第十帖 賢木

光る源氏の二十三歳秋九月から二十五歳夏まで近衛大将時代の物語

注釈番号
注釈見出し
注釈

第一章 六条御息所の物語 秋の別れと伊勢下向の物語


第一段 六条御息所、伊勢下向を決意

1.1.1 注釈1 【斎宮の御下り、近うなりゆくままに】 斎宮は野宮で一年間潔斎した後の九月に伊勢神宮へ向かう。
1.1.1 注釈2 【やむごとなくわづらはしきものにおぼえたまへりし】 御息所の生前の正妻であった葵の上に対する感情。
1.1.1 注釈3 【さりともと世人も聞こえ】 『集成』は「「さ」は源氏と御息所の、しっくりいっていなかった関係をさす。それが世間に知れていた」と注す。『完訳』は「これまでそうだとしても、今度こそ御息所が正妻に、の意」と注す。
1.1.1 注釈4 【宮のうちにも】 『集成』は「(御息所の)御殿の人々も。斎宮の邸なので「宮」という」と注す。『完訳』は「野宮にお仕えする人々も」と注す。
1.1.1 注釈5 【あさましき御もてなし】 源氏の御息所に対する扱い。
1.1.1 注釈6 【まことに憂しと思すことこそありけめ】 大島本「うして」とある。「て」を朱筆でミセケチにし、「と」と訂正する。御息所の心中。生霊事件をさす。
1.1.1 注釈7 【出で立ちたまふ】 『集成』は「ご出発なさろうとする」の意に、『完訳』は「ご出発をご用意になるのである」の意に解す。
1.1.2 注釈8 【親添ひて下りたまふ例も、ことになけれど】 大島本「おやそひ」とある。諸本「おやそひて」とあるが、大島本と別本の国冬本は接続助詞「て」がない。『新大系』は大島本のままとする。大島本「れいも」の「も」の右側に「ハ」と傍記するが、朱筆でミセケチにする。「ハ」は河内本との対校である。貞元二年(九七七)九月十六日、円融天皇の御代に斎宮規子内親王に母親の徽子女王が付き添って下向した事が一例ある。「ことになけれど」とは、物語の時代設定をさらに前の延喜天暦の御代に置いているからである。
1.1.2 注釈9 【いと見放ちがたき御ありさま】 斎宮十四歳。
1.1.2 注釈10 【大将の君】 源氏をさす。
1.1.2 注釈11 【さすがに】 「口惜しく」にかかる。
1.1.2 注釈12 【御消息ばかりは】 「ばかり」(副詞、限定)「は」(係助詞、区別)。自らは出向かず、手紙だけがあるのニュアンス。
1.1.2 注釈13 【女君も】 「も」(係助詞、同類)。源氏も同様に考えているニュアンス。
1.1.2 注釈14 【人は】 以下「あいなし」まで、御息所の心中を語り手が推測して語る。『紹巴抄』は「双地をしはかりて書たるなり」と指摘。『評釈』は「「心強くおぼすなるべし」と作者の推量がはいって、間接の形にされている」と注す。「人」は源氏をさし、「我」とあった御息所と対比させた構文。
1.1.2 注釈15 【あいなし】 『完訳』は「逢う必要がない、の意」と注す。
1.1.2 注釈16 【思すなるべし】 「なる」(伝聞推定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)、語り手の推測。
1.1.3 注釈17 【もとの殿には、あからさまに渡りたまふ折々あれど】 野宮から六条の里邸へ。
1.1.3 注釈18 【たはやすく御心にまかせて、参うでたまふべき御すみかにはたあらねば】 大島本は「はた」を朱筆で補入する。『集成』『新大系』『古典セレクション』は補入に従う。野宮をさす。
1.1.3 注釈19 【月日も隔たりぬるに】 「に」(格助詞、時間)。
1.1.3 注釈20 【院の上】 桐壺院をいう。
1.1.3 注釈21 【つらき者に思ひ果てたまひなむも、いとほしく、人聞き情けなくや】 源氏の思念。

第二段 野の宮訪問と暁の別れ

1.2.1 注釈22 【九月七日ばかり】 晩秋九月上旬、七日頃の月を写しだす。
1.2.1 注釈23 【立ちながら】 わずかの時間でもの意。源氏の手紙の要旨。
1.2.1 注釈24 【いでや】 御息所の躊躇の気持ち。『河海抄』は「我をのみ思ふといはばあるべきをいでや心は大幣にして」(古今集、俳諧歌、一〇四〇、読人しらず)を引歌として指摘。
1.2.1 注釈25 【いとあまり埋もれいたきを、物越ばかりの対面は】 御息所の応諾の気持ち。『完訳』は「引込み思案すぎても失礼かと。源氏に逢いたい本心を合理化」と注す。
1.2.1 注釈26 【人知れず待ちきこえたまひけり】 御息所の心底。
1.2.2 注釈27 【遥けき野辺】 「野辺」は歌語。
1.2.2 注釈28 【浅茅が原】 歌語。「思ふよりいかにせよとか秋風になびく浅茅の色ことになる」(古今集恋四、七二五、読人しらず)「ふるさとは浅茅が原と荒れはてて夜もすがら虫の音をのみぞ鳴く」(後拾遺集秋上、二七〇、道命法師)など、秋風に色変わり心褪せてゆく、荒れ果てた場所などのニュアンスを伴う語句。
1.2.2 注釈29 【枯れ枯れなる虫の音に】 「かれがれ」は「枯れ枯れ」と「嗄れ嗄れ」とを掛ける。『完訳』は「このあたり恋の不毛の心風景」と注す。
1.2.2 注釈30 【松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬ】 『弄花抄』は「琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒より調べそめけむ」(拾遺集雑上、四五一、斎宮女御)を指摘。「凄し」は、ぞっとする感じ、もの寂しい感じを表す語句。
1.2.2 注釈31 【艶なり】 「艶」は、優美な感じ、華やかな風情を表す語句。「凄し」とは対比的な美感。
1.2.3 注釈32 【御随身】 参議兼大将の随身は六人である。
1.2.3 注釈33 【ことことしき】 『集成』『新大系』は「ことことしき」と清音、『古典セレクション』は「ことごとしき」と濁音に読む。前者の読みに従う。なお、類義語に「ものものし」「いかめし」などがある。「ことことし」は対象が広範囲にわたり美的でないもの、悪しきものを指すことが多く、それに対して、「ものものし」は個々の人間の容姿・態度・性格などについて美的なもの、良きものを表現することが多く、また「いかめし」も儀式・行事・贈り物・建物などについて美的なもの、良きものを表現することが多いという(『小学館古語大辞典』)。
1.2.3 注釈34 【所からさへ】 『集成』『新大系』は「所から」と清音、『古典セレクション』は「所がら」と濁音に読む。前者の読みに従う。
1.2.4 注釈35 【かりそめなり】 大島本は「かりそめなり」とある。『集成』『新大系』は底本のままとするが、『古典セレクション』は諸本に従って「かりそめなめり」と校訂する。
1.2.4 注釈36 【黒木の鳥居ども】 大島本は「くろ木のとりゐとも」とある。『新大系』は底本のままとするが、『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「黒木の鳥居どもは」と係助詞「は」を補入する。
1.2.4 注釈37 【火焼屋】 『集成』は「神饌を供するための小屋であると古注にいう」と注し、『完訳』は「警護の衛士が篝火をたく小屋」と注す。
1.2.7 注釈38 【かうやうの歩きも】 大島本は「かうやう」とある。『集成』『新大系』は底本のままとするが、『古典セレクション』は諸本に従って「かやう」と校訂する。以下「あきらめはべりにしがな」まで、源氏の詞。
1.2.7 注釈39 【注連のほかには】 野宮に因んだ表現。建物の外には、の意。
1.2.8 注釈40 【人びと】 六条御息所に仕えている女房たち。
1.2.9 注釈41 【げに、いとかたはらいたう】 以下「いとほしう」まで、女房たちの詞。
1.2.11 注釈42 【いさや。ここの人目も】 以下「つつましき」まで、御息所の心。他の青表紙諸本は「ここらの人目」(大勢の人目)とある。
1.2.11 注釈43 【かの思さむことも】 「かの」は源氏をさす。
1.2.12 注釈44 【こなたは、簀子ばかりの許されははべりや】 源氏の詞。『集成』は「部屋には入れて頂けないまでも--と、他人行儀な応対を皮肉ったもの」と注す。
1.2.14 注釈45 【はなやかにさし出でたる夕月夜に】 『完訳』は「物語では、恋の訪問の場面に多用」と注す。前に「九月七日ばかり」とあったので、半月ほどの月影。
1.2.14 注釈46 【うち振る舞ひたまへるさま、匂ひに】 大島本は「にほひに」とある。『新大系』は底本のままとするが、『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「にほひ」と格助詞「に」を削除する。
1.2.15 注釈47 【変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く】 源氏の詞。「ちはやぶる神垣山の榊葉は時雨に色も変らざりけり」(後撰集冬、四五七、読人しらず)「置く霜に色も変らぬ榊葉の薫るや人のとめてきつらむ」(貫之集)、「ちはやぶる神の斎垣もこえぬべし今は我が身の惜しけくもなし」(拾遺集恋四、九二四、柿本人麿)「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし大宮人の見まくほしさに」(伊勢物語)「ちはやぶる神の斎垣も越る身は草の戸ざしに障る物かは」(古今六帖二、戸)などを踏まえる。
1.2.17 注釈48 【神垣はしるしの杉もなきものを--いかにまがへて折れる榊ぞ】 御息所の贈歌。「我が庵は三輪の山もと恋しくは訪らひ来ませ杉立てる門」(古今集雑下、九八二、読人しらず)を踏まえる。
1.2.19 注釈49 【少女子があたりと思へば榊葉の--香をなつかしみとめてこそ折れ】 源氏の返歌。「少女子が袖振る山の瑞垣の久しき世より思ひ染めてき」(拾遺集、雑恋、一二一〇、柿本人麿)「置く霜に色も変らぬ榊葉の薫るや人のとめてきつらむ」(貫之集)「榊葉の香をかぐはしみとめて来れば八十氏人ぞまどゐせりける」(拾遺集、神楽歌、五七七)「榊葉の春さす枝のあまたあればとがむる神もあらじとぞ思ふ」(拾遺集恋一、六五八、読人しらず)を踏まえる。
1.2.21 注釈50 【さしも思されざりき】 「き」(過去の助動詞)、源氏の心を通して語る。
1.2.22 注釈51 【いかにぞや、疵ありて】 六条御息所の生霊事件をさす。
1.2.23 注釈52 【思しつつむめれど】 「めり」(推量の助動詞)、語り手の視覚的推量のニュアンス。以下、その場に居合わせて語っている体裁。
1.2.23 注釈53 【聞こえたまふめる】 「めり」(推量の助動詞)、語り手の視覚的推量のニュアンス。
1.2.24 注釈54 【月も入りぬるにや】 時間の経過を月の移動で表す。
1.2.24 注釈55 【つらさも消えぬべし】 「べし」(推量の助動詞)、語り手の強い推量のニュアンス。
1.2.24 注釈56 【さればよ」と、なかなか心動きて】 『集成』は「やはり思っていた通りだった(源氏に逢えば必ず決心が鈍るに違いないと案じていた通りになった)と、かえってお心が動揺して思い迷われる」と注す。
1.2.25 注釈57 【わづらふなる】 「なり」(伝聞推定の助動詞)。「葵」巻の「殿上人どものこのましきなどは、朝夕の露分けありくをそのころの役になむする、など聞きたまひても」とあったのをさす。
1.2.25 注釈58 【まねびやらむかたなし】 語り手の言葉。『休聞抄』は「双也」と指摘。『集成』は「(あまりにも普通とは違って、深くこまやかなので)そっくりそのまま語り伝えるすべもない。草子地。」と注す。『完訳』は「語り手は言語を絶した心の乱れを暗示」と注す。
1.2.26 注釈59 【やうやう明けゆく空のけしき】 時間の経過を表す。ついに夜を明かして翌日となる。
1.2.27 注釈60 【暁の別れはいつも露けきを--こは世に知らぬ秋の空かな】 源氏の贈歌。「露けし」は「秋」の縁語。秋の別の背後には「暁のなからましかば白露のおきてわびしき別れせましや」(後撰集恋四、八六三、紀貫之)「時しもあれや秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを」(古今集哀傷、八三九、壬生忠岑)などがある。
1.2.29 注釈61 【松虫の鳴きからしたる】 『完訳』は「前の「かれがれなる虫の音」が、ここでは人待つ恋の情緒をこめた「松虫」に転じて、源氏執心を断ちがたい御息所の深層にふれる」と注す。「ひぐらしの声聞くからに松虫の名にのみ人を思ふころかな」(古今集秋上、二五五、貫之)「女郎花色にもあるかな松虫をもとに宿して誰を待つらむ」(後撰集秋中、三四六、読人しらず)などがある。
1.2.29 注釈62 【まして、わりなき御心惑ひどもに、なかなか、こともゆかぬにや】 『紹巴抄』は「双地」と注す。『集成』は「読者への弁解にもなる」と注す。
1.2.30 注釈63 【おほかたの秋の別れも悲しきに--鳴く音な添へそ野辺の松虫】 御息所の返歌。『完訳』は「秋の別れ」は、秋の季節における人との別れ。一説には秋と人との別れ。もともと秋は悲哀の季。離別の悲情を、「野辺の松虫」の鳴きからす悲しみに象徴させた歌」と注す。『集成』は「秋の別れ」を「(何事もなくて)ただ秋が過ぎ去って行くということだけでも」と、秋と人との別れに解す。
1.2.31 注釈64 【悔しきこと多かれど】 源氏の気持ち。「出でたまふ」にかかる。
1.2.31 注釈65 【道のほどいと露けし】 「露」に涙を連想させる。源氏の心象風景でもある。
1.2.32 注釈66 【若き人びとは】 『完訳』は「叙述が、御息所の心から女房の心へと転換。その源氏への憧れは、御息所の心の一面でもあるが、彼女は他面では自制するほかない」と注す。
1.2.34 注釈67 【あいなく涙ぐみあへり】 『完訳』は「女房たちは御息所の心情を表面的にしか理解しえないとする。語り手の評言」と注す。

