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第四十八帖 早蕨

薫君の中納言時代二十五歳春の物語

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳

第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活


第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く

1.1.1 薮だからといって分け隔てして日光は差すものでないので、春の光を御覧になるにつけても、「どうしてこう生き永らえてきた月日なのだろう」と、夢のようにばかり思われなさる。
「日の光林藪(やぶ)しわかねばいそのかみ()りにし里も花は咲きけり」と言われる春であったから、山荘のほとりのにおいやかになった光を見ても、宇治の中の君は、どうして自分は今まで生きていられたのであろうと、現在を夢のようにばかり思われた。
1.1.2
()()時々(ときどき)にしたがひ花鳥(はなとり)(いろ)をも()をも(おな)(こころ)()()()つつ、はかなきことをも、本末(もとすゑ)をとりて()()はし心細(こころぼそ)()()さもつらさもうち(かた)らひ()はせきこえしにこそ、(なぐさ)(かた)もありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、()()(ひと)もなきままに、よろづかきくらし、心一(こころひと)つをくだきて、(みや)のおはしまさずなりにし(かな)しさよりもややうちまさりて(こひ)しくわびしきに、いかにせむと、()()るるも()らず(まど)はれたまへど、()にとまるべきほどは、(かぎ)りあるわざなりければ()なれぬもあさまし
去っては迎える時節時節にしたがって、花や鳥の色をも声をも、同じ気持ちで起き臥し見ては、ちょっとした和歌を詠むことでも、上の句と下の句とをそれぞれ付け交わして、心細いこの世の悲しさも辛さも、語り合ってきたからこそ、慰むこともあったが、おもしろいことや、しみじみとしたことを、聞き知る人がいないままに、すべてまっくら闇で、心一つに思い悩んで、父宮がお亡くなりになった悲しさよりも、もう少しまさって恋しくわびしいので、どうしたらよいかと、明けるのも暮れるのも分からず茫然としていらっしゃるが、世に生きている間は、定めがあることだったので、死ぬことができないのもあきれたことだ。
四季時々の花の色も鳥の声も、明け暮れ共に見、共に聞き、それによって歌を作りかわすことをし、人生の心細さも苦しさも話し合うことで慰めを得ていた。それ以外に何の楽しみが自分にあったであろう、美しいとすることも、身にしむことも語って自身の感情を解してくれる姉君を、そのかたわらから死に奪われた人であったから、暗い気持ちをどうすることもできず、父宮のお(かく)れになった時の悲しみにややまさった悲しさ恋しさに、日のたつのも悟らぬほど歎き続けているが、命数には定まったものがあって、死にたくても死なれぬのも人生の悲哀の一つであると見られた。
1.1.3
阿闍梨(あざり)のもとより、
阿闍梨のもとから、
御寺(みてら)阿闍梨(あじゃり)の所から、
1.1.4
年改(としあらた)まりては(なに)ごとかおはしますらむ。
御祈(おほんいの)りは、たゆみなく(つか)うまつりはべり。
(いま)は、一所(ひとところ)(おほん)ことをなむ(やす)からず(ねん)じきこえさする」
「新年になってからは、いかがお過ごしでしょうか。
ご祈祷は、怠りなくお勤めいたしております。
今は、お一方の事を、ご無事にと祈念いたしております」
年が変わりましてのちどんな御様子でおいでになりますか。御仏(みほとけ)へのお祈りは始終いたしております。今になりましてはあなた様お一方のために幸福であれと念じ続けるばかりです。
1.1.5
など()こえて、(わらび)つくづくし、をかしき()()れて、これは、(わらは)べの供養(くやう)じてはべる初穂(はつほ)なり」とて、たてまつれり。
()は、いと()しうて、(うた)は、わざとがましくひき(はな)ちてぞ()きたる
などと申し上げて、蕨、土筆を、風流な籠に入れて、「これは、童たちが献じましたお初穂です」といって、差し上げた。
筆跡は、とても悪筆で、和歌は、わざとらしく放ち書きにしてあった。
などという手紙を添え、(わらび)土筆(つくし)を風流な(かご)に入れ、その説明としては、
これは童子どもが山に捜して御仏にささげたものです、初物です。
とも書かれてあった。悪筆で次の歌などは大形(おおぎょう)に一字ずつ離して書いてある。
1.1.6 「わが君にと思って毎年毎年の春に摘みましたので
今年も例年どおりの初蕨です
君にとてあまたの年をつみしかば
常を忘れぬ初蕨なり
1.1.7 御前でお詠み申し上げてください」
女王(にょおう)様に読んでお聞かせ申してください。
1.1.8
とあり。
とある。
と女房あてにしてあった。

第二段 中君、阿闍梨に返事を書く

1.2.1
大事(だいじ)(おも)ひまはして()()だしつらむ(おぼ)せば、(うた)(こころ)ばへもいとあはれにて、なほざりに、さしも(おぼ)さぬなめりと()ゆる(こと)()を、めでたく(この)ましげに()()くしたまへる(ひと)御文(おほんふみ)よりは、こよなく()とまりて、(なみだ)もこぼるれば、(かへ)(ごと)()かせたまふ
大事と思って詠み出したのだろう、とお思いになると、歌の気持ちもまことにしみじみとして、いい加減で、そうたいしてお思いでないように見える言葉を、素晴らしく好ましそうにお書き尽くしなさる方のお手紙よりも、この上なく目が止まって、涙も自然とこぼれてくるので、返事を、お書かせになる。
一所懸命に考え出した歌であろうと想像されて、つたない中に言ってある心を身にしむように中の君は思い、筆任せに、それほど深くお思いにならぬことであろうと思われることを、多くの美しい言葉で飾ってお送りになる方の(ふみ)よりもこのほうに心の引かれる気がして、涙さえこぼれてきたために、返事を自身で書いた。
1.2.2 「今年の春は誰にお見せしましょうか
亡きお方の形見として摘んだ峰の早蕨を」
この春はたれにか見せんなき人の
かたみに摘める峰のさわらび
1.2.3
使(つかひ)禄取(ろくと)らせさせたまふ。
使者に禄を与えさせなさる。
使いには纏頭(てんとう)が出された。
1.2.4
いと(さか)りに(にほ)(おほ)くおはする(ひと)の、さまざまの(おほん)もの(おも)ひにすこしうち面痩(おもや)せたまへる、いとあてになまめかしきけしきまさりて、昔人(むかしびと)にもおぼえたまへり。
(なら)びたまへりし(をり)は、とりどりにて、さらに()たまへりとも()えざりしをうち(わす)れては、ふとそれかとおぼゆるまでかよひたまへるを、
まことに盛りではなやいでいらっしゃる方で、いろいろなお悲しみに、少し面痩せしていらっしゃるのが、とても上品で優美な感じがまさって、故人にも似ていらっしゃった。
お揃いでいらっしゃったときは、それぞれ素晴らしく、全然似ていらっしゃるとも見えなかったが、ふと忘れては、その人かと思われるまで似ていらっしゃるのを、
盛りの美しさを備えた人が、いろいろな物思いのために少し面痩(おもや)せのしたのもかえって貴女(きじょ)らしい(えん)な趣の添ったように見え、総角(あげまき)の姫君にもよく似ていた。いっしょにいたころはどちらにも特殊な美しさがあって、似ているように見えなかったのであるが、今ではうかとしておれば大姫君であるという錯覚が起こるのを、
1.2.5
中納言殿(ちうなごんどの)(から)をだにとどめて()たてまつるものならましかばと、朝夕(あさゆふ)()ひきこえたまふめるに、(おな)じくは()えたてまつりたまふ御宿世(おほんすくせ)ならざりけむよ」
「中納言殿が亡骸だけでも残って拝見できるものであったらと、朝夕にお慕い申し上げていらっしゃるようだが、同じことなら、結ばれなさるご運命でなかったことよ」
遺骸(いがい)だけでも(なが)くとどめてながめていられるものだったならばと、朝夕に恋しがっていた源中納言の夫人になっておいでになればよかったものを、運命のそれを許さなかったのが惜しい
1.2.6
と、()たてまつる(ひと)びとは口惜(くちを)しがる。
と、拝する女房たちは残念がっている。
と思い、女房たちは残念がっていた。
1.2.7 あの御あたりの人が通って来る便りに、ご様子は常にお互いにお聞きなさっていたのであった。
いつまでもぼうっとしていらして、「新年になっても相変わらず、悲しそうな涙顔に、なっていらっしゃる」とお聞きになっても、「なるほど、一時の浮ついたお心ではいらっしゃらなかったのだ」と、ますます今となって愛情も深かったのだと、思い知られる。
(かおる)の家のほうから始終出て来る人があってそちらのこともこちらの様子も双方でよく知っていた。まだ総角の姫君に死別した悲しみに茫然(ぼうぜん)となっていて、涙目の人になっていると中納言のことの言われているのを聞いて中の君は、中納言の姉君に持っていた愛は浅薄なものではなかったと、いっそう今になって身にしむようにその人の恋が思われるのであった。
1.2.8
(みや)おはしますことのいと所狭(ところせ)くありがたければ、(きゃう)(わた)しきこえむ」と(おぼ)()ちにたり
宮は、お越しになることがまことに自由に振る舞えず機会がないので、「京にお移し申そう」とご決意なさっていた。
兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は宇治へお通いになることが近ごろになっていっそう困難になり、不可能にさえなったために、中の君を京へ迎えようと決心をあそばした。

