみ待遇してきたではないか、心ではより多く愛する人をもさしおいて、最大級の |
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9.8.7 | と、 |
と、つい非難せずにはいらっしゃれない。 |
と反感のお起こりになる院でおありになった。 |
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9.8.8 | 「 わが |
「帝とは申し上げても、ただ素直に、お仕えするだけでは面白くもないので、深い私的な思いを訴えかける言葉に引かれて、お互いに愛情を傾け尽くし、放って置けない折節の返事をするようになり、自然と心が通い合うようになった間柄は、同様に良くない事柄だが、まだ理由があろうか。 自分自身の事ながら、あの程度の男に宮が心をお分けにならねばならないとは思われないのだが」 |
侍している君主のほうでもただ一通りの後宮の女性と御覧になるだけで、御愛情に接することもないような不幸な人に、異性の持つ友情が恋愛にも進んでゆけば、あるまじいこととは知りながらも、苦しむ男に一言の慰めくらいは書き送ることになり、相互の間に恋愛が成長してしまう結果を見るような間柄で犯す罪には十分同情してよい点もあるが、自分のことながらも、あの男くらいに比べて思い劣りされるほどの無価値な者でないと思うが |
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9.8.9 | と、いと |
と、まことに不愉快ではあるが、また「顔色に出すべきことではない」などと、ご煩悶なさるにつけても、 |
と、院は宮を飽き足らずお思いになるのであったが、またこの問題はほかへ知らせてはならぬと思うことで御 |
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9.8.10 | 「故院の上も、このように御心中には御存知でいらして、知らない顔をあそばしていられたのだろうか。 それを思うと、その当時のことは、本当に恐ろしく、あってはならない過失であったのだ」 |
父帝もこんなふうに自分の犯した罪を知っておいでになって知らず顔をお作りになったのではなかろうか、考えてみれば恐ろしい自分の過失であったと、 |
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9.8.11 | と、身近な例をお思いになると、恋の山路は、非難できないというお気持ちもなさるのであった。 |
御自身の過去が念頭に浮かんできた時、恋愛問題で人を批難することは自分にできないのであると |
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第十章 光る源氏の物語 密通露見後 |
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第一段 紫の上、女三の宮を気づかう |
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10.1.1 | 平静を装っていらっしゃるが、ご煩悶の様子がはっきりと見えるので、女君は、生き返ったのをいじらしそうに思ってこちらにお帰りになって、「ご自身どうにもならず、宮をお気の毒に思っていらっしゃるのだろうか」とお思いになって、 |
素知らぬふりはしておいでになるが、物思わしいふうは他からもうかがわれて、夫人は危い命を取りとめた自分をお |
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10.1.2 | 「気分は良ろしくなっておりますが、あちらの宮がお悪くいらっしゃいましょうに、早くお帰りになったのが、お気の毒です」 |
「私はもう |
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10.1.3 | と |
とお申し上げなさるので、 |
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10.1.4 | 「さかし。 すこしおろかになどもあらむは、こなたかなた |
「そうですね。 普通のお身体ではないようにお見えになりましたが、別段のご病気というわけでもいらっしゃらないので、何となく安心に思っていましてね。 宮中からは、何度もお使いがありました。 今日もお手紙があったとか。 院が、特別大切になさるようにとお頼み申し上げていらっしゃるので、主上もそのようにお考えなのでしょう。 少しでも宮を疎かになどあるようであれば、お二方がどうお思いになるかが、心苦しいことです」 |
「そう。少し悪い御様子だけれど、たいしたことでないのだから安心して帰って来たのですよ。宮中からはたびたび |
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10.1.5 | とて、うめきたまへば、 |
と言って、嘆息なさると、 |
院が |
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10.1.6 | 「帝がお耳にあそばすことよりも、宮ご自身が恨めしいとお思い申し上げなさることのほうが、お気の毒でしょう。 ご自分ではお気になさらなくても、良からぬように蔭口を申し上げる女房たちが、きっといるでしょうと思うと、とてもつろう存じます」 |
「宮中への御遠慮よりも、宮様御自身が恨めしくお思いになるほうがあなたの御苦痛でしょう。宮様はそれほどでなくてもおそばの者が必ずいろいろなことを言うでしょうから、私の立場が苦しゅうございます」 |
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10.1.7 | などのたまへば、 |
などとおっしゃるので、 |
などと |
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10.1.8 | 「なるほど、おっしゃるとおり、ひたすら愛しく思っているあなたには、厄介な縁者はいないが、いろいろと思慮を廻らすことといったら、あれやこれやと、一般の人が思うような事まで考えを廻らされますが、わたしのただ、国王が御機嫌を損ねないかという事だけを気にしているのは、考えの浅いことだな」 |
「私の愛しているあなたにとって、あちらのことは迷惑千万に違いないが、それをあなたは許して、つまらない者の感情をまで思いやってくれる寛大な愛に比べて、私のはただお上が悪くお思いにならないかという点だけで苦労をしているのは、あさはかな愛の持ち主というべきですね」 |
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10.1.9 | と、苦笑して言い紛らわしなさる。 お帰りになることは、 |
微笑をしてお言い紛らわしになる。 |
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10.1.10 | 「一緒に帰ってよ。 ゆっくりと過すことにしよう」 |
「六条院へはあなたが快くなった時にいっしょに帰ればいいのですよ。宮の御訪問をするのもそれからあとのことです」 |
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10.1.11 | とのみ |
とだけ申し上げなさるのを、 |
そうきめておいでになるように仰せられた。 |
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10.1.12 | 「ここでもう暫くゆっくりしていましょう。 先にお帰りになって、宮のご気分もよくなったころに」 |
「私は静かな |
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10.1.13 | と、 |
と、話し合っていらっしゃるうちに、数日が過ぎた。 |
夫人からこんな勧めを聞いておいでになるうちに日数がたった。 |
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第二段 柏木と女三の宮、密通露見におののく |
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10.2.1 | 姫宮は、このようにお越しにならない日が数日続くのも、相手の薄情とばかりお思いであったが、今では、「自分の過失も加わってこうなったのだ」とお思いになると、院も御存知になって、どのようにお思いだろうかと、身の置き所のない心地である。 |
院のおいでにならぬ間の長いことで今までは院をお恨みにもなった宮でおありになるが、今はその一部を自身の罪がしからしめているのであるということをお知りになって、しまいに法皇のお耳へもはいったならどう |
