設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
薫 | かおる | 右大将 大将殿 大将 殿 君 |
源氏の子 |
匂宮 | におうのみや | 兵部卿宮 宮 |
今上帝の第三親王 |
今上帝 | きんじょうてい | 帝 内裏 当代 |
朱雀院の第一親王 |
明石中宮 | あかしのちゅうぐう | 大宮 后の宮 |
源氏の娘 |
夕霧 | ゆうぎり | 右の大殿 大殿 |
源氏の長男 |
紅梅大納言 | こうばいのだいなごん | 按察使大納言 |
致仕大臣の二男 |
女三の宮 | おんなさんのみや | 母宮 入道の宮 |
薫の母 |
女二の宮 | おんなにのみや | 姫宮 宮 帝の御かしづき女 当代の御かしづき女 |
今上帝の第二内親王 |
中君 | なかのきみ | 宮の上 宮の北の方 上 女君 君 |
八の宮の二女 |
浮舟 | うきふね | 姫君 御方 西の御方 君 |
八の宮の三女 |
左近少将 | さこんのしょうしょう | 左近の少将殿 少将殿 少将の君 少将 朝臣 |
浮舟への求婚者 |
中将の君 | ちゅうじょうのきみ | 常陸殿 母北の方 母君 母上 北の方 |
浮舟の母 |
常陸介 | ひたちのすけ | 常陸守 守 守の主 父主 |
浮舟の継父 |
第四十九帖 宿木 薫君の中、大納言時代二十四歳夏から二十六歳夏四月頃までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 薫と匂宮の物語 女二の宮や六の君との結婚話 |
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第一段 藤壺女御と女二の宮 |
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1.1.1 | そのころ、 まだ |
その当時、藤壷と申し上げた方は、故左大臣殿の女御でいらっしゃった。 が、まだ東宮と申し上げあそばしたとき、誰よりも先に入内なさっていたので、親しく情け深い御愛情は、格別でいらっしゃったらしいが、その甲斐があったと見えることもなくて長年お過ぎになるうちに、中宮におかれては、宮たちまでが大勢、成長なさっているらしいのに、そのようなことも少なくて、ただ女宮をお一方お持ち申し上げていらっしゃるのだった。 |
そのころ |
【そのころ、藤壺と聞こゆるは、故左大臣殿の女御になむおはしける】- 漠然とした過去をさし、物語を語り起こす常套句。「橋姫」巻にもある。この左大臣は系図不詳の人。その娘の三の君。今上帝(朱雀院の第一皇子)が東宮時代に入内し、藤壺女御と呼称された、という紹介。同じ後宮には明石中宮がいる。「なむ--ける」係結びの呼応。 【ものしたまふめれど】- 推量の助動詞「めり」語り手の主観的推量の意。 【そのしるしと見ゆるふしもなくて】- 立后の沙汰もなくて、という意。 【大人びたまふめるに】- ここの推量の助動詞「めり」も語り手の主観的推量の意。 【女宮一所をぞ】- 後文により「女二宮」とわかる。 |
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1.1.2 | わがいと |
自分の実に無念に、他人に圧倒され申した運命、嘆かしく思っている代わりに、「せめてこの宮だけでも、何とか将来に心も慰められるようにして差し上げたい」と、大切にお世話申し上げること並々でない。 ご器量もとても美しくおいでなので、帝もかわいいとお思い申し上げあそばしていらした。 |
自分が後宮の競争に失敗する悲しい運命を見たかわりに、この宮を長い将来にかけて唯一の慰安にするまでも完全な幸福のある方にしたいと女御は大事にかしずいていた。御 |
【わがいと口惜しく】- 以下「見たてまつらむ」まで、藤壺女御の心中。ただし始まりは、地の文が自然と心中文に移っていく叙述。 |
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1.1.3 | 女一の宮を、世に類のないほど大切にお世話申し上げあそばすので、世間一般の評判こそ及ぶべくもないが、内々の御待遇は、少しも劣らない。 父大臣のご威勢が、盛んであったころの名残が、たいして衰えてはいないので、特に心細いことなどはなくて、伺候する女房たちの服装や姿をはじめとして、気を抜くことなく、季節季節に応じて、仕立て好み、はなやかで趣味豊かにお暮らしになっていた。 |
中宮からお生まれになった |
【女一の宮】- 明石中宮腹の姫宮。 【こそ及ぶべうもあらね】- 係助詞「こそ」--「あらね」已然形、逆接用法。挿入句的。 |
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第二段 藤壺女御の死去と女二の宮の将来 |
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1.2.1 | 十四歳におなりになる年、御裳着の式をして差し上げようとして、春から準備して、余念なく御準備して、何事も普通でない様子にとお考えになる。 |
宮の十四におなりになる年に |
【十四になりたまふ年、御裳着せたてまつりたまはむとて】- 女二宮、十四歳の年に裳着の儀式を予定。主語は母藤壺女御。 |
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1.2.2 | いにしへより |
昔から伝わっていた宝物類、この機会にと、探し出しては探し出しては、大変な準備をなさっていらっしゃったが、女御が、夏頃に、物の怪に患いなさって、まことにあっけなくお亡くなりになってしまった。 言いようもなく残念なことと、帝におかせられてもお嘆きになる。 |
自家の祖先から伝わった宝物類も晴れの式に役だてようと捜し出させて、非常に熱心になっていた女御が、夏ごろから |
【いにしへより】- 以下「この折にこそは」まで、藤壺女御の心中の思い。 【夏ごろ、もののけにわづらひたまひて、いとはかなく亡せたまひぬ】- 夏と病気。この物語における主題と季節の類同的発想。 |
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1.2.3 | お心も情け深く、やさしいところがおありだった御方なので、殿上人たちも、「この上なく寂しくなってしまうことだなあ」と、惜しみ申し上げる。 一般の特に関係ない身分の女官などまでが、お偲び申し上げない者はいない。 |
優しい人であったため、殿上役人なども御所の内が寂しくなったように言って惜しんだ。直接の関係のなかった女官たちなども |
【心ばへ情け情けしく、なつかしきところおはしつる御方なれば】- 桐壺更衣の死去に類似。 【こよなくさうざうしかるべきわざかな】- 殿上人たちの嘆き。 |
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1.2.4 | 宮は、それ以上に若いお気持ちとて、心細く悲しみに沈んでいらっしゃるのを、お耳にあそばして、おいたわしくかわいそうにお思いあそばすので、御四十九日忌が過ぎると、早速に人目につかぬよう参内させなさった。 毎日、お渡りあそばしてお会い申し上げなさる。 |
女二の宮はまして若い |
【宮は、まして】- 女二の宮。 【聞こし召して】- 主語は帝。 【御四十九日過ぐるままに】- 副詞「ままに」、と同時に、とすぐにの意。 【日々に、渡らせたまひつつ見たてまつらせたまふ】- 帝が藤壺(飛香舎)にお越しあそばして、女二の宮にお目にかかりなさる、の意。 |
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1.2.5 | 黒い御喪服で質素にしていらっしゃる様子は、ますますかわいらしく上品な感じがまさっていらっしゃった。 お考えもすっかり一人前におなりになって、母女御よりも少し落ち着いて、重々しいところはまさっていらっしゃるのを、危なげのないお方だと御拝見あそばすが、実質的方面では、御母方といっても、後見役をお頼みなさるはずの叔父などといったようなしっかりとした人がいない。 わずかに大蔵卿、修理大夫などという人びとは、女御にとっても異母兄弟なのであった。 |
黒い喪服姿になっておいでになる宮は、いっそう |
【まさりたまへり】- 女二の宮が母藤壺女御より。 【叔父など】- 女御の兄弟。 【大蔵卿、修理大夫】- 大蔵卿は正四位下相当官、修理大夫は従四位下相当官である。 |
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1.2.6 | 特に世間の声望も重くなく、高貴な身分でもない人びとを後見人にしていらっしゃるので、「女性はつらいことが多くあるだろうことがお気の毒である」などと、お一人で御心配なさっているのも、大変なことであった。 |
格別世間から重んぜられてもいず地位の高くもない人を背景にしていることは女の身にとって不利な場合が多いであろうことが哀れであると、帝はただ一人の親となってこの宮のことに全責任のある気のあそばすのもお苦しかった。 |
【女は】- 以下「いとほしけれ」まで、帝の心中の思い。 【御心一つなるやうに思し扱ふも】- 帝が一人で心配しなければならないこと。 |
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第三段 帝,女二の宮を薫に降嫁させようと考える |
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1.3.1 | お庭先の菊がすっかり変色して盛んなころ、空模様が胸打つようにちょっと時雨するにつけても、まずこの御方にお渡りあそばして、故人のことなどをお話し申し上げあそばすと、お返事なども、おっとりしたものの、幼くはなく少しお答え申し上げるなさるのを、かわいらしいとお思い申し上げあそばす。 |
お庭の菊の花がまだ終わりがたにもならず盛りなころ、空模様も |
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1.3.2 | このようなご様子が分かるような人が、慈しみ申し上げるというのも、何の不都合があろうかと、朱雀院の姫宮を、六条院にお譲り申し上げなさった時の御評定などをお思い出しあそばすと、 |
こうした人の価値を認めて愛する |
【かやうなる御さまを】- 以下「などかはあらむ」あたりまで、帝の心中の思い。地の文と交互に叙述される。 【朱雀院の姫宮を、六条の院に譲りきこえたまひし折の定めどもなど】- 朱雀院は帝の父、女三宮は帝の異母兄妹、薫の母。 |
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1.3.3 | 「しばしは、いでや、 さらでもおはしなまし、と さらずは、 |
「暫くの間は、どんなものかしら、物足りないことだ。 降嫁などなさらなくてもよかったろうに、と申し上げる意見もあったが、源中納言が、誰よりも孝養ある様子で、いろいろとご後見申し上げているから、その当時のご威勢も衰えず、高貴な身分の生活でいらっしゃるのだ。 そうでなかったら、ご心外なことがらが出てきて、自然と人から軽んじられなさることもあったろうに」 |
あの当時は飽き足らぬことである、皇女は一人でおいでになるほうが神聖でいいとも世間で言ったものであるが、源中納言のようなすぐれた子をお持ちになり、それがついているために昔と変わらぬ世の尊敬も女三の宮が受けておいでになる事実もあるではないか、そうでなく独身でおいでになれば、弱い女性の身には、自発的のことでなく過失に |
【しばしは】- 以下「こともやあらまし」まで、再び帝の心中の思い。 【さらでも】- 降嫁させなくても、の意。 【源中納言の、人よりことなるありさまにて】- 『完訳』は「前述から反転して、降嫁して薫(源中納言)をもうけたからこそ、今の平穏な生活があると考え直す」と注す。 【後見たてまつるにこそ】- 係助詞「こそ」は「ながらへたまふめれ」に係る。『集成』は「過しておいでなのだろうが」と逆接に、『完訳』は「お暮しになっていらっしゃるようではないか」と強調のニュアンスに解釈。 【こともやあらまし】- 推量の助動詞「まし」、『集成』は「軽んじられなさることもあるかもしれない」と危惧の意に、『完訳』は「もしかして世間から軽い扱いをお受けになるようなこともおありになったかもしれない」と反実仮想の意に解す。 |
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1.3.4 | などと、お思い続けて、「いずれにせよ、在位中に決定しようかしら」とお考えになると、そのまま、順序に従って、この中納言より他に、適当な人は、またいないのであった。 |
と、こんなことを帝はお思い続けになって、ともかくも自分の位にいるうちに婿をきめておきたい、だれが好配偶者とするに足る人物であろうとお思いになると、その女三の宮の御子の源中納言以外に適当な婿はないということへ帝のお考えは帰着した。 |
【ともかくも、御覧ずる世にや思ひ定めまし】- 帝の心中。「御覧ずる」という敬語表現がまじる。推量の助動詞「まし」危惧の気持ちを表す。 【そのついでのままに】- 父朱雀院が内親王を源氏に降嫁させたのに従って、院の子である自分も内親王を源氏の子である薫に降嫁させる、の意。 |
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1.3.5 | 「 もとより さらぬ |
「宮たちの伴侶となったとして、何につけても目障りなことはあるまいよ。 もともと心寄せる人があっても、聞き苦しい噂は聞くこともなさそうだし、また、もしいても、結局は結婚しないこともあるまい。 本妻を持つ前に、それとなく当たってみよう」 |
内親王の |
【宮たちの御かたはらに】- 以下「さもやほのめかしてまし」まで、帝の心中の思い。「宮たち」は内親王方、の意。『完訳』は「薫は、もともと心寄せる人があっても女宮を冷遇するなど外聞の悪い扱いはすまい。宇治の姫君の噂を念頭に、薫を高く評価」と注す。 【つひにはさやうのことなくてしもえあらじ】- いずれは正妻を持つこと。 |
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1.3.6 | など、 |
などと、時々お考えになっているのであった。 |
とこんなことを帝は時々思召した。 |
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第四段 帝,女二の宮や薫と碁を打つ |
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1.4.1 | 御碁などをお打ちあそばす。 暮れて行くにしたがって、時雨が趣きあって、花の色も夕日に映えて美しいのを御覧になって、人を召して、 |
ある日帝は碁を打っておいでになった。暮れがたになり |
【時雨をかしきほどに】- 大島本は「程に」とある。『完本』は諸本に従って「ほどにて」と「て」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 |
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1.4.2 | 「ただ今、殿上間には誰々がいるか」 |
「今殿上の室にはだれとだれがいるか」 |
【ただ今、殿上には誰れ誰れか】- 帝の詞。 |
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1.4.3 | と |
とお問いあそばすと、 |
と、お尋ねになった。 |
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1.4.4 | 「中務親王、上野親王、中納言源朝臣が伺候しております」 |
「 |
【中務親王】- 以下「さぶらふ」まで、控の人の詞。中務親王、「東屋」巻の中務宮と同一人。明石中宮腹の親王か(細流抄)。上野親王は、系図不詳の親王。中納言源朝臣が薫の正式呼称。 |
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1.4.5 | と |
と奏上する。 |
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1.4.6 | 「中納言の朝臣こちらへ」 |
「中納言の朝臣をこちらへ」 |
【中納言朝臣こなたへ】- 帝の詞。薫を帝の御前に召す。 |
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1.4.7 | と仰せ言があって参上なさった。 なるほど、このように特別に召し出すかいもあって、遠くから薫ってくる匂いをはじめとして、人と違った様子をしていらっしゃった。 |
と、仰せがあって |
【げに、かく取り分きて】- 「げに」は語り手の感想の混じった表現。 |
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1.4.8 | 「今日の時雨は、いつもより格別にのんびりとしているが、音楽などは具合が悪い所なので、まことに所在ないが、何となく日を送る遊び事として、これがよいだろう」 |
「今日の |
【今日の時雨】- 以下「これなむよかるべき」まで、帝の詞。 【遊びなどすさまじき方にて】- ここは女二宮のいる藤壺の居所。服喪中なので音楽の遊びが遠慮される、という意。 【いたづらに日を送る戯れにて】- 『源氏釈』は「春を送ること唯酒有り日を銷すこと棊に過ぎず」(白氏文集巻十六、官舎閑題)を指摘。 |
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1.4.9 | とて、 いつもかやうに、 |
と仰せになって、碁盤を召し出して、御碁の相手に召し寄せる。 いつもこのように、お身近に親しくお召しになるのが習慣になっているので、「今日もそうだろう」と思うと、 |
と帝はお言いになって、碁盤をそばへお取り寄せになり、薫へ相手をお命じになった。いつもこんなふうに親しくおそばへお呼びになる習慣から、格別何でもなく薫が思っていると、 |
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1.4.10 | 「ちょうどよい賭物はありそうだが、軽々しくは与えることができないので、何がよかろう」 |
「よい |
【好き賭物はありぬべけれど】- 以下「何をかは」まで、帝の詞。「何をかは」の下に「好からむ」などの語句が省略。 |
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1.4.11 | などと仰せになるご様子は、どのように見えたのであろう、ますます緊張して控えていらっしゃる。 |
という仰せがあった。お心持ちを悟ったのか薫は平生よりも緊張したふうになっていた。 |
【いかが見ゆらむ】- 『完訳』は「語り手の推測の挿入句」と注す。 |
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1.4.12 | さて、 |
そうして、お打ちあそばすうちに、三番勝負に一つお負け越しあそばした。 |
碁の勝負で三番のうち二番を帝はお負けになった。 |
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1.4.13 | 「悔しいことだ」とおっしゃって、「まず、今日は、この花一枝を許す」 |
「くやしいことだ。まあ今日はこの庭の菊一枝を許す」 |
【ねたきわざかな】- 帝の詞。 【まづ、今日は、この花一枝許す】- 帝の詞。『完訳』は「いずれ女宮を許すが、まず今日のところは、の気持」と注す。『花鳥余情』は「聞き得たり園の中に花の艶を養ふことを君に請ふ一枝の春を折らむことを」(和漢朗詠集、恋、紀斉名)を指摘。 |
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1.4.14 | と仰せになったので、お返事を申し上げずに、降りて美しい枝を手折って持って昇がった。 |
このお言葉にお答えはせずに薫は |
【おもしろき枝を】- 菊の花の枝。 |
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1.4.15 | 「世間一般の家の垣根に咲いている花ならば 思いのままに手折って賞美すことができましょうものを」 |
世の常の 心のままに折りて見ましを |
【世の常の垣根に匂ふ花ならば--心のままに折りて見ましを】- 薫から帝への贈歌。「--ば--ましを」反実仮想の構文。高貴さゆえに遠慮してみせる。 |
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1.4.16 | と |
と奏上なさる、心づかいは浅くなく見える。 |
この歌を奏したのは思召しに添ったことであった。 |
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1.4.17 | 「霜に堪えかねて枯れてしまった園の菊であるが 残りの色は褪せていないな」 |
霜にあへず枯れにし園の菊なれど 残りの色はあせずもあるかな |
【霜にあへず枯れにし園の菊なれど--残りの色はあせずもあるかな】- 帝の返歌。「園の菊」を故藤壺女御に、「残りの色」を女二宮によそえる。 |
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1.4.18 | とのたまはす。 |
と仰せになる。 |
と帝は仰せられた。 |
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1.4.19 | このように、ときどき結婚をおほのめかしあそばす御様子を、人伝てでなく承りながら、例の性癖なので、急ごうとは思わない。 |
こんなふうにおりおりおほのめかしになるのを、直接薫は伺いながらも、この人の性質であるから、すぐに進んで出ようとも思わなかった。 |
【例の心の癖なれば】- 『集成』は「人と違って、何ごとにも悠長に構えるのが薫の性癖」と注す。 |
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1.4.20 | 「いや、本意ではない。 いろいろと心苦しい人びとのご縁談を、うまく聞き流して年を過ごしてきたのに、今さら出家僧が、還俗したような気がするだろう」 |
結婚をするのは自分の本意でない、今までもいろいろな縁談があって、その人々に対して気の毒な感情もありながら、断わり続けてきたのに、今になって妻を持っては、俗人と違うことを |
【いでや、本意にもあらず】- 以下「心地すべきこと」まで、薫の心中の思い。 【さまざまにいとほしき人びとの御ことどもをも、よく聞き過ぐしつつ年経ぬるを】- 『完訳』は「こちらが放置しては気の毒になる女たち。大君からは中の君を、夕霧からは六の君を勧められたが、うまく実をかわしてきた。ただし、六の君の縁談をことわったのは、年立上、翌年の春」と注す。 【今さらに聖のものの】- 大島本は「ひしりのものゝ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「聖よ」と「よ」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。『集成』は「今になって女二の宮との婚儀を承諾しては、世俗を捨ててしまった修行僧が還俗するような気がするであろう。「聖よ」は「聖世」か」と注す。 |
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1.4.21 | と思うのも、また妙なものだ。 |
妙なものであろう。 |
【かつはあやしや】- 『全集』は「常人とは異なる薫の思念を指摘する草子地」。『完訳』は、以下「人だにこそあれ」まで、薫の心中の思いとする。語り手の挿入句とも薫の心中文とも両義性をもつ表現。 |
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1.4.22 | 「特別に恋い焦がれている人さえあるというのに」とは思う一方で、「后腹の姫宮でいらっしゃったら」と思う心の中は、あまりに大それた考えであった。 |
恋しくてならぬ人ででもあればともかくもであるがと否定のされる心でまた、これが |
【后腹におはせばしも」とおぼゆる心の内ぞ、あまりおほけなかりける】- 『紹巴抄』は「双地」と指摘。『完訳』は「「かつは--」と照応する語り手の評言。道心を求める薫は、一方で、中宮腹の皇女を得て栄耀の人生をと念願。彼の現世執着のしたたかさに注意させる評言でもある」と注す。 |
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第五段 夕霧、匂宮を六の君の婿にと願う |
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1.5.1 | かかることを、 |
このようなことを、右大殿がちらっとお聞きになって、 |
この話を左大臣は聞いて、 |
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1.5.2 | 「六の君は、そうはいってもこの君にこそ縁づけたいものだ。 しぶしぶであっても、一生懸命に頼みこめば、結局は、断ることはできまい」 |
六の君との縁組みに |
【六の君は、さりとも】- 以下「えいなび果てじ」まで、夕霧の心中の思い。 【この君にこそは】- 下に「縁づけめ」などの語句が省略。「この君」は薫をさす。夕霧は最初は匂宮にと考えていた。 |
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1.5.3 | とお思いになったが、「意外なことが出てきたようだ」と、悔しくお思いになったので、兵部卿宮が、わざわざではないが、何かの時にそれに応じて、風流なお手紙を差し上げなさることが続いているので、 |
と楽観していたのに、意外なことが起こってきそうであると思い、兵部卿の宮は正面からの話にはお乗りにはならないでいて、何かと六の君に交渉を求めて手紙をよくおよこしになるのであるから、 |
【思ひの外のこと出で来ぬべかなり】- 夕霧の心中の思い。薫と帝の女二宮との縁談をさす。 |
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1.5.4 | 「ままよ、いい加減な浮気心であっても、何かの縁で、お心が止まるようなことがどうしてないことがあろうか。 水も漏らさない男性を思い定めていても、並の身分の男に縁づけるのは、また体裁が悪く、不満な気がするだろう」 |
それは真実性の少ないものであっても、妻にされれば御愛情の生じないはずもない、どんなに忠実な |
【さはれ、なほざりの】- 以下「飽かぬ心地すべし」まで、夕霧の心中の思い。 【水漏るまじく思ひ定めむとても】- 『河海抄』は「などてかく逢ふごかたみになりにけむ水漏らさじと結びしものを」(伊勢物語)を指摘。 |
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1.5.5 | など |
などとお考えになっていた。 |
と思って、やはり兵部卿の宮を目標として進むことに定めた。 |
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1.5.6 | 「女の子が心配に思われる末世なので、帝でさえ婿をお探しになる世で、まして、臣下の娘が盛りを過ぎては困ったものだ」 |
女の子によい婿のあることの困難な世の中になり、 |
【女子うしろめたげなる】- 以下「あいなし」まで、夕霧の詞。 |
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1.5.7 | などと、陰口を申すようにおっしゃって、中宮をも本気になってお恨み申し上げなさることが、度重なったので、お聞きあそばしになり困って、 |
などと、帝のお考えに多少の非難めいたことも左大臣は言い、中宮へ兵部卿の宮との縁組みの実現されるように訴えることがたびたびになったため、后の宮はお困りになり、宮へ、 |
【誹らはしげにのたまひて】- 『完訳』は「帝の陰口を申すような言い方」と注す。 【聞こし召しわづらひて】- 主語は明石中宮。 |
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1.5.8 | 「お気の毒にも、このように一生懸命にお思いなさってから何年にもおなりになったので、不義理なまでにお断り申し上げなさるのも、薄情なようでしょう。 親王たちは、ご後見によって、ともかくもなるものです。 |
「気の毒なように長くそれを望んで大臣は待ち暮らしていたのだのに、口実を作っていつまでもお応じにならないのも無情なことですよ。親王というものは後援者次第で光りもし、光らなくも見えるものなのですよ。 |
【いとほしく、かく】- 以下「などかあらむ」まで、明石中宮の匂宮への詞。 【親王たちは、御後見からこそ】- 『集成』は「親王は、ご外戚次第で運も開けるというものです。夕霧の婿になるのが将来の為と、さとす」と注す。 |
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1.5.9 | それだに、かの まして、これは、 |
主上が、御在位も終わりに近いとばかりお思いになりおっしゃっていますようなので、臣下の者は、本妻がお決まりになると、他に心を分けることは難しいようです。 それでさえ、あの大臣が誠実に、こちらの本妻とあちらの宮とに恨まれないように待遇していらっしゃるではありませんか。 まして、あなたは、お考え申していることが叶ったら、大勢伺候させても構わないのですよ」 |
お |
【こなたかなた羨みなくもてなして】- 雲居雁と落葉宮をさす。 【まして、これは、思ひおきてきこゆることも叶はば】- 「これは」はあなたの意。「思ひおきてきこゆること」とは立坊をさす。 【などかあらむ】- 反語表現。何の不都合があろうか、ない。 |
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1.5.10 | など、 |
などと、いつもと違って言葉数多く話して、道理をお説き申し上げなさるのを、 |
と、平生にまして長々御教訓をあそばすのを承って、 |
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1.5.11 | 「わが ただ、いとことうるはしげなるあたりにとり |
「ご自身でも、もともとまったく嫌とは、お思いにならないことなので、無理やりに、どうしてとんでもないこととお思い申し上げなさろう。 ただ、万事格式ばった邸に閉じ籠められて、自由気ままになさっていらした状態が窮屈になることを、何となく苦しくお思いになるのが嫌なのだが、なるほど、この大臣から、あまり恨まれてしまうのも困ったことだろう」 |
兵部卿の宮御自身も無関心では決しておいでにならない女性のことであったから、それをしいてお |
【わが御心にも】- 以下「あいなからむ」まで、匂宮の心中。 |
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1.5.12 | など、やうやう あだなる されど、その |
などと、だんだんお弱りになったのであろう。 浮気なお心癖なので、あの按察大納言の、紅梅の御方をも、依然としてお思い捨てにならず、花や紅葉につけてはお歌をお贈りなさって、どちらの方にもご関心がおありであった。 けれども、 |
今になっては抵抗力も少なくおなりになった。多情な御性質であるから、あの |
【など、やうやう思し弱りにたるべし】- 大島本は「よハりにたるへし」とある。『完本』は諸本に従って「弱りにたるなるべし」と「なる」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。語り手の推測。 【かの按察使大納言の、紅梅の御方をも】- 故柏木の弟紅梅大納言の娘、実は螢兵部卿と真木柱との娘であったが、兵部卿宮の死後、真木柱が按察大納言と再婚したために継子となっている。 【花紅葉につけてもの】- 大島本は「花もみちにつけてもの」とある。『完本』は諸本に従って「花紅葉につけても」と「の」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 【いづれをも】- 夕霧の六の君と紅梅の御方。 |
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第二章 中君の物語 中君の不安な思いと薫の同情 |
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第一段 匂宮の婚約と中君の不安な心境 |
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2.1.1 | さも そのほどに |
女二の宮も、御服喪が終わったので、「ますます何事を遠慮なさろう。 そのようにお願い申し出るならば」とお考えあそばしている御様子などを、お告げ申し上げる人びともいるが、「あまり知らない顔をしているのもひねくれているようで悪いことだ」などとご決心して、結婚をほのめかし申しあそばす時々があるので、「体裁悪いようには、どうしてあしらうことがあろうか。 婚儀を何日にとお定めになった」と伝え聞く、自分自身でも御内意を承ったが、心の中では、やはり惜しくも亡くなっ方の悲しみばかりが、忘れる時もなく思われるので、「嫌な、このような宿縁が深くおありであった方が、どうしてか、それでもやはり他人のまま亡くなってしまったのか」と理解しがたく思い出される。 |
女二の宮の喪期も終わったのであるから、帝はもうおはばかりあそばすことはなくなった。「御懇望にさえなればすぐにお許しになりたい思召しとうかがわれます」こんなふうに薫へ告げに来る人々もあるためあまりに知らず顔に冷淡なのも無礼なことであると、しいて心を引き立てて、女二の宮付きの人を通して、求婚者としての手紙をおりおり送ることもするようになったが、取り合わぬ態度などはもとよりお示しになるはずもない。帝は何月ごろと結婚の期を思召すというようなことも人から聞き、自身でも御許容あそばすことはうかがわれるのであったが、心の中では今も死んだ宇治の人ばかりが恋しく思われて、この悲しみを忘れ尽くせる日があろうとは思われぬために、こうまで心のつながれる因縁のあったあの人と、ついに夫婦とはならずに終わったのはどうしたことなのであろうとそれを怪しがっていた。 |
【いとど何事にか憚りたまはむ】- 大島本は「何事にか」とある。『完本』は「何ごとにかは」と「は」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。語り手の挿入句。帝の心中を推測。 【さも聞こえ出でば】- 主語は薫。女二宮を所望したら、の意。 【思し召したる御けしきなど】- 主語は帝。帝はそうお思いでいる、の意。 【あまり知らず顔ならむも】- 以下「なめげなり」まで、薫の心中の思い。 【はしたなきやうは】- 以下「思し定めたなり」まで、薫の心中。 |
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2.1.2 | 「 |
「卑しい身分であるとも、あのご様子に少しでも似ているような人なら、きっと心も引かれるだろう。 昔あったという反魂香の煙によってでも、もう一度お会いしたものだな」とばかり思われて、高貴な方と、早く婚儀を上げたいなどと急ぐ気もしない。 |
身分がどれほど低くとも、あの人に少しでも似たところのある人であれば自分は妻として愛するであろう、 |
【口惜しき品なりとも】- 以下「見たてまつるものにもがな」まで、薫の心中の思い。『完訳』は「大君追慕から、身分を度外視してまで、彼女に似る女との結婚を願望。後の浮舟登場の伏線か」と注す。 【昔ありけむ香の煙につけてだに】- 『源氏釈』は「白氏文集」李夫人を指摘。 |
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2.1.3 | 右大殿ではお急ぎになって、「八月頃に」と申し上げなさったのであった。 二条院の対の御方では、お聞きになると、 |
左大臣のほうでは六の君の結婚の用意にかかって、八月ごろにと宮へその期を申し上げた。これを二条の院の中の君も聞いた。 |
【二条院の対の御方には】- 中君。格助詞「に」敬意の意。 |
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2.1.4 | 「やはりそうであったか。 どうしてか、一人前でもない様子のようなので、必ず物笑いになる嫌な事が出て来るだろうことは、思いながら過ごしてきたことだ。 浮気なお心癖とずっと聞いていたが、頼りがいなく思いながらも、面と向かっては、特につらそうなことも見えず、愛情深い約束ばかりなさっていらっしゃるので、急にお変わりになるのは、どうして平気でいられようか。 臣下の夫婦仲のように、すっかり縁が切れてしまうことなどはなくても、どんなにか安からぬことが多いだろう。 やはり、まことに情けない身の上のようなので、結局は、山里へ帰ったほうがよいようだ」 |
やはりそうであった、自分などという何のよい背景も持たない女には必ず幸福の |
【さればよ。いかでかは】- 以下「帰るべきなめり」まで、中君の心中の思い。「いかでかは」反語表現。どうしてこうならないはずがなかろうか、始めからこうなるはずだったのだ、の意。 【過ごしつる】- 大島本は「すこしつる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「過ぐし」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 【つらげなること】- 大島本は「つらけなること」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「つらげなることも」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。 【ただ人の仲らひ】- 臣下の夫婦仲。自分は皇族であるという誇りがある。 |
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2.1.5 | とお思いになるにつけても、「このまま姿を隠すよりは、山里の人が待ち迎え思うことも物笑いになる。 返す返すも、父宮が遺言なさっていたことに背いて、山荘を出てしまった軽率さ」を、恥ずかしくもつらくもお思い知りになる。 |
と考えられるにつけても、出て来たままになるよりも再び帰ることは宇治の里人にも |
【やがて跡絶えなましよりは、山賤の待ち思はむも人笑へなりかし】- 中君の心中文と地の文が融合した叙述。『集成』は「あのまま世に知られず宇治にひっそり暮していたのならまだしも、山里の連中が待ち受けてさげすむのも、みっともない限りだ。結婚に失敗しての出戻り者よと笑われることを気に病む」と注す。 |
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2.1.6 | 「 |
「亡き姉君が、たいそうとりとめもなく、頼りなさそうにばかり、何事もお考えになりおっしゃっていたが、心の底が慎重であったところは、この上なくいらしたことだ。 中納言の君が、今でも忘れることなくお悲しみになっていらっしゃるようだが、もし生きていらっしゃったら、またこのようにお悩みになることがあったかも知れない。 |
姉君はおおようで、柔らかいふうなところばかりが外に見えたが、精神は |
【故姫君の】- 以下「見たまふらむ」まで、中君の心中の思い。 【またかやうに思すことはありもやせまし】- 『集成』は「ご自分もこのようにお悩みになることはあったかもしれない」と訳す。推量の助動詞「まし」反実仮想の意。 |
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2.1.7 | それを、いと かならずさるさまにてぞおはせまし。 |
それを、たいそう深く、どうしてそんなことはあるまい、と深くお思いになって、あれやこれやと、離れることをお考えになって、出家してしまいたいとなさったのだ。 きっとそうなさったにちがいないだろう。 |
そうした未来をよく察して、あの人の妻になろうとされなかった、いろいろに身をかわすようにして中納言の恋からのがれ続けていて、しまいには尼になろうとしたではないか、命が助かっても必ず |
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2.1.8 | 今思うと、どんなに重々しいお考えだったことだろう。 亡き父宮や姉君も、わたしをどんなにかこの上ない軽率者と御覧になることだろう」 |
今思ってみればきわめて深い思慮のある方であった、父宮も姉君も自分をこの上もない、軽率な女であるとあの世から見ておいでになるであろうと、 |
【いかに重りかなる御心おきてならまし】- 『完訳』は「現在の苦境が、当時は気づかなかった大君の深慮を認識させる」と注す。 |
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2.1.9 | と恥ずかしく悲しくお思いになるが、「どうしても、仕方のないことだから、このような様子をお見せ申し上げようか」と我慢して、聞かないふりをしてお過ごしになる。 |
恥ずかしく悲しく思うのであったが、何も言うまい、言っても |
【何かは】- 以下「見えたてまつらむ」まで、中君の心中の思い。反語表現。『集成』は「いえ何で、今さらどうしようもないのに、こんな自分の悲しみを宮に悟られ申そう」と訳す。 |
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第二段 中君、匂宮の子を懐妊 |
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2.2.1 | 宮は、いつもよりしみじみとやさしく、起きても臥せっても語らいながら、この世だけでなく、長い将来のことをお約束申し上げなさる。 |
宮はこの話のきまってからは、平生よりもまた多く愛情をお示しになり、なつかしいふうに将来のことをどの日もどの日もお話しになり、この世だけでない永久の夫婦の愛をお約しになるのであった。 |
【宮は、常よりもあはれに】- 匂宮は六の君との結婚を目前にして、中君を常よりもいとしむ。 【この世ならず】- 大島本は「このよならす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「この世にみならず」と「のみ」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。 【頼みきこえたまふ】- 大島本は「たのミ」とある。『集成』『完本』『新大系』は諸本に従って「頼め」と校訂する。 |
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2.2.2 | さるは、この こちたく |
一方では、今年の五月頃から、普段と違ってお苦しみになることがあるのだった。 ひどくお苦しみにはならないが、いつもより食事を上がることことがますますなく、臥せってばかりいらっしゃるので、まだそのような人の様子を、よくご存知ないので、「ただ暑いころなので、こうしていらっしゃるのだろう」とお思いになっていた。 |
中の君はこの五月ごろから普通でない |
【この五月ばかりより、例ならぬさまに悩ましく】- 中君の妊娠の徴候。五月は夏の気分的にも苦しいころ。物語の主題と季節の類同的発想。 【まださやうなる人のありさま】- 身重の人の様子をいう。 |
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2.2.3 | そうはいっても変だとお気づきになることがあって、「もしや、なにしたのではないか。 そうした人はこのように苦しむというが」などと、おっしゃる時もあるが、とても恥ずかしがりなさって、さりげなくばかり振る舞っていらっしゃるのを、差し出て申し上げる女房もいないので、はっきりとはご存知になれない。 |
さすがに不審に思召すこともあって、「ひょっとすればあなたに子ができるようになったのではないだろうか。妊婦というものはそんなふうに苦しがるものだそうだから」ともお言いになったが、中の君は恥ずかしくて、そうでないふうばかりを作っているのを、進み出て申し上げる人もないため、確かには宮もおわかりにならなかった。 |
【もし、いかなるぞ】- 以下「悩むなれ」まで、匂宮の詞。 【さる人】- 妊婦をいう。 |
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2.2.4 | 八月になったので、何日などと、外からお伝え聞きになる。 宮は、隠しだてをしようというのではないのだが、言い出すことがお気の毒でおいたわしくお思いになって、そうとおっしゃらないのを、女君は、それさえつらくお思いになる。 隠れたことでもなく、世間の人がみな知っていることを、何日などとさえおっしゃらないことだと思うと、どんなにか恨めしくないことがあろうか。 |
八月になると、左大臣の姫君の所へ宮がはじめておいでになるのは幾日ということが外から中の君へ聞こえてきた。宮は隔て心をお持ちになるのではないが、お言いだしになることは気の毒でかわいそうに思われておできにならないのを、夫人はそれをさえ恨めしく思っていた。隠れて行なわれることでなく、世間じゅうで知っていることをいつごろとだけもお言いにならぬのであるから、中の君の恨めしくなるのは道理である。 |
【その日など、他よりぞ伝へ聞きたまふ】- 匂宮と六の君の結婚の日取り。中君は本人から聞かされない。 【忍びたることにもあらず】- 以下「のたまはぬこと」まで、『集成』は「以下、中の君の思いを、語り手の立場から同情的に説明する」と注す。 【いかが恨めしからざらむ】- 語り手の中君への同情的な感情移入表現。『細流抄』は「草子地をしはかりていへり」と指摘。 |
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2.2.5 | かく |
このようにお移りになってから後は、特別の事がないと、宮中に参内なさっても、夜泊まることは特になさらず、あちらこちらに外泊することなどもなかったが、急にどのようにお悲しみだろうと、お気の毒なことにしないために、最近は、時々御宿直といって参内などなさっては、前もって独り寝をお馴らし申し上げなさるのをも、ただつらいことにばかりお思いになるのだろう。 |
この夫人が二条の院へ来てからは、特別な御用事などがないかぎりは御所へお行きになっても、ほかへおまわりになり、泊まってお帰りになるようなことを宮はあそばさないのであって、情人の所をお |
【かく渡りたまひにし後は】- 中君が宇治から二条院へ。 【ここかしこの御夜離れなども】- 匂宮の愛人宅での外泊。 【いかに思ひたまはむ】- 匂宮の心中。主語は中君。 【ならはしきこえたまふをも】- 『弄花抄』は「かねてより辛さを我にならはさでにはかにものを思はすかな」(出典未詳)を指摘。 |
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第三段 薫、中君に同情しつつ恋慕す |
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2.3.1 | 「 |
中納言殿も、「まことにお気の毒なことだな」とお聞きになる。 「花心でいらっしゃる宮なので、いとしいとお思いになっても、新しい方にきっとお心移りしてしまうだろう。 女方も、とてもしっかりした家の方で、お放しなくお付きまといなさったら、この幾月、夜離れにお馴れにならないで、待っている夜を多くお過ごしになることは、おいたわしいことだ」 |
中納言もかわいそうなことであると、この問題における中の君を思っていて、宮は |
【花心におはする宮なれば】- 以下「あはれなるべけれ」まで、薫の心中の思い。『集成』は「浮気なご性分の宮のことだから。以下、薫の心中。「うつろふ」(色あせる、散る)と縁語」。『完訳』は「はなやかさに惹かれる浮気心」と注す。 【いとしたたかなるわたりにて】- 『集成』は「何ごとにも抜かりのないお家柄だから」。『完訳」は「お里方はれっきとしたお家柄だし」と訳す。 【さもならひたまはで】- 中君は夜離れに馴れていない、意。 【過ごしたまはむこそ】- 大島本は「すこし」とある。『完本』は諸本に従って「過ぐし」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 |
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2.3.2 | など |
などとお思いよりになるにつけても、 |
こんなことが思われるにつけても、 |
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2.3.3 | 「あいなしや、わが |
「つまらないことをした、自分だな。 どうしてお譲り申し上げたのだろう。 亡き姫君に思いを寄せてから後は、世間一般から思い捨てて悟りきっていた心も濁りはじめてしまったので、ただあの方の御事ばかりがあれやこれやと思いながら、やはり相手が許さないのに無理を通すことは、初めから思っていた本心に背くだろう」 |
なんたることであろう、不都合なのは自分である、何のためにあの人を宮へお譲りしたのであろう、死んだ姫君に恋を覚えてからは、宗教的に澄み切った心も不透明なものになり、盲目的になり、あらゆる情熱を集めてあの人を思いながらも、同意を得ずに男性の力で勝つことは本意でない |
【あいなしや、わが心よ】- 以下「本意なかるべし」まで、薫の心中の思い。さらに、以下の文章も地の文と薫の心中文が交じった表現。匂宮に中君を譲ったことを後悔。 【昔の人に心をしめてし後】- 『完訳』は「以下、大君と出会った過去に遡り、彼女を恋慕して以来、本意の道心も濁ったとする」と注す。 【初めより思ひし本意なかるべし】- 『集成』は「単なる恋愛沙汰ではなく、人間としての理解に基づいた結び付きを願っていたのだ、という趣旨」。『完訳』は「男女の深く理解しあえる仲を念願」と注す。 |
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2.3.4 | と |
と遠慮しながら、「ただ何とかして、少しでも好意を寄せてもらって、うちとけなさった様子を見よう」と、将来の心づもりばかりを思い続けていたが、相手は同じ考えではないなさり方で、とはいえ、むげに突き放すことはできまいとお思いになる気休めから、同じ姉妹だといって、望んでいない方をお勧めになったのが悔しく恨めしかったので、「まず、その考えを変えさせようと、急いでやったことなのだ」などと、やむにやまれず男らしくもなく気違いじみて宮をお連れして、おだまし申し上げた時のことを思い出すにつけても、「まことにけしからぬ心であったよ」と、返す返す悔しい。 |
とはばかって、ただ少しでもあの人に愛されて相思う恋の成立をば夢見て未来の楽しい空想ばかりを自分はしていたのに、あの人は恋を感じぬふうを見せ続け、さすがに冷淡には自分を見ていない |
【人は同じ心にもあらずもてなして】- 大君は自分とは同じ考えではなく、の意。 【本意ならぬ方に】- 中君をさす。 【急ぎせしわざぞかし】- 匂宮を中君に逢わせたことをさす。 【率て歩き、たばかりきこえしほど思ひ出づるも】- 『集成』は「敬語のないのは、薫の気持に密着した書き方」と注す。 【いとけしからざりける心かな】- 薫の心中の思い。わが行為を悔恨。 |
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2.3.5 | 「 なほ、あだなる |
「宮も、そうはいっても、その当時の様子をお思い出しになったら、わたしの聞くところも少しはご遠慮なさらないはずもあるまい」と思うが、「さあ、今は、その当時のことなど、少しもお口に出さないようだ。 やはり、浮気な方面に進んで、移り気な人は、女のためのみならず、頼りなく軽々しいことがきっと出てくるにちがいない」 |
宮もどんな御事情になっていても、あの時のことをお思い出しになれば自分に対してでも少し御遠慮があっていいはずであると思うのであったが、また宮はそんな方ではない、あれ以来あの時のことを話題にされるようなことはないではないか、多情な人というものは、異性にだけでなく、友情においても誠意の少ないものらしい |
【宮も、さりとも】- 以下「憚りたまはじや」まで、薫の心中の思い。匂宮もこちらの気持ちを理解して遠慮するところもあろう。 【わが聞かむところをも】- 匂宮と六の君の縁談の噂か。 【いでや、今は】- 以下「ありぬべきなめりかし」まで、薫の心中の思い。 【女のためのみにもあらず】- 中君のみならず、自分にとっても、の意。 |
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2.3.6 | などと、憎くお思い申し上げなさる。 自分のほんとうにお一方にばかり執着した経験から、他人がまことにこの上もなくはがゆく思われるのであろう。 |
などとお憎みする心さえ薫に起こった。自身があまりに純一な心から他人をもどかしく思うのであるらしい。 |
【わがまことにあまり一方にしみたる心ならひに、人はいとこよなくもどかしく見ゆるなるべし】- 『休聞抄』は「双也」と指摘。『全集』は「薫の心中叙述が、やがて草子地によってしめくくられる」。『完訳』は「語り手の薫評。大君一人に執着する性癖から、他人の振舞いも腹立たしくなるのだろう、とする」と注す。 |
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第四段 薫、亡き大君を追憶す |
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2.4.1 | 「かの |
「あの方をお亡くし申しなさってから後、思うことには、帝が皇女を下さるとお考えおいていることも、嬉しくなく、この君を得たならばと思われる心が、月日とともにつのるのも、ただ、あの方のご血縁と思うと、思い離れがたいのである。 |
