設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
% | % | % | px |
第四十八帖 早蕨 薫君の中納言時代二十五歳春の物語 |
||||||||||||||||||||||||
# |
本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
|||||||||||||||||||||
第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活 |
||||||||||||||||||||||||
第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く |
||||||||||||||||||||||||
1.1.1 | 薮だからといって分け隔てして日光は差すものでないので、春の光を御覧になるにつけても、「どうしてこう生き永らえてきた月日なのだろう」と、夢のようにばかり思われなさる。 |
「日の光 |
||||||||||||||||||||||
1.1.2 | 去っては迎える時節時節にしたがって、花や鳥の色をも声をも、同じ気持ちで起き臥し見ては、ちょっとした和歌を詠むことでも、上の句と下の句とをそれぞれ付け交わして、心細いこの世の悲しさも辛さも、語り合ってきたからこそ、慰むこともあったが、おもしろいことや、しみじみとしたことを、聞き知る人がいないままに、すべてまっくら闇で、心一つに思い悩んで、父宮がお亡くなりになった悲しさよりも、もう少しまさって恋しくわびしいので、どうしたらよいかと、明けるのも暮れるのも分からず茫然としていらっしゃるが、世に生きている間は、定めがあることだったので、死ぬことができないのもあきれたことだ。 |
四季時々の花の色も鳥の声も、明け暮れ共に見、共に聞き、それによって歌を作りかわすことをし、人生の心細さも苦しさも話し合うことで慰めを得ていた。それ以外に何の楽しみが自分にあったであろう、美しいとすることも、身にしむことも語って自身の感情を解してくれる姉君を、そのかたわらから死に奪われた人であったから、暗い気持ちをどうすることもできず、父宮のお |
||||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||
1.1.3 | 阿闍梨のもとから、 |
|||||||||||||||||||||||
1.1.4 | 「新年になってからは、いかがお過ごしでしょうか。 ご祈祷は、怠りなくお勤めいたしております。 今は、お一方の事を、ご無事にと祈念いたしております」 |
年が変わりましてのちどんな御様子でおいでになりますか。 |
||||||||||||||||||||||
1.1.5 | などと申し上げて、蕨、土筆を、風流な籠に入れて、「これは、童たちが献じましたお初穂です」といって、差し上げた。 筆跡は、とても悪筆で、和歌は、わざとらしく放ち書きにしてあった。 |
などという手紙を添え、 これは童子どもが山に捜して御仏にささげたものです、初物です。 とも書かれてあった。悪筆で次の歌などは |
||||||||||||||||||||||
1.1.6 | 「わが君にと思って毎年毎年の春に摘みましたので 今年も例年どおりの初蕨です |
君にとてあまたの年をつみしかば 常を忘れぬ初蕨なり |
||||||||||||||||||||||
1.1.7 | 御前でお詠み申し上げてください」 |
|||||||||||||||||||||||
1.1.8 | とあり。 |
とある。 |
と女房あてにしてあった。 |
|||||||||||||||||||||
第二段 中君、阿闍梨に返事を書く |
||||||||||||||||||||||||
1.2.1 | 大事と思って詠み出したのだろう、とお思いになると、歌の気持ちもまことにしみじみとして、いい加減で、そうたいしてお思いでないように見える言葉を、素晴らしく好ましそうにお書き尽くしなさる方のお手紙よりも、この上なく目が止まって、涙も自然とこぼれてくるので、返事を、お書かせになる。 |
一所懸命に考え出した歌であろうと想像されて、つたない中に言ってある心を身にしむように中の君は思い、筆任せに、それほど深くお思いにならぬことであろうと思われることを、多くの美しい言葉で飾ってお送りになる方の |
||||||||||||||||||||||
1.2.2 | 「今年の春は誰にお見せしましょうか 亡きお方の形見として摘んだ峰の早蕨を」 |
この春はたれにか見せんなき人の かたみに摘める峰のさわらび |
||||||||||||||||||||||
1.2.3 | 使者に禄を与えさせなさる。 |
使いには |
||||||||||||||||||||||
1.2.4 | いと |
まことに盛りではなやいでいらっしゃる方で、いろいろなお悲しみに、少し面痩せしていらっしゃるのが、とても上品で優美な感じがまさって、故人にも似ていらっしゃった。 お揃いでいらっしゃったときは、それぞれ素晴らしく、全然似ていらっしゃるとも見えなかったが、ふと忘れては、その人かと思われるまで似ていらっしゃるのを、 |
盛りの美しさを備えた人が、いろいろな物思いのために少し |
|||||||||||||||||||||
1.2.5 | 「中納言殿が亡骸だけでも残って拝見できるものであったらと、朝夕にお慕い申し上げていらっしゃるようだが、同じことなら、結ばれなさるご運命でなかったことよ」 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.6 | と、 |
と、拝する女房たちは残念がっている。 |
と思い、女房たちは残念がっていた。 |
|||||||||||||||||||||
1.2.7 | あの御あたりの人が通って来る便りに、ご様子は常にお互いにお聞きなさっていたのであった。 いつまでもぼうっとしていらして、「新年になっても相変わらず、悲しそうな涙顔に、なっていらっしゃる」とお聞きになっても、「なるほど、一時の浮ついたお心ではいらっしゃらなかったのだ」と、ますます今となって愛情も深かったのだと、思い知られる。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.8 | 宮は、お越しになることがまことに自由に振る舞えず機会がないので、「京にお移し申そう」とご決意なさっていた。 |
|||||||||||||||||||||||
第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問 |