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10.2.2 | かの人も、熱心に手引を頼み続けるが、小侍従も面倒に思い困って、「このような事が、ありました」と知らせてしまったので、まこと驚いて、 |
お |
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10.2.3 | 「いつの間にそのような事が起こったのだろうか。 このような事は、いつまでも続けば、自然と気配だけで感づかれるのではないか」 |
いつの間にそうしたことができたのであろう、月日の重なるうちにはいろいろな秘密が外へ |
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10.2.4 | と思っただけでも、まことに気が引けて、空に目が付いているように思われたが、「ましてあんなに間違いようもない手紙を御覧になったのでは」と、顔向けもできず、恐れ多く、居たたまれない気がして、朝夕の、涼しい時もないころであるが、身も凍りついたような心地がして、何とも言いようもない気がする。 |
と思うだけでも恐ろしくて、罪を見る目が空にできた気がしていたのに、ましてそれほど確かな証拠が院のお手にはいったということは何たる不幸であろうと恥ずかしくもったいなくすまない気がして、朝涼も夕涼もまだ少ないこのごろながらも身に冷たさのしみ渡るもののある気がして、たとえようもない悲しみを感じた。 |
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10.2.5 | 「 さりとて、かき |
「長年、公事でも遊び事でも、お呼び下さり親しくお伺いしていたものを。 誰よりもこまごまとお心を懸けて下さったお気持ちが、しみじみと身にしみて思われるので、あきれはてた大それた者と不快の念を抱かれ申したら、どうして目をお合わせ申し上げることができようか。 そうかと言って、ふっつりと参上しなくなるのも、人が変だと思うだろうし、あちらでもやはりそうであったかと、お思い合わせになろう、それが堪らない」 |
長い |
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10.2.6 | などと、気が気でない思いでいるうちに、気分もとても苦しくなって、内裏へも参内なさらない。 それほど重い罪に当たるはずではないが、身も破滅してしまいそうな気がするので、「やっぱり懸念していたとおりだ」と、一方では自分ながら、まことに辛く思われる。 |
そうかといって、すっかりお出入りをせぬことになれば人が怪しむことであろうし、院をばさらに御不快にすることになろうと |
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10.2.7 | 「考えて見れば、 落ち着いた嗜み深いご様子がお見えでない方であった。まず第一 に、あの御簾の隙間の事も、あっていいことだろうか。 |
だいたい御身分相当な奥深い感じなどの見いだせなかった最初の |
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10.2.8 | などと、今になって気がつくのである。 無理してこの思いを冷まそうとするあまり、むやみに非難つけお思い申し上げたいのであろうか。 |
しいてその人から離れたいと願う心から欠点を捜すのかもしれない。 |
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第三段 源氏、女三の宮の幼さを非難 |
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10.3.1 | 「良いことだからと言って、あまり一途におっとりし過ぎている高貴な人は、世間の事もご存知なく、一方では、伺候している女房に用心なさることもなくて、このようにおいたわしいご自身にとっても、また相手にとっても、大変な事になるのだ」 |
どんなに貴人といっても、おおようで、気持ちの柔らかい一方な人は世間のこともわからず、侍女というものに警戒をしなければならぬこともお知りにならないで、取り返しのつかぬあやまちを御自身のためにも作り、 |
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10.3.2 | と、かの |
と、あのお方をお気の毒だと思う気持ちも、お捨てになることができない。 |
人にも罪を犯させる結果になったと思い、衛門督の心は、 |
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10.3.3 | 宮はまことに痛々しげにお苦しみ続けなさる様子が、やはりとてもお気の毒で、このようにお見限りになるにつけては、妙に嫌な気持ちに消せない恋しい気持ちが苦しく思われなさるので、お越しになって、お目にかかりなさるにつけても、胸が痛くおいたわしく思わずにはいらっしゃれない。 |
宮のお気の毒なことを思いやって堪えがたい |
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10.3.4 | おほかたのことは、ありしに |
御祈祷などを、いろいろとおさせになる。 大体のことは、以前と変わらず、かえって労り深く大事にお持てなし申し上げる態度がお加わりさる。 身近にお話し合いなさる様子は、まことにすっかりお心が離れてしまって、体裁が悪いので、人前だけは体裁をつくろって、苦しみ悩んでばかりなさっているので、ご心中は苦しいのであった。 |
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10.3.5 | そうした手紙を見たともはっきり申し上げなさらないのに、ご自分でとてもむやみに苦しみ悩んでいらっしゃるのも子供っぽいことである。 |
秘密を知ったともお言いにならぬ院でおありになったが、女宮は御自身で罪人らしく |
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10.3.6 | 「まことにこんなお人柄である。 良い事だとは言っても、あまりに気がかりなほどおっとりし過ぎているのは、何とも頼りないことだ」 |
こんなふうの人であるから不祥事も起こったのであろう。貴女らしいとはいってもあまりに柔らかな性質は頼もしくないものであるとお考えになると、 |
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10.3.7 | と |
とお思いになると、男女の仲の事がすべて心もとなく、 |
いろいろの人の上がお気がかりになった。 |
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10.3.8 | 「 |
「女御が、あまりにやさしく穏やかでいらっしゃるのは、このように懸想するような人は、これ以上にきっと心が乱れることであろう。 女性は、このように内気でなよなよとしているのを、男も甘く見るのだろうか、あってはならぬが、ふと目にとまって、自制心のない過失を犯すことになるのだ」 |
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10.3.9 | と |
とお思いになる。 |
と、院はこんなこともお思いになった。 |
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第四段 源氏、玉鬘の賢さを思う |
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10.4.1 | 「 |
「右大臣の北の方が、特にご後見もなく、幼い時から、頼りない生活を流浪するような有様で、ご成人なさったが、利発で才気があって、自分も表向きは親のようにしていたが、憎からず思う心がないでもなかったが、穏やかにさりげなく受け流して、あの大臣が、あのような心ない女房と心を合わせて入って来たときにも、はっきりと受け付けなかった態度を、周囲の人にも見せて分からせ、改めて許された結婚の形にしてから、自分のほうに落度があったようにはしなかった事など、今から思うと、何とも賢い身の処し方であった。 |
右大臣夫人がそれという世話を受ける人もなくて、幼年時代から苦労をしながら才も見識もあって、自分なども義父らしくはしながらも、恋人に擬しておさえがたい情念を内に包んでいたのを、かどだたず気がつかぬふうに退け続けて、右大臣が |
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10.4.2 | 宿縁の深い仲であったので、長くこうして連れ添ってゆくことは、その初めがどのような事情からであったにせよ、同じような事であったろうが、自分の意志でしたのだと、世間の人も思い出したら、少しは軽率な感じが加わろうが、本当に上手に身を処したことだ」とお思い出しになる。 |
深い宿縁があって夫婦になった人であるから、離婚をしようとは考えないが、品行問題で世評の立つことになれば、それにしたがって知らず知らず多少の |
