設定 番号 本文 渋谷栄一訳 与謝野晶子訳 挿絵 ルビ 罫線 帖見出し 章見出し 段見出し 列見出し
% % % px

第五十一帖 浮舟

薫君の大納言時代二十六歳十二月から二十七歳の春雨の降り続く三月頃までの物語

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳

第一章 匂宮の物語 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る


第一段 匂宮、浮舟を追想し、中君を恨む

1.1.1
(みや)、なほ、かのほのかなりし(ゆふ)べを(おぼ)(わす)るる()なし。
ことことしきほどにはあるまじげなりしを、人柄(ひとがら)のまめやかにをかしうもありしかな」と、いとあだなる御心(みこころ)は、口惜(くちを)しくてやみにしこと」と、ねたう(おぼ)さるるままに、女君(をんなぎみ)をも
宮は、今もなお、あのちらっと御覧になった夕方をお忘れになる時とてない。
「たいした身分ではけっしてなさそうであったが、人柄が誠実で魅力的であったなあ」と、とても浮気なご性分にとっては、「残念なところで終わってしまったことだ」と、悔しく思われなさるままに、女君に対しても、
兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は美しい人をほのかに御覧になったあの秋の夕べのことをどうしてもお忘れになることができなかった。たいした貴族の娘ではないらしかったが婉嬋(えんぜん)とした美貌(びぼう)の人であったと、好色な方であったから、それきり消えるようにいなくなってしまったことを残念でたまらぬように思召(おぼしめ)しては、夫人に対しても、
1.1.2
かう、はかなきことゆゑあながちに、かかる(すぢ)のもの(にく)みしたまひけり。
(おも)はずに心憂(こころう)し」
「あのように、ちょっとしたことぐらいで、むやみに、このような方面の嫉妬をなさるなあ。
思いがけなく情けない」
「何でもない恋の遊戯をしようとするくらいのことにもあなたはよく嫉妬(しっと)する、そんな人とは思わなかったのに」
1.1.3
と、()づかしめ(うら)みきこえたまふ折々(をりをり)は、いと(くる)しうてありのままにや()こえてまし」と(おぼ)せど、
と、悪口言って恨み申し上げなさる時々は、とてもつらくて、「ありのままに申し上げてしまおうかしら」とお思いになるが、
こんなふうにお言いになり、(うら)みをお()らしになるおりおり、中の君は苦しくてありのままのことを言ってしまおうとも思わないではなかったが、
1.1.4
やむごとなきさまにはもてなしたまはざなれど(あさ)はかならぬ(かた)に、(こころ)とどめて(ひと)(かく)()きたまへる(ひと)物言(ものい)ひさがなく()こえ()でたらむにも、さて()()ぐしたまふべき御心(みこころ)ざまにもあらざめり
「重々しい様子にはお扱いなさらないようだが、いいかげんでない扱いに、心とめて人が隠していらっしゃる女を、おしゃべりに申し上げてしまうようなのも、そのまま聞き流しなさるようなご性分の方ではいらっしゃらないようだ。
妻の一人としての待遇はしていないにもせよ軽々しい情人とは思わずに愛して、世間の目にはつかぬようにと宇治へ隠してある妹の姫君のことを、お話ししても宮の御性情ではそのままにしてお置きにはなれまい、
1.1.5
さぶらふ(ひと)(なか)にも、はかなうものをものたまひ()れむと(おぼ)()ちぬる(かぎ)りは、あるまじき(さと)まで(たづ)ねさせたまふ(おほん)さまよからぬ御本性(ごほんじゃう)なるに、さばかり月日(つきひ)()て、(おぼ)ししむめるあたりはましてかならず見苦(みぐる)しきこと()()でたまひてむ
(ほか)より(つた)()きたまはむはいかがはせむ。
仕えている女房の中でも、ちょっと何かおっしゃり関係を持とうとお思いになった者にはすべて、身分柄あってはならない実家までお尋ねあそばすご体裁の良くないご性分なので、あれほど月日を経ても、お思い込んでいらっしゃるあたりの女は、女房の場合以上にきっと見苦しいことを引き起こしなさるだろう。
他から伝え聞きなさるのはどうすることもできない。
女房にでもそうした関係を結びたくおなりになった人の所へは無反省にそうした人の実家へまでもお出かけになるような多情さがおありになるのであるから、これはまして相当に月日もたつ今になっても思い込んでお忘れになれない相手であっては、必ず醜い事件をお起こしになるであろう、ほかから聞いておしまいになればそれはしかたがない、
1.1.6
いづ(かた)ざまにもいとほしくこそはありとも、(ふせ)ぐべき(ひと)御心(みこころ)ありさまならねばよその(ひと)よりは()きにくくなどばかりぞおぼゆべき。
とてもかくても、わがおこたりにてはもてそこなはじ」
どちらにとってもお気の毒ではあっても、それを防げる方のご性分でないので、他人の場合よりは聞きにくいなどとばかりに思われるだろう。
どうなるにせよ、自分からの過失にはするまい」
大将のためにも姫君のためにも不幸になるのを知っておいでになっても、それに遠慮のおできになる方ではないから、そうした場合に姫君が他人でない点で、自分は多く恥を覚えることであろう、何にもせよ自分のあやまりから悪いほうへ運命の進む動機は作るまい
1.1.7
(おも)(かへ)したまひつつ、いとほしながらえ()こえ()でたまはず、(こと)ざまにつきづきしくは、()ひなしたまはねば、おしこめてもの(ゑん)じしたる、()(つね)(ひと)になりてぞおはしける。
と思い返しなさっては、お気の毒には思うが申し上げなさらず、嘘をついてもっともらしく言いつくろうことは、おできになれないので、黙りとおして嫉妬する、世の常の女になっていらっしゃった。
と反省して、宮の恋に同情はしながらも姫君の現在の境遇を語ろうとしなかった。上手(じょうず)(うそ)で繕うことはできない性質であったから、表面は良人(おっと)を恨み、深い嫉妬を内に抱いている世間並みの妻に見られているほかはなかった。

第二段 薫、浮舟を宇治に放置

1.2.1
かの(ひと)、たとしへなくのどかに(おぼ)しおきてて、()(どほ)なりと(おも)ふらむ」と、心苦(こころぐる)しうのみ(おも)ひやりたまひながら、所狭(ところせ)()のほどを、さるべきついでなくて、かやしく(かよ)ひたまふべき(みち)ならねば、(かみ)のいさむるよりもわりなし
されど、
あの方は、たとえようもなくのんびりと構えていらっしゃって、「待ち遠しいと思っているだろう」と、お気の毒にはお思いやりになりながら、窮屈な身の上を、適当な機会がなくては、たやすくお通いになれる道ではないので、神が禁じている以上に困っている。
けれども、
(かおる)の大将は恋人を信じて()うことにあせりもせず、待ち遠に思うであろうと心苦しく思いやりながらも、行動の人目につきやすい大官になっている身では、何かの名目ができなくては行きにくい宇治の道であった。「恋しくば来ても見よかし千早振る神のいさむる道ならなくに」と抽象的に言われたその道よりもこの道のほうが困難であると言わねばならない。けれども
1.2.2
(いま)いとよくもてなさむ、とす
山里(やまざと)(なぐさ)めと(おも)ひおきてし(こころ)あるを、すこし日数(ひかず)()ぬべきことども(つく)()でてのどやかに()きても()む。
さて、しばしは(ひと)()るまじき()(どころ)して、やうやうさる(かた)に、かの(こころ)ものどめおき、わがためにも、(ひと)のもどきあるまじく、なのめにてこそよからめ。
「いずれはたいそうよく扱ってやろう、と思う。
山里の慰めと思っていた考えがあるが、少し日数のかかりそうな事柄を作り出して、のんびりと出かけて行って逢おう。
そうして、しばらくの間は誰も知らない住処で、だんだんとそのようなことで、あの女の気持ちも馴れさせて、自分にとっても、他人から非難されないように、目立たぬようにするのがよいだろう。
そのうちに自分は十分にその人をいたわる方法を考えている、宇治へ行って見る時に覚える憂鬱(ゆううつ)を消すためにその人を置いておきたいと思ったのが最初の考えなのであるから、しばらく滞留していてよい口実を作り、近いうちにゆるりとした気持ちで行って()おう、そうして当分は隠れた妻としておき、彼女の心にも不安を感じさせないようにしてやり、自分のために非難の声が高く起こらないふうにして妻であることを自然に世間へ認めさせるのがよいであろう、
1.2.3
にはかに、何人(なにびと)ぞ、いつより、など()きとがめられむも、もの(さわ)がしく、(はじ)めの(こころ)(たが)ふべし
また、(みや)御方(おほんかた)()(おぼ)さむことももとの(ところ)際々(きはぎは)しう()(はな)れ、(むかし)(わす)(がほ)ならむ、いと本意(ほい)なし」
急に迎えて、誰だろう、いつからだろう、などと取り沙汰されるのも、何となく煩わしく、当初の考えと違ってこよう。
また、宮の御方がお聞きになってご心配になることも、もとの場所をきっぱりと離れて連れ出し、昔を忘れてしまったような顔なのも、まことに不本意だ」
にわかにだれの娘か、いつからというようなことを私議されるのも煩わしく初めの精神と違ってくる、また二条の院の女王(にょおう)に聞かれても、思い出の山荘から、身代わりの人さえ得ればよかったのであるというようにつれて出て、昔をもう念頭に置いていないように見えるのも不本意である
1.2.4
など(おぼ)(しづ)むるも、(れい)の、のどけさ()ぎたる(こころ)からなるべし
(わた)すべきところ(おぼ)しまうけて(しの)びてぞ(つく)らせたまひける。
などと冷静に考えなさるのも、例によって、のんびりと構え過ぎた性分からであろう。
引っ越しさせる所をお考えおいて、こっそりと造らせなさるのであった。
と思い、恋しい心をおさえているのも、例の恋に呑気(のんき)な性質だったからであろう。しかし京へ迎える家は用意して、忍んで作らせていた。

第三段 薫と中君の仲

1.3.1
すこしいとまなきやうにもなりたまひにたれど、(みや)御方(おほんかた)には、なほたゆみなく心寄(こころよ)(つか)うまつりたまふこと(おな)じやうなり。
()たてまつる(ひと)もあやしきまで(おも)へれど、()(なか)をやうやう(おぼ)()(ひと)のありさまを見聞(みき)きたまふままに、「これこそはまことに(むかし)(わす)れぬ心長(こころなが)さの、名残(なごり)さへ(あさ)からぬためしなめれ」と、あはれも(すく)なからず。
少し暇がないようにおなりになったが、宮の御方に対しては、やはりたゆまずお心寄せ申し上げなさることは以前と同じようである。
拝見する女房も不思議なまでに思っているが、世の中をだんだんとお分かりになってきて、他人の様子を見たり聞いたりなさるにつけて、「この人こそは本当に昔を忘れない心長さが、引き続いて浅くない例のようだ」と、感慨も少なくない。
少し心の暇が少なくなったようであるがなお二条の院の夫人に尽くすことは怠らなかった。これを知っている女房などは不思議にも思うのであったが、世の中というものがようやくわかってきた中の君にはこうした薫の誠意が認識できるようになり、これこそ恋した人を死後までも長く忘れない深い愛の例にもすべき志であると哀れを覚えさせられることも少なくないのであった。
1.3.2
ねびまさりたまふままに人柄(ひとがら)もおぼえも、さま(こと)にものしたまへば、(みや)御心(みこころ)のあまり(たの)もしげなき時々(ときどき)は、
成人なさっていくにつれて、人柄も評判も、格別でいらっしゃるので、宮のお気持ちがあまりに頼りなさそうな時には、
世の信望を得ていることも多くて、官位の昇進の目ざましい薫であったから、宮があまりにも真心のない態度をお見せになったりする時には、
1.3.3 「思いもかけなかった運命であったわ。
亡き姉君がお考えおいたとおりでもなく、このように悩みの多い結婚をしてしまったことよ」
不運な自分である、姉君の心にきめたままにはなっていないで、陰で多くの煩悶(はんもん)をせねばならぬ妻になっている
1.3.4 とお思いになる時々も多かった。
けれども、
と、こんなことも思われた。けれども逢って話などをすることはもうあまりできないようになっていた。
1.3.5
年月(としつき)もあまり(むかし)(へだ)てゆき、うちうちの御心(みこころ)(ふか)()らぬ(ひと)なほなほしきただ(うど)こそさばかりのゆかり(たづ)ねたる(むつ)びをも(わす)れぬに、つきづきしけれ、なかなか、かう(かぎ)りあるほどに、(れい)(たが)ひたるありさまも、つつましければ、(みや)()えず(おぼ)(うたが)ひたるも、いよいよ(くる)しう(おぼ)(はばか)りたまひつつおのづから(うと)きさまになりゆくをさりとても()えず、(おな)(こころ)()はりたまはぬなりけり
年月もあまりに昔から遠ざかってきて、内々のご事情を深く知らない女房は、普通の身分の人なら、これくらいの縁者を求めて親交を忘れないのも、ふさわしいが、かえって、このように高い身分では、一般と違った交際も、気がひけるので、宮が絶えずお疑いになっているのも、ますますつらくご遠慮なさりながら、自然と疎遠になってゆくのを、それでも絶えず、同じ気持ちがお変わりにならないのであった。
宇治時代と今とはあまりにも年月が隔たり過ぎ、どんな情誼(じょうぎ)を結んでいる二人であるとも知らぬ人は、身分のない人たちの間では世話になった、世話をしたというくらいのことでいつまでも親しみ合っていて、それが穏当に見える、こうした高い貴族の中では例のないことであるなどと誹謗(ひぼう)するかもしれぬという遠慮もあり、宮が続いてこの交情に疑いを持っておいでになるのが今になっていよいよ煩わしく思われもする心から、自然うとうとしいふうを見せていくようになったのであるが、薫のほうではそれにもかかわらず、好意を持ち続けた。
1.3.6
(みや)も、あだなる御本性(ごほんじゃう)こそ、()まうきふしも()じれ、若君(わかぎみ)のいとうつくしうおよすけたまふままに、(ほか)にはかかる(ひと)()()まじきにや」と、やむごとなきものに(おぼ)して、うちとけなつかしき(かた)には、(ひと)にまさりてもてなしたまへば、ありしよりはすこしもの(おも)(しづ)まりて()ぐしたまふ。
宮も、浮気っぽいご性質は、厭わしいところも混じっているが、若君がとてもかわいらしく成長なさってゆくにつれて、「他にはこのような子も生まれないのではないかしら」と、格別大事にお思いになって、気のおけぬ親しい夫人としては、正室にまさってご待遇なさるので、以前よりは少し悩み事も落ち着いて過ごしていらっしゃる。
宮も多情な御性質がわざわいして情けなく夫人をお思わせになるようなことも時々はまじるが若君がかわいく成長してくるのを御覧になっては、他の人から自分の子は生まれないかもしれぬと思召し、夫人を尊重あそばすようになり、隔てのない妻としてはだれよりもお愛しになるため、以前よりは少し物思いをすることの少ない日を中の君は送っていた。

第四段 正月、宇治から京の中君への文

1.4.1
睦月(むつき)朔日過(ついたちす)ぎたるころ(わた)りたまひて若君(わかぎみ)(とし)まさりたまへるをもて(あそ)びうつくしみたまふ(ひる)(かた)(ちひ)さき(わらは)(みどり)薄様(うすやう)なる(つつ)(ぶみ)(おほ)きやかなるに、(ちひ)さき鬚籠(ひげこ)小松(こまつ)につけたる、また、すくすくしき立文(たてぶみ)とり()へて、(あう)なく(はし)(まゐ)る。
女君(をんなぎみ)たてまつれば、(みや)
正月の上旬が過ぎたころにお越しになって、若君が一つ年齢をおとりになったのを、相手にしてかわいがっていらっしゃる昼ころ、小さい童女が、緑の薄様の包紙で大きいのに、小さい鬚籠を小松に結びつけてあるのや、また、きちんとした立文とを持って、無邪気に走って参る。
女君に差し上げると、宮は、
正月の元日の過ぎたあとで宮は二条の院へ来ておいでになって、(とし)の一つ加わった若君をそばへ置き愛しておいでになった。(ひる)ごろであるが、小さい童女が緑の薄様(うすよう)の手紙の大きい形のと、小さい髭籠(ひげかご)を小松につけたのと、また別の立文(たてぶみ)の手紙とを持ち、むぞうさに走って来て夫人の前へそれを置いた。宮が、
1.4.2 「それは、どこからのですか」
「それはどこからよこしたのか」
1.4.3
とのたまふ。
とおっしゃる。
とお言いになった。
1.4.4
宇治(うぢ)より大輔(たいふ)のおとどにとて、もてわづらひはべりつるを(れい)御前(おまへ)にてぞ御覧(ごらん)ぜむとて、()りはべりぬる」
「宇治から大輔のおとどにと言ったが、いないので困っていましたのを、いつものように、御前様が御覧になるだろうと思って、受け取りました」
「宇治から大輔(たゆう)さんの所に差し上げたいと言ってまいりました使いが、うろうろとしているのを見たものですから、いつものように大輔さんがまた奥様へお目にかけるお手紙だろうと思いまして、私、受け取ってまいりました」
1.4.5
()ふも、いとあわたたしきけしきにて、
と言うのも、とても落ち着きのないふうなので、
せかせかと早口で申した。
1.4.6
この()(かね)(つく)りて(いろ)どりたる()なりけり。
(まつ)もいとよう()(つく)りたる(えだ)ぞとよ」
「この籠は、金属で作って色を付けた籠でしたのだわ。
松もとてもよく本物に似せて作ってある枝ですよ」
「この籠は金の(はく)で塗った籠でございますね、松もほんとうのものらしくできた枝ですわ」
1.4.7
と、()みて()(つづ)くれば、(みや)(わら)ひたまひて、
と、笑顔で言い続けるので、宮もにっこりなさって、
うれしそうな顔で言うのを御覧になって、宮もお笑いになり、
1.4.8 「それでは、わたしも鑑賞しようかね」
「では私もどんなによくできているかを見よう」
1.4.9
()すを、女君(をんなぎみ)いとかたはらいたく(おぼ)して、
とお取り寄せになると、女君は、とても見ていられない気持ちがなさって、
と言い、受け取ろうとあそばされたのを、夫人は困ったことと思い、
1.4.10 「手紙は、大輔のもとにやりなさい」
「手紙だけは大輔の所へ持ってお行き」
1.4.11
とのたまふ。
御顔(おほんかほ)(あか)みたれば、(みや)大将(だいしゃう)のさりげなくしなしたる(ふみ)にや、宇治(うぢ)()のりもつきづきし」と(おぼ)()りて、この(ふみ)()りたまひつ。
とおっしゃる。
お顔が赤くなっているので、宮は、「大将がさりげなくよこした手紙であろうか、宇治からと名乗るのもいかにもらしい」とお思いつきになって、この手紙をお取りになった。
こういう顔が少し赤くなっていたのを宮はお見とがめになり、大将がさりげなくして送って来た(ふみ)なのであろうか、宇治と言わせて来たのもその人の考えつきそうなことであると、こんな想像をあそばして、手紙を童女から御自身の手へお取りになった。
1.4.12
さすがに、それならむ(とき)」と(おぼ)すに、いとまばゆければ、
とはいえ、「もし本当にそれであったら」とお思いになると、たいそう気がひけて、
さすがにそれであったならどんなことになろう、夫人はどんなに恥じて苦しがるであろうとお思いになると躊躇(ちゅうちょ)もされるのであって、
1.4.13 「開けてみますよ。
お恨みになりますか」
「あけて私が読みますよ。恨みますか、あなたは」
1.4.14
とのたまへば、
とおっしゃると、
とお言いになると、
1.4.15
見苦(みぐる)しう
(なに)かは、その(をんな)どちのなかに()(かよ)はしたらむうちとけ(ぶみ)をば、御覧(ごらん)ぜむ」
「みっともありません。
どうして、女房どうしの間でやりとりしている気を許した手紙を、御覧になるのでしょう」
「そんなもの、女房どうしで書き合っています平凡な手紙などを御覧になってもおもしろくも何ともないでしょう」
1.4.16
とのたまふが、(さわ)がぬけしきなれば
とおしゃるが、あわてない様子なので、
夫人は騒がぬふうであった。
1.4.17 「それでは、見ますよ。
女性の手紙とは、どんなものかな」
「じゃあ見よう。女仲間の手紙にはどんなことが書かれてあるものだろう」
1.4.18
とて()けたまへれば、いと(わか)やかなる()にて
と言ってお開けになると、とても若々しい筆跡で、
とお言いになり、あけてお見になると、若々しい字で、
1.4.19 「ご無沙汰のまま、年も暮れてしまいました。
山里の憂鬱さは、峰の霞も絶え間がなくて」
その後お目にかかることもできませんままで年も暮れたのでございました。山里は寂しゅうございます。峰から(もや)の離れることもありませんで。
1.4.20
とて、(はし)に、
とあって、
などとある奥に、
1.4.21 「これも若宮様の御前に。
不出来でございますが」
これを若君に差し上げます。つまらぬものでございますが。
1.4.22
()きたり。
と書いてある。
と書いてある。

第五段 匂宮、手紙の主を浮舟と察知す

1.5.1
ことにらうらうじきふしも()えねど、おぼえなき御目立(おほんめた)てて、この立文(たてぶみ)()たまへば、げに(をんな)()にて、
特に才気があるようには見えないが、心当たりがないので、お目を凝らして、この立文を御覧になると、なるほど女性の筆跡で、
ことに貴女らしいふうも見えぬ手紙ではあるが、心当たりのおありにならぬために、また立文のほうを御覧になると、いかにも女房らしい字で、
1.5.2
年改(としあらた)まりて(なに)ごとかさぶらふ。
御私(おほんわたくし)にもいかにたのしき(おほん)よろこび(おほ)くはべらむ。
「年が改まりましたが、いかがお過しでしょうか。
あなた様ご自身におかれましても、どんなに楽しくお喜びが多いことでございましょう。
新年になりまして、そちら様はいかがでいらっしゃいますか。御主人様、また皆様がたにもお喜びの多い春かと存じ上げます。
1.5.3
ここには、いとめでたき御住(おほんす)まひの心深(こころふか)さを、なほ、ふさはしからず()たてまつる。
かくてのみ、つくづくと(なが)めさせたまふよりは時々(ときどき)(わた)(まゐ)らせたまひて御心(みこころ)(なぐさ)めさせたまへ、(おも)ひはべるに、つつましく(おそ)ろしきものに(おぼ)しとりてなむ、もの()きことに(なげ)かせたまふめる。
こちらでは、とても結構なお住まいで行き届いておりますが、やはり、不似合いに存じております。
こうしてばかり、つくづくと物思いにお耽りあそばすより他には、時々そちらにお伺いなさって、お気持ちをお慰めあそばしませ、と存じておりますが、気がねして恐ろしい所とお思いになって、嫌なこととお嘆きになっているようです。
ここはごりっぱな風流なお(やしき)ですが、お若い方にふさわしい所とは思われません。つれづれな日ばかりをお送りになりますよりは、時々そちら様へお上がりになって、お気をお晴らしになるのがよろしいと存じ上げるのですが、あのめんどうなことの起こりました日のことで恐ろしいように懲りておいでになりまして、あいかわらずめいったふうでおいでになります。
1.5.4
若宮(わかみや)御前(おまへ)にとて、卯槌(うづち)まゐらせたまふ。
(おほ)御前(おまへ)御覧(ごらん)ぜざらむほどに、御覧(ごらん)ぜさせたまへ、とてなむ」
若宮の御前にと思って、卯槌をお贈り申し上げなさいます。
ご主人様が御覧にならない時に御覧下さいませ、とのことでございます」
若君様へこちらから卯槌(うづち)を差し上げられます。そまつな品ですから奥様の御覧にならぬ時に差し上げてくださいと仰せになりました。
1.5.5
と、こまごまと言忌(こといみ)もえしあへずもの(なげ)かしげなるさまのかたくなしげなるも、うち(かへ)しうち(かへ)し、あやしと御覧(ごらん)じて、
と、こまごまと言忌もできずに、もの悲しい様子が見苦しいのにつけても、繰り返し繰り返し、変だと御覧になって、
こまごまと、年の初めの縁起も忘れて、主人のことを哀訴している、かたくならしい心も見える手紙を、宮は何度となく読んで御覧になり、怪しく思召して、
1.5.6 「今はもう、おっしゃいなさい。
誰からのですか」
「もう言ってもいいでしょう、だれの手紙ですか」
1.5.7
とのたまへば、
とお尋ねになると、
と夫人へお言いになった。
1.5.8
(むかし)、かの山里(やまざと)ありける(ひと)(むすめ)の、さるやうありて、このころかしこにあるとなむ()きはべりし」
「昔、あの山里に仕えておりました女の娘が、ある事情があって、最近あちらにいると聞きました」
「以前あの山荘にいました人の娘が、訳があってこのごろあそこにいるということを聞いていました。それでしょう」
1.5.9
()こえたまへば、おしなべて(つか)うまつるとは()えぬ文書(ふみが)きを心得(こころえ)たまふに、かのわづらはしきことあるに(おぼ)()はせつ。
と申し上げなさると、普通にお仕えする女とは見えない書き方を心得ていらっしゃるので、あの厄介なことがあると書いてあったのでお察しになった。
この答えをお聞きになった宮は、普通の二人の女房が同じ階級の者として一人のことの言われてある文章でもないし、めんどうが起こったと書いてあるのは、あの時のことをさして言うに違いないとお悟りになった。
1.5.10
卯槌(うづち)をかしう、つれづれなりける(ひと)のしわざと()えたり。
またぶりに、山橘作(やまたちばなつく)りて、(つらぬ)()へたる(えだ)に、
卯槌が見事な出来で、所在ない人が作った物だと見えた。
松の二股になったところに、山橘を作って、それを貫き通した枝に、
卯槌が美しい細工で作られてあるのは、閑暇(ひま)の多い人の仕事と見えた。またぶりに山橘(やまたちばな)の実を作ってならせてあるのへ付けてあったのは、
1.5.11 「まだ古木にはなっておりませんが、
若君様のご成長を心から深くご期待申
まだふりぬものにはあれど君がため
深き心にまつとしらなん
1.5.12
と、ことなることなきを、かの(おも)ひわたる(ひと)のにや」と(おぼ)()りぬるに、御目(おほんめ)とまりて、
と、特にたいした歌でないなので、「あのずっと思い続けている女のか」とお思いになると、お目が止まって、
こんな平凡な歌であったが、常に心にかかっている人の作であるかもしれぬということで興味をお覚えになった。
1.5.13
(かへ)(ごと)したまへ
(なさ)けなし。
(かく)いたまふべき(ふみ)にもあらざめるを。
など、()けしきの()しき。
まかりなむよ
「お返事をなさい。
返事しなくては情愛がない。
隠さなければならない手紙でもあるまいに。
どうして、ご機嫌が悪いのですか。
去りましょうよ」
「返事を書いてあげなさい。無情じゃありませんか。隠す必要もない手紙を私が見ただけだのに、なぜ機嫌(きげん)を悪くしたのですか、では私はあちらへ行こう」
1.5.14
とて、()ちたまひぬ。
女君(をんなぎみ)少将(せうしゃう)などして
と言って、お立ちになった。
女君は、少将などに向かって、
こんな言葉を残して宮は夫人の居間から出てお行きになった。中の君は少将などに、
1.5.15
いとほしくもありつるかな
(をさな)(ひと)()りつらむを、(ひと)いかで()ざりつるぞ」
「お気の毒なことになってしまいましたね。
幼い童女が受け取ったのを、他の女房はどうして気づかなかったのでしょう」
「宮様に見られてしまって、あの人がかわいそうだったね。小さい子が使いから受け取ったのだろうけれど、だれも気がつかなかったのかねえ」
1.5.16
など、(しの)びてのたまふ。
などと、小声でおっしゃる。
ひそかにこんなことを言っていた。
1.5.17
()たまへましかばいかでかは、(まゐ)らせまし。
すべて、この()心地(ここち)なうさし()ぐしてはべり。
()先見(さきみ)えて、(ひと)おほどかなるこそをかしけれ」
「拝見しましたら、どうして、こちらへお届けしたりしましょうか。
ぜんたい、
この子は思慮が浅く出過ぎています。将来性がうかがえて、女の子は、おっとり
「私どもが気がついておりましたなら、どうして持たせて差し上げなどするものでございますか、全体この子はあさはかに出過ぎる子でございます。将来のことは子供の時を見てよく想像されるものですが、おっとりとしています子には見込みがございますけれど」
1.5.18
など(にく)めば、
などと叱るので、
などと憎むのを見て、
1.5.19 「お静かに。
幼い子を、叱りなさいますな」
「まあそんなに言わないでね。子供に腹をたてるものではない」
1.5.20
とのたまふ。
去年(こぞ)(ふゆ)(ひと)(まゐ)らせたる(わらは)の、(かほ)はいとうつくしかりければ、(みや)もいとらうたくしたまふなりけり。
とおっしゃる。
去年の冬、ある人が奉公させた童女で、顔がとてもかわいらしかったので、宮もとてもかわいがっていらっしゃるのだった。
と夫人は制した。去年の冬にある人から童女として奉公させた子であるが、顔のきれいなために宮もかわいがっておいでになった。

第六段 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を知る

1.6.1
わが御方(おほんかた)におはしまして、
ご自分のお部屋にお帰りになって、
御自身の居間のほうへおいでになった宮は、
1.6.2
あやしうもあるかな
宇治(うぢ)大将(だいしゃう)(かよ)ひたまふことは、(とし)ごろ()えずと()くなかにも、(しの)びて夜泊(よるとま)りたまふ(とき)もあり(ひと)()ひしを、いとあまりなる(ひと)形見(かたみ)とて、さるまじき(ところ)旅寝(たびね)したまふらむこと、(おも)ひつるは、かやうの人隠(ひとかく)()きたまへるなるべし」
「不思議なことであったな。
宇治に大将がお通いになることは、何年も続いていると聞いていた中でも、こっそりと夜お泊まりになる時もある、と人が言ったが、実にあまりな故人の思い出の土地だからとて、とんでもない所に旅寝なさるのだろうこと、と思ったのは、あのような女を隠して置きなさったからなのだろう」
不思議なことでないか、あれからのちも宇治へ行くことを大将はやめないと聞いていたが、そっと泊まる夜もあると人が言った時に、深い恋をした人の面影の残る山荘だからといっても、ああした所に宿泊までするのかと思ったのは、こうした新しい情人を隠していたためなのであろう
1.6.3
(おぼ)()ることもありて、御書(おほんふみ)のことにつけて使(つか)ひたまふ大内記(だいないき)なる(ひと)の、かの殿(との)(した)しきたよりあるを(おぼ)()でて、御前(おまへ)()す。
(まゐ)れり。
と合点なさることもあって、ご学問のことでお使いになる大内記である者で、あちらの邸に親しい縁者がいる者を思い出しなさって、御前にお召しになる。
参上した。
と、思い合わされることもおありになって、学問のほうの用で自邸でもお使いになる大内記が、薫の家の人によるべのあることをお思い出しになり、居間へお呼びになった。
1.6.4
韻塞(ゐんふたぎ)すべきに(しふ)ども()()でて、こなたなる厨子(づし)()むべきこと」
「韻塞をしたいのだが、詩集などを選び出して、こちらにある厨子に積むように」
韻塞(いんふたぎ)をされるはずになっていたから、詩集のしかるべきものを選んでここの(たな)へ積んでおくこと
1.6.5
などのたまはせて、
などとお命じになって、
などをお命じになったあとで、
1.6.6
右大将(うだいしゃう)宇治(うぢ)いますること、なほ()()てずや。
(てら)をこそ、いとかしこく(つく)りたなれ。
いかでか()るべき」
「右大将が宇治へ行かれることは、相変わらず続いていますか。
寺を、とても立派に造ったと言うね。
何とか見られないかね」
「右大将が宇治へ行かれることは今でも同じかね。寺をりっぱに作ったそうだね。一度見たいものだ」
1.6.7
とのたまへば、
とおっしゃると、
こんな話をおしかけになった。
1.6.8
(てら)いとかしこくいかめしく(つく)られて、不断(ふだん)三昧堂(さんまいだう)など、いと(たふと)くおきてられたり、となむ()きたまふる。
(かよ)ひたまふことは、去年(こぞ)(あき)ごろよりは、ありしよりも、しばしばものしたまふなり。
「寺をたいそう立派に、荘厳にお造りになって、不断の三昧堂など、大変に尊くお命じになった、と聞いております。
お通いになることは、去年の秋ごろからは、以前よりも、頻繁に行かれると言います。
「たいへんなものでございます。不断の三昧(さんまい)堂などもけっこうな設計でお作らせになったと申すことを聞きました。宇治へおいでになりますことは昨年の秋ごろから以前よりもはげしくなったようでございます。
1.6.9
(しも)(ひと)びとの(しの)びて(まう)ししは、(をんな)をなむ(かく)()ゑさせたまへる、けしうはあらず(おぼ)(ひと)なるべし。
あのわたりに(らう)じたまふ所々(ところどころ)(ひと)皆仰(みなおほ)せにて(まゐ)(つか)うまつる。
宿直(とのゐ)にさし()てなどしつつ、(きゃう)よりもいと(しの)びて、さるべきことなど()はせたまふ。
いかなる(さいは)(びと)の、さすがに心細(こころぼそ)くてゐたまへるならむ』となむ、ただこの師走(しはす)のころほひ(まう)す、()きたまへし
下々の人びとがこっそりと申した話では、『女を隠し据えていらっしゃり、憎からずお思いになっている女なのでしょう。
あの近辺に所領なさる所々の人が、皆ご命令に従ってお仕えしております。
宿直を担当させたりしては、京からもたいそうこっそりと、しかるべき事などお尋ねになります。
どのような幸い人で、幸せながらも心細くおいでなのでしょう』と、ちょうどこの十二月のころに申していた、とお聞き致しました」
下の者のそっと申しておりますのを聞きますと、愛人を隠しておいておありになるようでございます。かなり大事にしていられる人らしゅうございます。大将のあのへんのあちらこちらの荘園の者が皆仰せで山荘の御用を勤めております。代る代る宿直(とのい)をおさせになったりもするようです。京のお(やしき)からも、そっと目だたせずに入り用な物品を山荘へ送らせておいでになります。どんな幸運の人が、しかしながら心細い山荘住まいをさせられておいでになるのだろうと、この話を十二月に聞いたと私に話した者は言いましてございます」
1.6.10
()こゆ。
と申し上げる。
と大内記は言った。

第七段 匂宮、薫の噂を聞き知り喜ぶ

1.7.1
いとうれしくも()きつるかな」と(おも)ほして、
「とても嬉しいことを聞いたなあ」とお思いになって、
すべてがこれで明らかになったと宮はお喜びになった。
1.7.2
たしかにその(ひと)とは()はずや。
かしこにもとよりある(あま)ぞ、(とぶ)らひたまふと()きし」
「はっきりと名前を、言わなかったか。
あちらに以前から住んでいた尼を、お訪ねになると聞いていたが」
「どういう人と言っていなかったかね、あの山荘にもとからいる尼のめんどうを大将は見てやっていると聞いたが、そのまちがいではないだろうね」
1.7.3
(あま)は、(らう)になむ()みはべるなる。
この(ひと)今建(いまた)てられたるになむ、きたなげなき女房(にょうばう)などもあまたして、口惜(くちを)しからぬけはひにてゐてはべる」
「尼は、渡廊に住んでおりますと言います。
この女は、今度建てられた所に、こぎれいな女房なども大勢して、結構な具合で住んでおります」
「尼さんは廊の座敷に住んでおります。その方は今度建ちました御殿のほうに、きれいな女房などもたくさん使って、品よく住んでおいでになるようでございます」
1.7.4
()こゆ。
と申し上げる。

1.7.5
をかしきことかな
何心(なにごころ)ありて、いかなる(ひと)をかは、さて()ゑたまひつらむ。
なほ、いとけしきありて、なべての(ひと)()御心(みこころ)なりや。
「興味深いことだね。
どのような考えがあって、どのような女を、そのように据えていらしゃるのだろうか。
やはり、とても好色なところがあって、普通の人と似ていないお心なのだろうか。
「おもしろい話だね、どういうつもりで、どこの婦人をそうして隠しているのだろう。なんといってもあの人のすることは特色があるね、
1.7.6
(みぎ)大臣(おとど)など、この(ひと)あまりに道心(だうしん)(すす)みて、山寺(やまでら)に、(よる)さへともすれば(とま)りたまふなる、軽々(かろがろ)し』ともどきたまふと()きしを、げに、などかさしも(ほとけ)(みち)には(しの)びありくらむ。
なほ、かの故里(ふるさと)(こころ)をとどめたると()きし、かかることこそはありけれ。
右大臣などが、『この人があまりに仏道に進んで、山寺に、夜までややもすればお泊まりになるというが、軽々しい行為だ』と非難なさると聞いたが、なるほど、どうしてそんなにも仏道にこっそり行かれるのだろう。
やはり、あの思い出の地に心を惹かれていると聞いたが、このようなわけがあったのだ。
左大臣などはあの人があまりに宗教に傾き過ぎて、山の寺などに夜さえも泊まることをするのは、身分柄軽率な(そし)りを受けることだと非難をしておられると聞いたが、実際は信仰のための微行などというものはできるものではない、やはり昔の恋人の家であるから、それに心が()かれて行くのだと私に言う者もあった。それがまた当を得た解釈ではなかったのだね、愛人を隠してあるなどとは驚くね。君はどう思う。
1.7.7
いづら(ひと)よりはまめなるとさかしがる(ひと)しも、ことに(ひと)(おも)ひいたるまじき(くま)ある(かま)へよ」
どうだ、誰よりも真面目だと分別顔をする人の方がかえって、ことさら誰も考えつかないようなところがあるものだよ」
だれよりも自分はまじめな人間であると標榜(ひょうぼう)している人が、そんな常識で想像もできぬようなことを仕組んで愛人をそっと持つなどということは」
1.7.8
とのたまひて、いとをかしと(おぼ)いたり。
この(ひと)は、かの殿(との)にいと(むつ)ましく(つか)うまつる家司(けいし)婿(むこ)になむありければ、(かく)したまふことも()くなるべし
とおっしゃって、たいそうおもしろいとお思いになった。
この人は、あちらの邸でたいそう親しくお仕えしている家司の婿であったので、隠していらっしゃることも聞いたのであろう。
と宮はおかしそうにお言いになった。大内記は右大将の家に古くから使っている家司(けいし)の婿であったから秘密な話も耳にはいるのであろう。
1.7.9
御心(みこころ)(うち)には、いかにして、この(ひと)()(ひと)かとも見定(みさだ)めむ。
かの(きみ)さばかりにて()ゑたるは、なべてのよろし(びと)にはあらじ。
このわたりにはいかで(うと)からぬにかはあらむ。
(こころ)()はして(かく)したまへりけるも、いとねたう」おぼゆ。
ご心中では、「何とかして、この女を、前に会ったことのある女かどうか確かめたい。
あの君が、あのように据えているのは、平凡で普通の女ではあるまい。
こちらでは、どうして親しくしているのだろう。
しめし合わせて隠していらっしゃったというのも、とても悔しい」と思われる。
宮のお心の中では、どんな策を用いてその(かおる)の愛人をあの夕べの女であるか、そうでないかと見きわめたらいいであろう、あの大将がそれほどに大事にしておく人はひととおりな美人ではあるまい、またその女が自分の妻とどういう関係で親しいのであろうとお思われになり、薫と心を合わせて夫人があくまで隠そうとしていることがねたましく、いささか不快なことにもお思われになった。