あの人を死なせてからの自分の心は帝の御娘を賜わるということになったのもうれしいこととは思われない、中の君を妻に得られていたならと思う心が月日にそえ勝ってくるのも、ただあの人の妹であるということが |
【かの人をむなしく】- 以下「いとどつらしとや見たまふらむ」まで、薫の心中の思い。 【帝の御女を賜はむと思ほしおきつるも】- 帝が薫に女二宮を降嫁させようということをさす。『集成』は「以下、薫の思い」と注す。 【この君を】- 中君をさす。 |
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2.4.2 | はらからといふ ただかの |
姉妹という間でも、この上なく睦み合っていらしたものを、ご臨終となった最期にも、『遺る人を私と同じように思って下さい』と言って、『何もかも不満に思うこともありません。 ただ、あの考えていたこととをお違いになった点が残念で恨めしいこととして、この世に残るでしょう』とおっしゃったが、魂が天翔っても、このようなことにつけて、ますますつらいと御覧になるだろう」 |
【とまらむ人を同じごとと思へ】- 大君の薫への遺言。 【よろづは】- 以下「残るべき」まで、大君の薫への詞。 【ただかの思ひおきてしさまを違へたまへるのみなむ】- 中君を薫と結婚させようと考えていたことをさす。 |
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2.4.3 | などと、つくづくと他人のせいでない独り寝をなさる夜々は、ちょっとした風の音にも目ばかり覚ましては、過ぎ去ったことこれからのこと、人の身の上まで、無常な世をいろいろとお考えになる。 |
などと、切実に寂しい |
【人の上さへ】- 副助詞「さへ」自分の身はもちろん中君の身の上まで、のニュアンス。 |
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2.4.4 | 一時の慰めとして情けもかけ、身近に使い馴れていらっしゃる女房の中には、自然と憎からずお思いになる者もいるはずだが、真実に心をおとめにならないのは、さっぱりしたものだ。 |
かりそめの情で愛人とし、女房として家に置いてある人たちの中には、自然と真実の愛も生じてきそうな人もあるはずであるが、事実としてはそんな人もない。いつも独身者の心持ちよりほかを知らなかった。 |
【なげのすさびに】- 『完訳』は「以下、女房らとの関係。薫を慕って大勢の女房が参集」と注す。 【憎からず思さるるも】- 召人のような人。 【ありぬべけれど、まことには心とまるもなきこそ、さはやかなれ】- 『集成』は「地の文で、薫の心境を代弁したもの」。『完訳』は「語り手の感想をこめた言辞」と注す。 |
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2.4.5 | さるは、かの |
その一方では、あの姫君たちの身分に劣らない身分の人びとも、時勢にしたがって衰えて、心細そうな生活をしているのなどを、探し求めては邸においていらっしゃる人などが、たいそう多いが、「今は世を捨てて出家しようとするとき、この人だけはと、特別に心とまる妨げになる程度のことはなくて過ごそう」と思う考えが深かったが、「さあ、さも体裁悪く、自分ながら、ひねくれていることだな」 |
そうした女房勤めしている中には、宇治の姫君たちにも劣らぬ階級の人も、時世の移りで不幸な身の上になり、心細く暮らしていたりしたのを、同情して家へ呼んだというような種類の女房が少なくはないのであるが、異性との交渉はそれほどにとどめて、出家の目的の達せられる時に、取り立ててこの人が心にかかると思われるような愛着の覚えられる人は作らないでおこうと深く思っていた自分であったにもかかわらず、今では死んだ恋人のゆかりの中の君に多く心の |
【さるは、かの君たちのほどに劣るまじき際の人びとも】- 『完訳』は「視点を変え語り直す。大君・中の君も、客観的には薫にとって女房ほどの位置でしかないとする」と注す。 【尋ね取りつつあらせなど、いと多かれど】- 大島本は「あらせなと」とある。『完本』は諸本に従って「あらせたまひなど」と「たまひ」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。『集成』は「没落した名家の子女で、縁故を辿って三条の宮に女房として仕えている者も多いという趣」と注す。 【今はと世を】- 以下「ねぢけてもあるかな」まで、薫の心中の思いと地の文と心中文が融合した文脈。 【心とまるほだし】- 世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(古今集雑下-九五五 物部吉名)(text49.html 出典5から転載) 【と思ふ心深かりしを】- 過去助動詞「き」は、自己の体験をいうニュアンス。過去を反芻している趣。 【いと、さも悪ろく】- 大島本は「いと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いで」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 |
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2.4.6 | など、 「 |
などと、いつもよりも、そのまま眠らず夜を明かしなさった朝に、霧の立ちこめた籬から、花が色とりどりに美しく一面に見える中で、朝顔の花が頼りなさそうに混じって咲いているのを、やはり特に目がとまる気がなさる。 「朝の間咲いて」とか、無常の世に似ているのが、身につまされるのだろう。 |
などという思いにとらわれていて、そのまま眠りえずに明かしてしまった暁、立つ霧を隔てて草花の姿のいろいろと美しく見える中にはかない朝顔の混じっているのが特に目にとまる気がした。人生の頼みなさにたとえられた花であるから身に |
【見えわたれる中に】- 大島本は「みえわたれる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見えわたる」と「れ」を削除する。『新大系』は底本のままとする。 【朝顔のはかなげにて混じりたるを】- 『花鳥余情』は「朝顔は常なき花の色なれや明くる間咲きて移ろひにけり」(出典未詳)を指摘する。 【明くる間咲きて」とか】- 『花鳥余情』が指摘した出典未詳歌の文言。 【常なき世にもなずらふるが、心苦しきなめりかし】- 『集成』は「朝顔の花に目をとめた薫の心事を説明する草子地」。『完訳』は「語り手の推測である」と注し、読点で挿入句とする。 |
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2.4.7 | 格子も上げたまま、ほんのかりそめに横になって夜をお明かしになったので、この花が咲く間を、ただ独りで御覧になったのであった。 |
【ただ一人のみ見たまひける】- 大島本は「のミ見給ひ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「のみぞ見たまひ」と「ぞ」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。 |
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第五段 薫、二条院の中君を訪問 |
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2.5.1 | 人を呼んで、 |
侍を呼んで、 |
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2.5.2 | 「北の院に参ろうと思うが、仰々しくない車を出しなさい」 |
「北の院へ伺おうと思うから、簡単な車を出させるように」 |
【北の院に】- 以下「車さし出でさせよ」まで、薫の家人に対する詞。二条院をさす。薫の三条邸から北側にあたるので、こういったもの。 |
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2.5.3 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と命じてから |
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2.5.4 | 「宮は、昨日から宮中においでになると言います。 昨夜、お車を引いて帰って来ました」 |
【宮は、昨日より】- 以下「帰りはべりにき」まで、家人の答え。 |
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2.5.5 | と |
と申し上げる。 |
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2.5.6 | 「それはそれでよい、あの対の御方がお苦しみであるという、お見舞い申そう。 今日は宮中に参内しなければならない日なので、日が高くならない前に」 |
【さはれ、かの対の御方の】- 以下「日たけぬさきに」まで、薫の詞。 |
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2.5.7 | とのたまひて、 |
とおっしゃって、お召し替えなさる。 お出かけになるとき、降りて花の中に入っていらっしゃる姿、格別に艶やかに風流っぽくお振る舞いにはならないが、不思議と、ただちょっと見ただけで優美で気恥ずかしい感じがして、ひどく気取った好色連中などととても比較することができない、自然と身にそなわった美しさがおありになるのだった。 朝顔を引き寄せなさると、露がたいそうこぼれる。 |
装束を改めた。出かけるために庭へおりて、秋の花の中に混じって立った薫は、わざわざ |
【朝顔引き寄せたまへる】- 大島本は「あさかほひきよせ給へる」とある。『集成』『完本』は諸本に従ってそれぞれ「朝顔を引き寄せたまふ」「朝顔を引き寄せたまへる」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 |
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2.5.8 | 「今朝の間の色を賞美しようか、 置いた露が消えずに残っているわずかの間に咲く花 |
「 消えぬにかかる花と見る見る |
【今朝の間の色にや賞でむ置く露の--消えぬにかかる花と見る見る】- 薫の独詠歌。『集成』は「消えやすい露よりもはかない朝顔に心を寄せた、薫らしい歌」。『完訳』は「はかない露より、もっとはかない朝顔の開花時間に共感する歌。大君の死を思い、世の無常を実感」と注す。 |
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2.5.9 | はかな」 |
はかないな」 |
はかない」 |
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2.5.10 | と独り言をいって、折ってお持ちになった。 女郎花には、目もくれずにお出になった。 |
などと |
【女郎花をば、見過ぎてぞ出でたまひぬる】- 『集成』は「好色には関心のないお人柄だと、筆を弄した」と注す。『花鳥余情』は「女郎花うしと見つつぞ行き過ぐる男山にしたてりと思へば」(古今集秋上、二七二、布留今道)、『評釈』は「秋の野になまめき立てる女郎花あなかしがまし花も一時」(古今集雑体、一〇一六、僧正遍昭)を指摘。 |
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2.5.11 | 明るくなるにしたがって、霧が立ちこめこめている空が美しいので、 |
明け放れるのにしたがって霧の濃くなった空の艶な気のする下を二条の院へ向かった薫は、 |
【霧立ち乱る空】- 大島本は「きりたちみたる空」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「霧立ち満ちたる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「霧立ち乱る」とする。 |
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2.5.12 | 「女たちは、しどけなく朝寝していらっしゃるだろう。 格子や妻戸などを叩き咳払いするのは、不慣れな感じがする。 朝早いのにもう来てしまった」 |
宮のお |
【女どちは、しどけなく】- 以下「まだき来にけり」まで、薫の心中の思い。 【格子妻戸うちたたき】- 大島本は「かうしつまとうちたゝき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「格子妻戸など」と「など」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。 |
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2.5.13 | と思いながら、人を召して、中門の開いている所から覗き見させなさると、 |
と思いながら薫は従者を呼んで、中門のあいた口から中をのぞかせてみると、 |
【見せたまへば】- 「せ」使役の助動詞。供人をして中を窺わせた、の意。 |
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2.5.14 | 「御格子は上げてあるらしい。 女房のいる様子もしていました」 |
「お格子が皆上がっているようでございます。そして女房たちの何かいたします |
【御格子ども】- 以下「しはべりつ」まで、供人の報告。 |
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2.5.15 | と申すので、下りて、霧の紛れに体裁よくお歩みになっているのを、「宮が隠れて通う所からお帰りになったのか」と見ると、露に湿っていらっしゃる香りが、例によって、格別に匂って来るので、 |
と言う。下車して霧の中を美しく薫の歩いてはいって来るのを女房たちは知り、宮がお |
【と見るに】- 主語は女房。 【例の】- 女房たちは香りから薫だと知る。 |
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2.5.16 | 「やはり、目が覚める思いがする方ですこと。 控え目でいらっしゃることが憎らしいこと」 |
「やはり特別な方ですね。ただあまりに澄んだふうでいらっしゃるのが物足らないだけね」 |
【なほ、めざましくは】- 大島本は「な越めさましくハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「なほめざましく」と「は」を削除する。『新大系』は底本のままとする。以下「ぞ憎き」まで、女房の詞。 |
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2.5.17 | など、あいなく、 |
などと、勝手に、若い女房たちは、お噂申し上げていた。 |
とも若い女房はささやいていた。 |
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2.5.18 | 驚いたふうでもなく、体裁よく衣ずれの音をさせて、お敷物を差し出す態度も、まことに無難である。 |
驚いたふうも現わさず、感じのよいほどにその人たちが |
【おどろき顔にはあらず】- 女房たちの応対、態度。 |
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2.5.19 | 「ここに控えよとお許しいただけることは、一人前扱いの気がしますが、やはりこのような御簾の前に放っておいでになるのは情けない気がし、頻繁にお伺いできません」 |
「ここにすわってもよいとお許しくださいます点は名誉に思われますが、しかしこうした |
【これにさぶらへ】- 以下「えさぶらはぬ」まで、薫の詞。 |
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2.5.20 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と薫が言うと、 |
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2.5.21 | 「それでは、どう致しましょう」 |
「それではどういたせばお気が済むのでございますか」 |
【さらば、いかがはべるべからむ】- 大島本は「さらはいかゝ侍へからむ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いかがは」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。女房の詞。 |
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2.5.22 | など |
などと申し上げる。 |
女房はこう答えた。 |
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2.5.23 | 「北面などの目立たない所ですね。 このような古なじみなどが控えているのに適当な休憩場所は。 それも、また、お気持ち次第なので、不満を申し上げるべきことでもない」 |
「北側のお座敷というような、隠れた室が私などという古なじみのゆるりとさせていただくによい所です。しかしそれも奥様の思召しによることですから、不平は申し上げません」 |
【北面などやうの】- 以下「きこゆべきにもはべらず」まで、薫の詞。 |
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2.5.24 | と言って、長押に寄り掛かっていらっしゃると、例によって、女房たちが、 |
と言い、薫は縁側から一段高い |
【例の、人びと】- 「例の」は、例によっての意。副詞的に「そそのかしきこゆ」に係る。 |
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2.5.25 | 「やはり、あそこまで」 |
「ほんの少しあちらへおいであそばせ」 |
【なほ、あしこもとに】- 女房の詞。中君にもす少し薫の近くまで出るように勧める。 |
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2.5.26 | など、そそのかしきこゆ。 |
などと、お促し申し上げる。 |
などと言い、夫人を促していた。 |
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第六段 薫、中君と語らう |
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2.6.1 | もともと、感じがてきぱきと男らしくはいらっしゃらないご性格であるが、ますますしっとりと静かにしていらっしゃるので、今は、自分からお話し申し上げなさることも、だんだんと嫌で遠慮された気持ちも、少しずつ薄らいでお馴れになっていった。 |
もとから様子のおとなしい、男の荒さなどは持たぬ薫であるが、いよいよしんみり静かなふうになっていたから、中の君はこの人と対談することの恥ずかしく思われたことも、時がもはや薄らがせてなしやすく思うようになっていた。 |
【もとよりも、けはひはやりかに】- 大島本は「もとよりも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「もとより」と「も」を削除する。『新大系』は底本のままとする。『完訳』は「「はやりか」は直情的な性格」と注す。 |
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2.6.2 | つらそうにしていらっしゃる様子も、「どうしたのですか」などとお尋ね申し上げなさったが、はっきりともお答え申し上げず、いつもよりも沈んでいらっしゃる様子がおいたわしいのが、お気の毒に思われなさって、情愛こまやかに、夫婦仲のあるべき様子などを、兄妹である者のように、お教え慰め申し上げなさる。 |
「お |
【悩ましく思さるらむさまも、「いかなれば】- 薫の詞。中君に身体の具合を問う。 【常よりもしめりたまへるけしきの心苦しきも、あはれに】- 『完訳』は「このあたり、彼女への悔恨と執心を改めて抱く薫だけに、憐憫と同情の念に堪えがたい」と注す。 【おぼえたまひて】- 大島本は「おほえ給て」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思ほえたまひて」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 【世の中のあるべきやうなどを】- 夫婦の間の心得。 【はらからやうの者のあらましやうに】- 『完訳』は「実兄のような誠意と温情」と注す。 |
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2.6.3 | 声なども、特に似ていらっしゃるとは思われなかったが、不思議なまでにあの方そっくりに思われるので、人目が見苦しくないならば、簾を引き上げて差し向かいでお話し申し上げたく、苦しくしていらっしゃる容貌が見たく思われなさるのも、「やはり、恋の物思いに悩まない人は、いないのではないか」と自然と思い知られなさる。 |
声なども特によく似たものともその当時は思わなかったのであるが、怪しいほど薫には昔の人のとおりに聞こえる中の君の声であった。人目に見苦しくなければ、 |
【あやしきまでただそれとのみおぼゆるに】- 薫には中君が大君そっくりに思えてくる。 【人目見苦しかるまじくは】- 以下、薫の心情に即した叙述。 【うち悩みたまへらむ容貌】- 中君の様子。 【なほ、世の中に】- 以下「わざにやあらむ」まで、薫の心中の思い。 |
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2.6.4 | 「 |
「人並に出世して派手な方面はございませんが、心に思うことがあり、嘆かわしく身を悩ますことはなくて過ごせるはずの現世だと、自分自身思っておりましたが、心の底から、悲しいことも、馬鹿らしく悔しい物思いをも、それぞれに休まる時もなく思い悩んでいますことは、つまらないことです。 官位などといって、大事にしているらしい、もっともな愁えにつけて嘆き思う人よりも、自分の場合は、もう少し罪の深さが勝るだろう」 |
「はなやかなこの世の存在ではなくとも、心に物思いをして歎きにわが身をもてあますような人にはならずに、一生を過ごしたいと願っていた私ですが、自身の心から悲しみも見ることになり、愚かしい後悔もこもごも覚えることになりましたのは残念です。官位の昇進が思うようにならぬということを人は最も大きな歎きとしていますが、それよりも私のする歎きのほうが少し罪の深さはまさるだろうと思われます」 |
【人びとしく】- 以下「まさるらむ」まで、薫の心中の思い。 【心から、悲しきことも、をこがましく悔しきもの思ひをも】- 『完訳』は「前述から反転し、実際には自ら求めての憂愁の人生だと反芻。昨夜来の自省と同形式。「悲しきは--」は大君の死、「をこがましくは--」は中の君を譲ったこと」と注す。 【これや、今すこし罪の深さはまさるらむ】- 『完訳』は「自分の場合は、仏の戒める愛執の罪から逃れられぬとする」と注す。 |
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2.6.5 | など |
などと言いながら、手折りなさった花を、扇に置いてじっと見ていらっしゃったが、だんだんと赤く変色してゆくのが、かえって色のあわいが風情深く見えるので、そっと差し入れて、 |
などと言いながら、薫は持って来た花を扇に載せて見ていたが、そのうちに白い朝顔は赤みを帯びてきて、それがまた美しい色に見られるために、御簾の中へ静かにそれを差し入れて、 |
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2.6.6 | 「あなたを姉君と思って自分のものにしておくべきでした 白露が約束しておいた朝顔の花ですから」 |
よそへてぞ見るべかりける白露の 契りかおきし朝顔の花 |
【よそへてぞ見るべかりける白露の--契りかおきし朝顔の花】- 「白露」を大君に、「朝顔の花」を中君によそえる。『完訳』は「「朝顔」「露」の組合せを基盤に、人間のはかなさ、中の君との縁の薄さを嘆く」と注す。 |
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2.6.7 | ことさらそうしたのではなかったが、「露を落とさないで持ってきたことよ」と、興趣深く思えたが、露の置いたまま枯れてゆく様子なので、 |
と言った。わざとらしくてこの人が携えて来たのでもないのに、よく露も落とさずにもたらされたものであると思って、中の君がながめ入っているうちに見る見る |
【露落とさで持たまへりけるよ】- 大島本は「露おとさて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「露を落とさで」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。 |
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2.6.8 | 「露の消えない間に枯れてしまう花のはかなさよりも 後に残る露はもっとはかないことです |
「消えぬまに枯れぬる花のはかなさに おくるる露はなほぞまされる |
【消えぬまに枯れぬる花のはかなさに--おくるる露はなほぞまされる】- 中君の返歌。薫の「露」「花」の語句を用いて、「花」を大君に「露」自分によそえて、「なほぞまされる」(私のほうがさらに頼りない)と返す。 |
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2.6.9 | 何にすがって生きてゆけばよいのでしょう」 |
『何にかかれる』(露のいのちぞ)」 |
【何にかかれる】- 歌に添えた詞。『原中最秘抄』は「藤波に松の音せずは何にかかれる花と知らまし」(出典未詳)を指摘するが、『細流抄』は「引歌かなはざる歟」。『集成』は「何にすがって生きてゆけばよいのでしょう。引歌のあるべきところであるが未詳」と注す。 |
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2.6.10 | と、たいそう低い声で言葉も途切れがちに、慎ましく否定なさったところは、「やはり、とてもよく似ていらっしゃるなあ」と思うと、何につけ悲しい。 |
と低い声で言い、それに続けては何も言わず、遠慮深く口をつぐんでしまう中の君のこんなところも故人によく似ていると思うと、薫はまずそれが悲しかった。 |
【なほ、いとよく似たまへるものかな】- 薫の感想。大君に似ている。 |
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第七段 薫、源氏の死を語り、亡き大君を追憶 |
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2.7.1 | 「秋の空は、いま一つ物思いばかりまさります。 所在ない紛らしにと思って、最近、宇治へ行きました。 庭も籬もほんとうにますます荒れはてましたので、堪えがたいことが多くございました。 |
「秋はまたいっそう私を |
【秋の空は、今すこし眺めのみまさりはべり】- 大島本は「侍」とある。『集成』は「はべる」と連体形に読んで、「つれづて」に続ける。『完本』は「はべる」と連体形に読んで句点。『新大系』は「はべり」と終止形に読んで句点。以下「それさへなむ心憂くはべる」まで、薫の詞。 【庭も籬もまことにいとど荒れ果てて】- 『奥入』は「里は荒れて人は古りにし宿なれや庭も籬も秋の野らなる」(古今集秋上、二四八、僧正遍昭)を指摘。 |
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2.7.2 | かの |
故院がお亡くなりになって後、二、三年ほど前に、出家なさった嵯峨院でも、六条院でも、ちょっと立ち寄る人は、感慨に咽ばない者はございませんでした。 木や草の色につけても、涙にくれてばかり帰ったものでございました。 あちらの殿にお仕えしていた人たちは、身分の上下を問わず心の浅い人はございませんでした。 |
私の父の院がお |
【故院の亡せたまひて】- 光源氏をさす。「さしのぞく人の」以下に係る。 【二、三年ばかりの末に、世を背きたまひし】- 光源氏は亡くなる二、三年前に出家をしたという。初見の記事。 【かの御あたりの人は】- 源氏に親しく仕えた人たち。 |
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2.7.3 | あちこちに集まっていられた方々も、みなそれぞれに退出してゆき、おのおのこの世を捨てた生活をしていらしたようですが、しがない身分の女房などは、それ以上に悲しい思いを収めることもないままに、わけも分からない考えにまかせて、山林に入って、つまらない田舎人になりさがったりなどして、かわいそうにうろうろと散ってゆく者が多うございました。 |
それぞれ別な所へ別れて行き、世の中とは隔離した生活を志されたものです、またそうたいした身の上でない女房らは悲しみにおぼれきって、もうどうなってもいいというように山の中へはいったり、つまらぬ |
【女房などはた、まして】- 大島本は「女房なとはたまして」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「女房などはまして」と「た」を削除する。『新大系』は底本のままとする。 |
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2.7.4 | さて、なかなか さる |
そうして、かえってすっかり荒らしはて、忘れ草が生えて後、この右大臣も移り住み、宮たちなども何方もおいでになったので、昔に返ったようでございます。 その当時、世に類のない悲しみと拝見しましたことも、年月がたてば、悲しみの冷める時も出てくるものだ、と経験しましたが、なるほど、物には限りがあるものだった、と思われます。 |
そうして故人の家を事実上荒らし果てたあとで、左大臣がまた来て住まれるようになり、宮がたもそれぞれ別れて六条院をお使いになることになって、ただ今ではまた昔の六条院が再現された形になりました。あれほど大きな悲しみに |
【宮たちなども】- 明石中宮腹の宮たち。女一宮や東宮(一宮)や匂宮(三宮)など。 |
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2.7.5 | かくは なほ、この |
このように申し上げさせていただきながらも、あの昔の悲しみは、まだ幼かった時のことで、とてもそんなに深く感じなかったのでございましょう。 やはり、この最近の夢こそ、覚ますことができなく存じられますのは、同じように、世の無常の悲しみであるが、罪深いほうでは勝っていましょうかと、そのことまでがつろうございます」 |
こう私は言っていましても昔の悲しみは少年時代のことでしたから、悲痛としていても悲痛がそれほど身にしまなかったのかもしれません。近く見ました悲しみの夢は、まだそれからさめることもどうすることもできません。どちらも死別によっての感傷には違いありませんが、親の死よりも罪深い恋人関係の人の死のほうに苦痛を多く覚えていますのさえみずから情けないことだと思っています」 |
【かのいにしへの悲しさは】- 光源氏の死去。薫の九歳前後。 【この近き夢こそ】- 大君の死去をいう。 |
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2.7.6 | とて、 |
と言って、お泣きになるところ、まことに心深そうである。 |
こう言って泣く薫に、にじみ出すほどな情の深さが見えた。 |
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2.7.7 | 亡くなった方を、たいしてお思い申し上げない人でさえ、この方が悲しんでいらっしゃる様子を見ると、つい同情してもらい泣きしないではいられないが、それ以上に、自分も何となく心細くお思い乱れなさるにつけては、ますますいつもよりも、面影に浮かんで恋しく悲しくお思い申し上げなさる気分なので、いまいちだんと涙があふれて、何も申し上げることがおできになれず、躊躇なさっている様子を、お互いにまことに悲しいと思い交わしなさる。 |
大姫君を知らず、愛していなかった人でも、この薫の悲しみにくれた様子を見ては涙のわかないはずもないと思われるのに、まして中の君自身もこのごろの苦い物思いに心細くなっていて、今まで以上にも姉君のことが恋しく思い出されているのであったから、薫の憂いを見てはいっそうその思いがつのって、ものを言われないほどになり、泣くのをおさえきれずになっているのを薫はまた知って、双方で哀れに思い合った。 |
【昔の人を】- 故大君をさす。 【かたみにいとあはれと思ひ交はしたまふ】- 薫と中君がそれぞれの憂愁を確認し合うように、共感する。 |
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第八段 薫と中君の故里の宇治を思う |
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2.8.1 | 「 |
「世の中のつらさよりはなどと、昔の人は言ったが、そのように比較する考えも特になくて、何年も過ごしてきましたが、今やっと、やはり何とか静かな所で過ごしたく存じますが、何といっても思い通りにならないようなので、弁の尼が羨ましうございます。 |
「世の |
【世の憂きよりはなど】- 以下「となむ思ひはべりつる」まで、中君の詞。『源氏釈』は「山里はもののわびしきことこそあれ世の憂きよりは住みよかりけり」(古今集雑下、九四四、読人しらず)を指摘。 |
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2.8.2 | 今月の二十日過ぎには、あの山荘に近いお寺の鐘の音も耳にしたく思われますので、こっそりと宇治へ連れて行ってくださいませんか、と申し上げたく思っておりました」 |
今月の二十幾日はあすこの山の |
【この二十日あまりのほどは】- 八月二十日過ぎ。父八宮の命日。 【思ひはべりつる】- 完了の助動詞「つ」連体形、以前からそう思っていたというニュアンス。 |
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2.8.3 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と中の君は言った。 |
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2.8.4 | 「 かしこは、なほ |
「荒らすまいとお考えになっても、どうしてそのようなことができましょう。 気軽な男でさえ、往復の道が荒々しい山道でございますので、思いながら幾月もご無沙汰しています。 故宮のご命日には、あの阿闍梨に、しかるべき事柄をみな言いつけておきました。 あちらは、やはり仏にお譲りなさいませ。 時々御覧になるにつけても、迷いが生じるのも困ったことですから、罪を滅したい、と存じますが、他にどのようにお考えでしょうか。 |
「宇治をどんなに恋しくお思いになりましてもそれは無理でしょう。あの道を |
【荒らさじと思すとも】- 以下「本意かなふにてはべらめ」まで、薫の詞。 【故宮の御忌日は】- 大島本は「この宮の御き日」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「故宮の御忌日」と校訂する。『新大系』は底本のままとするが、脚注に「「この宮」は諸本「故宮」に従うべきか」と注する。 【かしこは、なほ尊き方に思し譲りてよ】- 宇治山荘を寺に改めてはという提案。 【罪失ふさまになしてばや、となむ思ひたまふるを】- 『完訳』は「自分の、大君ゆえの愛執の罪を消滅させるよすがにしたい、とする。寺への改造を勧めるゆえん」と注す。 |
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2.8.5 | ともかくも あるべからむやうにのたまはせよかし。 |
どのようにお考えなさることにも従おう、と存じております。 ご希望どおりにおっしゃいませ。 どのようなことも親しく承るのが、望むところでございます」 |
あなたの御意見によってどうとも決めたいと思うのですから、ああしたいとか、そうしてもいいとか腹蔵なくおっしゃってください。何事にもあなたのお心持ちをそのまま行なわせていただけばそれで私は満足なのです」 |
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2.8.6 | などと、実務面のことをも申し上げなさる。 経や仏など、この上さらに御供養なさるようである。 このような機会にかこつけて、そっと籠もりたい、などとお思いになっている様子なので、 |
と言い、まじめな話を |
【この上も供養じたまふべきなめり】- 『集成』は「経巻や仏像などを、この上ととも寄進なさるお積りらしい。山荘を寺にという薫の意図を忖度する草子地。通説に中の君のこととするが、文の呼吸に合わない」。『完訳』は「このうえとも。一説には、中の君も。語り手の推測の一文」「中納言はご自身もさらに経巻や仏像などを供養なさるおつもりらしい」。『新大系』は「中君に申し上げた以上の事までも(薫は)。「この上」を細流抄・湖月抄などは、中君のことと解する」と注す。 |
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2.8.7 | 「実にとんでもないことです。 やはり、どのようなことでもゆったりとお考えなさいませ」 |
「宇治へ引きこもろうというようなお考えをお出しになってはいけませんよ。どんなことがあっても寛大な心になって見ていらっしゃい」 |
【いとあるまじきことなり】- 以下「思しなせ」まで、薫の詞。 |
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2.8.8 | と |
とお諭し申し上げなさる。 |
などとも忠告した。 |
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第九段 薫、二条院を退出して帰宅 |
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2.9.1 | 日が昇って、人びとが参集して来るので、あまり長居するのも何かわけがありそうにとられるので、お出になろうとして、 |
日が高く上ってきて伺候者が集まって来た様子であったから、あまり長居をするのも秘密なことのありそうに誤解を受けることであろうから帰ろうと薫はして、 |
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2.9.2 | 「どこでも、御簾の外は馴れておりませんので、体裁の悪い気がしました。 いずれまた、このようにお伺いしましょう」 |
「どこへまいっても |
【いづこにても】- 以下「さぶらはむ」まで、薫の詞。 |
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2.9.3 | と言ってお立ちになった。 「宮が、どうして不在の折に来たのだろう」ときっと想像するにちがいないご性質なのもやっかいなので、侍所の別当である右京大夫を呼んで、 |
こう |
【宮の、などかなき折には来つらむ】- 薫の心中。「宮」は匂宮をさす。 |
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2.9.4 | 「昨夜退出あそばしたと承って参上したが、まだであったので残念であった。 内裏に参ったほうがよかったろうか」 |
「昨夜宮様が御所からお出になったと聞いて伺ったのですが、まだ御帰邸になっておられないので失望をしました。御所へまいってお目にかかったらいいでしょうか」 |
【昨夜まかでさせたまひぬと】- 以下「参るべき」まで、薫の詞。 |
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2.9.5 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と言った。 |
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2.9.6 | 「今日は、退出あそばしましょう」 |
「今日はお帰りでございましょう」 |
【今日は、まかでさせたまひなむ】- 右京大夫の詞。 |
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2.9.7 | と |
と申し上げるので、 |
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2.9.8 | 「さらば、 |
「それでは、夕方にでも」 |
「ではまた夕方にでも」 |
【さらば、夕つ方も】- 薫の詞。 |
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2.9.9 | とて、 |
と言って、お出になった。 |
薫はそして二条の院を出た。 |
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2.9.10 | なほ、この そのままにまだ |
やはり、この方のお感じやご様子をお聞きになるたびごとに、どうして亡くなった姫君のお考えに背いて、考えもなく譲ってしまったのだろうと、後悔する気持ちばかりがつのって、忘れられないのもうっとうしいので、「どうして、自ら求めて悩まねばならない性格なのだろう」と反省なさる。 そのまままだ精進生活で、ますますただひたすら勤行ばかりなさっては、日をお過ごしになる。 |
中の君の物越しの |
【などて昔の人の】- 以下「思ひ隈なかりけむ」まで、薫の心中。 【そのままにまだ精進にて】- 薫は大君の死後なお精進生活を続けている。 |
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2.9.11 | 母宮が、依然としてとても若くおっとりして、はきはきしないお方でも、このようなご様子を、まことに危なく不吉であるとお思いになって、 |
母宮はまだ若々しくたよりない御性質ではあるが、薫のこうした生活を危険なことと御覧になって、 |
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2.9.12 | 「 |
「もう先が長くないので、お目にかかっている間は、やはり嬉しい姿を見せてください。 世の中をお捨てになるのも、このような出家の身では、反対申し上げるべきことではないが、この世が話にもならない気がしましょう、その心迷いに、ますます罪を得ようかと思われます」 |
「私はもういつまでも生きてはいないのでしょうから、私のいる間は幸福なふうでいてください。あなたが仏道へはいろうとしても、私自身尼になっていながらとめることはできないのだけれど、この世に生きている間の私はそれを寂しくも悲しくも思うことだろうから、結局罪を作ることになるだろうからね」 |
【幾世しもあらじを】- 以下「とおぼゆる」まで、女三宮の詞。『異本紫明抄』は「幾世しもあらじ我が身をなぞもかくあまのかるもに思ひ乱るる」(古今集雑下、九三四、読人しらず)を指摘。 |
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2.9.13 | とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづを |
とおっしゃるのが、もったいなくおいたわしいので、何もかも思いを忘れては、御前では物思いのない態度を作りなさる。 |
とお言いになるのが、薫にはもったいなくもお気の毒にも思われて、母宮のおいでになる所では物思いのないふうを装っていた。 |
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第三章 中君の物語 匂宮と六の君の婚儀 |
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第一段 匂宮と六の君の婚儀 |
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3.1.1 | 右の大殿邸では、六条院の東の御殿を磨き飾って、この上なく万事を整えてお待ち申し上げなさるが、十六日の月がだんだん高く昇るまで見えないので、たいしてお気に入りでもない結婚なので、どうなのだろうと、ご心配になって、様子を探って御覧になると、 |
左大臣家では東の御殿をみがくようにもして |
【六条院の東の御殿】- 六の君は花散里の養女となって夏の御殿に住んでいる。 【十六日の月】- 月の出が遅くなる。匂宮を待つ心に重ね合わせた設定。 【いとしも】- 以下「いかならむ」まで、夕霧の心中。 |
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3.1.2 | 「この夕方、宮中から退出なさって、二条院にいらっしゃるという」 |
夕方に御所をお出になって二条の院においでになる |
【この夕つ方】- 以下「おはしますなる」まで、使者の報告。 |
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3.1.3 | と、人が申す。 お気に入りの人がおありなのでと、おもしろくないけれども、今夜が過ぎてしまうのも物笑いになるだろうから、ご子息の頭中将を使いとして申し上げなさった。 |
というしらせがもたらされた。愛する人を持っておいでになるのであるからと不快に大臣は思ったが、今夜に済まさねば世間体も悪いと思い、 |
【今宵過ぎむも人笑へなるべければ】- 十六日の今宵が婚儀の日。世間周知のこと。 【頭中将】- 六の君と同じく藤典侍腹。 |
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3.1.4 | 「大空の月でさえ宿るわたしの邸にお待ちする 宵が過ぎてもまだお見えにならないあなたですね」 |
大空の月だに宿るわが宿に待つ |
【大空の月だに宿るわが宿に--待つ宵過ぎて見えぬ君かな】- 夕霧から匂宮への贈歌。『花鳥余情』は「大空の月だに宿にいるものを雲のよそにも過ぐる君かな」(元良親王御集)を指摘。 |
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3.1.5 | らうたげなるありさまを、 |
宮は、「かえって今日が結婚式だと知らせまい、お気の毒だ」とお思いになって、内裏にいらっしゃった。 お手紙を差し上げたお返事はどうあったのだろうか、やはりとてもかわいそうに思われなさったので、こっそりとお渡りになったのであった。 かわいらしい様子を、見捨ててお出かけになる気もせず、いとおしいので、いろいろと将来を約束し慰めて、ご一緒に月を眺めていらっしゃるところであった。 |
宮はこの日に新婚する自分を目前に見せたくない、あまりにそれは残酷であると |
【なかなか今なむとも見えじ、心苦し】- 匂宮の心中。中君に今宵が結婚の日だとはなまじ知らせまい、気の毒だ、という気持ち。 【御文聞こえたまへりけり】- 大島本は「給へりけり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへりける」と連体形に校訂する。『新大系』は底本のままとする。 【御返りやいかがありけむ】- 中君の心中を推測する語り手の挿入句。『一葉抄』は「内より匂宮の中君へまいらせられし御返事也いかゝありけんとおほくと書なせり面白云々」と指摘。『完訳』は「彼女の苦悩を想像させる語り手の推測」と注す。 【忍びて渡りたまへりけるなりけり】- 匂宮が二条院に。当初は内裏から六条院へ直接出向く予定でいた。以下「--なりけり」という語り方。 【よろづに契り慰めて、もろともに月を眺めておはするほどなりけり】- 『湖月抄』は「我が心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(古今集雑上、八七八、読人しらず)を指摘する。 |
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3.1.6 | 女君は、日頃もいろいろとお悩みになることが多かったが、何とかして表情に表すまいと我慢なさっては、さりげなく心静めていらっしゃることなので、特にお耳に入れないふうに、おっとりと振る舞っていらっしゃる様子は、まことにおいたわしい。 |
夫人は今までも |
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3.1.7 | 中将が参上なさったのをお聞きになって、そうはいってもあちらもお気の毒なので、お出かけになろうとして、 |
頭中将の来たのをお聞きになると、さすがに宮はあちらの人もかわいそうにお思われになり、お出かけになろうとして、 |
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3.1.8 | 「今、直ぐに帰って来ます。 独りで月を御覧なさいますな。 上の空の思いでとても辛い」 |
「すぐ帰って来ます。一人で月を見ていてはいけませんよ。気の張り切っていない時などには危険で心配だから」 |
【今、いと疾く参り来む】- 以下「いと苦しき」まで、匂宮の中君への詞。 【一人月な見たまひそ】- 『孟津抄』は「大方は月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの」(古今集雑上、八七九、在原業平)、『岷江入楚』は「独り寝のわびしきままに起きゐつつ月をあはれと忌みぞかねつる」(後撰集恋二、六八四、読人しらず)を指摘。また『岷江入楚』は「月明に対して往時を思ふこと莫かれ君が顔色を損じ君が年を減ぜん」(白氏文集巻十四、贈内)を指摘。 【心そらなればいと苦しき】- 大島本は「くるしき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「苦し」と終止形に校訂する。『新大系』は底本のままとする。『全書』は「たもとほり行箕の里に妹を置きて心空なり土は踏めども」(万葉集巻十一)を指摘。 |
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3.1.9 | と |
と申し上げおきなさって、やはり見ていられないので、物蔭を通って寝殿へお渡りになる、その後ろ姿を見送るにつけ、あれこれ思わないが、ただ枕が浮いてしまいそうな気がするので、「嫌なものは人の心であった」と、自分のことながら思い知られる。 |
とお言いになり、きまりの悪いお気持ちで隠れた廊下から寝殿へお行きになった。お後ろ姿を見送りながら中の君は |
【枕の浮きぬべき心地】- 『花鳥余情』は「涙川水まさればやしきたへの枕浮きて止まらざるらむ」(拾遺集雑恋、一二五八、読人しらず)、『源注拾遺』は「独り寝の床に溜れる涙には石の枕も浮きぬべらなり」(古今六帖五、枕)を指摘。 【心憂きものは人の心なりけり】- 中君の心中。 |
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第二段 中君の不安な心境 |
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3.2.1 | 「 |
「幼いころから心細く哀れな姉妹で、世の中に執着などお持ちでなかった父宮お一方をお頼り申し上げて、あのような山里に何年も過ごしてきたが、いつとなく所在なく寂しい生活ではあったが、とてもこのように心にしみてこの世が嫌なものだと思わなかったが、引き続いて思いがけない肉親の死に遭って悲しんだ時は、この世にまた生き遺って片時も生き続けようとは思えず、悲しく恋しいことの例はあるまいと思ったが、命長く今まで生き永らえていたので、皆が思っていたほどよりは、人並みになったような有様が、長く続くこととは思わないが、一緒にいる限りは憎めないご愛情やお扱いであるが、だんだんと悩むことが薄らいできていたが、この度の身のつらさは、言いようもなく、最後だと思われることであった。 |
幼い日から母のない娘で、この世をお愛しにもならぬ父宮を唯一の頼みにしてあの寂しい宇治の山荘に長くいたのであるが、いつとなくそれにも |
【幼きほどより】- 以下「おのづからながらへば」まで、中君の心中。 【人にもなるやうなるありさま】- 皇族として人並みの生活。匂宮の夫人として二条院に迎えられた現在の境遇。 【この折ふしの身の憂さ】- 大島本は「この(+おり)ふし」とある。『集成』『完本』は諸本と底本の訂正以前に従って「このふし」とする。『新大系』は底本の訂正に従って「このおりふし」とする。 |
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3.2.2 | ひたすら おのづからながらへば」 |
跡形もなくすっかりお亡くなりになってしまった方々よりは、いくらなんでも、宮とは時々でも何でお会いできないことがないだろうかと思ってもよいのだが、今夜このように見捨ててお出かけになるつらさが、過去も未来も、すべて分からなくなって、心細く悲しいのが、自分の心ながらも晴らしようもなく、嫌なことだわ。 自然と生き永らえていればまた」 |
人の死んだ場合とは違って、どんなに新夫人をお愛しになるにもせよ、時々はおいでになることがあろうと思ってよいはずであるが、今夜こうして寂しい自分を置いてお行きになるのを見た |
【時々もなどかは】- 反語表現。下に「逢へざらむ」などの語句が省略。逢えないことはない、の意。 【おのづからながらへば】- 『集成』は「そのうちまた、匂宮との間もうまくゆくようになるかもしれない、という気持」と注す。 |
