第四十帖 御法

光る源氏の准太上天皇時代五十一歳三月から八月までの物語

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注釈

第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語


第一段 紫の上、出家を願うが許されず

1.1.1 注釈1 【紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後】 四年前の正月の女楽の直後発病し、四月危篤状態まで陥ったが(若菜下)、その後全快せず今日にいたっている。冒頭「紫の上」、と女主人公を提示し、以下にも体言の下に格助詞や係助詞を伴わない、物語としての文章の生動に注意べき。
1.1.2 注釈2 【院の思ほし嘆くこと、限りなし】 源氏の悲嘆。
1.1.2 注釈3 【しばしにても】 以下「いみじかるべく思し」まで、源氏の心中を地の文で語る。
1.1.2 注釈4 【みづからの御心地には】 以下、紫の上の心中を地の文で語る。
1.1.2 注釈5 【思されぬを】 「れ」自発の助動詞。接続助詞「を」逆接の意。
1.1.2 注釈6 【年ごろの御契りかけ離れ】 『集成』は「死別によって今生の契りを断つこと」。『完訳』は「源氏との年来の縁。「契り」に注意。単なる「仲」でない。子への執着がない代りに、源氏との宿縁の仲が現世の絆となっている」と注す。
1.1.2 注釈7 【思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ】 源氏を嘆かせる。『休聞抄』は「声をだに聞かで別るる魂よりもなき床に寝む君ぞ悲しき」(古今集哀傷、八五八、読人しらず)を指摘。
1.1.2 注釈8 【思されける】 「れ」自発の助動詞。係助詞「ぞ」--「ける」係結びの構文の強調表現。
1.1.2 注釈9 【いかでなほ本意あるさまになりて】 紫の上の出家願望は、「若菜下」巻に語られていた。
1.1.2 注釈10 【しばしもかかづらはむ命のほどは】 『河海抄』は「ありはてぬ命待つ間の程ばかり憂きことしげく思はずもがな」(古今集雑下、九六五、平貞文)を指摘。
1.1.2 注釈11 【さらに許しきこえたまはず】 主語は源氏。
1.1.3 注釈12 【さるは、わが御心にも、しか思しそめたる筋なれば】 「さるは」反転して、また一方では。以下、源氏の心中。源氏の出家願望は、「若紫」「葵」「絵合」「藤裏葉」の諸巻に見られる。
1.1.3 注釈13 【同じ道にも入りなむ】 源氏の心中。連語「なむ」(完了の助動詞、確述+推量の助動詞、意志)、源氏の強い意志を表す。
1.1.3 注釈14 【思せど】 「ど」逆接の接続助詞、いったんは出家をと思うが、以下に躊躇される気持ちが語られる。
1.1.3 注釈15 【一度、家を出でたまひなば】 以下、源氏の心中。出家の覚悟とそれを躊躇される源氏の気持ちを地の文に語る。心情の流れに即した紆余曲折のある長文の文章表現に注意。
1.1.3 注釈16 【かけ離れなむことをのみ】 連語「なむ」、完了の助動詞、確述の意+推量の助動詞、意志の意。副助詞「のみ」限定強調の意、源氏の強い決意を表す。
1.1.3 注釈17 【思しまうけたるに】 接続助詞「に」順接、原因理由を表す。源氏のかねての考え方をいう。以下、逆接の文脈になり、それがかなわないことをいう。
1.1.3 注釈18 【悩み篤いたまへば】 動詞「篤え」の転、連用形しか文献には見えないという(岩波古語辞典)。容態が重くなる意。
1.1.3 注釈19 【山水の住み処濁りぬべく】 地の文中だが、「澄む」「住む」の掛詞、「水」と「濁る」「澄む」の縁語、という修辞が見られる。
1.1.3 注釈20 【ただうちあさへたる、思ひのままの道心起こす人びとには、こよなう後れたまひぬべかめり】 推量の助動詞「べかめり」は語り手が源氏の心中と行動を推測した言辞。『評釈』は「当時の貴族たちにとっては、出家は理想の生活として考えられていたらしい。(中略)それを光る源氏をめぐる婦人たちでさえ行なっているのに、光る源氏が今まで口には言いながら実行しないのはどうしたことなのか。そういった読者の疑問に答えるための、作者の弁解がこの「御法」の冒頭文ではないかと思われる」と注す。
1.1.4 注釈21 【御許しなくて】 源氏の許可がなくて紫の上は出家を。
1.1.4 注釈22 【このことによりてぞ】 源氏が出家を許さないことをさす。係助詞「ぞ」--「思ひきこえたまひける」、係結びの構文による強調表現。
1.1.4 注釈23 【女君は】 紫の上。あえて主語を提示することによって強調したもの。
1.1.4 注釈24 【わが御身をも、罪軽かるまじきにやと】 紫の上自身の反省。接続助詞「に」順接、原因理由の意。我が身の罪障が深いために、出家も許されないのだろうか、と考える。『完訳』は「源氏を恨むよりも、わが運命を悲しむ」と注す。

