設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | ||
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第四十七帖 総角 薫君の中納言時代二十四歳秋から歳末までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
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第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ |
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第一段 秋、八の宮の一周忌の準備 |
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1.1.1 | あまた おほかたのあるべかしきことどもは、 ここには |
何年も耳馴れなさった川風も、今年の秋はとても身の置き所もなく悲しくて、一周忌の法要をご準備なさる。 一通りの必要なことどもは、中納言殿と、阿闍梨などがご奉仕なさったのであった。 こちらでは法服のこと、経の飾りや、こまごまとしたお仕事を、女房が申し上げるのに従ってご準備なさるのも、まことに頼りなさそうにお気の毒で、「このような他人のお世話がなかったら」と見えた。 |
長い年月 |
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1.1.2 | みづからも |
ご自身でも参上なさって、今日を限りに喪服をお脱ぎになるときのお見舞いを、丁重に申し上げなさる。 阿闍梨もここちらに参上していた。 名香の糸を引き散らして、「こうして過ごして来たことよ」などと、お話しなさっている時であった。 結び上げた糸繰り台が、御簾の端から、几帳の隙間を通して見えたので、そのことだと察して、「わたしの涙を玉にして糸に通して下さい」と口ずさんでいらっしゃるのは、伊勢の御もこうであったろうと、興深くお思い申し上げるにつけても、内側の人は、知ったかぶりにお返事申し上げなさるようなのも遠慮されて、「糸ではないのに」とか、「貫之が生きていての別れでさえ、心細いものとして詠んだというのも」などと、なるほど古歌は、人の心を晴らすよすがであったのをお思い出しなさる。 |
薫は自身でも出かけて来て、除服後の姫君たちの衣服その他を周到にそろえた贈り物をした。その時に阿闍梨も寺から出て来た。二人の姫君は 「自身の涙を玉に こうした文学的なことを薫が言っても、それに応じたようなことで答えをするのも恥ずかしくて、心のうちでは |
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第二段 薫、大君に恋心を訴える |
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1.2.1 | 御願文を作り、経や仏の供養なさる心づもりなどをお書き出しなさる筆のついでに、客人が、 |
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1.2.2 | 「総角に末長い契りを結びこめて 一緒になって会いたいものです」 |
「あげまきに長き契りを結びこめ 同じところに |
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1.2.3 | と書いて、お見せ申し上げなさると、いつもの、と煩わしいが、 |
と書いて大姫君に見せた。またとうるさく女王は思いながらも、 |
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1.2.4 | 「貫き止めることもできないもろい涙の玉の緒に 末長い契りをどうして結ぶことができましょう」 |
「 長き契りをいかが結ばん」 |
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1.2.5 | とあるので、「一緒になれなかったら生きている甲斐もありません」と、恨めしそうに物思いにお耽りになる。 |
と返しを書いて出した。「逢はずば何を」(片糸をこなたかなたに縒りかけて合はずば何を玉の緒にせん)と薫は歎かれるのであるが、 |
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1.2.6 | ご自身のお身の上については、このように何とはなしに話をそらせて相手をなさらないので、すらすらと意中を申し上げることもできず、宮のご執心を真面目に申し上げなさる。 |
自身のことを正面から言うことはできずに、 |
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1.2.7 | 「さしも まことにうしろめたくはあるまじげなるを、などかくあながちにしも、もて |
「それ程までご執心でないことを、このようなことに少し積極的でいらっしゃるご性格で、一度申し出されては後に引かない意地からかと、あれやこれやと、十分にお気持ちをお探り申し上げております。 ほんとうに不安なようではありませんので、どうしてこのようにむやみに、お避けになるのでしょう。 |
「それほど深くお思いになるのでなく好奇心をお働かせになることが多くて、お申し込みになったのを、冷淡にお扱われになるために、負けぬ気を出しておいでになるだけではないかと、私は考えもしまして、いろいろにして御様子を見ていますが、どうも誠心誠意でお始めになった恋愛としか思われません。それをどうしてただ今のようなふうにばかりこちらではお扱いになるのでしょう。 |
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1.2.8 | ともかくも |
男女の仲の様子などを、ご存知でないようには拝見しませんのに、いやに、よそよそしくばかりおあしらいなさるので、これほど心から信頼申し上げている気持ちと違って、恨めしい気がします。 どのようにお考えになっているのかなどを、はっきりとお聞き致したいものですね」 |
ものの判断がおできにならぬほどの少女ではおられない |
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1.2.9 | と、いとまめだちて |
と、たいそう真面目になって申し上げなさるので、 |
薫はまじめであった。 |
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1.2.10 | 「 それを げに、かかる さるは、すこし |
「お気持ちに背くまいとの気持ちなればこそ、こうしてまでおかしな世間の例にもなる状態で、隔てなくお相手しているのでございます。 それをお分かりにならなかったことこそ、浅い気持ちがあるような気がします。 おっしゃるように、このような住まいなどに、情けの深い人は、ありたけの物思いをし尽くすでしょうが、何事にも後れて育ちましたので、このおっしゃるような方面は、故人も、一向に何一つ、こういう場合にはああいう場合にはなどと、将来のことを予想して、おっしゃっておくこともなかったので、やはり、このような状態で、世間並みの生活を諦めるようお考え置きであった、と思い合わされますので、何ともお答え申し上げようがなくて。 一方では、少し生い先長い年頃で、山奥暮らしはお気の毒にお見えになるお身の上を、まことにこのように枯木にはさせたくないものだと、人知れず面倒見ずにはいられなく思っているのですが、どのようになる縁なのでしょうか」 |
「あなたの御親切に感謝しておりますればこそ、こんなにまで世間に例のございませんほどにもお親しくおつきあい申し上げているのでございます。それがおわかりになりませんのは、あなたのほうに不純な点がおありになるのではないかと疑われます。少女でもないとおっしゃいますが、実際こんな寄るべない身の上になっていましては、ありとあらゆることを普通の人であれば考え尽くしていなければなりませんのに、どんなことにも幼稚で、ことに今のお話のようなことは、宮が生きておいでになりましたころにも、こんな話があればとかそうであればとか将来の問題としてほかの話の中ででもおっしゃらなかったことでしたから、やはり宮様のお心は、私たちはただこのままで、他の方のような結婚の幸福というようなことは念頭に置かずに一生を過ごすようにとお考えになったに違いないとそう思っているものですから、兵部卿の宮様のことにつきましても可否の言葉の出しようがないのでございます。けれど妹は若くて、こうした |
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1.2.11 | と、うち |
と、嘆息して途方に暮れていらっしゃったときの様子、たいそうおいたわしく感じられる。 |
と言って、物思わしそうに大姫君の歎息をするのが哀れであった。 |
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第三段 薫、弁を呼び出して語る |
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1.3.1 | てきぱきと一人前に振る舞っても、どうして賢くことをお決めになれようかと、もっともに思われて、いつものように、老女を召し出して相談なさる。 |
中の君の結婚談にもせよはっきりと年長者らしく、若い貴女は縁組みの話の賛否を言い切りうるはずはないのである、と同情した薫は、別の所で例の老女の弁を呼び出して、 |
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1.3.2 | 「 |
「今までは、ただ来世の事を願う気持ちで参っておりましたが、何となく心細そうにお思いであったようなご晩年に、この姫君たちのことを、考え通りにお世話申し上げるようにおっしゃり約束したのですが、お考え置き申されたご様子とは違って、お二人の気持ちが、とてもとても困ったことに強情なのは、どのようにお考え置きになっていた人が別であったのかと、疑わしくまで思われます。 |
「以前は宮様を仏道の導きとしてお |
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1.3.3 | おのづから いとあやしき |
自然とお聞き及びになっていることもありましょう。 とても妙な性質で、世の中に執着することはなかったが、前世からの因縁でしょうか、こんなにまでお親しみ申したのでしょう。 世間の人もだんだんと噂するらしくもあるから、同じことなら故人のご遺言にお背き申さず、わたしも姫君も、世間の普通の男女のように心をお交わし申したい、と思い寄りましたのは、不似合いなことであっても、そのような例もないわけではありません」 |
あなたは世間で言っていることも聞いておいでになるでしょう、変わった性情から私は人間並みに結婚をしようというような考えは全然捨てていたものでした。それが宿命というものなのでしょうか、こちらの姫君に心をお |
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1.3.4 | などのたまひ |
などとおっしゃり続けて、 |
と薫は話し続け、また、 |
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1.3.5 | 「宮のお身の上を、このように申し上げるのに、不安でないと、気をお許しにならないご様子なのは、内々で、やはり他にお考えの人がいるのでしょうか。 さあ、どうなのですか、どうなのですか」 |
「兵部卿の宮様のことも、私がお勧めしている以上は安心して御承諾くだすっていいものを、そうでないのはお二方の女王様にそれぞれ別なお望みがあるのではないのですか。あなたからでもよく聞きたいものですよ。ねえ、どんなお望みがあるのだろう」 |
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1.3.6 | と嘆きながらおっしゃるので、いつもの、良くない女房連中などは、このようなことには、憎らしいおせっかいを言って、調子を合わせたりなどするようであるが、まったくそうではなく、心の中では、「理想的なお二人方の縁談だわ」と思うが、 |
とも、物思わしそうにして言うのであった。こんな時によくない女房であれば、姫君がたを批難したり、自身の立場を有利にしようとしたり試みるものであるが、弁はそんな女ではなかった。心の中では二人の女王の上にこの縁がそれぞれ成立すればどんなにいいであろうとは思っているのであるが、 |
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第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き) |
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1.4.1 | 「もともと、このように人と違っていらっしゃるお二方のご性格のせいでしょうか、どうしてもどうしても、世間の普通の人のように、何やかやと世間並みの結婚を、お考えになっていらっしゃるご様子でございません。 |
「初めからそんなふうに少し変わった御性格なのでございますからね。どうして、どうしてほかの方を対象にお考えなどなさるものでございますか。 | ||||||||||||||||||||||
1.4.2 | かくて、さぶらふこれかれも、 |
こうして、仕えております誰彼も、今まででさえ、何の頼りになる庇護もございませんでした。 身を捨てがたく思う者たちだけは、身分身分に応じて暇をもらって離れ去り、昔からの古い縁故の人も、多くはお見限り申した邸に、まして今では、立ち止まりがたそうに困り合っておりまして、ご在世中にこそ、格式もあって、不釣合なご結婚は、お気の毒だわなどと、昔気質の律儀さから、おためらいになっていました。 |
女房なども宮様のおいでになりました当時と申しても何の頼もしいところのある親王家ではなかったのですから、わが身を犠牲にしますのを喜びません人たちは、それぞれに相当な行く先を作ってお暇をとってまいるのでございましてね。昔のいろいろな関係で切るにも切られぬ主従の御縁のある人でも、こんなにだれもが出て行ってしまいますのを見ておりましては、しばらくでも残っているのがいやでならぬふうを見せましてね、そしてまたその人たちは姫君がたに、『宮様の御在世中はお相手によって尊貴なお家を傷つけるかと御遠慮もあそばしたでしょうが、 | |||||||||||||||||||||
1.4.3 | いかなる |
今では、このように、他に頼りのいないお身の上の方たちで、どのようにもどのようにも、成り行き次第に身を任せなさるのを、むやみに悪口を申し上げるような人は、かえって物の道理を知らず、言いようもないことでしょう。 どのような人が、まことにこうして一生をお送りなさることができましょうか。 |
お心細いお二人きりにおなりになったのですもの、どんな結婚でもなすったらいいはずです、それをとやかくと言う人はもののわからぬ人間だとかえって軽蔑あそばしたらいいのです、どうしてこんなふうにばかりしておいでになることができますか、 | |||||||||||||||||||||
1.4.4 | 松の葉を食べて修業する山伏でさえ、生きている身の捨て難いことによって、仏のお教えも、それぞれの流派をつくって行っている、などというような、よくないことをご忠告申し上げ、若いお二方のお気持ちがお迷いになることが多くございますようですが、志操を曲げようともなさらず、中の宮を、何とか一人前にして差し上げたい、とお思い申し上げていらっしゃるようでございます。 |
松の葉を食べて行をするという坊様たちでさえ、生きんがために都合のよい一派一派を開いていくものでございますから』などと、こんないやなことを申しましてね、若い姫君がたのお心を苦しめまして利己的に媒介者になろうといたしますが、女王様はそんな浮薄な言葉にお動きになるような方がたではございません。お妹様だけには人並みな幸福を得させたいとお考えになっているようでございます。 | ||||||||||||||||||||||
1.4.5 | かく |
このように山奥にお訪ね申し上げなさるようなお志の、幾年もお世話していただくご行為に対しても、親しくお思い申し上げなさって、今ではあれやこれやと、こまごまとした方面のこともご相談申し上げていらっしゃるようで、あの御方を、おっしゃるようお望み申してくださるならば、とお思いのようです。 |
こうした |
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1.4.6 | 宮のお手紙などがございますようなのは、全然真剣な気持ちからではあるまい、とお考えのようです」 |
兵部卿の宮様からお手紙は始終おいただきになるのですが、それは誠意のある求婚者だとも認めておられないようでございます」 |
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1.4.7 | と |
と申し上げると、 |
弁は姫君の意志を伝えようとしただけである。 |
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1.4.8 | 「あはれなる |
「おいたわしいご遺言を聞きおき、露の世に生きている限りは、お付き合いを願いたいとの気持ちなので、どちらの方とご一緒になっても、同じことになるでしょうが、そのようにまで、お考えになっているというのは、まことに嬉しいことですが、心の惹かれる方は、これほど捨て切った世なのですが、やはり執着してしまうものなので、今さらそのようには考え改められません。 世間並みのあだっぽい恋ではないのですよ。 |
「宮様の御遺言を身に |
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1.4.9 | ただかやうにもの |
ただこのような物を隔てて、言い残した状態でなく、差し向かいで、とにもかくにも無常の世の話を、隔て心なく申し上げて、お隠しになるお心の中をすっかり打ち明けてお相手してくださるなら、兄弟などのように親しい人もなくて、とても淋しいので、世の中の思うことの、しみじみとしたこと、おもしろいこと、悲しいことも、その時々の思いを、胸一つに収めて過ごしてきた身の上なので、何と言っても頼りなく思われるので、親しくお頼み申し上げるのです。 |
ただ今のようなふうに何かを隔てたままでも、何事に限らず話し合う相手にいつまでもなっていていただきたいだけです。私には |
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1.4.10 | その |
后の宮は、親しく、そのように何ということなく思いのままのこまごまとしたことを、申し上げられる方ではありません。 三条の宮は、母親と申し上げるほどでもないお若々しさですが、分限がありますので、気安くお親しみ申し上げることはできません。 その他の女性は、すべてたいそう疎々しく、気が引けて恐ろしく思われて、自ら求めて結婚相手もなく心細いのです。 |
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1.4.11 | なほざりのすさびにても、 |
いい加減な好き心からも、懸想めいたことは、とても気恥ずかしくて性に合わず、体裁悪い不器用さで、まして心に思い詰めている方のことは、口に出すのも難しくて、恨めしくも鬱陶しくもお思い申し上げる様子をさえ見ていただけないのは、自分ながらこの上なく愚かしいことだ。 宮のお事をも、悪くお計らい申し上げまいと、お任せ下さいませんか」 |
その場かぎりの戯れ事でも恋愛に関したことはまぶしい気がして、人から見れば見苦しい |
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1.4.12 | などとおっしゃっていた。 老女は、老女で、これほど心細いので、理想的なご様子を、とても切に、そうして差し上げたいと思うが、どちらも気恥ずかしいご様子の方々なので、思いのままには申し上げられない。 |
こんなことを |
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第五段 薫、大君の寝所に迫る |
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1.5.1 | あざやかならず、もの |
今夜はお泊まりになって、お話などをのんびりと申し上げたくて、ぐずぐずして日をお暮らしになった。 はっきりとではないが、何か恨みがましいご様子、だんだんと無性に昂じて行くので、厄介になって、気を許してお話し申し上げることも、ますますつらいけれど、全体的にはめったにいない親切なご性格の方なので、ひどくすげないお扱いもできなくて、面会なさる。 |
薫は今夜を泊まることにして姫君とのどかに話がしたいと思う心から、その日を何するとなく山川をながめ暮らした。この人の態度が不鮮明になり、何かにつけて |
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1.5.2 | あらはに」など |
仏のいらっしゃる間の中の戸を開けて、御燈明の光を明るく照らさせて、簾に屏風を添えておいでになる。 外の間にも大殿油を差し上げるが、「疲れて無作法なので。 丸見えでは」などと制止して、横に臥せっていらっしゃった。 果物などを、特別なふうにではなく整えて差し上げさせなさった。 |
仏間と客室の間の戸をあけさせ、奥のほうの仏前には灯を明るくともし、隣との仕切りには 「少し疲れていて失礼な と言い、それをやめさせて薫は身を横たえていた。菓子などが客の |
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1.5.3 | うちとくべくもあらぬものから、なつかしげに |
お供の人びとにも、風流なお肴などをお出させなさった。 廊のような所に集まって、こちらの御前は人の気配を遠ざけて、しみじみとお話申し上げなさる。 気をお許しになるはずもないものの、優しそうに愛嬌がおありで、物をおっしゃる様子が、一方ならず心に染みいって、胸が切なくなるのもたわいない。 |
従者にも食事が出してあった。廊の座敷にあたるような |
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1.5.4 | 「かくほどもなきものの |
「このように何でもない隔て物だけを障害にして、もどかしく思っては過ごしてきた不器用さが、あまりにも馬鹿らしいな」と思い続けられるが、さりげなく平静を装って、世間一般の事柄を、しみじみと興味を惹くように、いろいろとおもしろくたくさんお話し申し上げなさる。 |
この何でもないものを越えがたい障害物のように見なして恋人に接近なしえない心弱さは愚かしくさえ自分を見せているのではないかと、こんなことを心中では思うのであるが、素知らぬふうを作って、世間にあったことについて、身にしむ話も、おもしろく聞かされることもいろいろと語り続ける中納言であった。 | |||||||||||||||||||||
1.5.5 | ものむつかしくて、 |
内側では、「女房たち、近くに」などとおっしゃっておいたが、「そんなにも、よそよそしくなさらないで欲しい」と思っているようなので、たいしてお守り申さず、尻ごみ尻ごみしながら、皆寄り臥して、仏の御燈明を明るくする人もいない。 何となく気づまりで、こっそりと人をお呼びになるが、目を覚まさない。 |
女王は女房たちに近い所を離れずいるように命じておいたのであるが、今夜の客は交渉をどう進ませようと思っているか計られないところがあるように思う心から、姫君をさまで護ろうとはしていず、遠くへ退いていて、 |
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1.5.6 | 「気分が悪く、苦しうございますので、少し休んで、明け方に再びお話し申し上げましょう」 |
「何ですか気分がよろしくなくなって困りますから、少し休みまして、夜明け方にまたお話を承りましょう」 |
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1.5.7 | とて、 |
と言って、お入りになろうとする様子である。 |
と、今や奥へはいろうとする様子が姫君に見えた。 |
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1.5.8 | 「山路を分け入って来ましたわたしは、あなた以上にとても苦しいのですが、このようにお話し申し上げたりお聞きしたりすることによって慰められております。 わたしを捨ててお入りになったら、たいそう心細いでしょう」 |
「遠く |
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1.5.9 | と言って、屏風を静かに押し開けてお入りになった。 たいそう気味悪くて、半分程お入りになったところ、引き止められて、ひどく悔しく気にくわないので、 |
薫はこう言って |
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1.5.10 | 「隔てなくとは、このようなことを言うのでしょうか。 変なことですね」 |
「隔てなくいたしますというのはこんなことを申すのでしょうか。奇怪なことではございませんか」 |
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1.5.11 | と、非難なさる様子が、ますます魅力的なので、 |
と批難の言葉を発するのがいよいよ魅力を薫に覚えしめた。 |
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1.5.12 | 「 めづらかなりとも、いかなる うたて、な |
「隔てない心を全然お分かりでないので、お教え申し上げましょうとね。 変なことだとも、どのようなことに、お考えなのでしょうか。 仏の御前で誓言も立てましょう。 嫌な、 お恐がりなさるな。お気持ちを損ねまいと初めから思 っておりますので。他人はこのようにも推量して思うまいでしょうが、世間の人と違った馬鹿正直者で通して |
「隔てないというお気持ちが少しも見えないあなたに、よくわかっていただこうと思うからです。奇怪であるとは、私が無礼なことでもするとお思いになるのではありませんか。仏のお前でどんな誓言でも私は立てます。決してあなたのお気持ちを破るような行為には出まいと初めから私は思っているのですから、お恐れになることはありませんよ。私がこんなに正直におとなしくしておそばにいることはだれも想像しないことでしょうが、私はこれだけで満足して夜を明かします」 |
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1.5.13 | と言って、奥ゆかしいほどの火影で、御髪がこぼれかかっているのを、掻きやりながら御覧になると、姫君のご様子は、申し分なくつやつやと美しい。 |
こう言って、薫は感じのいいほどな |
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第六段 薫、大君をかき口説く |
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1.6.1 | 「かく いかに |
「このように心細くひどいお住まいで、好色の男は邪魔者もないのだが、自分以外に訪ねて来る人もあったら、そのままにしておくだろうか。 どんなに残念なことだろうに」と、将来はもちろんのこと今までの優柔不断さまで、不安に思われなさるが、言いようもなくつらいと思ってお泣きになるご様子が、たいそうおいたわしいので、「このようにではなく、自然と心がとけてこられる時もきっとあるだろう」と思い続ける。 |
何の厳重な締まりもないこの山荘へ、自分のような自己を抑制する意志のない男が |
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1.6.2 | わりなきやうなるも |
無理やり迫るのも気の毒なので、体裁よくおなだめ申し上げなさる。 |
男性の力で恋を得ようとはせず、初めの心は隠して相手を |
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1.6.3 | 「このようなお気持ちとは思いよらず、不思議なほど親しくさせて頂いたことを、不吉な喪服の色など、見ておしまいになられる思いやりの浅さに、また自分自身の言いようのなさも思い知らされるので、あれこれと気の慰めようもありません」 |
「こんな心を突然お起こしになる方とも知らず、並みに過ぎて親しく今までおつきあいをしておりました。喪の姿などをあらわに御覧になろうとなさいましたあなたのお心の思いやりなさもわかりましたし、また私の抵抗の役だたなさも思われまして悲しくてなりません」 |
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1.6.4 | と |
と恨んで、何の用意もなく質素な喪服でいらっしゃる墨染の火影を、とても体裁悪くつらいと困惑していらっしゃった。 |
と恨みを言って、姫君は他人に見られる用意の何一つなかった自身の喪服姿を |
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1.6.5 | 「いとかくしも なかなかなる |
「まことにこのようにまでお嫌いになるわけもあるのかと、恥ずかしくて、申し上げようもありません。 喪服の色を理由になさるのも、もっともなことですが、長年お親しみなさったお気持ちの表れとしては、そのような憚らねばならないような、今始まったような事のようにお思いなさってよいものでしょうか。 かえってなさらなくてもよいご分別です」 |
「そんなにもお悲しみになるのは、私がお気に入らないからだと恥じられて、なんともお慰めのいたしようがありません。喪服を召していらっしゃる場合ということで私をお |
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1.6.6 | とて、かの |
と言って、あの琴の音を聴いた有明の月の光をはじめとして、季節折々の思う心の堪えがたくなってゆく有様を、たいそうたくさん申し上げなさると、「気恥ずかしいことだわ」と疎ましく思って、「このような気持ちでありながら何喰わぬ顔で真面目顔していらっしゃっのだわ」と、お聞きになることが多かった。 |
薫はそれに続いてあの |
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1.6.7 | お側にある低い几帳を、仏の方に立てて隔てとして、形ばかり添い臥しなさった。 名香がたいそう香ばしく匂って、樒がとても強く薫っている様子につけても、人よりは格別に仏を信仰申し上げていらっしゃるお心なので、気が咎めて、「服喪中の今、折もあろうに堪え性もないようで、軽率にも、当初の気持ちと違ってしまいそうなので、このような喪中が明けたころに、姫君のお気持ちも、そうはいっても少しはお緩みになるだろう」などと、つとめて気長に思いなしなさる。 |
薫はその横にあった短い |
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1.6.8 | いぎたなかりつる |
秋の夜の様子は、このような場所でなくてさえ、自然としみじみとしたことが多いのに、まして峰の嵐も籬の虫の音も、心細そうにばかり聞きわたされる。 無常の世のお話に、時々お返事なさる様子、実に見ごたえのある点が多く無難である。 眠たそうにしていた女房たちは、「こうなったのだわ」と、様子を察して皆下がってしまった。 |
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1.6.9 | 父宮がご遺言なさったことなどをお思い出しなさると、「なるほど、生き永らえると、意外なこのようなとんでもない目に遭うものだわ」と、何もかも悲しくて、水の音に流れ添う心地がなさる。 |
召使は信じがたいものであると父宮の言ってお置きになったことも女王は思い出していて、親の保護がなくなれば女も男も自分らを軽侮して、すでにもう今夜のような目にあっているではないかと悲しみ、宇治の |
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第七段 実事なく朝を迎える |
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1.7.1 | はかなく かたみにいと |
いつのまにか夜明け方になってしまった。 お供の人びとが起きて合図をし、馬どもが嘶く声も、旅の宿の様子など供人が話していたのを、ご想像されて、おもしろくお思いになる。 光が見えた方面の障子を押し開けなさって、空のしみじみとした様子を一緒に御覧になる。 女も少しいざり出でなさったが、奥行きのない軒の近さなので、忍草の露もだんだんと光が見えて行く。 お互いに実に優美な姿態、容貌を、 |
そして明け方になった。薫の従者はもう起き出して、主人に帰りを促すらしい作り 薫は明りのさしてくるのが見えたほうの |
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1.7.2 | 「何というのではなくて、ただこのように月や花を、同じような気持ちで愛で、無常の世の有様を話し合って、過ごしたいものですね」 |
「同じほどの友情を持ち合って、こんなふうにいつまでも月花に慰められながら、はかない人生を送りたいのですよ」 |
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1.7.3 | と、いとなつかしきさまして |
と、たいそう親しい感じでお語らい申されると、だんだんと恐ろしさも慰められて、 |
薫がなつかしいふうにこんなことをささやくのを聞いていて、女王はようやく恐怖から放たれた気もするのであった。 |
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1.7.4 | 「このように面と向かっての体裁の悪い恰好でなく、何か物を隔ててなどしてお答え申し上げるならば、ほんとうに心の隔てはまったくないのですが」 |
「こんなにあからさまにしてお目にかかるのでなく、何かを隔ててお話をし合うのでしたら、私はもう少しも隔てなどを残しておかない心でおります」 |
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1.7.5 | といらへたまふ。 |
とお答えなさる。 |
と女は言った。 | |||||||||||||||||||||
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1.7.6 | 明るくなってゆき、群鳥が飛び立ち交う羽風が近くに聞こえる。 まだ暗いうちの朝の鐘の音がかすかに響く。 「今は、とても見苦しいですから」と、とても無性に恥ずかしそうにお思いになっていた。 |
外は明るくなりきって、幾種類もの川べの鳥が目をさまして飛び立つ羽音も近くでする。 |
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1.7.7 | 「ことあり また、 よにうしろめたき かばかりあながちなる |