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3.2.3 | など |
などと慰めることを思うと、さらに姨捨山の月が澄み昇って、夜が更けて行くにつれて千々に心が乱れなさる。 松風が吹いて来る音も、荒々しかった山下ろしに思い比べると、とてものんびりとやさしく、感じのよいお住まいであるが、今夜はそのようには思われず、椎の葉の音には劣った感じがする。 |
などと、みずから慰めようと中の君はするのであるが、 |
【姨捨山の月澄み昇り】- 『源氏釈』は「我が心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(古今集雑上、八七八、読人しらず)を指摘。 【椎の葉の音には劣りて思ほゆ】- 『集成』は「椎は、歌の世界で、山里暮しの象徴的景物だったと思われるが、古い歌の例に逢着しない」と注す。 |
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3.2.4 | 「山里の松の蔭でもこれほどに 身にこたえる秋の風は経験しなかった」 |
山里の松の 身にしむ秋の風はなかりき |
【山里の松の蔭にもかくばかり--身にしむ秋の風はなかりき】- 中君の独詠歌。「秋」に「飽き」を響かせる。『完訳』は「秋風に寄せる絶望的な心の歌」と注す。 |
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3.2.5 | 過去のつらかったことを忘れたのであろうか。 |
過去の悲しい夢は忘れたのであろうか。 |
【来し方忘れにけるにやあらむ】- 『明星抄』は「歌を釈したるなり」と指摘。『集成』は「中の君の心事を批評する形の草子地」。『完訳』は「語り手の評。宇治の山里のわびしさを忘れたかとするが、逆に歌の荒涼の心象風景が際だつ」と注す。 |
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3.2.6 | 老女連中などは、 |
老いた女房などが、 |
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3.2.7 | 「 あさましく、はかなき 「あな、 ゆゆしう |
「もう、お入りなさいませ。 月を見ることは忌むと言いますから。 あきれてまあ、ちょっとした果物でさえお見向きもなさらないので、どのようにおなりあそばすのでしょう」と。 「ああ、見苦しいこと。 不吉にも思い出されることがございますが、まことに困ったこと」 |
「もうおはいりあそばせ、月を長く見ますことはよくないことだと申しますのに。それにこの節ではちょっとしましたお菓子すら召し上がらないのですから、こんなことでどうおなりになりますでしょう。よくございません。以前の悲しいことも私どもにお思い出させになりますのは困ります。おはいりあそばせ」 |
【今は、入らせたまひね】- 以下「わりなけれ」まで、老女房の詞。 【月見るは忌み】- 独り寝の侘しきままに起きゐつつ月をあはれと忌みぞかねつる(後撰集恋二-六八四 読人しらず)(text49.html 出典18から転載) 【いかにならせたまはむ」と】- 大島本は「ならせ給んと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ならせたまはむ」と「と」を削除する。『新大系』は底本のままとする。 |
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3.2.8 | とうち |
と溜息をついて、 |
こんなことを言う。若い女房らは情けない世の中であると歎息をして、 |
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3.2.9 | 「いえね、今度の殿の事ですよ。 いくらなんでも、このままいい加減なお扱いで終わることはなされますまい。 そうは言っても、もともと深い愛情で結ばれた仲は、すっかり切れてしまうものでございません」 |
「宮様の新しい御結婚のこと、ほんとうにいやですね。けれどこの奥様をお捨てあそばすことにはならないでしょう。どんな新しい奥様をお持ちになっても、初めに深くお愛しになった方に対しては情けの残るものだと言いますからね」 |
【いで、この御ことよ】- 以下「なからぬものぞ」まで、女房の詞。 |
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3.2.10 | など 「いでや、 |
などと言い合っているのも、あれこれと聞きにくくて、「今はもう、どうあろうとも口に出して言うまい、ただ黙って見ていよう」とお思いなさるのは、人には言わせないで、自分独りお恨み申そうというのであろうか。 「いえね、中納言殿が、あれほど親身なご親切でしたのに」などと、その当時からの女房たちは言い合って、「人のご運命のあやにくなことよ」と言い合っていた。 |
などと言っているのも中の君の耳にはいってくる。見苦しいことである、もうどんなことになっても何とも自分からは言うまい、知らぬふうでいようとこの人が思っているというのは、人には批評をさせまい、自身一人で宮をお恨みしようと思うのであるかもしれない。「そうじゃありませんか、宮様に比べてあの中納言様の情のお深さ」とも老いた女は言い、「あの方の奥様になっておいでにならないで、こちらの奥様におなりになったというのも不可解な運命というものですね」こんなこともささやき合っていたのである。 |
【今は、いかにも】- 以下「ただにこそ見め」まで、中君の心中の思い。 【人には言はせじ、我一人怨みきこえむとにやあらむ】- 『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「これも中の君の心中を忖度する形の草子地」。『完訳』は「以下、中の君の真意を忖度する語り手の言辞。自分ひとりだけで匂宮を恨もうとのつもりか」と注す。 【いでや、中納言殿の】- 以下「御心深さを」まで、女房の詞。 【人の御宿世のあやしかりけることよ】- 女房の詞。 |
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第三段 匂宮、六の君に後朝の文を書く |
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3.3.1 | 宮は、たいそうお気の毒にお思いになりながら、派手好きなご性格は、何とか立派な婿殿と期待されようと、気取って、何ともいえず素晴らしい香をたきしめなさったご様子は、申し分がない。 お待ち申し上げていらっしゃるところの様子も、まことに素晴らしかった。 身体つきは、小柄で華奢といったふうではなく、ちょうどよいほどに成人していらっしゃるのを、 |
宮は中の君を心苦しく |
【いかでめでたきさまに待ち思はれむ】- 匂宮の心中。立派な婿君として歓迎されたい、という気持ち。 【人のほど、ささやかにあえかになどはあらで】- 地の文。匂宮がまだ知らない六の君の様をあらかじめ語る。 |
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3.3.2 | 「どんなものかしら。 もったいぶって気が強くて、気立ても柔らかいところがなく、何となく高慢な感じであろうか。 それであったら、嫌な感じがするだろう」 |
どんな人であろう、たいそうに美人がった柔らかみのない、自尊心の強いような女ではなかろうか、そんな妻であったならいやになるであろうと、 |
【いかならむ】- 以下「うたてあるべけれ」まで、匂宮の心中。 |
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3.3.3 | などとお思いになるが、そのようなご様子ではないのであろうか、ご執心はいい加減にはお思いなされなかった。 秋の夜だが、更けてから行かれたからであろうか、まもなく明けてしまった。 |
こんなことを最初はお思いになったのであるが、そうではないらしくお感じになったのか愛をお持ちになることができた。秋の長夜ではあったが、おそくおいでになったせいでまもなく明けていった。 |
【秋の夜なれど、更けにしかば】- 『花鳥余情』は「長しとも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば」(古今集恋三、六三六、読人しらず)を指摘。 |
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3.3.4 | お帰りになっても、対の屋へはすぐにはお渡りなることができず、しばらくお寝みになって、起きてからお手紙をお書きになる。 |
兵部卿の宮はお帰りになってもすぐに西の対へおいでになれなかった。しばらく御自身のお居間でお |
【帰りたまひても、対へは】- 二条院へ帰っても中君のいる対屋へは、の意。 【御文】- 後朝の文。 |
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3.3.5 | 「ご様子は悪くはないようだわ」 |
あの御様子ではお気に入らないのでもなかったらしい |
【御けしきけしうはあらぬなめり】- 匂宮付きの女房の囁き。 |
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3.3.6 | と、 |
と御前の人びとがつつき合う。 |
などと女房たちは |
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3.3.7 | 「対の御方はお気の毒だわ。 どんなに広いお心であっても、自然と圧倒されることがきっとあるでしょう」 |
「対の奥様がお気の毒ですね。どんなに大きな愛を宮様が持っておいでになっても、自然 |
【対の御方こそ】- 以下「ありなむし」まで、匂宮付きの女房の詞。 |
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3.3.8 | など、ただにしもあらず、 「 |
などと、平気でいられず、みな親しくお仕えしている人びとなので、穏やかならず言う者もいて、総じて、やはり妬ましいことであった。 「お返事も、こちらで」とお思いになったが、「夜の間の気がかりさも、いつものご無沙汰よりもどんなものか」と、気にかかるので、急いでお渡りになる。 |
ただの主従でない関係も宮との間に持っている人が多かったから、ここでも |
【皆馴れ仕うまつりたる人びとなれば】- 匂宮付きの女房が中君付きの女房と仲好くしているということ。 【なほねたげなるわざにぞありける】- 『完訳』は「「なほ--ける」と気づく趣」と注す。 【御返りも、こなたにてこそ】- 匂宮の心中。『集成』は「六の君からのお返事も、こちら(寝殿)で見たいものとお思いだが。中の君への遠慮の気持」と注す。 【夜のほどおぼつかなさも、常の隔てよりはいかが】- 大島本は「よの程」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「夜のほども」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。匂宮の心中。中君への昨夜の夜離れを慮る。 【急ぎ渡りたまふ】- 中君のいる西の対へ。 |
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3.3.9 | 寝起き姿のご容貌が、たいそう立派で見所があって、お入りになったので、臥せっているのも嫌なので、少し起き上がっていらっしゃると、ちょっと赤らんでいらっしゃる顔の美しさなどが、今朝は特にいつもより格別に美しさが増してお見えになるので、無性に涙ぐまれて、暫くの間じっとお見つめ申していらっしゃると、恥ずかしくお思いになってうつ伏せなさっている、髪のかかり具合、かっこうなどが、やはりまことに見事である。 |
まだ夜のまま繕われていない夫人の顔が非常に美しく心を |
【寝くたれの御容貌、いとめでたく見所ありて】- 『完訳』は「匂宮の。六の君との共寝を思わせる表現。優艷な姿である」と注す。 【うち赤みたまへる顔の匂ひなど】- 『集成』は「昨夜泣き明かした名残であろう」と注す。 【今朝しもことに】- 大島本は「けさしもことに」とある。『完本』は「今朝しも常よりことに」と諸本に従って「常より」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 |
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3.3.10 | 宮も、何か体裁悪いので、こまごまとしたことなどは、ちっともおっしゃらない照れ隠しであろうか、 |
きまりの悪さに愛の言葉などはちょっと口へ出ず、なにげないふうに紛らして、 |
【こまやかなることなどは】- 愛情のこもったやさしい言葉。 【面隠しにや】- 語り手の匂宮の心中を忖度した挿入句。 |
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3.3.11 | 「などかくのみ さまざまにせさすることも、あやしく さはありとも、 なにがし |
「どうしてこうしてばかり苦しそうなご様子なのでしょう。 暑いころのゆえとか、おっしゃっていたので、早く涼しいころになればと待っていたのに、依然として気分が良くならないのは、困ったことですわ。 いろいろとさせていたことも、不思議に効果がない気がする。 そうはいっても、修法はまた延長してよいだろう。 効験のある僧はいないだろうか。 何某僧都を、夜居に伺候させればよかった」 |
「どうしてこんなに苦しそうにばかり見えるのだろう。暑さのせいだとあなたは言っていたからやっと涼しくなって、もういいころだと思っているのに、晴れ晴れしくないのはいけないことですね。いろいろ |
【などかくのみ】- 以下「さぶらはすべかりける」まで、匂宮の詞。 【いつしかと涼しきほど待ち出でたるも】- 今日は八月十七日。中秋も半ばを過ぎたころ。依然として暑い日が続いているという。 【なほはればれしからぬは】- 中君の気分がさっぱりしない。 【験あらむ僧もがな】- 大島本は「しるしあらむそうもかな」とある。『完本』は諸本に従って「僧をがな」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 【なにがし僧都を】- 『集成』は「実名を言ったのだが、それをあらわに文章化しない書き方」と注す。 |
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3.3.12 | など、やうなるまめごとをのたまへば、かかる |
など、といったような実際的なことをおっしゃるので、このような方面でも調子のよい話は、気にくわなく思われなさるが、全然お返事申し上げないのもいつもと違うので、 |
というようなまじめらしい話をされるのにもお口じょうずなのがうとましく思われる中の君でもあったが、何もお返辞をしないのは平生に違ったことと思われるであろうとはばかって、 |
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3.3.13 | 「昔も、人と違った体質で、このようなことはありましたが、自然と良くなったものです」 |
「私は昔もこんな時には普通の人のような祈祷も何もしていただかないで自然になおったのですから」 |
【昔も、人に似ぬ】- 以下「おこたるものを」まで、中君の詞。 |
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3.3.14 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と言った。 |
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3.3.15 | 「とてもよくまあ、さっぱりしたものですね」 |
「それでよくなおっているのですか」 |
【いとよくこそ、さはやかなれ】- 中君の詞。『集成』は「冗談にまぎらわす気持」。『完訳』は「病気をも心配せず私をも嫉妬せず、さわやかな性格と冷かす」と注す。 |
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3.3.16 | とにっこりして、「やさしくかわいらしい点ではこ、の人に並ぶ者はいない」とは思いながら、やはりまた、早く逢いたい方への焦りの気持ちもお加わりになっているのは、ご愛情も並々ではないのであろうよ。 |
と宮はお笑いになって、なつかしい |
【なつかしく】- 以下「人はあらじかし」まで、匂宮の心中の思い。 【とくゆかしき方】- 新婚の六の君への関心。 【なめりかし】- この前後、語り手の感情移入を交えた叙述。 |
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第四段 匂宮、中君を慰める |
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3.4.1 | されど、 |
けれど、向き合っていらっしゃる間は変わった変化もないのであろうか、来世まで誓いなさることの尽きないのを聞くにつけても、なるほど、この世は短い寿命を待つ間も、つらいお気持ちは表れるにきまっているので、「来世の約束も違わないことがあろうか」と思うと、やはり性懲りもなく、また頼らずにはいられないと思って、ひどく祈るようであるが、我慢することができなかったのか、今日は泣いておしまいになった。 |
しかしながらこの人と今いっしょにおいでになっては、 |
【げに、この世は短かめる命待つ間も】- 以下「またも頼まれぬべけれ」まで、中君の心中の思い。『源氏釈』は「ありはてぬ命待つ間のほどばかり憂きことしげく思はずもがな」(古今集雑下、九六五、平貞文)を指摘。 【つらき御心に】- 大島本は「つらき御心に」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「つらき御心は」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 【なほこりずまに、またも頼まれぬべけれ】- 『異本紫明抄』は「こりずまに又もなき名は立ちぬべし人憎からぬ世にし住まへば」(古今集恋三、六三一、読人しらず)を指摘。 【いみじく念ずべかめれど、え忍びあへぬにや】- 語り手の感情移入と想像を交えた叙述。 |
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3.4.2 | 日頃も、「何とかこう悩んでいたと見られ申すまい」と、いろいろと紛らわしていたが、あれやこれやと思うことが多いので、そうばかりも隠していられなかったのか、涙がこぼれ出しては、すぐには止められないのを、とても恥ずかしくわびしいと思って、かたくなに横を向いていらっしゃるので、無理に前にお向けになって、 |
今日までもこんなふうに思っているとはお見せすまいとして自身で紛らわしておさえてきた感情だったのであるが、いろいろと胸の中に重なってきて隠されぬことになり、こぼれ始めた涙はとめようもなく多く流れるのを、恥ずかしく苦しく思って、顔をすっかり向こうに向けているのを、しいて宮はこちらへお引き向けになって、 |
【いかでかう思ひけりと見えたてまつらじ】- 中君の心中の思い。 【えとみにもためらはぬを】- 大島本は「えとミにもえ(え#)ためらハぬを」とある。すなわち後出の「え」をミセケチにする。『集成』『完本』は諸本に従って「とみにもえためらはぬを」と校訂する。『新大系』は底本の訂正に従う。 |
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3.4.3 | 「申し上げるままに、いとしいお方と思っていたのに、やはりよそよそしいお心がおありなのですね。 そうでなければ、夜の間にお変わりになったのですか」 |
「二人がいっしょに暮らして、同じように愛しているのだと思っていたのに、あなたのほうにはまだ隔てがあったのですね。それでなければ |
【聞こゆるままに】- 以下「思し変はりにたるか」まで、匂宮の詞。 【あはれなる御ありさまと】- 『集成』は「いとしいお心根の方と」。『完訳』は「いじらしいお方と」と訳す。 |
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3.4.4 | とて、わが |
と言って、ご自分のお袖で涙をお拭いになると、 |
こうお言いになり宮は御自身の |
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3.4.5 | 「夜の間の心変わりとは、そうおっしゃることによって、想像されました」 |
「夜の間の心変わりということからあなたのお気持ちがよく察せられます」 |
【夜の間の心変はりこそ】- 以下「推し量られはべりぬれ」まで、中君の詞。 |
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3.4.6 | とて、すこしほほ |
と言って、少しにっこりした。 |
中の君は言って微笑を見せた。 |
【すこしほほ笑みぬ】- 皮肉っぽい表情。 |
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3.4.7 | 「げに、あが されどまことには、 いみじくことわりして むげに よし、わが もし、 たはやすく |
「なるほど、あなたは、子供っぽいおっしゃりようですよ。 けれどほんとうのところは、心に隠し隔てがないので、とても気楽だ。 ひどくもっともらしく申し上げたところで、とてもはっきりと分かってしまうものです。 まるきり夫婦の仲というものをご存知ないのは、かわいらしいものの困ったものです。 よし、自分の身になって考えてください。 この身を思うにまかせない状態です。 もし、思うとおりにできる時がきたら、誰にもまさる愛情のほどを、お知らせ申し上げることが一つあるのです。 簡単に口に出すべきことでないので、寿命があったら」 |
「ねえ、どうしたのですか、ねえ、なんという幼稚なことをあなたは言いだすのですか。けれどもあなたはほんとうは私へ隔てを持っていないから、心に浮かんだだけのことでもすぐ言ってみるのですね。だから安心だ。どんなにじょうずな言い方をしようとも私が別な妻を一人持ったことは事実なのだから私も隠そうとはしない。けれど私を恨むのはあまりにも世間というものを知らないからですよ。 |
【げに、あが君や】- 以下「命のみこそ」まで、匂宮の詞。 【されどまことには】- 大島本は「さりとまことにハ」とある。『集成』は諸本に従って「されど」と校訂する。『完本』『新大系』は底本のまま「さりと」とする。 【身を心ともせぬありさまなり】- 大島本は「ありさまなり」とある。『完本』は諸本に従って「ありさまなりかし」と「かし」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「ありさまなり」とする。『源氏釈』は「いなせとも言ひ放たれず憂きものは身を心ともせぬ世なりけり」(後撰集恋五、九三七、伊勢)を指摘。 【もし、思ふやうなる世もあらば】- 『集成』は「立坊ののち、即位の暁には、立后のこともあろう、の意」と注す。 【命のみこそ】- 寿命だけが頼りだ、の意。 |
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3.4.8 | などとおっしゃるうちに、あちらに差し上げなさったお使いが、ひどく酔い過ぎたので、少し遠慮すべきことも忘れて、おおっぴらにこの対の南面に参上した。 |
などと言っておいでになるうちに宮が六条院へお出しになった使いが、先方で勧められた酒に少し酔い過ぎて、 |
【かしこにたてまつれたまへる御使】- 六条院の六の君のもとに差し向けた後朝の文の使者。 【すこし憚るべきことども】- 中君への遠慮。 【この南面に】- 中君のいる西の対の南面。 |
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第五段 後朝の使者と中君の諦観 |
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3.5.1 | いつのほどに |
素晴らしく衣装を肩に被いて埋もれているのを、「そうらしい」と、女房たちは見る。 いつの間に急いでお書きになったのだろうと見るのも、おもしろくなかったであろうよ。 宮も、無理に隠すべきことでもないが、いきなり見せるのはやはりお気の毒なので、少しは気をつけてほしかったと、はらはらしたが、もうしかたがないので、女房をしてお手紙を受け取らせなさる。 |
美しい |
【海人の刈るめづらしき玉藻にかづき埋もれたるを】- 夕霧から使者への禄。『花鳥余情』は「何せむにへだのみるめを思ひけむ沖つ玉藻を潜く身にして」(後撰集雑一、一〇九九、大伴黒主)を指摘。「玉裳」「被き」(大島本等)、「海人」「刈る」「玉藻」「潜き」は縁語。 【書きたまへらむと】- 大島本は「給へらん」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまひつらむ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「給へらん」とする。 【すこしの用意はあれかし】- 匂宮の心中。使者に少しの配慮がほしかった、と思う。 |
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3.5.2 | 「同じことなら、すべて隠し隔てないようにしよう」とお思いになって、お開きになると、「継母の宮のご筆跡のようだ」と見えるので、少しは安心してお置きになった。 代筆でも、気がかりなことであるよ。 |
できるならば朗らかにしていま一人の妻のあることを認めさせてしまおうと思召して、手紙をおあけになると、それは |
【同じくは、隔てなきさまにもてなし果ててむ】- 匂宮の心中の思い。 【継母の宮の御手なめり】- 六の君の継母、落葉宮。 【宣旨書きにても、うしろめたのわざや】- 『岷江入楚』は「草子地にて評てかけり」と指摘。『完訳』は「語り手の評言。たとえ代筆でも中の君に見られてもよいか、の気持」と注す。 |
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3.5.3 | 「さし出でますことは、きまりが悪いので、お勧めしましたが、とても悩ましそうでしたので。 |
私などが出すぎたお返事をいたしますことは、失礼だと思いまして、書きますことを勧めるのですが、悩ましそうにばかりいたしておりますから、 |
【さかしらは】- 以下「名残なるらむ」まで、落葉宮の文。 |
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3.5.4 | 女郎花が一段と萎れています 朝露がどのように置いていったせいなのでしょうか」 |
をみなへし いかに置きける |
【女郎花しをれぞまさる朝露の--いかに置きける名残なるらむ】- 落葉宮の代作。「女郎花」を六の君に、「朝露」を匂宮に譬える。「置き」「起き」の懸詞。「置く」は「露」の縁語。 |
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3.5.5 | あてやかにをかしく |
上品で美しくお書きになっていた。 |
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3.5.6 | 「恨みがましい歌なのも厄介だね。 ほんとうは、気楽に当分暮らしていようと思っていたのに、意外なことになったものだ」 |
「恨みがましいことを言われるのも迷惑だ。ほんとうは私はまだ当分気楽にあなたとだけ暮らして行きたかったのだけれど」 |
【かことがましげなるも】- 以下「思ひの外にもあるかな」まで、匂宮の詞。 |
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3.5.7 | などはのたまへど、 |
などとはおっしゃるが、 |
などと宮は言っておいでになったが、 |
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3.5.8 | 「また つひにかかるべき かばかりものものしくかしづき |
「また他に二人となくて、そのような仲に馴れている臣下の夫婦仲は、このようなことの恨めしさなども、見る人は気の毒にも思うが、思えばこの宮はとても難しい。 結局はこのようになることである。 宮様方と申し上げる中でも、将来を特に世間の人がお思い申し上げているので、幾人も幾人もお持ちになることも、非難されるべきことでないので、誰も、この方をお気の毒だなどと思わないのであろう。 これほど重々しく大切にお住まわせになって、おいたわしくお思いになること、並々でなくお思いでいるのを、幸いでいらっしゃった」 |
一夫一婦であるのを原則とし正当とも見られている普通の人の間にあっては、 |
【また二つとなくて】- 以下「幸ひおはしける」まで、中君付きの女房たちの噂。地の文と語り手の批評が混じった叙述。『万水一露』は「草子の批判の詞也」と指摘。『集成』は「以下、中の君の苦しい立場を説明する体の長い草子地」と注す。 【思へばこれはいと難し】- 『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。『完訳』は「語り手の評言」と注す。 【筋ことに世人思ひきこえたれば】- 匂宮を将来、東宮に立ち即位するお方と、世間の人は見ている。 |
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3.5.9 | とお噂申し上げるようだ。 自分自身の気持ちでも、あまり大事にしていてくださって、急に具合が悪くなるのが嘆かわしいのだろう。 |
とさえ言っているのである。中の君自身もあまりに水も |
【みづからの心にも】- 中君自身。 【嘆かしきなめり】- 語り手の主観的推測。以上、語り手の主観を交えた叙述。 |
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3.5.10 | 「このような夫婦の問題を、どうして大問題扱いを人はするのだろうと、昔物語などを見るにつけても、人の身の上でも、不思議に聞いて思っていたのは、なるほど大変なことなのであった」 |
こんなに二人と一人というような関係になった場合は、どうして女はそんなに |
【かかる道を】- 以下「わざなりけり」まで、中君の心中の思い。 |
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3.5.11 | と、わが |
と、自分の身になって、何事も理解されるのであった。 |
わが身の上になれば心の痛いものである、苦しいものであると、今になって中の君は知るようになった。 |
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第六段 匂宮と六の君の結婚第二夜 |
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3.6.1 | 宮は、いつもよりも愛情深く、心を許した様子にお扱いをなさって、 |
宮は前よりもいっそう親しい良人ぶりをお見せになって、 |
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3.6.2 | 「まったく食事をなさらないのは、とてもよくないことです」 |
「何も食べぬということは非常によろしくない」 |
【むげにもの参らざなるこそ、いと悪しけれ】- 匂宮の詞。 |
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3.6.3 | と言って、結構な果物を持って来させて、また、しかるべき料理人を召して、特別に料理させなどして、お勧め申し上げなさるが、まるで手をお出しにならないので、「見ていられないことだ」とご心配申し上げなさっているうちに、日が暮れたので、夕方、寝殿へお渡りになった。 |
などとお言いになり、良製の菓子をお取り寄せになりまた特に命じて調製をさせたりもあそばして夫人へお勧めになるのであったが、中の君の指はそれに触れることのないのを御覧になって、「困ったことだね」と宮は歎息をしておいでになったが、日暮れになったので寝殿のほうへおいでになった。 |
【さるべき人召して】- 料理の上手な人。 【見苦しきわざかな】- 匂宮の詞。 【寝殿へ渡りたまひぬ】- 匂宮は六の君のもとに赴く身仕度のために中君のいる西の対から自分の居所である寝殿へ行く。 |
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3.6.4 | ひぐらしの |
風が涼しく、いったいの空も趣きのあるころなので、派手好みでいらっしゃるご性分なので、ますます浮き浮きした気になって、物思いをしている方のご心中は、何事につけ堪え難いことばかりが多かったのである。 蜩のなく声に、山里ばかりが恋しくて、 |
涼しい風が吹き立って、空の趣のおもしろい夕べである。はなやかな趣味を持っておいでになったから、こんな場合にはまして美しく御 |
【いとどしく艶なるに】- 匂宮の六の君へ浮き立つ心。 【ひぐらしの鳴く声に、山の蔭のみ恋しくて】- 『河海抄』は「ひぐらしの鳴きつるなべに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける」(古今集秋上、二〇四、読人しらず)を指摘する。 |
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3.6.5 | 「宇治にいたら何気なく聞いただろうに 蜩の声が恨めしい秋の暮だこと」 |
おほかたに聞かましものを蜩の 声うらめしき秋の暮れかな |
【おほかたに聞かましものをひぐらしの--声恨めしき秋の暮かな】- 中君の独詠歌。「秋」に「飽き」を掛ける。 |
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3.6.6 | はじめよりもの |
今夜はまだ更けないうちにお出かけになるようである。 御前駆の声が遠くなるにつれて、海人が釣するくらいなるのも、「自分ながら憎い心だわ」と、思いながら聞き臥せっていらっしゃった。 はじめから物思いをおさせになった頃のことなどを思い出すにつけても、疎ましいまでに思われる。 |
と |
【海人も釣すばかりになるも】- 『源氏釈』は「恋せじとねをのみ泣けばしきたへの枕の下に海人ぞ釣する」(出典未詳)を指摘。 【我ながら憎き心かな】- 中君の心中の思い。『完訳』は「匂宮への強い執着を自覚」と注す。 |
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3.6.7 | 「この悩ましいことも、どのようになるのであろう。 たいそう短命な一族なので、このような折にでもと、亡くなってしまうのであろうか」 |
【この悩ましきことも】- 以下「はかなくなりなむとすらむ」まで、中君の心中。妊娠の身を心配。 【いみじく命短き族なれば】- 短命な一族。母は出産直後に死去、大君も若くして死去。母方の系図によっていう。 【かやうならむついでにもやと】- 大島本は「ついてにもやと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ついでにもや」と「と」を削除する。『新大系』は底本のまま「ついでにもやと」とする。 |
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3.6.8 | と思うと、「惜しくはないが、悲しくもあり、またとても罪深いことであるというが」などと、眠れないままに夜を明かしなさる。 |
などと思っていくと、命は惜しく思われぬが、また悲しいことであるとも中の君は思った。またそうした場合に死ぬのは罪の深いことなのであるからなどと眠れぬままに思い明かした。 |
【惜しからねど】- 以下「あなるものを」まで、中君の心中。 【罪深くもあなるものを】- 妊娠中の死は罪深いとされていた。 |
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第七段 匂宮と六の君の結婚第三夜の宴 |
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3.7.1 | その |
その日は、后の宮が悩ましそうでいらっしゃると聞いて、皆が皆、参内なさったが、お風邪でいらっしゃったので、格別のことはおありでないと聞いて、大臣は昼に退出なさったのであった。 中納言の君をお誘い申されて、一台に相乗りしてお下がりになった。 |
次の日は |
【その日は】- 結婚第三日目の日。 |
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3.7.2 | 「 きよらを この |
「今夜の儀式を、どのようにしよう。 善美を尽くそう」と思っていらっしゃるらしいが、限度があるだろうよ。 この君も、気が置ける方であるが、親しい人と思われる点では、自分の一族にまたそのような人もいらっしゃらず、祝宴の引き立て役にするには、また心格別でいらっしゃる方だからであろう。 いつもと違って急いで参上なさって、人の身の上のことを残念だとも思わずに、何やかやと心を合わせてご協力なさるのを、大臣は、人には知られず憎らしいとお思いになるのであった。 |
この日が三日の |
【今宵の儀式】- 結婚第三二目の夜の儀式。以下、語り手の推測と批評を交えた叙述。『集成』は「草子地」と注す。 【限りあらむかし】- 『湖月抄』は「地也」と指摘。 【この君も】- 『細流抄』は「物語の作者の心をやりて書也」と指摘。『集成』は「薫を誘った夕霧の思惑を述べる草子地」と注す。 【心ことにおはする人なれば】- 大島本は「心ことにおはする」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心ことにはたおはする」と「はた」を補訂する。『新大系』は底本のまま「心ことにおはする」とする。 |
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3.7.3 | めづらしからぬこと |
宵が少し過ぎたころにおいでになった。 寝殿の南の廂間の、東に寄った所にご座所を差し上げた。 御台八つ、通例のお皿など、きちんと美しくて、また、小さい台二つに、華足の皿の類を、新しく準備させなさって、餅を差し上げなさった。 珍しくもないことを書き置くのも気が利かないこと。 |
八時少し過ぐるころに宮はおいでになった。寝殿の南の間の東に寄せて婿君のお席ができていた。 |
【宵すこし過ぐるほどにおはしましたり】- 結婚三日目の夜の儀式。『花鳥余情』は、『李部王記』天暦二年十一月二十二、二十四日条の重明親王の右大臣藤原師輔娘との結婚を準拠として指摘。 【花足の御皿なども】- 大島本は「御さらなとも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「皿ども」と「御」と「な」を削除する。『新大系』は底本のまま「御皿なども」とする。 【餅参らせたまへり】- 三日夜の餅。 【めづらしからぬこと書きおくこそ憎けれ】- 『細流抄』は「草子地」と指摘。『完訳』は「語り手の、詳細を省く弁」と注す。 |
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3.7.4 | 大臣がお渡りになって、「夜がたいそう更けてしまった」と、女房を介して祝宴につくことをお促し申し上げなさるが、まことにしどけないお振る舞いで、すぐには出ていらっしゃらない。 北の方のご兄弟の左衛門督や、藤宰相などばかりが伺候なさる。 |
大臣が新夫婦の居間のほうへ行って、もう夜がふけてしまったからと女房に言い、宮の御出座を促すのであったが、宮は六の君からお離れになりがたいふうで渋っておいでになった。今夜の来賓としては |
【夜いたう更けぬ】- 夕霧の詞。 【そそのかし申したまへど】- 匂宮に六の君の寝所から出てきて宴席に着くように促す。 【いとあざれて】- 『集成』は「いかにもしどけないお振舞で、すぐにも(六の君の部屋から)お出にならない。六の君に心を奪われている体をよそおう」と注す。 【北の方の御はらからの】- 夕霧の北の方、すなわち雲居雁の兄弟たち。父は致仕太政大臣、母は按察大納言に再婚した。 【左衛門督、藤宰相など】- 左衛門督は従四位下相当、宰相は参議で正四位下相当。 |
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3.7.5 | やっとお出になったご様子は、まことに見る効のある気がする。 主人の頭中将が、盃をささげてお膳をお勧めする。 次々にお盃を、二度、三度とお召し上がりになる。 中納言がたいそうお勧めになるので、宮は少し苦笑なさった。 |
やっとしてから出ておいでになった宮のお姿は美しくごりっぱであった。主人がたの |
【主人の頭中将】- 夕霧の子息。 【中納言の】- 源中納言。薫。 |
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3.7.6 | 「やっかいな所だ」 |
【わづらはしきわたりを】- 匂宮の感想。 |
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3.7.7 | と、自分には不適当な所だと思って言ったのを、お思い出しになったようである。 けれど、知らないふりして、たいそうまじめくさっている。 |
以前にこの縁組みの話をあそばして、堅苦しく儀礼ばることの好きな家の娘の婿になることなどは自分に不似合いなことでいやであると薫へお言いになったのを思い出しておいでになるのであろう。中納言のほうでは何も覚えていぬふうで、あくまで |
【思し出づるなめり】- 語り手の推測を交えた表現。 【されど、見知らぬやうにて】- 薫の態度。匂宮のそうした感情に気づかぬふりを装う。 |
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3.7.8 | 東の対にお出になって、お供の人々を歓待なさる。 評判のよい殿上人連中もたいそう多かった。 |
そしてまたこの人は東の対の座敷のほうに設けたお供の役人たちの酒席へまで顔を出して接待をした。 |
【東の対に出でたまひて、御供の人びともてはやしたまふ】- 主人側の薫が客人方の匂宮の供人を接待する。 |
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3.7.9 | かつは、 |
四位の六人には、女の装束に細長を添えて、五位の十人には、三重襲の唐衣、裳の腰もすべて差異があるようである。 六位の四人には、綾の細長、袴など。 一方では、限度のあることを物足りなくお思いになったので、色合いや、仕立てなどに、善美をお尽くしになったのであった。 |
はなやかな殿上役人も多かった四位の六人へは女の装束に細長、十人の五位へは三重 |
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3.7.10 | げに、かくにぎははしくはなやかなることは、 されど、 |
召次や、舎人などの中には、度を越すと思うほど立派であった。 なるほど、このように派手で華美なことは、見る効あるので、物語などにも、さっそく言い立てたのであろうか。 けれど、詳しくはとても数え上げられなかったとか。 |
【召次、舎人など】- 召次は院や親王家に仕える下人、舎人は馬を扱う下人。 【げに、かくにぎははしく】- 『細流抄』は「草子地」と指摘。『集成』は「以下、省筆をことわる草子地」。『完訳』は「以下、語り手の感想」と注す。 【物語などに】- 大島本は「ものかたりなとに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「物語などにも」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「物語などに」とする。 |
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第四章 薫の物語 中君に同情しながら恋慕の情高まる |
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第一段 薫、匂宮の結婚につけわが身を顧みる |
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4.1.1 | 中納言殿の御前駆の中に、あまり待遇がよくなかったのか、暗い物蔭に立ち交じっていたのだろうか、帰って来て嘆いて、 |
源中納言の従者の中に、あまり |
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4.1.2 | 「わが殿は、どうしておとなしくて、この殿の婿におなりあそばさないのだろう。 つまらない独身生活だよ」 |
「うちの殿様はなぜいざこざをお言いにならないでこちらの殿様の婿におなりにならなかったろう、つまらぬ御独身生活だ」 |
【わが殿の、などか】- 以下「御独り住みなりや」まで、薫の従者の不平の詞。 【この殿の御婿に】- 夕霧の婿に。薫にとっては、兄夕霧の娘すなわち姪と結婚するかたち。 |
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4.1.3 | と、中門の側でぶつぶつ言っていたのをお聞きつけになって、おかしくお思いになるのであった。 夜が更けて眠たいのに、あの歓待されている人びとは、気持ちよさそうに酔い乱れて寄り臥せってしまったのだろうと、羨ましいようである。 |
と中門の所でつぶやいているのが耳にはいって中納言はおかしく思った。自身たちは夜ふけまで待たされていて、ただつまらぬ眠さを覚えさせられているだけであるのと、婿君の従者が美酒に酔わされて快くどこかの座敷で身を横たえているらしく思われるのとを比較してみてうらやましかったのであろう。 |
【聞きつけたまひて】- 主語は薫。 【夜の更けてねぶたきに】- 以下「うらやましきなめりかし」まで、語り手が従者の気持ちを推測した文。三光院「かのいひし事の注のやうにかけり草子地なり」と指摘。『集成』は「以下、不平を鳴らした前駆の者の気持を思いやる体の草子地」。『完訳』は「以下、従者がなぜあんなことを言ったかの、語り手の補足説明」と注す。 |
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4.1.4 | 君は、部屋に入ってお臥せりになって、 |
薫は家に入り寝室で横になりながら、 |
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4.1.5 | 「きまりの悪いことだなあ。 仰々しい父親が出て来て座って、縁遠くはない仲だが、あちこちに、火を明るく掲げて、お勧め申した盃事などを、とても体裁よくお振る舞いになったな」 |
新しい婿として式に臨むことはきまりの悪そうなことである、たいそうな |
【はしたなげなるわざかな】- 以下「もてなしたまふめりつるかな」まで、薫の心中の思い。『完訳』は「今宵の婚儀への感想。夕霧邸の婿になった匂宮を面映いとする」と注す。 【離れぬなからひなれど】- 匂宮との関係。夕霧は伯父、薫も表向き叔父という血縁関係。 |
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4.1.6 | と、 |
と、宮のお振舞を、無難であったとお思い出し申し上げなさる。 |
のはごりっぱなものであったなどと思い出していた。 |
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4.1.7 | 「なるほど、自分でも、良いと思う女の子を持っていたら、この宮をお措き申しては、宮中にさえ入内させないだろう」と思うと、「誰も彼もが、宮に差し上げたいと志していらっしゃる娘は、やはり源中納言にこそと、それぞれ言っているらしいことは、自分の評判がつまらないものではないのだな。 実のところは、あまり結婚に関心もなく、ぱっとしないのに」などと、大きな気持ちにおなりになる。 |
それは実際自分でもすぐれた娘というようなものを持っていれば、この宮以外には御所へでもお上げする気にはなれなかったであろうと思われた薫は、どこの家でも |
【げに、我にても】- 以下「え参らせざらまし」まで、薫の心中の思い。 【女子持たらましかば】- 「--え参らせざらまし」の反実仮想の構文。帝にさえ入内させない。帝以上に匂宮に嫁がせたい。 【誰れも誰れも】- 以下「古めきたるものを」まで、薫の心中の思い。 【源中納言にこそと】- 薫が心中で自分を「源中納言に」と言ったもの。 【言ひならふなるこそ】- 「なる」伝聞推定の助動詞。そういう噂が薫の耳に入って来ている。 【いとあまり世づかず、古めきたるものを】- 『完訳』は「現世厭離に傾く性格をいう」と注す。 |
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4.1.8 | 「 おもだたしきことにはありとも、いかがはあらむ。 いかにぞ、 |
「帝の御内意のあることが、本当に御決意なさったら、このようにばかり何となく億劫にばかり思っていたら、どうしたものだろう。 面目がましいことではあるが、どんなものだろうか。 どうかな、亡くなった姫君にとてもよく似ていらっしゃったら、嬉しいことだろう」と自然と思い寄るのは、やはりまったく関心がないではないのであろうよ。 |
内親王を賜わるという帝の |
【内裏の御けしきあること】- 以下「うれしからむかし」まで、薫の心中の思い。女二宮降嫁の件。 【思したたむに】- 主語は帝。 【故君に】- 故大君に。 【さすがにもて離るまじき心なめりかし】- 語り手の薫批評。『完訳』は「語り手の評言。大君思慕、高貴な女への執着を断てまいとする」と注す。 |
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第二段 薫と按察使の君、匂宮と六の君 |
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4.2.1 | いつものように、寝覚めがちな何もすることのないころなので、按察使の君といって、他の女房よりは少し気に入っていらっしゃる者の部屋にいらして、その夜は明かしなさった。 夜の明け過ぎても、誰も非難するはずもないのに、つらそうに急いで起きなさるので、平気ではいられないようである。 |
例のような目のさめがちな |
【按察使の君とて】- 薫の母女三宮付きの女房。上臈の女房。ここだけに登場する。薫の召人。 【ただならず思ふべかめり】- 語り手が按察使の君の心中を推測した叙述。 |
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4.2.2 | 「いったいに世間から認められない仲なのに お逢いし続けているという評判が立つのが辛うございます」 |
うち渡し世に許しなき関川を みなれそめけん名こそ惜しけれ |
【うち渡し世に許しなき関川を--みなれそめけむ名こそ惜しけれ】- 按察使君の贈歌。「関川」は逢坂の関の川。「塞き」「関」の懸詞。「見慣れ」に「水馴れ」を響かす。「渡し」は「川」の縁語。『完訳』は「早々と帰る薫を恨む歌」と注す。 |
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4.2.3 | いとほしければ、 |
気の毒なので、 |
と按察使は言った。哀れに思われて、 |
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4.2.4 | 「深くないように表面は見えますが 心の底では愛情の絶えることはありません」 |
深からず上は見ゆれど関川の しもの通ひは絶ゆるものかは |
【深からず上は見ゆれど関川の--下の通ひは絶ゆるものかは】- 薫の返歌。「関川」の語句を用いて返す。『異本紫明抄』は「浅くこそひと見るらめ関川のたゆる心はあらじとぞ思ふ」(大和物語)を指摘。 |
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4.2.5 | 深いと、おっしゃるだけでも頼りないのを、これ以上の浅さは、ますますつらく嫌に思われるであろうよ。 妻戸を押し開けて、 |
薫はこう言った。恋の心は深いと言われてさえ頼みにならぬものであるのに、上は浅いと認めて言われるのに女は苦痛を覚えなかったはずはない。妻戸を薫はあけて、 |
【この上の浅さは、いとど心やましくおぼゆらむかし】- 語り手の推測を交えた叙述。 |
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4.2.6 | 「ほんとうは、この空を御覧なさい。 どうしてこれを知らない顔で夜を明かそうかよ。 風流人を気取るのではないが、ますます明かしがたくなってゆく、夜々の寝覚めには、この世やあの世まで思い馳せられて、しんみりする」 |
「この夜明けの空のよさを思って早く出て見たかったのだ。こんな深い趣を味わおうとしない人の気が知れないね、風流がる男ではないが、夜長を苦しんで明かしたのちの秋の |
【まことは、この空見たまへ】- 以下「あはれなる」まで、薫の詞。 【かの世までなむ思ひやられて】- 『完訳』は「来世。大君追慕の気持」と注す。 |
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4.2.7 | など、 ことにをかしきことの かりそめの |
などと、言い紛らわしてお出になる。 特に趣きのある言葉の数々は尽くさないが、態度が優美に見えるせいであろうか、情けのない人のようには誰からも思われなさらない。 ちょっとした冗談を言いかけなさった女房で、お側近くに拝見したい、とばかりお思い申しているのか、強引に、出家なさった宮の御方に、縁故を頼っては頼って参集して仕えているのも、気の毒なことが、身分に応じて多いのであろう。 |