第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む


第一段 匂宮、宇治行きを大内記に相談

2.1.1
ただそのことを、このころは(おぼ)ししみたり。
賭弓(のりゆみ)内宴(ないえん)など()ぐして(こころ)のどかなるに、司召(つかさめし)など()ひて、(ひと)心尽(こころつ)くすめる(かた)は、(なに)とも(おぼ)さねば宇治(うぢ)(しの)びておはしまさむことをのみ(おぼ)しめぐらす。
この内記(ないき)は、(のぞ)むことありて、夜昼(よるひる)いかで御心(みこころ)()らむと(おも)ふころ、(れい)よりはなつかしう()使(つか)ひて、
ただそのことを、最近は考え込んでいらっしゃった。
賭弓や、内宴などが過ぎて、のんびりとした時に、司召などといって、皆が夢中になっていることは、何ともお思いにならないで、宇治へこっそりとお出かけになることばかりをご思案なさる。
この大内記は、期待するところがあって、昼夜、何とかお気に入ってもらおうと思っているとき、いつもよりは親しく召し使って、
それ以来兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は宇治の女のことばかりがお思われになった。宮中の賭弓(のりゆみ)、内宴などが終わるとおひまになって、一月の除目(じもく)などという普通人の夢中になって奔走してまわることには何のかかわりもお持ちにならないのであるから、微行で宇治へ行ってみることをどう実現さすべきであるかとばかり腐心しておいでになった。大内記は除目に得たい官があってどうかして宮の御歓心を得ておこうと夜昼心を使っているころであったのを、宮はまた好意をお見せになって、おそばの用に始終お使いになり、ある時、
2.1.2 「たいへん難しいことではあるが、わたしの言うことを、何とかしてくれないか」
「どんな困難なことでも私の言うことに骨を折ってくれるだろうか」
2.1.3
などのたまふ。
かしこまりてさぶらふ
などとおっしゃる。
恐縮して承る。
とお言いだしになった。内記はかしこまって頭を下げていた。
2.1.4
いと便(びん)なきことなれどかの宇治(うぢ)()むらむ(ひと)は、はやうほのかに()(ひと)の、行方(ゆくへ)()らずなりにしが、大将(だいしゃう)(たづ)()られにける、()きあはすることこそあれ
たしかには()るべきやうもなきを、ただ、ものより(のぞ)きなどしてそれかあらぬかと見定(みさだ)めむ、となむ(おも)ふ。
いささか(ひと)()るまじき(かま)へは、いかがすべき」
「たいそう不都合なことだが、あの宇治に住んでいるらしい人は、早くにちらっと会った女で、行く方が分からなくなったのが、大将に捜し出された人と、思い当たるところがあるのだ。
はっきりとは知る手立てもないが、ただ、物の隙間から覗き見して、その女か違うかと確かめたい、と思う。
まったく誰にも知られない方法は、どうしたらよいだろうか」
「この間の話の大将の宇治に置いてある人ね、それは以前に私の情人だった女で、ある時から行くえ不明になっているのが、大将に愛されてどこかへ囲われているという話をこの間聞いてね、確かにその人かどうかをほかに分明にする手段はないから、あそこへ行って、ちょっとした隙間(すきま)からのぞくようにして見定めたいと思うのだ。それを少しも人に()どらせないでする方法はどういうふうにすればいいだろう」
2.1.5
とのたまへば、あな、わづらはし」と(おも)へど、
とおっしゃるので、「何と、やっかいな」と思うが、
宮はこうお言いになるのであった。めんどうの多い仰せであるとは思うのであるが、
2.1.6
おはしまさむことはいと(あら)山越(やまご)えになむはべれど、ことにほど(とほ)くはさぶらはずなむ。
(ゆふ)方出(かたい)でさせおはしまして、亥子(ゐね)(とき)にはおはしまし()きなむ。
さて、(あかつき)にこそは(かへ)らせたまはめ。
(ひと)()りはべらむことは、ただ御供(おほんとも)にさぶらひはべらむこそは
それも、(ふか)(こころ)はいかでか()りはべらむ」
「お出かけになることは、たいへん険しい山越えでございますが、格別遠くはございません。
夕方お出かけあそばして、亥子の刻にはお着きになるでしょう。
そうして、早朝にはお帰りあそばせましょう。
誰か気づくとすれば、ただお供する者だけでございしょう。
それも、深い事情はどうして分かりましょう」
「宇治へおいでになりますのには荒い山越しの(みち)を行かねばなりませんが、距離にいたせばさほど遠いわけではございません。夕方お出ましになれば夜の十時ごろにはお着きになることができましょう。そして夜明けにお帰りになればよろしいでしょう。人に秘密を悟られますのは供の口から()れるのが多いのでございますが、それも侍たちの性質などはちょっとわかりかねますから、人選がむずかしいのでございます」
2.1.7
(まう)す。
と申し上げる。
と申した。
2.1.8
さかし。
(むかし)一度二度(ひとたびふたたび)(かよ)ひし(みち)なり。
軽々(かろがろ)しきもどき()ひぬべきが、ものの()こえのつつましきなり」
「そうだ。
昔も一、二度は、通ったことのある道だ。
軽々しいと非難されるのが、その評判が気になるのだ」
「そうだ。宇治へは昔も一、二度行った経験がある。軽率なことをすると言われることで遠慮がされるのだよ」
2.1.9
とて、(かへ)(がへ)すあるまじきことに、わが御心(みこころ)にも(おぼ)せど、かうまでうち()でたまへれば、(おも)ひとどめたまはず。
と言って、繰り返しとんでもないことだと、自分自身反省なさるが、このようにまでお口に出されたので、お思い止めなさることはできない。
とお言いになりながら返す返すもしてよい行動ではないと自身のお心をおさえようとされたのであるが、もうこんなことまで言っておしまいになったあとではおやめになることができなくなり、

第二段 宮、馬で宇治へ赴く

2.2.1
御供(おほんとも)に、(むかし)もかしこの案内知(あないし)れりし(もの)()三人(さんにん)この内記(ないき)さては御乳母子(おほんめのとご)蔵人(くらうど)よりかうぶり()たる(わか)(ひと)(むつ)ましき(かぎ)りを()りたまひて、大将(だいしゃう)今日明日(けふあす)よにおはせじ」など、内記(ないき)によく案内聞(あないき)きたまひて、()()ちたまふにつけても、いにしへを(おぼ)()
お供に、昔もあちらの様子を知っている者、二、三人と、この内記、その他には乳母子で蔵人から五位になった若い者で、親しい者ばかりをお選びになって、「大将の、今日明日はよもやいらっしゃるまい」などと、内記によく調べさせなさって、ご出立なさるにつけても、昔を思い出す。
お供には昔もよく使いに行き、宇治の山荘の勝手をよく知った者二、三人、それから内記、乳母(めのと)の子で蔵人(くろうど)から五位になった若い男と、特に親しい者だけをお選びになり、大将は今日明日宇治へ行くことはないというころを、薫の家の内部の消息のよくわかる内記に聞いてお置きになってお出かけになる兵部卿の宮であったが、覚えのある(みち)をおとりになるにつけても昔がお思い出されになり、
2.2.2
あやしきまで(こころ)()はせつつ()てありきし(ひと)のために、うしろめたきわざにもあるかな」と、(おぼ)()づることもさまざまなるに、(きゃう)のうちだに、むげに人知(ひとし)らぬ(おほん)ありきは、さはいへどえしたまはぬ御身(おほんみ)にしも、あやしきさまのやつれ姿(すがた)して、御馬(おほんむま)にておはする心地(ここち)も、もの(おそ)ろしくややましけれど、もののゆかしき(かた)(すす)みたる御心(みこころ)なれば、山深(やまふか)うなるままに、いつしかいかならむ、()あはすることもなくて(かへ)らむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と(おぼ)すに、(こころ)(さわ)ぎたまふ。
「不思議なまでに心を合わせて連れて行ってくれた人に対して、後ろめたいことをするなあ」と、お思い出しになることもいろいろであるが、京の中でさえ、まるきり人の知らないお忍び歩きは、そうはいっても、おできになれないご身分でいて、粗末な恰好に身をやつして、お馬でお出かけになる気持ちも、何となく恐ろしく気が咎めるが、知りたい気持ちは強いご性質なので、山深く入って行くにつれて、「早く着きたい、どうであろうか、確かめることもなくて帰るようでは、物足りなく変なものであろう」とお思いになると、気が気でない思いがなさる。
あやしいまでに何事も打ちあけ合う友情を持ち、自分を伴って恋人の家へ入れてくれたほどの好意を知らず顔に、その人へ済まぬ心を起こして同じ宇治へ行くと、悩ましい気持ちを覚えておいでになった。京の中でも、浮気(うわき)な方とは申せ、極端な微行は経験しておいでにならないのであるが、簡単なお身なりをあそばして、大部分はお馬でおいでになることになっていた。お気持ちも無気味で、恐ろしくさえおありになるのであるが、好奇心の人一倍多い方であったから、山路(やまみち)を深く進んでおいでになったころには、こうして行ってその人を見ることができたらどんなにうれしいであろう、のぞくだけで自分の行ったことを知らせる方法がなかったら物足らぬ気がするであろうとお思いになるとまた胸が鳴った。
2.2.3
法性寺(ほふさうじ)のほどまでは御車(みくるま)にて、それよりぞ御馬(おほんむま)にはたてまつりける。
(いそ)ぎて、宵過(よひす)ぐるほどにおはしましぬ。
内記(ないき)案内(あない)よく()れるかの殿(との)(ひと)()()きたりければ、宿直人(とのゐびと)ある(かた)には()らで、葦垣(あしがき)()めたる西表(にしおもて)を、やをらすこしこぼちて()りぬ。
法性寺の付近まではお車で、そこから先はお馬にお乗りになったのであった。
急いで、宵を過ぎたころにお着きになった。
大内記が、様子をよく知っているあの邸の人に尋ねて知っていたので、宿直人がいる方には寄らないで、葦垣をめぐらした西面を、静かにすこし壊してお入りになった。
法性寺のあたりまではお車で、それから馬をお用いになったのである。急いでおいでになったため、宮は九時ごろに宇治へお着きになった。内記は山荘の中のことをよく知った右大将家の人から聞いていたので、宿直(とのい)の侍の詰めているほうへは行かずに、葦垣(あしがき)で仕切ってある西の庭のほうへそっとまわって、垣根を少しこわして中へはいった。
2.2.4
(われ)さすがにまだ()御住(おほんす)まひなれば、たどたどしけれど、(ひと)しげうなどしあらねば、寝殿(しんでん)南表(みなみおもて)にぞ、()ほの(ぐら)()えて、そよそよとする(おと)する。
(まゐ)りて
大内記自身も何といってもまだ見たことのないお住まいなので、不案内であるが、女房なども多くはいないので、寝殿の南面に燈火がちらちらとほの暗く見えて、そよそよと衣ずれの音がする。
戻って参って、
聞いただけは知っていたが、まだ来たことのない家であって、たよりない気はしながら、人の少ない所であるため、庭をまわり、寝殿の南に面した座敷に()のほのかにともり、そこにそよそよと絹の触れ合う音を聞いて行き、宮へそう申し上げた。
2.2.5
まだ、(ひと)()きてはべるべし。
ただ、これよりおはしまさむ」
「まだ、人は起きているようでございます。
直接、
「まだ人は起きているようでございます。ここからいらっしゃいまし」
2.2.6
と、しるべして()れたてまつる。
と、案内してお入れ申し上げる。
と内記は言い、自身の通った路へ宮をお導きして行った。

第三段 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る

2.3.1
やをら(のぼ)りて、格子(かうし)(ひま)あるを()つけて()りたまふに、伊予簾(いよす)はさらさらと()るもつつまし。
(あたら)しうきよげに(つく)りたれど、さすがに粗々(あらあら)しくて(ひま)ありけるを、()れかは()()むとも、うちとけて、(あな)()たがず、几帳(きちゃう)帷子(かたびら)うちかけておしやりたり。
静かに昇って、格子の隙間があるのを見つけて近寄りなさると、伊予簾はさらさらと鳴るのが気が引ける。
新しくこぎれいに造ってあるが、やはり荒っぽい造りで隙間があったが、誰も来て覗き見はしまいかと、気を許して、穴も塞がず、几帳の帷子をうち懸けて押しやっていた。
静かに縁側へお上がりになり、格子に隙間(すきま)の見える所へ宮はお寄りになったが、中の伊予簾(いよすだれ)がさらさらと鳴るのもつつましく思召(おぼしめ)された。きれいに新しくされた御殿であるが、さすがに山荘として作られた家であるから、普請(ふしん)が荒くて、戸に穴の(すき)などもあったのを、だれが来てのぞくことがあろうと安心してふさがないでおいたものらしい。几帳(きちょう)垂帛(たれ)を上へ掛けて、それがまた横へ押しやられてあった。
2.3.2
火明(ひあか)(とも)して、もの()(ひと)(さん)四人居(よにんゐ)たり。
(わらは)のをかしげなる、(いと)をぞ()る。
これが(かほ)まづかの火影(ほかげ)()たまひしそれなり
うちつけ()かと、なほ(うたが)はしきに、右近(うこん)()のりし(わか)(ひと)もあり
(きみ)(かひな)(まくら)にて、()(なが)めたるまみ、(かみ)のこぼれかかりたる(ひたひ)つき、いとあてやかになまめきて、(たい)御方(おほんかた)いとようおぼえたり。
燈火を明るく照らして、何か縫物をしている女房が、三、四人座っていた。
童女でかわいらしいのが、糸を縒っている。
この子の顔は、まずあの燈火で御覧になった顔であった。
とっさの見間違いかと、まだ疑われたが、右近と名乗った若い女房もいる。
女主人は、腕を枕にして、燈火を眺めている目もとや、髪のこぼれかかっている額つき、たいそう上品に優美で、対の御方にとてもよく似ていた。
灯を明るくともして縫い物をしている女が三、四人いた。美しい童女は糸を()っていたが、宮はその顔にお見覚えがあった。あの夕べの灯影(ほかげ)で御覧になった者だったのである。思いなしでそう見えるのかとお疑われにもなったが、また右近とその時に呼ばれていた若い女房も座に見えた。主君である人の、(かいな)(まくら)にして()をながめた()つき、髪のこぼれかかった額つきが貴女(きじょ)らしく(えん)で、西の対の夫人によく似ていた。
2.3.3
この右近(うこん)物折(ものを)るとて
この右近が、衣類を折り畳もうとして、
宮のお見つけになった右近は服地に折り目をつけるために身をかがめながら、
2.3.4
かくて(わた)らせたまひなばとみにしもえ(かへ)(わた)らせたまはじを、殿(との)『この司召(つかさめし)のほど()ぎて、朔日(ついたち)ころにはかならずおはしましなむ』と、昨日(きのふ)御使(おほんつかひ)(まう)しけり。
御文(おほんふみ)にはいかが()こえさせたまへりけむ」
「こうしてお出かけあそばしたら、すぐにはお帰りあそばすわけにはいきませんが、殿は、『今度の司召の間が終わって、朔日ころにはきっといらっしゃる』と、昨日のお使いも申していました。
お手紙には、どのように申し上げなさいましたのでしょうか」
「お宅へお帰りになりましたら、早くおもどりになることは容易ではございませんでしょうが、殿様は除目(じもく)にお携わりになったあとで、来月の初めには必ずおいでになりましょうと、昨日の使いも申しておりました。お手紙にはどう書いていらっしったのでございますか」
2.3.5
()へど、いらへもせず、いともの(おも)ひたるけしきなり。
と言うが、返事もせずに、たいそう物思いに沈んでいる様子である。
と言っていたが、姫君は返辞もせず物思わしいふうをしている。
2.3.6
(をり)しもはひ(かく)れさせたまへるやうならむが、見苦(みぐる)しさ」
「来訪の折しも、身を隠していらっしゃるようなのは、困ったことです」
「おいでになります時にわざとおはずしになったようになりましてもよろしくございません」
2.3.7
()へば、(むか)ひたる(ひと)
と言うと、向かいにいた女房が、
と、また言うと、それと向き合っている女が、
2.3.8
それは、かくなむ(わた)りぬると御消息(おほんせうそこき)こえさせたまへらむこそよからめ。
軽々(かろがろ)しう、いかでかは(おと)なくては、はひ(かく)れさせたまはむ。
御物詣(おほんものまう)(のち)は、やがて(わた)りおはしましねかし
かくて心細(こころぼそ)きやうなれど、(こころ)にまかせてやすらかなる御住(おほんす)まひにならひて、なかなか旅心地(たびごこち)すべしや
「それでは、このようにお出かけになったと、お手紙を差し上げなさるのがよいでしょう。
軽々しく、どうして、何も言わずに、お隠れあそばせましょう。
ご参詣の後は、そのままこちらにお帰りあそばしませ。
こうして心細いようですが、思い通りに気楽なお暮らしに馴れて、かえって本邸の方が旅心地がするのではないでしょうか」
「そう申し上げてお置きになりませんではいけませんね。お(まい)りをなさいますことをね。軽々しくそっとお外出をなさいますことも今はもうよろしくないと思います。そしてお詣りが済めばすぐにおもどりなさいまし。ここは心細いお住居(すまい)のようですが、気楽で、のんびりとした日送りに()れましたから、お宅はかえって旅の宿のような気がして苦しゅうございましょうよ」
2.3.9
など()ふ。
またあるは、
などと言う。
また他の女房は、
とも言う。また一人が、
2.3.10
なほ、しばし、かくて()ちきこえさせたまはむぞのどやかにさまよかるべき。
(きゃう)へなど(むか)へたてまつらせたまへらむ(のち)おだしくて(おや)にも()えたてまつらせたまへかし。
このおとどのいと(きふ)にものしたまひて、にはかにかう()こえなしたまふなめりかし。
(むかし)(いま)も、もの(ねん)じしてのどかなる(ひと)こそ、(さいは)ひは見果(みは)てたまふなれ」
「やはり、しばらくの間、こうしてお待ち申し上げなさるのが、落ち着いていて体裁がよいでしょう。
京へなどとお迎え申されてから後、ゆっくりとして母君にもお会い申されませ。
あの乳母が、とてもせっかちでいられて、急にこのような話を申し上げなさるのでしょうよ。
昔も今も、我慢してのんびりとしている人が、しまいには幸福になるということです」
「まあ当分はお動きにならずに、殿様の思召しのままここでごしんぼうをしていらっしゃるのがおおようで、お品のいいことではないでしょうか。京へお呼び寄せになりましたあとで穏やかに親御様にもお()いあそばすことになさいませよ。ままさんが性急(せっかち)ですからね、急にお詣りをおさせしてお宅のほうへもお寄りさせようと、こんなことを(ひと)りぎめにきめてお宅へ言ってあげたのがよくないと思います。昔の人だって今の人だってもよくしんぼうをして気のゆるやかに持てる人が最後の勝利を占めていると私は思うのですよ」
2.3.11
など()ふなり。
右近(うこん)
などと言うようである。
右近は、
こんなことも言っている。
2.3.12
などて、この乳母(まま)とどめたてまつらずなりにけむ
()いぬる(ひと)は、むつかしき(こころ)のあるにこそ」
「どうして、この乳母をお止め申さずになってしまったのでしょう。
年老いた人は、やっかいな性質があるものですから」
「どうしてままをここまで来させたのでしょう。あちらへ置いて来るべき人をね。老人というものはよけいなことまでも考え出すものだのに」
2.3.13
(にく)むは、乳母(めのと)やうの(ひと)をそしるなめり
げに、(にく)(もの)ありかし」と(おぼ)()づるも(ゆめ)心地(ここち)ぞする。
かたはらいたきまで、うちとけたることどもを()ひて、
と憎むのは、乳母のような女房を悪く言うようである。
「なるほど、憎らしい女房がいた」とお思い出しになるのも、夢のような気がする。
側で聞いていられないほど、うちとけた話をして、
右近のにがにがしそうにこう言うのは、乳母というような人の悪口かとも聞こえた。そうだ、差し出者がいたのだったとお思い出しになる宮は夢を見ている気があそばされた。女たちは聞く者が恥ずかしくなるようなことまで言い合って、
2.3.14
(みや)(うへ)こそいとめでたき御幸(おほんさいは)ひなれ。
(みぎ)大殿(おほとの)の、さばかりめでたき御勢(おほんいきほ)ひにて、いかめしうののしりたまふなれど、若君生(わかぎみむま)れたまひて(のち)は、こよなくぞおはしますなる。
かかるさかしら(びと)どものおはせで、御心(みこころ)のどかに、かしこうもてなしておはしますにこそはあめれ」
「宮の上は、とてもめでたくご幸福でいらっしゃる。
右の大殿が、あれほど素晴らしいご威勢で、仰々しく大騒ぎなさるようだが、若君がお生まれになって後は、この上なくいらっしゃるようです。
このような出しゃばり者がいらっしゃらなくて、お心ものんびりと、賢明に振る舞っていらっしゃることでありましょう」
「二条の院の奥様はほんとうに御幸福な方ね。左大臣様は権力にまかせて大騒ぎになるのだけれど、若様がお生まれになってからは女王(にょおう)様の御寵愛(ちょうあい)が図抜けてきたのですもの。ままのようなうるさい人がおそばにいないでゆったりと上品に奥様らしく皆がおさせしているのがいい効果を見せたのですよ」
2.3.15
()ふ。
と言う。

2.3.16
殿(との)だに、まめやかに(おも)ひきこえたまふこと()はらずは、(おと)りきこえたまふべきことかは」
「せめて殿さえ、真実愛してくださるお気持ちが変わらなかったら、負けることがありましょうか」
「殿様さえ奥様を深くお愛しになれば、こちらもお劣りになるものですか」
2.3.17 と言うのを、女君は、少し起き上がって、
こんなことの言われた時、姫君は少し起き上がって、
2.3.18
いと()きにくきこと
よその(ひと)にこそ、(おと)らじともいかにとも(おも)はめ、かの(おほん)ことなかけても()ひそ。
()()こゆるやうもあらば、かたはらいたからむ」
「とても聞きにくいこと。
他人であったら、負けまいとも何とも思いましょうが、あのお方のことは口に出してはいけません。
漏れ聞こえるようなことがあったら、申し訳ありません」
「醜いことは言わないでね。よその人には劣らない人になりたいとか何とか思っても、女王様のことに私などを引き合いに出して言わないでね。もしあちらへ聞こえることがあれば恥ずかしい」
2.3.19
など()ふ。
などと言う。
と言った。

第四段 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む

2.4.1
(なに)ばかりの親族(しぞく)にかはあらむ。
いとよくも()かよひたるけはひかな」と(おも)(くら)ぶるに、心恥(こころは)づかしげにてあてなるところは、かれはいとこよなし。
これはただらうたげにこまかなるところぞいとをかしき」。
よろしう、なりあはぬところを()つけたらむにてだに、さばかりゆかしと(おぼ)ししめたる(ひと)それと()て、さてやみたまふべき御心(みこころ)ならねば、まして(くま)もなく()たまふに、「いかでかこれをわがものにはなすべき」と、(こころ)(そら)になりたまひて、なほまもりたまへば、右近(うこん)
「どの程度の親族であろうか。
とてもよく似ている様子だな」と思い比べると、「恥ずかしくなるほどの上品なところは、あの君はとてもこの上ない。
この人はただかわいらしくきめこまやかな顔だちがとても魅力的だ」。
普通程度の、不十分なところを見つけたような場合でさえも、あれほど会いたいとお思い続けてきた人を、その人だと見つけて、そのままお止めになるようなご性分でないので、その上すっかり御覧になったので、「何とかしてこの女を自分のものにしたい」と、心もうわの空におなりになって、依然として見つめていらっしゃると、右近が、
どんな血族にあたる人なのであろう、よく似た様子をしているではないかと宮は比べてお思いになるのであった。気品があって(えん)なところはあちらがまさっていた。この人はただ可憐(かれん)で、こまごまとしたところに美が満ちているのである。たとえ欠点があっても、あれほど興味を持って捜し当てたいとお(ねが)いになった人であれば、その人をお見つけになった以上あとへお退()きになるはずもない御気性であって、まして残る(くま)もなく御覧になるのは、まれな美貌(びぼう)の持ち主なのであったから、どんなにもしてこれが自分のものになる工夫(くふう)はないであろうかと無我夢中になっておしまいになった。物詣(ものもう)でに行く前夜であるらしい、親の家というものもあるらしい、今ここでこの人を得ないでまた逢いうる機会は望めない、実行はもう今夜に限られている、どうすればよいかと宮はお思いになりながら、なおじっとのぞいておいでになると、右近が、
2.4.2
いとねぶたし
昨夜(よべ)もすずろに()()かしてき。
明朝(つとめて)のほどにも、これは()ひてむ。
(いそ)がせたまふとも御車(みくるま)()たけてぞあらむ」
「とても眠い。
昨夜も何となしに夜明かししてしまった。
明朝早くにも、これは縫ってしまおう。
お急ぎあそばしても、お車は日が高くなってから来るでしょう」
「眠くなりましたよ。昨晩はとうとう徹夜をしてしまったのですもの、明日早く起きてもこれだけは縫えましょう。どんなに急いでお迎いが京を出て来ましても、八、九時にはなることでしょうから」
2.4.3
()ひて、しさしたるものどもとり()して、几帳(きちゃう)にうち()けなどしつつ、うたた()のさまに()()しぬ。
(きみ)すこし(おく)()りて()す。
右近(うこん)北表(きたおもて)()きて、しばしありてぞ()たる。
(きみ)のあと(ちか)()しぬ。
と言って、作りかけていた縫物を持って、几帳に懸けたりなどして、うたた寝の状態で寄り臥した。
女君も少し奥に入って臥す。
右近は北面に行って、しばらくして再び来た。
女君の後ろ近くに臥した。
と言い、皆も縫いさした物をまとめて几帳(きちょう)の上に()けたりなどして、そのままそこへうたた寝のふうに横たわってしまった。姫君も少し奥のほうへはいって寝た。右近は北側の室へはいって行ったがしばらくして出て来た。そして姫君の(ねや)(すそ)のほうで寝た。
2.4.4
ねぶたしと(おも)ひければ、いととう寝入(ねい)りぬるけしきを()たまひてまたせむやうもなければ、(しの)びやかにこの格子(かうし)をたたきたまふ
右近聞(うこんき)きつけて、
眠たいと思っていたので、とても早く寝入ってしまった様子を御覧になって、他にどうしようもないので、こっそりとこの格子を叩きなさる。
右近が聞きつけて、
眠がっていた人たちであったから、皆すぐに寝入った様子を見てお置きになった宮は、そのほかに手段はないことであったから、そっと今まで立っておいでになった前の格子をおたたきになった。右近は聞きつけて、
2.4.5
()そ」
「どなたですか」
「だれですか」
2.4.6
()ふ。
(こわ)づくりたまへばあてなるしはぶきと()()りて、殿(との)おはしたるにや」と(おも)ひて、()きて()でたり。
と言う。
咳払いをなさったので、高貴な方の咳払いと気づいて、「殿がいらっしゃったのか」と思って、起きて出た。
と言った。咳払いをあそばしただけで貴人らしい気配(けはい)を知り、(かおる)の来たと思った右近が起きて来た。
2.4.7 「とりあえず、
「ともかくもこの戸を早く」
2.4.8
とのたまへば、
とおっしゃるので、
とお言いになると、
2.4.9
あやしう
おぼえなきほどにもはべるかな。
()はいたう()けはべりぬらむものを」
「変ですわ。
思いがけない時刻でございますこと。
夜はたいそう更けましたものを」
「思いがけません時間においでになったものでございますね。もうよほど夜がふけておりましょうのに」
2.4.10
()ふ。
と言う。
右近はこう言った。
2.4.11
ものへ(わた)りたまふべかなりと仲信(なかのぶ)()ひつれば、(おどろ)かれつるままに()()ちて。
いとこそわりなかりつれ。
まづ()けよ」
「どこそこへ外出なさる予定であると、仲信が言ったので、驚いてすぐ出て来て。
まことに困ったことであった。
とりあえず開けなさい」
「どこかへ行かれるのだと仲信(なかのぶ)が言ったので、驚いてすぐに出て来たのだが、よくないことに出あったよ。ともかくも早く」
2.4.12
とのたまふ(こゑ)いとようまねび()せたまひて、(しの)びたれば、(おも)ひも()らず、かい(はな)
とおっしゃる声、たいそうよくお似せになって、ひっそりと言うので、別人とは思いも寄らず、格子を開けた。
声を薫によく似せてお使いになり、低く言っておいでになるのであったから、違った人であることなどは思いも寄らずに格子をあけ放した。
2.4.13
(みち)にていとわりなく(おそ)ろしきことのありつれば、あやしき姿(すがた)になりてなむ。
火暗(ひくら)うなせ」
「途中で、とてもひどい目に遭ったので、みっともない姿になっている。
燈火を暗くしなさい」
「道でひどい災難にあってね、恥ずかしい姿になっている。()を暗くするように」
2.4.14
とのたまへば、
とおっしゃるので、
とお言いになったので、
2.4.15 「まあ、大変」

2.4.16
とあわてまどひて、()()りやりつ。
とあわて騒いで、燈火は隠した。
右近はあわてて灯を遠くへやってしまった。
2.4.17
(われ)(ひと)()すなよ。
()たりとて、人驚(ひとおどろ)かすな」
「わたしを、他の人には見せるな。
来たからと言って、誰も起こすな」
「私を人に見せぬようにしてくれ。私が来たと言って、寝ている人を起こさないように」
2.4.18
と、いとらうらうじき御心(みこころ)にてもとよりもほのかに()たる御声(おほんこゑ)を、ただかの(おほん)けはひにまねびて()りたまふ。
ゆゆしきことのさまとのたまひつる、いかなる御姿(おほんすがた)ならむ」といとほしくて、(われ)(かく)ろへて()たてまつる。
と、とてもたくみなお方なので、もともとわずかに似ているお声を、まったくあの方のご様子に似せてお入りになる。
「ひどい目に遭った姿だとおっしゃったが、どのようなお姿なのだろう」とお気の毒で、自分も隠れて拝見する。
賢い方はもとから少し似たお声をすっかり薫と聞こえるようにしてものをお言いになり、寝室へおはいりになった。ひどい災難とお言いになったのはどんな姿にされておしまいになったのであろうと右近は同情して、自身も隠れるようにしながらのぞいて見た。
2.4.19
いと(ほそ)やかになよなよと装束(さうぞ)きて、()()うばしきことも(おと)らず。
(ちか)()りて、御衣(おほんぞ)ども()ぎ、()(がほ)にうち()したまへれば、
とてもほっそりとなよなよと装束をお召しになって、香の芳しいことも劣らない。
近くによって、お召物を脱ぎ、馴れた顔でお臥せりになったので、
繊細ななよなよとした姿は持っておいでになったし、かんばしいにおいも劣っておいでにならなかった。(うそ)の大将は姫君に近く寄って上着を脱ぎ捨て、良人(おっと)らしく横へ寝たのを見て、
2.4.20 「いつものご座所に」
「そこではあまりに端近でございます。いつものお床へ」
2.4.21
など()へど、ものものたまはず
御衾参(おほんふすままゐ)りて()つる(ひと)びと()こして、すこし退(しぞ)きて皆寝(みなね)ぬ。
御供(おほんとも)(ひと)など、(れい)の、ここには()らぬならひにて
などと言うが、何もおっしゃらない。
寝具を差し上て、寝ていた女房たちを起こして、少し下がって皆眠った。
お供の人などは、いつものように、こちらでは構わない慣例になっているので、
などと右近は言ったのであるが、何とも答えはなかった。上へ夜着を掛けて、仮寝をしていた人たちを起こし、皆少し遠くへさがって寝た。薫の従者たちはいつでもすぐに荘園のほうへ行ってしまったので、女房などはあまり顔を知らなんだから、宮のお言葉をそのままに信じて、
2.4.22
あはれなる、()おはしましざまかな」
「お志の深い、夜のご訪問ですこと」
「深いお志からの御微行でしたわね。
2.4.23
「かかる(おほん)ありさまを、御覧(ごらん)()らぬよ」
「このようなご様子を、ご存知ないのよ」
ひどい目におあいになったりあそばしてお気の毒なんですのに、お姫様は事情をご存じないようですね」
2.4.24
など、さかしらがる(ひと)もあれど、
などと、利口ぶる女房もいるが、
などと賢がっている女もあった。
2.4.25
あなかま、たまへ。
夜声(よごゑ)は、ささめくしもぞ、かしかましき」
「お静かに。
夜の声は、ささやく声が、かえってうるさいのです」
「静かになさいよ。夜は小声の話ほどよけいに目に立つものですよ」
2.4.26
など()ひつつ()ぬ。
などと言いながら眠った。
こんなふうに仲間に注意もされてそのまま寝てしまった。
2.4.27
女君(をんなぎみ)あらぬ(ひと)なりけり」と(おも)ふに、あさましういみじけれど、(こゑ)をだにせさせたまはず。
いとつつましかりし(ところ)にてだにわりなかりし御心(みこころ)なれば、ひたぶるにあさまし
(はじ)めよりあらぬ(ひと)()りたらば、いかがいふかひもあるべきを、(ゆめ)心地(ここち)するにやうやう、その(をり)のつらかりし年月(としつき)ごろ(おも)ひわたるさまのたまふに、この(みや)()りぬ。
女君は、「違う人だわ」と思うと、びっくりし大変だと思うが、声も出させないようになさる。
とても憚られる所でさえ、理不尽であったお心なので、何ともいいようがない仕儀だ。
初めから別人だと知っていたら、何とかあしらうすべもあったろうが、夢のような気がするので、だんだんと、あの時のつらかった、いく年月もの間を思い続けていた有様をおっしゃるので、その宮だと分かった。
姫君は夜の男が薫でないことを知った。あさましさに驚いたが、相手は声も立てさせない。あの二条の院の秋の夕べに人が集まって来た時でさえ、この人と恋を成り立たせねばならぬと狂おしいほどに思召した方であるから、はげしい愛撫(あいぶ)の力でこの人を意のままにあそばしたことは言うまでもない。初めからこれは闖入(ちんにゅう)者であると知っていたならば今少し抵抗のしかたもあったのであろうが、こうなれば夢であるような気がするばかりの姫君であった。女のやや落ち着いたのを御覧になって、あの秋の夕べの恨めしかったこと、それ以来今日まで狂おしくあこがれていたことなどをお告げになることによって、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮でおありになることを姫君は知った。
2.4.28
いよいよ()づかしく、かの(うへ)(おほん)ことなど(おも)ふに、またたけきことなければ、(かぎ)りなう()く。
(みや)も、なかなかにて、たはやすく()()ざらむことなどを(おぼ)すに、()きたまふ。
ますます恥ずかしくなって、あの上の御ことなどを思うと、またどうすることもできないので、限りなく泣く。
宮も、なまじ逢ったのがかえってつらく、たやすく逢えそうにないことをお思いになって、お泣きになる。
いよいよ羞恥(しゅうち)を覚えて、姉の女王がどうお思いになるであろうと思うともうどうしようもなくなった人はひどく泣いた。宮も今後会見することは不可能であろうと思召(おぼしめ)されるためにお泣きになるのであった。

第五段 翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る

2.5.1
()は、ただ()けに()く。
御供(おほんとも)人来(ひとき)(こわ)づくる。
右近聞(うこんき)きて(まゐ)れり。
()でたまはむ心地(ここち)もなく()かずあはれなるに、またおはしまさむことも(かた)ければ、(きゃう)には(もと)(さわ)がるとも今日(けふ)ばかりはかくてあらむ。
何事(なにごと)()ける(かぎ)りのためこそあれ」。
ただ今出(いまい)でおはしまさむは、まことに()ぬべく(おぼ)さるればこの右近(うこん)()()せて、
夜は、どんどん明けて行く。
お供の人が来て咳払いをする。
右近が聞いて参上した。
お出になる気持ちもなく、心からいとしく思われて、再びいらっしゃることも難しいので、「京では捜し求めて大騒ぎしようとも、今日一日だけはこうしていたい。
何事も生きている間だけのことなのだ」。
今すぐにお出になることは、本当に死んでしまいそうにお思いになるので、この右近を呼び寄せて、
夜はずんずんと明けていく。お供の人たちが注意を申し上げるように咳払いなどをする。右近がそれを聞いて用をするためにおいでになる所の近くへ来た。宮は別れて出てお行きになるお気持ちにはなれず、どこまでもお心の()かれるのをお覚えになったが、そうかといってこのままでおいでになることもおできにならないことであった。京で捜されまわるようなことはあっても、今日だけはここに隠れていよう、世間をはばかるということもよく生きようがためである、自分は今別れて行けば死ぬことになるとお心をおきめになった宮は、右近を近くへお呼びになって、
2.5.2
いと心地(ここち)なしと(おも)はれぬべけれど、今日(けふ)はえ()づまじうなむある。
(をのこ)どもは、このわたり(ちか)からむ(ところ)に、よく(かく)ろへてさぶらへ。
時方(ときかた)(きゃう)へものして、山寺(やまでら)(しの)びてなむ』とつきづきしからむさまに、いらへなどせよ」
「まことに無分別と思われようが、今日はとても出て行くことができそうにない。
男たちは、この近辺の近い所に、適当に隠し控させなさい。
時方は、京へ行って、『山寺に人目を忍んで行っている』とつじつまが合うように、返事などさせよ」
「思いやりのないことと思うだろうが、今日は帰りたくない。従者らはここに近いどこかでよく人目を避けて時間を送るように。それから時方(ときかた)は京へ行って山寺へ忍んで参籠(さんろう)していると上手(じょうず)にとりなしをしておけと言ってくれるがいい」
2.5.3
とのたまふに、いとあさましくあきれて(こころ)もなかりける()(あやま)ちを(おも)ふに、心地(ここち)(まど)ひぬべきを、(おも)(しづ)めて、
とおっしゃるので、とても驚きあきれて、気づかなかった昨夜の過失を思うと、気も動転してしまいそうなのを、落ち着けて、
と仰せられた。右近はあさましさにあきれて、何の気なしに大将であると思い、戸をあけてお入れした昨夜の過失を思うと、気も失うばかりになったが、しいて冷静になろうとした。
2.5.4
(いま)は、よろづにおぼほれ(さわ)ぐとも、かひあらじものから、なめげなり。
あやしかりし(をり)に、いと(ふか)(おぼ)()れたりしも、かう(のが)れざりける御宿世(おほんすくせ)にこそありけれ。
(ひと)のしたるわざかは」
「今となっては、どのようにあたふた騒いだところで、効ないし、また失礼である。
困った時にも、たいそう深く愛してくださったのも、このような逃れがたかったご運命なのであろう。
誰がしたということでない」
もう今になってはどんなに騒ぎ立てても(かい)のないことであって、しかも御身分に対して失礼である。あの二条の院の短い時間にさえ深い御執心をあそばすふうの見えたのも、こんなにならねばならぬ二人の宿縁というものであろう、人間のした過失とは言えないことである
2.5.5
(おも)(なぐさ)めて、
と思い慰めて、
とみずから慰めて、
2.5.6
今日(けふ)御迎(おほんむか)へにとはべりしをいかにせさせたまはむとする(おほん)ことにか。
かう(のが)れきこえさせたまふまじかりける御宿世(おほんすくせ)は、いと()こえさせはべらむ(かた)なし。
(をり)こそいとわりなくはべれ。
なほ、今日(けふ)()でおはしまして、御心(みこころ)ざしはべらば、のどかにも」
「今日、お迎えにとございましたが、どのようにあそばす御ことでしょうか。
このように逃れることがおできになれないご運命は、まことに申し上げようもございません。
あいにく日が悪うございます。
やはり、今日はお帰りあそばして、ご愛情がございましたら、改めてごゆっくりと」
「今日は御自宅のほうからお迎いの車がまいることになっておりますのに、姫君はどうあそばすおつもりでいらっしゃるのでございましょう。こういたしました運命の現われにつきましては、私らが何を申すことができましょう。ただこの場合がよろしくございません。今日はお帰りあそばしまして、お志がございましたなら、また別なよい日をお待ちくださいまし」
2.5.7
()こゆ。
およすけても()ふかな」と(おぼ)して、
と申し上げる。
「生意気なことを言うな」とお思いになって、
と申し上げた。世なれたふうに言うものであると思召して、
2.5.8
(われ)は、(つき)ごろ(おも)ひつるにほれ()てにければ、(ひと)のもどかむも()はむも()られず、ひたぶるに(おも)ひなりにたり。
すこしも()のことを(おも)(はば)からむ(ひと)の、かかるありきは(おも)()ちなむや。
御返(おほんかへ)りには、今日(けふ)物忌(ものいみ)』など()へかし。
(ひと)()らるまじきことを、()がためにも(おも)へかし。
異事(ことごと)はかひなし
「わたしは、いく月も物思いしたので、すっかり呆然としてしまって、人が非難するのも注意することも分別できず、一途に思いつめているのだ。
少しでも身の上を憚るような人が、このような出歩きは思い立ちましょうか。
お返事には、『今日は物忌です』などと言いなさい。
人に知られてはならないことを、誰のためにも思いなさい。
他のことは問題でない」
「自分は長い物思いに頭がぼけているから、人がどんな非難をしてもかまわぬ気になっている。どうしても別れて帰れないのだ。少しでも自重心が残っていれば自分のような身分の者が、これはできることと思うか。どこかへ行く迎えの車が来た時には急に謹慎日になったとでも言えばいいではないか。秘密はだれのためにも(まも)らなければならないと考えてくれ。それよりほかのことは皆自分にできないことなのだよ」
2.5.9
とのたまひて、この(ひと)()()らずあはれに(おぼ)さるるままに、よろづのそしりも(わす)れたまひぬべし
とおっしゃって、この人が、世にも稀なくらいかわいく思われなさるままに、どのような非難もお忘れになったのであろう。
こうお言いになり。この相手から覚えさせられる愛着の強さをみずからお悟りになる宮は、非難も正義も皆お忘れになった。