「事あり顔に朝露を分けて帰ることはできません。 また、人はどのように推量申し上げましょうか。 いつものように穏便にお振る舞いになって、ただ世間一般と違った問題として、今から後も、ただこのようにしてくださいませ。 まったく不安なことはないとお思いください。 これほど一途に思い詰める心のうちを、いじらしいとお分かりくださらないのは効ないことです」 |
「私が恋の成功者のように朝早くは出かけられないではありませんか。かえってまた他人はそんなことからよけいな想像をするだろうと思われますよ。ただこれまでどおり普通に私をお扱いくださるのがいいのですよ。そして世間のとは内容の違った夫婦とお思いくだすって、今後もこの程度の接近を許しておいてください。あなたに礼を失うような |
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1.7.8 | とて、 あさましく、かたはならむとて、 |
と言って、お帰りなるような様子もない。 あきれて、見苦しいことと思って、 |
こんなことを言っていて、薫はなおすぐに出て行こうとはしない。それは非常に見苦しいことだと姫君はしていて、 |
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1.7.9 | 「今から後は、そのようなことなので、仰せの通りにいたしましょう。 今朝は、またお願い申し上げていることを聞いてくださいませ」 |
「これからは今あなたがお言いになったとおりにもいたしましょう。 |
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1.7.10 | とて、いとすべなしと |
と言って、ほんとうに困ったとお思いなので、 |
と言う。いかにも心を苦しめているのが見える。 |
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1.7.11 | 「ああ、つらい。 暁の別れだ。 まだ経験のないことなので、なるほど、迷ってしまいそうだ」 |
「私も苦しんでいるのですよ。朝の別れというものをまだ経験しない私は、昔の歌のように帰り |
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1.7.12 | と |
と嘆きがちである。 鶏も、どこのであろうか、かすかに鳴き声がするので、京が自然と思い出される。 |
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1.7.13 | 「山里の情趣が思い知られます鳥の声々に あれこれと思いがいっぱいになる朝け方ですね」 |
「山里の哀れ知らるる声々に とりあつめたる朝ぼらけかな」 |
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1.7.14 | 女君、 |
姫君はそれに答えて、 |
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1.7.15 | 「鳥の声も聞こえない山里と思っていましたが 人の世の辛さは後を追って来るものですね」 |
「鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを よにうきことはたづねきにけり」 |
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1.7.16 | 障子口までお送り申し上げなさって、昨夜入った戸口から出て、お臥せりになったが、眠ることはできない。 名残惜しくて、「ほんとにこのようにせつなく思うのだったら、幾月も今までのんびりと構えていられなかったろうに」などと、帰ることを億劫に思われなさる。 |
と言った。姫君の居間の |
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第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う |
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1.8.1 | 姫宮は、女房がどう思っているだろうかと気が引けるので、すぐには横におなりになれず、「頼みにする親もなくて世の中を生きてゆく身の上のつらさを、仕えている女房連中も、つまらない縁談の事を何やかやと、次々に従って言い出すようだから、望みもしない結婚になってしまいそうだ」と思案なさる一方で、 |
姫君は人がどんな想像をしているかと思うのが恥ずかしくて、すぐにも |
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1.8.2 | 「この みづからの |
「この人のご様子や態度が、疎ましくはなさそうだし、故宮も、そのような気持ちがあったらと、時々おっしゃりお考えのようだったが、自分自身は、やはりこのように独身で過ごそう。 自分よりは容姿も容貌も盛りで惜しい感じの中の宮を、人並みに結婚させたほうが嬉しいだろう。 妹の身の上のことなら、心の及ぶ限り後見しよう。 自分の身の世話は、他に誰が見てくれようか。 |
薫は |
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1.8.3 | この |
この人のお振舞が、いい加減ででたらめならば、このように親しんできた年月のせいで、気を緩める気持ちもありそうなのだが、立派すぎて近づきがたい感じなのも、かえってひどく気後れするので、自分の人生はこうして独身で終えよう」 |
薫が今少し平凡な男であれば、長く持ち続けられた好意に対してむくいるために、妻になる気が起きたかもしれぬ。けれどあの人はそうでない、あまりにすぐれた男である、気品が高く近づきにくいふうもあるではないか、自分には不似合いに思われてならぬ、自分は今までどおりの寂しい運命のままで一人いよう | |||||||||||||||||||||
1.8.4 | と |
と思い続けて、つい声を立てて泣き泣き夜を明かしなさったが、そのため気分がとても悪いので、中の宮が臥していらっしゃった奥の方に添ってお臥せりになる。 |
と、思い続けて朝まで泣いていたあとの |
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1.8.5 | いつもと違って、女房がささやいている様子が変だと、この宮はお思いになりながら寝ていらっしゃったが、こうしていらっしゃったので、嬉しくて、御衣を引き掛けて差し上げなさると、御移り香が隠れようもなく、薫ってくる感じがするので、宿直人がもてあましていたことが思い合わされて、「ほんとうなのだろう」と、お気の毒に思って、眠ってしまったようにして何もおっしゃらない。 |
昨夜は平常とは変わっておそくまで話し声がするのを怪しく思いながら、中の君は寝入ったのであったから、大姫君のこうして来たのがうれしくて、夜着を姉の上へ掛けようとした時に、高いにおいがくゆりかかるように立つのを知った。あの |
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1.8.6 | 「 |
客人は、弁のおもとを呼び出しなさって、こまごまと頼みこんで、ご挨拶をしかつめらしく申し上げおいてお出になった。 「総角の歌を戯れの冗談にとりなしても、自分から、一尋ほどの隔てはあったにしてもお会いしたものと、この君もお思いだろう」と、ひどく恥ずかしいので、気分が悪いといって、一日中横になっていらっしゃった。 女房たちは、 |
薫は朝になってからまた老女の弁に 昨日は |
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1.8.7 | 「法事までの日数が少なくなりました。 しっかりと、ちょっとしたことでさえも、他にお世話いたす人もいないので、あいにくのご病気ですこと」 |
「もう御仏事までに日がいくらもなくなりましたのに、そのほかには小さいこともはかばかしくできる人もない時のあやにくな姫君の御病気ですね」 |
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1.8.8 | と申し上げる。 中の宮は、組紐など作り終えなさって、 |
などと言っていた。組紐が皆出来そろってから、中の君が来て、 |
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1.8.9 | 「心葉などを、どうしてよいか分かりません」 |
「飾りの |
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1.8.10 | と、無理におせがみ申し上げなさるので、暗くなったのに紛れてお起きになって、一緒に結んだりなどなさる。 中納言殿からお手紙があるが、 |
と訴えるのを聞いて、もうその時にあたりも暗くなっていたのに紛らして、姫君は起きていっしょに紐結びを作りなどした。 源中納言からの手紙の来た時、 |
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1.8.11 | 「 |
「今朝からとても気分が悪くて」 |
「 |
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1.8.12 | とて、 |
と言って、人を介してお返事申し上げなさる。 |
と取り次ぎに言わせて、返事を出さなかったのを、 | |||||||||||||||||||||
1.8.13 | 「いかにも、見苦しく、子供っぽくいらっしゃいます」 |
あまりに苦々しい態度だ | ||||||||||||||||||||||
1.8.14 | と、女房たちはぶつぶつ申し上げる。 |
と |
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第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる |
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第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問 |
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2.1.1 | 御服喪などが終わって、お脱ぎ捨てになったのにつけても、片時の間も生き永らえようとは思わなかったが、あっけなく過ぎてしまった月日の間をお思いなると、ひどく思ってもいなかった身のつらさと、泣き沈んでいらっしゃるお二方のご様子が、まことにお気の毒である。 |
喪の期が過ぎて除服をするにつけても、片時も父君のあとには生き残る命と思わなかったものが、こうまで月日を重ねてきたかと、これさえ薄命の中に数えて二人の |
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2.1.2 | 幾月も黒い喪服を着馴れていらしたお姿が、薄鈍色になって、たいそう優美なので、中の宮は、なるほど女盛りで、可憐な感じが勝っていらっしゃった。 御髪などを洗い清めさせて整わせて拝見なさると、この世の憂いが忘れる気がして素晴らしいので、心中密かに、「近づいて見劣りがすることはないだろう」と、頼もしく嬉しくて、今は他に見譲る人もいなくて、親代わりになって大切にお世話申し上げなさる。 |
一か年 |
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2.1.3 | かの 「 |
あの方は、ご遠慮申し上げなさった服喪期間中もお改まりになっていような九月も、待ちきれず、再びおいでになった。 「いつものようにお会い申したい」と、またご挨拶があるので、気分が悪くなって、厄介に思われるので、何かと言い訳申し上げてお会いなさらない。 |
薫はいくぶんの遠慮がされた恋人の喪服ももう脱がれた時と思って、結婚の初めには不吉として人のきらう九月ではあったが、待ちきれぬ心でまた宇治へ行った。これまでのようにして話し合いたいと取り次ぎの女は薫の意を伝えて来るのであったが、 「不注意からまた病をしまして苦しんでいる際ですから」 というような返事ばかりを言わせて大姫君は会おうとしなかった。 |
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2.1.4 | 「意外に冷たいお心ですね。 女房たちもどのように思うでしょう」 |
「存外にあなたは人情味に欠けた方です。女房たちが私をどう見ていることでしょう。」 |
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2.1.5 | と、 |
と、お手紙で申し上げなさった。 |
と今度は |
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2.1.6 | 「今を限りと脱ぎ捨てました時の悲しみに、かえって前より塞ぎこんでおりまして、お返事申し上げられません」 |
「父の喪服を脱ぎました際の悲しみがずっと続きまして、かえって今のほうが深い暗さの中に沈んでおります私ですから、お話を承ることができませぬ。」 |
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2.1.7 | とあり。 |
とある。 |
返事はこう書いて出された。 | |||||||||||||||||||||
2.1.8 | 恨みのやりばがなくて、いつもの女房を召して、いろいろとおっしゃる。 世にまたとない心細さの慰めとしては、この君だけをお頼み申し上げていた女房たちなので、思い通りに結婚なさって、世間並の住まいにお移りなどなさるのを、とてもおめでたいことと話し合って、「ただお入れ申そう」と、皆しめし合わせているのであった。 |
しかたのない気のする薫は、例のように弁を呼び出して、この人の力を借ろうと相談した。心細いこの山荘にいて源中納言だけを唯一の |
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第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める |
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2.2.1 | うちとくまじき |
姫宮、その様子を深くご存知ないが、「このように特別に一人前に親しくしているらしいので、気を許して、気がかりな考えがあるかもしれない。 昔物語にも、自分から、とかく事件が起こることはあろうか。 気を許してはならない女房の心であるようだ」と思い至りなさって、 |
姫君は女房たちがどんなことを計画しているかを深くは知らないのであるが、弁を特別な者にしてなつけている薫であるから、自分として油断のできぬ考えをしているかもしれぬ、昔の小説の中の姫君なども、自身の意志から恋の過失をしてしまうのは少ないのである、他の女房と質は違っても、弁には弁の利己心が働くはずであるからと、なんとなく今日の家の中の空気のただならぬのによって思い寄るところがあった。 | |||||||||||||||||||||
2.2.2 | 「せめて |
「せめて恨みが深いなら、この妹君を押し出そう。 たとえ見劣りする相手でも、そのように見初めては、いい加減には扱わないお心のようだから、わたし以上に、少しでも見初めたらきっと慰むことであろう。 言葉に表しては、どうして、急に乗り換える人があろうか。 希望通りでないと、承知する様子のないらしいのは、一つには、こちらの思うことを、筋違いに浅い思慮ではないかなどと、遠慮なさるだろう」 |
薫がしいて近づいて来た時には妹を自分の代わりに与えよう、目的としたものに劣っていたところで、そうして縁の結ばれた以上は軽率に捨ててしまうような性格の薫ではないのだから、ましてほのかにでも顔を見れば多大な慰めを感じるに価する妹ではないか、こんなことは話として持ち出しても、眼前に目的を変えて見せる人があるはずはない、この間から弁に言わせてもいるが、初めの志に違うなどと言って聞き入れるふうがないというのは、自分に対して今まで言っていたことが、こんなに根底の浅いものであったかと思わせることを避けているにすぎまい、 | |||||||||||||||||||||
2.2.3 | とご計画なさるが、「そのそぶりさえお知らせなさらなかったら、恨みを受けよう」と、我が身につまされてお気の毒なので、いろいろとお話になって、 |
とこう考えを決める姫君であったが、少しそのことを中の君に知らせておかないでその計らいをするのは仏法の罪を作ることではあるまいかと、先夜の闖入者に苦しんだ経験から妹の女王がかわいそうになり、ほかの話をした続きに、 |
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2.2.4 | 「 |
「故人のご意向も、世の中をこのように心細く終えようとも、かえって物笑いに、軽々しい考えをするな、などと遺言なさったが、在世中の御足手まといで、勤行のお心を乱した罪でさえ大変であったのに、今はの際に、せめてそのようにおっしゃった一言だけでも違えまい、と思いますので、心細いなどとも格別思わないが、この女房たちが、妙に強情者のように憎んでいるらしいのは、ほんとに訳が分かりません。 |
「お |
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2.2.5 | げに、さのみやうのものと |
女房の言うように、私と同じように独身でお過しになるのも、明け暮れの月日がたつにつけても、あなたのお身の上ばかりが、惜しくおいたわしく悲しい身の上とお思い申し上げていますが、せめてあなただけでも世間並みに結婚なさって、このようなわが身の有様も面目が立って、慰められるようお世話申し上げたい」 |
まあそう変わった人間に思われていてもいいとして、私のあなたと暮らしている月日があなたの青春をむだにしてしまうのではないかと、私はそれが始終惜しく思われてならないのですよ。気の毒でかわいそうでね。だからあなただけは普通の女らしく結婚をして、あなたの幸福を見ることで私も慰められるようになりたい気がします」 |
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2.2.6 | と申し上げなさると、どのようにお考えなのかと、情けなくなって、 |
と言うと、どんな考えがあって姉君はこんなことを言いだしたのであろうと急に情けなく中の君はなって、 |
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2.2.7 | 「お一人だけが、そのように独身で終えなさいとは、申されたでしょうか。 頼りないわが身の不安さは、よけいあるように、お思いのようでした。 心細さの慰めには、このように朝夕にお目にかかるより他に、どのような手段がありましょうか」 |
「あなたお一人だけにお残しになった御訓戒だったのでしょうか。あなたほど |
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2.2.8 | と、何やら恨めしそうに思っていらっしゃるので、なるほどと、お気の毒になって、 |
少し恨めしがるふうに中の君の言うのが道理に思われて姫君はかわいそうに見た。 |
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2.2.9 | 「やはり、誰も彼もが困った強情者のように言い思っているらしいのにつけても、途方に暮れておりますよ」 |
「いいえね、女房たちが私らを |
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2.2.10 | と、 |
と、言いかけてお止めになった。 |
あとはこんなふうにだけより言わなかった。 | |||||||||||||||||||||
第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す |
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2.3.1 | 日が暮れて行くのに、客人はお帰りにならない。 姫宮は、とても困ったことだとお思いになる。 弁が参って、ご挨拶などをもお伝え申し上げて、お恨みになるのもごもっともなことを、こまごまと申し上げると、お返事もなさらず、お嘆きになって、 |
日は暮れていくが京の客は帰ろうとしない。姫君は困ったことであると思っていた。弁が来て薫の言葉を伝えてから、あの人の恨むのが道理であると言葉を尽くして言うのに対して、答えもせず、歎息をしている姫君は、 | ||||||||||||||||||||||
2.3.2 | 「いかにもてなすべき ある |
「どのように振る舞ったらよいものか。 どちらかの親が生きていらっしゃったら、どうなるにせよ、親からお世話され申して、運命というものにつけても、思い通りにならない世の中なので、すべてよくあることとして、物笑いの非難も隠れるというもの。 仕えている女房は皆年をとり、賢そうに自分自身では思いながら、いい気になって、お似合いのご縁だと言い聞かせるが、これが、しっかりしたことだろうか。 一人前でもない考えで、ただ勝手に言っているばかりだ」 |
どうすればよい自分なのであろう、父宮さえおいでになれば、何となるにもせよ、だれの妻になるにもせよ、娘として取り扱われて、宿命というものがある人生であってみれば、自身の意志でなくとも人の妻になることもあろうし、結婚生活が不幸なことになっても、親に選ばれた |
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2.3.3 | と |
とお考えになると、引き動かさんばかりにお勧め申し上げ合うのも、まことにつらく嫌な感じがして、従う気になれない。 同じ気持ちで何事もご相談申し上げなさる中の宮は、このような結婚に関する話題には、もう少しご存知なくおっとりして、何ともお分かりでないので、「変わった身の上だわ」と、ただ奥の方に向いていらっしゃるので、 |
彼女らの見る世界は狭く、その判断力は信じられないと思っている姫君は、その人たちが力で引き動かそうとせんばかりにして言うことも、いやなこととより聞かれず心の動くことはないのである。どんなことも話し合う妹の女王はこうした結婚とか恋愛とかいうことについては姫君よりもいっそう関心を持たぬようであったから、圧迫を感じる近ごろの話をしても、そう深く苦しい心境に立ち入っては来てくれないのであったから、姫君は一人で歎くほかはなかった。 |
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2.3.4 | 「いつもの服装にお召し替えなさいませ」 |
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2.3.5 | などと、お勧め申し上げながら、皆、お目にかからせようという考えのようなので、あきれて、「なるほど、何の支障があるだろうか。 手狭な所で、このようなご生活の仕方ない、山梨の花」、逃げることもできないのであった。 |
とか女房らが言っていて、だれもが今夜で結婚が成立するもののようにして、こそこそとその用意をするらしいのを、姫君はあさましく思っていた。皆が心を合わせてすれば、狭い山荘の内で隠れている所もないのである。 |
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2.3.6 | 客人は、こうあからさまに、誰それにも口を出させず、「こっそりと、いつから始まったともなく運びたい」と初めからお考えになっていたことなので、 |
薫はこんなふうにだれもが騒ぎ立てることを願っていず、そうした者を介在させずにいつから始まったことともなく恋の成立していくのを以前から望んでいたのであって、 | ||||||||||||||||||||||
2.3.7 | 「お許しくださらないならば、いつもいつも、このようにして過ごそう」 |
姫君の心が自分へ傾くことのない間はこのままの関係でよい | ||||||||||||||||||||||
2.3.8 | とお考えになりおっしゃるが、この老女が、それぞれと相談しあって、あからさまにささやき、そうは言っても、浅はかで老いのひがみからか、お気の毒に見える。 |
とも思っているのであるが、老女の弁が自身だけでは足らぬように思って、他の女たちに助力を求めたために、あらわにだれもが私語することになったのである。多少洗練されたところはあっても、もともとあさはかな女であるにすぎぬ弁が、その上老いて頭の働きが鈍くなっているせいでもあろう。 | ||||||||||||||||||||||
第四段 大君、弁と相談する |
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2.4.1 | 姫宮、お困りになって、弁が参ったのでおっしゃる。 |
不快に思っていた姫君は、弁の出て来た時に、 |
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2.4.2 | 「 |
「長年、世間の人と違ったご好意とばかりおっしゃっていたのを聞いており、今となっては、何でもすっかりお頼み申して、不思議なほど親しくしていたのですが、思っていたのと違ったお気持ちがおありで、お恨みになるらしいのは困ったことです。 世間の人のように夫を持ちたい身の上ならば、このような縁談も、どうしてお断りなどしましょう。 |
「お |
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2.4.3 | されど、 この げに、かかる なほ、かうやうによろしげに |
けれども、昔から思い捨てていた考えなので、とてもつらいことです。 この妹君が盛りをお過ぎになるのも残念です。 なるほど、このような住まいも、ただこの君のためにも不都合にばかり思われますが、ほんとうに亡き宮をお思い出し申し上げるお気持ちならば、同じようにお考えになってください。 身を分けた妹に心の中はすべて譲って、お世話申し上げたい気がするのです。 やはり、このようによろしく申し上げてくださいね」 |
しかし、私は昔から現世のことに執着を持たぬ女だものですから、お言いくださいますことはただ苦しいばかりにしか承れないのでございます。それで思いますのは妹のことでございます。むなしくその人に青春を過ぎさせてしまうのが私として忍ばれないことに思われます。この山荘の生活も、あなた様の御好意だけで続けていかれる現状なのですから、父を御追慕してくださいますお志がございましたら、妹を私に代えてお愛しくださいませ。身は身として、心は皆妹のために与えていくつもりでございますとね。この意味をもっとあなたが |
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2.4.4 | と、 |
と、恥ずかしがっているが、望んでいることをおっしゃり続けたので、まことにおいたわしいと拝する。 |
と、恥じながらも要領よく姫君は言った。弁は同情を禁じがたく思った。 |
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2.4.5 | 「さのみこそは、さきざきも それも |
「そのようにばかりは、以前にもご様子を拝見しておりますので、とてもよく申し上げましたが、そのようにはお考え改めることはできず、兵部卿宮のお恨みの、深さが増すようなので、またそれはそれで、とても十分にご後見申し上げたい、と申されています。 それも願ってもないことです。 ご両親がお揃いで、特別に、たいそうお心をこめてお育て申し上げなさるにしましても、とても、このようにめったにないご縁談ばかりも、続いて来ないでしょう。 |
「あなた様のそういう |
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2.4.6 | かしこけれど、かくいとたつきなげなる |
恐れ多いことですが、このようにとても頼りなさそうなご様子を拝見すると、果てはどのようにおなりあそばすのだろうかと、不安で悲しくばかり拝見していますが、将来のお心は分かりませんけれど、お二方ともご立派で素晴らしいご運勢でいらっしゃったのだと、何はともあれお思い申し上げます。 |
失礼な言葉ですが、こんなふうに不十分なお暮らしをあそばすのを拝見しておりますと、どうおなりになるのかと、私どもは不安で、悲しくてなりませんのにお一方様のお心持ちはまだ私はわかっておりませんでございますが、ともかくも最も高いお身分の方でいらっしゃいます。 | |||||||||||||||||||||
2.4.7 | 故宮のご遺言に背くまいとお考えあそばすのはごもっともなことですが、それは、婿にふさわしい方がいらっしゃらず、身分の不釣合なことがおありだろうとお考えになって、ご忠告申し上げなさったようなのではございませんか。 |
宮様の御遺言どおりにしたいと思召すのはごもっともですが、それは似合わしからぬ人が求婚者として現われてまいらぬかと、その場合を御心配あそばして仰せになりましたことで、 | ||||||||||||||||||||||
2.4.8 | この ほどほどにつけて、 |
この殿の、そのようなお気持ちがおありでしたら、お一方を安心してお残し申せて、どんなに嬉しいことだろうと、時々おっしゃっていました。 身分相応に、愛する人に先立たれなさった人は、身分の高い人も低い人も、思いの他に、とんでもない姿でさすらう例さえ多くあるようです。 |
中納言様にどちらかの |
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2.4.9 | それ まして、かくばかり、ことさらにも |
それはみな憂き世の常のようですので、非難する人もございません。 まして、これほどに、特別に誂えたような方のご様子で、ご愛情も深くめったにないように求婚申し上げなさるのを、むやみに振り切りなさって、お考えおいていたように、出家の本願をお遂げなさったとしても、そうかといって雲や霞を食べて生きらえましょうか」 |
たくさんに例のあることでございまして、それはしかたのないこととして、だれも |
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2.4.10 | など、すべてこと |
などと、総じて言葉数多く申し上げ続けると、とても憎く気にくわないとお思いになって、うつ伏しておしまいになった。 |
とも能弁に言い続ける老女を憎いように思い、姫君はうつぶしになって泣いていた。 | |||||||||||||||||||||
第五段 大君、中の君を残して逃れる |
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2.5.1 | うしろめたく、いかにもてなさむ、とおぼえたまへど、ことさらめきて、さし |
中の宮も、ひとごとながらおいたわしいご様子だわと、拝見なさって、一緒にいつものようにお寝みになった。 気がかりで、どのように対処しようか、と思われなさるが、わざとらしく引き籠もって身をお隠しになる物蔭さえないお住まいなので、柔らかく美しい御衣を、上にお掛け申し上げなさって、まだ暑いころなので、少し寝返りして臥せっていらっしゃった。 |
中の君もわけはわからぬながら姉君の様子を気の毒に思ってながめていた。そしていっしょに常の夜のように寝室へはいった。 薫が客となって泊まっている今夜であることを姫君は思うと気がかりで、どういう処置を取ろうかと考えられるのであったが、特に四方の戸をしめきってこもっておられるような所もない山荘なのであるから、中の君の上に柔らかな地質の美しい夜着を |
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2.5.2 | 「いかなれば、いとかくしも |
弁は、おっしゃったことを客人に申し上げる。 「どうして、ほんとにこのように結婚を思い断っていらっしゃるのだろう。 聖めいていらした方の側にいて、無常をお悟りになったのか」とお思いになると、ますます自分の心と似通っていると思われるので、利口ぶった憎い女とも思われない。 |
弁は姫君の言ったことを薫に伝えた。どうしてそんなに結婚がいとわしくばかり思われるのであろう、聖僧のようでおありになった父宮の感化がしからしめるのかと、人生の無常さを深く悟っている心は、自分の内にも共通なものが見いだせる薫には、それが感じ悪くは思われない。 |
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2.5.3 | 「それでは、物越しに会うのでも、今はとんでもないこととお考えなのですね。 今夜だけは、お寝みになっている所に、こっそりと手引きせよ」 |
「ではもう物越しでお話をし合うことも今夜はしたくないという気におなりになったのだね。最後のこととして今夜だけでいいから御寝室へ私をそっと導いて行ってください」 |
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2.5.4 | とおっしゃるので、気をつけて、他の女房を早く寝静めたりして、事情を知っている者同志は手筈をととのえる。 |
と中納言は言った。老女はその頼み事をよく運ばせようとして、他の女房たちを皆早く寝させてしまい、計画を知らせてある人たちとともに油断なく時の来るのを待っていた。 | ||||||||||||||||||||||
2.5.5 | 宵を少し過ぎたころに、風の音が荒々しく吹くと、頼りない邸の蔀などは、きしきしと鳴る紛らわしい音に、「人がこっそり入っていらっしゃる音は、お聞きつけになるまい」と思って、静かに手引きして入れる。 |
荒い風が吹き出して簡単な |
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2.5.6 | いと |
同じ所にお寝みなっているのを、不安だと思うが、いつものことなので、「別々にとはどうして申し上げられよう。 ご様子も、はっきりとお見知り申していらっしゃるだろう」と思ったが、少しもお眠りになることもできないので、ふと足音を聞きつけなさって、そっと起き出しておしまいになった。 とても素早く這ってお隠れになった。 |
二人の女王の同じ帳台に寝ている点を不安に思ったのであるが、これが毎夜の習慣であったから、今夜だけを別室に一人一人でとは初めから姫君に言いかねたのである。二人のどちらがどれとは薫にわかっているはずであるからと弁は思っていた。 物思いに眠りえない姫君はこのかすかな足音の聞こえて来た時、静かに起きて帳台を出た。それは非常に迅速に行なわれたことであった。 |
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2.5.7 | 無心に寝ていらっしゃるのを、とてもお気の毒に、どのようにするのかと、胸がどきりとして、一緒に隠れたいと思うが、そのように立ち戻ることもできず、震えながら御覧になると、灯火がほのかに明るい中に、袿姿で、いかにも馴れ馴れしく、几帳の帷子を引き上げて中に入ったのを、ひどくおいたわしくて、「どのようにお思いになっているだろう」と思いながら、粗末な壁の面に、屏風を立てた背後の、むさ苦しい所にお座りになった。 |
無心によく |
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2.5.8 | 「あらましごとにてだに、つらしと |