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第五段 朧月夜、出家す |
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10.5.1 | 二条の尚侍の君を、依然として忘れず、お思い出し申し上げなさるが、このように気がかりな方面の事を、厭わしくお思いになって、あの方のお心弱さも、少しお見下しなさるのだった。 |
院は二条の |
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10.5.2 | とうとうご出家の本懐を遂げられたとお聞きになってからは、まことにしみじみと残念に、お心が動いて、さっそくお見舞いを申し上げなさる。 せめて今出家するとだけでも知らせて下さらなかった冷たさを、心からお恨み申し上げなさる。 |
尚侍が以前から希望していたとおりに尼になったことをお聞きになった時には、さすがに残念な気がされてすぐに手紙をお書きになった。その場合に臨んで、されてよい予報のなかったことをお恨みになる言葉がつづられてあった。 |
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10.5.3 | 「出家されたことを他人事して聞き流していられましょうか わたしが須磨の浦で涙に沈んでいたのは誰ならぬあなたのせいなのですから |
あまの世をよそに聞かめや |
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10.5.4 | いろいろな人生の無常さを心の内に思いながら、今まで出家せずに先を越されて残念ですが、お見捨てになったとしても、避けがたいご回向の中には、まず第一にわたしを入れて下さると、しみじみと思われます」 |
人世の無常さを味わい尽くしながらも、今日まで出家を実行しえない私を、あなたはどんなに冷淡になっておいでになってもさすがに |
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10.5.5 | など、 |
などと、たくさんお書き申し上げなさった。 |
などという長いお |
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10.5.6 | 早くからご決意なさった事であるが、この方のご反対に引っ張られて、誰にもそのようにはお表しなさらなかった事だが、心中ではしみじみと昔からの恨めしいご縁を、何と言っても浅くはお思いになれない事など、あれやこれやとお思い出さずにはいらっしゃれない。 |
早くからの志であったが、六条院がお引きとめになるために、それでない表面の理由は別として、尚侍は尼になるのを |
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10.5.7 | お返事は、今となってはもうこのようなお手紙のやりとりをしてはならない最後とお思いになると、感慨無量となって、念入りにお書きになる、その墨の具合などは、実に趣がある。 |
返事はもう今後書きかわすことのない終わりのものとして心をこめて書いた尚侍の手跡が美しかった。 |
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10.5.8 | 「無常の世とはわが身一つだけと思っておりましたが、先を越されてしまったとの仰せを思いますと、おっしゃるとおり、 |
無常は私だけが体験から知ったものと思っておりましたが、しおくれたと仰せになりますことで、こんなにも思われます。 |
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10.5.9 | 尼になったわたしにどうして遅れをおとりになったのでしょう 明石の浦に海人のようなお暮らしをなさっていたあなたが |
あま船にいかがは思ひおくれけん |
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10.5.10 | 回向は、一切衆生の為のものですから、どうして含まれないことがありましょうか」 |
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10.5.11 | とあり。 |
とある。 濃い青鈍色の紙で、樒に挟んでいらっしゃるのは、通例のことであるが、ひどく洒落た筆跡は、今も変わらず見事である。 |
これが内容である。濃い |
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第六段 源氏、朧月夜と朝顔を語る |
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10.6.1 | 二条院にいらっしゃる時なので、女君にも、今ではすっかり関係が切れてしまったこととて、お見せ申し上げなさる。 |
この日は二条の院においでになったので、夫人にも、もう実際の恋愛などは遠く終わった相手のことであったから、院はお見せになった。 |
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10.6.2 | 「いといたくこそ げに、 さまざま なべての |
「とてもひどくやっつけられたものです。 本当に、 気にくわないよ。いろいろと心細い世の中の様子を、よく見過して 来たものですよ。普通の世間話でも、ちょっと何か言い交わしあい、四季折々に寄せて、情趣をも知り、風情を見逃さず、色恋を離れて付き合いのできる人は、斎院とこの君とが生き残っているが、このように皆出家してしまって、斎院は斎院で、熱心にお勤めして、余念なく勤行に精進していらっしゃ |
「こんなふうに侮辱されたのが残念だ。どんな目にあっても平気なように思われて恥ずかしい。恋愛的な交際ではなしに、友人として同程度の趣味を解する人で、仲よくできる異性はこの人と斎院だけが私に残されていたのだが、今はもう尼になってしまわれた。ことに斎院などは尼僧の勤めをする一方の人になっておしまいになった。 |
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10.6.3 | やはり、大勢の女性の様子を見たり聞いたりした中で、思慮深い人柄で、それでいて心やさしい点では、あの方にご匹敵する人はいなかったなあ。 女の子を育てることは、まことに難しいことだ。 |
多くの女性を見てきているが、高い見識をお持ちになって、しかもなつかしい |
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10.6.4 | よくこそ、あまたかたがたに |
宿世などと言うものは、目に見えないことなので、親の心のままにならない。 成長して行く際の注意は、やはり力を入れねばならないようです。 よくぞまあ、大勢の女の子に心配しなくてもよい運命であった。 まだそれほど年を取らなかったころは、もの足りないことだ、何人もいたらと嘆かわしく思ったことも度々あった。 |
夫婦になる宿命というものは、目に見えないもので、親の力でどうしようもないものだから、結婚するまでの女の子の教育に親は十分力を尽くすべきだと思う。私は娘を一人しか持たなくてその責任の少ないのがうれしい。まだ若くて人生のよくわからなかったころは、子の少ないことが寂しく思われもしたものですがね。 |
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10.6.5 | 若宮を、注意してお育て申し上げて下さい。 女御は、物の分別を十分おわきまえになる年頃でなくて、このようにお暇のない宮仕えをなさっているので、何事につけても頼りないといったふうでいらっしゃるでしょう。 内親王たちは、やはりどこまでも人に後ろ指をさされるようなことなくして、一生をのんびりとお過ごしなさるように、不安でない心づかいを、付けたいものです。 身分柄、あれこれと夫をもつ普通の女性であれば、自然と夫に助けられるものですが」 |
まあ孫の内親王をよくお育てしておあげなさい。 |
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10.6.6 | など |
などと申し上げなさると、 |
などと院がお言いになると、 |
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10.6.7 | 「しっかりしたしたご後見はできませんでも、世に生き永らえています限りは、是非ともお世話してさし上げたいと思っておりますが、どうなることでしょう」 |
「りっぱなお世話はできませんでも、生きています間は姫宮のおためになりたい心でございますが、健康がこんなのではね」 |
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10.6.8 | とて、なほものを |