||||||||||||||||||||||||
1.3.1 | 内宴など、何かと忙しい時期を過ごして、中納言の君が、「心におさめかねていることを、また他に誰に話せようか」とお思い余って、兵部卿宮の御方に参上なさった。 |
御所の内宴などがあって騒がしいころを過ごしてから薫は、心一つに納めかねるような |
||||||||||||||||||||||
1.3.2 | しめやかなる |
しんみりとした夕暮なので、宮は物思いに耽っておいでになって、端近くにいらっしゃった。 箏のお琴を掻き鳴らしながら、いつものように、お気に入りの梅の香を賞美しておいでになる、その下枝を手折って参上なさったが、匂いがたいそう優雅で素晴らしいのを、折柄興あることにお思いになって、 |
しめやかな早春の夕べの空の見える所に宮は出ておいでになった。十三 |
|||||||||||||||||||||
1.3.3 | 「折る人の心に通っている花なのだろうか 表には現さないで内に匂いを含んでいる」 |
折る人のこころに通ふ花なれや 色にはいでず下ににほへる |
||||||||||||||||||||||
1.3.4 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
とお言いになると、 |
|||||||||||||||||||||
1.3.5 | 「見る人に言いがかりをつけられる花の枝は 注意して折るべきでした |
「見る人にかごと寄せける花の枝を 心してこそ折るべかりけれ |
||||||||||||||||||||||
1.3.6 | 迷惑なことです」 |
私が困ります」 |
||||||||||||||||||||||
1.3.7 | と冗談を言い交わしなさっているが、実にも仲好いお二方である。 |
薫も |
||||||||||||||||||||||
1.3.8 | こまやかなる |
こまごまとしたお話になってからは、あの山里の御事を、まずはどうしているかと、宮はお尋ね申し上げなさる。 中納言も、亡くなった方のことが諦めようもなく悲しいことを、その当時から今日までの思いの断ち切れないことを、四季折々につけて、悲しいことや風流なことを、悲喜こもごもとか言うように、申し上げなさると、それ以上にあれほど色っぽく涙もろいご性癖は、人のお身の上のことでさえ、袖をしぼるほどになって、話しがいがあるようにお答えなさっているようである。 |
しんみりとした話になっていって、どうしているかと宇治のことをまず宮はお聞きになった。薫も恋人に死なれた悲しみを言い、初めから今までのその人に関する物思いの連続を、そのおりあのおりと、身にしむようにも、美しくも泣きながら、笑いながらというように話し出したのを、聞いておいでになって、繊細な感情に富んでおいでになり、涙もろい癖の宮は、他人のことながらも、 |
|||||||||||||||||||||
第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う |
||||||||||||||||||||||||
1.4.1 | 空の様子もまた、なるほど心を知っているかのように霞わたっていた。 夜になって烈しく吹き出した風の様子、まだ冬らしくてまこと寒そうで、大殿油も消え消えし、闇は梅の香を隠せず匂っているが、互いにそのままお話をやめることもなさらず、尽きないお話を心ゆくまでお話しきれないで、夜もたいそう更けてしまった。 |
天もまた哀愁の人に同情するかのように、空を |
||||||||||||||||||||||
1.4.2 | さりながらも、ものに |
世にも稀な二人の仲のよさを、「さあ、そうはいっても、とてもそんなばかりではなかったでしょう」と、隠しているものがあるようにお尋ねになるのは、理不尽なご性癖のせいである。 そうは言っても、物事をよくお分かりになって、悲しい心の中を晴れるように、一方では慰めもし、また悲しみを忘れさせ、いろいろとお語らいになる、そのご様子の魅力にお引かれ申して、なるほど、心に余るほどに鬱積していたことがらを、少しずつお話し申し上げなさるのは、この上なく心が晴れ晴れする気がなさる。 |
世の中にまたたぐいもないような精神的愛に止まったという薫の話を、必ずしも終わりまでそうではなかったであろうと宮のお思いになるのも、御自身から割り出してお考えになるからであろう。そうではあるが他の点では御想像が |
|||||||||||||||||||||
1.4.3 | 宮も、あの方を近々お移し申そうとすることについて、ご相談申し上げなさるのを、 |
宮も近日に中の君を京へお迎えになろうとすることで中納言へ御相談をあそばされると、 |
||||||||||||||||||||||
1.4.4 | 「いとうれしきことにもはべるかな。 あいなく、みづからの |
「まことに嬉しいことでございますね。 不本意ながら、わたしの過失と存じておりました。 諦め切れない故人の縁者を、また他に訪ねるべき人もございませんので、後見一般としては、どのようなことでも、お世話申し上げるべき人と存じておりますが、もし不都合なこととお思いになりましょうか」 |
「非常にけっこうなことでございます。あのままになりましては私の責任になりますことと苦しく思っておりました。昔の人の |
|||||||||||||||||||||
1.4.5 | とて、かの、「 「さても、おはしまさむにつけても、まことに |
と言って、あの、「他人とお思いくださるな」と、お譲りになったお心向けをも、少しお話し申し上げなさるが、岩瀬の森の呼子鳥めいた夜のことは、話さずにいたのであった。 心の中では、「このように慰めがたい形見にも、なるほど、おっしゃったように、このようにお世話申し上げるべきであった」と、悔しさがだんだんと高じてゆくが、今では甲斐のないゆえに、「常にこのようにばかり思っていたら、とんでもない料簡が出て来るかもしれない。 誰にとってもつまらなく、馬鹿らしいことだろう」と思い諦める。 「それにしても、お移りになるにしても、ほんとうにご後見申し上げる人は、わたし以外に誰がいようか」とお思いになるので、お引越しの準備を用意おさせになる。 |
と薫は言い、なお故人が以前に、自分と同じものと思えと言い、中の君と自分の結婚を望んだことも少しお話ししたが、あの中の君と |
|||||||||||||||||||||
第五段 中君、姉大君の服喪が明ける |
||||||||||||||||||||||||
1.5.1 | かしこにも、よき |