第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問

1.3.1 内宴など、何かと忙しい時期を過ごして、中納言の君が、「心におさめかねていることを、また他に誰に話せようか」とお思い余って、兵部卿宮の御方に参上なさった。
御所の内宴などがあって騒がしいころを過ごしてから薫は、心一つに納めかねるような(うれ)いも、その他のだれに話すことができようと思い、匂宮(におうみや)の御殿をお(たず)ねした。
1.3.2
しめやかなる夕暮(ゆふぐれ)なれば、(みや)うち(なが)めたまひて、端近(はしちか)くぞおはしましける。
(さう)御琴(おほんこと)かき()らしつつ、(れい)の、御心寄(みこころよ)せなる(むめ)()をめでおはする、下枝(しづえ)()()りて(まゐ)りたまへる(にほ)ひのいと(えん)にめでたきを、(をり)をかしう(おぼ)して、
しんみりとした夕暮なので、宮は物思いに耽っておいでになって、端近くにいらっしゃった。
箏のお琴を掻き鳴らしながら、いつものように、お気に入りの梅の香を賞美しておいでになる、その下枝を手折って参上なさったが、匂いがたいそう優雅で素晴らしいのを、折柄興あることにお思いになって、
しめやかな早春の夕べの空の見える所に宮は出ておいでになった。十三(げん)をお()きになりながら、例のお好きな梅の香を愛してもいられたのである。薫はその梅の花の下の枝を少し折って、手に持ちながらはいって来た。(えん)な感じが覚えられることであった。宮はこの早春の夕べにふさわしい客をうれしくお思いになり、
1.3.3 「折る人の心に通っている花なのだろうか
表には現さないで内に匂いを含んでいる」
折る人のこころに通ふ花なれや
色にはいでず下ににほへる
1.3.4
とのたまへば、
とおっしゃるので、
とお言いになると、
1.3.5 「見る人に言いがかりをつけられる花の枝は
注意して折るべきでした
「見る人にかごと寄せける花の枝を
心してこそ折るべかりけれ
1.3.6 迷惑なことです」
私が困ります」
1.3.7
と、(たはぶ)()はしたまへる、いとよき(おほん)あはひなり
と冗談を言い交わしなさっているが、実にも仲好いお二方である。
薫も冗談(じょうだん)にしてこんなことを申し上げた。並べて見るに最もよく似合った若い貴人と見えた。
1.3.8
こまやかなる御物語(おほんものがたり)どもになりては、かの山里(やまざと)(おほん)ことをぞ、まづはいかにと、(みや)()こえたまふ
中納言(ちうなごん)も、()ぎにし(かた)()かず(かな)しきこと、そのかみより今日(けふ)まで(おも)ひの()えぬよし、折々(をりをり)につけて、あはれにもをかしくも、()きみ(わら)ひみとかいふらむやうに、()こえ()でたまふに、ましてさばかり(いろ)めかしく、(なみだ)もろなる御癖(おほんくせ)は、(ひと)御上(おほんうへ)にてさへ(そで)もしぼるばかりになりて、かひがひしくぞあひしらひきこえたまふめる
こまごまとしたお話になってからは、あの山里の御事を、まずはどうしているかと、宮はお尋ね申し上げなさる。
中納言も、亡くなった方のことが諦めようもなく悲しいことを、その当時から今日までの思いの断ち切れないことを、四季折々につけて、悲しいことや風流なことを、悲喜こもごもとか言うように、申し上げなさると、それ以上にあれほど色っぽく涙もろいご性癖は、人のお身の上のことでさえ、袖をしぼるほどになって、話しがいがあるようにお答えなさっているようである。
しんみりとした話になっていって、どうしているかと宇治のことをまず宮はお聞きになった。薫も恋人に死なれた悲しみを言い、初めから今までのその人に関する物思いの連続を、そのおりあのおりと、身にしむようにも、美しくも泣きながら、笑いながらというように話し出したのを、聞いておいでになって、繊細な感情に富んでおいでになり、涙もろい癖の宮は、他人のことながらも、(そで)を絞るほどの涙をお流しになって、熱心な受け答えをあそばされるのであった。

第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う

1.4.1
(そら)のけしきもまた、げにぞあはれ()(がほ)(かす)みわたれる
(よる)になりて、(はげ)しう()()づる(かぜ)のけしき、まだ(ふゆ)めきていと(さむ)げに大殿油(おほとなぶら)()えつつ、(やみ)はあやなきたどたどしさなれどかたみに()きさしたまふべくもあらず、()きせぬ御物語(おほんものがたり)をえはるけやりたまはで、(よる)もいたう()けぬ。
空の様子もまた、なるほど心を知っているかのように霞わたっていた。
夜になって烈しく吹き出した風の様子、まだ冬らしくてまこと寒そうで、大殿油も消え消えし、闇は梅の香を隠せず匂っているが、互いにそのままお話をやめることもなさらず、尽きないお話を心ゆくまでお話しきれないで、夜もたいそう更けてしまった。
天もまた哀愁の人に同情するかのように、空を(かすみ)がぼんやりこめて、夜になってからは(はげ)しく風も吹き出し、まだ冬らしい寒さが寄ってきて()も消えた。「春の夜の(やみ)はあやなし」というようなたよりなさではあったが、話す人、聞く人もそれを(さわ)りにしてそのままにやむ話ではなかった。どんなに語っても中納言は心の晴れることを覚えないままで深更になった。
1.4.2
()にためしありがたかりける(なか)(むつ)びをいで、さりとも、いとさのみはあらざりけむ」と、(のこ)りありげに()ひなしたまふぞ、わりなき御心(みこころ)ならひなめるかし
さりながらもものに(こころ)えたまひて、(なげ)かしき(こころ)のうちもあきらむばかり、かつは(なぐさ)め、またあはれをもさまし、さまざまに(かた)らひたまふ、(おほん)さまのをかしきにすかされたてまつりて、げに、(こころ)にあまるまで(おも)(むす)ぼほるることどもすこしづつ(かた)りきこえたまふぞ、こよなく(むね)のひまあく心地(ここち)したまふ。
世にも稀な二人の仲のよさを、「さあ、そうはいっても、とてもそんなばかりではなかったでしょう」と、隠しているものがあるようにお尋ねになるのは、理不尽なご性癖のせいである。
そうは言っても、物事をよくお分かりになって、悲しい心の中を晴れるように、一方では慰めもし、また悲しみを忘れさせ、いろいろとお語らいになる、そのご様子の魅力にお引かれ申して、なるほど、心に余るほどに鬱積していたことがらを、少しずつお話し申し上げなさるのは、この上なく心が晴れ晴れする気がなさる。
世の中にまたたぐいもないような精神的愛に止まったという薫の話を、必ずしも終わりまでそうではなかったであろうと宮のお思いになるのも、御自身から割り出してお考えになるからであろう。そうではあるが他の点では御想像が穎敏(えいびん)で、薫の気持ちをよく理解され、悲しみも慰めるに足るほどな言葉をお出しになった。一つは御容姿のお美しさが心をよく(すか)して、結ぼれの解けぬ歎きを少しずつ語っていかれるのは非常に気の楽になることのように薫に思われたのである。
1.4.3
(みや)も、かの人近(ひとちか)(わた)しきこえてむとするほどのことども(かた)らひきこえたまふを、
宮も、あの方を近々お移し申そうとすることについて、ご相談申し上げなさるのを、
宮も近日に中の君を京へお迎えになろうとすることで中納言へ御相談をあそばされると、
1.4.4
いとうれしきことにもはべるかな
あいなく、みづからの(あやま)ちとなむ(おも)うたまへらるる。
()かぬ(むかし)名残(なごり)また(たづ)ぬべき(かた)もはべらねば、おほかたには、(なに)ごとにつけても、心寄(こころよ)せきこゆべき(ひと)となむ(おも)うたまふるを、もし便(びん)なくや(おぼ)()さるべき」
「まことに嬉しいことでございますね。
不本意ながら、わたしの過失と存じておりました。
諦め切れない故人の縁者を、また他に訪ねるべき人もございませんので、後見一般としては、どのようなことでも、お世話申し上げるべき人と存じておりますが、もし不都合なこととお思いになりましょうか」
「非常にけっこうなことでございます。あのままになりましては私の責任になりますことと苦しく思っておりました。昔の人の名残(なごり)の家も、あの女王があなた様のものであれば、今では私のお(たず)ねして行く名目に困っていたのでした。しかしただのお世話は十分に私がせねばならぬ方だと思っていますが、そのことで御感情を害するようなことはないでしょうか」
1.4.5
とて、かの、異人(ことびと)とな(おも)ひわきそ」と、(ゆづ)りたまひし(こころ)おきてをも、すこしは(かた)りきこえたまへど、岩瀬(いはせ)(もり)呼子鳥(よぶこどり)めいたりし()のことは(のこ)したりけり。
(こころ)のうちには、かく(なぐさ)めがたき形見(かたみ)にもげに、さてこそ、かやうにも(あつか)ひきこゆべかりけれ」と、(くや)しきことやうやうまさりゆけど、(いま)はかひなきものゆゑ、(つね)にかうのみ(おも)はばあるまじき(こころ)もこそ()()れ。
()がためにもあぢきなく、をこがましからむ」と(おも)(はな)る。
さても、おはしまさむにつけてもまことに(おも)後見(うしろみ)きこえむ(かた)は、また()れかは」と(おぼ)せば、御渡(おほんわた)りのことどもも(こころ)まうけせさせたまふ。
と言って、あの、「他人とお思いくださるな」と、お譲りになったお心向けをも、少しお話し申し上げなさるが、岩瀬の森の呼子鳥めいた夜のことは、話さずにいたのであった。
心の中では、「このように慰めがたい形見にも、なるほど、おっしゃったように、このようにお世話申し上げるべきであった」と、悔しさがだんだんと高じてゆくが、今では甲斐のないゆえに、「常にこのようにばかり思っていたら、とんでもない料簡が出て来るかもしれない。
誰にとってもつまらなく、馬鹿らしいことだろう」と思い諦める。
「それにしても、お移りになるにしても、ほんとうにご後見申し上げる人は、わたし以外に誰がいようか」とお思いになるので、お引越しの準備を用意おさせになる。
と薫は言い、なお故人が以前に、自分と同じものと思えと言い、中の君と自分の結婚を望んだことも少しお話ししたが、あの中の君と兄妹(きょうだい)のような心で語っていた寝室の一夜のことには触れなかった。心の中では、こんなにも悲しまれる日の心の慰めとして妻に得ておくべきであって、宮がなされようとするがごとく京へその人を迎えることもできたのであったと、残念な気持ちがようやく深くなっていくのである。今はもう思っても何の(かい)もないことを、しかも始終それを思いつめておれば、なしてならぬことをなしたい心も出てくるであろう、それは宮の御ため、中の君、自分のためにも人笑われなことに違いないとこうこの人は反省した。それにしても中の君が京へ移ることになっての仕度(したく)その他について、自分のほかにだれも力になる人はないのであると薫は思い、手もとでいろいろな品の新調などをさせていた。