第二段 二条院の法華経供養

1.2.1 注釈25 【法華経』千部】 『法華経』は全八巻、二十八品の経。それを千部写経させた。大勢の写経者が必要。大事業である。
1.2.1 注釈26 【わが御殿と思す二条院にて】 「若菜上」巻にも「わが御私の殿と思す二条の院にて」(第九章二段)とあった。
1.2.1 注釈27 【七僧の法服など】 講師(こうじ)・読師(とくじ)・呪願(しゅがん)・三礼(さんらい)・唄(ばい)・散花(さんげ)・堂達(どうだつ)の役僧たちの法服。
1.2.2 注釈28 【ことことしきさまにも聞こえたまはざりければ】 紫の上は源氏に。
1.2.2 注釈29 【詳しきことどもも知らせたまはざりけるに】 主語は源氏。『集成』は「こまかいところまで何もご存じでなかったのに」。『完訳』は「院は立ち入った数々のことをお教えにならなかったのに」。両解釈あるが、こうした表現は、二者択一的解釈より多重的解釈(掛詞的)のほうがより適切か。
1.2.2 注釈30 【仏の道にさへ通ひたまひける】 『完訳』は「仏の儀式にまでよく通じて」と注す。
1.2.2 注釈31 【営ませたまひける】 「せたまひ」は、主語が「院は」とあるので、最高敬語とみてよい。
1.2.2 注釈32 【大将の君】 夕霧。近衛府の官人という立場から。
1.2.3 注釈33 【内裏、春宮、后の宮たちをはじめ】 今上帝は朱雀院の御子。春宮は今上帝と明石女御の間に生まれた御子。「后宮たち」と複数形で語られているので、秋好中宮の他に明石女御が中宮になったことが暗示されている。明石女御の立后は初見の記事。
1.2.3 注釈34 【御方々、ここかしこに】 六条院のご夫人方、花散里や明石御方をさす。
1.2.3 注釈35 【いとこちたきことどもあり】 『評釈』は「作者の批評」と注す。
1.2.3 注釈36 【いつのほどに】 以下「御願にや」まで、源氏の心中。
1.2.3 注釈37 【石上の世々経たる】 「石上」は「ふる」に係る枕詞。ここは「世々経たる」にかけた修辞。古くから、の意。『源氏釈』は「塵泥(ちりひぢ)の世々のみかずにありへてぞ思ひあつむることもおほかる」(出典未詳)を指摘。
1.2.3 注釈38 【御願にや】 係助詞「や」の下に「あらむ」などの語句が省略。
1.2.4 注釈39 【花散里と聞こえし御方、明石なども渡りたまへり】 花散里と明石御方に対する待遇の違いに注意。『完訳』は「花散里との身分差を表すべく、「明石」と呼び捨てた呼称」と注す。
1.2.4 注釈40 【南東の戸を開けておはします】 主語は紫の上。
1.2.4 注釈41 【寝殿の西の塗籠なりけり】 前文を補足説明した叙述。

第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答

1.3.1 注釈42 【三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなども、うららかにものおもしろく】 三月十日の季節描写。桜の満開、空模様の麗かさ。
1.3.1 注釈43 【仏のおはすなる所のありさま、遠からず思ひやられて、ことなり】 大島本「ことなり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことなる」とし「深き心」を修飾する。『新大系』は底本のままとする。極楽浄土をさす。「時に、世尊、韋提希に告げたまふ、汝今知るやいなや、阿彌陀仏、此を去ること遠からず」(観無量寿経)。
1.3.1 注釈44 【薪こる讃嘆の声も】 『奥入』は「法華経を我が得しことは薪こり菜つみ水汲み仕へてぞ得し」(拾遺集哀傷、一三四六、大僧正行基)を指摘。『異本紫明抄』は「薪こる事は昨日につきにしをいざ斧の柄はここに朽たさむ」(拾遺集哀傷、一三三九、道綱母)をも指摘。
1.3.1 注釈45 【静まりたるほどだにあはれに思さるるを】 『集成』は「静まり返った時でさえしみじみさびしく」。『完訳』は「静寂のおとずれるとき、それすらしみじみと寂しく思わずにはいらっしゃれないものだから」と訳す。副助詞「だに」--副詞「まして」の構文。「るる」自発の助動詞。
1.3.1 注釈46 【まして、このころとなりては】 『集成』は「死期の近きを悟るこの頃、という含み」と注す。
1.3.1 注釈47 【明石の御方に、三の宮して、聞こえたまへる】 明石の御方に、孫の匂宮を遣いにして紫の上が和歌を贈る。
1.3.2 注釈48 【惜しからぬこの身ながらもかぎりとて--薪尽きなむことの悲しさ】 『源氏釈』は「法華経を我が得しことは薪こり菜つみ水汲み仕へてぞ得し」(拾遺集哀傷、一三四六、大僧正行基)「菓(このみ)を採り水を汲み、薪を拾ひ食(じき)を設け」(法華経、提婆達多品)「薪尽て火の滅するが如し」(法華経、序品)を指摘。「この身」に「菓(このみ)」を掛け、法華経の経文を暗示する。
1.3.3 注釈49 【御返り、心細き筋は、後の聞こえも心後れたるわざにや、そこはかとなくぞあめる】 「にや」「あめる」は語り手の推測を介入させた叙述。『評釈』は「作者は、「心細き筋は、のちのきこえも心おくれたるわさにや」という。かように挨拶にすぎない歌を明石によませた弁解を試みたのである。--『源氏物語』には、作中人物が歌をよむ場合、作者はその歌に弁解的な批評を試みることが時にある。--しかし、今の明石の場合については今一つの解釈が可能である。--そこには、後世の思わくを気にする明石の御方の態度を、非難するかのような口ぶりさえみえる。明石の御方に、何事にも行きとどいた人として、礼儀正しい返歌をさせ、しかも、その礼儀正さが物足りないと非難するのである」。『集成』は「次の明石の上の歌に対する語り手の解説」と注す。
1.3.4 注釈50 【薪こる思ひは今日を初めにて--この世に願ふ法ぞはるけき】 明石の御方の返歌。「于時奉事、経於千歳」(法華経、提婆達多品)。「薪尽きなむ」を「薪こる」、「この身」を「この世」と言い換え、「限り」を「はるけき」と長寿を寿ぐ歌にして返す。『異本紫明抄』は「あまたたび行き逢ふ坂の関水に今はかぎりの影ぞ悲しき」(栄華物語、鳥辺野)「年を経て行き逢ふ坂の験ありて千年の影をせきもとめなむ」(栄華物語、鳥辺野)を指摘。
1.3.5 注釈51 【ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々】 『休聞抄』は「山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ」(古今集恋一、四七九、貫之)を指摘。
1.3.5 注釈52 【百千鳥のさへづりも】 『源氏釈』は「百千鳥さへづる春は色ごとにあらたまれども我ぞふりゆく」(古今集 春上、二八、読人しらず)。『源注余滴』は「わが門の榎の実もりはむ百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」(万葉集巻十六)を指摘。
1.3.5 注釈53 【陵王の舞ひ手急になるほど】 『集成』は「陵王の場合には、終曲にテンポの早くなることか。一般には序破急の急であるが、陵王には急がない」と注す。
1.3.6 注釈54 【上下心地よげに、興あるけしきどもなるを見たまふにも、残り少なしと身を思したる御心のうちには、よろづのことあはれにおぼえたまふ】 『完訳』は「紫の上の感懐。歌楽にふける参会者の「心地よげ」とは対照的」と注す。