あちらでも、器量の良い若い女房や童女などを雇って、女房たちは満足げに準備しているが、今を最後とこの伏見ならぬ宇治を荒らしてしまうのも、たいそう心細いので、お嘆きになること尽きないが、だからといって、また気負い立って強情を張って、閉じ籠もっていてもどうしようもなく、「浅くない縁が、絶え果ててしまいそうなお住まいなのに、どういうおつもりですか」とばかり、お恨み申し上げなさるのも、少しは道理なので、どうしたらよいだろう、と思案なさっていた。 |
宇治でもきれいな若女房、童女などを捜して雇い入れ、女房たちは幸福感に浸っているのであるが、いよいよ父宮の遺愛の宇治の山荘を離れて行くことになるのかと中の君は心細くて歎かればかりする、そうかといって寂しさに堪えてここに独居する決心もできそうになかった。宮から熱愛はしていながらもこのままでは自然に遠い仲になっていくかもしれぬのをどう思っているかと恨んでおよこしになるのも少しお道理に思われるところもあったので、どうすればよいかとばかり |
|||||||||||||||||||||
1.5.2 | 二月の上旬頃にというので、間近になるにつれて、花の木の蕾みがふくらんでくるのもその後が気になって、「峰に霞が立つのを見捨てて行くことも、自分の常住の住まいでさえない旅寝のようで、どんなに体裁悪く物笑いになっては」などと、万事に気がひけて、一人思案に暮れて過ごしていらっしゃる。 |
二月になったらすぐということであったから、近づくにしたがい咲く花の |
||||||||||||||||||||||
1.5.3 | その |
御服喪も、期限があることなので、脱ぎ捨てなさるのに、禊も浅い気がする。 母親は、お顔を存じ上げていないので、恋しいとも思われない。 そのお代わりにも、今回の喪服の色を濃く染めようと、心にお思いになりおっしゃりもしたが、はやり、そのような理由もないことなので、物足りなく悲しいことは限りがない。 |
姉の服喪の期間は三月であって、除服の |
|||||||||||||||||||||
1.5.4 | 中納言殿から、お車や、御前の供人や、博士などを差し向けなさった。 |
禊の日の女王の車、前駆を勤める人々、守刀などが薫のほうから送られた。 |
||||||||||||||||||||||
1.5.5 | 「早いものですね、 霞の衣を作ったばかりなのにも |
はかなしや 花の |
||||||||||||||||||||||
1.5.6 | げに、 |
なるほど、色とりどりにたいそう美しくして差し上げなさった。 お引越しの時のお心づけなど、仰々しくない物で、それぞれの身分に応じていろいろと考えて、とても多かった。 |
添えられたこの歌のように、春の花のいろいろに似た衣服も贈られたのであった。京へ移って行った日に入り用な |
|||||||||||||||||||||
1.5.7 | 「何かにつけて、忘れず気のつくご好意をありがたく、兄弟などでさえ、とてもこうまではいらっしゃらないことだ」 |
何かのおりには親身な志を見せる薫を喜んで、女房たちは、 「こんなにまでは御兄弟だってなさるものではございませんよ」 |
||||||||||||||||||||||
1.5.8 | など、 あざやかならぬ |
などと、女房たちはお教え申し上げる。 ぱっとしない老女房連中の考えとしては、このような点を身にしみて申し上げる。 若い女房は、時々拝見し馴れているので、今を限りに縁遠くおなりになるのを、物足りなく、「どんなに恋しくお思いなされるでしょう」とお噂し合っていた。 |
などと中の君に教えるのであった。こうした老いた女の心には物質的の補助ほどありがたいものはないと深く思われるので、自然これを 「いよいよ姫君がほかの方の所へ行っておしまいになっては、どんなにあの方様が恋しく と同情していた。 |
|||||||||||||||||||||
第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問 |
||||||||||||||||||||||||
1.6.1 | ご自身は、お移りになることが明日という日の、まだ早朝においでになった。 いつものように、客人席にお通りになるにつけても、今は、だんだん何にも馴れて、「自分こそ、誰よりも先に、このように思っていたのだ」などと、生前のご様子や、おっしゃったお気持ちをお思い出しになって、「それでも、よそよそしく、思いの外になどとは、おあしらいなさらなかったが、自分のほうから、妙に他人で終わることになってしまったな」と、胸痛くお思い続けなさる。 |
|||||||||||||||||||||||
1.6.2 | 垣間見した襖障子の穴も思い出されるので、近寄って御覧になるが、部屋の中が閉めきってあるので、何にもならない。 |
父宮の喪中にここから仏間にいるのをのぞいて見た北の |
||||||||||||||||||||||
1.6.3 | 部屋の中でも、女房たちはお思い出し申し上げながら涙ぐんでいた。 中の宮は、女房たち以上に、催される涙の川で、明日の引っ越しもお考えになれず、茫然として物思いに沈んで臥せっておいでになるので、 |
女房も薫の来たことによって昔を思い出して泣いていた。中の君はましてとめどもなく流れる涙のために |
||||||||||||||||||||||
1.6.4 | 「幾月ものご無沙汰の間に積もりましたお話も、何ということございませんが、鬱々としておりましたので、少しでもお晴らし申し上げて、気を紛らわせたく存じます。 いつものように、きまり悪く他人行儀なさらないでください。 ますます知らない世界に来た気が致します」 |
「伺うことのできませんでした間に、何をどうしたということはありませんが、絶えぬ思いの続きました一端でもお話をいたして心の慰めにさせていただきたいと思います。例のように他人らしくお扱いにならないでください。いよいよ今と昔の相違を深く覚えることになって悲しいでしょうから」 |
||||||||||||||||||||||
1.6.5 | と |
と申し上げなさると、 |
と薫から中の君へ取り次がせてきた。 |
|||||||||||||||||||||
1.6.6 | 「体裁が悪いとお思い申されようとは思いませんが、それでも、気分もいつものようでなく、心も乱れ乱れて、ますますはきはきしない失礼を申し上げてはと、気がひけまして」 |
「失礼だとは思われたくはないけれど、私は今気分も普通でなくて、何だか苦しいのだから、いっそうそんなことでわからぬお返辞を申し上げたりすることになってはならないと御遠慮がされる」 |
||||||||||||||||||||||
1.6.7 | などと、つらそうにお思いになっているが、「お気の毒です」などと、あれこれ女房が申し上げるので、中の襖障子口でお会いなさった。 |
と言い、中の君は気の進まぬふうであったが、御好意に対してそれではと女房らに |