こんなことを紛らして言いながら薫は出て行った。女を喜ばそうとして |
【さまのなまめかしき見なしにやあらむ】- 語り手の推測を交えた挿入句。 【かりそめの戯れ言をも】- 以下「ほどほどにつけつつ多かるべし」まで、語り手の推測を交えた叙述。 【世を背きたまへる宮の御方に】- 薫の母女三宮。 |
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4.2.8 | おほきさよきほどなる |
宮は、女君のご様子、昼間に拝見なさると、ますますお気持ちが深くなるのであった。 背恰好も程よい人で、姿態はたいそう美しくて、髪のさがり具合、頭の恰好などは、人より格別にすぐれて、まあ素晴らしい、とお見えになるのであった。 色艶があまりにもつやつやとして、堂々とした気品のある顔で、目もとがとてもこちらが恥ずかしくなるほど美しくかわいらしく、何から何まで揃っていて、器量のよい人というのに、足りないところがない。 |
兵部卿の宮は式のあったのちの日に新夫人を昼間御覧になることによって、いっそう深い愛をお覚えになった。中くらいな |
【色あひ】- 肌の色艶。 |
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4.2.9 | いはけなきほどならねば、 げに、 |
二十歳を一、二歳越えていらっしゃった。 幼い年ではないので、不十分で足りないところはなく、華やかで、花盛りのようにお見えになっていた。 この上なく大事にお世話なさっていたので、不十分なところがない。 なるほど、親としては、夢中になるのも無理からぬことであった。 |
二十一、二であった。少女ではないから完成されぬところもなくて |
【二十に一つ二つぞ余りたまへりける】- 六の君の年齢。 【げに、親にては、心も惑はしたまひつべかりけり】- 「げに」は語り手の感情移入による表現。『異本紫明抄』は「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を指摘。 |
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4.2.10 | ただ、もの柔らかで魅力的でかわいらしい点では、あの対の御方がまっさきにお心に浮かぶのであった。 何かおっしゃるお返事なども、恥じらっていらっしゃるが、また、あまりにはっきりしないことはなく、総じて実にとりえが多くて、才気がありそうである。 |
ただ柔らかで |
【もののたまふいらへなども】- 『完訳』は「宮が話しかける、それへの六の君の返事なども」と注す。 |
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4.2.11 | よき |
器量のよい若い女房連中を三十人ほど、童女を六人、整っていないのはなく、装束なども、例によって格式ばったことは、目馴れてお思いになるだろうから、変わって、いかがと思われるまで趣向をお凝らしになっていた。 三条殿腹の大君を、東宮に参内させなさった時よりも、この儀式を、特別にお考えおきなさっていたのも、宮のご評判や様子からのようである。 |
きれいな若い女房が三十人ほど、童女六人が姫君付きで、そうした人の服装なども、きらきらしいものは飽くほど見ておいでになる |
【よき若人ども三十人ばかり、童六人】- 六の君付きの女房と女童の数。三十人は、左大臣家の葵上付きの女房の数におなじ。 【心得ぬまでぞ】- 大島本は「心得ぬまてそ」とある。『完本』は諸本に従って「心得ぬまで」と「そ」を削除する。『集成』『新大系』は底本のまま「心得ぬまでぞ」とする。 【三条殿腹の大君を、春宮に参らせたまへるよりも】- 北の方雲居雁腹の大君。東宮入内は「匂兵部卿」巻に語られている。 |
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第三段 中君と薫、手紙を書き交す |
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4.3.1 | こうして後は、二条院に、気安くお渡りになれない。 軽々しいご身分でないので、お考えのままに、昼間の時間もお出になることができないので、そのまま同じ六条院の南の町に、以前に住んでいたようにおいでになって、暮れると、再び、この君を避けてあちらへお渡りになることもできないなどして、待ち遠しい時々があるが、 |
それからのちの宮は二条の院へ気安くおいでになることもおできにならなかった。軽い御身分でなかったから、昼間をそちらへ行っておいでになるということもむずかしくて、六条院の中の南の御殿に以前ずっとおいでになったようにしてお住みになり、日が暮れると東御殿を |
【やがて同じ南の町に】- 六の君のいる東町と同じ六条院の南町に、という文脈。 【え引き避きても】- 六の君を避けて。 |
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4.3.2 | 「このようなことになるとは思っていたが、当面すると、まるっきり変わってしまうものであろうか。 なるほど、思慮深い人は、物の数にも入らない身分で、結婚すべきではなかった」 |
すぐにも露骨に冷淡なお扱いを受けることになったではないか、賢い人であれば自分の無価値さをよく知って京へまでは出て来なかったはずであったと、 |
【かからむとすることとは】- 以下「あらざりけり」まで、中君の心中の思い。 【げに、心あらむ人は】- 『完訳』は「あらためて大君の思慮深さに納得し、己が身を顧みない自分を反省」と注す。 |
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4.3.3 | と、 |
と、繰り返し山里を出て来た当座のことを、現実とも思われず悔しく悲しいので、 |
今になっては返す返す宇治を離れて来たことが正気をもってしたこととは思えなくて悲しい中の君は、 |
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4.3.4 | 「やはり、何とかしてこっそりと帰りたい。 まるっきり縁が切れるというのでなくとも、暫く気を休めたいものだ。 憎らしそうに振る舞ったら、嫌なことであろう」 |
やはりどうともして宇治へ行くことにしたい、ここを捨てて行くふうではなくて、あちらでしばらくでも心を休めたい、反抗的に行なえば人聞きも悪いであろうが、それならばいいはずである、 |
【なほ、いかで忍びて】- 以下「うたてもあらめ」まで、中君の心中の思い。 |
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4.3.5 | など、 |
などと、胸一つに思いあまって、恥ずかしいが、中納言殿に手紙を差し上げなさる。 |
とこの |
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4.3.6 | 「先日の御事は、阿闍梨が伝えてくれたので、詳しくお聞きしました。 このようなご親切がなかったら、どんなにかおいたわしいことかと存じられますにつけても、深く感謝申し上げております。 できますことなら、親しくお礼を」 |
父君の仏事の日のことは |
【一日の御ことをば】- 大島本は「御事をハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御ことは」と「を」を削除する。『新大系』は底本のまま「御事をば」とする。以下「みづからも」まで、中君の薫への文。八宮の三回忌の法事をさす。宇治の阿闍梨から既に中君に連絡があった趣。 【かかる御心】- 薫の親切心。孝養心。 【さりぬべくは、みづからも】- 『完訳』は「薫の来訪を期待する気持」と注す。 |
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4.3.7 | と |
と申し上げなさった。 |
という |
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4.3.8 | 陸奥紙に、しゃれないできちんとお書きになっているのが、実に美しい。 宮のご命日に、例の法事をとても尊くおさせになったのを、喜んでいらっしゃる様子が、仰々しくはないが、なるほど、お分かりになったようである。 いつもは、こちらから差し上げるお返事でさえ、遠慮深そうにお思いになって、てきぱきともお書きにならないのに、「親しくお礼を」とまでおっしゃったのが、珍しく嬉しいので、心ときめきするにちがいない。 |
檀紙の上の字も |
【げに、思ひ知りたまへるなめりかし】- 『岷江入楚』は「草子地成へし」と指摘。『集成』は「草子地の形で、文面に接した薫の印象を代弁する趣」。『完訳』は「語り手の推測。中の君の手紙に納得される薫の心中を推し量る」と注す。 【心ときめきもしぬべし】- 『集成』は「草子地の形で薫の心事を代弁する趣」。『完訳』は「語り手の推測。薫のときめく思いを推し量る」と注す。 |
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4.3.9 | 宮が新しい女性に関心を寄せていらっしゃる時なので、疎かにお扱いになっていたのも、なるほどおいたわしく推察されるので、たいそう気の毒になって、風流なこともないお手紙を、下にも置かず、繰り返し繰り返し御覧になっていた。 お返事は、 |
宮がお得になったはなやかな生活に心が多くお引かれになって、二条の院へはよくもおいでにならないことについての中の君の |
【宮の今めかしく好みたちたまへるほどにて】- 匂宮が新しい女性の六の君に関心を寄せている時なので、の意。 【思しおこたりけるも、げに】- 匂宮が中君を疎略に。『集成』は「「げに」は、文面から、さこそと推測される趣」と注す。 |
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4.3.10 | 「 よろづはさぶらひてなむ。 あなかしこ」 |
「承知いたしました。 先日は、修行者のような恰好で、わざとこっそり参りましたが、そのように考えますような事情がございましたときですので。 引き続いてとおっしゃってくださるのは、わたしの気持ちが少し薄くなったようだからかと、恨めしく存じられます。 何もかも伺いましてから。 恐惶謹言」 |
承りました。先日は僧のようなことを多く申して、昔のことばかりを歎いた私でしたが、それは追想にとらわれざるをえない時節だったからです。名残とお書きになりましたことで、私が故人の宮様にお持ちする感情を少し浅く御覧になっていらっしゃるのではないかと恨めしくなります。何も皆近く参上してお話しいたしましょう。 |
【承りぬ】- 以下「あなかしこ」(9行)まで、薫の返事。 【すこし浅くなりにたるやうにと】- 自分薫の厚志が浅くなった、の意。 【あなかしこ】- 手紙文の結びの決まり文句。男性でも用いた。 |
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4.3.11 | と、すくよかに、 |
と、きまじめに、白い色紙でごわごわとしたのに書いてある。 |
と、きまじめな文章が、白い厚い色紙に書いて送られた。 |
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第四段 薫、中君を訪問して慰める |
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4.4.1 | さて、またの |
そうして、翌日の夕方にお渡りになった。 人知れず思う気持ちがあるので、無性に気づかいがされて、柔らかなお召し物類を、ますます匂わしなさっているのは、あまりに大げさなまでにあるので、丁子染の扇の、お持ちつけになっている移り香などまでが、譬えようもなく素晴らしい。 |
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4.4.2 | 女君も、不思議な事であった夜のことなどを、お思い出しになる折々がないではないので、誠実で情け深いお気持ちが、誰とも違っていらっしゃるのを見るにつけても、「この人と一緒になればよかった」とお思いになるのだろう。 |
中の君も昔のあの夜のことが思い出されることもないのではなかったから、父宮と姉君への愛の深さが認識されるにつけても、運命が姉の意志のままになっていたのであったらと心の動揺を覚えたかもしれない。 |
【あやしかりし夜のことなど】- 大君の策略によって中君が薫と共寝したこと。「総角」巻に語られている。 【さてあらましを」とばかりは思ひやしたまふらむ】- 『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「中の君の薫に対する親しみの気持を忖度する形の草子地」と注す。 |
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4.4.3 | いはけなきほどにしおはせねば、 |
幼いお年でもいらっしゃらないので、恨めしい方のご様子を比較すると、何事もますますこの上なく思い知られなさるのか、いつも隔てが多いのもお気の毒で、「物の道理を弁えないとお思いなさるだろう」などとお思いになって、今日は、御簾の内側にお入れ申し上げなさって、母屋の御簾に几帳を添えて、自分は少し奥に入ってお会いなさった。 |
少女ではないのであるから、恨めしい方の心と比べてみて、何につけてもりっぱな薫がわかったのか、平生あまりに遠々しくもてなしていて気の毒であった、人情にうとい女だとこの人が思うかもしれぬと思い、今日は前の室の |
【思ひ知られたまふにや】- 語り手の中君の心中を忖度した表現。 【もの思ひ知らぬさまに思ひたまふらむ】- 中君の心中。 |
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4.4.4 | 「わざと さるは、 めづらしくはべるわざかな」 |
「特にお呼びということではございませんでしたが、いつもと違ってお許しあそばしたお礼に、すぐにも参上したく思いましたが、宮がお渡りあそばすとお聞きいたしましたので、折が悪くてはと思って、今日にいたしました。 一方では、長年の誠意もだんだん分かっていただけましたのか、隔てが少し薄らぎました御簾の内ですね。 珍しいことですね」 |
「お招きくだすったのではありませんが、来てもよろしいとのお許しが珍しくいただけましたお礼に、すぐにもまいりたかったのですが、宮様が来ておいでになると承ったものですから、御都合がお悪いかもしれぬと御遠慮を申して今日にいたしました。これは長い間の私の誠意がようやく認められてまいったのでしょうか。遠さの少し減った御簾の中へお席をいただくことにもなりました。珍しいですね」 |
【わざと召しとはべらざりしかど】- 以下「めづらしくはべるわざかな」まで、薫の詞。 |
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4.4.5 | とおっしゃるが、やはりとても恥ずかしくて、言い出す言葉もない気がするが、 |
と薫の言うのを聞いて、中の君はさすがにまた恥ずかしくなり、言葉が出ないように思うのであったが、 |
【なほいと恥づかしく】- 中君の態度。 |
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4.4.6 | 「先日、嬉しく聞きました心の中を、いつものように、ただ仕舞い込んだまま過ごしてしまったら、感謝の気持ちの一部分だけでも、何とかして知ってもらえようかと、口惜しいので」 |
「この間の御親切なお計らいを聞きまして、感激いたしました心を、いつものようによく申し上げもいたしませんでは、どんなに私がありがたく存じておりますかしれませんような気持ちの一端をさえおわかりになりますまいと残念だったものですから」 |
【一日、うれしく】- 以下「口惜しさに」まで、中君の詞。 |
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4.4.7 | と、いかにも慎ましそうにおっしゃるのが、たいそう奥の方に身を引いて、途切れ途切れにかすかに申し上げるので、もどかしく思って、 |
と |
【いたくしぞきて】- たいそう奥まって身を引いて、の意。 |
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4.4.8 | 「とても遠くでございますね。 心からお話し申し上げ、またお聞き致したい世間話もございますので」 |
「たいへん遠いではありませんか。細かなお話もし、あなたからも承りたい昔のお話もあるのですから」 |
【いと遠くもはべるかな】- 以下「御物語もはべるものを」まで、薫の詞。『集成』は「「世」は、男女の仲の意で、「御物語」とあるので、匂宮と中の君の間柄をさすと解される」と注す。 |
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4.4.9 | とのたまへば、げに、と |
とおっしゃると、なるほど、とお思いになって、少しいざり出てお近寄りになる様子をお聞きなさるにつけても、胸がどきりとするが、平静を装いますます冷静な態度をして、宮のご愛情が、意外にも浅くおいでであったとお思いで、一方では批判したり、また一方では慰めたりして、それぞれについて落ち着いて申し上げていらっしゃる。 |
こう言われて中の君は道理に思い、少し身じろぎをして几帳のほうへ寄って来たかすかな音にさえ、衝動を感じる薫であったが、さりげなくいっそう冷静な様子を作りながら、宮の御誠意が案外浅いものであったとお |
【げに、と思して】- 主語は中君。 【おはしけりとおぼしく】- 大島本は「おはしけり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おはしける」と校訂する。『新大系』は底本のまま「おはしけり」とする。『集成』は「匂宮のお気持が、心外なことに浅くいらっしゃったことだと匂わせるふうに」と訳す。 【言ひも疎め、また慰めも】- 匂宮を批判したり中君を慰めたり。 |
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第五段 中君、薫に宇治への同行を願う |
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4.5.1 | 女君は、宮の恨めしさなどは、口に出して申し上げなさるようなことでもないので、ただ、自分だけがつらいように思わせて、言葉少なに紛らわしては、山里にこっそりとお連れくださいとのお思いで、たいそう熱心に申し上げなさる。 |
中の君としては宮をお恨めしく思う心などは表へ出してよいことではないのであるから、ただ人生を悲しく恨めしく思っているというふうに紛らして、言葉少なに |
【ただ、世やは憂きなどやうに思はせて】- 『紫明抄』は「世やは憂き人やはつらきあまの刈る藻に住む虫のわれからぞ憂き」(出典未詳)、『異本紫明抄』は「世やは憂き我が身のみこそ憂かりけりされば人をも何か恨みじ」(出典未詳)を指摘。 |
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4.5.2 | 「それはしも、 なほ、 さらずは、すこしも さだにあるまじくは、 うしろやすく |
「そのことは、わたしの一存では、お世話できないことです。 やはり、宮にただ素直にお話し申し上げなさって、あの方のご様子に従うのがよいことです。 そうでなかったら、少しでも行き違いが生じて、軽率だなどとお考えになるだろうから、大変悪いことになりましょう。 そういう心配さえなければ、道中のお送りや迎えも、自らお世話申しても、何の遠慮がございましょう。 安心で人と違った性分は、宮もみなご存知でいらっしゃいました」 |
「その問題だけは私の一存でお受け合いすることができかねます。宮様へ |
【それはしも、心一つに】- 以下「宮も皆知らせたまへり」まで、薫の詞。 【え仕うまつるまじきことにはべり】- 大島本は「侍り」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべなり」と「な」を補訂する。『新大系』は底本のまま「はべり」とする。 |
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4.5.3 | などと言いながら、時々は、過ぎ去った昔の悔しさが忘れる折もなく、できることなら昔を今に取り戻したいと、ほのめかしながら、だんだん暗くなって行くまでおいでになるので、とてもわずらわしくなって、 |
こんなことを言いながらも、話の中に自分は過去にしそこねた結婚について後悔する念に支配ばかりされていて、もう一度昔を今にする |
【ものにもがなやと、取り返さまほしき】- 『異本紫明抄』は「取り返す物にもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ」(出典未詳)を指摘。 |
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4.5.4 | 「それでは、気分も悪くなるばかりですので、また、よおろしくなった折に、どのような事でも」 |
「それではまた、私は |
【さらば、心地も】- 以下「何事も」まで、中君の詞。 |
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4.5.5 | とて、 |
と言って、お入りになってしまった様子なのが、とても残念なので、 |
と言い、引っ込んで行ってしまいそうになったのが残念に思われて、薫は、 |
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4.5.6 | 「それでは、いつごろにお立ちになるつもりですか。 たいそう茂っていた道の草も、少し刈り払わせましょう」 |
「それにしてもいつごろ宇治へおいでになろうとお思いになるのですか。伸びてひどくなっていました庭の草なども少しきれいにさせておきたいと思います」 |
【さても、いつばかり】- 以下「うち払はせはべらむかし」まで、薫の詞。 |
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4.5.7 | と、 |
と機嫌を取って申し上げなさると、少し奥に入りかけて、 |
と、 |
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4.5.8 | 「今月は終わってしまいそうなので、来月の朔日頃にも、と思っております。 ただ、とても人目に立たないのがよいでしょう。 どうして、夫の許可など仰々しく必要でしょう」 |
「もう今月はすぐ終わるでしょうから、来月の初めでもと思います。それは忍んですればいいでしょう。皆の同意を得たりしますようなたいそうなことにいたしませんでも」 |
【この月は】- 以下「ことごとしく」まで、中君の詞。 【朔日のほどにも】- 来月の九月の上旬頃に、の意。 【世の許し】- 夫匂宮の許可。 |
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4.5.9 | とおっしゃる声が、「何ともかわいらしいな」と、いつもより亡き大君が思い出されるので、堪えきれないで、寄り掛かっていらっしゃった柱の側の簾の下から、そっと手を伸ばして、お袖を捉えた。 |
と答えた。その声が非常に |
【昔思ひ出でらるる】- 亡き大君が思い出される。 【柱もとの】- 大島本は「ハしらの(の$)」とある。すなわち「の」をミセケチにする。『完本』は諸本と訂正以前の本文に従って「柱のもと」と「の」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「柱もと」とする。 |
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第六段 薫、中君に迫る |
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4.6.1 | 女は、「やはり、そうだった、ああ嫌な」と思うが、何を言うことができようか、何も言わないで、ますます奥にお入りになるので、その後についてとても物馴れた態度で、半分は御簾の内に入って添い臥せりなさった。 |
中の君はこんなことの起こりそうな予感がさっきから自分にあって恐れていたのであると思うと、とがめる言葉も出すことができず、いっそう奥のほうへいざって行こうとした時、持った袖について、親しい男女の間のように、薫は御簾から半身を内に入れて中の君に寄り添って横になった。 |
【女】- 中君。恋の場面での呼称。 【半らは内に入りて】- 上半身は御簾の内側に入って、の意。 |
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4.6.2 | 「そうではありません。 人目に立たないようにとはよいことをお考えになったことが嬉しく思えたのは、聞き違いでしょうか、それを伺おうと思いまして。 よそよそしくお思いになるべき問題でもないのでに、情けない待遇ですね」 |
「私が間違っていますか、忍んでするのがいいとお言いになったのをうれしいことと取りましたのは聞きそこねだったのでしょうかと、それをもう一度お聞きしようと思っただけです。他人らしくお取り扱いにならないでもよいはずですが、無情なふうをなさるではありませんか」 |
【あらずや】- 以下「心憂のけしきや」まで、薫の詞。 【心憂のけしきや】- 大島本は「心うのけしきや」とある。『集成』『完本』は諸本と訂正以前の本文に従って「心憂の御けしきや」と「御」を補訂する。『新大系』は底本のまま「心うのけしきや」とする。 |
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4.6.3 | と |
とお恨みになると、お返事できる気もなくて、意外にも憎く思う気になるのを、無理に落ち着いて、 |
こう薫に恨まれても夫人は返辞をする気にもならないで、思わず憎みの心の起こるのをしいておさえながら、 |
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4.6.4 | 「意外なお気持ちですね。 女房たちがどう思いましょう。 あきれたこと」 |
なんというお心でしょう、こんな方とは想像もできませんようなことをなさいます。人がどう思うでしょう、あさましい」 |
【思ひの外なりける】- 以下「あさまし」まで、中君の詞。 【人の思ふらむこと】- 女房たちが想像すること。 |
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4.6.5 | とあはめて、 |
と軽蔑して、泣いてしまいそうな様子なのは、少しは無理もないことなので、お気の毒とは思うが、 |
とたしなめて、泣かんばかりになっているのにも少し道理はあるとかわいそうに思われる薫が、 |
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4.6.6 | 「これは かばかりの いとこよなく |
「これは非難されるほどのことでしょうか。 この程度の面会は、昔を思い出してくださいな。 亡くなった姉君のお許しもあったのに。 とても疎々しくお思いになっていらっしゃるとは、かえって嫌な気がします。 好色がましい目障りな気持ちはないと、安心してください」 |
「これくらいのことは道徳に触れたことでも何でもありませんよ。これほどにしてお話をした昔を思い出してください。 |
【これは咎あるばかりの】- 以下「心やすく思ほせ」まで、薫の詞。 【過ぎにし人の御許し】- 故大君の許可。 |
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4.6.7 | とて、いとのどやかにはもてなしたまへれど、 なかなか、むげに |
と言って、たいそう穏やかに振る舞っていらっしゃるが、幾月もずっと後悔していた心中が、堪え難く苦しいまでになって行く様子を、つくづくと話し続けなさって、袖を放しそうな様子もないので、どうしようもなく、大変だと言ったのでは月並な表現である。 かえって、まったく気持ちを知らない人よりも、恥ずかしく気にくわなくて、泣いてしまわれたのを、 |
と言い、激情は見せずゆるやかなふうにして、もう幾月か後悔の日ばかりが続き、苦しいまでになっていく恋の悩みを、初めからこまごまと述べ続け、反省して去ろうとする様子も見せないため、中の君はどうしてよいかもわからず、悲しいという言葉では全部が現わせないほど悲しんでいた。知らない他人よりもかえって恥ずかしく、いとわしくて、泣き出したのを見て、薫は、 |
【悔しと思ひわたる心のうちの】- 中君を匂宮に譲ったことを後悔。 【許すべきけしきにもあらぬに】- 中君の袖を放そうとしないこと。 【せむかたなく】- 『完訳』は「以下、中の君の心に即す表現」と注す。 【いみじとも世の常なり】- 『集成』は「つらいどころの話ではない。「いみじ」と言った言葉では月並みな表現に終る、の意。中の君の気持を代弁する草子地」と注す。 |
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4.6.8 | 「これは、どうしましたか。 何とも、 |
「どうしたのですか、あなたは、少女らしい」 |
【こは、なぞ。あな、若々し】- 薫の詞。 |
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4.6.9 | とは言いながらも、何とも言えずかわいらしく、お気の毒に思う一方で、心配りが深くこちらが恥ずかしくなるような態度などが、以前に一夜を共にした当時よりも、すっかり成人なさったのを見ると、「自分から他人に譲って、このようにつらい思いをすることよ」と悔しいのにつけても、また自然泣かれるのであった。 |
こう非難をしながらも、非常に |
【見しほどよりも】- 以前に一夜を共にした時よりも、の意。 【心から】- 以下「ものを思ふこと」まで、薫の心中。 【げに音は泣かれけり】- 『紫明抄』は「習はねば人の問はぬもつらからで悔しきにこそ袖は濡れけれ」(新古今集恋五、一三九九、前中納言教盛母)を指摘。『湖月抄』は「神山の身を卯の花のほととぎすくやしくやしと音をのみぞ鳴く」(古今六帖五、雑の思)を指摘。『集成』は「「げに」とあるのは引歌を思わせる」と注す。 |
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第七段 薫、自制して退出する |
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4.7.1 | 近くに伺候している女房が二人ほどいるが、何の関係のない男が入って来たのならば、これはどうしたことかと、近寄り集まろうが、親しくご相談し合っている仲のようなので、何か子細があるのだろうと思うと、側にいずらいので、知らない顔をしてそっと離れて行ったのは、お気の毒なことだ。 |
夫人のそばには二人ほどの女房が侍していたのであるが、知らぬ男の |
【さるやうこそはあらめ】- 女房の心中。 【かたはらいたければ】- 『集成』「お側近くは憚られるので」。親密な語らいの場合は女房は座を遠慮した。 【やをらしぞきぬるに】- 大島本は「しそきぬるに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「退きぬるぞ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「退くきぬるに」とする。 【いとほしきや】- 『完訳』は「語り手の中の君への憐憫」と注す。 |
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4.7.2 | かやうの かひなきものから、 |
男君は、昔を後悔する心の堪えがたさなども、とても静め難いようであるが、昔でさえめったになかったお心配りなので、やはりとても思いのままにも無体な振る舞いはなさらないのだった。 このような場面は、詳細に語り続けることはできないのであった。 不本意ながら、人目の悪いことを思うと、あれやこれやと思い返してお出になった。 |
中納言は昔の後悔が立ちのぼる情炎ともなって、おさえがたいのであったであろうが、夫人の処女時代にさえ、どの男性もするような強制的な結合は遂げようとしなかった人であるから、ほしいままな行為はしなかった。こうしたことを細述することはむずかしいと見えて筆者へ話した人はよくも言ってくれなかった。どんな時を費やしても |
【昔だに】- 副助詞「だに」は、かつて中君が独身であった時でさえ身清く一夜を過ごした、まして人妻である現在は、の意。 【心の用意なれば】- 大島本は「心のようい」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御心の用意」と「御」を補訂する。『新大系』は底本のまま「心の用意」とする。 【かやうの筋は、こまかにもえなむまねび続けざりける】- 『細流抄』は「草子地」と指摘。『集成』は「濡れ場の仔細にわたることは憚られると、省筆をことわる草子地」と注す。 |
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4.7.3 | まだ宵とは思っていたが、暁近くになったのを、見咎める人もあろうかと、厄介なのも、女方の御ためにはお気の毒である。 |
まだ |
【女の御ためのいとほしきぞかし】- 『集成』は「相手の中の君の立場を気づかうからなのだ。薫の気持を代弁する草子地」。『完訳』は「語り手が、中の君をかばう薫を代弁し、薫の心中叙述に続ける」と注す。 |
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4.7.4 | 「 いと また、たちまちのわが |
「身体が悪そうだと聞いていたご気分は、もっともなことであった。 とても恥ずかしいとお思いでいらした腰の帯を見て、大部分はお気の毒に思われてやめてしまったなあ。 いつもの馬鹿らしい心だ」と思うが、「情けのない振る舞いは、やはり不本意なことだろう。 また、一時の自分の心の乱れにまかせて、むやみな考えをしでかして後、気安くなくなってしまうものの、無理をして忍びを重ねるのも苦労が多いし、女方があれこれ思い悩まれることであろう」 |
妊娠のために身体の調子を悪くしているという |
【悩ましげに】- 以下「をこがましの心や」まで、薫の心中の思い。中君の身体の加減が悪いということ。 【ことわりなりけり】- 中君の懐妊に気づく。 【腰のしるし】- 懐妊のしるしの腹帯。『集成』は「衣装のふくらみに薫の手が触れたものであろう」と注す。 【多くは心苦しくおぼえてやみぬるかな】- 『完訳』は「匂宮の妻になりきって子をもうけた中の君を前に、懸想する不都合さを思い、痛々しさも感ずる」と注す。 【情けなからむことは】- 以下「思し乱れむことよ」まで、薫の心中の思い。 【心やすくしもはあらざらむものから】- 挿入句。中君は人妻である。 【忍びありかむほども】- 中君と密会をすること。 【女のかたがた思し乱れむことよ】- 夫匂宮に対しまた自分薫に対して悩む。 |
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4.7.5 | などと、冷静に考えても抑えきれず、今の間も恋しいのは困ったことであった。 ぜひとも会わなくては生きていられないように思われなさるのも、重ね重ねどうにもならない恋心であるよ。 |
などとまた賢い反省はしてみても、それでおさえきれる恋の火ではなく、別れて出て来てすでにもう逢いたく恋しい心はどうしようもなかった。どうしてもこの恋を成立させないでは生きておられないようにさえ思うのも、返す返すあやにくな薫の心というべきである。 |
【今の間も恋しきぞわりなかりける】- 『源注拾遺』は「逢はざりし時いかなりし物とてかただ今の間も見ねば恋しき」(後撰集恋一、五六三、読人しらず)を指摘。 【さらに見ではえあるまじくおぼえたまふも】- 『集成』は「ぜひにも我が物にしなくてはいられないようなお気持なのも」と訳す。 【返す返すあやにくなる心なりや】- 『湖月抄』は「草子地也」。『集成』は「かさねがさね、ままならぬ恋心というものだ。草子地」。『完訳』は「語り手の評言」と注す。 |
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第五章 中君の物語 中君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す |
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第一段 翌朝、薫、中君に手紙を書く |
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5.1.1 | 昔よりは少し痩せ細って、上品でかわいらしかった様子などは、今離れている気もせず、わが身に添っている感じがして、まったく他の事は考えられなくなっていた。 |
昔より少し |
【昔よりはすこし細やぎて】- 『完訳』は「以下、昨夜の中の君の印象」と注す。 |
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5.1.2 | 「 さりとて、 いかさまにしてかは、 |
「宇治にたいそう行きたくお思いであったようなのを、そのように、行かせてあげようか」などと思うが、「どうして宮がお許しになろうか。 そうかといって、こっそりとお連れしたのでは、また不都合があろう。 どのようにして、人目にも見苦しくなく、思い通りにゆくだろう」と、気も茫然として物思いに耽っていらっしゃった。 |
宇治へ非常に行きたがっているようであったが、宮がお許しになるはずもない、そうかといって忍んでそれを行なわせることはあの人のためにも、自分のためにも世の非難を多く受けることになってよろしくない。どんなふうな計らいをすれば、世間体のよく、また自分の恋の遂げられることにもなるであろうと、そればかりを思って |
【宇治にいと渡らまほしげに】- 以下「渡しきこえてまし」まで、薫が中君の心中を思いやっている叙述。 【まさに宮は許したまひてむや】- 以下「思ふ心のゆくべき」まで、薫の心中の思い。 |
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5.1.3 | まだたいそう朝早くにお手紙がある。 いつものように、表面はきっぱりした立文で、 |
まだ明けきらぬころに中の君の所へ薫の手紙が届いた。例のように外見はきまじめに大きく封じた |
【まだいと深き朝に御文あり】- 後朝の文めかした差し出し方。 【立文にて】- 正式の書状の形式。 |
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5.1.4 | 「無駄に歩きました道の露が多いので 昔が思い出されます秋の空模様ですね |
いたづらに分けつる 昔おぼゆる秋の空かな |
【いたづらに分けつる道の露しげみ--昔おぼゆる秋の空かな】- 薫から中君への贈歌。「露」に涙を暗示する。 |
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5.1.5 | お振る舞いの情けないことは、わけの分からないつらさです。 申し上げようもありません」 |
冷ややかなおもてなしについて「ことわり知らぬつらさ」(身を知れば恨みぬものをなぞもかくことわり知らぬつらさなるらん)ばかりが申しようもなくつのるのです。 |
【御けしきの】- 以下「聞こえさせむ方なく」まで、和歌に続く手紙文。 【ことわり知らぬつらさのみなむ】- 『源氏釈』は「身を知れば恨みぬものをなぞもかくことわり知らぬ涙なるらむ」(出典未詳)を指摘。 |
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5.1.6 | とある。 お返事がないのも、女房が、いつもと違うと注意するだろうから、とても苦しいので、 |
こんな内容である。返事を出さないのもいぶかしいことに人が見るであろうからと、それもつらく思われて、 |
【例ならずと】- 大島本は「れいならすと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「例ならず」と「と」を削除する。『新大系』は底本のまま「例ならずと」とする。 |
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5.1.7 | 「拝見しました。 とても気分が悪くて、お返事申し上げられません」 |
承りました。非常に |
【承りぬ。いと悩ましくて、え聞こえさせず】- 中君の返事。 |
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5.1.8 | とだけお書きつけになっているのを、「あまりに言葉が少ないな」と物足りなく思って、美しかったご様子ばかりが恋しく思い出される。 |
と中の君は書いた。これをあまりに短い手紙であると、物足らず寂しく思い、美しかった面影ばかりが恋しく思い出された。 |
【あまり言少ななるかな】- 薫の感想。以下、主語は薫。 |
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5.1.9 | すこし |
少しは男女の仲をご存知になったのだろうか、あれほどあきれてひどいとお思いになっていたが、一途に厭わしくはなく、たいそう立派にこちらが恥ずかしくなるような感じも加わって、はやり何といってもやさしく言いなだめなどして、お帰りになったときの心づかいを思い出すと、悔しく悲しく、いろいろと心にかかって、侘しく思われる。 何事も、昔よりもたいそうたくさん立派になったと思い出される。 |
人妻になったせいか、むやみに恐怖するふうは見せず、貴女らしい気品も多くなった姿で、闖入者を柔らかになつかしいふうに説いて退却させた才気などが思い出されるとともに、ねたましくも、悲しくもいろいろにその人のことばかりが思われる |
【すこし世の中をも知りたまへるけにや】- 以下「ほどの御心ばへ」あたりまで、薫の心中の思いに即した叙述。末尾は地の文に流れる叙述。 |
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5.1.10 | 「何かまうものか。 この宮が離れておしまいになったならば、わたしを頼りとする人になさるにちがいなかろう。 そうなったとしても、公然と気安く会うことはできないだろうが、忍ぶ仲ながらまたこの人以上の人はいない、最後の人となるであろう」 |
落胆はする必要もない、宮の愛が薄くなってしまえば、あの人は自分ばかりをたよりにするはずである、しかし公然とは夫婦になれず、世間のはばかられる二人であろうが、隠れた恋人としておいても、自分は他に愛する婦人を作るまい、 |
【何かは】- 以下「こそはあらめ」まで、薫の心中の思い。 【心やすきさまに】- 大島本は「心やすきさまに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心やすきさまには」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま「心やすきさまに」とする。 【忍びつつまた思ひます人なき、心のとまりにてこそはあらめ】- 『集成』は「人目を忍ぶ仲ながらほかにこれ以上愛する人はいない最後の女性ということになるだろう」と訳す。 |
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5.1.11 | など、ただこの さばかり これは、よろづにぞ |
などと、ただこのことばかりを、じっと考え続けていらっしゃるのは、よくない心であるよ。 あれほど思慮深そうに賢人ぶっていらっしゃるが、男性というものは嫌なものであることよ。 亡くなった人のお悲しみは、言ってもはじまらないことで、とてもこうまで苦しいことではなかった。 今度のことは、 |
などと、二条の院の夫人のことばかりを思っているというのもけしからぬ心である。反省している時、またその人に清い恋として告白している時には賢い人になっているのであるが、この人すら情けない愛欲から離れられないのは男性の悲哀である。大姫君の死は取り返しのならぬものであったが、その時には今ほど薫は心を乱していなかった。これは道義観さえ |
【けしからぬ心なるや】- 『完訳』は「以下、語り手の評言。思慮深くふるまう薫の内心に立ち入る」と注す。 【さばかり心深げにさかしがりたまへど、男といふものの心憂かりけることよ】- 『集成』は「あれほど考え深そうに利口ぶっていらっしゃるけれども、世の男というものは何と情けないものなのでしょう。前の「けしからぬ心なるや」という草子地を受けて、薫とて世の例外ではないと、嘆いてみせる体の草子地」と注す。 【亡き人の御悲しさは】- 『完訳』は「昔は大君が最愛の女だったが、今あらためて中の君に強く執着」と注す。 |
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5.1.12 | 「今日は、宮がお渡りあそばしました」 |
この日は二条の院へ宮がおいでになった |
【今日は、宮渡らせたまひぬ】- 薫の家人の詞。 |
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5.1.13 | など、 |
などと、人が言うのを聞くにつけても、後見人の考えは消えて、胸のつぶれる思いで、羨ましく思われる。 |
ということを聞いて、中の君の保護者をもって任ずる心はなくして、胸が |
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第二段 匂宮、帰邸して、薫の移り香に不審を抱く |
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5.2.1 | 宮は、何日もご無沙汰しているのは、自分自身でさえ恨めしく思われなさって、急にお渡りになったのであった。 |
宮は二、三日も六条院にばかりおいでになったのを、御自身の心ながらも恨めしく |
【宮は、日ごろになりにけるは】- 匂宮は中君のもとに何日も行っていない日が続いた。 |
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5.2.2 | 「何とか、心に隔てをおいているようにはお見せ申すまい。 山里にと思い立つにつけても、頼りにしている人も、嫌な心がおありだったのだわ」 |
もうこの運命は柔順に従うほかはない、恨んでいるとは宮にお見せすまい、宇治へ行こうとしても信頼する人にうとましい心ができているのであるからと中の君は思い、いよいよ右も左も頼むことのできない身になっていると思われ、どうしても自分は薄命な女なのであるとして、生きているうちはあるがままの境遇を認めておおようにしていようと、 |
【何かは】- 以下「心添ひたまへりけり」まで、中君の心中の思い。『完訳』は「「何かは」は開き直った気持。当初から人に苦渋の心を見すかされまいと自己制御」と注す。 |
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5.2.3 | と |
とお思いになると、世の中がとても身の置き所なく思わずにはいられなくなって、「やはり嫌な身の上であった」と、「ただ死なない間は、生きているのにまかせて、おおらかにしていよう」と思いあきらめて、とてもかわいらしそうに美しく振る舞っていらっしゃるので、ますますいとしく嬉しくお思いになって、何日ものご無沙汰など、この上なくおっしゃる。 |
こう決心をしたのであったから、 |
【なほいと憂き身なりけり」と、「ただ消えせぬほどは】- 『源氏釈』は「憂きながら消えせぬものは身なりけりうらやましきは水の泡かな」(拾遺集哀傷、一三一三、中務)を指摘。 |
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5.2.4 | うちとけぬ |
お腹も少しふっくらとなっていたので、あのお恥じらいになるしるしの腹帯が結ばれているところなど、たいそういじらしく、まだこのような人を近くに御覧になったことがないので、珍しくまでお思いになっていた。 気の置けるところに居続けなさって、万事が、気安く懐かしくお思いになるままに、並々ならぬことを、尽きせず約束なさるのを聞くにつけても、こうして口先ばかり上手なのではないかと、無理なことを迫った方のご様子も思い出されて、長年親切な気持ちと思い続けていたが、このようなことでは、あの方も許せないと思うと、この方の将来の約束は、どうかしら、と思いながらも、少しは耳がとまるのであった。 |
腹部も少し高くなり、恥ずかしがっている腹帯の衣服の上に結ばれてあるのにさえ心がお |
【かくのみ言よきわざにやあらむ】- 中君の心中の思い。 【あながちなりつる人】- 薫。昨夜の態度をさしていう。 【あはれなる心ばへなどは】- 大島本は「心はへなとハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心ばへとは」と「な」を削除する。『新大系』は底本のまま「心ばへなどは」とする。 【かかる方ざまにては】- 『集成』は「こうした男女の情がからまっていては」と訳す。 |
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5.2.5 | 「それにしても、あきれるくらいに油断させておいて、入って来たことよ。 亡くなった姉君と関係なく終わってしまったことなどお話になった気持ちは、なるほど立派であったと、やはり気を許すことはあってはならないのだった」 |
それにしてもああまで油断をさせて自分の室の中へあの人がはいって来た時の驚かされようはどうだったであろう、姉君の意志を尊重して夫婦の結合は遂げなかったと話していた心持ちは、珍しい誠意の人と思われるのであるが、あの行為を思えば自分として気の許される人ではないと、 |
【さても、あさましく】- 以下「あらざりけりかし」まで、中君の心中の思い。 【昔の人に疎くて過ぎにしことなど】- 大君と肉体関係なく過ごしたことをいう。 |
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5.2.6 | など、いよいよ |
などと、ますます心配りがされるにつけても、久しくご無沙汰が続きなさることは、とても何となく恐ろしいように思われなさるので、口に出して言わないが、今までよりは、少し引きつけるように振る舞っていらっしゃるのを、宮はますますこの上なくいとしいとお思いになっていらっしゃると、あの方の御移り香が、たいそう深く染みていらっしゃるのが、世の常の香をたきしめたのと違って、はっきりとした薫りなのを、その道の達人でいらっしゃるので、妙だと不審をいだきなさって、どうしたことかと、様子を伺いなさるので、見当外れのことでもないので、言いようもなく困って、ほんとうにつらいとお思いになっていらっしゃるのを、 |
中の君はいよいよ男の危険性に用心を感じるにつけても、宮がながく途絶えておいでにならぬことになれば恐ろしいと思われ、言葉には出さないのであるが、以前よりも少し宮へ甘えた心になっていたために、宮はなお可憐に思召され、心を |
【いともの恐ろしかるべくおぼえたまへば】- 『集成』は「宮の不在中の薫の接近を恐れる気持」と注す。 【言に出でては言はねど】- 大島本は「ことにいてゝハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「言に出でて」と「は」を削除する。『新大系』は底本のまま「言に出でては」とする。 【かの人の御移り香】- 薫の移り香。 |
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5.2.7 | 「そうであったか。 きっとそのようなことはあるにちがいない。 よもや、平気でいられるはずがない、とずっと思っていたことだ」 |
自分の想像することはありうべきことだ、よも無関心ではおられまいと始終自分は思っていたのである |
【さればよ】- 以下「思ひわたることぞかし」まで、匂宮の思い。 |
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5.2.8 | とお心が騒ぐのだった。 その実、単衣のお召し物類は、脱ぎ替えなさっていたが、不思議と意外にも身にしみついていたのであった。 |
とお胸が騒いだ。薫のにおいは中の君が下の |
【さるは、単衣の御衣なども】- 以下「身にしみにける」まで、語り手の説明。『湖月抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「以下、匂宮に疑われぬように、中の君は用心して下着の単なども着がえていられたのだが、と事情を説明する草子地」と注す。 |
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5.2.9 | 「こんなに薫っていては、何もかも許したのであろう」 |
「あなたの苦しんでいるところを見ると、進むところへまで進んだことだろう」 |
【かばかりにては、残りありてしもあらじ】- 匂宮の詞。 |
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5.2.10 | と、よろづに |
と、すべてに聞きにくくおっしゃり続けるので、情けなくて、身の置き所もない。 |
とお言いになり、追究されることで夫人は情けなく、身の置き所もない気がした。 |
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5.2.11 | 「お愛し申し上げているのは格別なのに、捨てられるなら自分から先になどと、このように裏切るのは身分の低い者のすることです。 また隔て心をお置きになるほどご無沙汰をしたでしょうか。 意外にもつらいお心ですね」 |
「私の愛はどんなに深いかしれないのに、私が二人の妻を持つようになったからといって、自分も同じように自由に人を愛しようというようなことは身分のない者のすることですよ。そんなに私が長く帰って来ませんでしたか、そうでもないではありませんか。私の信じていたよりも愛情の |