第五段 中君、姉大君の服喪が明ける

1.5.1
かしこにもよき若人童(わかうどわらは)など(もと)めて、(ひと)びとは(こころ)ゆき(がほ)にいそぎ(おも)ひたれど、(いま)はとてこの伏見(ふしみ)()らし()てむもいみじく心細(こころぼそ)ければ、(なげ)かれたまふこと()きせぬを、さりとても、またせめて(こころ)ごはく、()()もりてもたけかるまじく、(あさ)からぬ(なか)(ちぎ)りも()()てぬべき御住(おほんす)まひをいかに(おぼ)しえたるぞ」とのみ、(うら)みきこえたまふも、すこしはことわりなれば、いかがすべからむ(おも)(みだ)れたまへり。
あちらでも、器量の良い若い女房や童女などを雇って、女房たちは満足げに準備しているが、今を最後とこの伏見ならぬ宇治を荒らしてしまうのも、たいそう心細いので、お嘆きになること尽きないが、だからといって、また気負い立って強情を張って、閉じ籠もっていてもどうしようもなく、「浅くない縁が、絶え果ててしまいそうなお住まいなのに、どういうおつもりですか」とばかり、お恨み申し上げなさるのも、少しは道理なので、どうしたらよいだろう、と思案なさっていた。
宇治でもきれいな若女房、童女などを捜して雇い入れ、女房たちは幸福感に浸っているのであるが、いよいよ父宮の遺愛の宇治の山荘を離れて行くことになるのかと中の君は心細くて歎かればかりする、そうかといって寂しさに堪えてここに独居する決心もできそうになかった。宮から熱愛はしていながらもこのままでは自然に遠い仲になっていくかもしれぬのをどう思っているかと恨んでおよこしになるのも少しお道理に思われるところもあったので、どうすればよいかとばかり煩悶(はんもん)する中の君であった。
1.5.2
如月(きさらぎ)朔日(ついたち)ごろとあれば、ほど(ちか)くなるままに、(はな)()どものけしきばむも(のこ)りゆかしく、(みね)(かすみ)()つを見捨(みす)てむこともおのが常世(とこよ)にてだにあらぬ旅寝(たびね)にて、いかにはしたなく人笑(ひとわら)はれなることもこそ」など、よろづにつつましく、心一(こころひと)つに(おも)()かし()らしたまふ。
二月の上旬頃にというので、間近になるにつれて、花の木の蕾みがふくらんでくるのもその後が気になって、「峰に霞が立つのを見捨てて行くことも、自分の常住の住まいでさえない旅寝のようで、どんなに体裁悪く物笑いになっては」などと、万事に気がひけて、一人思案に暮れて過ごしていらっしゃる。
二月になったらすぐということであったから、近づくにしたがい咲く花の(つぼみ)も大きくふくらんでくるのを見ては、春の花のすべてを見ずに行くことが心残りに思われ、帰雁(きがん)のように(かすみ)の山を捨てて行く先は、自身の家でもないことが不安で、宮の愛が永久に変わらぬものと見なされぬ心から寂しい未来も考えられてひそかに思い悩んでいるのであった。
1.5.3
御服(おほんぶく)も、(かぎ)りあることなれば()()てたまふに、(みそぎ)(あさ)心地(ここち)ぞする。
親一所(おやひとところ)は、()たてまつらざりしかば(こひ)しきことは(おも)ほえず。
その御代(おほんか)はりにも、この(たび)(ころも)(ふか)()めむと、(こころ)には(おぼ)しのたまへど、さすがに、さるべきゆゑもなきわざなれば、()かず(かな)しきこと(かぎ)りなし。
御服喪も、期限があることなので、脱ぎ捨てなさるのに、禊も浅い気がする。
母親は、お顔を存じ上げていないので、恋しいとも思われない。
そのお代わりにも、今回の喪服の色を濃く染めようと、心にお思いになりおっしゃりもしたが、はやり、そのような理由もないことなので、物足りなく悲しいことは限りがない。
姉の服喪の期間は三月であって、除服の(みそぎ)を行なうことになっているのも飽き足らぬことに中の君は思った。母夫人とは顔も知らぬほどの縁であったから、恋しいとは思いようもなかったが、そのかわりとして子の服喪を姉のためにしたい心であったが、これは定まったことでかってにはならなかった。
1.5.4
中納言殿(ちうなごんどの)より、御車(みくるま)御前(おまへ)(ひと)びと、博士(はかせ)などたてまつれたまへり。
中納言殿から、お車や、御前の供人や、博士などを差し向けなさった。
禊の日の女王の車、前駆を勤める人々、守刀などが薫のほうから送られた。
1.5.5 「早いものですね、
霞の衣を作ったばかりなのにも
はかなしや(かすみ)のころもたちしまに
花の(ひも)とく(をり)も来にけり
1.5.6
げに、色々(いろいろ)いときよらにてたてまつれたまへり。
御渡(おほんわた)りのほどの(かづ)(もの)どもなど、ことことしからぬものから、品々(しなじな)にこまやかに(おぼ)しやりつつ、いと(おほ)かり。
なるほど、色とりどりにたいそう美しくして差し上げなさった。
お引越しの時のお心づけなど、仰々しくない物で、それぞれの身分に応じていろいろと考えて、とても多かった。
添えられたこの歌のように、春の花のいろいろに似た衣服も贈られたのであった。京へ移って行った日に入り用な纏頭(てんとう)に使う品、それらもあまり大形(おおぎょう)には見せずこまごまと気をつけてそろえて届けられたのである。
1.5.7
(をり)につけては(わす)れぬさまなる御心寄(みこころよ)せのありがたく、はらからなども、えいとかうまではおはせぬわざぞ」
「何かにつけて、忘れず気のつくご好意をありがたく、兄弟などでさえ、とてもこうまではいらっしゃらないことだ」
何かのおりには親身な志を見せる薫を喜んで、女房たちは、
「こんなにまでは御兄弟だってなさるものではございませんよ」
1.5.8
など、(ひと)びとは()こえ()らす。
あざやかならぬ古人(ふるびと)どもの(こころ)には、かかる(かた)(こころ)にしめて()こゆ。
(わか)(ひと)は、時々(ときどき)()たてまつりならひて、(いま)はと(こと)ざまになりたまはむをさうざうしく、いかに(こひ)しくおぼえさせたまはむ」と()こえあへり。
などと、女房たちはお教え申し上げる。
ぱっとしない老女房連中の考えとしては、このような点を身にしみて申し上げる。
若い女房は、時々拝見し馴れているので、今を限りに縁遠くおなりになるのを、物足りなく、「どんなに恋しくお思いなされるでしょう」とお噂し合っていた。
などと中の君に教えるのであった。こうした老いた女の心には物質的の補助ほどありがたいものはないと深く思われるので、自然これを女王(にょおう)に知らせようと努めるのである。若い女房たちは時々来る薫に親しみを持っていて、
「いよいよ姫君がほかの方の所へ行っておしまいになっては、どんなにあの方様が恋しく思召(おぼしめ)すことでしょう」
 と同情していた。