「将来の心積もりとして話しただけでも、つらいと思っていらっしゃったのを、まして、どんなに心外にお疎みになるだろう」と、とてもおいたわしく思うにつけても、すべてしっかりした後見もいなくて、落ちぶれている二人の身の上の悲しさを思い続けなさると、今を限りと山寺にお入りになった父宮の夕方のお姿などが、まるで今のような心地がして、ひどく恋しく悲しく思われなさる。 |
ただ抽象的な話として言ってみた時でさえ、自分の考え方を恨めしいふうに言った人であるから、ましてこんなことを |
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第六段 薫、相手を中の君と知る |
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2.6.1 | 中納言は、独り臥していらっしゃるのを、そのつもりでいたのかと嬉しくなって、心をときめかしなさると、だんだんと違った人であったと分かる。 「もう少し美しくかわいらしい感じが勝っていようか」と思われる。 |
薫は帳台の中に寝ていたのは一人であったことを知って、これは弁の計っておいたことと見てうれしく、心はときめいてくるのであったが、そのうちその人でないことがわかった。よく似てはいたが、美しく |
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2.6.2 | あさましげにあきれ |
驚いてあきれていらっしゃるのを、「なるほど、事情を知らなかったのだ」と見えるので、とてもお気の毒でもあり、また思い返しては、隠れていらっしゃる方の冷淡さが、ほんとうに情けなく悔しいので、この人をも他人のものにはしたくないが、やはりもともとの気持ちと違ったのが、残念で、 |
驚いている顔を見て、この人は何も知らずにいたのであろうと思われるのが哀れであったし、また思ってみれば隠れてしまった恋人も情けなく恨めしかったから、これもまた他の人に渡しがたい愛着は覚えながらも、やはり最初の恋をもり立ててゆく障害になることは行ないたくない。 | |||||||||||||||||||||
2.6.3 | 「一時の浅い気持ちだったとは思われ申すまい。 この場は、やはりこのまま過ごして、結局、運命から逃れられなかったら、こちらの宮と結ばれるのも、どうしてまったくの他人でもないし」 |
そのようにたやすく相手の変えられる恋であったかとあの人に思われたくない、この人のことはそうなるべき宿命であれば、またその時というものがあろう、その時になれば自分も初めの恋人と違った人とこの人を思わず同じだけに愛することができよう | ||||||||||||||||||||||
2.6.4 | と気を静めて、例によって、風情ある優しい感じでお話して夜をお明かしになった。 |
という分別のできた薫は、例のように美しくなつかしい話ぶりで、ただ可憐な人と相手を見るだけで語り明かした。 |
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2.6.5 | 老女連中は、十分にうまくいったと思って、 |
老いた女房はただの話し声だけのする帳台の様子に失敗したことを思い、また一人はすっと出て行ったらしい音も聞いたので、 | ||||||||||||||||||||||
2.6.6 | 「中の宮は、どこにいらっしゃるのだろう。 不思議なことだわ」 |
中の君はどこへおいでになったのであろうか、わけのわからぬことである | ||||||||||||||||||||||
2.6.7 | と、たどりあへり。 |
と、探し合っていた。 |
といろいろな想像をしていた。 |
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2.6.8 | 「いくら何でも、どこかにいらっしゃるだろう」 |
「でも何か思いも寄らぬことがあるのでしょうね」 |
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2.6.9 | など |
などと言う。 |
とも言っていた。 |
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2.6.10 | 「おほかた |
「総じていつも、拝見すると皺の延びる気がして、素晴らしく立派でいつまでも拝見していたいご器量や態度を、どうして、とてもよそよそしくお相手申し上げていらっしゃるのだろう。 何ですか、これは世間の人が言うような、恐ろしい神様が、お憑き申しているのでしょうか」 |
「私たちがお顔を拝見すると、こちらの顔の |
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2.6.11 | と、 また、 |
と、歯は抜けて、憎たらしく言う女房がいる。 また、 |
歯の落ちこぼれた女が |
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2.6.12 | 「あな、まがまがし。 なぞのものか ただ、 |
「まあ、縁起でもない。 どんな魔物がお憑きになっているものですか。 ただ、世間離れして、お育ちになったようですから、このようなことでも、ふさわしくとりなして差し上げなさる人もなくていらっしゃるので、体裁悪く思わずにはいらっしゃれないのでしょう。 そのうち自然と拝しお馴れなさったら、きっとお慕い申し上げなさるでしょう」 |
「魔ですって、まあいやな、そんなものにどうして憑かれておいでになるものですか。ただあまりに人間離れのした環境に置かれておいでになりましたから、夫婦の道というようなことも |
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2.6.13 | など |
などと話して、 |
こんなことを言う者もあって | |||||||||||||||||||||
2.6.14 | 「すぐにうちとけて、理想的な生活におなりになってほしい」 |
しまいには皆いい気になり、どうか都合よくいけばいい | ||||||||||||||||||||||
2.6.15 | と |
と言いながら寝入って、いびきなどを、きまり悪いくらいにする者もいる。 |
と言い言いだれも寝入ってしまった。 |
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2.6.16 | 逢いたい人と過ごしたのではない秋の夜であるが、間もなく明けてしまう気がして、どちらとも区別することもできない優美なご様子を、自分自身でも物足りない気がして、 |
恋人のために秋の夜さえも早く明ける気がしたと故人の歌ったような間柄になっている女性といたわけではないが、夜はあっけなく明けた気がして、 |
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2.6.17 | 「あなたも愛してください。 とても情けなくつらいお方のご様子を、真似なさいますな」 |
「あなたも私を愛してください。冷酷な女王さんをお見習いになってはいけませんよ」 |
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2.6.18 | などと、後の逢瀬を約束してお出になる。 自分ながら妙に夢のように思われるが、やはり冷たい方のお気持ちを、もう一度見極めたいとの気で、気持ちを落ち着けながら、いつものように、出て来てお臥せりになった。 |
など、またまた機会のあろうことを暗示して出て行った。自分のことでありながら限りない淡泊な行動をとったと、夢のような気も薫はするのであるが、それでもなお無情な人の真の心持ちをもう一度見きわめた上で、次の問題に移るべきであると、不満足な心をなだめながら帰って来た例の客室で横たわっていた。 |
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第七段 翌朝、それぞれの思い |
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2.7.1 | 弁が参って、 |
弁が帳台の所へ来て、 |
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2.7.2 | 「ほんとうに不思議に、中の宮は、どこにいらっしゃるのだろう」 |
「お見えになりませんが、中姫君はどちらにおいでになるのでございましょう」 |
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2.7.3 | と言うのを、とても恥ずかしく思いがけないお気持ちで、「どうしたことであったのか」と思いながら横になっていらっしゃった。 昨日おっしゃったことをお思い出しになって、姫宮をひどい方だとお思い申し上げなさる。 |
と言うのを聞いて、突然なことの身辺に起こって、昨夜の幾時間かを親兄弟でもない男と共にいたという |
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2.7.4 | すっかり明けた光を頼りにして、壁の中のこおろぎすが這い出しなさった。 恨んでいらっしゃるだろうことがとてもお気の毒なので、お互いに何もおっしゃれない。 |
今一人の壁の中の |
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2.7.5 | 「奥ゆかしげもなく、情けないことだわ。 今から後は、油断できないものだわ」 |
ひどい仕向けである。今からのちもまたどんなことがしいられるかもしれぬ、姉をさえ信じることのできぬのがこの世であるか | ||||||||||||||||||||||
2.7.6 | と |
と思い乱れていらっしゃった。 |
と中姫君は思いもだえていた。 |
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2.7.7 | 弁はあちらに参って、あきれはてたお気の強さをすっかり聞いて、「まことにあまりにも思慮が深く、かわいげがないこと」と、気の毒に思い呆然としていた。 |
弁は客室へ行って薫から、姫君が冷酷にも |
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2.7.8 | 「 かけかけしき |
「今までのつらさは、まだ望みの持てる気がして、いろいろと慰めていたが、昨夜は、ほんとうに恥ずかしく、身を投げてしまいたい気がする。 お見捨てがたい気持ちで遺していかれたおいたわしさをお察し申し上げるのは、また、一途に、わが身を捨てることもできません。 好色がましい気持ちは、どちらにもお思い申していません。 悲しさも苦しさも、それぞれお忘れになられたくなく思います。 |
「今までのつめたいお扱いは、それでもまだ私に希望を捨てさせないものがあって、私には慰められるところもありましたがね、今日という今日はほんとうに恥ずかしくなってしまって、宇治川へ身も投げたい気になりましたよ。私のどんな行為の犠牲にしてもよいというように御寝所へ捨ててお置きになった女王さんのお気の毒だったことを思うと、私は今死んでしまうこともならない気がされます。妻になっていただきたいなどということはどちらの女王さんにも私はもう望まないことにしますよ。中姫君を強制的に妻にしては一生恨みの残ることになりますからね。 | |||||||||||||||||||||
2.7.9 | また よし、かくをこがましき |
宮などが、立派にお手紙を差し上げなさるようですが、同じことなら気位高く、という考えが別におありなのだろう、と納得がいきましたので、まことにごもっともで恥ずかしくて。 再び参上して、あなた方にお目にかかることもしゃくでね。 よし、このように馬鹿らしい身の上を、また他人にお漏らしなさいますな」 |
りっぱな兵部卿の宮様からの申し込みを受けておいでになる方だから、御自身でこうと決めておいでになることもあるだろうと私は知っていますから、あの方に近づいて行こうとは思われないし、こうした恥ずかしい立場に置かれた私が、またまいって女王がたにお |
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2.7.10 | と、恨み言をいって、いつもより急いでお出になった。 「どなたにとってもお気の毒で」と、ささやき合っていた。 |
こう恨みを告げたあとで、平生よりも早く薫は帰ってしまった。中姫君のためにも中納言のためにも気の毒な結果を作ったと弁は昨夜の仲間の人たちとささやき合った。 | ||||||||||||||||||||||
第八段 薫と大君、和歌を詠み交す |
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2.8.1 | 姫君も、「どうしたことだ、もしいい加減な気持ちがおありだったら」と、胸が締めつけられるように苦しいので、何もかも、考えの違う女房のおせっかいを、憎らしいとお思いになる。 いろいろとお考えになっているところに、お手紙がある。 いつもより嬉しく思われなさるのも、一方ではおかしなことである。 秋の様子も知らないふりして、青い枝で、片一方はたいそう色濃く紅葉したのを、 |
大姫君も事情はよくわかっていないのであったから、妹の女王に薫が深い愛を覚えなかったのではあるまいかと、早く帰ったことについて胸を騒がせた、妹が哀れでもあった。すべての女房たちの 秋を感じないように片枝は青く、半ばは濃く色づいた |
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2.8.2 | 「同じ枝を分けて染めた山姫を どちらが深い色と尋ねましょうか」 |
「おなじ いづれか深き色と問はばや」 |
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2.8.3 | あれほど恨んでいた様子も、言葉少なく簡略にして、包んでいらっしゃるが、「何ともなしにうやむやにして済ますようだ」と御覧になるのも、心騷ぎして見る。 |
あれほど恨めしがっていたことも多く言わず、簡単にこの歌にしたのが手紙の内容であるのを見て、愛が確かにあるようでもなく、ただこんなふうにだけ取り扱って別れてしまう心なのであろうかと思うことで姫君が苦痛を感じている時に、 | ||||||||||||||||||||||
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2.8.4 | やかましく、「お返事を」と言うので、「差し上げなさい」と譲るのも、嫌な気がして、そうは言え書きにくく思い乱れなさる。 |
だれもだれもが返事を早くと促すのを聞いて、あなたからと今日は中の君に言うのも恥じられ、自分でするのも書きにくく思い乱れていた。 |
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2.8.5 | 「山姫が染め分ける心はわかりませんが 色変わりしたほうに深い思いを寄せているのでしょう」 |
「山姫の染むる心はわかねども 移らふかたや深きなるらん」 |
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2.8.6 | さりげなくお書きになっていたが、おもしろく見えたので、やはり恨みきれず思われる。 |
事実に触れるでもなく書かれてある |
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2.8.7 | 「身を分けてなどと、お譲りになる様子は、度々見えたが、承知しないのに困って企てなさったようだ。 その効もなく、このように何の変化ないのもお気の毒で、情けない人と思われて、ますます当初からの思いがかないがたいだろう。 |
自分の半身のような妹であるからと中の君を |
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2.8.8 | とかく |
あれこれと仲立ちなどするような老女が思うところも軽々しく、結局のところ思慕したことさえ後悔され、このような世の中を思い捨てようとの考えに、自分自身もかなわなかったことよと、体裁悪く思い知られるのに、それ以上に、世間にありふれた好色者の真似して、同じ人を繰り返し付きまとわるのも、まことに物笑いな棚無し小舟みたいだろう」 |
中に今まで立たせておいた老女にさえ、自分の愛の深さを見失わせることになり、浮いた恋だったとされてしまうのが残念である。何にもせよ一人の人にこれほどまでも心の |
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2.8.9 | などと、一晩中思いながら夜を明かしなさって、まだ有明の空も風情あるころに、兵部卿宮のお邸に参上なさる。 |
次の朝の |
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第三章 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚 |
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第一段 薫、匂宮を訪問 |
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3.1.1 | 三条宮邸が焼けた後は、六条院に移っていらっしゃったので、近くていつも参上なさる。 宮も、お望みどおりの思いでいらっしゃるのであった。 雑事にかまけることもなく理想的なお住まいなので、お庭先の前栽が、他の所のとは違って、同じ花の恰好も、木や草の枝ぶりも、格別に思われて、遣水に澄んで映る月の光までが、絵に描いたようなところに、予想どおりに起きておいでになった。 |
三条の宮が火事で焼けてから母宮とともに薫は仮に六条院へ来て住んでいるのであったから、同じ院内にもおいでになる兵部卿の宮の所へは始終伺うのである。宮もこの人が近く来て住み、朝夕に往来のできることで満足をしておいでになった。整然としたお |
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3.1.2 | 風に乗って吹いてくる匂いが、たいそうはっきりと薫っているので、ふとその人と気がついて、お直衣をお召しになり、きちんとした姿に整えてお出ましになる。 |
風が運んでくるにおいにこの特殊な人をお感じになって、お驚きになった宮は、すぐに |
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3.1.3 | かのわたりのことをも、もののついでには みづからの |
階を昇り終えず、かしこまりなさっていると、「どうぞ、上に」などともおっしゃらず、高欄に寄りかかりなさって、世間話をし合いなさる。 あの辺りのことも、何かの機会にはお思い出しになって、「いろいろとお恨みになるのも無理な話である。 自分自身の思いさえかないがたいのに」と思いながら、「そうなってくれればいい」と思うようなことがあるので、いつもよりは真面目に、打つべき手などを申し上げなさる。 |
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3.1.4 | 明け方の薄暗いころ、折悪く霧がたちこめて、空の感じも冷え冷えと感じられ、月は霧に隔てられて、木の下も暗く優美な感じである。 山里のしみじみとした様子をお思い出しになったのであろうか、 |
夜明け前のまたちょっと暗くなる時間であって、霧が立ち、空の色が冷ややかに見え、月は霧にさえぎられて木立ちの下も暗く |
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3.1.5 | 「近々のうちに、必ず置いておきなさるな」 |
「今度あなたが行く時に必ず誘ってください。うちやって行ってはいけませんよ」 |
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3.1.6 | と |
とお頼みなさるのを、相変わらず、うるさがりそうにするので、 |
とお言いになっても、薫の迷惑そうにしているのを御覧になって、 |
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3.1.7 | 「女郎花が咲いている大野に人を入れまいと どうして心狭く縄を張り廻らしなさるのか」 |
「 心せばくやしめを |
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3.1.8 | と |
と冗談をおっしゃる。 |
とお言いになった、 |
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3.1.9 | 「霧の深い朝の原の女郎花は 深い心を寄せて知る人だけが見るのです |
「霧深きあしたの原の女郎花 心をよせて見る人ぞ見る」 |
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3.1.10 | なべてやは」 |
並の人には」 |
だれでも見られるわけではありませんから」 |
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3.1.11 | など、ねたましきこゆれば、 |
などと、悔しがらせなさると、 |
などと薫も言った。 |
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3.1.12 | 「ああ、うるさいことだ」と、ついにはご立腹なさった。 |
「うるさいことを言うね」 腹をたててもお見せになる宮様であった。 |
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3.1.13 | 長年このようにおっしゃるが、どのような方か気がかりに思っていたが、「器量などもがっかりなさることもないと推量されるが、気立てが思ったほどでないかも知れない」などと、ずっと心配に思っていたが、「何事も失望させるようなところはおありでないようだ」と思うと、あの、おいたわしくも、胸の中にお計らいになった様子と違うようなのも、思いやりがないようだが、そうかといって、そのようにまた考えを改めがたく思われるので、お譲り申し上げて、「どちらの恨みも負うまい」などと、心の底に思っている考えをご存知なくて、心狭いとおとりになるのも面白いけれど、 |
今までから宮のこの御希望はしばしばお聞きしていたのであるが、中の君をよくは知らず、交際をせぬ薫であったから、不安さがあって、 |
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3.1.14 | 「いつもの、軽々しいご気性で、物思いをさせるのは、気の毒なことでしょう」 |
「あなたには多情な癖がおありになるのですからね、結局物思いをさせるだけだと考えられますからです」 |
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3.1.15 | など、 |
などと、親代わりになって申し上げなさる。 |
女がたの後見者と見せて薫がこう言う。 |
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3.1.16 | 「よし、御覧ください。 これほど心にとまったことは、まだなかった」 |
「まあ見ていたまえ、私にはまだこんなに心の |
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3.1.17 | など、いとまめやかにのたまへば、 |
などと、実に真面目におっしゃるので、 |
宮はまじめにこう仰せられた。 |
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3.1.18 | 「あのお二方の心には、それならと承知したような様子には見えませんでした。 お仕えしにくい宮仕えでございます」 |
「女王がたにはまだあなたさまを婿君にお迎えする心がなさそうなものですから、私の役は苦心を要するのでございますよ」 |
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3.1.19 | と言って、お出ましになる時の注意などを、こまごまと申し上げなさる。 |
と言って、薫は山荘へ御案内して行ってからのことをこまごまと御注意申し上げていた。 |
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第二段 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う |
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3.2.1 | 二十八日が、彼岸の終わりの日で、吉日だったので、こっそりと準備して、ひどく忍んでお連れ申し上げる。 后宮などがお聞きあそばしては、このようなお忍び歩きを厳しくお禁じ申し上げなさっているので、まことに厄介であるが、たってのお望みのことなので、気づかれないようにとお世話するのも、大変なことである。 |
二十六日の彼岸の終わりの日が結婚の吉日になっていたから、薫はいろいろと考えを組み立てて、だれの目にもつかぬように一人で計らい、兵部卿の宮を宇治へお伴いして出かけた。御母 |
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3.2.2 | 舟で渡ったりするのも大げさなので、仰々しいお邸なども、お借りなさらず、その辺りの特に近い御庄の人の家に、たいそうこっそりと、宮をお下ろし申し上げなさって、いらっしゃた。 お気づき申すような人もいないが、宿直人は形ばかり外に出て来るにつけても、様子を知らせまいというのであろう。 |
対岸のしかるべき場所へ御休息させておくことも船の渡しなどがめんどうであったから、山荘に近い自身の荘園の中の人の家へひとまず宮をお降ろしして、自身だけで女王たちの山荘へはいった。宮がおいでになったところで見とがめるような人たちもなく、 |
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3.2.3 | 「 |
「いつもの、中納言殿がおいでです」と準備に回る。 姫君たちは何となくわずらわしくお聞きになるが、「心を変えていただくように言っておいたから」と、姫宮はお思いになる。 中の宮は、「思う相手はわたしではないようだから、いくら何でも」と思いながら、嫌な事があってから後は、今までのように姉宮をお信じ申し上げなさらず、用心していらっしゃる。 |
中納言がおいでになったと山荘の女房たちは皆緊張していた。 |
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3.2.4 | 何やかやとご挨拶ばかりを差し上げなさって、どのようになることかと、女房たちも気の毒がっている。 |
取り次ぎをもっての話がいつまでもかわされていることで、今夜もどうなることかと女房らは苦しがった。 |
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3.2.5 | 宮には、お馬で、闇に紛れてお出ましいただいて、弁を召し出して、 |
薫は使いを出して兵部卿の宮を山荘へお迎え申してから、弁を呼んで、 |
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3.2.6 | 「こちらに、ただ一言申し上げねばならないことがございますが、お嫌いなさった様子を拝見してしまったので、まことに恥ずかしいが、いつまでも引き籠もっていられそうにないので、もう暫く夜が更けてから、以前のように手引きしてくださいませんか」 |
「姫君にもう一言だけお話しすることが残っているのです。あの方が私の恋に全然取り合ってくださらないのはもうわかってしまいました。それで恥ずかしいことですが、この間の方の所へもうしばらくのちに私を、あの時のようにして案内して行ってくださいませんか」 |
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3.2.7 | などと、率直にお頼みになると、「どちらであっても同じことだから」などと思って参上した。 |
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第三段 薫、中の君を匂宮にと企む |
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3.3.1 | 「これこれです」と申し上げると、「そうであったか、思いが変わったのだわ」と、嬉しくなって心が落ち着き、あのお入りになる道ではない廂の障子を、しっかりと施錠して、お会いなさった。 |
そのとおりに告げると、自分の思ったとおりにあの人は妹に恋を移したとうれしく、安心ができ、寝室へ行く通り |
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3.3.2 | 「一言申し上げねばならないが、また女房に聞こえるような大声を出すのは具合が悪いから、少しお開けくださいませ。 まことにうっとうしい」 |
「ただ一言申し上げたいのですが、人に聞こえますほどの大声を出すこともどうかと思われますから、少しお |
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3.3.3 | と申し上げなさるが、 |
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3.3.4 | 「とてもよく聞こえましょう」 |
「これでもよくわかるのですよ」 |
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3.3.5 | とて、 「 |
と言って、お開けにならない。 「今はもう心が変わったのを、挨拶なしではと思って言うのであろうか。 何の、今初めてお会いするのでもないし、不愛想に黙っていないで、夜を更かすまい」などと思って、そのもとまでお出になったが、障子の間からお袖を捉えて引き寄せて、ひどく恨むので、「ほんとに嫌なことだわ。 どうして言うことを聞いたのだろう」と、悔やまれ厄介だが、「なだめすかして向こうへ行かせよう」とお考えになって、自分同様にお思いくださるように、それとなくお話なさる心配りなど、まことにいじらしい。 |
と言って姫君は応じない。愛人を新しくする際に虚心平気でそれをするのでないことをこの人は言おうとするのであろうか、今までからこんなふうにしては話し合った間柄なのだから、あまり冷ややかにものを言わぬようにして、そして夜をふかさせずに立ち去らしめようと思い、この席を姫君は与えたのであったが、襖子の間から女の |
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3.3.6 | さきざきも |
宮は、教え申し上げたとおり、先夜の戸口に近寄って、扇を鳴らしなさると、弁が参ってお導き申し上げる。 先々も物馴れした道案内を、面白いとお思いになりながらお入りになったのを、姫宮はご存知なく、「言いなだめて入れよう」とお思いになっていた。 |
兵部卿の宮は薫がお教えしたとおりに、あの夜の戸口によって扇をお鳴らしになると、弁が来て導いた。今一人の女王のほうへこうして薫を導き |
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3.3.7 | おかしくもお気の毒にも思われて、内々にまったく知らなかったことを恨まれるのも、弁解の余地のない気がするにちがいないので、 |
おかしくも思い、また気の毒にも思われて、事実を知らせずにおいていつまでも恨まれるのは苦しいことであろうと薫は告白をすることにした。 |
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3.3.8 | 「宮が後をついていらしたので、お断りするのもできず、ここにいらっしゃいました。 音も立てずに、紛れ込みなさった。 この利口ぶった女房は、頼み込まれ申したのだろう。 中途半端で物笑いにもなってしまいそうだな」 |
「兵部卿の宮様がいっしょに来たいとお望みになりましたから、お断わりをしかねて御同伴申し上げたのですが、物音もおさせにならずどこかへおはいりになりました。この賢ぶった男を上手におだましになったのかもしれません。どちらつかずの哀れな見苦しい私になるでしょう」 |
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3.3.9 | とのたまふに、 |
とおっしゃるので、今一段と意外な話で、目も眩むばかり嫌な気になって、 |
聞く姫君はまったく意外なことであったから、ものもわからなくなるほどに残念な気がして、この人が憎く、 |
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3.3.10 | 「このように、万事変なことを企みなさるお方とも知らず、何ともいいようのない思慮の浅さをお見せ申してしまった至らなさから、馬鹿にしていらっしゃるのですね」 |
「いろいろ奇怪なことをあそばすあなたとは存じ上げずに、私どもは幼稚な心であなたを御信用申していましたのが、あなたには |
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3.3.11 | と、 |
と、何とも言いようもなく後悔していらっしゃった。 |
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第四段 薫、大君の寝所に迫る |
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3.4.1 | 「 ことわりは、 やむごとなき |
「今はもう言ってもしかたありません。 お詫びの言い訳は、何度申し上げても足りなければ、抓ねるでも捻るでもなさってください。 高貴な方をお思いのようですが、運命などというようなものは、まったく思うようにいかないものでございますので、あの方のご執心は別のお方にございましたのを、お気の毒に存じられますが、思いのかなわないわが身こそ、置き場もなく情けのうございます。 |
「もう時があるべきことをあらせたのです。私がどんなに道理を申し上げても足りなくお思いになるのでしたなら、私を |
|||||||||||||||||||||
3.4.2 | なほ、いかがはせむに この しるべと |
やはり、どうにもならぬこととお諦めください。 この障子の錠ぐらいが、どんなに強くとも、ほんとうに潔癖であったと推察いたす人もございますまい。 案内人としてお誘いになった方のご心中にも、ほんとうにこのように胸を詰まらせて、夜を明かしていようとは、お思いになるでしょうか」 |
もうしかたがないとあきらめてくだすって私の妻になってくださればいいではありませんか。どんなに堅く襖子は |
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3.4.3 | と言って、障子を引き破ってしまいそうな様子なので、何ともいいようもなく不愉快だが、なだめすかそうと落ち着いて、 |
と言う薫は襖子をさえ破りかねぬ興奮を見せているのであったから、うとましくは思いながら、言いなだめようと姫君はして、なお話の相手はし続けた。 |
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3.4.4 | 「こののたまふ こはいかにもてなしたまふぞと、 かく |