第三段 伊勢下向の日決定

1.3.1 注釈68 【御文、常よりもこまやかなるは】 野宮から帰邸後の手紙。後朝の文。
1.3.2 注釈69 【男は、さしも思さぬことをだに】 以下「思し悩むべし」まで、『細流抄』は「草子地」と注す。
1.3.2 注釈70 【よく言ひ続けたまふべかめれば】 「べか」(推量の助動詞)「めれ」(推量の助動詞)、語り手が源氏の心を忖度した表現。
1.3.4 注釈71 【若き御心地に】 大島本は「御心ちに」とある。『集成』『新大系』は底本のままとするが、『古典セレクション』は諸本に従って「御心に」と校訂する。
1.3.4 注釈72 【世人は】 大島本は「世人ハ」とある。『新大系』は底本のまま「よひと」と振り仮名を付ける。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「世の人」と校訂する。
1.3.4 注釈73 【さまざまに聞こゆべし】 「べし」(推量の助動詞)は語り手の推量。したがって「世人は」以下、語り手の文章である。『湖月抄』は「草子地」と注す。
1.3.4 注釈74 【何ごとも、人にもどきあつかはれぬ際はやすげなり。なかなか世に抜け出でぬる人の御あたりは、所狭きこと多くなむ】 語り手の批評。『評釈』は「物語りする女房も、庶民に注目される側にある。が、「世にぬけ出でぬる人」--そういう人々に対して「所狭きこと多くなむ」と、同情する余裕が、女房には、あるのである」と注す。『集成』は「なに事も」以下を「草子地」と注す。

第四段 斎宮、宮中へ向かう

1.4.1 注釈75 【十六日、桂川にて御祓へしたまふ】 斎宮群行の日。桂川で祓いをする。「九月十六日」という設定は、歴史上の規子内親王が伊勢へ下向した日と同日である。
1.4.1 注釈76 【選らせたまへり】 「せ」(尊敬の助動詞)「たまへ」(尊敬の補助動詞)、主語は帝。
1.4.1 注釈77 【院の御心寄せもあればなるべし】 「べし」(推量の助動詞)は、語り手の推量。
1.4.2 注釈78 【鳴る神だにこそ】 源氏の文に付けた文句。以下「飽かぬ心地しはべるかな」まで、源氏の文。『源氏釈』は「天の原踏みとどろかし鳴る神も思ふ仲をば裂くるものかは」(古今集恋四、七〇一、読人しらず)を指摘。
1.4.3 注釈79 【八洲もる国つ御神も心あらば--飽かぬ別れの仲をことわれ】 源氏の贈歌。
1.4.6 注釈80 【国つ神空にことわる仲ならば--なほざりごとをまづや糾さむ】 斎宮が女別当に代作させた返歌。
1.4.8 注釈81 【御年のほどよりは、をかしうもおはすべきかな】 源氏の斎宮の返歌を見ての感想。斎宮は十四歳。源氏、斎宮に対して好き心を動かす。
1.4.8 注釈82 【かうやうに例に違へるわづらはしさに、かならず心かかる御癖にて】 源氏の性癖。語り手の批評、注解。斎宮という恋は禁制の女性、しかも愛人六条御息所の娘という関係の女性に好色心を動かす源氏の性癖。『完訳』は「読者の批判を先取りし、恋に生きる好色人(すきびと)としての源氏の本性をいう語り口」と注す。
1.4.8 注釈83 【いとよう】 以下「ありなむかし」まで、源氏の心。斎宮に対する関心。
1.4.8 注釈84 【世の中定めなければ】 斎宮の交替は、天皇の譲位または崩御、あるいは斎宮の親族の死去などの折。世の無常とはいうが、かなり大胆な仮想である。

第五段 斎宮、伊勢へ向かう

1.5.2 注釈85 【限りなき筋】 后の位をいう。
1.5.2 注釈86 【十六にて故宮に参りたまひて、二十にて後れたてまつりたまふ。三十にてぞ、今日また九重を見たまひける】 六条御息所の経歴をいうのだが、年立の上で問題の一文。年立上の整合性よりも経歴を叙述することを優先した記述。
1.5.3 注釈87 【そのかみを今日はかけじと忍ぶれど--心のうちにものぞ悲しき】 御息所の独詠歌。
1.5.6 注釈88 【二条より洞院の大路を折れたまふほど、二条の院の前なれば】 洞院大路は東と西の二本がある。西の洞院であろうか。なお、斎宮の群行行路について、河内本は「二条より洞院のおほちわたり給ふほと」とある。別本は「わたり」(御物本・陽明文庫本・国冬本)と「こえ」(伝冷泉為相筆本)とある。直進したような叙述となっている。
1.5.7 注釈89 【振り捨てて今日は行くとも鈴鹿川--八十瀬の波に袖は濡れじや】 源氏の贈歌。『河海抄』は「鈴鹿川八十瀬の滝をみな人の賞づるも著く時にあへる時にあへるかも」(催馬楽-鈴鹿川)「鈴鹿川八十瀬渡りて誰故か夜越えに越えむ妻もあらなくに」(万葉集巻十二、三一五六)を指摘。「ふり」は「鈴」「袖」の縁語。
1.5.8 注釈90 【御返しある】 大島本「御かへり」を薄墨で抹消し傍らに「返し」と訂正する。『集成』『新大系』『古典セレクション』は訂正本文に従わず「御返り」の本行本文のままとする。
1.5.9 注釈91 【鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず--伊勢まで誰れか思ひおこせむ】 御息所の返歌。「鈴鹿川」「八十瀬の波」「濡れ」を受けて返す。
1.5.10 注釈92 【あはれなるけをすこし添へたまへらましかば】 源氏の御息所の返歌を見ての感想。
1.5.12 注釈93 【行く方を眺めもやらむこの秋は--逢坂山を霧な隔てそ】 源氏の独詠歌。同類の発想歌に「君があたり見つつを居らむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも」(伊勢物語)がある。
1.5.13 注釈94 【まして、旅の空は、いかに御心尽くしなること多かりけむ】 語り手の想像。三光院実枝は「草子の地」と指摘。『評釈』は「源氏がそう思い、作者はそう推し、読者はそう察する。この一行は、この三者の一致せる見解である」と注す。

第二章 光る源氏の物語 父桐壺帝の崩御


第一段 十月、桐壺院、重体となる

2.1.1 注釈95 【院の御悩み、神無月になりては、いと重くおはします】 桐壺院、重態に陥る。
2.1.1 注釈96 【春宮の御事】 大島本は「春宮御事」とある。諸本によって「の」を補う。
2.1.2 注釈97 【はべりつる世に変はらず、大小のことを隔てず、何ごとも御後見と思せ】 以下「その心違へさせたまふな」まで、桐壺院の朱雀帝に対する御遺戒。
2.1.2 注釈98 【世の中たもつべき相ある人なり】 帝となれる相のある人。「桐壺」巻の高麗人の観相を踏まえて言う。
2.1.3 注釈99 【女のまねぶべきことにしあらねば、この片端だにかたはらいたし】 語り手の言辞。『林逸抄』は「例の紫式部か詞也」と指摘。『評釈』は「「女の--」とは、この物語をするのが女であるからである。女は、政治に関与しない。主上や院のおそば近くに仕えるから、どんな秘密でも知ることがあるが、政治上の事は知らぬ顔で通すはずなのである」と注す。
2.1.4 注釈100 【さらに違へきこえさすまじきよしを、返す返す聞こえさせたまふ】 『完訳』は「帝は院の遺言に全面的に従おうとする。この誓約は、個人的な約束とも異なり、朱雀帝治政のあり方を性格づける意味を持つ」と注す。
2.1.4 注釈101 【限りあれば、急ぎ帰らせたまふにも】 帝の見舞いの行幸は公的行事なので、時間を延長して個人的に振る舞うことが許されない。
2.1.5 注釈102 【春宮も、一度にと思し召しけれど】 大島本は「ひとたひにも」の「も」を朱筆で抹消し傍らに「と」と訂正する。春宮は、帝の行幸と一緒に思ったが、仰々しくなるので日を改めて、見舞いの行啓をする。
2.1.5 注釈103 【何心もなく】 大島本は「なに」を朱筆で補う。
2.1.5 注釈104 【うれしと思し】 大島本は「うれしとおほし」とある。『新大系』は底本のままとするが、『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「うれしと思して」と接続助詞「て」を補う。
2.1.6 注釈105 【よろづのことを聞こえ知らせたまへど】 院が春宮に。
2.1.6 注釈106 【いとものはかなき御ほどなれば】 春宮はこの時五歳。七歳が学問始めである。
2.1.7 注釈107 【この宮の御後見】 春宮の後見をさす。

第二段 十一月一日、桐壺院、崩御

2.2.1 注釈108 【大后も、参りたまはむとするを】 弘徽殿大后も帝や東宮、源氏に引き続いて、桐壺院を見舞おうと思うが。
2.2.2 注釈109 【御位を去らせたまふといふばかりにこそあれ、世のまつりごとをしづめさせたまへることも、我が御世の同じことにておはしまいつるを】 桐壺帝は御譲位後も在位中と同様に政治的実権を握っていた。歴史上の院政と同じである。
2.2.2 注釈110 【祖父大臣、いと急にさがなくおはして、その御ままになりなむ世を】 右大臣が外戚として政権を握る。
2.2.3 注釈111 【藤の御衣にやつれたまへる】 大島本は「藤の御そにやつれ給へる」を補入する。
2.2.3 注釈112 【去年、今年とうち続き、かかることを見たまふに、世もいとあぢきなう思さるれど、かかるついでにも、まづ思し立たるることはあれど、また、さまざまの御ほだし多かり】 昨年の妻葵の上の死去、今年の父桐壺院の崩御を体験し、出家の願望が起こるが、また一方でそれを妨げる事情が多い、とする語る。『花鳥余情』は「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今集雑下、九五五、物部吉名)を指摘。 【まづ思し立たるる】-大島本「た」と「る」の間に「た」を補入する。
2.2.4 注釈113 【御四十九日までは】 下に「師走の二十日なれば」とある。さらに「霜月の一日ごろ御国忌なるに」とあるので、桐壺院の崩御は十一月一日である。
2.2.4 注釈114 【おほかたの世の中とぢむる空のけしきにつけても、まして晴るる世なき、中宮の御心のうちなり】 景情一致の描写。『完訳』は「一年の終りと桐壺院時世の終り。歳末の冬空に藤壺の心を象徴」と注す。
2.2.5 注釈115 【宮は、三条の宮に渡りたまふ】 藤壺の里邸。「紅葉賀」巻に既出。
2.2.5 注釈116 【雪うち散り、風はげしうて、院の内、やうやう人目かれゆきて、しめやかなるに】 桐壺院の御所の蕭条とした描写。
2.2.5 注釈117 【御前の五葉の雪にしをれて、下葉枯れたるを見たまひて】 院の御所の藤壺の庭先。
2.2.6 注釈118 【蔭ひろみ頼みし松や枯れにけむ--下葉散りゆく年の暮かな】 兵部卿宮の歌。「松」に桐壺院を、「下葉」に後宮の女性たちを喩える。
2.2.7 注釈119 【何ばかりのことにもあらぬに】 『完訳』は「語り手の評。上手な歌を詠出しがたいほど悲嘆が深いとする」と注す。
2.2.8 注釈120 【さえわたる池の鏡のさやけきに--見なれし影を見ぬぞ悲しき】 源氏の唱和歌。『河海抄』は「池はなほ昔ながらの鏡にて影見し君がなきぞ悲しき」(大和物語)を指摘する。
2.2.9 注釈121 【思すままに、あまり若々しうぞあるや】 語り手の評言。源氏の歌を率直すぎて未熟な詠みぶりだという。
2.2.10 注釈122 【年暮れて岩井の水もこほりとぢ--見し人影のあせもゆくかな】 王命婦の唱和歌。
2.2.11 注釈123 【そのついでに、いと多かれど、さのみ書き続くべきことかは】 語り手の省略の弁。
2.2.12 注釈124 【旧き宮は、かへりて旅心地したまふにも】 『異本紫明抄』は「古里は見しごともあらず斧の柄の朽ちし所ぞ恋しかりける(古今集雑下、九九一、紀友則)を指摘。