第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問

1.6.1
みづからは(わた)りたまはむこと明日(あす)とての、まだつとめておはしたり。
(れい)の、客人居(まらうとゐ)(かた)おはするにつけても、(いま)はやうやうもの()れて、(われ)こそ、(ひと)より(さき)かうやうにも(おも)ひそめしか」など、ありしさま、のたまひし(こころ)ばへを(おも)()でつつ、さすがに、かけ(はな)ことの(ほか)になどは、はしたなめたまはざりしを、わが(こころ)もて、あやしうも(へだ)たりにしかな」と、(むね)いたく(おも)(つづ)けられたまふ。
ご自身は、お移りになることが明日という日の、まだ早朝においでになった。
いつものように、客人席にお通りになるにつけても、今は、だんだん何にも馴れて、「自分こそ、誰よりも先に、このように思っていたのだ」などと、生前のご様子や、おっしゃったお気持ちをお思い出しになって、「それでも、よそよそしく、思いの外になどとは、おあしらいなさらなかったが、自分のほうから、妙に他人で終わることになってしまったな」と、胸痛くお思い続けなさる。
(かおる)自身は山荘の人の京へ立つのが明日という日の早朝に(たず)ねて来た。例の客室にはいっていて、月日が自然に恋人と自分を近づけていき、妻とした大姫君を、今度の中の君のようにして京へ迎えることを、自分のほうが先に期していたのであったと思い、大姫君の生きていたころの様子、話した心を思い出して、絶対に自分を避けようとはせず、もってのほかなどと自分をとがめるようなことはなかったのに、自分の気弱さからついに友情以上のものをあの人にいだかせずに終わったと考えると、胸が痛くさえなるほどに残念であった。
1.6.2
垣間見(かいまみ)せし障子(さうじ)(あな)(おも)()でらるれば、()りて()たまへど、この(なか)をば()ろし()めたれば、いとかひなし。
垣間見した襖障子の穴も思い出されるので、近寄って御覧になるが、部屋の中が閉めきってあるので、何にもならない。
父宮の喪中にここから仏間にいるのをのぞいて見た北の襖子(からかみ)の穴も恋しく思い出されて、寄って行って見たが、中の(へや)は戸が皆おろしてあって暗いために何も見えない。
1.6.3
(うち)にも、(ひと)びと(おも)()できこえつつうちひそみあへり。
(なか)(みや)は、まして、もよほさるる御涙(おほんなみだ)(かは)に、明日(あす)(わた)りもおぼえたまはずほれぼれしげにてながめ()したまへるに、
部屋の中でも、女房たちはお思い出し申し上げながら涙ぐんでいた。
中の宮は、女房たち以上に、催される涙の川で、明日の引っ越しもお考えになれず、茫然として物思いに沈んで臥せっておいでになるので、
女房も薫の来たことによって昔を思い出して泣いていた。中の君はましてとめどもなく流れる涙のために(ぼう)となって横たわっていた。
1.6.4
(つき)ごろの()もりもそこはかとなけれど、いぶせく(おも)うたまへらるるを片端(かたはし)もあきらめきこえさせて、(なぐさ)めはべらばや。
(れい)の、はしたなくなさし(はな)たせたまひそ。
いとどあらぬ()心地(ここち)しはべり
「幾月ものご無沙汰の間に積もりましたお話も、何ということございませんが、鬱々としておりましたので、少しでもお晴らし申し上げて、気を紛らわせたく存じます。
いつものように、きまり悪く他人行儀なさらないでください。
ますます知らない世界に来た気が致します」
「伺うことのできませんでした間に、何をどうしたということはありませんが、絶えぬ思いの続きました一端でもお話をいたして心の慰めにさせていただきたいと思います。例のように他人らしくお扱いにならないでください。いよいよ今と昔の相違を深く覚えることになって悲しいでしょうから」
1.6.5
()こえたまへれば、
と申し上げなさると、
と薫から中の君へ取り次がせてきた。
1.6.6
はしたなしと(おも)はれたてまつらむとしも(おも)はねど、いさや、心地(ここち)(れい)のやうにもおぼえず、かき(みだ)りつつ、いとどはかばかしからぬひがこともやと、つつましうて」
「体裁が悪いとお思い申されようとは思いませんが、それでも、気分もいつものようでなく、心も乱れ乱れて、ますますはきはきしない失礼を申し上げてはと、気がひけまして」
「失礼だとは思われたくはないけれど、私は今気分も普通でなくて、何だか苦しいのだから、いっそうそんなことでわからぬお返辞を申し上げたりすることになってはならないと御遠慮がされる」
1.6.7
など、(くる)しげにおぼいたれど、いとほし」など、これかれ()こえて、(なか)障子(さうじ)(くち)にて対面(たいめん)したまへり。
などと、つらそうにお思いになっているが、「お気の毒です」などと、あれこれ女房が申し上げるので、中の襖障子口でお会いなさった。
と言い、中の君は気の進まぬふうであったが、御好意に対してそれではと女房らに(いさ)められて、中の襖子の口の所で物越しの対談をすることにした。
1.6.8
いと心恥(こころは)づかしげになまめきて、また「このたびは、ねびまさりたまひにけり」と、()(おどろ)くまで(にほ)(おほ)く、(ひと)にも()用意(ようい)などあな、めでたの(ひと)」とのみ()えたまへるを、姫宮(ひめみや)面影(おもかげ)さらぬ(ひと)(おほん)ことをさへ(おも)()できこえたまふに、いとあはれと()たてまつりたまふ
たいそうこちらが気恥ずかしくなるほど優美で、また「今度は、一段と立派におなりになった」と、目も驚くほどはなやかに美しく、「誰にも似ない心ばせなど、何とも、素晴らしい方だ」とばかりお見えになるのを、姫宮は、面影の離れない方の御事までお思い出し申し上げなさると、まことにしみじみとお会い申し上げなさる。
気品よく艶で、今度はまた以前よりもひときわまさったと女房たちの目も驚くほど美しさがあって、だれにもない清楚(せいそ)な身のとりなしの備わっている薫は、これ以上の男がこの世にはあるまいと見えた。中の君はこの人に()き姉君のことをさえまた恋しく思われ、身に()んで薫を見ていた。
1.6.9 「つきないお話なども、今日は言忌みしましょうね」
「取り返しがたい方のことも、今日は縁起を祝わねばなりませんからお話をさし控えたほうがよろしいでしょう」
1.6.10 などと言いさして、
と中納言は言い、ややしばらくして、また、
1.6.11
(わた)らせたまふべき所近(ところちか)このころ()ぐして(うつ)ろひはべるべければ夜中暁(よなかあかつき)つきづきしき(ひと)()ひはべるめる、何事(なにごと)(をり)にも、(うと)からず(おぼ)しのたまはせば、()にはべらむ(かぎ)りは、()こえさせ(うけたまは)りて()ぐさまほしくなむはべるを、いかがは(おぼ)()すらむ。
(ひと)(こころ)さまざまにはべる()なれば、あいなくやなど、一方(ひとかた)にもえこそ(おも)ひはべらね」
「お移りになるはずの所の近くに、もう幾日かして移ることになっていますので、夜中も早朝もと、親しい間柄の人が言いますように、どのような機会にも、親しくお考えくださりおっしゃっていただければ、この世に生きております限りは、申し上げもし承りもして過ごしとうございますが、どのようにお考えでしょうか。
人の考えはいろいろでございます世の中なので、かえって迷惑かなどと、独り決めもしかねるのです」
「今度おいでになるお(やしき)の近い所へ、私の家もまたすぐに移転することになっていますから、夜中でも暁でもと能弁家がよく言いますように、何事がありましても私へ御用をお言いくださいましたなら、生きておりますうちはどんなにもしてあなた様のために尽くそうと私は思っているのですが、あなたはどう思ってくださいますか、御迷惑にはお感じになりませんか。出すぎたお世話はいけないかもしれぬのですから、自分の考えをよいこととばかり信じても行なえませんから、お尋ねするのです」
1.6.12
()こえたまへば、
と申し上げなさると、
こう言うと、
1.6.13
宿(やど)をばかれじと(おも)心深(こころふか)くはべるを、(ちか)く、などのたまはするにつけても、よろづに(みだ)れはべりて、()こえさせやるべき(かた)もなく」
「邸を離れまいと思う考えは強うございますが、近くに、などとおっしゃって下さるにつけても、いろいろと思い乱れまして、お返事の申し上げようもなくて」
「この家を永久に離れたくないように思われます私は、近くへ来るなどとおっしゃるのを承っていますだけでも心が乱れまして、何とお返辞を申し上げてよろしいかもわかりません」
1.6.14
など、所々言(ところどころい)()ちて、いみじくものあはれと(おも)ひたまへるけはひなどいとようおぼえたまへるを(こころ)からよそのものに()なしつる」と、いと(くや)しく(おも)ひゐたまへれど、かひなければ、その()のことかけても()はず、(わす)れにけるにやと()ゆるまでけざやかにもてなしたまへり。
などと、言葉とぎれとぎれに言って、ひどく心に感じ入っていらっしゃる様子など、ひどくよく似ていらっしゃるのを、「自分から他人の妻にしてしまった」と思うと、とても悔しく思っていらっしゃるが、言っても効ないので、あの夜のことは何も言わず、忘れてしまったのかと見えるまで、きれいさっぱりと振る舞っていらっしゃった。
所々は言おうとする言葉も消して、非常に物悲しく思っている様子の見えるところなどもよく大姫君に似ているのを知って、自身の心からこの人を他へやることになったとくちおしく思われてならぬ薫であったが、(かい)のないことであったから、あの以前のある夜のことなどは話題にせず、そんなことは忘れてしまったのかと思われるほど平静なふうを見せていた。

第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す

1.7.1
御前近(おまへちか)紅梅(こうばい)の、(いろ)()もなつかしきに、(うぐひす)だに見過(みす)ぐしがたげにうち()きて(わた)るめれば、まして「(はる)(むかし)の」と(こころ)(まど)はしたまふどちの御物語(おほんものがたり)に、(をり)あはれなりかし
(かぜ)のさと()()るるに、(はな)()客人(まらうと)御匂(おほんにほ)ひも、(たちばな)ならねど、昔思(むかしおも)()でらるるつまなり
つれづれの(まぎ)らはしにも()()(なぐさ)めにも、(こころ)とどめてもてあそびたまひしものを」など、(こころ)にあまりたまへば、
お庭前近い紅梅が、花も香もなつかしいので、鴬でさえ見過ごしがたそうに鳴いて飛び移るようなので、まして、「春や昔の」と心を惑わしなさるどうしのお話に、折からしみじみと心を打つのである。
風がさっと吹いて入ってくると、花の香も客人のお匂いも、橘ではないが、昔が思い出されるよすがである。
「所在ない気の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、
近い庭の紅梅の色も香もすぐれた木は、(うぐいす)も見すごしがたいように()いて通るのは、まして「月やあらぬ春や昔の春ならぬ」という歎きをしている人たちの心を打つことであろうと思われた。さっと御簾(みす)を透かして吹く風に、花の香と客の貴人のにおいの混じって立つのも花橘(はなたちばな)ではないが昔恋しい心を誘った。つれづれな生活の慰めにも人生の悲しみを紛らわすためにも、紅梅の花は姉君の愛したものであったと思うことが心からあふれて、
1.7.2 「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、
嵐に吹き乱れる山里に昔を思い出させる
見る人もあらしにまよふ山里に
昔覚ゆる花の香ぞする
1.7.3
()ふともなくほのかにて、たえだえ()こえたるを、なつかしげにうち()じなして
言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、
と言うともなくほのかに絶え絶えに言うのを、薫はなつかしそうに自身の口にのせてから、
1.7.4 「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが
根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」
(そで)ふれし梅は変はらぬにほひにて
ねごめうつろふ宿やことなる
1.7.5
()へぬ(なみだ)をさまよくのごひ(かく)して、言多(ことおほ)くもあらず、
止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉数多くもなく、
と自作を告げた。絶えない涙をぬぐい隠して、あまり多くは言わぬ薫であった。
1.7.6
またもなほ、かやうにてなむ、(なに)ごとも()こえさせよかるべき」
「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」
「またこんなふうにして何のお話も申し上げようと思います」
1.7.7
など、()こえおきて()ちたまひぬ。
などと、申し上げおいてお立ちになった。
と最後に言って立って行った。
1.7.8
御渡(おほんわた)りにあるべきことども、(ひと)びとにのたまひおく。
この宿守(やどもり)かの(ひげ)がちの宿直人(とのゐびと)などはさぶらふべければ、このわたりの(ちか)御荘(みさう)どもなどにそのことどもものたまひ(あづ)けなど、こまやかなることどもをさへ(さだ)めおきたまふ。
お引越しに必要な支度を、人びとにお指図おきなさる。
この邸の留守番役として、あの鬚がちの宿直人などが仕えることになっているので、この近辺の御荘園の者どもなどに、そのことをお命じになるなど、生活面の事まで定めおきなさる。
薫は中の君の出京について心得ておくことを女房たちに言い、山荘の留守居(るすい)にあの髭男(ひげおとこ)の侍などが残るであろうことを思って、ここに近い領地の支配をする者を呼び寄せて、今後もここへそれらの人の生活に不足せぬほどの物を届けさせる用も命じた。