【思ひきこゆるさま】- 以下「憂かりける御心かな」まで、匂宮の詞。 【我こそ先になど】- 『花鳥余情』は「人よりは我こそ先に忘れなめつれなきをしも何か頼まむ」(古今六帖四、恨みず)を指摘。 【うち背く際はことにこそあれ】- 裏切るのは身分の違った女即ち卑しい身分の女がすることですよ、の意。 |
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5.2.12 | と、何から何まで語り伝えることができないくらい、とてもお気の毒な申し上げようをなさるが、何ともお返事申し上げなさらないのまでが、まことに憎らしくて、 |
などとお責めになるのである。愛する心からこうも思われるのであるというふうにお |
【すべてまねぶべくもあらず、いとほしげに聞こえたまへど】- 『休聞抄』は「双にかゝんやうなきと也」と指摘。語り手の言い訳を交えた叙述。 |
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5.2.13 | 「他の人に親しんだ袖の移り香か わが身にとって深く恨めしいことだ」 |
またびとになれける わが身にしめて恨みつるかな |
【また人に馴れける袖の移り香を--わが身にしめて恨みつるかな】- 匂宮から中君への贈歌。「馴れ」「袖」縁語。「恨み」に「裏」を響かせ、「袖」との縁、また「心」を響かせて、「あなたの心を見てしまった」の意を言外に匂わす。 |
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5.2.14 | 女方は、ひどいおっしゃりようが続くので、何ともお返事できないでいるが、黙っているのもどうかしら、と思って、 |
とお言いになった。夫人は身に覚えのない罪をきせておいでになる宮に弁明もする気にならずに、「あなたの誤解していらっしゃることについて何と申し上げていいかわかりません。 |
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5.2.15 | 「親しみ信頼してきた夫婦の仲も この程度の薫りで切れてしまうのでしょうか」 |
見なれぬる中の衣と頼みしを かばかりにてやかけ離れなん」 |
【みなれぬる中の衣と頼めしを--かばかりにてやかけ離れなむ】- 大島本は「たのめしを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「頼みしを」と校訂する。『新大系』は底本のまま「たのめしを」とする。中君の匂宮への返歌。「馴れ」の語句を用いて返す。「馴れ」「衣」縁語。「かばかり」に「香」を掛ける。 |
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5.2.16 | とて、うち まことにいみじき |
と言って、お泣きになる様子が、この上なくかわいそうなのを見るにつけても、「これだからこそ」と、ますますいらいらして、自分もぽろぽろと涙を流しなさるのは、色っぽいお心だこと。 ほんとうに大変な過ちがあったとしても、一途には疎みきれない、かわいらしくおいたわしい様子をしていらっしゃるので、最後まで恨むこともおできになれず、途中で言いさしなさっては、その一方ではお宥めすかしなさる。 |
と言って泣いていた。その様子の限りなく |
【いと心やましくて】- 大島本は「いと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いとど」と校訂する。『新大系』は底本のまま「いと」とする。 【色めかしき御心なるや】- 三光院は「草子地の評歟」と指摘。『集成』は「薫と中の君の情事を疑いないものとする匂宮の性癖を批評する体の草子地」。『完訳』は「語り手の評。匂宮の、多感な人に特有の猜疑心をいう」と注す。 |
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第三段 匂宮、中君の素晴しさを改めて認識 |
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5.3.1 | またの |
翌日も、ゆっくりとお起きになって、御手水や、お粥などをこちらの部屋で召し上がる。 お部屋飾りなども、あれほど輝くほどの、高麗や、唐土の錦綾を何枚も重ねているのを見た目には、世間普通の気がして、女房たちの姿も、糊気のとれたのが混じったりなどして、たいそうひっそりとした感じに見回される。 |
翌朝もゆるりと寝ておいでになって、お起きになってからは |
【御しつらひなども、さばかりかかやくばかり】- 六の君の部屋飾りを思い起こして中君の部屋のしつらいと比較。 【人びとの姿も】- 中君付の女房。 |
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5.3.2 | まろにうつくしく |
女君は、柔らかな薄紫の袿に、撫子の細長を襲着して、寛いでいらっしゃるご様子が、何事もたいそう凛々しく、仰々しいまでに盛りの方の装いが、何かと比較されるが、劣っているようにも思われず、親しみがあり美しいのも、愛情が並々でないために劣るところがないのであろう。 まるまるとかわいらしく太った方が、少し細やかになっているが、肌色はますます白くなって、上品で魅力的である。 |
夫人は柔らかな |
【何事もいとうるはしく】- 以下「御匂ひ」まで、六の君の描写。 【心ざしのおろかならぬに恥なきなめりかし】- 『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の推測」と注す。 |
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5.3.3 | かかる |
このような移り香などがはっきりしない時でさえ、愛嬌があってかわいらしいところなどが、やはり誰よりも多くまさってお思いになるので、 |
怪しい疑いを起こさせるにおいなどのついていなかった常の時にも、 |
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5.3.4 | 「この人を兄弟などでない人が、身近で話を交わして、何かにつけて、自然と声や気配を聞いたり見たりしつけると、どうして平気でいられよう。 きっと心を動かすことであろうよ」 |
この人を兄弟でもない男性が親しい交際をして自然に声も聞き、様子もうかがえる時もあっては、どうして無関心でいられよう、必ず結果は恋を覚えることになるであろう |
【これをはらからなどには】- 以下「思しぬべきことなるを」まで、匂宮の心中の思い。 【かならずしか思しぬべきことなるを】- 大島本は「おほしぬへき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おぼえぬべき」と校訂する。『新大系』は底本のまま「おぼしぬべき」とする。『完訳』は「恋着の気持を抱くだろう。今までも、中の君周辺を警戒してきた、の気持。薫にも注意している」と注す。 |
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5.3.5 | と、わがいと ただ、いとすくよかに なほ、いとかうのみはあらじかし」と |
と、自分のたいそう気の回るご性分からお思い知られるので、常に気をつけて、「はっきりと分かるような手紙などがあるか」と、近くの御厨子や、唐櫃などのような物までを、さりげない様子をしてお探しになるが、そのような物はない。 ただ、たいそうきっぱりした言葉少なで、平凡な手紙などが、わざわざというのではないが、何かと一緒になってあるのを、「妙だ。 やはり、とてもこれだけではあるまい」と疑われるので、ますます今日は平気でいられないのも、もっともなことである。 |
と、宮は御自身の好色な心から想像をあそばして、これまでから恋をささやく明らかな |
【しるきさまなる文などやある】- 『完訳』は「情交関係のはっきり分る手紙」と注す。 【あやし。なほ、いとかうのみはあらじかし】- 匂宮の思い。 【ことわりなりかし】- 『孟津抄』は「草子地也」。『完訳』は「宮の疑心も当然。語り手の評言」と注す。 |
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5.3.6 | 「あの人の様子も、情趣を解する女が、素晴らしいと思うにちがいないので、どうしてか、心外な人と思って放っておこう。 ちょうど似合いの二人なので、お互いに思いを交わし合うことだろう」 |
夫人が魅力を持つばかりでなく中納言の姿もまた趣味の高い女が興味を覚えるのに十分なものであるから、愛に報いぬはずはない、よい一対の男女であるから、相思の仲にもなるであろう |
【かの人のけしきも】- 以下「思ひ交はすらむ」まで、匂宮の思い。 【などてかは、ことの他にはさし放たむ】- 『完訳』は「中の君もどうして心外のこととして薫をはねつけよう。彼女の側にも密会の意志があったとする」と注す。 |
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5.3.7 | と想像すると、侘しく腹立たしく悔しいのであった。 やはり、とても安心していられなかったので、その日もお出かけになることができない。 六条院には、お手紙を二度三度差し上げなさるが、 |
と、こんな御想像のされるために、宮はわびしく腹だたしく、ねたましくお思いになった。不安なお気持ちが静まらぬため、その日も二条の院にとどまっておいでになることになり、六条院へはお手紙の使いを二、三度お出しになった。 |
【二度三度たてまつりたまふを】- 大島本は「たてまつり給ふ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「奉れたまふ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「たてまつり給ふ」とする。 |
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5.3.8 | 「いつのまに積もるお言葉なのだろう」 |
わずかな時間のうちにもそうも言っておやりになるお言葉が積もるのか |
【いつのほどに積もる御言の葉ならむ】- 中君付きの老女房の詞。「積もる」「葉」縁語。落葉が積もる。 |
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5.3.9 | とつぶやく |
とぶつぶつ言う老女連中もいる。 |
と老いた女房などは陰口を申していた。 |
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第四段 薫、中君に衣料を贈る |
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5.4.1 | 中納言の君は、このように宮が籠もっておいでになるのを聞くにも、癪に思われるが、 |
中納言はこんなに宮が二条の院にとどまっておいでになることを聞いても苦しみを覚えるのであったが、 |
【聞くにしも】- 大島本は「きくにしも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「聞くにも」と校訂する。『新大系』は底本のまま「聞くにしも」とする。 |
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5.4.2 | 「しかたのないことだ。 これは自分の心が馬鹿らしく悪いことだ。 安心な後見人としてお世話し始めた方のことを、このように思ってよいことだろうか」 |
自分は誤っている、愚かな情炎を燃やしてはよろしくない、そうした愛でない清い愛で助けようと決心していた人に対して、思うべからぬことを思ってはならぬ |
【わりなしや】- 以下「思ふべしや」まで、薫の心中。 |
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5.4.3 | と無理に反省して、「そうは言ってもお捨てにはならないようだ」と、嬉しくもあり、「女房たちの様子などが、やさしい感じに着古した感じのようだ」と思いやりなさって、母宮の御方にお渡りになって、 |
としいて思い返し、このままにしていても、自分の気持ちは汲んでくれる人に違いないという自信の持てるのがうれしかった。女房たちの衣服がなつかしい程度に古びかかっていたようであったのを思って、母宮のお居間へ行き、 |
【しひてぞ思ひ返して】- 薫は中君を後見した当初の気持ちに無理して立ち帰ろうとする。 【さはいへど、え思し捨てざめり】- 薫の心中の思い。匂宮は六の君と結婚しても中君を捨てないようだ、の意。 【人びとのけはひなどの】- 以下「萎えばみたりしを」まで、薫の心中の思い。 【母宮の御方に参りたまひて】- 薫の母女三宮のもとへ。 |
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5.4.4 | 「適当な出来合いの衣類はございませんか。 使いたいことが」 |
「品のよい女物で、お手もとにできているのがあるでしょうか、少し入り用なことがあるのです」 |
【よろしきまうけの】- 以下「使ふべきこと」まで、薫の詞。 |
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5.4.5 | など |
などと申し上げなさると、 |
とお尋ねすると、 |
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5.4.6 | 「例の、来月の御法事の布施に、白い物はありましょう。 染めた物などは、今は特別に置いておかないので、急いで作らせましょう」 |
「例年の法事は来月ですから、その日の用意の白い生地などがあるだろうと思います。染めたものなどは平生たくさんは私の所に置いてないから、急いで作らせましょう」 |
【例の、立たむ月の】- 以下「急ぎてこそせさせめ」まで、女三宮の詞。来月九月の法事の料。「例の」とは、正月・五月・九月の斎月の法事をさしていう。 |
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5.4.7 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
宮はこうお答えになった。 |
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5.4.8 | 「構いません。 仰々しい用事でもございません。 ありあわせで結構です」 |
「それには及びません。たいそうなことにいるのではありませんから、できているものでけっこうです」 |
【何か。ことことしき】- 以下「したがひて」まで、薫の詞。 |
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5.4.9 | とて、 みづからの |
と言って、御匣殿などにお問い合わせになって、女の装束類を何領もに、細長類も、ありあわせで、染色してない絹や綾などをお揃えになる。 ご本人のお召し物と思われるのは、自分のお召し物にあった紅の砧の擣目の美しいものに、幾重もの白い綾など、たくさんお重ねになったが、袴の付属品はなかったので、どういうふうにしたのか、腰紐が一本あったのを、結びつけなさって、 |
と |
【みづからの御料】- 中君自身の御料。 【いかにしたりけるにか】- 大島本は「いかにしたりけるにか」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いかにしたるにか」と「りけ」を削除する。『新大系』は底本のまま「いかにしたりけるにか」とする。語り手の疑問を差し挟んだ挿入句。 |
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5.4.10 | 「結んだ契りの相手が違うので 今さらどうして一途に恨んだりしようか」 |
結びける契りことなる ただひとすぢに恨みやはする |
【結びける契りことなる下紐を--ただ一筋に恨みやはする】- 薫から中君への贈歌。「結ぶ」「下紐」「一筋」縁語。 |
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5.4.11 | 大輔の君といって、年配の者で、親しそうな者におやりになる。 |
と歌を書いた。 |
【大輔の君】- 中君付きの女房。「早蕨」巻に登場。 【大人しき人の】- 大島本は「おとなしき人の」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おとなおとなしき人の」と「おとな」を補訂する。『新大系』は底本のまま「おとなしき人の」とする。 |
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5.4.12 | 「とりあえず見苦しい点を、適当にお隠しください」 |
にわかに思い立って集めた品ですから、よくそろいもせず見苦しいのですが、よいように取り合わせてお使いください。 |
【とりあへぬさまの】- 以下「もて隠して」まで、薫の詞。使者に言わせたものであろう。 |
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5.4.13 | などのたまひて、 |
などとおっしゃって、主人のお召し物は、こっそりとではあるが、箱に入れて包みも格別である。 御覧にならないが、以前からも、このようなお心配りは、いつものことで見慣れているので、わざとらしくお返ししたりなど、固辞すべきことでないので、どうしたものかと思案せず、女房たちに配り分けなどしたので、それぞれ縫い物などする。 |
という手紙が添えられてあって、夫人の着料のものは、目だたせぬようにしてはあったが箱へ納めてあって、包みが別になっていた。大輔は中の君へこの報告はしなかったが、今までからこうした好意の贈り物を受け |
【御料のは】- 中君の御料。敬語が付く。 【御覧ぜさせねど】- 「させ」使役の助動詞。匂宮がいる折なので、大輔の君は気を利かせて中君の前に差し出さない。 【けしきばみ返しなど、ひこしろふべきにもあらねば】- 『集成』は「あわててお返ししようとしたり、ごたごたすることもないので」。『完訳』は「いまさらわざとらしくお返ししたりなど、こだわるべきことでもないものだから」と訳す。 |
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5.4.14 | 若い女房たちで、御前近くにお仕えする者などは、特別に着飾らせるつもりなのであろう。 下仕え連中が、ひどくよれよれになった姿などに、白い袷などを着て、派手でないのがかえって無難であった。 |
若い女房で宮御夫婦のおそばへよく出る人はことにきれいにさせておこうとしたことだと思われる。下仕えの女中などの古くなった衣服を白の |
【若き人びとの】- 『湖月抄』は「草子地にいふ也」と指摘。 【取り分きては繕ひたつべき】- 『完訳』は「とりわけ身ぎれいにさせておくべきなのであろう」と訳す。「べし」は語り手の推量。贈り物をした薫の気持ちを忖度。 |
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第五段 薫、中君をよく後見す |
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5.5.1 | 誰が、何事をも後見申し上げる人があるだろうか。 宮は、並々でない愛情で、「万事不自由がないように」とお考えおきになっているが、こまごまとした内々の事までは、どうしてお考え及ぼう。 この上もなく大切にされてこられたのに馴れていらっしゃるので、生活が思うにまかせず心細いことは、どのようなものかともご存知ないのは、もっともなことである。 |
この夫人のために薫以外にだれがこうした物質の補いをする者があろう、宮は夫人を愛しておいでになったから、すべて不自由のないようにと計らってはおいでになるのであるが、女房の衣服のことまではお気のおつきにならないところであった。大事がられて御自身でそうした物のことをお考えになることはなかったのであるから、貧しさはどんなに苦しいものであるともお知りにならないのは道理なことである。 |
【誰かは、何事をも】- 以下「いとほしの人ならはしやとぞ」あたりまで、語り手の批評を交えた叙述。『集成』は「以下、薫の、実生活上の細々とした援助について、長々と説明する形で言う」と注す。 【限りもなく人にのみかしづかれてならはせたまへれば】- 匂宮の生活についていう。 |
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5.5.2 | 風流を好みぞくぞくと、心にしみる花の露を賞美して世の中は送るべきものとお考えのこと以外は、愛する人のためなら、自然と季節季節に応じて、実際的なことまでお世話なさるのは、もったいなくもめったにないことなので、「どんなものかしら」などと、非難がましく申し上げる御乳母などもいるのであった。 |
寒けをさえ覚える |
【艶にそぞろ寒く、花の露をもてあそびて世は過ぐすべきもの】- 『集成』は「風流気取りでぞくぞくと心に沁む思いに身をやつし、花に置く露の美しさを賞でて一生は送るものと、日頃お思いである宮にしては。人生に風流韻事のほかはないと考えている匂宮の人柄をいう」と注す。 【折節につけつつ】- 『完訳』は「なかば衝動的に、訪れた時節に適した衣装をも新調するらしい。匂宮の、好色らしい処遇である」と注す。 |
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5.5.3 | 童女などの、身なりのぱっとしないのが、時々混じったりしているのを、女君は、たいそう恥ずかしく、「かえって立派過ぎて困ったお邸だ」などと、人知れずお思いになることがないわけでないが、まして最近は、世に鳴り響いた方のご様子の華やかさに、一方では、「宮付きの女房が見たり思ったりすることも、見すぼらしいこと」と、お悩みになることも加わって嘆かわしいのを、中納言の君は、実によくご推察申し上げなさるので、親しくない相手だったら、見苦しくごたごたするにちがいない心配りの様子も、軽蔑するというのではないが、「どうして、大げさにいかにも目につくようなのも、かえって疑う人があろうか」と、お思いになるのであった。 |
童女の中には見苦しくなった姿で混じっていたりするのも目につくことがおりおりあったりして、夫人はそれを恥ずかしく思い、この |
【なかなかなる住まひにもあるかな】- 中君の感想。『集成』は「二条の院の暮しに肩身の狭い思いをする」と注す。 【世に響きたる御ありさまの】- 六の君をさす。 【宮のうちの人】- 匂宮付きの女房。 【見思はむことも】- 大島本は「み思ハんことも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見思ふらむことも」と校訂する。『新大系』は底本のまま「見思はんことも」とする。 |
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5.5.4 | この いとほしの |
今はまた、いつもの無難な贈り物などお整えさせなさって、御小袿を織らせ、綾の素材を下さったりなさった。 この君は、宮にもお負けになさらず、特に大事に育てられて、不体裁なまでに気位高くもあり、世の中を悟り澄まして、上品な気持ちはこの上ないけれど、故親王の奥山生活を御覧になって以来、「寂しい所のお気の毒さは格別であった」と、おいたわしく思われなさって、世間一般のこともいろいろと考えるようになり、深い同情を持つようになったのであった。 おかわいそうな方の影響だ、とのことである。 |
この贈り物があったために、女房の身なりをととのえさせることができ、 |
【この君しもぞ】- 『完訳』は「以下、薫の人となりと生き方。匂宮に並ぶ世間からの寵遇と、現世への懐疑的態度は、匂宮巻以来一貫している」と注す。 【いとほしの人ならはしや、とぞ】- 『一葉抄』は「草子の詞也」と指摘。『集成』は「薫にはおかわいそうな(ちと荷の重い)八の宮の感化だとか、そんなことを言う人もいるようです」。『完訳』は「語り手の評。薫に対する八の宮のいたわしい影響とか」と注す。 |
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第六段 薫と中君の、それぞれの苦悩 |
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5.6.1 | 「かくて、なほ、いかでうしろやすく |
「こうして、やはり、何とか安心で分別のある後見人として終えよう」と思うにつけても、意志とは逆に、心にかかって苦しいので、お手紙などを、以前よりはこまやかに書いて、ともすれば、抑えきれない気持ちを見せながら申し上げなさるのを、女君は、たいそうつらいことが加わった身だとお嘆きになる。 |
薫はぜひとも中の君のために邪悪な恋は捨てて、清い同情者の地位にとどまろうとするのであるが、自身の心が思うにまかせず、常に恋しくばかり思われて苦しいために、手紙をもって以前よりもこまごまと書き、不用意に恋の心が出たふうに見せたような消息をよく送るようになったのを、中の君はわびしいことの添ってきた運命であると歎いていた。 |
【かくて、なほ、いかでうしろやすく大人しき人にてやみなむ】- 薫の中君の後見についての思い。 【添ひたる身】- 大島本は「そひたる身」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「添ひにたる身」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のまま「そひたる身」とする。 |
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5.6.2 | 「ひとへに さすがに、あさはかにもあらぬ さりとて、 |
「まったく知らない人なら、何と気違いじみていると、体裁の悪い思いをさせ放っておくのも気楽なことだが、昔から特別に信頼して来た人として、今さら仲悪くするのも、かえって人目に変だろう。 そうはいってもやはり、浅くはないお気持ちやご好意の、ありがたさを分からないわけでない。 そうかといって、相手の気持ちを受け入れたように振る舞うのも、まことに慎まれることだし、どうしたらよいだろう」 |
まったく知らぬ人であったならば、狂気の |
【ひとへに知らぬ人なれば】- 以下「いかがはすべからむ」まで、中君の心中の思い。 【人目悪しかるべし】- 大島本は「人めあしかるへし」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「人目あやしかるべし」と「や」を補訂する。『新大系』は底本のまま「人目あしかるべし」とする。 |
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5.6.3 | と、よろづに |
と、あれこれとお悩みになる。 |
とはばかられて |
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5.6.4 | さぶらふ |
伺候する女房たちも、少し相談のしがいのあるはずの若い女房は、みな新しく、見慣れている者としては、あの山里の老女連中である。 悩んでいる気持ちを、同じ立場で親しく相談できる人がいないままに、故姫君をお思い出し申し上げない時はない。 |
女房たちも夫人の気持ちのわかりそうな若い人らは皆新しく京へ移った前後から来てなじみが浅く、またなじみの深い人たちといっては昔から宇治にいた老いた女房らであったから、苦しいことも左右の者に |
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5.6.5 | 「生きていらっしゃったら、この人もこのようなお悩みをお持ちになったろうか」 |
姉君さえおいでになれば中納言も自分へ恋をするようなことにはむろんならなかったはず |
【おはせましかば】- 以下「添へたまはましやは」まで、中君の心中の思い。「ましかば--まし」反実仮想の構文。 |
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5.6.6 | と、いと |
と、とても悲しく、宮が冷淡におなりになる嘆きよりも、このことがたいそう苦しく思われる。 |
であると、大姫君の死が悲しく思われ、宮が二心をお持ちになり、恨めしいことも起こりそうに予想されることよりもこの中納言の恋を中の君は苦しいことに思った。 |
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第六章 薫の物語 中君から異母妹の浮舟の存在を聞く |
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第一段 薫、二条院の中君を訪問 |
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6.1.1 | やがて |
男君も、無理をして困って、いつものように、しっとりした夕方おいでになった。 そのまま端にお褥を差し出させなさって、「とても苦しい時でして、お相手申し上げることができません」と、女房を介して申し上げさせなさったのを聞くと、ひどくつらくて、涙が落ちてしまいそうなのを、人目にかくして、無理に紛らわして、 |
薫はおさえきれぬものを心に覚えて、例のとおりにしんみりとした夕方に二条の院の中の君を |
【男君も】- 『完訳』は「薫。一行「女君」の称の照応」と注す。 【いと悩ましきほどにてなむ、え聞こえさせぬ】- 中君が女房をして言わせた詞。 【涙落ちぬべきを】- 大島本は「なミたおちぬ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「涙の落ちぬ」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「涙落ちぬ」とする。 |
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6.1.2 | 「お悩みでいらっしゃる時は、知らない僧なども近くに参り寄るものですよ。 医師などと同じように、御簾の内に伺候することはできませんか。 このような人を介してのご挨拶は、効のない気がします」 |
「御病気の時には、知らぬ僧でもお近くへまいるのですから、私も医師並みに |
【悩ませたまふ折は】- 以下「かひなき心地する」まで、薫の詞。 【知らぬ僧なども近く参り寄るを】- 『完訳』は「病気治療の祈祷をすべく簾中に控える僧。それを根拠に、後見役の自分が入るのは当然、の気持」と注す。「知らぬ僧」でさえ、まして私は、の意が言外にある。 |
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6.1.3 | とおっしゃって、とても不愉快なご様子なのを、先夜お二人の様子を見ていた女房たちは、 |
と言い、情けなさそうにしているのを、先夜の事情を知っている女房らが、 |
【一夜もののけしき】- 大島本は「ひとよものゝけしき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「一夜ももののけしき」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「一夜もののけしき」とする。先夜の簾中での中君と薫の対面。 |
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6.1.4 | 「なるほど、とても見苦しくございますようです」 |
「仰せになりますとおり、お席があまり失礼でございます」 |
【げに、いと見苦しくはべるめり】- 女房の詞。 |
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6.1.5 | とて、 |
と言って、母屋の御簾を下ろして、夜居の僧の座所にお入れ申すのを、女君は、ほんとうに気分も実に苦しいが、女房がこのように言うので、はっきり拒むのも、またどんなものかしら、と遠慮されるので、嫌な気分ながら少しいざり出て、お会いなさった。 |
と言い、中央の |
【掲焉にならむも】- 大島本は「けちえんにならむも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「掲焉ならむも」と「に」を削除する。『新大系』は底本のまま「掲焉にならむも」とする。 |
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6.1.6 | とてもかすかに、時々何かおっしゃるご様子が、亡くなった姫君が病気におなり始めになったころが、まずは思い出されるのも、不吉で悲しくて、まっくらな気持ちにおなりになると、すぐには何も言うことができず、躊躇して申し上げなさる。 |
ごくほのかに時々ものを言う様子に、死んだ恋人の病気の初期のころのことが思われるのもよい兆候でないと薫は非常に悲しくなり、心が |
【昔人の】- 大島本は「むかし人の」とある。『完本』は諸本に従って「昔の人の」と「の」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「昔人の」とする。 【ものも言はれず】- 大島本は「ものもいはれす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ものもえ言はれず」と「え」を補訂する。『新大系』は底本のまま「ものも言はれず」とする。 |
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6.1.7 | この上なく奥のほうにいらっしゃるのがとてもつらくて、御簾の下から几帳を少し押し入れて、いつものように、馴れ馴れしくお近づき寄りなさるのが、とても苦しいので、困ったことだとお思いになって、少将と言った女房を近くに呼び寄せて、 |
ずっと奥のほうに中の君のいるのも恨めしくて、御簾の下から |
【例の、なれなれしげに近づき寄りたまふが】- 『完訳』は「先夜と同じように。簾の下から上半身を入れる」と注す。 |
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6.1.8 | 「胸が痛い。 暫く押さえていてほしい」 |
「私は胸が痛いからしばらくおさえて」 |
【胸なむ痛き。しばしおさへて】- 中君の詞。 |
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6.1.9 | とのたまふを |
とおっしゃるのを聞いて、 |
と言っているのを聞いて、 |
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6.1.10 | 「胸を押さえたら、とても苦しくなるものです」 |
「胸はおさえるとなお苦しくなるものですが」 |
【胸はおさへたるは、いと苦しくはべるものを】- 薫の詞。『完訳』は「胸の痛みは、押えたらなお苦しくなる、の意に、恋情を抑えるのは苦しい、の意を言いこめる」と注す。 |
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6.1.11 | と溜息をついて、居ずまいを直しなさる時も、なるほど内心穏やかならない気がする。 |
こう言って |
【げにぞ下やすからぬ】- 『玉の小櫛』は「薫君の下の心を冊子地よりいふ也」と指摘。『集成』は「ほんとに、内心はおだやかならぬものがある。薫の言葉を「胸の思いを押える」意に取りなして、少将を呼んだのを薫が不満に思う旨の草子地」。『完訳』は「語り手が、薫の言葉を受けて、薫の内心は穏やかならぬ、と評す」と注す。 |
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6.1.12 | 「どうして、このようにいつもお苦しみでいらっしゃるのだろう。 人に尋ねましたら、暫くの間は気分が悪いが、そうしてまた、良くなる時がある、などと教えました。 あまりに子供っぽくお振る舞いになっていらっしゃるようです」 |
「どうしてそんなに始終お苦しいのでしょう。人に聞きますと、初めのうちは気持ちが悪くてもまた快く |
【いかなれば】- 以下「もてなさせたまふめりかし」まで、薫の詞。 【人に問ひはべりしかば】- 「教へはべりしか」に係る。 【しばしこそ】- 係助詞「こそ--なれ」係結びの法則。逆接用法。 |
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6.1.13 | とのたまふに、いと |
とおっしゃると、とても恥ずかしくて、 |
と薫の言うのを聞いて中の君は恥ずかしくなった。 |
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6.1.14 | 「胸は、いつとなくこのようでございます。 故人もこのようなふうでいらっしゃいました。 長生きできない人がかかる病気とか、人も言っているようでございます」 |
「私は平生いつも胸が痛いのでございます。姉もそんなふうでございました。短命な人は皆こんなふうに煩うものだとか申します」 |
【胸は、いつともなく】- 以下「人もいひはべるめる」まで、中君の詞。 |
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6.1.15 | とぞのたまふ。 「げに、 |
とおっしゃる。 「なるほど、誰も千年も生きる松ではないこの世を」と思うと、まことにお気の毒でかわいそうなので、この召し寄せた人が聞くだろうことも憚らず、側で聞くとはらはらするようなことは言わないが、昔からお思い申し上げていた様子などを、あの方一人だけには分かるようにしながら、少将には変に聞こえないように、体裁よくおっしゃるのを、「なるほど、世に稀なお気持ちだ」と聞いているのであった。 |
と言った。だれも千年の松の命を持っているのでないから、あるいはそんな危険が近づいているのであるかもしれぬと思うと、薫には今の言葉が身に |
【げに、誰も千年の松ならぬ世を】- 薫の心中の思い。源氏釈「憂くも世に思ふ心にかなはぬか誰も千歳の松ならなくに」(古今六帖四、うらみ)を指摘。 【かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむれ】- 挿入句。係助詞「こそ--なれ」係結びの法則。逆接用法。聞かれては困るようなこと。 【人はかたはにも】- 大島本は「人ハかたわにも」とある。『完本』は諸本に従って「人はまたかたはにも」と「また」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「人はかたはにも」とする。 【げに、ありがたき御心ばへにも】- 下に「あるかな」などの語句が省略された形。少将君の感想。『完訳』は「薫の真意が隠蔽されているので、中の君への厚意をいかにも殊勝なものと、少将は感動的に聞く」と注す。 |
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第二段 薫、亡き大君追慕の情を訴える |
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6.2.1 | どのような事柄につけても、故君の御事をどこまでも思っていらっしゃった。 |
表はおおかた |
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6.2.2 | 「いはけなかりしほどより、 |
「幼かったころから、世の中を捨てて一生を終わりたい気持ちばかりを持ち続けていましたが、その結果であったのでしょうか、親密な関係ではないながら並々でない思いをおかけ申すようになった一事で、あの本来の念願は、そうはいっても背いてしまったのだろうか。 |
「私は少年のころから、この世から離れた身になりたい、正しく仏道へ踏み入るにはどうすればよいかと願うことはそれだけだったのですが、前生の因縁というものだったのでしょうか、そう御接近したわけでもないあの方を恋しく思い始めました時から、私の信仰に傾いた心が違ってきまして、またお死なせしてからはあちらこちらの女性と交渉を始めることもして、 |
【いはけなかりしほどより】- 以下「なほうしろやすく思したれ」まで、薫の詞。 【疎きものからおろかならず思ひそめきこえはべりしひとふしに】- 大君との関係を回顧して言う。『完訳』は「親密な関係にはならなかったが、深い思いをかけるようになったのが原因で、の意。結婚できなかった大君との関係を回顧」と注す。 【かの本意の聖心は、さすがに違ひやしにけむ】- 疑問形の文。『完訳』は「本意とする道心はやはりどうにかなってしまったのかもしれません」と訳す。 |
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6.2.3 | 慰め程度に、あちらこちらと行きかかずらって、他人の様子を見るにつけても、紛れることがあろうかなど、と思い寄る時々はございましたが、まったく他の女性には気持ちを向けることもございませんでした。 |
悲痛な心を慰めようとしたこともありましたが、そんなことは何の効果もあるものでないことが確かにわかりました。 |
【慰めばかりに、ここにもかしこにも行きかかづらひて】- 『集成』は「せめても気晴らし。以下、大君の死後、ほかの女に心の移ることもあろうかと考えたこともある、と言う」。『完訳』は「傷心を慰めるべく女性交渉があったとする。按察の君やその他の召人のことだが、薫はもともと大勢の召人と関係がある」と注す。桐壺帝が更衣を失った折の「心の慰め」と新しい人を求めた類同の主題が繰り返されて語られている。 |
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6.2.4 | よろづに |
万事困りまして、心惹かれる方も特にいなかったので、好色がましいようにお思いであろうと、恥ずかしいけれど、とんでもない心が、万が一あっては目障りなことでしょうが、ただこの程度のことで、時々思っていることを申し上げたり承ったりなどして、隔意なくお話し交わしなさるのを、誰が咎め立てしましょうか。 世間の人と違った心のほどは、みな誰からも非難さるはずはないのでございすから、やはりご安心なさいませ」 |
私に魅力を及ぼす人がほかにはこの世にいないことがわかりましたから、好色らしいと誤解されますのは恥ずかしいのですがそうした不良性な愛であなたをお思いしてこそ無礼きわまるものでしょうが、私の望むところは淡々たるもので、ただこれほどの隔てで時々あなたへ直接その時その気持ちをお話し申し上げて、そしてなんとかお言葉をいただくことができます程度の |
【心の引く方の強からぬわざなりければ】- 『集成』は「心を強く惹かれる人もいないことでしたので。あなた以外には心惹かれる人はいなかった、という意味を逆からいう」と注す。 【あるべくはこそめざましからめ】- 係助詞「こそ--めざましからめ」係結びの法則、逆接用法。 【誰れかはとがめ出づべき】- 反語表現。 |
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6.2.5 | など、 |
などと、恨んだり泣いたりしながら申し上げなさる。 |
などと、恨みもし、泣きもして薫は言うのである。 |
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6.2.6 | 「うしろめたく |
「気がかりにお思い申し上げたら、このように変だと人が見たり思ったりするにちがいないまで申し上げましょうか。 長年、あれこれのことにつけて、分かってまいりましたことがございましたので、血縁者でもない後見人に、今ではわたしのほうからお願い申し上げておりますのです」 |
「御信用しておりませんでしたなら、こんなふうに誤解もされんばかりにまであなたと近しくお話などはいたしませんでしょう。長い間、父のため、姉のために御好意をお見せくださいましたことをよく存じているものですから、普通には説明のできない間柄の保護者と御信頼申し上げて、ただ今ではこちらから何かと御無心に出したりもいたしております」 |
【うしろめたく思ひきこえば】- 以下「おどろかしきこゆれ」まで、中君の詞。 【聞こえはべるべくや】- 反語表現。 【さま異なる頼もし人にて】- 『集成』は「世間には例のないような頼りにするお方として」。『完訳』は「血縁縁者ではない後見役」と訳す。 【おどろかしきこゆれ】- 『完訳』は「今ではこちらから相談を持ちかけるほどだ、とする。先日の宇治行きの相談をさす」と注す。 |
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6.2.7 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
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6.2.8 | 「さやうなる この それもげに、 |
「そのような時があったとも覚えておりませんので、まことに利口なこととお考えおいておっしゃるのでしょうか。 この山里へのご出立の準備には、かろうじてお召し使わせていただきましょう。 それも仰せのように、見込んでくれてこそだと、いい加減には思いません」 |
「そんなことがありましたかどうだか私に覚えはないようです。そればかりのこともたいそうにおっしゃるではありませんか。今度宇治へおいでになりたいという御相談でやっと私の存在をお認めになったようなわけではありませんか。それだけでも哀れな私は満足ができたのですよ。誠意のある者とおわかりになってくだすったのですから、非常にありがたく思っております」 |
【さやうなる折も】- 以下「おろかにやは思ひはべる」まで、薫の詞。『完訳』は「わざととぼけた言い方」と注す。 【おろかにやは思ひはべる】- 反語表現。 |
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6.2.9 | などとおっしゃって、やはりたいそうどことなく恨めしそうであるが、聞いている人がいるので、思うままにどうしてお話し続けられようか。 |
こんなふうに言って、 |
【思ふままにもいかでかは続けたまはむ】- 反語表現。語り手の薫に感情移入した表現。 |
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第三段 薫、故大君に似た人形を望む |
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6.3.1 | 外の方を眺めていると、だんだんと暗くなっていったので、虫の声だけが紛れなくて、築山の方は小暗く、何の区別も見えないので、とてもひっそりとして寄りかかっていらっしゃるのも、厄介だとばかり心の中にはお思いなさる。 |
庭のほうへ目をやって見ると、秋の日が次第に暗くなり、虫の声だけが何にも紛れず高く立っているが、築山のほうはもう |
【わづらはしとのみ内には思さる】- 主語は中君。 |
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6.3.2 | 「 |
「恋しさにも限りがあるので」 |
「恋しさの限りだにある世なりせば」(つらきをしひて歎かざらまし) |
【限りだにある】- 薫の詞。『源氏釈』は「恋しさの限りだにある世なりせば年へてものは思はざらまし」(古今六帖五、年へていふ)を指摘。 |
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6.3.3 | など、 |
などと、こっそりと口ずさんで、 |
などと低い声で薫は口ずさんでから、 |
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6.3.4 | 「困り果てております。 音無の里を尋ねて行きたいが、あの山里の辺りに、特に寺などはなくても、故人が偲ばれる人形を作ったり、絵にも描いたりして、勤行いたしたいと、存じるようになりました」 |
「私はもうしかたもない悲しみの |
【思うたまへわびにてはべり】- 以下「思うたまへなりにたる」まで、薫の詞。 【音無の里】- 『源氏釈』は「恋ひわびぬねをだに泣かむ声立てていづれなるらむ音無の里」(拾遺集恋二、七四九、読人しらず)を指摘。 【昔おぼゆる人形をも作り】- 『源氏釈』は漢武帝が李夫人の絵姿を絵師に描かせた故事を指摘する。 |
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6.3.5 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と言った。 |
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6.3.6 | 「しみじみとした御本願に、また嫌な御手洗川に近い気がする人形は、想像するとお気の毒でございます。 黄金を求める絵師がいたらなどと、気がかりでございませんか」 |
「身にしむお話でございますけれど、人型とお言いになりますので『みたらし川にせし |
【あはれなる御願ひに】- 以下「うしろめたくぞはべるや」まで、中君の詞。 【うたて御手洗川近き心地する人形こそ】- 中君は『伊勢物語』の禊のために人形を川に流した話を例にとって反駁する。『異本紫明抄』は「恋せじと御手洗川にせし禊神はうけずもなりにけるかな」(古今集恋一、五〇一、読人しらず)を指摘。 【黄金求むる絵師もこそなど】- 『源氏釈』はは王昭君の故事を指摘。 |
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6.3.7 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
こう中の君は言う。 |
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6.3.8 | 「そうですよ。 その彫刻師も絵師も、どうして心に叶う物ができましょうか。 最近に蓮華を降らせた彫刻師もございましたが、そのような変化の人もいてくれたらなあ」 |
「そうですよ。その絵師というものは決して気に入った肖像を作ってくれないでしょうからね。少し前の時代にその絵から真実の花が降ってきたとかいう伝説の絵師がありますがね、そんな人がいてくれればね」 |
【そよ。その工も絵師も】- 以下「変化の人もがな」まで、薫の詞。 【近き世に花降らせたる工もはべりけるを】- 出典未詳の故事。 |
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6.3.9 | と、とざまかうざまに |
と、あれやこれやと忘れることのない旨を、お嘆きになる様子が、深く思いつめているようなのもお気の毒で、もう少し近くにいざり寄って、 |
何を話していても死んだ人を惜しむ心があふれるように見えるのを中の君は哀れにも思い、自身にとって一つの煩わしさにも思われるのであったが、少し |
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6.3.10 | 「人形のついでに、とても不思議と思いもつかないことを、思い出しました」 |
「人型とお言いになりましたことで、偶然私は一つの話を思い出しました」 |
【人形のついでに】- 以下「思ひ出ではべれ」まで、中君の詞。 |
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6.3.11 | とのたまふけはひの、すこしなつかしきも、いとうれしくあはれにて、 |
とおっしゃる感じが、少しやさしいのもとても、嬉しくありがたくて、 |
と言い出した。その様子に常に |
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6.3.12 | 「 |
「どのようなことですか」 |
「それはどんなお話でしょう」 |
【何ごとにか】- 薫の詞。 |
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6.3.13 | と言いながら、几帳の下から手をお掴みになると、とてもわずらわしく思われるが、「何とかして、このような心をやめさせて、穏やかな交際をしたい」と思うので、この近くにいる少将の君の思うことも困るので、さりげなく振る舞っていらっしゃった。 |
こう言いながら几帳の下から中の君の手をとらえた。煩わしい気持ちに中の君はなるのであったが、どうにかしてこの人の恋をやめさせ、安らかにまじわっていきたいと思う心があるため、女房へも知らせぬようにさりげなくしていた。 |
【いかさまにして、かかる心をやめて、なだらかにあらむ】- 中君の心中の思い。薫の懸想心をやめさせたい、意。 【この近き人の】- 少将の君。 |
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第四段 中君、異母妹の浮舟を語る |
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6.4.1 | 「 |
「今までは、この世にいるとも知らなかった人が、今年の夏頃、遠い所から出てきて尋ねて来たのですが、よそよそしくは思うことのできない人ですが、また急に、そのようにどうして親しくすることもあるまい、と思っておりましたが、最近来た時は、不思議なまでに、故人のご様子に似ていたので、しみじみと胸を打たれました。 |
「長い間そんな人のいますことも私の知りませんでした人が、この夏ごろ遠い国から出てまいりまして、私のここにいますことを聞いて |
【年ごろは】- 以下「さはありけむ」まで、中君の詞。浮舟のことが初めて語られる。 【疎くは思ふまじけれど】- 疎遠にはできない人。婉曲な言い回し。異母姉妹であることをほのめかす。 |
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6.4.2 | 形見などと、あのようにお考えになりおっしゃるようなのは、かえって何もかも、あきれるくらい似ていないようだと、知っている女房たちは言っておりましたが、とてもそうでもないはずの人が、どうして、そんなに似ているのでしょう」 |