「そのおっしゃる方面のこと、運命というものは、目にも見えないものなので、どのようにもこのようにも分かりません。 行く先の知れない涙ばかり曇る心地がします。 これはどのようになさるおつもりかと、夢のように驚いていますが、後世に話の種として言い出す人があったら、昔物語などに、馬鹿な話として作り出した話の例に、なってしまいそうです。 このようにお企みになったお心のほどを、どうしてだったのかとご推察なさるでしょう。 |
「あなたがお言いになります宿命というものは目に見えないものですから、私どもにはただ事実に対して涙ばかりが胸をふさぐのを感じます。何というなされ方だろうとあさましいのでございます。こんなことが言い伝えに残りましたら、昔の |
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3.4.5 | やはり、とてもこのように、恐ろしいほどの辛い思いを、たくさんさせてお迷わしなさいますな。 思いの外に生き永らえたたら、少し気が落ち着いてからお相手申し上げましょう。 気分も真暗な気になって、とても苦しいが、ここで少し休みます。 お放しください」 |
ただ今のことを伺いましたら、急に |
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3.4.6 | と、ひどく困っていらっしゃるので、それでも道理を尽くしておっしゃるのが、気恥ずかしくいたわしく思われて、 |
絶望的な力のない声ではあるが、 |
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3.4.7 | 「あが いとど ひたぶるに、なうち |
「あなた様、お気持ちに添うことを類なく思っているので、こんなにまで馬鹿者のようになっております。 何とも言えないくらい憎み疎んじていらっしゃるようなので、申し上げようもありません。 ますますこの世に跡を残すことも思われません」と言って、「それでは、物を隔てたままですが、申し上げさせていただきましょう。 一途に、お捨てあそばしなさいますな」 |
「あなた、私のお愛しする方、どんなにもあなたの御意志に従いたいというのが私の願いなのですから、こんなにまで一徹なところもお目にかけたのです。言いようもなく憎いうとましい人間と私を見ていらっしゃるのですから、申すことも何も申されません。いよいよ私は人生の外へ踏み出さなければならぬ気がします」 と言って薫は 「ではこの隔てを置いたままで話させていただきましょう。まったく顧みをなさらないようなことはしないでください」 |
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3.4.8 | と言って、お放し申されたので、奥に這い入って、とはいっても、すっかりお入りになってしまうこともできないのを、まことにいたわしく思って、 |
こうも言いながら |
||||||||||||||||||||||
3.4.9 | 「これだけのおもてなしを慰めとして、夜を明かしましょう。 決して、 |
「こうしてお隣にいることだけを慰めに思って今夜は明かしましょう。決して決してこれ以上のことを求めません」 |
||||||||||||||||||||||
3.4.10 | と申し上げて、少しもまどろまず、激しい水の音に目も覚めて、夜半の嵐に、山鳥のような気がして、夜を明かしかねなさる。 |
と言い、襖子を中にしてこちらの |
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第五段 薫、再び実事なく夜を明かす |
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3.5.1 | いつもの、明けゆく様子に、鐘の音などが聞こえる。 「眠っていてお出になるような様子もないな」と、妬ましくて、咳払いなさるのも、なるほど妙なことである。 |
いつものように夜が |
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3.5.2 | 「道案内をしたわたしがかえって迷ってしまいそうです 満ち足りない気持ちで帰る明け方の暗い道を |
「しるべせしわれやかへりて惑ふべき 心もゆかぬ明けぐれの道 |
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3.5.3 | このような例は、世間にあったでしょうか」 |
こんな例が世間にもあるでしょうか」 |
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3.5.4 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と薫が言うと、 |
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3.5.5 | 「それぞれに思い悩むわたしの気持ちを思ってみてください 自分勝手に道にお迷いならば」 |
「かたがたにくらす心を思ひやれ 人やりならぬ道にまどはば」 |
||||||||||||||||||||||
3.5.6 | と、ほのかにのたまふを、いと |
と、かすかにおっしゃるのを、まことに物足りない気がするので、 |
ほのかに姫君の答える歌も、よく聞き取れぬもどかしさと飽き足りなさに、 |
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3.5.7 | 「何とも、すっかり隔てられているようなので、まことに堪らない気持ちです」 |
「たいへんに遠いではありませんか。あまりに御同情のないあなたですね」 |
||||||||||||||||||||||
3.5.8 | など、よろづに いとやはらかに ねび |
などと、いろいろと恨みながら、ほのぼのと明けてゆくころに、昨夜の方角からお出になる様子である。 たいそう柔らかく振る舞っていらっしゃる所作など、色めかしいお心用意から、何ともいえないくらい香をたきこめていらっしゃった。 老女連中は、まことに妙に合点がゆかず戸惑っていたが、「そうはいっても悪いようにはなさるまい」と慰めていた。 |
恨みを告げているころ、ほのぼのと夜の明けるのにうながされて兵部卿の宮は 老いた女房たちはそことここから薫の帰って行くことに不審をいだいたが、これも中納言の計ったことであれば安心していてよいと考えていた。 |
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3.5.9 | まだ |
暗いうちにと、急いでお帰りになる。 道中も、帰途はたいそう遥か遠く思われなさって、気軽に行き来できそうにないことが、今からとてもつらいので、「夜を隔てられようか」と思い悩んでいらっしゃるようである。 まだ人が騒々しくならない朝のうちにお着きになった。 廊にお車を寄せてお下りになる。 異様な女車の恰好をしてこっそりとお入りになるにつけても、皆お笑いになって、 |
暗い間に着こうと京の人は道を急がせた。帰りはことに遠くお思われになる宮であった。たやすく常に行かれぬことを今から |
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3.5.10 | 「いい加減でない宮仕えのお気持ちと存じます」 |
「あなたの忠実な御奉仕を受けたと感謝しますよ」 |
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3.5.11 | と申し上げなさる。 道案内の馬鹿らしさを、まことに悔しいので、愚痴を申し上げるお気にもならない。 |
宮はこう |
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第六段 匂宮、中の君へ後朝の文を書く |
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3.6.1 | 宮は、早々と後朝のお手紙を差し上げなさる。 山里では、大君も中の君も現実のような気がなさらず、思い乱れていらっしゃった。 「いろいろと企んでいらしたのを、顔にも出さなかったことよ」と、疎ましくつらく、姉宮をお恨み申し上げなさって、お目も合わせ申し上げなさらない。 ご存知なかった事情を、さっぱりと弁明おできになれず、もっともなこととお気の毒にお思い申し上げなさる。 |
すぐ宮は 山荘の女王はどちらも夢を見たあとのような気がして思い乱れていた。あの手この手と計画をしながら、 |
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3.6.2 | 女房たちも、「どういうことでございましたか」などと、ご機嫌を伺うが、呆然とした状態で、頼りとする姫宮がいらっしゃるので、「不思議なことだわ」と思い合っていた。 お手紙を紐解いてお見せ申し上げなさるが、全然起き上がりなさらないので、「たいへん時間がたちます」とお使いの者は困っていた。 |
女房たちも、 「昨夜は中姫君のほうにどうしたことがありましたのでございましょう」 などと、大姫君から事実をそれとなく探ろうとして言うのであったが、ただぼんやりとしたふうで保護者の君はいるだけであったから、不思議なことであると皆思っていた。宮のお手紙も解いて姫君は中の君に見せるのであったが、その人は起き上がろうともしない。時間のたつことを言って使いが催促をしてくる。 |
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3.6.3 | 「世にありふれたことと思っていらっしゃるのでしょうか 露の深い道の笹原を分けて来たのですが」 |
「よのつねに思ひやすらん露深き |
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3.6.4 | 書き馴れていらっしゃる墨つきなどが、格別に優美なのも、一般のお付き合いとして御覧になっていた時は、素晴らしく思われたが、気がかりで心配事が多くて、自分が出しゃばってお返事申し上げるのも、とても気が引けるので、一生懸命に、書くべきことを、じっくりと言い聞かせてお書かせ申し上げなさる。 |
書き |
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3.6.5 | ことことしき ことさらに、 |
紫苑色の細長一襲に、三重襲の袴を添えてお与えになる。 お使いが迷惑そうにしているので、包ませて、お供の者に贈らせなさる。 大げさなお使いでもなく、いつもお差し上げなさる殿上童なのである。 特別に、人に気づかれまいとお思いになっていたので、「昨夜の利口ぶっていた老女のしわざであったよ」と、嫌な気がなさったのであった。 |
薄紫の細長一領に、三重 |
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第七段 匂宮と中の君、結婚第二夜 |
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3.7.1 | その夜も、あの道案内をお誘いになったが、「冷泉院にぜひとも伺候しなければならないことがございますので」と言って、お断りになった。 「例によって、何かにつけ、この世に関心のないように振る舞う」と、憎くお恨みになる。 |
この夜も薫をお誘いになったのであるが、 |
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3.7.2 | 「いかがはせむ。 はるかなる |
「仕方がない。 願わなかった結婚だからといって、いい加減にできようか」とお思い弱りになって、お部屋飾りなど揃わない住居だが、それはそれとして風流に整えてお待ち申し上げなさるのであった。 はるばるとご遠路を急いでいらっしゃったのも、嬉しいことであるが、また一方では不思議なこと。 |
もうしかたがない、こちらの望んだ結果でなかったと言ってもおろそかにはできない婿君であると弱くなった心から総角の姫君は思って、儀式の装飾の品なども十分にそろっているわけではないが、風流な好みを見せた飾りつけをして第二の夜の宮をお待ちした。遠い |
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3.7.3 | ご本人は、正気もない様子で、身づくろいして差し上げられなさるままに、濃いお召し物がひどく濡れるので、しっかりした方もふとお泣きになりながら、 |
新婦の |
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3.7.4 | 「 |
「この世にいつまでも生きていられるとも思われませんので、明け暮れの考え事にも、ただあなたのお身の上だけがおいたわしくお思い申し上げていますが、この女房たちも、結構な縁組だと聞きにくいまで言っているようなので、年をとった女房の考えには、そうはいっても、世間の道理をも知っているだろう。 |
「私はこの世に長く生きていようとも、それを楽しいことに思おうともしない人ですから、ただ毎日願っていることは、あなただけが |
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3.7.5 | はかばかしくもあらぬ いとこそ、 すこし |
はかばかしくもない私一人の我を張って、こうしてばかりして、お置き申してよいものか、と思うようなこともありましたが、今はすぐにも、このように思いもかけず、恥ずかしい思いで思い乱れようとは、全然思ってもおりませんでしたが、これは、なるほど、世間の人が言うように逃れ難いお約束事だったのでしょう。 まことに、つらいことです。 少しお気持ちがお慰みになったら、何も知らなかった事情も申し上げましょう。 憎いと、お恨みなさいますな。 罪をお作りになっては大変ですよ」 |
私一人の意志を立てて、いつまでも二人の独身女であってはなるまいと考えるようになったことはあっても、突然な今度のようなことであなたの心を乱させようなどとは少しも思わなかったのですよ。でもね、これが人の言う逃げようもない宿命だったのでしょうね。私の心も苦しんでいますよ、すこしあなたの気分の晴れてきたころに、私が今度のことに関係していなかったことの弁明もして聞いてもらいますよ。知らぬ私をあまりに恨んではあなたが罪を作ることになります」 |
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3.7.6 | と、御髪を撫でつくろいながら申し上げなさると、お返事もなさらないが、そうはいっても、このようにおっしゃることが、なるほど、心配で悪かれとはお考えであるまいから、物笑いに見苦しいことが加わって、お世話をおかけ申してはたいへんなことを、いろいろと考えていらっしゃった。 |
と姫君が中の君の髪を繕いながら言ったのに対して、中の君は何とも返辞はしなかったが、さすがに、こうまで自分を愛して言う姉君であるから、危険な道へ進めようとしたわけではあるまい、そうであるにもかかわらず、薄い愛より与えぬ人の妻になって、自分のために姉君へまた新しい物思いをさせることが悲しいと、今後の日を思って歎いていた。 |
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3.7.7 | さる |
そのような考えもなく、びっくりしていらっしゃった態度でさえ、並々ならず美しかったのだが、まして少し世間並になよなよとしていらっしゃるのは、お気持ちも深まって、簡単にお通いになることができない山道の遠さを、胸が痛いほどお思いになって、心をこめて将来をお約束になるが、嬉しいとも何ともお分かりにならない。 |
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3.7.8 | はかなき さるは、この |
言いようもなく大事にされている良家の姫君も、もう少し世間並に接し、親や兄弟などといっては、異性のすることを見慣れていらっしゃる方は、何かの恥ずかしさや、恐ろしさもほどほどのことであろう。 邸内に大切にお世話申し上げる人はいないが、このような山深いご身辺なので、世間から離れて、引っ込んでお育ちになった方とて、思いもかけなかった出来事が、きまり悪く恥ずかしくて、何事も世間の人に似ず、妙に田舎人めいているだろう。 ちょっとしたお返事も口のききようがなくて遠慮していらっしゃった。 とはいえ、この君は利発で才気あふれる美しさは優っていらっしゃった。 |
非常に大事にかしずかれた高貴な姫君といっても、世間というものと今少し多く交渉を持っていて、親とか兄弟とかの所へ出入りする異性があったなら、 |
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第八段 匂宮と中の君、結婚第三夜 |
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3.8.1 | 「三日に当たる夜は、餅を召し上がるものです」と女房たちが申し上げるので、「特別にしなければならない祝いなのだ」とお思いになって、御前でお作らせなさるのも、分からないことばかりで、一方では親代わりになってお命じになるのも、女房がどう思うかとつい気が引けて、顔を赤らめていらっしゃる様子、まこと美しい感じである。 姉のせいでか、おっとりと気高いが、妹君のためにしみじみとした情愛がおありであった。 |
三日にあたる夜は |
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3.8.2 | 中納言殿から、 |
源中納言から、 |
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3.8.3 | 「昨夜、参ろうと思っておりましたが、せっかくご奉公に励んでも、何の効もなさそうなあなた様なので、恨めしく存じます。 |
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3.8.4 | 今夜は雑役でもと存じますが、宿直所が体裁悪くございました気分が、ますますよろしくなく、ぐずぐずいたしております」 |
「今夜はまいって、雑用のお手つだいもいたしたく思うのですが、先夜の |
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3.8.5 | と、 いときよらにしたるを、 |
と、陸奥紙にきちんとお書きになって、準備の品々を、こまごまと、縫いなどしてない布地に、色とりどりに巻いたりして、御衣櫃をたくさん懸籠に入れて、老女のもとに、「女房たちの用に」といってお与えになった。 宮の御方のもとにあった有り合わせの品々で、たいして多くはお集めになれなかったのであろうか、加工してない絹や綾などを、下に隠し入れて、お召し物とおぼしき二領。 たいそう美しく加工してあるのを、単重の御衣の袖に古風な趣向であるが、 |
と、二枚の檀紙に続けて書いた手紙を添え、今夜の祝儀の |
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3.8.6 | 「小夜衣を着て親しくなったとは言いませんが いいがかりくらいはつけないでもありません」 |
「さよ衣着てなれきとは言はずとも |
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3.8.7 | と、 |
と、脅し申し上げなさった。 |
これは戯れに |
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3.8.8 | この方あの方とも、奥ゆかしさをなくした御身を、ますます恥ずかしくお思いになって、お返事をどのように申し上げようかと、お困りになっている時、お使いのうち何人かは、逃げ隠れてしまったのであった。 卑しい下人を呼びとめて、お返事をお与えになる。 |
中の君に対して言われているのであろうが、いずれにもせよ |
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3.8.9 | 「隔てない心だけは通い合いましょうとも 馴れ親しんだ仲などとはおっしゃらないでください」 |
「隔てなき心ばかりは通ふとも |
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3.8.10 | 気ぜわしくいろいろと思い悩んでいらっしゃった後のために、ますますいかにも平凡なのを、お心のままと、待って御覧になる方は、ただしみじみとお思いになられる。 |
心のかき乱されていたあの夜の |
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第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る |
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第一段 明石中宮、匂宮の外出を諌める |
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4.1.1 | 宮は、その夜、内裏に参りなさって、退出しがたそうなのを、ひそかにお心も上の空でお嘆きになっていたが、中宮が、 |
兵部卿の宮はその夜宮中へおいでになったのであるが、新婦の宇治へ行くことが非常な難事にお思われになって、人知れず心を苦しめておいでになる時に、 |
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4.1.2 | 「依然として、このように独身でいらして、世間に、好色でいらっしゃるご評判がだんだんと聞こえてくるのは、やはり、とてもよくないことです。 何事にも風流が過ぎて、評判を立てるようなことをなさいますな。 主上も不安にお思いおっしゃっています」 |
「どんなに言ってもあなたはいつまでも一人でおいでになるものだから、このごろは私の耳にもあなたの浮いた話が少しずつはいってくるようになりましたよ。それはよくないことですよ。風流好きとか、何々趣味の人とか人に違った評判は立てられないほうがいいのですよ。お |
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4.1.3 | と、里住みがちでいらっしゃるのをお諌め申し上げなさると、まことに辛いとお思いになって、御宿直所にお出になって、お手紙を書いて差し上げなさったその後も、ひどく物思いに耽っていらっしゃるところに、中納言の君が参上なさった。 |
と仰せになって、私邸に行っておいでがちな点で御忠告をあそばしたために、 |
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4.1.4 | あの姫君のお味方とお思いになると、いつもより嬉しくて、 |
宇治がたの人とお思いになるとうれしくて、 |
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4.1.5 | 「どうしよう。 とてもこのように暗くなってしまったようだが、気がいらいらして」 |
「どうしたらいいだろう。こんなに暗くなってしまったのに、出られないので |
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4.1.6 | と、嘆かしくお思いになっていた。 「よくご本心をお確かめ申したい」とお思いになって、 |
こうお言いになり、歎かわしそうなふうをお見せになったが、なおよく宮の新婦に対する真心の深さをきわめたく思った |
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4.1.7 | 「 |
「久しぶりに、こうして参内なさったのに、今夜伺候あそばさないで、急いで退出なさるのは、ますますけしからぬこととお思いあそばしましょう。 台盤所の方で伺ったところ、ひそかに、厄介なご用をお勤め申したために、受けなくてもよいお叱りもございましょうかと、顔が青くなりました」 |
「しばらくぶりで御所へおいでになりましたあなた様が、今夜 |
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4.1.8 | と |
と申し上げなさると、 |
と申して見た。 |
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4.1.9 | 「まことに聞き憎いことをおっしゃいますね。 多くは誰かが中傷するのでしょう。 世間から非難を受けるような料簡は、どうして、起こそうか。 窮屈なご身分など、かえってないほうがましだ」 |
「私がひどく悪いようにおっしゃるではないか。たいていのことは人がいいかげんなことを申し上げているからなのだろう。世間から非難をされるようなことは何もしていないではないか。何にせよ窮窟な身の上であることがいけないね。こんな身分でなければと思う」 |
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4.1.10 | とて、まことに |
とおっしゃって、ほんとうに厭わしくさえお思いであった。 |
心の底からそう思召すふうで仰せられるのを見て、 | |||||||||||||||||||||
4.1.11 | いとほしく |
お気の毒に拝しなさって、 |
お気の毒になった薫は、 |
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4.1.12 | 「同じご不興でいらっしゃいましょう。 今夜のお咎めは代わり申し上げて、我が身をも滅ぼしましょう。 木幡の山に馬はいかがでございましょう。 ますます世間の噂が避けようもないでしょう」 |
「どうせ同じことでございますから、今晩のあなた様の罪は私が |
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4.1.13 | と |
と申し上げなさるので、ただもうすっかり暮れて更けてしまった夜なので、お困りになって、お馬でお出かけになった。 |
こう申し上げた。夜はますます暗くなっていくばかりであったから、忍びかねて宮は馬でお出かけになることになった。 |
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4.1.14 | 「お供は、かえっていたしますまい。 後始末をしよう」 |
「お供にはかえって私のまいらぬほうがよろしゅうございましょう。私は |
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4.1.15 | とて、この |
と言って、この君は内裏にお残りになる。 |
と言って、薫は残ることにした。 |
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第二段 薫、明石中宮に対面 |
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4.2.1 | 中宮の御方に参上なさると、 |
薫が中宮の御殿へまいると、 |
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4.2.2 | 「宮はお出かけになったそうな。 あきれて困ったお方ですこと。 どのように世間の人はお思い申すことでしょう。 主上がお耳にあそばしたら、ご注意申し上げないのがいけないのだ、とお考えになり仰せになるのが耐えられません」 |
「兵部卿の宮さんはお出かけになったらしい。困った御行跡ね。お |
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4.2.3 | と仰せになる。 大勢の宮たちが、このようにご成人なさったが、大宮は、ますます若く美しい感じが、優っていらっしゃるのであった。 |
こうお |
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4.2.4 | 「 いかならむ 「 わが それに、なほ |
「女一の宮も、このように美しくいらっしゃるようである。 どのような機会に、この程度にお側近く、お声だけでもお聞きいたしたい」と、しみじみと思われる。 「好色な男が、けしからぬ料簡を起こすのも、このようなお間柄で、そうはいっても他人行儀でなく出入りして、思いどおりにできないときのことなのだろう。 自分のように、偏屈な性分は、他に世にいるだろうか。 なのに、やはり心動かされた女は、思い切ることができないのだ」 |
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4.2.5 | など さぶらふ ことさらに |
などと思っていらっしゃった。 お仕えしているすべての女房の器量や気立ては、どの人となく悪い者はなく、無難でそれぞれに美しい中に、上品で優れて目にとまるのもいるが、全然乱れまいとの気持ちで、まことに生真面目に振る舞っていらっしゃった。 わざと気を引いてみる女房もいる。 |
などと薫は思っていた。侍女たちは |
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4.2.6 | おほかた |
だいたいが気後れするような、沈着に振る舞っていらっしゃる所なので、表面はしとやかにしているが、人の心はさまざまなので、色っぽい性分の本心をちらちらと見せるのもいるが、「人それぞれにおもしろくもあり、いとおしくもあるなあ」と、立っても座っても、ただ世の無常を思い続けていらっしゃる。 |
気品を傷つけないようにと上下とも慎み深く暮らす女房たちにも、個性はそれぞれ違ったものであるから、美しい薫への好奇心が、おさえられつつも外へ現われて見える人などに、薫は |
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第三段 女房たちと大君の思い |
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4.3.1 | かしこには、 |
あちらでは、中納言殿が仰々しくおっしゃったのを、夜の更けるまでいらっしゃらず、お手紙のあるのを、「やはりそうであったか」と胸をつぶしておいでになると、夜半近くなって、荒々しい風に競うようにして、たいそう優雅で美しく匂っていらっしゃったのも、どうしていい加減に思われなさろう。 |
宇治では薫から |
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4.3.2 | ご本人も、わずかにうちとけて、お分かりになることがきっとあるにちがいない。 たいそう美しく女盛りと見えて、ひきつくろっていらっしゃる様子は、「この方以上の方があろうか」と思われる。 |
新夫人の中の君も前に似ぬ好意をお持ちしたことと思われる。中の君は非常に美しい盛りの |
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4.3.3 | あれほど美しい人を数多く御覧になっているお目にさえ、悪くはないと、器量をはじめとして、多く近勝りして思われなさるので、山里の老女連中は、まして慎みなく相好を崩して微笑しながら、 |
多くの美女を知っておいでになる宮の御目にも欠点をお見いだしになることはなくて、姿も心も接近してますますすぐれたことの明らかになった恋人であると思召すばかりであったから、山荘の老いた女房などは満足したか自身の表情がどんなに醜いかも知らずに、ゆがんだ |
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4.3.4 | 「このように惜しいご様子を、並の身分の男性がお世話申し上げなさるようになったら、どんなに口惜しいことでしょう。 思いどおりのご運勢を」 |
これほどにもりっぱな方が凡人の妻におなりになったとしたらどんなに残念に思われるであろう、御運よく理想的な |
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4.3.5 | と申し上げながら、姫宮のご性格を、妙な偏屈者のようにお振る舞いなさるのを、悪しざまに口をとがらせてご非難申し上げる。 |
と言い合い、大姫君が薫の熱心な求婚に応じようとしないのをひそかに非難していた。 | ||||||||||||||||||||||
4.3.6 | 盛りを過ぎた身なのに、派手な花の色とりどりや、似つかわしくないのを縫いながら、身にもつかずめかしこんでいる女房連中の姿が、見られた者もいないのを見渡しなさって、姫宮は、 |
こうした中年になった人たちが薫から贈られた美しいいろいろな絹で衣装を縫って、それぞれ似合いもせぬ盛装をしている中に一人でも感じのよいと思われる女房はなかった。 |
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4.3.7 | 「 おのがじしは、この うしろでは わが |
「わたしもだんだん盛りを過ぎた身だわ。 鏡を見ると、痩せ痩せになってゆく。 めいめいは、この女房連中も、自分自身を醜いと思っていようか。 後ろ姿は知らない顔で、額髪をかき上げながら、化粧した顔づくろいをよくして振る舞っているようだ。 自分の身としては、まだあの女房ほどは醜くはない。 目鼻だちも尋常だと思われるのは、うぬぼれであろうか」 |
自分も盛りの過ぎた女である、このごろ鏡を見ると顔は |
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4.3.8 | とうしろめたくて、 「 はかなげなる |
と不安で、外を眺めながら臥せっていらっしゃった。 「気後れするような方と結婚することは、ますますみっともなく、もう一、二年したらいっそう衰えよう。 頼りない身の上を」と、お腕が細っそりとして弱々しく、痛々しいのをさし出してみても、世の中を思い続けなさる。 |
と気恥ずかしいような思いをしながら |
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第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る |
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4.4.1 | 匂宮は、めったにないお暇のほどをお考えになると、「やはり、気軽にできそうにないことだ」と、胸が塞がって思われなさるのであった。 大宮がご注意申し上げなさったことなどをお話し申し上げなさって、 |
兵部卿の宮は今夜のお出かけにくかったことをお考えになると、将来も不安におなりになって、今さえそれでお胸がふさがれてしまうようになるのであった。中宮の仰せられた話などをされて、 |
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4.4.2 | 「愛していながら途絶えがあろうが、どうしたことなのか、とお案じなさるな。 かりそめにも疎かに思ったら、このようには参りません。 心の中をどうかしらと疑って、お悩みになるのがお気の毒で、身を捨てて参ったのです。 いつもこのようには抜け出すことはできないでしょう。 しかるべき用意をして、近くにお移し申しましょう」 |
「変わりない愛を持っていながら来られない日が続いても疑いは持たないでください。仮にもおろそかにあなたを思っているのだったら、こんな苦心を払って今夜なども出て来られるはずはありません。それだのに私の愛を信じることがおできにならないで、 |