第八段 薫、弁の尼と対面

1.8.1
(べん)ぞ、
弁は、
弁は
1.8.2
かやうの御供(おほんとも)にも(おも)ひかけず(なが)(いのち)いとつらくおぼえはべるを、(ひと)もゆゆしく見思(みおも)ふべければ、(いま)()にあるものとも(ひと)()られはべらじ」
「このようなお供にも、思いもかけず長生きがつらく思われますが、人も不吉に見たり思ったりするにちがいないでしょうから、今は世に生きている者とも人に知られますまい」
中の君の移る二条の院へ従って行こうとも思わず、さまざまのことに出あって自身の長生きするのを恨めしい気がするし、人が見ても無気味な老女と思うであろうから、もう自分は存在しないものと思われるように
1.8.3
とて、容貌(かたち)()へてけるをしひて()()でて、いとあはれと()たまふ。
(れい)の、昔物語(むかしものがたり)などせさせたまひて、
と言って、出家をしていたのを、しいて召し出して、まことにしみじみと御覧になる。
いつものように、昔の思い出話などをおさせになって、
と言って、尼になっていた。そして引きこもっていた部屋(へや)から薫はしいて呼び出して、哀れに変わった面影のその人を見た。いつものように大姫君の話を薫はして、
1.8.4
ここには、なほ時々(ときどき)(まゐ)()べきをいとたつきなく心細(こころぼそ)かるべきに、かくてものしたまはむは、いとあはれにうれしかるべきことになむ」
「ここには、やはり、時々参りましょうが、まことに頼りなく心細いので、こうしてお残りになるのは、まことにしみじみとありがたく嬉しいことです」
「ここへは今後も時々私は来るつもりなのですが、知った人がいなくなっては心細いのに、あなたがあとへ残ってくれるのは非常にうれしい」
1.8.5
など、えも()ひやらず()きたまふ。
などと、最後まで言い終わらずにお泣きになる。
など皆も言うことができず泣いてしまった。
1.8.6
(いと)ふにはえて()びはべる(いのち)のつらく、またいかにせよとて、うち()てさせたまひけむ(うら)めしく、なべての()(おも)ひたまへ(しづ)むに(つみ)もいかに(ふか)くはべらむ」
「厭わしく思えば思うほど長生きをする寿命がつらく、またどう生きよといって、先に逝っておしまいになったのか、と恨めしく、この世のすべてを情けなく思っておりますので、罪もどんなにか深い事でございましょう」
「世の中をいとえばいとうほど延びてまいります命も恨めしゅうございますし、また私をどうなれとお思いになって、捨ててお死にになったのかと女王(にょおう)様も恨めしゅうございまして、人生に対して片意地になっておりますのも罪の深いことと思われましてね」
1.8.7
と、(おも)ひけることどもを(うれ)へかけきこゆるも、かたくなしげなれどいとよく()(なぐさ)めたまふ
と、思っていたことをお訴え申し上げるのも、愚痴っぽいが、とてもよく言い慰めなさる。
と、尼になるまでの気持ちを弁の訴えるのも老いた女らしく一徹に聞こえるのであったが、薫はよく言い慰めていた。
1.8.8
いたくねびにたれど、(むかし)、きよげなりける名残(なごり)()()てたれば、(ひたひ)のほど、様変(さまか)はれるに、すこし(わか)くなりて、さる(かた)(みや)びかなり。
たいそう年をとっているが、昔、美しかった名残の黒髪を削ぎ落としたので、額の具合、変わった感じに少し若くなって、その方面の身としては優美である。
非常に年は取っているが、昔の日に美しかった名残(なごり)の髪を切り捨て後ろ()きの尼額になったために、かえって少し若く見え雅味があるようにも思われた。
1.8.9
(おも)ひわびては、などかかる(さま)にもなしたてまつらざりけむ。
それに()ぶるやうもやあらまし
さても、いかに心深(こころふか)(かた)らひきこえてあらまし」
「思いあぐねた果てに、どうしてこのような尼姿にして差し上げなかったのだろう。
それによって寿命が延びるようなこともあったろうに。
そうして、どんなに親密に語らい申し上げられたろうに」
故人の恋しさに堪えない心から、なぜあの人の望みどおりに尼にさせなかったのであろう、そしたならあるいは命が助かっていたかもしれぬではないか、そして二人して御仏(みほとけ)に仕え、ますますこまやかな交情を作っていきたかった、
1.8.10
など、一方(ひとかた)ならずおぼえたまふに、この(ひと)さへうらやましければ、(かく)ろへたる几帳(きちゃう)をすこし()きやりて、こまかにぞ(かた)らひたまふ。
げに、むげに(おも)ひほけたるさまながら、ものうち()ひたるけしき、用意(ようい)口惜(くちを)しからずゆゑありける(ひと)名残(なごり)()えたり。
などと、一方ならず思われなさると、この人までが羨ましいので、隠れている几帳を少し引いて、こまやかに語らいなさる。
なるほど、すっかり悲しみに暮れている様子だが、何か言う態度、心づかいは、並々でなく、嗜みのあった女房の面影が残っていると見えた。
とこんなことさえ思われる薫には、弁の尼姿さえうらやまれてきて、身体(からだ)を隠すようにしている几帳(きちょう)を少し横へ引きやって、親しみ深くいろいろな話をした。見た所はぼけたようではあるが、ものを言う気配(けはい)などに洗練された跡が見え、美しい若い日を持っていたことが想像される。
1.8.11 「先に立つ涙の川に身を投げたら
死に後れしなかったでしょうに」
さきに立つ涙の川に身を投げば
人におくれぬ命ならまし
1.8.12
と、うちひそみ()こゆ。
と、泣き顔になって申し上げる。
悲しそうな表情で弁の尼は言った。
1.8.13
それもいと罪深(つみふか)かなることにこそ。
かの(きし)(いた)ること、などか。
さしもあるまじきことにてさへ、(ふか)(そこ)(しづ)()ぐさむもあいなし。
すべて、なべてむなしく(おも)ひとるべき()になむ」
「それもとても罪深いことです。
彼岸に辿り着くことは、どうしてできようか。
それ以外のことであってさえも、深い悲しみの底に沈んで生きてゆくのもつまらない。
すべて、皆無常だと悟るべき世の中なのです」
「それも罪の深いことになるのですよ、そんな死に方をしては極楽へ行けることがまれで、そして暗い中有(ちゅうう)に長くいなければならなくなるのもつまりませんよ、いっさい(くう)とあきらめるのがいちばんいいのですよ」
1.8.14
などのたまふ。
などとおっしゃる。
とも薫は教えた。
1.8.15 「身を投げるという涙の川に沈んでも
恋しい折々を忘れることはできまい
「身を投げん涙の川に沈みても
恋しき瀬々に忘れしもせじ
1.8.16
いかならむ()すこしも(おも)(なぐさ)むることありなむ」
いつになったら、少しは思いが慰むことがあろうか」
どんな時が来れば少しでも心の慰むことが発見されるのだろう」
1.8.17 と、終わりのない気がなさる。
と薫は言い、終わりもない哀愁をいだかせられる気持ちがした。
1.8.18
(かへ)らむ(かた)もなく(なが)められて、()()れにけれど、すずろに旅寝(たびね)せむも、(ひと)のとがむることやとあいなければ、(かへ)りたまひぬ。
帰る気にもなれず物思いに沈んで、日も暮れてしまったが、わけもなく外泊するのも、人が咎めることであろうかと、仕方ないので、お帰りになった。
帰って行く気もせず物思いを続けているうちに日も暮れたが、このまま泊まっていくことは人の疑いを招くことになりやすいからと思い帰京した。