形見に見ようと思召すのには適当でございませんことは、女たちも姉とはまるで違った育ち方の人のようだと言っていたことで確かでございますが、顔や様子がどうしてあんなにも似ているのでしょう。それほどなつながりでもございませんのに」 |
【かう思しのたまふめるは】- 主語はあなた薫。薫が私を故大君の形見だと、の意。 【見る人びとも】- 女房たち。大君と中君をよく見てきた人々、の意。 【いとさしもあるまじき人の】- 浮舟についていう。同腹の大君と私があまり似ていないのに、そうでない人(異腹の姉妹)が大君に似ている不思議さをいう。 |
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6.4.3 | とのたまふを、 |
とおっしゃるのを、夢語りか、とまで聞く。 |
この中の君の言葉を薫はあるべからざる夢の話ではないかとまで思って聞いた。 |
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6.4.4 | 「そのような因縁があればこそ、そのようにもお親しみ申すのでしょう。 どうして今まで、少しも話してくださらなかったのですか」 |
「しかるべきわけのあることであなたをお慕いになっておいでになったのでしょう。どうしてただ今までその話を少しもお聞かせくださらなかったのでしょう」 |
【さるべきゆゑあればこそは】- 以下「かすめさせたまはざりつらむ」まで、薫の詞。 |
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6.4.5 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
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6.4.6 | 「いさや、そのゆゑも、いかなりけむこととも ものはかなきありさまどもにて、 |
「さあ、その理由も、どのようなことであったかも分かりません。 頼りなさそうな状態で、この世に落ちぶれさすらうことだろうこと、とばかり、不安そうにお思いであったことを、ただ一人で何から何まで経験させられますので、またつまらないことまでが加わって、人が聞き伝えることも、とてもお気の毒なことでしょう」 |
「でも古い事実は私に否定も肯定もできなかったのでございますからね。何のたよりになるものも持たずにさすらっている者もあるだろうとおっしゃって、気がかりなふうにお父様が時々お |
【いさや、そのゆゑも】- 以下「いとほしかるべけれ」まで、中君の詞。 【ものはかなきありさまどもにて】- 接尾語「ども」、大君と中君をさす。卑下。父八宮が遺される姉妹を心配していたこと。 【思したりし】- 主語は父八宮。 【ただ一人かき集めて】- 自分中君が一人ですべて、の意。 【またあいなきことをさへうち添へて】- 異母姉妹浮舟の登場をさす。『集成』は「もう一人知られなくてもよい人のことまで一緒に、世間の人に知れ渡りますのは、いかにも父宮においたわしいことに思われます。子女の零落は八の宮の名誉にかかわる、それは私一人でたくさんだ、という気持」と注す。 【いといとほしかるべけれ】- 故父八宮に対して。 |
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6.4.7 | とおっしゃる様子を見ると、「宮が密かに情けをおかけになった女が、子を生んでおいたのだろう」と理解した。 |
中の君のこの言葉によれば、八の宮のかりそめの恋のお相手だった人が得ておいた形見の姫君らしいと薫は悟った。 |
【宮の忍びて】- 以下「摘みおきたりけるなるべし」まで、薫の心中。八宮がこっそり儲けた女であると、合点する。 【忍草摘みおき】- 『奥入』は「結びおきし形見の子だになかりせば何に忍ぶの草を摘ままし」(後撰集雑二、一一八七、兼忠朝臣の母の乳母)を指摘。 |
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6.4.8 | 似ているとおっしゃる縁者に耳がとまって、 |
大姫君に似たと言われたことに心が |
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6.4.9 | 「それだけでは。 同じことなら最後までおっしゃってください」 |
「そのよくおわかりにならないことはそのままでもいいのですから、もう少しくわしくお話をしてくださいませんか」 |
【かばかりにては】- 以下「させたまうてよ」まで、薫の詞。 【させたまうてよ】- 大島本は「給うてよ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまひてよ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「給うてよ」とする。 |
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6.4.10 | と、いぶかしがりたまへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにも |
と、聞きたがりなさるが、やはり何といっても憚られて、詳細を申し上げることはおできになれない。 |
と中納言は望んだが、 |
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6.4.11 | 「尋ねたいと思いなさるお気持ちでしたら、どこそこと申し上げましょうが、詳しいことは分かりませんよ。 また、あまり言ったら、期待外れもしましょうから」 |
「その人を知りたく思召すのでございましたら、その辺と申すことくらいはお教え申してもいいのでございますが、私もくわしくは存じません。またあまり細かにお話をいたせばいやにおなりになることに違いございませんし」 |
【尋ねむと思す心あらば】- 以下「御心をとりもしぬべきことになむ」まで、中君の詞。 |
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6.4.12 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
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6.4.13 | 「 なほ、 |
「男女の仲を、海の中までも、魂のありかを求めては、思う存分進んで行きましょうが、とてもそこまでは思うことはないが、とてもこのように慰めようのないのよりは、と存じます人形の願いぐらいには、どうして、山里の本尊に対しても思ってはいけないのでしょうか。 やはり、はっきりおっしゃってください」 |
「幻術師を遠い海へつかわされた話にも劣らず、あの世の人を捜し求めたい心は私にもあるのです。そうした故人の生まれ変わりの人と見ることはできなくても、現在のような慰めのない生活をしているよりはと思う心から、その方に興味が持たれます。人型として見るのに満足しようとする心から申せば山里の |
【世を、海中にも、魂のありか尋ねには】- 以下「確かにのたまはせよ」まで、薫の詞。『白氏文集』「長恨歌」の故事を踏まえた物言い。 【思ひ寄りはべる人形の】- 『集成』は「思ひ寄りはべる人形」と下文に続ける。『完訳』は「思ひよりはべる。人形の」と二文にする。 【などかは】- 「思ひはべらざらむ」に係る。反語表現の構文。『集成』は「その人を宇治のお寺の本尊とあがめて何の悪いことがありましょう。大君に生き写しのその人を愛して何が悪かろう、の意」と注す。 |
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6.4.14 | と、うちつけに |
と、急にお責め申し上げなさる。 |
中納言は新しい姫君へにわかに関心を持ち出して中の君を責めるのだった。 |
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6.4.15 | 「いさや、いにしへの ほのかなりしかばにや、 これをいかさまにもてなさむ、と |
「さあ、父宮のお許しもなかったことを、こんなにまでお洩らし申し上げるのも、とても口が軽いが、変化の彫刻師をお探しになるお気の毒さに、こんなにまで」と言って、「とても遠い所に長年過ごしていたが、母である人が遺憾に思って、無理に尋ねて来たのですが、体裁悪くもお返事できずにおりましたところ、参ったのです。 ちらっと会ったためにか、何事も想像していたよりは見苦しくなく見えました。 この娘をどのように扱おうかと困っていたようでしたが、仏になるのは、まことにこの上ないことでありましょうが、そこまではどうかしら」 |
「でもお父様が子と認めてお置きになったのでもない人のことを、こんなにお話ししてしまいますのは軽率なことなのですが、神通力のある絵師がほしいとお思いになるあなたをお気の毒に思うものですから」こう言ってから、さらに、「長く遠い国でなど育てられていましたことで、その母が |
【いさや、いにしへの】- 以下「いとほしさにこそかくも」まで、中君の詞。「いにしへ」は故父宮をさす。 【いと遠き所に】- 以下「さまではいかでかは」まで、中君の詞。 【これをいかさまに】- この娘を。浮舟をさす。 【仏にならむは、いとこよなきことにこそはあらめ】- 『完訳』は「薫の「山里の本尊」を受けた言い方。薫の思われ人になるのは先方として願ってもない幸いだろうが、それに値するほどでもない意」と注す。 |
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6.4.16 | など |
などと申し上げなさる。 |
など夫人は言った。 |
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第五段 薫、なお中君を恋慕す |
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6.5.1 | 「さりげなくて、かくうるさき 「あるまじきこととは |
「何気なくて、このようにうるさい心を何とか言ってやめさせる方法もないものか、と思っていらっしゃる」と見るのはつらいけれど、やはり心動かされる。 「あってはならないこととは深く思っていらしゃるものの、あからさまに体裁の悪い扱いは、おできになれないのを、ご存知でいらっしゃるのだ」と思うと胸がどきどきして、夜もたいそう更けてゆくのを、御簾の内側では人目がたいそう具合が悪く思われなさって、すきを見て、奥にお入りになってしまったので、男君は、道理とは繰り返し思うが、やはりまことに恨めしく口惜しいので、思い静める方もない気がして、涙がこぼれるのも体裁が悪いので、あれこれと思い乱れるが、一途に軽率な振る舞いをしたら、またやはりとても嫌な、自分にとってもよくないことなので、思い返して、いつもより嘆きがちにお出になった。 |
それとなく自分の恋を退ける手段として中の君の考えついたことであろうと想像される点では恨めしいのであったが、故人に似たという人にはさすがに心の |
【さりげなくて】- 以下「思ひたまへる」まで、薫の心中の思い。 【あるまじきこととは】- 以下「見知りたまへるにこそは」まで、薫の心中の思い。「あるまじきこと」とは薫の中君への懸想心をさす。 【ひたぶるに】- 以下、地の文と薫の心中の思いがないまぜになった叙述。 |
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6.5.2 | 「こうばかり思っていては、どうしたらよいだろう。 苦しいことだろうなあ。 何とかして、世間一般からは非難されないようにして、しかも思う気持ちが叶うことができようか」 |
こんなに恋しい心はどう処理すればいいのであろう、これが続いていくばかりでは苦しさに堪えられなくなるに違いない、どんなにすれば世間の非難も受けず、しかも恋のかなうことになるであろう |
【かくのみ思ひては】- 以下「心の叶ふわざをすべからむ」まで、薫の心中の思い。中君を思う心。 【心の叶ふわざ】- 『完訳』は「中の君恋慕の気持が」と注す。 |
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6.5.3 | など、おりたちて さばかりの |
などと、自ら経験していない人柄からであろうか、自分のためにも相手のためにも、心穏やかでないことを、むやみに悩み明かすと、「似ているとおっしゃった人も、どうして本当かどうか見ることができよう。 その程度の身分なので、思いよるに難しくはないが、相手が願いどおりでなかったら、やっかいなことであろう」などと、やはりそちらの方には気が向かない。 |
などと、多くの恋愛に鍛え上げてきた心でない青年の中納言であるせいか、自身のためにも中の君のためにも無理で、とうてい平和な道のありえない思いをし続けてその夜は明かした。似ているとあの人が言った人をそのとおりに信じて情人の関係を結ぶようなことはできない、地方官階級の家に養われている人であれば、こちらで行なおうとすることに障害になるものもないであろうが、当人の意志でもない関係を結ぶのはおもしろくないことに相違ないなどと思い、話を聞いた時には一時的に興奮を感じたものの、冷静になってみれば心をさほど惹く価値もないことと薫はしているのであった。 |
【おりたちて】- 以下「心ならねばにや」まで、語り手の薫の性格を推測した挿入句。 【わりなく思し明かすに】- 大島本は「おほしあかす(す+に)」とある。すなわち「に」を補入する。『集成』『完本』は諸本と訂正以前本文に従って「思ほし明かす」と校訂する。『新大系』は底本の補入に従って「おぼし明かすに」とする。 【似たりとのたまひつる人も】- 以下「うるさくこそあるべけれ」まで、薫の心中の思い。 【さばかりの際なれば】- 『完訳』は「劣り腹で父宮に認められなかったほどだから、身分が低い。容易に手に入れられるとも思う」と注す。 【人の本意にもあらずは】- 『集成』は「先方の望まないことであるなら。向うの母親などの思惑を気にする」。『完訳』は「浮舟が、故人の形見として思いどおりでなかったら。思いどおりでなくとも中の君との関係から、彼女を放り出せないと考える」と注す。 【なほそなたざまには心も立たず】- この段階では、まだ浮舟に対しては強く関心は進まない。依然として中君に執心しているというニュアンス。 |
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第七章 薫の物語 宇治を訪問して弁の尼から浮舟の詳細について聞く |
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第一段 九月二十日過ぎ、薫、宇治を訪れる |
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7.1.1 | 宇治の宮邸を久しく訪問なさらないころは、ますます故人の面影が遠くなった気がして、何となく心細いので、九月二十日過ぎ頃にいらっしゃった。 |
宇治の山荘を長く見ないでいるといっそうに恋しい昔と遠くなる気がして心細くなる薫は、九月の二十幾日に出かけて行った。 |
【九月二十余日ばかりに】- 晩秋の気色。宇治では都より早く冬に向かう。 |
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7.1.2 | いとどしく |
ますます風が吹き払って、ぞっとするほど荒々しい水の音ばかりが宿守で、人影も特に見えない。 見ると、まっさきに真暗になり、悲しいことばかりが限りない。 弁の尼を呼び出すと、襖障子の口に、青鈍の几帳をさし出して参った。 |
主人のない家は |
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7.1.3 | 「とても恐れ多いことが、以前以上にとても醜くございますので、憚られまして」 |
「失礼なのでございますが、このごろの私はまして無気味な姿になっているのでございますから、御遠慮をいたすほうがよいと思われまして」 |
【いとかしこけれど】- 以下「つつましくなむ」まで、弁尼の詞。 |
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7.1.4 | と、まほには |
と、直接には出てこない。 |
と言い、顔は現わさない。 |
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7.1.5 | 「どのように物思いされていることだろうと想像すると、同じ気持ちの人もいない話を申し上げようと思って来ました。 とりとめもなく過ぎ去ってゆく歳月ですね」 |
「どんなにあなたが寂しく暮らしておいでになるだろうと思うと、そのあなただけが私の悲しみを語る唯一の相手だと思われて出て来ましたよ。年月はずんずんたっていきました、あれから」 |
【いかに眺めたまふらむと】- 以下「年月かな」まで、薫の詞。 |
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7.1.6 | とて、 |
と言って、涙を目にいっぱい浮かべていらっしゃると、老女はますますそれ以上に涙をとどめることができない。 |
涙を一目浮かべて薫がこう言った時、老女はましてとめようもない泣き方をした。 |
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7.1.7 | 「 |
「妹宮の事で、なさらなくてもよいご心配をなさったころと同じ季節だ、と思い出しますと、常に悲しい季節の中でも、秋の風は身にしみてつらく思われまして、なるほどあの方がご心配になったとおりの夫婦仲のご様子を、ちらっと耳にいたしますのも、それぞれにお気の毒で」 |
「御自身のためでなく、お妹様のために深い物思いを続けておいでになったころは、こんな秋の空であったと思い出しますと、いつでも寂しい私ではございましても、特別に秋風は身に |
【人の上にて】- 以下「さまざまに」まで、弁尼の詞。中君の身の上をさす。 【あいなくものを思すめりしころの】- 主語は故大君。 【いつとはべらぬなるにも、秋の風は身にしみて】- 大島本は「なるにも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「中にも」と校訂する。『新大系』は底本のまま「なるにも」とする。『異本紫明抄』は「いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べはあやしかりけり」(古今集恋一、五四六、読人しらず)。『河海抄』は「秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ」(詞花集秋、一〇九、和泉式部)を指摘する。 |
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7.1.8 | と |
と申し上げると、 |
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7.1.9 | 「とあることもかかることも、ながらふれば、 このころの されど、うしろめたげには |
「ああなったこともこうなったことも、長生きをすると、良くなるようなこともあるので、つまらないことと思いつめていらしたのは、自分の過失であったように、やはり悲しい。 最近のご様子は、どうして、それこそ世の常のことです。 けれど、不安そうにはお見え申さないようだ。 言っても言っても効ない、むなしい空に昇ってしまった煙だけは、誰も逃れることはできない運命ながらも、後になったり先立ったりする間は、やはり何とも言いようのないことです」 |
「一時はどんなふうに見えることがあっても、時さえたてばまた旧態にもどるものであるのに、あの方が一途に悲観をして病気まで得ておしまいになったのは、私がよく説明をしなかったあやまりだと、それを思うと今も悲しいのですよ。中姫君の今経験しておられるようなことは、まず普通のことと言わねばなりますまい。決して宮の御愛情は懸念を要するような薄れ方になっていないと思われます。それよりも言っても言っても悲しいのはやはり死んだ方ですよ。死んでしまってはもう取り返しようがない」 |
【とあることもかかることも】- 以下「言ふかひなかりけれ」まで、薫の詞。 【このころの御ありさまは】- 最近のご様子。匂宮と六の君の結婚生活をさす。 【それこそ世の常なれ】- 匂宮が夕霧の婿になるのは当然のこと、という。 【後れ先だつほどは】- 『異本紫明抄』は「末の露もとの雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ」(古今六帖一、雫)を指摘。 |
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7.1.10 | とても、また |
と言って、またお泣きになる。 |
と言って |
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第二段 薫、宇治の阿闍梨と面談す |
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7.2.1 | 阿闍梨を呼んで、いつものように、故姫君の御命日のお経や仏像のことなどをおっしゃる。 |
薫は |
【かの忌日の経仏などのこと】- 大島本は「かのき日の経仏なとの事」とある。『集成』は諸本に従って「かの御忌日の経仏などのこと」、『完本』は諸本に従って「かの御忌日の経仏のことなど」と校訂する。『新大系』は底本のまま「かの忌日の経仏などの事」とする。 |
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7.2.2 | 「ところで、ここに時々参るにつけても、しかたのないことがいつまでも思い出されるのが、とてもつまらないことなので、この寝殿を壊して、あの山寺の傍らにお堂を建てよう、と思うが、同じことなら早く始めたい」 |
「私はこんなふうに時々ここへ来ますが、来てはただ故人の死を悲しむばかりで、霊魂の慰めになることでもない無益な歎きをせぬために、この寝殿を |
【さて、ここに時々】- 以下「疾く始めてむ」まで、薫の詞。 |
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7.2.3 | とおっしゃって、お堂を幾塔、渡廊の類や、僧坊などを、必要なことを書き出したりおっしゃったりおさせになるので、 |
とも言い、堂を幾つ建て、廊をどうするかということについて、それぞれ書き示しなど薫のするのを、阿闍梨は |
【書き出でのたまはせさせたまふを】- 大島本は「かきいての給せさせ給ふを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「書き出でのたまひなどせさせたまふを」と「など」を補訂する。『新大系』は底本のまま「書き出での給(たまひ)、せさせ給ふを」とする。 |
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7.2.4 | 「いと |
「まことにご立派な功徳だ」 |
尊い考えつきである |
【いと尊きこと】- 阿闍梨の詞。 |
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7.2.5 | と |
とお教え申す。 |
と並み並みならぬ賛意を表していた。 |
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7.2.6 | 「 |
「故人が、風流なお住まいとしてお造りになった所を、取り壊すのは、薄情なようだが、宮のお気持ちも功徳を積むことを望んでいらっしゃったようだが、後にお残りになる姫君たちをお思いやって、そのようにはおできになれなかったのではなかろうか。 |
「昔の方が風雅な山荘として地を選定してお作りになった家を |
【昔の人の】- 以下「造り変へむの心にて」まで、薫の詞。「昔の人」は八宮をさす。 【とまりたまはむ人びと】- 大島本は「とまり給んひと/\」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「人々を」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のまま「人/\」とする。 |
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7.2.7 | されば、ここながら |
今は、兵部卿宮の北の方が、所有していらっしゃるはずですから、あの宮のご料地と言ってもよいようになっている。 だから、ここをそのまま寺にすることは、不都合であろう。 思いどおりにすることはできない。 場所柄もあまりに川岸に近くて、人目にもつくので、やはり寝殿を壊して、別の所に造り変える考えです」 |
今では |
【兵部卿宮の北の方こそは、知りたまふべければ】- 中君。中君の所領となっている意。 |
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7.2.8 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と薫が言うと、 |
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7.2.9 | 「とざまかうざまに、いともかしこく この また、 |
「あれやこれやと、まことに立派な尊いお心です。 昔、別れを悲しんで、骨を包んで幾年も頚に懸けておりました人も、仏の方便で、あの骨の袋を捨てて、とうとう仏の道に入ったのでした。 この寝殿を御覧になるにつけても、お心がお動きになりますのは、一つには良くないことです。 また、来世への勧めともなるものでございます。 急いでお仕え申しましょう。 暦の博士に相談申して吉日を承って、建築に詳しい工匠を二、三人賜って、こまごまとしたことは、仏のお教えに従ってお仕えさせ申しましょう」 |
「きわめて行き届いたお考えでけっこうです。最愛の人を |
【とざまかうざまに】- 以下「仕うまつらせはべらむ」まで、阿闍梨の詞。 【おはしますらむ】- 主語となり、下文に係る。 【もののゆゑ知りたらむ工】- 寺院建築に詳しい大工。 |
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7.2.10 | と申す。 あれこれとおっしゃり決めて、ご荘園の人びとを呼んで、この度のことや、阿闍梨の言うとおりにするべきことなどをお命じになる。 いつの間にか日が暮れたので、その夜はお泊まりになった。 |
阿闍梨はこう言って受け合った。いろいろときめることをきめ、領地の預かり人たちを呼んで、御堂の建築の件について、すべて阿闍梨の命令どおりにするようにと薫は言いつけたりしているうちに短い秋の日は暮れてしまったので、山荘で一泊していくことに薫はした。 |
【とどまりたまひぬ】- 大島本は「とまり給ぬ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「とどまりたまひぬ」と「ど」を補訂する。『新大系』は底本のまま「とまり給ぬ」とする。 |
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第三段 薫、弁の尼と語る |
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7.3.1 | 「このたびばかりこそ いとはかなげに |
「今回こそは見よう」とお思いになって、立ってぐるりと御覧になると、仏像もすべてあのお寺に移してしまったので、尼君の勤行の道具だけがある。 たいそう頼りなさそうに住んでいるのを、しみじみと、「どのようにして暮らしているのだろう」と御覧になる。 |
この寝殿を見ることも今度限りになるであろうと思い、薫はあちらこちらの間をまわって見たが、仏像なども皆御寺のほうへ移してしまったので、弁の尼のお勤めをするだけの仏具が置かれてある寂しい |
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7.3.2 | 「この寝殿は、造り変えることになりました。 完成するまで、あちらの渡廊に住まいなさい。 京の宮邸にお移ししたらよい物があったら、荘園の人を呼んで、適当にはからってください」 |
「この寝殿は建て直させることにします。でき上がるまでは廊の座敷へ住んでおいでなさい。二条の院の |
【この寝殿は】- 以下「ものしたまへ」まで、薫の詞。 |
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7.3.3 | など、まめやかなることどもを |
などと、事務的なことを相談なさる。 他では、これほど年とった者を、何かとお世話なさるはずもないが、夜も近くに寝させて、昔話などをおさせになる。 故大納言の君のご様子を、聞く人もないので気安くて、たいそう詳細に申し上げる。 |
などと薫はこまごまとした注意までも弁の尼にしていた。ほかの場所ではこんな老いた女などは視野の外に置いて関心を持たずにいるのであろうが、弁に対しては深い同情を持つ薫は、夜も近い室へ寝させて昔の話をした。弁も聞く人のないのに安心して、 |
【故権大納言の君】- 薫の実父柏木をさす。 |
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7.3.4 | 「 |
「ご臨終となった時に、お生まれになったばかりのご様子を、御覧になりたくお思いになっていたご様子などが思い出されると、このように思いもかけませんでした晩年に、こうしてお目にかかれますのは、ご生前に親しくお仕え申した効が自然と現れたのでしょうと、嬉しくも悲しくも存じられます。 情けない長生きで、さまざまなことを拝見してき、理解してまいりましたが、とても恥ずかしくつらく思っております。 |
「もう御容体がおむずかしくなりましてから、お生まれになりました方をしきりに見たく思召す御様子のございましたのが始終私には忘れられないことだったのでございましたのに、その時から申せばずっと末の世になりまして、こうしてお目にかかることができますのも、大納言様の御在世中真心でお仕えいたしました報いが自然に現われてまいりましたのかと、うれしくも悲しくも思い知られるのでございます。長過ぎる命を持ちまして、さまざまの悲しいことにあうと申す私の宿命が恥ずかしく、情けなくてなりません。 |
【今はとなりたまひしほどに】- 以下「なくなりにてはべる」まで、弁尼の詞。 【かの御世に】- 柏木の生前に。弁は柏木の乳母子。 |
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7.3.5 | 宮からも、時々は参上してお会い申せ、すっかりご無沙汰しているのは、まるきり他人のようだなどと、おっしゃっる時々がございますが、忌まわしい身の上で、阿彌陀仏の以外には、お目にかかりたい人はなくなっております」 |
二条の院の女王様から時々は逢いに出て来い、それきり来ようとしないのは私を愛していないのだろうなどとおっしゃってくださるおりもございますが、縁起の悪い姿になった私は、もう |
【時々は参りて】- 以下「思ひ隔てけるなめり」まで、中君の詞を間接話法で語る。 |
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7.3.6 | など |
などと申し上げる。 故姫君の御事を、尽きせず、長年のご様子などを話して、何の時に何とおっしゃり、桜や紅葉の美しさを見ても、ちょっとお詠みになった歌の話などを、この場にふさわしく、震え声であったが、おっとりして言葉数少なかったが、風雅であった姫君のご性質であったなあとばかり、ますますお聞きしてお思いになる。 |
などと弁の尼は言った。大姫君の話も多く語った。親しく仕えて見聞きした話をし、いつどんな時にこうお言いになったとか、自然の風物に心の動いた時々に、故人の |
【うちわななきたれど】- 大島本は「うちわなゝきたれと」とある。『完本』は諸本に従って「うちわななきたれど語るに」と「語るに」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「うちわななきたれど」とする。弁尼の老女ゆえの震え声。 【いとど聞き添へたまふ】- 主語は薫。 |
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7.3.7 | 「宮の御方は、もう少し華やかだが、心を許さない男性に対しては、体裁の悪い思いをさせなさるようであったが、わたしにはとても思慮深く情愛があるように見えて、何とかこのまま付き合って行きたい、とお思いのようであった」 |
宮の夫人はそれに比べて少し |
【宮の御方は】- 以下「とこそ思ひたまへれ」まで、薫の心中の思い。故大君と中君を比較する。 |
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7.3.8 | など、 |
などと、心の中で比較なさる。 |
と薫は二人の女王を比較して思ったりした。 |
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第四段 薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる |
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7.4.1 | さて、もののついでに、かの |
そうして、何かのきっかけで、あの形代のことを言い出しなさった。 |
こんな話のついでにあの人型のことを薫は言い出してみた。 |
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7.4.2 | 「京に、近ごろ、おりますかどうかは存じません。 人づてにお聞きしたことの話でしょう。 故宮が、まだこのような山里生活もなさらず、故北の方がお亡くなりになって間近かったころ、中将の君と言ってお仕えしていた上臈で、気立てなども悪くはなかったが、たいそうこっそりと、ちょっと情けをお交わしになったが、知る人もございませんでしたが、女の子を産みましたのを、あるいはご自分のお子であろうか、とお思いになることがありましたので、つまらなく厄介で嫌なようにお思いになって、二度とお逢いになることもありませんでした。 |
「京にこのごろその人はいるのでございますかねえ。昔のことを私は人から聞いて知っているだけでございます。八の宮様がまだこの山荘へおいでになりませぬ以前のことで、奥様がお |
【京に、このころ】- 以下「書き続けてはべめりしか」まで、弁尼の詞。 【中将の君とて】- 八宮に仕えていた上臈の女房。浮舟の母。 【いと忍びて--のたまはせける】- 大島本は「けるを(を+いと忍ひてはかなき程に物の給ハせける<朱>)」とある。すなわち朱筆で補入している。『集成』『完本』は諸本に従って「いと忍びてはかなきほどにもののたまはせけるを」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のまま「いと忍びてはかなき程に物の給はせける」とする。『完訳』は「秘かな情交があったとする。橋姫巻では、八の宮は女性関係とは無縁の俗聖。もっとも、女房との愛人関係、すなわち召人の仲なら、相手の人格を認めるに及ばず、八の宮の生き方を規制しない」と注す。 【女子を】- 浮舟をさす。 |
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7.4.3 | あいなくそのことに |
つまらなくそのことにお懲りになって、そのままだいたい聖におなりあそばしたので、とりつくしまもなく思って、宮仕えをやめてしまったが、陸奥国の守の妻となったところ、先年上京して、その姫君も無事でいらっしゃる旨を、ここにもちらっと申して来ましたが、お聞きつけになって、全然そのような挨拶は無関係であると無視なさったので、その効なく嘆いていました。 |
それが動機でありのすさびというものにお懲りになりまして、坊様と同じ御生活をあそばすことになったので、中将はお仕えしていますこともきまり悪くなりまして下がったのですが、それからのちに |
【一年上りて】- 後文から八宮の生前の時期と分かる。 【このわたりにもほのめかし申したりけるを】- 『集成』は「恐らく、昔の知合いの女房のもとにでも知らせてきたのだろう」。『完訳』は「八の宮の周辺。「ほのめかし」とあり、大君や中の君は知らない」と注す。 【聞こしめしつけて】- 主語は八宮。 【さらにかかる消息あるべきことにもあらず】- 八宮の詞。間接的引用。 |
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7.4.4 | そうして再び、常陸の国司になって下りましたが、ここ数年、何ともおっしゃってきませんでしたが、この春上京して、あちらの宮には尋ねて参ったと、かすかに聞きました。 |
それがまた主人が |
【かの宮に】- 京の二条宮邸。 |
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7.4.5 | あの君の年齢は、二十歳くらいにおなりになったでしょう。 とてもかわいらしくお育ちになったのがいとおしいなどと、近頃は、手紙にまで書き綴ってございましたとか」 |
姫君は二十くらいになっていらっしゃるのでしょう。非常に美しい方におなりになったのを拝見する悲しさなどを、まだ中将さんの若いころ小説のようにして書いたりしたこともございました」 |
【かの君の年は、二十ばかりになりたまひぬらむかし】- 大島本は「はたちはかりに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「二十ばかりには」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま「二十ばかりに」とする。浮舟の年齢は二十歳くらい。 【などこそ】- 大島本は「なとゝそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「などこそ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「などとぞ」とする。「こそ」…「しか」(已然形)の係り結び。底本の「ゝ」は「こ」の誤写である。諸本に従う。 |
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7.4.6 | と |
と申し上げる。 |
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7.4.7 | 詳しく聞き知りなさって、「それでは、ほんとうであったのだ。 会ってみたいものだ」と思う気持ちが出てきた。 |
すべてを聞いた薫は、それではほんとうのことらしい。その人を見たいという心が起こった。 |
【さらば、まことにてもあらむかし。見ばや】- 薫の心中の思い。 |
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7.4.8 | 「 わざとはなくとも、このわたりにおとなふ |
「故姫君のご様子に、少しでも似ているような人は、知らない国までも探し求めたい気持ちであるが、お子とお認めにならなかったが、姉妹であるのだ。 わざわざというのでなくても、この近辺に便りを寄せる機会があった時には、こう言っていた、とお伝えください」 |
「昔の姫君に少しでも似た人があれば遠い国へでも尋ねて行きたい心のある私なのだから、子として宮がお数えにならなかったとしても結局妹さんであることは違いのないことなのですから、私のこの心持ちをわざわざ正面から伝えるようにではなく、こう言っていたとだけを、何かの手紙が来たついでにでも言っておいてください」 |
【昔の御けはひに】- 以下「と伝へたまへ」まで、薫の詞。 【触れたらむ人は】- 大島本は「ふれたらんは人ハ」とある。『集成』『完本』『新大系』は諸本に従って「触れたらむ人は」と「は」を削除する。 【数まへたまはざりけれど】- 八宮は浮舟を認知しなかったが、の意。 |
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7.4.9 | などばかりのたまひおく。 |
などとだけおっしゃっておく。 |
とだけ薫は頼んだ。 |
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7.4.10 | 「母君は、故北の方の姪です。 弁も縁続きの間柄でございますが、その当時は別の所におりまして、詳しくは存じませんでした。 |
「お母さんは八の宮の奥様の |
【母君は、故北の方の御姪なり】- 以下「伝へはべらむ」まで、弁尼の詞。 【弁も離れぬ仲らひにはべるべきを】- 弁尼は八宮の北の方と従姉妹。浮舟の母中将の君は従姉妹の姪に当たる。 |
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7.4.11 | 最近、京から、大輔のもとから申してよこしたことには、あの姫君が、何とか父宮のお墓にだけでも詣でたいと、おっしゃっているという、そのようなおつもりでいなさい、などとございましたが、まだここには、特に便りはないようです。 今、そうなったら、そのような機会に、この仰せ言を伝えましょう」 |
先日京から |
【京より、大輔がもとより】- 京の中君に仕える女房。 【さる心せよ】- 大島本は「さる心よせ」とある。『集成』『完本』『新大系』は諸本に従って「さる心せよ」と訂正する。 |
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7.4.12 | と |
と申し上げる。 |
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第五段 薫、二条院の中君に宇治訪問の報告 |
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7.5.1 | 夜が明けたのでお帰りになろうとして、昨夜、供人が後れて持ってまいった絹や綿などのような物を、阿闍梨に贈らせなさる。 尼君にもお与えになる。 法師たちや、尼君の下仕え連中の料として、布などという物までを、呼んでお与えになる。 心細い生活であるが、このようなお見舞いが引き続きあるので、身分に比較してたいそう無難で、ひっそりと勤行しているのであった。 |
夜が明けたので薫は帰ろうとしたが、昨夜遅れて京から届いた絹とか綿とかいうような物を |
【身のほどにはめやすく】- 大島本は「めやすく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いとめやすく」と「いと」を補訂する。『新大系』は底本のまま「めやすく」とする。 |
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7.5.2 | いとけしきある こだになどすこし |
木枯しが堪え難いまでに吹き抜けるので、梢の葉も残らず散って敷きつめた紅葉を、踏み分けた跡も見えないのを見渡して、すぐにはお出になれない。 たいそう風情ある深山木にからみついている蔦の色がまだ残っていた。 せめてこの蔦だけでもと少し引き取らせなさって、宮へとお思いらしく、持たせなさる。 |
堪えがたいまでに吹き通す |
【残る梢もなく散り敷きたる紅葉を、踏み分けける跡も見えぬを】- 『全書』は「秋は来ぬ紅葉は宿にふりしきぬ道踏み分けて訪ふ人はなし」(古今集秋下、二八七、読人しらず)を指摘。 【宮へと思しく】- 語り手の推測。挿入句で語る。 |
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7.5.3 | 「宿木の昔泊まった家と思い出さなかったら 木の下の旅寝もどんなにか寂しかったことでしょう」 |
やどり木と思ひ 旅寝もいかに寂しからまし |
【宿り木と思ひ出でずは木のもとの--旅寝もいかにさびしからまし】- 薫の独詠歌。『完訳』は「荒涼の宇治で、懐旧と孤独のなかばする歌」と評す。 |
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7.5.4 | と |
と独り言をおっしゃるのを聞いて、尼君、 |
と口ずさんでいるのを聞いて、弁が、 |
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7.5.5 | 「荒れ果てた朽木のもとを昔の泊まった家と 思っていてくださるのが悲しいことです」 |
荒れはつる朽ち木のもとを宿り木と 思ひおきけるほどの悲しさ |
【荒れ果つる朽木のもとを宿りきと--思ひおきけるほどの悲しさ】- 弁尼の唱和歌。「宿木」の語句を用いて詠む。 |
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7.5.6 | あくまで |
どこまでも古風であるが、教養がなくはないのを、わずかの慰めとお思いになった。 |
という。あくまで老いた女らしい尼であるが、趣味を知らなくないことで悪い気持ちは中納言にしなかった。 |
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7.5.7 | 宮に紅葉を差し上げなさると、夫宮がいらっしゃるところだった。 |
二条の院へ宿り木の紅葉を薫の贈ったのは、ちょうど宮が来ておいでになる時であった。 |
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7.5.8 | 「 |
「南の宮邸から」 |
「三条の宮から」 |
【南の宮より】- 薫が使者に言わせた詞。薫の三条宮邸を「南の宮」、匂宮の二条院を「北の院」(宿木)と呼んでいる。 |
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7.5.9 | と言って、何の気なしに持って参ったのを、女君は、「いつものようにうるさいことを言ってきたらどうしようか」と苦しくお思いになるが、どうして隠すことができようか。 宮は、 |
と言って使いが何心もなく持って来たのを、夫人はいつものとおり自分の困るようなことの書かれてある手紙が添っているのではないかと気にしていたが隠しうるものでもなかった。宮が、 |
【何心もなく】- 大島本は「何心もなく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「何心なく」と「も」を削除する。『新大系』は底本のまま「何心もなく」とする。 【例のむつかしきこともこそ】- 中君の心中の思い。「もこそ」危惧の気持ち。 【取り隠さむやは】- 『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の評言」と注す。 |
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7.5.10 | 「をかしき |
「美しい蔦ですね」 |
「美しい蔦だね」 |
【をかしき蔦かな】- 匂宮の詞。 |
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7.5.11 | と、ただならずのたまひて、 |
と、穏やかならずおっしゃって、呼び寄せて御覧になる。 お手紙には、 |
と意味ありげにお言いになって、お手もとへ取り寄せて御覧になるのであったが、手紙には、 |
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7.5.12 | 「 かしこの |
「このごろは、いかがお過ごしでしょうか。 山里に参りまして、ますます峰の朝霧に迷いましたお話も、お目にかかって。 あちらの寝殿を、お堂に造ることを、阿闍梨に命じました。 お許しを得てから、他の場所に移すこともいたしましょう。 弁の尼に、しかるべきお指図をなさってください」 |
このごろはどんな御様子でおられますか。山里へ行ってまいりまして、さらにまた峰の朝霧に悲しみを引き出される結果を見ました。そんな話はまたまいって申し上げましょう。あちらの寝殿を御堂に直すことを |
【日ごろ、何事か】- 以下「仰せ言はつかはせ」まで、薫から中君への手紙文。 【いとど峰の朝霧に惑ひ】- 『源氏釈』は「雁の来る峯の朝霧晴れずのみ思ひつきせぬ世の中の憂さ」(古今集雑下、九三五、読人しらず)を指摘。 |
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7.5.13 | などぞある。 |
などとある。 |
こう書かれてあった。 |
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7.5.14 | 「よくもまあ、 平静をよそおってお書きになった |
「よくもしらじらしく書けた手紙だ。私がこちらにいると聞いていたのだろう」 |
【よくも、つれなく】- 以下「聞きつらむ」まで、匂宮の詞。 |
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7.5.15 | とおっしゃるのも、少しは、なるほどそうであったであろう。 女君は、特別に何も書いてないのを嬉しいとお思いになるが、むやみにこのようにおっしゃるのを、困ったことだとお思いになって、恨んでいらっしゃるご様子は、すべての欠点も許したくなるような美しさである。 |
と宮はお言いになるのであった。少しはそうであったかもしれない。夫人は用事だけの言われてあったのをうれしく思ったのであるが、どこまでも疑ったものの言いようを宮があそばすのをうるさく思い、恨めしそうにしている顔が非常に美しくて、この人が犯せばどんな過失も許す気になるであろうと宮は見ておいでになった。 |
【すこしは、げにさやありつらむ】- 『弄花抄』は「双紙の詞也」と指摘。『集成』は「多少は、確かに宮のおっしゃる通りでもあったのでしょう。草子地」。『完訳』は「語り手が、匂宮の疑心に納得しながら、薫の下心を推量」と注す。 【あながちにかくのたまふを】- 主語は匂宮。宮の邪推。 【うち怨じてゐたまへる御さま】- 中君が匂宮を。 |
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7.5.16 | 「お返事をお書きなさい。 見ないでいますよ」 |
「返事をお書きなさい。私は見ないようにしているから」 |
【返り事書きたまへ。見じや】- 匂宮の詞。 |
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7.5.17 | とて、 あまえて |
と、よそをお向きになった。 甘えて書かないのも変なので、 |
宮はわざとほかのほうへ向いておしまいになった。そうお言いになったからと言って、書かないでは怪しまれることであろうと夫人は思い、 |
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7.5.18 | 「山里へのご外出が羨ましゅうございます。 あちらでは、おっしゃるとおりにするのがよい、と存じておりましたが、特別にまた山奥に住処を求めるよりは、荒らしきってしまいたくなく思っておりますので、どのようにでも適当な状態になさってくれたら、ありがたく存じます」 |
山里へおいでになりましたことはおうらやましいことと承りました。あちらは仰せのように御堂にいたすのがよろしいことと思っておりました。しかしまた私自身のために隠れ家として必要のあることを思い、荒廃はいたさせたくない願いもあったのですが、あなたのお計らいで両様の望みがかないますればありがたいことと存じます。 |
【山里の御ありきの】- 以下「おろかならずなむ」まで、中君の薫への返書。 【げにさやにて】- 大島本は「けにさやにて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「さやうにて」と「う」を補訂する。『新大系』は底本のまま「さやにて」とする。 【巌の中求めむよりは】- 『源氏釈』は「いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえこざらむ」(古今集雑下、九五二、読人しらず)を指摘。 |
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7.5.19 | と申し上げなさる。 「このように憎い様子もないご交際のようだ」と御覧になる一方で、自分のご性質から、ただではあるまいとお思いになるのが、落ち着いてもいられないのであろう。 |
と返事を書いた。こんなふうの友情をかわすだけの二人であろうと思っておいでになりながらも、御自身のお心慣らいから秘密があるように察せられて、御不安がのけがたいのであろう。 |
【見たまひながら】- 主語は匂宮。 【わが御心ならひに--やすからぬなるべし】- 『孟津抄』は「草子地也」と指摘。語り手が匂宮の心中を推測した叙述。 |
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第六段 匂宮、中君の前で琵琶を弾く |
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7.6.1 | 枯れ枯れになった前栽の中に、尾花が、他の草とは違って手を差し出して招いているのが面白く見えるので、まだ穂に出かかったのも、露を貫き止める玉の緒は、頼りなさそうに靡いているのなど、普通のことであるが、夕方の風がやはりしみじみと感じられるころなのであろう。 |
枯れ枯れになった庭の植え込みの中の |
【尾花の、ものよりことにて手をさし出で招く】- 大島本は「ものよりことにてて越さしいて」とある。『集成』は諸本に従って「ものよりことにて手をさし出でて」と「て」を補訂する。『完本』は諸本に従って「物よりことに手をさし出でて」と前出の「て」を削除し、後出の「て」を補入する。『新大系』は底本のまま「ものよりことにて手をさし出で」とする。『花鳥余情』は「秋の野の草の袂か花薄穂に出て招く袖と見ゆらむ」(古今集秋上、二四三、在原棟梁)を指摘。 |