第四段 紫の上、花散里と和歌を贈答

1.4.1 注釈55 【昨日、例ならず起きゐたまへりし名残にや】 法華経千部供養の翌日。「にや」は語り手の推測を交えた表現。『湖月抄』は「地」と注す。
1.4.1 注釈56 【今日や見聞きたまふべきとぢめなるらむ、とのみ思さるれば】 紫の上の心中。『完訳』は「死の予感から、法会を、知人との最期の惜別だったと思い返す」と注す。副助詞「のみ」限定の意。「るれ」自発の助動詞。
1.4.1 注釈57 【あはれに見えわたされたまふ】 「れ」自発の助動詞。紫の上の自然と一人一人に目がとまる気持ちが表されている。『完訳』は「平常は格別目にとまらない些細な物事にまで、深い感慨を抱く。末期の目にはすべてが印象的」と注す。
1.4.2 注釈58 【おのづから立ちまじりもすらめど】 推量の助動詞「らめ」視界外推量は、語り手が紫の上の心情を推測したもの。
1.4.2 注釈59 【情けを交はしたまふ方々は】 六条院の夫人方。
1.4.2 注釈60 【誰れも久しくとまるべき世にはあらざなれど、まづ我一人行方知らずなりなむを】 紫の上の心中を地の文に語る。一人先立つ悲しみを思う。『完訳』は「死の予感が彼女らへの親近感を強める」「死の至り着く先が分らず、往生や救済の確信も持てない絶望的な気持」と注す。
1.4.3 注釈61 【遠き別れめきて惜しまる】 紫の上の気持ち。「る」自発の助動詞。
1.4.4 注釈62 【絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる--世々にと結ぶ中の契りを】 「御法」の「み」と「身」の掛詞。法会の結縁の席で同席した親近感を訴える。
1.4.6 注釈63 【結びおく契りは絶えじおほかたの--残りすくなき御法なりとも】 「絶えぬ」「御法」「結ぶ」「契り」の語句を受けて、縁は絶えないでしょう、と同意した歌。『集成』は「「おほかたの」は、世間一般には、の意。そのなかに自分をこめ、しかし紫の上は特別で、末長いお命を保たれ、法会も営まれましょう、という祝意がある」と注す。
1.4.7 注釈64 【不断の読経、懺法など、たゆみなく】 僧侶が輪番で昼夜間断なく読み続ける読経と罪障を懺悔し滅罪を願う法華懺法。
1.4.7 注釈65 【尊きことども】 大島本は「たうとき事とも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことどもを」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。
1.4.7 注釈66 【ほども経ぬれば】 大島本は「ほとも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ほど」と「も」を削除する。『新大系』は底本のままとする。

第五段 紫の上、明石中宮と対面

1.5.1 注釈67 【夏になりては、例の暑さにさへ】 物語は法華経千部供養の行われた三月十日から夏四月に移る。この間およそ二十日間が経過。
1.5.1 注釈68 【そのことと、おどろおどろしからぬ御心地なれど】 『集成』は「どこが悪いと、ひどく苦しんだりはなさらぬ病状であるが」と注す。
1.5.1 注釈69 【むつかしげに所狭く悩みたまふこともなし】 『完訳』は「いかにも重病人めいてひどくお苦しみになるといったこともない」と注す。衰弱がひどくなっていく様子。
1.5.2 注釈70 【中宮、この院にまかでさせたまふ】 明石中宮、二条院に養母紫の上を見舞うべく退出する。「させたまふ」最高敬語表現。
1.5.2 注釈71 【東の対におはしますべければ、こなたにはた待ちきこえたまふ】 東の対を明石中宮の居所と予定される。紫の上は病室の西の対から東の対に移って、そこで中宮を待つ。
1.5.2 注釈72 【この世のありさまを見果てずなりぬるなどのみ】 紫の上の心中を地の文に語る。見果てないで終わってしまう、が原文の逐語的表現。見納めになる、の意。
1.5.2 注釈73 【名対面を聞きたまふにも】 行啓供奉の公卿などが入御の後、名を名乗ること。
1.5.3 注釈74 【めづらしく思して】 主語は紫の上。
1.5.4 注釈75 【今宵は】 以下「休みはべらむ」まで、源氏の詞。主語は自分源氏自身。『集成』は「今夜は、巣を無くしたような気がして、体裁の悪いことだ。紫の上は中宮と語り合っていて、側へ寄れないことを戯れて言ったもの」と注す。
1.5.5 注釈76 【起きゐたまへるを、いとうれしと思したるも】 紫の上が起きていらっしゃるのを源氏は嬉しくお思いになるが、の意。
1.5.6 注釈77 【方々におはしましては】 以下「なりにてはべれば」まで、紫の上の詞。中宮と自分紫の上が二条院の別々の対に離れていたのでは、の意。
1.5.6 注釈78 【あなたに渡らせたまはむも】 紫の上の病室である西の対へ中宮が。「せたまふ」は中宮に対する最高敬語。
1.5.7 注釈79 【しばらくは】 大島本は「しハし(し$らく<朱墨>)ハ」とある。すなわち、「し」を朱筆と墨筆でミセケチにして「らく」と訂正する。『集成』『完本』は訂正以前本文と諸本に従って「しばし」と校訂する。『新大系』は底本の訂正に従う。「しばらく」は「平安時代、漢文訓読体に使われ、女流文学では一般に「しばし」を使ったが、鎌倉時代以後、区別が失われた」(岩波古語辞典)。