第三段 諒闇の新年となる

2.3.1 注釈125 【年かへりぬれど】 諒闇の新年。源氏二十四歳。
2.3.2 注釈126 【御匣殿は、二月に、尚侍になりたまひぬ】 朧月夜の君、尚侍となる。
2.3.2 注釈127 【院の御思ひにやがて尼になりたまへる、替はりなり】 故桐壺院の御喪に服して尚侍が出家し、定員二名のうち、一名が空いたので、その後任としての意。
2.3.2 注釈128 【やむごとなくもてなし】 大島本は「もてなし」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「もてなして」と接続助詞「て」を補う。『集成』は「家柄の姫君らしい暮しぶりで」の意に解す。
2.3.2 注釈129 【今めかしう花やぎたまへど、御心のうちは、思ひのほかなりしことどもを忘れがたく嘆きたまふ】 朧月夜の華やかな周辺と裏腹に源氏を忘れ難く思う内心。
2.3.2 注釈130 【いと忍びて通はしたまふことは、なほ同じさまなるべし】 「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)、語り手の推測。手紙を通わすこと。
2.3.2 注釈131 【ものの聞こえもあらばいかならむ】 源氏の懸念。『完訳』「右大臣家専横の時代に、朧月夜との不義がさらに噂されては身の破滅は必定。そう思いながらも恋の気持を高ぶらせる理不尽さが、「例の御癖」」と注す。
2.3.2 注釈132 【思しながら、例の御癖なれば、今しも御心ざしまさるべかめり】 「べか」(推量の助動詞)「めり」(推量の助動詞)、語り手の推測。「かやうに例に違へるわづらはしさにかならず心かかる御癖にて」とあった。
2.3.3 注釈133 【かたがた思しつめたることどもの報いせむ】 弘徽殿大后の心。源氏への復讐心。
2.3.3 注釈134 【思すべかめり】 「べか」(推量の助動詞)「めり」(推量の助動詞)、語り手の推測。
2.3.4 注釈135 【左の大殿も、すさまじき心地したまひて】 政権が右大臣家に移り、左大臣家にとっては何かとおもしろからぬ時代となる。
2.3.4 注釈136 【故姫君を、引きよきて、この大将の君に聞こえつけたまひし御心を、后は思しおきて】 弘徽殿大后は葵の上を朱雀妃にという所望を左大臣が断って源氏に与えたのを根にもっている。
2.3.4 注釈137 【そばそばしうおはするに】 大島本は「おはするに」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おはする」と、接続助詞「に」を削除する。
2.3.4 注釈138 【故院の御世にはわがままにおはせしを】 主語は左大臣。
2.3.4 注釈139 【時移りて、したり顔におはするを】 主語は右大臣。
2.3.5 注釈140 【大将は、ありしに変はらず渡り通ひたまひて】 葵の上の生前同様に左大臣邸に。
2.3.5 注釈141 【若君をかしづき思ひきこえたまへること】 主語は源氏。夕霧は昨年の秋に誕生。現在二歳。
2.3.5 注釈142 【いとどいたつききこえたまふことども、同じさまなり】 主語は左大臣。左大臣が婿の源氏の世話をすること。娘の葵の上が生きていた時と同じ。
2.3.5 注釈143 【限りなき御おぼえの、あまりもの騒がしきまで、暇なげに見えたまひしを】 「限りなき御おぼえ」は桐壺院の源氏寵愛。「の」(格助詞、同格)、「あまりもの騒がしきまで暇なげに見えたまひし」は、女たちにちやほやされた源氏の姿をいう。
2.3.5 注釈144 【いとのどやかに、今しもあらまほしき御ありさまなり】 『集成』は「こんな(不遇の)時の方がかえって理想的とおもわれるご様子である」という。『完訳』は「世俗と没交渉の、心静かな篭居を理想とする。しばしば語られる出家の念願に連なってもいよう」という。前者の説は、源氏と紫の君とが常に親しくいる状態をさし、後者の説は、広く世俗との没交渉の生活と解す。語り手の評言。
2.3.6 注釈145 【西の対の姫君の御幸ひを、世人もめできこゆ】 二条院西の対に住む紫の君の幸福をいう。
2.3.6 注釈146 【父親王も思ふさまに聞こえ交はしたまふ】 紫の君の父。兵部卿の宮。この時点では源氏と睦まじく交際している。しかし、源氏の須磨明石流謫時代には冷たくなる。
2.3.6 注釈147 【継母の北の方は、やすからず思すべし。物語にことさらに作り出でたるやうなる御ありさまなり】 「べし」(推量の助動詞)、「なり」(断定の助動詞)は、語り手の推量や断定である。『評釈』は「継子が幸せになる話は、昔物語の『住吉物語』や『落窪物語』など現存するのにも見られるが、今の有様はちょうどそれと同じだという。このお話はそういう昔物語ではない。実際あった話なのだ、作者は、そうことわるのである」という。
2.3.7 注釈148 【斎院は、御服にて下りゐたまひにしかば】 斎院は、桐壺院の第三皇女(「葵」巻登場)であった。したがって、父の喪に服すために斎院を下りた。
2.3.7 注釈149 【朝顔の姫君は、替はりにゐたまひにき】 「朝顔の姫君」と呼称される。「帚木」「葵」に登場。
2.3.7 注釈150 【賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例、多くもあらざりけれど、さるべき女御子やおはせざりけむ】 語り手の推量を交えた挿入句。
2.3.7 注釈151 【中将におとづれたまふことも】 朝顔の姫君づきの女房。初見の人。
2.3.7 注釈152 【ことに何とも思したらず】 『完訳』は「ここでの源氏は、社会的不遇に低迷することなく、恋の人生に生きるべく好色人(すきびと)に徹している」と注す。
2.3.7 注釈153 【こなたかなたと思し悩めり】 『集成』は「あちらこちら(朧月夜の君や朝顔の姫君)と思い悩んでいらっしゃる」という。

第四段 源氏朧月夜と逢瀬を重ねる

2.4.1 注釈154 【帝は、院の御遺言違へず、あはれに思したれど、若うおはしますうちにも、御心なよびたるかたに過ぎて、強きところおはしまさぬなるべし】 「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)、語り手の推量を交えた朱雀帝の人物評。前に「帝はいと若うおはします」とあった。「院の御遺言」とは源氏を「朝廷の御後見」とするようにとの内容をいう。
2.4.1 注釈155 【母后、祖父大臣--とりどりしたまふことは、え背かせたまはず、世のまつりごと、御心にかなはぬやうなり】 大島本は「とり/\し給事は」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「とりどりにしたまふことは」と格助詞「に」を補訂する。朱雀帝の治世。母弘徽殿皇太后と祖父大臣に牛耳られているありさま。
2.4.2 注釈156 【わりなくてと、おぼつかなくはあらず】 大島本は「わりなくてと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『完訳』は諸本に従って「わりなくても」と訂正する。無理をなさりつつも長い途絶えがあるわけではない、の意。
2.4.2 注釈157 【五壇の御修法】 五大尊(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利夜叉王・金剛夜叉王)を安置する壇を設けて行う修法。天皇や国家に重大事のある時に行う。ここでの重大事が何であるかは不明。
2.4.2 注釈158 【かの、昔おぼえたる細殿の局に】 源氏と朧月夜の君が初めて逢った弘徽殿の細殿(「花宴」)。
2.4.2 注釈159 【中納言の君】 朧月夜の君づきの女房。
2.4.2 注釈160 【そら恐ろしうおぼゆ】 『完訳』は「空から見られるような恐怖心」という。
2.4.3 注釈161 【朝夕に見たてまつる人だに、飽かぬ御さまなれば】 以下「いかでかはおろかならむ」まで、『細流抄』は「草子地也」と指摘。「だに」「まして」「いかでかは」「おろかならむ」の文脈は、語り手の感情移入による表現。
2.4.3 注釈162 【女の御さまも、げにぞめでたき御盛りなる】 「も」「げにぞ」、語り手の他の人の意見に同意して「なるほど」というニュアンス。
2.4.3 注釈163 【重りかなるかたは、いかがあらむ】 語り手の批評の挿入句。『完訳』は「女の理性的な弱さとともに、男女の交感を語りこめる」と注す。
2.4.5 注釈164 【宿直申し、さぶらふ】 宿直奏の上司に姓名を申告する言葉。宮中の夜間の警備は、戌、亥、子までを左近衛府、丑、寅、卯までを右近衛府が担当する。ここは夜明け間近であるから、右近衛府の官人。源氏は右大将。
2.4.6 注釈165 【声づくるなり】 「なり」(伝聞推定の助動詞)。源氏は細殿の中で聞いている。
2.4.6 注釈166 【また、このわたりに隠ろへたる近衛司ぞあるべき。腹ぎたなきかたへの教へおこするぞかし】 源氏の心中。自分以外にもこの近くに忍んで来ている近衛の官人がいるのだろう、たちの悪い同僚が教えて寄こしたのだろう、の意。
2.4.6 注釈167 【をかしきものから、わづらはし】 源氏の心中と語り手の批評が一体化した表現。
2.4.8 注釈168 【寅一つ】 宿直奏の声。寅の刻を午前四時から六時までとすれば、寅の一刻は四時から四時半まで。
2.4.9 注釈169 【申すなり】 「なり」(伝聞推定の助動詞)。源氏は細殿の中で聞いている。
2.4.10 注釈170 【心からかたがた袖を濡らすかな--明くと教ふる声につけても】 朧月夜の贈歌。「あく」に「明く」と「飽く」を掛け、「かたがた袖を濡らす」といって、別れの辛さと源氏の冷淡さを嘆き訴える。
2.4.11 注釈171 【はかなだちて、いとをかし】 語り手の批評の弁。
2.4.12 注釈172 【嘆きつつわが世はかくて過ぐせとや--胸のあくべき時ぞともなく】 源氏の返歌。「よ」に「世」と「夜」、「あく」に「明く」と「飽く」を掛ける。『完訳』は「恋ゆえの無明の鬱情であるとして切り返した」という。
2.4.14 注釈173 【夜深き暁月夜の、えもいはず霧りわたれるに、いといたうやつれて、振る舞ひなしたまへるしも、似るものなき御ありさまにて】 源氏の朝帰りの様。一幅の絵になる場面。夜明けにはまだ間のある残月の細くかかった空、霧が趣深く立ちこめている中を、忍び姿の源氏が帰って行く様子。
2.4.14 注釈174 【藤壺より出でて】 藤壺方の女房のもとにいたもの。この時の藤壺の住人は誰か不明。
2.4.14 注釈175 【知らで過ぎたまひけむこそいとほしけれ】 語り手の源氏への同情。
2.4.14 注釈176 【もどききこゆるやうもありなむかし】 語り手の推測。『岷江入楚』は「やうやう須磨の巻をかき出すへき序也草子地歟」と指摘。
2.4.15 注釈177 【もて離れつれなき人の御心を】 藤壺をさす。