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4.4.3 | と、とても心をこめて申し上げなさるが、「絶え間がきっとあるように思われなさるのは、噂に聞いたお心のほどが現れたのかしら」と疑われて、ご自身の頼りない様子を思うと、いろいろと悲しいのであった。 |
宮はこれを真心からお言いになるのであったが、間の途絶えるであろうことを今からお言いになるのは、名高い多情な生活から、恨ませまいための予防の線をお張りになるのであろうと、心細さに |
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4.4.4 | 明けてゆく空に、妻戸を押し開けなさって、一緒に誘って出て御覧になると、霧の立ちこめた様子、場所柄の情趣が多く加わって、例の、柴積み舟がかすかに行き来する跡の白波、「見慣れない住まいの様子だなあ」と、物事に感じやすいお心には、おもしろく思われなさる。 |
夜明けに近い空模様を、横の妻戸を押しあけて宮は女王も誘って出ておながめになるのであった。霧が深く立って特色のある宇治の寂しい |
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4.4.5 | こまやかなる |
山の端の光がだんだんと見えるころに、女君のご器量が整っていてかわいらしくて、「この上なく大切に育てられた姫君も、これほどでいらっしゃろうか。 気のせいで、こちらの身内の方がとても立派に思われる。 きめ濃やかな美しさなどは、気を許して見ていたく」、かえって堪えがたい気がする。 |
東の山の上からほのめいてきた暁の微光に見る中の君の容姿は整いきった美しさで、最上の所にかしずかれた内親王もこれにまさるまいとお思われになった。現在の |
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4.4.6 | 水の音が騒がしく、宇治橋がたいそう古びて見渡されるなど、霧が晴れてゆくと、ますます荒々しい岸の辺りを、「このような所に、どのようにして年月を過ごしてこられたのだろう」などと、涙ぐんでおっしゃるのを、まことに恥ずかしいとお聞きになる。 |
「どうしてこんな土地に長い間いることができたのですか」 とお言いになり、宮の涙ぐんでおいでになるのを見て、女王は恥ずかしい気がした。 |
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4.4.7 | 男君のご様子が、この上なく優雅で美しくて、この世だけでなく来世まで夫婦のお約束申し上げなさるので、「思い寄らなかったこととは思いながらも、かえって、あの目馴れた中納言の恥ずかしさよりは」と思われなさる。 |
そして今よく見る宮のお姿はきわめて |
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4.4.8 | 「かれは |
「あの方は愛する方が別にいて、とてもたいそう澄ましていた様子が、会うのも気づまりであったが、お噂だけでお思い申し上げていた時は、いっそうこの上なく遠くに、一行お書きになるお返事でさえ、気後れしたが、久しく途絶えなさることは、心細いだろう」 |
あの人の熱愛している人は自分でなくもあったし、澄みきったような心の様子に現われて見える点でも親しまれないところがあった、しかもこの宮をそのころの自分はどう思っていたであろう、まして遠い遠い所の存在としていた。短いお手紙に返事をすることすら恥ずかしかった方であるのに、今の心はそうでない、久しくおいでにならぬことがあれば心細いであろう | |||||||||||||||||||||
4.4.9 | と思われるのも、我ながら嫌なと、思い知りなさる。 |
と思われるのも、われながら怪しく恥ずかしい変わりようであると中の君は心で思った。 | ||||||||||||||||||||||
第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる |
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4.5.1 | お供の者たちがひどく咳払いをしてお促し申し上げるので、京にお着きになる時刻が、みっともなくないころにと、たいそう気ぜわしそうに、心にもなく来られない夜もあろうことを、繰り返し繰り返しおっしゃる。 |
お供の人たちが次々に促しの声を立てるのを聞いておいでになって、京へはいって人目を引くように明るくならぬようにと、宮はおいでになろうとする際も御自身の意志でない通い |
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4.5.2 | 「中が切れようとするのでないのに あなたは独り敷く袖は夜半に濡らすことだろう」 |
「中絶えんものならなくに橋姫の 片敷く |
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4.5.3 | 帰りにくく、引き返しては躊躇していらっしゃる。 |
帰ろうとしてまた |
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4.5.4 | 「切れないようにとわたしは信じては 宇治橋の遥かな仲をずっとお待ち申しましょう」 |
「絶えせじのわが頼みにや宇治橋の はるけき中を待ち渡るべき」 |
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4.5.5 | 口には出さないが、何となく悲しいご様子は、この上なくお思いなさるのであった。 |
などとだけ言い、言葉は少ないながらも女王の様子に別れの悲しみの見えるのをお知りになり、たぐいもない愛情を宮は覚えておいでになった。 |
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4.5.6 | 若い女性のお心にしみるにちがいない、世にも稀な朝帰りのお姿を見送って、後に残っている御移り香なども、人知れずなにやらせつない気がするのは、機微の分かるお心だこと。 今朝は、物の見分けもつく時分なので、女房たちが覗いて拝する。 |
若い女性の心に感動を与えぬはずのない宮の御朝姿を見送って、あとに残ったにおいなどの身にしむ人にいつか女王はなっていた。お立ちのおそかった |
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4.5.7 | 「中納言殿は、優しく恥ずかしい感じが、加わった方であった。 気のせいか、もう一段尊い身分なので、この方のお姿は、まことに格別で」 |
「中納言様はなつかしい御気品のよさに特別なところがおありになります。今一段上の御身分という思いなしからでしょうか、はなやかな御 |
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4.5.8 | など、めできこゆ。 |
などと、お誉め申し上げる。 |
こんなことを言ってほめそやした。 |
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4.5.9 | 道すがら、お気の毒であったご様子をお思い出しになりながら、引き返したく、体裁悪くまでお思いになるが、世間の評判を我慢してお帰りあそばすことなので、たやすくお出かけになることはおできになれない。 |
京への道すがら、別れにめいったふうを見せた女王をお思い出しになって、このままもう一度山荘へ引き返したいと、御自身ながら見苦しく思召すまで恋しくお思われになるのであったが、世間の取り |
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4.5.10 | 「おろかにはあらぬにや」と |
お手紙は毎日毎日に、たくさん書いて差し上げなさる。 「いい加減なお気持ちではないのでは」と思いながら、訪れのない日数が続くのを、「まことに心配の限りを尽くすことはしまいと思っていたが、自分のこと以上においたわしいことだわ」と、姫宮はお悲しみになるが、ますますこの妹君がお悲しみに沈んでいらっしゃろうことから、平静を装って、「自分自身でさえ、やはりこのような心配を増やすまい」と、ますます強くお思いになる。 |
お手紙だけを日ごとに幾通もお送りになった。誠意がないのではおありになるまいと思いながらもお途絶えの日が積もっていくことで、姉の女王は思い悩んで、こんな結果を見て苦労をすることがないようにと願っていたものを、自身が当事者である以上に苦しいことであると歎かれるのであったが、これを表面に見せてはいっそう中の君が気をめいらせることになろうと思う心から、気にせぬふうを装いながらも、自分だけでも結婚しての苦を味わうまいといよいよ薫の望むことに心の離れていく大姫君であった。 |
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4.5.11 | 中納言の君も、「待ち遠しくお思いだろう」と想像して、自分の責任からおいたわしくて、宮をお促し申し上げながら、絶えずご様子を御覧になると、たいそうひどく打ち込んでいらっしゃる様子なので、そうはいってもと、安心であった。 |
薫も兵部卿の宮の宇治へおいでになれない事情を知っていて、山荘の女王が待ち遠しく思うことであろうと、自身の責任であるように思い、宮にそれとなくお促しもし、宮の御近状にも注意を怠らなかったが、宮が宇治の女王に愛情を傾倒しておいでになることは明らかになったために、今の状態はこうでも不安がることはないと中の君のために胸をなでおろす思いをした。 |
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第六段 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く |
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4.6.1 | 「ふるの いとうれしと |
九月十日のころなので、野山の様子も自然と想像されて、時雨めいて暗くなり、空のむら雲が恐ろしそうな夕暮に、宮はますます落ち着きなく物思いに耽りなさって、どうしようかと、ご自身では決心をしかねていらっしゃる。 そのところを推量して、参上なさった。 「ふるの山里はどうでしょうか」と、お誘い申し上げなさる。 まことに嬉しいとお思いになって、一緒にお出かけになるので、例によって、一車に相乗りしてお出かけになる。 |
九月の十日で、野山の秋の色がだれにも思いやられる時である、空は暗い 「山里のほうはどうでしょう」 中納言の言ったことはこれであった。お喜びになって、 「では今からいっしょに出かけよう」 とお言いになったため、 |
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4.6.2 | 分け入りなさるにつれて、まして物思いしているだろう心中を、ますますご想像される。 道中も、ただこのことのお気の毒さをお話し合いなさる。 |
山路へかかってくるにしたがって、山荘で物思いをしている恋人を多く哀れにお思いになる宮でおありになった。同車の人へもその点で御自身も苦しんでおいでになることばかりをお話しになった。 | ||||||||||||||||||||||
4.6.3 | 黄昏時のひどく心細いうえに、雨が冷たく降り注いで、秋の終わる気色がぞっとする感じなので、しっとりと濡れていらっしゃるお二方の芳気は、この世のものに似ず優艷で、連れ立っていらっしゃるのを、山賤連中は、どうしてうろたえぬことがあろうか。 |
行く秋の |
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4.6.4 | 女房らは、日頃ぶつぶつ言っていたが、そのあとかたもなくにこにことして、ご座所を整えたりなどする。 京に、しかるべき家々に散り散りになっていた娘連中や、姪のような人を、二、三人呼び寄せて仕えさせていた。 長年軽蔑申し上げてきた思慮の浅い人びとは、珍しい客人と思って驚いていた。 |
毎日毎日婿君の情の薄さをかこっていた山荘の女房たちは、 |
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4.6.5 | 姫宮も、ちょうどよい折柄と嬉しくお思い申し上げなさるが、利口ぶった方が一緒にいらっしゃるのが、気恥ずかしくもあり、何となく厄介にも思うが、人柄がゆったりと慎重でいらっしゃるので、「なるほど、宮はこのようではおいででない」とお見比べなさると、めったにない方だと思い知られる。 |
大姫君はこの寂しい夜を |
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第七段 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える |
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4.7.1 | 宮を、場所柄によって、とても特別に丁重にお迎え入れ申し上げて、この君は、主人方に気安く振る舞っていらっしゃるが、まだ客人席の臨時の間に遠ざけていらっしゃるので、まことにつらいと思っていらっしゃった。 お恨みなさるのも、そうはいってもお気の毒で、物越しにお会いなさる。 |
中の君の婿君として宮に山荘相当な御 |
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4.7.2 | 「冗談ではありませんね。 こうしてばかりいられましょうか」と、ひどくお恨み申し上げなさる。 だんだんと道理をお分かりになってきたが、妹のお身の上についても、物事をひどく悲観なさって、ますますこのような結婚生活を嫌なものとすっかり思いきって、 |
自分の心の弱さからつまずいて、またも初めに恋は返されたではないか、こんな状態を続けていくことはもう自分には不可能であると思い、薫は言葉を尽くして恋人に恨みを告げようとした。ようやくこの人の尊敬すべき気持ちも悟った姫君であるが、中の君が結婚をしたために物思いに沈むことの多くなったことによって、いっそう恋愛というものをいとわしいものに思い込むようになり、 | ||||||||||||||||||||||
4.7.3 | 「やはり、一途に、何とかこのようにはうちとけまい。 うれしいと思う方のお気持ちも、きっとつらいと思うにちがいないことがあるだろう。 自分も相手も幻滅したりせずに、もとの気持ちを失わずに、最後までいたいものだわ」 |
これ以上の接近は許すまい、清い愛を今では感じている相手であるが、この人を恨むことが結婚すれば生じるに違いない、自身もこの人も変わらぬ友情を続けていきたい | ||||||||||||||||||||||
4.7.4 | と |
と思う考えが深くおなりになっていた。 |
とこう深く心に決めているためであった。 | |||||||||||||||||||||
4.7.5 | 宮のご様子などをお尋ね申し上げなさると、ちらっとほのめかしつつ、「そうであったのか」とお思いになるようにおっしゃるので、お気の毒になって、ご執心のご様子や、態度を窺っていることなどを、お話し申し上げなさる。 |
宮についての話になって、薫のほうから中の君の様子などを聞くと、少しずつ近ごろのことで、薫の想像していたようなことも姫君は語った。薫は気の毒になり、宮が深い愛着をお持ちになること、自分が探って知っている御自由のない近ごろの |
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4.7.6 | いつもよりは素直にお話しになって、 |
姫君は平生より |
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4.7.7 | 「やはり、このように物思いの多いころを、もう少し気持ちが落ち着いてからお話し申し上げましょう」 |
「こんなふうな、新たな心配にとらわれておりますことも終わりまして、気の静まりましたころにまたよくお話を伺いましょう」 |
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4.7.8 | とのたまふ。 しひて |
とおっしゃる。 小憎らしくよそよそしくは、あしらわないものの、「襖障子の戸締りもとても固い。 無理に突破するのは、辛く酷いこと」とお思いになっているので、「お考えがおありなのだろう。 軽々しく他人になびきなさるようなことは、また決してあるまい」と、心のおっとりした方は、そうはいっても、じつによく気を落ち着かせなさる。 |
と言った。反感を起こさせるような冷淡さはなくて、しかも |
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4.7.9 | 「ただ、とても頼りなく、物を隔てているのが、満足のゆかない気がしますよ。 以前のようにお話し申し上げたい」 |
「あなたの御意志はどこまでも尊重しますが、こうして物越しでお話ししていることの不満足感を救ってだけはください。先日のように近くへまいってお話をさせていただきたいのです」 |
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4.7.10 | とせめたまへど、 |
と責めなさると、 |
と責めてみたが、 |
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4.7.11 | 「いつもよりも自分の容貌が恥ずかしいころなので、疎ましいと御覧になるのも、やはりつらく思われますのは、どうしたことでしょうか」 |
「このごろの私は平生よりも衰えていましてね、顔を御覧になって不愉快におなりになりはしないかと、どうしたのでしょう、そんなことの気になる心もあるのですよ」 |
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4.7.12 | と、かすかにほほ笑みなさった様子などは、不思議と慕わしく思われる。 |
と言い、ほのかに総角の姫君の笑った |
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4.7.13 | 「このようなお心にだまされ申して、終いにはどのようになる身の上だろうか」 |
「そんなつきも離れもせぬお心に引きずられてまいって、私はしまいにどうなるのでしょう」 |
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4.7.14 | と嘆きがちに、いつものように、遠山鳥で別々のまま明けてしまった。 |
こんなことを言い、男は歎息をしがちに夜を明かした。 |
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4.7.15 | 宮は、まだ独り寝だろうとはお思いならず、 |
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4.7.16 | 「中納言が、主人方でゆったりとしている様子が羨ましい」 |
「中納言が主人がたぶって、寝室に長くいるのが恨めしい」 |
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4.7.17 | とおっしゃると、女君は、おかしなこととお聞きになる。 |
とお言いになるのを、不思議な言葉のように中の君はお聞きしていた。 |
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第八段 匂宮、中の君を重んじる |
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4.8.1 | わりなくておはしまして、ほどなく |
無理を押してお越しになって、長くもいずにお帰りになるのが、物足りなくつらいので、宮はひどくお悩みになっていた。 お心の中をご存知ないので、女方には、「またどうなるのだろうか。 物笑いになりはせぬか」と思ってお嘆きなると、「なるほど、心底からおつらそうな」と見える。 |
無理をしておいでになっても、すぐにまたお帰りにならねばならぬ苦しさに宮も深い悲しみを覚えておいでになった。こうしたお心を知らない中の君は、どうなってしまうことか、世間の物笑いになることかと歎いているのであるから、恋愛というものはして苦しむほかのないことであると思われた。 | |||||||||||||||||||||
4.8.2 | 京にも、こっそりとお移しになる家もさすがに見当たらない。 六条院には、左の大殿が、一画にお住みになって、あれほど何とかしたいとお考えの六の君の御事をお考えにならないので、何やら恨めしいとお思い申し上げていらっしゃるようである。 好色がましいお振舞いだと、容赦なくご非難申し上げなさって、宮中あたりでもご愁訴申し上げていらっしゃるようなので、ますます、世間に知られない人をお囲いなさるのも、憚りがとても多かった。 |
京でも多情な名は取っておいでになりながら、ひそかに通ってお行きになる所とてはさすがにない宮でおありになった。六条院では左大臣が同じ邸内に住んでいて、匂宮の夫人に擬している六の君に何の興味もお持ちにならぬ宮をうらめしいようにも思っているらしかった。好色男的な生活をしていられるといって、容赦なく宮のことを御非難して |
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4.8.3 | なべてに さやうの |
普通にお思いの身分の女は、宮仕えの方面で、かえって気安そうである。 そのような並の女にはお思いなされず、「もし御世が替わって、帝や后がお考えおいたままにでもおなりになったら、誰よりも高い地位に立てよう」などと、ただ今のところは、たいそうはなやかに、心に懸けていらっしゃるにつれて、して差し上げようともその方法がなくつらいのであった。 |
軽い恋愛相手にしておいでになる女性は、宮仕えの体裁で二条の院なり、六条院なりへお入れになることも自由にお計らいになることができて、かえってお気楽であった。そうした並み並みの情人とは少しも思っておいでにならないのであって、もし世の中が移り、 |
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4.8.4 | 中納言は、三条宮を造り終えて、「しかるべき形をもってお迎え申そう」とお考えになる。 |
中納言は火災後再築している三条の宮のでき上がり次第によい方法を講じて大姫君を迎えようと考えていた。 | ||||||||||||||||||||||
4.8.5 | げに、ただ かくいと いとかく いみじくもてなしてあらせたてまつらばや」 |
なるほど、臣下は気楽なのであった。 このようにたいそうお気の毒なご様子でありながら、気をつかってお忍びになるために、お互いに思い悩んでいらっしゃるようなのも、おいたわしくて、「人目を忍んでこのようにお通いになっている事情を、中宮などにもこっそりとお耳に入れあそばして、暫くの間のお騒がれは気の毒だが、女方のためには、非難されることもない。 たいそうこのように夜をさえお明かしにならないつらさよ。 うまさく計らって差し上げたいものよ」 |
やはり人臣の列にある人は気楽だといってよい。 これほど愛しておいでになりながら、結婚を秘密のことにしておありになるために、宮にも中の君にも |
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4.8.6 | など |
などと思って、無理して隠さない。 |
とこう思うようになった薫は、しいて内密事とはせずに、 | |||||||||||||||||||||
4.8.7 | 「 さまざまなる |
「衣更など、てきぱきと誰がお世話するだろうか」などと心配なさって、御帳の帷子や、壁代などを、三条宮を造り終えて、お移りになる準備をなさっていたのを、「差し当たって、入用がございまして」などと、たいそうこっそりと申し上げなさって、差し上げなさる。 いろいろな女房の装束、御乳母などにもご相談なさっては、特別にお作らせになったのであった。 |
このごろも冬の衣がえの季節になっているが、自分のほかにだれがその |
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第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り |
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第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り |
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5.1.1 | 十月上旬ごろ、網代もおもしろい時期だろうと、お誘い申し上げなさって、紅葉を御覧になるよう申し上げなさる。 側近の宮家の人びとや、殿上人で親しくなさっている人だけで、「たいそうこっそりと」とお思いになるが、たいへんなご威勢なので、自然と計画が広まって、左の大殿の宰相中将も参加なさる。 それ以外では、この中納言殿だけが、上達部としてお供なさる。 臣下の者は多かった。 |
十月の一日ごろは |
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5.1.2 | かしこには、「 さきの |
あちらには、「無論、休憩をなさるでしょうから、そのようにお考えください。 昨年の春にも、花見に尋ねて参った誰彼が、このような機会にことよせて、時雨の紛れに拝見するようなこともございましょう」などと、こまごまとご注意申し上げなさった。 |
必ず 「宮のお供をして相当な数の客が来ることを考えてお置きください。先年の春のお遊びに私と伺った人たちもまた参邸を望んで、不意にお などとこまごま注意をしてきたために、 |
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5.1.3 | よしあるくだもの、 かつはゆかしげなけれど、「いかがはせむ。 これもさるべきにこそは」と |
御簾を掛け替え、あちらこちら掃除をし、岩蔭に積もっている紅葉の朽葉を少し取り除き、遣水の水草を払わせなどなさる。 風流な果物や、肴など、手伝いに必要な者たちを差し上げなさった。 一方では奥ゆかしさもないが、「どうすることもできない。 これも前世からの宿縁なのか」と諦めて、お心積もりしていらっしゃった。 |
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5.1.4 | 舟で上ったり下ったりして、おもしろく合奏なさっているのも聞こえる。 ちらほらとその様子が見えるのを、そちらに立って出て、若い女房たちは拝見する。 ご本人のお姿は、その人と見分けることはできないが、紅葉を葺いた舟の飾りが、錦に見えるところへ、声々に吹き立てる笛の音が、風に乗って仰々しいまでに聞こえる。 |
遊びの一行は船で |
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5.1.5 | 世人が追従してお世話申し上げる様子が、このようにお忍びの旅先でも、たいそう格別に盛んなのを御覧になるにつけても、「なるほど、七夕程度であっても、このような彦星の光をお迎えしたいもの」と思われた。 |
だれもが敬愛しておかしずきしていることはこうした微行のお遊びの際にもいかめしくうかがわれる宮を、年に一度の歓会しかない |
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5.1.6 | 漢詩文をお作らせになるつもりで、博士なども伺候しているのであった。 黄昏時に、お舟をさし寄せて音楽を奏しながら漢詩をお作りになる。 紅葉を薄く濃くかざして、「海仙楽」という曲を吹いて、それぞれ満足した様子であるが、宮は、近江の湖の気がして、対岸の方の恨みはどんなにかとばかり、上の空である。 時節にふさわしい題を出して、朗誦し合っていた。 |
宮は詩をお作りになる |
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5.1.7 | かうやうの |
人びとの騷ぎが少し静まってからおいでになろうと、中納言もお思いになって、そのようにお話申し上げていらっしゃったところに、内裏から、中宮の仰せ言として、宰相の御兄君の衛門督が、仰々しい随身を引き連れて、正装をして参上なさった。 このようなご外出は、こっそりなさろうとしても、自然と広まって、後の例にもなることなので、重々しい身分の人も大していなくて、急にお出かけになったのを、お耳にあそばしびっくりして、殿上人を大勢連れて参ったので、具合悪くなってしまった。 宮も中納言も、困ったとお思いになって、遊楽の興も冷めてしまった。 ご心中を知らないで、酔い乱れて遊び明かした。 |
船中の人の動きの少し静まっていくころを待って山荘へ行こうと薫も思い、そのことを宮へお耳打ちしていたうちに、御所から中宮のお言葉を受けて宰相の兄の |
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第二段 一行、和歌を唱和する |
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5.2.1 | かしこには をかしやかなることもなく、いとまめだちて、 |
今日は、このままとお思いになるが、また、宮の大夫、その他の殿上人などを、大勢差し上げなさっていた。 気ぜわしく残念で、お帰りになる気もしない。 あちらにはお手紙を差し上げなさる。 風流なこともなく、たいそう真面目に、お思いになっていたことを、こまごまと書き綴りなさっていたが、「人目が多く騒がしいだろう」とて、お返事はない。 |
それでも次の日になればという期待を宮は持っておいでになったが、また朝になってから中宮 山荘の中の君の所へはお |
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5.2.2 | 「 よそにて |
「人数にも入らない身の上では、ご立派な方とお付き合いするのは、詮ないことであったのだ」と、ますますお思い知りなさる。 逢わずに過す月日は、心配も道理であるが、いくら何でも後にはなどと慰めなさるが、近くで大騒ぎしていらして、何もなくて去っておしまいになるのが、つらく残念にも思い乱れなさる。 |
自身のような哀れな身の上の者が愛人となっているのに、 |
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5.2.3 | 宮は、それ以上に、憂鬱でやるせないとお思いになること、この上ない。 網代の氷魚も心寄せ申して、色とりどりの木の葉にのせて賞味なさるを、下人などはまことに美しいことと思っているので、人それぞれに従って、満足しているようなご外出に、ご自身のお気持ちは、胸ばかりがいっぱいになって、空ばかりを眺めていらっしゃるが、この故宮邸の梢は、たいそう格別に美しく、常磐木に這いかかっている蔦の色なども、何となく深味があって、遠目にさえ物淋しそうなのを、中納言の君も、「なまじご依頼申し上げなさっていたのが、かえってつらいことになったな」と思われる。 |
宮はまして |
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5.2.4 | かく |
去年の春、お供した公達は、花の美しさを思い出して、先立たれてここで悲しんでいらっしゃるだろう心細さを噂する。 このように忍び忍びにお通いになると、ちらっと聞いている者もいるのであろう。 事情を知らない者も混じって、だいたいが何やかやと、人のお噂は、このような山里であるが、自然と聞こえるものなので、 |
一昨年の春薫に伴われて八の宮の山荘をお訪ねした |
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5.2.5 | 「いとをかしげにこそものしたまふなれ」 |
「とても素晴らしくいらっしゃるそうな」 |
「非常な美人だということですよ。 | |||||||||||||||||||||
5.2.6 | 「箏の琴が上手で、故宮が明け暮れお弾きになるようしつけていらしたので」 |
十三 |
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5.2.7 | など、 |
などと、口々に言う。 |
などと口々に言っていた。 | |||||||||||||||||||||
5.2.8 | 宰相中将が、 |
宰相の中将が、 |
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5.2.9 | 「いつだったか花の盛りに一目見た木のもとまでが 秋はお寂しいことでしょう」 |
「いつぞやも花の盛りに一目見し 木の |
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5.2.10 | 主人方と思って詠みかけてくるので、中納言は、 |
八の宮に縁故の深い人であるからと思って薫にこう言った。その人、 |
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5.2.11 | 「桜は知っているでしょう 咲き匂う花も紅葉も常ならぬこの世を」 |
「桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ 花も |
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5.2.12 | 衛門督、 |
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5.2.13 | 「どこから秋は去って行くのでしょう 山里の紅葉の蔭は立ち去りにくいのに」 |
「いづこより秋は行きけん山里の 紅葉の |
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5.2.14 | 宮の大夫、 |
中宮大夫、 |
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5.2.15 | 「お目にかかったことのある方も亡くなった 山里の岩垣に気の長く這いかかっている蔦よ」 |
「見し人もなき山里の岩がきに 心長くも |
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5.2.16 | その中で年老いていて、お泣きになる。 親王が若くいらっしゃった当時のことなどを、思い出したようである。 |
だれよりも老人であるから泣いていた。八の宮がお若かったころのことを思い出しているのであろう。 | ||||||||||||||||||||||
5.2.17 | 宮、 |
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5.2.18 | 「秋が終わって寂しさがまさる木のもとを あまり烈しく吹きなさるな、 |
「秋はてて寂しさまさる 吹きな過ぐしそ |
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5.2.19 | とて、いといたく |
と詠んで、とてもひどく涙ぐんでいらっしゃるのを、うすうす事情を知っている人は、 |
とお歌いになって、ひどく悲しそうに涙ぐんでおいでになるのを見て、秘密を知っている人は、 | |||||||||||||||||||||