第六段 紫の上、匂宮に別れの言葉

1.6.1 注釈80 【亡からむ後などのたまひ出づることもなし】 『完訳』は「紫の上は、遺言したいが、死期を予知して冷静にふるまうのを、女らしからぬ態度として避ける」と注す。
1.6.1 注釈81 【あさはかにはあらず】 『集成』は「おざなりなおっしゃりようではなく」。『完訳』は「心深くおっしゃる」と訳す。
1.6.1 注釈82 【言に出でたらむよりも】 言葉に表して言うよりも。
1.6.1 注釈83 【宮たちを見たてまつりたまうても】 明石中宮腹の皇子皇女たち。女一の宮、三の宮(匂宮)たちをさす。
1.6.2 注釈84 【おのおのの御行く末を】 以下「心のまじりけるにや」まで、紫の上の詞。
1.6.3 注釈85 【などかうのみ思したらむ】 明石中宮の心中。
1.6.3 注釈86 【ゆゆしげになどは聞こえなしたまはず】 主語は紫の上。遺言めいた言い方。
1.6.3 注釈87 【この人、かの人、--「はべらずなりなむ後に、御心とどめて、尋ね思ほせ】 『集成』は「地の文からすぐ紫の上の言葉に続く語り口」。『完訳』は「はべらず」以下を紫の上の詞とする。
1.6.5 注釈88 【御読経などによりてぞ】 季の御読経。中宮主催の催し。中宮里邸退出の折には里邸で行う。
1.6.5 注釈89 【例のわが御方に】 紫の上は西の対に戻る。
1.6.6 注釈90 【三の宮】 匂宮。
1.6.7 注釈91 【まろがはべらざらむに、思し出でなむや】 紫の上の詞。「む」推量の助動詞、連体形、仮定の意。「に」接続助詞、単純な接続。「な」完了の助動詞、確述の意。「む」推量の助動詞、推量の意。「や」係助詞、疑問の意。
1.6.9 注釈92 【いと恋しかりなむ】 以下「心地むつかしかりなむ」まで、匂宮の詞。
1.6.9 注釈93 【内裏の上よりも宮よりも】 「内裏の上」は父帝、「宮」は母明石中宮をさす。
1.6.9 注釈94 【婆をこそまさりて】 大島本は「はゝ」と表記する。『集成』は「はは」、『完本』は「母」、『新大系』は「ばゞ」と整定する。「婆」は祖母紫の上をさす。『集成』は「「はは」は古くから澄んで読むが、祖母の意であろう」。『新大系』は「幼児語に、祖父・祖母を「ぢぢ(爺)」「ばば(婆)」と称したろう、と推定しておく」と注す。
1.6.11 注釈95 【大人になりたまひなば】 以下「仏にもたてまつりたまへ」まで、紫の上の詞。
1.6.11 注釈96 【この対の前なる紅梅と桜とは】 二条院の西の対の前にある紅梅と桜の木。『集成』は「春を好む紫の上らしい遺言」と注す。
1.6.11 注釈97 【さるべからむ折は、仏にもたてまつりたまへ】 「仏」とは、暗に自分の供養のために、という意。
1.6.12 注釈98 【生ほしたてまつりたまへれば】 大島本は「おほしたてまつり給へれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「生ほしたてたてまつり」と「たて」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。
1.6.12 注釈99 【この宮と姫宮とをぞ】 匂宮と女一の宮。

第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀


第一段 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける

2.1.1 注釈100 【秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては】 季節は夏から秋に推移。病人にとってもしのぎやすい季節となる。『完訳』は「ようやく待ちかねた秋になって」と訳す。
2.1.1 注釈101 【なほともすれば、かことがまし】 『集成』は「「かことがまし」は、何かにつけて恨みたくなる、の意。何かにつけて、すぐぶり返す状態をいう」と注す。
2.1.1 注釈102 【身にしむばかり思さるべき秋風ならねど、露けき折がちにて】 【身にしむばかり思さるべき秋風ならねど】-『源氏釈』は「秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ」(詞花集秋、和泉式部)。『源注拾遺』は「吹きくれば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」(古今六帖、秋の風)を指摘。 【秋風ならねど、露けき折がちにて】-「露」は「秋風」の縁語。涙にしめりがち、の意。
2.1.2 注釈103 【中宮は、参りたまひなむと】 以下「消え果てたまひぬ」まで、国宝「源氏物語絵巻」詞書にある。
2.1.2 注釈104 【今しばしは御覧ぜよとも、聞こえまほしう思せども】 主語は紫の上。
2.1.2 注釈105 【あなたにも】 西の対から東の対へ。
2.1.2 注釈106 【宮ぞ渡りたまひける】 中宮がじきじきに西の対にお越しになった。
2.1.3 注釈107 【こよなう痩せ細りたまへれど】 「れ」完了の助動詞、存続の意。『完訳』は「以下、中宮の目に映る紫の上」と注す。
2.1.3 注釈108 【かくてこそ】 『集成』「かえってこのほうが」。『完訳』は「当時の美人はふっくらした感じ。その常識に反して、痩せても美しいと讃嘆」と注す。以下「めでたかりけれ」まで、明石中宮の感想。
2.1.3 注釈109 【めでたかりけれ」と】 「限りもなくらうたげに」に続く。「来し方」以下「よそへられたまひしを」まで、挿入句。
2.1.3 注釈110 【いとかりそめに世を思ひたまへるけしき、似るものなく心苦しく】 大島本は「かりそめに(に+世をイ)思給へる」とある。すなわち「に」の後に「世を」と異本校合を記す。『集成』『完本』は底本の異本と諸本に従って「世を」を補訂する。『新大系』は底本の本行本文のままとする。『休聞抄』は「朝露のおくての山田かりそめに憂き世の中を思ひぬるかな」(古今集哀傷、八四二、貫之)を指摘。