第三章 藤壺の物語 塗籠事件


第一段 源氏、再び藤壺に迫る

3.1.1 注釈178 【内裏に参りたまはむことは、うひうひしく、所狭く思しなりて】 主語は藤壺。以下、藤壺の心中に即した叙述。
3.1.1 注釈179 【なほ、この憎き御心のやまぬに】 大島本は朱筆で「猶このにくき御心のやまぬに」を補入する。
3.1.1 注釈180 【いささかもけしきを御覧じ知らずなりにしを思ふだに】 桐壺院が源氏との関係を少しも御存知ならずじまいであった、と藤壺は思う。以下「よからぬこと出で来なむ」まで、藤壺の心中叙述。
3.1.1 注釈181 【春宮の御ために】 大島本は「に」を補入する。
3.1.1 注釈182 【御祈りをさへせさせて】 『集成』は「『伊勢物語』六十五段の、男が、自分の恋慕の思いがなくなるようにと、仏神に祈り、祓えまでしたという話を念頭に置いたものでろう」と注す。
3.1.1 注釈183 【いかなる折にかありけむ、あさましうて】 語り手の挿入句。
3.1.2 注釈184 【まねぶべきやうなく】 筆に尽くしがたいほど言葉巧みにという語り手の謙辞。
3.1.2 注釈185 【命婦、弁などぞ】 「若紫」巻で源氏を手引した王命婦と藤壺の乳母子の弁。
3.1.2 注釈186 【男は】 『完訳』は「理不尽な恋におぼれた源氏を「男」と呼ぶのに対し、自制的にふるまう藤壺「宮」と呼ぶ点に注意」と注す。
3.1.2 注釈187 【来し方行く先、かきくらす心地して】 『集成』は「過去も未来も真暗になったような気がして。激しい悲しみに心がとざされた状態の形容」と注す。
3.1.3 注釈188 【押し入れられて】 大島本は「れ」を補入する。
3.1.6 注釈189 【思しもかけず】 主語は藤壺。
3.1.6 注釈190 【かくなむとも】 源氏がまだいるということをさす。
3.1.6 注釈191 【申さぬなるべし】 「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)。語り手が女房たちの気持ちを推測したもの。
3.1.6 注釈192 【宮もまかでたまひなどして】 「も」(係助詞)「など」は、同類のものがあるニュアンス。中宮大夫が先に帰って、最後に身内の兵部卿宮が帰ったりなどしての意。
3.1.6 注釈193 【例もけ近くならさせたまふ人少なければ】 藤壺の御前は常に人少なであるという。
3.1.7 注釈194 【いかにたばかりて、出だしたてまつらむ。今宵さへ、御気上がらせたまはむ、いとほしう】 王命婦の心中。 【いとほしうなど】-大島本は朱筆で「なと」を補入する。
3.1.8 注釈195 【うちささめき扱ふ】 弁にささやいたものであろう。
3.1.9 注釈196 【めづらしくうれしきにも】 明るい中で藤壺の顔を見るのは少年の日以来のことである。
3.1.10 注釈197 【なほ、いと苦しうこそあれ。世や尽きぬらむ】 藤壺の独り言。
3.1.11 注釈198 【御くだものをだに】 女房の詞を間接引用。
3.1.11 注釈199 【なつかしきさまにて】 つい手が出したくなるようなの意。
3.1.11 注釈200 【世の中をいたう思し悩めるけしきにて】 源氏との仲を悩む。
3.1.11 注釈201 【いみじうらうたげなり】 『集成』は「とても弱々しい感じである」の意に解す。
3.1.11 注釈202 【髪ざし、頭つき、御髪のかかりたるさま、限りなき匂はしさなど、ただ、かの対の姫君に違ふところなし】 紫の君を「対の姫君」と呼称。『完訳』は「北山での発見以来、藤壺の形代としてきたが、あらためてその酷似を確認し感動を深める」と注す。
3.1.11 注釈203 【年ごろ、すこし思ひ忘れたまへりつるを】 『集成』は「長年、少し(紫の上が藤壺に似ていることを)忘れていられたのに。藤壺に対面する機会がなかったため、二人がよく似ていることを思い起さなかったのである」と注す。
3.1.11 注釈204 【あさましきまでおぼえたまへるかな】 大島本は「つ」をミセケチにして「へ」と訂正する。源氏の感想。
3.1.11 注釈205 【すこしもの思ひのはるけどころある心地したまふ】 紫の君が藤壺に酷似していることを再確認して、物思いを晴らすあてがあるようだと、源氏は思う。
3.1.12 注釈206 【気高う恥づかしげなるさまなども】 大島本は朱筆で「かしけなる」を補入する。
3.1.12 注釈207 【なほ、限りなく昔より思ひしめきこえてし心の思ひなしにや】 語り手が源氏の心を推量した挿入句。
3.1.12 注釈208 【さまことに、いみじうねびまさりたまひにけるかな】 源氏の藤壺を見ての感想。歳月の経過を思わせる。
3.1.12 注釈209 【かかづらひ入りて】 まつわりつくように入り込む。
3.1.12 注釈210 【御衣の褄を引きならしたまふ】 『集成』は「藤壺のお召し物の褄を引き動かしなさる」の意に解し、『完訳』は「自分の衣服の端を引いて衣ずれの音をさせ、藤壺に気づかせる」の意に解す。
3.1.12 注釈211 【見だに向きたまへかし】 源氏の心中。せめて振り向いて下さいの意。
3.1.12 注釈212 【心やましうつらうて】 『集成』は「うらめしう」、『完訳』は「じれったく情けない気がして」の意に解す。
3.1.12 注釈213 【御髪の取り添へられたりければ】 『完訳』は「御衣とともに髪の一部も源氏につかまり、逃れがたい運命を思う。「心憂し」は、わが身のつたなさを思う気持で、「宿世」に重なる。若紫以来の思念」と注す。
3.1.13 注釈214 【まことに心づきなし】 藤壺の心。
3.1.14 注釈215 【心地の、いと悩ましきを。かからぬ折もあらば、聞こえてむ】 藤壺の詞。
3.1.16 注釈216 【さすがに、いみじと聞きたまふふしもまじるらむ】 藤壺の心中を推量した語り手の挿入句。『岷江入楚』所引三光院実枝が「作者のをしはかりにかけり」と指摘。
3.1.16 注釈217 【あらざりしことにはあらねど、改めて】 子まで生した仲をいう。『完訳』は「源氏との過失をさす。今回も情交があったらと仮定」という。
3.1.18 注釈218 【ただ、かばかりにても、時々、いみじき愁へをだに、はるけはべりぬべくは、何のおほけなき心もはべらじ】 源氏の訴え。
3.1.19 注釈219 【など、たゆめきこえたまふべし】 語り手の推測を交えた表現。『首書源氏物語』所引或抄は「草子の地よりをしはかりたる也」と指摘。
3.1.19 注釈220 【なのめなることだに、かやうなる仲らひは、あはれなることも添ふなるを、まして、たぐひなげなり】 「だに」「まして」の呼応、「添ふ」「なる」(伝聞推定の助動詞)「なり」(断定の助動詞)、語り手の感慨を交えた表現。「細流抄」は「草子地也」と指摘、『評釈』は「語り手は今宵の仕儀にも感嘆する」という。
3.1.20 注釈221 【二人して】 王命婦と弁とをさす。
3.1.20 注釈222 【いみじきことどもを聞こえ】 このまでは大変な事になると帰宅を促す。
3.1.21 注釈223 【世の中にありと聞こし召されむも】 大島本は「あり」の「り」が「可」と読める字体であるのを朱筆で抹消して傍らに「里」と訂正する。以下「罪となりはべりぬべきこと」まで、源氏の執心の限りの恨みをこめた詞。「あり」はこの世に源氏が生きていることをいう。それを聞かれるのがまことに「恥づかし」。
3.1.21 注釈224 【やがて亡せはべりなむも】 「む」(推量の助動詞)仮定の意。
3.1.21 注釈225 【この世ならぬ罪となりはべりぬべきこと】 自分にとって現世執着ゆえに往生の妨げとなる意。
3.1.22 注釈226 【思し入れり】 大島本は朱筆で「る」(累)を抹消し傍らに「り」(里)と訂正する。
3.1.23 注釈227 【逢ふことのかたきを今日に限らずは--今幾世をか嘆きつつ経む】 源氏の贈歌。「かたき」に「難き」と「敵」を掛ける。「いまいく世」は生まれ変わる生々世々。
3.1.24 注釈228 【御ほだしにもこそ】 和歌に添えた詞。『完訳』は「当時の仏教観では、自分の執着は相手の往生の妨げともなる」と注す。
3.1.26 注釈229 【長き世の恨みを人に残しても--かつは心をあだと知らなむ】 藤壺の返歌。『完訳』は「「ながき世」が源氏の「いま幾世」とに照応。「あだ」は源氏の「かたき」の類語「かたき」からの連想、源氏を移り気の人として切り返す」という。「なむ」(希望の助動詞)、心はまた一方ですぐに変わるものと御承知下さいの意。

第二段 藤壺、出家を決意

3.2.1 注釈230 【いづこを面にてかは、またも見えたてまつらむ】 以下「思し知るばかり」まで、源氏の心中。
3.2.1 注釈231 【籠もりおはして】 大島本は朱筆で「る」(留)を抹消し傍らに「り」(里)と訂正する。
3.2.1 注釈232 【いみじかりける人の御心かな】 源氏の藤壺に対する感想。
3.2.1 注釈233 【心魂も失せにけるにや】 語り手の疑問また源氏自身の内省を差し挟んだような挿入句。
3.2.1 注釈234 【なぞや、世に経れば憂さこそまされ】 源氏の気持ち。『源氏釈』は「世に経れば憂さこそまされみ吉野の岩のかけ道踏みならしてむ(古今集雑下、九五一、読人しらず)を指摘する。
3.2.1 注釈235 【思し立つには】 出家をさす。
3.2.1 注釈236 【この女君のいとらうたげにて】 大島本は「に」を補入する。紫の君をさす。
3.2.1 注釈237 【振り捨てむこと、いとかたし】 紫の君を捨てて出家をすることはできない、というのが源氏の心。
3.2.2 注釈238 【御心置きたまはむこと、いとほしく】 以下「思し立つこともや」まで、藤壺の心中。
3.2.2 注釈239 【さすがに苦しう思さるべし】 そうはいっても無碍に源氏を遠ざけることのできない藤壺の心境を、語り手が「思さるべし」と推量した文。
3.2.3 注釈240 【かかること絶えずは】 以下「位をも去りなむ」まで、藤壺の心中。
3.2.3 注釈241 【のたまふなる】 「なる」伝聞推定の助動詞。
3.2.3 注釈242 【なのめならざりしを】 並大抵の御配慮ではなかったの意。『集成』は「弘徽殿の大后を越えて藤壺を中宮に立てたのは、東宮の後楯にしようとの思し召しであった」と注す。
3.2.3 注釈243 【よろづのこと、ありしにもあらず】 以下「身にこそあめれ」まで、藤壺の心中。
3.2.3 注釈244 【戚夫人の見けむ目のやうに】 漢高祖の戚夫人は、高祖に寵愛され、子の趙王を太子に立てようとしたが、高祖が崩御して後に、呂太后の子孝恵が即位すると、母子ともに囚えられ虐殺された(史記、呂后本紀)。『完訳』は「物語の状況や人間関係なども、この史実に類似」と注す。
3.2.4 注釈245 【むげに、思し屈しにける】 源氏の態度をいう。
3.2.4 注釈246 【心知るどちは】 王命婦と弁である。
3.2.5 注釈247 【宮は、いみじううつくしうおとなびたまひて】 春宮、この時六歳。
3.2.5 注釈248 【めづらしううれし】 春宮の気持ち。
3.2.5 注釈249 【かなし】 藤壺の気持ち。いとしい。
3.2.7 注釈250 【御覧ぜで、久しからむほどに】 以下「思さるべき」まで、藤壺の詞。
3.2.7 注釈251 【容貌の異ざまにて】 出家した姿をいう。
3.2.9 注釈252 【式部がやうにや。いかでか、さはなりたまはむ】 春宮の詞。「いかでか--む」は反語構文。『完訳』は「東宮づきの、見なれた女房であろう。異様な格好の人物として想起されたが、老齢ゆえの異様さであることが後の叙述から分る」と注す。
3.2.10 注釈253 【いふかひなくあはれにて】 『集成』は「(あまりのいわけなさに)力が脱け、胸がしめつけられるようで」の意に解す。『完訳』は「出家の悲愴な決意を理解しえない東宮の幼さが頼りなく不憫」と注す。
3.2.11 注釈254 【それは、老いてはべれば醜きぞ】 以下「いとど久しかるべきぞ」まで、藤壺の詞。
3.2.11 注釈255 【髪はそれよりも短くて】 大島本は朱筆で「も」をミセケチにして傍らに「て」と訂正する。
3.2.13 注釈256 【久しうおはせぬは、恋しきものを】 春宮の詞。
3.2.14 注釈257 【ただかの御顔を脱ぎすべたまへり】 源氏に生き写しであるという。『古典セレクション』は「抜きすべたまへり」と整定し、「抜いて移しかえる、の意と解すべきであろう。通説は「脱ぎ」をあてて、脱いで移しかえる意。また「脱ぎ据ゑ」とする説もある。いずれにせよ、酷似するさまをいう」と注する。
3.2.14 注釈258 【御歯のすこし朽ちて、口の内黒みて、笑みたまへる薫りうつくしきは、女にて見たてまつらまほしうきよらなり】 子供の虫歯のかわいらしさと、美しさを「女にて」「きよら」と表現する。
3.2.14 注釈259 【いと、かうしもおぼえたまへるこそ、心憂けれ】 藤壺の感想。
3.2.14 注釈260 【世のわづらはしさの、空恐ろしうおぼえたまふなりけり】 『岷江入楚』所引三光院実枝説は「草子地なり」と指摘。

第四章 光る源氏の物語 雲林院参籠


第一段 秋、雲林院に参籠

4.1.1 注釈261 【大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど】 源氏は東宮を。
4.1.1 注釈262 【あさましき御心のほどを、時々は、思ひ知るさまにも見せたてまつらむ】 源氏の心中。
4.1.1 注釈263 【秋の野も見たまひがてら、雲林院に詣でたまへり】 紫野にある寺院。もと淳和天皇の離宮、仁明天皇の皇子常康親王が伝領し出家して寺院となった。村上天皇の時には勅願によって堂塔が建てられ、重んじられた寺。
4.1.2 注釈264 【故母御息所の御兄の律師】 母桐壺更衣の兄。源氏の伯父に当たる。
4.1.3 注釈265 【秋の野のいとなまめきたるなど】 『休聞抄』は「秋の野になまめき立てる女郎花あなかしがまし花も一時」(古今集俳諧、一〇一六、僧正遍昭)を指摘する。
4.1.3 注釈266 【論議】 問答形式による経文の義の議論。
4.1.3 注釈267 【所からに、いとど世の中の常なさを思し明かしても】 源氏、所柄いっそう世の無常を感じるが、藤壺が思い出され、出家には踏み切れない。藤壺執心を語る。
4.1.3 注釈268 【憂き人しもぞ」と、思し出でらるるおし明け方の月影に】 『源氏釈』は「天の戸を押し明け方の月見れば憂き人しもぞ恋しかりける」(新古今集恋四、一二六〇、読人しらず)を指摘。「憂き人」は藤壺をさす。やはり藤壺が恋しいの意。
4.1.3 注釈269 【はかなげなれど】 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「はかなけれど」と校訂する。
4.1.4 注釈270 【このかたのいとなみは】 以下「もてなやむかな」まで、源氏の思念。しかし、地の文が自然と源氏の心中文となっていく形態の文章。前半は、出家生活への憧れ。
4.1.4 注釈271 【さも、あぢきなき身をもて悩むかな】 反転して、我が人生を顧みる。「若紫」巻にも出家生活への憧れと「わが罪のほど恐ろしう、あぢきなきことに心をしめて」という反省が語られていた。
4.1.6 注釈272 【念仏衆生摂取不捨】 律師の経文の声。『観無量寿経』の文句。念仏を唱える衆生は皆受け入れて捨てない、という意。
4.1.7 注釈273 【うちのべて】 声を長く引いての意。
4.1.7 注釈274 【行なひたまへるは、いとうらやましければ】 大島本は「をこなひ給へるハ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「行ひたまへるが」と校訂する。源氏の出家生活への憧れ。北山以来持ち続けていた。
4.1.7 注釈275 【なぞや」と思しなるに、まづ、姫君の心にかかりて思ひ出でられたまふぞ】 『集成』は「なぜ出家できないのか、そんなはずはない、というお考えになられるにつけて」の意に解す。「葵」巻にも「憂しと思ひしみにし世もなべて厭はしうなりたまひて、かかる絆だに添はざらましかば、願はしきさまにもなりなましと思すには、まづ対の姫君のさうざうしくてものしたまふらむありさまぞ、ふと思しやらるる」とあった。
4.1.7 注釈276 【いと悪ろき心なるや】 語り手の源氏の心を批評。『岷江入楚』が「草子の評也」と指摘。『完訳』は「語り手の評。読者の非難を先取りしながら、源氏の苦衷を暗示」と注す。
4.1.8 注釈277 【御文ばかりぞ、しげう聞こえたまふめる】 源氏は雲林院から二条院の紫の君のもとに手紙を頻繁に通わしていた。「める」(推量の助動詞)、語り手の主観的推量のニュアンス。
4.1.9 注釈278 【行き離れぬべしやと、試みはべる道なれど】 以下「やすらひはべるほどをいかに」まで、源氏の手紙文。「行き離れぬべしや」を『集成』は「俗世が捨てられるだろうか」の意に解す。
4.1.9 注釈279 【聞きさしたること】 まだ教えを聞き残した所があるの意。
4.1.9 注釈280 【やすらひはべるほど、いかに】 大島本は「やすらひ侍ほといかに」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「はべるほどを」と格助詞「を」を補訂する。
4.1.10 注釈281 【陸奥紙】 白く厚ぼったい雑用向きの用紙。
4.1.11 注釈282 【浅茅生の露のやどりに君をおきて--四方の嵐ぞ静心なき】 源氏の贈歌。紫の君の身の上が心配でならないの意。『完訳』は「「あさぢふの露」が「四方のあらし」に吹き散る景に、世の「常なさを思しあか」す源氏の心を象徴」と指摘。
4.1.12 注釈283 【白き色紙に】 白色の薄様の紙。陸奥紙の白色に応じたもの。
4.1.13 注釈284 【風吹けばまづぞ乱るる色変はる--浅茅が露にかかるささがに】 紫の君の返歌。「色変はる」に源氏の心変わりをいい、「ささがに」(蜘蛛の糸)は自分をいう。源氏を頼りに生きているという意。
4.1.14 注釈285 【とのみありて】 大島本は「とのミありて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「とのみあり」と校訂する。
4.1.14 注釈286 【御手はいとをかしうのみなりまさるものかな】 源氏の感想。紫の君の筆跡の上達を思う。
4.1.15 注釈287 【常に書き交はしたまへば】 大島本は朱筆で「に」を補入する。
4.1.15 注釈288 【何ごとにつけても、けしうはあらず生ほし立てたりかし】 源氏の感想。