第九段 弁の尼、中君と語る

1.9.1
(おも)ほしのたまへるさまを(かた)りて、(べん)は、いとど(なぐさ)めがたくくれ(まど)ひたり。
皆人(みなひと)(こころ)ゆきたるけしきにてもの()ひいとなみつつ、()いゆがめる容貌(かたち)()らず、つくろひさまよふに、いよいよやつして
お悲しみなっておっしゃっていたご様子を話して、弁は、ますます慰めがたく悲しみに暮れていた。
女房たちは満足そうな様子で、衣類を縫い用意しながら、年老いた容貌も気にせず、身づくろいにうろうろしている中で、ますます質素にして、
源中納言の悲しんでいた様子を中の君に語って、弁はいっそう慰めがたいふうになっていた。他の女房たちは楽しいふうで、明日の用意に物を縫うのに夢中になっていたり、老いて醜くなった顔に化粧をして座敷の中を行き歩いていたりしている一方で弁は、いよいよ世捨て人らしいふうを見せて、
1.9.2 「人びとは皆準備に忙しく繕い物をしているようですが
一人藻塩を垂れて涙に暮れている尼の私です」
人は皆いそぎ立つめる袖のうらに
一人もしほをたるるあまかな
1.9.3
(うれ)へきこゆれば、
と訴え申し上げると、
と中の君へ訴えた。
1.9.4 「藻塩を垂れて涙に暮れるあなたと同じです
浮いた波に涙を流しているわたしは
「しほたるるあまの衣に異なれや
うきたる波に()るる我が袖
1.9.5
()()みつかむこともいとありがたかるべきわざとおぼゆれば、さまに(したが)ひて、ここをば()()てじとなむ(おも)ふを、さらば対面(たいめん)もありぬべけれど、しばしのほども、心細(こころぼそ)くて()ちとまりたまふを()おくに、いとど(こころ)もゆかずなむ
かかる容貌(かたち)なる(ひと)も、かならずひたぶるにしも()()もらぬわざなめるを、なほ()(つね)(おも)ひなして、時々(ときどき)()えたまへ
結婚生活に入ることも、とてもできそうにないことと思われるので、事情によっては、ここを荒れはてさせまいと思うが、そうしたらお会いすることもありましょうが、暫くの間も、心細くお残りになるのを見ていると、ますます気が進みません。
このような尼姿の人も、必ずしも引き籠もってばかりいないもののようですので、やはり世間一般の人のように考えて、時々会いに来てください」
世間へ出て人並みな幸福な生活が続けていけるとは思われないのだから、ことによってはここをまた最後の隠れ家として私は帰って来るつもりだから、そうなればまたあなたに()うこともできますが、しばらくでも別れ別れになって、寂しいあなたの残るのを捨てていくかと思うと、私の進まない心はいっそう進まなくなります。あなたのような姿になった人だっても、絶対に人づきあいをしないものではないようなのですからね、そうした人と同じ気持ちになって、時々は私の所へも来てください」
1.9.6
など、いとなつかしく(かた)らひたまふ。
(むかし)(ひと)もてつかひたまひしさるべき御調度(みてうど)どもなどは、(みな)この(ひと)にとどめおきたまひて、
などと、とてもやさしくお話しになる。
亡き姉君がお使いになったしかるべきご調度類などは、みなこの尼にお残しになって、
などと女王はなつかしいふうに話していた。大姫君の使っていて、なお用に立つような手道具類は皆この人へのこしておくことに中の君はした。
1.9.7
かく、(ひと)より(ふか)(おも)(しづ)みたまへるを()れば、(さき)()も、()()きたる(ちぎ)りもや、ものしたまひけむと(おも)ふさへ、(むつ)ましくあはれになむ」
「このように、誰よりも深く悲しんでおいでなのを見ると、前世からも、特別の約束がおありだっただろうかと思うのまでが、慕わしくしみじみ思われます」
「だれよりも深くお姉様を悲しんでいてくれるあなたを見ると、深い縁が前生からあったのではなかろうかと、こんなことも思われて特別なものにあなたが見えます」
1.9.8
とのたまふに、いよいよ(わらは)べの()ひて()くやうに、(こころ)をさめむ(かた)なくおぼほれゐたり。
とおっしゃると、ますます子供が親を慕って泣くように、気持ちを抑えることができず涙に沈んでいた。
こんなことを言われて、いよいよ弁の尼は子供が母を恋しがって泣くように泣く。自身の気持ちをおさえる力も今はないように見えた。

第二章 中君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる


第一段 中君、京へ向けて宇治を出発

2.1.1
(みな)かき(はら)ひ、よろづとりしたためて、御車(みくるま)ども()せて御前(おまへ)(ひと)びと、四位五位(しゐごゐ)いと(おほ)かり。
(おほん)みづからもいみじうおはしまさまほしけれど、ことことしくなりて、なかなか()しかるべければ、ただ(しの)びたるさまにもてなして、(こころ)もとなく(おぼ)さる。
すっかり掃除し、何もかも始末して、お車を何台も寄せて、ご前駆の供人は、四位五位がたいそう多かった。
ご自身でも、ひどくおいでになりたかったが、仰々しくなって、かえって不都合なことになるので、ただ内密に計らって、気がかりにお思いになる。
山荘の中はきれいに片づき、荷物はできて、中の君の乗用車、その他の車が廊に寄せられた。前駆を勤める人の中に四位や五位が多かった。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮御自身でも非常に迎えにおいでになりたかったのであるが、たいそうになってはかえって悪いであろうと、微行の形で新婦をお迎えになることを計らわれたのであって、心配には思召(おぼしめ)された。
2.1.2
中納言殿(ちうなごんどの)よりも、御前(おまへ)(ひと)数多(かずおほ)くたてまつれたまへり。
おほかたのことをこそ(みや)よりは(おぼ)しおきつめれ、こまやかなるうちうちの御扱(おほんあつか)ひは、ただこの殿(との)より、(おも)()らぬことなく(とぶ)らひきこえたまふ。
中納言殿からも、ご前駆の供人を、数多く差し上げなさっていた。
だいたいのことは、宮からの指示があったようだが、こまごまとした内々のお世話は、ただこの殿から、気のつかないことのなくお計らい申し上げなさる。
源中納言のほうからも前駆を多人数よこしてあった。だいたいのことだけは兵部卿の宮が手落ちなくお計りになったのであるが、こまごまとした入り用の物、費用などは皆(かおる)が贈ったのであった。
2.1.3
日暮(ひく)れぬべしと、(うち)にも()にも、もよほしきこゆるに、(こころ)あわたたしく、いづちならむと(おも)ふにもいとはかなく(かな)しとのみ(おも)ほえたまふに、御車(みくるま)()大輔(たいふ)(きみ)といふ(ひと)()ふ、
日が暮れてしまいそうだと、内からも外からも、お促し申し上げるので、気ぜわしく、京はどちらの方角だろうと思うにも、まことに頼りなく悲しいとばかり思われなさる時に、お車に同乗する大輔の君という女房が言うには、
出立が早くできないでは日が暮れると女房らも言い、迎えの人たちも促すために、中の君はあわただしくて、今から行く所がどんな所かと思うことで不安な落ち着かぬ悲しい気持ちを抱きながら車上の人になった。大輔(たゆう)という女房が、
2.1.4 「生きていたので嬉しい事に出合いました
身を厭いて宇治川に投げてしまいましたら」
ありふればうれしき瀬にも()ひけるを
身を宇治川に投げてましかば
2.1.5
うち()みたるを、(べん)(あま)(こころ)ばへにこよなうもあるかな」と、(こころ)づきなうも()たまふ。
いま一人(ひとり)
ほほ笑んでいるのを、「弁の尼の気持ちと比べて、何という違いだろうか」と、気にくわなく御覧になる。
もう一人の女房が、
と言って、笑顔(えがお)をしているのを見ては、弁の尼の心境とはあまりにも相違したものであると中の君はうとましく思った。もう一人の女房、
2.1.6 「亡くなった方を恋しく思う気持ちは忘れませんが
今日は何をさしおいてもまず嬉しく存じられます」
過ぎにしが恋しきことも忘れねど
今日はた()づも行く心かな
2.1.7
いづれも年経(としへ)たる(ひと)びとにて、(みな)かの御方(おほんかた)をば心寄(こころよ)せまほしくきこえためりしを、(いま)はかく(おも)(あらた)めて言忌(こといみ)するも心憂(こころう)()や」とおぼえたまへば、ものも()はれたまはず。
どちらも年老いた女房たちで、みな亡くなった方に、好意をお寄せ申し上げていたようなのに、今はこのように気持ちが変わって言忌するのも、「世の中は薄情な」と思われなさると、何もおっしゃる気になれない。
この二人はどちらも長くいた年寄りの女房で、皆大姫君付きになるのを希望した者であったが、利己的に主人を変えて、今日は縁起のよいことより言ってはならぬと言葉を慎んでいるのもいやな世の中であると思う中の君はものも言われなかった。
2.1.8
(みち)のほどの(はる)けくはげしき山路(やまみち)のありさまを()たまふにぞ、つらきにのみ(おも)ひなされし(ひと)御仲(おほんなか)(かよ)ひをことわりの()()なりけり」と、すこし(おぼ)()られける。
七日(なぬか)(つき)のさやかにさし()でたる(かげ)をかしく(かす)みたるを()たまひつつ、いと(とほ)きに、ならはず(くる)しければ、うち(なが)められて、
道中は、遠く険しい山道の様子を御覧になると、つらくばかり恨まれた方のお通いを、「しかたのない途絶えであった」と、少しは理解されなさった。
七日の月が明るく照り出した光が、美しく霞んでいるのを御覧になりながら、たいそう遠いので、馴れないことでつらいので、つい物思いなさって、
道の長くてけわしい山路であるのをはじめて知り、恨めしくばかり思った宮の通い路の途絶えも無理のない点もあるように思うことができた。白く出た七日の月の(かす)んだのを見て、遠い(みち)()れぬ女王(にょおう)は苦しさに歎息(たんそく)しながら、
2.1.9 「考えると山から出て昇って行く月も
この世が住みにくくて山に帰って行くのだろう」
ながむれば山より()でて行く月も
世に住みわびて山にこそ入れ
2.1.10
様変(さまか)はりてつひにいかならむとのみ、あやふく、()(すゑ)うしろめたきに、(とし)ごろ(なに)ごとをか(おも)ひけむとぞ、()(かへ)さまほしきや
生活が変わって、結局はどのようになるのだろうかとばかり、不安で、将来が気になるにつけても、今までの物思いは何を思っていたのだろうと、昔を取り返したい思いであるよ。
と口ずさまれるのであった。変わった境遇へこうして移って行ってそのあとはどうなるであろうとばかり(あや)ぶまれる思いに比べてみれば、今までのことは煩悶(はんもん)の数のうちでもなかったように思われ、昨日(きのう)の世に帰りたくも思われた。