5.2.20 | 「なるほど、深いご執心なのだ。 今日の機会をお逃しになるおいたわしさ」 |
評判どおりに宮はその人を深く愛しておいでになるらしい、こんな機会にさえそこへおいでになることがおできにならないのはお気の毒である | ||||||||||||||||||||||
5.2.21 | と |
と拝し上げる人もいるが、仰々しく行列をつくっては、お立ち寄りになることはできない。 作った漢詩文の素晴らしい所々を朗誦し、和歌も何やかやと多かったが、このような酔いの紛れには、それ以上に良い作があろうはずがない。 一部分を書き留めてさえ見苦しいものである。 |
と思っているのであるが、そうした人たちだけをつれて山荘へおはいりになることも御実行のできないことであった。人々の作った詩のおもしろい一節などを皆口ずさんだりしていて、歌のほうも平生とは違った旅のことであるから相当に多くできていたが、酒酔いをした頭から出たものであるから、少しを採録したところで、佳作はなくつまらぬから省く。 |
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第三段 大君と中の君の思い |
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5.3.1 | あちらでは、お素通りになってしまった様子を、遠くなるまで聞こえる前駆の声々を、ただならずお聞きになる。 心積もりしていた女房も、まことに残念に思っていた。 姫宮は、それ以上に、 |
山荘では宮の一行が宇治を立って行かれた |
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5.3.2 | 「なほ、 ほのかに |
「やはり、噂に聞く月草のような移り気なお方なのだわ。 ちらちら人の言うのを聞くと、男というものは、嘘をよくつくという。 愛していない人を愛している顔でだます言葉が多いものだと、この人数にも入らない女房連中が、昔話として言うのを、そのような身分の低い階層には、よくないこともあるのだろう。 |
やはり噂されるように多情でわがままな恋の生活を事とされる宮様らしい、よそながら恋愛談を人のするのを聞いていると、男というものは女に向かって |
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5.3.3 | あだめきたまへるやうに、 あやしきまで |
何事も高貴な身分になれば、人が聞いて思うことも遠慮されて、自由勝手には振る舞えないはずのものと思っていたのは、そうとも限らなかったのだわ。 浮気でいらっしゃるように、故宮も伝え聞いていらっしゃって、このように身近な関係にまでは、お考えでなかったのに。 不思議なほど熱心にずっと求婚なさり続け、意外にも婿君として拝するにつけてさえ、身のつらさが思い加わるのが、つまらないことであるよ。 |
貴族として立っている人は、世間の批評もはばかって慎むところもあるのであろうと思っていたのは、自分の認識が足りなかったのである、多情な方のように父宮も聞いておいでになって、交際はおさせになったがこの家の婿になどとはお考えにならなかったものらしかったのに、不思議なほど熱心に求婚され、すでにもう縁は結ばれてしまい、それによっていっそう自分までが心の苦労を多くし不幸さを加えることになったのは歎かわしいことである。 | |||||||||||||||||||||
5.3.4 | かく ここにもことに |
このように期待はずれの宮のお心を、一方ではあの中納言も、どのように思っていらっしゃるのだろう。 ここには特に立派そうな女房はいないが、それぞれ何と思うか、物笑いになって馬鹿らしいこと」 |
接近して愛の薄くおなりになった宮のお相手の妹を、中納言は |
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5.3.5 | と |
とお心を悩ましなさると、気分も悪くなって、ほんとうに苦しく思われなさる。 |
と |
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5.3.6 | ご本人は、たまにお会いなさる時、この上なく深い愛情をお約束なさっていたので、「そうはいっても、すっかりご変心なさるまい」と、「訪れがないのも、やむをえない支障が、おありなのだろう」と、心中に思い慰めなさることがある。 |
当の中の君はたまさかにしかお |
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5.3.7 | 久しく日がたったのを気になさらないこともないが、なまじ近くまで来ながら素通りしてお帰りになったことを、つらく口惜しく思われるので、ますます胸がいっぱいになる。 堪えがたいご様子なのを、 |
ここしばらくおいでにならなかったのであるから切なく思わぬはずもないのに、近くへお姿をお現わしになっただけで行っておしまいになったことでは恨めしく残念な思いをして気をめいらせているのが、 |
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5.3.8 | 「世間並みの姫君にして上げて、ひとかどの貴族らしい暮らしならば、このようには、お扱いなさるまいものを」 |
世間並みの姫君らしい宮殿にかしずかれていたならば、この |
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5.3.9 | など、 |
などと、姉宮は、ますますお気の毒にと拝し上げなさる。 |
と思われるのである。 | |||||||||||||||||||||
第四段 大君の思い |
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5.4.1 | 「 ある これこそは、 |
「わたしも生き永らえたら、このようなことをきっと経験することだろう。 中納言が、あれやこれやと言い寄りなさるのも、わたしの気を引いてみようとのつもりだったのだわ。 自分一人が相手になるまいと思っても、言い逃れるには限度がある。 ここに仕える女房が性懲りもなく、この結婚をばかりを、何とか成就させたいと思っているようなので、心外にも、結局は結婚させられてしまうかもしれない。 この事だけは、繰り返し繰り返し、用心して過ごしなさいと、ご遺言なさったのは、このようなことがあろう時の忠告だったのだわ。 |
自分もまだ生きているとすれば、こうした目にあわされるであろう、中納言がいろいろな言葉で清い恋を求めるというのも、自分をためそうとする心だけであって、自分一人は友情以上に出まいとしていても、あの人の本心がそれでないのでは行くところは知れきったことで、自分のしりぞけるのにも力の限度がある、家にいる女たちは媒介役の失敗に懲りもせず、今もどうかして中納言を自分の |
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5.4.2 | さもこそは、 やうのものと |
このような、不幸な運命の二人なので、しかるべき親にもお先立たれ申したのだ。 姉妹とも同様に物笑いになることを重ねた様子で、亡き両親までをお苦しめ申すのが情けないのを、わたしだけでも、そのような物思いに沈まず、罪などたいして深くならない前に、何とか亡くなりたい」 |
不幸な自分たちは母君をも早く失い、父宮にもお別れしてしまったが、薄命な者であるからどうなってもよいと自身を軽く扱って、見苦しい捨てられた妻というものになり、お |
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5.4.3 | と思い沈むと、気分もほんとうに苦しいので、食べ物を少しも召し上がらず、ただ、亡くなった後のあれこれを、明け暮れ思い続けていらっしゃると、心細くなって、この君をお世話申し上げなさるのも、とてもおいたわしく、 |
と、こんなことを明け暮れ思い続ける大姫君は、心細い死の予感をさえ覚えて、中の君を見ても哀れで、 | ||||||||||||||||||||||
5.4.4 | 「 あたらしくをかしきさまを、 |
「わたしにまで先立たれなさって、どんなにひどく慰めようがないことだろう。 惜しくかわいい様子を、明け暮れの慰みとして、何とかして一人前にして差し上げたいと思って世話するのを、誰にも言わず将来の生きがいと思ってきたが、この上ない方でいらっしゃっても、これほど物笑いになった目に遭ったような人が、世間に出てお付き合いをし、普通の人のようにお過ごしになるのは、例も少なくつらいことだろう」 |
自分にまで死に別れたあとではいっそう慰みどころのない人になるであろう、美しいこの人をながめることが自分の唯一の慰安で、どうかして幸福な女にさせたいとばかり願っていた、どんなに高貴な方を良人に持ったといっても、今度のような侮辱を受けながらなお尼にもならず妻として |
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5.4.5 | などとお考え続けると、「何とも言いようなく、この世には少しも慰めることができなくて、終わってしまいそうな二人らしい」と、心細くお思いになる。 |
と、それからそれへと思い続けていく大姫君は、自分ら |
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第五段 匂宮の禁足、薫の後悔 |
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5.5.1 | 宮は、すぐその後、いつものように人目に隠れてとご出立なさったが、内裏で、 |
兵部卿の宮は御帰京になったあとでまたすぐに微行で宇治へお行きになろうとしたのであったが、 |
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5.5.2 | 「このようなお忍び事によって、山里へのご外出も、簡単にお考えになるのです。 軽々しいお振舞いだと、世間の人も蔭で非難申しているそうです」 |
「兵部卿の宮様は宇治の八の宮の姫君とひそかな関係を結んでおいでになりまして、突然に時々近郊の御旅行と申すようなことをお思い立ちになるのでございます。御軽率すぎることだと世間でもよろしくはお |
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5.5.3 | と、 |
と、衛門督がそっとお耳に入れ申し上げなさったので、中宮もお聞きになって困り、主上もますますお許しにならない御様子で、 |
と左大臣の |
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5.5.4 | 「だいたいが気まま放題の里住みが悪いのである」 |
これによっていっそう監視が厳重になり、 | ||||||||||||||||||||||
5.5.5 | と、厳しいことが出てきて、内裏にぴったりとご伺候させ申し上げなさる。 左の大殿の六の君を、ご承知せず思っていらっしゃることだが、無理にも差し上げなさるよう、すべて取り決められる。 |
兵部卿の宮を宮中から一歩もお出しにならぬような計らいをあそばされた。そして左大臣の六女との結婚はお |
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5.5.6 | 中納言殿がお聞きになって、他人事ながらどうにもならないと思案なさる。 |
中納言はそれを聞いて |
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5.5.7 | 「わがあまり さるべき |
「自分があまりに変わっていたのだ。 そのようになるはずの運命であったのだろうか。 親王が不安であるとご心配になっていた様子も、しみじみと忘れがたく、この姫君たちのご様子や人柄も、格別なことはなくて世に朽ちてゆきなさることが、惜しくも思われるあまりに、人並みにして差し上げたいと、不思議なまでお世話せずにはいられなかったところ、宮もあいにくに身を入れてお責めになったので、自分の思いを寄せている人は別なのだが、お譲りなさるのもおもしろくないので、このように取り計らってきたのに。 |
自分があまりに人と変わり過ぎているのである、どんな宿命でか八の宮が姫君たちを気がかりに仰せられた言葉も忘られなかったし、またその女王たちもすぐれた女性であるのを発見してからは、世間に無視されていることがあまりに不合理に惜しいことに思われ、人の幸福な夫人にさせたいことが念頭を去らなかったし、ちょうど兵部卿の宮も熱心に希望あそばされたことであったために、自分の対象とする姫君は違っているのに、今一人の女王を自分に |
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5.5.8 | 考えてみれば、悔しいことだ。 どちらも自分のものとしてお世話するのを、非難するような人はいないのだ」 |
今思うとそれは軽率なことであった。二人とも自分の妻にしても非難する人はなかったはずである、今さら取り返されるものではないが、愚かしい行動をした | ||||||||||||||||||||||
5.5.9 | と、元に戻ることはできないが、馬鹿らしく、自分一人で思い悩んでいらっしゃる。 |
と |
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5.5.10 | 宮は、薫以上に、お心にかからない折はなく、恋しく気がかりだとお思いになる。 |
宮はまして宇治の |
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5.5.11 | 「お心に気に入ってお思いの人がいるならば、ここに参らせて、普通通りに穏やかになさりなさい。 格別なことをお考え申し上げておいであそばすのに、軽々しいように人がお噂申すようなのも、まことに残念です」 |
「非常にお気に入った人がおありになるのだったら、私の女房の一人にしてここへ来させて、目だたない愛しようをしていればいいでしょう。あなたは東宮様、二の宮さんに続いて特別なものとして未来の地位をお |
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5.5.12 | と、 |
と、大宮は明け暮れご注意申し上げなさる。 |
こんなふうに |
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第六段 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う |
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5.6.1 | 時雨がひどく降ってのんびりとした日、女一の宮の御方に参上なさったところ、御前に女房も多く伺候していず、ひっそりとして、御絵などを御覧になっている時である。 |
はげしく |
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5.6.2 | 御几帳だけを隔てて、お話を申し上げなさる。 この上もなく上品で気高い一方で、たおやかでかわいらしいご様子を、長年二人といないものとお思い申し上げなさって、 |
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5.6.3 | 「他に、 このご様子に似た人がこの世にいようか。冷泉院の姫宮だけが、ご寵愛の深さや内々のご様子も奥ゆかしく聞こえるけれど、口に出すすべもなくお思い続けていたが、あの山里の人は、かわい |
これに近い人というのは |
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5.6.4 | など、まづ |
などと、まっさきにお思い出しになると、ますます恋しくて、気紛らわしに、御絵類がたくさん散らかっているのを御覧になると、おもしろい女絵の類で、恋する男の住まいなどが描いてあって、山里の風流な家などや、さまざまな恋する男女の姿を描いてあるのが、わが身につまされることが多くて、お目が止まりなさるので、少しお願い申し上げなさって、「あちらへ差し上げたい」とお思いになる。 |
と、姉君のお姿からも中の君が |
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5.6.5 | 在五中将の物語を絵に描いて、妹に琴を教えているところの、「人の結ばむ」と詠みかけているのを見て、どのようにお思いになったのであろうか、少し近くにお寄りなさって、 |
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5.6.6 | 「昔の人も、こういう間柄では、隔てなくしているものでございます。 たいそうよそよそしくばかりおあしらいになるのがたまりません」 |
「昔の人も |
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5.6.7 | と、 |
と、こっそりと申し上げなさると、「どのような絵であろうか」とお思いになると、巻き寄せて、御前に差し入れなさったのを、うつ伏して御覧になる御髪がうねうねと流れて、几帳の端からこぼれ出ている一部分を、わずかに拝見なさるのが、どこまでも素晴らしく、「少しでも血の遠い人とお思い申せるのであったら」とお思いになると、堪えがたくて、 |
とお言いになったのを、姫宮はどんな絵のことかと思召すふうであったから、兵部卿の宮はそれを巻いて |
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5.6.8 | 「若草のように美しいあなたと共寝をしてみようとは思いませんが 悩ましく晴れ晴れしない気がします」 |
「若草のねみんものとは思はねど 結ぼほれたるここちこそすれ」 |
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5.6.9 | 「ことしもこそあれ、うたてあやし」と ことわりにて、「うらなくものを」と |
御前に伺候している女房たちは、この宮を特に恥ずかしくお思い申し上げて、物の背後に隠れていた。 「こともあろうに嫌な変なことを」とお思いになって、何ともお返事なさらない。 もっともなことで、「考えもなく口を」と言った姫君もふざけて憎らしく思われなさる。 |
こんなことを申された。姫宮に侍している女房たちは匂宮の前へ出るのをことに恥じて皆何かの後ろへはいって隠れているのである。ことにもよるではないか、不快なことを言うものであると思召す姫宮は、何もお言いにならないのであった。この理由から「うらなく物の思はるるかな」と答えた妹の姫も |
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5.6.10 | やむごとなき |
紫の上が、特にこのお二方を仲よくお育て申されたので、大勢のご姉弟の中で、隔て心なく親しくお思い申し上げていらっしゃった。 又とないほど大切にお育て申し上げなさって、伺候する女房たちも、どこか少しでも欠点がある人は、恥ずかしそうである。 高貴な人の娘などもとても多かった。 |
六条院の紫夫人が宮たちの中で特にこのお二人を手もとでおいつくしみしたのであったから、最も親しいものにして双方で愛しておいでになった。姫宮を中宮は非常にお大事にあそばして、よきが上にもよくおかしずきになるならわしから、侍女なども精選して付けておありになった。少しの欠点でもある女房は恥ずかしくてお仕えができにくいのである。貴族の令嬢が多く女房になっていた。 | |||||||||||||||||||||
5.6.11 | お心の移りやすい方は、新参の女房に、ちょっと物を言いかけなどなさっては、あの山里辺りをお忘れになる時もない一方で、お訪ねなさることもなく数日がたった。 |
移りやすい心の |
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第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護 |
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第一段 薫、大君の病気を知る |
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6.1.1 | いと |
お待ち申し上げていらっしゃる所では、長く訪れのない気がして、「やはり、こうなのだ」と、心細く物思いに沈んでいらっしゃるところに、中納言がおいでになった。 ご病気でいらっしゃると聞いての、お見舞いなのであった。 ひどく気分が悪いというご病気ではないが、病気にかこつけてお会いなさらない。 |
待つほうの人からいえば、これが長い時間に思われて、やはりこんなふうにして忘られてしまうのかと、心細く物思いばかりがされた。そんなころにちょうど中納言が |
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6.1.2 | 「びっくりして、遠くから参ったのに。 やはり、あちらのご病人のお側近くに」 |
「おしらせを聞くとすぐに、驚いて遠い |
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6.1.3 | と、しきりにご心配申し上げなさるので、くつろいで休んでいらっしゃるお部屋の御簾の前にお入れ申し上げる。 「まことに見苦しいこと」と迷惑がりなさるが、そっけなくはなく、お頭を上げて、お返事など申し上げなさる。 |
と言って、不安でこのままでは帰れぬふうを見せるために、女王の病室の |
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6.1.4 | 宮が、不本意ながらお素通りになった様子などを、お話し申し上げなさって、 |
宮が御意志でもなくお寄りにならなかった |
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6.1.5 | 「安心してください。 いらいらなさって、お恨み申し上げなさいますな」 |
「 |
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6.1.6 | など |
などとお諭し申し上げなさると、 |
などと教えるようにも言う。 |
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6.1.7 | 「妹には、格別何とも申し上げなさらないようです。 亡き親のご遺言はこのようなことだったのだ、と思われて、おかわいそうなのです」 |
「私は格別愚痴をこぼしたりはいたしませんが、 |
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6.1.8 | とて、 いと |
と言って、お泣きになる様子である。 まことにおいたわしくて、自分までが恥ずかしい気がして、 |
それに続いて大姫君の歎く |
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6.1.9 | 「夫婦仲というものは、いずれにしても一筋縄でゆくことは難しいものです。 いろいろなことをご存知ないお二方には、ひたすら恨めしいと思いになることもあるでしょうが、じっと気長に考えなさい。 不安はまったくないと存じます」 |
「人生というものは、何も皆思いどおりにいくものではありませんからね。そんなことには少しも経験をお持ちにならないあなたがたにとっては、恨めしくばかりお思われになることもあるでしょうが、まあしいてもそれを静めて時をお待ちなさい。決してこのまま悪くなっていく御縁ではないと私は信じています」 |
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6.1.10 | などと、他人のお身の上まで世話をやくのも、一方では妙なと思われなさる。 |
などと言いながらも、自身のことでなく他の人の恋でこの弁明はしているのであると思うと、奇妙な気がしないでもなかった。 | ||||||||||||||||||||||
6.1.11 | 夜毎に、さらにとても苦しそうになさったので、他人がお側近くにいる感じも、中の宮が辛そうにお思いになっていたので、 |
夜になるときまって苦しくなる病状であったから、他人が病室の近くに来ていることは中の君が迷惑することと思って、 | ||||||||||||||||||||||
6.1.12 | 「やはり、いつものように、あちらに」 |
やはりいつもの客室のほうへ寝床をしつらえて | ||||||||||||||||||||||
6.1.13 | と |
と女房たちが申し上げるが、 |
人々が案内を申し出るのであったが、 |
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6.1.14 | 「いつもより、 このようにご病気でいらっしゃる時が気がかりなので。心配のあまりに参 上して、外に放っておかれては、とてもたまりません。このような時のご看 |
「始終気がかりでならなく思われる方が、ましてこんなふうにお悪くなっておいでになるのを聞くと、すぐにも上がった私を、病室からお遠ざけになるのは無意味ですよ。こんな場合のお世話なんぞも、私以外のだれが行き届いてできますか」 |
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6.1.15 | など、 「いと |
などと、弁のおもとにご相談なさって、御修法をいくつも始めるようにおっしゃる。 「たいそう見苦しく、わざわざ捨ててしまいたいわが身なのに」と聞いていらっしゃるが、相手の気持ちを顧みないかのように断るのもいやなので、やはり、生き永らえよと思ってくださるお気持ちもありがたく思われる。 |
などと、老女の弁に語って、始めさせる |
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第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る |
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6.2.1 | 翌朝、「少しはよくなりましたか。 せめて昨日ぐらいにお話し申し上げたい」というので、 |
次の朝になって、薫のほうから、 「少し御気分はおよろしいようですか。せめて と、言ってやると、 |
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6.2.2 | 「数日続いたせいか、今日はとても苦しくて。 それでは、こちらに」 |
「次第に悪くなっていくのでしょうか、今日はたいへん苦しゅうございます。それではこちらへ」 |
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6.2.3 | とお伝えになった。 たいそうおいたわしく、どのような具合でいらっしゃるのか。以前よりは優しいご様子なのも、胸騷ぎして思われるので、近くに寄って、いろいろのことを申し上げなさって、 |
という |
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6.2.4 | 「苦しくてお返事できません。 少しおさまりましてから」 |
「今私は苦しくてお返辞ができません。少しよくなりましたらねえ」 |
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6.2.5 | とて、いとかすかにあはれなるけはひを、 さすがに、つれづれとかくておはしがたければ、いとうしろめたけれど、 |
と言って、まことにか細い声で弱々しい様子を、この上なくおいたわしくて嘆いていらっしゃった。 そうはいっても、所在なくこうしておいでになることもできないので、まことに不安だが、お帰りになる。 |
こうかすかな声で言う哀れな恋人が心苦しくて、薫は |
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6.2.6 | 「このようなお住まいは、やはりお気の毒です。 場所を変えて療養なさるのにかこつけて、しかるべき所にお移し申そう」 |
「こういう所ではお病気の際などに不便でしかたがない。家を変えてみる療法に託してしかるべき所へ私はお移ししようと思う」 |
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6.2.7 | などと申し上げおいて、阿闍梨にも、御祈祷を熱心にするようお命じになって、お出になった。 |
などと言い置き、 |
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6.2.8 | この君のお供の人で、早くも、ここにいる若い女房と恋仲になっているのであった。 それぞれの話で、 |
薫の従者でたびたびの訪問について来た男で山荘の若い女房と情人関係になった者があった。二人の中の話に、 | ||||||||||||||||||||||
6.2.9 | 「あの宮が、ご外出を禁じられなさって、内裏にばかり籠もっていらっしゃいます。 左の大殿の姫君を、娶せ申しなさるらしい。 女方は、長年のご本意なので、おためらいになることもなくて、年内にあると聞いている。 |
兵部卿の宮には監視がきびしく付き、外出を禁じられておいでになることを言い、 「左大臣のお嬢さんと御結婚をおさせになることになっているのだが、大臣のほうでは年来の志望が達せられるので二つ返辞というものなのだから、この年内に実現されることだろう。 |
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6.2.10 | 宮はしぶしぶとお思いで、内裏辺りでも、ただ好色がましいことにご熱心で、帝や后の御意見にもお静まりそうもないようだ。 |
宮はその話に気がお進みにならないで、御所の中で |
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6.2.11 | わたしの殿は、やはり人にお似にならず、あまりに誠実でいらして、人からは敬遠されておいでだ。 ここにこうしてお越しになるだけが、目もくらむほどで、並々でないことだ、と人が申している」 |
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6.2.12 | などと話したのを、「そのように言っていた」などと、女房たちの中で話しているのをお聞きになると、ますます胸がふさがって、 |
とも言った。こんな話を聞きましたと、その女が他の女房たちの中で語っているのを中の君は聞いて、ふさがり続けた胸がまたその上にもふさがって、 | ||||||||||||||||||||||
6.2.13 | 「もうお終いだわ。 高貴な方と縁組がお決まりになるまでの、ほんの一時の慰みに、こうまでお思いになったが、そうはいっても中納言などが思うところをお考えになって、言葉だけは深いのだった」 |
もういよいよ自分から離れておしまいになる方と解釈しなければならない、りっぱな夫人をお得になるまでの仮の恋を自分へ運んでおいでになったにすぎなかったのであろう、さすがに中納言などへのはばかりで手紙だけは今でも情のあるようなことを書いておよこしになるのであろう | ||||||||||||||||||||||
6.2.14 | とお思いになると、とやかく宮のおつらさは考えることもできず、ますます身の置き場所もない気がして、落胆して臥せっていらっしゃった。 |
と考えられるのであったが、恨めしいと人の思うよりも、恥ずかしい自身の置き場がない気がして、しおれて横になっていた。 | ||||||||||||||||||||||
6.2.15 | 弱ったご気分では、ますます世に生き永らえることも思われない。 気のおける女房たちではないが、何と思うかつらいので、聞かないふりをして寝ていらしたが、中の宮、物思う時のことと聞いていたうたた寝のご様子がたいそうかわいらしくて、腕を枕にして寝ていらっしゃるところに、お髪がたまっているところなど、めったになく美しそうなのを見やりながら、親のご遺言も繰り返し繰り返し思い出されなさって悲しいので、 |
病女王はそれが耳にはいった時から、いっそうこの世に長くいたいとは思われなくなった。つまらぬ女たちではあるが、その人たちもどんなにこの始末を |
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6.2.16 | 「罪深いという地獄には、よもや落ちていらっしゃるまい。 どこでもかしこでも、おいでになるところにお迎えください。 このようにひどく物思いに沈むわたしたちをお捨てになって、夢にさえお見えにならないこと」 |
あの世の中でも罪の深い人の |
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6.2.17 | と |
とお思い続けなさる。 |
と思い続けて、 | |||||||||||||||||||||
第三段 中の君、昼寝の夢から覚める |
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6.3.1 | 夕暮の空の様子がひどくぞっとするほど時雨がして、木の下を吹き払う風の音などに、たとえようもなく、過去未来が思い続けられて、添い臥していらっしゃる様子、上品でこの上なくお見えになる。 |
夕方の空の色がすごくなり、 |
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6.3.2 | 白い御衣に、髪は梳くこともなさらず幾日もたってしまっているが、まつわりつくことなく流れて、幾日も少し青くやつれていらっしゃるのが、優美さがまさって、外を眺めていらっしゃる目もと、額つきの様子も、分かる人に見せたいほどである。 |
白の衣服を着て、頭は |
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6.3.3 | 昼寝の君は、風がたいそう荒々しいのに目を覚まされて起き上がりなさった。 山吹襲に、薄紫色の袿などがはなやかな色合いで、お顔は特別に染めて匂わしたように、とても美しくあでやかで、少しも物思いをする様子もなさっていない。 |
うたた寝していたほうの女王は、荒い風の音に驚かされて起き上がった。 |
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6.3.4 | 「故宮が夢に現れなさったが、とてもご心配そうな様子で、このあたりに、ちらちら現れなさった」 |
「お父様を夢に見たのですよ。物思わしそうにして、ちょうどこの辺の所においでになりましたわ」 |
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6.3.5 | と |
とお話しになると、ますます悲しさがつのって、 |
と言うのを聞いて病女王の心はいっそう悲しくなった。 |
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6.3.6 | 「お亡くなりになって後、何とか夢にも拝したいと思うが、全然、拝見していません」 |
「お |
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6.3.7 | とて、 |
と言って、お二方ともひどくお泣きになる。 |