第二段 朝顔斎院と和歌を贈答

4.2.1 注釈289 【吹き交ふ風も近きほどにて、斎院にも聞こえたまひけり】 源氏、朝顔斎院と和歌を贈答。朝顔姫君は今年春に斎院に卜定された。一年目は宮中の初斎院にいるはずだが、今、紫野にいる。本来、紫野には二年目に移るべきもの。何かの事情で早まったものか。
4.2.2 注釈290 【かく、旅の空になむ】 以下「あらじかし」まで、源氏の斎院への手紙文。
4.2.4 注釈291 【かけまくはかしこけれどもそのかみの--秋思ほゆる木綿欅かな】 源氏の朝顔斎院への贈歌。「そのかみの秋」は物語に直接語られていないが、「帚木」巻の「式部卿宮の姫君に朝顔奉り給ひし歌など」とあったことをさすか。昔が思い出されて恋しいの意。
4.2.5 注釈292 【昔を今に】 以下「もののやうに」まで、和歌に添えた言葉。『源氏釈』は「いにしへのしづのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」(伊勢物語)を指摘する。
4.2.5 注釈293 【とり返されむもののやうに】 『一葉抄』は「取り返すものにもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ」(出典未詳)を指摘する。
4.2.6 注釈294 【なれなれしげに】 『集成』は「事あり顔に」の意に、また『完訳』は「いかにも心やすげに」の意に解す。
4.2.6 注釈295 【唐の浅緑の紙に、榊に木綿つけなど】 榊の緑色に合わせて浅緑色の唐紙を用いた。
4.2.8 注釈296 【紛るることなくて】 以下「かひなくのみなむ」まで、中将君の手紙の返事。
4.2.10 注釈297 【そのかみやいかがはありし木綿欅--心にかけてしのぶらむゆゑ】 朝顔斎院の返歌。「そのかみ」「木綿襷」の語句を引用して返す。
4.2.11 注釈298 【近き世に】 返歌に添えた言葉。引歌があるらしいが不明。
4.2.13 注釈299 【御手、こまやかにはあらねど、らうらうじう】 『集成』は「味わいがあるというのではないが、巧みで」の意に、また『完訳』は「繊細な美しさではないけれども、書きなれた巧みさで」の意に解す。
4.2.13 注釈300 【草などをかしうなりにけり。まして、朝顔もねびまさりたまへらむかし】 大島本は「ねひまさり給へらむかし」とある。『新大系』『古典セレクション』は底本のまま(「たまへ」「ら」「む」「かし」)とする。『集成』は「たまふらむかし」と校訂する。源氏の想像。「朝顔」という呼称は「帚木」巻に「式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし」云々を受ける。
4.2.13 注釈301 【思ほゆるも、ただならず、恐ろしや】 大島本は元の文字を擦り消して「とおもほゆるも」と重ね書きをする。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「思ひやるも」と校訂する。「恐ろしや」は語り手の感情移入の表現。
4.2.14 注釈302 【あはれ、このころぞかし。野の宮のあはれなりしこと】 源氏の心中。昨年の秋、御息所との別離を思い出す。
4.2.14 注釈303 【あやしう、やうのもの」と、神恨めしう思さるる御癖の、見苦しきぞかし】 「やうのもの」とは同様のものの意。『完訳』は「同じ秋に神域の女に心をうごかすという奇妙な類似」と注す。この前後、源氏の心中を語りながら、それに対する語り手の批評が語られる(以下「あいなきことなりかし」まで)。『集成』は「「あやしう」以下、草子地。「かし」は読者(聴き手)に念を押す気持を表す強意の助詞」と注す。
4.2.14 注釈304 【今は悔しう思さるべかめるも、あやしき御心なりや】 「べか」「める」「あやしき」「なり」「や」の語句は語り手の感情移入による表現。草子地といわれるゆえん。源氏の性格に対する批評の言である。『完訳』は「このあたり、語り手の評言を多用。非難を先取りしながら、源氏固有の色好み像を造型」と注す。
4.2.15 注釈305 【えしももて離れきこえたまふまじかめり】 「まじか」「めり」も語り手の推量に基づく表現。
4.2.15 注釈306 【すこしあいなきことなりかし】 語り手の朝顔斎院の態度に対する批評の言。
4.2.16 注釈307 【六十巻といふ書、読みたまひ】 「六十巻」は天台六十巻の教典をさす。『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』(各十巻)とその注釈『法華玄義疏記』『法華文句疏記』『止観輔行伝弘決』(各十巻)をさす。
4.2.16 注釈308 【山寺には、いみじき光行なひ出だしたてまつれり】 雲林院の僧たちの言葉。ただし、「山寺には」が地の文か詞の文かは不分明。『完訳』は「山寺には」の下に読点を付す。源氏の雲林院来臨を最高の言葉で表して喜んだもの。
4.2.16 注釈309 【仏の御面目あり】 僧侶たちの言葉。『完訳』は「仏の御面目が立つこと」の意に解す。
4.2.16 注釈310 【人一人の御こと思しやるがほだしなれば】 紫の君をさす。一説には藤壺をさすという説もある。世の無常を思い仏道修業に勤しむことよりも紫の君の身の上が心にかかることとして大事であるという源氏。
4.2.16 注釈311 【御誦経いかめしうせさせたまふ】 御誦経に対するお布施を盛大におさせになるの意。
4.2.16 注釈312 【このもかのもに】 歌ことばをかりた表現。『原中最秘抄』は「筑波嶺のこのもかのもに蔭はあれど君がみかげにますかげはなし」(古今集東歌、一〇九五)を指摘する。
4.2.16 注釈313 【しはふるひどもも】 「しはふるひともゝ」(大横池)、「しはふる人ともゝ」(榊)、「しはふるひとゝも」(三)、「しはふるい人とも」(肖書)という異同がある。語義不明。
4.2.16 注釈314 【黒き御車のうちにて、藤の御袂にやつれたまへれば】 源氏の父桐壺院の喪に服している姿。

第三段 源氏、二条院に帰邸

4.3.1 注釈315 【あいなき心のさまざま乱るるや】 以下「らうたう」まで、源氏の心中を地の文で語る。『集成』は「(藤壺に焦がれる)自分の困った心の、あれこれ思い乱れる様子がはっきり(紫の上に)分るのか」の意に解す。
4.3.1 注釈316 【色変はる】 紫の君の返歌「風吹けばまづぞ乱るる色変はる浅茅が露にかかるささがに」の言葉。
4.3.2 注釈317 【山づとに持たせたまへりし】 源氏、山の紅葉を土産に持ち帰る。
4.3.2 注釈318 【おぼつかなさも、人悪るきまでおぼえたまへば】 大島本は「人悪るきまで」について、朱筆で「は(者)」をミセケチにして傍らに墨筆で「わ(王)」と訂正し、「る(流)」「きまて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は、諸本に従って「人わろき」と校訂する。藤壺への御無沙汰。
4.3.3 注釈319 【入らせたまひにけるを、めづらしきことと】 以下「御覧ぜさせたまへ」まで、源氏の手紙文。「入らせたまひにける」は藤壺が宮中に参内なさったの意。
4.3.3 注釈320 【宮の間の事】 春宮の後見に関する事。
4.3.3 注釈321 【心ならずや】 「打ち切らむ」などの語句が省略。
4.3.3 注釈322 【紅葉は、一人見はべるに、錦暗う】 『源氏釈』は「見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり」(古今集秋下、二九七、紀貫之)を指摘する。
4.3.5 注釈323 【げに、いみじき】 「げに」は藤壺と語り手の感想が一体化した表現。
4.3.5 注釈324 【御目とまるに】 主語は藤壺。
4.3.5 注釈325 【いささかなるもの】 源氏からの手紙。
4.3.6 注釈326 【なほ、かかる心の】 以下「見るらむかし」まで、藤壺の心中。

第四段 朱雀帝と対面

4.4.1 注釈327 【すくよかなる】 『集成』は「堅苦しい」の意に、また『完訳』は「他人行儀な」の意に解す。
4.4.1 注釈328 【さも心かしこく、尽きせずも】 源氏の感想。『集成』は「なんと冷静に、どこまでも(自分につれなくなさることか)」の意に解す。『完訳』は「源氏は、自分の恋慕を巧みに避ける藤壺の態度を、賢明で、どこまでも用心深いと受けとめる」と注す。
4.4.1 注釈329 【人あやしと、見とがめもこそすれ】 源氏の心中。
4.4.1 注釈330 【まかでたまふべき日、参りたまへり】 藤壺が宮中を退出する日に源氏は参内した。
4.4.2 注釈331 【まづ、内裏の御方に参りたまへれば】 源氏、朱雀帝の御前に参上。
4.4.2 注釈332 【御容貌も、院にいとよう似たてまつりたまひて、今すこしなまめかしき気添ひて、なつかしうなごやかにぞおはします】 朱雀帝像。
4.4.3 注釈333 【尚侍の君】 朧月夜尚侍。この二月に任官。
4.4.3 注釈334 【絶えぬさまに聞こし召し、けしき御覧ずる折もあれど】 主語は帝。
4.4.4 注釈335 【何かは】 以下「あはひなりかし」まで、帝の心中。
4.4.4 注釈336 【今はじめたることならばこそあらめ】 「こそ」「あらめ」は逆接の文脈。朱雀帝が源氏と朧月夜尚侍との関係を咎めない理由。 【こそあらめ】-青表紙諸本、以下「ありそめにけることなれは」とある。大島本はナシ。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』等は「ありそめにけることなれば」を補入する。
4.4.5 注釈337 【思しなして】 「なす」があることによって、しいてそう思うというニュアンス。
4.4.5 注釈338 【咎めさせたまはざりける】 大島本は朱筆で「給」を補入する。
4.4.6 注釈339 【文の道】 学問上の事。漢籍の学問。
4.4.6 注釈340 【問はせたまひて】 大島本は朱筆で「か(可)」をミセケチにし傍らに「ハ(八)」と訂正する。帝が源氏に御下問あそばし、それに対して、源氏が帝にお答え申し上げるという形式である。
4.4.6 注釈341 【好き好きしき歌語りなども、かたみに聞こえ交はさせたまふついでに】 歌にまつわる恋愛話。お互いの体験談へと話が移る。『完訳』は「恋の話題、とりわけ帝と斎宮、源氏と御息所の神を恐れぬ不謹慎な秘事に及び、二人はいよいよ親密。「かたみに」の繰返しにも注意」と注す。
4.4.6 注釈342 【みな聞こえ出でたまひてけり】 「て」(完了の助動詞、確述)「けり」(過去の助動詞)は、そこまではしなくともよいのに、してしまったのである、という語り手の強調のニュアンスが加わる。『完訳』は「秘すべき内容なのに、の気持」と注す。
4.4.7 注釈343 【二十日の月、やうやうさし出でて】 九月二十日の月。午後十時頃に出る。
4.4.8 注釈344 【遊びなども、せまほしきほどかな】 帝の詞。
4.4.10 注釈345 【中宮の、今宵、まかでたまふなる】 以下「思ひたまへられはべりて」まで、源氏の返事。帝の提案を断る。
4.4.11 注釈346 【と奏したまふ】 大島本は朱筆で「こ(己)」をミセケチにし傍らに「う(宇)」と訂正する。
4.4.12 注釈347 【春宮をば、今の皇子になしてなど、のたまはせ置きしかば】 以下「面起こしに」まで、帝の詞。桐壺院が春宮を朱雀帝の養子にするようにとの遺言をいう。春宮の立派さを褒める。 【今の皇子になして】-自分の養子にするようにとの意。
4.4.12 注釈348 【ことにさしわきたるさまにも、何ごとをかは】 特別に何をして上げるということもなく、すでにれっきとした春宮である、の意。
4.4.12 注釈349 【みづからの】 大島本は朱筆で「か」を補入する。
4.4.14 注釈350 【おほかた】 以下「いと片なりに」まで、源氏の詞。
4.4.15 注釈351 【大宮の御兄の藤大納言の子の、頭の弁】 右大臣方の弘徽殿大后の兄弟の藤大納言の子の頭の弁。右大臣も藤原氏であることがわかる。
4.4.15 注釈352 【思ふことなきなるべし】 「べし」(推量の助動詞)は語り手の推量。
4.4.15 注釈353 【妹の麗景殿の御方に行くに】 頭の弁の妹の麗景殿女御。「に」は格助詞、時間または所を表す。行く時に、行くところにの意。
4.4.15 注釈354 【大将の御前駆を忍びやかに追へば】 「の」は格助詞、主格を表す。「ば」は接続助詞、単純な順接を表す。源氏が先払いをひそやかにすると、または、して行くとの意。『集成』は「先払いをひそやかにするので」の意に解す。
4.4.15 注釈355 【しばし立ちとまりて】 主語は頭の弁。
4.4.16 注釈356 【白虹日を貫けり。太子畏ぢたり】 『史記』『漢書』にある文句。源氏が皇太子を擁して帝に謀叛を企てているようだが、成功しないぞと、あてこすって言ったもの。
4.4.17 注釈357 【咎むべきことかは】 語り手の何の非難することもできないという評言。
4.4.17 注釈358 【かう親しき人びとも、けしきだち言ふべかめることどももあるに】 弘徽殿大后のみならず、その近親者までが態度に表して非難しているようだの意。