第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す

2.2.2 注釈111 【今日は、いとよく】 以下「はればれしげなめりかし」まで、源氏の詞。
2.2.2 注釈112 【起きゐたまふめるは】 終助詞「は」詠嘆の意。
2.2.3 注釈113 【いとうれしと思ひきこえたまへる】 主語は源氏。
2.2.3 注釈114 【御けしきを見たまふも、心苦しく】 紫の上が源氏の様子を。
2.2.3 注釈115 【つひに、いかに思し騒がむ】 紫の上の心中。
2.2.4 注釈116 【おくと見るほどぞはかなきともすれば--風に乱るる萩のうは露】 紫の上の和歌。「置く」「起く」の掛詞。「露」「置く」縁語。わが身を露に喩えてはかない命を詠む。
2.2.5 注釈117 【げにぞ】 庭の光景に紫の上の歌をいかにもと思う、源氏の心中。『完訳』は「紫の上の詠歌どおり、庭前の萩は風に折れ返って、露がこぼれ落ちそう。それがむらあきの上のはかない生命に擬えられる。紫の上を思う源氏の心象風景である」と注す。
2.2.6 注釈118 【ややもせば消えをあらそふ露の世に--後れ先だつほど経ずもがな】 源氏の唱和歌。「おく」「ほど」「露」の語句を受けて、自分も一緒に死にたいという歌。『異本紫明抄』は「ややもせば消えぞしぬべきとにかくに思ひ乱るる刈萱の露」(出典未詳)。『河海抄』は「ややもせば風にしたがふ雨の音を絶えぬ心にかけずもあらなむ」(出典未詳)、「末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ」(古今六帖、雫)を指摘。
2.2.8 注釈119 【秋風にしばしとまらぬ露の世を--誰れか草葉のうへとのみ見む】 明石中宮の歌。紫の上の歌の「風」、源氏の歌の「露の世」の語句を受けて、わが身も同じことと、紫の上を慰める歌。『河海抄』は「暁の露は枕に置きにけるを草葉の上と何思ひけむ」(後拾遺集恋二、七〇一、馬内侍)を指摘。
2.2.9 注釈120 【見るかひあるにつけても】 『孟津抄』は「草子地也」と注す。
2.2.9 注釈121 【かくて千年を過ぐすわざもがな】 『河海抄』は「暮るる間は千歳を過す心地して待つはまことに久しかりけり」(後拾遺集恋二、六六七、藤原隆方)。『花鳥余情』は「頼むるに命の延ぶる物ならば千歳もかくてあらむとや思ふ」(後拾遺集恋一、六五四、小野宮太政大臣女)。『集成』は「桜花今宵かざしにさしながらかくて千歳の春をこそ経め」(拾遺集賀、九条右大臣)を指摘。
2.2.10 注釈122 【今は渡らせたまひね】 以下「いとなめげにはべりや」まで、紫の上の詞。
2.2.13 注釈123 【まことに消えゆく露の心地して】 『集成』は「さきほどの露に寄せた最後の唱和が想起される」。『完訳』は「三人の唱和した「露」を、さらに当時の通念としての「露の命」の語をも受け、「まことに」とする」。
2.2.13 注釈124 【先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて】 「若菜下」巻(第八章一段)に紫の上の蘇生が語られていた。
2.2.13 注釈125 【さまざまのことをし尽くさせたまへど】 加持祈祷のあらん限りを。
2.2.13 注釈126 【明け果つるほどに消え果てたまひぬ】 紫の上の臨終のさま。露の消え果てるさまに擬えられる。

第三段 源氏、紫の上の落飾のことを諮る

2.3.1 注釈127 【宮も、帰りたまはで】 帝から宮中に帰るようにとの催促があった。
2.3.1 注釈128 【限りなく思す】 臨終に立ち会えたことを前世からの因縁と感慨無量に思う。
2.3.1 注釈129 【明けぐれの夢に惑ひたまふほど、さらなりや】 語り手の感情移入による表現。『万水一露』は「双紙の批判の詞也」と注す。
2.3.2 注釈130 【さかしき人おはせざりけり】 『集成』は「取り乱さない方はおられないのだった」。『完訳』は「しかと正気の方はいらっしゃらないのだった」と訳す。
2.3.3 注釈131 【かく今は限りの】 以下「誰れかとまりたる」まで、源氏の詞。
2.3.3 注釈132 【さまなめるを】 以下、接続助詞とも間投助詞ともつかぬ「を」の多用に注意。源氏の気持ちがよく表出されている。
2.3.3 注釈133 【年ごろの本意ありて思ひつること】 主語は紫の上。敬語はつかない。たんたんとした述懐の表れ。
2.3.3 注釈134 【いといとほしき】 大島本は「いと/\おしき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いといとほしきを」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。
2.3.3 注釈135 【今はかの冥き途のとぶらひにだに】 『花鳥余情』は「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」(拾遺集哀傷、一三四二、和泉式部)を指摘。『法華経』「従冥入於冥、永不聞仏名」(化城喩品)に基づく。『集成』は「今はせめてあの冥土の道案内としてでも」と注す。
2.3.4 注釈136 【心強く思しなすべかめれど】 推量の助動詞「べかめれ」は語り手の推量。
2.3.4 注釈137 【ことわりに悲しく見たてまつりたまふ】 主語は夕霧。
2.3.5 注釈138 【御もののけなどの】 以下「いかがはべるべからむ」まで、夕霧の詞。
2.3.5 注釈139 【さもやおはしますらむ】 「さ」は仮死状態をさす。
2.3.5 注釈140 【さらば、とてもかくても】 生きている時に出家の作法をすることをさす。
2.3.5 注釈141 【一日一夜忌むことのしるしこそは、むなしからずははべなれ】 「観無量寿経」の中品中生に見える思想。「なれ」伝聞推定の助動詞。
2.3.5 注釈142 【御光ともならせたまはざらむものから、目の前の悲しびのみまさるやうにて】 「ものから」は順接の原因理由を表す接続助詞。なお、『例解古語辞典』(三省堂)では「中世に下って急速に文語化し、同時に、--ので、--だから、の意を表わす用法が生じた」という。しかし、『岩波古語辞典』では「「から」「ゆゑ」は順接条件も逆接条件も示しうる語なので、「ものから」「ものゆゑ」も、順接、逆接両方の例がある。平安時代には「ものゆゑ」は古語となり、「ものから」の方が歌などに多く使われ、「--ながら」「--だのに」の意味を表わした」と注す。
2.3.6 注釈143 【御忌に籠もりさぶらふべき心ざしありてまかでぬ僧】 『集成』「死穢のため、三十日間、使者の近親が引き籠ること。僧もその間の仏事に従う」と注す。