と言ったあとで、二人は非常に泣いた。 | |||||||||||||||||||||
6.3.8 | 「最近、明け暮れお思い出し申しているので、お姿をお見せになるかしら。 何とか、 おいでになるところへ尋ね |
このごろは明け暮れ自分が思っているのであるから、ふと出ておいでになることもあったのであろう、どうしても父君のおそばへ行きたい、人の妻にもならず、子なども持たない清い身を持ってあの世へ行きたい、 | ||||||||||||||||||||||
6.3.9 | と、来世のことまでお考えになる。 唐国にあったという香の煙を、本当に手に入れたくお思いになる。 |
と大姫君は来世のことまでも考えていた。 |
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第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く |
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6.4.1 | たいそう暗くなったころに、宮からお使いが来る。 悲観の折とて、少し物思いもきっと慰んだことであろう。 御方はすぐには御覧にならない。 |
暗くなってしまったころに兵部卿の宮のお使いが来た。こうした一瞬間は二女王の物思いも休んだはずである。中の君はすぐに読もうともしなかった。 |
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6.4.2 | 「なほ、 かくてはかなくもなりはべりなば、これより まれにも、この |
「やはり、素直におおらかにお返事申し上げなさい。 こうして亡くなってしまったら、この方よりもさらにひどい目にお遭わせ申す人が現れ出て来ようか、と心配です。 時たまでも、この方がお思い出し申し上げなさるのに、そのようなとんでもない料簡を使う人は、いますまいと思うので、つらいけれども頼りにしています」 |
「やっぱりおとなしくおおような態度を見せてお返事を書いておあげなさい。私がこのまま亡くなれば、今以上にあなたは心細い境遇になって、どんな人の媒介役を女房が勤めようとするかもしれないのですからね。私はそれが気がかりで、心の残る気もしますよ。でもこの方が時々でも手紙を送っておいでになるくらいの関心をあなたに持っていらっしゃる間は、そんな無茶なことをしようとする女もなかろうと思うと、恨めしいながらもなお頼みにされますよ」 |
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6.4.3 | と |
と申し上げなさると、 |
と姫君が言うと、 |
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6.4.4 | 「置き去りにしていこうとお思いなのは、ひどいことです」 |
「先に死ぬことなどをお思いになるのはひどいお姉様。悲しいではありませんか」 |
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6.4.5 | と、いよいよ |
と、ますます顔を襟元にお入れになる。 |
中の君はこう言って、いよいよ夜着の中へ深く顔を隠してしまった。 |
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6.4.6 | 「寿命があるので、片時も生き残っていまいと思っていたが、よくぞ生き永らえてきたものだった、と思っていますのよ。 明日を知らない世が、そうはいっても悲しいのも、誰のために惜しい命かお分かりでしょう」 |
「自分の命が自分の思うままにはならないのですからね。私はあの時すぐにお父様のあとを追って行きたかったのだけれど、まだこうして生きているのですからね。明日はもう自分と関係のない人生になるかもしれないのに、やはりあとのことで心を苦しめていますのも、だれのために私が尽くしたいと思うからでしょう」 |
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6.4.7 | とて、 |
と言って、大殿油をお召しになって御覧になる。 |
と大姫君は灯を近くへ寄せさせて宮のお手紙を読んだ。 | |||||||||||||||||||||
6.4.8 | 例によって、こまやかにお書きになって、 |
いつものようにこまやかな心が書かれ、 |
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6.4.9 | 「眺めているのは同じ空なのに どうしてこうも会いたい気持ちをつのらせる時雨なのか」 |
「ながむるは同じ雲井をいかなれば おぼつかなさを添ふる |
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6.4.10 | 「かく さばかり |
「このように袖を濡らした」などということも書いてあったのであろうか、耳慣れた文句なのを、やはりお義理だけの手紙と見るにつけても、恨めしさがおつのりになる。 あれほど類まれなご様子やご器量を、ますます、何とかして女たちに誉められようと、色っぽくしゃれて振る舞っていらっしゃるので、若い女の方が心をお寄せ申し上げなさるのも、もっともなことである。 |
とある。 世にもまれな美男でいらせられる方が、より多く人に愛されようと |
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6.4.11 | ほど |
時が過ぎるにつけても恋しく、「あれほどたいそうなお約束なさっていたのだから、いくら何でも、とてもこのまま終わりになることはない」と考え直す気に、いつもなるのであった。 お返事は、「今宵帰参したい」と申し上げるので、皆が皆お促し申し上げるので、ただ一言、 |
隔たる日の遠くなればなるほど恋しく宮をお思いするのは中の君であって、あれほどに、あれほどな誓言までしておいでになったのであるから、どんなことがあってもこのままよその人になっておしまいになることはあるまいと思いかえす心が常に横にあった。お返事を今夜のうちにお届けせねばならぬと使いが急がし立てるために、女房が促すのに負けて、ただ一言だけを中の君は書いた。 |
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6.4.12 | 「霰が降る深山の里は朝夕に 眺める空もかき曇っております」 |
「あられ降る ながむる空もかきくらしつつ」 |
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6.4.13 | かく 「 はかなく |
こうお返事したのは、神無月の晦日だった。 「一月もご無沙汰してしまったことよ」と、宮は気が気でなくお思いで、「今宵こそは、今宵こそは」と、お考えになりながら、邪魔が多く入ったりしているうちに、五節などが早くある年で、内裏辺りも浮き立った気分に取り紛れて、特にそのためではないが過ごしていらっしゃるうちに、あきれるほど待ち遠しくいらした。 かりそめに女とお会いになっても、一方ではお心から離れることはない。 左の大殿の縁談のことを、大宮も、 |
それは十月の三十日のことであった。 この間を宇治のほうではどんなに待ち遠に思ったかしれない。かりそめの情人をお作りになってもそんなことで慰められておいでになるわけではなく、宮の恋しく |
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6.4.14 | 「やはり、そのような落ち着いた正妻をお迎えになって、その他にいとしくお思いになる女がいたら、参上させて、重々しくお扱いなさい」 |
「あなたにとって強大な後援者を結婚で得てお置きになった上で、そのほかに愛している人があるなら、お迎えになって重々しく夫人の一人としてお扱いになればよろしいではないか」 |
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6.4.15 | と |
と申し上げなさるが、 |
と仰せられるようになったが、 |
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6.4.16 | 「もう暫くお待ちください。 ある考えている子細があります」 |
「もうしばらくお待ちください。私に考えがあるのですから」 |
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6.4.17 | お断り申し上げなさって、「ほんとうにつらい目をどうしてさせられようか」などとお考えになるお心をご存知ないので、月日とともに物思いばかりなさっている。 |
となおいなみ続けておいでになる兵部卿の宮であった。かりそめの恋人は作っても、勢いのある正妻などを持ってあの人に苦しい思いはさせたくないと宮の思っておいでになることなどは、宇治へわからぬことであったから、月日に添えて物思いが加わるばかりである。 |
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第五段 薫、大君を見舞う |
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6.5.1 | 中納言も、「思ったよりは軽いお心だな。 いくら何でも」とお思い申し上げていたのも、お気の毒に、心から思われて、めったに参上なさらない。 |
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6.5.2 | 「この |
山里には、「お加減はいかがですか。いかがですか」と、お見舞い申し上げなさる。 「今月になってからは、少し具合がよくいらっしゃる」とお聞きになったが、公私に何かと騒がしいころなので、五、六日人も差し上げられなかったので、「どうしていらっしゃるだろう」と、急に気になりなさって、余儀ないご用で忙しいのを放り出して参上なさる。 |
そして山荘のほうへは病む女王の容体を聞きにやることを怠らなかった。 十一月になって少しよいという報告を薫は得ていて、それがちょうど公私の用の繁多な時であったため、五、六日見舞いの使いを出さずにいたことを急に思い出して、まだいろいろな用のあったのも捨てておいて自身で出かけて行った。 |
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6.5.3 | 「修法は、病気がすっかりお治りになるまで」とおっしゃっておいたが、良くなったといって、阿闍梨をもお帰しになったので、たいそう人少なで、例によって、老女が出てきて、ご容態を申し上げる。 |
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6.5.4 | 「そこはかと もとより、 よに |
「どこそこと痛いところもなく、たいしたお苦しみでないご病気なのに、食事を全然お召し上がりになりません。 もともと、人と違っておいでで、か弱くいらっしゃるうえに、こちらの宮のご結婚話があって後は、ますますご心配なさっている様子で、ちょっとした果物さえお見向きもなさらなかったことが続いたためか、あきれるほどお弱りになって、まったく見込みなさそうにお見えです。 まことに情けない長生きをして、このようなことを拝見すると、まずは何とか先に死なせていただきたいと存じております」 |
「どこがお痛いというところもございませんような、御大病とは思えぬ御容体でおありになりながら、物を少しも召し上がらないのでございますよ。だいたい御体質が繊弱でいらっしゃいますところへ、 |
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6.5.5 | と、 |
と、言い終わらずに泣く様子、もっともなことである。 |
と言い終えることもできぬように泣くのが道理に思われた。 |
|||||||||||||||||||||
6.5.6 | 「情けない。どうして、こうとお知らせくださらなかったのか。 院でも内裏でも、あきれるほど忙しいころなので、幾日もお見舞い申し上げなかった気がかりさよ」 |
「なぜそれをどなたもどなたも私へ知らせてくださらなかったのですか。 |
||||||||||||||||||||||
6.5.7 | と言って、以前の部屋にお入りになる。 御枕もと近くでお話し申し上げるが、お声もないようで、お返事できない。 |
と言って、この前の病室にすぐ隣った所へはいって行った。 |
||||||||||||||||||||||
6.5.8 | 「こんなに重くおなりになるまで、誰も誰もお知らせくださらなかったのが、つらいよ。 心配しても効ないことだ」 |
「こんなに重くおなりになるまで、どなたもおしらせくださらなかったのが恨めしい。私がどんなに御心配しているかが、皆さんに通じなかったのですか」 |
||||||||||||||||||||||
6.5.9 | と |
と恨んで、いつもの阿闍梨、世間一般に効験があると言われている人をすべて、大勢お召しになる。 御修法や、読経を翌日から始めさせようとなさって、殿邸の人が大勢参集して、上下の人たちが騒いでいるので、心細さがすっかりなくなって頼もしそうである。 |
と言い、まず |
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第六段 薫、大君を看護する |
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6.6.1 | 暮れたので、「いつもの、あちらの部屋に」と申し上げて、御湯漬などを差し上げようとするが、「せめて近くで看病をしよう」と言って、南の廂間は僧の座席なので、東面のもう少し近い所に、屏風などを立てさせて入ってお座りになる。 |
日が暮れると例の客室へ席を移すことを女房たちは望み、 |
||||||||||||||||||||||
6.6.2 | 中の宮は、困ったこととお思いになったが、お二人の仲を、「やはり、何でもなくはないのだ」と皆が思って、よそよそしくは隔てたりはしない。 初夜から始めて、法華経を不断に読ませなさる。 声の尊い僧すべて十二人で、実に尊い。 |
これを中の君は迷惑に思ったのであるが、薫と姫君との間柄に友情以上のものが結ばれていることと信じている女房たちは、他人としては扱わないのであった。 初夜から始めさせた |
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6.6.3 | 灯火はこちらの南の間に燈して、内側は暗いので、几帳を引き上げて、少し入って拝見なさると、老女連中が二、三人伺候している。 中の宮は、さっとお隠れになったので、たいそう人少なで、心細く臥せっていらっしゃるのを、 |
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6.6.4 | 「どうして、お声だけでも聞かせてくださらないのか」 |
「どうしてあなたは声だけでも聞かせてくださらないのですか」 |
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6.6.5 | とて、 |
と言って、お手を取ってお声をかけて差し上げると、 |
と言って、手を取った。 |
|||||||||||||||||||||
6.6.6 | 「気持ちはそのつもりでいても、物を言うのがとても苦しくて。 幾日も訪れてくださらなかったので、お目にかかれないままにこと切れてしまうのではないかと、残念に思っておりました」 |
「心ではあなたのおいでになったことがわかっていながら、ものを言うのが苦しいものですから失礼いたしました。しばらくおいでにならないものですから、もうお目にかかれないままで死んで行くのかと思っていました」 |
||||||||||||||||||||||
6.6.7 | と、 |
と、やっとの声でおっしゃる。 |
息よりも低い声で病者はこう言った。 |
|||||||||||||||||||||
6.6.8 | 「こんなにお待ちくださるまで参らなかったことよ」 |
「あなたにさえ待たれるほど長く出て来ませんでしたね、私は」 |
||||||||||||||||||||||
6.6.9 | と言って、しゃくりあげてお泣きになる。 お額など、少し熱がおありであった。 |
しゃくり上げて薫は泣いた。この人の |
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6.6.10 | 「何の罪によるご病気か。 人を嘆かせると、こうなるのですよ」 |
「あなたはなんという罪な性格を持っておいでになって、人をお悲しませになったのでしょう。その最後にこんな病気におなりになった」 |
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6.6.11 | と、お耳に口を当てて、いろいろ多く申し上げなさるので、うるさくも恥ずかしくも思われて、顔を被いなさっているのを、死なせてしまったらどんな気がするだろう、と胸も張り裂ける思いでいられる。 |
耳に口を押し当てていろいろと薫が言うと、姫君はうるさくも恥ずかしくも思って、 |
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6.6.12 | 「何日もご看病なさってお疲れも、大変なことでしょう。 せめて今夜だけでも、安心してお休みなさい。 宿直人が伺候しましょう」 |
「毎日の御 |
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6.6.13 | と申し上げなさると、気がかりであるが、「何かわけがあるのだろう」とお思いになって、少し退きなさった。 |
見えぬ蔭にいる中の君に薫がこう言うと、不安心には思いながらも、何か直接に話したいことがあるのであろうと思って、若い |
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6.6.14 | 面と向かってというのではないが、這い寄りながら拝見なさると、とても苦しく恥ずかしいが、「このような宿縁であったのだろう」とお思いになって、この上なく穏やかで安心なお心を、あのもうお一方にお比べ申し上げなさると、しみじみとありがたく思い知られなさった。 |
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6.6.15 | 「むなしくなりなむ 「いみじのわざや。 いかにしてかは、かけとどむべき」と、 |
「亡くなった後の思い出にも、強情な、思いやりのない女だと思われまい」とお慎みなさって、そっけなくおあしらいになったりなさらない。 一晩中、女房に指図して、お薬湯などを差し上げなさるが、少しもお飲みになる様子もない。 「大変なことだ。 どのようにして、お命を取り止めることができようか」と、何とも言いようがなく沈みこんでいらっしゃった。 |
死んだあとの思い出にも気強く、思いやりのない女には思われまいとして、かたわらの人を押しやろうとはしなかった。 一夜じゅうかたわらにいて、時々は湯なども薫は勧めるのであったが、少しもそれは聞き入れなかった。悲しいことである、この命をどうして引きとめることができるであろうと薫は思い悩むのであった。 |
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第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る |
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6.7.1 | 不断の読経の、明け方に交替する声がたいそう尊いので、阿闍梨も徹夜で勤めていて居眠りをしていたのが、ふと目を覚まして陀羅尼を読む。 老いしわがれた声だが、実にありがたそうで頼もしく聞こえる。 |
不断経を読む僧が夜明けごろに人の代わる時しばらく前の人と同音に唱える経声が尊く聞こえた。 |
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6.7.2 | 「どのように今夜はおいででしたか」 |
「今夜の御様子はいかがでございますか」 |
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6.7.3 | などとお尋ね申し上げる機会に、故宮のお事などを申し上げて、鼻をしばしばかんで、 |
などと阿闍梨は薫に問うたついでに、 |
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6.7.4 | 「どのような世界にいらっしゃるのでしょう。 そうはいっても、涼しい極楽に、と想像いたしておりましたが、先頃の夢にお見えになりました。 |
「宮様はどんな所においでになりましょう。必ずもう清浄な世界においでになると私は思っているのですが、先日の夢にお見上げすることができまして、 | ||||||||||||||||||||||
6.7.5 | すすむるわざせよ』と、いとさだかに |
俗人のお姿で、『世の中を深く厭い離れていたので、執着するところはなかったが、わずかに思っていたことに乱れが生じて、今しばらく願っていた極楽浄土から離れているのを思うと、とても悔しい。 追善供養をせよ』と、まことにはっきりと仰せになったが、すぐにご供養申し上げる方法が思い浮かびませんので、できる範囲内で、修業している法師たち五、六人で、何々の称名念仏を称えさせております。 |
それはまだ俗のお姿をしていられまして、人生を深くいとわしい所と信じていたから、執着の残ることは何もなかったのだが、少し心配に思われる点があって、今しばらくの間志す所へも行きつかずにいるのが残念だ。こうした私の気持ちを救うような方法を講じてくれとはっきりと仰せられたのですが、そうした場合に速く何をしてよろしいか私にはよい考えが出ないものですから、ともかくもできますことでと思いまして、修行の |
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6.7.6 | その他は、考えるところがございまして、常不軽を行わせております」 |
それからまた気づきまして |
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6.7.7 | などと申すので、君もひどくお泣きになる。 あの世までお邪魔申した罪障を、苦しい気持ちに、ますます息も絶えそうに思われなさる。 |
こんなことを言うのを聞いて薫は非常に泣いた。父君の |
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6.7.8 | 「何とか、あのまだ行く所がお定まりにならない前に参って、同じ所にも」 |
ぜひとも父君がまだ |
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6.7.9 | と、 |
と、聞きながら臥せっていらっしゃった。 |
と思うのであった。 | |||||||||||||||||||||
6.7.10 | 阿闍梨は言葉少なに立った。 この常不軽は、その近辺の里々、京まで歩き回ったが、明け方の嵐に難渋して、阿闍梨のお勤めしている所を尋ねて、中門のもとに座って、たいそう尊く拝する。 回向の偈の終わりのほうの文句が実にありがたい。 客人もこの方面に関心のあるお方で、しみじみと感動に堪えられない。 |
阿闍梨は多く語らずに座を立って行った。 この常不軽の |
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6.7.11 | 中の宮が、まことに気がかりで、奥のほうにある几帳の背後にお寄りになっているご気配をお聞きになって、さっと居ずまいを正しなさって、 |
中の君が姉君を気づかわしく思うあまりに病床に近く来て、奥のほうの |
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6.7.12 | 「不軽の声はどのようにお聞きあそばしましたでしょうか。 重々しい祈祷としては行わないのですが、尊くございました」と言って、 |
「不軽の声をどうお聞きになりましたか、おごそかな宗派のほうではしないことですが尊いものですね」 と言い、また、 |
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6.7.13 | 「霜が冷たく凍る汀の千鳥が堪えかねて 寂しく鳴く声が悲しい、 |
「霜さゆる 鳴く |
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6.7.14 | 話すように申し上げなさる。 冷淡な方のご様子にも似ていて、思い比べられるが、返事しにくくて、弁を介して申し上げなさる。 |
これをただ言葉のようにして言った。 恨めしい恋人に似たところのある人とは思うが返辞の声は出しかねて、弁に代わらせた。 |
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6.7.15 | 「明け方の霜を払って鳴く千鳥も 悲しんでいる人の心が分かるのでしょうか」 |
「あかつきの霜うち払ひ鳴く千鳥 もの思ふ人の心をや知る」 |
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6.7.16 | かやうのはかなしごとも、つつましげなるものから、なつかしうかひあるさまにとりなしたまふものを、「 |
不似合いな代役だが、気品を失わず申し上げる。 このようなちょっとしたことも、遠慮されるものの、やさしく上手におとりなしなさるものを、「今を最後と別れてしまったら、どんなに悲しい気がするだろう」と、目の前がまっくらにおなりになる。 |
あまりに似合わしくない代わり役であったが、つたなくもない |
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第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う |
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6.8.1 | 宮が夢に現れなさった様子をお考えになると、「このようにおいたわしいお二方のご境遇を、宙空をさ迷いながらどのように御覧になっていられるだろう」と推察されて、お籠もりになったお寺にも、御誦経をおさせになる。 所々にご祈祷の使者をお出しになって、朝廷にも私邸のほうにも、お休暇の旨を申されて、祀りや祓い、いろいろと思い至らないことのないほどなさるが、何かの罪によるお病気でもなかったので、何の効目も見えない。 |
阿闍梨の夢に八の宮が現われておいでになったことを思っても、このいたましい二人の女王があの世からお気がかりにお見えになることかもしれぬと思われる薫は、山の |
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6.8.2 | ご自身でも、治りたいと思って、仏をお祈りなさればだが、 |
病者自身が、生かせてほしいと仏に願っておればともかくであるが、 | ||||||||||||||||||||||
6.8.3 | 「なほ、かかるついでにいかで この さりとて、かうおろかならず もし さてのみこそ、 |
「はやり、このような機会に何とかして死にたい。 この君がこうして付き添って、余命残りなくなったが、今はもう他人で過すすべもない。 そうかといって、このように並々ならず見える愛情だが、思ったほどでないと、自分も相手もそう思われるのは、つらく情けないことであろう。 もし寿命が無理に延びたら、病気にかこつけて、姿を変えてしまおう。 そうしてだけ、末長い心を互いに見届けることができるのだ」 |
女王にすれば、病になったのを幸いとして死にたいと念じていることであるから、 |
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6.8.4 | と |
と思い決めなさって、 |
と姫君は深く思うようになって、 | |||||||||||||||||||||
6.8.5 | 「生きるにせよ、死ぬにせよ、何とかこの出家を遂げたい」とお思いになるのを、そこまで賢ぶったことはおっしゃらずに、中の宮に、 |
死ぬにしても、生きるにしても出家のことはぜひ実行したいと考えるのであるが、そんな賢げに聞こえることは薫に言い出されなくて、中の君に、 |
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6.8.6 | 「気分がますます頼りなく思われるので、戒を受けると、とても効目があって寿命が延びることだと聞いていたが、そのように阿闍梨におっしゃってください」 |
「私の病気は癒るのでないような気がしますからね、仏のお |
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6.8.7 | と |
と申し上げなさると、みな泣き騒いで、 |
こう言ってみた。皆が泣いて、 |
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6.8.8 | 「とんでもない御ことです。 こんなにまでお心を痛めていらっしゃるような中納言殿も、どんなにがっかり申されることでしょう」 |
「とんでもない仰せでございます。あんなに御心配をしていらっしゃいます中納言様がどれほど御落胆あそばすかしれません」 |
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6.8.9 | と、ふさわしくないことと思って、頼りにしている方にも申し上げないので、残念にお思いになる。 |
だれもこんなことを言って、唯一の |
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6.8.10 | このように籠もっていらっしゃったので、次々と聞き伝えて、お見舞いにわざわざやって来る人もいる。 いい加減にはお思いでない方だ、と拝見するので、殿上人や、親しい家司などは、それぞれいろいろなご祈祷をさせ、ご心配申し上げる。 |
女王の病のために薫が宇治に滞在していることを、それからそれへと話に聞き、慰問にわざわざ来る人もあった。深く愛している様子を察している部下の人、家職の人たちはいろいろの祈祷を依頼しにまわるのに狂奔していた。 |
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6.8.11 | 「 なつかしうらうたげなる |
豊明の節会は今日であると、京をお思いやりになる。 風がひどく吹いて、雪が降る様子があわただしく荒れ狂う。 「都ではとてもこうではあるまい」と、自ら招いてのこととはいえ心細くて、「他人関係のまま終わってしまうのだろうか」と思う宿縁はつらいけれど、恨むこともできない。 やさしくかわいらしいおもてなしを、ただ少しの間でも元どおりにして、「思っていたことを話したい」と、思い続けながら眺めていらっしゃる。 光もささず暮れてしまった。 |
今日は |
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6.8.12 | 「かき曇って日の光も見えない奥山で 心を暗くする今日このごろだ」 |
「かきくもり日かげも見えぬ奥山に 心をくらすころにもあるかな」 薫の歌である。 |
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第九段 薫、大君に寄り添う |
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6.9.1 | ただ、かくておはするを |
ただ、こうしておいでになるのを頼みに、皆がお思い申し上げていた。 いつもの、近いお側に座っていらっしゃるが、御几帳などを、風が烈しく吹くので、中の宮、奥のほうにお入りになる。 見苦しそうな人びとも、恥ずかしがって隠れているところで、たいそう近くに寄って、 |
この人のいてくれるのをだれも力に頼んでいた。 いつもの近い席に薫がいる時に、 |
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6.9.2 | 「どのようなお具合ですか。 心のありたけを尽くして、ご祈祷申し上げる効もなく、お声をさえ聞かなくなってしまったので、まことに情けない。 後に遺して逝かれなさったら、ひどくつらいことでしょう」 |
「どんな御気分ですか、私が精神を集中して快くおなりになるのを祈っているのに、その |
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6.9.3 | と、泣く泣く申し上げなさる。 意識もはっきりしなくなった様子だが、顔はまことによく隠していらっしゃった。 |
泣く泣くこう言った。もう意識もおぼろになったようでありながら女王は薫のけはいを知って |
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6.9.4 | 「気分の良い時があったら、申し上げたいこともございますが、ただもう息も絶えそうにばかりなってゆくのは、心残りなことです」 |
「少しでもよろしい間があれば、あなたにお話し申したいこともあるのですが、何をしようとしても消えていくようにばかりなさるのは悲しゅうございます」 |
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6.9.5 | と、本当に悲しいと思っていらっしゃる様子なので、ますます感情を抑えがたくなって、不吉に、このように心細そうに思っているとは見られまいと、お隠しになるが、泣き声まで上げられてしまう。 |
薫を深く |
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6.9.6 | 「どのような宿縁で、この上なくお慕い申し上げながら、つらいことが多くてお別れ申すのだろうか。 少し嫌な様子でもお見せになったら、思いを冷ますきっかけにしよう」 |
自分とはどんな宿命で、心の限り愛していながら、恨めしい思いを多く味わわせられるだけでこの人と別れねばならぬのであろう、少し悪い感じでも与えられれば、それによってせめても失う者の苦しみをなだめることになるであろう、 | ||||||||||||||||||||||
6.9.7 | とまもれど、いよいよあはれげにあたらしく、をかしき |
と見守っているが、ますますいとしく惜しく、美しいご様子ばかりが見える。 |
と思って見つめる薫であったが、いよいよ |
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6.9.8 | 腕などもたいそう細くなって、影のように弱々しいが、肌の色艶も変わらず、白く美しそうになよなよとして、白い御衣類の柔らかなうえに、衾を押しやって、中に身のない雛人形を臥せたような気がして、お髪はたいして多くもなくうちやられている、それが、枕からこぼれている側が、つやつやと素晴らしく美しいのも、「どのようにおなりになろうとするのか」と、生きていかれそうにもなく見えるのが、惜しいことは類がない。 |
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6.9.9 | 幾月も長く患って、身づくろいもしてない様子が、気を許そうともせず恥ずかしそうで、この上なく飾りたてる人よりも多くまさって、こまかに見ていると、魂も抜け出してしまいそうである。 |