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7.6.2 | 「外に現さないないが、 物思いをしている |
穂にいでぬ物思ふらししのすすき 招く |
【穂に出でぬもの思ふらし篠薄--招く袂の露しげくして】- 匂宮の中君への贈歌。『花鳥余情』は「秋の野の草の袂か花薄穂に出て招く袖と見ゆらむ」(古今集秋上、二四三、在原棟梁)を指摘。 |
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7.6.3 | なつかしきほどの |
着なれたお召し物類に、お直衣だけをお召しになって、琵琶を弾いていらっしゃった。 黄鐘調の合奏を、たいそうしみじみとお弾きになるので、女君も嗜んでいらっしゃるので、物恨みもなさらずに、小さい御几帳の端から、脇息に寄り掛かって、わずかにお出しになった顔は、まことにもっと見たいほどかわいらしい。 |
柔らかになったお |
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7.6.4 | 「秋が終わる野辺の景色も 篠薄がわずかに揺れている風によって知られます |
「あきはつる野べのけしきもしの ほのめく風につけてこそ知れ |
【秋果つる野辺のけしきも篠薄--ほのめく風につけてこそ知れ】- 中君の返歌。「篠薄」の語句を用いて返す。 |
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7.6.5 | 自分一人の秋ではありませんが」 |
『わが身一つの』(おほかたのわが身一つのうきからになべての世をも恨みつるかな)」 |
【わが身一つの】- 歌に添えた詞。古歌の引用。『源氏釈』は「大方の我が身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな」(拾遺集恋五、九五三、紀貫之)を指摘。 |
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7.6.6 | と言って自然と涙ぐまれるが、そうはいっても恥ずかしいので、扇で隠していらっしゃる心中も、かわいらしく想像されるが、「こうだからこそ、相手も諦められないのだろう」と、疑わしいのが普通でなく、恨めしいようである。 |
と言ううちに涙ぐまれてくるのも、さすがに恥ずかしく扇で紛らしているその気分も愛すべきであると宮はお思われになるのであるが、こんな人であるからほかの男も忘れがたく思うのであろうと疑いをお持ちになるのが夫人の身に恨めしいことに相違ない。 |
【御心の内も】- 大島本は「御心のうちも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心のうちも」と「御」を削除する。『新大系』は底本のまま「御心のうちも」とする。 【かかるにこそ、人もえ思ひ放たざらめ】- 匂宮の心中の思い。「人」は薫をさす。 【疑はしきがただならで】- 大島本は「うたかハしきかたゝならて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「疑はしきかたただならで」と「た」を補入する。『新大系』は底本のまま「疑はしきがただならで」とする。 【恨めしきなめり】- 「なめり」は、推量の助動詞「なる」と断定の助動詞「めり」の連語。語り手の推測。 |
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7.6.7 | 菊が、まだすっかり変色もしないで、特につくろわせなさっているのは、かえって遅いのに、どのような一本であろうか、たいそう見所があって変色しているのを、特別に折らせなさって、 |
白菊がまだよく紫に色を変えないで、いろいろ繕われてあるのはことに移ろい方のおそい中にどうしたのか一本だけきれいに紫になっているのを宮はお折らせになり |
【菊の、まだよく移ろひ果てで】- 大島本は「よく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「よくも」と「も」を補入する。『新大系』は底本のまま「よく」とする。 |
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7.6.8 | 「 |
「花の中で特別に」 |
「 |
【花の中に偏に】- 匂宮の詞。『源氏釈』は「これ花の中に偏へに菊を愛するのみにあらず此の花開けて後更に花の無ければなり」(和漢朗詠集、菊、元槙)を指摘。 |
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7.6.9 | と |
と口ずさみなさって、 |
と |
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7.6.10 | 「何某の親王が、この花を賞美した夕方です。 昔、天人が飛翔して、琵琶の曲を教えたのは。 何事も浅薄になった世の中は、嫌なことだ」 |
「 |
【なにがしの皇子の】- 以下「もの憂しや」まで、匂宮の詞。源高明の庭の木に霊物が降りて、小児の口をかりて前掲の元槙の詩句を口ずさんで、琵琶の秘曲を伝授したという故事(河海抄、指摘)を踏まえる。 【花めでたる】- 大島本は「花」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「この花」と「この」を補入する。『新大系』は底本のまま「花」とする。 |
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7.6.11 | とて、 |
と言って、お琴をお置きになるのを、残念だとお思いになって、 |
とお言いになり、楽器を下へ置いておしまいになったのを、中の君は残念に思い、 |
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7.6.12 | 「心は浅くなったでしょうが、昔から伝えられたことまでは、どうしてそのようなことがありましょうか」 |
「人間の心だけはあさはかにもなったでしょうが、昔から伝わっております音楽などはそれほどにも堕落はしておりませんでしょう」 |
【心こそ浅くも】- 以下「などてかさしも」まで、中君の詞。 |
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7.6.13 | とて、おぼつかなき |
と言って、まだよく知らない曲などを聞きたくお思いになっているので、 |
こう言って、自身でおぼつかなくなっている手を耳から探り出したいと願うふうが見えた。宮は、 |
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7.6.14 | 「それならば、一人で弾く琴は寂しいから、お相手なさい」 |
「それでは |
【さらば】- 以下「したまへかし」まで、匂宮の詞。 |
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7.6.15 | と言って、女房を呼んで、箏の琴を取り寄せさせて、お弾かせ申し上げなさるが、 |
とお言いになって、女房に十三 |
【人召して】- 女房を呼び寄せて。 |
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7.6.16 | 「昔なら、習う人もいらっしゃったが、ちゃんと習得もせずになってしまいましたものを」 |
「昔は先生になってくださる方がございましたけれど、そんな時にもろくろく私はお習い取りすることはできなかったのですもの」 |
【昔こそ】- 以下「なりにしものを」まで、中君の詞。父八宮を回顧。 |
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7.6.17 | と、つつましげにて |
と、遠慮深そうにして手もお触れにならないので、 |
恥ずかしそうに言って、中の君は楽器に手を触れようともしない。 |
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7.6.18 | 「これくらいのことも、心置いていらっしゃるのが情けない。 近頃、結婚した人は、まだたいして心打ち解けるようになっていませんが、まだ未熟な習い事をも隠さずにいます。 総じて女性というものは、柔らかで心が素直なのが良いことだと、あの中納言も決めているようです。 あの君には、また、このようにはお隠しになるまい。 この上なく親密な仲のようなので」 |
「これくらいのことにもまだあなたは隔てというものを見せるのは情けないではありませんか、このごろ通って行く所の人は、まだ心が解けるというほどの間柄になっていないのに、未成品的な琴を聞かせなさいと言えば遠慮をせずに弾きますよ。女は柔らかい素直なのがいいとあの中納言も言っていましたよ。あの人へはこんなに遠慮をばかり見せないのでしょう。非常な仲よしなのだから」 |
【かばかりのことも】- 以下「御仲なめれば」まで、匂宮の詞。 【このころ、見るわたり】- 大島本は「見るわたり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見るわたりは」と「は」を補入する。『新大系』は底本のまま「見るわたり」とする。六の君をさす。 【あらねど】- 大島本は「な(な#あ)らねと」とある。すなわち「な」をミセケチにして「あ」と訂正する。『集成』『新大系』は底本の訂正に従って「あらねど」とする。『完本』は諸本と訂正以前本文に従って「ならねど」とする。 【その中納言も】- 薫をさす。「その」はあなたの、のニュアンス。 |
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7.6.19 | など、まめやかに ゆるびたりければ、 「 |
などと、本気になって恨み事を言われたので、溜息をついて少しお弾きになる。 絃が緩めてあったので、盤渉調に合わせなさなさる。 合奏などの、爪音が美しく聞こえる。 「伊勢の海」をお謡いになるお声が上品で美しいのを、女房たちが、物の背後に近寄って、にっこりして座っていた。 |
などと |
【爪音けをかしげに聞こゆ】- 大島本は「つまをとけ(け=をイ)おかしけに」とある。すなわち「け」の傍らに「をイ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「をかしげに」と「け」を削除する。『新大系』は底本のまま「けお(を)かしげに」とする。 【伊勢の海】- 伊勢の海の 清き渚に しほがひに なのりそや摘まむ 貝拾はむや 玉や拾はむ(催馬楽-伊勢の海)(text49.html 出典48から転載) 【女房も】- 大島本は「女はうも」とある。『集成』は諸本に従って「女ばらも」と校訂する。『完本』は諸本に従って「女ばら」と「も」を削除する。『新大系』は底本のまま「女房も」とする。 |
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7.6.20 | 「 かかる |
「二心がおありなのはつらいけれども、それも仕方のないことなので、やはりわたしのご主人を、幸福人と申し上げましょう。 このようなご様子でお付き合いなされそうにもなかった所のご生活を、また宇治に帰りたそうにお思いになって、おっしゃるのは、とても情けない」 |
「二人の奥様をお持ちあそばすのはお恨めしいことですが、それも世のならわしなのですからね、やはりこの奥様を幸福な方と申し上げるほかはありませんよ。こうした所の大事な奥様になってお暮らしになる方とは思うこともできませんようでしたもとの生活へ、また帰りたいようによくおっしゃるのはどうしたことでしょう」 |
【二心おはしますは】- 以下「いと心憂けれ」まで、女房たちの詞。 【幸ひ人とこそは申さめ】- 大島本は「こそハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「こそ」と「ハ」を削除する。『新大系』は底本のまま「こそは」とする。 【所の御住まひを】- 大島本は「所の」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「年ごろの」と校訂する。『新大系』は底本のまま「所の」とする。 |
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7.6.21 | など、ただ |
などと、ずけずけと言うので、若い女房たちは、 |
といちずになって言う老いた女房はかえって若い女房たちから、 |
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7.6.22 | 「あなかまや」 |
「おだまり」 |
「静かになさい」 |
【あなかまや】- 女房の詞。 |
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7.6.23 | など |
などと止める。 |
と制されていた。 |
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第七段 夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る |
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7.7.1 | いろいろのお琴をお教え申し上げなどして、三、四日籠もっておいでになって、御物忌などにかこつけなさるのを、あちらの殿におかれては恨めしくお思いになって、大臣は、宮中からお出になってそのまま、こちらに参上なさったので、宮は、 |
【御琴ども教へたてまつりなどして】- 匂宮が中君に。 |
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7.7.2 | 「仰々しい様子をして、何のためにいらっしゃったのだろう」 |
「たいそうなふうをして何しにおいでになったのかと言いたい」 |
【ことことしげなる】- 以下「いましつるぞとよ」まで、匂宮の心中の思い。 |
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7.7.3 | と、不快にお思いになるが、寝殿にお渡りになって、お会いなさる。 |
などとお言いになり、宮は |
【あなたに渡りたまひて】- 寝殿で夕霧と会う。 |
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7.7.4 | 「特別なことがない間は、この院を見ないで長くなりましたのも、しみじみと感慨深い」 |
「何かの機会のない限りはこの院へ上がることがなくなっております私には目に見るものすべてが身に |
【ことなることなきほどは】- 以下「あはれになむ」まで、夕霧の詞。 |
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7.7.5 | など、 |
などと、昔のいろいろなお話を少し申し上げなさって、そのままお連れ申し上げなさってお出になった。 ご子息の殿方や、その他の上達部、殿上人なども、たいそう大勢引き連れていらっしゃる威勢が、大変なのを見ると、並びようもないのが、がっかりした。 女房たちが覗いて拝見して、 |
とも言い、六条院のお話などをしばらくしていたあとで、大臣は宮をお誘い出して行くのであった。子息たちその他の高級役人、殿上役人なども多く引き連れている勢力の偉大さを見て、比較にもならぬ世間的に無力な身の上を中の君は思ってめいった気持ちになっていた。女房らはのぞきながら、 |
【並ぶべくもあらぬぞ、屈しいたかりける】- 『完訳』は「中の君と女房たちの心情に即した行文。宮と中の君の久方ぶりの睦まじさも束の間だったと消沈」と注す。 |
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7.7.6 | 「まあ、美しくいらっしゃる大臣ですこと。 あれほど、どなたも皆、若く男盛りで美しくいらっしゃるご子息たちで、似ていらっしゃる方もありませんね。 何と、 |
「ほんとうにおきれいな大臣様、あんなにごりっぱな御子息様たちで、皆若盛りでお美しいと申してよい方たちが、だれもお父様に及ぶ方はないじゃありませんか、なんという美男でいらっしゃるのでしょう」 |
【さも、きよらに】- 以下「あなめでたや」まで、女房の詞。 |
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7.7.7 | と また、 |
という者もいる。 また、 |
と中には言う者もあった。また、 |
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7.7.8 | 「あれほど重々しいご様子で、わざわざお迎えに参上なさるのは憎らしい。 安心できないご夫婦仲ですこと」 |
「あんなおおぎょうなふうをなすって、わざわざお迎えなどにおいでになるなんてくちおしい。世の中って楽なものではありませんね」 |
【さばかりやむごとなげなる】- 以下「やすげなの世や」まで、女房の詞。 |
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7.7.9 | など、うち はかなくて |
などと、嘆息する者もいるようだ。 ご自身も、過去を思い出すのをはじめとして、あのはなやかなご夫婦の生活に肩を並べやってゆけそうにもなく、存在感の薄い身の上をと、ますます心細いので、「やはり気楽に山里に籠もっているのが無難であろう」などと、ますます思われなさる。 とりとめもなく年が暮れた。 |
と歎息する女もあった。夫人自身も寂しい来し方を思い出し、あのはなやかな人たちの世界の |
【御みづからも】- 中君をさす。 【かのはなやかなる御仲らひに】- 匂宮と六の君の結婚生活。以下「かすかなる身のおぼえを」まで、中君の心中の思い。地の文が自然と心中文になった叙述。 【なほ心やすく】- 以下「目やすからめ」まで、中君の心中の思い。 |
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第八章 薫の物語 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁 |
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第一段 新年、薫権大納言兼右大将に昇進 |
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8.1.1 | いといたくわづらひたまへば、 |
正月晦日方から、ふだんと違ってお苦しみになるのを、宮は、まだご経験のないことなので、どうなることだろうと、お嘆きになって、御修法などを、あちこちの寺にたくさんおさせになるが、またまたお加え始めさせなさる。 たいそうひどく患いなさるので、后の宮からもお見舞いがある。 |
一月の終わりから普通でない身体の苦痛を夫人は感じだしたのを、宮もまだ産をする婦人の悩みをお見になった御経験はなかったので、どうなるのかと御心配をあそばして、今まで |
【正月晦日方より】- 薫二十六歳、匂宮二十七歳、中君二十六歳。 【例ならぬさまに悩みたまふを】- 中君の出産が近づく。昨年の五月ころから懐妊の徴候が表れた。 |
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8.1.2 | 結婚して三年になったが、お一方のお気持ちは並々でないが、世間一般に対しては、重々しくおもてなし申し上げなさらなかったので、この時に、どこもかしこもお聞きになって驚いて、お見舞い申し上げになるのであった。 |
中の君が二条の院へ迎えられてから足かけ三年になるが、御 |
【かくて三年になりぬれど】- 『集成』は「こうして三年になったけれども。中の君が二条の院に移ってから三年と読める。この年(宿木の第三年)を、中の君が二条の院に移った早蕨の春の翌年とするのが現行の年立の処理であるが、それでは二条の院移転から足掛け二年しかならない。この第三年をもう一年あとにずらしてはじめて足掛け三年という計算になる。諸注、匂宮が宇治に通うようになった総角の秋以来足掛け三年と見るが、無理であろう」。『完訳』は「結婚以来、足かけ三年」と注す。 【一所の御心ざし】- 匂宮の愛情。 【おほかたの世には、ものものしくももてなしきこえたまはざりつるを】- 『完訳』は「中の君は世間から、匂宮の妻としてほとんど認められていない」と注す。 【いづこにもいづこにも聞こしめしおどろきて、御訪ぶらひども聞こえたまひける】- 大島本は「いつこにも/\聞え給ける」とある。『集成』『完本』『新大系』は諸本に従って「いづこにもいづこにも聞こしめしおどろきて御訪ぶらひども聞こえたまひける」と「聞こしめしおどろきて御訪ぶらひども」を補訂する。 |
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8.1.3 | 中納言の君は、宮がお騷ぎになるのに負けず、どうおなりになることだろうかとご心配になって、お気の毒に気がかりにお思いになるが、一通りのお見舞いはするが、あまり参上することはできないので、こっそりとご祈祷などをおさせになるのだった。 |
源中納言は宮の御心配しておいでになるのにも劣らぬ不安を覚えて、気づかわしくてならないのであっても、表面的な見舞いに行くほかは近づいて尋ねることもできずに、ひそかに祈祷などをさせていた。 |
【いかにおはせむ】- 薫の心中の思い。中君を心配。 【参うで】- 大島本は「まかて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「参(ま)で」と「う」を削除する。『新大系』は「参うで」と「可(か)」を「う(宇)」と翻刻する。 |
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8.1.4 | その一方では、女二の宮の御裳着が、ちょうどこのころとなって、世間で大評判となっている。 万事が、帝のお心一つみたいに御準備なさるので、御後見がいないのも、かえって立派に見えるのであった。 |
この人の婚約者の |
【女二の宮の御裳着】- 今上帝の女二宮。母は故左大臣の娘藤壺女御。裳着の儀式は結婚を前提に行われる。薫との結婚が本格化する。 |
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8.1.5 | 女御が生前に準備しておかれたことはいうまでもなく、作物所や、しかるべき受領連中などが、それぞれにお仕え申し上げることは、とても際限がない。 |
【女御のしおきたまへることをば】- 女二宮の母・故藤壺女御が生前に裳着の準備をしておいたこと。 【いと限りなしや】- 大島本は「かきりなしや」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「限りなし」と「や」を削除する。『新大系』は底本のまま「限りなしや」とする。 |
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8.1.6 | そのままその時から、通い始めさせなさることになっていたので、男の方も気をおつかいになるころであるが、例の性格なので、その方面には気が進まず、このご懐妊のことばかりお気の毒に嘆かずにいられない。 |
その式の済んだあとで通い始めるようにとの御内意が薫へ伝達されている時であったから、婿方でも平常と違う緊張をしているはずであるが、なおいままでどおりにそちらのことはどうでもいいと思われ、中の君の産の重いことばかりを哀れに思って歎息を続ける薫であった。 |
【やがてそのほどに、参りそめたまふべき】- 女二宮の裳着の儀式に引き続き、薫が婿として通うようになっていた。 【男方も】- 薫をさす。 【この御事のみ】- 中君の出産間近の事。 |
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8.1.7 | 二月の初めころに、直物とかいうことで、権大納言におなりになって、右大将を兼官なさった。 右の大殿が、左大将でいらっしゃったが、お辞めになったものであった。 |
二月の |
【如月の朔日ごろに、直物とか】- 二月の初旬に薫、除目の追加任命で権大納言兼右大将に昇進。 【右の大殿、左にておはしけるが、辞したまへる所なりけり】- 夕霧右大臣兼左大将が、左大将を辞任したので、それまでの右大将が左大将に転じ、薫が権大納言兼右大将となった。 |
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8.1.8 | いと |
お礼言上に諸所をお回りになって、こちらの宮にも参上なさった。 たいそう苦しそうでいらっしゃるので、こちらにいらっしゃるときであったので、そのまま参上なさった。 僧などが伺候していて不都合なところで、と驚きなさって、派手なお直衣に、御下襲などをお召し替えになって、身づくろいなさって、下りて拝舞の礼をなさるお二方のお姿は、それぞれに立派で、 |
新任の |
【喜びに所々ありきたまひて】- 主語は薫。 【いと苦しくしたまへば】- 主語は中君。出産を間近に控えて大儀な様子。 【こなたにおはしますほどなりければ】- 匂宮が中君のもとに。 【やがて参りたまへり】- 薫は匂宮のもとに参上。 【僧などさぶらひて便なき方に】- 匂宮の心中の思い。薫のめでたい御礼参りに応対するのに、僧侶がいる所では不都合と考える。 【下りて答の拝したまふ】- 主語は匂宮。この邸の主の匂宮が南階から庭上に下りて拝舞の礼を薫に返す。 |
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8.1.9 | 「このまま今晩、 |
この日は |
【やがて、官の禄賜ふ饗の所に】- 大島本は「やかてつかさのろく給ふあるしの所に」とある。『完本』は諸本に従って「やがて今宵衛府(つかさ)の人に」と「今宵」「人」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「やがて官(つかさ)の」とする。薫の詞。匂宮を右大将新任の披露宴の席に招待。 |
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8.1.10 | と、お招き申し上げなさるが、お具合の悪い人のために、躊躇なさっているようである。 右大臣殿がなさった例に従ってと、六条院で催されるのであった。 |
自邸でとは言っていたが、近くに中の君の悩んでいる二条の院があることで少し |
【思したゆたひたまふめる】- 推量の助動詞「めり」は語り手の推量のニュアンス。 |
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8.1.11 | お相伴の親王方や上達部たちは、大饗に負けないほど、あまり騒がし過ぎるほど参集なさった。 この宮もお渡りになって、落ち着いていられないので、まだ宴会が終わらないうちに急いでお帰りになったのを、大殿の御方では、 |
皇子がたも相伴の客として宴にお |
【大饗に劣らず】- 大饗は大臣新任の宴。ここは大将新任の宴だが、それに劣らず盛大の意。 【大殿の御方には】- 夕霧の六君方。匂宮が立ち寄らずに帰ってしまったことに不満。 |
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8.1.12 | 「とても物足りなく癪にさわる」 |
ねたましがった。 |
【いと飽かずめざまし】- 六の君の詞。 |
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8.1.13 | とおっしゃる。 負けるほどでもないご身分なのを、ただ今の威勢が立派なのにおごって、いばっていらっしゃるのであろうよ。 |
同じほどに愛されているのであるが権家の娘であることに |
【劣るべくも】- 以下「もてなしたまへるなめりかし」まで、八宮の娘である中君は臣下の夕霧の娘六の君に劣らない、とする語り手の批評。『湖月抄』は「草子地也」と指摘。 |
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第二段 中君に男子誕生 |
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8.2.1 | からうして、その かく |
やっとのこと、その早朝に、男の子でお生まれになったのを、宮もたいそうその効あって嬉しくお思いになった。 大将殿も、昇進の喜びに加えて、嬉しくお思いになる。 昨夜おいでになったお礼言上に、そのまま、このお祝いを合わせて、立ったままで参上なさった。 こうして籠もっていらっしゃるので、お祝いに参上しない人はいない。 |
ようやくその夜明けに二条の院の夫人は男児を生んだ。宮も非常にお喜びになった。右大将も昇任の |
【からうして、その暁】- 大島本は「そのあか月」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「その暁に」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のまま「そのあか月」とする。 【男にて生まれたまへるを】- 中君、男子を出産。 【立ちながら参りたまへり】- 出産の穢れを避けるため、着座しない。 【かく籠もりおはしませば】- 主語は匂宮。 |
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8.2.2 | 御産養は、三日は、例によってただ宮の私的祝い事として、五日の夜は、大将殿から屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは、普通通りにして、子持ちの御前の衝重三十、稚児の御産着五重襲に、御襁褓などは、仰々しくないようにこっそりとなさったが、詳細に見ると、特別に珍しい趣向が凝らしてあったのであった。 |
【五日の夜】- 大島本は「五日の夜」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「五日の夜は」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま「五日の夜」とする。五日の夜の産養の儀。中君の後見役の薫が主催。 |
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8.2.3 | 宮の御前にも浅香の折敷や、高坏類に、粉熟を差し上げなさった。 女房の御前には、衝重はもちろんのこと、桧破子三十、いろいろと手を尽くしたご馳走類がある。 人目につくような大げさには、わざとなさらない。 |
父宮へも浅香木の |
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8.2.4 | 七日の夜は、后の宮の御産養なので、参上なさる人びとが多い。 中宮大夫をはじめとして、殿上人、上達部が、数知れず参上なさった。 主上におかれてもお耳にあそばして、 |
七日の夜は中宮からのお産養であったから、席に |
【七日の夜は】- お七夜は匂宮の母明石中宮主催。 【いと多かり】- 大島本は「いとおほかり」とある。『完本』は諸本に従って「多かり」と「いと」を削除する。『集成』『新大系』は底本のまま「いと多かり」とする。 |
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8.2.5 | 「宮がはじめて一人前におなりになったというのに、どうして放っておけようか」 |
兵部卿の宮がはじめて父になった喜びのしるしをぜひとも贈るべきである |
【宮のはじめて大人びたまふなるには、いかでか】- 帝の詞。 |
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8.2.6 | とのたまはせて、 |
と仰せになって、御佩刀を差し上げなさった。 |
と仰せになり、 |
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8.2.7 | よろしからず |
九日も、大殿からお世話申し上げなさった。 おもしろくなくお思いになるところだが、宮がお思いになることもあるので、ご子息の公達が参上なさって、万事につけたいそう心配事もなさそうにおめでたいので、ご自身でも、ここ幾月も物思いによって気分が悪いのにつけても、心細くお思い続けていたが、このように面目がましいはなやかな事が多いので、少し慰みなさったことであろうか。 |
九日も左大臣からの産養があった。愛嬢の競争者の夫人を喜ばないのであるが、宮の思召しをはばかって、当夜は子息たちを何人も送り、接客の用を果たさせもした。夫人もこの幾月間物思いをし続けると同時に、身体の苦しさも並み並みでなく、心細くばかり思っていたのであったが、こうしたはなやかな空気に包まれる日が来て少し慰んだかもしれない。 |
【九日も、大殿より】- 九日の夜の産養の儀が、匂宮の後見役夕霧主催で催される。 【宮の思さむところあれば】- 『集成』は「匂宮のご機嫌を損ねるわけにもゆかぬので」と注す。 【御みづからも】- 中君をさす。 【心細く思したりつるに】- 大島本は「心ほそくおほしたりつるに」とある。『完本』は諸本に従って「思しわたりつるに」と「わたり」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「思したりつるに」とする。 【すこし慰みもやしたまふらむ】- 『細流抄』は「草子地也」と指摘。語り手の推測。 |
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8.2.8 | 大将殿は、「このようにすっかり大人になってしまわれたので、ますます自分のほうには縁遠くなってしまうだろう。 また、宮のお気持ちもけっして並々ではあるまい」と思うのは残念であるが、また、初めからの心づもりを考えてみると、たいそう嬉しくもある。 |
右大将はこんなふうに動揺されぬ位置が中の君にできてしまい、王子の母君となってしまっては、自分の恋に対して冷淡さが加わるばかりであろうし、宮の愛はこの夫人に多く傾くばかりであろうと思われるのはくちおしい気のすることであったが、最初から願っていた中の君の幸福というものがこれで確実になったとする点ではうれしく思わないではいられなかった。 |
【かくさへ】- 以下「いとおろかならじ」まで、薫の心中の思い。 |
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第三段 二月二十日過ぎ、女二の宮、薫に降嫁す |
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8.3.1 | かくて、その |
こうして、その月の二十日過ぎに、藤壷の宮の御裳着の儀式があって、翌日、大将が参上なさった。 その夜のことは内々のことである。 世間に評判なほど大切にかしずかれた姫宮なのに、臣下がご結婚申し上げなさるのは、やはり物足りなくお気の毒に見える。 |
その月の二十幾日に女二の宮の裳着の式が行なわれ、翌夜に右大将は |
【その月の二十日あまりにぞ】- 中君の出産と同じ二月二十日過ぎに。 |
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8.3.2 | 「そのようなお許しはあったとしても、ただ今、このようにお急ぎあそばすことでもあるまい」 |
婚約はお許しになっておいても、結婚をそう急いでおさせにならないでもよいではないか |
【さる御許しは】- 以下「事ぞかし」まで、世人の噂。藤壺の宮(女二宮)降嫁の御内意をさす。 |
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8.3.3 | と、そしらはしげに |
と、非難がましく思いおっしゃる人もいるのだったが、ご決意なさったことを、すらすらとなさるご性格なので、過去に例がないほど同じことならお扱いなさろうと、お考えおいたようである。 帝の御婿になる人は、昔も今も多いが、このように全盛の御世に、臣下のように、婿を急いでお迎えなさる例は少なかったのではなかろうか。 右大臣も、 |
と非難らしいことを申す者もあったが、お思い立ちになったことはすぐ実行にお移しになる |
【来し方ためしなきまで】- 大島本は「きしかたためし」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「来し方の例」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「来し方ためし」とする。 【思しおきつるなめり】- 帝の心中を慮る語り手の婉曲的推量。 【帝の御婿になる人は】- 以下、語り手の推量を交えた批評。『湖月抄』は「地」と指摘。 |
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8.3.4 | 「珍しいご信任、運勢だ。 故院でさえ、朱雀院の晩年におなりあそばして、今は出家されようとなさった時に、あの母宮を頂戴なさったのだ。 自分はまして、誰も許さなかったのを拾ったものだ」 |
「右大将はすばらしい運命を持った男ですね。六条院すら |
【めづらしかりける人の】- 以下「拾ひたりしや」まで、夕霧の詞。落葉宮を前にしての発言。 【かの母宮を】- 薫の母女三宮をさす。 【人も許さぬものを拾ひたりしや】- 『完訳』は「未亡人となった落葉の宮を、周囲の反対を押し切って娶ったこと」と注す。 |
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8.3.5 | とのたまひ |
とおっしゃり出すので、宮は、その通りとお思いになると、恥ずかしくてお返事もおできになれない。 |
こんなことを言った。夫人の宮はそのとおりであったことがお恥ずかしくて返辞をあそばすこともできなかった。 |
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8.3.6 | 三日の夜は、大蔵卿をはじめとして、あの御方のお世話役をなさっていた人びとや、家司にご命令なさって、人目に立たないようにではあるが、婿殿の御前駆や随身、車副、舎人まで禄をお与えになる。 その時の事柄は、私事のようであった。 |
三日目の夜は |
【三日の夜は】- 薫と女二の宮の結婚三日目の夜。 【かの御方の】- 藤壺の宮をさす。 【私事のやうにぞありける】- 『完訳』は「きめ細かな配慮ゆえ」と注す。 |
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8.3.7 | かくて |
こうして後は、忍び忍びに参上なさる。 心の中では、やはり忘れることのできない故人のことばかりが思われて、昼は実邸に起き臥し物思いの生活をして、暮れると気の進まないままに急いで参内なさるのを、なれない気持ちには億劫で苦しくて、「ご退出させ申し上げよう」とお考えになったのであった。 |
それからのちは忍び忍びに藤壺へ薫は通って行った。心の中では昔のこと、昔にゆかりのある人のことばかりが思われて、昼はひねもす物思いに暮らして、夜になるとわが意志でもなく女二の宮をお訪ねに行くのも、そうした習慣のなかった人であるからおっくうで苦しく思われる薫は、御所から自邸へ宮をお迎えしようと考えついた。 |
【かくて後は、忍び忍びに参りたまふ】- 結婚成立後。薫の女二宮への通い方。 【なほ忘れがたきいにしへざまのみおぼえて】- 薫は依然として大君が忘れられない。 【まかでさせたてまつらむ」とぞ】- 女二宮を自邸の三条宮に迎えること。 |
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8.3.8 | おはします |
母宮は、とても嬉しいこととお思いになっていらっしゃった。 お住まいになっている寝殿をお譲り申し上げようとおっしゃるが、 |
そのことを尼宮はうれしく |
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8.3.9 | 「まことに恐れ多いことです」 |
それはもったいないことである |
【いとかたじけなからむ】- 薫の詞。母女三宮の申し出を受諾。 |
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8.3.10 | と言って、御念誦堂との間に、渡廊を続けてお造らせになる。 西面にお移りになるようである。 東の対なども、焼失して後は、立派に新しく理想的なのを、ますます磨き加え加えして、こまごまとしつらわせなさる。 |
と薫は言って、自身の |
【西面に移ろひたまふべきなめり】- 語り手の推測。母女三宮は寝殿の西面に移る。西面の続きに念誦堂があり、その間に渡廊を造る。 |
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8.3.11 | このようなお心づかいを、帝におかせられてもお耳にあそばして、月日も経ずに気安く引き取られなさるのを、どんなものかとお思いであった。 帝と申し上げても、子を思う心の闇は同じことでおありだった。 |
薫のそうした用意をしていることが帝のお耳にはいり、結婚してすぐに |
【ほどなくうちとけ移ろひたまはむを、いかが】- 帝の心中の思い。新婚早々に気安く引き取られるのに気が進まない。いつまでも宮を側に置いておきたい親心。 【心の闇は同じごと】- 『紫明抄』は「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひにけるかな」(後撰集雑一、一一〇二、兼輔朝臣)を指摘。 |
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8.3.12 | 母宮の御もとに、お使いがあったお手紙にも、ただこのことばかりを申し上げなさった。 故朱雀院が、特別に、この尼宮の御事をお頼み申し上げていたので、このように出家なさっているが、衰えず、何事も昔通りで、奏上させなさることなどは、必ずお聞き入れなさって、お心配りが深いのであった。 |
尼宮の所へ勅使がまいり、お手紙のあった中にも、ただ女二の宮のことばかりが書かれてあった。お |
【母宮の御もとに】- 薫の母女三宮。 【御使】- 帝の使者。 【故朱雀院の、取り分きて、この尼宮の御事をば】- 帝と薫の母女三宮は異腹の兄妹。 【奏せさせたまふこと】- 女三宮が帝に。 |
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8.3.13 | かく、やむごとなき |
このように、重々しいお二方に、互いにこの上なく大切にされていらっしゃる面目も、どのようなものであろうか、心中では特に嬉しくも思われず、やはり、ともすれば物思いに耽りながら、宇治の寺の造営を急がせなさる。 |
こうした最高の方を |
【やむごとなき御心どもに】- 帝と女三宮の思い入れ。 【心の内には】- 薫の心中。 |
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第四段 中君の男御子、五十日の祝い |
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8.4.1 | 宮の若君が五十日におなりになる日を数えて、その餅の準備を熱心にして、籠物や桧破子などまで御覧になりながら、世間一般の平凡なものにはしまいとお考え向きになって、沈、紫檀、銀、黄金など、それぞれの専門の工匠をたいそう大勢呼び集めさせなさるので、自分こそは負けまいと、いろいろのものを作り出すようである。 |
兵部卿の宮の若君の五十日になる日を数えていて、その式用の祝いの |
【宮の若君の五十日になりたまふ日】- 匂宮の若君。中君が産んだ男御子。五十日の祝い。三月下旬ころ。 【我劣らじと】- 工匠たちが競い合うさま。 【し出づめり】- 語り手の推量。視界内推量、臨場感ある描写。 |
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8.4.2 | みづからも、 「 されど、ありしながらのけしきに、まづ |
ご自身も、いつものように、宮がいらっしゃらない間においでになった。 気のせいであろうか、もう一段と重々しく立派な感じが加わったと見える。 「今は、そうはいっても、わずらわしかった懸想事などは忘れなさったろう」と思うと、安心なので、お会いなさった。 けれど、以前のままの様子で、まっさきに涙ぐんで、 |
薫はまた宮のおいでにならぬひまに二条の院の夫人を訪れた。思いなしか重々しさと高貴さが添ったように中の君を薫は思った。もう薫は結婚もしたのであるから、自分の迷惑になるような気持ちは皆紛れてしまっているであろうと安心して夫人は出て来たのであったが、やはり同じように寂しい表情をし、涙ぐんでいて、 |
【みづからも】- 薫。 【心のなしにやあらむ、今すこし重々しくやむごとなげなるけしきさへ添ひにけりと見ゆ】- 薫の風姿。権大納言兼右大将に昇進、かつ今上帝の女二宮の婿となった。語り手の感情移入を交えた表現。 【今は、さりとも】- 以下「思ひ紛れたまひにたらむ」まで、中君の心中。 |
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8.4.3 | 「気の進まない結婚は、たいそう心外なものだと、世の中を思い悩みますことは、今まで以上です」 |
「自分の意志でない結婚をした苦痛というものはまた予想外に堪えられないものだとわかりまして、 |
【心にもあらぬまじらひ】- 以下「まさりにたる」まで、薫の詞。女二宮との結婚をさす。 |
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8.4.4 | と、あいだちなくぞ |
と、何の遠慮もなく訴えなさる。 |
と、新婦の宮に同情の欠けたようなことを |
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8.4.5 | 「まあ何というお事を。 他人が自然と漏れ聞いたら大変ですよ」 |
「とんだことをおっしゃいます。そういうことをいつの間にか人が聞くようになってはたいへんですよ」 |
【いとあさましき御ことかな】- 以下「漏り聞きはべれ」まで、中君の詞。 |
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8.4.6 | などはのたまへど、かばかりめでたげなることどもにも 「おはせましかば」と、 |
などとおっしゃるが、これほどめでたい幾つものことにも心が晴れず、「忘れがたく思っていらっしゃるのだろう愛情の深さは」としみじみお察し申し上げなさると、並々でない愛情だとお分かりになる。 「生きていらっしゃったら」と、残念にお思い出し申し上げなさるが、「そうしても、自分と同じようになって、姉妹で恨みっこなしに恨むのがおちであろう。 何事も、落ちぶれた身の上では、一人前らしいこともありえないのだ」と思われると、ますます、姉君の結婚しないで通そうと思っていらっしゃった考えは、やはり、とても重々しく思い出されなさる。 |
こう中の君は言いながらも、だれが見ても光栄の人になっていて、それにも慰められずまだ故人が忘れられないように言うこの人の愛の純粋さをうれしく思っていた。姉君が生きていたらとも思うのであったが、しかしそれも自分と同じように勝ち味のない競争者を持って薄運を歎くにとどまることになったであろう、富のない自分らは世の中から何につけても尊重されていくものではないらしいとまた思うことによって姉君がどこまでも情に負けず結婚はせまいとした心持ちのえらさが思われた。 |
【かばかりめでたげなる】- 以下「心ふかさよ」まで、中君の心中の思い。薫の憂愁の深さを思う。 【おはせましかば】- 中君の心中の思い。姉大君が生きていらしたら。反実仮想。 【それも、わがありさまのやうに】- 大島本は「やうに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「やうにぞ」と「と」を補訂する。『新大系』は底本のまま「やうに」とする。以下「あるまじかりけり」まで、中君の心中の思い。『集成』は「自分が六の君のことで苦労しているように、姉君も女二の宮のことで悩まれたに違いない、の意」と注す。 【かの、うちとけ果てで】- 「かの」は姉大君をさす。最後まで身を許さずに、の意。 |
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第五段 薫、中君の若君を見る |
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8.5.1 | 若君を切に拝見したがりなさるので、恥ずかしいけれど、「どうしてよそよそしくしていられよう、無理なこと一つで恨まれるより以外には、何とかこの人のお心に背くまい」と思うので、ご自身はあれこれお答え申し上げなさらないで、乳母を介して差し出させなさった。 |
薫が若君をぜひ見せてほしいと言っているのを聞いて、恥ずかしくは思いながら、この人に隔て心を持つようには取られたくない、無理な恋を受け入れぬと恨まれる以外のことで、この人の感情は害したくないと中の君は思い、自身では何とも返辞をせずに、 |
【若君を切にゆかしがりきこえたまへば】- 主語は薫。 【何かは隔て顔にもあらむ】- 以下「御心に違はじ」まで、中君の心中の思い。 【乳母して】- 若君の乳母。 |
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8.5.2 | さらなることなれば、 ゆゆしきまで されど、「 かく |
当然のことながら、どうして憎らしいところがあろう。 不吉なまでに白くかわいらしくて、大きい声で何か言っており、にっこりなどなさる顔を見ると、自分の子として見ていたく羨ましいのも、この世を離れにくくなったのであろうか。 けれど、「亡くなってしまった方が、普通に結婚して、このようなお子を残しておいて下さったら」とばかり思われて、最近面目をほどこすあたりには、はやく子ができないかなどとは考えもつかないのは、あまり仕方のないこの君のお心のようだ。 このように女々しくひねくれて、語り伝えるのもお気の毒である。 |
いうまでもなく醜い子であるはずはない。驚くほど色が白く、美しくて、高い声を立てて |
【さらなることなれば】- 以下「とぞ推し量るべき」まで、薫の心中文を折り込んで、その態度を批評した語り手の文章。『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。 【言ふかひなくなりたまひにし人】- 故大君。以下「とどめ置きたまへらましかば」まで、薫の心中の思い。反実仮想の構文。 【このころおもだたしげなる御あたりに】- 女二宮をさす。 |
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8.5.3 | しか |
そんなによくない方を、帝が特別お側にお置きになって、親しみなさることもあるまいに、「生活面でのご思慮などは、無難でいらっしゃったのだろう」と推量すべきであろう。 |
こんな変人を帝が特にお愛しになって、婿にまではあそばされるはずはないのである。公人としての才能が完全なものであったのであろうと見ておくよりしかたがない。 |
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8.5.4 | げに、いとかく |
なるほど、まことにこのように幼い子をお見せなさるのもありがたいことなので、いつもよりはお話などをこまやかに申し上げなさるうちに、日も暮れたので、気楽に夜を更かすわけにもゆかないのを、つらく思われるので、嘆息しながらお出になった。 |
これほどの幼い人をはばからず見せてくれた夫人の好意もうれしくて、平生以上にこまやかに話をしているうちに日が暮れたため、他で夜の刻をふかしてはならぬ境遇になったことも苦しく思い、薫は歎息を |
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8.5.5 | 「結構なお匂いの方ですこと。 梅を折ったなら、とか言うように、鴬も求めて来ましょうね」 |
「なんというよいにおいでしょう。『折りつれば |
【をかしの人の】- 以下「尋ね来ぬべかめり」まで、女房の詞。 【折りつれば、とか】- 『源氏釈』は「折りつれば袖こそ匂へ梅の花ありとやここに鴬の鳴く」(古今集春上、三二、読人しらず)を指摘。 |
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8.5.6 | など、わづらはしがる |
などと、やっかいがる若い女房もいる。 |
などと騒いでいる女房もあった。 |
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第六段 藤壺にて藤の花の宴催される |
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8.6.1 | 「夏になったら、三条宮邸は宮中から塞がった方角になろう」と判定して、四月初めころの、節分とかいうことは、まだのうちにお移し申し上げなさる。 |
夏になると御所から三条の宮は方角 |
【夏にならば、三条の宮塞がる方になりぬべし】- 薫の心中の考え。夏になると宮中から三条宮邸は方塞りになる。 |
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8.6.2 | 明日引っ越しという日に、藤壷に主上がお渡りあそばして、藤の花の宴をお催しあそばす。 南の廂の御簾を上げて、椅子を立ててある。 公の催事で、主人の宮がお催しなさることではない。 上達部や、殿上人の饗応などは、内蔵寮からご奉仕した。 |
その前日に帝は |
【明日とての日】- 女二宮の三条宮邸への移転の前日。四月初旬の立夏前の或る日。 【藤の花の宴せさせたまふ】- 花鳥余情は村上天皇の天暦三年四月十二日の藤花の宴を準拠として指摘。『西宮記』に詳しい記事がある。 |