||||||||||||||||||||||
1.6.8 | いと |
たいそうこちらが気恥ずかしくなるほど優美で、また「今度は、一段と立派におなりになった」と、目も驚くほどはなやかに美しく、「誰にも似ない心ばせなど、何とも、素晴らしい方だ」とばかりお見えになるのを、姫宮は、面影の離れない方の御事までお思い出し申し上げなさると、まことにしみじみとお会い申し上げなさる。 |
気品よく艶で、今度はまた以前よりもひときわまさったと女房たちの目も驚くほど美しさがあって、だれにもない |
|||||||||||||||||||||
1.6.9 | 「つきないお話なども、今日は言忌みしましょうね」 |
「取り返しがたい方のことも、今日は縁起を祝わねばなりませんからお話をさし控えたほうがよろしいでしょう」 |
||||||||||||||||||||||
1.6.10 | などと言いさして、 |
と中納言は言い、ややしばらくして、また、 |
||||||||||||||||||||||
1.6.11 | 「 |
「お移りになるはずの所の近くに、もう幾日かして移ることになっていますので、夜中も早朝もと、親しい間柄の人が言いますように、どのような機会にも、親しくお考えくださりおっしゃっていただければ、この世に生きております限りは、申し上げもし承りもして過ごしとうございますが、どのようにお考えでしょうか。 人の考えはいろいろでございます世の中なので、かえって迷惑かなどと、独り決めもしかねるのです」 |
「今度おいでになるお |
|||||||||||||||||||||
1.6.12 | と |
と申し上げなさると、 |
こう言うと、 |
|||||||||||||||||||||
1.6.13 | 「邸を離れまいと思う考えは強うございますが、近くに、などとおっしゃって下さるにつけても、いろいろと思い乱れまして、お返事の申し上げようもなくて」 |
「この家を永久に離れたくないように思われます私は、近くへ来るなどとおっしゃるのを承っていますだけでも心が乱れまして、何とお返辞を申し上げてよろしいかもわかりません」 |
||||||||||||||||||||||
1.6.14 | など、 |
などと、言葉とぎれとぎれに言って、ひどく心に感じ入っていらっしゃる様子など、ひどくよく似ていらっしゃるのを、「自分から他人の妻にしてしまった」と思うと、とても悔しく思っていらっしゃるが、言っても効ないので、あの夜のことは何も言わず、忘れてしまったのかと見えるまで、きれいさっぱりと振る舞っていらっしゃった。 |
所々は言おうとする言葉も消して、非常に物悲しく思っている様子の見えるところなどもよく大姫君に似ているのを知って、自身の心からこの人を他へやることになったとくちおしく思われてならぬ薫であったが、 |
|||||||||||||||||||||
第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す |
||||||||||||||||||||||||
1.7.1 | 「つれづれの |
お庭前近い紅梅が、花も香もなつかしいので、鴬でさえ見過ごしがたそうに鳴いて飛び移るようなので、まして、「春や昔の」と心を惑わしなさるどうしのお話に、折からしみじみと心を打つのである。 風がさっと吹いて入ってくると、花の香も客人のお匂いも、橘ではないが、昔が思い出されるよすがである。 「所在ない気の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、 |
近い庭の紅梅の色も香もすぐれた木は、 |
|||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||
1.7.2 | 「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、 嵐に吹き乱れる山里に昔を思い出させる |
見る人もあらしにまよふ山里に 昔覚ゆる花の香ぞする |
||||||||||||||||||||||
1.7.3 | 言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、 |
と言うともなくほのかに絶え絶えに言うのを、薫はなつかしそうに自身の口にのせてから、 |
||||||||||||||||||||||
1.7.4 | 「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが 根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」 |
ねごめうつろふ宿やことなる |
||||||||||||||||||||||
1.7.5 | 止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉数多くもなく、 |
と自作を告げた。絶えない涙をぬぐい隠して、あまり多くは言わぬ薫であった。 |
||||||||||||||||||||||
1.7.6 | 「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」 |
「またこんなふうにして何のお話も申し上げようと思います」 |
||||||||||||||||||||||
1.7.7 | など、 |
などと、申し上げおいてお立ちになった。 |
と最後に言って立って行った。 |
|||||||||||||||||||||
1.7.8 | この |
お引越しに必要な支度を、人びとにお指図おきなさる。 この邸の留守番役として、あの鬚がちの宿直人などが仕えることになっているので、この近辺の御荘園の者どもなどに、そのことをお命じになるなど、生活面の事まで定めおきなさる。 |
薫は中の君の出京について心得ておくことを女房たちに言い、山荘の |
|||||||||||||||||||||
第八段 薫、弁の尼と対面 |
||||||||||||||||||||||||
1.8.1 | 弁は、 |
弁は |
||||||||||||||||||||||
1.8.2 | 「このようなお供にも、思いもかけず長生きがつらく思われますが、人も不吉に見たり思ったりするにちがいないでしょうから、今は世に生きている者とも人に知られますまい」 |
中の君の移る二条の院へ従って行こうとも思わず、さまざまのことに出あって自身の長生きするのを恨めしい気がするし、人が見ても無気味な老女と思うであろうから、もう自分は存在しないものと思われるように |
||||||||||||||||||||||
1.8.3 | と言って、出家をしていたのを、しいて召し出して、まことにしみじみと御覧になる。 いつものように、昔の思い出話などをおさせになって、 |