第六段 右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す

2.6.1
右近出(うこんい)でて、このおとなふ(ひと)に、
右近が出て来て、この声を出した人に、
右近がお帰りを促している人らのほうへ出て行き、宮はこうこうお言いになると言い、
2.6.2
かくなむのたまはするをなほ、いとかたはならむ、とを(まう)させたまへ。
あさましうめづらかなる(おほん)ありさまは、(おぼ)しめすとも、かかる御供人(おほんともひと)どもの御心(みこころ)にこそあらめ
いかで、かう心幼(こころをさな)うは()てたてまつりたまふこそ
なめげなることを()こえさする山賤(やまがつ)などもはべらましかば、いかならまし」
「これこれとおっしゃっていますが、やはり、とても見苦しいなさりようです、と申し上げてください。
驚くほど目にもあまるようなお振る舞いは、どんなにお思いになっても、あなた方お供の人びとの考えでどうにでもなりましょう。
どうして、こう無分別にも宮をお連れ申し上げなさったのですか。
無礼な行ないを致す山賊などが途中で現れましたら、どうなりましょう」
「そんなことはおよろしくないことですということをあなたがたからまた申し上げてみてください。こうした無理なことを最初仰せになりました時に、あなたがたがそれをお(いさ)めにならなかったとはどうしたことでしょう。愚かしくどうしてお言葉どおりに御案内しておいでになったのでしょう。途中でもここでも失礼なことを申し上げる人間が出て来ましたらどんなことになったでしょう」
2.6.3
()ふ。
内記(ないき)は、げに、いとわづらはしくもあるかな」と(おも)()てり。
と言う。
内記は、「なるほど、とてもやっかいなことであるなあ」と思って立っている。
とたしなめた。内記は予想したとおりに事態がめんどうになったと思いながら立っていた。
2.6.4 「時方とおっしゃる方は、どなたですか。
これこれとおっしゃっています」
「時方とおっしゃるのはどなたですか」
2.6.5
(つた)ふ。
(わら)ひて、
と伝える。
笑って、
「私です」大内記時方は笑いながら、
2.6.6
(かうが)へたまふことどもの(おそ)ろしければ、さらずとも()げてまかでぬべし。
まめやかには、おろかならぬ()けしきを()たてまつれば、()れも()れも、()()ててなむ
よしよし、宿直人(とのゐびと)も、皆起(みなお)きぬなり」
「お叱りなさることが恐ろしいので、ご命令がなくても逃げ出しましょう。
本当のところを申し上げますと、並々でないご愛情を拝見しますと、皆が皆、身を捨てて参ったのです。
よいよい、宿直人も、皆起きたようです」
「ひどいお(しか)りですから恐ろしくて、私でないと言って逃げ出そうかと思いました。それは冗談(じょうだん)ですが、まじめに申し上げれば、あまりにも恋いこがれておいでになりますお気の毒な宮様をお見上げしては、だれだって自身のことなどはどうなってもいいという気になりますよ。宮様のお言いつけはよくわかりました。宿直(とのい)の人も皆起きましたから」
2.6.7
とて(いそ)()でぬ。
と言って急いで出て行った。
と言い、すぐに去って行った。
2.6.8
右近(うこん)(ひと)()らすまじうは、いかがはたばかるべき」とわりなうおぼゆ。
(ひと)びと()きぬるに
右近は、「人に知られないようにするには、どうだましたらよいものか」と困りきっている。
女房たちが起きたので、
右近は宮がとどまっておいでになるのをどう取り繕えばいいだろうと苦しんだ。起き出して来た女房たちに、
2.6.9
殿(との)は、さるやうありていみじう(しの)びさせたまふけしき()たてまつれば、(みち)にていみじきことのありけるなめり。
御衣(おほんぞ)どもなど、()さり(しの)びて()(まゐ)るべくなむ、(おほ)せられつる」
「殿は、ある理由があって、ひどくこっそりといらっしゃっています様子を拝見しますと、道中で大変なことがあったようです。
お召物などを、夜になってこっそりと持参するように、お命じになっています」
「殿様は理由(わけ)があって、今日は絶対にお姿をだれにもお見せになりたくない思召しなんですよ。途中で災難におあいになったらしい。お召し物などを今夜になってからそっとお届けさせるようにお供へお命じになるお取り次ぎを今私はしましたよ」
2.6.10
など()ふ。
御達(ごたち)
などと言う。
御達は、
などと言った。女房の一人が、
2.6.11
あな、むくつけや
木幡山(こはたやま)は、いと(おそ)ろしかなる(やま)ぞかし。
(れい)の、御前駆(おほんさき)()はせたまはず、やつれておはしましけむに、あな、いみじや」
「まあ、気味が悪い。
木幡山は、とても恐ろしいという山ですよ。
いつものように、お先も払わせなさらず、身を簡略にしていらっしゃったので、まあ、大変なこと」
「まあこわいこと。木幡(こばた)山という所はそんな所ですってね。いつものように先払いもさせずにお忍びでお出かけになったからですよ。たいへんなことだったのですね。お気の毒な」
2.6.12
()へば、
と言うので、
と言うのを、
2.6.13
あなかま、あなかま
下衆(げす)などの、ちりばかりも()きたらむに、いといみじからむ」
「お静かに、お静かに。
下衆どもが、少しでも聞きつけたら、とても大変なことになりましょう」
「まあ静かにお言いなさいよ。ここの下の侍衆が聞けば、それからまたどんなことを起こすかしれませんから」
2.6.14
()ひゐたる、心地恐(ここちおそ)ろし。
あやにくに、殿(との)御使(おほんつかひ)あらむ(とき)いかに()はむと、
と言っているが、嘘をつくのが恐ろしい。
具合悪く、殿のお使いが来た時にはどのように言おうと、
こうまた言う右近の心の中では(うそ)を語るのが恐ろしかった。あやにくにこんな時に大将からの使いが来たなら、家の中の人へどうまた自分は言うべきであろうと右近は思い、
2.6.15 「初瀬の観音様、今日一日がご無事で暮らせますように」
初瀬(はせ)の観音様、今日一日が無事で過ぎますように
2.6.16 と、大願を立てるのであった。
と大願を立てた。
2.6.17
石山(いしやま)今日(けふまう)でさせむとて、母君(ははぎみ)(むか)ふるなりけり
この(ひと)びともみな精進(さうじん)し、きよまはりてあるに、
石山寺に今日参詣させようとして、母君が迎えに来るのであった。
この邸の女房たちも皆精進潔斎をし、身を清めていたが、
石山寺へ参詣(さんけい)させようとして母の夫人から迎えがよこされることになっている日なのである。右近をはじめ供をして行く者は前日から精進潔斎(しょうじんけっさい)をしていたので、
2.6.18
さらば、今日(けふ)(わた)らせたまふまじきなめり。
いと口惜(くちを)しきこと」
「それでは、今日は、お出かけあそばすわけにはゆかないでしょう。
とても残念なこと」
「では今日はおいでになれなくなったのですわね。残念なことですね」
2.6.19
()ふ。
と言う。
とも言っていた。

第七段 右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる

2.7.1
日高(ひたか)くなれば、格子(かうし)など()げて、右近(うこん)(ちか)くて(つか)うまつりける。
母屋(もや)(すだれ)皆下(みなお)ろしわたして、物忌(ものいみ)」など()かせて()けたり。
母君(ははぎみ)もやみづからおはするとて、夢見騒(ゆめみさわ)がしかりつ」と()ひなすなりけり。
御手水(みてうづ)など(まゐ)りたるさまは、(れい)のやうなれど、まかなひめざましう(おぼ)されて
日が高くなったので、格子などを上げて、右近は近くにお仕えしていた。
母屋の簾はみな下ろして、「物忌」などと書かせて貼っておいた。
母君もご自身でお出でになるかも知れないと思って、「夢見が悪かったので」と理由をつけるのであった。
御手水などを差し上げる様子は、いつものようであるが、介添えを不満にお思いになって、
八時ごろになって格子などを上げ、右近が姫君の居間の用を一人で勤めた。その室の御簾(みす)を皆下げて、物忌(ものいみ)と書いた紙をつけたりした。母夫人自身も迎えに出て来るかと思い、姫君が悪夢を見て、そのために謹慎をしているとその時には言わせるつもりであった。寝室へ二人分の洗面盥(せんめんだらい)の運ばれたというのは普通のことであるが、宮はそんな物にも嫉妬(しっと)をお覚えになった。薫が来て、こうした朝の寝起きにこの手盥で顔を洗うのであろうとお思いになるとにわかに不快におなりになり、
2.7.2 「あなたが先にお洗いあそばしたら」
「あなたがお洗いになったあとの水で私は洗おう。こちらのは使いたくない」
2.7.3
とのたまふ。
(をんな)いとさまよう(こころ)にくき(ひと)()ならひたるに、(とき)()()ざらむに()ぬべしと(おぼ)()がるる(ひと)を、(こころ)ざし(ふか)しとは、かかるを()ふにやあらむ」と(おも)()らるるにも、あやしかりける()かな
()れも、ものの()こえあらば、いかに(おぼ)さむ」と、まづかの(うへ)御心(みこころ)(おも)()できこゆれど、
とおっしゃる。
女は、たいそう体裁よく奥ゆかしい人を見慣れていたので、束の間も逢わないでいると死んでしまいそうだと恋い焦がれている宮を、「ご愛情が深いとは、このような方を言うのであるろうか」と思い知られるにつけても、「不思議な運命だわ。
皆が、噂をきいたら、どのようにお思いになるだろう」と、まずはあの宮の上のお気持ちを思い出し申し上げるが、
とお言いになった。今まで感情をおさえて冷静なふうを作る薫に()れていた姫君は、しばらくでもいっしょにいることができねば死ぬであろうと激情をおおわずお見せになる宮を、熱愛するというのはこんなことを言うのであろうと思うのであったが、奇怪な運命を負った自分である、このあやまちが外へ知れた時、どんなふうに思われる自分であろうとまず第一に宮の夫人が不快に思うであろうことを悲しんでいる時、恋人が何人(なにびと)の娘であるのかおわかりにならぬ宮が、
2.7.4
()らぬを(かへ)(がへ)すいと心憂(こころう)し。
なほ、あらむままにのたまへ。
いみじき下衆(げす)といふとも、いよいよなむあはれなるべき」
「素性を知らないので、返す返すもとても情けない。
やはり、ありのままにおっしゃってください。
ひどく身分の低い人だと言っても、ますますいとおしく思われましょう」
「あなたがだれの子であるかを私の知らないことは返す返すも遺憾だ。ねえ、ありのままに言っておしまいなさいよ。悪い家であってもそんなことで私の愛が動揺するものでも何でもない。いよいよ愛するようになるでしょう」
2.7.5
と、わりなう()ひたまへど、その(おほん)いらへは()えてせず
異事(ことごと)は、いとをかしくけぢかきさまにいらへきこえなどして、なびきたるを、いと(かぎ)りなうらうたしとのみ()たまふ。
と、無理やりにお尋ねになるが、そのお返事は全然しない。
他のことでは、とてもかわいらしく親しみやすい様子にお返事申し上げたりなどして、言うままになるのを、とてもこの上なくかわいらしいとばかり御覧になる。
とお言いになり、しいて()こうとあそばすのに対しては絶対に口をつぐんでいる姫君が、そのほかのことでは美しい口ぶりで愛嬌(あいきょう)のある返辞などもして、愛を受け入れたふうの見えるのを宮は限りなく可憐(かれん)にお思いになった。
2.7.6
日高(ひたか)くなるほどに、(むか)への(ひとき)たり。
車二(くるまふた)つ、(むま)なる(ひと)びとの、(れい)の、(あら)らかなる(しち)八人(はちにん)
(をのこ)ども(おほ)く、(れい)の、品々(しなじな)しからぬけはひ、さへづりつつ()()たれば、(ひと)びとかたはらいたがりつつ、
日が高くなったころに、迎えの人が来た。
車二台、乗馬の人びとが、いつものように、荒々しい者が七、八人。
男連中が大勢、例によって、下品な感じで、ぺちゃくちゃしゃべりながら入って来たので、女房たちは体裁悪がりながら、
九時ごろに石山行きの迎えの人たちが山荘へ着いた。車を二台持って来たのであって、例の東国の荒武者が、七、八人、多くの(しもべ)を従えていた。下品な様子でがやがやと話しながら門をはいって来たのを、女房らは片腹痛がり、
2.7.7 「あちらに隠れなさい」
見えぬ所へはいっているよう
2.7.8
()はせなどす
右近(うこん)いかにせむ
殿(との)なむおはする()ひたらむに、(きゃう)にさばかりの(ひと)おはし、おはせずおのづから()きかよひて、(かく)れなきこともこそあれ」と(おも)ひて、この(ひと)びとにも、ことに()()はせず、(かへ)事書(ごとか)く。
と言わせたりする。
右近は、「どうしよう。
殿がおいでになっている、と言った時、京にはそれほどの身分の方がいらっしゃる、いらっしゃらないというのは、自然と知られていて、隠せないことかも知れない」と思って、この女房たちにも、特に相談せずに、返事を書く。
に言ってやりなどしていた。右近はどうすればいいことであろう、殿様が来ておいでになると言っても、あれほどの大官が京から離れていることはだれの耳にもはいっていることであろうからと思い、他の女房と相談することもせず手紙を常陸(ひたち)夫人へ書くのであった。
2.7.9
昨夜(よべ)より(けが)れさせたまひていと口惜(くちを)しきことを(おぼ)(なげ)くめりしに、今宵(こよひ)夢見騒(ゆめみさわ)がしく()えさせたまひつれば、今日(けふ)ばかり(つつし)ませたまへとてなむ、物忌(ものいみ)にてはべる。
(かへ)(がへ)す、口惜(くちを)しく、ものの(さまた)げのやうに()たてまつりはべる」
「昨夜から穢れなさって、とても残念なこととお嘆きになっていらっしゃったのですが、昨夜、悪い夢を御覧あそばしたので、今日一日はお慎みなさいと言って、物忌をいたしております。
返す返すも、残念で、悪夢が邪魔しているように拝見いたしております」
昨夜からお(けが)れのことが起こりまして、お(まい)りがおできになれなくなりましたことで残念に思召(おぼしめ)すのでございましたが、その上昨晩は悪いお夢を御覧になりましたそうですから、せめて今日一日を謹慎日になさいませと申しあげましたのでお引きこもりになっておられます。返す返すお詣りのやまりましたことを私どもも残り惜しく思っております。何かの暗示でこれはあるいは実行あそばさないほうがよいのかとも存ぜられます。
2.7.10
()きて、(ひと)びとに(もの)など()はせてやりつ。
尼君(あまぎみ)にも、
と書いて、人びとに食事をさせてやった。
尼君にも、
これが済んでから右近は常陸家の人々に食事をさせたりした。弁の尼のほうにも
2.7.11 「今日は物忌で、お出かけなさいません」
にわかに物忌(ものいみ)になって出かけぬ
2.7.12
()はせたり。
と言わせた。
ということを言ってやった。

第八段 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす

2.8.1
(れい)()らしがたくのみ、(かす)める山際(やまぎは)(なが)めわびたまふに、()()くはわびしくのみ(おぼ)()らるる(ひと)()かれたてまつりて、いとはかなう()れぬ。
(まぎ)るることなくのどけき(はる)()に、()れども()れども()かずそのことぞとおぼゆる(くま)なく、愛敬(あいぎゃう)づきなつかしくをかしげなり。
いつもは時間のたつのも長く感じられ、霞んでいる山際を眺めながら物思いに耽っていたのに、日の暮れて行くのが侘しいとばかり思い焦がれていらっしゃる方に惹かれ申して、まことにあっけなく暮れてしまった。
誰に妨げられることのない長い春の日を、いくら見てもいて見飽きず、どこがと思われる欠点もなく、愛嬌があって、慕わしく魅力的である。
平生はつれづれで退屈で、かすんだ山ぎわの空ばかりをながめて時のたつのをもどかしがる姫君であるが、時のたち日の暮れていくのを真底からわびしがっておいでになる方のお気持ちが反映して、はかなく日の暮れてしまった気もした。ただ二人きりでおいでになって、春の一日の間見ても飽かぬ恋人を宮はながめてお暮らしになったのである。欠点と思われるところはどこにもない愛嬌(あいきょう)の多い美貌(びぼう)で女はあった。
2.8.2 その実は、
あの対の御方には見劣りがするのである。大殿の姫君の女盛りで美しくいらっしゃる方に比べたら、お話にもならないほどの女なのに、二人といないと思っていらっしゃる時なので、「こんなによい女は他に
そうは言っても二条の院の女王には劣っているのである。まして派手(はで)な盛りの花のような六条の夫人に比べてよいほどの容貌ではないが、たぐいもない熱情で愛しておいでになるお心から、まだ過去にも現在にも見たことのないような美人であると宮は思召した。
2.8.3
(をんな)はまた、大将殿(だいしゃうどの)を、いときよげに、またかかる(ひと)あらむや()しかど、こまやかに(にほ)ひきよらなることは、こよなくおはしけり」と()る。
女はまた一方、大将殿を、とても美しそうで他にこのような方がいるだろうかと思っていたが、「情愛こまやかで輝くような美しさは、この上なくいらっしゃるなあ」と思う。
姫君はまた清楚(せいそ)風采(ふうさい)の大将を良人(おっと)にして、これ以上の美男はこの世にないであろうと信じていたのが、どこもどこもきれいでおありになる宮は、その人にまさった美貌の方であると思うようになった。
2.8.4
(すずり)ひき()せて、手習(てならひ)などしたまふ
いとをかしげに()きすさび、()などを見所多(みどころおほ)()きたまへれば、(わか)心地(ここち)には、(おも)ひも(うつ)りぬべし
硯を引き寄せて、手習などをなさる。
たいそう美しそうに書き遊んで、絵などを上手にたくさんお描きになるので、若い女心には、愛情も移ることであろう。
(すずり)を引き寄せて宮は紙へ無駄(むだ)書きをいろいろとあそばし、上手(じょうず)な絵などを()いてお見せになったりするため、若い心はそのほうへ多く傾いていきそうであった。
2.8.5
(こころ)より(ほか)()ざらむほどは、これを()たまへよ」
「思うにまかせず、お逢いになれない時は、この絵を御覧なさい」
「逢いに来たくても私の来られない間はこれを見ていらっしゃいよ」
2.8.6
とて、いとをかしげなる男女(をとこをんな)もろともに()()したる(かた)()きたまひて、
と言って、とても美しそうな男と女が、一緒に添い臥している絵を描きなさって、
とお言いになり、美しい男と女のいっしょにいる絵をお()きになって、
2.8.7 「いつもこうしていたいですね」
「いつもこうしていたい」
2.8.8
などのたまふも、涙落(なみだお)ちぬ
などとおっしゃるのにも、涙が落ちた。
とお言いになると同時に涙をおこぼしになった。
2.8.9 「末長い仲を約束してもやはり悲しいのは
ただ明日を知らない命であるよ
「長き世をたのめてもなほ悲しきは
ただ明日知らぬ命なりけり
2.8.10
いとかう(おも)ふこそゆゆしけれ。
(こころ)()をもさらにえまかせず、よろづにたばからむほど、まことに()ぬべくなむおぼゆる。
つらかりし(おほん)ありさまを、なかなか(なに)(たづ)()でけむ」
まことにこのように思うのは、縁起でもないことだ。
思いのままに訪ねることがまったくできず、万策めぐらすうちに、ほんとうに死んでしまいそうに思われる。
つらかったご様子を、かえってどうして探し出したりしたのだろうか」
こんなにまであなたが恋しいことから前途が不安に思われてなりませんよ。意志のとおりの行動ができないで、どうして来ようかと苦心を重ねる間に死んでしまいそうな気がします。あの冷淡だったあなたをそのままにしておかずに、どうして捜し出して再会を遂げたのだろう、かえって苦しくなるばかりだったのに」
2.8.11
などのたまふ。
(をんな)()らしたまへる(ふで)()りて、
などとおっしゃる。
女は、濡らしていらっしゃる筆を取って、
女は宮が墨をつけてお渡しになった筆で、
2.8.12 「心変わりなど嘆いたりしないでしょう
命だけが定めないこの世と思うのでしたら」
心をば歎かざらまし命のみ
定めなき世と思はましかば
2.8.13
とあるを、()はらむをば(うら)めしう(おも)ふべかりけり」と()たまふにも、いとらうたし。
とあるのを、「心変わりするのを恨めしく思うようだ」と御覧になるにつけても、まことにかわいらしい。
と書いた。自分の恋の変わることを恐れる心があるらしいと、宮はこれを御覧になっていよいよ可憐にお思われになった。
2.8.14 「どのような人の心変わりを見てなのか」
「どんな人の変わりやすかったのに懲りたのですか」
2.8.15
など、ほほ()みて、大将(だいしゃう)のここに(わた)(はじ)めたまひけむほどを、(かへ)(がへ)すゆかしがりたまひて、()ひたまふを、(くる)しがりて、
などと、にっこりして、大将がここに連れて来なさった当時のことを、繰り返し知りたくなって、お尋ねになるのを、つらく思って、
などとほほえんでお言いになり、(かおる)がいつからここへ伴って来たのかと、その時を聞き出そうとあそばすのを女は苦しがって、
2.8.16 「申し上げられませんことを、このようにお尋ねになるとは」
「私の申せませんことをなぜそんなにしつこくお()きになりますの」
2.8.17
と、うち(ゑん)じたるさまも、(わか)びたり。
おのづからそれは()()でてむ、(おぼ)すものから、()はせまほしきぞわりなきや
と、恨んでいる様子も、若々しい。
自然とそれは聞き出そう、とお思いになる一方で、言わせたく思うのも困ったことだ。
と恨みを言うのも若々しく見えた。そのうちわかることであろうと思召しながら、直接今この人に言わせて見たいお気持ちになっておいでになるのであった。

第九段 翌朝、匂宮、京へ帰る

2.9.1
()さり、(きゃう)(つか)はしつる大夫参(たいふまゐ)りて右近(うこん)()ひたり。
夜になって、京へ遣わした大夫が帰参して、右近に会った。
夜になってから京へいったんお帰しになった時方(ときかた)が来て右近に面会した。
2.9.2
(きさい)(みや)よりも御使参(おほんつかひまゐ)りて、(みぎ)大殿(おほとの)もむつかりきこえさせたまひて、(ひと)()られさせたまはぬ(おほん)ありきは、いと軽々(かろがろ)しく、なめげなることもあるを、すべて、内裏(うち)などに()こし()さむことも、()のためなむいとからき』といみじく(まう)させたまひけり。
東山(ひんがしやま)聖御覧(ひじりごらん)じにとなむ、(ひと)にはものしはべりつる」
「后の宮からもご使者が参って、右の大殿もご不満を申されて、『誰にも知らせあそばさぬお忍び歩きは、まことに軽々しく、無礼な行為に遭うこともあるのを、総じて、帝などがお耳にあそばすことも、わが身にとってもまことにつらい』とひどくおっしゃっていました。
東山に聖僧にお会に行ったと、皆には申しておきました」
中宮(ちゅうぐう)様からもお使いがまいっておりました。左大臣も機嫌(きげん)を悪くなさいまして、だれにもお行き先をお言いにならぬような微行をなさるのは軽率で、無礼者にどこでお逢いになるかもしれぬことになって、お(かみ)の耳にはいれば自分の落ち度になるからとやかましくおっしゃいました。東山にえらい上人(しょうにん)があるという話をお聞きになって逢いにおいでになったのですと、私は披露(ひろう)しておきました」
2.9.3
など(かた)りて、
などと話して、
こう宮へ取り次がせることを述べたあとで、
2.9.4
(をんな)こそ罪深(つみふか)うおはするものはあれ
すずろなる眷属(けんぞく)(ひと)をさへ(まど)はしたまひて、虚言(そらごと)をさへせさせたまふよ」
「女というものは罪深くいらっしゃるものです。
何でもない家来までうろうろさせなさって、嘘までつかせなさるよ」
「女の方は罪の深いものですね。私のようなきまじめな者さえその圏内へお引き入れになって作り事までお言わせになりますからね」
2.9.5
()へば、
と言うと、
と時方は右近へ言った。
2.9.6
(ひじり)()をさへつけきこえさせたまひてければ、いとよし。
(わたくし)(つみ)それにて(ほろ)ぼしたまふらむ
まことに、いとあやしき御心(みこころ)げに、いかでならはせたまひけむ。
かねてかうおはしますべしと(うけたまは)らましにも、いとかたじけなければ、たばかりきこえさせてましものを。
(あう)なき(おほん)ありきにこそは」
「聖と呼んでくださったのは、とても結構な。
あなた個人の嘘をついた罪も、その功徳で帳消しなさりましょう。
ほんとうに、とても困ったご性質で、おっしゃるとおり、いったいどうしてそのような癖がおつきになったのでしょう。
前々からこのようにいらっしゃると聞いておりましたら、とても恐れ多いことですから、うまくお取り計らい申し上げましたでしょうに。
無分別なご外出ですこと」
「上人にしてお置きになったのはよろしゅうございましたわね、あなたの(うそ)の罪もそれで消滅することになるでしょう。ほんとうに意外なことを意外な時に宮様はお思いつきになったものでございますわね。前からおいでになりたいという思召しを()らしてお置きくださいましたら、もったいない方でいらっしゃるのですもの、どうにかいい取り計らいようもありましたのに、御思案の足らない御行動でございましたわね」
2.9.7 と、お困り申す。

2.9.8 帰参して、「これこれです」と申し上げると、「なるほど、どんなに騒いでいるだろう」と、ご想像になって、
右近は礼儀としての好意を表して言った。そして居間のほうへ行き、聞いたとおりを宮へ申し上げた。中宮の御心配あそばされること、左大臣の言葉も道理にお思われになり、姫君へ、
2.9.9
所狭(ところせ)()こそわびしけれ
(かろ)らかなるほどの殿上人(てんじゃうびと)などにて、しばしあらばや。
いかがすべき。
かうつつむべき人目(ひとめ)も、(はばか)りあふまじくなむ。
「窮屈な身分はつらいものだ。
軽い身分の殿上人などで、しばらくいたいものだ。
どうしたらよいだろうか。
このように慎むべき外聞も、構ってはいられない。
「私は窮屈そのもののような身の上がわびしくてならない。軽い殿上役人級の地位にしばらく置いてほしい。これからどうすればいいのでしょう。このうるさいことをはばかって出て来ないでおられる私とは思われない。
2.9.10
大将(だいしゃう)もいかに(おも)はむとすらむ。
さるべきほどとは()ひながら、あやしきまで、(むかし)より(むつ)ましき(なか)に、かかる(こころ)(へだ)ての()られたらむ(とき)()づかしう、またいかにぞや。
大将もどのように思うであろうか。
親しくて当然と言ってよいながら、不思議なまでに昔から親しい仲で、このような秘密が知られた時は、恥ずかしく、またどんなであろうか。
大将も聞けばどんなに感情を害することだろう。濃い親戚(しんせき)関係とはいうものの不思議なくらい少年時代から仲よくつきあってきた人に、こうした秘密が知れれば恥ずかしいことだろうと思う。
2.9.11
()のたとひに()ふこともあれば、()(どほ)なるわがおこたりをも()らず、(うら)みられたまはむをさへなむ(おも)ふ。
(ゆめ)にも(ひと)()られたまふまじきさまにて、ここならぬ(ところ)()(はな)れたてまつらむ」
世のたとえに言うこともあるので、待ち遠しがらせている自分の怠慢を顧みずに、あなたが恨まれなさるだろうとまで心配になります。
まったく誰にも知られぬ状態で、ここではない所にお連れ申し上げよう」
それからまた男は身勝手で自己の不誠意は(たな)へ上げて女の変心したのを責めるものだというから、自身の愛の足りなかったことは反省せずに、あなたが恨まれることになりはしないかということまで心配されますよ。夢にも人に知られないようにして、ここでない所へあなたをつれて行ってしまおうと私は考えていますよ」
2.9.12
とぞのたまふ。
今日(けふ)さへかくて()もりゐたまふべきならねば、()でたまひなむとするにも、(そで)(なか)にぞ(とど)めたまひつらむかし
とおっしゃる。
今日までもここにじっとしていらっしゃるわけにはいかないので、お出になろうとするにも、魂は女の袖の中にお残しになって行くのであろう。
とお言いになった。次の日もとどまっておいでになることはできなかったから、帰ろうとあそばすのであったが、魂は恋人の(そで)の中にとどめてお置きになるように見えた。
2.9.13
()()てぬ(さき)にと、(ひと)びとしはぶき(おどろ)かしきこゆ。
妻戸(つまど)にもろともに()ておはして、()でやりたまはず。
すっかり明けない前にと、供人たちは咳払いをしてお促し申す。
妻戸まで一緒に連れてお出でになって、とても外にお出になれない。
せめて明るくならぬうちにとお供の人たちは(せき)払いをしてお促しするのであった。妻戸の所へ女をいっしょにつれておいでになって、さてそこから別れてお行きになることがおできにならない。
2.9.14 「いったいどうしてよいか分からない
先に立つ涙が道を真暗にするので」
世に知らず惑ふべきかな
先に立つ涙も道をかきくらしつつ
2.9.15
(をんな)も、(かぎ)りなくあはれと(おも)ひけり。
女も、限りなく悲しいと思った。
女も限りなく別れを悲しんだ。
2.9.16 「涙も狭い袖では抑えかねますので
どのように別れを止めることができましょうか」
涙をもほどなき(そで)にせきかねて
いかに別れをとどむべき身ぞ
2.9.17
(かぜ)(おと)もいと(あら)ましく、霜深(しもふか)(あかつき)に、おのが衣々(きぬぎぬ)(ひや)やかになりたる心地(ここち)して、御馬(おほんむま)()りたまふほど、()(かへ)すやうにあさましけれど、御供(おほんとも)(ひと)びと、「いと(たわぶ)れにくし」と(おも)ひてただ(いそ)がしに(いそ)がし()づれば、(われ)にもあらで()でたまひぬ。
風の音もとても荒々しく、霜の深い早朝に、お互いの衣装も冷たくなった気がして、お馬にお乗りになるとき、引き返す気持ちのようで驚くほどつらいが、お供の人々が、「まったく冗談ではない」と思って、ひたすら急がして出発させたので、魂の抜けた思いでお出になった。
風の音も荒くなっていた霜の深い暁に、衣服さえも冷やかな触感を与えるとお覚えになり、宮は馬へお乗りになったものの、何度となく引き返したくおなりになったのを、お供の人がしいて冷酷に心を持ちお馬を急がせてまた歩ませたために、お心でもなく山荘を後ろにあそばすことになった。
2.9.18
この五位二人(ごゐふたり)なむ、御馬(おほんむま)(くち)にはさぶらひける。
さかしき山越(やまご)()でてぞ、おのおの(むま)には()る。
みぎはの(こほり)()みならす(むま)足音(あしおと)さへ、心細(こころぼそ)くもの(がな)し。
(むかし)もこの(みち)のみこそは、かかる山踏(やまぶ)みはしたまひしかば、あやしかりける(さと)(ちぎ)りかな」と(おぼ)す。
この五位の二人が、お馬の口取りとして仕えた。
険しい山道をすっかり越えて、それぞれの馬に乗る。
水際の氷を踏みならす馬の足音までが、心細く何となく悲しい。
以前もこの道だけは、このような山歩きもなさったので、「不思議な宿縁の山里だなあ」とお思いになる。
時方ともう一人の五位が馬の口を取っていたのである。けわしい所を越えてから自身らも馬に乗った。宇治川の(みぎわ)の氷を踏み鳴らす馬の足音すらも宮のお心を悲しませた。昔もこの道だけで山踏みをした自分である、不思議な因縁の続く宇治の道ではないかと思召(おぼしめ)した。

第三章 浮舟と薫の物語 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す


第一段 匂宮、二条院に帰邸し、中君を責める

3.1.1
二条(にでう)(ゐん)におはしまし()きて、女君(をんなぎみ)のいと心憂(こころう)かりし(おほん)もの(かく)しもつらければ、(こころ)やすき(かた)大殿籠(おほとのご)もりぬるに、()られたまはず、いと(さび)しきに、もの(おも)ひまされば、心弱(こころよわ)(たい)(わた)りたまひぬ
二条の院にお着きになって、女君がたいそう水臭くお隠しになっていたことが情けないので、気楽な方の部屋でお寝みになったが、眠ることがおできになれず、とても寂しく物思いがまさるので、心弱く対の屋にお渡りになった。
二条の院へお帰りになった兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は、恋人のありかについて夫人があくまでも沈黙を守り続けたのは同情のないことであったとお恨めしくお思われになる心から、御自身の居間のほうへおはいりになりお(やす)みになったが、お寝つきになれなかったし、お寂しくはあったし、お物思いがつのるばかりであるため、結局夫人の所へおいでになることになった。
3.1.2
何心(なにごころ)もなく、いときよげにておはす。
めづらしくをかしと()たまひし(ひと)よりも、またこれはなほありがたきさまはしたまへりかし」と()たまふものから、いとよく()たるを(おも)()でたまふも、胸塞(むねふた)がれば、いたくもの(おぼ)したるさまにて、御帳(みちゃう)()りて大殿籠(おほとのご)もる。
女君(をんなぎみ)()()りきこえたまひて、
何があったとも知らずに、とても美しそうにしていらっしゃる。
「又となく魅力的だと御覧になった人よりも、またこの人はやはり類稀な様子をしていらっしゃった」と御覧になる一方で、とてもよく似ているのを思い出しなさるにも、胸が塞がる思いがして、ひどく物思いをなさっている様子で、御帳台に入ってお寝みになる。
女君もお連れ申してお入りになって、
何も知らぬふうで中の君はきれいな顔をしていた。まれな美女であると御覧になった人よりもこれはまた一段まさった容姿であるとお認めになりながら、夫人の顔からよく似ていた恋人がお思い出されになった刹那(せつな)に胸のふさがれた気があそばすのであったから、深く物思いのある御様子で帳台へはいってお寝みになろうとした。伴ってお行きになった中の君に、
3.1.3
心地(ここち)こそいと()しけれ
いかならむとするにかと、心細(こころぼそ)くなむある。
まろは、いみじくあはれと見置(みお)いたてまつるとも(おほん)ありさまはいととく()はりなむかし
(ひと)本意(ほい)は、かならずかなふなれば」
「気分がとても悪い。
どうなるのだろうかと、心細い気がする。
わたしは、どんなにも深く愛していても先立ってしまったら、お身の上はまことすぐに変わってしまうでしょうね。
人の思いは、きっと通るものですからね」
「私は身体(からだ)のぐあいが非常に悪い。これでだめになってしまうのではないかと心細いのですよ。私は非常にあなたを愛して死んで行っても、死んだあとであなたの心はすぐに変わってしまい、他の人を愛するようになるのでしょう。人間の一念というものはいつか成就するものだから、あの人だってそうだ。願いのかなう日があるに違いない」
3.1.4
とのたまふ。
けしからぬことをも、まめやかにさへのたまふかな」と(おも)ひて、
とおっしゃる。
「ひどいことを、真面目になっておっしゃるわ」と思って、
とお言いになった。こんな奇怪なことを至極まじめにお言いになるではないかと中の君は思い、
3.1.5
かう()きにくきことの()りて()こえたらばいかやうに()こえなしたるにかと、(ひと)(おも)()りたまはむこそ、あさましけれ。
心憂(こころう)()には、すずろなることもいと(くる)しく」
「このように聞きずらいことが漏れ聞こえたら、どのように申し上げたのかと、あちらもお考えになりましょうことが、たまりません。
不運の身には、いい加減な冗談もとてもつらいので」
「こうした醜い疑いを持っておいでになることを大将がお聞きになれば、何か中傷をしたかと私の思われますのがあさましゅうございます。薄幸な私はただいじめるために言っていらっしゃることでも重大なことのように苦しみます」
3.1.6
とて、(そむ)きたまへり。
(みや)も、まめだちたまひて、
と言って、横をお向きになった。
宮も、真面目になって、
と言って、夫人はあちらへ顔を向けた。宮も真剣なふうにおなりになって、
3.1.7
まことにつらしと(おも)ひきこゆることもあらむは、いかが(おぼ)さるべき。
まろは、(おほん)ためにおろかなる(ひと)かは
(ひと)も、ありがたしなどとがむるまでこそあれ。
(ひと)にはこよなう(おも)()としたまふべかめり。
()れもさべきにこそはとことわらるるを、(へだ)てたまふ御心(みこころ)(ふか)きなむ、いと心憂(こころう)き」
「ほんとうにつらいとお思い申し上げることがあるのは、どのようにお思いになるでしょう。
わたしは、
あなたにとっていい加減な人でしょうか。誰もが、めったにい
ない人だなどと、言い立てるくらいです。誰か
に比べてこの上なく見下しなさるようだ。誰もそのような運命なのだろうと、自然と理解されるが、隔てなさる
「いじめるためなどでなく、真底からあなたを恨んでいることが私にあったらどうしますか。私はあなたのために決して薄情な良人(おっと)でなかったはずだ。珍しいとまで世間で言われているくらいですよ。それだのに、あなたはあの人ほどに私を愛していてくれない。それも宿縁によることだろうとは思うけれど、私に正直なことを言ってくれない点が恨めしくてならない」
3.1.8
とのたまふにも、宿世(すくせ)のおろかならで、(たづ)()りたるぞかし」と(おぼ)()づるに、(なみだ)ぐまれぬ。
まめやかなるを、「いとほしう、いかやうなることを()きたまへるならむ」と(おどろ)かるるに、いらへきこえたまはむ(こと)もなし。
とおっしゃるにつけても、「宿世が並々でなく、探し出したのだ」と思い出されると、自然と涙ぐまれた。
真剣なお姿を、「お気の毒で、どのようなことをお聞きになったのだろう」とはっとさせられるが、お答え申し上げなさる言葉もない。
と言っておいでになりながら、その宿縁が並み並みでなかったから思う人に再会することができたとお思われになることで涙ぐまれたもう宮であった。いつものように冗談(じょうだん)混じりのことでなく、どこまでもまじめでおありになるのが気の毒で、どんな(うわさ)をお聞きになったのであろうと驚かれる夫人は、返辞もできなくなってしまった。
3.1.9
ものはかなきさまにて()そめたまひしに、(なに)ごとをも(かろ)らかに()(はか)りたまふにこそはあらめ。
すずろなる(ひと)をしるべにて、その心寄(こころよ)せを(おも)()(はじ)めなどしたる(あやま)ちばかりに、おぼえ(おと)()にこそ」と(おぼ)(つづ)くるもよろづ(かな)しくて、いとどらうたげなる(おほん)けはひなり。
「ちょっとした関係で結婚なさったので、どんなことも軽い気持ちで推量なさるのであろう。
縁故もない人を頼みにして、その好意を受け入れたりしたのが過ちで、軽く扱われる身なのだ」とお思い続けるのも、何かと悲しくて、ますます可憐なご様子である。
初めがあんなことであった自分は良人(おっと)の尊敬に値せぬように思われているのであろう、姉の女王(にょおう)への恋のために常識も失うばかりであった人が、導いて結ばせた縁であって、自分はまた姉の死後にまで持たれる誠意に好感を持つようになったことが原因で、愛を失った妻になったのであろうと過去のことも思われて、いろいろなことが皆悲しくて心をめいらせている中の君はいよいよ可憐(かれん)な人に見えた。
3.1.10
かの人見(ひとみ)つけたることは、しばし()らせたてまつらじ」と(おぼ)せば、(こと)ざまに(おも)はせて(うら)みたまふをただこの大将(だいしゃう)(おほん)ことをまめまめしくのたまふ」と(おぼ)すに、(ひと)虚言(そらごと)をたしかなるやうに()こえたらむ」など(おぼ)す。
ありやなしやを()かぬ()は、()えたてまつらむも()づかし。
「あの人を見つけたことは、しばらくの間はお知らせ申すまい」とお思いなので、「他の事に思わせて恨みなさるのを、ひたすらこの大将の事を真剣になっておっしゃる」とお思いになると、「誰かが嘘を真実のように申し上げたのだろう」などとお思いになる。
事実か否かを確かめない間は、お会い申すのも恥ずかしい。
あの恋人を発見したとはなおしばらくの間知らせずにおこうとお思いになるために、ほかのことに思わせて宮は怨言(えんげん)()らしておいでになるのを、中の君はただ(かおる)のことでまじめに恨みを告げておいでになるものと思い込み、だれが(うそ)をほんとうらしく言ったのであろうなどと思っていて、無根のことは無根のことであると宮のお認めにならぬ間は、妻としていっしょにいることも恥ずかしいと考えられた。