と言って、やはり何か心細そうで、このように思いどおりに、仏のお勤めを差し障りなくなさっている方々を、羨ましくお思い申し上げていらっしゃった。 |
と答えて夫人は心細いふうにわが身を思い、自由に信仰生活へはいることのできた人々をうらやましく思った。 |
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10.6.9 | 「 それせさせたまへ。 うるはしき さすがに、その |
「尚侍の君に、尼になられた衣装など、まだ裁縫に馴れないうちはお世話すべきであるが、袈裟などはどのように縫うものですか。 それを作って下さい。 一領は、六条院の東の君に申し付けよう。 正式の尼衣のようでは、見た目にも疎ましい感じがしよう。 そうはいっても、法衣らしいのが分かるのを」 |
「尚侍の所は尼装束などもまだよくととのっていないことだろうから、早く私から贈りたいと思うが、 |
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10.6.10 | など |
などと申し上げなさる。 |
と院はお言いになった。 |
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10.6.11 | 青鈍の一領を、こちらではお作らせになる。 宮中の作物所の人を呼んで、内々に、尼のお道具類で、しかるべき物をはじめとしてご下命なさる。 御褥、上蓆、屏風、几帳などのことも、たいそう目立たないようにして、特別念を入れてご準備なさったのであった。 |
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第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引 |
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第一段 女二の宮、院の五十の賀を祝う |
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11.1.1 | かくて、 |
こうして、山の帝の御賀も延期になって、秋にとあったが、八月は大将の御忌月で、楽所を取り仕切られるのには、不都合であろう。 九月は、院の大后がお崩れになった月なので、十月にとご予定を立てたが、姫宮がひどくお悩みになったので、再び延期になった。 |
紫夫人の大病のために法皇の賀宴も延びて秋ということになっていたが、八月は左大将の |
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11.1.2 | なほ、 |
衛門督がお引き受けになっている宮が、その月には御賀に参上なさったのだった。 太政大臣が奔走して、盛大にかつこまごまと気を配って、儀式の美々しさ、作法の格式の限りをお尽くしなさっていた。 督の君も、その機会には、気力を出してご出席なさったのだった。 やはり、気分がすぐれず、普通と違って病人のように日を送ってばかりいらっしゃる。 |
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11.1.3 | 宮も、引き続いて何かと気がめいって、ただつらいとばかりお思い嘆いていられるせいであろうか、懐妊の月数がお重なりになるにつれて、とても苦しそうにいらっしゃるので、院は、情けないとお思い申し上げなさる気持ちはあるが、とても痛々しく弱々しい様子をして、このようにずっとお悩みになっていらっしゃるのを、どのようにおなりになることかと心配で、あれこれとお心をお痛めになられる。 ご祈祷など、今年は取り込み事が多くてお過ごしになる。 |
女三の宮も御 |
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第二段 朱雀院、女三の宮へ手紙 |
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11.2.1 | お山におかせられてもお耳にあそばして、いとおしくお会いしたいとお思い申し上げなさる。 いく月もあのように別居していて、お越しになることもめったにないように、ある人が奏上したので、どうしたことにかとお胸が騒いで、俗世のことも今さらながら恨めしくお思いになって、 |
法皇も宮の御妊娠のことをお聞きになって、かわいく想像をあそばされ、 |
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11.2.2 | 「 みづから |
「対の方が病気であったころは、やはりその看病でとお聞きになってでさえ、心穏やかではなかったのに、その後も、変わらずにいらっしゃるとは、そのころに、何か不都合なことが起きたのだろうか。 宮自身に責任がおありのことでなくても、良くないお世話役たちの考えで、どんな失態があったのだろうか。 宮中あたりなどで、風雅なやりとりをし合う間柄などでも、けしからぬ評判を立てる例も聞こえるものだ」 |
紫夫人の病気のころは院があちらにばかり行っておいでになったのを、もっともなこととはいえ、思いやりのないこととして聞いておいでになったが、夫人の病後も院の御訪問はまれになったというのは、その間に不祥なことが起こったのではあるまいか。宮が自発的に堕落の傾向をおとりになったのではなく、軽薄な女房の |
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11.2.3 | とまでお考えになるのも、肉親の情愛はお捨てになった出家の生活だが、やはり親子の愛情は忘れ去りがたくて、宮にお手紙を心をこめて書いてあったのを、大殿も、いらっしゃった時なので、御覧になる。 |
と、こんなことまでも御想像あそばされるのは、いっさいをお捨てになった御心境にもなお御子をお思いになる愛情だけは影を残しているからである。法皇が愛のこもったお手紙を宮へお書きになったのを、六条院も来ておいでになる時で拝見されたのであった。 |
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11.2.4 | 「そのこととなくて、しばしばも |
「特に用件もないので、たびたびはお便りを差し上げなかったうちに、あなたの様子も分からないままに歳月が過ぎるのは、気がかりなことです。 お具合がよろしくなくいらっしゃるという様子は、詳しく聞いてからは、念仏誦経の時にも気にかかってならないが、いかがいらっしゃいますか。 ご夫婦仲が寂しくて意に満たないことがあっても、じっと堪えてお過ごしなさい。 恨めしそうな素振りなどを、いい加減なことで、心得顔にほのめかすのは、まことに品のないことです」 |
用事もないものですから |
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11.2.5 | など、 |
などと、お教え申し上げていらっしゃった。 |
などと |
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11.2.6 | まことにお気の毒で心が痛み、「このような内々の宮の不始末を、お耳にあそばすはずはなく、わたしの怠慢のせいにと、御不満にばかりお思いあそばすことだろう」とばかりにお思い続けて、 |
院はお気の毒で、心苦しくて、宮に秘密のあることなどはお知りあそばされずに、自分の不誠意とばかり解釈しておいでになるのであろうとお思いになって、 |
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11.2.7 | 「このお返事は、どのようにお書き申し上げなさいますか。 お気の毒なお手紙で、わたしこそとても辛い思いです。 たとえ心外にお思い申す事があったとしても、疎略なお扱いをして、人が変に思うような態度はとるまいと思っております。 誰が申し上げたのでしょうか」 |
「お返事はどうお書きになりますか。心苦しいお手紙で私はつらい気がしますよ。あなたにどんなことがあっても、人に変わった様子は見せまいと私は努めているのですよ。だれがいろいろなことを申し上げたのだろう」 |
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11.2.8 | とおっしゃると、恥ずかしそうに横を向いていらっしゃるお姿も、まことに痛々しい。 ひどく面やつれして、物思いに沈んでいらっしゃるのは、ますます上品で美しい。 |
とお言いになると、恥じて顔をおそむけになる宮のお姿が |
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第三段 源氏、女三の宮を諭す |
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11.3.1 | 「いと かうまでもいかで |