第四段 夕霧、紫の上の死に顔を見る

2.4.1 注釈144 【年ごろ、何やかやと】 以下「いかでかあらむ」まで、夕霧の心中と地の文が綾をなして織り込まれている。『集成』は「以下、夕霧の心中の思い」と注す。『完訳』は地の文扱い。「おほけなき心はなかりしかど」という文章を地の文(語り手の叙述)と解すか、心中文(夕霧の内省)と解すかで、夕霧の人物像が違ってくる。文章は地の文から徐々に夕霧の心中文になっていく表現である。明確にどこからとは峻別しがたい。
2.4.1 注釈145 【おほけなき心】 継母紫の上に対する恋慕の情。
2.4.1 注釈146 【ほのかにも御声をだに聞かぬこと】 『河海抄』は「声をだに聞かで別るる魂よりもなき床に寝む君ぞ恋しき」(古今集哀傷、八五八、読人しらず)を指摘。
2.4.1 注釈147 【こそはあめれ】 推量の助動詞「めり」主観的推量。夕霧の推量。紫の上の死をまだ確定的には思っていないニュアンス。
2.4.2 注釈148 【あなかま、しばし】 夕霧の詞。
2.4.3 注釈149 【見たてまつりたまふに】 接続助詞「に」弱い逆接条件の文脈。拝見なさると、死人であるのにもかかわらず、というニュアンス。
2.4.3 注釈150 【この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あながちに隠さむの御心も思されぬなめり】 「なめり」語り手の源氏の心理状態を推測した叙述。『完訳』は「無理に隠そうとの気持にもなれぬようだ。源氏の茫然自失の体。紫の上の姿を夕霧に見られるとは、以前の源氏では考えられない」と注す。
2.4.4 注釈151 【かく何ごとも】 以下「しるかりけるこそ」まで、源氏の詞。係助詞「こそ」の下に「はべれ」などの語句が省略。
2.4.5 注釈152 【しひてしぼり開けて】 涙を絞り出すように目を開けるさま。
2.4.5 注釈153 【なかなか飽かず悲しきことたぐひなきに、まことに心惑ひもしぬべし】 推量の助動詞「べし」は、語り手が夕霧の心中を推測したもの。『集成』は「夕霧の心中を叙べる」。『完訳』は「以下、夕霧の惑乱しそうな悲嘆ぶり」と注す。
2.4.5 注釈154 【御髪のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて】 『弄花抄』は「双紙詞歟、女たち歟、夕霧のみるめ歟。次詞になのめにたにあらす夕霧の心也」。『評釈』は「作者の見る目で描写する近代小説と違い、作中人物の目を通して語る物語は、今の場合、光る源氏をはずせば、女房の目をかりるべきだが、女房ふぜいに語る余裕はない。光る源氏も女房もだめなら、と、あえて夕霧を紀要したのである」。『集成』は「以下「--臥したまへる御ありさま」まで、夕霧の目に映る紫の上のさま」。『完訳』は「髪の毛が枕辺にわだかまる様子を擬人的に表現。剃髪はしなかったらしい。以下、夕霧の目と心に即して使者の美しさを叙述」と注す。臨終に際して出家の作法尼削ぎはしなかったらしい。
2.4.6 注釈155 【灯のいと明かきに】 灯火の明かり。『紹巴抄』は「是より又源の御覧の心か、双地とも可見」と注す。
2.4.6 注釈156 【いふかひなきさまにて】 大島本は「さまにて」とある。『完本』は諸本に従って「さまに」と「て」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
2.4.6 注釈157 【何心なくて臥したまへる御ありさまの】 『集成』は「もう正体もない有様で。亡くなって意識のない状態」と注す。死者を「何心なく」(無心に)と生きている人のごとく描写している。
2.4.6 注釈158 【飽かぬ所なしと言はむもさらなりや】 語り手の評言。
2.4.6 注釈159 【死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」と思ほゆるも、わりなきことなりや】 「清(林逸抄所引)」は「双紙の詞也」と指摘。『集成』は「悲しみに正気を失って、消え入りそうなわが魂が、この紫の上のご遺骸に留まってほしいと思われるのも。紫の上の亡骸にでも取り憑きたい夕霧の気持」。『完訳』は「死せる紫の上の魂がそのままこの亡骸にとどまってほしい意。一説には、正気を失った夕霧の魂が紫の上の亡骸に、とするがとらない」と注す。終助詞「なむ」願望の意は、他に対する願望の用法である。 【わりなきことなりや】-語り手の批評。