と言って、尼になっていた。そして引きこもっていた |
||||||||||||||||||||||
1.8.4 | 「ここには、やはり、時々参りましょうが、まことに頼りなく心細いので、こうしてお残りになるのは、まことにしみじみとありがたく嬉しいことです」 |
「ここへは今後も時々私は来るつもりなのですが、知った人がいなくなっては心細いのに、あなたがあとへ残ってくれるのは非常にうれしい」 |
||||||||||||||||||||||
1.8.5 | など、えも |
などと、最後まで言い終わらずにお泣きになる。 |
など皆も言うことができず泣いてしまった。 |
|||||||||||||||||||||
1.8.6 | 「厭わしく思えば思うほど長生きをする寿命がつらく、またどう生きよといって、先に逝っておしまいになったのか、と恨めしく、この世のすべてを情けなく思っておりますので、罪もどんなにか深い事でございましょう」 |
「世の中をいとえばいとうほど延びてまいります命も恨めしゅうございますし、また私をどうなれとお思いになって、捨ててお死にになったのかと |
||||||||||||||||||||||
1.8.7 | と、思っていたことをお訴え申し上げるのも、愚痴っぽいが、とてもよく言い慰めなさる。 |
と、尼になるまでの気持ちを弁の訴えるのも老いた女らしく一徹に聞こえるのであったが、薫はよく言い慰めていた。 |
||||||||||||||||||||||
1.8.8 | たいそう年をとっているが、昔、美しかった名残の黒髪を削ぎ落としたので、額の具合、変わった感じに少し若くなって、その方面の身としては優美である。 |
非常に年は取っているが、昔の日に美しかった |
||||||||||||||||||||||
1.8.9 | 「思いあぐねた果てに、どうしてこのような尼姿にして差し上げなかったのだろう。 それによって寿命が延びるようなこともあったろうに。 そうして、どんなに親密に語らい申し上げられたろうに」 |
故人の恋しさに堪えない心から、なぜあの人の望みどおりに尼にさせなかったのであろう、そしたならあるいは命が助かっていたかもしれぬではないか、そして二人して |
||||||||||||||||||||||
1.8.10 | などと、一方ならず思われなさると、この人までが羨ましいので、隠れている几帳を少し引いて、こまやかに語らいなさる。 なるほど、すっかり悲しみに暮れている様子だが、何か言う態度、心づかいは、並々でなく、嗜みのあった女房の面影が残っていると見えた。 |
とこんなことさえ思われる薫には、弁の尼姿さえうらやまれてきて、 |
||||||||||||||||||||||
1.8.11 | 「先に立つ涙の川に身を投げたら 死に後れしなかったでしょうに」 |
さきに立つ涙の川に身を投げば 人におくれぬ命ならまし |
||||||||||||||||||||||
1.8.12 | と、うちひそみ |
と、泣き顔になって申し上げる。 |
悲しそうな表情で弁の尼は言った。 |
|||||||||||||||||||||
1.8.13 | 「それもとても罪深いことです。 彼岸に辿り着くことは、どうしてできようか。 それ以外のことであってさえも、深い悲しみの底に沈んで生きてゆくのもつまらない。 すべて、皆無常だと悟るべき世の中なのです」 |
「それも罪の深いことになるのですよ、そんな死に方をしては極楽へ行けることがまれで、そして暗い |
||||||||||||||||||||||
1.8.14 | などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 |
とも薫は教えた。 |
|||||||||||||||||||||
1.8.15 | 「身を投げるという涙の川に沈んでも 恋しい折々を忘れることはできまい |
「身を投げん涙の川に沈みても 恋しき瀬々に忘れしもせじ |
||||||||||||||||||||||
1.8.16 | いつになったら、少しは思いが慰むことがあろうか」 |
どんな時が来れば少しでも心の慰むことが発見されるのだろう」 |
||||||||||||||||||||||
1.8.17 | と、 |
と、終わりのない気がなさる。 |
と薫は言い、終わりもない哀愁をいだかせられる気持ちがした。 |
|||||||||||||||||||||
1.8.18 | 帰る気にもなれず物思いに沈んで、日も暮れてしまったが、わけもなく外泊するのも、人が咎めることであろうかと、仕方ないので、お帰りになった。 |
帰って行く気もせず物思いを続けているうちに日も暮れたが、このまま泊まっていくことは人の疑いを招くことになりやすいからと思い帰京した。 |
||||||||||||||||||||||
第九段 弁の尼、中君と語る |
||||||||||||||||||||||||
1.9.1 | お悲しみなっておっしゃっていたご様子を話して、弁は、ますます慰めがたく悲しみに暮れていた。 女房たちは満足そうな様子で、衣類を縫い用意しながら、年老いた容貌も気にせず、身づくろいにうろうろしている中で、ますます質素にして、 |
源中納言の悲しんでいた様子を中の君に語って、弁はいっそう慰めがたいふうになっていた。他の女房たちは楽しいふうで、明日の用意に物を縫うのに夢中になっていたり、老いて醜くなった顔に化粧をして座敷の中を行き歩いていたりしている一方で弁は、いよいよ世捨て人らしいふうを見せて、 |
||||||||||||||||||||||
1.9.2 | 「人びとは皆準備に忙しく繕い物をしているようですが 一人藻塩を垂れて涙に暮れている尼の私です」 |
人は皆いそぎ立つめる袖のうらに 一人もしほをたるるあまかな |
||||||||||||||||||||||
1.9.3 | と |
と訴え申し上げると、 |
と中の君へ訴えた。 |
|||||||||||||||||||||
1.9.4 | 「藻塩を垂れて涙に暮れるあなたと同じです 浮いた波に涙を流しているわたしは |
「しほたるるあまの衣に異なれや うきたる波に |
||||||||||||||||||||||
1.9.5 | かかる |
結婚生活に入ることも、とてもできそうにないことと思われるので、事情によっては、ここを荒れはてさせまいと思うが、そうしたらお会いすることもありましょうが、暫くの間も、心細くお残りになるのを見ていると、ますます気が進みません。 このような尼姿の人も、必ずしも引き籠もってばかりいないもののようですので、やはり世間一般の人のように考えて、時々会いに来てください」 |