「とても幼い御気性を御存知で、たいそう御心配申し上げていらっしゃるのだと、拝察されますので、今後もいろいろと心配でなりません。 こんなにまでは決して申し上げまいと思いましたが、院の上が、御心中にわたしが背いているとお思いになろうことが、不本意であり、心の晴れない思いであるが、せめてあなたにだけは申し上げておかなくてはと思いまして。 |
「あなたの幼稚な性質を知っておいでになって、こんなにもお言いになるのだと、私は他のことと思い合わせてごもっともだと思われる点がありますよ。それで今後も |
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11.3.2 | いたり |
思慮が浅く、ただ、人が申し上げるままにばかりお従いになるようなあなたとしては、ただ冷淡で薄情だとばかりお思いで、また、今ではわたしのすっかり年老いた様子も、軽蔑し飽き飽きしてばかりお思いになっていられるらしいのも、それもこれも残念にも忌ま忌ましくも思われますが、院の御存命中は、やはり我慢して、あちらのお考えもあったことでしょうから、この年寄をも、同じようにお考え下さって、ひどく軽蔑なさいますな。 |
深く物をお考えにならないで、人のいいかげんな言葉にお動きになるあなたには、私のほんとうの愛が浅いものに見えもするでしょうし、またあなたとは |
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11.3.3 | いにしへより |
昔からの出家の本願も、考えの不十分なはずのご婦人方にさえ、みな後れを取り後れを取りして、とてものろまなことが多いのですが、自分自身の心には、どれほどの思いを妨げるものはないのですが、院がこれを最後と御出家なさった後のお世話役にわたしをお譲り置きになったお気持ちが、しみじみと嬉しかったが、引き続いて後を追いかけるようにして、同じようにお見捨て申し上げるようなことが、院にはがっかりされるであろうと差し控えているのです。 |
昔から願っている出家の志望も、自分よりは幼稚な宗教心しか持つまいと思っていた女の人たちが先に実行するのを傍観しているのも、私自身がこの世の欲を捨てえないのではなくて、出家をあそばす際にはあなたをお託しになった院のお志に感激した心が、すぐまた続いてあなたを捨てて行くような行動を取らせなかったのですよ。 |
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11.3.4 | その |
気にかかっていた人々も、今では出家の妨げとなるほどの者もおりません。 女御も、あのようにして、将来の事は分かりませんが、皇子方がいく人もいらっしゃるようなので、わたしの存命中だけでもご無事であればと安心してよいでしょう。 その他の事は、誰も彼も、状況に従って、一緒に出家するのも、惜しくはない年齢になっているのを、だんだんと気持ちも楽になっております。 |
以前は気がかりに思われた人も今ではもう出家の |
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11.3.5 | いと この ことにもあらず。 |
院の御寿命もそう長くはいらっしゃらないでしょう。 とても御病気がちにますますなられて、何となく心細げにばかりお思いでいられるから、今さら感心しないお噂を院のお耳にお入れ申して、お心を乱したりなさらないように。 現世はまことに気にかけることはありません。 どうということもありません。 が、来世の御成仏の妨げになるようなのは、罪障がとても恐ろしいでしょう」 |
院ももう長くはおいでにならないでしょう。以前よりいっそうお |
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11.3.6 | などと、はっきりとその事とはお明かしにならないが、しみじみとお話し続けなさるので、涙ばかりがこぼれては、正体もない様子で悲しみに沈んでいらっしゃるので、ご自分もお泣きになって、 |
そのことと露骨にお言いにならないのであるが、しみじみとお説きになるために、宮は涙ばかりがこぼれて、知らず知らずめいり込んでおしまいになったのを御覧になる院も、お泣きになって、 |
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11.3.7 | 「他人の身の上でも、嫌なものだと思って聞いていた老人のおせっかいというものを。 自分がするようになったことよ。 どんなに嫌な老人かと、不愉快で厄介なと思うお気持ちがつのることでしょう」 |
「他の人がこうしたことを言うのを、聞く必要もない |
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11.3.8 | と、 |
と、お恥になりながら、御硯を引き寄せなさって、自分で墨を擦り、紙を整えて、お返事をお書かせ申し上げなさるが、お手も震えて、お書きになることができない。 |
ともお言いになって、 |
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11.3.9 | 「あのこまごまと書いてあった手紙のお返事は、とてもこのように遠慮せずやりとりなさっていたのだろう」とご想像なさると、実に癪にさわるので、一切の愛情も冷めてしまいそうであるが、文句などを教えてお書かせ申し上げなさる。 |
あの濃厚な言葉の盛られてあった |
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第四段 朱雀院の御賀、十二月に延引 |
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11.4.1 | 参賀なさることは、この月はこうして過ぎてしまった。 二の宮が格別のご威勢で参賀なさったのに、身籠もられたお身体で、競うようなのも、遠慮され気が引けるのであった。 |
「お伺いになることはこんなことで今月もだめでしたね。それに新婚者の |
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11.4.2 | 「 また、いとどこの むつかしくもの |
「十一月はわたしの忌月です。 年の終わりは歳末で、とても騒々しい。 また、ますますこのお姿も体裁悪く、お待ち受けあそばす院はいかが御覧になろうと思いますが、そうかと言って、そんなにも延期することはでません。 くよくよとお思いあそばさず、明るくお振る舞いになって、このひどくやつれていらっしゃるのを、お直しなさい」 |
十一月はあなたのお母様の忌月でしょう。十二月はあまりに押しつまってよろしくないし、あなたの |
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11.4.3 | などと、とてもおいたわしいと、それでもお思い申し上げていらっしゃる。 |
などとお言いになって、さすがにかわいくは思召すのであった。 |
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11.4.4 | 衛門督をどのような事でも、風雅な催しの折には、必ず特別に親しくお召しになっては、ご相談相手になさっていたのが、全然そのようなお便りはない。 皆が変だと思うだろうとお思いになるが、「顔を見るにつけても、ますます自分の間抜けさが恥ずかしくて、顔を見てはまた自分の気持ちも平静を失うのではないか」と思い返され思い返されて、そのままいく月も参上なさらないのにもお咎めはない。 |
衛門督をどんな催し事にも必要な人物としてお招きになって御相談相手に今まではあそばす院でおありになったが、今度の法皇の賀に限って何の仰せもない。人が不審がるであろうとはお思いになるのであるが、その人が来てはずかしめられた老人である自分の見られることも不快であるし、自分が彼を見ては平静で心がありえなくなるかもしれぬと院はお思いになって、もう幾月も参殿しない人を、なぜかとお尋ねになることもないのである。 |
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11.4.5 | おほかたの |
世間一般の人は、ずっと普通の状態でなく病気でいらっしゃったし、院でもまた、管弦のお遊びなどがない年なので、とばかりずっと思っていたが、大将の君は、「何かきっと事情があることに違いない。 風流者は、さだめし自分が変だと気がづいたことに、我慢できなかったのだろうか」と考えつくが、ほんとうにこのようにはっきりと何もかも知れるところにまでなっているとは、想像もおつきにならなかったのである。 |
ただの人たちは衛門督が病気続きであったし、六条院にもまた音楽その他のお催しの全くない年であるからと解釈していたが、左大将だけは何か理由のあることに違いない、多感多情な男であるから、自分が推測していたあの恋で自制の力を失うようなことがあったのではないかとは見ていても、まだこれほど不祥なことが暴露してしまったとは想像しなかった。 |