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8.6.3 | 右大臣や、按察大納言、藤中納言、左兵衛督。 親王方では、三の宮、常陸宮などが伺候なさる。 南の庭の藤の花の下に、殿上人の座席は設けた。 後涼殿の東に、楽所の人びとを召して、暮れ行くころに、双調に吹いて、主上の御遊に、宮の御方から、絃楽器や管楽器などをお出させなさったので、大臣をおはじめ申して、御前に取り次いで差し上げなさる。 |
左大臣、 |
【按察使大納言】- 紅梅大納言。故柏木の弟。 【藤中納言】- 鬚黒と先妻の間の長男。 【左兵衛督】- 藤中納言の弟、三男。 【三の宮】- 匂宮。 【常陸宮】- 今上帝の四宮。 【宮の御方より】- 女二宮。 |
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8.6.4 | 故六条院がご自身でお書きになって、入道の宮に差し上げなさった琴の譜二巻、五葉の枝に付けたのを、大臣がお取りになって奏上なさる。 |
六条院が自筆でおしたためになり、三条の尼宮へお与えになった琴の譜二巻を五葉の枝につけて左大臣は持って出、由来を御 |
【故六条の院の御手づから書きたまひて、入道の宮にたてまつらせたまひし琴の譜二巻】- 源氏が女三宮に琴の琴の楽譜二巻を書いて与えた。初見の記事。 |
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8.6.5 | 次々に、箏のお琴、琵琶、和琴など、朱雀院の物であった。 笛は、あの夢で伝えた故人の形見のを、「二つとない素晴らしい音色だ」とお誉めあそばしたので、「今回の善美を尽くした宴の他に、再びいつ名誉なことがあろうか」とお思いになって、取り出しなさったようだ。 |
次々に十三 |
【朱雀院の物どもなりけり】- 朱雀院から女三宮に伝えらた楽器。 【笛は、かの夢に】- 落葉宮から夕霧に伝えられた柏木遺愛の横笛。夕霧の夢に柏木が現れ遺児薫に伝えたいといったもの。 【いにしへの形見のを】- 柏木の遺愛の横笛。 【またなき物の音なり】- 帝の詞。笛の音を誉める。 【この折の】- 以下「ついでのあらむ」まで、薫の心中の思い。『完訳』は「薫は今宵を人生最良と思う」と注す。 |
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8.6.6 | 大臣に和琴、三の宮に琵琶など、それぞれにお与えになる。 大将のお笛は、今日は、またとない音色の限りをお立てになったのだった。 殿上人の中にも、唱歌に堪能な人たちは、召し出して、風雅に合奏する。 |
大臣に和琴、兵部卿の宮に琵琶の役を仰せつけになった。笛の右大将はこの日比類もなく妙音を吹き立てた。殿上役人の中にも唱歌の役にふさわしい人は呼び出され、おもしろい合奏の夜になった。 |
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8.6.7 | 宮の御方から、粉熟を差し上げなさった。 沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝を縫ってある。 銀の容器、瑠璃のお盃、瓶子は紺瑠璃である。 兵衛督が、お給仕をお勤めなさる。 |
御前へ |
【折枝縫ひたり】- 藤の折枝の刺繍。 |
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8.6.8 | さし |
お盃をいただきなさる時に、大臣は、自分だけしきりにいただくのは不都合であろう、宮様方の中には、またそのような方もいらっしゃらないので、大将にお譲り申し上げなさるのを、遠慮してご辞退申し上げなさるが、帝の御意向もどうあったのだろうか、お盃を捧げて、「おし」とおっしゃる声や態度までが、いつもの公事であるが、他の人と違って見えるのも、今日はますます帝の婿君と思って見るせいであろうか。 さし返しの盃にいただいて、庭に下りて拝舞なさるところは、実にまたとない。 |
お杯を奉る時に、大臣は自分がたびたび出るのはよろしくないし、その役にしかるべき宮がたもおいでにならぬからと言い、右大将にこの晴れの役を譲った。薫は遠慮をして辞退をしていたが、帝もその御希望がおありになるようであったから、お杯をささげて「おし」という声の出し方、身のとりなしなども、御前ではだれもする役であるが比べるものもないりっぱさに見えるのも、今日は婿君としての思いなしが添うからであるかもしれぬ。返しのお杯を賜わって、階下へ下り舞踏の礼をした姿などは輝くようであった。 |
【しきりては便なかるべし】- 夕霧の心中の思い。自分だけが天杯を戴いたのでは不都合であろう、と思う。 【宮たちの御中にはた、さるべきも】- 大島本は「御中にハわたさるへき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御中にはたさるべき」と「わ」を削除する。『新大系』は底本のまま「御中にはわたさるべき」とする。 【御けしきもいかがありけむ】- 挿入句。帝の様子を推測。 【御盃ささげて、「をし」とのたまへる声づかひ】- 天杯を戴いた時に発する作法の声。「をし」という。 【見なしさへ添ふにやあらむ】- 帝の婿と思って見るせいか、の意。 【さし返し賜はりて】- 天杯から土器に移して飲むこと。 【下りて舞踏したまへるほど】- 庭上に下りて拝舞の礼をする。 |
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8.6.9 | 上席の親王方や、大臣などが戴きなさるのでさえめでたいことなのに、これはそれ以上に帝の婿君としてもてはやされ申されていらっしゃる、その御信任が、並々でなく例のないことだが、身分に限度があるので、下の座席にお帰りになってお座りになるところは、お気の毒なまでに見えた。 |
皇子がた、大臣などがお杯を賜わるのさえきわめて光栄なことであるのに、これはまして御婿として御歓待あそばす |
【心苦しきまでぞ見えける】- 語り手の批評。『孟津抄』は「草子地」と指摘。『完訳』は「語り手の評言。その席次が低すぎるほどだと、薫の光栄を讃美」と注す。 |
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第七段 女二の宮、三条宮邸に渡御す |
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8.7.1 | この |
按察使大納言は、「自分こそはこのような目に会いたい思ったが、妬ましいことだ」と思っていらっしゃった。 この宮の御母女御を、昔、思いをお懸け申し上げていらっしゃったが、入内なさった後も、やはり思いが離れないふうにお手紙を差し上げたりなさって、終いには宮を得たいとの考えがあったので、ご後見を希望する様子をお漏らし申し上げたが、お聞き入れさえなさらなかったので、たいそう悔しく思って、 |
按察使大納言は自分こそこの光栄に浴そうとした者ではないか、うらやましいことであると心で思っていた。昔この宮の母君の |
【我こそ】- 以下「ねたのわざや」まで、按察使大納言の思い。 【思ひたまへり】- 大島本は「思給へり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思ひゐたまへり」と「ゐ」を補訂する。『新大系』は底本のまま「思給へり」とする。 【この宮の御母女御をぞ】- 『完訳』は「大納言が女二の宮の母藤壺女御を思慕したこと。ここが初見」と注す。 【宮を得たてまつらむの心】- 女二宮を娶りたいという気持ち。 【聞こし召しだに伝へずなりにければ】- 帝の耳に入らずじまいに終わってしまった、の意。 |
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8.7.2 | 「人柄は、なるほど前世の因縁による格別の生まれであろうが、どうして、時の帝が大仰なまでに婿を大切になさることだろう。 他に例はないだろう。 宮中の内で、お常御殿に近い所に、臣下が寛いで出入りして、最後は宴や何やとちやほやされることよ」 |
右大将は天才に生まれて来ているとしても、現在の帝がこうした婿かしずきをあそばすべきでない、禁廷の中のお居間に近い殿舎で一臣下が新婚の夢を結び、果ては宴会とか何とか |
【人柄は】- 以下「騒がるることは」まで、按察使大納言の詞。 【おはします殿】- 帝が日常いらっしゃる御殿、清涼殿。 【うちとけ訪らひて】- 大島本は「とふらひて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「とぶらひて」と校訂する。『新大系』は底本のまま「とぶらひて」とする。 |
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8.7.3 | などと、ひどく悪口をぶつぶつ申し上げなさったが、やはり盛儀を見たかったので、参内して、心中では腹を立てていらっしゃるのだった。 |
などとお |
【さすがゆかしければ】- 大島本は「ゆかしけれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ゆかしかりければ」と「かり」を補訂する。『新大系』は底本のまま「ゆかしければ」とする。 |
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8.7.4 | 紙燭を灯して何首もの和歌を献上する。 文台のもとに寄りながら置く時の態度は、それぞれ得意顔であったが、例によって、「どんなにかおかしげで古めかしかったろう」と想像されるので、むやみに全部は探して書かない。 上等の部も、身分が高いからといって、詠みぶりは、格別なことは見えないようだが、しるしばかりにと思って、一、二首聞いておいた。 この歌は、大将の君が、庭に下りて帝の冠に挿す藤の花を折って参上なさった時のものとか。 |
燭を手にして歌を文台の所へ置きに来る人は皆得意顔に見えたが、こんな場合の歌は型にはまった古くさいものが多いに違いないのであるから、わざわざ調べて書こうと筆者はしなかった。上流の人とても佳作が成るわけではないが、しるしだけに一、二を聞いて書いておく。次のは右大将が庭へ |
【文台のもとに寄りつつ】- 文台は南の庭上の設けられている。 【例の、「いかに】- 以下「たまへりけるとか」まで、語り手の省筆の文。『林逸抄』は「紫式部か詞也」と指摘。 【思ひやれば】- 主語は語り手自身。 【上の町も、上臈とて】- 『完訳』は「上の位の方々の分も、高位であるからといって」と訳す。 |
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8.7.5 | 「帝の插頭に折ろうとして藤の花を わたしの及ばない袖にかけてしまいました」 |
すべらぎのかざしに折ると藤の花 及ばぬ枝に袖かけてけり |
【すべらきのかざしに折ると藤の花--及ばぬ枝に袖かけてけり】- 薫の詠歌。及びもつかない高貴な内親王を頂戴した、という意の歌。 |
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8.7.6 | いい気になっているのが、憎らしいこと。 |
したり顔なのに少々反感が起こるではないか。 |
【うけばりたるぞ、憎きや】- 語り手の批評。『一葉抄』は「草子地也」と指摘。 |
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8.7.7 | 「万世を変わらず咲き匂う花であるから 今日も見飽きない花の色として見ます」 |
よろづ代をかけてにほはん花なれば これは御製である。まただれかの作、 |
【よろづ世をかけて匂はむ花なれば--今日をも飽かぬ色とこそ見れ】- 帝の詠歌。「花」「かける」の語句を受けて詠む。『異本紫明抄』は「かくてこそ見まくほしけれ万代をかけてしのべる藤波の花」(新古今集春下、一六三、延喜御歌)を指摘。 |
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8.7.8 | 「主君のため折った插頭の花は 紫の雲にも劣らない花の様子です」 |
君がため折れるかざしは紫の 雲に劣らぬ花のけしきか |
【君がため折れるかざしは紫の--雲に劣らぬ花のけしきか】- 夕霧の詠歌か。「花」の語句を用いて、前歌の「色」を「紫」ととりなして詠む。『河海抄』は「紫の雲とぞ見ゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらむ」(拾遺集雑春、一〇六九、右衛門督公任)。『休聞抄』は「藤の花宮のうちには紫の雲かとのみぞあやまたれける」(拾遺集雑春、一〇六八、皇太后宮権大夫国章)を指摘。 |
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8.7.9 | 「世間一般の花の色とも見えません 宮中まで立ち上った藤の花は」 |
世の常の色とも見えず雲井まで 立ちのぼりける藤波の花 |
【世の常の色とも見えず雲居まで--たち昇りたる藤波の花】- 紅梅大納言の唱和歌。「色」「雲」「藤」「花」の語句を用いて、女二宮と薫の結婚を寿ぐ。 |
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8.7.10 | 「これがこの腹を立てた大納言のであった」と見える。 一部は、聞き違いであったかも知れない。 このように、格別に風雅な点もない歌ばかりであった。 |
あとのは腹をたてていた大納言の歌らしく思われる。どの歌にも筆者の聞きそこねがあってまちがったところがあるかもしれない。だいたいこんなふうの歌で、感激させられるところの少ないもののようであった。 |
【これやこの】- 以下「のみぞあなりし」まで、語り手の文。 |
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8.7.11 | 夜の更けるにしたがって、管弦の御遊はたいそう興趣深い。 大将の君が、「安名尊」を謡いなさった声は、この上なく素晴しかった。 按察使大納言も、若い時にすぐれていらっしゃったお声が残っていて、今でもたいそう堂々としていて、合唱なさった。 右の大殿の七郎君が、子供で笙の笛を吹く。 たいそうかわいらしかったので、御衣を御下賜になる。 大臣が庭に下りて拝舞なさる。 |
夜がふけるにしたがって音楽は佳境にはいっていった。薫が「あなたふと」を歌った声が限りもなくよかった。按察使も昔はすぐれた声を持った人であったから、今もりっぱに合わせて歌った。左大臣の七男が |
【大将の君】- 大島本は「大将のきミ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「大将の君の」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「大将の君」とする。 【安名尊】- あな尊 今日の尊さ や いにしへも かくやありけむ や今日の尊さ あはれ そこよしや 今日の尊さ(催馬楽-あな尊)(text49.html 出典53から転載) 【御衣賜はす】- 帝から御衣を下賜する。 |
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8.7.12 | 暁が近くなってお帰りあそばした。 禄などを、上達部や、親王方には、主上から御下賜になる。 殿上人や、楽所の人びとには、宮の御方から身分に応じてお与えになった。 |
もう夜明け近くなってから帝は常の御殿へお帰りになった。 |
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8.7.13 | その夜に、宮をご退出させなさった。 その儀式はまことに格別である。 主上つきの女房全員にお供をおさせになった。 廂のお車で、廂のない糸毛車三台、黄金造りの車六台、普通の檳榔毛の車二十台、網代車二台、童女と、下仕人を八人ずつ伺候させたが、一方お迎えの出車に、本邸の女房たちを乗せてあった。 お送りの上達部、殿上人、六位など、何ともいいようなく善美を尽くさせていらっしゃった。 |
その翌晩薫は姫宮を自邸へお迎えして行ったのであった。儀式は |
【その夜ふさり】- 大島本は「よふさり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「夜さり」と「ふ」を削除する。『新大系』は底本のまま「よふさり」とする。 【出車どもに】- 大島本は「いたし車ともに」とある。『完本』は諸本に従って「出車ども十二」と「十」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「出車どもに」とする。 |
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8.7.14 | かくて、 ささやかにしめやかにて、ここはと |
こうして、寛いで拝見なさると、まことに立派でいらっしゃる。 小柄で上品でしっとりとして、ここがいけないと見えるところもなくいらっしゃるので、「運命も悪くはなかった」と、心中得意にならずにいらないが、亡くなった姫君が忘れられればよいのだが、やはり気持ちの紛れる時なく、そればかりが恋しく思い出されるので、 |
こうしてお迎えした女二の宮を、薫は妻として心安く観察するようになったが、宮はお美しかった。小柄で上品に落ち着いて、どこという欠点もお持ちにならないのを知って、自分の宿命というものも悪くはないようであると喜んだとはいうものの、それで過去の悲しい恋の傷がいやされたのでは少しもなかった。今もどんな時にも紛れる方もなく昔ばかりが恋しく思われる薫であったから、 |
【見たてまつりたまふに】- 薫が女二宮を。 【ささやかにしめやかにて】- 大島本は「さゝやかにしめやかにて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ささやかにあてに」と「あてに」を補訂する。『新大系』は底本のまま「ささやかに」とする。 【宿世のほど口惜しからざりけり】- 薫の心中の思い。自負の気持ち。 【過ぎにし方】- 故大君をさす。 |
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8.7.15 | 「この世では慰めきれないことのようである。 仏の悟りを得てこそ、不思議でつらかった二人の運命を、何の報いであったのかとはっきり知って諦めよう」 |
自分としては生きているうちにそれに対する慰めは得られないに違いない、仏になってはじめて、恨めしい因縁は何の報いであるということが判然することにより忘られることにもなろう |
【この世にては】- 以下「思ひも離れなめ」まで、薫の心中の思い。 【仏になりてこそは】- 仏の悟りを得て、の意。 |
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8.7.16 | と思いながら、寺の造営にばかり心を注いでいらっしゃった。 |
と思い、寺の建築のことにばかり心が行くのであった。 |
【心を】- 大島本は「心を」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心をば」と「ば」を補訂する。『新大系』は底本のまま「心を」とする。 |
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第九章 薫の物語 宇治で浮舟に出逢う |
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第一段 四月二十日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅 |
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9.1.1 | 賀茂の祭などの、忙しいころを過ごして、二十日過ぎに、いつものように、宇治へお出かけになった。 |
【賀茂の祭】- 四月の中酉の日に催される。 |
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9.1.2 | 造らせなさっている御堂を御覧になって、なすべき事などをお命じになって、そうして、いつものように、弁のもとを素通りいたすのも、やはり気の毒なので、そちらにお出でになると、女車が仰々しい様子ではないのが一台、荒々しい東男が腰に刀を付けた者を、大勢従えて、下人も数多く頼もしそうな様子で、橋を今渡って来るのが見える。 |
建造中の御堂を見て、これからすべきことを命じてから、古山荘を |
【朽木のもとを】- 弁尼をさす。「荒れはつる朽木の--」歌を詠んだことに因む呼称。 【見たまへ過ぎむが】- 「たまへ」は謙譲の補助動詞。薫の弁尼に対する謙譲表現になっている。 【橋より】- 宇治橋。 |
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9.1.3 | 「田舎者だなあ」と御覧になりながら、殿は先にお入りになって、お供の連中は、まだ立ち騒いでいるところに、「この車もこの宮を目指して来るのだ」と分かる。 御随身たちも、がやがやと言うのを制止なさって、 |
【田舎びたる者かな】- 薫の感想。 【御前どもは】- 薫の警護の者たち。 【御随身どもも】- 大島本は「みすいしんともゝ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御随身ども」と「ゝ」を削除する。『新大系』は底本のまま「御随身どもも」とする。薫の御随身たち。前に「御前」とあった者に同じ。 【制したまひて】- 主語は薫。 |
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9.1.4 | 「 |
「誰であろうか」 |
だれか |
【何人ぞ】- 薫の詞。 |
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9.1.5 | と |
と尋ねさせなさると、言葉の訛った者が、 |
とあとから来る一行を尋ねさせてみると、妙ななまり声で、 |
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9.1.6 | 「常陸前司殿の姫君が、初瀬のお寺に参詣してお帰りになったのです。 最初もここにお泊まりになりました」 |
「前 |
【常陸の前司殿の姫君の】- 以下「宿りたまへりし」まで、浮舟の従者の詞。 【宿りたまへし】- 大島本は「やとり給へし」とある。『集成』『完本』『新大系』は諸本に従って「宿りたまへりし」と「り」を補訂する。 |
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9.1.7 | と |
と申すので、 |
と答えたのを聞いて、 |
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9.1.8 | 「おや、そうだ、 |
薫はそれであった、話に聞いた人であったと思い出して、 |
【おいや、聞きし人ななり】- 薫の合点。 |
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9.1.9 | とお思い出しになって、供人たちを別の場所にお隠しになって、 |
従者たちは見えない所へ隠すようにして入れ、 |
【人びとを】- 大島本は「人/\を」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「人々をば」と「ば」を補訂する。『新大系』は底本のまま「人々を」とする。 |
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9.1.10 | 「早く、お車を入れなさい。 ここには、別に泊まっている人がいらっしゃるが、北面のほうにおいでです」 |
「早くお車を入れなさい。もう一人ここへ客に来ている人はありますが、心安い方で隠れたお座敷のほうにおられますから」 |
【はや、御車入れよ】- 以下「北面になむ」まで、薫が随身に言わせた詞。「御車」は相手方浮舟の車を指していう。 |
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9.1.11 | と |
と言わせなさる。 |
とあとの人々へ言わせた。 |
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9.1.12 | この |
お供の人も、みな狩衣姿で、大げさでない姿ではあるが、やはり高貴な感じがはっきりしているのであろう、わずらわしそうに思って、馬どもを遠ざけて、控えていた。 車は入れて、渡廊の西の端に寄せる。 この寝殿はまだ人目を遮る調度類が入れてなくて、簾も掛けていない。 格子を下ろしこめた中の二間に立てて仕切ってある襖障子の穴から覗きなさる。 |
薫の供の人々も皆 |
【皆狩衣姿にて】- 大島本は「かりきぬすかた」とある。『完本』は諸本に従って「狩衣」と「すがた」を削除する。『集成』『新大系』は底本のまま「狩衣姿」とする。 【わづらはしげに思ひて】- 浮舟方の思い。 【この寝殿はまだあらはにて】- もとの寝殿を山寺に移して新築した寝殿。そのため調度類がまだ調わない。 |
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9.1.13 | お召し物の音がするので、脱ぎ置いて、直衣に指貫だけを着ていらっしゃる。 すぐには下りないで、尼君に挨拶をして、このように高貴そうな方がいらっしゃるのを、「どなたですか」などと尋ねているのであろう。 君は、車をその人とお聞きになってから、 |
堅い上着が音をたてるのでそれは脱いで、 |
【とみにも降りで】- 浮舟の動作。 【誰れぞ」など案内するなるべし】- 薫の目と語り手の目が一体化した叙述。 【君は】- 薫。 |
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9.1.14 | 「けっして、その人にわたしがいるとおっしゃるな」 |
自分が来ているとは決して言うな |
【ゆめ、その人にまろありとのたまふな】- 薫が弁尼に随身をして言った詞。 |
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9.1.15 | と、まづ |
と、まっさきに口止めなさっていたので、みなそのように心得て、 |
と口どめをまずしておいたので皆心得ていて、 |
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9.1.16 | 「早くお降りなさい。 客人はいらしゃるが、別の部屋です」 |
「早くお降りなさいまし。お客様はおいでになりますが別のお座敷においでになります」 |
【早う降りさせたまへ】- 以下「異方になむ」まで、山荘の女房の詞。 |
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9.1.17 | と |
と言い出した。 |
と言わせた。 |
【言ひ出だしたり】- 『集成』は「外の車に伝えた」と注す。 |
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第二段 薫、浮舟を垣間見る |
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9.2.1 | 若い女房がいるが、まず降りて、簾を上げるようである。 御前駆の様子よりは、この女房は物馴れていて見苦しくない。 また、年とった女房がもう一人降りて、「早く」と言うと、 |
若い女房が一人車からおりて主人のために |
【簾うち上ぐめり】- 薫の視点による叙述。 【御前のさまよりは】- 浮舟の御前供に比較して、の意。 |
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9.2.2 | 「妙に丸見えのような気がします」 |
「何だか晴れがましい気がして」 |
【あやしくあらはなる心地こそすれ】- 浮舟の詞。 |
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9.2.3 | と |
という声は、かすかではあるが上品に聞こえる。 |
と言う声はほのかであったが品よく聞こえた。 |
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9.2.4 | 「いつものおことです。 こちらは、以前にも格子を下ろしきってございました。 それでは、どこがまた丸見えでしょうか」 |
「またそれをおっしゃいます。こちらはこの前もお座敷が皆しまっていたではございませんか。あすこに人が見ねばどこに見る人がございましょう」 |
【例の御事】- 以下「あらはなるべきぞ」まで、女房の詞。 |
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9.2.5 | と、 つつましげに |
と、安心しきって言う。 遠慮深そうに降りるのを見ると、まず、頭の恰好、身体つき、細くて上品な感じは、たいそうよく亡き姫君を思い出されよう。 扇でぴったりと顔を隠しているので、顔の見えないところは見たくて、胸をどきどきさせながら御覧になる。 |
と女房はわかったふうなことを言う。恥ずかしそうにおりて来る人を見ると、その頭の形、全体のほっそりとした姿は薫に昔の人を思い出させるものであろうと思われた。扇をいっぱいに |
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9.2.6 | 車は高くて、降りる所が低くなっていたが、この女房たちは楽々と降りたが、たいそうつらそうに困りきって、長いことかかって降りて、お部屋にいざって入る。 濃い紅の袿に、撫子襲と思われる細長、若苗色の小袿を着ていた。 |
車の床は高く、降りる所は低いのであったが、二人の女房はやすやすと出て来たにもかかわらず、苦しそうに下をながめて長くかかっておりた人は家の中へいざり入った。紅紫の |
【車は高く、降るる所は下りたるを】- 女車の場合は車の前板と簀子の間に打板を渡すが、その用意がなくて、いったん下りて簀子に上がった。 【この人びとは】- 女房たちをさす。 【ゐざり入る】- 車から降りて後、浮舟は簀子から廂間へはいざって入った。 |
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9.2.7 | 四尺の屏風を、この襖障子に添えて立ててあるが、上から見える穴なので、丸見えである。 こちらを不安そうに思って、あちらを向いて物に寄り臥した。 |
向こうの室は薫ののぞく |
【こなたをば】- 薫の覗いている方角。 |
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9.2.8 | 「何とも、 お疲れのようですね。泉川の舟渡りも、ほんとうに、今日はと ても恐ろしかったわ。この二月には、水が浅かったので |
「ほんとうにお気の毒でございました。 |
【さも、苦しげに】- 以下「恐ろしからぬ」まで、浮舟付きの女房たちの詞。 |
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9.2.9 | 「いやなに、出歩くことは、東国の旅を思えば、どこが恐ろしいことがありましょう」 |
「なあに、あなた、東国の道中を思えばこわい所などこの辺にはあるものですか」 |
【東路思へば】- 大島本は「あつまち」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「東路を」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のまま「東路」とする。 |
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9.2.10 | などと、二人でつらいとも思わず言っているのに、主人は音も立てずに臥せっていた。 腕をさし出しているのが、まるまるとかわいらしいのを、常陸殿の娘とも思えない、まことに上品である。 |
実際女房は二人とも苦しい気もなくこんなことを言い合っているが、主人は何も言わずにひれ伏していた。袖から見える |
【主は】- 浮舟をさす。 |
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9.2.11 | だんだんと腰が痛くなるまで腰をかがめていらっしゃったが、人の来る感じがしないと思って、依然として動かずに御覧になると、若い女房が、 |
薫は腰の痛くなるまで立ちすくんでいるのだったが、人のいるとは知らすまいとしてなおじっと動かずに見ていると、若いほうの女房が、 |
【やうやう腰痛きまで】- 薫の垣間見のさま。 |
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9.2.12 | 「まあ、いい香りのすること。 たいそうな香の匂いがしますわ。 尼君が焚いていらっしゃるのかしら」 |
「まあよいにおいがしますこと、尼さんがたいていらっしゃるのでしょうか」 |
【あな、香ばしや】- 以下「焚きたまふにやあらむ」まで、若い女房の詞。 |
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9.2.13 | 老女房は、 |
と驚いてみせた。老いたほうのも、 |
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9.2.14 | 「まことにあなめでたの この |
「ほんとうに何とも素晴らしい香でしょう。 京の人は、やはりとても優雅で華やかでいらっしゃる。 北の方さまが当地で一番だと自惚れていらしたが、東国ではこのような薫物の香は、とても合わせることができなかった。 この尼君は、住まいはこのようにひっそりしていらっしゃるが、衣装が素晴らしく、鈍色や青鈍と言っても、とても美しいですね」 |
「ほんとうにいい香ね。京の人は何といっても風流なものですね。ここほどけっこうな所はないと御主人様は |
【まことにあなめでたの】- 以下「いときよらにぞあるや」まで、老女房の詞。 【天下にいみじきことと思したりしかど】- 主語は浮舟の母北の方。 【鈍色青色】- 大島本は「あをいろ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「青鈍」と校訂する。『新大系』は底本のまま「青色」とする。 |
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9.2.15 | などと、誉めていた。 あちらの簀子から童女が来て、 |
と言ってほめていた。向こうのほうの縁側から童女が来て、 |
【あなたの簀子より】- 薫の覗いている反対側。浮舟のいる方角。 |
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9.2.16 | 「お薬湯などお召し上がりなさいませ」 |
「お湯でも召し上がりますように」 |
【御湯など参らせたまへ】- 童女の詞。 |
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9.2.17 | とて、 |
と言って、いくつもの折敷に次から次へとさし入れる。 果物を取り寄せなどして、 |
と言い、 |
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9.2.18 | 「もしもし、 |
「ちょっと申し上げます。こんな物を召し上がりません」 |
【ものけたまはる。これ】- 女房の詞。人に物を言いかける時の詞。もしもし、の意。 |
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9.2.19 | などと言って起こすが、起きないので、二人して、栗などのようなものか、ほろほろと音を立てて食べるのも、聞いたこともない感じなので、見ていられなくて退きなさったが、再び見たくなっては、やはり立ち寄り立ち寄り御覧になる。 |
と令嬢を起こしているが、その人は聞き入れない。それで二人だけで |
【起こせど】- 浮舟を起こすが、の意。 【栗やなどやうのものにや】- 大島本は「くりやなとやう」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「栗などやう」と「や」を削除する。『新大系』は底本のまま「栗やなど」とする。 【聞き知らぬ心地には】- 薫の経験。 |
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9.2.20 | これよりまさる |
この人より上の身分の人びとを、后宮をはじめとして、あちらこちらに、器量のよい人や気立てが上品な人をも、大勢飽きるほど御覧になったが、いいかげんな女では、目も心も止まらず、あまり人から非難されるまでまじめでいらっしゃるお気持ちには、ただ今のようなのは、どれほども素晴らしく見えることもない女であるが、このように立ち去りにくく、むやみに見ていたいのも、実に妙な心である。 |
こうした階級より上の若い女を、 |
【これよりまさる際の人びとを】- 『湖月抄』は「草子地也」と指摘。 【后の宮をはじめて】- 明石中宮に仕える女房たちと比較。 【いとあやしき心なり】- 語り手の薫に対する批評。 |
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第三段 浮舟、弁の尼と対面 |
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9.3.1 | 尼君は、この殿の御方にも、ご挨拶申し上げ出したが、 |
尼君は薫のほうへも |
【この殿の御方にも】- 薫をさす。 |
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9.3.2 | 「ご気分が悪いと言って、今休んでいらっしゃるのです」 |
御気分が悪いとお言いになって、しばらく休息をしておいでになる |
【御心地悩ましとて】- 以下「たまへるなり」まで、薫の供人の詞。 |
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9.3.3 | と、お供の人びとが心づかいして言ったので、「この君を探し出したくおっしゃっていたので、このような機会に話し出そうとお思いになって、日暮れを待っていらっしゃったのか」と思って、このように覗いているとは知らない。 |
と、従者がしかるべく断わっていたので、この姫君を得たいように言っておいでになったのであるから、こうした機会に交際を始めようとして、夜を待つために一室にこもっているのであろうと解釈して、こうしてその人が隣室をのぞいているとも知らず、 |
【この君を尋ねまほしげにのたまひしかば】- 以下「日暮らしたまふにや」まで、弁尼の心中の思い。薫が浮舟に会いたいと弁尼に言っておいた、の意。 |
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9.3.4 | ほめつる |
いつものように、御荘園の管理人連中が参上しているが、破子や何やかやと、こちらにも差し入れているのを、東国の連中にも食べさせたりなど、いろいろ済ませて、身づくろいして、客人の方に来た。 誉めていた衣装は、なるほどとてもこざっぱりとしていて、顔つきもやはり上品で美しかった。 |
いつもの薫の領地の支配者らが |
【こなたにも】- 弁尼の方をさす。 【東人どもにも】- 浮舟一行の供人。 【客人の方に】- 浮舟一行の部屋。 【ほめつる装束、げにいとかはらかにて】- 浮舟の老女房がほめていた弁尼の装束。「げに」は垣間見している薫の納得の気持ち。語り手の視点と二重描写。 |
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9.3.5 | 「昨日お着きになるとお待ち申し上げていましたが、どうして、今日もこんなに日が高くなってから」 |
「昨日お着きになるかとお待ちしていたのですが、どうなすって今日もこんなにお着きがおそくなったのでしょう」 |
【昨日おはし着きなむと】- 以下「日たけては」まで、弁尼の詞。 |
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9.3.6 | と言うようなので、この老女房は、 |
こんなことを弁の尼が言うと、老いたほうの女が、 |
【と言ふめれば】- 推量の助動詞「めり」は、垣間見の薫の主観的推量のニュアンス。 |
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9.3.7 | 「とても妙につらそうにばかりなさっているので、昨日はこの泉川のあたりで、今朝もずうっとご気分が悪かったものですから」 |
「お苦しい御様子ばかりが見えますものですから、昨日は泉河のそばで泊まることにしまして、 |
【いとあやしく】- 以下「御心地ためらひてなむ」まで、老女房の詞。 |
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9.3.8 | といらひて、 まことにいとよしあるまみのほど、 |
と答えて、起こすと、今ようやく起きて座った。 尼君に恥ずかしがって、横から見た姿は、こちらからは実によく見える。 ほんとうにたいそう気品のある目もとや、髪の生え際のあたりが、亡くなった姫君を、詳細につくづくとは御覧にならなかったお顔であるが、この人を見るにつけて、まるでその人と思い出されるので、例によって、涙が落ちた。 |
姫君を呼び起こしたために、その時やっとその人は起きてすわった。尼君に恥じて |
【起こせば】- 浮舟を。 【今ぞ起きゐたる】- 『完訳』は「「今ぞ」も、かいま見る薫の心」と注す。 【まことにいとよしあるまみのほど】- 垣間見する薫の視点からの叙述。 【かれをも】- 故大君をさす。 【これを】- 浮舟をさす。 【ただそれと思ひ出でらるるに】- 浮舟を見た感想。大君に生き写しの人と見る。 |
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9.3.9 | 尼君への応対する声、感じは、宮の御方にもとてもよく似ているような聞こえる。 |
弁の尼が何か言うことに返辞をする声はほのかではあるが中の君にもまたよく似ていた。 |
【尼君のいらへ】- 尼君への応対、の意。 【宮の御方にも】- 中君をさす。 |
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9.3.10 | 「あはれなりける かかりけるものを、 これより |
「何というなつかしい人であろう。 このような人を、今まで探し出しもしないで過ごして来たとは。 この人よりつまらないような身分の故姫宮に縁のある女でさえあったならば、これほど似通い申している人を手に入れてはいいかげんに思わない気がするが、まして、この人は、父宮に認知していただかなかったが、ほんとうに故宮のご息女だったのだ」 |
心の |
【あはれなりける人かな】- 以下「こそはありけれ」まで、薫の心中の思い。『集成』は「何というなつかしい人なのだろう。以下、薫の心中。大君に生き写しであることに心を打たれる」。『完訳』は「なんともいとしい人ではないか」と注す。 【知られたてまつらざりけれど】- 父宮から認知していただけなかったが、の意。 |
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9.3.11 | と 「ただ 「これは |
とお分かりになっては、この上なく嬉しく思われなさる。 「ただ今にでも、側に這い寄って、この世にいらっしゃったのですね」と言って慰めたい。 蓬莱山まで探し求めて、釵だけを手に入れて御覧になったという帝は、やはり、物足りない気がしたろう。 「この人は別の人であるが、慰められるところがありそうな様子だ」と思われるのは、この人と前世からの縁があったのであろうか。 |
と思ってみると、限りもなくなつかしさうれしさがわいてきた。今すぐにも隣室へはいって行き、「あなたは生きていたではありませんか」と言い、自身の心を慰めたい、 |
【ただ今も、はひ寄りて、世の中におはしけるものを】- 薫の心中の思い。今すぐのでも浮舟を大君その人と見て語りかけたい、という気持ち。 【蓬莱まで尋ねて、釵の限りを】- 以下「ありぬべきさまなり」まで、薫の心中。『白氏文集』「長恨歌」にうたわれた玄宗皇帝と楊貴妃の故事を思い起こして比べる。 【この人に契りのおはしけるにやあらむ】- 『評釈』は「薫と結びつけようと作者はやっきになっている。その理由を、すべて前世からの約束であるとしている」と注す。 |
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9.3.12 | 尼君は、お話を少しして、すぐに中に入ってしまった。 女房たちが気がついた香りを、「近くから覗いていらっしゃるらしい」と分かったので、寛いだ話も話さずになったのであろう。 |
尼君はしばらく話していただけであちらへ行ってしまった。女房らの不思議がっていたかおりを自身も |
【近く覗きたまふなめり】- 弁尼の推測。 【うちとけごとも語らはずなりぬるなるべし】- 語り手の推測。 |
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第四段 薫、弁の尼に仲立を依頼 |
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9.4.1 | 日が暮れてゆくので、君もそっと出て、ご衣装などをお召しになって、いつも呼び出す襖障子口に、尼君を呼んで、様子などをお尋ねなさる。 |
日も暮れていったので、薫も静かに座へもどり、上着を |
【障子の口に】- 大島本は「さうしのくち」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「障子口」と「の」を削除する。『新大系』は底本のまま「障子の口」とする。 |
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9.4.2 | 「ちょうどよい時に来合わせたものだな。 どうでしたか、あの申し上げておいたことは」 |
「都合よく私がここで落ち合うことになったのですが、どうでした私が前に頼んでおいた話は」 |
【折しもうれしく参で逢ひたるを】- 大島本は「まてあひたるを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「まで来あひたるを」と「来」を補訂する。『新大系』は底本のまま「まであひたるを」とする。以下「聞こえしことは」まで、薫の詞。 【かの聞こえしことは】- 昨年の九月末に自分の意向を伝えるよう弁に依頼したことをさす。 |
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9.4.3 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と薫が言うと、 |
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9.4.4 | 「そのように、仰せ言がございました後は、適当な機会がありましたら、と待っておりましたが、去年は過ぎて、今年の二月に、初瀬に参詣する機会に初めて対面しました。 |
「仰せを承りましてからは、よい機会があればとばかり待っていたのでございますが、そのうち年も暮れまして、今年になりましてから二月に |
【しか、仰せ言はべりし後は】- 以下「ものしはべらむ」まで、弁尼の詞。 【対面してはべりし】- 大島本は「たいめんして」とある。『完本』は諸本に従って「はじめて対面して」と「はじめて」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「対面して」とする。 |
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9.4.5 | かの |
あの母君に、お考えの向きは、ちらっとお話しておきましたので、とても身の置き所もなく、もったいないお話でございます、などと申しておりましたが、その当時は、お忙しいころと承っておりましたので、機会がなく不都合に思って遠慮して、これこれです、とも申し上げませんでしたが、また今月にも参詣して、今日お帰りになったような次第です。 |
お母さんにあなた様の思召しをほのめかしてみますと、大姫君とはあまりに懸隔のあるお身代わりでおそれおおいと申しておりましたが、ちょうどそのころはあなた様のほうにもお取り込みのございましたころで、お |
【いとかたはらいたく】- 以下「こそははべるなれ」まで、浮舟の母の詞を間接的に伝える。 【御よそへ】- 浮舟を大君と思って見てくれること。 【そのころほひは、のどやかにもおはしまさずと】- 大島本は「のとやかにも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「のどやかに」と「も」を削除する。『新大系』は底本のまま「のどやかにも」とする。薫は女二宮と婚儀の頃であった。 【この月にも】- 四月。 |
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9.4.6 | かの |
行き帰りの宿泊所として、このように親しくされるのも、ただお亡くなりになった父君の跡をお尋ね申し上げる理由からでございましょう。 あの母君は、支障があって、今回は、お独りで参詣なさるようなので、このようにいらっしゃっても、特に、申し上げることもないと思いまして」 |
往復に必ずおいでになりますのもお |
【ただ過ぎにし御けはひ】- 故父八宮への追懐。 【かの母君も】- 大島本は「かのハゝ君も」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「かの母君は」と校訂する。『新大系』は底本のまま「かの母君も」とする。 |
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9.4.7 | と |
と申し上げる。 |
こう弁の尼は答えた。 |
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9.4.8 | 「 さて、いかがすべき。 かく |
「田舎者めいた連中に、人目につかないようにやつしている姿を見られまいと、口固めしているが、どんなものであろう。 下衆連中は隠すことはできまい。 さて、どうしたものだろうか。 独り身でいらっしゃるのは、かえって気楽だ。 このように前世からの約束があって、巡り合わせたのだ、とお伝えください」 |
「見苦しい出歩きを人に知らすまいと思って、客は私だと言うなと言っておきましたが、どこまで命令は守られることかあてにはならない。供の者などは口が軽いものですからね。だからいいではありませんか、一人で来ていられるのはかえって気安く思われますからね、こんなに深い因縁があって同じ所へ来合わせたと伝えてください」 |
【田舎びたる人どもに】- 以下「と伝へたまへかし」まで、薫の詞。浮舟一行の従者をさす。 【忍びやつれたるありき】- 薫の忍び歩きの姿。 【隠れあらじかし】- 下衆連中の間では口さがないから、薫の正体が知れてしまったろう、の意。 |
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9.4.9 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と薫が言うと、 |
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9.4.10 | 「急に、いつの間にできたお約束ですか」 |
「にわかな御因縁話でございますね」 |
【うちつけに】- 以下「御契りにかは」まで、弁尼の返事。 |
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9.4.11 | と、うち |
と、苦笑して、 |
と言い、 |
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9.4.12 | 「それでは、そのようにお伝えしましょう」 |
「それではそう申しましょう」 |
【さらば、しか伝へはべらむ】- 弁尼の詞。薫の意向を浮舟に伝えると約束。 |
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9.4.13 | とて、 |
と言って、中に入るときに、 |
立って行こうとする弁に、 |
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9.4.14 | 「かお鳥の声も昔聞いた声に似ているかしらと 草の茂みを分け入って今日尋ねてきたのだ」 |
かほ鳥の声も聞きしにかよふやと |
【貌鳥の声も聞きしにかよふやと--茂みを分けて今日ぞ尋ぬる】- 薫の独詠歌。『集成』は「もとは鳴き声から来た名で、かっこうの別名とするのが有力であるが、この歌も「顔」に思いを寄せて「声も」と詠んでいるように、平安時代には字面から美しい鳥とする理解が生じたようである」。『完訳』は「「かほ鳥」はかっこうか。亡き大君に、顔・声が特に似るところから表現。面影の人を捜し求め、彷徨の末、尋ねあてた感動」と注す。『河海抄』は「夕されば野辺に鳴くとてふかほ鳥の顔に見えつつ忘られなくに」(古今六帖六、かほどり)を指摘。 |
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9.4.15 | ただ |
ただ口ずさみのようにおっしゃるのを、中に入って語るのであった。 |
口ずさみのようにして薫はこの歌を告げたのを、姫君の所へ行って弁は話した。 |
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著作権 |
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