世間へ出て人並みな幸福な生活が続けていけるとは思われないのだから、ことによってはここをまた最後の隠れ家として私は帰って来るつもりだから、そうなればまたあなたに |
|||||||||||||||||||||
1.9.6 | などと、とてもやさしくお話しになる。 亡き姉君がお使いになったしかるべきご調度類などは、みなこの尼にお残しになって、 |
などと女王はなつかしいふうに話していた。大姫君の使っていて、なお用に立つような手道具類は皆この人へのこしておくことに中の君はした。 |
||||||||||||||||||||||
1.9.7 | 「このように、誰よりも深く悲しんでおいでなのを見ると、前世からも、特別の約束がおありだっただろうかと思うのまでが、慕わしくしみじみ思われます」 |
「だれよりも深くお姉様を悲しんでいてくれるあなたを見ると、深い縁が前生からあったのではなかろうかと、こんなことも思われて特別なものにあなたが見えます」 |
||||||||||||||||||||||
1.9.8 | とのたまふに、いよいよ |
とおっしゃると、ますます子供が親を慕って泣くように、気持ちを抑えることができず涙に沈んでいた。 |
こんなことを言われて、いよいよ弁の尼は子供が母を恋しがって泣くように泣く。自身の気持ちをおさえる力も今はないように見えた。 |
|||||||||||||||||||||
第二章 中君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる |
||||||||||||||||||||||||
第一段 中君、京へ向けて宇治を出発 |
||||||||||||||||||||||||
2.1.1 | すっかり掃除し、何もかも始末して、お車を何台も寄せて、ご前駆の供人は、四位五位がたいそう多かった。 ご自身でも、ひどくおいでになりたかったが、仰々しくなって、かえって不都合なことになるので、ただ内密に計らって、気がかりにお思いになる。 |
山荘の中はきれいに片づき、荷物はできて、中の君の乗用車、その他の車が廊に寄せられた。前駆を勤める人の中に四位や五位が多かった。 |
||||||||||||||||||||||
2.1.2 | 中納言殿からも、ご前駆の供人を、数多く差し上げなさっていた。 だいたいのことは、宮からの指示があったようだが、こまごまとした内々のお世話は、ただこの殿から、気のつかないことのなくお計らい申し上げなさる。 |
源中納言のほうからも前駆を多人数よこしてあった。だいたいのことだけは兵部卿の宮が手落ちなくお計りになったのであるが、こまごまとした入り用の物、費用などは皆 |
||||||||||||||||||||||
2.1.3 | 日が暮れてしまいそうだと、内からも外からも、お促し申し上げるので、気ぜわしく、京はどちらの方角だろうと思うにも、まことに頼りなく悲しいとばかり思われなさる時に、お車に同乗する大輔の君という女房が言うには、 |
出立が早くできないでは日が暮れると女房らも言い、迎えの人たちも促すために、中の君はあわただしくて、今から行く所がどんな所かと思うことで不安な落ち着かぬ悲しい気持ちを抱きながら車上の人になった。 |
||||||||||||||||||||||
2.1.4 | 「生きていたので嬉しい事に出合いました 身を厭いて宇治川に投げてしまいましたら」 |
ありふればうれしき瀬にも 身を宇治川に投げてましかば |
||||||||||||||||||||||
2.1.5 | ほほ笑んでいるのを、「弁の尼の気持ちと比べて、何という違いだろうか」と、気にくわなく御覧になる。 もう一人の女房が、 |
と言って、 |
||||||||||||||||||||||
2.1.6 | 「亡くなった方を恋しく思う気持ちは忘れませんが 今日は何をさしおいてもまず嬉しく存じられます」 |
過ぎにしが恋しきことも忘れねど 今日はた |
||||||||||||||||||||||
2.1.7 | どちらも年老いた女房たちで、みな亡くなった方に、好意をお寄せ申し上げていたようなのに、今はこのように気持ちが変わって言忌するのも、「世の中は薄情な」と思われなさると、何もおっしゃる気になれない。 |
この二人はどちらも長くいた年寄りの女房で、皆大姫君付きになるのを希望した者であったが、利己的に主人を変えて、今日は縁起のよいことより言ってはならぬと言葉を慎んでいるのもいやな世の中であると思う中の君はものも言われなかった。 |
||||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||
2.1.8 | 道中は、遠く険しい山道の様子を御覧になると、つらくばかり恨まれた方のお通いを、「しかたのない途絶えであった」と、少しは理解されなさった。 七日の月が明るく照り出した光が、美しく霞んでいるのを御覧になりながら、たいそう遠いので、馴れないことでつらいので、つい物思いなさって、 |
道の長くてけわしい山路であるのをはじめて知り、恨めしくばかり思った宮の通い路の途絶えも無理のない点もあるように思うことができた。白く出た七日の月の |
||||||||||||||||||||||
2.1.9 | 「考えると山から出て昇って行く月も この世が住みにくくて山に帰って行くのだろう」 |
ながむれば山より 世に住みわびて山にこそ入れ |
||||||||||||||||||||||
2.1.10 | 生活が変わって、結局はどのようになるのだろうかとばかり、不安で、将来が気になるにつけても、今までの物思いは何を思っていたのだろうと、昔を取り返したい思いであるよ。 |
と口ずさまれるのであった。変わった境遇へこうして移って行ってそのあとはどうなるであろうとばかり |
||||||||||||||||||||||
第二段 中君、京の二条院に到着 |
||||||||||||||||||||||||
2.2.1 | 宵が少し過ぎてお着きになった。 見たこともない様子で、光り輝くような殿造りで、三棟四棟と建ち並んだ邸内にお車を引き入れて、宮は、早く早くとお待ちになっていたので、お車の側に、ご自身お寄りあそばしてお下ろし申し上げなさる。 |
十時少し過ぎごろに二条の院へ着いた。まぶしい見も知らぬ宮殿の幾つともなく |
||||||||||||||||||||||
2.2.2 | いかばかりのことにかと |
お部屋飾りなども、善美を尽くして、女房の部屋部屋まで、お心配りなさっていらしたことがはっきりと窺えて、まことに理想的である。 どの程度の待遇を受けるのかとお考えになっていたご様子が、急にこのようにお定まりになったので、「並々ならないご愛情なのだろう」と、世間の人びともどのような人かと驚いているのであった。 |