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第五段 源氏、柏木を六条院に召す |
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11.5.1 | このたびの すぎすぎいとをかしげにておはするを、 |
十二月になってしまった。 十何日と決めて、数々の舞を練習し、御邸中大騒ぎしている。 二条院の上は、まだお移りにならなかったが、この試楽のために、落ち着き払ってもいられずお帰りになった。 女御の君も里にお下がりになっていらっしゃる。 今度御誕生の御子は、また男御子でいらっしゃった。 次々とおかわいらしくていらっしゃるのを、一日中御子のお相手をなさっていらっしゃるので、長生きしたお蔭だと、嬉しく思わずにはいらっしゃれないのだった。 試楽には、右大臣殿の北の方もお越しになった。 |
十二月になった。十幾日と法皇の御賀の日が定められて六条院の中は用意に忙しくなった。二条の院の夫人はまだそのまま帰らずにいたが、御賀の試楽があるのに興味を覚えてもどってきた。 |
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11.5.2 | 大将の君は、丑寅の町で、まず内々に調楽のように、毎日練習なさっていたので、あの御方は、御前での試楽は御覧にならない。 |
左大将は東北の御殿でそれ以前にすでに毎日監督する舞曲の練習をさせていたから、 |
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11.5.3 | 衛門督を、このような機会に参加させないようなのは、まことに引き立たず、もの足りなく感じられるし、皆が変だと思うに違いないことなので、参上なさるようにお召しがあったが、重病である旨を申し上げて参上しない。 |
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11.5.4 | しかし、どこがどうと苦しい病気でもないようなのに、自分に遠慮してのことかと、気の毒にお思いになって、特別にお手紙をお遣わしになる。 父の大臣も、 |
病気といっても何という名のある病をしているのでもないわけであるが、やましく思う点があるのであろうと、心苦しく思召して、特使をさえもおやりになって招こうとあそばされた。父の大臣も、 |
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11.5.5 | 「どうしてご辞退申されたのか。 いかにもすねているように、院におかれてもお思いあそばそうから、大した病気でもない、何とかして参上なさい」 |
「なぜ御辞退をしたかね。何か含むことでもあるように院がお思いになるだろうに。大病というのではないのだから、無理をしても参ったほうがよい」 |
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11.5.6 | とお勧めなさっているところに、このように重ねておっしゃってきたので、苦しいと思いながらも参上した。 |
と勧めていたところへ再度のお使いが来たのであったから、つらい気持ちをいだきながら参った。 |
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第六段 源氏、柏木と対面す |
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11.6.1 | まだ げに、いといたく |
まだ上達部なども参上なさっていない時分であった。 いつものようにお側近くの御簾の中に招き入れなさって、母屋の御簾を下ろしていらっしゃる。 なるほど、実にひどく痩せて蒼い顔をしていて、いつもの陽気で派手な振る舞いは、弟の君たちに気圧されて、いかにも嗜みありげに落ち着いた態度でいるのが格別であるのを、いつもより一層静かに控えていらっしゃる様子は、「どうして内親王たちのお側に夫として並んでも、全然遜色はあるまいが、ただ今度の一件については、どちらもまことに思慮のない点に、ほんとうに罪は許せないのだ」などと、お目が止まりなさるが、平静を装って、とてもやさしく、 |
それはまだ他の高官などの集まって来ない時分であった。これまでのようにお座敷の |
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11.6.2 | 「そのこととなくて、 |
「特別の用件もなくて、お会いすることも久し振りになってしまった。 ここいく月は、あちこちの病人を看病して、気持ちの余裕もなかった間に、院の御賀のために、こちらにいらっしゃる内親王が、御法事をして差し上げなさる予定になっていたが、次々と支障が続出して、このように年もおし迫ったので、思うとおりにもできず、型通りに精進料理を差し上げる予定だが、御賀などと言うと、仰々しいようだが、わが家に生まれた子供たちの数が多くなったのを御覧に入れようと、舞などを習わせ始めたが、その事だけでも予定どおり執り行おうと思って。 調子をきちんと合わせることは、誰にお願いできようかと思案に窮していたが、いく月もお顔を見せにならなかった恨みも捨てました」 |
「機会がなくてあなたにも長く |
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11.6.3 | とおっしゃるご様子が、何のこだわりないような一方で、とてもとても顔も上げられない思いに、顔色も変わるような気がして、お返事もすぐには申し上げられない。 |
とお言いになる院の御様子に、昔と変わった所もないのであるが、衛門督は |
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第七段 柏木と御賀について打ち合わせる |
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11.7.1 | 「ここいく月、あちらの方こちらの方のご病気にご心配でいらっしゃったお噂を、お聞きいたしてお案じ申し上げておりましたが、春ごろから、普段も病んでおりました脚気という病気が、ひどくなって苦しみまして、ちゃんと立ち歩くこともできませんで、月日が経つにつれて臥せっておりまして、内裏などにも参内せず、世間とすっかり没交渉になったようにして家に籠もっておりました。 |
「長らく奥様がたが御病気をしておいでになりますことを承っておりまして、御心配を申し上げながら、前からございました |
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11.7.2 | げに、 その |
院のお年がちょうどにおなりあそばす年であり、誰よりも人一倍しっかりしたお祝いをして差し上げるよう、致仕の大臣も思って申されましたが、『冠を挂け、車を惜しまず捨てて官職を退いた身で、進み出てお祝い申し上げるようなのも身の置き所がない。 なるほど、そなたは身分が低いと言っても、自分と同じように深い気持ちは持っていよう。 その気持ちを御覧に入れなさい』と、催促申されることがございましたので、重病をあれこれ押して、参上いたしました。 |
院がおめでたい年に達せられますので、年来の御 |
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11.7.3 | このごろは、ますますひっそりとしたご様子で俗世間のことはお考えにならずお過ごしあそばしていらっしゃいまして、盛大なお祝いの儀式をお待ち受け申されることは、お望みではありますまいと拝察いたしましたが、諸事簡略にあそばして、静かなお話し合いを心からお望みであるのを叶えて差し上げるのが、上策かと存じられます」 |
いよいよお寂しい静かな御生活のように拝見いたしましたあちらの御様子では、はなやかな賀宴をお持ち込みあそばすようなことは恐縮なされるだけではないかと拝察されまして、こちら様の御質素な御計画はかえって御満足になることかと存ぜられます」 |
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11.7.4 | とお申し上げなさったので、盛大であったと聞いた御賀の事を、女二の宮の事とは言わないのは、大したものだとお思いになる。 |
と |
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11.7.5 | 「ただこのとおりだ。 簡略な様子に世間の人は浅薄に思うに違いないが、さすがに、よく分かってくれるので、思ったとおりで良かったと、ますます安心して来ました。 大将は、朝廷の方では、だんだん一人前になって来たようだが、このように風流な方面は、もともと性に合わないのであろうか。 |
「私の所でやらせていただくことはこのとおりに簡単なことであるのを見て、一概に悪く言う人もあるであろうと思っていたが、理解のあるお言葉を聞いて、さすがにとあなたにはいよいよ敬意が払われる。大将は役人としては少しは経験ができたようでも、そうした繊細な観察をすることなどは、得意でもないだろうがいっこうだめですよ。 |