第二段 明石中宮からと薫の見舞い

3.2.1 内裏から大宮のお手紙が来たので、驚きなさって、やはり釈然としないご様子で、あちらにお渡りになった。
御所から中宮のお手紙の使いがまいったと申し上げられた時に、驚いてお起きになった宮は、まだ解けないお気持ちのままで御自身の室のほうへ行っておしまいになった。
3.2.2
昨日(きのふ)のおぼつかなさを
(なや)ましく(おぼ)されたなる、よろしくは(まゐ)りたまへ。
(ひさ)しうもなりにけるを」
「昨日の心配したことよ。
ご気分悪くいらっしゃったそうですが、悪くないようでしたら参内なさい。
久しく見えませんこと」
お手紙の内容は昨日お逢いになれなかったことで御心配をあそばしたことが言われてあるのであった。気分がよろしければおいでなさい。久しくお逢いしないでいるのですから。
3.2.3
などやうに()こえたまへれば、(さわ)がれたてまつらむも(くる)しけれど、まことに御心地(みここち)(たが)ひたるやうにて、その()(まゐ)りたまはず。
上達部(かんだちめ)など、あまた(まゐ)りたまへど御簾(みす)(うち)にて()らしたまふ。
などというように申し上げなさったので、大げさに心配していただくのもつらいけれど、ほんとうにご気分も正気でないようで、その日は参内なさらない。
上達部などが、大勢参上なさったが、御簾の中でその日はお過ごしになる。
などと言うものであったから、御心配をおさせ申すのは苦しいと思召しながら、実際病気らしい御気分であったためその日は参内されなかった。高官たちが幾人も伺候したが皆御簾(みす)の外へまでお来させになっただけであった。
3.2.4
(ゆふ)(かた)右大将参(うだいしゃうまゐ)りたまへり。
夕方、右大将が参上なさった。
夕方に源大将が出て来た。
3.2.5 「こちらに」
こちらへ
3.2.6
とて、うちとけながら対面(たいめん)したまへり。
と言って、寛いだ恰好でお会いなさった。
とお言いになって、御自身のそばへこの時はお迎えになった。
3.2.7
(なや)ましげにおはします、とはべりつれば、(みや)にもいとおぼつかなく(おぼ)()してなむ。
いかやうなる御悩(おほんなや)みにか」
「ご気分がお悪い、ということでございましたので、宮におかれましてもとてもご心配あそばされています。
どのようなご病気すか」
「御病気でいらせられますそうで、中宮様もお逢いあそばせないのを寂しく思召すふうでございました。どんな御症状ですか」
3.2.8
()こえたまふ。
()るからに、御心騷(みこころさわ)ぎのいとどまされば、言少(ことずく)なにて、(ひじり)だつと()ひながらこよなかりける山伏心(やまぶしごころ)かな。
さばかりあはれなる(ひと)さて()きて、(こころ)のどかに月日(つきひ)()ちわびさすらむよ」と(おぼ)す。
とお尋ね申し上げなさる。
お会いしただけで、お胸がどきどき高まってくるので、言葉少なくて、「聖めいているというが、途方もない山伏心だな。
あれほどかわいい女を、そのままにして置いて、何日も何日も待ちわびさせているとは」とお思いになる。
と薫はお尋ねした。顔を御覧になった時から胸騒ぎのひどくなったため、言葉少なに宮は相手をしておいでになった。僧がかった人とはいいながらも、人間的な感情を人の学びがたいまでにも殺している男ではないか。あれほど可憐な人に寂しい山荘住まいをさせ、日々待ち暮らさせているようなこともこの人にはできるのであるなどと宮はお思いになり、平生はそんな話でない時にさえ、まじめ男であることを薫は標榜(ひょうぼう)しているが、
3.2.9
(れい)は、さしもあらぬことのついでにだに、(われ)はまめ(びと)もてなし()のりたまふを、ねたがりたまひてよろづにのたまひ(やぶ)るを、かかること見表(みあら)はいたるを、いかにのたまはまし
されど、さやうの(たはぶ)(ごと)もかけたまはず、いと(くる)しげに()えたまへば、
いつもは、ほんの些細な機会でさえ、自分はまじめ人間だと振る舞い自称していらっしゃるのを、悔しがりなさって、何かと文句をおつけになるのを、このような事を発見したのを、どうしておっしゃっらないだろうか。
けれども、そのような冗談もおっしゃらず、とてもつらそうにお見えになるので、
こんなことがあるではないかなどと微細なことまでもあげてお責めになる宮でおありになったから、宇治の人を発見された以上は、どんなにそれでおからかいになるかもしれないのに、今日は冗談(じょうだん)も口へお出しになることはなくて、苦しい御様子が見えるため、
3.2.10
不便(ふびん)なるわざかな
おどろおどろしからぬ御心地(みここち)の、さすがに日数経(ひかずふ)るは、いと()しきわざにはべり。
御風邪(おほんかぜ)よくつくろはせたまへ」
「お気の毒なことです。
大したご病気ではなくても、やはり何日も続くのは、とてもよくないことでございます。
お風邪を充分ご養生なさいませ」
「困ったことでございますね。たいしてお悪いのではなくて、しかも同じような容体の続きますのは悪い兆候でございます。風邪(かぜ)をまずお(なお)しになる必要がございますよ」
3.2.11
など、まめやかに()こえおきて()でたまひぬ。
()づかしげなる(ひと)なりかし
わがありさまを、いかに(おも)(くら)べけむ」など、さまざまなることにつけつつも、ただこの(ひと)(とき)間忘(まわす)れず(おぼ)()づ。
などと、心からお見舞い申し述べてお出になった。
「気のひけるほど立派な人である。
わたしの態度を、どのように比較しただろう」などと、いろいろな事柄につけて、ひたすらあの女を、束の間も忘れずお思い出しになる。
などとまじめに見舞いを言いおいて薫は帰った。上品な男である、あの人と自分をどんなふうにあの恋人は比較して見ることだろうなどと、何事も宇治の人を離れては思うことのおできにならない心に宮はなっておいでになった。
3.2.12
かしこには石山(いしやま)()まりて、いとつれづれなり。
御文(おほんふみ)には、いといみじきことを()(あつ)めたまひて(つか)はす。
それだに(こころ)やすからず、時方(ときかた)」と()しし大夫(たいふ)従者(ずさ)の、(こころ)()らぬしてなむやりける。
あちらでは、石山詣でも中止になって、まことに何もすることない。
お手紙には、とてもつらい思いをたくさんお書きになってお遣りになる。
それでさえ気が落ち着かず、「時方」と言って召し出した大夫の従者で、事情を知らない者をして遣わしたのであった。
宇治の山荘の人たちは石山(まい)りも中止になってつれづれを覚えていた。宮からのお手紙はあらんかぎりの熱情を盛って長くお書きになったのが行った。それを送ることにすら苦心はいったのである。時方(ときかた)と呼ばれていたあの五位の家来で、何も知らぬ侍を選んでその使いはさせた。
3.2.13
右近(うこん)(ふる)()れりける(ひと)の、殿(との)御供(おほんとも)にて(たづ)()でたる、さらがへりてねむごろがる」
「私め右近が古くから知っていた人で、殿のお供で訪ねて来まして、昔に縒りを戻して懇意になろうとするのです」
右近を以前知っていた人が大将の供をして行って、話などをした時から、またしきりに好意を運んでくるのである
3.2.14
と、友達(ともだち)には()()かせたり。
よろづ右近(うこん)ぞ、虚言(そらごと)しならひける
と、女房仲間には言い聞かせていた。
何かと右近は、嘘をつくことになったのであった。
と右近は他の朋輩(ほうばい)に言っていた。際限なく(うそ)を言わねばならぬ右近になっているのである。

第三段 二月上旬、薫、宇治へ行く

3.3.1
(つき)もたちぬ
かう(おぼ)()らるれどおはしますことはいとわりなし。
かうのみものを(おも)はば、さらにえながらふまじき()なめり」と、心細(こころぼそ)さを()へて(なげ)きたまふ。
月が替わった。
このようにお分かりになるが、お出かけになることはとても無理である。
「こうして物思いばかりしていたら、生きてもいられないようなわが身だ」と、心細さが加わってお嘆きになる。
二月になった。逢いたいとこがれ続けておいでになる宮でおありになるが宇治へお出かけになることは困難であった。こう煩悶(はんもん)ばかりをしていては若死にするほかはあるまいと命の心細さまでもそれに添えてお歎かれになった。
3.3.2
大将殿(だいしゃうどの)すこしのどかになりぬるころ、(れい)の、(しの)びておはしたり。
(てら)(ほとけ)など(おが)みたまふ。
御誦経(みずきゃう)せさせたまふ(そう)に、物賜(ものたま)ひなどして、(ゆふ)(かた)ここには(しの)びたれど、これはわりなくもやつしたまはず。
烏帽子直衣(えぼうしなほし)姿(すがた)いとあらまほしくきよげにて、(あゆ)()りたまふより、()づかしげに、用意(ようい)ことなり。
大将殿は、少しのんびりしたころ、いつものように、人目を忍んでお出でになった。
寺で仏などを拝みなさる。
御誦経をおさせになる僧に、お布施を与えたりして、夕方に、こちらには人目を忍んでだが、この人はひどく身を簡略になさるでもない。
烏帽子に直衣姿が、たいそう理想的で美しそうで、歩んでお入りになるなり、こちらが恥ずかしくなりそうで、心づかいが格別である。
薫は公務の少しひまになったころ例のように微行で宇治へ出かけた。寺へ行き仏に謁し、誦経(ずきょう)をさせ、僧へ物を与えなどして夕方から山荘へはいった。微行とはいっても、これはしいて人目を避ける必要もないわけで、相当に従者は率いて狩衣(かりぎぬ)姿ではなく、烏帽子直衣(えぼしのうし)姿ではいって来た時から、洗練された気品はあたりを圧した。
3.3.3
(をんな)いかで()えたてまつらむとすらむと(そら)さへ()づかしく(おそ)ろしきに、あながちなりし(ひと)(おほん)ありさま、うち(おも)()でらるるに、また、この(ひと)()えたてまつらむを(おも)ひやるなむ、いみじう心憂(こころう)き。
女は、どうしてお会いできようかと、空にまで目があって恐ろしく思われるので、激しく一途であった方のご様子が、自然と思い出されると、一方で、この方にお会いすることを想像すると、ひどくつらい。
姫君は罪を犯した身で薫を迎えることが苦しく天地に恥じられて恐ろしいにもかかわらず、不条理な恋を持って接近しておいでになった人のことが忘れられない心もあって、またこの人に貞操な女らしくして逢うことが非常に情けなかった。
3.3.4
「『われは(とし)ごろ()(ひと)をも皆思(みなおも)()はりぬべき心地(ここち)なむする』とのたまひしを、げに、そののち御心地苦(みここちくる)しとて、いづくにもいづくにも(れい)(おほん)ありさまならで、御修法(みすほふ)など(さわ)ぐなるを()くに、また、いかに()きて(おぼ)さむ」と(おも)ふもいと(くる)し。
「『私は今まで何年も会っていた女の思いが、皆あなたに移ってしまいそうだ』とおっしゃったのを、なるほど、その後はご気分が悪いと言って、どの方にもどの方にも、いつものようなご様子ではなく、御修法などと言って騒いでいるというのを聞くと、また、どのようにお聞きになってどのようにお思いになるだろうか」と、思うにつけてまことにつらい。
自分は今まで愛していた人への情けも皆捨てるほかはない気がすると宮はお語りになったのであったが、そのお言葉どおりに御病気に託してどちらの夫人の所へもおいでになることはなくて、おそばで始終修法ばかりを行なわせておいでになるというそうであるのに、自分が大将と夫婦らしくしていたということをお聞きになればどんなふうにお憎みになるであろうと思われるのも苦しかった。
3.3.5
この(ひと)はたいとけはひことに、心深(こころふか)く、なまめかしきさまして、(ひさ)しかりつるほどのおこたりなどのたまふも、言多(ことおほ)からず、(こひ)(かな)しとおり()たねど、(つね)にあひ()(こひ)(くる)しさを、さまよきほどにうちのたまへる、いみじく()ふにはまさりていとあはれと(ひと)(おも)ひぬべきさまをしめたまへる人柄(ひとがら)なり。
(えん)なる(かた)さるものにて、()末長(すゑなが)(ひと)(たの)みぬべき(こころ)ばへなど、こよなくまさりたまへり
この方はこの方で、たいそう感じが格別で、愛情深く、優美な態度で、久しく会わなかったご無沙汰のお詫びをおっしゃるのも、言葉数多くなく、恋しい愛しいと直接には言わないが、いつも一緒にいられない恋の苦しい気持ちを、体裁よくおっしゃるのが、ひどく言葉を尽くして言うよりもまさって、たいそうしみじみと誰もが思うにちがいないような感じを身につけていらっしゃる人柄である。
やさしく美しい方面は無論のこと、将来末長く信頼できる性格などが、この上なくまさっていらっしゃった。
薫はまた別箇の存在と見えて優美なふうで、ながく来られなかった言いわけなどをするにも多くの言葉は用いない。恋しい悲しいとひたひたと迫って言うことはないが、常に逢いがたい人に持つ恋の苦しさを品よく言う効果は、誇張された多くの言葉がもたらすそれにまさって、心を()く力は強く、女の愛は自然に得られる風格が備わっていた、恋の相手に(えん)な趣を覚えしめることよりも、行く末長く信頼のできる人柄である点で、今一人よりはるかにまさっていた。
3.3.6
(おも)はずなるさまの(こころ)ばへなど()()かせたらむ(とき)も、なのめならずいみじくこそあべけれ。
あやしううつし(ごころ)もなう(おぼ)()らるる(ひと)を、あはれと(おも)ふも、それはいとあるまじく(かろ)きことぞかし。
この(ひと)()しと(おも)はれて、(わす)れたまひなむ」心細(こころぼそ)さは、いと(ふか)うしみにければ、(おも)(みだ)れたるけしきを、(つき)ごろにこよなうものの心知(こころし)り、ねびまさりにけり。
つれづれなる()()のほどに、(おも)(のこ)すことはあらじかし」と()たまふも、心苦(こころぐる)しければ、(つね)よりも(こころ)とどめて(かた)らひたまふ。
「心外なと思われる様子の気持ちなどが、漏れてお耳に入った時は、とても大変なことになるであろう。
不思議なほど正気もなく恋い焦がれている方を、恋しいと思うのも、それはとてもとんでもなく軽率なことだわ。
この方に嫌だと思われて、お忘れになるってしまう」心細さは、とても深くしみこんでいたので、思い乱れている様子を、「途絶えていたこの幾月間に、すっかり男女の情理をわきまえ、成長したものだ。
何もすることのない住処にいる間に、あらゆる物思いの限りを尽くしたのだろうよ」と御覧になるにつけても、気の毒なので、いつもより心をこめてお語らいになる。
自分が意外な恋をしていることをこの人が知れば、真心からどんなに歎くことであろう、狂おしいようにも自分を熱愛する人に自分も愛は覚えるが、それはまじめな人間の心とは言えない、軽佻(けいちょう)至極なことである、この人にうとまれ、捨てられてしまった時は、どんなに深い傷手(いたで)を心に受けることであろうなどと煩悶をしている様子も、薫の目にはしばらくのうちにめざましく心の成長した跡と見える。つれづれな山荘の生活をしていれば、ありとあらゆる物思いは皆覚えるはずであるからとかわいそうであるため、平生よりも熱心に語り慰めるのであった。

第四段 薫と浮舟、それぞれの思い

3.4.1
(つく)らする(ところ)やうやうよろしうしなしてけり。
一日(ひとひ)なむ、()しかば、ここよりは気近(けぢか)(みづ)に、(はな)()たまひつべし。
三条(さんでう)(みや)(ちか)きほどなり。
()()れおぼつかなき(へだ)ても、おのづからあるまじきを、この(はる)のほどに、さりぬべくは(わた)してむ」
「造らせている所は、だんだんと出来上がって来た。
先日、見に行ったが、ここよりはやさしい感じの川があって、花も御覧になれましょう。
三条宮邸も近い所です。
毎日会わないでいる不安も、自然と消えましょうから、この春のころに、差し支えなければお連れしよう」
「新築させている家がどうやら形にはなりましたよ。この間見に行ったのですが、ここよりは水のある場所に近くて、桜なども相当にあります。三条の宮とも距離は遠くないのです。そこへ来れば毎日でも逢えないことはないのですから、この春のうちに都合さえよければあなたを移そうと思う」
3.4.2
(おも)ひてのたまふも、かの(ひと)のどかなるべき所思(ところおも)ひまうけたりと、昨日(きのふ)ものたまへりしをかかることも()らで、(おぼ)すらむよ」と、あはれながらも、そなたになびくべきにはあらずかし(おも)ふからにありし(おほん)さまの、面影(おもかげ)おぼゆれば、(われ)ながらも、うたて心憂(こころう)()」と、(おも)(つづ)けて()きぬ。
と思っておっしゃるのにつけても、「あの方が、のんびりとした所を考えついたと、昨日もおっしゃっていたが、このようなことをご存知なくて、そのようにお考えになっていることよ」と、心が痛みながらも、「そちらに靡くべきではないのだ」と思うその一方で、先日のお姿が、面影に現れるので、「自分ながらも嫌な情けない身の上だわ」と、思い続けて泣いた。
と薫の言うのを聞いていて、隠れてのどかに住む家の用意をさせているとは昨日(きのう)の宮のお手紙に書かれてあったことである、大将がこうもきめているのをお知りにならずに今もそんなことを考えておいでになるのかと哀れに思われない姫君ではないが、たとえそうであってもこの人からのがれて宮のほうへ行くようなことはなすべきでないと思うとまた面影に宮のお顔が見える。自分ながらも悪い心である、こんな心を持たせるようにされたのは恨めしい宮様であるとそれからそれへと思い続けて姫君は泣き出した。
3.4.3
御心(みこころ)ばへの、かからでおいらかなりしこそ、のどかにうれしかりしか。
(ひと)のいかに()こえ()らせたることかある。
すこしもおろかならむ(こころ)ざしにては、かうまで(まゐ)()べき()のほど、(みち)のありさまにもあらぬを」
「お気持ちが、このようでなくおっとりとしていたのが、のんびりと嬉しかった。
誰かが何か言い聞かせたことがあるのですか。
少しでも並々の愛情であったら、こうしてわざわざやって来ることができる身分ではないし、道中でもないのですよ」
「あなたがこんなふうでなくおおようだったら、私も心配がなくておられたのですよ。だれか中傷をした者でもあったのですか、少しでもあなたをおろそかに思っていれば、こんなにして逢いに来られる私の身分でも道程(みちのり)でもないのに」
3.4.4
など、朔日(ついたち)ごろ夕月夜(ゆふづくよ)に、すこし端近(はしちか)()して(なが)()だしたまへり。
(をとこ)は、()ぎにし(かた)のあはれをも(おぼ)()(をんな)は、(いま)より()ひたる()()さを(なげ)(くは)へて、かたみにもの(おも)はし。
などと言って、初旬ころの夕月夜に、少し端に近い所に臥して外を眺めていらっしゃった。
男は、亡くなった姫君のことを思い出しなさって、女は、今から加わった身のつらさを嘆いて、お互いに物思いする。
などと薫は言い、月初めの夕月夜に少し縁へ近い所へ出て横になりながら二人は外を見ていた。薫は昔の人を思い、女は新しい物思いになった恋に苦しみ、双方とも離れ離れのことを考えていた。

第五段 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す

3.5.1
(やま)(かた)霞隔(かすみへだ)てて(さむ)洲崎(すさき)()てる(かささぎ)姿(すがた)も、(ところ)からはいとをかしう()ゆるに、宇治橋(うぢばし)のはるばると()わたさるるに、柴積(しばつ)(ぶね)所々(ところどころ)()きちがひたるなど、(ほか)にて目馴(めな)れぬことどものみとり(あつ)めたる(ところ)なれば、()たまふたびごとに、なほそのかみのことのただ(いま)心地(ここち)して、いとかからぬ(ひと)見交(みか)はしたらむだに、めづらしき(なか)のあはれ(おほ)かるべきほどなり。
山の方は霞が隔てて、寒い洲崎に立っている鵲の姿も、場所柄かとても興趣深く見えるが、宇治橋がはるばると見渡されるところに、柴積み舟があちこちで行き交っているのなどが、他の場所では見慣れないことばかりがあれやこれやある所なので、御覧になる度ごとに、やはりその当時のことがまるで今のような気がして、ほんとにそうでもない女を相手にする時でさえ、めったにない逢瀬の情が多いにちがいないところである。
山のほうは霞がぼんやりと隠していて、寒い洲崎(すさき)のほうに(さぎ)の立っている姿があたりの景によき調和を見せてい、はるばると長い宇治橋が向こうにはかかり、柴船(しばぶね)が川の上の所々を行きちがって通るのも他と違った感傷的な風景であったから、見るたびに昔のことが今のような気がして、この姫君ほどの人でない女にもせよ、いっしょにおれば(あわれ)みはわいてくるであろうと思われるのに、
3.5.2
まいて、(こひ)しき(ひと)よそへられたるもこよなからず、やうやうものの心知(こころし)り、都馴(みやこな)れゆくありさまのをかしきも、こよなく()まさりしたる心地(ここち)したまふに、(をんな)は、かき(あつ)めたる(こころ)のうちに、(もよほ)さるる(なみだ)ともすれば()でたつを、(なぐさ)めかねたまひつつ、
それ以上に、恋しい女に似ているのもこの上なく、だんだんと男女の情理を知り、都の女らしくなってゆく様子がかわいらしいのも、すっかり良くなった感じがなさるが、女は、あれこれ物思いする心中に、いつの間にかこみ上げてくる涙、ややもすれば流れ出すのを、慰めかねなさって、
まして恋しい人に似たところが多く、かわりとして見てもそう格段な価値の相違もない人が、ようやく思想も成熟してき、都なれていく様子の美しさも時とともに加わる人であるからと薫は満足感に似たものを覚えて相手を見ていたが、女はいろいろな煩悶のために、ともすれば涙のこぼれる様子であるのを大将はなだめかねていた。
3.5.3 「宇治橋のように末長い約束は朽ちないから
不安に思って心配なさるな
「宇治橋の長き契りは朽ちせじを
あやぶむ方に心騒ぐな
3.5.4 やがてお分かりになりましょう」
そのうち私の愛を理解できますよ」
3.5.5
とのたまふ。
とおっしゃる。
と言った。
3.5.6 「絶え間ばかりが気がかりでございます宇治橋なのに
朽ちないものと依然頼りにしなさいとおっしゃるのですか」
絶え間のみ世には危ふき宇治橋を
朽ちせぬものとなほたのめとや
3.5.7
さきざきよりもいと見捨(みす)てがたく、しばしも()ちとまらまほしく(おぼ)さるれど、(ひと)のもの()ひのやすからぬに、(いま)さらなり。
(こころ)やすきさまにてこそ」など(おぼ)しなして、(あかつき)(かへ)りたまひぬ。
いとようもおとなびたりつるかな」と、心苦(こころぐる)しく(おぼ)()づること、ありしにまさりけり
以前よりもまことに見捨てがたく、暫くの間も逗留していたくお思いになるが、世間の噂がうるさいので、「今さら長居をすべきでもない。
気楽に会える時になったら」などとお考えになって、早朝にお帰りになった。
「とても素晴らしく成長なさったな」と、おいたわしくお思い出しになること、今まで以上であった。
と女は言う。今まで来て逢っていた時よりも別れて行くのがつらく、少しの時間でも多くそばにいたい気のする薫であったが、世間はいろいろな批評をしたがるものであるから、今まで事もなく隠すことのできた愛人との間のことが、今になって暴露することになってはまずい、よい時節に公表もできるのを待とうと思い夜明けに帰った。感情の豊かに備わった女になったと薫は宇治の人のことを思い、哀れに思い出されることは以前に倍した。

第四章 浮舟と匂宮の物語 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す


第一段 二月十日、宮中の詩会催される

4.1.1
如月(きさらぎ)十日(とをか)のほどに、内裏(うち)文作(ふみつく)らせたまふとて、この(みや)大将(だいしゃう)(まゐ)りあひたまへり。
(をり)()ひたる(もの)調(しら)べどもに、(みや)御声(おほんこゑ)はいとめでたくて、(むめ)()」など(うた)ひたまふ。
(なに)ごとも(ひと)よりはこよなうまさりたまへる(おほん)さまにて、すずろなること(おぼ)()らるるのみなむ、罪深(つみふか)かりける
二月の十日ころに、内裏で作文会を開催あそばすということで、この宮も大将も参内なさった。
季節に適った楽器の響きに、宮のお声は実に素晴らしく、「梅が枝」などを謡いなさる。
何事も誰よりもこの上なく上手でいらっしゃるご様子で、つまらないことに熱中なさることだけが、罪深いことであった。
二月の十日に宮中で詩会があって、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮もお出になり、右大将もまいった。この季節によくかなった音楽の感じは皆よくて、兵部卿の宮の御美声は人に深い感銘をお与えになるものであって、曲は梅が枝を歌われたのである。何事にも天才を持っておいでになる方であったが、よこしまな恋に心を打ち込んでおいでになるだけは罪の深いことである。
4.1.2
(ゆき)にはかに()(みだ)れ、(かぜ)など(はげ)しければ、御遊(おほんあそ)びとくやみぬ。
この(みや)御宿直所(おほんとのゐどころ)に、(ひと)びと(まゐ)りたまふ。
もの(まゐ)りなどして、うち(やす)みたまへり。
雪が急に降り乱れ、風などが烈しく吹いたので、御遊会は早く終わりになった。
この宮の御宿直部屋に、人びとがお集まりになる。
食事を召し上がったりして、休んでいらっしゃった。
にわかに雪が大降りになって、風もはげしく出てきたので、音楽遊びは予定より早く終わりを告げた。兵部卿の宮の宿直所(とのいどころ)に今日の参会者たちは集まって行き夜の食事をいただいたりしていた。
4.1.3
大将(だいしゃう)(ひと)にもののたまはむとて、すこし端近(はしちか)()でたまへるに、(ゆき)のやうやう()もるが、(ほし)(ひかり)におぼおぼしきを、(やみ)はあやなし」とおぼゆる(にほ)ひありさまにて、
大将、誰かに何かおっしゃろうとして、少し端近くにお出になったが、雪がだんだんと降り積もったのが、星の光ではっきりとしないので、「闇はわけが分からない」と思われる匂いや姿で、
右大将は部下の者か何かに命じることがあって少し縁側に近い所へ出ていたが、やや深く積もった雪が星の光にほのめいている夜であって「春の夜の(やみ)はあやなし梅の花色こそ見えね()やはかくるる」(かおる)の身からこんな気が放たれるような時
4.1.4 「小さい筵に衣を独り敷いて今夜も宇治の姫君はで待っていることだろう」
「衣かたしきこよひもや」(われを待つらん宇治の橋姫)
4.1.5
、うち()じたまへるも、はかなきことを(くち)ずさびにのたまへるも、あやしくあはれなるけしき()へる(ひと)ざまにて、いともの(ふか)げなり。
と、ふと口ずさみなさったのも、ちょっとしたことを口ずさんだのだが、妙にしみじみとした情感をそそる人柄なので、たいそう奥ゆかしく見える。
と口ずさんでいるのがしめやかな世界へ人を誘う力があった。
4.1.6
(こと)しもこそあれ(みや)()たるやうにて、御心騒(みこころさわ)ぐ。
他に歌はいくらでもあろうに、宮は寝入っていたようだが、お心が騒ぐ。
宇治の橋姫を言っているではないかと、さっきから転寝(うたたね)をしておいでになった宮のお心は騒いだ。
4.1.7
おろかには(おも)はぬなめりかし
片敷(かたし)(そで)(われ)のみ(おも)ひやる心地(ここち)しつるを、(おな)(こころ)なるもあはれなり。
(わび)しくもあるかな。
かばかりなる(もと)(ひと)をおきて()(かた)にまさる(おも)ひは、いかでつくべきぞ」
「いい加減には思っていないようだ。
独り寂しくいるだろうと、わたしだけが思いやっていると思ったのに、同じ気持ちでいるとは憎らしい。
やるせない話だ。
あれほどの元からの人をおいて、自分の方にいっそうの愛情を、どうして向けることができようか」
深く愛していないことはないらしい、橋姫の一人臥(ひとりね)(そで)を自分だけの思いやるものとしていたが、
4.1.8
とねたう(おぼ)さる。
と悔しく思わずにはいらっしゃれない。
同じ思いを運ぶ人もあるのかと身に()んでお思いになった。
4.1.9
明朝(つとめて)(ゆき)のいと(たか)()もりたるに、(ふみ)たてまつりたまはむとて御前(おまへ)(まゐ)りたまへる御容貌(おほんかたち)このころいみじく(さか)りにきよげなり。
かの(きみ)(おな)じほどにて、今二(いまふた)つ、()つまさるけぢめにや、すこしねびまさるけしき用意(ようい)などぞ、ことさらにも(つく)りたらむ、あてなる(をとこ)(ほん)にしつべくものしたまふ。
(みかど)御婿(おほんむこ)にて()かぬことなし」とぞ、世人(よひと)もことわりける。
(ざえ)なども、おほやけおほやけしき(かた)も、(おく)れずぞおはすべき
早朝、雪が深く積もったので、詩文を献上しようとして、御前に参上なさったご器量は、最近特に男盛りで美しそうに見える。
あの君も同じくらいの年齢で、もう二、三歳年長の違いからか、少し老成した態度や心配りなどは、特別に作り出したような、上品な男の手本のようでいらっしゃる。
「帝の婿君として不足がない」と、世間の人も判断している。
詩文の才能なども、政治向きの才能も、誰にも負けないでいらっしゃったのだろう。
わびしいことである、これほどりっぱな男を持っている女が、自分のほうへ多く好意をもってくれようとは信じられないと、ねたましくもまた思召(おぼしめ)された。雪が高く積もったこの翌朝、御前へ創作の詩を御持参になる宮のお姿は、今が美しい真盛りの方と見えた。右大将も同じ年ごろであった。二つ三つ上ではないかと思われるところにまた(まった)いような美があって、わざと作り出した若い貴人の手本かとも思われる。(みかど)の御婿としてこれほどふさわしい人はないと世人も大将のことを言っていた。学才も高く、政治家としての素養に欠けたところもない人であった。
4.1.10
文講(ふみかう)()てて、皆人(みなひと)まかでたまふ。
(みや)御文(おほんふみ)を、「すぐれたり」と()じののしれど、(なに)とも()()れたまはずいかなる心地(ここち)にて、かかることをもし()づらむ」と、そらにのみ(おも)ほしほれたり。
詩文の披講がすっかり終わって、参会者皆が退出なさる。
宮の詩文を「優れていた」と朗誦して誉めるが、何ともお感じにならず、「どのような気持ちで、こんなことをしているのか」と、ぼんやりとばかりしていらっしゃった。
各人の詩がどれも講じられ参会者は皆退散した。兵部卿の宮の詩が、ことに傑作であったと人々の賞讃(しょうさん)するのも宮にはうれしいことともお思われにならない。詩作などがどんな気でできたのであろうとぼんやりしておいでになるのである。

第二段 匂宮、雪の山道の宇治へ行く

4.2.1
かの(ひと)()けしきにもいとど(おどろ)かれたまひければ、あさましうたばかりておはしましたり。
(きゃう)には、友待(ともま)つばかり()(のこ)りたる(ゆき)山深(やまふか)()るままに、やや()(うづ)みたり。
あの方のご様子からも、ますますはっとなさったので、無理な算段をしてお出かけになった。
京では、わずかばかり消え残っている雪が、山深く入って行くにつれて、だんだんと深く積もって道を埋めていた。
薫に宇治の人を思うふうの見えたことで驚かされたようにも思っておいでになるのであったから、無理な策をあそばして宇治へお出かけになることになった。京の中ではあとから来る仲間を待っているほどに消え残った雪も、山路に深くおはいりになるにしたがって厚く積もっているのに気がおつきになった。
4.2.2
(つね)よりもわりなきまれの細道(ほそみち)()けたまふほど、御供(おほんとも)(ひと)も、()きぬばかり(おそ)ろしう、わづらはしきことをさへ(おも)ふ。
しるべの内記(ないき)は、式部少輔(しきぶのせふ)なむ()けたりける。
いづ(かた)もいづ(かた)ことことしかるべき(つかさ)ながら、いとつきづきしく、()()げなどしたる姿(すがた)もをかしかりけり
いつもよりひどい人影も稀な細道を分け入って行きなさるとき、お供の人も、泣き出したいほど恐ろしく、厄介なことが起こる場合まで心配する。
案内役の大内記は、式部少輔を兼官していた。
どちらの官も重々しくしていなければならない官職であるが、とても似合わしく指貫の裾を引き上げたりしている姿はおかしかった。
平生以上に見わけがたい細路をおいでになるのであったから、供の人たちも泣き出さんばかりに恐ろしがっていて、山賊の出ることなどをあやぶんでいた。案内役の内記は式部少輔(しょうゆう)を兼任する官吏であった。二つとも(りゅう)とした文事の役であるのが、しなれたように(はかま)を高くくくり上げたりしてお付きして行くのもおかしかった。
4.2.3
かしこには、おはせむとありつれど、「かかる(ゆき)には」とうちとけたるに、夜更(よふ)けて右近(うこん)消息(せうそこ)したり。
「あさましう、あはれ」と、(きみ)(おも)へり
右近(うこん)は、「いかになり()てたまふべき(おほん)ありさまにか」と、かつは(くる)しけれど、今宵(こよひ)はつつましさも(わす)れぬべし
()(かへ)さむ(かた)もなければ、(おな)じやうに(むつ)ましくおぼいたる(わか)(ひと)の、(こころ)ざまも(あう)なからぬを(かた)らひて、
あちらでは、いらっしゃるという知らせはあったが、「このような雪ではまさか」と気を許していたところに、夜が更けてから右近に到着の旨を伝えた。
「驚いたわ、まあ」と、女君までが感動した。
右近は、「どのようにしまいにはおなりになるお身の上であろうか」と、一方では心配だが、今夜は人目を憚る気持ちも忘れてしまいそうだ。
お断りするすべもないので、同じように親しくお思いになっている若い女房で、思慮も浅くない者と相談して、
山荘では宮のほうから出向くからというおしらせを受けていたが、こうした深い雪にそれは御実行あそばせないことと思って気を許していると、夜がふけてから、右近を呼び出して従者が宮のおいでになったことを伝えた。うれしいお志であると姫君は感激を覚えていた。右近はこんなことが続出して、行く末はどうおなりになるかと姫君のために苦しくも思うのであるが、こうした夜によくもと思う心はこの人にもあった。お断わりのしようもないとして、自身と同じように姫君から(むつ)まじく思われている若い女房で、少し頭のよい人を一人相談相手にしようとした。
4.2.4
いみじくわりなきこと。
(おな)(こころ)に、もて(かく)したまへ」
「大変に困りましたこと。
同じ気持ちで、秘密にしてください」
「少しめんどうな問題なのですが、その秘密を私といっしょに姫君のために隠すことに骨を折ってくださいな」
4.2.5
()ひてけり。
もろともに()れたてまつる。
(みち)のほどに()れたまへる()の、所狭(ところせ)(にほ)ふも、もてわづらひぬべけれど、かの(ひと)(おほん)けはひに()せてなむ、もて(まぎ)らはしける。
と言ったのであった。
一緒になってお入れ申し上げる。
道中で雪にお濡れになった薫物の香りが、あたりせましと匂うのも、困ってしまいそうだが、あの方のご様子に似せて、ごまかしたのであった。
と言ったのであった。そして二人で宮を姫君の所へ御案内した。途中で濡れておいでになった宮のお衣服から立つ高いにおいに困るわけであったが、大将のにおいのように紛らわせた。

第三段 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

4.3.1
()のほどにて()(かへ)りたまはむも、なかなかなべければ、ここの人目(ひとめ)もいとつつましさに、時方(ときかた)にたばからせたまひて、(かは)より遠方(をち)なる(ひと)(いへ)()ておはせむ」と(かま)へたりければ、先立(さきだ)てて(つか)はしたりける、夜更(よふ)くるほどに(まゐ)れり。
夜のうちにお帰りになるのも、かえって来なかったほうがましなくらいだから、こちらの人目もとても憚れるので、時方に計略をめぐらせなさって、「川向こうの人の家に連れて行こう」と考えていたので、先立って遣わしておいたのが、夜の更けるころに参上した。
夜のうちにお帰りになることは、逢いえぬ悲しさに別れの苦しさを加えるだけのものになるであろうからと思召した宮は、この家にとどまっておいでになる窮屈さもまたおつらくて、時方(ときかた)に計らわせて、川向いのある家へ恋人を伴って行く用意をさせるために先へそのほうへおやりになった内記が夜ふけになってから山荘へ来た。
4.3.2 「とてもよく準備してございます」
「すべて整いましてございます」
4.3.3
(まう)さす
こは、いかにしたまふことにか」と、右近(うこん)もいと(こころ)あわたたしければ、()おびれて()きたる心地(ここち)も、わななかれて、あやし。
(わらは)べの雪遊(ゆきあそ)びしたるけはひのやうにぞ、(ふる)()がりにける。
と申し上げさせる。
「これは、どうなさることか」と、右近もとても気がそぞろなので、寝惚けて起きている気持ちも、ぶるぶると震えて、正体もない。
子供が雪遊びをしている時のように、震え上がってしまった。
と時方は取り次がせた。にわかに何事を起こそうとあそばすのであろうと右近の心は騒いで、不意に眠りからさまされたのでもあったから身体がふるえてならなかった。子供が雪遊びをしているようにわなわなとふるえていた。
4.3.4
「いかでか」
「どうしてそのようなことが」
どうしてそんなことを
4.3.5
なども()ひあへさせたまはず、かき(いだ)きて()でたまひぬ。
右近(うこん)はこの後見(うしろみ)にとまりて侍従(じじゅう)をぞたてまつる。
などという余裕もお与えにならず、抱いてお出になった。
右近はこちらの留守居役に残って、侍従をお供申させる。
と異議をお言わせになるひまもお与えにならず宮は姫君を抱いて外へお出になった。右近はあとを繕うために残り、侍従に供をさせて出した。
4.3.6
いとはかなげなるものと、()()見出(みい)だす(ちひ)さき(ふね)()りたまひて、さし(わた)りたまふほど、(はる)かならむ(きし)にしも()(はな)れたらむやうに心細(こころぼそ)くおぼえて、つとつきて(いだ)かれたるも、いとらうたしと(おぼ)
実に頼りないものと、毎日眺めている小さい舟にお乗りになって、漕ぎ渡りなさるとき、遥か遠い岸に向かって漕ぎ離れて行ったような心細い気持ちがして、ぴたりとくっついて抱かれているのを、とてもいじらしいとお思いになる。
はかないあぶなっかしいものであると山荘の人が毎日ながめていた小舟へ宮は姫君をお乗せになり、船が岸を離れた時にははるかにも知らぬ世界へ伴って行かれる気のした姫君は、心細さに堅くお胸へすがっているのも可憐に宮は思召された。
4.3.7
有明(ありあけ)月澄(つきす)(のぼ)て、(みづ)(おもて)(くも)りなきに、
有明の月が澄み上って、川面も澄んでいるところに、
有明(ありあけ)の月が澄んだ空にかかり、水面も曇りなく明るかった。
4.3.8 「これが、橘の小島です」
「これが(たちばな)の小嶋でございます」
4.3.9
(まう)して、御舟(おほんふね)しばしさしとどめたるを()たまへば、(おほ)きやかなる(いは)のさまして、されたる常磐木(ときはぎ)蔭茂(かげしげ)れり
と申して、お舟をしばらくお止めになったので御覧になると、大きな岩のような恰好をして、しゃれた常磐木が茂っていた。
と言い、船のしばらくとどめられた所を御覧になると、大きい岩のような形に見えて常磐木(ときわぎ)のおもしろい姿に繁茂した嶋が倒影もつくっていた。
4.3.10
かれ()たまへ
いとはかなけれど、千年(ちとせ)()べき(みどり)(ふか)さを」
「あれをご覧なさい。
とても頼りなさそうですが、千年も生きるにちがいない緑の深さです」
「あれを御覧なさい。川の中にあってはかなくは見えますが千年の命のある緑が深いではありませんか」
4.3.11
とのたまひて、
とおっしゃって、
とお言いになり、
4.3.12 「何年たとうとも変わりません
橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは」
()とも変はらんものか橘の
小嶋の(さき)に契るこころは
4.3.13
(をんな)も、めづらしからむ(みち)のやうにおぼえて、
女も、珍しい所へ来たように思われて、
とお告げになった。女も珍しい楽しい(みち)のような気がして、
4.3.14 「橘の小島の色は変わらないでも
この浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら」
橘の小嶋は色も変はらじを
この浮舟ぞ行くへ知られぬ
4.3.15
(をり)から、(ひと)のさまにをかしくのみ何事(なにごと)(おぼ)しなす。
折柄、女も美しいので、ただもう素晴らしくお思いになる。
こんなお返辞をした。月夜の美と恋人の(えん)な容姿が添って、宇治川にこんな趣があったかと宮は恍惚(こうこつ)としておいでになった。
4.3.16
かの(きし)さし()きて()りたまふに、(ひと)(いだ)かせたまはむは、いと心苦(くる)しければ、(いだ)きたまひて、(たす)けられつつ()りたまふを、いと見苦(みぐる)しく、何人(なにびと)を、かくもて(さわ)ぎたまふらむ」と()たてまつる
時方(ときかた)叔父(をぢ)因幡守(いなばのかみ)なるが(らう)ずる(さう)に、はかなう(つく)りたる(いへ)なりけり
あちらの岸に漕ぎ着いてお降りになるとき、供人に抱かせなさるのは、とてもつらいので、お抱きになって、助けられながらお入りになるのを、とても見苦しく、「どのような人を、こんなに大騒ぎなさっているのだろう」と拝見する。
時方の叔父で因幡守である人が所領する荘園に、かりそめに建てた家なのであった。
対岸に着いた時、船からお上がりになるのに、浮舟(うきふね)の姫君を人に抱かせることは心苦しくて、宮が御自身でおかかえになり、そしてまた人が横から宮のお身体(からだ)をささえて行くのであった。見苦しいことをあそばすものである、何人(なにびと)をこれほどにも大騒ぎあそばすのであろうと従者たちはながめた。
 時方の叔父(おじ)因幡守(いなばのかみ)をしている人の荘園の中に小さい別荘ができていて、それを宮はお用いになるのである。
4.3.17
まだいと粗々(あらあら)しきに、網代屏風(あじろびゃうぶ)など、御覧(ごらん)じも()らぬしつらひにて、(かぜ)もことに(さは)らず、(かき)のもとに(ゆき)むら()えつつ、(いま)もかき(くも)りて()る。
まだとても手入れが行き届いていず、網代屏風など、御覧になったこともない飾り付けで、風も十分に防ぎきれず、垣根のもとに雪がまだらに消え残っていて、今でも曇っては雪が降る。
まだよく家の中の装飾などもととのっていず、網代屏風(あじろびょうぶ)などという宮はお目にもあそばしたことのないような荒々しい物が立ててある。風を特に防ぐ用をするとも思われない。(かき)のあたりにはむら消えの雪がたまり、今もまた空が曇ってきて小降りに降る雪もある。