夫人の居間の装飾の輝くばかりであったことは言うまでもないが、女房の部屋部屋にまで宮の御注意の行き届いた跡が見え、理想的な新婦の 宮がどの程度に愛しておいでになるのか、 |
|||||||||||||||||||||
2.2.3 | 中納言は、三条宮邸に、今月の二十日過ぎにお移りになろうとして、最近は毎日いらっしゃっては御覧になっているが、この院が近い距離なので、様子も聞こうとして、夜の更けるまでいらっしゃったが、差し向けなさっていた御前の人々が帰参して、有様などをお話し申し上げる。 |
源中納言はこの二十日ごろに三条の宮へ移ることにしたいと思い、このごろは毎日そこへ来ていろいろな |
||||||||||||||||||||||
2.2.4 | ひどくお気に召して大切にしていらっしゃるというのをお聞きになるにつけても、一方では嬉しく思われるが、やはり、自分の考えながら馬鹿らしく、胸がどきどきして、「取り返したいものだ」と、繰り返し独り言が出てきて、 |
兵部卿の宮が御満足なふうで新婦を御大切にお扱いになる御様子であるということを聞く薫は、うれしい気のする一方ではさすがに、自身の心からではあったが得べき人を他へ行かせてしまったことの後悔が苦しいほど胸につのってきて、取り返し得ることはできぬものであろうかと、こんなうめきに似た |
||||||||||||||||||||||
2.2.5 | 「しなてる琵琶湖の湖に漕ぐ舟のように まともではないが一夜会ったこともあったのに」 |
しなてるやにほの湖に |
||||||||||||||||||||||
2.2.6 | とけちをつけたくもなる。 |
とあの夜のことでちょっと悪く言ってみたい気もした。 |
||||||||||||||||||||||
第三段 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す |
||||||||||||||||||||||||
2.3.1 | 右の大殿は、六の君を宮に差し上げなさることを、今月にとお決めになっていたのに、このように意外な人を、婚儀より先にと言わんばかりに大事にお迎えになって、寄りつかずにいらっしゃるので、「たいそうご不快でおいでだ」とお聞きになるのも、お気の毒なので、お手紙は時々差し上げなさる。 |
左大臣は六の君を兵部卿の宮に奉るのを、この二月にと思っていた所へ、こうした意外な人をそれより先にというように夫人として堂々とお迎えになり、二条の院にばかりおいでになるようになったのを見て、不快がっているということをお聞きになっては、また気の毒にお思われになる兵部卿の宮は手紙だけを時々六の君へ送っておいでになった。 |
||||||||||||||||||||||
2.3.2 | 御裳着の儀式を、世間の評判になるほど盛大に準備なさっているのを、延期なさるのも物笑いになるにちがいないので、二十日過ぎにお着せ申し上げなさる。 |
|||||||||||||||||||||||
2.3.3 | 同じ一族で変わりばえがしないが、この中納言を他人に譲るのが残念なので、 |
一家の内輪どうしの中の縁組みは感心できぬものであるが、薫の中納言だけは他家の婿に取らせることは惜しい、 |
||||||||||||||||||||||
2.3.4 | 「婿君としようか。 長年人知れず恋い慕っていた人を亡くして、何となく心細く物思いに沈んでいらっしゃるというから」 |
六の君を改めてその人に |
||||||||||||||||||||||
2.3.5 | などとお考えつきになって、しかるべき人を介して様子を窺わせなさったが、 |
と左大臣は思って、ある人に薫の意向を聞かせてみたが、 |
||||||||||||||||||||||
2.3.6 | 「世の無常を目の前に見たので、まことに気が塞いで、身も不吉に思われますので、何としても何としても、そのようなことは気が進みません」 |
人生のはかなさを実証したことに最近 |
||||||||||||||||||||||
2.3.7 | と、すさまじげなるよし |
と、その気のない旨をお聞きになって、 |
と相手にせぬ様子を聞き、 |
|||||||||||||||||||||
2.3.8 | 「どうして、この君までが、真剣になって申し出る言葉を、気乗りしなくあしらってよいものか」 |
どうして中納言までが懇切に自分のほうから言いだしたことに気のないような返辞をするのであろう |
||||||||||||||||||||||
2.3.9 | と |
と恨みなさったが、親しいお間柄ながらも、人柄がたいそう気のおける方なので、無理にお勧め申し上げなさることができなかった。 |
と、一時は恨んだものの、兄弟ではあっても敬服せずにおられぬところの備わった薫に、しいて六の君を娶らせることは断念した。 |
|||||||||||||||||||||
第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る |
||||||||||||||||||||||||
2.4.1 | 花盛りのころ、二条院の桜を御覧になると、主人のいない山荘がさっそく思いやられなさるので、「気兼ねもなく散るのではないか」などと、独り口ずさみ思い余って、宮のお側に参上なさった。 |
陽春の花盛りになって、薫は近い二条の院の桜の |
||||||||||||||||||||||
2.4.2 | ここがちにおはしましつきて、いとよう されど、 |
こちらにばかりおいでになって、たいそうよく住みなれていらっしゃるので、「安心ことだ」と拝見するものの、例によって、どうかと思われる心が混じるのは、妙なことであるよ。 けれども、本当のお気持ちは、とてもうれしく安心なことだとお思い申し上げなさるのであった。 |
宮はおおかたここにおいでになるようになって、貴人の夫人らしく中の君も住み |
|||||||||||||||||||||
2.4.3 | 何やかやとお話を申し上げなさって、夕方、宮は宮中へ参内なさろうして、お車の設えをさせて、お供の人びとが大勢集まって来たりなどしたので、お出になって、対の御方へ参上なさった。 |
宮と薫は何かとお話をし合っていたが、夕方に宮は御所へおいでになろうとして、車の |
||||||||||||||||||||||
2.4.4 | 山里の様子とは、うって変わって、御簾の中で奥ゆかしく暮らして、かわいらしい童女の、透影がちらっと見えた子を介して、ご挨拶申し上げなさると、お褥を差し出して、昔の事情を知っている人なのであろう、出て来てお返事を申し上げる。 |
山荘の寂しい生活をしていた時に変わり、 |