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11.7.6 | かの かの |
あちらの院は、どのような事でもお心得のないことは、ほとんどない中でも、音楽の方面には御熱心で、まことに御立派に精通していらっしゃるから、そのように世をお捨てになっているようだが、静かにお心を澄まして音楽をお聞きになることは、このような時にこそ気づかいすべきでしょう。 あの大将と一緒に面倒を見て、舞の子供たちの心構えや、嗜みをよく教えてやって下さい。 音楽の師匠などというものは、ただ自分の専門についてはともかくも、他はまったくどうしようもないものです」 |
法皇はあらゆる芸術に通じておいでになるが、その中でも最も音楽の御 |
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11.7.7 | などと、たいそうやさしくお頼みになるので、嬉しく思う一方で、辛く身の縮む思いがして、口数少なくこの御前を早く去りたいと思うので、いつものようにこまごまと申し上げず、やっとの思いで下がりになった。 |
などとお命じになるなつかしい味のある院の御様子をうれしく拝しながらもまた衛門督は恥ずかしく、きまり悪く思われて、言葉少なにしていて少しも早く御前を立って行きたいと願われる心から、以前のように細かい話しぶりは見せずにいるうち、ようやく願いどおりにここを去るによい時を見つけた。 |
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11.7.8 | あるべき |
東の御殿で、大将が用意なさった楽人、舞人の装束のことなどを、さらに重ねて指図をお加えになる。 できるかぎり立派になさっていた上に、ますます細やかな心づかいが加わるのも、なるほどこの道には、まことに深い人でいらっしゃるようである。 |
東北の御殿で大将が |
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第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる |
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第一段 御賀の試楽の当日 |
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12.1.1 | 今日は、このような試楽の日であるが、ご夫人方が見物なさるので、見がいのないようにはしまいと思って、あの御賀の日は、赤い白橡に葡萄染の下襲を着るのであろう、今日は、青色に蘇芳襲の下襲を着て、楽人三十人は、今日は白襲を着ているが、東南の方の釣殿に続いている廊を楽所にして、山の南の側から御前に出る所で、「仙遊霞」という楽を奏して、雪がほんのわずか散らついたので、春の隣に近い、梅の花の様子が見栄えがしてほころびかけていた。 |
今日は試楽の日なのであるが、これだけを見物するのにとどまる夫人たちも多いため、目美しくして見せるのに、賀の当日の舞い人の衣装は、明るい |
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12.1.2 | 廂の御簾の内側にいらっしゃるので、式部卿宮、右大臣ぐらいがお側に伺候していらっしゃるだけで、それ以下の上達部は簀子で、特別の日でないので、御饗応などは、お手軽な物を用意してあった。 |
縁側に近い |
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12.1.3 | まだいと |
右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿宮の孫王の公達二人は、「万歳楽」。 まだとても小さい年なので、とてもかわいらしげである。 四人とも、誰彼となく高貴な家柄のお子なので、器量もかわいらしく装い立てられている姿は、そう思うせいか、気品がある。 |
右大臣の四男と、左大将の三男、それに |
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12.1.4 | また、大将の典侍がお生みになった二郎君と、式部卿宮の兵衛督と言った人で、今では源中納言になっている方の御子は「皇じょう」。 右の大殿の三郎君は、「陵王」。 大将殿の太郎は、「落蹲」。 その他では「太平楽」、「喜春楽」などと言ういくつもの舞を、同じ一族の子供たちや大人たちなどが舞ったのであった。 |
また大将の |
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12.1.5 | 日が暮れて来たので、御簾を上げさせなさって、感興が高まっていくにつれて、実にかわいらしいお孫の君たちの器量や、姿で、舞の様子も、又とは見られない妙技を尽くして、お師匠たちも、それぞれ技のすべてをお教え申し上げたうえに、深い才覚をそれに加えて、素晴らしくお舞いになるのを、どの御子もかわいいとお思いになる。 年老いた上達部たちは、皆涙を落としなさる。 式部卿宮も、お孫のことをお思いになって、お鼻が赤く色づくほどお泣きになる。 |
日が暮れてしまうと御前の御簾は巻き上げられて、音楽にも舞にもおもしろみが加わってゆく。かわいい姿の御孫の公達は秘伝を惜しまずそれぞれの師匠が教えた芸に、よい遺伝からの才気の加味された舞をだれもだれもおもしろく見せるのを、皆かわいく院は |
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第二段 源氏、柏木に皮肉を言う |
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12.2.1 | ご主人の院は、 |
六条院が、 |
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12.2.2 | 「寄る年波とともに、酔泣きの癖は止められないものだな。 衛門督が目を止めてほほ笑んでいるのは、まことに恥ずかしくなるよ。 そうは言っても、もう暫くの間だろう。 さかさまには進まない年月さ。 老いは逃れることのできないものだよ」 |
「年のゆくにしたがって酔い泣きをすることがますます |
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12.2.3 | とて、うち |
と言って、ちらっと御覧やりなさると、誰よりも一段とかしこまって塞ぎ込んで、真実に気分もたいそう悪いので、試楽の素晴らしさも目に入らない気分でいる人をつかまえて、わざと名指しで、酔ったふりをしながらこのようにおっしゃる。 冗談のようであるが、ますます胸が痛くなって、杯が回って来るのも頭が痛く思われるので、真似事だけでごまかすのを、お見咎めなさって、杯をお持ちになりながら何度も無理にお勧めなさるので、いたたまれない思いで、困っている様子、普通の人と違って優雅である。 |
と言ってその人の顔を御覧になる。だれよりもまじめに堅くなっていて、偽りでなく |
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12.2.4 | 気分が悪くて我慢できないので、まだ宴も終わらないのにお帰りになったが、そのままひどく苦しくなって、 |
身心の苦痛に堪えられなくなって衛門督はまだ宴の終わらぬうちに辞して帰ったが、 |
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12.2.5 | 「いつものような、大した深酔いしたのでもないのに、どうしてこんなに苦しいのであろうか。 何か気が咎めていたためか、上気してしまったのだろうか。 そんなに怖気づくほどの意気地なしだとは思わなかったが、何とも不甲斐ない有様だった」 |
悪酔いからさめることのできないのは、院を |
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12.2.6 | と自分自身思わずにはいられない。 |
と悲しんだ。 |
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12.2.7 | 一時の酔の苦しみではなかったのであった。 そのまままことひどくお病みになる。 大臣、母北の方が心配なさって、別々に住んでいたのでは気がかりであると考えて、邸にお移し申されるのを、女宮がお悲しみになる様子、それはそれでまたお気の毒である。 |
一時的な酒精の毒ではなくてそのまま衛門督は寝ついて重い容体になった。衛門督の父母がよそに置いてあるのが不安になり、自邸へつれもどすことにしたのを、夫人の宮の悲しがっておいでになるのがまた衛門督には苦しく思われた。 |