第四段 匂宮、浮舟に心奪われる

4.4.1
()さし()でて、(のき)垂氷(たるひ)(ひか)りあひたるに、(ひと)御容貌(おほんかたち)まさる心地(ここち)す。
(みや)も、所狭(ところせ)(みち)のほどに、(かる)らかなるべきほどの御衣(おほんぞ)どもなり。
(をんな)も、()ぎすべさせたまひてしかば(ほそ)やかなる姿(すがた)つき、いとをかしげなり。
ひきつくろふこともなくうちとけたるさまを、「いと()づかしく、まばゆきまできよらなる(ひと)にさしむかひたるよ」と(おも)へど、(まぎ)れむ(かた)もなし。
日が差し出て、軒の氷柱が光り合っていて、宮のご容貌もいちだんと立派に見える気がする。
宮も、人目を忍ぶやっかいな道中で、身軽なお召物である。
女も、上着を脱がさせなさっていたので、ほっそりとした姿つきがたいそう魅力的である。
身づくろいすることもなくうちとけている様子を、「とても恥ずかしく、眩しいほどに美しい方に向かい合っていることだわ」と思うが、隠れる所もない。
そのうち日が雲から出て軒の垂氷(つらら)の受ける朝の光とともに人の容貌(ようぼう)も皆ひときわ美しくなったように見えた。宮は人目をお避けになるために軽装のお狩衣姿であった。浮舟の姫君の着ていた上着は抱いておいでになる時お脱がせになったので、繊細(きゃしゃ)な身体つきが見えて美しかった。自分は繕いようもないこんな姿で、高雅なまぶしいほどの人と向かい合っているのではないかと浮舟は思うのであるが、隠れようもなかった。
4.4.2
なつかしきほどなる(しろ)(かぎ)りを(いつ)つばかり、袖口(そでぐち)(すそ)のほどまでなまめかしく、色々(いろいろ)にあまた(かさ)ねたらむよりも、をかしう()なしたり。
(つね)()たまふ(ひと)とても、かくまでうちとけたる姿(すがた)などは()ならひたまはぬを、かかるさへぞ、なほめづらかにをかしう(おぼ)されける。
やさしい感じの白い衣だけを五枚ほど、袖口、裾のあたりまで優美で、色とりどりにたくさん重ねたのよりも美しく着こなしていた。
いつも御覧になっている方でも、こんなにまでうちとけている姿などは御覧になったことがないので、こんなことまでが、やはり珍しく興趣深く思われなさるのであった。
少し着()らした白い衣服を五枚ばかり重ねているだけであるが、袖口から裾のあたりまで全体が優美に見えた。いろいろな服を多く重ねた人よりも上手(じょうず)に着こなしていた。宮は御妻妾でもこれほど略装になっているのはお見馴れにならないことであったから、こんなことさえも感じよく美しいとばかりお思われになった。
4.4.3
侍従(じじゅう)も、いとめやすき若人(わかうど)なりけり。
これさへ、かかるを(のこ)りなう()るよ」と、女君(をんなぎみ)は、いみじと(おも)ふ。
(みや)も、
侍従も、大して悪くはない若い女房なのであった。
「この人までが、このような姿をすっかり見ているわ」と、女君は、たまらなく思う。
宮も、
侍従もきれいな若女房であった。右近だけでなくこの人にまで自分の秘密を残りなく見られることになったのを浮舟は苦しく思った。宮も右近のほかのこの女房のことを、
4.4.4 「この人は誰ですか。
わたしの名前を漏らしてはなりませんよ」
「何という名かね。自分のことを言うなよ」
4.4.5
(くち)がためたまふを、いとめでたし」と(おも)ひきこえたり
ここの宿守(やどもり)にて()みける(もの)時方(ときかた)(しゅう)(おも)ひてかしづきありけば、このおはします遣戸(やりど)(へだ)てて、所得顔(ところえがほ)()たり。
(こゑ)ひきしじめ、かしこまりて物語(ものがたり)しをるをいらへもえせず、をかしと(おも)ひけり
と口がためなさるのを、「とても素晴らしい」と思い申し上げていた。
ここの宿守として住んでいた者、時方を主人と思ってお世話してまわるので、このいらっしゃるところの遣戸を隔てて、得意顔をして座っている。
声を緊張させて、恐縮して話しているのを、返事もできないで、おかしいと思うのであった。
と仰せられた。侍従はこれを身に余る喜びとした。別荘(もり)の男から主人と思って大事がられるために、時方は宮のお座敷には遣戸(やりど)一重隔てた()で得意にふるまっていた。声を縮めるようにしてかしこまって話す男に、時方は宮への御遠慮で返辞もよくすることができず心で滑稽(こっけい)のことだと思っていた。
4.4.6
いと(おそ)ろしく(うらな)ひたる物忌(ものいみ)により、(きゃう)(うち)をさへ()りて(つつし)むなり。
(ほか)(ひと)()すな」
「たいそう恐ろしい占いが出た物忌によって、京の内をさえ避けて慎むのだ。
他の人を、近づけるな」
「恐ろしいような占いを出されたので、京を出て来てここで謹慎をしているのだから、だれも来させてはならないよ」
4.4.7
()ひたり。
と言っていた。
と内記は命じていた。

第五段 匂宮、浮舟と一日を過ごす

4.5.1
人目(ひとめ)()えて、(こころ)やすく(かた)らひ()らしたまふ。
かの(ひと)ものしたまへりけむに、かくて()えてむかし」と、(おぼ)しやりて、いみじく(うら)みたまふ。
()(みや)をいとやむごとなくて、()ちたてまつりたまへるありさまなども(かた)りたまふ
かの(みみ)とどめたまひし一言(ひとこと)は、のたまひ()でぬぞ(にく)きや
人目も絶えて、気楽に話し合って一日お過ごしになる。
「あの方がいらっしゃったときに、このようにお会いになっているのだろう」と、ご想像になって、ひどくお恨みになる。
二の宮をとても大切に扱って、北の方としていらっしゃるご様子などもお話しになる。
あのお耳に止めなさった一言は、おっしゃらないのは憎いことであるよ。
だれも来ぬ所で宮はお気楽に浮舟と時をお過ごしになった。この間大将が来た時にもこうしたふうにして逢ったのであろうとお思いになり、宮は恨みごとをいろいろと仰せられた。夫人の女二(にょに)(みや)を大将がどんなに尊重して暮らしているかというようなこともお聞かせになった。宇治の橋姫を思いやった口ずさみはお伝えにならぬのも利己的だと申さねばならない。
4.5.2
時方(ときかた)御手水(みてうづ)(おほん)くだものなど、()()ぎて(まゐ)るを御覧(ごらん)じて、
時方が、御手水や、果物などを、取り次いで差し上げるのを御覧になって、
時方がお手水(ちょうず)や菓子などを取り次いで持って来るのを御覧になり、
4.5.3
いみじくかしづかるめる客人(まらうと)(ぬし)さてな()えそや」
「たいそう大切にされている客人は、そのような姿を他人に見られるでないぞ」
「大事にされているお客の旦那(だんな)。ここへ来るのを見られるな」
4.5.4
(いまし)めたまふ。
侍従(じじゅう)(いろ)めかしき若人(わかうど)心地(ここち)に、いとをかしと(おも)ひて、この大夫(たいふ)とぞ物語(ものがたり)して()らしける。
と戒めなさる。
侍従は、好色っぽい若い女の考えから、とても素晴らしいと思って、この大夫と話をして一日暮らしたのであった。
と宮はお言いになった。侍従は若い色めかしい心から、こうした日をおもしろく思い、内記と話をばかりしていた。
4.5.5
(ゆき)()()もれるに、かのわが()(かた)()やりたまへれば、(かすみ)()()えに(こずゑ)ばかり()ゆ。
(やま)(かがみ)()けたるやうに、きらきらと夕日(ゆふひ)(かかや)きたるに、昨夜(よべ)()()(みち)のわりなさなど、あはれ(おほ)()へて(かた)りたまふ。
雪が降り積もっているので、あのご自分が住む家の方を眺望なさると、霞の絶え間に梢だけが見える。
山は鏡を懸けたように、きらきらと夕日に輝いているところに、昨夜、踏み分けて来た道のひどさなどを、同情を誘うようにお話しになる。
浮舟の姫君は雪の深く積もった中から自身の住居(すまい)のほうを望むと、霧の絶え間絶え間から木立ちのほうばかりが見えた。鏡をかけたようにきらきらと夕日に輝いている山をさして、昨夜の苦しい(みち)のことを誇張も加えて宮が語っておいでになった。
4.5.6 「峰の雪や水際の氷を踏み分けて
あなたに心は迷いましたが、
峰の雪(みぎは)の氷踏み分けて
君にぞ惑ふ道にまどはず
4.5.7 木幡の里に馬はあるが」
木幡(こばた)の里に馬はあれど」(かちよりぞ来る君を思ひかね)
4.5.8
など、あやしき硯召(すずりめ)()でて、手習(てなら)ひたまふ
などと、見苦しい硯を召し出して、手習いなさる。
などと、別荘に備えられてあるそまつな(すずり)などをお出させになり、無駄(むだ)書きを宮はしておいでになった。
4.5.9 「降り乱れて水際で凍っている雪よりも
はかなくわたしは中途で消えてしまいそうです」
降り乱れ(みぎは)(こほ)る雪よりも
中空(なかぞら)にてぞわれは()ぬべき
4.5.10
()()ちたり。
この「中空(なかぞら)」をとがめたまふ
げに、(にく)くも()きてけるかな」と、()づかしくて()(やぶ)りつ。
さらでだに()るかひある(おほん)ありさまをいよいよあはれにいみじと、(ひと)(こころ)しめられむと、()くしたまふ(こと)()、けしき、()はむ(かた)なし
と書いて消した。
この「中空」をお咎めになる。
「なるほど、憎いことを書いたものだわ」と、恥ずかしくて引き破った。
そうでなくても見る効のあるご様子を、ますます感激して素晴らしいと、相手が心に思い込むようにと、あらん限りの言葉を尽くすご様子、態度は、何とも表現のしようがない。
とその上へ浮舟は書いた。中空という言葉は一方にも牽引(けんいん)力のあることを言うのであろうと宮のお恨みになるのを聞いていて、誤解されやすいことを書いたと思い、女は恥ずかしくて破ってしまった。そうでなくてさえ美しい魅力のある方が、より多く女の心を得ようとしていろいろとお言いになる言葉も御様子も若い姫君を動かすに十分である。

第六段 匂宮、京へ帰り立つ

4.6.1
御物忌(おほんものいみ)二日(ふつか)とたばかりたまへれば、(こころ)のどかなるままに、かたみにあはれとのみ、(ふか)(おぼ)しまさる。
右近(うこん)は、よろづに(れい)の、()(まぎ)らはして、御衣(おほんぞ)などたてまつりたり。
今日(けふ)は、(みだ)れたる(かみ)すこし(けづ)らせて、()(きぬ)紅梅(こうばい)織物(おりもの)など、あはひをかしく着替(きが)へてゐたまへり。
侍従(じじゅう)も、あやしき褶着(しびらき)たりしを、あざやぎたれば、その()()りたまひて、(きみ)()せたまひて御手水参(みてうづまゐ)らせたまふ。
御物忌を、二日とおだましになっていたので、のんびりとしたまま、お互いに愛しいとばかり、深くご愛情がまさって行く。
右近は、いろいろと例によって、言い紛らして、お召物などを差し上げた。
今日は、乱れた髪を少し梳かせて、濃い紫の袿に紅梅の織物などを、ちょうどよい具合に着替えていらっしゃった。
侍従も、見苦しい褶を着ていたが、美しいのに着替えたので、その裳をお取りになって、女君にお着せになって、御手水の世話をおさせになる。
謹慎日を二日間ということにしておありになったので、あわただしいこともなくゆっくりと暮らしておいでになるうちに相思の情は深くなるばかりであった。右近は例のように姫君のためにその場その場を取り繕い、言い紛らして衣服などを持たせてよこした。次の日は乱れた髪を少し解かさせて、深い紅の上に紅梅色の厚織物などの取り合わせのよい服装を浮舟はしていた。侍従も平常(ふだん)用の()を締めたまま来ていたのが、あとから送ってこられたきれいなものにすべて脱ぎ変えたので、脱いだほうの裳を宮は浮舟にお掛けさせになり手水を使わせておいでになった。
4.6.2
姫宮(ひめみや)にこれをたてまつりたらば、いみじきものにしたまひてむかし
いとやむごとなき(きは)人多(ひとおほ)かれど、かばかりのさましたるは(かた)くや」
「姫宮にこの女を出仕させたら、どんなにか大事になさるだろう。
とても高貴な身分の女性が多いが、これほどの様子をした女性はいないのではないか」
女一(にょいち)(みや)の女房にこの人を上げたらどんなにお喜びになって大事にされることであろう、大貴族の娘も多く侍しているのであるが、これほどの容貌(きりょう)の人はほかにないであろう
4.6.3
()たまふ。
かたはなるまで(あそ)(たはぶ)れつつ()らしたまふ。
(しの)びて()(かく)してむことを、(かへ)(がへ)すのたまふ。
「そのほど、かの(ひと)()えたらば」と、いみじきことどもを(ちか)はせたまへば、「いとわりなきこと」と(おも)ひて、いらへもやらず、(なみだ)さへ()つるけしき、さらに()(まへ)にだに(おも)(うつ)らぬなめり」と胸痛(むねいた)(おぼ)さる。
(うら)みても()きてもよろづのたまひ()かして、夜深(よふか)()(かへ)りたまふ
(れい)の、(いだ)きたまふ。
と御覧になる。
みっともないほど遊び戯れながら一日お過ごしになる。
こっそりと連れ出して隠そうということを、繰り返しおっしゃる。
「その間に、あの方に逢ったら承知しない」と、厳しいことを誓わせなさるので、「実に困ったこと」と思って、返事もできず、涙までが落ちる様子、「全然目の前にいるときでさえもわたしに愛情が移らないようだ」と胸が痛く思われなさる。
恨んだり泣いたり、いろいろとおっしゃって夜を明かして、夜深く連れてお帰りになる。
例によって、お抱きになる。
と、裳を着けた姿からふとこんなことも宮はお思いになった。見苦しいまでに戯れ暮らしておいでになり、忍んでほかへ隠してしまう計画について繰り返し繰り返し宮はお話しになるのである。それまでに大将が来ても兄弟以上の親しみを持たぬというようなことを誓えとお言いになるのを、女は無理なことであると思い、返辞をすることができず、涙までもこぼれてくる様子を御覧になり、自分の目前ですらその人に引かれる心を隠すことができぬかと胸の痛くなるようなねたましさも宮はお覚えになった。恨み言も言い、御自身のお心もちを泣いてお告げになりもしたあとで、第三日めの未明に北岸の山荘へおもどりになろうとして、例のように抱いて船から姫君をお伴いになるのであったが、
4.6.4
いみじく(おぼ)すめる(ひと)かうは、よもあらじよ。
見知(みし)りたまひたりや」
「大切にお思いの方は、このようには、なさるまいよ。
お分かりになりましたか」
「あなたが深く愛している人も、こんなにまで奉仕はしないでしょう。わかりましたか」
4.6.5
とのたまへば、げに、と(おも)ひて、うなづきて()たる、いとらうたげなり。
右近(うこん)妻戸放(つまどはな)ちて()れたてまつる。
やがて、これより(わか)れて()でたまふも、()かずいみじと(おぼ)さる。
とおっしゃると、お言葉のとおりだ、と思って、うなずいて座っているのは、たいそういじらしげである。
右近が、妻戸を開け放ってお入れ申し上げる。
そのまま、ここで別れてお帰りになるのも、あかず悲しいとお思いになる。
とお言いになると、そうであったというように思って、浮舟がうなずいているのが可憐(かれん)であった。右近は妻戸を開いて姫君を中へ迎えた。そのまま別れてお帰りにならねばならぬのも、飽き足らぬ悲しいことに宮は思召した。

第七段 匂宮、二条院に帰邸後、病に臥す

4.7.1
かやうの(かへ)さはなほ二条(にでう)にぞおはします。
いと(なや)ましうしたまひて、(もの)など()えてきこしめさず、()()(あを)()せたまひ、()けしきも()はるを、内裏(うち)にもいづくにも(おも)ほし(なげ)くに、いとどもの(さわ)がしくて、御文(おほんふみ)だにこまかには()きたまはず。
このような時の帰りは、やはり二条院においでになる。
とても気分が悪くおなりになって、食事なども召し上がらず、日がたつにつれて青くお痩せになって、ご様子も変わるので、帝におかせられてもどちら様におかれても、お嘆きになり、ますます大騒ぎになって、お手紙さえこまごまと書くことがおできになれない。
こんなお帰りの場合などはやはり二条の院へおはいりになるのが例であった。宮はそれ以来健康をおそこねになり、召し上がり物などは少しもおとりにならなかった。日がたつにしたがいお顔色が青んでゆき、お()せになるのを、御所でもその他の所々でも非常に気づかわれ、お見舞いの人が多くまいるために人目の隙に宇治へおやりになるお手紙もこまごまとはお書きになれなかった。
4.7.2
かしこにもかのさかしき乳母(めのと)(むすめ)子産(こう)(ところ)()でたりける、(かへ)()にければ、(こころ)やすくもえ()ず。
かくあやしき()まひを、ただかの殿(との)のもてなしたまはむさまをゆかしく()つことにて母君(ははぎみ)(おも)(なぐさ)めたるに、(しの)びたるさまながらも、(ちか)(わた)してむことを(おぼ)しなりにければ、いとめやすくうれしかるべきことに(おも)ひて、やうやう人求(ひともと)め、(わらは)のめやすきなど(むか)へておこせたまふ。
あちらでも、あの利口ぶった乳母は、その娘が子供を産む所に行っていたのが、帰って来たので、気安く手紙を見ることもできない。
このように見すぼらしい生活を、ただあの殿がお世話くださるのを期待することで、母君も思い慰めていたが、日蔭の存在ながらも、近くにお移しになることをお考えになっていたので、とても安心で嬉しかろうことと思って、だんだんと女房を求め、童女の無難な者などを迎えてお寄越しになる。
山荘のほうでもあのやかましやの乳母(めのと)のままが娘の産でしばらくほかへ行っていたのがこのごろは帰っているために、宮のお(ふみ)を心おきなく読むことはできなくなった。姫君の寂しい生活も、今後どんなふうに大将がよき待遇をしようとするかという夢を持つことで母の常陸(ひたち)夫人も心を慰めていたのであったが、公然ではないようであるが、近いうちに京へ迎えることに(かおる)のきめたことで、世間への体裁もよくなるとうれしく思い、新しい女房を捜し始め、童女の見よいのがあると宇治へ送るようにしていた。
4.7.3
わが(こころ)にも「それこそは、あるべきことに、(はじ)めより()ちわたれ」とは(おも)ひながら、あながちなる(ひと)(おほん)ことを(おも)()づるに、(うら)みたまひしさま、のたまひしことども、面影(おもかげ)につと()ひて、いささかまどろめば、(ゆめ)()たまひつつ、いとうたてあるまでおぼゆ。
自分自身でも、「それこそが、理想だと、初めからずっと待っていた」とは思いながらも、無理をなさる方のお事を思い出すと、お恨みになった様子、おっしゃった言葉などが、面影にぴったりと添ったまま、わずかにお寝みになると、夢に現れなさって、とても嫌なまでに思われる。
浮舟自身もようやく開かれていく光明の運命の見えだしたことで、初めから望んだのはこのほかのことではなかった、この日を待ち続けていたのであると思いながらも、一方で熱情をお寄せになる宮のことを思い出し、愛が足らぬとお恨みになったこと、その時あの時のお言葉と面影が始終つきまとって離れず、少し眠るともう夢に見る、困ったことであると思った。

第五章 浮舟の物語 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う


第一段 春雨の続く頃、匂宮から手紙が届く

5.1.1
雨降(あめふ)()まで()ごろ(おほ)くなるころ、いとど山路思(やまぢおぼ)()えて、わりなく(おぼ)されければ、(おや)のかふこは所狭(ところせ)きものにこそ(おぼ)すもかたじけなし
()きせぬことども()きたまひて、
雨が降り止まないで、日数が重なるころ、ますます山路通いはお諦めになって、たまらない気がなさるので、「親が大切にする子は窮屈なもの」とお思いになるのも恐れ多いことだ。
尽きない思いの丈をお書きになって、
雨が幾日も降り続いたころ、いっそう宇治は通って行くべくもない世界になったように宮は思召され、恋しさに堪えられなくおなりになり「たらちねの親のかふこの繭ごもりいぶせくもあるか(いも)に逢はずて」親の愛護の深いのは苦しいものであると、もったいないことすらお思われになった。恋の思いを多くの言葉でお書き続けになり、
5.1.2 「眺めやっているそちらの方の雲も見えないくらいに
空までが真っ暗になっている今日このごろの侘しさです」
ながめやるそなたの雲も見えぬまで
空さへくるる(ころ)のわびしさ
5.1.3
(ふで)にまかせて()(みだ)りたまへるしも、見所(みどころ)あり、をかしげなり。
ことにいと(おも)くなどはあらぬ(わか)心地(ここち)
筆にまかせて書きすさびなさったのも、見所があって、美しそうである。
特に大して重々しくはない若い気持ちでは、
こんな歌もお添えになった筆まかせの書体もみごとであった。高い見識があるのでもない若い浮舟はこれにさえ多く動かされ、
5.1.4
いとかかる(こころ)(おも)ひもまさりぬべけれど、(はじ)めより(ちぎ)りたまひしさまもさすがに、かれは、なほいともの(ふか)う、人柄(ひとがら)のめでたきなども、()(なか)()りにし(はじ)めなればにや、かかる()きこと()きつけて、(おも)(うと)みたまひなむ()には、いかでかあらむ。
「とてもこのような気持ちに惹かれるにちがいないが、初めから約束なさった様子も、やはり何といっても、あの方は、やはりとても思慮深く、人柄が素晴らしく思われたのなども、男女の仲を知った初めのうちだからであろうか、このような情けないことを聞きつけて、お疎みになったら、どうして生きていられようか。
その人と同じ恋しさも覚えたのであるが、初めに永久の愛の告げられた大将の言葉にはさすがに奥深いものがあり、他に優越した人格の備わっていることなども思われ、異性として親しんだ最初の人であるためか、今も一方へ没頭しきれぬ感情はあった。自分の醜聞が耳にはいって、あの人にうとまれては生きておられぬ気がする、
5.1.5
いつしかと(おも)(まど)(おや)にも、(おも)はずに、(こころ)づきなしとこそは、もてわづらはれめ。
かく心焦(こころい)られしたまふ(ひと)はた、いとあだなる御心本性(みこころほんじゃう)とのみ()きしかば、かかるほどこそあらめまたかうながらも(きゃう)にも(かく)()ゑたまひ、ながらへても(おぼ)(かず)まへむにつけては、かの(うへ)(おぼ)さむこと
よろづ(かく)れなき()なりければ、あやしかりし夕暮(ゆふぐれ)のしるべばかりにだに、かう(たづ)()でたまふめり。
早く殿に迎えられるようにと気を揉んでいる母親は、思いもかけないことで、気にくわないと、困ることであろう。
このように熱心になっていらっしゃる方は、また一方で、とても浮気なご性質とばかり聞いていたので、今は熱心であっても、またこのような状態で、京にお隠し据えなさっても、末長く情けをかける一人として思ってくださることにつけては、あの上がどのようにお思いになることやら。
何事も隠しきれない世の中なのだから、不思議な事のあった夕暮の縁だけで、このようにお尋ねになるようだ。
自分が幸福な女性になることを待ち続ける母も、不行跡な娘であったと幻滅を覚え、世間体を恥じることであろう、また現在は火の恋をお持ちになる方も、多情なお生まれつきを聞いているのであるから、どうお心が変わるかしれない、またそうにもならず京のどこかへ隠されて妻妾(さいしょう)の一人として待遇されることができてくれば二条の院の女王(にょおう)からどんなに不快に思われることであろう。隠れていてもいつか人に知れるものであるから、あの秋の日暮れ時に一目お逢いしただけの縁でもこうして捜し出される結果を見たように、
5.1.6
まして、わがありさまのともかくもあらむを()きたまはぬやうはありなむや」
まして、自分が宮にかくまわれることになっても、殿がお知りにならないことがあろうか」
姉である方に、自分がどうしているか、どんな恋愛からどうなったかが知れていかないはずはない
5.1.7
(おも)ひたどるに、わが(こころ)きずありて、かの(ひと)(うと)まれたてまつらむ、なほいみじかるべし」と(おも)(みだ)るる(をり)しも、かの殿(との)より御使(おほんつかひ)あり。
と次々と考えると、「自分ながら、まちがいがあって、あの殿に疎まれ申すのも、やはりつらいことであろう」とちょうど思い乱れている時、あの殿からお使者がある。
と、考えをたどっていけば、宮の御手へ将来をゆだねてしまうのは善事を行なうことでない、大将に愛されなくなるほうがどんなに苦痛であるかしれぬと煩悶している時に薫からの使いが山荘へ来た。

第二段 その同じ頃、薫からも手紙が届く

5.2.1
これかれと()るもいとうたてあれば、なほ言多(ことおほ)かりつるを()つつ、()したまへれば、侍従(じじゅう)右近(うこん)見合(みあ)はせて、
あれこれと見るのも嫌な気がするので、やはり長々とあった方を見ながら、臥せっていらっしゃると、侍従と、右近とが、顔を見合わせて、
かわるがわるに二人の男の消息を読むことは気恥ずかしくて、浮舟はまださっきの宮のほうの長い手紙ばかりを寝ながら見ていると、それと知って侍従と右近は顔を見合わせて、
5.2.2
「なほ、(うつ)りにけり」
「やはり、心が移ったわ」
姫君の心はのちの情人に移った
5.2.3
など、()はぬやうにて()ふ。
などと、声に出さないで目で言っている。
と言わないようで言っていた。
5.2.4
ことわりぞかし
殿(との)御容貌(おほんかたち)を、たぐひおはしまさじと()しかど、この(おほん)ありさまはいみじかりけり。
うち(みだ)れたまへる愛敬(あいぎゃう)よ。
まろならば、かばかりの御思(おほんおも)ひを()()る、えかくてあらじ。
(きさい)(みや)にも(まゐ)りて(つね)()たてまつりてむ」
「無理もないことです。
殿のご器量を、他にいらっしゃらないと見たが、こちらの宮のご容姿は大変なものでした。
おふざけになっていらした愛嬌は。
わたしならば、これほどのご愛情を見ては、とてもこうしていられません。
后の宮様にでも出仕して、いつも拝見していたい」
「ごもっともですわ。殿様は二人とない美男でいらっしゃると思っていましたのは前のことで、宮様はなんと申してもすぐれていらっしゃいますもの、お部屋着になっておいでになった時の愛嬌(あいきょう)などはどうだったでしょう。私ならその方があれまではげしく思っておいでになるのを見れば黙視していられないでしょう。中宮(ちゅうぐう)様の女房を志願して、そして始終お逢いのできるようにしますわ」
5.2.5
()ふ。
右近(うこん)
と言う。
右近は、
こう言っているのは侍従である。
5.2.6
うしろめたの御心(みこころ)のほどや
殿(との)(おほん)ありさまにまさりたまふ(ひと)は、()れかあらむ
容貌(かたち)などは()らず、御心(みこころ)ばへけはひなどよ
なほ、この(おほん)ことはいと見苦(みぐる)しきわざかな。
いかがならせたまはむとすらむ」
「安心できないお方ですよ。
殿のご様子に勝る方は、誰がいらっしゃいましょうか。
器量などは知りませんが、お心づかいや感じなどがね。
やはり、このご関係は、とても見苦しいことですね。
どのようにおなりあそばそうとするのでしょうか」
「危険な人ね、あなたは。殿様よりすぐれた風采(ふうさい)の方がどこにあるものですか。お顔はまあともかくも、お気質(きだて)なり、御様子なりすばらしいのは殿様ですよ。何にしてもお姫様はどうおなりあそばすかしら」
5.2.7
と、二人(ふたり)して(かた)らふ。
心一(こころひと)つに(おも)ひしよりは虚言(そらごと)もたより()()にけり。
と、二人で相談する。
独りで考えるよりは、嘘をつくにもよい助けが出て来たのであった。
右近はこう言っていた。今まで一人で苦心をしていた時よりも侍従という仲間が一人できて、(うそ)ごとが作りやすくなっていた。
5.2.8
(のち)御文(おほんふみ)には、
後者のお手紙には、
あとから来たほうの手紙には、
5.2.9
(おも)ひながら()ごろになること。
時々(ときどき)は、それよりも(おどろ)かいたまはむこそ、(おも)ふさまならめ。
おろかなるにやは」
「思い続けながら幾日にもなったこと。
時々は、そちらからもお手紙をお書きになることが、理想的でしょう。
並々には思っていません」
思いながら行きえないで日を送っています。ときどきはあなたのほうから手紙で私を責めてくださるほうがうれしい。私の愛は決して浅いものではないのですよ。
5.2.10
など、端書(はしが)きに、
などと、端に、
などと書かれ、端のほうに、
5.2.11 「川の水が増す宇治の里人はどのようにお過ごしでしょうか
晴れ間も見せず長雨が降り続き、
ながめやる(をち)の里人いかならん
はれぬながめにかきくらすころ
5.2.12
(つね)よりも(おも)ひやりきこゆることまさりてなむ」
いつもよりも、思うことが多くて」
平生以上にあなたの恋しく思われるころです。
5.2.13
と、(しろ)色紙(しきし)にて立文(たてぶみ)なり
御手(おほんて)もこまかにをかしげならねど、()きざまゆゑゆゑしく()ゆ。
(みや)は、いと(おほ)かるを、(ちひ)さく(むす)びなしたまへる、さまざまをかし。
と、白い色紙で立文である。
ご筆跡もこまやかで美しくはないが、書き方は教養ありげに見える。
宮は、とても言葉数多いのを、小さく結んでいらっしゃるのは、それぞれに興趣深い。
とも書かれてあった。白い色紙を立文(たてぶみ)にしてあった。文字も繊細(きゃしゃ)な美しさはないが貴人の書らしかった。宮のお手紙は内容の多いものであったが、小さく結び文にしてあって、どちらにもとりどりの趣があるのである。
5.2.14 「とりあえず、あれを。誰も見ていないうちに」
「さきのほうのお返事を、だれも見ませんうちにお書きなさいまし」
5.2.15
()こゆ。
とお促し申す。
と右近は言ったが、
5.2.16 「今日は、お返事申し上げることができません」
「宮様へ今日は何も申し上げる気はしない」
5.2.17
()ぢらひて、手習(てならひ)
と恥じらって、手習に、
と恥じたふうで浮舟(うきふね)は言い、無駄(むだ)書きに、
5.2.18 「里の名をわが身によそえると
山城の宇治の辺りはますます住みにくいことよ」
里の名をわが身に知れば山城の
宇治のわたりぞいとど住みうき
5.2.19
(みや)()きたまへりし()を、時々見(ときどきみ)()かれけり。
ながらへてあるまじきことぞ」と、とざまかうざまに(おも)ひなせど、(ほか)()()もりてやみなむは、いとあはれにおぼゆべし
宮がお描きになった絵を、時々見ては自然涙がこぼれた。
「このまま末長く続くものではない」と、あれやこれやと考えてみるが、他には関係をすっかり断ってお逢いしないのは、とても耐えられなく思われるのであろう。
と書いていた。浮舟は宮の()いてお置きになった絵をときどき出して見ては泣かれるのであった。こうした関係を長く続けていってはならないと反省はするが、薫のほうへ引き取られて宮との御縁の絶たれることは悲しく思われてならぬらしい。
5.2.20 「真っ暗になって晴れない峰の雨雲のように
空にただよう煙となってしまいたい
かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に
浮きて世をふる身ともなさばや
5.2.21 雲に混じったら」

5.2.22
()こえたるを、(みや)は、よよと()かれたまふ。
さりとも、(こひ)しと(おも)ふらむかし」と(おぼ)しやるにも、もの(おも)ひてゐたらむさまのみ面影(おもかげ)()えたまふ。
と申し上げたので、宮は、声を上げて泣かれる。
「死にたいとはいえ、恋しいと思っているらしい」とご想像なさるにも、物思いに沈んでいる様子ばかりが面影にお見えになる。
こう浮舟が書いてきたのを御覧になり、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は声をたててお泣きになった。自分ばかりが熱愛しているのでなく、彼女も自分を恋しく思うことがあるのであろうと想像をあそばすと、浮舟の姫君が物思わしそうにしていた面影がお目の前に立って悲しかった。
5.2.23
まめ(びと)のどかに()たまひつつ、あはれ、いかに(なが)むらむ」と(おも)ひやりて、いと(こひ)し。
真面目人間は、のんびりと御覧になりながら、「ああ、どのような思いでいるのだろう」と想像して、たいそう恋しい。
薫は余裕のある気持ちで浮舟から来た返事を読み、かわいそうにどんなに物思いをしているであろうと恋しく思った。
5.2.24 「寂しくわが身を知らされる雨が小止みもなく降り続くので
袖までが涙でますます濡れてしまいます」
つれづれと身を知る雨のをやまねば
袖さへいとど()かさまさりて
5.2.25
とあるを、うちも()かず()たまふ。
とあるのを、下にも置かず御覧になる。
という歌を長く手から放たずながめ入っていたのであった。

第三段 匂宮、薫の浮舟を新築邸に移すことを知る

5.3.1
女宮(をんなみや)物語(ものがたり)など()こえたまひてのついでに、
女宮にお話などを申し上げた機会に、
薫は夫人の宮とお話をしていたついでに、
5.3.2
なめしともや(おぼ)さむと、つつましながら、さすがに年経(としへ)ぬる(ひと)のはべるを、あやしき(ところ)()()きて、いみじくもの(おも)ふなるが心苦(こころぐる)しさに、(ちか)()()せて、(おも)ひはべる。
(むかし)より(こと)やうなる(こころ)ばへはべりし()にて()(なか)を、すべて(れい)(ひと)ならで()ぐしてむと(おも)ひはべりしを、かく()たてまつるにつけてひたぶるにも()てがたければ、ありと(ひと)にも()らせざりし(ひと)(うへ)さへ、心苦(こころぐる)しう、罪得(つみえ)ぬべき心地(ここち)してなむ」
「失礼なとお思いになるやもと、気がひけますが、そうはいっても古くからの女がございましたが、賤しい所に放って置いて、ひどく物思いに沈んでいるというのが気の毒なので、近くに呼び寄せて、と思っております。
昔から人とは異なった考えがございまして、世の中を、普通の人とは違って過ごそうと思っておりましたが、このようにご結婚申して、一途には世を捨てがたいので、そんな女がいるとは知らせなかった身分の低い者でさえ、気の毒で、罪障になりそうな気がいたしまして」
「無礼だとあなたがお思いにならぬかと不安に思いながら、ずっと以前から愛していました女が一人あるのです。京の(まち)の中でもない遠い所に置き放しにしてありますために、物思いばかりいたしているふうなのがかわいそうで、町の中へ呼び寄せてやろうと思います。少年時代から私は人に違った心を持っていまして、宗教のほうへはいって一生を送ろうと覚悟していたのですが、あなたと結婚をして今では出家も実行できませんから、そうなってみますとだれにも隠してあった人のことも気の毒になりまして罪を作っているように思われるものですから」
5.3.3
と、()こえたまへば、
と、申し上げなさると、
と浮舟のことを言い、また、
5.3.4 「どのようなことをお考えおいていらっしゃるとも存じませんが」
「あなたのどんなことが私の苦痛になるものかまだ私は知らないのですもの」
5.3.5
と、いらへたまふ。
と、お返事なさる。
宮はこうお言いになった。
5.3.6
内裏(うち)になど()しざまに()こし()さする(ひと)やはべらむ。
()(ひと)のもの()ひぞ、いとあぢきなくけしからずはべるや。
されど、それはさばかりの(かず)にだにはべるまじ」
「帝になど、良くないようにお耳に入れ申す人がございましょう。
世間の人の噂は、まことにつまらない良くないものでございますよ。
けれども、その女は、それほど問題にもならない女でございます」
「お(かみ)へそんなことで私を中傷する人ができないかと心配するのですよ。世間の人はいろいろなことを言いたがるものですからね、けれど今の関係は世間が問題にするにも足りないものなのですが」
5.3.7
など()こえたまふ。
などと申し上げなさる。
などと薫は言っていた。
5.3.8
(つく)りたる(ところ)(わた)してむ」と(おぼ)()つに、かかる(れう)なりけり」など、はなやかに()ひなす(ひと)やあらむなど、(くる)しければ、いと(しの)びて、障子張(さうじは)らすべきことなど、(ひと)しもこそあれこの内記(ないき)()(ひと)(おや)大蔵大輔(おほくらのたいふ)なるものに(むつ)ましく(こころ)やすきままに、のたまひつけたりければ、()きつぎて(みや)には(かく)れなく()こえけり。
「新築した所に移そう」とお決めになったが、「このようなための家だったのだ」などと、ぱあっと言い触らす人がいようかなどと、困るので、たいそう人目に立たないようにして、襖障子を張らせることなど、人もあろうに、この大内記の妻の父親で、大蔵大輔という者に、親しいので気安く思って、命令なさっていたので、妻を介して聞き知って、宮にすっかり申し上げた。
新築させた(やしき)へ浮舟を入れようと思っていたが、そのために家までも作ったと派手(はで)な取り沙汰(ざた)などをされるのは苦しいことであると薫は思い、ひそかに襖子(からかみ)を張らせなどすることを、人もあろうに内記の妻の親である大蔵の五位へ心安いままに命じたのであったから、時方(ときかた)から話は皆兵部卿の宮のほうへ聞こえてしまった。
5.3.9
絵師(ゑし)どもなども御随身(みずいじん)どもの(なか)にある、(むつ)ましき殿人(とのびと)などを()りて、さすがにわざとなむせさせたまふ」
「絵師連中なども、御随身の中にいる者で、親しい家人などを選んで、隠れ家とはいっても特別にお気をつけてなさっています」
「絵師も大将の御随身の中にいますものとか、御従属しております人の中とかからお選びになりまして、さすがに歴としたお(やしき)の準備を宇治の方のためにさせておいでになります」
5.3.10
(まう)すに、いとど(おぼ)(さわ)ぎてわが御乳母(おほんめのと)の、(とほ)受領(ずらう)()にて(くだ)(いへ)(しも)(かた)にあるを、
と申すので、ますます胸騷ぎがなさって、ご自分の乳母で、遠国の受領の妻となって下る家で、下京の方にあるのを、
と申すのをお聞きになって、いっそう宮はおあせりになり、御自身の乳母(めのと)が遠国の長官の妻になって良人(おっと)の任地へ行ってしまうその家が下京のほうにあるのをお知りになり、
5.3.11 「ごくごく内密の女を、しばらく隠して置きたい」
「自分が世間へ知らせずに隠して置きたい女のためにしばらくその家を借りたい」
5.3.12
と、(かた)らひたまひければ、いかなる(ひと)にかは」と(おも)へど、大事(だいじ)(おぼ)したるに、かたじけなければ、さらば」と()こえけり。
これをまうけたまひて、すこし御心(みこころ)のどめたまふ。
この(つき)晦日方(つごもりがた)(くだ)るべければ、「やがてその日渡(ひわた)さむ」と(おぼ)(かま)ふ。
とご相談があったので、「どのような女であろうか」とは思うが、重大事とお思いでいられるのが恐れ多いので、「それではどうぞ」と申し上げた。
この家を準備なさって、少しお心が安心なさる。
今月の晦日頃に、下向する予定なので、「すぐその日に女を移そう」とご計画なさる。
と御相談になると、女とはどんな人なのであろうと乳母は思ったが、熱心に仰せられることであったから、お否み申し上げるのはもったいないように思われて承諾した。この家がお見つかりになったために宮は少し御安心をあそばされた。三月の末日に乳母は家を出るはずであったから、その日に宇治から恋人を移そうと計画をしておいでになるのであった。
5.3.13 「これこれと思っている。
決して他人に気づかれてはならぬ」
こう思っている、秘密に秘密にしてお置きなさい
5.3.14
()ひやりたまひつつ、おはしまさむことは、いとわりなくあるうちにも、ここにも、乳母(めのと)のいとさかしければ、(かた)かるべきよしを()こゆ。
と言いやりなさっては、ご自身がお出向きになることは、とても難しいところに、こちら宇治でも、乳母がとてもうるさいので、難しい旨をお返事申し上げる。
と書いておやりになったのであるが、御自身で宇治へおいでになることは至難のことになっていた。山荘のほうからも乳母は気のはしこくつく女であるからお迎えすることは不可能であると右近が書いてきた。