第二段 中君、京の二条院に到着

2.2.1
(よひ)うち()ぎてぞおはし()きたる。
()()らぬさまに、()もかかやくやうなる殿造(とのづく)りの、()つば()つばなる(なか)()()れて(みや)いつしかと()ちおはしましければ御車(みくるま)のもとに、みづから()らせたまひて()ろしたてまつりたまふ。
宵が少し過ぎてお着きになった。
見たこともない様子で、光り輝くような殿造りで、三棟四棟と建ち並んだ邸内にお車を引き入れて、宮は、早く早くとお待ちになっていたので、お車の側に、ご自身お寄りあそばしてお下ろし申し上げなさる。
十時少し過ぎごろに二条の院へ着いた。まぶしい見も知らぬ宮殿の幾つともなく(むね)の別れた中門の中へ車は引き入れられ、そのころもう時を計って宮は待っておいでになったのであったから、車の所へ御自身でお寄りになり、夫人をお抱きおろしになった。
2.2.2
(おほん)しつらひなど、あるべき(かぎ)りして女房(にょうばう)局々(つぼねつぼね)まで、御心(みこころ)とどめさせたまひけるほどしるく()えて、いとあらまほしげなり。
いかばかりのことにかと()えたまへる(おほん)ありさまのにはかにかく(さだ)まりたまへばおぼろけならず(おぼ)さるることなめり」と、世人(よひと)(こころ)にくく(おも)ひおどろきけり。
お部屋飾りなども、善美を尽くして、女房の部屋部屋まで、お心配りなさっていらしたことがはっきりと窺えて、まことに理想的である。
どの程度の待遇を受けるのかとお考えになっていたご様子が、急にこのようにお定まりになったので、「並々ならないご愛情なのだろう」と、世間の人びともどのような人かと驚いているのであった。
夫人の居間の装飾の輝くばかりであったことは言うまでもないが、女房の部屋部屋にまで宮の御注意の行き届いた跡が見え、理想的な新婦の住居(すまい)が中の君を待っていたのである。
 宮がどの程度に愛しておいでになるのか、(しょう)としてか、情人としての御待遇があるかと世間で見ていた八の宮の姫君はこうしてにわかに兵部卿親王の夫人に定まってしまったのを見て、深くお愛しになっているに違いないと世間も中の君をりっぱな女性として認め、かつ驚いた。
2.2.3
中納言(ちうなごん)は、三条(さんでう)(みや)に、この二十余日(にじふよにち)のほどに(わた)りたまはむとて、このころは日々(ひび)におはしつつ()たまふにこの院近(ゐんちか)きほどなればけはひも()かむとて、夜更(よふ)くるまでおはしけるにたてまつれたまへる御前(おまへ)(ひと)びと(かへ)(まゐ)りて、ありさまなど(かた)りきこゆ。
中納言は、三条宮邸に、今月の二十日過ぎにお移りになろうとして、最近は毎日いらっしゃっては御覧になっているが、この院が近い距離なので、様子も聞こうとして、夜の更けるまでいらっしゃったが、差し向けなさっていた御前の人々が帰参して、有様などをお話し申し上げる。
源中納言はこの二十日ごろに三条の宮へ移ることにしたいと思い、このごろは毎日そこへ来ていろいろな指図(さしず)をしていたのであるが、二条の院に近接した所であったから、中の君の着く夜の気配(けはい)をよそながら知りたく思い、その日は夜がふけるまで、まだ人の住まぬ新築したばかりの家にとどまっているうちに、迎えに出した前駆の人たちが帰って来て、いろいろ報告した。
2.2.4
いみじう御心(みこころ)()りてもてなしたまふなるを()きたまふにも、かつはうれしきものから、さすがに、わが(こころ)ながらをこがましく、(むね)うちつぶれて、ものにもがなや」と、(かへ)(がへ)(ひと)りごたれて、
ひどくお気に召して大切にしていらっしゃるというのをお聞きになるにつけても、一方では嬉しく思われるが、やはり、自分の考えながら馬鹿らしく、胸がどきどきして、「取り返したいものだ」と、繰り返し独り言が出てきて、
兵部卿の宮が御満足なふうで新婦を御大切にお扱いになる御様子であるということを聞く薫は、うれしい気のする一方ではさすがに、自身の心からではあったが得べき人を他へ行かせてしまったことの後悔が苦しいほど胸につのってきて、取り返し得ることはできぬものであろうかと、こんなうめきに似た独言(ひとりごと)も口から出た。
2.2.5 「しなてる琵琶湖の湖に漕ぐ舟のように
まともではないが一夜会ったこともあったのに」
しなてるやにほの湖に()ぐ船の
真帆(まほ)ならねども相見しものを
2.2.6 とけちをつけたくもなる。
とあの夜のことでちょっと悪く言ってみたい気もした。

第三段 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す

2.3.1
(みぎ)大殿(おほとの)は、(ろく)(きみ)(みや)にたてまつりたまはむこと、この(つき)にと(おぼ)(さだ)めたりけるに、かく(おも)ひの(ほか)(ひと)を、このほどより(さき)にと(おぼ)(がほ)にかしづき()ゑたまひて、(はな)れおはすれば、いとものしげに(おぼ)したり()きたまふも、いとほしければ、御文(おほんふみ)時々(ときどき)たてまつりたまふ
右の大殿は、六の君を宮に差し上げなさることを、今月にとお決めになっていたのに、このように意外な人を、婚儀より先にと言わんばかりに大事にお迎えになって、寄りつかずにいらっしゃるので、「たいそうご不快でおいでだ」とお聞きになるのも、お気の毒なので、お手紙は時々差し上げなさる。
左大臣は六の君を兵部卿の宮に奉るのを、この二月にと思っていた所へ、こうした意外な人をそれより先にというように夫人として堂々とお迎えになり、二条の院にばかりおいでになるようになったのを見て、不快がっているということをお聞きになっては、また気の毒にお思われになる兵部卿の宮は手紙だけを時々六の君へ送っておいでになった。
2.3.2
御裳着(おほんもぎ)のこと()(ひび)きていそぎたまへるを、()べたまはむも人笑(ひとわら)へなるべければ、二十日(はつか)あまりに()せたてまつりたまふ。
御裳着の儀式を、世間の評判になるほど盛大に準備なさっているのを、延期なさるのも物笑いになるにちがいないので、二十日過ぎにお着せ申し上げなさる。
裳着(もぎ)の式の派手(はで)に行なわれることがすでに世間の(うわさ)にさえなっていたから、日を延ばすのも見苦しいことに思われて二十幾日にその式はしてしまった。
2.3.3
(おな)じゆかりにめづらしげなくとも、この中納言(ちうなごん)をよそ(びと)(ゆづ)らむが口惜(くちを)しきに、
同じ一族で変わりばえがしないが、この中納言を他人に譲るのが残念なので、
一家の内輪どうしの中の縁組みは感心できぬものであるが、薫の中納言だけは他家の婿に取らせることは惜しい、
2.3.4
さもやなしてまし
(とし)ごろ人知(ひとし)れぬものに(おも)ひけむ(ひと)をも()くなして、もの心細(こころぼそ)くながめゐたまふなるを」
「婿君としようか。
長年人知れず恋い慕っていた人を亡くして、何となく心細く物思いに沈んでいらっしゃるというから」
六の君を改めてその人に(めと)らせようか、長く秘密にしていた宇治の愛人を失って憂鬱(ゆううつ)になっているおりからでもあるから
2.3.5
など(おぼ)()りて、さるべき(ひと)してけしきとらせたまひけれど
などとお考えつきになって、しかるべき人を介して様子を窺わせなさったが、
と左大臣は思って、ある人に薫の意向を聞かせてみたが、
2.3.6
()のはかなさを()(ちか)()しに、いと心憂(こころう)く、()もゆゆしうおぼゆれば、いかにもいかにも、さやうのありさまはもの()くなむ」
「世の無常を目の前に見たので、まことに気が塞いで、身も不吉に思われますので、何としても何としても、そのようなことは気が進みません」
人生のはかなさを実証したことに最近()った自分は、結婚のことなどを思うことはできぬ
2.3.7
と、すさまじげなるよし()きたまひて、
と、その気のない旨をお聞きになって、
と相手にせぬ様子を聞き、
2.3.8
いかでか、この(きみ)さへおほなおほな言出(ことい)づることを、もの()くはもてなすべきぞ」
「どうして、この君までが、真剣になって申し出る言葉を、気乗りしなくあしらってよいものか」
どうして中納言までが懇切に自分のほうから言いだしたことに気のないような返辞をするのであろう
2.3.9
(うら)みたまひけれど、(した)しき御仲(おほんなか)らひながらも、(ひと)ざまのいと心恥(こころは)づかしげにものしたまへば、えしひてしも()こえ(うご)かしたまはざりけり。
と恨みなさったが、親しいお間柄ながらも、人柄がたいそう気のおける方なので、無理にお勧め申し上げなさることができなかった。
と、一時は恨んだものの、兄弟ではあっても敬服せずにおられぬところの備わった薫に、しいて六の君を娶らせることは断念した。