第五段 紫の上の葬儀

2.5.1 注釈160 【院ぞ】 「限りの御ことどもしたまふ」に続く。「何ごとも」以下「静めたまひて」は挿入句。
2.5.1 注釈161 【いにしへも、悲しと思すこともあまた見たまひし御身なれど】 源氏の身近な人との死別は、母桐壺更衣(桐壺)、祖母(桐壺)、夕顔(夕顔)、葵の上(葵)、父帝(賢木)、六条御息所(澪標)、藤壺(薄雲)等がある。
2.5.2 注釈162 【やがて、その日、とかく収めたてまつる】 亡くなったその日のうちに葬儀をとり行う。八月十四日暁に亡くなって、その日の夜に荼毘にふし、十五日の暁に遺骨を拾って帰る、という手順。
2.5.2 注釈163 【骸を見つつもえ過ぐしたまふまじかりけるぞ】 『源氏釈』は「空蝉はからを見つつも慰めつ深草の山煙だにたて」(古今集哀傷、八三一、僧都勝延)を指摘。
2.5.2 注釈164 【はるばると広き野の】 『完訳』は「愛宕か」。『新大系』は「鳥辺野であろう」と注す。
2.5.2 注釈165 【例のことなれど、あへなくいみじ】 語り手の感情移入の評言。
2.5.3 注釈166 【空を歩む心地して、人にかかりてぞおはしましけるを】 主語は源氏。
2.5.3 注釈167 【さばかりいつかしき御身を」と】 『集成』は「あれほどのご立派なお方なのにと」。『完訳』は「あれほどにも尊くご立派なお方なのにと」と訳す。「を」接続助詞、逆接の意。また間投助詞、詠嘆の意にも解せる。
2.5.3 注釈168 【女房は、まして夢路に惑ふ心地して】 副詞「まして」は源氏の「空を歩む心地して」に比較。
2.5.3 注釈169 【車よりもまろび落ちぬべきをぞ】 「桐壺」巻(第一章五段)にも同じような表現があった。
2.5.4 注釈170 【昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも】 夕霧の母葵の上の葬儀。「葵」巻に「八月二十余日の有明なれば、空のけしき」(第二章七段))云々とあった。
2.5.4 注釈171 【かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり】 「かれは」と「これは」、「月の顔の明らか」と「暮れまどひ」の対比構文。
2.5.5 注釈172 【十四日に亡せたまひて、これは十五日の暁なりけり】 事の後から説明する性格の叙述。「これ」は遺骨を拾って帰ることをさす。
2.5.5 注釈173 【野辺の露も隠れたる隈なくて、世の中思し続くるに】 『完訳』は「野辺の露も日の光に隠れるところなく照らし出され。「露も」に、源氏の涙も、の意をこめる。日射しの中で露の消えるはかなさが、源氏の心象風景として厭世観を導く」と注す。
2.5.5 注釈174 【後るとても、幾世かは経べき】 『集成』は「末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ」(古今六帖、雫)にもとづく行文と注す。源氏の心中文と地の文が綯い交ぜになった表現。
2.5.5 注釈175 【かかる悲しさの紛れに】 『玉の小櫛』は「源氏君の心を、ただにいふ語より、冊子地よりいふ語へ、ただに続きて堺なし、大かた此物語、ここらの巻々、いともいとも長く大きなる文なれば、その間にはまれまれにはかうやうのとりはずしもなどかなからむ」と指摘。

第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち


第一段 源氏の悲嘆と弔問客

3.1.1 注釈176 【大将の君も、御忌に籠もりたまひて】 三十日間の忌み籠もり。
3.1.2 注釈177 【風野分だちて吹く夕暮に、昔のこと思し出でて】 主語は夕霧。「野分」巻(第一章二段)の紫の上垣間見を思い出す。『完訳』は「夕暮は人恋しい時。夕霧の追慕と悲愁の心象景」。「桐壺」巻の野分の段にも通底する。
3.1.2 注釈178 【ほのかに見たてまつりしものを」と】 以下、夕霧の心中に即した叙述。過去の助動詞「き」を多用。間投助詞「を」詠嘆の意。
3.1.2 注釈179 【人目にはさしも見えじ、と】 『完訳』は「義母をひそかに慕う気持を、他人に気づかれぬようはばかる」と注す。
3.1.3 注釈180 【阿弥陀仏、阿弥陀仏】 夕霧の詞。
3.1.4 注釈181 【数珠の数に紛らはしてぞ、涙の玉をばもて消ちたまひける】 大島本は「もちけち」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「もて消ち」と訂正する。『新大系』は底本のままとする。『花鳥余情』は「より合はせて泣くなる声を糸にして我が涙をば玉にぬかなむ」(伊勢集)を指摘。『岷江入楚』は「不及此歌歟」と注す。
3.1.5 注釈182 【いにしへの秋の夕べの恋しきに--今はと見えし明けぐれの夢】 夕霧の独詠歌。『集成』は「歌の末尾が地の文に続く。夕霧の独詠、心中の思いである」と注す。『一葉集』は「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見むとは」(古今集雑下、九七〇、業平朝臣)を指摘。
3.1.6 注釈183 【法華経など誦ぜさせたまふ】 主語は夕霧。「させ」使役の助動詞。
3.1.6 注釈184 【かたがたいとあはれなり】 『評釈』は「作者が批評している」と注す。
3.1.7 注釈185 【臥しても起きても涙の干る世なく、霧りふたがりて明かし暮らしたまふ】 主語は源氏。
3.1.8 注釈186 【鏡に見ゆる影をはじめて】 以下「道にも入りがたくや」まで、源氏の心中。ただしその始まり方は地の文が自然と心中文になっていく叙述のしかた。
3.1.8 注釈187 【今は、この世にうしろめたきこと残らずなりぬ】 『完訳』は「源氏の出家を引きとめてきた最大の絆は紫の上の存在であった」と注す。
3.1.8 注釈188 【いとかく収めむ方なき心惑ひにては、願はむ道にも入りがたくや】 『集成』は「紫の上への愛執の思いの絶ちがたいことを嘆く」と注す。
3.1.10 注釈189 【この思ひすこしなのめに、忘れさせたまへ】 源氏の心中。仏への願い。