第五段 藤壺に挨拶

4.5.1 注釈359 【御前にさぶらひて、今まで、更かしはべりにける】 源氏の藤壺への詞。場面は朱雀帝の御前。そこから藤壺方へ挨拶を言上したもの。
4.5.3 注釈360 【昔、かうやうなる折は】 以下「もてなさせたまひし」まで、藤壺の心中。
4.5.3 注釈361 【思し出づるに】 主語は藤壺。
4.5.4 注釈362 【九重に霧や隔つる雲の上の--月をはるかに思ひやるかな】 藤壺から源氏への贈歌。「霧」は帝の周辺の悪意ある人々をいい、「月」は帝をいう。
4.5.6 注釈363 【月影は見し世の秋に変はらぬを--隔つる霧のつらくもあるかな】 源氏の返歌。「霧」「雲」「月」の語句を用い、「月」は宮中の意であるが、また、藤壺の意もこめて、よそよそしくあしらう藤壺に対して、恨めしく思われる、という意を訴える。
4.5.7 注釈364 【霞も人の】 『奥入』は「山桜見に行く道を隔つれば霞も人の心なるべし」(出典未詳)を指摘する。また『紫明抄』は第五句が「人の心なりけり」とある。『後拾遺集』(春上、七八、藤原隆経朝臣)は第五句「人の心ぞ霞なりける」とある。以下「はべりけることにや」まで、和歌に添えた言葉。
4.5.9 注釈365 【深うも思し入れたらぬを】 主語は春宮。
4.5.9 注釈366 【出でたまふまでは起きたらむ】 春宮の心中。
4.5.9 注釈367 【思すなるべし】 「なる」「べし」は語り手の断定と推量。

第六段 初冬のころ、源氏朧月夜と和歌贈答

4.6.1 注釈368 【大将、頭の弁の誦じつることを思ふに】 「白虹日を貫けり、太子畏ぢたり」をさす。
4.6.2 注釈369 【初時雨、いつしかとけしきだつに】 「時雨」は晩秋から初冬の景物。季節は晩秋から初冬に移る。
4.6.2 注釈370 【いかが思しけむ】 挿入句。語り手の推量。『完訳』は「異例の、女からの贈歌に注目する、語り手の言辞」と注す。
4.6.3 注釈371 【木枯の吹くにつけつつ待ちし間に--おぼつかなさのころも経にけり】 朧月夜尚侍から源氏への贈歌。源氏から便りがないことを嘆いた歌。
4.6.4 注釈372 【と聞こえたまへり】 大島本は「と」を墨筆で補入する。
4.6.4 注釈373 【忍び書きたまへらむ】 大島本は朱筆で「つ(川)」をミセケチにし傍らに「へ(部)」と訂正する。『新大系』は訂正に従って「たまへ」を採用する。『集成』『古典セレクション』は訂正以前の形を採用し「たまひつ」とする。
4.6.4 注釈374 【御使とどめさせて】 「させ」は使役の助動詞。
4.6.4 注釈375 【誰ればかりならむ】 女房のささやき。
4.6.4 注釈376 【つきしろふ】 『集成』は「つきじろふ」と濁音で読む。『新大系』『古典セレクション』は「つきしろふ」と清音で読む。
4.6.5 注釈377 【聞こえさせても】 以下「もの忘れしはべらむ」まで、源氏の朧月夜尚侍への返書。
4.6.5 注釈378 【身のみもの憂きほどに】 『源氏釈』は「数ならぬ身のみもの憂くおもほえて待たるるまでもなりにけるかな」(後撰集雑四、一二六〇、読人しらず)を指摘する。
4.6.6 注釈379 【あひ見ずてしのぶるころの涙をも--なべての空の時雨とや見る】 源氏の返歌。
4.6.7 注釈380 【眺めの空も】 「ながめ」は「長雨」と「眺め」の掛詞。「時雨」の縁語。
4.6.8 注釈381 【こまやかになりにけり】 つい情がこもってしまった、という語り手の感情移入の表現。
4.6.9 注釈382 【おどろかしきこゆるたぐひ】 朧月夜尚侍の方から。
4.6.9 注釈383 【多かめれど】 「めり」(推量の助動詞)は、語り手の推量。
4.6.9 注釈384 【御心には深う染まざるべし】 「べし」(推量の助動詞)は語り手の推測。『岷江入楚』所引三光院説が「草子地也」と指摘。源氏の心には。

第五章 藤壺の物語 法華八講主催と出家


第一段 十一月一日、故桐壺院の御国忌

5.1.1 注釈385 【中宮は、院の御はてのことにうち続き】 故桐壺院の一周忌の終わり。喪が明ける。
5.1.1 注釈386 【御八講のいそぎ】 『法華経』全八巻を朝座・夕座の二度、四日間連続講説する法会。
5.1.2 注釈387 【霜月の朔日ごろ、御国忌なるに、雪いたう降りたり】 故桐壺院の御命日、霜月の上旬、一日。
5.1.3 注釈388 【別れにし今日は来れども見し人に--行き逢ふほどをいつと頼まむ】 源氏から藤壺への贈歌。「ゆき」は「雪」と「行き」の掛詞。「行き合ふ」は来世で再会する意。桐壺院に再会しえない悲しみの歌。
5.1.5 注釈389 【ながらふるほどは憂けれど行きめぐり--今日はその世に逢ふ心地して】 藤壺の返歌。「永らふる」は「(雪が)降る」の掛詞、また「雪」の縁語。「ゆき」は「雪」と「行き」の掛詞。源氏が「いつと頼まむ」というのに対して、「今日はその世にあふ心ちして」と、いや、今日は命日で、故院に会えた気がすると答える。
5.1.6 注釈390 【思ひなしなるべし】 「べし」(推量の助動詞)は、源氏の思い入れのせいであろう、という語り手の推量。
5.1.6 注釈391 【筋変はり今めかしうはあらねど、人にはことに書かせたまへり】 藤壺の筆跡を個性的で現代風ではないが、やはり人に優れて格別であるという。
5.1.6 注釈392 【この御ことも思ひ消ちて】 藤壺に対する思慕。

第二段 十二月十日過ぎ、藤壺、法華八講主催の後、出家す

5.2.1 注釈393 【十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり】 藤壺、十二月十日過ぎに御八講を催す。
5.2.1 注釈394 【表紙】 (へうし) 大島本は朱筆で「こし(己之)」を抹消しその傍らに「うし(宇之)」と訂正する。似た字体の誤写訂正である。
5.2.2 注釈395 【初めの日は】 第一日は藤壺の父帝、第二日は母后、第三日は夫桐壺院のため、その朝座は『法華経』第五巻を講じる日なので、上達部他大勢参加。最終日の第四日は自分のために行う。
5.2.2 注釈396 【世のつつましさを】 右大臣方の権勢への遠慮。
5.2.2 注釈397 【薪こる」ほどより】 薪の行道と称して、薪や水桶を持ち、捧物を持って、堂や池の回りを廻り歩きながら、次の和歌を唱える。『異本紫明抄』は「法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し」(拾遺集哀傷、一三四六、大僧正行基)を指摘する。
5.2.2 注釈398 【なほ似るものなし】 大島本は朱筆で「もの」を補入する。
5.2.2 注釈399 【常におなじことのやうなれど、見たてまつるたびごとに、めづらしからむをば、いかがはせむ】 語り手の源氏賞賛の文章。『弄花抄』が「記者詞なり」と指摘。『評釈』は「語り手は、いつもの事なのだが、やはり立派なので、と弁解する。その日その目で源氏の大将を見た女房が、こう弁解するのである」という。
5.2.3 注釈400 【仏に申させたまふに】 「させ」は使役の助動詞。僧をして仏に申し上げさせなさるの意。
5.2.3 注釈401 【あさましと思す】 『集成』は「どうしたことかと」の意に解し、『完訳』は「あまりにも意外なこととお思いになる」の意に解す。
5.2.4 注釈402 【山の座主】 天台座主。比叡山の最高位の僧侶。
5.2.4 注釈403 【御伯父の横川の僧都】 藤壺は先帝の四宮であるから、母方の伯父(叔父)であろう。
5.2.4 注釈404 【御髪下ろしたまふほどに】 大島本は朱筆で「おろし」を補入する。
5.2.5 注釈405 【あはれに尊ければ】 大島本は「あはれたうとけれは」とある。『新大系』『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「あはれに」と「に」を補訂する。
5.2.6 注釈406 【故院の御子たちは】 桐壺院の御子息たち。
5.2.6 注釈407 【大将は、立ちとまりたまひて】 『集成』は「お残りになって」の意に解し、『完訳』は「源氏だけは、茫然自失のあまり、その席を動くことも、言葉をかけることもできない」と注す。
5.2.6 注釈408 【などか、さしも】 大島本は朱筆で「なと」を補入する。どうしてそんなにまで深く悲しんでいるのだろうの意。
5.2.6 注釈409 【親王など】 「親王」は藤壺の兄兵部卿親王を代表的に語ったもの。
5.2.7 注釈410 【月は隈なきに、雪の光りあひたる庭のありさまも、昔のこと思ひやらるるに】 「十二月十余日ばかり」とあった。満月に近い月である。藤壺の心境と冬の夜の清澄な月の光に照らし出された雪の庭の描写は景情一致の表現。後の「朝顔」巻にも見られる。
5.2.7 注釈411 【いと堪へがたう思さるれど】 大島本は朱筆で「ほ」を補入する。
5.2.8 注釈412 【いかやうに思し立たせたまひて、かうにはかには】 源氏の藤壺への詞。急に出家した理由を尋ねる。
5.2.10 注釈413 【今はじめて、思ひたまふることにもあらぬを、ものさわがしきやうなりつれば、心乱れぬべく】 藤壺の返事。ずっと以前から考えていたことであるという。物さはかしきやうなりつれは-先程の藤壺出家の折とみる説と、桐壺院崩御の折と見る説とがある。『集成』『完訳』は前者の説に従って解す。
5.2.12 注釈414 【振る舞ひなして】 「なす」があることによって、ことさら気をつけてのニュアンス。
5.2.13 注釈415 【風、はげしう吹きふぶきて】 風と雪が烈しく吹雪く夜のさま。
5.2.13 注釈416 【黒方】 黒方の香。冬の香。「いと物ふかき」香とある。
5.2.13 注釈417 【名香】 仏に供える香。「煙もほのかなり」とある。
5.2.14 注釈418 【のたまひしさま】 藤壺が出家の意向を伝えたときに、東宮が「式部がやうにや。いかでか、さはなりたまはむ」「久しうおはせぬは、恋しきものを」と言ったことをさす。
5.2.16 注釈419 【月のすむ雲居をかけて慕ふとも--この世の闇になほや惑はむ】 源氏の藤壺への贈歌。「すむ」は「澄む」と「住む」、「この」は「此の」と「子の」、「よ」は「夜」と「世」の掛詞。「人のおやの心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)。『完訳』は「出家の跡を慕いつつも、実子東宮ゆえの心の闇から現世の妄執に迷うとする歌」と注す。
5.2.17 注釈420 【と思ひたまへらるるこそ】 大島本は「と思給ハらるゝ」とある。『新大系』は「と思給はるるこそ」のままとし、語法不審。青表紙諸本多くの「思ひ給うへらるるこそ」に訂正して解すべきか」と注す。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「と思ひたまへらるるこそ」と校訂する。以下「限りなう」まで、歌に添えた言葉。
5.2.17 注釈421 【恨めしさは、限りなう】 大島本は「うらめしさハ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「うらやましさは」と校訂する。
5.2.19 注釈422 【おほふかたの憂きにつけては厭へども--いつかこの世を背き果つべき】 大島本は「おほふかたの」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おほかたの」と校訂する。藤壺の返歌。源氏の「この世」を受けて、「此の」に「子の」を掛け、自分もわが子のことが気掛かりでならないと返す。
5.2.20 注釈423 【かつ、濁りつつ】 歌に添えた言葉。引歌があるらしいが、未詳。『完訳』は「一方では悟りすましつつも、一方では煩悩に悩みつつ」の意に解す。
5.2.21 注釈424 【かたへは御使の心しらひなるべし】 語り手の挿入句。『細流抄』は「草子地也」と指摘。『評釈』は「期待する読者に対し、作者がこう弁解するのである。宮の御自作ではない、と」と注す。『完訳』は「女らしからぬ論理的な歌いぶりに注目」という。