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第三段 柏木、女二の宮邸を出る |
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12.3.1 | ことなくて |
特別の事がない月日は、のんびりと当てにならない将来のことを当てにして、格別深い愛情もかけなかったが、今が最後と思ってお別れ申し上げる門出であろうかと思うと、しみじみと悲しく、自分に先立たれてお嘆きになるだろうことの恐れ多さを、とても辛いと思う。 母御息所も、ひどくお嘆きになって、 |
何事もなかった間は、衛門督自身も、宮をお愛しする情熱のありなしすら忘れているほどの良人であったが、もうこの世での別れかもしれぬと予感される今日の心には、宮をお残しして行くことが悲しくて、未亡人の寂しい人におさせするのが堪えられない苦痛に思われ、またもったいなくも思われ |
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12.3.2 | 「 |
「世間普通の事として、親は親としてひとまずお立て申しても、このような夫婦のお間柄は、どのような時でも、お離れにならないのが常のことですが、このように離れて、よくお治りになるまであちらでお過ごしになるのが、心配でならないでしょうから、もう暫くこちらで、このままご養生なさって下さい」 |
「世間の |
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12.3.3 | と、 |
と、お側に御几帳だけを間に置いてご看病なさる。 |
この人が病床との隔てに |
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12.3.4 | 「ことわりや。 |
「ごもっともなことです。 取るに足りない身の上で、及びもつかないご結婚を、なまじお許し頂きまして、こうしてお側におりますその感謝には、長生きをしまして、つまらない身の上も、もう少し人並みとなるところを御覧に入れたいと存じておりましたが、とてもひどく、このようにまでなってしまいましたので、せめて深い愛情だけでも御覧になって頂けずに終わってしまうのではないか存じられまして、生き永らえられそうにない気がするにつけても、まこと安心してあの世に行けそうにも存じられません」 |
「ごもっともです。私ごとき者と結婚をしてくださいました宮様のためには、せめて私が長生きをして相当な地位を得るように努力せねばならぬと心がけてはいたのですが、こんな病人になってしまいましては、私の愛がどれほどのものであったかを宮様にわかっていただけないで終わるかと思いますことで、もう命の助からぬような気のしますうちでも、死なれぬ気がするのです」 |
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12.3.5 | などと、お互いにお泣きになって、すぐにもお移りにならないので、再び母北の方が、気がかりにお思いになって、 |
などと泣き合っていて、迎えようとするのに、すぐに移っても来ないのを母の夫人は気づかわしがって、 |
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12.3.6 | 「どうして、まずは顔を見せようとはお思いになさらないのだろうか。 わたしは、少しでも気分のいつもと違って心細い時は、大勢の子らの中で、まず第一に会いたくなり頼りに思っているのです。 このように大変に気がかりなこと」 |
「そんな場合に、どうして親の所へ来ようとあなたは思ってくれないのだろう。私が病気をする時には、おおぜいの子供の中でも特にあなたがそばにいてほしく、またいてくれれば頼もしくてうれしいのだのに、いつまでもなぜそちらにあなたはいる」 |
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12.3.7 | とお恨み申し上げなさるのも、これもまた、もっともなことである。 |
こんなことを使いに言わせて来るのにももっともなところがあって、 |
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12.3.8 | 「 |
「他の兄弟より先に生まれたせいでしょうか、特別にかわいがっていたので、今でもやはりいとしくお思いになって、少しの間でも会わないのを辛くお思いになっているので、気分がこのように最期かと思われるような時に、お目にかからないのは、罪障深く、気が塞ぐことでしょう。 |
「私がいちばん初めに生まれたためなのでしょうが、大事にされていまして、こんなになってもまだ母はかわいがりまして、しばらくの間でも |
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12.3.9 | かならずまた あやしくたゆくおろかなる かかる |
今はいよいよ危篤とお聞きあそばしたら、たいそうこっそりお越しになってお会い下さい。 必ず再びお会いしましょう。 妙に気がつかないふつつかな性分で、何かにつけて疎略な扱いであったとお思いになることがおありだったでしょうと、後悔されます。 このような寿命とは知らないで、将来末長くご一緒にとばかり思っておりました」 |
もういよいよ危篤になったというしらせがありましたら、そっと大臣邸へおいでなさい。必ずもう一度お目にかかりましょう。ぼんやりとした性質なものですから、気もつかずにあなたを不愉快におさせしたような場合もあったであろうと思われますのが残念でなりません。こんなに短命で終わろうとは思いませんで、長い将来に誠意をくんでいただける日が必ずあるもののように思って安心していました」 |
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12.3.10 | と言って、泣き泣きお移りになった。 宮はお残りになって、何とも言いようもなく恋い焦がれなさった。 |
と、衛門督は宮に申して、泣く泣く父の家へ移って行った。宮はあとに思いこがれておいでになった。 |
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第四段 柏木の病、さらに重くなる |
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12.4.1 | さるは、たちまちにおどろおどろしき |
大殿ではお待ち受け申し上げなさって、いろいろと大騒ぎをなさる。 そうはいえ、急変するようなご病気の様子でもなく、ここいく月も食べ物などをまったくお召し上がりにならなかったが、ますますちょっとした柑子などでさえお手を触れにならず、ただ、冥界に引き込まれていくようにお見えになる。 |
大臣家では病人の扱いに大騒ぎをして、 |
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12.4.2 | さる |
このような当代の優れた人物が、こんなでいらっしゃるので、世間中が惜しみ残念がって、お見舞いに上がらない人はいない。 朝廷からも院の御所からも、お見舞いを度々差し上げては、ひどく惜しんでいらっしゃるのにつけても、ますますご両親のお心は痛むばかりである。 |
教養の足りた優秀な高官と見られている人が、こんなふうに頼み少ない容体になっていることを世間は惜しんで、見舞いを申し入れに来ぬ人もない。宮中からも法皇の御所からもしばしばお見舞いの |
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12.4.3 | 六条院におかれても、「まことに残念なことだ」とお嘆きになって、お見舞いを頻繁に丁重に父大臣にも差し上げなさる。 大将は、それ以上に仲の好い間柄なので、お側近くに見舞っては、大変にお嘆きになっておろおろしていらっしゃる。 |
六条院も非常に残念に |
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12.4.4 | かかる |
御賀は、二十五日になってしまった。 このような時に重々しい上達部が重病でいらっしゃるので、親、兄弟たち、大勢の方々、そういう高貴なご縁戚や友人方が嘆き沈んでいらっしゃる折柄なので、何か興の冷めた感じもするが、次々と延期されて来た事情さえあるのに、このまま中止にすることもできないので、どうして断念なされよう。 女宮のご心中を、おいたわしくお察し上げになる。 |
法皇の御賀は二十五日になった。現在での花形の高官が重い病気をしてその一家一族の人たちが |
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12.4.5 | 例によって、五十寺の御誦経、それから、あちらのおいでになる御寺でも、摩訶毘廬遮那の御誦経が。 |
かねての計画のように五十か寺での御 |
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