第二段 帝,致仕大臣の弔問

3.2.1 注釈190 【所々の御とぶらひ】 方々からの源氏への弔問。
3.2.1 注釈191 【思しめしたる心のほどには】 『湖月抄』は「源の心を草子地よりいふ也」と注す。
3.2.1 注釈192 【目にも耳にもとまらず】 大島本は「とまらす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「とどまらず」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。
3.2.1 注釈193 【人にほけほけしきさまに見えじ】 以下「背きにける」まで源氏の心中。文末は地の文に流れる。
3.2.1 注釈194 【流れとどまらむ名を思しつつむに】 心中文であるはずの内容が地の文に語られる。
3.2.1 注釈195 【身を心にまかせぬ嘆きを】 『河海抄』は「いなせとも言ひ放たれず憂き物は身を心ともせぬ世なりけり」(後撰集恋五、九三八、伊勢)を指摘。『集成』は「悲しみにばかり浸っていられず、弔問にも答えねばならぬという嘆き」と注す。
3.2.2 注釈196 【かく世にたぐひなくものしたまふ人の】 紫の上をさす。
3.2.3 注釈197 【昔、大将の御母亡せたまへりしも、このころのことぞかし」と】 大島本は「御はゝ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御母上」と「上」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。致仕大臣の心中。葵の上の死去は今から三十年前の秋、八月二十余日であった。
3.2.4 注釈198 【その折、かの御身を】 以下「世なりけりや」まで、致仕大臣の心中。
3.2.4 注釈199 【惜しみきこえたまひし人の、多くも亡せたまひにけるかな】 『集成』は「父左大臣や母大宮など」。『完訳』は「葵の上の死を悲嘆した人々の多くは故人。時の経過を思う」と注す。
3.2.4 注釈200 【後れ先だつほどなき世なりけりや】 『異本紫明抄』は「末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ」(古今六帖、雫)を引歌として指摘。
3.2.5 注釈201 【蔵人少将】 致仕大臣の子。故柏木や左大弁の弟。
3.2.6 注釈202 【いにしへの秋さへ今の心地して--濡れにし袖に露ぞおきそふ】 致仕大臣の贈歌。三十年前の妹葵の上の死別を思い合わせながらこのたびの紫の上の死去に対する弔問の歌。
3.2.8 注釈203 【露けさは昔今ともおもほえず--おほかた秋の夜こそつらけれ】 源氏の返歌。「秋」「今」「露」の語句を用い、「いにしへ」は「昔」と言い換えて返す。
3.2.9 注釈204 【待ちとりたまひて】 主語は致仕大臣。
3.2.10 注釈205 【たびたびのなほざりならぬ】 以下「重なりぬること」まで、弔問に対する源氏のお礼の詞。
3.2.12 注釈206 【薄墨」とのたまひしより】 源氏が「限りあれば薄墨衣浅けれど涙ぞ袖を淵となしける」(「葵」第二章七段)と詠んだことをさす。
3.2.12 注釈207 【世の中に幸ひありめでたき人も】 『林逸抄』は「紫上の事をほむる詞也さうし也」。『万水一露』は「双帋の地也」と指摘。『集成』は「この世で幸運に恵まれた結構な方でも、困ったことに一般の世間から嫉まれ。以下「人のため苦しき人もあるを」まで、一般論を述べ、しかし紫の上はそうではないと、「あやしきまで」からあと、紫の上への讃辞を書く。このあたりの文章は、薄雲の巻の、藤壷崩御に当って、その仁慈を讃える文を連想させる」と注す。
3.2.13 注釈208 【さしもあるまじきおほよその人さへ】 『完訳』は「以下、紫の上を惜しむ人々を、他に「ほのかにも--人」「年ごろ--人々」と、三段階に分けて叙述」と注す。

第三段 秋好中宮の弔問

3.3.1 注釈209 【冷泉院の后の宮】 秋好中宮。
3.3.2 注釈210 【枯れ果つる野辺を憂しとや亡き人の--秋に心をとどめざりけむ】 秋好中宮から源氏への見舞いの贈歌。『河海抄』は「霜枯れの野辺を憂しと思へばや垣ほの草と人のあるらむ」(古今六帖拾遺)と指摘。『集成』は「昔、春秋の争いに、紫の上は春を好んだことによって詠む」。『完訳』は「「秋に--けん」は、秋に亡くなったのは秋を好まなかったためか、の意。「枯れはつる」は秋の終りとともに、人生の終末をも連想」と注す。
3.3.3 注釈211 【今なむことわり知られはべりぬる】 歌に添えた消息文。
3.3.4 注釈212 【いふかひあり】 以下「おはしけれ」まで、源氏の心中。
3.3.5 注釈213 【昇りにし雲居ながらもかへり見よ--われ飽きはてぬ常ならぬ世に】 源氏の返歌。「果つ」「秋」の語句を用いる。「かへり見よ」の主語は荼毘にふされて空にのぼった紫の上。紫の上に呼び掛けている。「あき」に「秋」と「飽き」を掛ける。『完訳』は「贈答歌としては中宮への返歌になりきらない。しかし、「のぼりにし雲居」を中宮の位と解し、中宮に呼びかけたとする一説はとらない」と注す。
3.3.6 注釈214 【おし包みたまひても】 手紙を上包みの紙に包む。きちんとした体裁の返書。
3.3.7 注釈215 【女方にぞおはします】 『集成』は「女房たちのいる所。奥向き。男性の出入りする表向きの場所での緊張に耐えない」と注す。
3.3.8 注釈216 【千年をももろともにと思ししかど】 『集成』は「源氏の気持を地の文の形で書く」と注す。
3.3.8 注釈217 【今は、蓮の露も異事に紛るまじく、後の世をと、ひたみちに思し立つこと】 『河海抄』は「蓮葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(古今集夏、一六五、僧正遍昭)を指摘。『集成』は「今は極楽往生の願いも、ほかのことで紛れるはずもなく、後世のことをと」と訳す。『完訳』は「往生して紫の上と一つ蓮台に座れるのに専念」と注す。
3.3.8 注釈218 【人聞きを憚りたまふなむ、あぢきなかりける】 『紹巴抄』は「双地」と注す。
3.3.9 注釈219 【御わざのことども】 七日ごとの法要。「ども」複数を表す接尾語。『完訳』は「四十九日とすれば十月初旬」と注す。
3.3.9 注釈220 【のたまひおきつることども】 大島本は「ことゝも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「こと」と「ども」を削除する。『新大系』は底本のままとする。主語は源氏。
3.3.9 注釈221 【今日やとのみ、わが身も心づかひせられたまふ】 『河海抄』は「わびつつも昨日ばかりは過ぐして今日や我が身の限りなるらむ」(拾遺集恋一、六九四、読人しらず)を指摘。
3.3.9 注釈222 【はかなくて、積もりにけるも】 『完訳』は「実りのない月日が迅速に経過」と注す。
3.3.9 注釈223 【中宮なども】 明石中宮。
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