第三段 後に残された源氏

5.3.1 注釈425 【殿にても、わが御方に一人うち臥したまひて】 藤壺出家後、源氏、情勢を思いめぐらす。
5.3.2 注釈426 【母宮をだに】 以下「見たてまつり捨てては」まで、源氏の心中。
5.3.2 注釈427 【朝廷がたざまにと、思しおきしを】 大島本は「おほしをきし越」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「思しおきてしを」と校訂する。故桐壺院が藤壺を。
5.3.2 注釈428 【見たてまつり捨てては】 春宮を。
5.3.3 注釈429 【詳しう言ひ続けむに、ことことしきさまなれば、漏らしてけるなめり】 語り手の弁。「漏らしてける」人は、この語り手の前の語り手。『弄花抄』は「記者筆也」と指摘。『集成』は「源氏がどんな贈り物をしたか、どんなやりとりがあったを書かないことに対する物語筆記者の女房の言い訳。草子地の文」と注す。『完訳』は「以下、語り手が語り漏したとする言辞。省筆により、かえって読者の想像力を喚起」と注す。
5.3.3 注釈430 【かうやうの折こそ、をかしき歌など出で来るやうもあれ、さうざうしや】 語り手の弁。前語り手が歌を伝えてくれなかったことは不満である、という物語作者のポーズ。
5.3.4 注釈431 【参りたまふも、今はつつましさ薄らぎて】 藤壺のもとに参上するにも、出家した身なので、気兼ねも薄らいだという意。

第六章 光る源氏の物語 寂寥の日々


第一段 諒闇明けの新年を迎える

6.1.1 注釈432 【年も変はりぬれば】 源氏二十五歳、桐壺院の諒闇が明ける。
6.1.1 注釈433 【内宴、踏歌など】 内宴は正月下旬の宮廷における公宴。踏歌は、男踏歌が正月十四日の夜、女踏歌が正月十六日夜に、帝の御前を出発して院の御所、中宮御所、春宮御所の順に廻って、宮中に明け方帰ってくる。出家した藤壺には無関係。
6.1.2 注釈434 【見なしにやあらむ】 語り手の挿入句。
6.1.3 注釈435 【白馬ばかりぞ、なほ牽き変へぬものにて、女房などの見ける】 白馬の節会。正月七日の年中行事。
6.1.3 注釈436 【上達部など】 大島本は朱筆で「たち」を補入する。
6.1.3 注釈437 【向かひの大殿に】 二条大路を挟んで、南側に藤壺の三条宮邸、北側に右大臣邸が向かい合っているという設定。
6.1.4 注釈438 【むべも心ある」と】 『源氏釈』は「音に聞く松が浦島今日ぞ見るむべも心あるあまは住みけり」(後撰集雑一、一〇九三、素性法師)を指摘する。
6.1.5 注釈439 【ながめかる海人のすみかと見るからに--まづしほたるる松が浦島】 源氏の贈歌。「ながめ」に「長布」(海藻)と「眺め」、「あま」に「海人」と「尼」を掛ける。「潮垂る」は「海人」の縁語。「松が浦島」は歌枕。
6.1.7 注釈440 【ありし世のなごりだになき浦島に--立ち寄る波のめづらしきかな】 藤壺の返歌。「浦島」を受けて返す。「余波」と「波」は縁語。浦島伝説を踏まえる。
6.1.9 注釈441 【さも、たぐひなく】 以下「心苦しうもあるかな」まで、女房の詞。
6.1.10 注釈442 【さる一つものにて】 「さる」は恵まれた人をさす。そうした人に共通のことでの意。
6.1.10 注釈443 【推し量られたまひしを】 「れ」(受身の助動詞)「給ひ」(尊敬の補助動詞)、源氏が推量されなさったの意。

第二段 源氏一派の人々の不遇

6.2.1 注釈444 【司召のころ】 正月中旬の地方官の除目。源氏、藤壺方の人々、任官にもれる。
6.2.1 注釈445 【かくても、いつしかと】 「かく」は出家をさす。「いつしか」はこうも早くはの意。
6.2.1 注釈446 【御封】 中宮の御封は千五百戸。
6.2.1 注釈447 【わが身をなきになしても、春宮の御代をたひらかにおはしまさば】 藤壺の心中。
6.2.2 注釈448 【人知れず危ふくゆゆしう思ひきこえさせたまふこと】 春宮が帝の実子でなく、本来なら皇位につくべきべきでないのを即位させようとする危険。
6.2.2 注釈449 【我にその罪を軽めて、宥したまへ】 藤壺の心中。わが子春宮が不義の子であるがゆえに生涯負わねばならない罪障。それを自分に負わせて軽減してもらえるよう仏に祈る。
6.2.3 注釈450 【大将も、しか見たてまつり】 源氏も藤壺の心中をそうと理解する。
6.2.3 注釈451 【この殿の人どもも、また】 「また」は藤壺邸に仕える人々同様にの意。
6.2.3 注釈452 【世の中はしたなく思されて】 主語は源氏。
6.2.4 注釈453 【故院のやむごとなく重き御後見】 朱雀帝の心中。左大臣に対する待遇。
6.2.4 注釈454 【長き世のかため】 桐壺院の遺言。左大臣に対する待遇。
6.2.4 注釈455 【捨てがたきものに思ひきこえたまへるに】 主語は朱雀帝。
6.2.4 注釈456 【かひなきこと】 辞表を提出しても受理しない意。
6.2.5 注釈457 【一族のみ】 右大臣一族のみの意。
6.2.5 注釈458 【世の重しとものしたまへる】 左大臣は皇族と姻戚関係のある摂関家的人物でなく、広く国家の重鎮たる人物であった。
6.2.5 注釈459 【心ある限りは】 情理をわきまえた人。
6.2.6 注釈460 【御子どもは、いづれともなく】 左大臣の子息たち。
6.2.6 注釈461 【三位中将】 もとの頭中将。既に「葵」巻に三位中将とある。
6.2.6 注釈462 【かの四の君】 右大臣の四君。「桐壺」巻で頭中将との結婚が語られていた。
6.2.6 注釈463 【なほ、かれがれにうち通ひ】 既に「桐壺」巻に同様に語られている。
6.2.6 注釈464 【めざましうもてなされたれば】 「めざまし」と思うのは右大臣。「もてなす」のは三位中将。「れ」は尊敬の助動詞。つまり右大臣が見てしゃくにさわるように三位中将が四君に対して振る舞うので、の意。
6.2.6 注釈465 【思ひ知れとにや】 語り手の挿入句。右大臣の心を忖度。
6.2.6 注釈466 【このたびの司召にも漏れぬれど】 正月の司召。主として地方官の除目であるが、兼官のことであろうか。
6.2.7 注釈467 【大将殿、かう静かにて】 以下「ましてことわり」まで、三位中将の心中。
6.2.7 注釈468 【見えぬる】 「ぬる」は完了の助動詞。見てしまったというニュアンス。
6.2.7 注釈469 【ましてことわり】 源氏と比較して自分の不遇はまして当然のことの意。
6.2.7 注釈470 【学問をも】 大島本は朱筆で「む」を補入する。
6.2.8 注釈471 【いにしへも、もの狂ほしきまで、挑みきこえたまひしを】 「帚木」「末摘花」「紅葉賀」巻などに語られている。
6.2.9 注釈472 【春秋の御読経】 季の御読経。大勢の僧侶を招いて『大般若経』を転読する行事。当時は宮中のみならず貴族の家でも催された。
6.2.9 注釈473 【文作り、韻塞ぎなどやうのすさびわざども】 作文会(漢詩)、詩の隠してある韻を当てる遊び。
6.2.9 注釈474 【世の中には、わづらはしきことどもやうやう言ひ出づる人びとあるべし】 「べし」(推量の助動詞)は語り手の言辞。『岷江入楚』が「筆者の詞也」と指摘。

第三段 韻塞ぎに無聊を送る

6.3.1 注釈475 【夏の雨、のどかに降りて、つれづれなるころ】 長雨の頃か。「帚木」巻の雨夜の品定めの段と似た季節描写。
6.3.1 注釈476 【持たせて】 「せ」使役の助動詞。三位中将が供人に持たせての意。
6.3.1 注釈477 【選り出でさせたまひて】 「させ」使役の助動詞。源氏が家人をしての意。
6.3.1 注釈478 【その道の人びと】 漢詩文の創作に堪能な人々。
6.3.1 注釈479 【こまどりに】 たとえば、奇数を左方、偶数を右方に、交互に編成するやりかた。
6.3.1 注釈480 【分かせたまへり】 大成異同の記載ナシ。『集成』は「分たせたまへり」とする。
6.3.2 注釈481 【塞ぎもて行くままに】 韻塞ぎの競技が進んで行くにつれての意。
6.3.3 注釈482 【いかで、かうしもたらひたまひけむ】 以下「すぐれたまへるなりけり」まで、人々の詞。源氏の才能を絶賛。
6.3.4 注釈483 【さるべきにて】 前世からの宿縁での意。
6.3.4 注釈484 【人にすぐれたまへるなりけり】 大島本は「人にすくれ給へるなりけり」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「人には」と「は」を補訂する。
6.3.5 注釈485 【右負けにけり】 三位中将方をいう。
6.3.6 注釈486 【中将負けわざ】 負けた方が勝った方に饗応すること。
6.3.7 注釈487 【階のもとの薔薇、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに】 『源氏釈』は『和漢朗詠集』上、首夏(『白氏文集』巻十七、律詩)の「甕の頭の竹葉は春を経て熟す、階の底の薔薇は夏に入つて開けり」を指摘する。「薔薇」は漢詩的景物である。
6.3.8 注釈488 【殿上する】 童殿上する意。
6.3.8 注釈489 【おもしろく】 大島本は「おもろしく」とある。
6.3.8 注釈490 【うつくしびもてあそびたまふ】 主語は源氏。
6.3.8 注釈491 【おぼえことにかしづけり】 主語は世間の人々。『集成』は「特別大切にお仕えしている」と解し、『完訳』は「格別大事に扱っている」と解す。
6.3.8 注釈492 【高砂】 催馬楽、律。「高砂の さいささごの 高砂の 尾上に立てる 白玉玉椿 玉柳 それもがと さむ 汝(まし)もがと 汝もがと 練緒(ねりを)染緒(さみを)の 御衣架(みそかけ)にせむ 玉柳 何しかも さ 何しかも 心もまたいけむ 百合花の さ 百合花の 今朝咲いたる 初花に 逢はましものを さ 百合花の」。呂の音階が中国伝来の正階なのに対して、律の音階は日本的なくだけた音階。
6.3.9 注釈493 【逢はましものを、小百合ばの】 「高砂」の末句。歌詞は「さ百合花の」であるが、実際歌う時は「さゆりばの」となったかという(『湖月抄』師説)。『集成』は「さゆりばの」と濁音、『古典セレクション』は「さゆりはの」の清音に読む。
6.3.9 注釈494 【御土器参りたまふ】 お盃を源氏に差し上げなさる意。
6.3.10 注釈495 【それもがと今朝開けたる初花に--劣らぬ君が匂ひをぞ見る】 三位中将の歌。源氏の美しさを薔薇の花に比して賞賛する。「我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり」(古今集物名、四三六、紀貫之)を踏まえる。
6.3.11 注釈496 【ほほ笑みて、取りたまふ】 主語は源氏。苦笑である。
6.3.12 注釈497 【時ならで今朝咲く花は夏の雨に--しをれにけらし匂ふほどなく】 源氏の返歌。
6.3.13 注釈498 【衰へにたるものを】 和歌に添えた言葉。すっかりだめになってしまったよ、の意。
6.3.14 注釈499 【らうがはしく聞こし召しなすを】 『集成』は「酔いの紛れの言葉とお取りなしになるのを」の意に解す。『完訳』は「中将の歌を出まかせなものと、わざとひがんでおとりになるので」の意に解す。
6.3.14 注釈500 【咎め出でつつ、しひきこえたまふ】 主語は三位中将。相手は源氏。
6.3.15 注釈501 【多かめりし言どもも、かうやうなる折のまほならぬこと、数々に書きつくる、心地なきわざとか、貫之が諌め、たうるる方にて、むつかしければ、とどめつ】 貫之の意見にかこつけた語り手の省筆の文章。『弄花抄』は「記者詞也」と指摘。 【まほならぬこと】-大島本は朱筆で「な」を補入する。 【たうるる方にて】-大島本は「たうるゝかたにて」とあり傍らに「タハフレ」と注す。『集成』『新大系』は「倒るる方」(大勢に順応してというほどの意)と解す。『古典セレクション』は「「たうるる方にて」の語法は不審。本文に損傷があるか。仮に「たふ(倒)るる方にて」(螢巻に用例がある)と解しておく」と注す。
6.3.15 注釈502 【作り続けたり】 大島本は「つくりつけたり」とある。『集成』『新大系』『古典セレクション』は諸本に従って「作り続けたり」と校訂する。
6.3.16 注釈503 【文王の子、武王の弟】 『和漢朗詠集』下、丞相(『史記』魯周公世家、また『本朝文粋』所引)の句。
6.3.17 注釈504 【成王の何」とか、のたまはむとすらむ。そればかりや、また心もとなからむ】 語り手の挿入文。「成王」を春宮に比すとすれば、原文では「成王の叔父」とあるのだが、源氏の実子でるから、そうとは言えない。『集成』は「それだけは自身がおありでないでしょう」の意に解し、「実は、源氏の子であるから、「成王の叔父」とは言えまいという皮肉」と注す。『完訳』は「不義の子東宮のことは、やはり気がかりだろう」と注す。
6.3.18 注釈505 【兵部卿宮】 肖柏本と書陵部本は「帥の宮」とある。『完訳』は「通説では紫の上の父。源氏と親交する趣味人という点で、後の螢兵部卿宮(花宴巻では帥宮)とする説のほうが妥当」と注す。
6.3.18 注釈506 【御遊びどもなり】 大島本は「御あそひともなり」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御あはひどもなり」と校訂する。