長く |
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第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆 |
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第一段 大君、もの隠れゆくように死す |
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7.1.1 | 「とうとう捨てて逝っておしまいになったら、この世に少しも生きている気がしない。 寿命がもし決まっていて生き永らえたとしても、深い山に分け入るつもりです。 ただ、とてもお気の毒に、お残りになる方の御事を心配いたします」 |
「あなたがいよいよ私を捨ててお行きになることになったら、私も生きていませんよ。けれど、人の命は思うようになるものでなく、生きていねばならぬことになりましたら、私は深い山へはいってしまおうと思います。ただその際にお妹様を心細い状態であとへお残しするだけが苦痛に思われます」 |
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7.1.2 | と、答えさせていただこうと思って、あの方の御事におふれになると、顔を隠していらっしゃったお袖を少し離して、 |
中納言は少しでもものを言わせたいために、病者が最も関心を持つはずの人のことを言ってみると、姫君は顔を隠していた |
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7.1.3 | 「かく、はかなかりけるものを、 |
「このように、はかなかったものを、思いやりがないようにお思いなさったのも効がないので、このお残りになる人を、同じようにお思い申し上げてくださいと、それとなく申し上げましたが、その通りにしてくださったら、どんなに安心して死ねたろうにと、この点だけが恨めしいことで、執着が残りそうに思われます」 |
「私はこうして短命で終わる予感があったものですから、あなたの御好意を解しないように思われますのが苦しくて、残っていく人を私の代わりと思ってくださるようにとそう願っていたのですが、あなたがそのとおりにしてくださいましたら、どんなに安心だったかと思いましてね、それだけが心残りで死なれない気もいたします」 |
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7.1.4 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と言った。 |
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7.1.5 | 「かくいみじう、もの いかにも、いかにも、 されども、うしろめたくな |
「このようにひどく、物思いをする身の上なのでしょうか。 何としても、かんとしても、他の人には執着することがございませんでしたので、ご意向にお従い申し上げずになってしまいました。 今になって、悔しくいたわしく思われます。 けれども、ご心配申し上げなさいますな」 |
「こんなふうに悲しい思いばかりをしなければならないのが私の宿命だったのでしょう。私はあなた以外のだれとも夫婦になる気は持ってなかったものですから、あなたの好意にもそむいたわけなのです。今さら残念であの方がお気の毒でなりません。しかし御心配をなさることはありませんよ。あの方のことは」 |
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7.1.6 | などと慰めて、たいそう苦しそうでいらっしゃるので、修法の阿闍梨たちを召し入れさせて、いろいろな効験のある僧全員して、加持して差し上げさせなさる。 ご自分でも仏にお祈りあそばすこと、この上ない。 |
などともなだめていた薫は、姫君が苦しそうなふうであるのを見て、修法の僧などを近くへ呼び入れさせ、効験をよく現わす人々に加持をさせた。そして自身でも念じ入っていた。 | ||||||||||||||||||||||
7.1.7 | 「世の中を特に厭い離れなさい、とお勧めになる仏などが、とてもこのようにひどい目にお遭わせになるのだろうか。 見ている前で物が隠れてゆくようにして、お亡くなりになったのは、何と悲しいことであろうか」 |
人生をことさらいとわしくなっている薫でないために、道へ深く入れようとされる仏などが、今こうした大きな悲しみをさせるのではなかろうか。見ているうちに何かの植物が枯れていくように |
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7.1.8 | あるにもあらず |
引き止める方法もなく、足摺りもしそうに、人が馬鹿だと見ることも気にしない。 ご臨終と拝しなさって、中の宮が、後れまいと嘆き悲しみなさる様子ももっともなことである。 正気を失ったようにお見えになるのを、いつもの、利口ぶった女房連中が、「今は、まことに不吉なこと」と、お引き離し申し上げる。 |
引きとめることもできず、 |
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第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり |
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7.2.1 | 中納言の君は、そうはいっても、まさかこんなことにはなるまい、夢か、とお思いになって、大殿油を近くに芯をかき立てて拝見なさると、お隠しになっている顔も、まるで寝ていらっしゃるように、変わっておいでになるところもなく、かわいらしげに臥せっていらっしゃるのを、「このままで、虫の脱殻のようにずっと見続けることができるものならば」と、悲しみにくれる。 |
源中納言は死んだのを見ていても、これは事実でないであろう、夢ではないかと思って、台の |
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7.2.2 | ご臨終の作法をする時に、お髪をかきやると、さっと匂うのが、まるで生きていた時の匂いそのままで、懐かしく香ばしいのも、 |
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7.2.3 | 「世に比類なく、どうしてこの人を、少しでも普通の女性であったと思い諦められようか。 ほんとうに世の中を思い捨て去る道しるべならば、恐ろしそうな醜いことで、悲しさも冷めてしまいそうなところだけでも見つけさせてください」 |
どの点でこの人に欠点があるとしてのけにくい執着を除けばいいのであろう、あまりにも完全な女性であった。この人の死が自分を信仰へ導こうとする仏の方便であるならば、恐怖もされるような、悲しみも忘れられるほど変相を見せられたい | ||||||||||||||||||||||
7.2.4 | と仏にお祈りになるが、ますます悲しみを慰めようもなくなるばかりなので、どうしようもなくて、「ひと思いにせめて火葬にしてしまおう」とお思いになって、あれこれ例の葬式をするのが、何ともいいようのないことであった。 |
と仏を念じているのであるが、悲しみはますます深まるばかりであったから、せめて早く煙にすることをしようと思い、葬送の儀式のことなどを命じてさせるのもまた苦しいことであった。 | ||||||||||||||||||||||
7.2.5 | 宙を歩くようにふらふらとして、最後に空に上る様子さえ頼りなさそうで、煙も多くはお立ちにならなかったのもあっけなかったことと、茫然としてお帰りになった。 |
空を歩くような気持ちを覚えて薫は葬場へ行ったのであるが、火葬の煙さえも多くは立たなかったのにはかなさをさらに感じて山荘へ帰った。 |
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7.2.6 | 御忌中に籠もっている人の数が多くて、心細さは少し紛れそうだが、中の宮は、人の目や思惑も恥ずかしい身の情けなさを悲観なさって、同じく死んだ人のようにお見えになる。 |
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7.2.7 | 宮からもご弔問をたいそう頻繁に差し上げなさる。 意外でつくづくとお思い申し上げていらっしゃったお気持ちも、お直りにならずに亡くなってしまったことをお思いになると、まことにつらいご縁の方である。 |
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7.2.8 | 中納言は、このようにこの世がまことにつらく思われる機会に、出家の本願を遂げようとお思いになるが、三条宮がお悲しみになることに気がねし、この姫君の御事のおいたわしさに思い乱れて、 |
中納言は人生の悲しみを切実に味わった今度のことを機会に、出家したいと思う心はあるのであるが、三条の母宮の思召しもはばかられ、それとこの中の君の境遇の心細さは見捨てられないものに思われて |
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7.2.9 | 「かののたまひしやうにて、 |
「あの方がおっしゃったようにして、形見としてでも結婚すべきであったよ。 心の底では、身を分けた姉妹でいらしても、気を移せるようには思えなかったが、このようにお悲しみ申し上げさせるよりは、いっそ深い仲になって、尽きない慰めとしてずっとお世話申し上げてゆくべきであったのに」 |
故 |
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7.2.10 | など |
などとお思いになる。 |
とも思った。 | |||||||||||||||||||||
7.2.11 | ちょっとも京にお出にならず、ふっつりと、慰めようもなく籠もっておいでになるのを、世の人も、並々ならず悲しんでいらっしゃる、と見聞きして、帝をはじめ申して、ご弔問が多かった。 |
かりそめにも京へ出ることをせず、物思いをしてこもっていることを知って、世間の人も故人を薫が深く愛していたことを知り、宮中をはじめとして諸方面からの慰問の使いが山荘を多く |
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第三段 七日毎の法事と薫の悲嘆 |
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7.3.1 | はかなくて |
とりとめもなく幾日も過ぎてゆく。 七日毎の法事も、たいそう尊くおさせになっては、心をこめて供養なさるが、規則があるので、お召し物の色の変わらないのを、あの御方を特に慕っていた女房たちが、たいそう黒く着替えているのを、ちらっと御覧になるにつけても、 |
女王の |
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7.3.2 | 「紅色に落ちる涙が何にもならないのは 形見の喪服の色を染めないことだ」 |
「くれなゐに落つる涙もかひなきは かたみの色を染めぬなりけり」 |
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7.3.3 | 許し色の氷が解けないかと見えるのを、ますます濡らし加えながら物思いに沈んでいらっしゃるお姿は、たいそう艶っぽく美しい。 女房たちが覗きながら拝見して、 |
こんなことがつぶやかれ、浅い |
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7.3.4 | 「亡くなってしまったお方のことはしかたないとして、この殿がこのようにお親しみ申されて、これからは他人とお思い申し上げるのは、惜しく残念なことだわ」 |
「姫君のお |
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7.3.5 | 「意外なご運勢でいらっしゃったわ。 こんなに深いお志を、どちらもお添いになれなかったとは」 |
なんという宿命でしょう。こんなに真心の深い方をお二方とも御冷淡になすって、御縁をお結びにならなかったとはね」 |
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7.3.6 | と |
と言って、泣きあっている。 |
とも言って泣き合っていた。 |
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7.3.7 | この御方には、 |
「こちらの姫君を | ||||||||||||||||||||||
7.3.8 | 「亡くなった方のお形見として、今は何でも申し上げ、承りたいと存じております。 よそよそしくお思いなさいませんように」 |
あの方のお形見とみなして、今後はいろいろ昔の話を申し上げ、また承りもしたいと思うのです。他人のように思召さないでください」 |
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7.3.9 | と申し上げなさるが、「万事が嫌な身の上だ」と、何もかも気後れして、まだお会いしてお話など申し上げなさらない。 |
と薫は中の君へ言わせたが、すべての点で自分は薄命な女であると思う心から恥じられて、中の君はまだ話し合おうとはしなかった。 | ||||||||||||||||||||||
7.3.10 | 「この姫君は、はきはきとした方で、もう少し子供っぽく、気高くいらっしゃる一方で、親しみがありうるおいのある人柄という点では劣っていらっしゃる」 |
この女王のほうはあざやかな美人で、娘らしいところと、 |
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7.3.11 | と、 |
と、何かにつけて思われる。 |
と事に触れて薫は思った。 |
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第四段 雪の降る日、薫、大君を思う |
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7.4.1 | 雪が烈しく降る日、一日中物思いに沈んで、世間の人が殺風景な物という十二月の月夜の、曇りなく照りだしているのを、簾を巻き上げて御覧になると、向かい側の寺の鐘の音を、枕をそばだてて、今日も暮れたと、かすかな音を聞いて、 |
雪の暗く降り暮らした日、終日物思いをしていた薫は、世人が愛しにくいものに言う十二月の月の |
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7.4.2 | 「後れまいと空を行く月が慕われる いつまでも住んでいられないこの世なので」 |
「おくれじと空行く月を慕ふかな |
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7.4.3 | 「 「わづかに |
風がたいそう烈しいので、蔀を下ろさせなさると、四方の山の鏡に見える汀の氷が、月の光に実に美しい。 「京の邸をこの上なく磨いても、こんなにまではできまい」と思われる。 「かろうじて少しでも生き返りなさったら、一緒に語りあえたものを」と思い続けると、胸がいっぱいになる。 |
風がはげしくなったので、揚げ戸を皆おろさせるのであったが、四辺の山影をうつした宇治川の |
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7.4.4 | 「恋いわびて死ぬ薬が欲しいゆえに 雪の山に分け入って跡を晦ましてしまいたい」 |
「恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに 雪の山には跡を |
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7.4.5 | 「半偈を教えたという鬼でもいてくれたら、かこつけて身を投げたい」とお考えになるのは、未練がましい道心であるよ。 |
死を求める |
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7.4.6 | 女房たちを近くに呼び出しなさって、話などをおさせになる様子などが、まことに理想的でゆったりとして情愛深いのを、拝する女房たち、若い者は、心にしみて立派だとお思い申し上げる。 年とった者は、ただ口惜しく残念なことを、ますます思う。 |
中納言は女房たちを皆そばへ呼び集めて、話などをさせて聞いていた。様子のりっぱであることと、親切な性情を知っている女たちであるから、その中の若い人らは身にしむほどの思いで好意を持った。老いた人たちは薫を見ることによっても故人が惜しまれてならなかった。 |
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7.4.7 | 「 |
「ご病気が重態におなりあそばしたことも、ただあの宮の御事を思いもかけずお迎えなさって、物笑いで辛いとお思いのようであったが、何といってもあの御方には、こう心配していると知られ申すまいと、ただお胸の内で二人の仲を嘆いていらっしゃるうちに、ちょっとした果物もお口におふれにならず、すっかりお弱りあそばしたようでした。 |
「御病気の重くなりましたのも、 |
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7.4.8 | 表面では何ほども大げさに心配しているようにはお振る舞いあそばさず、お心の底ではこの上なく、何事もご心配のようでして、故宮のご遺戒にまで背いてしまったことと、ひとごとながら妹君のお身の上をお悩み続けたのでした」 |
表面には物思いをあそばすふうをお見せにならずに、深く胸の中で悩んでいらっしったのでございます。それに中の君様に結婚をおさせになりましたことは父宮様の御遺戒にもそむいたことであったと、いつもそれをお心の苦になさいましたのでございますよ」 |
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7.4.9 | と申し上げて、時々おっしゃったことなどを話し出しては、誰も彼もいつまでも泣きくれている。 |
こんなことを言って、いつの時、いつかこうお言いになったことがあるなどと大姫君のことを語って、だれもだれも際限なく泣いた。 | ||||||||||||||||||||||
第五段 匂宮、雪の中、宇治へ弔問 |
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7.5.1 | 「わが |
「自分のせいで、つまらない心配をおかけ申したこと」と元に戻したく、すべての世の中がつらいので、念誦をますますしみじみとなさって、うとうととする間もなく夜を明かしなさると、まだ夜明け前の雪の様子が、たいそう寒そうな中を、人びとの声がたくさんして、馬の声が聞こえる。 |
自分の計らいが原因して苦しい物思いを故人にさせたと、あやまちを取り返しうるものなら取り返したく思って薫は聞いたのであって、恋人の死そのものだけでなく、すべての人生が恨めしく、 この早朝の雪の |
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7.5.2 | 「 |
「誰がいったいこのような夜中に雪の中を来きたのだろうか」 |
こうした未明に雪を分けてだれも山荘へ近づくはずがない | |||||||||||||||||||||
7.5.3 | と、 うちたたきたまふさま、さななり、と |
と、大徳たちも目を覚まして思っていると、宮が、狩のお召物でひどく身をやつして、濡れながらお入りなって来るのであった。 戸を叩きなさる様子が、そうである、とお聞きになって、中納言は、奥のほうにお入りになって、隠れていらっしゃる。 御忌中の日数は残っていたが、ご心配でたまらなくなって、一晩中雪に難儀されながらおいでになったのであった。 |
と僧たちもそれを聞いて思っていると、それは目だたぬ |
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7.5.4 | 今までのつらさも紛れてしまいそうなことだけれど、お会いなさる気もせず、お嘆きになっていた様子が恥ずかしかったが、そのまま見直していただけなかったことを、今から以後にお心が改まったところで、何の効もないようにすっかり思い込んでいらっしゃるので、誰も彼もが、強く道理を説いて申し上げ申し上げしては、物越しに、これまでのご無沙汰の詫びを言葉を尽くしておっしゃるのを、つくづくと聞いていらっしゃった。 |
こんな悪天候をものともあそばさなかった御訪問であったから、恨めしさも紛らされていってもいいのであろうが、中の君は |
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7.5.5 | この君もまことに生きているのかいないのかの様子で、「後をお追いなさるのではないか」と感じられるご様子のおいたわしさを、「心配でたまらない」と、宮もお思いになっていた。 |
この人さえも、あるかないかのような心細い命の人と思われ、続いてどうかなるのではあるまいかと思われる |
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7.5.6 | 今日は、わが身がどうなろうともと、お泊まりになった。 「物を隔ててでなく」としきりにおせがみになるが、 |
今日は何事も犠牲にしてよいという気におなりになりお帰りにならないことになった。物越しなどでなく、直接に逢いたいと宮はいろいろお訴えになるのであったが、 |
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7.5.7 | 「もう少し気持ちがすっきりしましてから」 |
「もう少し人ごこちがするようになっているのでしたら」 |
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7.5.8 | とのみ |
とばかり申し上げなさって、冷たいのを、中納言もその様子をお聞きになって、しかるべき女房を召し出して、 |
と言い、女王はいなみ続けていた。 このことを薫も聞いて、中の君へ取り次がすのに都合のよい女房を呼んで、 |
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7.5.9 | 「 かやうなること、まだ |
「お気持ちに反して、薄情なようなお振る舞いで、以前も今も情けなかった一月余りのご無沙汰の罪は、きっとそうもお思い申し上げなさるのも当然なことですが、憎らしくない程度に、お懲らしめ申し上げなさいませ。 このようなことは、まだご経験のないことなので、困っておいででしょう」 |
「こちらの真心に対してあさはかにも見える態度を、初めもその後もおとりになった宮を不快にお思いになるのはもっともですが、今少し情状を |
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7.5.10 | などと、こっそりとおせっかいなさるので、ますますこの君のお気持ちが恥ずかしくて、お答え申し上げることがおできになれない。 |
などと忠告をさせた。それを聞いた中の君は薫の思うことも恥ずかしくて、いよいよ宮のお話にお答えを申し上げる気になれなくなった。 |
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7.5.11 | 「あきれるくらい情けなくいらっしゃるよ。 お約束申し上げたことを、すっかりお忘れになったようだ」 |
「あなたはどうしてこんなに気が強いのでしょう。前にあんなに私の心持ちも、周囲の事情もお話ししておいたではありませんか。それを皆お忘れになったのですか」 |
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7.5.12 | と、おろかならず |
と、並々ならず嘆いて日をお送りになった。 |
とお言いになり、宮は一日をお歎き暮らしになった。 | |||||||||||||||||||||
第六段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す |
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7.6.1 | ただ、つくづくと |
夜の様子は、ますます烈しい風の音に、自分のせいで嘆き臥していらっしゃるのも、さすがに気の毒で、例によって、物を隔てて申し上げなさる。 数々の神の名をあげて、将来長くお約束申し上げなさるのも、「どうしてこんなに口馴れていらっしゃるのだろう」と、嫌な気がするが、離れていて薄情な時のつらさよりは胸にしみて、女君の気持ちも柔らかくなってしまいそうなご様子を、一方的にも嫌ってばかりいられない。 ただ、じっと耳を傾けていて、 |
夜になるといっそう天気が悪くなり、ますます吹きつのる風の音を聞きながら、寂しい旅寝の床に歎き続けておいでになるのもさすがにおいたましく思われて、女王はまた物越しでお話を聞くことにした。無数の神を |
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7.6.2 | 「過ぎ去ったことを思い出しても頼りないのに 将来までどうして当てになりましょう」 |
「きしかたを思ひいづるもはかなきを 行く末かけて何頼むらん」 |
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7.6.3 | と、かすかにおっしゃる。 かえって気がふさぎ、気が気でない。 |
と、はじめてほのかな声で言った。なお飽き足らず思召す宮であった。 |
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7.6.4 | 「将来が短いものと思ったら せめてわたしの前だけでも背かないでほしい |
「行く末を短きものと思ひなば 目の前にだにそむかざらなん」 |
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7.6.5 | 何事もまことにこのように瞬く間に変わる世の中を、罪深くお思いなさるな」 |
すべてはかない人生にいて、人をお憎みになるような罪はお作りにならないがいいでしょう」 |
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7.6.6 | と、よろづにこしらへたまへど、 |
と、いろいろと宥めなさるが、 |
ともお言いになり、いろいろとおなだめになったが、 |
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7.6.7 | 「気分が悪くて」 |
「私は気分もよろしくないのでございますから」 |
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7.6.8 | とて |
と言ってお入りになってしまった。 女房が見ているのもとても体裁が悪くて、嘆きながら夜を明かしなさる。 恨むのも無理もない際であるが、あまりにも無愛想なのではと、つらい涙が落ちるので、「まして私以上にどんなにおつらいであろう」と、いろいろとお気の毒に思わずにはいらっしゃれない。 |
中の君はこう言って奥へはいってしまった。人目も恥ずかしいように思召し、そのまま歎息を続けて宮は夜をお明かしになった。女の恨むのも道理なほどの途絶えを作ったのは自分であるが、あまりに無情な扱い方であると恨めしい涙の落ちてきた時に、ましてそのころの彼女はどれほどに |
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7.6.9 | いといたう |
中納言が、主人方に住みついて、人びとをやすやすと召し使い、人も大勢して食事を差し上げなどさせたりなさるのを、感慨深くもおもしろくも御覧になる。 たいそうひどく痩せ青ざめて、茫然と物思いしているので、気の毒にと御覧になって、心をこめてお見舞い申し上げなさる。 |
中納言が主人がたの座敷に住んでいて、どの女房をも気安いふうに呼び使い、みずから |
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7.6.10 | 「ありしさまなど、かひなきことなれど、この |
「生前のことなど、言っても始まらないことだが、この宮だけには申し上げよう」と思うが、口に出すにつけても、まことに意気地がなく、愚かしく見られ申すのに気が引けて、言葉少なである。 声を上げて泣きながら、日数が過ぎたので、顔が変わったのも、見苦しくはなく、ますます美しく艶やかなのを、「女であったら、きっと心移りがしよう」と、自分の良くない性癖をお思いつきになると、何となく不安になったので、「何とか世間の非難や恨みを取り除いて、京に引越させよう」とお考えになる。 |
恋人の死の前後の悲しい心の動揺を今さら言いだしても |
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7.6.11 | かくつれなきものから、 おろかならず |
このように打ち解けないけれども、帝にもお耳にあそばして、まことに具合の悪いことになるにちがいないとお困りになって、今日はお帰りあそばした。 並々ならずお言葉を尽くしなさるが、相手にされないとはつらいものだと、それだけを知っていただきたくて、ついに気をお許しにらなかった。 |
こんなふうに恋人の心は容易に打ち解けるとは見えないし、今一日をここにいることは御所でも悪く 真心を尽くして恋人の心を動かそうと宮はお努めになったのであるが、相手の冷淡であることは苦しいものであると、この一点をお思い知らせようとして、この朝も何の言葉も送らずに中の君は宮をお帰ししたのであった。 |
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第七段 歳暮に薫、宇治から帰京 |
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7.7.1 | 年の暮方では、こんな山里でなくても、空の模様がいつもとちがうのに、荒れない日はなく降り積む雪に、物思いに沈みながら日をお送りになる気持ちは、尽きせず夢のようである。 |
年末になればこうした山里でなくても晴れる日は少ないのであるから、まして宇治は荒れ |
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7.7.2 | 宮からも、御誦経などをうるさいまでにお見舞い申し上げなさる。 こうしてばかりいては、新年まで嘆き過すことになろう。 あちらこちらと、音沙汰なく籠もっていらっしゃることを申し上げられるので、今はもうお帰りになる気持ちも、何にもたとえようがない。 |
このまま新年までも閉じこもっていることはできぬ、御母宮を初めとして自分を長くお待ちになっている所々があるのであるからと思い、いよいよ引き上げようとする薫はまた新たな深い悲しみを覚えた。 |
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7.7.3 | このようにお住みつきなさって、人が多かったのがすっかりいなくなるのを、悲しむ女房たちは、大変であった時の当面の悲しかった騷ぎよりも、ひっそりとしてひどく悲しく思われる。 |
ずっとこの人が来て住んでいたために、出入りする人の多かった忌中に続いた生活が跡かたもなく消えていくことを寂しがる人々は、姫君の死の当時にもまさって悲しがった。 | ||||||||||||||||||||||
7.7.4 | 「 |
「時々、折節に、風流な感じにお話し交わしなさった年月よりも、こうしてのんびりと過ごしていらした今までの、ご様子がやさしく情け深くて、風流事にも実際面にも、よく行き届いたお人柄を、今を限りに拝見できなくなったこと」 |
以前間をおいて |
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7.7.5 | と、おぼほれあへり。 |
と、一同涙に暮れていた。 |
と女房たちは歎きにおぼれていた。 |
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7.7.6 | かの |
あの宮からは、 |
兵部卿の宮からは、 |
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7.7.7 | 「やはり、このように参ることがとても難しいのに困って、近くにお引越し申し上げることを、考え出した」 |
お話ししたように、そちらへ出向くことにいろいろ困難なことがあるため、私は心を苦しめておりましたが、ようやくあなたを近日京へ迎える方法が見つかりました。 |
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7.7.8 | と申し上げなさった。 后の宮がお耳にあそばして、 |
というお手紙が中の君へあった。 |
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7.7.9 | 「 |
「中納言もこのように並々ならず悲しみに茫然としていたのは、なるほど、普通の扱いはできない方と、どなたもお思いなのではあろう」と、お気の毒になって、「二条院の西の対に迎えなさって、時々お通いになるよう、内々に申し上げなさったのは、女一の宮の御方の女房にとお考えになっているのではないか」 |
その姉君であった恋人を失った中納言もあれほどの悲しみを見せていることを思うと、並み並みの情人としてはだれも思われないすぐれた女性なのであろうと、兵部卿の宮のお心持ちに御同情をあそばして、二条の院の西の対へ迎えて時々通うようにとそっと仰せがあったのである。 |
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7.7.10 | と |
とお疑いになりながらも、会えないことがないのは嬉しくて、おっしゃって来られたのであった。 |
と兵部卿の宮はお思いになりながらも、近くへその人を置いて、常にお逢いになることのできるのはうれしいことであると思召して、 | |||||||||||||||||||||
7.7.11 | 「そういうことになったらしい」と、中納言もお聞きになって、 |
この話を薫にもあそばされた。 | ||||||||||||||||||||||
7.7.12 | 「三条宮邸も完成して、お迎え申し上げることを考えていたが。 あのお方の代わりとしてお世話すべきであった」 |
三条の宮を落成させて大姫君を迎えようとしていた自分であるが、その人の形見にせめてわが家の人にしておきたかった中の君であった | ||||||||||||||||||||||
7.7.13 | などと、昔のことを思って心細い。 宮がお疑いになっていたらしい方面は、まことに似つかわしくないことと思い離れていて、「一般的なご後見は、自分以外に、誰ができようか」と、お思いになっていたとか。 |
と、このことでまた心細くなる気もする薫であった。宮の疑っておいでになるような感情はまったく捨てて、その人の保護者は自分のほかにないと、兄めいた義務感を持っているのであった。 |
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