第四段 浮舟の母、京から宇治に来る

5.4.1
大将殿(だいしゃうどの)は、卯月(うづき)十日(とをか)となむ(さだ)めたまへりける。
(さそ)(みづ)あらば」とは(おも)はず、いとあやしく、「いかにしなすべき()にかあらむ」と()きたる心地(ここち)のみすれば(はは)(おほん)もとにしばし(わた)りて、(おも)ひめぐらすほどあらむ」と(おぼ)せど、少将(せうしゃう)()子産(こう)むべきほど(ちか)くなりぬとて、修法(すほふ)読経(どきゃう)など、(ひま)なく(さわ)げば、石山(いしやま)にもえ()()つまじ、(はは)ぞこち(わた)りたまへる。
乳母出(めのとい)()て、
大将殿は、四月の十日とお決めになっていた。
「誘ってくれる人がいたらどこへでも」とは思わず、とても変で、「どうしたらよい身の上だろうか」と浮いたような気持ちばかりがするので、「母親のもとにしばらく出かけていたら、思案する時間があろう」とお思いになるが、少将の妻が、子供を産む時期が近づいたということで、修法や、読経などでひっきりなしに騒がしいので、石山寺にも出かけるわけにゆかず、母親がこちらにお越しになった。
乳母が出て来て、
薫からは四月十日と移転の日をきめて来た。「誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ」とは思われないで、女はいかに進退すべきかに迷い、不安さに母の所へしばらく行ってよく考えを定めればいいであろうと思われたが、少将の妻になっている常陸守(ひたちのかみ)の娘の産期が近づいたため、祈祷(きとう)とか読経(どきょう)とかをさせるために家のほうは騒いでいて、懸案だった石山(もう)でもできなくなり、母のほうから宇治の山荘へ出て来た。乳母がさっそく出て来て、
5.4.2
殿(との)より、(ひと)びとの装束(さうぞく)なども、こまかに(おぼ)しやりてなむ。
いかできよげに(なに)ごとも、(おも)うたまふれど、乳母(まま)心一(こころひと)つには、あやしくのみぞし()ではべらむかし」
「殿から、女房の衣装なども、こまごまとご心配いただきました。
何とかきれいに何事も、と存じておりますが、乳母独りのお世話では、不十分なことしかできませんでございましょう」
「殿様のほうから、女房たちの衣装をこまごまと気をおつけになりましてたくさんな材料をくださいましたから、どうかしてきれいな体裁をととのえたいと思っておりますけれど、私の頭で考えますことではろくなことはできそうにございません」
5.4.3
など()(さわ)ぐが、心地(ここち)よげなるを()たまふにも(きみ)は、
などとはしゃいでいるのが、気持ちよさそうなのを御覧になるにつけても、女君は、
などと得意そうに語る。母もうれしそうであった。
5.4.4
けしからぬことども()()て、人笑(ひとわら)へならば、()れも()れもいかに(おも)はむ。
あやにくにのたまふ(ひと)はた、八重立(やへた)(やま)()もるとも、かならず(たづ)ねて、(われ)(ひと)いたづらになりぬべし。
なほ、(こころ)やすく(かく)れなむことを(おも)と、今日(けふ)ものたまへるを、いかにせむ」
「とんでもない事がいろいろと起こって、物笑いになったら、誰も彼もがどのように思うであろう。
無理無体におっしゃる方は、また、幾重にも山深い所に隠れても、必ず探し出して、自分も宮も身を破滅してしまうだろう。
やはり、気楽な所に隠れることを考えなさいと、今日もおっしゃっているが、どうしたらよいだろう」
浮舟の姫君は逃亡というような意外なことを自分が起こして問題になれば、この人たちはどんなにかなしむことであろう。一方の宮はまたどんな深い山へはいろうとも必ずお捜し出しになり、しまいには自分もあの方も社会的に葬られる結果になるであろう、自分の手へ来て隠れるようにとは今朝(けさ)も手紙に書いておよこしになったのであるが、どうすればよいのであろう
5.4.5
と、心地悪(ここちあ)しくて()したまへり。
と、気分が悪くて臥せっていらっしゃった。
と思い、気分までも悪くなり横になっていた。
5.4.6
などか、かく(れい)ならず、いたく(あを)()せたまへる」
「どうして、このようにいつもと違って、ひどく青く痩せていらっしゃるのでしょうか」
「どうしてそんなに平生と違って顔色が悪く、()せておしまいになったのだろう」
5.4.7
(おどろ)きたまふ。
と驚きなさる。
と母は浮舟を見て驚いていた。
5.4.8
()ごろあやしくのみなむ
はかなきものも()こしめさず、(なや)ましげにせさせたまふ」
「ここ幾日も妙な具合ばかりです。
ちょっとした食事も召し上がらず、苦しそうにおいであそばします」
「このごろずっとそんなふうでいらっしゃいまして、物は召し上がりませんし、お苦しそうにばかりしていらっしゃるのでございます」
5.4.9 と言うと、「不思議なことだわ。
物の怪などによるのであろうか」と、
乳母はこう告げた。「怪しいことね。物怪(もののけ)か何かが()いたのだろうか。
5.4.10
いかなる御心地(みここち)(おも)へど、石山停(いしやまと)まりたまひにきかし」
「どのようなご気分かと心配ですが、石山詣でもお止めになった」
あるいはと思うこともあるけれど、石山(まい)りの時は(けが)れで延びたのだし」
5.4.11
()ふも、かたはらいたければ、伏目(ふしめ)なり。
と言うのも、いたたまれない気がするので、まともに目を合わせられない。
と言われている時片腹痛さで伏し目になっている姫君だった。

第五段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う

5.5.1
()れて(つき)いと()かし。
有明(ありあけ)(そら)(おも)()づる(なみだ)のいと()めがたきは、いとけしからぬ(こころ)かな」と(おも)ふ。
母君(ははぎみ)昔物語(むかしものがち)などして、あなたの尼君(あまぎみよ)()でて、故姫君(こひめぎみ)(おほん)ありさま心深(こころふか)くおはして、さるべきことも(おぼ)()れたりしほどに、()()()()()りたまひにしことなど(かた)る。
日が暮れて月がたいそう明るい。
有明の空を思い出すと、「涙がますます抑えがたいのは、まことにけしからぬ心がけだ」と思う。
母君、昔話などをして、あちらの尼君を呼び出して、亡くなった姫君のご様子、思慮深くいらして、しかるべき事柄をお考えになっていた間に、目の前でお亡くなりになったことなどを話す。
夜になって月が明るく出た。川の上の有明(ありあけ)月夜のことがまた思い出されて、とめどなく涙の流れるのもけしからぬ自分の心であると浮舟は思った。母は昔の話などをしていて弁の尼も呼びにやった。尼は総角(あげまき)の姫君のことを話し出し、「考え深い方でいらっしゃいまして、御兄弟のことをあまりに御心配なさいまして、みすみす病気を重くしておしまいになりお(かく)れになったんですよ」と歎いていた。
5.5.2
おはしまさましかば(みや)(うへ)などのやうに、()こえ(かよ)ひたまひて、心細(こころぼそ)かりし(おほん)ありさまどもの、いとこよなき御幸(おほんさいは)ひにぞはべらましかし」
「生きていらっしゃったら、宮の上などのように、親しくお話し合いさって、心細かった方々のご境遇が、とてもこの上なくお幸せでございましたでしょうに」
「生きておいでになりましたら、宮の奥様の所と同じにおつきあいをあそばすことができまして、ただ今まで御苦労の多うございましたのを、お取り返しになれますほどおしあわせにおなりあそばされたのでしょうに」
5.5.3
()ふにも、わが(むすめ)異人(ことびと)かは。
(おも)ふやうなる宿世(すくせ)のおはし()てば、(おと)らじを」など(おも)(つづ)けて、
と言うにつけても、「自分の娘とて他人ではない。
思い通りの運命がお続きになったら、負けるまいに」と思い続けて、
尼のこの言葉を常陸夫人は喜ばなかった。自分の娘も八の宮の王女である、これから願っていたような幸福の道を進んで行ったならば二人の女王に劣る人とは見えぬはずであるなどという空想をして、
5.5.4
()とともにこの(きみ)につけては、ものをのみ(おも)(みだ)れしけしきの、すこしうちゆるびて、かくて(わた)りたまひぬべかめれば、ここに(まゐ)()ること、かならずしもことさらには、(おも)()ちはべらじ。
かかる対面(たいめん)折々(をりをり)に、(むかし)のことも、(こころ)のどかに()こえ(うけたまは)らまほしけれ」
「いつもいつも、この君の事では、何かと心配ばかりしてきましたが、様子が少しよくなって、このように京にお移りなるようですから、こちらにやって参ること、特別にわざわざ思い立つこともございますまい。
このようなお目にかかった折々に、昔の話を、のんびりと承りたく存じます」
「ずっとこの方では苦労をし続けてきたのですが、少しそれがゆるんで大将さんのところへ迎えられて行くことになりましたら、ここへ私の出てまいるようなこともあまりできますまい。まあ今のうちに昔のお話をゆるりとしておくことだと思うのですがね」
5.5.5
など(かた)らふ。
などと話す。
などと言っていた。
5.5.6
ゆゆしき()とのみ(おも)うたまへしみにしかば、こまやかに()えたてまつり()こえさせむも(なに)かは、つつましくて()ぐしはべりつるを、うち()てて、(わた)らせたまひなば、いと心細(こころぼそ)くなむはべるべけれど、かかる御住(おほんす)まひは(こころ)もとなくのみ()たてまつるを、うれしくもはべるべかなるかな。
()()らず重々(おもおも)しくおはしますべかめる殿(との)(おほん)ありさまにて、かく(たづ)ねきこえさせたまひしも、おぼろけならじと()こえおきはべりにし()きたることにやは、はべりける」
「縁起でもない身の上とばかり存じておりましたので、こまごまとお目にかかってお話し申し上げますのも、どんなものかしらと、遠慮して過ごしてまいりましたが、見捨てて、お移りになりましたら、とても心細くございましょうが、このようなお住まいは、不安にばかり拝見してましたので、嬉しいことでございますね。
又となく重々しくいらっしゃるらしい殿のご様子で、このようにお訪ね申し上げなさったのも、並々な愛情ではないと申し上げたことがございましたが、いい加減なことで、ございましたでしょうか」
「私などは縁起でもない恰好(かっこう)をしてと思いまして、こちらへ出てまいってこまごまとしたお話を申し上げますのも御遠慮がされて引っ込んでいましたものの、京へ行っておしまいになれば、心細くなることでございましょう。でもね、こうしたお住まいをしていらっしゃるのは何だかたよりない気のしたものですが、私もうれしいことに違いございません。重々しいお身の上のある方がこんなにも御丁寧にしてお迎えになるのは、奥様のお一人と思召すお心がおありになるからだと私へお話のあったことがございます。将来御不安なことなどは決してございませんよ」
5.5.7
など()ふ。
などと言う。

5.5.8
(のち)()らねどただ(いま)は、かく(おぼ)(はな)れぬさまにのたまふにつけても、ただ(おほん)しるべをなむ(おも)()できこゆる。
(みや)(うへ)かたじけなくあはれに(おぼ)したりしも、つつましきことなどのおのづからはべりしかば、中空(なかぞら)所狭(ところせ)御身(おほんみ)なり(おも)(なげ)きはべりて」
「先の事は分かりませんが、ただ今は、このようにお見捨てになることなくおっしゃるにつけても、ただお導きによるものと思い出し申し上げております。
宮の上が、もったいなくもお目をかけてくださいましたのも、遠慮されることなどが、自然とございましたので、中途半端で身の置き所のない方だ、と嘆きまして」
「まああとのことはわかりませんが、現在はまあこうした御親切をお見せくださるものですから、最初いろいろとお骨を折ってくださいましたあなたの御恩が思われます。宮の奥様はもったいないほどこの方を愛してあげてくださいましたのですが、あちらではめんどうが少し起こりかけましてね、ごやっかいにならせてお置きすることもできませんで、行きどころのないような孤独の方になっておいでになったので私は心配しておりましたがねえ」
5.5.9
()ふ。
尼君(あまぎみ)うち(わら)ひて、
と言う。
尼君はにっこりして、
尼は笑って、
5.5.10
この(みや)いと(さわ)がしきまで(いろ)におはしますなれば、(こころ)ばせあらむ(わか)(ひと)さぶらひにくげになむ。
おほかたは、いとめでたき(おほん)ありさまなれど、さる(すぢ)のことにて、(うへ)のなめしと(おぼ)さむなむわりなきと、大輔(たいふ)(むすめ)(かた)りはべりし」
「この宮の、とてもうるさいほどに好色でいらっしゃるので、分別のある若い女房は、お仕えにくそうで。
だいたいは、とても素晴らしいご様子ですが、その方面のことで、上が失礼なとお思いになるのが困ったことだと、大輔の娘が話しておりました」
「あの宮様は騒がしいくらい御多情な方でね、利巧(りこう)な若い女房は御奉仕がいたしにくいそうですよ。ほかのことはごりっぱな方なのですがね、そんなことで奥様が無礼だとお思いになることがないかと御心配が絶えないなどと大輔(たゆう)の娘が話していましたよ」
5.5.11
()ふにも、さりや、まして」と、(きみ)()()したまへり。
と言うにつけても、「やはりそうか、それ以上にわたしは」と、女君は臥せって聞いていらっしゃった。
こう言うのを、女房ですらその遠慮はするのである、まして自分は夫人の妹でないかと思いながら、横たわった浮舟は聞いていた。

第六段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う

5.6.1
あな、むくつけや
(みかど)御女(おほんむすめ)()ちたてまつりたまへる(ひと)なれど、よそよそにて、()しくも()くもあらむは、いかがはせむと、おほけなく(おも)ひなしはべる。
よからぬことをひき()でたまへらましかばすべて()には(かな)しくいみじと(おも)ひきこゆとも、また()たてまつらざらまし」
「まあ、嫌らしいこと。
帝のお姫様をお持ちになっていらっしゃる方ですが、他人なので、良いとも悪いともお咎めがあろうとなかろうと、しかたのないことと、恐れ多く存じております。
良くない事件を引き起こしなさったら、すべてわが身にとっては悲しく大変なことだとお思い申し上げても、二度とお世話しないでしょう」
「まあこわい話ですね。大将さんは内親王様を奥様に持っておいでになりましても、この方とは縁の遠い奥様ですもの、悪くお思われになっても、よくても、それはどちらでもともったいないことですが思っています。二条の院の奥様に苦労をおかけ申すようなことをこの方がなさいましたら、私はどんなにこの方がかわいそうでも二度と逢うことはいたしますまい、他人になりますよ」
5.6.2
など、()()はすことどもに、いとど心肝(こころぎも)もつぶれぬ
なほ、わが()(うしな)ひてばや。
つひに()きにくきことは()()なむ」と(おも)(つづ)くるに、この(みづ)(おと)(おそ)ろしげに(ひび)きて()くを、
などと話し合っている内容に、ますます胸も潰れる思いがした。
「やはり、自殺してしまおう。
最後は聞きにくいことがきっと出て来ることだろう」と思い続けると、この川の水の音が恐ろしそうに響いて流れて行くのを、
母が尼に話すこの言葉で肝も砕かれたように浮舟の姫君は思った。やはり自殺をすることにしよう。このままでは自分の醜聞が広がってしまうに違いない、どんなことが自分のために起こるかもしれぬなどと、姫君が胸をおさえて思っている山荘の外には宇治川が恐ろしい水音を響かせて流れて行くのを、常陸夫人は聞いて、
5.6.3
かからぬ(なが)れもありかし。
()()(あら)ましき(ところ)に、年月(としつき)()ぐしたまふを、あはれと(おぼ)しぬべきわざになむ」
「こんな恐ろしくない流れもありますのにね。
又となく荒々しい川の所に、歳月をお過ごしになるのを、不憫とお思いになるのも当然のこと」
「川といってもこんなこわい気のするものばかりでもありませんのにね、ひどくすごい所に長く置いておおきになったのですもの、大将さんが同情して京へ迎えてくださるのがもっともですよ」
5.6.4
など、母君(ははぎみ)したり(がほ)()ひゐたり。
(むかし)よりこの(かは)(はや)(おそ)ろしきことを()ひて、
などと、母君は得意顔で言っていた。
昔からこの川の早くて恐ろしいことを言って、
そう言う常陸夫人は得意そうであった。女房たちも川の水勢の荒いことなどを言い合い、
5.6.5
(さい)つころ渡守(わたしもり)(まご)(わらは)(さを)さし(はづ)して()()りはべりにける。
すべていたづらになる人多(ひとおほ)かる(みづ)にはべり」
「最近、渡守の孫の小さい子が、棹を差し損ねて川に落ちてしまいました。
ぜんたい命を落とす人が多い川でございます」
「先日も渡守(わたしもり)の孫の子供が舟の(さお)を差しそこねて落ちてしまったそうです。人がよく死ぬ水だそうでございます」
5.6.6
と、(ひと)びとも()ひあへり。
(きみ)は、
と、女房も話し合っていた。
女君は、
などと言っていた。
5.6.7
さても、わが行方(みゆくへ)()らずなりなば、()れも()れも、あへなくいみじと、しばしこそ(おも)うたまはめ。ながらへて人笑(ひとわら)へに()きこともあらむは、いつかそのもの(おも)ひの()えむとする」
「それにしても、わが身の行く方が分からなくなったら、誰も彼もが、あっけなく悲しいと、しばらくの間はお思いになるであろうが、生き永らえて物笑いになって嫌な思いをするのは、いつ物思いがなくなるというのだろう」
浮舟の姫君は今思っているように自分が行くえを不明にして死んでしまえば、親もだれも当分は力を落として悲しがるであろうが、生きていて世間の物笑いに自分がされるようであればその時の悲しみは短時日で済まず永久に続くことであろう、
5.6.8
と、(おも)ひかくるには、(さは)りどころもあるまじくさはやかによろづ(おも)ひなさるれど、うち(かへ)しいと(かな)し。
(おや)のよろづに(おも)()ふありさまを、()たるやうにてつくづくと(おも)(みだ)る。
と、死を考えつくと、何の支障もないように、さっぱりと何事も思われるが、また考え直すと実に悲しい。
母親がいろいろと心配し言っている様子に、寝たふうをしながらつくづくと思い心乱れる。
死ぬほうがよいと考えてみると、そのほうには故障があるとは思えず快く決行のできる気になるもののまた悲しくはあった。母の愛情から出る言葉を寝たようにして聞きながら浮舟は思い乱れていた。

第七段 浮舟の母、帰京す

5.7.1
(なや)ましげにて()せたまへるを、乳母(めのと)にも()ひて、
悩ましそうに臥せっていらっしゃるのを、乳母にも言って、
いたましいふうに痩せてしまったことを乳母にも言い、適当な祈祷(きとう)をさせてほしいと言い、祭や(はらい)などのことについても命じるところがあった。
5.7.2
さるべき御祈(おほんいの)りなどせさせたまへ。
祭祓(まつりはらへ)などもすべきやう」
「しかるべき御祈祷などをなさいませ。
祭や祓などもするように」
「恋せじと御手洗(みたらし)川にせし(みそぎ)神は受けずもなりにけらしな」
5.7.3
など()ふ。
御手洗川(みたらしがは)(みそぎ)せまほしげなるをかくも()らでよろづに()(さわ)ぐ。
などと言う。
御手洗川で禊をしたい恋の悩みなのに、そうとも知らずにいろいろと言い騒いでいる。
そんな禊もさせたい人であるのを知らない人たちがいろいろに言って騒いでいるのである。
5.7.4
人少(ひとずく)ななめり
よくさるべからむあたりを(たづ)ねて。
今参(いままゐ)りはとどめたまへ。
やむごとなき御仲(おほんなか)らひは、正身(さうじみ)こそ、何事(なにごと)もおいらかに(おぼ)さめ、()からぬ(なか)となりぬるあたりは、わづらはしきこともありぬべし。
(かく)(ひそ)めて、さる(こころ)したまへ」
「女房が少ないようだ。
よい適当な所から尋ねて。
新参者は残しなさい。
高貴な方とのご交際は、ご本人は何事もおっとりとお思いでしょうが、良くない仲になってしまいそうな女房どうしは、厄介な事もきっとありましょう。
表立たず控え目にして、そのような用心をなさい」
「女房の数が少ないようですね。確かに信用のできる人を捜しておくことですね。見ず知らずの女は当分雇わないことにしなさいよ。りっぱな方の奥様どうしというものは、御本人たちは寛大な態度をとっていらっしゃっても、嫉妬(しっと)はどこにもあるわけでね、お付きの者のことなどからよくないことも起こりますからね、悪いきっかけというようなものを作らないように女たちには気をおつけなさいよ」
5.7.5
など、(おも)ひいたらぬことなく()ひおきて、
などと、気のつかないことがないまでに注意して、
などと、注意のし残しもないように言い置いてから、
5.7.6 「あちらで病んでおります人も、気がかりです」
「家で寝ている人も気がかりだから」
5.7.7
とて(かへ)るを、いともの(おも)はしく、よろづ心細(こころぼそ)ければ、またあひ()でもこそ、ともかくもなれ」と(おも)へば、
と言って帰るのを、とても物思いとなり、何事につけ悲しいので、「再びと会わずに、死んでしまうのか」と思うと、
と言い、母の帰ろうとするのを、物思いの多い心細い浮舟は、もうこれかぎり逢うこともできないで死ぬのかと悲しんだ。
5.7.8
心地(ここち)()しくはべるにも()たてまつらぬが、いとおぼつかなくおぼえはべるを、しばしも(まゐ)()まほしくこそ
「気分が悪うございましても、お目にかかれないのが、とても不安に思われますので、少しの間でもお伺いしていたく存じます」
身体(からだ)の悪い間はお目にかからないでいるのが心細いのですから、私はしばらくでも家のほうへ行きとうございます」
5.7.9
(した)ふ。
と慕う。
別れにくそうに言うのであった。
5.7.10
さなむ(おも)ひはべれどかしこもいともの(さわ)がしくはべり。
この(ひと)びとも、はかなきことなどえしやるまじく、(せば)くなどはべればなむ。
武生(たけふ)国府(こふ)(うつ)ろひたまふとも、(しの)びては(まゐ)()なむを。
なほなほしき()のほどは、かかる(おほん)ためこそ、いとほしくはべれ」
「そのように思いましても、あちらもとても何かと騒がしくございます。
こちらの女房たちも、ちょっとしたことなどできそうもない、狭い所でございますので。
武生の国府にお移りになっても、こっそりとお伺いしますから。
人数ならぬ身の上では、このようなお方のために、お気の毒でございます」
「私もそうさせたいのだけれど、(うち)のほうも今は混雑しているのですよ。あなたに付いている人たちもあちらへ移る用意の縫い物などを家ではできませんよ、狭くなっていてね。『武生(たけふ)国府(こふ)に』(われはありと親には申したれ)においでになっても、私はそっと行きますよ。つまらぬ身の上ですから、それだけはあなたのために遠慮されますがね」
5.7.11
など、うち()きつつのたまふ。
などと、泣きながらおっしゃる。
と母は泣きながら言っていた。

第六章 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う


第一段 薫と匂宮の使者同士出くわす

6.1.1
殿(との)御文(おほんふみ)今日(けふ)もあり。
(なや)ましと()こえたりしを、「いかが」と、(とぶ)らひたまへり。
殿のお手紙は今日もある。
気分が悪いと申し上げていたので、「いかがな具合ですか」と、お見舞いくださった。
(かおる)からまたも手紙の使いが来た。病気と聞いて今日はどうかと尋ねて来たのである。
6.1.2
みづからと(おも)ひはべるをわりなき(さは)(おほ)くてなむ。
このほどの()らしがたさこそ、なかなか(くる)しく」
「自分自身でと思っておりますが、止むを得ない支障が多くありまして。
待っている間の身のつらさが、かえって苦しい」
自身で行きたいのですが、いろいろな用が多くて実行もできません。近いうちにあなたを迎えうることになって、かえって時間のたつことのもどかしさに気のあせるのを覚えます。
6.1.3
などあり。
(みや)は、昨日(きのふ)御返(おほんかへ)りもなかりしを、
などとある。
宮は、昨日のお返事がなかったのを、
こんなことも書かれてあった。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は昨日の手紙に返事のなかったことで、
6.1.4
いかに(おぼ)しただよふぞ
(かぜ)のなびかむ(かた)うしろめたくなむ。
いとどほれまさりて(なが)めはべる」
「どのようにお迷いになっているのか。
思わぬ方に靡くのかと気がかりです。
ますますぼうっとして物思いに耽っております」
まだ迷っているのですか、「風の(なび)き」(にけりな里の海人(あま)()()の煙心弱さに)のたよりなさに以前よりもいっそうぼんやりと物思いを続けています。
6.1.5
など、これは(おほ)()きたまへり。
などと、こちらはたくさんお書きになっていた。
などとこのほうは長かった。
6.1.6 雨が降った日、来合わせたお使い連中が、今日も来たのであった。
殿の御随身は、あの少輔の家で時々見る男なので、
この前の前、雨の降った日に山荘で落ち合った使いがまたこの日出逢うことになって、大将の随身は式部少輔(しょう)の所でときどき見かける男が来ているのに不審を覚えて、
6.1.7 「あなたは、何しに、こちらに度々参るのですか」
「あんたは何の用でたびたびここへ来るのかね」
6.1.8
()ふ。
と尋ねる。
()いた。
6.1.9 「私用で尋ねる人のもとに参るのです」
「自分の知った人に用があるもんだから」
6.1.10
()ふ。
と答える。

6.1.11
(わたくし)(ひと)にや(えん)なる(ふみ)はさし()らする、けしきある真人(まうと)かな。
もの(かく)しはなぞ」
「私用の相手に、恋文を届けるとは、不思議な方ですね。
隠しているのはなぜですか」
「自分の知った人に(えん)恰好(かっこう)の手紙などを渡すのかね。理由(わけ)がありそうだね、隠しているのはどんなことだ」
6.1.12
()ふ。
と尋ねる。

6.1.13
まことは、この(かん)(きみ)御文(おほんふみ)女房(にょうばう)にたてまつりたまふ」
「本当は、わたしの主人の守の君が、お手紙を、女房に差し上げなさるのです」
真実(ほんとう)(かみ)(時方は出雲権守(いずものごんのかみ)でもあった)さんの手紙を女房へ渡しに来るのさ」
6.1.14
()へば、言違(ことたが)ひつつあやしと(おも)へど、ここにて(さだ)()はむも(こと)やうなべければ、おのおの(まゐ)りぬ。
と言うので、返事が次々変わるので変だと思うが、ここではっきりさせるのも変なので、それぞれが参上した。
随身は想像と違ったこの答えをいぶかしく思ったがどちらも山荘を辞して来た。

第二段 薫、匂宮が女からの文を読んでいるのを見る

6.2.1
かどかどしき(もの)にて、(とも)にある(わらは)を、
才覚のある者なので、供に連れている童を、
随身は利巧(りこう)者であったから、つれて来ている小侍に、
6.2.2
この(をのこ)さりげなくて()つけよ。
左衛門大夫(さゑもんのたいふ)(いへ)にや()る」
「この男に、気づかれないように後をつけよ。
左衛門大夫の家に入るかどうか」
「あの男のあとを知らぬ顔でつけて行け、どの(やしき)へはいるかよく見て来い」
6.2.3
()せければ、
と跡付けさせたところ、
と命じてやった。
6.2.4
(みや)(まゐ)りて、式部少輔(しきぶのせう)なむ、御文(おほんふみ)()らせはべりつる」
「宮邸に参って、式部少輔に、お手紙を渡しました」
さきの使いは兵部卿の宮のお邸へ行き、式部少輔に返事の手紙を渡していた
6.2.5
()ふ。
さまで(たづ)ねむものとも(おと)りの下衆(げす)(おも)はず、ことの(こころ)をも(ふか)()らざりければ、舎人(とねり)(ひと)見現(みあらは)されにけむぞ、口惜(くちを)しきや。
と言う。
そこまで調べるものとは、身分の低い下衆は考えず、事情を深く知らなかったので、随身に発見されたのは、情けない話である。
と小侍は帰って来て報告した。それほどにしてうかがわれているとも宮のほうの侍は気がつかず、またどんな秘密があることとも知らなかったので近衛(このえ)の随身に見あらわされることになったのである。
6.2.6
殿(との)(まゐ)りて今出(いまい)でたまはむとするほどに御文(おほんふみ)たてまつらす。
直衣(なほし)にて、六条(ろくでう)(ゐん)(きさい)(みや)()でさせたまへるころなれば、(まゐ)りたまふなりければ、ことことしく、御前(ごぜん)などあまたもなし。
御文参(おほんふみまゐ)らする(ひと)に、
殿に参上して、今お出かけになろうとするときに、お手紙を差し上げさせる。
直衣姿で、六条の院に、后宮が里下がりあそばしている時なので、お伺いなさるものだから、仰々しく、御前駆など大勢はいない。
お手紙を取り次ぐ人に、
随身は大将の邸へ行き、ちょうど出かけようとしている薫に、返事を人から渡させようとした。今日は直衣(のうし)姿で、六条院へ中宮が帰っておいでになるころであったから伺候しようと薫はしていたのである。前駆を勤めさせる者も多く呼んでなかった。随身が取り次ぎを頼む人に、
6.2.7
あやしきことのはべりつる。
()たまへ(さだ)めむとて、(いま)までさぶらひつる」
「不思議な事がございました。
はっきりさせようと思って、今までかかりました」
「妙なことがあったものですから、よく調べてと思いましてただ今までかかりました」
6.2.8
()ふを、ほの()きたまひて、(あゆ)()でたまふままに、
と言うのを、ちらっとお聞きになって、お歩きになりながら、
と言っているのを片耳にはさみながら、乗車するために出て来た薫が、
6.2.9 「どのような事か」
「何かあったか」
6.2.10
()ひたまふ。
この(ひと)()かむもつつましと(おも)ひて、かしこまりてをり。
殿(との)もしか見知(みし)りたまひて、()でたまひぬ。
とお尋ねになる。
この取り次ぎが聞くのも憚れると思って、遠慮している。
殿もそうとお察しになって、お出かけになった。
と聞いた。取り次いだ人もいることであったから随身は黙ってかしこまってだけいた。様子のありそうなことであると見たが薫はこのまま出かけてしまった。
6.2.11
(みや)(れい)ならず(なや)ましげにおはすとて、(みや)たちも皆参(みなまゐ)りたまへり。
上達部(かんだちめ)など(おほ)(まゐ)(つど)ひて、(さわ)がしけれど、ことなることもおはしまさず。
后宮は、御不例でいらっしゃるということで、親王方もみな参上なさっていた。
上達部など大勢お見舞いに参っていて、騒がしいけれど、格別変わった御容態でもない。
中宮(ちゅうぐう)がまた少し御病気でおありになるということで宮達も皆集まって来ておいでになった。高官たちもたくさんまいっていて騒いでいたがたいしたことはおありにならなかった。
6.2.12
かの内記(ないき)は、政官(じゃうがん)なれば(おく)れてぞ(まゐ)れる。
この御文(おほんふみ)たてまつるを、(みや)台盤所(だいばんどころ)におはしまして、戸口(とぐち)()()せて()りたまふを、大将(だいしゃう)御前(おまへ)(かた)より()()でたまふ、側目(そばめ)見通(みとほ)したまひて、せちにも(おぼ)すべかめる(ふみ)のけしきかな」と、をかしさに()ちとまりたまへり。
あの大内記は太政官の役人なので、後れて参った。
あのお手紙を差し上げるのを、匂宮が、台盤所にいらして、戸口に呼び寄せてお取りになるのを、大将は、御前の方からお下がりになる、その横目でお眺めになって、「熱中なさっている手紙の様子だ」と、その興味深さに目がお止まりになった。
内記は太政官の吏員であったから、役向きのことが忙しかったのかおそくなって出て来た。そして宇治の返事の来たのを宮に、台盤所(だいばんどころ)へ来ておいでになって戸口へお呼びになった宮へ差し上げていたのをちょうどその時中宮の御前から出て来た大将が何心なく横目に見て、大事な恋人からよこしたものらしい(ふみ)であるとおかしく思い、ちょっと立ちどまっていた。
6.2.13
()()けて()たまふ(くれなゐ)薄様(うすやう)に、こまやかに()きたるべし」と()ゆ。
(ふみ)心入(こころい)れて、とみにも()きたまはぬに、大臣(おとど)()ちて()ざまにおはすれば、この(きみ)障子(さうじ)より()でたまふとて、大臣出(おとどい)でたまふ」と、うちしはぶきて、(おどろ)かいたてまつりたまふ
「開いて御覧になっているのは、紅の薄様に、こまごまと書いてあるらしい」と見える。
手紙に夢中になって、すぐには振り向きなさらないので、大臣も席を立って外に出てにいらっしゃるので、この君は、襖障子からお出になろうとして、「大臣がお出になります」と咳払いをして、ご注意申し上げなさる。
宮は引きあけて読んでおいでになる、紅の薄様(うすよう)に細かく書かれた手紙のようである。文に夢中になっておいでになる時に、左大臣も御前を立って外のほうへ歩いて来るのを見て、薫は自身の休息室から今出るふうにして大臣の来たことを宮へ御注意するための(せき)払いをした。
6.2.14
ひき(かく)したまへるにぞ、大臣(おとど)さし(のぞ)きたまへる。
(おどろ)きて御紐(おほんひも)さしたまふ。
殿(との)つい()たまひて
ちょうどお隠しになったところへ、大臣が顔をお出しになった。
驚いて襟元の入紐をお差しになる。
殿は膝まずきなさって、
これで宮がお隠しになったあとへ都合よく大臣は来ることになった。宮は驚いたふうに直衣(のうし)(ひも)を掛けておいでになった。薫も兄の大臣の前に(ひざ)を折り、
6.2.15
まかではべりぬべし
御邪気(おほんじゃけ)(ひさ)しくおこらせたまはざりつるを、(おそ)ろしきわざなりや。
(やま)座主(ざす)ただ今請(いまさう)じに(つか)はさむ」
「退出いたしましょう。
御物の怪が久しくお起こりになりませんでしたが、恐ろしいことですね。
山の座主を、さっそく呼びにやりましょう」
「私はもう下がってまいろうと思います。いつもの物怪(もののけ)は久しく(わざわい)をいたしませんでしたのに恐ろしいことでございます。叡山(えいざん)座主(ざす)をすぐ呼びにやりましょう」
6.2.16
と、(いそ)がしげにて()ちたまひぬ。
と、忙しそうにお立ちになった。
とだけ言い、忙しそうに立って行った。

第三段 薫、随身から匂宮と浮舟の関係を知らされる

6.3.1
夜更(よふ)けて、皆出(みない)でたまひぬ。
大臣(おとど)は、(みや)(さき)()てたてまつりたまひて、あまたの御子(おほんこ)どもの上達部(かんだちめ)(きみ)たちをひき(つづ)けて、あなたに(わた)りたまひぬ
この殿(との)(おく)れて()でたまふ。
夜が更けて、みな退出なさった。
大臣は、宮を先にお立て申し上げになって、大勢のご子息の上達部や、若君たちを引き連れて、あちらにお渡りになった。
この殿は遅れてお出になる。
夜のふけたころだれも皆六条院から退出した。左大臣は宮をお先立てして幾人もの子息の高官、殿上人を率いていて東の御殿へ行った。右大将はそれに少し遅れて自邸へ帰るのであった。
6.3.2
随身(ずいじん)けしきばみつる、あやしと(おぼ)しければ、御前(ごぜん)など()りて火灯(ひとも)すほどに随身召(ずいじんめ)()す。
随身がいわくありげな顔をしていたのを、何かあるとお思いになったので、御前駆たちが引き下がって松明を燈すころに、随身を呼び寄せる。
随身が告げることのありそうなふうであったのを怪しく思っていたから、前駆の人たちなどが馬からおりて炬火(たいまつ)に火をつけさせたりしている時に、薫は随身を近くへ呼んだ。
6.3.3 「先程申したことは、何事か」
「さっきの話はどんなことか」
6.3.4
()ひたまふ。
とお尋ねになる。

6.3.5
今朝(けさ)かの宇治(うぢ)出雲権守時方朝臣(いづものごんのかみときかたのあそん)のもとにはべる(をとこ)(むらさき)薄様(うすやう)にて、(さくら)につけたる(ふみ)を、西(にし)妻戸(つまど)()りて、女房(にょうばう)()らせはべりつる。
()たまへつけて、しかしか()ひはべりつれば、言違(ことたが)へつつ、虚言(そらごと)のやうに(まう)しはべりつるを、いかに(まう)すぞ、とて、(わらは)べして()せはべりつれば、兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)(まゐ)りはべりて、式部少輔道定朝臣(しきぶのせうみちさだのあそん)になむ、その(かへ)(ごと)()らせはべりける」
「今朝、あの宇治に、出雲権守時方朝臣のもとに仕えている男が、紫の薄様で、桜に付けた手紙を、西の妻戸に近寄って、女房に渡しました。
それを拝見しまして、これこれしかじかと尋ねましたら、返事がころころと変わり、嘘のような返事を申しましたので、どうしてそう申すのかと、子どもを使って後をつけさせましたところ、兵部卿宮邸に参りまして、式部少輔道定朝臣に、その返事を渡しました」
今朝(けさ)宇治に出雲権守時方朝臣(いずもごんのかみときかたあそん)の所におります侍が来ておりまして、紫の薄様に書いて桜の枝につけられました手紙を西の妻戸から女房に渡しているのを見ましてございます。見つけまして何かと聞きただしますと、申すことが作りごとらしいものでございますから、信用はできないと存じまして、小侍をそっとつけてやりますと、兵部卿の宮のお邸へまいり、式部少輔(しょう)にその返事を渡したそうでございます」
6.3.6
(まう)す。
(きみ)あやしと(おぼ)して、
と申す。
君は、変だとお思いになって、
と言う。薫は不思議なことであると思い、
6.3.7 「その返事は、どのようにして、返したか」
「その返事をあちらではどんなふうにして出したか」
6.3.8
それは()たまへず
異方(ことかた)より()だしはべりにける。
下人(しもびと)(まう)しはべりつるは、(あか)色紙(しきし)の、いときよらなる、となむ(まう)しはべりつる」
「それは拝見できませんでした。
別の方から出しました。
下人の申したことでは、赤い色紙で、とても美しいもの、と申しました」
「それは見なかったのでございます。別の戸口から出して渡したらしいのでございます。下人から聞きますと赤い色紙のきれいなものだったと申すことです」
6.3.9
()こゆ。
(おぼ)()はするに(たが)ふことなし。
さまで()せつらむを、かどかどしと(おぼ)せど、(ひと)びと(ちか)ければ、(くは)しくものたまはず。
と申し上げる。
お考え合わせになると、ぴったりである。
そこまで見届けさせたのを、気が利いているとお思いになるが、人びとが近くにいるので、詳しくはおっしゃらない。
この言葉から思い合わせると、宮の見ておいでになった文がそれに相違ないと薫は思った。そんなにまで苦心をして調べ出して来たのは気のきいた男であると思ったが、人がすでに集まって来ていたからそれ以上の細かいことは言わせずに済ませた。