第七章 朧月夜の物語 村雨の紛れの密会露見


第一段 源氏、朧月夜と密会中、右大臣に発見される

7.1.1 注釈507 【そのころ、尚侍の君まかでたまへり】 朧月夜尚侍、宮中から里邸に下がる。
7.1.1 注釈508 【例の】 「聞こえ交はしたまひて」にかかる。「交はし」があることによって、源氏と朧月夜が互いに示し合わしての意。
7.1.1 注釈509 【夜な夜な対面したまふ】 毎夜毎夜お逢いになるの意。
7.1.2 注釈510 【にぎははしきけはひ】 朧月夜尚侍の感じ。『集成』は「ゆたかではなやかな感じ」の意に解す。
7.1.3 注釈511 【后の宮】 弘徽殿大后をいう。
7.1.3 注釈512 【かかることしもまさる御癖なれば】 源氏の性癖。無理な状況ほど恋情が募る。
7.1.3 注釈513 【いと忍びて、たび重なりゆけば】 密会が度重なってゆく。
7.1.3 注釈514 【あるべかめれど】 「べか」「めり」は語り手の推量。
7.1.3 注釈515 【さなむと啓せず】 大島本は「さなむとけいせす」とある。『新大系』は底本のまま。『集成』は諸本に従って「さなどは」と校訂する。『古典セレクション』も諸本に従って「さなむとは」と校訂する。「啓す」は、太皇太后、皇太后、皇后、東宮に対して申し上げる場合に用いる謙譲語。
7.1.5 注釈516 【御帳】 御帳台のこと。
7.1.5 注釈517 【心知りの人二人ばかり】 源氏と朧月夜尚侍の関係を知る女房、二人。中納言の君など。
7.1.6 注釈518 【大臣】 右大臣。朧月夜の父。
7.1.6 注釈519 【え知りたまはぬに】 主語は朧月夜尚侍。
7.1.7 注釈520 【いかにぞ】 以下「さぶらひつや」まで、右大臣の詞。
7.1.7 注釈521 【中将、宮の亮など】 中将は右大臣の子息、宮の亮は皇太后宮司の一人。
7.1.8 注釈522 【舌疾にあはつけき】 早口で落ち着きのないさま。
7.1.8 注釈523 【げに、入り果ててものたまへかしな】 語り手の感想。『一葉抄』が「草子の詞也」と指摘。「げに」は源氏が思うことをさし、なるほどの意。「かし」(終助詞)は語り手が読者に念を押すニュアンス。
7.1.9 注釈524 【なほ悩ましう思さるるにや】 右大臣の心中。
7.1.9 注釈525 【見たまひて】 大島本は「みたまて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「見たまひて」と「ひ」を補訂する。
7.1.10 注釈526 【など、御けしきの】 以下「修法延べさすべかりけり」まで、右大臣の詞。
7.1.10 注釈527 【延べさすべかりけり】 延長すべきであったのニュアンス。
7.1.11 注釈528 【薄二藍なる帯】 二藍の薄い色の帯。夏の直衣用の帯。男物の帯。
7.1.11 注釈529 【御几帳のもとに】 御帳台の三方の入口の前に置かれている御几帳。
7.1.11 注釈530 【落ちたり】 大島本は「おちたり」(落ちていた)とあるが、独自異文。他の青表紙諸本は「おちたりけり」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おちたりけり」と校訂する。「けり」過去の助動詞、詠嘆の意。はっと気づき驚くニュアンス。
7.1.11 注釈531 【御心おどろかれて】 「れ」自発の助動詞。
7.1.12 注釈532 【かれは、誰れがぞ】 以下「見はべらむ」まで、右大臣の詞。「かれ」は帯をさす。
7.1.13 注釈533 【うち見返りて】 主語は朧月夜尚侍。
7.1.13 注釈534 【我にもあらでおはするを】 以下「されどいと急に」まで、語り手の右大臣の態度に対する非難の感情をこめた文脈。「思し憚るべきぞかし」は語り手の直接的な表明。『湖月抄』は「草子地也」と指摘。『全書』は「子ながらも」以下に「作者の評」と指摘。
7.1.13 注釈535 【さばかりの人】 右大臣ほどの高貴な人ならばの意。
7.1.13 注釈536 【思しもまはさずなりて】 『集成』は「前後の見さかいもなくなられて」、『完訳』は「思慮分別を失った様子」の意に解す。
7.1.13 注釈537 【いといたうなよびて、慎ましからず】 源氏の姿態、態度。「慎ましからず」は右大臣の目を通した感情移入の語句。『完訳』は「右大臣の気持に即した叙述」と注す。
7.1.13 注釈538 【男もあり】 「も」副助詞、強調にニュアンスを添える。
7.1.13 注釈539 【今ぞ、やをら顔ひき隠して】 主語は源氏。
7.1.13 注釈540 【あさましう、めざましう心やましけれど】 右大臣の気持ち。『完訳』は「男の妙に落ち着いた態度への、右大臣の驚き、憤怒する気持」と注す。
7.1.13 注釈541 【いかでか現はしたまはむ】 大島本は「いかてかあらハしたまはむ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「いかでかは」と「は」を補訂する。反語表現。語り手の感情移入の文脈。源氏の「顔ひき隠してとかう紛らわ」したのを「顕す」という文意。
7.1.14 注釈542 【いとほしう、つひに】 以下「負はむとすること」まで、源氏の心中。

第二段 右大臣、源氏追放を画策する

7.2.1 注釈543 【大臣は、思ひのままに】 右大臣。『集成』は「勝手気ままで」の意に解す。『完訳』は「思ったままを口に出し、胸に収めておくことのできない性格」と注す。
7.2.1 注釈544 【添ひたまふに、これは】 大島本は「そひ給にこれは」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「添ひたまひにたれば」と校訂する。「こ(己)」と「た(多)」の類似から生じた異文であろう。
7.2.1 注釈545 【何ごとにかはとどこほりたまはむ】 『集成』は句点だが、『完訳』は読点で、挿入句と解す。反語表現。語り手の感情移入の挿入句。
7.2.2 注釈546 【かうかうのこと】 以下「うたがひはべらざりつる」まで、右大臣の詞。
7.2.2 注釈547 【さても見むと、言ひはべりし折】 右大臣は源氏を朧月夜尚侍の婿にしようと言ったという。「葵」巻に語られている。
7.2.2 注釈548 【さるべきにこそはとて】 前世からの宿縁をいう。
7.2.2 注釈549 【世に穢れたりとも、思し捨つまじきを】 「世に」は「まじき」にかかる。強い打消しのニュアンス。「穢れ」は源氏と関係したことをさす。「思し捨つまじき」の主語は朱雀帝。
7.2.2 注釈550 【本意のごとく】 最初の望みの意。入内することをさす。
7.2.2 注釈551 【うけばりたる女御なども言はせたまはぬをだに】 大島本は「給ら(良#)ぬ」とある。「給はぬ」。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「はべらぬ」と校訂する。
7.2.3 注釈552 【男の例とはいひながら】 男は好色なものだという考え。
7.2.3 注釈553 【斎院をもなほ聞こえ犯しつつ】 斎院に対する恋は禁じられているので、「聞こえ犯す」といったもの。斎院への懸想は、時の帝への冒涜でもあるという考え。
7.2.3 注釈554 【時の有職と】 以下「ことなめれば」まで、挿入句。右大臣の源氏観。
7.2.4 注釈555 【いとどしき御心】 『集成』は「(右大臣よりも)もっとひどく源氏をお憎しみになるので」と注す。
7.2.5 注釈556 【帝と聞こゆれど】 以下「ことわりになむあめる」まで、弘徽殿大后の詞。
7.2.5 注釈557 【致仕の大臣も】 左大臣をいう。
7.2.5 注釈558 【またなくかしづく一つ女を】 葵の上をいう。以下の内容は「桐壺」巻に語られている。
7.2.5 注釈559 【いときなきが】 『集成』は「「が」は、目下の者に対して用いる格助詞」と注す。軽蔑のニュアンスを含んだ言い方。
7.2.5 注釈560 【をこがましかりしありさま】 『集成』は「恥さらしな有様だったのを」の意に、『完訳』は「ぶざまな事態」の意に解す。
7.2.5 注釈561 【誰れも誰れもあやしとやは思したりし】 弘徽殿大后以外、右大臣をはじめ誰一人も源氏を疑わなかった、という意。
7.2.5 注釈562 【皆、かの御方にこそ】 右大臣らが源氏に心寄せたことをいう。
7.2.5 注釈563 【その本意違ふさまに】 『集成』は「源氏を婿という希望が」と解し、また一方、『完訳』は「入内させ、後の立后をと希望」の意に解す。前者の説に従う。
7.2.5 注釈564 【かくてもさぶらひたまふめれど】 尚侍として入内したことをいう。
7.2.5 注釈565 【いかでさる方にても】 以下「見るところもあり」まで、弘徽殿大后の考え。
7.2.5 注釈566 【ねたげなりし人】 源氏をさす。
7.2.5 注釈567 【忍びて我が心の入る方に】 主語は朧月夜尚侍。こっそりと自分の気に入った人にの意。
7.2.5 注釈568 【ましてさもあらむ】 帝の御妻に通じるくらいだから斎院の噂もきっと事実だの意。
7.2.5 注釈569 【朝廷の御方にうしろやすからず見ゆるは】 源氏が帝にとって不安な存在に見えるという意。
7.2.5 注釈570 【春宮の御世、心寄せ殊なる人】 春宮の即位後の御代に期待を寄せる人の意。
7.2.6 注釈571 【いとほしう】 『集成』は「聞き苦しく」の意に解す。『完訳』は「右大臣は、源氏に同情もし、これを大后に話したことを後悔」と注す。
7.2.6 注釈572 【など、聞こえつることぞ】 右大臣の心。弘徽殿大后に話したことを後悔。
7.2.6 注釈573 【思さるれば】 「るれ」自発の助動詞。
7.2.7 注釈574 【さはれ、しばし、このこと】 以下「当たりはべらむ」まで、右大臣の詞。
7.2.7 注釈575 【内裏にも奏せさせたまふな】 「させ」(尊敬の助動詞)「たまふ」(尊敬の補助動詞)、最高敬語。会話文中での用法。
7.2.7 注釈576 【あまえてはべるなるべし】 主語は朧月夜尚侍。「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)は、話し手右大臣のもの。
7.2.7 注釈577 【うちうちに制しのたまはむに】 弘徽殿大后が朧月夜尚侍に内々に意見するの意。
7.2.7 注釈578 【聞きはべらずは】 主語は朧月夜尚侍。
7.2.8 注釈579 【ことに御けしきも直らず】 弘徽殿大后の機嫌をいう。
7.2.9 注釈580 【かく、一所に】 以下「弄ぜらるるにこそは」まで、弘徽殿大后の心中。
7.2.9 注釈581 【おはして】 弘徽殿大后の心中に敬語があるのは、語り手の敬意が混入したもの。
7.2.9 注釈582 【つつむところなく】 主語は源氏。
7.2.9 注釈583 【ものせらるらむは】 「らる」尊敬の助動詞。敬意が「たまふ」より軽い。
7.2.9 注釈584 【弄ぜらるるにこそは】 「らるる」尊敬の助動詞。「に」断定の助動詞。
7.2.9 注釈585 【このついでに】 以下「よきたよりなり」まで、弘徽殿大后の心中。
7.2.9 注釈586 【さるべきことども】 『完訳』は「源氏や東宮を失脚させることを暗示する表現」と注す。
7.2.9 注釈587 【思しめぐらすべし】 「べし」推量の助動詞、語り手の推量。『岷江入楚』所引三光院実枝説「太后の御心を推量てかける詞也」。また『万水一露』は「かの式部后の御心を察して筆をとゝめたる也」と指摘する。
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