第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る

2.4.1 花盛りのころ、二条院の桜を御覧になると、主人のいない山荘がさっそく思いやられなさるので、「気兼ねもなく散るのではないか」などと、独り口ずさみ思い余って、宮のお側に参上なさった。
陽春の花盛りになって、薫は近い二条の院の桜の(こずえ)を見やる時にも「あさぢ原主なき宿のさくら花心やすくや風に散るらん」と宇治の山荘が思いやられて恋しいままに、匂宮(におうみや)をお訪ねしに行った。
2.4.2
ここがちにおはしましつきて、いとよう()()れたまひにたれば、「めやすのわざや」と()たてまつるものから(れい)の、いかにぞやおぼゆる(こころ)()ひたるぞ、あやしきや
されど、(じち)御心(みこころ)ばへはいとあはれにうしろやすくぞ(おも)ひきこえたまひける。
こちらにばかりおいでになって、たいそうよく住みなれていらっしゃるので、「安心ことだ」と拝見するものの、例によって、どうかと思われる心が混じるのは、妙なことであるよ。
けれども、本当のお気持ちは、とてもうれしく安心なことだとお思い申し上げなさるのであった。
宮はおおかたここにおいでになるようになって、貴人の夫人らしく中の君も住み()れたのを見て、その人の幸福を喜びながらも怪しいあこがれの心はそれにも消されなかった。ますます中の君が恋しくなっていく。しかし本心は親切で、中の君を深く庇護(ひご)しなければならぬことを忘れなかった。
2.4.3
(なに)くれと御物語聞(おほんものがたりき)こえ()はしたまひて(ゆふ)(かた)(みや)内裏(うち)(まゐ)りたまはむとて、御車(みくるま)装束(さうぞく)して、(ひと)びと(おほ)(まゐ)(あつ)まりなどすれば、()()でたまひて(たい)御方(おほんかた)(まゐ)りたまへり。
何やかやとお話を申し上げなさって、夕方、宮は宮中へ参内なさろうして、お車の設えをさせて、お供の人びとが大勢集まって来たりなどしたので、お出になって、対の御方へ参上なさった。
宮と薫は何かとお話をし合っていたが、夕方に宮は御所へおいでになろうとして、車の仕度(したく)がなされ、前駆などが多く集まって来たりしたために、客殿を立って西の対の夫人の所へ薫はまわって行った。
2.4.4
山里(やまざと)のけはひ、ひきかへて、御簾(みす)のうち(こころ)にくく()みなして、をかしげなる(わらは)の、透影(すきかげ)ほの()ゆるして御消息聞(おほんせうそこき)こえたまへれば、御茵(おほんしとね)さし()でて、(むかし)心知(こころし)れる(ひと)なるべし()()御返(おほんかへ)()こゆ。
山里の様子とは、うって変わって、御簾の中で奥ゆかしく暮らして、かわいらしい童女の、透影がちらっと見えた子を介して、ご挨拶申し上げなさると、お褥を差し出して、昔の事情を知っている人なのであろう、出て来てお返事を申し上げる。
山荘の寂しい生活をしていた時に変わり、御簾(みす)の内のゆかしさが思われるような、落ち着いた高華な夫人の住居(すまい)がここに営まれていた。美しい童女の透き影の見えるのに声をかけて、中の君へ消息を取り次がせると、(しとね)が出され、宇治時代からの女房で薫を知ったふうの人が来て返辞を伝えた。薫は、
2.4.5
朝夕(あさゆふ)(へだ)てもあるまじう(おも)うたまへらるるほどながら、そのこととなくて()こえさせむも、なかなかなれなれしきとがめやと、つつみはべるほどに、()中変(なかか)はりにたる心地(ここち)のみぞしはべるや。
御前(おまへ)(こずゑ)霞隔(かすみへだ)てて()えはべるにあはれなること(おほ)くもはべるかな」
「朝夕の区別もなくお訪ねできそうに存じられます近さですが、特に用事もなくてお邪魔いたすのも、かえってなれなれしいという非難を受けようかと、遠慮しておりましたところ、世の中が変わってしまった気ばかりがしますよ。
お庭先の梢も霞を隔てて見えますので、胸の一杯になることが多いですね」
「始終お近い所に住んでおりながら、何と申す用がなくて伺いますことは、なれなれしすぎたことだとかえってお(とが)めを受けることになるかもしれませぬと御遠慮をしておりますうちに、世界も変わってしまいましたようになりました。お庭の木の梢も(かすみ)越しに見ているのですから、身にしむ気のする時も多いのです」
2.4.6
()こえて、うち(なが)めてものしたまふけしき、心苦(こころぐる)しげなるを、
と申し上げて、物思いに耽っていらっしゃる様子、お気の毒なのを、
と取り次がせた、物思わしそうにしている薫の姿の気の毒なのを中の君は見て、
2.4.7
げに、おはせましかばおぼつかなからず()(かへ)り、かたみに(はな)(いろ)(とり)(こゑ)をも、(をり)につけつつ、すこし(こころ)ゆきて()ぐしつべかりける()を」
「おっしゃるとおり、生きていらしたら、何の気兼ねもなく行き来して、お互いに花の色や、鳥の声を、季節折々につけては、少し心をやって過すことができたのに」
あの人が惜しむどおりに大姫君が生きていて、あの人の所に迎えられておれば、近い家のことで、始終消息ができ、花鳥につけても少し(たの)しい日送りができたであろうが
2.4.8
など、(おぼ)()づるにつけてはひたぶるに()()もりたまへりし()まひの心細(こころぼそ)よりも、()かず(かな)しう、口惜(くちを)しきことぞ、いとどまさりける。
などと、お思い出しなさるにつけて、一途に引き籠もって生活していらした心細さよりも、ひたすら悲しく、残念なことが、いっそうつのるのであった。
などと、姉君を思い出すと、忍耐そのものが生活であったような宇治の時のほうが、かえって悲しみも忍びよかったように思われ、故人の恋しさのつのるばかりであった。

第五段 匂宮、中君と薫に疑心を抱く

2.5.1
(ひと)びとも、
女房たちも、
女房たちも、
2.5.2
()(つね)に、ことことしくなもてなしきこえさせたまひそ。
(かぎ)りなき御心(みこころ)のほどをば(いま)しもこそ、()たてまつり()らせたまふさまをも()えたてまつらせたまふべけれ」
「世間一般の人のように、仰々しくお扱い申し上げなさいますな。
この上ないご好意を、今こそ、拝見しご存知あそばしている様子を、お見せ申し上げる時です」
「世間の習いどおりに、うとうとしくあの方様をお扱いになってはなりませぬ。今こうおなりあそばしてからこそ、あの方様の御親切の並み並みでないことがおわかりになった御感謝の心をお見せあそばすべきでございます」
2.5.3
など()こゆれど、人伝(ひとづ)てならず、ふとさし()()こえむことの、なほつつましきを、やすらひたまふほどに、(みや)()でたまはむとて(おほん)まかり(まう)しに(わた)りたまへり。
いときよらにひきつくろひ化粧(けさう)じたまひて、()るかひある(おほん)さまなり。
などと申し上げるが、人を介してではなく、直にお話し申し上げることは、やはり気が引けるので、ためらっていらっしゃるところに、宮が、お出かけになろうとして、お暇乞いの挨拶にお渡りになった。
たいそう美しく身づくろいし化粧なさって、見栄えのするお姿である。
こう言って勧めているのであったが、にわかに自身で話に出るようなことはなお恥ずかしくて中の君が躊躇(ちゅうちょ)をしている時に、お出かけになろうとする宮が、夫人に言葉をかけるためにこの西の対へおいでになった。きれいなお身なりで、化粧も施され、見て見がいのある宮様であった。
2.5.4 中納言はこちらに来ているのであった、と御覧になって、
薫のこちらに来ていたのを御覧になり、
2.5.5
などか、むげにさし(はな)ちては()だし()ゑたまへる
(おほん)あたりには、あまりあやしと(おも)ふまでうしろやすかりし心寄(こころよ)せを。
わがためはをこがましきこともや、とおぼゆれどさすがにむげに(へだ)(おほ)からむは、(つみ)もこそ()れ。
(ちか)やかにて昔物語(むかしものがたり)もうち(かた)らひたまへかし」
「どうして、無愛想に遠ざけて、外にお座らせになっているのか。
あなたには、あまりにどうかと思われるまでに、行き届いたお世話ぶりでしたのに。
自分には愚かしいこともあろうか、と心配されますが、そうはいってもまったく他人行儀なのも、罰が当たろう。
近い所で、昔話を語り合いなさい」
「どうしてあんなによそよそしい席を与えていらっしゃるのですか。あなたがたの所へはあまりにしすぎると思うほどの親切を見せていた人なのだからね。私のためには多少それは危険を感ずべきことではあっても、あんなに冷遇すれば男はかえって反発的なことを起こすものですよ。近くへお呼びになって昔話でもしたらいいでしょう」
2.5.6 などと、申し上げなさるものの、
こんなことを夫人に言われたのであるが、また、
2.5.7
さはありともあまり(こころ)ゆるびせむも、またいかにぞや。
(うたが)はしき(した)(こころ)にぞあるや
「そうはいっても、あまり気を許すのも、またどんなものかしら。
疑わしい下心があるかもしれない」
「しかしあまり気を許して話し合うことはどうだろう。疑わしい心が下に見えますからね」
2.5.8
と、うち(かへ)しのたまへば、一方(ひとかた)ならずわづらはしけれどわが御心(みこころ)にも、あはれ(ふか)(おも)()られにし(ひと)御心(みこころ)を、(いま)しもおろかなるべきならねば、かの(ひと)(おも)ひのたまふめるやうに、いにしへの御代(おほんか)はりとなずらへきこえてかう(おも)()りけりと()えたてまつるふしもあらばや」とは(おぼ)せど、さすがに、とかくやと、かたがたにやすからず()こえなしたまへば(くる)しう(おぼ)されけり。
と、言い直しなさるので、どちらの方に対しても厄介だけれども、自分の気持ちも、しみじみありがたく思われた方のお心を、今さらよそよそしくすべきことでもないので、「あの方が思いもしおっしゃりもするように、故姉君の身代わりとお思い申して、このように分かりましたと、お表し申し上げる機会があったら」とはお思いになるが、やはり、何やかやと、さまざまに心安からぬことを申し上げなさるので、つらく思われなさるのだった。
ともお言いになったので、どうすればよいかわからぬようなめんどうさを中の君は感じた。自分にもまれな好意の寄せられたのを知っているのであったから、今の身になったからといって、うとうとしくできるものでない、あの人も言うように、姉君の代わりと見て、感謝している自分の心をあの人に見せうる機会があればよいと願っているがと中の君は思うものの、さすがに宮がとやかくと嫉妬(しっと)をあそばすのは苦しかった。
著作権
底本 大島本
校訂 Last updated 4/28/2011(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
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ローマ字版 Last updated 6/21/2011 (ver.2-1)
Written in Japanese roman letters
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挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 4/15/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)
2004年3月23日
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経
2005年5月20日

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