第四段 薫、帰邸の道中、思い乱れる

6.4.1
(みち)すがら、なほ、いと(おそ)ろしく(くま)なくおはする(みや)なりや。
いかなりけむついでに、さる(ひと)ありと()きたまひけむ。
いかで()()りたまひけむ。
田舎(ゐなか)びたるあたりにてかうやうの(すぢ)(まぎ)れは、えしもあらじ、(おも)ひけるこそ(をさな)けれ。
さても、()らぬあたりにこそさる()きごとをものたまはめ、(むかし)より(へだ)てなくて、あやしきまでしるべして、()てありきたてまつりし()にしも、うしろめたく(おぼ)()るべしや
帰途、「やはり、実に油断のならない、抜け目なくいらっしゃる宮であるよ。
どのような機会に、そのような人がいるとお聞きになったのだろう。
どのようにして言い寄りなさったのだろう。
田舎めいた所だから、このような方面の過ちは、けっして起こるまい、と思っていたのが浅はかだった。
それにしても、わたしに関わりのない女には、そのような懸想をなさってもよいが、昔から親しくして、おかしいまでに手引して、お連れ申して歩いた者に、裏切ってそのような考えを持たれてよいものであろうか」
薫は車で来る途々(みちみち)の話を思い、恐ろしいほど異性に対しては神経の過敏に働く宮である、どんな機会にあの人のことをお知りになったのであろう、そしてどうして誘惑をお始めになったのであろう、あの田舎(いなか)の宇治に住ませてあれば、そうした危険には隔離されているもののように思い、安心していたのはなんたる自分の幼稚な考え方であったろう、それにしても互いに知らぬ人の愛人と恋愛の遊戯をすることも世間にはあるであろうが、自分と宮とは親友の間柄で、人が怪しむほどにも助けられ、お助けして恋の媒介をすら勤めた自分の愛人を誘惑などあそばされてよいわけはない
6.4.2
(おも)ふに、いと(こころ)づきなし。
と思うと、まことに気にくわない。
と思うと不快でならなかった。
6.4.3
(たい)御方(おほんかた)(おほん)ことを、いみじく(おも)ひつつ、(とし)ごろ()ぐすは、わが(こころ)(おも)さ、こよなかりけり。
さるは、それは、今初(いまはじ)めてさま()しかるべきほどにもあらず
もとよりのたよりにもよれるをただ(こころ)のうちの(くま)あらむが、わがためも(くる)しかるべきによりこそ、(おも)(はばか)るもをこなるわざなりけれ。
「対の御方のことを、たいそういとしく思いながらも、そのまま何年も過ごして来たのは、自分の慎重さが、深かったからだ。
また一方では、それは今始まった不体裁な恋情ではない。
もともとの経緯もあったのだが、ただ心の中に後ろ暗いところがあっては、自分としても苦しいことになると思ってこそ、遠慮していたのも愚かなことであった。
西の対の夫人を非常に恋しく思いながら、ある線を越えて行かない自分はりっぱでないか、しかも親密にするのは宮家へはいってからの夫人としてではない、宮に対してやましい思いをお持ちするのがいやで、恋しい心を抑制しているのは愚かなことであったかも知れぬ、
6.4.4
このころかく(なや)ましくしたまひて(れい)よりも(ひと)しげき(まぎ)れに、いかではるばると()きやりたまふらむ。
おはしやそめにけむ。
いと(はる)かなる懸想(けさう)(みち)なりや。
あやしくて、おはし所尋(どころたづ)ねられたまふ()もあり()こえきかし
さやうのことに(おぼ)(みだ)れて、そこはかとなく(なや)みたまふなるべし。
(むかし)(おぼ)()づるにも、えおはせざりしほどの(なげ)き、いといとほしげなりきかし」
最近このように具合悪くなさって、不断よりも人の多い取り込み中に、どのようにしてはるばる遠い宇治までお書きやりになったのだろうか。
通い初めなさったのだろうか。
たいそう遠い恋の通い路だな。
不思議に思って、いらっしゃる所を尋ねられる日もあった、と聞いたことだ。
そのようなことにお苦しみになって、どこそことなく悩んでいらっしゃるのだろう。
昔を思い出すにつけても、お越しになれなかったときの嘆きは、実にお気の毒であった」
ずっとこのごろ宮は御病気のようで始終お見舞いの人々に取り巻かれておいでになりながら、どうして宇治へのお手紙は書かれたのであろう、またどうしてお通いになることができたのであろう、遠くはるかな恋の道ではないか、だれにも想像のつかぬ所へ行ってお泊まりになることがあり、所在を捜されておいでになる時があるという御評判も聞いた、罪な恋におぼれて御煩悶(はんもん)から名のない病気におかかりになっているのであろう、昔のことを思い出しても、あの山荘へお通いになることの可能でない間は見てもいられぬほどお気の毒に思いやつれておいでになったものである
6.4.5
と、つくづくと(おも)ふに、(をんな)のいたくもの(おも)ひたるさまなりしも、片端心得(かたはしこころえ)そめたまひては、よろづ(おぼ)()はするに、いと()し。
と、つくづくと思うと、女がひどく物思いしている様子であったのも、事情の一端がお分かり始めになると、あれこれと思い合わせると、実につらい。
と薫は思い、またいろいろと思い合わせてみると、女が非常に物思いをしていたこともこの理由があってのことであったと、一つが明らかになると次々にうなずかれていくことも多くて女がうとましく思われた。
6.4.6
ありがたきものは(ひと)(こころ)にもあるかな。
らうたげにおほどかなりとは()えながら、(いろ)めきたる(かた)()ひたる(ひと)ぞかし。
この(みや)御具(おほんぐ)にては、いとよきあはひなり
「難しいものは、人の心だな。
かわいらしくおっとりしているとは見えながら、浮気なところがある人であった。
この宮の相手としては、まことによい似合いだ」
完全な人というものは少ないものである、可憐(かれん)でおおように見えながら媚態(びたい)の備わったのが彼女である、宮のお相手には全く似合わしいものであるから、
6.4.7
(おも)ひも(ゆづ)りつべく、退()心地(ここち)したまへど、
と譲ってもよい気持ちになり、身を引きたくお思いになるが、
すべて今からお譲りしてしまいたい気も薫はしたが、
6.4.8
やむごとなく(おも)ひそめ(はじ)めし(ひと)ならばこそあらめ、なほさるものにて()きたらむ
(いま)はとて()ざらむ、はた、(こひ)しかるべし」
「北の方にする気持ちの女ならともかくも、やはり今まで通りにしておこう。
これを限りに会わなくなるのも、はたまた、恋しい気がするであろう」
正妻として結婚した女にそうした過失をされたというのでなく、今後も愛人としての彼女を失ってしまっては恋しくなるであろうと、
6.4.9
人悪(ひとわ)ろく、いろいろ(こころ)(うち)(おぼ)す。
と体裁悪いほど、いろいろと心中ご思案なさる。
未練らしく思われないこともなかった。

第五段 薫、宇治へ随身を遣わす

6.5.1
(われ)、すさまじく(おも)ひなりて、()()きたらば、かならず、かの(みや)()()りたまひてむ。
(ひと)のため、(のち)のいとほしさをも、ことにたどりたまふまじ
さやうに(おぼ)(ひと)こそ一品宮(いっぽんのみや)御方(おほんかた)(ひと)()三人参(さんにんまゐ)らせたまひたなれ。
さて、()()ちたらむを見聞(みき)かむ、いとほしく」
「自分が、嫌気がさしたといって、見捨てたら、きっと、あの宮が、呼び迎えなさろう。
相手にとって、将来がお気の毒なのも、格別お考えなさるまい。
そのように寵愛なさる女は、一品宮の御方のもとに女房を、二、三人出仕させなさったという。
そのように、出仕させたのを見たり聞いたりするのも、気の毒なことだ」
自分が捨ててしまえば必ず宮はどこかへ呼び寄せてお置きになるであろう、女がどんな不名誉なことになろうとも思いやりはおできになるまい、今までからそんな人を二、三人も女一(にょいち)(みや)の女房に推挙されたことがある、そうした境遇になった時、自分は見るに忍びないつらさを味わうであろうと思い、
6.5.2
など、なほ()てがたく、けしき()まほしくて、御文遣(おほんふみつか)はす。
(れい)随身召(ずいじんめ)して、御手(おほんて)づから人間(ひとま)()()せたり。
などと、やはり見捨てがたく、様子を見たくて、お手紙を遣わす。
いつもの随身を呼んで、ご自身で直接人のいない間に呼び寄せた。
捨てる気は起こらないで、どうするつもりかも見たく思い、家へ帰った。薫は手紙を宇治へ書いた。大将は例の随身を使いに選び、自身で人のない時にそば近くへ呼んだ。
6.5.3
道定朝臣(みちさだのあそん)なほ仲信(なかのぶ)(いへ)にや(かよ)ふ」
「道定朝臣は、今でも仲信の家に通っているのか」
「時方朝臣は今でも仲信(なかのぶ)の家に通っているか」
6.5.4
さなむはべる」と(まう)す。
「そのようでございます」と申す。
「そうでございます」
6.5.5
宇治(うぢ)へは(つね)にやこのありけむ(をのこ)()るらむ。
かすかにて()たる(ひと)なれば道定(みちさだ)(おも)ひかくらむかし
「宇治へは、いつもあの先程の男を使いにやるのか。
ひっそり暮らしている女なので、道定も思いをかけるだろうな」
「宇治へいつもその使いをやるのだね。零落をしていた女だから時方も恋をしていたことがあるかもしれないね」
6.5.6
と、うちうめきたまひて、
と、溜息をおつきになって、
と歎息をして見せ、
6.5.7 「人に見られないように行け。
馬鹿らしいからな」
「人に見られないようにして行け、見られれば恥ずかしいよ」
6.5.8
とのたまふ。
かしこまりて、少輔(せうふ)(つね)にこの殿(との)(おほん)こと案内(あない)し、かしこのこと()ひしも(おも)ひあはすれど、もの()れて(まう)()でず。
(きみ)も、下衆(げす)(くは)しくは()らせじ」と(おぼ)せば、()はせたまはず。
とおっしゃる。
緊張して、少輔がいつもこの殿の事を探り、あちらの事を尋ねたことも思い合わされるが、なれなれしくは申し出ることもできない。
君も、「下衆に詳しくは知らせまい」とお思いになったので、尋ねさせなさらない。
と言った。時方が始終大将のことをいろいろと()きたがり、山荘の中のことを聞いていたのは、自身のためでなく他の方のためにしていたことであったに違いないし、大将もまたそれを隠そうとしているのであると、物なれた思いやりをして何とも問わず、薫も低い人間にくわしいことは知らせたくないと思っているのであった。
6.5.9
かしこには、御使(おほんつかひ)(れい)よりしげきにつけても、もの(おも)ふことさまざまなり。
ただかくぞのたまへる
あちらでは、お使いがいつもより頻繁にあるのにつけても、あれこれ物思いをする。
ただこのようにおっしゃっていた。
山荘では大将家からの使いが平生よりもたびたび来ることでも不安が覚えられる浮舟の君であった。手紙はただ、
6.5.10 「心変わりするころとは知らずにいつまでも
待ち続けていらっしゃるものと思っていました
(なみ)こゆる(ころ)とも知らず
末の松まつらんとのみ思ひけるかな
6.5.11 世間の物笑いになさらないでください」
人にこの歌をお話しになって笑ってはいけませんよ。
6.5.12
とあるを、いとあやしと(おも)ふに、(むね)ふたがりぬ。
御返(おほんかへ)(ごと)心得顔(こころえがほ)()こえむもいとつつまし、ひがことにてあらむもあやしければ、御文(おほんふみ)はもとのやうにして、
とあるのを、とても変だと思うと、胸が真っ暗になった。
お返事を理解したように申し上げるのも気がひける、何かの間違いだっら具合が悪いので、お手紙はもとのように直して、
と書かれてあるだけであったが、いぶかしいと思った瞬間から姫君の胸はふさがってしまった。相手の言おうとしていることを知っているような返事を書くことも恥ずかしく、誤聞であろうと言いわけをするのもやましく思われて、手紙をもとのように巻き、
6.5.13
所違(ところたが)へのやうに()えはべればなむ。
あやしく(なや)ましくて、何事(なにごと)も」
「宛先が違うように見えますので。
妙に気分がすぐれませんので、何事も申し上げられません」
どこかほかへのお手紙かと存じます、身体(からだ)を悪くしていまして、今日は何も申し上げられません。
6.5.14
()()へてたてまつれつ。
()たまひて
と書き添えて差し上げた。
御覧になって、
と書き添えて返した。
6.5.15
さすがにいたくもしたるかな。
かけて()およばぬ(こころ)ばへよ」
「そうはいっても、うまく言い逃れたな。
少しも思ってもみなかった機転だな」
(かおる)はそれを見て、さすがに才気の見えることをする、あの人にこんなことができるとは思わなかったと思い、
6.5.16 とにっこりなさるのも、憎いとは、お恨み切れないのであろう。
微笑をしているのは、どこまでも憎いというような気にはなっていないからであろう。

第六段 右近と侍従、右近の姉の悲話を語る

6.6.1
まほならねど、ほのめかしたまへるけしきを、かしこにはいとど(おも)()ふ。
つひにわが()けしからずあやしくなりぬべきなめり」と、いとど(おも)ふところに、右近来(うこんき)て、
正面きってではないが、それとなくおっしゃった様子を、あちらではますます物思いが加わる。
「結局は、わが身は良くない妙な結果になってしまいそうだ」と、ますます思っているところに、右近が来て、
正面からではないが薫がほのめかして来たことで浮舟(うきふね)の煩悶はまたふえた。とうとう自分は恥さらしな女になってしまうのであろうといっそう悲しがっているところへ右近が来て、
6.6.2
殿(との)御文(おほんふみ)などて(かへ)したてまつらせたまひつるぞ。
ゆゆしく、()みはべるなるものを
「殿のお手紙は、どうしてお返しなさったのですか。
不吉にも、忌むものでございますものを」
「殿様のお手紙をなぜお返しになったのでございますか。縁起の悪いことでございますのに」と言った。
6.6.3 「間違いがあるように見えたので、宛先が違うのかと思いまして」
「私に理由(わけ)のわからないことが書かれていたから、持って行く先をまちがえたのでしょうって書いて」
6.6.4
とのたまふ。
あやしと()ければ(みち)にて()けて()けるなりけり。
よからずの右近(うこん)がさまやな
()つとは()はで、
とおっしゃる。
変だと思ったので、道で開けて見たのであった。
良くない右近の態度ですこと。
見たとは言わないで、
浮舟から聞くまでもなく、不思議に思ってすでに手紙は使いへ渡す前に右近が読んであったのである。意地悪な右近ではないか。見たとは姫君へ言わずに、
6.6.5
あな、いとほし
(くる)しき(おほん)ことどもにこそはべれ。
殿(との)はもののけしき御覧(ごらん)じたるべし」
「まあ、お気の毒な。
難儀なお事でございます。
殿は事情をお察しになったのでしょう」
「あなた様はほんとうにお気の毒でございます。お苦しいのはお三人ともですけれどね。殿様は秘密をお悟りになったらしゅうございますね」
6.6.6
()ふに、(おもて)さと(あか)みて、ものものたまはず。
文見(ふみみ)つらむと(おも)はねば、(こと)ざまにて、かの()けしき()(ひと)(かた)りたるにこそは」と(おも)ふに、
と言うと、顔がさっと赤くなって、何もおっしゃらない。
手紙を見たとは思わないので、「別のことで、あの方のご様子を見た人が話したこと」と思うが、
と言われて、浮舟の顔はさっと赤くなり、ものを言うこともしなかった。手紙を見たとは思わずに、来た使いなどから薫の様子が伝えられたのであろうと思っても、
6.6.7
()れか、()ふぞ」
「誰が、そのように言ったのか」
だれがそう言っているか
6.6.8
などもえ()ひたまはず。
この(ひと)びとの見思(みおも)ふらむことも、いみじく()づかし。
わが(こころ)もてありそめしことならねども、心憂(こころう)宿世(すくせ)かな」と(おも)()りて()たるに、侍従(じじゅう)二人(ふたり)して、
などとも尋ねることはできない。
この女房たちが見たり思ったりすることも、ひどく恥ずかしい。
自分の考えから始まったことではないが、「嫌な運命だなあ」と思い入って寝ていると、侍従と二人で、
とも問えなかった。右近と侍従がどう想像しているであろう、恥ずかしいことである、自発的に()き起こした恋愛問題ではないが、情けない運命であると、横たわったまま思い沈んでいると、侍従と二人で右近は忠告を試みようとした。
6.6.9
右近(うこん)(あね)常陸(ひたち)にて、人二人見(ひとふたりみ)はべりしを、ほどほどにつけては、ただかくぞかし。
これもかれも(おと)らぬ(こころ)ざしにて、(おも)(まど)ひてはべりしほどに、(をんな)は、(いま)(かた)にいますこし心寄(ここよ)せまさりてぞはべりける。
それに(ねた)みて、つひに(いま)のをば(ころ)してしぞかし。
「右近めの姉で、常陸国で、男二人と結婚しましたが、身分は違っても、このようなものでございます。
それぞれ負けない愛情なので、思い迷っておりました時に、女は、新しい男の方に少し気持ちが動いたのでございました。
それを嫉妬して、結局新しい男を殺してしまったのです。
「私の姉は常陸(ひたち)で二人の情人を持ったのでございます。どの階級にもそうした関係はあるものでございましてね、どちらからも深く思われていたのでございますから、どうすればよいかと迷っていながらも、姉はあとのほうの男を少しよけいに愛していたのですね、それを嫉妬(しっと)しまして、前の男があとの男を殺してしまったのでございます。
6.6.10
さて(われ)()みはべらずなりにき。
(くに)にも、いみじきあたら兵一人失(つはものひとりうしな)ひつ。
また、この(あやま)ちたるも、よき郎等(らうどう)なれど、かかる(あやま)ちしたる(もの)を、いかでかは使(つか)はむ、とて、(くに)(うち)をも()(はら)はれ、すべて(をんな)のたいだいしきぞとて、(たち)(うち)にも()いたまへらざりしかば、(あづま)(ひと)になりて、乳母(まま)(いま)()()きはべるは、罪深(つみふか)くこそ()たまふれ
そうして自分も住んでいられなくなったのでした。
常陸国でも、大変惜しい兵士を一人失った。
また、過ちを犯した男も、良い家来であったが、このような過ちを犯した者を、どうしてそのまま使うことができようか、ということで、国内を追放され、すべて女がよろしくないのだと言って、館の内にも置いてくださらなかったので、東国の人となって、乳母も、今でも恋い慕って泣いておりますのは、罪深いものと拝見されます。
そして自身も姉を捨ててしまいました。お(やかた)でもよい侍を一人なくしておしまいになったのでございます。殺したほうもよい郎党だったのですがそんな過失をしてしまった男は使わないとお国から()われてしまいました。皆女がよろしくない二心を持ったから起こったことだとお言いになりましてお館の中にも置いていただけなくなりましたので、東国人になってしまいまして、ままは今でも恋しがって泣いております。罪の深いことだとこんなことも思われるのでございますよ。
6.6.11
ゆゆしきついでのやうにはべれど、(かみ)(しも)も、かかる(すぢ)のことは、(おぼ)(みだ)るるは、いと()しきわざなり。
御命(おほんいのち)まだにはあらずとも、(ひと)(おほん)ほどほどにつけてはべることなり。
()ぬるにまさる(はぢ)なることも、よき(ひと)御身(おほんみ)には、なかなかはべるなり。
一方(ひとかた)(おぼ)(さだ)めてよ。
縁起でもない話のついでのようでございますが、身分の上の方も下の者も、このようなことで、お悩みになるのは、とても悪いことです。
お命までには関わらなくても、それぞれの方のご身分に関わることでございます。
死ぬことにまさる恥ということも、身分の高い方には、かえってございますことです。
お一方にお決めなさい。
悪い話のついでに申すようでございますが、貴族の方でも低い身分の者でも二つに愛を分けて煩悶(はんもん)をするということは悪いことでございますよ。貴族は命のやり取りなどはなさいませんでも、死ぬにもまさった名誉の損というものがあるのですからね。かえって(つろ)うございます。ともかくもどちらかお一人にきめておしまいなさいましよ、
6.6.12
(みや)御心(みこころ)ざしまさりて、まめやかにだに()こえさせたまはば、そなたざまにもなびかせたまひて、ものないたく(なげ)かせたまひそ。
()(おとろ)へさせたまふもいと(やく)なし。
さばかり(うへ)(おも)ひいたづききこえさせたまふものを、乳母(まま)この(おほん)いそぎに(こころ)()れて、(まど)ひゐてはべるにつけても、それよりこなたに、()こえさせたまふ(おほん)ことこそ、いと(くる)しく、いとほしけれ」
宮もご愛情がまさって、せめて真面目にさえご求婚なさるならば、そちらに従いなさって、ひどくお嘆きなさるな。
痩せ衰えなさるのもまことにつまらない。
あれほど母上が大切に思ってお世話なさっているのを、乳母がこの上京のご準備に熱心になって、大騒ぎしておりますにつけても、あちらよりもこちらに、とおっしゃってくださる宮のことが、とてもつらく、お気の毒です」
宮様も殿様以上に誠意を持っておいでになるのでしたら、それでもよろしいではありませんか。さっぱりとお気持ちを清算しておしまいになりまして、あまり煩悶はせぬようになさいませ。()せて病気にまでなっておいでになってはつまらないではございませんか。奥様があれほどにもあなた様のことを御心配していらっしゃるではありませんか。私の母のままが殿様のほうへおいでになることと思い込みまして夢中になって御用意を申しておりますのを見ますと、それはやめて別の所へ行くとお言いになりますのもつらいことだろうと思います。
6.6.13
()ふに、いま一人(ひとり)
と言うと、もう一人は、
またままがかわいそうにも思われます」と右近が言う横から、侍従が、
6.6.14
うたて、(おそ)ろしきまで()こえさせたまひそ。
(なに)ごとも御宿世(おほんすくせ)にこそあらめ。
ただ御心(みこころ)のうちに、すこし(おぼ)しなびかむ(かた)を、さるべきに(おぼ)しならせたまへ。
いでや、いとかたじけなく、いみじき()けしきなりしかば、(ひと)のかく(おぼ)しいそぐめりし(かた)にも御心(みこころ)()らず。
しばしは(かく)ろへても、御思(おほんおも)ひのまさらせたまはむに()らせたまひね、とぞ(おも)ひえはべる」
「まあ嫌な、
恐ろしいことまでを申し上げな
さいますな。何事もすべてご運命でしょう。ただお心の中で、少しでも気持ちの傾く
方を、そうなるご運だとお考えなさいませ。それにしても、まことに恐れ多く、たいそうなご執心であったので、殿があのように何かとご準備なさ
っているらしいことにもお心が動きません。しばらくは隠れてでも、お気持ちがお傾きになる
「まあそんなこわい気もするほどのことを申し上げないでお置きなさいよ。こうなりましたのも皆宿命というものですよ。ただお心の中で少しでも多く愛のお感じられになる方の所へお行きになることになさいませ。ほんとうにあの御身分の方があんなにまで思い込んだふうでいらっしゃったのですもの、お引っ越しの御用意だと言って皆が騒いでいます仕事を私はいっしょにする気もしないのですよ。しばらくは隠れたままのことにしてお置きになりましても、お心のお()かれになる方に一生をお託しあそばすのがいいと私は思います」
6.6.15
と、(みや)をいみじくめできこゆる(こころ)なれば、ひたみちに()ふ。
と、宮をたいそうお誉め申し上げる者なので、一途に言う。
と宮の御美貌(びぼう)を愛する心から片寄った進言をする。

第七段 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う

6.7.1
いさや。
右近(うこん)とてもかくても、(こと)なく()ぐさせたまへと、初瀬(はつせ)石山(いしやま)などに(がん)をなむ()てはべる。
この大将殿(だいしゃうどの)御荘(みさう)(ひと)びとといふ(もの)は、いみじき無道(ぶたう)(もの)どもにて、一類(ひとるい)この(さと)()ちてはべるなり。
おほかた、この山城(やましろ)大和(やまと)に、殿(との)(りゃう)じたまふ所々(ところどころ)(ひと)なむ、(みな)この内舎人(うどねり)といふ(もの)のゆかりかけつつはべるなる。
「さあね。
右近は、どちらにしても、ご無事にお過ごしなさいと、長谷寺や、石山寺などに願を立てています。
この大将殿のご荘園の人びとという者は、たいそうな不埒な者どもで、一族がこの里にいっぱいいると言います。
だいたい、この山城国、大和国に、殿がお持ちになっている所々の人は、みなこの内舎人という者の縁につながっているそうでございます。
「なにも私はぜひ大将様のほうにと言うのではありません、どちらでもよろしゅうございますから、事が起こらずにこの問題が解決されますようにと、初瀬(はせ)、石山の観音様にも願を立てているのです。大将様の御荘園の御用をしていますのは皆武力を持った荒い人たちで、仲間が無数に宇治にいるのですからね、この山城、大和(やまと)の殿様の領地というものは皆ここの内舎人(うちとねり)といわれている人に縁故を持った人が支配しています。
6.7.2
それが婿(むこ)右近大夫(うこんのたいふ)といふ(もの)(もと)として、よろづのことをおきて(おほ)せられたるななり。
よき(ひと)御仲(おほんなか)どちは(なさ)けなきことし()でよ、(おぼ)さずとも、ものの心得(こころえ)田舎人(ゐなかびと)どもの、宿直人(とのゐびと)にて(かは)(がは)りさぶらへば、おのが(ばん)(あた)りて、いささかなることもあらせじなど、(あやま)ちもしはべりなむ。
それの婿の右近大夫という者を首領として、すべての事を決めて命令するそうです。
身分の高い方のお間柄では、思慮のないことを仕出かすよ、とお思いにならなくても、考えのない田舎者連中が、宿直人として交替で勤めていますので、自分の番に当たって、ちょっとしたことも起こさせまいとなどと、間違いも起こしましょう。
内舎人の婿の右近の大夫(たゆう)というのが党主のようになっていろいろのことをきめるようですよ。貴族どうしは同情のないことを相手にさせようとは思っていらっしゃらないでしょうが、思いやりのないこの辺の田舎侍(いなかざむらい)がかわるがわる宿直(とのい)に来ていますから、自身の当番の時におちどのないようにと思いまして、どんな失礼なしぐさを宮様の御微行にしかけるかわかりません。
6.7.3
ありし()(おほん)ありきはいとこそむくつけく(おも)うたまへられしか。
(みや)は、わりなくつつませたまふとて、御供(おほんとも)(ひと)()ておはしまさず、やつれてのみおはしますを、さる(もの)()つけたてまつりたらむは、いといみじくなむ」
先夜のご外出は、ほんとうに気味が悪く存じられました。
宮は、どこまでも人目をお避けになろうとして、お供の人も連れていらっしゃらず、お忍び姿ばかりでいらっしゃるのを、そのような者がお見つけ申したときには、とても大変なことになりましょう」
せんだっての時のことなどほんとうに今思ってもこわいようでございます。宮様のほうでは人目を思召してお付きもたくさんおつれにならないで、だれかわからぬようにしていらっしゃいますから、あの荒男どもがお見つけしましたらどんなことが起こりますかと心配ばかりいたしました」
6.7.4
と、()(つづ)くるを、(きみ)なほ、(われ)(みや)心寄(こころよ)せたてまつりたると(おも)ひて、この(ひと)びとの()ふ。
いと()づかしく、心地(ここち)にはいづれとも(おも)はず
ただ(ゆめ)のやうにあきれて、いみじく()られたまふをば、などかくしも、とばかり(おも)へど、(たの)みきこえて(とし)ごろになりぬる(ひと)(いま)はともて(はな)れむと(おも)はぬによりこそ、かくいみじとものも(おも)(みだ)るれ。
げに、よからぬことも()()たらむ(とき)」と、つくづくと(おも)ひゐたり。
と、言い続けるのを、女君、「やはり、わたしを、宮に心寄せ申していると思って、この女房たちが言っている。
とても恥ずかしく、気持ちの上ではどちらとも思っていない。
ただ夢のように茫然として、ひどくご執着なさっているのを、どうしてこんなにまで、と思うが、お頼り申し上げて長い間になる方を、今になって裏切ろうとは思わないからこそ、このように大変だと思って悩むのだ。
なるほど、よくない事でも起こったときには」と、つくづくと思っていた。
浮舟の姫君は、自分が宮に多く心を()かれているときめてこの人たちのいっているのを聞くのも恥ずかしい、自分はどちらをどうとも判断もできないのに苦しんでいるのである、夢の中のようになす(すべ)を知らないのである、はげしく自分をお思いになる方に対しては、なぜこうまでもと感激はしているが、良人(おっと)と思い、月日の長く積もった人から離れてしまおうとは思えないためにこんな煩悶がされるのである、右近が言ったように、これから表面に出て悪いことが起こってくればどうしようとつくづくと思い沈んでいた。
6.7.5
まろは、いかで()なばや
()づかず心憂(こころう)かりける()かな。
かく、()きことあるためしは、下衆(げす)などの(なか)にだに(おほ)くやはあなる
「わたしは、
何とかして死にたい。世間並に生きられな
いつらい身の上だわ。このような、嫌なことのある例は、下衆の中で
「私はどうしてでも死にたい、人並みでない情けない私になったのだもの、こんな情けないことは低い身分の人たちにだってたくさんないはずね」
6.7.6
とて、うつぶし()したまへば、
と言って、うつ臥しなさると、
こう言って姫君はうつ伏しになって泣く。
6.7.7
かくな(おぼ)()しそ
やすらかに(おぼ)しなせ、とてこそ()こえさせはべれ
(おぼ)しぬべきことをも、さらぬ(かほ)にのみ、のどかに()えさせたまへるを、この御事(おほんこと)ののち、いみじく心焦(こころい)られをせさせたまへばいとあやしくなむ()たてまつる」
「そんなに思い詰めなさいますな。
お心安く思いなさいませ、と思って申し上げたのでございます。
お苦しみになることを、何げないふうにばかり、のんびりとお見えになるのを、この事件の後は、ひどくいらいらしていらっしゃるので、とても変だと拝見しております」
「そんなに御心配をなさるものではありません。お心を少しでも楽にお持ちあそばすようにと思って申し上げたことでございますよ。お心に苦しいことがありましてもお気にとめておいであそばさないようにおおようにしておいでになりましたあなた様が、この問題が起こりました時からいらいらとなさいますふうの見えますのはどうしたことでしょう」
6.7.8
と、心知(こころし)りたる(かぎ)りは、(みな)かく(おも)(みだ)(さわ)ぐに、乳母(めのと)おのが(こころ)をやりて物染(ものぞ)めいとなみゐたり。
今参(いままゐ)(わらは)などのめやすきを()()りつつ、
と、事情を知っている者だけは、みな心配しているのだが、乳母は、自分一人満足そうにして、染物などをしていた。
新参の童女などで無難なのを呼んでは、
とも右近はなだめていた。この人たちも思い乱れているのである。乳母は得意になって染めたり裁ったりしていた。新しく来た童女のかわいい顔をしたのを姫君のそばへ呼んで、
6.7.9
かかる人御覧(ひとごらん)ぜよ
あやしくてのみ()させたまへるは、もののけなどの、(さまた)げきこえさせむとするにこそ」と(なげ)く。
「このような方を御覧なさい。
変なことばかりに臥せっていらっしゃるのは、物の怪などが、お邪魔申し上げようとするのでしょう」と嘆く。
「まあこんな人でもお慰めに御覧なさいましよ。いつもお気分がすぐれないようにお(やす)みになっていらっしゃるのは物怪(もののけ)などがおしあわせの道を妨げようとするのかもしれませんね」と言いながらも歎いていた。

第七章 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す


第一段 内舎人、薫の伝言を右近に伝える

7.1.1
殿(との)よりは、かのありし(かへ)(ごと)をだにのたまはで、()ごろ()ぬ。
この(おど)しし内舎人(うどねり)といふ(もの)()たる。
げに、いと荒々(あらあら)しく、ふつつかなるさましたる(おきな)の、(こゑ)かれ、さすがにけしきある、
殿からは、あの先日の返事をさえおっしゃらずに、幾日も過ぎた。
この恐ろしがらせた内舎人という者が来た。
なるほど、たいそう荒々しく不格好に太った様子をした老人で、声も嗄れ、何といっても凄そうなのが、
大将からはあの返した手紙に対して言ってくることもなくそのまま幾日かたった。右近が姫君をおどすために話した内舎人という者が山荘へ現われて来た。(うわさ)どおりに荒々しい武骨なふうの老人が、声まで宇治の内舎人らしいこわい声で、
7.1.2 「女房に、お話申し上げたい」
「もののわかる女房衆にお話がしたい」
7.1.3
()はせたれば、右近(うこん)しも()ひたり。
と言わせたので、右近が会った。
と取り次がせたために、右近が出て行った。
7.1.4
殿(との)()しはべりしかば今朝参(けさまゐ)りはべりて、ただ(いま)なむ、まかり(かへ)りはんべりつる。
雑事(ざふじ)ども(おほ)せられつるついでに、かくておはしますほどに、夜中(よなか)(あかつき)のことも、なにがしらかくてさぶらふ、(おも)ほして、宿直人(とのゐびと)わざとさしたてまつらせたまふこともなきを、このころ()こしめせば
「殿からお呼び出しがございましたので、今朝参上しまして、たった今、帰って参りました。
雑事などをお命じになった折に、こうしてここにいらっしゃる間は、夜中、早朝の間も、わたくしどもがこうしてお勤め申している、とお思いになって、宿直人を特にお差し向け申し上げることもなかったが、最近お耳になさるには、
「殿様からお召しがありましたので、今朝から京へまいって今が帰りです。いろいろと御用を仰せつけられましたついでに、こうしてここに奥様をお置きになっていらっしゃって、夜中でも夜明けでも御用には私らが宇治にいるのであるからと思召して、京のお邸から宿直の侍などはおよこしにならなかったところが、このごろになって、
7.1.5
女房(にょうばう)(おほん)もとに()らぬ(ところ)人通(ひとかよ)ふやうになむ()こし()すことある
たいだいしきことなり。
宿直(とのゐ)にさぶらふ(もの)どもは、その案内聞(あないき)きたらむ。
()らでは、いかがさぶらふべき』
『女房のもとに、素性の知れない者供が通っているようにお聞きになったことがある。
不届きなことである。
宿直に仕える者供は、その事情を聞いていよう。
知らないでは、どうしていられよう』
こちらの女房衆の所へよその人が通って来る話を聞いた、不届きだ、宿直に行っている者は出入りの人の名を聞いたはずだ、知らないで門を通すはずはないではないか、
7.1.6
()はせたまひつるに(うけたまは)らぬことなれば、
とお尋ねあそばしたのが、全然知らないことなので、
何という人が来たのかとこうお尋ねになったのですが、私は何も承知しないことですから、
7.1.7
なにがしは()病重(やまひおも)くはべりて、宿直仕(とのゐつか)うまつることは、(つき)ごろおこたりてはべれば、案内(あない)もえ()りはんべらず。
さるべき(をのこ)どもは、解怠(けたい)なく(もよほ)しさぶらはせはべるを、さのごとき非常(ひじゃう)のことのさぶらはむをば、いかでか(うけたまは)らぬやうははべらむ』
『わたくしは病気が重くございまして、宿直いたしますことは幾月も致しておりませんので、事情を知ることができません。
しかるべき男どもは、怠けることなく警護させておりますのに、そのようなもってのほかのことがございますのを、どうして知らないでいられましょう』
私は重い病気をしておりまして、そんなことのありましたのも、来た人はだれかということも存じません。ただしお役にたつような男はかわるがわる差し上げてあるのですから、ただ今お話のようなとんでもない事件がありますれば私の耳にはいっていぬはずはございません
7.1.8
となむ(まう)させはべりつる。
用意(ようい)してさぶらへ。
便(びん)なきこともあらば、(おも)勘当(かんだう)せしめたまふべきよしなむ、(おほ)(ごと)はべりつれば、いかなる(おほ)(ごと)にかと、(おそ)(まう)しはんべる
と申し上げさせました。
気をつけてお仕えなさい。
不都合なことがあったら、厳重に処罰なさる旨のご命令がございますので、どのようなお考えなのかと、恐ろしく存じております」
とお取り次ぎをもって申していただいて来ました。気をつけて別荘を守れ、悪いことが起これば重い罰を加えるからという仰せがあったので、どんな罰にあうのかと恐れていますよ」
7.1.9
()ふを()くに、(ふくろふ)()かむよりも、いともの(おそ)ろし。
いらへもやらで、
と言うのを聞くと、梟が鳴くのよりも、とても恐ろしい。
返事もしないで、
これを聞いていて右近は、(ふくろう)()き声を聞くより恐ろしく感じた。答えもできず内舎人を帰したあとで、
7.1.10
さりや
()こえさせしに(たが)はぬことどもを()こしめせ。
もののけしき御覧(ごらん)じたるなめり。
御消息(おほんせうそこ)もはべらぬよ」
「そうか。
申し上げたことに違わないことをお聞きあそばせ。
事の真相をお察しになったようです。
お手紙もございませんよ」
「とうとうこんなことになりました。私が申していたとおりのことをお聞きになることになりました。大将様はあの秘密を皆お知りになったのですよ。お手紙もあれからまいりませんね」
7.1.11
(なげ)く。
乳母(めのと)は、ほのうち()きて、
と嘆く。
乳母は、ちらっと聞いて、
などと姫君に言って歎息をした。乳母は内舎人の話を少し聞いていて、
7.1.12
いとうれしく(おほ)せられたり
盗人多(ぬすびとおほ)かんなるわたりに、宿直人(とのゐびと)(はじ)めのやうにもあらず。
(みな)()()はりぞと()ひつつ、あやしき下衆(げす)をのみ(まゐ)らすれば、夜行(やぎゃう)をだにえせぬに」と(よろこ)ぶ。
「とても嬉しいことをおっしゃった。
盗賊が多いという所で、宿直人も最初のころのようではありません。
みな、代理だと言っては、変な下衆ばかりを差し向けていたので、夜回りさえできなかったが」と喜ぶ。
「よく御注意をしてくださいましたわね。盗人(ぬすっと)などの多い土地だのに宿直の人だって初めほど頼もしい人は来ていなかったのですからね、代役だと言って下っぱの者をよこすようになって、その人たちというものは夜まわりをすらしないのですから」と喜んでいた。

第二段 浮舟、死を決意して、文を処分す

7.2.1
(きみ)は、げに、ただ(いま)いと()しくなりぬべき()なめり」と(おぼ)すに、(みや)よりは、
女君は、「なるほど、今はまことに悪くなってしまった身の上のようだ」とお思いになっているところに、宮からは、
浮舟はこうして寂しい運命のきわまっていくことを感じている時、宮から決心ができたはずであるとお言いになり、
7.2.2
「いかに、いかに」
「いかがですか、

7.2.3
と、(こけ)(みだ)るるわりなさをのたまふ、いとわづらはしくてなむ。
と、苔が乱れるような無理なことをおっしゃるのが、とても厄介である。
「君に逢はんその日はいつぞ松の木の(こけ)の乱れてものをこそ思へ」というようなことばかり書いておいでになった。
7.2.4
とてもかくても一方一方(ひとかたひとかた)につけて、いとうたてあることは()()なむ。
わが身一(みひと)つの()くなりなむのみこそめやすからめ。
(むかし)は、懸想(けさう)する(ひと)ありさまの、いづれとなきに(おも)ひわづらひてだにこそ、()()ぐるためしもありけれ。
ながらへば、かならず()きこと()えぬべき()の、()くならむは、なにか()しかるべき。
(おや)もしばしこそ(なげ)(まど)ひたまはめ、あまたの()ども(あつか)ひに、おのづから忘草摘(わすれぐさつ)みてむ
ありながらもてそこなひ、人笑(ひとわら)へなるさまにてさすらへむは、まさるもの(おも)ひなるべし」
「どちらにしても、それぞれの方につけて、とても嫌なことが出て来よう。
自分一人がいなくなるのが最もよいようだ。
昔は、懸想する男の気持ちが、どちらとも決められないのに思いわずらって、それだけで身を投げた例もあった。
生き永らえたら、きっと嫌な目に遭ってしまいそうな身で、死ぬのに、どうして惜しい身であろう。
親も少しの間は嘆きなさろうが、大勢の子供の世話で、自然と忘れよう。
生きながら間違いを犯し、物笑いな様子でうろうろしては、それ以上の物思いになろう」
どちらへ行っても残る一人に(さわ)りのないことは望めない、自分の命だけを捨てるのが穏やかな解決法であろう、昔は恋を寄せてくる二人の男の優劣のなさに思い迷っただけでも身を投げた人もあったのである、生きておれば必ず情けないことにあわねばならぬ自分の命などは惜しくもない、母もしばらくは歎くであろうが、おおぜいの子の世話をすることで自然に自分の死のことは忘れてしまうであろう、生きていて身をあやまり、嘲笑(ちょうしょう)を浴びる人になってしまうのは、母のためには自分の死んだよりも苦しいことに違いないと浮舟は死のほうへ心をきめていった。
7.2.5
など(おも)ひなる。
()めきおほどかに、たをたをと()ゆれど、気高(けだか)()のありさまをも()(かた)すくなくて、(おぼ)()てたる(ひと)にしあれば、すこしおずかるべきことを、(おも)()るなりけむかし。
などと思うようになる。
子供っぽくおっとりとして、たおやかに見えるが、気品高く貴族社会の様子を知ることも少なくて育った人なので、少し乱暴なことを、考えついたのであろう。
子供らしくおおようで、なよなよと柔らかな姫君と見えるが、人生の意義というものを悟るだけの学識も与えられずに成長した人であるから自殺というような思いきったこともする気になったらしい。
7.2.6
むつかしき反故(ほぐ)など()りて、おどろおどろしく一度(ひとたび)にもしたためず、灯台(とうだい)()()き、(みづ)()()れさせなど、やうやう(うしな)ふ。
心知(こころし)らぬ御達(ごたち)は、ものへ(わた)りたまふべければつれづれなる月日(つきひ)()て、はかなくし(あつ)めたまへる手習(てならひ)などを、()りたまふなめり」と(おも)ふ。
侍従(じじゅう)などぞ、()つくる(とき)は、
厄介な反故などを破って、大げさになるような一度には始末せず、灯台の火で焼いたり、川に投げ入れさせたりなど、だんだん少なくして行く。
事情を知らない御達は、「京へお引っ越しになるので、退屈な日々を送るうちに、いつしか書き集めなさった手習などを、お破り捨てになるのだろう」と思う。
侍従などは、見つけた時には、
あとで人の迷惑になりそうな反古(ほご)類を破って、一度には処分せずある物は焼き、また水へ投げ入れさせなどしておいおいに皆なくしていった。秘密の片端も知らぬ女房などは、ほかへ移転をされるのであるから、つれづれな日送りをしておいでになる間にたまった手習いの紙などを破ってしまうのであろうと思っていた。侍従などの見つける時には、
7.2.7
など、かくはせさせたまふ。
あはれなる御仲(おほんなか)に、(こころ)とどめて()()はしたまへる(ふみ)は、(ひと)にこそ()せさせたまはざらめものの(そこ)()かせたまひて御覧(ごらん)ずるなむ、ほどほどにつけては、いとあはれにはべる。
さばかりめでたき御紙使(おほんかみつか)ひ、かたじけなき御言(おほんこと)()()くさせたまへるを、かくのみ()らせたまふ、(なさ)けなきこと」
「どうして、このようなことをあそばします。
愛し合っていらっしゃるお間柄で、心をこめてお書き交わしなさった手紙は、他人にはお見せあそばさなくても、何かの箱底におしまいあそばして御覧になるのが、身分相応に、とても感慨深いものでございます。
あれほど立派な紙を使い、恐れ多いお言葉のあらん限りをお尽くしになったのを、あのようにばかりお破りあそばすのは、情けないこと」
「なぜそんなことをなさいますか。思い合った中でお取りかわしになったお手紙は、人にはお見せになるものではありませんでも、箱の底へでもしまってお置きになりまして、時々出して御覧になりますのが、どの女性にも共通した楽しいことになっておりますよ。この上もないお紙をお使いになりまして、美しい御文章でおしたためになったものを、そんなに皆お破りになりますのは情けないことではございませんか」
7.2.8
()ふ。
と言う。
こんなふうに言ってとめる。
7.2.9
(なに)か。
むつかしく
(なが)かるまじき()にこそあめれ。
()ちとどまりて、(ひと)(おほん)ためもいとほしからむ。
さかしらにこれを()りおきけるよなど、()()きたまはむこそ、()づかしけれ」
「いいえどうして。
厄介な。
長生きできそうにない身の上のようです。
落ちぶれ残って、相手の方にとってもお気の毒でしょう。
利口ぶってお手紙を残しておいたものよなどと、漏れ聞きなされたら、恥ずかしい」
「いいのよ。私にはもう長い命はないようだからね。あとへ残ってはお書きになった方の迷惑にもなって気の毒よ。悪い趣味だ、愛人の手紙などをしまっておくなどとまたお思いになる方があっても恥ずかしいしね」
7.2.10
などのたまふ。
心細(こころぼそ)きことを(おも)ひもてゆくには、またえ(おも)()つまじきわざなりけり。
(おや)をおきて()くなる(ひと)は、いと罪深(つみふか)かなるものをなど、さすがに、ほの()きたることをも(おも)ふ。
などとおしゃる。
心細いことを思い続けていくと、再び決心ができなくなるのであった。
親を残して先立つ人は、とても罪障深いと言うものをなどと、やはり、かすかに聞いたことを思う。
などと浮舟は言うのであった。死というものの心細い本質を思ってはまだ自殺の決行はできないらしいのももっともである。親よりも先に死んで行く人は罪が深くなるそうであるがなどとさすがに仏教の教理も聞いていて思いもするのである。