||||||||||||||||||||||
2.4.5 | 「 |
「朝夕の区別もなくお訪ねできそうに存じられます近さですが、特に用事もなくてお邪魔いたすのも、かえってなれなれしいという非難を受けようかと、遠慮しておりましたところ、世の中が変わってしまった気ばかりがしますよ。 お庭先の梢も霞を隔てて見えますので、胸の一杯になることが多いですね」 |
「始終お近い所に住んでおりながら、何と申す用がなくて伺いますことは、なれなれしすぎたことだとかえってお |
|||||||||||||||||||||
2.4.6 | と |
と申し上げて、物思いに耽っていらっしゃる様子、お気の毒なのを、 |
と取り次がせた、物思わしそうにしている薫の姿の気の毒なのを中の君は見て、 |
|||||||||||||||||||||
2.4.7 | 「おっしゃるとおり、生きていらしたら、何の気兼ねもなく行き来して、お互いに花の色や、鳥の声を、季節折々につけては、少し心をやって過すことができたのに」 |
あの人が惜しむどおりに大姫君が生きていて、あの人の所に迎えられておれば、近い家のことで、始終消息ができ、花鳥につけても少し |
||||||||||||||||||||||
2.4.8 | などと、お思い出しなさるにつけて、一途に引き籠もって生活していらした心細さよりも、ひたすら悲しく、残念なことが、いっそうつのるのであった。 |
などと、姉君を思い出すと、忍耐そのものが生活であったような宇治の時のほうが、かえって悲しみも忍びよかったように思われ、故人の恋しさのつのるばかりであった。 |
||||||||||||||||||||||
第五段 匂宮、中君と薫に疑心を抱く |
||||||||||||||||||||||||
2.5.1 | 女房たちも、 |
女房たちも、 |
||||||||||||||||||||||
2.5.2 | 「世間一般の人のように、仰々しくお扱い申し上げなさいますな。 この上ないご好意を、今こそ、拝見しご存知あそばしている様子を、お見せ申し上げる時です」 |
「世間の習いどおりに、うとうとしくあの方様をお扱いになってはなりませぬ。今こうおなりあそばしてからこそ、あの方様の御親切の並み並みでないことがおわかりになった御感謝の心をお見せあそばすべきでございます」 |
||||||||||||||||||||||
2.5.3 | などと申し上げるが、人を介してではなく、直にお話し申し上げることは、やはり気が引けるので、ためらっていらっしゃるところに、宮が、お出かけになろうとして、お暇乞いの挨拶にお渡りになった。 たいそう美しく身づくろいし化粧なさって、見栄えのするお姿である。 |
こう言って勧めているのであったが、にわかに自身で話に出るようなことはなお恥ずかしくて中の君が |
||||||||||||||||||||||
2.5.4 | 中納言はこちらに来ているのであった、と御覧になって、 |
薫のこちらに来ていたのを御覧になり、 |
||||||||||||||||||||||
2.5.5 | 「などか、むげにさし わがためはをこがましきこともや、とおぼゆれど、さすがにむげに |
「どうして、無愛想に遠ざけて、外にお座らせになっているのか。 あなたには、あまりにどうかと思われるまでに、行き届いたお世話ぶりでしたのに。 自分には愚かしいこともあろうか、と心配されますが、そうはいってもまったく他人行儀なのも、罰が当たろう。 近い所で、昔話を語り合いなさい」 |
「どうしてあんなによそよそしい席を与えていらっしゃるのですか。あなたがたの所へはあまりにしすぎると思うほどの親切を見せていた人なのだからね。私のためには多少それは危険を感ずべきことではあっても、あんなに冷遇すれば男はかえって反発的なことを起こすものですよ。近くへお呼びになって昔話でもしたらいいでしょう」 |
|||||||||||||||||||||
2.5.6 | などと、申し上げなさるものの、 |
こんなことを夫人に言われたのであるが、また、 |
||||||||||||||||||||||
2.5.7 | 「そうはいっても、あまり気を許すのも、またどんなものかしら。 疑わしい下心があるかもしれない」 |
「しかしあまり気を許して話し合うことはどうだろう。疑わしい心が下に見えますからね」 |
||||||||||||||||||||||
2.5.8 | と、うち |
と、言い直しなさるので、どちらの方に対しても厄介だけれども、自分の気持ちも、しみじみありがたく思われた方のお心を、今さらよそよそしくすべきことでもないので、「あの方が思いもしおっしゃりもするように、故姉君の身代わりとお思い申して、このように分かりましたと、お表し申し上げる機会があったら」とはお思いになるが、やはり、何やかやと、さまざまに心安からぬことを申し上げなさるので、つらく思われなさるのだった。 |
ともお言いになったので、どうすればよいかわからぬようなめんどうさを中の君は感じた。自分にもまれな好意の寄せられたのを知っているのであったから、今の身になったからといって、うとうとしくできるものでない、あの人も言うように、姉君の代わりと見て、感謝している自分の心をあの人に見せうる機会があればよいと願っているがと中の君は思うものの、さすがに宮がとやかくと |
|||||||||||||||||||||
著作権 |
|
|
|
関連ファイル | ||
---|---|---|
種類 | ファイル | 備考 |
XMLデータ | genji48.xml |
このページに示した情報を保持するXML形式のデータファイルです。
このファイルは再編集プログラムによって2024年11月11日に出力されました。 源氏物語の世界 再編集プログラム Ver. 4.05: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経 ライセンスはGFDL(GNU Free Documentation License)に従うフリードキュメントとします。 ただし、著作権を表示した部分では、その著作権者のライセンスにも従うものとします。 |
XSLT | genjiFrNN.html.xsl.xml Copyrights.xsl.xml |
このページを生成するためにXMLデータファイルと組み合わせて使用するXSLTファイルで、再編集プログラムを構成するコンポーネントの1つです。 再編集プログラムは GPL(GNU General Public License) に従うフリーソフトです。 源氏物語の世界 再編集プログラム Ver. 4.05: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経 |