第三段 三月二十日過ぎ、浮舟、匂宮を思い泣く

7.3.1
二十日(はつか)あまりにもなりぬ
かの家主(いへあるじ)二十八日(にじふはちにち)(くだ)るべし。
(みや)は、
二十日過ぎにもなった。
あの家の主人が、二十八日に下向する予定である。
宮は、
二十日過ぎにもなった。宮が交渉しておありになった家の住み主が二十八日に家をあけて立つことになっていて、
7.3.2
その()かならず(むか)へむ。
下人(しもびと)などに、よくけしき()ゆまじき(こころ)づかひしたまへ。
こなたざまよりは、ゆめにも()こえあるまじ。
(うたが)ひたまふな」
「その夜にきっと迎えよう。
下人などに、様子を気づかれないように注意なさい。
こちらの方からは、絶対漏れることはない。
疑いなさるな」
その二十八日の夜に必ず迎えに行きます。下人などに出かけるのを悟らせぬように気をおつけなさい。自分のほうから秘密のもれるようなことは絶対にありません。疑いを持たずにいてください。
7.3.3
などのたまふ。
さて、あるまじきさまにておはしたらむに、今一度(いまひとたび)ものをもえ()こえず、おぼつかなくて(かへ)したてまつらむことよ。
また、(とき)()にても、いかでかここには()せたてまつらむとする。
かひなく(うら)みて(かへ)りたまはむ」さまなどを(おも)ひやるに、(れい)の、面影離(おもかげはな)れず、()へず(かな)しくて、この御文(おほんふみ)(かほ)におし()てて、しばしはつつめども、いといみじく()きたまふ。
などとおっしゃる。
「そうして、無理をしておいでになったとしても、もう一度何も申し上げることができず、お目にかかれぬままお帰し申し上げることよ。
また、束の間でも、どうしてここにお近づけ申し上げることができよう。
効なく恨んでお帰りになろう」その様子を想像すると、いつものように、面影が離れず、始終悲しくて、このお手紙を顔に押し当てて、しばらくの間は我慢していたが、とてもひどくお泣きになる。
というようなお手紙が来た。そうした無理な工作をしておいでになっても、もう一度お話をすることすら不可能でそのままお帰しすることになるのは悲しい。またどんな短時間でもこの家へお入れすることはできるものでないと思う浮舟(うきふね)が失望して自身を恨みながらお帰りになる様子を想像すると、常に去らない幻がまたありありと見えて、悲しかった。宮のお手紙を顔に押しあててしばらくは忍んで泣いていたが、そのうち声にも出してひどく泣いた。
7.3.4
右近(うこん)
右近は、
右近が、
7.3.5
あが(きみ)かかる()けしき、つひに人見(ひとみ)たてまつりつべし。
やうやう、あやしなど(おも)(ひと)はべるべかめり。
かうかかづらひ(おも)ほさで、さるべきさまに()こえさせたまひてよ。
右近(うこん)はべらば、おほけなきこともたばかり()だしはべらば、かばかり(ちひ)さき御身一(おほんみひと)つは、(そら)より()てたてまつらせたまひなむ」
「姫君様、このようなご様子に、終いには周囲の人もお気づき申そう。
だんだんと、変だなどと思う女房がございますようです。
このようにくよくよなさらずに、適当にご返事申し上げなさいませ。
右近がおります限りは、大それたこともうまく処理いたしましたら、これほどお小さい身体一つぐらいは、空からお連れ申し上げなさいましょう」
「お姫様はこんなふうにしていらっしゃいますと人が皆悟ってしまいます。近ごろは不審を起こしかけた人たちもあるようでございます。こんなに一つのことを断ち切れない御心配になさいませんで、宮様へは御同意なさいましたことを書いておあげなさいましよ。私がおります以上、どんな大それたことでございましても取り繕いまして、こんなお小さいお身体(からだ)一つは空からでもおつれ出しいたします」
7.3.6
()ふ。
とばかりためらひて、
と言う。
しばし躊躇して、
と言うのを聞いて、
7.3.7
かくのみ()ふこそいと心憂(こころう)けれ。
さもありぬべきこと(おも)ひかけばこそあらめあるまじきこと、皆思(みなおも)ひとるに、わりなく、かくのみ(たの)みたるやうにのたまへばいかなることをし()でたまはむとするにかなど、(おも)ふにつけて、()のいと心憂(こころう)きなり」
「このようにばかり言うのが、とても情けない。
たしかにそうなってもよいこと、と思っているならともかくも、とんでもないことだ、とすっかり分かっているのに、無理に、このようにばかり期待しているようにおっしゃるので、どのようなことをし出かしなさろうとするのかなどと、思うにつけても、身がとてもつらいのです」
「そんなふうに私の心を解釈されるのが苦しい。そうしたいと私が望んでいるのならそれでいいけれど、してはならないことだと、どんなことも皆私は否定しているのに、このお手紙のように信じていらっしゃるのかと思うと、あの方はこれからのちにまたどんなことをあそばすだろうと不安でならなくて、私は今運命を悲しんでいるのよ」
7.3.8
とて、(かへ)(ごと)()こえたまはずなりぬ。
と言って、お返事も差し上げないでしまわれた。
と浮舟は言い、お返事は書かなかった。

第四段 匂宮、宇治へ行く

7.4.1
(みや)かくのみ、なほ()()くけしきもなくて、(かへ)(ごと)さへ()()えになるは、かの(ひと)あるべきさまに()ひしたためて、すこし(こころ)やすかるべき(かた)(おも)(さだ)まりぬるなめり。
ことわり」と(おぼ)すものから、いと口惜(くちを)しくねたく、
宮は、「こうしてばかり、依然として承知する様子もなくて、返事までが途絶えがちになるのは、あの人が、適当に言い含めて、少し安心な方に心が落ち着いたのだろう。
もっともなことだ」とはお思いになるが、たいそう残念で悔しく、
兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は出奔してくることを浮舟が受諾して来ないし、返事さえ一つ一つは書いてよこさなくなったのは、大将が上手(じょうず)に、その人をなだめてしまい、自分へ来るより安定のありそうな境遇を選ばせることにしたのであろう、それは道理でもあると思召すのであったが、御自身としては残念でねたましく、
7.4.2
さりとも、(われ)をばあはれと(おも)ひたりしものを。
あひ()ぬとだえに、(ひと)びとの()()らする(かた)()るならむかし」
「それにしても、わたしを慕っていたものを。
逢わない間に、女房が説き聞かせた方に傾いたのであろう」
今の態度はこうであっても、確かに自分をあの人は愛していたのだ、逢わないうちに周囲の者からよけいな忠告をされて、そのほうへ心が傾いたのであろう
7.4.3
など(なが)めたまふに、()(かた)しらず、むなしき(そら)()ちぬる心地(ここち)したまへば、(れい)の、いみじく(おぼ)()ちておはしましぬ。
などと物思いなさると、恋しさは晴らしようもなく、むなしい空にいっぱい満ちあふれた気がなさるので、いつものように、大変なご決意でおいでになった。
と物思いをしておいでになると、「わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行き方のなき」というふうにもなっていくため、例の無理をあそばして宇治へおいでになった。
7.4.4 葦垣の方を見ると、いつもと違って、
蘆垣(あしがき)のところへ近づいておいでになると、これまでとは変わり、
7.4.5 「あれは、誰だ」
「そこへ来るのはだれだ」
7.4.6
()声々(こゑごゑ)いざとげなり。
()退()きて、心知(こころし)りの(をのこ)()れたれば、それをさへ()ふ。
前々(さきざき)のけはひにも()ず。
わづらはしくて、
と言う声々が、目ざとげである。
いったん退いて、事情を知っている男を入れたが、その男までを尋問する。
以前の様子と違っている。
やっかいになって、
と緊張した声でとがめる者が幾人もあった。そこからやや遠ざかっておいでになり、行きなれた侍だけをおやりになったが、それをさえ誰何(すいか)した。以前の様子と変わったことをめんどうに思い、
7.4.7 「京から急のお手紙です」
「京から急用のお手紙を持って来たのです」
7.4.8
()ふ。
右近(うこん)徒者(ずしゃ)()()びて()ひたり。
いとわづらはしく、いとどおぼゆ。
と言う。
右近は従者の名を呼んで会った。
とても煩わしく、ますますやっかいに思う。
と侍は言った。右近の使っている侍の名を言って呼んでもらった。右近はこの上にもまた難儀なことが起こってくると思った。
7.4.9
さらに、今宵(こよひ)不用(ふよう)なり。
いみじくかたじけなきこと」
「全然、
今夜はだめです。まことに恐
「どうしても今夜はだめでございます。非常に恐縮しておりますが」
7.4.10
()はせたり。
(みや)など、かくもて(はな)るらむ」と(おぼ)すに、わりなくて、
と言わせた。
宮は、「どうして、こんなによそよそしくするのだろう」とお思いになると、たまらなくなって、
と宮へ申し上げさせた。宮はどうしてこんな冷淡な取り扱いをするのであろうと、途方にくれたように思召して、
7.4.11
まづ、時方入(ときかたい)りて侍従(じじゅう)()ひて、さるべきさまにたばかれ」
「まず、時方が入って、侍従に会って、しかるべくはからえ」
「ともかくも時方(ときかた)が行って、侍従を呼び出して都合をつけさせてくれ」
7.4.12
とて(つか)はす。
かどかどしき(ひと)にて、とかく()(かま)へて、(たづ)ねて()ひたり。
と言って遣わす。
才覚ある人で、あれこれ言い繕って、探し出して会った。
とお言いになり、内記をまたおやりになった。時方は才子であったから上手に宇治侍を(あざむ)いて、侍従を呼び、話すことができた。
7.4.13
いかなるにかあらむ。
かの殿(との)ののたまはすることありとて、宿直(とのゐ)にある(もの)どもの、さかしがりだちたるころにて、いとわりなきなり。
御前(おまへ)にも、ものをのみいみじく(おぼ)しためるは、かかる(おほん)ことのかたじけなきを、(おぼ)(みだ)るるにこそ、心苦(こころぐる)しくなむ()たてまつる。
さらに、今宵(こよひ)
(ひと)けしき()はべりなば、なかなかにいと()しかりなむ。
やがて、さも御心(みこころ)づかひせさせたまひつべからむ()ここにも人知(ひとし)れず(おも)(かま)へてなむ、()こえさすべかめる」
「どうしたわけでありましょう。
あの殿がおっしゃることがあると言って、宿直にいる者どもが、出しゃばっているところで、まことに困っているのです。
御前におかれても、深く思い嘆いていらっしゃるらしいのは、このようなご訪問のもったいなさを、悩んでいらっしゃるのだ、とお気の毒に拝しております。
全然、
今晩はだめです。誰かが様子に気づきましたら、かえってまことに悪いこと
になりましょう。そのまま、そのようにお考えあそばしている夜には、こちらでも誰にも知られず計画しまして、ご案内申し
「どうしたのでしょうか、大将様から仰せがあったのだと言いまして、宿直(とのい)する人が出過ぎたことばかりを言うようになりまして困ります。お姫様がめいってばかりいらっしゃいますのは、宮様の思召しにお報いになることがおできになりませんからかとお気の毒に拝見いたしております。ことに今夜はあの人らが厳重に見張っておりますから、お逢いにいらっしゃいましてはかえって悪いことになりそうでございます。またおよろしい日においでくださいますことを、前に知らせてお置きくださいましたら私ども秘密になんとかいたして都合をつけます」
7.4.14
乳母(めのと)のいざときことなども(かた)る。
大夫(たいふ)
乳母が目ざといことなども話す。
大夫、
と侍従は言い、乳母(めのと)寝敏(いざと)いことも語った。時方は、
7.4.15
おはします(みち)おぼろけならず、あながちなる()けしきに、あへなく()こえさせむなむ、たいだいしき。
さらば、いざ、たまへ
ともに(くは)しく()こえさせたまへ」といざなふ。
「おいでになった道中が大変なことで、ぜひにもというお気持ちなので、はりあいもなくお返事申し上げるのは、具合が悪い。
それでは、さあ、いらっしゃい。
一緒に詳しく申し上げましょう」と誘う。
「並みたいていの道をおいでになったのではありませんからね、よくよくお逢いになりたい御様子なんですから、失望をおさせいたすようなお返辞はもったいなくて私からできません。それではあなたがそこまで来てくだすって、私も言葉を添えますが、あなたからお断わりを申し上げるようにしてください」と言って、誘い出そうとした。
7.4.16 「とても無理です」
それは無理である、
7.4.17
()ひしろふほどに、()もいたく()けゆく。
と言い合いをしているうちに、夜もたいそう更けて行く。
ぜひそうしてと言い合っているうちにも夜もずっとふけてきた。

第五段 匂宮、浮舟に逢えず帰京す

7.5.1
(みや)は、御馬(おほんむま)にてすこし(とほ)()ちたまへるに、(さと)びたる(こゑ)したる(いぬ)どもの()()てののしるも、いと(おそ)ろしく、人少(ひとずく)なにいとあやしき(おほん)ありきなれば、すずろならむものの(はし)()()たらむも、いかさまに」と、さぶらふ(かぎ)(こころ)をぞ(まど)はしける。
宮は、御馬で少し遠くに立っていらっしゃったが、里めいた声をした犬どもが出て来て吠え立てるのも、たいそう恐ろしく、供回りが少ないうえに、たいそう簡略なお忍び歩きなので、「おかしな者どもが襲いかかって来たら、どうしよう」と、お供申している者たちはみな心配していたのであった。
馬上の宮は少し遠くへ立っておいでになるのであったが、田舎風(いなかふう)な犬が集まって来て()え散らす。恐ろしい気がしてお供の少ない軽いお出歩きであったから、無法者が走って出て来たならどう防いでよいかなどと、四、五人の者は心配していた。
7.5.2 「もっと、早く早く参ろう」
「どうしても来てくださることですよ。早く、早く」
7.5.3
()(さわ)がして、この侍従(じじゅう)()(まゐ)る。
髪脇(かみわき)より()()して、様体(やうだい)いとをかしき(ひと)なり。
(むま)()せむとすれど、さらに()かねば、(きぬ)(すそ)をとりて()()ひて()く。
わが(くつ)()かせて、みづからは、(とも)なる(ひと)のあやしき(もの)()きたり。
とうるさく言って、この侍従を連れて上がる。
髪は、脇の下から前に出して、姿がとても美しい人である。
馬に乗せようとしたが、どうしても聞かないので、衣の裾を持って、歩いて付いて来る。
自分の沓を履かせて、自分は供人の粗末なのを履いた。
とせきたてて時方は侍従をつれて来るのであった。髪を右の(わき)から前へ曲げて持っている侍従は美しい女房であった。馬に乗せようとするが承知しないために、衣服の(すそ)を時方は持ってやりながら歩かせて行くのである。
7.5.4
(まゐ)りて「かくなむ」と()こゆれば、(かた)らひたまふべきやうだになければ山賤(やまがつ)垣根(かきね)のおどろ(むぐら)(かげ)に、障泥(あふり)といふものを()きて()ろしたてまつる
わが御心地(みここち)にも、あやしきありさまかな
かかる(みち)にそこなはれて、はかばかしくは、えあるまじき()なめり」と、(おぼ)(つづ)くるに、()きたまふこと(かぎ)りなし
参上して、「これこれです」と申し上げると、相談しようにも適当な場所がないので、山家の垣根の茂った葎のもとに、障泥という物を敷いて、お下ろし申し上げる。
ご自身のお気持ちにも、「変な恰好だな。
このような道につまずいて、これといった、将来とても期待できそうにない身の上のようだ」と、お思い続けると、お泣きになることこの上ない。
自身の(くつ)を侍従にはかせて、内記は供男の草鞋(わらじ)ようのものを借りてつけた。宮のおそばへまいって山荘の事情をお話し申し上げ、侍従を伴って来たことをお知らせしたが、お話しになる場所というようなものもなくて、田舎家の垣根(かきね)の雑草の中にあふりというものを敷いて、そこへ宮をおおろしした。宮もこんな所で災厄(さいやく)にあって終わる運命で自分はあるのかもしれぬとお思われになり非常にお泣きになった。
7.5.5
心弱(こころよわ)(ひと)ましていといみじく(かな)しと()たてまつる。
いみじき(あた)(おに)につくりたりとも、おろかに見捨(みす)つまじき(ひと)(おほん)ありさまなり。
ためらひたまひて
気弱な女は、それ以上にほんとうに悲しいと拝見する。
大変な敵を鬼にしたとしても、いいかげんには見捨てることのできないご様子の人である。
躊躇なさって、
心の弱い者はましてきわめて悲しいことであるとお見上げしていた。どんな仇敵(きゅうてき)でも、鬼であっても、そこなえまいと見える美貌(びぼう)をお持ちになるはずである。しばらく躊躇(ちゅうちょ)をあそばしてから、
7.5.6
ただ一言(ひとこと)()こえさすまじきか。
いかなれば、(いま)さらにかかるぞ。
なほ、(ひと)びとの()ひなしたるやうあるべし」
「たった一言でも申し上げることはできないのか。
どうして、今さらこうなのだ。
やはり、女房らが申し上げたことがあるのだろう」
「ちょっとひと言だけ話をすることもできないのだろうか。どうして今になってそんなに厳重に見張るのだろう。そばの者がどんなことを言ってあの方の自由意志を曲げさせたのか」
7.5.7
とのたまふ。
ありさま(くは)しく()こえて、
とおっしゃる。
事情を詳しく申し上げて、
と侍従へ仰せられた。山荘内のことをくわしく申し上げて、
7.5.8
やがて、さ(おぼ)()さむ()かねては()るまじきさまに、たばからせたまへ。
かくかたじけなきことどもを()たてまつりはべれば、()()てても(おも)うたまへたばかりはべらむ」
「いずれ、そのようにお考えになっている日を、事前に漏れないように、計らいなさいませ。
このように恐れ多いことを拝見いたしておりますと、身を捨ててでもお取り計らい申し上げましょう」
「またおいでの思召しのございます前からおっしゃってくださいまして、私どもにできますことをさせてくださいませ。こんなもったいない御様子を拝見いたします以上、私は自分を喜んで犠牲にもいたしまして、よろしい計らいをいたします」
7.5.9
()こゆ。
(われ)人目(ひとめ)いみじく(おぼ)せば、一方(ひとかた)(うら)みたまはむやうもなし。
と申し上げる。
ご自身も人目をひどくお気になさっているので、一方的にお恨みになることもできない。
と侍従は申した。御自身も人目をはばかっておいでになるのであるから、恋人をだけお恨みになることもおできにならなかった。
7.5.10
()はいたく()けゆくに、このもの(とが)めする(いぬ)声絶(こゑた)えず、(ひと)びと()ひさけなどするに、弓引(ゆみひ)()らし、あやしき(をのこ)どもの(こゑ)どもして、
夜はたいそう更けて行くが、この怪しんで吠える犬の声が止まず、供人たちが追い払いなどするために、弓を引き鳴らし、賤しい男どもの声がして、
夜はふけにふけてゆく。初めから吠えかかった犬はそれなりも声も休めずに騒がしく()く。従者がそれを追いかけようとすると、山荘のほうでは弓の(つる)を鳴らし、荒武者の声で
7.5.11 「火の用心」
「火の用心」
7.5.12
など()ふも、いと(こころ)あわたたしければ、(かへ)りたまふほど、()へばさらなり。
などと言うのも、たいそう気が気でないので、お帰りになる時のお気持ちは、言葉では言い尽くせない。
などと呼ぶ。落ち着かぬお心から帰ろうとあそばしながらも、宮のお心は非常に悲しかった。
7.5.13 「どこに身を捨てようかと捨て場も知らない、
白雲がかからない山とてない山道を泣く泣く帰って
「いづくにか身をば捨てんとしら雲の
かからぬ山もなく泣くぞ行く
7.5.14 それでは、早く」
ではもう別れて行こう」
7.5.15
とて、この(ひと)(かへ)したまふ。
()けしきなまめかしくあはれに、夜深(よぶか)(つゆ)にしめりたる御香(おほんか)()うばしさなど、たとへむ(かた)なし。
()()くぞ(かへ)()たる
と言って、この人をお帰しになる。
ご様子が優雅で胸を打ち、夜深い露にしめったお香の匂いなどは、他にたとえようもない。
泣く泣く帰って来た。
とお言いになり、侍従をお帰しになった。宮の御様子は(えん)で、夜中の霧に湿ったお召し物から立つ香はたとえようもなく感じのいいものであった。侍従は泣く泣く帰って来た。

第六段 浮舟の今生の思い

7.6.1
右近(うこん)は、()()りつるよし()ひゐたるに、(きみ)いよいよ(おも)(みだ)るること(おほ)くて()したまへるに、()()て、ありつるさま(かた)るにいらへもせねど(まくら)のやうやう()きぬるをかつはいかに()るらむ、とつつまし。
明朝(つとめて)も、あやしからむまみを(おも)へば、無期(むご)()したり。
ものはかなげに(おび)などして経読(きゃうよ)
(おや)(さき)だちなむ罪失(つみうしな)ひたまへ」とのみ(おも)ふ。
右近が、きっぱり断った旨を言っていると、君は、ますます思い乱れることが多くて臥せっていらっしゃるが、入って来て、先程の様子を話すので、返事もしないが、だんだんと泣けてしまったのを、一方ではどのように見るだろう、と気がひける。
翌朝も、みっともない目もとを思うと、いつまでも臥していた。
頼りなさそうに掛け帯などかけて経を読む。
「親に先立つ罪障を無くしてください」とばかり思う。
右近が宮のおいでをお断わり申し上げたことを言ってから浮舟はいよいよ煩悶を深くして寝ていたが、侍従のはいって来て、外での様子を話すのに対して返辞はしないながら(まくら)も浮き上がらんばかりの涙の出るのを、この人がどう思うかとまた恥じられもした。翌朝も泣きはらした目を思うと浮舟は起きるのがつらくていつまでも寝ていた。起きてからははかなそうな姿で、しかも仏へ敬意を表する型として帯の端を肩から後ろ向きに掛けなどしながら浮舟の姫君は経を読んでいた。親よりも先に死ぬ罪が許されたいためである。
7.6.2
ありし()()()でて()て、()きたまひし()つき、(かほ)(にほ)ひなどの、()かひきこえたらむやうにおぼゆれば、昨夜(よべ)一言(ひとこと)をだに()こえずなりにしは、なほ(いま)ひとへまさりて、いみじと(おも)ふ。
かの、(こころ)のどかなるさまにて()む、()末遠(すゑとほ)かるべきことをのたまひわたる(ひと)も、いかが(おぼ)さむ」といとほし。
先日の絵を取り出して見て、お描きになった手つき、お顔の美しさなどが、向かい合っているように思い出されるので、昨夜、一言も申し上げずじまいになったことは、やはりもう一段とまさって、悲しく思われる。
「あの、のんびりとした邸で逢おう、と末長い約束をおっしゃり続けていた方も、どのようにお思いになるだろう」とお気の毒である。
宮のお()きになった絵を出してながめているうちに、その時の手つき、美しかったお顔などがまだ近い所にあるように見えてくる。そんなにも心から離れない方であるから、最後にひと言のお話もできなかった昨夜のことは悲しくてならないはずである。
7.6.3
()きさまに()ひなす(ひと)もあらむこそ(おも)ひやり()づかしけれど、心浅(こころあさ)く、けしからず人笑(ひとわら)へならむを、()かれたてまつらむよりは」など(おも)(つづ)けて、
嫌なことに噂する人もあるだろうことを、想像すると恥ずかしいが、「浅薄で、けしからぬ女だと物笑いになるのを、お聞かれ申すよりは」などと思い続けて、
初めから同じように永久愛して変わるまいと言っていた大将も、自分が死んだあとではどんなに歎くことであろうと思い、その人への恋を忘れて心の変わったために死んだと自殺後に言う人もあろうことの想像されるのも恥ずかしかったが、軽薄な女と思われ、宮のほうへ(はし)ったと大将に思われるよりはまだそのほうがいいと思い続けて、
7.6.4 「嘆き嘆いて身を捨てても亡くなった後に
嫌な噂を流すのが気にかかる」
歎きわび身をば捨つとも()きかげに
浮き名流さんことをこそ思へ
7.6.5
(おや)もいと(こひ)しく(れい)は、ことに(おも)()でぬ弟妹(はらから)(みにく)やかなるも、(こひ)し。
(みや)(うへ)(おも)()できこゆるにも、すべて今一度(いまひとたび)ゆかしき人多(ひとおほ)かり。
(ひと)(みな)おのおの物染(ものぞ)めいそぎ、(なに)やかやと()へど、(みみ)にも()らず、(よる)となれば、(ひと)()つけられず、()でて()くべき(かた)(おも)ひまうけつつ、()られぬままに、心地(ここち)()しく、皆違(みなたが)ひにたり
()けたてば、(かは)(かた)()やりつつ、(ひつじ)(あゆ)みよりもほどなき心地(ここち)す。
親もとても恋しく、いつもは、特に思い出さない姉妹の醜いのも、恋しい。
宮の上をお思い出し申し上げるにつけても、何から何までもう一度お会いしたい人が多かった。
女房は皆、それぞれの衣類の染物に精を出し、何やかやと言っているが、耳にも入らず、夜となると、誰にも見つけられず、出て行く方法を考えながら、眠れないままに、気分も悪く、すっかり人が変わったようである。
夜が明けると、川の方を見やりながら、羊の足取りよりも死に近い感じがする。
()まれもした。母も恋しかった。平生は思い出すこともない異父の弟妹の醜い顔をした人たちも恋しかった。二条の院の女王(にょうおう)を思い出してみても、恋しい。またそのほかにももう一度だけ逢いたいと思われるのが多い。女房たちは皆晴れと思う移転の時の用に物を染めたり、縫い物をしたり、何やかやとそうしたことについて話し合っているが浮舟は耳に聞こうともしない。夜になると人に見つけられずに家を出て行くのはどこをどうして行けばいいかという計画ばかりされて眠れぬために気分も悪く、病人のようになっている浮舟であった。朝になれば川のほうをながめながら「羊の歩み」よりも早く死期の近づいてくることが悲しまれた。

第七段 京から母の手紙が届く

7.7.1
(みや)は、いみじきことどもをのたまへり。
(いま)さらに、(ひと)()むと(おも)へば、この御返(おほんかへ)(ごと)をだに、(おも)ふままにも()かず。
宮は、たいそうな恨み言をおっしゃっていた。
今さらに、誰が見ようかと思うと、このお返事をさえ、気持ちのままに書かない。
宮からは悲しかった夜のことをお言いになり激情にあふれたお手紙を贈られた。死期に人の見るかもしれぬものであるからと思うと、このお返事にも浮舟は思うだけのことを書かなかった。
7.7.2 「亡骸をさえ嫌なこの世に残さなかったら
どこを目当てにと、
からをだにうき世の中にとどめずば
いづくをはかと君も恨みん
7.7.3
とのみ()きて()だしつ。
かの殿(との)にも(いま)はのけしき()せたてまつらまほしけれど、所々(ところどころ)()きおきて、(はな)れぬ御仲(おほんなか)なればつひに()きあはせたまはむこと、いと()かるべし。
すべて、いかになりけむと、()れにもおぼつかなくてやみなむ」と(おも)(かへ)す。
とだけ書いて出した。
「あちらの殿にも、最後の様子をお見せ申し上げたいが、お二方に書き残しては、親しいお間柄なので、いつかは聞き合わせなさろうことは、とても困ることだどう。
まるきり、どうなったのかと、誰からも分からないようにして死んでしまおう」と思い返す。
とだけ書いて出した。姫君は大将へも遺書としてのものを書いておきたく思ったが、あちらへもそちらへも書いておいて、親友でおありになる人たちの話に上ることがあれば、情操のないことと思われるかもしれぬ、(おぼろ)にぼかしておいて、どうなったかわからぬように自分の消えてしまうのがいいのであると思い返した。
7.7.4
(きゃう)より、(はは)御文持(おほんふみも)()たり。
京から、母親のお手紙を持って来た。
京の使いが母の手紙を持って来た。
7.7.5
()ぬる()(ゆめ)いと(さわ)がしくて()えたまひつれば誦経所々(ずきゃうところどころ)せさせなどしはべるを、やがて、その(ゆめ)(のち)()られざりつるけにや、ただ(いま)昼寝(ひるね)してはべる(ゆめ)に、(ひと)()むといふことなむ、()えたまひつれば、(おどろ)きながらたてまつる。
よく(つつし)ませたまへ。
「昨晩の夢に、とても物騒がしくお見えになったので、誦経をあちこちの寺にさせたりなどしましたが、そのまま、その夢の後で、眠れなかったせいか、たった今、昼寝をして見ました夢に、世間で不吉とするようなことが、お現れになったので、目を覚ますなり差し上げました。
十分に慎みなさい。
昨夜の悪夢の中であなたを見たものですから、ほうぼうの寺へ誦経(ずきょう)を頼みました。その夢のあとは眠られなかったものですから、今日また昼寝をしました夢に、人が大不吉だという夢の中でまたあなたを見たのです。驚きながらこの手紙を書きます。謹慎日はよく謹慎してお暮らしなさい。
7.7.6
人離(ひとはな)れたる御住(おほんす)まひにて、時々立(ときどきた)()らせたまふ(ひと)(おほん)ゆかりもいと(おそ)ろしく、(なや)ましげにものせさせたまふ(をり)しも、(ゆめ)のかかるを、よろづになむ(おも)うたまふる。
人里離れたお住まいで、時々お立ち寄りになる方のご正室のお恨みがとても恐ろしく、気分悪くいらっしゃるときに、夢がこのようなのを、いろいろと案じております。
寂しいそのお(うち)へ時々おいでになります大将の関係から、どんな(のろい)を受けておいでになるかわからないのにあなたは病気だし、ちょうどこんな時に悪夢が続くので心配しています。
7.7.7
(まゐ)()まほしきを、少将(せうしゃう)(かた)の、なほ、いと(こころ)もとなげにもののけだちて(なや)みはべれば、片時(かたとき)()()ること、いみじく()はれはべりてなむ
その(ちか)(てら)にも御誦経(みずきゃう)せさせたまへ」
参上したいが、少将の北の方が、やはり、とても心配で、物の怪めいて患っていますので、少しの間も離れることは、いけないときつく言われていますので。
そちらの近くの寺にも御誦経をさせなさい」
私が行きたいのだけれど、少将の妻の産前の容体が不安で、物怪風(もののけふう)に煩っていますから、しばらくでもそばを離れますことは主人がやかましいため出かけられませぬ。そこの近くの寺へも誦経を頼みなさい。
7.7.8
とて、その(れう)(もの)(ふみ)など()()へて、()()たり。
(かぎ)りと(おも)(いのち)のほどを()らで、かく()(つづ)けたまへるも、いと(かな)しと(おも)ふ。
とあって、そのお布施の物や、手紙などを書き添えて、持って来た。
最期と思っている命のことも知らないで、このように書き綴ってお寄越しになったのも、とても悲しいと思う。
と書いて、寺へ納めるべき物、寺への依頼状も添えて持たせて来たのであった。もう死ぬ覚悟をしている自分とも知らずに、こんなに心をつかっているかと浮舟(うきふね)は母の愛を悲しく思った。

第八段 浮舟、母への告別の和歌を詠み残す

7.8.1
(てら)人遣(ひとや)りたるほど、(かへ)事書(ごとか)
()はまほしきこと(おほ)かれど、つつましくて、ただ、
寺へ使者をやった間に、返事を書く。
言いたいことはたくさんあるが、気がひけて、ただ、
寺へその使いをやった間に、母への返事を姫君は書くのであった。言いたいことは多かったが気恥ずかしくて、ただ、
7.8.2 「来世で再びお会いすることを思いましょう
この世の夢に迷わないで」
のちにまた逢ひ見んことを思はなん
このよの夢に心まどはで
7.8.3
誦経(ずきゃう)(かね)(かぜ)につけて()こえ()るを、つくづくと()()したまふ。
誦経の鐘の音が風に乗って聞こえて来るのを、つくづくと聞き臥していらっしゃる。
とだけ書いた。誦経の初めの鐘の音が川風に混じって聞こえてくるのをつくづくと聞いて浮舟は寝ていた。
7.8.4 「鐘の音が絶えて行く響きに、
泣き声を添えてわたしの命も終わったと母上
鐘の()の絶ゆる響きに音を添へて
わが世尽きぬと君に伝へよ
7.8.5
巻数持(かんずも)()たるに()きつけて、
僧の所から持って来た手紙に書き加えて、
これは寺から使いがもらって来た経巻へ書きつけた歌であるが、
7.8.6 「今夜は、帰ることはできまい」
使いは朝になってから帰る
7.8.7
()へば、(もの)(えだ)()ひつけて()きつ。
乳母(めのと)
と言うので、何かの枝に結び付けておいた。
乳母が、
というために木の枝へ結びつけて渡すようにしておいた。乳母(めのと)が、
7.8.8
あやしく(こころ)ばしりのするかな。
(ゆめ)(さわ)がし、のたまはせたりつ
宿直人(とのゐびと)よくさぶらへ」
「妙に、胸騷ぎのすることだわ。
夢見が悪い、とおっしゃった。
宿直人、十分注意するように」
「何だか胸騒ぎがしてならない。奥様も悪夢をたくさん見ると書いておよこしになったのだから、宿直(とのい)の人によく気をつけるように言いなさい」
7.8.9
()はするを、(くる)しと()()したまへり。
などと言わせるのを、苦しいと聞きながら臥していらっしゃった。
と言っているのを、今夜脱出して川へ行こうとする浮舟は迷惑に思って聞いていた。
7.8.10
物聞(ものき)こし()さぬいとあやし。
御湯漬(おほんゆづ)け」
「何もお召し上がりにならないのは、とてもいけません。
お湯漬けを」
「お食事の進みませんのはどうしたことでしょう。お湯漬(ゆづ)けでもちょっと召し上がってごらんになりませんか」
7.8.11
などよろづに()ふを、さかしがるめれどいと(みにく)()いなりて、(われ)なくは、いづくにかあらむ」と(おも)ひやりたまふも、いとあはれなり。
()(なか)えあり()つまじきさまを、ほのめかして()はむ」など(おぼ)すに、まづ(おどろ)かされて(さき)だつ(なみだ)を、つつみたまひて、ものも()はれず。
右近(うこん)ほど(ちか)()すとて、
などといろいろと言うのを、「よけいなおせっかいのようだが、とても醜く年とって、わたしが死んだら、どうするのだろう」とご想像なさるのも、とても不憫である。
「この世には生きていられないことを、ちらっと言おう」などとお思いになるが、何より先に涙が溢れてくるのを、隠しなさって、何もおっしゃれない。
右近は、お側近くに横になろうとして、
などと世話をやくのを、利巧(りこう)ぶっても老人ふうになってしまったこの女は、自分が死んでしまえばどこへ行くであろうと、そんなことも想像して浮舟は悲しかった。もう寿命とは別にこの世から消えて行こうと思っているとほのめかして乳母に言おうとすると、まず自分自身が驚かされて涙の流れるのを隠そうとすれば、それでものが言えなかった。右近が近くへ来て、寝仕度(ねじたく)をしながら、
7.8.12
かくのみものを(おも)ほせば、もの(おも)(ひと)(たましひ)は、あくがるなるものなれば、(ゆめ)(さわ)がしきならむかし。
いづ(かた)(おぼ)(さだ)まりていかにもいかにも、おはしまさなむ」
「このようにばかり物思いをなさると、物思う人の魂は、抜け出るものと言いますから、夢見も悪いのでしょう。
どちらの方かとお決めになって、どうなるにもこうなるにも、思う通りになさってください」
「あんまり物思いをあそばすと、物思いする魂は身体(からだ)を離れてしまいますから、奥様へも悪い夢になって現われるのでございましょう。どちらか一方へお心をお集めになって、どうにでも成り行きにおまかせなさいませ」
7.8.13
とうち(なげ)く。
()えたる(きぬ)(かほ)におしあてて()したまへり、となむ
と溜息をつく。
柔らかくなった衣を顔に押し当てて、臥せっていらっしゃった、とか。
と歎息もしつつ告げた。柔らかい着物を顔に押し当てるようにして浮舟の姫君は寝たそうである。
著作権
底本 明融臨模本
校訂 Last updated 8/8/2011(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
オリジナル  修正版  比較
ローマ字版 Last updated 8/29/2011 (ver.2-1)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
オリジナル  修正版  比較
ルビ抽出
(ローマ字版から)
Powered by 再編集プログラム v4.05
ひらがな版  ルビ抽出
挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 5/6/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
柳沢成雄(青空文庫)
2005年2月23日
渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経
2005年9月15日

関連ファイル
種類ファイル備考
XMLデータ genji51.xml このページに示した情報を保持するXML形式のデータファイルです。
このファイルは再編集プログラムによって2024年11月11日に出力されました。
源氏物語の世界 再編集プログラム Ver. 4.05: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経
ライセンスはGFDL(GNU Free Documentation License)に従うフリードキュメントとします。
ただし、著作権を表示した部分では、その著作権者のライセンスにも従うものとします。
XSLT genjiFrNN.html.xsl.xml
Copyrights.xsl.xml
このページを生成するためにXMLデータファイルと組み合わせて使用するXSLTファイルで、再編集プログラムを構成するコンポーネントの1つです。
再編集プログラムは GPL(GNU General Public License) に従うフリーソフトです。
源氏物語の世界 再編集プログラム Ver. 4.05: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経
このページは XMLデータファイルとXSLTファイルを使って、2024年11月11日に出力されました。
このファイルはGFDL(GNU Free Documentation License) に従うフリードキュメントとします。
ただし、著作権を表示した部分では、その著作権者のライセンスにも従うものとします。